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インドネシア・バンテン遺跡出土の陶磁器
大橋, 康二 坂井, 隆 Ohashi, Koji Sakai, Takashi
インドネシアのジャワ島西部に位置するバンテン遺跡は16世紀から18世紀にかけて栄えたイスラム教を奉ずるバンテン王国の都であった。1976年以来,インドネシア国立考古学センター(The National Research Center of Archaeology)などにより,この地域の発掘調査が続けられ,膨大な量の陶磁片が出土した。これを整理した結果,25,076個体を産地,年代,種類毎に分類し得た。主に16世紀から18世紀の陶磁器であることは,バンテン王国の栄えた時代と符合する。この間も時期毎で陶磁器の産地,種類の割合・内容が変わる。
15~17世紀における東南アジア陶磁器からみた陶磁の日本文化史 : 堺環濠都市遺跡出土遺物を中心として(Ⅲ. 貿易陶磁と在来陶磁)
森村, 健一 Morimura, Kenichi
近世陶磁器の萌芽期は1585年前後であり,その確立期は1598~1615年である。この時期,大きな影響を与えたのが,東南アジアの陶磁器である。それらは,首里城跡(1459年大火),中世大友城下町跡(1586年,島津侵攻大火),フィリピン・サンディエゴ号沈没船(1600年12月14日),ビッティ・レウ号沈没船(1613年)を基準資料とし,年代観が与えられる。また,生産窯も近年の発掘調査研究によって判明しつつある。
土器の流通・消費からみた平安京とその周辺
高橋, 照彦 Takahashi, Teruhiko
本稿では,土器・陶磁器類の流通・消費という側面に焦点を当て,都市とその周辺村落との比較という視点から,平安京とその前後の時期を考古学的に検討した。
韓国全羅道出土青磁の胎土に含まれるジルコンを用いた産地推定の試み
小瀬戸, 恵美 Koseto-Horyu, Emi
本論文では,陶磁器胎土中に含まれるジルコンの成分組成に着目した産地推定法を提案し,高麗青磁に関して本法を適用して得られた結果について報告する。
[論文] 喜界島・奄美大島から薩摩・大隅地方の中世遺跡の様相
岩元, 康成 Iwamoto, Yasunari
本稿では喜界島・奄美大島と薩摩・大隅地方の中世遺跡について両地域で出土した建物跡・土坑墓などの遺構と中国陶磁器などの遺物を比較し,11世紀後半から16世紀を5段階に分けて関連を検討した。
[論文] 高麗時代の遺跡から出土する中国陶磁器の状況と特徴 : 韓国出土品を中心として
李, 明玉 荒木, 和憲 Lee, Myoung ok Araki, Kazunori
高麗は初期から中期まで宋・遼・金との持続的な交流があり,後期には元と交流した。こうした状況によって,その時々の中国の多くの文物が高麗に流入し,とりわけ相当量の中国陶磁器が高麗の全域で消費される傾向がみられる。中国陶磁器は高麗の全時期のなかでも,とくに高麗中期の遺跡から出土する。出土の地域と遺跡の性格を探ると,京畿道・忠清道・全羅道・慶尚道・済州地域で確認されており,宮城・官庁関連遺跡・寺刹(寺址)・建物址・墳墓,全羅・忠清地域の海底などである。器種別の出土の様相を探ると,青磁は越州窯産・龍泉窯産が確認されており,五代末~北宋代の越州窯産から,北宋~元代と編年されるものまで及ぶが,宋代のものが大部分である。白磁は北宋・南宋代の定窯産・景徳鎮窯産が最も多く,このほか磁州窯産や福建・広東の窯の製品が少量確認される。とりわけ高麗中期には12~13世紀代の景徳鎮窯産青白磁の出土量が多く,発見地域も広範囲にわたる。黒釉は福建の建窯・建窯系・吉州窯・磁州窯産のものが確認されており,そのほか磁竈窯・鈞窯産のものもある。高麗時代の陸上遺跡(韓半島本土の遺跡)から出土する中国陶磁器の特徴をいくつかに整理すると,以下のとおりである。
戦国期武家の日常使いの貿易陶磁の実像 : 十五世紀中葉〜十六世紀中葉を中心に
水澤, 幸一 Mizusawa, Kouichi
本稿では、戦国期城館の実年代を探るための考古学的手段として、貿易陶磁器の中でも最もサイクルの早い食膳具を中心に十五世紀中葉~十六世紀中葉の出土様相を検討し、遺跡ごとの組成を明らかにした。
東南アジア群島部の陶磁器消費者(Ⅲ. 貿易陶磁と在来陶磁)
坂井, 隆 Sakai, Takashi
世界史的な陶磁貿易の構造解明に向けて,本論では東南アジア群島部における陶磁器消費者の実態像について,各地の考古資料より接近を試みた。具体的な使用者を探る手掛かりとして食膳具・調度具・貯蔵具に区分することで各遺跡出土品の内容を検討し,またこの地域の特徴を示す重要な製品であるクンディ型水注とアンピン壺のあり方を考えた。
[論文] 先島の集落遺跡からみた琉球の帝国的様相
村木, 二郎 Muraki, Jiro
八重山・宮古といった先島諸島には,沖縄本島では見られない石積みで囲われた集落遺跡がある。発掘調査によってそこから出土する中国産陶磁器は膨大で,それらの遺跡は13世紀後半から14世紀前半に出現し,15世紀代を最盛期とする。しかし16世紀代の遺物は激減し,この時期に集落が廃絶したことがわかる。竹富島の花城村跡遺跡に代表される細胞状集落遺跡は,不整形な石囲いが数十区画にわたって連結したもので,その外郭線は崖際にさらに石を積み上げた防御性をもったものである。このような遺跡が先島の密林に埋もれており,その多くは聖地として現在も祀られている。
[論文] 都城盆地における8世紀後半から10世紀の集落動態とその背景 : 横市川流域の遺跡群を中心として
桒畑, 光博 KUWAHATA, Mitsuhiro
都城盆地の古代の集落様相と動態に関する3つの課題を提示して,横市川流域の遺跡群の集落遺跡の類型化とその性格を推定した上で,同盆地内のその他の遺跡との比較も行ってその背景を考察した。①都城盆地内において,8世紀前半に明確ではなかった集落が8世紀後半に忽然と現れる現象については,8世紀後半以降の律令政府による対隼人政策の解消に伴って南九州各地にも律令諸原則が適用されるようになる中で,いわゆる開墾集落が形成されはじめた可能性を指摘した。②遺跡数が増大する9世紀中頃から10世紀前半には,複数の集落類型が併存しており,中にはいわゆる官衙関連遺跡や地方有力者の居宅跡も存在する。郡衙が置かれた場所ではないが,広大な諸県郡の中の中心域を占め,開発可能な沖積地を随所に擁する都城盆地において,国司・大宰府官人・院宮王臣家などとのつながりが想定される富豪層による開発が進展するとともに,物資の流通ルートを担う動きが活発化して,集落形成が顕著となり,各集落が出現と消滅,変転を繰り返しながらも見かけ上は継続的に集落形成が行われていたと推察される。貿易陶磁器や国産施釉陶器などの希少陶磁器類の存在から看取される都城盆地の特質としては,南九州内陸部における交通の結節点をなす場所として重要な位置を占めていたことに加え,一大消費地でもあったことも指摘できる。③10世紀前半まで継続した集落が10世紀後半になると衰退・廃絶し,全体的に遺跡数が減少するという現象については,10世紀から11世紀にかけて進行した乾燥化と温暖化,変動幅の大きい夏季降水量など不安定な気候の可能性に加え,当該期における集落形成の流動性と定着性の薄弱さを考慮すべきである。当時,開発の余地が大きい都城盆地に進出していた各集団の多くは,自立的・安定的な経営を貫徹するには至らなかったと思われ,当時の農業技術水準の問題もあり,激化する洪水などの自然環境の変化に対しては十分な対応がとれなかった社会状況があったことも想定できる。
佐倉と江戸 : 近世の瓦質・土師質土器からみた地域性(Ⅴ. 生活文化史への視点)
藤尾, 慎一郎 Fujio, Shinichiro
考古学からみた江戸は市中を中心に進んだ発掘調査によって全貌が徐々に明らかにされつつある。特に焼物をつかって江戸市民の暮しの復原や武家と町民の比較研究も盛んである。江戸時代の焼物には広域にわたって流通する陶磁器と各地で生産された素焼・瓦質の土器があるが,何を解きあかそうとするかによって資料として選ぶ焼物の種類は変わってくる。今回は江戸時代最大の消費都市である江戸とその周辺に位置する譜代大名の城下町の違いを日常生活のレベルからおさえるために,ゴマやマメを妙る土器である焙烙(ほうろく)を用いて迫ってみたものである。焙烙は底部がきわめて薄くつくられているため,長距離の運搬には向かず,広域流通には不適な土器と考えられるところから,各地でつくられその商圏は非常に狭かったといわれている。したがって焙烙にみられる地域色を追求すれば,その商圏の範囲をおさえることができるし,各地の生活レベルや囲炉裏や竈といった火力施設にあった焙烙がつくられていたと予想されるため,当時の各地の生活の実態を探るうえでも有効な遺物であるといえよう。
ベトナム、タンロン皇城における日本の陶磁器
ブィー, ミン チー
2. 中世十三湊出土の陶磁器(第6章 総括と展望)
榊原, 滋高 Sakakibara, Shigetaka
紀州男山陶器場について(Ⅱ. 国産紀年銘土器・陶磁器研究)
中村, 貞史 Nakamura, Sadafumi
明治期における輸出陶磁器産業の変遷 : 起立工商会社と森村組の比較を通して
黄, 栄光
名護産陶磁器原料の利用開発に関する研究(2報)
奥田, 実 照屋, 善義 嶋袋, 守成 石倉, 一人 Okuda, Minoru Teruya, Zengi Shimabukuro, Morishige Ishikura, Kazuto
名護産陶磁器原料の利用開発に関する研究(1報)
奥田, 実 照屋, 善義 嶋袋, 守成 石倉, 一人 Okuda, Minoru Teruya, Zengi Shimabukuro, Morishige Ishikura, Kazuto
中世漆器の技術転換と社会の動向
四柳, 嘉章 Yotsuyanagi, Kasho
本稿では中世的漆器生産へ転換する過程を,主に食漆器(椀皿類)製作技術を中心に,社会文化史的背景をふまえながらとりあげる。平安時代後期以降,塗師や木地師などの工人も自立の道を求めて,各地で新たな漆器生産を開始する。新潟県寺前遺跡(12世紀後半~13世紀)のように,製鉄溶解炉壁や食漆器の荒型,製品,漆刷毛,漆パレットなどが出土し,荘官級在地有力者の屋敷内における,鋳物師と木地・塗師の存在が裏付けられる遺跡もある。いっぽう次第に塗師や木地師などによる分業的生産に転換していく。そうしたなかで11~12世紀にかけて材料や工程を大幅に省略し,下地に柿渋と炭粉を混ぜ,漆塗りも1層程度の簡素な「渋下地漆器」が出現する。これに加えて,蒔絵意匠を簡略化した漆絵(うるしえ)が施されるようになり,需要は急速に拡大していった。やがて15世紀には食漆器の樹種も安価な渋下地に対応して,ブナやトチノキなど多様な樹種が選択されるようになっていく。渋下地漆器の普及は土器埦の激減まねき,漆椀をベースに陶磁器や瓦器埦などの相互補完による新しい食膳様式が形成された。漆桶や漆パレットや漆採取法からも変化の様子を取り上げた。禅宗の影響による汁物・雑炊調理法の普及は,摺鉢の量産と食漆器の普及に拍車をかけた。朱(赤色)漆器は古代では身分を表示したものであったが,中世では元や明の堆朱をはじめとする唐物漆器への強い憧れに変わる。16世紀代はそれが都市の商工業者のみならず農村にまで広く普及して行く。都市の台頭や農村の自立を示す大きな画期であり,近世への躍動を感じさせる「色彩感覚の大転換」が漆器の上塗色と絵巻物からも読み解くことができる。古代後期から中世への転換期,及び中世内の画期において,食漆器製作にも大きな変化が見られ,それは社会的変化に連動することを紹介した。
中近世瀬戸・美濃窯の紀年銘資料について(Ⅱ. 国産紀年銘土器・陶磁器研究)
藤澤, 良祐 Fujisawa, Ryohsuke
横須賀市平作川低地の環境変遷と中世の開発について
中三川, 昇 Nakamikawa, Noboru
中世都市鎌倉に隣接する三浦半島最大の沖積低地である平作川低地の中世遺跡を中心に,出土遺物や遺跡を取巻く環境変化,自然災害の痕跡などから,地域開発の様相の一端とその背景について考察した。平作川低地には縄文海進期に形成された古平作湾内の砂堆や沖積低地の発達に対応し,現平作川河口近くに形成された砂堆上に,概ね5世紀代から遺跡が形成され始める。6世紀代までは古墳などの墓域としての利用が主で,7世紀~8世紀中頃には貝塚を伴う小規模集落が出現するが比較的短期間で消滅し,遺構・遺物は希薄となる。12世紀後半に再び砂堆上に八幡神社遺跡や蓼原東遺跡などが出現し,概ね15世紀代まで継続する。両遺跡とも港湾的要素を持った三浦半島中部の東京湾岸における拠点的地域の一部分で,相互補完的な関連を持った遺跡群であったと考えられるが,八幡神社遺跡の出土遺物は日常的な生活要素が希薄であるのに対し,蓼原東遺跡では多様な土器・陶磁器類とともに釣針や土錘などの漁具が出土し,15世紀には貝塚が形成され,近隣地に水田や畑の存在が想定されるなど生産活動の痕跡が顕著で,同一砂堆における場の利用形態の相違が窺われた。蓼原東遺跡では獲得された魚介類の一部が遺跡外に搬出されたと推察され,鎌倉市内で出土する海産物遺存体供給地の様相の一端が窺われた。蓼原東遺跡周辺地域の林相は縄文海進期の照葉樹林主体の林相から,平安時代にはスギ・アカガシ亜属主体の林相が出現し,中世にはニヨウマツ類主体の林相に変化しており,海産物同様中世都市鎌倉を支える用材や薪炭材などとして周辺地域の樹木が伐採された可能性が推察された。蓼原東遺跡は15世紀に地震災害を受けた後,短期間のうちに廃絶し,八幡神社遺跡でも遺構・遺物は希薄となるが,その要因の一つに周辺地域の樹木伐採などに起因する環境変化の影響が想定された。
日本の緑釉・三彩陶器の流れ(2. 歴史資料産地決定法への適用 / [三彩・緑釉])
齋藤, 孝正 Saito, Takamasa
日本における施釉陶器の成立は7世紀後半における緑釉陶器生産の開始を始まりとする。かつては唐三彩の影響下に奈良時代に成立した三彩(奈良三彩)を以て,緑釉と同時に発生したとする考え方が有力であったが,今日では川原寺出土の緑釉波文塼や藤原京出土の緑釉円面硯などの資料から,朝鮮半島南部の技術を導入して緑釉陶器が奈良三彩に先行して成立したとする考え方が一般化しつつある。なおこの時期の製品は塼や円面硯などの極僅かな器種が知られるのみである。奈良時代に入ると新たに奈良三彩が登場する。唐三彩は既に7世紀末には早くも日本に舶載されていたことが近年明らかにされたが,新たに三彩技術を中国より導入し成立したと考えられる。年代の判明する最古の資料は神亀6年(729)銘の墓誌を伴う小治田安万呂墓出土の三彩小壺であるが,その開始が奈良時代初めに遡る可能性は十分に存在する。奈良三彩の器形は唐三彩を直接模倣したものはほとんど見られず従来の須恵器や土師器,あるいは金属製品に由来するものが主体となる。ここに従来日本に存在しなかった器形のみを新たに直接模倣するという中国陶磁に対する日本の基本的な受け入れ方を見て取ることができる。奈良三彩は寺院・宮殿・官衙を中心に出土し国家や貴族が行なう祭祀・儀式や高級火葬蔵壺器として用いられた。なお,先の緑釉陶器の含め三彩陶器を生産した窯跡は未発見である。平安時代に入ると三彩陶器で中心をなした緑釉のみが残り,越州窯青磁を主体とする新たな舶載陶磁器の影響下に椀・皿類を主体とする新たな緑釉陶器生産が展開する。生産地もそれまでの平安京近郊から次第に尾張の猿投窯や近江の蒲生窯などに拡散し,近年では長門周防における生産も確実視されるようになった。中でも猿投窯においては華麗な宝相華文を陰刻した最高級の製品を作り出して日本各地に供給しその生産の中心地となった。
「お茶碗」考 : 江戸における量産陶磁器の変遷(Ⅱ. 食と陶磁器)
長佐古, 真也 Nagasako, Shinya
私たち日本人は,日常,飯を食べるための碗を「お茶碗」(tea-bowl)と呼び習わしているにも拘わらず,こうした習慣が,どのような理由で,いつから行われていたのかについては,必ずしも明らかではない。日常食器をめぐっては,他にもいくつかの疑問があるが,「やきものの文化」を語る上で,これら日常に深く浸透している器を捨象する訳にはいかないであろう。
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