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坂井, 隆 Sakai, Takashi
世界史的な陶磁貿易の構造解明に向けて,本論では東南アジア群島部における陶磁器消費者の実態像について,各地の考古資料より接近を試みた。具体的な使用者を探る手掛かりとして食膳具・調度具・貯蔵具に区分することで各遺跡出土品の内容を検討し,またこの地域の特徴を示す重要な製品であるクンディ型水注とアンピン壺のあり方を考えた。前期(9~16世紀前半)16例と後期(16世紀後半~18世紀)6例について分析を行った。これらは港市・政治拠点・寺院群・墓地及び航路要衝・沈没船に区分できるが,陶磁器使用者は支配層・祭祀神官・富裕階層・中間層住民・下層住民に分けて考えられる。港市や政治拠点の陶磁器の少なからぬ部分は,遠距離地へ再輸出や近距離地へ搬出される。また港市ごとの陶磁器のあり方は,政治的な支配関係よりも主要貿易ルートとの関係に依存している。寺院群では,クンディ型水注のような儀礼器種や特注タイルのような荘厳財が多く見られる。だがそれらは特定宗教の個有品ではなく,群島部に在来する信仰観念から生まれたものである。また東部では大量の陶磁器を埋納した集団墓が発見されているが,これは葬送儀礼に関るものと考えられる。これらの墓地の被葬者社会は,主要貿易が生み出す二次貿易に関係している可能性がある。群島部はアジア海上貿易の重要な結節点に位置するため,さまざな流通業の発達が早くからあった。そのため,陶磁器使用者として大きな役割を持っていたのが流通業を主な生業とする中間層住民である。彼らは流通商品以外に,一定度の自己消費分も所有していた。群島部では彼らの役割が大きく,王権も流通業と深く関っていた。そのため貯蔵具の転用も含め陶磁器の使用は多量多岐にわたり,また二次貿易の発達もあって流通価値が高まったと思われる。
森村, 健一 Morimura, Kenichi
近世陶磁器の萌芽期は1585年前後であり,その確立期は1598~1615年である。この時期,大きな影響を与えたのが,東南アジアの陶磁器である。それらは,首里城跡(1459年大火),中世大友城下町跡(1586年,島津侵攻大火),フィリピン・サンディエゴ号沈没船(1600年12月14日),ビッティ・レウ号沈没船(1613年)を基準資料とし,年代観が与えられる。また,生産窯も近年の発掘調査研究によって判明しつつある。東南アジア陶磁器には,本来は香花酒,硝石を入れていたと言われるタイ・ノイ川窯系四耳壺,砂糖を入れていたと思われるベトナム・ミースエン・フックティク窯跡の長胴壺等があるが,日本に輸入されると転用された。中でも重要なのは,日本文化の総合である茶の湯に使用された事である。南蛮,茶壺,切溜花入(きりだめはないれ),〆切建水(めきりけんすい),綜(ちまき),内渋水指(うちしぶみすさし)と呼ばれた茶陶が,堺において16世紀後半~1615年大火の茶室等から一括出土している。他方,当初から茶の湯に使用する目的で輸入したものもある。「宋胡録(すんころく)」と呼ばれたタイ・シ・サッチャナライ窯系鉄絵香合,ベトナム白磁碗である。日常食器ともてなし用の組物,ケ・ハレ用の組物,茶の湯に関する茶陶と懐石料理の組物が近世陶磁器の確立へと走らせた。茶陶には一点主義が見られ,明らかに使用者の選択・個性化が知られる。茶陶システムの確立は,陶磁器の種類・器種・数量において多様性,多量化が見られ,日常食器にプラスして出土することから,16世紀後半~17世紀初頭にあっては爆発的増加を示している。この時期は東南アジア貿易が特徴であり,東南アジア陶磁器は近世茶の湯システムの確立過程と連動しているのである。それらを動かした人々は経済的中間層の都市民であり,そういう意味でも,茶の湯を使った経済人としての「もてなし」,茶人としての「ステイタス」「個性化」が近世茶の湯システムと近世陶磁器を成立させたと言っても過言ではない。
大橋, 康二 坂井, 隆 Ohashi, Koji Sakai, Takashi
インドネシアのジャワ島西部に位置するバンテン遺跡は16世紀から18世紀にかけて栄えたイスラム教を奉ずるバンテン王国の都であった。1976年以来,インドネシア国立考古学センター(The National Research Center of Archaeology)などにより,この地域の発掘調査が続けられ,膨大な量の陶磁片が出土した。これを整理した結果,25,076個体を産地,年代,種類毎に分類し得た。主に16世紀から18世紀の陶磁器であることは,バンテン王国の栄えた時代と符合する。この間も時期毎で陶磁器の産地,種類の割合・内容が変わる。Ⅰ期(15世紀以前)の陶磁器はほとんどなく,Ⅱ期(16世紀前半~中葉)になると,景徳鎮磁器が少量出土するが全体に占める割合は1%とまだ少ない。Ⅲ期(16世紀末~17世紀前半)からⅤ期(18世紀)の陶磁器は全体の89%を占め,バンテン王国の歴史を裏付けている。Ⅲ期の中でも,1590年代以降の中国磁器が多く,この時期には景徳鎮(35%)に加えて福建南部地方の磁器が加わり,45%を占めることになる。この頃,オランダ続いてイギリスもアジア貿易に参入した。Ⅳ期(17世紀後半~18世紀初)には1644年以降の明清の王朝交替に伴う内乱で中国磁器の輸出が激減したため,肥前陶磁器の輸出が始まり,1683年までの間は中国磁器より量的に多いと思われる。1684年に貿易の禁止が解かれると再び中国磁器の輸出が盛んになる。Ⅴ期(18世紀)の前半は再び多量に輸出されるヨーロッパ向け景徳鎮磁器に圧倒されながらも,肥前(有田)磁器の輸出は残る。景徳鎮と肥前の製品はヨーロッパ向けが主であり,東南アジア向けの製品は福建・広東系磁器がⅣ期に引き続き主体である。Ⅵ期(18世紀末~19世紀)の中でバンテンがオランダによって破壊された歴史を裏付けるように,中国磁器はこの時期の前半のものが少量見られるだけである。
李, 明玉 荒木, 和憲
高麗は初期から中期まで宋・遼・金との持続的な交流があり,後期には元と交流した。こうした状況によって,その時々の中国の多くの文物が高麗に流入し,とりわけ相当量の中国陶磁器が高麗の全域で消費される傾向がみられる。中国陶磁器は高麗の全時期のなかでも,とくに高麗中期の遺跡から出土する。出土の地域と遺跡の性格を探ると,京畿道・忠清道・全羅道・慶尚道・済州地域で確認されており,宮城・官庁関連遺跡・寺刹(寺址)・建物址・墳墓,全羅・忠清地域の海底などである。器種別の出土の様相を探ると,青磁は越州窯産・龍泉窯産が確認されており,五代末~北宋代の越州窯産から,北宋~元代と編年されるものまで及ぶが,宋代のものが大部分である。白磁は北宋・南宋代の定窯産・景徳鎮窯産が最も多く,このほか磁州窯産や福建・広東の窯の製品が少量確認される。とりわけ高麗中期には12~13世紀代の景徳鎮窯産青白磁の出土量が多く,発見地域も広範囲にわたる。黒釉は福建の建窯・建窯系・吉州窯・磁州窯産のものが確認されており,そのほか磁竈窯・鈞窯産のものもある。高麗時代の陸上遺跡(韓半島本土の遺跡)から出土する中国陶磁器の特徴をいくつかに整理すると,以下のとおりである。第一に,中国陶磁器の流入は高麗中期に集中し,なかでも青磁が非常に少なく,中国陶磁器の大部分を占めるのは白磁である。福建・広東地域産のやや質が劣る白磁類が少量あり,比較的に品質が良い定窯産・景徳鎮窯産白磁が主として消費されたことがわかる。当時,高麗の内部で白磁に対する消費欲求が高かったことと比較して,質的に優れた白磁の製作が困難な環境であった。このため,主に高麗白磁の代替品として消費されたものであり,上流層が富や実力を誇示するための手段と認識して専有・使用したものとみられる。第二に,中国青磁は一部の地域では少し確認される程度であるが,当時の高麗は象嵌青磁をはじめとして,質的に優れた青磁を製作しており,相当量の高麗青磁が中国に輸入されたことは,寧波・杭州などの最近の出土事例によっても知ることができる。したがって,高麗の窯業の状況を反映して,青磁の需要が白磁よりも低かったと考えられる。第三に,済州島では中国陶磁器は寺刹・官衙址・城郭・祭祀遺跡・生活遺跡などで出土しており,龍泉窯青磁が最も多く,次いで景徳鎮窯青白磁が多い。このほかにも越州窯青磁,定窯白磁,福建同安窯青白磁,江蘇宜興窯と河北磁州窯の褐釉瓶なども発見された。済州島では,高麗の陸上遺跡で発見される頻度が非常に低い福建産白磁,江蘇または河北の褐釉磁器,浙江龍泉窯青磁がいくつかの遺跡で大量に発見されており,同時期の陸上遺跡における中国陶磁器の出土の様相とは,やや異なる傾向をみせることがわかる。これは済州島が中日海上交通における中継拠点としての役割を果たしたためであるとの見解もあるが,今後,もう少し綿密な分析と研究が必要であろう。第四に,泰安馬島海域と新安黒山島海域では,韓国の陸上遺跡からは出土事例がほとんどない中国陶磁器が発見された。これらの海域で中国陶磁器が発見されたのは,当時の宋・日本間の貿易ルート上に位置するためだとみるべきなのか,宋・高麗間の貿易ルート上に位置するためだとみるべきなのかは,いくつかの見解がある。筆者は,韓国の陸上遺跡で中国南方産の陶磁器が部分的に出土するという様相にもとづき,宋・高麗間の貿易過程で沈水したものが発見されたものと考える。ただし,今後,より詳細な研究によって明らかになることを期待したい。
岩元, 康成
本稿では喜界島・奄美大島と薩摩・大隅地方の中世遺跡について両地域で出土した建物跡・土坑墓などの遺構と中国陶磁器などの遺物を比較し,11世紀後半から16世紀を5段階に分けて関連を検討した。11世紀後半~12世紀前半には喜界島城久遺跡群において焼骨再葬墓のように中世日本にない要素がある一方で四面庇付掘立柱建物跡・建物群内にある土坑墓など薩摩・大隅地方と類似する点が認められ,これまで文献史学から指摘されていた喜界島で九州の在地領主層,宋商人が南島での交易に関与したことが遺跡からもうかがえる。しかし12世紀後半になると喜界島・奄美大島の陸上の遺跡で中国陶磁器が減少する。この時期に南島との交易に関連した阿多忠景の平氏から追討や源頼朝により貴海島への征討などが起こっており,このような事件の影響が中国陶磁器の流通に反映されていることが考えられる。13世紀以降15世紀にかけて両地域間では,遺構・遺物の差異が目立つ状況にある。奄美大島の赤木名城は九州戦国期の山城と類似が指摘されているが,15世紀に九州の築城技術が伝えられたとは考えにくく,近世に整備された可能性がある。15世紀に喜界島・奄美大島は琉球と対立し敗れている。喜界島と奄美大島笠利地区の15世紀の遺跡が存続せず,16世紀の遺物がほとんど出土していない。集落の移動があったことが想定されるが,そこに琉球の支配がどのように関係しているのかは今後の検討課題である。
尾野, 善裕 Ono, Yoshihiro
近年、東日本の太平洋海運に関する研究では、明応七年(一四九八)に発生した地震が東海地方の港津に与えた影響の大きさが強調される傾向にある。しかし、その実例とされてきた港津遺跡の年代について、改めて考古資料から検討してみると、廃絶・衰退時期には微妙にずれがあることが判り、一時的な自然災害が港津の廃絶・衰退の決定的な要因であったとは思われない。むしろ、一五世紀から一六世紀にかけて廃絶・衰退する港津が少なからず存在することは、物流の変化を反映したものではないかと考えられ、この時期の地域経済の変容を具体的に確認できる現象として、遺跡から出土する陶磁器の絶対量が急激に増加することが挙げられる。また、陶磁器消費の絶対量が急増するのと規を一にして、東海地方各地で京都文化の影響を強く受けた土師器の皿が目立つ存在になるが、こうした現象の背景には京都文化に慣れ親しんだ人々の地方下向と定住を想定できる。考古資料から推測されるこれら一連の現象は、明応年間かそれを大きく遡らない時期に起きているとみられ、時期的な一致から考えると、陶磁器や土師器皿の大量消費に現われている地域経済の変容は、もともと在京を原則としていた守護・守護代・奉公衆などの在国化が大きく関わっている蓋然性が高い。応仁・文明の乱以降、明応の政変などを通して進行する守護・守護代・奉公衆などの在国化が、東海地方のみに限られる現象ではないことを考えれば、同様の地域経済の変容は、他地域の考古資料の分析からも確認できるのではないかと思われる。
小瀬戸, 恵美 Koseto-Horyu, Emi
本論文では,陶磁器胎土中に含まれるジルコンの成分組成に着目した産地推定法を提案し,高麗青磁に関して本法を適用して得られた結果について報告する。韓国全羅道の康津地域4窯址,高敞地域1窯址,扶安地域2窯址,海南地域2窯址から出土した高麗青磁各5点ずつ,計45点を対象とし,波長分散型検出器を付設したEPMAを用いて,その胎土中ジルコンの成分組成を分析した。ハフニウムと鉄,ジルコニウムとケイ素の関係をみることによって,「康津窯址グループ」「高敞窯址グループ」「扶安・海南窯址グループ」の3グループにわけることができた。
村木, 二郎
八重山・宮古といった先島諸島には,沖縄本島では見られない石積みで囲われた集落遺跡がある。発掘調査によってそこから出土する中国産陶磁器は膨大で,それらの遺跡は13世紀後半から14世紀前半に出現し,15世紀代を最盛期とする。しかし16世紀代の遺物は激減し,この時期に集落が廃絶したことがわかる。竹富島の花城村跡遺跡に代表される細胞状集落遺跡は,不整形な石囲いが数十区画にわたって連結したもので,その外郭線は崖際にさらに石を積み上げた防御性をもったものである。このような遺跡が先島の密林に埋もれており,その多くは聖地として現在も祀られている。宮古地域では15世紀の早い段階で廃絶する集落遺跡が多数みられる。近年発掘調査され,陶磁器調査を実施したミヌズマ遺跡はその好例である。八重山地域はやや遅く,15世紀後半から16世紀前半のある段階に廃絶する集落が多い。細胞状集落遺跡はいずれもこの時期に終焉を迎えており,八重山に劇的な出来事が起こったことが想定される。ちょうど第二尚氏の尚真王の時期に当たり,太平山征伐(オヤケアカハチの乱)の影響と考えられる。すなわち,琉球王府によって,独立文化圏をなしていた先島が侵犯され,この地域が琉球の一地方として併呑されたことを示すのである。 先島地域の中世を語る文献資料はほとんどなく,近世になって琉球王府が編纂した史書によってこの地域の歴史は語られてきた。しかし,集落遺跡やその遺物は実は豊富に残されており,これらを分析することで先島の独自性とそれを呑み込む琉球の帝国的側面を論じる。
水澤, 幸一 Mizusawa, Kouichi
本稿では、戦国期城館の実年代を探るための考古学的手段として、貿易陶磁器の中でも最もサイクルの早い食膳具を中心に十五世紀中葉~十六世紀中葉の出土様相を検討し、遺跡ごとの組成を明らかにした。まず、十五世紀前半に終焉をむかえる三遺跡をとりあげ、非常に器種が限られていたことを確認し、次いで十五世紀第3四半期の基準資料である福井県諏訪間興行寺遺跡の検討を行った。そして兵庫県宮内堀脇遺跡や京都臨川寺跡、山科本願寺跡、千葉県真里谷城跡、新潟県至徳寺遺跡等十二例と前稿で取り上げた愛媛県見近島城跡、福井県一乗谷朝倉氏遺跡などを加え、当該期の貿易陶磁比の変遷を示した。その結果、十五世紀代は青磁が圧倒的比率を占めており、十五世紀中葉の青花磁の出現期から十六世紀第1四半期までの定着期は、一部の高級品が政治的最上位階層に保有されたものの貿易陶磁器の主流となるほどの流入量には達せず、日本社会にその存在を認知させる段階に留まったと考えられる。そして青花磁が量的に広く日本社会に浸透するには十六世紀中葉をまたねばならなかったが、その時期は白磁皿がより多くを占めることから、青花磁が貿易陶磁の中で主体を占める時期は一五七〇年代以降の天正年間以降にずれ込むことを明らかにできた。器種としては、十六世紀以降白磁、青花磁皿が圧倒的であり、碗は青磁から青花磁へと移るが、主体的には漆器椀が用いられていたと考えられる。なお、食膳具以外の高級品についても検討した結果、多くの製品は伝世というほどの保有期間がなく、中国で生産されたものがストレートに入ってきていたことを想定した。
高橋, 照彦 Takahashi, Teruhiko
本稿は,考古資料から食文化の諸相をより豊かに復元していくための基礎的作業として,平安時代の文献史料にみえるいくつかの食膳具と考古資料との対応関係を追究することにした。検討結果の主な内容は,以下の通りである。まず「瓷器」については,10世紀後半以前は「青瓷」を指すことが明らかになり,その実体は基本的に国産の鉛釉陶器と推察される。「白瓷」についても国産の灰釉陶器を指すものと考えるべきだが,灰釉陶器の生産の終焉後は灰釉陶器の系譜を引く無釉の陶器や,白磁を指す場合もあると判断された。次に「茶椀」については,唐代において茶を飲むのに愛用されたのが陶磁器であり,そこから日本でも輸入陶磁器一般を「茶碗」と呼ぶことになったものとみられる。また,『延喜民部省式』に「茶椀」なる器種名を設定されたのは,それが中国陶磁模倣の器種であったことが要因となっていることも明らかとなった。「葉椀」「葉皿」は,国産の施釉陶器に当てる見解が出されていたが,柏などの葉で作られた食器類であったと考えるのがふさわしい。よって,葉椀と瓷器(施釉陶器)は別物であり,施釉陶器の用途も葉椀にみられる祭祀具に限定する必要はない。語義未詳の食器名として知られる「様器」に関しては,基本的に考古資料でいうところの白色土器であるという結論が導かれた。様器の語の由来については,1つの仮説として薄様などの紙を載せて使う器であった可能性を提示した。そして,そのような使用が主に行われる肴や菓子を盛る器の意味であったのが,その用途にしばしば用いられていた白色土器に実体として固定化することになったものと推察した。
桒畑, 光博
都城盆地の古代の集落様相と動態に関する3つの課題を提示して,横市川流域の遺跡群の集落遺跡の類型化とその性格を推定した上で,同盆地内のその他の遺跡との比較も行ってその背景を考察した。①都城盆地内において,8世紀前半に明確ではなかった集落が8世紀後半に忽然と現れる現象については,8世紀後半以降の律令政府による対隼人政策の解消に伴って南九州各地にも律令諸原則が適用されるようになる中で,いわゆる開墾集落が形成されはじめた可能性を指摘した。②遺跡数が増大する9世紀中頃から10世紀前半には,複数の集落類型が併存しており,中にはいわゆる官衙関連遺跡や地方有力者の居宅跡も存在する。郡衙が置かれた場所ではないが,広大な諸県郡の中の中心域を占め,開発可能な沖積地を随所に擁する都城盆地において,国司・大宰府官人・院宮王臣家などとのつながりが想定される富豪層による開発が進展するとともに,物資の流通ルートを担う動きが活発化して,集落形成が顕著となり,各集落が出現と消滅,変転を繰り返しながらも見かけ上は継続的に集落形成が行われていたと推察される。貿易陶磁器や国産施釉陶器などの希少陶磁器類の存在から看取される都城盆地の特質としては,南九州内陸部における交通の結節点をなす場所として重要な位置を占めていたことに加え,一大消費地でもあったことも指摘できる。③10世紀前半まで継続した集落が10世紀後半になると衰退・廃絶し,全体的に遺跡数が減少するという現象については,10世紀から11世紀にかけて進行した乾燥化と温暖化,変動幅の大きい夏季降水量など不安定な気候の可能性に加え,当該期における集落形成の流動性と定着性の薄弱さを考慮すべきである。当時,開発の余地が大きい都城盆地に進出していた各集団の多くは,自立的・安定的な経営を貫徹するには至らなかったと思われ,当時の農業技術水準の問題もあり,激化する洪水などの自然環境の変化に対しては十分な対応がとれなかった社会状況があったことも想定できる。
高橋, 照彦 Takahashi, Teruhiko
本稿では,土器・陶磁器類の流通・消費という側面に焦点を当て,都市とその周辺村落との比較という視点から,平安京とその前後の時期を考古学的に検討した。まず,11世紀中頃以前の平安京については,緑釉陶器・緑釉陶器素地や黒色土器などの食膳具の比率に着目し,平安宮と平安京は比較的均質であるのに対して,平安京の内と外には明瞭な差異が存在することを導きだした。次に,11世紀後半~14世紀前半頃をみてみると,中世京都内では土師器や漆器の供膳具が主に使われるのに対して,京外では土師器と瓦器が食器構成の主体を占めることを明らかにし,平安京段階からの延長で京の内外の格差が存在することを確認した。さらに,平安京と平城・長岡の両京とを比較検討した結果,都の内外落差が顕著になるのは9世紀中頃以降であると判断された。それらのことから,『方丈記』の養和年間(1181~82)の記述に窺われる京都の同心円的な空間構造が食器という生活面の一様相からも読み取れ,さらにその構造が9世紀中頃まで遡ることが推測された。そして,14世紀頃から「洛中辺土」さらには「洛中洛外」という洛中と周辺部を一体化させた熟語が使われるようになるのも,その頃から京内外の食器様相の格差が乏しくなっていくことに典型的に見いだされる生活相の変化と対応するものと考えた。さらに,文献的には明確な都鄙意識が10世紀中頃に成立するとみなされているが,土器からすると実態としての生活落差はより先行して9世紀中頃に画期をみいだすことができ,その頃に都市化としての大きな転換点をみいだしうる可能性を提示した。
弓場, 紀知 Yuba, Tadanori
彩釉陶器の誕生は西アジアにおいて始まった。紀元前10世紀ごろの宮殿のタイル装飾に彩釉陶器が用いられたのが最初である。初期はアルカリ釉を媒溶材として用いているが,アケメネス朝ペルシア,ローマ時代には鉛釉が媒溶材として用いられ緑釉陶器や褐釉陶器がつくられた。漢代の鉛釉陶器はローマ時代の鉛釉陶器と技術的に共通しており,東西両世界での技術交流の可能性をうかがわせる。中国では北朝時代,山西・河北の鮮卑族の墳墓の副葬品に緑釉,黄釉,白釉緑彩などの鉛釉陶器がある。この時期の鮮卑族の王墓からはササン・ペルシア製の金銀器やガラス器が出土しており,鉛釉陶器も西方の文物の流入に影響を受けて発達したものと考えられる。唐三彩は従来は8世紀前半,盛唐期に発達した彩釉陶器とされていたが,その萌芽は北朝後期にある。日本では白鳳期の寺院址や祭祀遺跡,墓葬から唐三彩が出土している。中国では唐三彩は墓葬用の明器として用いられたが,日本では珍貴な文物として受け入れられ,その模造品として奈良三彩が製作された。唐三彩は8世紀中葉を期にその製作はとだえる。9世紀の三彩陶器は盛唐期の三彩とは質を異にする新しい彩釉陶器である。唐三彩は墓葬用明器であったが,9世紀の三彩陶器は実用器である。この時期の三彩陶器の製作をうながしたのは西アジアのイスラム世界との交易である。中国楊州唐城とイラクのサーマッラー遺跡で同じ白釉緑彩陶器が出土しており,これは単に東方の鉛釉陶器がイスラム圏に輸出されたのではなく,イスラム圏の嗜好を中国側が受け入れてつくりだした新しい彩釉陶器である。中国の彩釉陶器の誕生とその発達は常に西アジアとの交流の中で考えるべきであり,陶磁器における東西交流の重要な示標なのである。
鈴木, 康之
草戸千軒町遺跡は,広島県福山市に所在する13世紀中頃から16世紀初頭にかけて存続した集落の遺跡である。この集落は福山湾岸に位置する港湾集落で,鎌倉時代には「草津」,室町時代には「草土」などと呼ばれていたと考えられる。遺跡は,文字資料では明らかにしがたかった中世における民衆生活の実態を明らかにしたことが評価され,集落の住人は文字資料に記されることのない庶民が主体であったと考える傾向が強かった。しかし,発掘調査の成果にもとづき,集落の変遷過程を地域社会の動向のなかに位置づけていくと,集落の成立・停滞・再開発・終焉といった画期に,武家領主の動向が大きく影響をおよぼしていたことが考えられるようになった。本稿では,13世紀中頃から14世紀前半の鎌倉時代後期における集落変遷の背景に,鎌倉幕府の御家人で備後守護や長和荘地頭に任じられていた長井氏が関与していたことを想定した。発掘調査した集落の中核に位置する「中心区画」と呼ぶ区域の出土資料に注目すると,井戸には当時最も「格」の高い場所に存在した多角形縦板組の井側をもつものが集中し,木簡からは近隣地域との商品・金融取引の拠点として機能していたことがうかがえる。また,当時最先端の文化活動であったと考えられる闘茶が行われていたことを示す闘茶札が,中国産天目茶碗・茶入をともなって出土し,白磁四耳壺・青白磁梅瓶・吉州窯系鉄絵瓶子といった座敷飾りの陶磁器も出土している。ここに,「会所」に比定できる施設が存在していたことが想定できる。以上のような「中心区画」の卓越性は,この集落が武家領主の地域支配の拠点であったことを示していると考えられる。
四柳, 嘉章
本稿では中世的漆器生産へ転換する過程を,主に食漆器(椀皿類)製作技術を中心に,社会文化史的背景をふまえながらとりあげる。平安時代後期以降,塗師や木地師などの工人も自立の道を求めて,各地で新たな漆器生産を開始する。新潟県寺前遺跡(12世紀後半~13世紀)のように,製鉄溶解炉壁や食漆器の荒型,製品,漆刷毛,漆パレットなどが出土し,荘官級在地有力者の屋敷内における,鋳物師と木地・塗師の存在が裏付けられる遺跡もある。いっぽう次第に塗師や木地師などによる分業的生産に転換していく。そうしたなかで11~12世紀にかけて材料や工程を大幅に省略し,下地に柿渋と炭粉を混ぜ,漆塗りも1層程度の簡素な「渋下地漆器」が出現する。これに加えて,蒔絵意匠を簡略化した漆絵(うるしえ)が施されるようになり,需要は急速に拡大していった。やがて15世紀には食漆器の樹種も安価な渋下地に対応して,ブナやトチノキなど多様な樹種が選択されるようになっていく。渋下地漆器の普及は土器埦の激減まねき,漆椀をベースに陶磁器や瓦器埦などの相互補完による新しい食膳様式が形成された。漆桶や漆パレットや漆採取法からも変化の様子を取り上げた。禅宗の影響による汁物・雑炊調理法の普及は,摺鉢の量産と食漆器の普及に拍車をかけた。朱(赤色)漆器は古代では身分を表示したものであったが,中世では元や明の堆朱をはじめとする唐物漆器への強い憧れに変わる。16世紀代はそれが都市の商工業者のみならず農村にまで広く普及して行く。都市の台頭や農村の自立を示す大きな画期であり,近世への躍動を感じさせる「色彩感覚の大転換」が漆器の上塗色と絵巻物からも読み解くことができる。古代後期から中世への転換期,及び中世内の画期において,食漆器製作にも大きな変化が見られ,それは社会的変化に連動することを紹介した。
中三川, 昇 Nakamikawa, Noboru
中世都市鎌倉に隣接する三浦半島最大の沖積低地である平作川低地の中世遺跡を中心に,出土遺物や遺跡を取巻く環境変化,自然災害の痕跡などから,地域開発の様相の一端とその背景について考察した。平作川低地には縄文海進期に形成された古平作湾内の砂堆や沖積低地の発達に対応し,現平作川河口近くに形成された砂堆上に,概ね5世紀代から遺跡が形成され始める。6世紀代までは古墳などの墓域としての利用が主で,7世紀~8世紀中頃には貝塚を伴う小規模集落が出現するが比較的短期間で消滅し,遺構・遺物は希薄となる。12世紀後半に再び砂堆上に八幡神社遺跡や蓼原東遺跡などが出現し,概ね15世紀代まで継続する。両遺跡とも港湾的要素を持った三浦半島中部の東京湾岸における拠点的地域の一部分で,相互補完的な関連を持った遺跡群であったと考えられるが,八幡神社遺跡の出土遺物は日常的な生活要素が希薄であるのに対し,蓼原東遺跡では多様な土器・陶磁器類とともに釣針や土錘などの漁具が出土し,15世紀には貝塚が形成され,近隣地に水田や畑の存在が想定されるなど生産活動の痕跡が顕著で,同一砂堆における場の利用形態の相違が窺われた。蓼原東遺跡では獲得された魚介類の一部が遺跡外に搬出されたと推察され,鎌倉市内で出土する海産物遺存体供給地の様相の一端が窺われた。蓼原東遺跡周辺地域の林相は縄文海進期の照葉樹林主体の林相から,平安時代にはスギ・アカガシ亜属主体の林相が出現し,中世にはニヨウマツ類主体の林相に変化しており,海産物同様中世都市鎌倉を支える用材や薪炭材などとして周辺地域の樹木が伐採された可能性が推察された。蓼原東遺跡は15世紀に地震災害を受けた後,短期間のうちに廃絶し,八幡神社遺跡でも遺構・遺物は希薄となるが,その要因の一つに周辺地域の樹木伐採などに起因する環境変化の影響が想定された。
藤尾, 慎一郎 Fujio, Shinichiro
考古学からみた江戸は市中を中心に進んだ発掘調査によって全貌が徐々に明らかにされつつある。特に焼物をつかって江戸市民の暮しの復原や武家と町民の比較研究も盛んである。江戸時代の焼物には広域にわたって流通する陶磁器と各地で生産された素焼・瓦質の土器があるが,何を解きあかそうとするかによって資料として選ぶ焼物の種類は変わってくる。今回は江戸時代最大の消費都市である江戸とその周辺に位置する譜代大名の城下町の違いを日常生活のレベルからおさえるために,ゴマやマメを妙る土器である焙烙(ほうろく)を用いて迫ってみたものである。焙烙は底部がきわめて薄くつくられているため,長距離の運搬には向かず,広域流通には不適な土器と考えられるところから,各地でつくられその商圏は非常に狭かったといわれている。したがって焙烙にみられる地域色を追求すれば,その商圏の範囲をおさえることができるし,各地の生活レベルや囲炉裏や竈といった火力施設にあった焙烙がつくられていたと予想されるため,当時の各地の生活の実態を探るうえでも有効な遺物であるといえよう。分析の結果,江戸市中に比べて佐倉では囲炉裏から竈への転換がかなり遅れたことや,江戸とその周辺に中世からつながる工人集団と17世紀に関西から招聘されたとされる関西系工人が存在し,両者が消費のニーズにあわせてしのぎを削っていた状況があきらかとなった。しかし絶対数が多い在地系工人主体の生産がここ佐倉では大勢を占めていたのである。また彼らと歴史上の下総土器作り集団との関連も注目される。江戸時代の煮沸具にみられる地域差が当時の生活状態を反映していたことは,筆者の専門である縄文・弥生時代の生活実態にもつながるものとして大いに期待できる分野である。
鋤柄, 俊夫 Sukigara, Toshio
中世の食文化を特徴づける鍋と釜は,一般に東日本の鍋,西日本の釜という地域性が指摘されている。しかし出土する土製煮炊具をみれば,中世前期の東日本では鍋がみられず,西日本でも釜が全てであったわけではない。出土する数は少ないが,主体はおそらく鉄製品だったのでろう。それではあらためて,各地でみられる中世の土製煮炊具は,中世社会においてどのような役割を果たしていたのでろうか。小論は,定量分析と使用痕跡の検討などにより,この問題を考えたものである。その結果,定量分析からは,鉄鍋の産地であった河内をはじめとする各地で,中世を通じた土釜・土鍋の量と擂鉢の量の連動が明かとなり,個体分析では,土釜・土鍋と鉄鍋の法量が基本的に対応する点,鍔の有無が機能に反映されない点,内面の残滓が古代と比べて少ない点,脚付き煮炊具が広い地域でみられる点などを抽出することができた。これらはいずれも,鉄製品が存在してなお,土釜・土鍋が日常品として使われていたことを示すものと考えられ,具体的には,土製煮炊具は高価な鉄釜の代用品として,主に「茄でる」・「蒸す」などの「湯沸かし」に使われたと推測されるのである。中世前期にみられる東国と西国の違いは,おそらくこの調理法に由来するものと思われ,さらに15世紀以降にみられる全国的な土鍋・土釜の出土は,それ以外の土器・陶磁器と,その生産構造まで巻き込んだ,汎日本的な食文化の変化に関わるものと考えられるのである。さらにこのような主たる用途の共通性と別に,土鍋・土釜はそれぞれの形態的な特徴などにより,独自の地域性を形成していた。これは,食文化という点で,おそらく当時の生活の違いをもっとも反映した地域性と言うことができるが,中世社会に対するその意義は,単に食文化にとどまらない可能性ももってきている。今後の課題とされよう。
鈴木, 康之 Suzuki, Yasuyuki
中世の消費遺跡をめぐる考古学的研究では、近年、資料の計量分析がさかんに行われ、数多くの成果が蓄積されつつある。しかしその一方で、分析結果を解釈し、過去の人間活動を復元するための方法は十分に論じられてはいない。筆者は、考古資料から人間の消費活動を復元するためには、資料の形成過程についての分析が重要な役割を果たすと考えており、本稿ではまずMichael Schifferによる資料形成過程の概念を紹介した。Schifferは、考古資料に示される過去の人間活動の痕跡は当時から変化せず現代にもたらされたものではなく、さまざまな文化的・非文化的変換作用を経たものだと説く。さらに、変換作用が引き起こされる状況は「機能的文脈(現実の社会における関係)」と「考古学的文脈(遺跡・遺構における関係)」とに区分できることなどを示している。これらの指摘は、日本中世における消費活動を考古学的に分析する上でも参考になる点が多い。形成過程分析の具体的事例として、草戸千軒町遺跡(広島県福山市)から出土した輸入陶磁器・滑石製石鍋・木製食膳具の分析を試みた。分析に際しては、集落に搬入された消費財がどのような過程を経て廃棄、あるいは相続されるかを示す「搬入と廃棄のモデル」を設定した。このモデルに基づいて資料形成過程を解釈することにより出土資料の計量分析結果に認められるいくつかの事象が、過去の人間集団の消費活動をどのように反映しているのかが推測できるようになる。検討の結果、耐久消費財はそれが生産され、流通した時期に多くは廃棄されないこと、生活環境の変化を契機に多くの耐久消費財が廃棄されることなどが、具体的な出土状況に即して説明できるようになった。また、草戸千軒の集落における消費財廃棄のパターンから、限定された空間内で密度の高い消費活動が行われていたことを指摘し、これが集落の「都市的」な特質の一端を示していると考えた。
齋藤, 孝正 Saito, Takamasa
日本における施釉陶器の成立は7世紀後半における緑釉陶器生産の開始を始まりとする。かつては唐三彩の影響下に奈良時代に成立した三彩(奈良三彩)を以て,緑釉と同時に発生したとする考え方が有力であったが,今日では川原寺出土の緑釉波文塼や藤原京出土の緑釉円面硯などの資料から,朝鮮半島南部の技術を導入して緑釉陶器が奈良三彩に先行して成立したとする考え方が一般化しつつある。なおこの時期の製品は塼や円面硯などの極僅かな器種が知られるのみである。奈良時代に入ると新たに奈良三彩が登場する。唐三彩は既に7世紀末には早くも日本に舶載されていたことが近年明らかにされたが,新たに三彩技術を中国より導入し成立したと考えられる。年代の判明する最古の資料は神亀6年(729)銘の墓誌を伴う小治田安万呂墓出土の三彩小壺であるが,その開始が奈良時代初めに遡る可能性は十分に存在する。奈良三彩の器形は唐三彩を直接模倣したものはほとんど見られず従来の須恵器や土師器,あるいは金属製品に由来するものが主体となる。ここに従来日本に存在しなかった器形のみを新たに直接模倣するという中国陶磁に対する日本の基本的な受け入れ方を見て取ることができる。奈良三彩は寺院・宮殿・官衙を中心に出土し国家や貴族が行なう祭祀・儀式や高級火葬蔵壺器として用いられた。なお,先の緑釉陶器の含め三彩陶器を生産した窯跡は未発見である。平安時代に入ると三彩陶器で中心をなした緑釉のみが残り,越州窯青磁を主体とする新たな舶載陶磁器の影響下に椀・皿類を主体とする新たな緑釉陶器生産が展開する。生産地もそれまでの平安京近郊から次第に尾張の猿投窯や近江の蒲生窯などに拡散し,近年では長門周防における生産も確実視されるようになった。中でも猿投窯においては華麗な宝相華文を陰刻した最高級の製品を作り出して日本各地に供給しその生産の中心地となった。
佐々木, 蘭貞
水中遺跡、特に沈没船は、当時の様子をそのまま残していることがあり、交易のメカニズムを伝えるタイムカプセルに例えられる。諸外国では一九世紀から水中遺跡を研究対象として捉え、古代から近現代の沈没船の研究が進み、すでに数万件の調査事例がある。一方、これまで日本で確認された水中遺跡は数百件と決して多くない。四方を海で囲まれたわが国において海を介した交易無くして日本の歴史や文化を語ることはできないが、その確固たる証拠が眠る水中遺跡を保護し研究する体制は整っていない。水中遺跡の多くは、滋賀県(琵琶湖)、沖縄県、長崎県の三県に集中しており、中世の交易に関する遺跡はほとんど発見されていない。また、沈没船の発見を念頭に海難記録を調べているが、まだ多くの課題が残される。近年、一三世紀の蒙古襲来に関連した沈没船が長崎県松浦市の鷹島海底遺跡で発見され、わが国でも水中遺跡への注目が急速に集まりつつある。このように、日本国内での水中遺跡を対象とした研究事例はまだ少ないが、鷹島海底遺跡においては今後の研究の方向性・可能性を見ることが出来る。鷹島海底遺跡では、科学研究費による研究や護岸整備に伴う緊急発掘などにより、すでに四〇年近く調査が行われている。二〇一一年と二〇一四年の調査で船体が発見される前から、アンカー、陶磁器類、武器など多くの遺物が発掘されてきた。船体だけでなく、これらの遺物は、文献史料や絵画資料などと合わせて利用することにより、より正確な歴史事象の理解に貢献することが出来る。水中から引き揚げられた遺物は、保存処理に時間を要するが、現在、研究は着実に進んでいる。これまで鷹島で発見された船体のパーツや遺物などから判断すると、鷹島で沈没した船団のほとんどは、中国南部、揚子江以南に起源を持つ。本稿では、国内での水中遺跡調査の進展を望み、水中遺跡調査の学史、鷹島海底遺跡で行われた研究事例を紹介したい。
藤澤, 良祐 Fujisawa, Ryohsuke
宋・元代の中国産を主体とする輸入陶磁と,中世唯一の国産施釉陶器である古瀬戸が,モデルとコピーの関係にあったことは良く知られているところで,古瀬戸は輸入陶磁の補完的役割を担ったにすぎないとされるが,実態は果たしてそうだったのであろうか。中世前半期の最大の消費遺跡である鎌倉遺跡群において,古瀬戸と輸入陶磁の補完関係を検討したのが本稿である。これまで鎌倉では数多くの発掘調査が行われているが,比較的良好な遺構面が検出され陶磁器の種類・量が多い四つの遺跡を取り上げ,古瀬戸と輸入陶磁の出土量(廃棄量)を分析したところ,輸入陶磁は13世紀末から14世紀初にかけて廃棄量がピークとなるのに対し,古瀬戸の廃棄量のピークは一時期遅れ鎌倉幕府の崩壊する14世紀前葉にあり,その背景として当該期における輸入陶磁の流通量の減少が予想された。また,モデルとコピーの関係にある各器種においても,輸入陶磁の方が廃棄(出現)時期が早いという傾向が認められ,さらに四耳壺・瓶子・水注などのいわゆる威信財では,古瀬戸製品であっても生産年代と廃棄年代との間に半世紀近い伝世期間が想定された。一方,鎌倉で大量に出土する青磁や白磁の碗・皿類は,当該期の古瀬戸はほとんどコピーしないのに対し,入子・卸皿・柄付片口などの古瀬戸製品は,鎌倉での出土比率が高いにも拘らず輸入陶磁に本歌が確認できないことから,古瀬戸と輸入陶磁との間には一種の“住み分け”が行われていたことも明らかである。すなわち中世前半期の古瀬戸は,輸入陶磁に存在しないもの,あるいは輸入陶磁の流通量の少ないものを重点的に生産しており,両者は戦国期の白磁や染付の皿と瀬戸・美濃大窯製品の小皿類にみられるような競合関係にはなく,コピーである古瀬戸製品自体が,モデルである輸入陶磁に匹敵する価値観を有していたと考えられる。
奥田, 実 照屋, 善義 嶋袋, 守成 石倉, 一人 Okuda, Minoru Teruya, Zengi Shimabukuro, Morishige Ishikura, Kazuto
奥田, 実 照屋, 善義 嶋袋, 守成 石倉, 一人 Okuda, Minoru Teruya, Zengi Shimabukuro, Morishige Ishikura, Kazuto
長佐古, 真也 Nagasako, Shinya
私たち日本人は,日常,飯を食べるための碗を「お茶碗」(tea-bowl)と呼び習わしているにも拘わらず,こうした習慣が,どのような理由で,いつから行われていたのかについては,必ずしも明らかではない。日常食器をめぐっては,他にもいくつかの疑問があるが,「やきものの文化」を語る上で,これら日常に深く浸透している器を捨象する訳にはいかないであろう。こうした問題については,民俗や文献史学の分野でも言及されてきた。しかし,時系列上で詳細に把握できるだけの資料を欠いていたため,具体的な様相を提示するに至っていない。これに対し,考古遺物は,各時期毎に,組成の量的変化まで復元することが可能なため,前出資料の空隙を埋めることのできる一級の史料である。例えば,明治時代中期の出土事例をみると,現代と同様のやきものの飯碗・湯のみ碗を主体とする組み合わせが既に成立している。しかし,江戸時代前期の碗をみると,飯・汁ともに漆器碗が占めている。そして,やきものの碗は,大ぶりの陶器碗が主体であること,伝世の「茶碗」との類似性,さらには内面に残る擦痕なとから喫茶碗と推定される。また,陶器の喫茶碗は江戸時代中期頃を境に,小形化の傾向を示し,日常の喫茶が「点てる茶」から「点てない茶」に変化していったことを窺い知ることができる。すなわち,こうした流れを概観するだけでも,従前の解釈とは異なる喫茶習慣のあり方や,肥前磁器の生産・流通のあり方といった問題に言及することが可能である。今後は,より正確な様相の把握を通して,「米」や「やきもの」に対する思いを軸にした「日本人」の心意の特質,東アジアの中での日本の位置付け,日本の内部による文化の地域的様相などの復元に向かうべきである。