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権藤, 愛順
本稿では、明治期のわが国における感情移入美学の受容とその展開について、文学の場から論じることを目標とする。明治三一年(一八九八)~明治三二年(一八九九)に森鷗外によって翻訳されたフォルケルト(Johannes Volkelt 1848-1930)の『審美新説』は、その後の文壇の様々な分野に多大な影響を与えている。また、世紀転換期のドイツに留学した島村抱月が、明治三九年(一九〇六)すぐに日本の文壇に紹介したのも、リップス(Theodor Lipps 1851-1914)やフォルケルトの感情移入美学を理論的根拠の一つとした「新自然主義」であった。西洋では、象徴主義と深い関わりをもつ感情移入美学であるが、わが国では、自然主義の中で多様なひろがりをみせるというところに特徴がある。本論では、島村抱月を中心に、「新自然主義」の議論を追うことで、いかに、感情移入美学が機能しているのかを検討した。
鈴木, 貞美
本稿では、第二次大戦後の日本で主流になっていた「自然主義」対「反自然主義」という日本近代文学史の分析スキームを完全に解体し、文藝表現観と文藝表現の様式(style)を指標に、広い意味での象徴主義を主流においた文藝史を新たに構想する。そのために、文藝(literar art)をめぐる近代的概念体系(conceptual system)とその組み換えの過程を明らかにし、宗教や自然科学との関連を示しながら、藝術観と藝術全般の様式の変化のなかで文藝表現の変化を跡づけるために、絵画における印象主義から「モダニズム」と呼ぶ用法を採用する。印象主義は、外界を受けとる人間の感覚や意識に根ざそうとする姿勢を藝術表現上に示したものであり、その意味で、のちの現象学と共通の根をもち、今日につながる現代的な表現の態度のはじまりを意味するからである。
山本, 良 YAMAMOTO, Ryo
〈美〉に関する言説は、明治十年代の半ばから大量に流通するようになった。これは、啓蒙主義からロマン主義への転換という事態と相即的な関係にある。そうした動向のなかで、坪内逍遙『小説神髄』(明治十八~十九)によって江戸・明治期の稗史小説とは異なる〈小説〉の生産が提唱され、その後、〈美〉と〈小説〉とは急速に結びつけられる。それはまた、東京大学を中心とする当時の知的変動を象徴する動きでもあった。本稿は、そのような動きを美学化aestheticization―理性の普遍性と感性の特殊性とを媒介する試み―と呼び、〈小説〉に関する言説を中心にその動向を分析する。
戦, 暁梅
日本文人画の「最後の巨匠」と称賛される富岡鐡斎は近代日本画壇において非常に象徴的、且つ矛盾に満ちた存在である。彼は全く東洋的な教養から出発しながらも、画面一杯に漲る力強いタッチ、原色に近い鮮やかな色彩表現、ユーモラスな筆触などの要素を混合させながら独自の画風を作り上げた。この画風は原始主義、稚拙、醜さの賛美を求める西洋の近代絵画に通じるところがある。伝統の文人画から出発し、文人画家の道を貫いた富岡鐡斎は、何を求めてこのような画境に至ったのか。
Cheah, Pheng チャー, フェン
学術的に多大な影響を与えた2000年の著作『帝国』で、マイケル・ハートとアントニオ・ネグリは、ポストコロニアル理論は行き詰まっているという議論を展開した。近代的な支配の形にこだわるコロニアリズムは、現代のグローバリゼーションにおいてもはや主要な権力として存在していないというのが彼らの論点である。彼らが「帝国」と呼ぶポストモダン的主権国家にも利点と弱点はあるものの、こうした主張に真実がないこともない。文学研究分野におけるポストコロニアル理論や文化批評は、19世紀ヨーロッパの領土的な帝国主義や植民地主義の経験を根本的なパラダイムとする抑圧や支配、そして搾取についての分析に端を発してきた。よって、我々がサイードのオリエンタリズム的言説や表象のシステムや、ファノンを書き換えたバーバの「植民地主義的言説における人種差別的ステロタイプ」や、さらにはスピヴァクのいう、植民地主義的法律や教育の文明化的プロセスを経てつくられていく「植民地主義における主体形成」の認識論的な暴力などというものを考察しようとするとき、ポストコロニアル的文化批評の異なる位相は、植民地化された主体が生じる瞬間に押し付けられる神話やイデオロギー、あるいは、様々な基準との関係において理解され、「精神主義的」あるいは「象徴的/想像的」な性質を強調し、「権力に対する共通理解」と結びついていく。本論では、まず、現代のグローバリゼーションにおける権力を、精神論的なものとして理解することは不適切であるという点について述べていく。すなわち、現代のグローバル資本主義において必然的に「女性化」している越境的労働力は三種類あり、その三つのタイプの女性の主体がどのように作られていくかを論じたい。そこには、外国による直接投資の体制下にある女性工場労働者、外国人家事労働者、そして人身売買されて来るかまたは別の理由で越境して来る性労働者などが含まれる。物質中心的なシステムにおける主体形成のプロセスが、どのようにしてポストコロニアルやフェミニストの理論に関わる中心概念を根本から再考することにつながっていくだろうか。
Kobayashi, Masaomi
全ては他の全てと関連している――それが一般的なエコロジーの第一原則である。本稿は、そのように全てを関連性の総体とする全体論を広義のエコロジーとして捉え、様々なエコロジーの外部を探求する。その際に文学作品に言及することで、フィクションが提示する外部性の可能性も見出す。第一に扱う全体論は、カント以来とされる相関主義――現実は意識と事物の相関による現象であると主張することで人間の思考の外部性を排除する主義――である。この哲学論に対して、意識に先立つ事物の存在から意識の外部を考えるのが思弁的実在論である。主唱者の一人であるカンタン・メイヤスーは、偶然性の必然性を説くことで思考に基づく相関性の外部性を指摘する。そして相関性を前面にした作品がアーネスト・ヘミングウェイの「何を見ても何かを思い出す」であり、対照的に偶然性を前面にした作品がポール・オースターの『最後の物たちの国で』である。つづく全体論は、人間中心主義としてのヒューマニズムである。この全体論は、IoTやAIの登場によって、その完全性を維持できなくなりつつある。そしてP・K・ディックの代表作『電気羊はアンドロイドの夢を見るか?』におけるモノの世界は、まさに外部性を体現している。最後に扱う全体論は、歴史哲学者ユヴァル・ノア・ハラリが考察するデータ主義である。ビッグデータなどの膨大なデータにおいては、ヒトもモノも解析データとして一様に存在する。そして絶え間ないデータの流通を生命体として描いているのがドン・デリーロの『コズモポリス』である。データ主義を体現する主人公の死をもって終わる本作は、データ主義の外部性を象徴的に描く。かくして本稿は、「外部性の可能性」(outside possibilities)を発見することで、エコロジーとしての全体論を批判的に思考するための本来的な意味における「わずかな可能性」(outside possibilities)を提示する。
張, 帆
近年、学界では「グローバル国際政治学」(Global IR)に関する議論が高まり、日本の国際政治学の再考は重要な課題となった。とりわけ、高坂正堯、永井陽之助ら「現実主義者」の国際政治思想は大きく注目され、いわゆる「日本的現実主義」に関する研究が進んできた。しかし、既存の研究の多くが冷戦前期に焦点を当てるため、冷戦後期の日本的現実主義の展開は十分検討されていない。他方、同時期の安全保障・防衛政策に関する研究において「防衛計画の大綱」や総合安全保障戦略、防衛費「GNP 1%枠」の撤廃に対する「現実主義者」の関与がしばしば言及されるが、日本的現実主義の動向が議論の中心ではない。
McNally, Mark T. マクナリー, マーク
尚泰久王統治下の琉球王国において、万国津梁の鐘は、王の統治の正当性を主張する重要な機能を持っていた。王は王国の持つ富と権力を誇る内容の碑文を鐘に刻ませたが、その碑文を政治的に有効にし、その有効性をその後も継続させたのは、今日アメリカ研究の分野において例外主義(exceptionalism)と呼ばれている形態にあった。近世の琉球人が、朝貢国である中国を自分の国よりも優れていると認識していたことは、東アジアにおける中国の優位性の上に成立していた朝貢貿易というしくみが、琉球王国にとって特に重要であり、例外主義として機能しているという点で、歴史的重要性をもつ。中国、アメリカ合衆国、そして日本の事例において、歴史家はしばしば政治的・文化的優位性を表明する言説がいかに例外主義として機能するかを分析しようとするが、琉球王国の事例における例外主義には、そうした優位性の主張が見られない。琉球王国の例外主義は十九世紀のアメリカと同じように、世界主義(cosmopolitanism)を支持する例外主義であり、世界史的な観点からも意義深いと言える。
上野, 和男 Ueno, Kazuo
この報告は,儒教思想との関連で日本の家族の特質を明らかにしようとする試論である。考察の中心は,日本の家族の構造と祖先祭祀の特質である。家族との関連においては,儒教思想は親子中心主義,父子主義,血縁主義を原理としているといえるが,この3つの原理が日本の家族や祖先祭祀の原理をなしているかが,本報告の課題である。
寺石, 悦章 Teraishi, Yoshiaki
シュタイナーとフランクルは中心的な活動分野こそ異なるものの、その思想には多くの類似点が見出される。本稿では楽観主義と悲観主義、およびそれらと関連する快、不快、苦悩、平静などに注目して、両者の思想を比較考察する。一般に楽観主義・悲観主義は快・不快と関連づけて捉えられることが多いが、シュタイナーとフランクルはいずれも快は結果として生じるものであって目標ではないとする。そして快・不快に基づいて人生を考えること、快を目標として捉えること自体が誤りだと指摘している。また快・不快の比較については、比較自体はどうにか可能かもしれないが、人間の行動には本来、影響を与えないと主張している。フランクルは苦悩を重視し、苦悩に耐えることによって人間は成長すると考えている。これに対しシュタイナーは平静の重要性を指摘する。ここでの平静とは「苦悩しないこと」「苦悩せずに済ませること」として理解することも可能だが、そこに至る過程においては苦悩に耐えることが必要になる。この点からすれば、フランクルが語る苦悩とシュタイナーが語る平静には、重なる部分が大きいといえそうである。フランクルもシュタイナーも、自らの立場を楽観主義だと明言しているわけではない。ただし楽観主義を「人生あるいは未来に希望を見出す立場」といった形で捉えるならば、両者とも楽観主義の立場を取っていると判断して 差し支えないと思われる。
長谷川, 裕 Hasegawa, Yutaka
本稿の課題は、中内敏夫の教育理論が「能力主義」をどう捉えそれとどう向き合おうとしてきたのかを検討することである。中内は、能力主義は、教育領域にそれが浸透すると、教育による人間の発達の可能性の追求を断ち切ってしまうものとして捉えこれを批判し、一定水準の能力獲得をすべての者に確実に保障するための教育の実践と制度の構築をこれに対置して提起した。1990年頃中内は、近代になり〈教育〉という特殊な「人づくり」の様式が誕生・普及したが、そこには能力主義的・競争的性格が根源的に抜き難く刻み込まれているという論を押し出すようになるが、しかしその後も、上記のようないわば〈教育〉の徹底による能力主義への対峙という主張を基本的に変えていない。すなわち、〈教育〉は能力主義社会・競争社会に生きる人間の自立を助成する営みであらざるを得ないとの前提に立ち、その上で、「義務教育」としての「普通教育」においては、その社会を渡っていけるだけの「最低必要量」の能力獲得の保障を徹底させる、そのことが可能になるように〈教育〉の効力を向上させる―これが中内の能力主義に向き合う際の基本的スタンスである。本稿はこのように論じた上で最後に、中内の教育論とビースタのそれとを比較対照し、それを踏まえて〈教育〉がどのように能力主義と対峙すべきかについての筆者自身の見解を述べた。
鈴木, 貞美
今日、日本の近現代文芸をめぐって、一部に、「文化研究」を標榜し、新しさを装いつつ、その実、むしろ単純な反権力主義的な姿勢によって、種々の文化現象を「国民国家」や「帝国主義」との関連に還元する議論が流行している。この傾向は、レーニンならば「左翼小児病」というところであり、当の権力とその政策の実態、その変化を分析しえないという致命的な欠陥をもっている。それらは、「新しい歴史教科書」問題に見られるような「日本の威信回復」運動の顕在化や、世界各国におけるナショナリズムの高揚に呼応するような雰囲気が呼び起こしたリアクションのひとつであろう。その両者とは、まったく無縁なところから、第二次大戦後の進歩的文化人が書いてきた日本の近代文学史・文化史を、その根本から――言い換えると、そのストラテジーを明確に転換して――書き換えることを提唱し、試行錯誤を繰り返しつつも、少しずつ、その再編成の作業を進めてきた立場から、今日の議論の混乱の原因になっていると思われる要点について整理し、私自身と私が組織した共同研究が明らかにしてきたことの要点をふくめて、今後の日本近現代文芸・文化史研究が探るべきと思われる方向、すなわち、ガイドラインを示してみたい。整理すべき要点とは、グローバリゼイション、ステイト・ナショナリズム(国民国家主義)、エスノ・ナショナリズム、アジア主義、帝国主義、文化ナショナリズム、文化相対主義、多文化主義、都市大衆社会(文化)などの諸概念であり、それらと日本文芸との関連である。全体を三部に分け、Ⅰ「今日のグローバリゼイションとそれに対するリアクションズ」、Ⅱ「日本における文化ナショナリズムとアジア主義の流れ」、Ⅲ「日本近現代文芸における文化相対主義と多文化主義」について考えてゆく。なお、本稿は、言語とりわけリテラシー、思想などの文化総体にわたる問題を扱い、かつ、これまでの日本近現代文学・文化についての通説を大幅に書き換えるところも多いため、できるだけわかりやすく図式化して議論を進めることにする。言い換えると、ここには、たとえば「国家神道」など、当然ふれるべき問題について捨象や裁断が多々生じており、あくまで方向付けのための議論であることをおことわりしておく。
Smits, Gregory スミッツ, グレゴリー
昔から、琉球は人々の空想や願望を反映させる空白の画面として機能してきた。ここでこの現象の一側面、すなわち琉球は平和主義の王国であり、軍や警察力を持たなかったという考えについて述べる。このエッセイは4つの主要部分で構成される。最初は沖縄の平和主義という現代神話の考察である。次に、琉球の平和主義の神話は事実に基づく根拠がないということを明らかにするために、琉球軍の構造体や武器、戦闘などを見てみる。その後、「沖縄は平和主義の歴史がある」という神話の19世紀から、20世紀初期までの展開を論じる。最後に架空の構造としての沖縄・琉球について結論する。
飯田, 経夫
ケインズ経済学と大衆民主主義とが「野合」するとき、深刻な事態が生じる。大衆民主主義下で、得票極大化行動を取らざるを得ない政治家は、選挙民に「迎合」するために、たえず政府支出を増やすことを好み、その財源たる税収を増やすことを好まない。したがって、財政規模の肥大化と、財政赤字を生み出す大きな原因である。これらは大衆民主主義の本質的な欠陥であり、その是正策は、基本的には存在しない。このきわめて常識的な点を、経済学者(や政治学者)は、これまで十分に議論してきたとはいえない。
金, 仁徳
今日の在日朝鮮人の文化は明らかに移住の歴史から出発した。朝鮮人の移住は徹底して日本資本主義経済の必要によったものであった。そして朝鮮人は日本社会の最下層民として編入され、帝国主義日本の民衆と生活を共にした。
小澤, 佳憲 Ozawa, Yoshinori
これまでの弥生時代社会構造論は,渡部義通に始まるマルクス主義社会発展段階論の日本古代史学界的解釈に大きく規定されてきた。これに対し,新進化主義的社会発展段階論を基礎に新たな弥生時代社会構造論を導入することが本稿の目的である。
伊良波, 剛 Iraha, Tsuyoshi
琉球大学教育学部附属中学校(以下「附属中学校」とする)は,1985 年に国立大学で最後に創立された附属中学校である。創立 35 年の間に,3・4年のスパンで過去 10 回の全体の研究主題を掲げ研究が進められた。2020 年から「学びに向かう力をはぐくむ」をテーマに第 11 期研究が始まった。本稿は,創立期(1985 ~)から第4期(~ 2000)を「琉球大学教育学部附属中学校研究史 上」,第5期~第 10 期までを「下」とし,附属中学校研究史から,そこにある学習理論とその変遷がどのような背景や過程があったかを全体総論から俯瞰したものである。「上」では,行動主義,構成主義に位置する認知主義・状況主義の学習理論がみえ,「下」では,引き続き構成主義に位置する協同学習・協調学習がみえた。校内研については,教科と全体を土台とした共同研究や学部との専門研究,グループ研・班研究や教科間を超えたユンタク研究の共同研究がみえてきた。
関沢, まゆみ Sekizawa, Mayumi
本館第6展示「現代」の「高度経済成長と生活の変貌」のコーナーでは,高度経済成長期に生まれた新しい都市型生活の象徴として団地を,そしてその都市部へ電力や水資源を供給するために新しく造られたダムとそれによって消滅した山村の生活を,それぞれ対比的な位置づけでとりあげた。ここではそれに関連する研究情報として,高度経済成長期に起こった生活の変化とその後,そして人びとの意識や価値観の変化についての分析を試みた。それらを通して論点として浮上したのは,以下のような諸点であった。第一に,民俗学の特徴は,高度経済成長期だけでなく,そこに端を発しながらそれ以降に急速に進んだ生活の変化について追跡的に把握し変遷論的な視点から分析を進める点にある。第二に,それはたとえば昭和30年代には憧れの団地であったのが昭和40年代には郊外の1戸建てマイホームが憧れとなるなど変化が早かったこと,ダム建設によって水底に沈んだ村ではそれまでの自給自足的な山の生活が失われた一方,現在でも鎮守社の秋祭りを継続して村人の親睦の会が継承されていること,など変化と継続との両方の視点が有効である。第三に,高度経済成長が生んだものの一つが,大量生産,大量消費,そして大量投棄というまったく新たな生活問題であったが,「東京ゴミ戦争」に象徴されるようにそこには物質としてのゴミ問題に止まらず,人びとの不潔,汚穢をめぐる意識としてのゴミ問題が存在し,その克服への努力の実際が確認された。第四に,かつて日露戦争後の農村から都市への人口の大量移動に対して柳田國男が指摘した「家の自殺・他殺」が,従来とはまったく異なる規模で起こっている現場の確認ができ,それらについてのより広範な調査情報の収集の必要性が痛感された。そして,もっとも重要な第五の点として指摘できるのが,「生活革命」という語および概念を安易に使用してはならないという論点である。高度経済成長期を通じて,人びとの生活様式が変化するとともに人びとの意識も変化した。その意識の変化のなかで最も顕著なものとして指摘できるのが,「個人化」・「私事化」である。しかし,ではそれによって個人主義,自立主義が確立したかといえばそうではない。かつてと同じ大衆主義,大衆迎合主義が依然として残り,宣伝や流行に乗りやすい集団志向は変わっていない。高度経済成長によってもたらされた新しい生活様式は生活用品や生産用具が機械や電気によって変えられただけで,人々の思考方法や意思決定の方法までは変えていないことを意味している。つまり,高度経済成長はエネルギー革命や技術革新などによる生活の大変化をもたらしたが,それは基本的に政治と経済,政策と資本がリードした生活変化であり,村や町の生活現場からの内発的な動機や要求によって起こった変化ではなかったのである。つまり,高度経済成長期の生活変化は,外在的な影響による形式変化が中心であって,内発的な能動的なものではなかったというこの点は重要である。つまり,「生活変化」と呼ぶべきレベルにとどまっているのであり,「生活革命」と呼ぶべきではないと考える。
Taira, Masashi 平良, 柾史
1925年に出版された Cather のThe Professor's Houseは、科学の隆盛に裏打ちされた物質主義が人間の生き方に強いインパクトを与えた20世紀初期の社会を如実に反映した作品となっている。物質主義に抵抗しながらもその潮流に流され疎外されていく St. Peter 教授。物質主義にどっぷりとつかり互いに憎しみ、敵意さえ抱く St. Peter の家族や大学の同僚たち。The Professor's House は、物質主義に毒された人々が互いに真のコミュニケーションをもちえず疎外されていく悲劇的状況を描いた作品といえよう。しかしながらこの作品では、物質主義という外的要因に加えて、内的要因、すなわち人間の内面に潜む罪を犯しがちな人間のもって生まれた弱さ(human flaw)が作品の登場人物たちの行動や生き方を規定し、外的要因以上に、内部から登場人物たちをコミュニケーションの欠如した疎外状況に落し込んでいるかと思われる。この小論では、人間の内面に潜む弱さ(human flaw)を七つの大罪-the sins of pride, envy, avarice, gluttony, wrath, sloth, lust-に起因するファクターとしての軌軸でとらえ、それぞれの大罪がどのような形で登場人物たちの行動に現れているのかを分析してみた。
吉田, 和男
日本型システムが世界的に関心を持たれている。日本経済の発展に伴う摩擦やあこがれがそうさせている。同時に欧米のシステムとは大きく異なっていることから、「異質」である、「特殊」であることが内外から指摘されている。しかし、特殊であることを示しても意味がなく、普遍理論で包括的に分析されなければならない。また、欧米の個人主義に対して、集団主義という概念で一くくりにされる。しかし、集団主義と言っても何も分析したことにならない。日本型の集団主義のメカニズムを分析しなければならない。そこで社会科学としての分析が必要となるが、日本型システムが欧米で発達してきた社会科学の分析に馴染まないために、国民性の違いや非合理的行動として理解されることが少なくなかった。しかし、それは単に、欧米の社会科学を発達させてきた方法に問題があるにすぎない。個人主義を基礎とし、要素還元主義的方法であることが日本型システムの分析を難しくさせている。新しい分析のパラダイムが求められるところである。この要素還元主義による方法はすでに物理学や化学の分野では有効性を失い変化し始めている。これに対して、求められているのは要素間関係を重視する方法であり、システムを複雑系として理解する方法である。浜口教授の間人主義、ケストラーのホロン、清水教授のバイオ・ホロン、ハーケンのシナジェティクス、プリゴージンの散逸構造などの分析方法が有効性を持つことになる。伝統的な社会科学によって切り捨てられてきた問題をもう一度振り返る必要がある。逆にこの研究によって欧米のシステムももっと深く理解されることになる。日本型システムの分析という特殊性論の研究が普遍的理論へと発展していく可能性がある。
比嘉, 麻莉奈
本研究は英語教育実践研究の観点に立ち、拡大円圏である沖縄に生まれ育ち英語帝国主義の影響を受けた個人、そこから沖縄の大学の英語教育実践に取り組む大学教員である個人の内的体験にもとづいた英語教育(ELT: English Language Teaching/Training)に存在する言語イデオロギーとしての語母語話者主義の記述をおこなうことを目的とする。非英語圏における英語教育が英語帝国主義の影響から脱却するためには、教育機関、ひいてはそこの地域社会が英語帝国主義・英語母語話者主義に立ち向かうことが重要であり、それにはまず従来の日本―沖縄における英語学習や英語使用そのものが学習者/教員にどのように捉えられているのかを明らかにすることが求められる。英語は現在リンガ・フランカのひとつであり世界中で使用されている。政治・経済・研究・軍事等に対する英語の影響力は絶大であり、それゆえに英語母語話者/非母語話者間に言語のみならずさまざまな格差が生まれている現状がある。本研究では、英語教育に存在する言語的人種的権力構造を含んだ英語イデオロギーの影響力を考察するうえでも、個々の具体的な英語使用がなぜ行われるのかを分析するうえでも有効な分析概念として、「英語母語話者主義 native speakerism」(Holliday, 2005)を援用し、個人のライフストーリーを分析した。分析の結果、生育環境、留学体験、英語母語話者主義の影響、沖縄の大学英語教育の問題点、教育理念と実践を表す5つのカテゴリが抽出され、「国際的に活躍できる人材の育成」を国策としてうたう日本の英語教育方針と併せて、拡大円圏であり米軍基地を有する土地でもある沖縄において英語母語話者主義という言語イデオロギーは英語教育と非常に緊密に存在していることが明らかになった。カテゴリをさらに追究した結果、研究協力者の語りからは、非英語母語話者が英語母語話者主義を内在化する一因に「正しい英語」イデオロギーがあること、そのイデオロギーは社会構造の影響はもちろん自己/他者の比較から生まれるが、その乗り越えも他者との関係性の中に見ることができることが分かった。そして英語教育現場においては「英語の多様性」を重視した実践と、教員だけでなく教育機関、そして学生においても母語話者を偏重しない態度が求められていることが分かった。
清松, 大
高山樗牛の唱えた「美的生活論」は、登張竹風による解説を一つの契機として、その「本能主義」的側面がニーチェの個人主義思想と強固に結びつきながら理解された。樗牛の美的生活論は文壇内外で多くの批判や論争を呼ぶとともに、同時代の文学空間を熱狂的なニーチェ論議へと駆り立てていった。
王, 秀梅
古代日本人の地質や地形に対する関わり方,考え方を万葉集の歌に見える「岩」の語と歌句から検討した。万葉集中,「イハ系列語」45 語は,133 首の歌に計140 例が挙げられる。本稿はそれらを語構成・意味属性の観点から分類した上,万葉集の部立分類に合わせて,その分布状況と詠まれた歌句の表現類型について考察し,次の結論を得た。歌句において使用頻度の高い語は,「イハ」,「イハネ」,「イハホ」,「トキハ」等である。部立分類で見れば,「岩」は相聞歌の歌句に最も多く現れるが,各部立内で占める割合と合わせて見れば,「岩」は挽歌に出現する頻度が高い。歌句に見える「岩」は主に,①険しい山道を構成し,恋や前進を阻む象徴,②水流などとの自然作用を心情に譬える際は,堅固の象徴,③現実世界と異なる空間,④風景の一部で永久不変の象徴,として詠まれており,「岩」と古代日本人との様々な繋がりが,日本文化における地質学的特質を反映している。
大村, 敬一
本論文の目的は,イヌイトの「伝統的な生態学的知識」に関してこれまでに行なわれてきた極北人類学の諸研究について検討し,伝統的な生態学的知識を記述,分析する際の問題点を浮き彫りにしたうえで,実践の理論をはじめ,「人類学の危機」を克服するために提示されているさまざまな理論を参考にしながら,従来の諸研究が陥ってしまった本質主義の陥穽から離脱するための方法論を考察することである。本論文では,まず,19世紀後半から今日にいたる極北人類学の諸研究の中で,イヌイトの知識と世界観がどのように描かれてきたのかを振り返り,その成果と問題点について検討する。特に本論文では,1970年代後半以来,今日にいたるまで展開されてきた伝統的な生態学的知識の諸研究に焦点をあて,それらの諸研究に次のような成果と問題点があることを明らかにする。従来の伝統的な生態学的知識の諸研究は,1970年代以前の民族科学研究の自文化中心主義的で普遍主義的な視点を修正し,イヌイトの視点からイヌイトの知識と世界観を把握する相対主義的な視点を提示するという成果をあげた。しかし一方で,これらの諸研究は,イヌイト個人が伝統的な生態学的知識を日常的な実践を通して絶え間なく再生産し,変化させつつあること忘却していたために,本質主義の陥穽に陥ってしまったのである。次に,このような伝統的な生態学的知識の諸研究の問題点を解決し,本質主義の陥穽から離脱するためには,どのような記述と分析の方法をとればよいのかを検討する。そして,実践の理論や戦術的リアリズムなど,本質主義を克服するために提示されている研究戦略を参考に,伝統的な生態学的知識を研究するための新たな分析モデルを模索する。
秋沢, 美枝子 山田, 奨治
ドイツ人哲学者オイゲン・ヘリゲル(一八八四~一九五五)がナチ時代に書いた、「国家社会主義と哲学」(一九三五)、「サムライのエトス」(一九四四)の全訳と改題である。
島袋, 純 康, 栄勲 Shimabukuro, Jun Kang, Younghoon
本論文は島地域の開発と保全を両立させる方法、即ち制度的には環境従属的パラダイムから実用的島生態主義パラダイムへ、意識的な側面では伝統、保守的パラダイムから創造破壊的パラダイムへの転換を模索する島生態主義哲学の論理とモデルを提示することに、その目標を置いている。このような認識は、島地域は自然環境的な用件や社会文化的、環境的要因により、大陸や半島地域\nよりも実用的な生活方式が、比較的強く表面化するため、島地域に合ったパラダイムが必要であるという基本前提の下に済州島の場合を中心に論議する。このために、済州の島地域の状況を診断するため(1)内・外的分析 (Internal-External Analysis) を使用し、地方の強点、弱点、機会、危険要素に対する開発の脈絡を整理し、(2)島地域は大陸や半島に適用される論理ではなく、島地域なりに環境問題に対処できる実用的な島生態主義のモデルを創案し、(1)の分析を統合する実用的な島生態主義のモデルを提示し、(3)実用的島生態主義のモデルに立脚した事例を分析し、開発と保全の櫛成要素に対する分析、済州道の7つの行政政策事例の分析、開発および環境関連法規と土地使用の事例分析、3つの開発事例の脈絡分析を経て、(4)環境従属的パラダイムから実用的島生態主義のパラダイムへ転換するための制度的側面の実践命題と、伝統保守的パラダイムから創造破壊的なパラダイムへ転換するための意識的側面の実践命題を提起し、(5)上記の論理に基づき筆者は、大陸、半\n島とは異なる海洋地域としての島の現状と特殊性を鑑み、開発と保全の調和を追求する政策的・日常的な問題解決の枠組みを探ってみた。
丹野, 清彦 Tanno, Kiyohiko
詩を書かせる目的は,子どもたちが詩を書き,その交流を通して相互理解を図ることである。子どもたちは教師との間に,あるいは子ども同士の間にどのような関係が成り立てば,詩を書き表現するのだろうか。本研究は書くことの意味を問い直し,能力主義・競争主義によって傷ついた子どもたちを受容するケア的アプローチとしての側面から,詩を書く活動を考察した。
八木, 風輝 YAGI, Fuki
旧ソ連圏にある音楽アーカイブズは、首都に設立された音楽アーカイブズの設立と維持が従来報告されてきた。本稿は、旧ソ連の衛星国であったモンゴル国の最西部に位置するバヤンウルギー県を対象とし、そこに1960年代に設立された音楽アーカイブズを取り上げる。バヤンウルギー県は、少数民族のカザフ人が県人口の9割を占めている。バヤンウルギー県の県庁所在地にあたるウルギー市には、バヤンウルギー県地方ラジオ・テレビ局があり、局内に「アルトゥンコル」という音楽アーカイブズがある。設置当時から、当県のカザフ音楽の演奏を磁気テープに記録・収録する活動が行われてきた。現在、アルトゥンコルには、2000曲を超える社会主義期に録音されたカザフ語、モンゴル語、ロシア語の音源が保管されている。本稿は、筆者が2018年にアルトゥンコルでのデジタル化に参与した際のデータを用い、アルトゥンコル設立の過程、収蔵シリーズの特徴、収蔵音源の詳細、保存環境について考察する。社会主義体制が崩壊した後、保存媒体である磁気テープを維持する環境や、デジタル化に様々な課題を抱えているが、アルトゥンコルに収蔵された曲は、社会主義期にモンゴル国のカザフ人が演奏した音楽を再現できる可能性を持ち、社会主義期の演奏実態を解明する一助となる。
木村, 汎
ゴルバチョフがペレストロイカを開始した背景や理由として、多くの要素を指摘することができる。例えば、次のファクターは、そのほんの一例である。ソ連経済の停滞、否定的な社会現象の発生、政治的無関心(アパシー)の蔓延、ソ連と先進資本主義諸国との間で拡大する一方の経済的格差、NIES、ASEAN、中国らの擡頭、”強いアメリカの再建”のスローガンを掲げ、その象徴としてSDIを推進しようとしたレーガンの挑戦、西側世界の団結、繁栄、安定、それに比べて国際場裡において目をおおいたくなる程度にまで進行中のソ連邦の実力、影響力、威信の低下……等々。このようにペレストロイカの開始を促した数多くの要因の存在を十二分に意識しているが故に、日本の経験や教訓だけがペレストロイカを生み出す引き金となったとか、日本の成功がペレストロイカの唯一のモデルであると、私の論文が主張していると誤解されてはならない。ましてや、私が日本人であるが故に、ナショナリスティックな偏見に基づいて戦後日本の達成物を過大評価していると誤解しないことを望む。客観的な立場から、明治以来、とくに戦後の日本の発展が旧ソ連/ロシアの改革に一モデルと目されてよい程の有益な教訓を提供していると十分主張しうると、私は考えるのである。
廉, 沢奇 LIAN, Zeqi
本研究は、日本語会話において頻出する基本的なABAB型オノマトペ(例:どんどん、そろそろ)の音象徴の解明を目指したものである。研究は母音と子音、そして併せた五十音、最後は清濁の差をめぐって検討する。手法については、まずはA・B 位置の音の要素を行・段で分解し、全体での行・段の傾向性を明らかにした。そして対応分析を用い、代表的な音象徴を持つABAB型オノマトペを選定し、その意味傾向を探究するために3:3共起語を調べた。最後は清音語と濁音語の共起語の差を分析した。これより、ABAB 型オノマトペはその音で「動作系」と「変化系」に2つ分けられる。これ結果は、先行研究で示された印象に基づくイメージとは異なり、オノマトペの意味と音のつながりの新たな視角となっている。
諸喜田, 峰子 村上, 呂里 村末, 勇介
2017(平成29)年小学校学習指導要領「国語」の各領域では,「考えの形成」が位置づけられた。これを受け,本研究は「考えを形成し,深める力」を育てる文学の授業の在り方を解明することを目的とする。文学の授業では,文学ならではの作品の仕組みとの対話に根ざし,考えが形成されると考えられる。本研究では,小学3年生「モチモチの木」を教材とし,象徴語として「モチモチの木」の意味を推論する力に注目して授業を行った。「モチモチの木」は,山に住む人々,じさま,豆太の願いと密接につながる存在である。舞台設定への共感,登場人物への共感など作品との対話を丁寧に仕組むことで教室での対話が活性化され,学級全員が「モチモチの木」にこめられた意味を書くことができた。象徴語を推論し,意味づける力は,全連関的な読みのプロセスで生まれ,〈いのちのつながりや再生〉と深く結びつくイメージ体験とセットで育まれることを明らかにした 。
ジョージ, プラット アブラハム
宮沢賢治は、詩人・童話作家として世界中に知られるようになった。岩手県出身の賢治の作品に岩手県もなければ、日本もなく、「宇宙」だけがあるとよく言われる。まさにその通りである。彼のどの作品の中にも、彼独自の人生観、世界観及び宗教観が貫いていて、一種の普遍性が顕現していることは、一目瞭然である。彼の優れた想像力、超人的な能力、そして一般常識の領域を超えた彼の感受性は、日本文学史上、前例のない一連の文学作品を生み出した。賢治の文学作品に顕現されている「インド・仏教的思想」、つまり生き物への慈悲賢治の思想と彼の人格を形成した主な外力として、彼の生まれ育った家の環境、宗教とりわけ、法華経から受けた霊感、教育と自然の観察によって取得した啓蒙的知識、貧しい県民への同情などが取り上げられる。本稿の前半で賢治の思想と人格を形成したこれらの外力についてふれ、その次に「よだかの星」という作品を中心に賢治作品に顕在している「非暴力」「慈悲」及び「自己犠牲の精神」の思想を考察した。最後に、「ビヂテリアン大祭」という作品を基に、賢治の菜食主義の思想の裏に潜む仏教的観念とインドにおける菜食主義との関連性を論じ、賢治作品の顕現しているインド・仏教的思想を究明した。と同情、不殺生と非暴力主義、輪廻転生、自己犠牲の精神及び菜食主義などの観念はどんなものか、インド人の観点から調べ、解釈するとともの賢治思想の東洋的特性を強調することが、本稿のねらいである。
篠原, 武夫 Shinohara, Takeo
(1)アメリカ帝国主義は, 米西戦争の勝利によって, スペイン領フィリピンを分割支配することになった。アメリカ帝国主義はフィピンを自国経済にとっての良き資本輸出, 製品販売, 原料供給市場として位置づけたばかりでなく, 該領を中国市場へ進出するための軍事的拠点としても高く評価していた。アメリカの植民地政策は, 産業資本の未成熟なスペイン時代における消極的な植民地政策とは異なり, 産業開発をかなり推進した。植民地主義の枠内ではあるが, 経済開発が必要であったからである。だが, その枠は本国本位を修正したものであった。農民を基盤とする革命軍の革命的性格を除去するためには民族的要求もとりいれざるをえず, また19世紀末から20世紀にかけての国際経済の発展と独占段階における激しい植民地獲得競争が, 完全な本国経済中心を許さなかったからである。したがって帝国主義国家ではあるが, 懐柔策として宗教体制を基盤とするスペイン領有時代の政治を転換し, 民主政治と独立への展望をフィリピン人に与えた。それはアメリカがフィリピン植民地支配に残した大きな特徴の一つである。アメリカは植民地化当初はフィリピン民族主義を弾圧したが, 漸次フィリピンの自治拡大を図っていった。ついに1934年にはコモンウエルス政府ができ, アメリカ統治機構の中枢であった総督制はなくなり, それに代るものとして高等弁務官制が布かれた。しかし, せっかくフィピン人独自の自治政府ができたものの, その自治には限界があり, 重要な政治, 経済権はすべてアメリカが握っていたのである。アメリカがフィリピン植民地に認めた自治体制は, いってみればアメリカ資本の利益に基づくものであり, そこには常に資本の論理が作用していたのである。
李, 省展
本論文は日本帝国主義による朝鮮の保護国化とその後の植民地化という二〇世紀初頭からの東北アジアに新たに出現した政治状況との関わりにおいて、アメリカ北長老派の朝鮮ミッションとその宣教本部が日本と朝鮮との関係をどのように把握していたのかを検討するとともに、宣教との関わりにおいてどのような帝国主義観を有していたのかを明らかにする。また一〇年代から二〇年代にかけての朝鮮ミッションと総督府の関係などを、宣教関連資料を用いて検証するものである。
鈴木, 貞美
本稿は、西田哲学を二〇世紀前半の日本に擡頭した「生命」を原理におく思潮、すなわち生命主義のひとつとして読み直し、その歴史的な相対化をはかる一連の試みのひとつであり、”NISHIDA Kitaro as Vitalist, Part 1―The Ideology of the Imperial Way in NISHIDA’s “Problem of Japanese Culture” and the Symposia on “The World-Historical Standpoint and Japan” (“Japan Review” No. 9, 1997)の続稿にあたる。
張, 鈴
小論は大正初期の第一高等学校における「読書による自己形成」、すなわち教養の成立を、修養、煩悶青年および個人主義の受容との関係を見直した上で再考してみた。具体的には教養主義者と呼ばれる谷川徹三(一八九五~一九八九年)の修養に勉めた中学校時代、自殺危機と煩悶を抱く旧制第一高等学校入学前後、転機となった一高在学中という三つの内面的成長の断片を中心に、谷川の一高の先輩である藤村操、阿部次郎、安倍能成、折蘆魚住影雄、藤原正などによる言説を補助線にして考察した。
中島, 俊郎
本稿は、サー・ジェームズ・ブルックがサラワクを統括した時、ミッショナリー活動を通じて先住部族民イバン(ダヤク族)に文化変容を強いながら、統治し、かつ宣撫工作としてキリスト教を援用した事例を検証する。次に大英帝国は重商主義政策でもって、サラワクを統治したが、どのように宗教活動が有効な施策となりえたのか、を考察する。三代にわたるラジャ・ブルックは植民地主義を遂行するうえで、ミッショナリー活動と不即不離の関係を保持していく。だが三代目ヴァイナー・ブルックはミッショナリー活動を日沙商会との経済活動に転化させつつ共存の道を模索していく。
上江洲, 朝男 江藤, 真生子 里井, 洋一 Uezu, Asao Eto, Makiko Satoi, Yoichi
伊良波は,「琉球大学教育学部附属中学校研究史~理論変遷と校内研の在り方~(上)」において,琉球大学教育学部附属中学校(以下,附属中)の創立期から第10 期までの34 年間の研究史を紐解いて概観し,第4期までの研究を分析,考察した。その結果,行動主義から構成主義の研究にどのように移行していったのかを明らかにした。 本論では上記「2『全体総論』の変遷」に引き続き,第5期から第10 期までの研究の理論変遷と研究の在り方について述べていくこととする。
西川, 宏昌 Nishikawa, Hiroaki
フランク・ジャクソンはその知識論証において、今では周知の思考実験により物理主義が誤りである事を論証しようと試みた。それは多くの反響を呼び、物理主義者からのさまざまな反論が提示されたが、その主なものの一つが「能力仮説」である。この小論ではこの仮説を批判しているマイケル・タイの議論を取り上げ、彼の批判の問題点を指摘することを通じて、タイとは異なった論拠に基づいて能力仮説自体が誤りであると論じる。さらに、新たな観点からジャクソンの知識論証がその意図に反して不成功に終わる理由を提示する。
鈴木, 堅弘
本論は、浮世絵春画の借用表現に着目し、おもに<粉本主義の伝統>、<模倣の「趣向」化>、<出版元の依頼>の視座から、そのような表現が用いられた理由を解明する。
小林, 青樹 Kobayashi, Seiji
弥生集落の景観形成にあたって重要であるのは,絵画の分析から,第1に集落の中枢に位置する祭殿と考える建物(A2・A3)の存在であり,この祭殿を中心として同心円状に景観を形成している。そして,第2に重要であるのは,祭場をもつ内部と外部を区別化する環濠である。本論では後者を中心に検討した。平野部の環濠集落のなかには,環濠が河川と接続するものがあり,水をたたえた環濠はむしろ河川を象徴化したものであると考えた。環濠は,境界・結界を現す区別化の象徴である。このあり方と連動して,絵画の中には,それぞれの空間における儀式・儀礼に,景観形成で確認した「辟邪」を意図した図像や身体技法をも表現している。弥生集落の景観は,こうした各々の儀式や儀礼に一貫した約束事である「儀礼的実践」を根底におき形成されていたと考える。
鈴木, 貞美
日本文学、特に近・現代小説の特殊性をめぐる議論について、曽根博義氏の「昭和文学史Ⅱ 戦前・戦中の文学 第二章小説の方法」(小学館版『昭和文学全集』別巻)を取り上げて検討する。曽根博義氏は、昭和十年を前後する時期における小説の方法的追究のうち、横光利一の「四人称」の提唱と、太宰治や石川淳の前衛的な一人称の試みを、「主格が曖昧な日本人の自意識」と「超越的主体を持たない日本語の話法」と関係づけて論じている。ここにあるのは、当代の表現意識及び自意識の問題についての歴史性の閑却と、ア・プリオリに想定された「日本人の自意識」及び「日本語の話法」への還元主義である。その背後には、西欧の「近代的自我」と「客観的レアリスム」を基準として文芸を価値判断する”近代主義”があり、さらにその根本には、発展段階論的な一国文学史観に基づいて第二次大戦後に形成された”近代化主義”がある。
笠谷, 和比古
前稿(一)においては、福島正則と加藤忠広の二大名の改易事件について検討した。その結果、両改易ともに、幕府側の政略的な取り潰しということはできず、むしろ両大名側に処罰されて致し方のない重大な違法行為のあることが否定できないことが明らかとなった。このように徳川幕府の大名改易政策は、従前考えられてきたような政略的で権力主義的な性格のものではないのである。そしてこのことは、この大名改易の実現過程における、その実現のあり方という面についても言いうる。本稿では大名改易の実現過程を、改易の決定過程と、当該大名の居城と領地の接収を行うその執行過程とに分けて見ていく。秘密主義と権力主義という幕府政治についての一般通念と異なって、大名改易政策の実現過程に見られるのは、諸大名へのそれぞれの改易事情の積極的な説明であり、城地の接収に際しての大名領有権に対する尊重と配慮であった。
Kinjo, Hiroyuki 金城, 宏幸
1921年、スペインに起こった詩の改革運動“ウルトライスモ”の洗礼を受けて帰国する21才のボルヘスは,膨張し変貌したブエノス・アイレスを見て大きな衝撃を受ける。それは7年ぶりの帰郷というありきたりのものではなく,鋭い感性とたぐいまれな想像力に恵まれた詩人が,そして時には国境を越えた博識とその形而上学で最も非アルゼンチン的とされた作家が,自分の魂の根源を衝撃的に感じ取った新しい“発見”であった。ダダイズム,シュールレアリスム,表現主義,未来主義といった当時のヨーロッパの前衛主義的な傾向を混ぜ合わせたような“ウルトライスモ”を標榜し,アルゼンチンにおける“ウルトラ宣言”をしてその先頭に立つボルヘスは,しかし,ほどなくその活動から遠ざかり後に自らそれを鋭く批難するようになる。本稿では,ウルトライスモという前衛的な詩の改革運動に,“ブエノス・アイレスの発見”という詩人の内なる大事件を重ね合わせながら,ボルヘス初期(1920年代)における詩作活動の原点について考察した。
竹村, 民郎
大連勧業博覧会(以下大連勧業博と略す)が一九二五年八月十日に、大連市で幕をあけた。これは博覧会と植民地主義との結合というものの輪郭をしめすのに大きく寄与した。博覧会が開催された時期は、大連市で新市制が施行された年(一九二五年)である。さらに言うならば中国上海市における五・三〇事件勃発及び満州における国際資本戦が激化し始めた時代でもある。この帝国の危機は合理的な満蒙政策と結びついた「文化主義的支配」と称されているものへの転換を導いていくこととなる。
Ishikawa, Ryuji 石川, 隆士
本論はW.B.YeatsのA Visionにおける、3つの詩篇、“The Phases of the Moon”,“Leda”,“All Souls’Night”を「視線」という観点から分析することを目的とする。A VisionはYeatsの特異な神秘主義的記号体系が収められた問題作である。当然のことながらその主たる目的はその記号体系を詳らかにする事であるが、そこには散文による平易な説明あるいは論証は存在せず、謎に満ちた図表、シンボル、物語等、様々なタイプのテクストが混在している。\nこの異種混交テクストの中でも本論で取り上げる3つの詩は特別な位置を与えられており、それはそのままこれらがA Visionにおいて重要な機能を果たしていることの証と言える。それぞれ独立した形で別の詩集に収められているものであるが、いずれの詩集においてもA Visionにおける神秘主義的記号体系の文脈とは切り離せない関係にある。\n本論で取り扱う「視線」は、それぞれの詩においてその主体が異なる。“The Phases of the Moon”においては、架空の神秘主義者Michael Robartesがその主体であり、彼の視線を介することによって主張される秘儀探求者としてのYeatsの立場が論じられる。“Leda”においては、Yeats自身がその主体であり、官能的崩壊の中に歴史のダイナミズムを見取る隠された視線が彼の審美主義との関係において考察される。“All Souls’Night”においても、その視線の主体はYeatsであるが、彼自身の神秘主義的記号体系の論述を締めくくるにあたっての自己矛盾した心境が論じられる。\nこれら3つの詩における視線は、主体、客体そのいずれかにYeats自身が関わっている。いずれの場合も、その視線を介した相手との関係が、主体あるいは客体としての役割を決定し、意味づけを行っている。
姜, 克實
満州は、かつて政治的には日本と「特殊の関係」を持つ地域とされた。また「赤い夕日」の「郷愁」に象徴されるように、日本人にとって「特殊の感情」を懐かせる土地でもあった。この特殊の関係・感情とはなにか、また歴史的にはいつ、どのように形成されていったかを、本稿において検証する。
山田, 慶兒
ひとは物を分類し、認識する。しかし、どのような分類法を使っても、うまく分類できない物、複数の領域に分類される物、いいかえれば両義的な物が存在する。このような両義的な存在は、存在の不確かさのゆえに、独自の意味の世界を構成する。ここでは牡蠣と雷斧という二つの両義的存在をとりあげ、その意味の世界と象徴作用を分析する。
福持, 昌之 Fukumochi, Masayuki
大名行列を象徴する奴振りは、もともと武士の供揃いの規模が大きくなった奴行列である。明暦頃には仮装の風流として祭礼行列にも取り入れられた。その後、独特の所作が芸能としての価値を持ち、歌舞伎舞踊に影響を与え、大名行列でも重宝される。現在は、全国各地の祭礼行列に見られる民俗芸能である。
仁藤, 敦史 Nito, Atsushi
本稿の目的は、近現代における女帝否認論の主要な根拠とされている「男系主義は日本古来の伝統」あるいは「日本における女帝の即位は特殊」という通説を古代史の立場から再検討することにある。
Yoshimoto, Yasushi 吉本, 靖
チョムスキーの極小主義プログラムが世に問われて以来、変形生成文法の研究の傾向にも大きな変動があった。極小主義以前盛んに研究されていた島の制約に代表されるような統語的制約については、極小理論では目覚ましい展開がこれまでなかったと言っていいであろう。そこで、極小主義の枠組みでそれらの制約を考える際の参考に供するため、本研究ノートでは極小主義以前の理論で統語的制約がどのように研究され発展してきたのかを概観してみた。\n要約すると以下のとおりである。Chomsky(1964)は変形操作を制約する原理の存在を主張し、それは後にA-over-A原理と呼ばれるようになった。A-over-A原理に触発されRoss(1967)はその後の研究に重大な影響を与える制約群(ロスの制約)を提唱した。その成果を受けChomsky(1973)は下接の条件を提案し、ロスの制約のいくつかが統合可能であることを示した。その後Chomsky(1981)によって空範疇原理(ECP)が提案され、移動の結果生じる痕跡に関わる重要な制約として認識されるに至った。Kayne(1981)はECPを修正し下接の条件の大部分をECPに包含することを提案したが、Huang(1982)らの批判を受け、下接の条件は存続することになった。Huang(1982)は抽出領域条件(CED)を提案したが、CEDと下接の条件の間に見られる重複性の問題が課題として残った。その重複性を克服するためにChomsky(1986)は、下接の条件における境界節点の定義を環境に依存するものに変更し、障壁という概念が誕生した。これにより下接の条件がCEDを包含することになった。その結果、極小主義移行直前のチョムスキー派の変形生成文法理論においては、下接の条件やECPが移動にかかる制約として残され、それらが束縛原理やθ-基準等と「共謀」して移動操作を拘束するという状況を呈していた。
Kina, Ikue 喜納, 育江
400年以上に渡る沖縄の被植民地的状況は、沖縄の人々から土着の言語を奪った。しかし、それは沖縄の物語る力そのものを完全に奪ったわけではない。「沖縄文学」は、沖縄の発する「声」として、時代と共に移り変わる読者の意識や、日本語と沖縄口(ウチナーグチ)の葛藤の中で、ふさわしい表現を模索しながら存続している。1990 年代に世界的な多文化主義の動きによって、日本文学の多様性の一部として位置づけられた沖縄文学は、21世紀的なグローバリゼーションの中では、国家主義的文学観を越え、「沖縄系」という越境的でディアスポリックなアイデンティティへの認識を高めることによって、新たな位置を獲得しようとしている。沖縄文学の受容をめぐるこのような考察にもとづき、本稿では、崎山多美の文学が、どのような論理にもとづいて、多文化主義や沖縄系ディアスポラの視点による沖縄文学観ともまた異なる「越境言語的」な位相を表現し、グローバルな文脈の中に立脚しているのか。本稿では、拙訳による2006年発表の崎山の短編小説「アコウクロウ幻視行」を例として論じていく。
裵, 炯逸
植民地状況からの解放後の大韓民国において、その「朝鮮(Korea)」という国民的アイデンティティが形成される過程のなかで、学問分野としての考古学と古代史学は、重要な役割を果たしてきた。しかしながら、その学問的遺産は、二〇世紀初頭に朝鮮半島を侵略し、植民地として支配した大日本帝国の植民地行政者と学者によって形成されたものでもあった。本稿は、朝鮮半島での「植民地主義的人種差別」から、その後の民族主義的な反日抵抗運動へと、刻々と移り変わった政治によって、朝鮮の考古学・歴史理論の発展が、いかなる影響を被ったのかについて論じるものである。
長谷川, 裕 Hasegawa, Yutaka
能力主義は、能力・努力に基づく業績に応じて地位・報酬を配分することを、またそうした能力・努力に基づく業績を基準に人の価値を判断することを是とする考え方である。それは、近現代社会の、地位・報酬に関わる点での社会構成原理=正統化原理であるとともに、人間観・人生観をも含む人びとの価値意識でもある。本稿は、こうした能力主義を肯定する意識を現代日本の若者がどの程度もっており、かれらの様々な意識や行動全体の中でそれがどのような位置を占めているか、またそれがどのような変化の傾向性を孕んでいるかを把握することを目的とした調査研究の一環として、筆者が2007 年に行った高校生対象の意識調査のデータに対して、上記の目的の視点から再分析を試みるものである。
沈, 煕燦
日本の「失われた二十年」は日本経済の抱える問題の象徴であり、経済の停滞と崩壊の時代である。そして、その背景には、さしあたり、冷戦後の日本を支えてきた思想の崩壊があった。なかでも重要なのはデモクラシーの問題だ。本稿は、日本の「失われた二十年」と1967年の韓国小説、宝榮雄の『糞礼記』を比べて、デモクラシーの出現について考える。
阿満, 利麿
死後の世界や生まれる以前の世界など<他界>に関心を払わず、もっぱら現世の人事に関心を集中する<現世主義>は、日本の場合、一六世紀後半から顕著となってくる。その背景には、新田開発による生産力の増強といった経済的要因があげられることがおおいが、この論文では、いくつかの思想史的要因が重要な役割を果たしていることを強調する。
ゴードン, アンドルー 朝倉, 和子
日本に関する言論の内容と論調は国内でも国外でも1990年代にがらりと変わった。「失われた十年」という言葉が急激に流通し始めたことは、それを象徴する。この言葉は1998年夏の同じ週に、英語と日本語双方の活字メディアで初めて登場した。日本は凋落しつつある、日本は失われたという認識が、国の内外でほぼ同時に生まれていたのである。本稿では、1970年代から2010年代にいたる保守派のイデオロギーを検証することによって、「喪失」論議の登場を理解しようと思う。なかでも、中流社会日本という未来への自信喪失と深く関わるイデオロギーの風景の変遷をめぐり、その二つの局面を追うことにする。それは第一に、健全な社会を維持する手段として市場と競争をとらえる考え方、第二に、ジェンダーの役割の変化に対する姿勢である。過去二十余年に「失われた」のは、健全な社会を構成するものは何か、それをどのように維持し達成するのかについての保守本流のコンセンサスだった。1970年代と80年代には、管理された競争という日本的なあり方、および女は家庭・男は仕事というジェンダー分割に支えられた社会構造が、このコンセンサスの根拠だった。それが1990年代、2000年代になると、全世界共通の現象だが、日本でも管理経済に対して新自由主義から猛烈な挑戦が始まると同時に、それよりは弱いものの、日本社会に埋めこまれたジェンダーによる役割分業への挑戦が始まった。しかし、いずれの挑戦もはっきりと勝利をおさめたわけではない。
Yamazato, Kinuko Maehara 山里, 絹子
本論文では、第二次世界大戦後27年間、米国統治下に置かれた沖縄で陸軍省が実施した「米国留学制度」に着目し、米国留学を経験した沖縄の人々の帰郷後に焦点を当てる。米国は民主主義を推進する外交戦略として、冷戦期にアジアで様々な文化・教育交流を実施した。「米国留学制度」設立の背景には、戦後沖縄の経済復興、民主主義の推進、親米的指導者の育成などの米国側の思惑があった。本論文では、米国留学経験者のライフストーリーの分析を基に、彼ら・彼女らが帰郷後、米軍関係者と地元の沖縄住民との間で、どのように自らの立ち位置をつくり、主体性を形成し、交渉を行ったかを明らかにする。
張, 小栄
「王道主義」は「満洲国」建国過程で唱えられた統治理念である。満洲事変(九・一八事変)後に、関東軍のイニシアチブのもとで進められた建国工作では、主として現地文治派指導者、関東軍に随伴する植民地統治のイデオローグである橘樸や野田蘭蔵等「理念派」および満鉄実務官僚出身の上村哲弥等「実務派」が相互に絡み合いながら統治理念の形成に関わった。
川村, 清志
本論は,家制度や同族の繋がりが残る村落社会の慣習と,学校や軍隊を含む近代的な諸制度とのせめぎあいのなかで,個々人がどのように社会化していくのかを問い直す。そのために近代社会における子供の成立とそのメカニズムを問う視点と,村落社会における子供の社会化やその象徴的な位置づけを探る民俗学的な視点を併用しつつ,昭和初期の東北の三陸地方で得られた事例の検証を行いたい。
篠原, 武夫 Shinohara, Takeo
(1)近年わが国の国産材供給危機の情勢により, 東南アジア森林開発に対する関心の高まりは, まことに著しくなってきている。東南アジア森林開発の問題はわが国の林業問題と密接不可分の関係にある。今日の東南アジアの森林は植民地時代の影響を強く受けているので歴史的認識に基づいた東南アジア森林開発の理論的研究は急務である。本論の中心的課題も, 戦前のイギリス帝国主義によって東南アジアの森林がいかに開発されたか, つまり帝国主義の資本の論理が東南アジア植民地の森林にいかに展開して行ったか, という過程を明らかにすることにある。(2)分析方法は植民地森林開発の理論に基づき, 「イギリス帝国主義経済と東南アジア植民地森林開発」の視点に立って接近して行くことにした。一般に帝国主義が植民地開発(資本輸出)を試みる究極の目的は, 超過利潤取得以外の何物でもないが, その目的を達成するために, 独占資本にとって最も要求される課題は植民地原料資源の独占的支配である。この課題を実現するために領土的支配を確立した植民地においては独占資本は国家権力と一体となって原料資源の独占的開発を進めていく。これに対して領土的支配の確立までに至っていない半植民地においては資本侵略によって原料資源の独占的開発を行なうのである。このことは植民地で森林開発が行なわれる場合にも同じように現われる。すなわち(1)領土的支配の確立した植民地の森林開発はなんらかの国家的規模における強権を背景として独占資本の手で開発され, そのために開発対象林は基本的には国有林であり, 資本活動が国家的林野所有を舞台として展開する。すなわち独占資本は森林の所有主体である国家権力と結合して森林資源の独占的開発を可能にするのである。(2)しかし, 同じ植民地で森林の国家的所有が成立しても森林開発が農業開発に重点が置かれて行なわれることがある。そこでの開発資本には農業開発資本のみが存する。この場合の森林資源の意義は農業開発資本の独占的利潤追求と不可分離の関係にある。(3)領土的支配の確立していない半植民地の森林開発では森林の所有主体が民族国家に属しているため, そこでの一資本による森林資源の独占的開発はもっぱら巨大資本力によって生産過程における民族資本および他の帝国主義国資本を圧倒して実現される。以上に述べた植民地森林開発理論の(1)に該当する植民地はビルマ, (2)はマレー, (3)はタイである。
渡辺, 祐子
近代中国におけるキリスト教伝道が列強本国の対清政策にどのように関わったのかという問題は、より普遍的なキリスト教と帝国主義の問題として、二十一世紀に入った今もなお、あるいは今だからこそ問われなければならないテーマであると思われる。
吉本, 弥生
絵画の約束論争(一九一一~一九一二年)は、木下杢太郎・山脇信徳・武者小路実篤によって交わされた、当時の絵画の評価基準に関する論争である。三人の議論が起こった最初のきっかけは、木下杢太郎が、山脇信徳の絵画についておこなった批評にある。本稿は、論争の中心人物となった三人の言説を明確化し、従来、指摘されてきた「主観」と「客観」の二項対立からではなく、「主客合一」の視点で論争をとらえ直した上で、同時代の芸術傾向と、批評を合わせて考察した結果、三人の芸術観には、共通して「印象」ではなく、「象徴」がベースにあることが分かった。
池田, 菜採子
アメリカの構造主義言語学者バーナード・ブロック(Bernard Bloch)作成のSpoken Japanese(以下、SJと略す)は、日本語教育関係者のごく一部に知られているに過ぎず、太平洋戦争後の日本語教育に、どのような影響を与えてきたかということは評価がなされないまま今日に至っている。
Kobayashi, Masaomi 小林, 正臣
本稿は、ユダヤ系アメリカ人のBernard Malamudの作品において、どのように「多文化主義(multiculturalism)」が構築され実践されているかを検証する。特に注目した作品は“The First Seven Years”や“The German Refugee”などの短編およびThe Assistantなどの長編であり、これらにおいて「他者性(otherness)」が「共者性(anotherness)」へと変容していることを発見することで、作者独自の多文化主義が実現されていることを論証する。\n以上の点を論じるうえで重要なことは、文学の役割である。Malamudの文学作品には、文学作品を媒介として人物たちが関係を深める場合が往々にしてある。すなわち、文化的背景の異なる人物たちは、同一の作品を読むことで相互の交流の契機を見出し、結果として自己に対する「他者」は「共者」として認識される。そして相互の交流は、Mikhail Bakhtinが唱える「対話法(dialogics)」によって促進される。具体的には、上記に挙げた作品の主要人物たちは、話すことによる意思疎通という「外的な対話(external dialogue)」と、書くことによる意見交換という「内的な対話(internal dialogue)」を同時に実践している。それにより「ユダヤ系」と「非ユダヤ系」という二項対立が相克され、ついには人物たちは相違を認識したうえでの共者間の交流を実現するに至る。\nさらに本稿では、多文化主義が教育においても重要であることを説く。文化的背景という点においては、多くの場合、学生と学生ならびに教師と学生は異なる人間である。この意味において、多文化な環境(特に大学)における人間同士の共者性を育む場は教室であり、そこで文学作品を読むことは多文化主義を実践することと不可分である。かくして、Malamudの「文学(writings)」は理念的かつ実践的な「教学(teachings)」でもあると結論する。
深井, 智朗
二〇〇九年三月、一九三三年のナチスの焚書の際に非ドイツ的な思想と判断され、その後発禁処分、断裁処分となったパウル・ティリッヒの『社会主義的決断』の初版の一冊が京都大学文学部長を歴任した神学者有賀鐵太郎の蔵書から発見された。この書物は戦後一九四八年になってリプリント版が出版され、それによって広く知られ、読まれるようになったが、初版は大変貴重なものである。
申, 昌浩
十九世紀に入り、近代的な西洋の物質と精神文化が拡まると、封建支配階級と民衆とのあいだの矛盾と対立が一層尖鋭化してくる。「親日」仏教は、そういった背景の中で日本の帝国主義と西洋列強の資本主義の接近によって、朝鮮王朝がそれまで進めていた近代国家としての成立の時点を起点としている。一八七六年の開国と日本人の朝鮮進出によって、日本から多くの宗派の伝来が始まった。そして、それより二〇年後の一八九五年に、日蓮宗の僧侶の嘆願によって「都城出入禁止」が解除され、仏教本然の任務である布教活動や社会活動を展開する契機を得るのであった。しかし、この朝鮮僧侶たちの「都出入禁止」の解除というのは、朝鮮仏教史においても近代の始まりを意味する。一方では、近代韓国仏教が「親日」であったことも意味している。
中野, 真麻理 NAKANO, Maori
昔話「笠地蔵」は日本全国に伝承されており、その広範な流布は、同話の歴史的古さを思わせる。仏像に笠を被せたことに依って善報を得たと語る類話は、覚鑁の『打聞集』や『元亨釈書』『諸国一見聖物語』『延命地蔵菩薩直談鈔』のほか、尾張国天林山笠覆寺、上総国大悲山笠森寺の縁起等々に散見する。なぜ、これ程までに「笠」が頻出するのだろうか。仏像に奉られた「笠」の象徴性を考察し、「笠地蔵」「笠観音」の源流について推測する。
Gallicchio, Marc ガレッキオ, マーク
終戦後70 年の間に、占領政策が成功だったか否かに対する米国の見解は劇的に変化した。1990 年代以前は、占領政策の成果や意義については学問の対象であり、多くの研究者が占領政策における占領地の民主化の努力不足について指摘した。その最たる例は1980 年代における米国経済の競争相手国としての日本の台頭である。 しかし、冷戦終結後、政策立案者は一般の論者やシンクタンクに影響され、占領政策を米国による国家再建の成功例とみなすようになった。特に日本の例は、非西洋諸国を民主化する米国の手腕を疑問視する懐疑派への反証を示すモデルとして引き合いに出された。議論の批判者側は、日本占領下で起こった特異的かつ再度起こりえない教訓に焦点をあてつつ、そもそも国家再建を国家間で比較することはできないと主張し、反論を試みた。しかし、歴史修正主義の研究者たちのこうした主張は、日本の復興におけるマッカーサーおよび天皇の果たした役割といったテーマについて、それまで自らの研究が導き出してきた結論に矛盾する内容であった。 今日においても、新保守主義の評論家は、米国の行動主義的外交政策を正当化する実例として占領が成功したことを引き合いに出すが、オバマ政権当局者は、占領政策を和解の意義を表す一例として引用することを好む。和解という考え方は、政権がアジア地域の情勢に対応する際の施策として訴求力があると考えられる。
伊藤, 雄志 Ito, Yushi
明治大正時代のジャーナリスト山路愛山は,日本および琉球などの「周辺地域」における女性の社会生活に注目し,戦後に盛んになった社会史研究に先行する史論を発表した。沖縄学の父伊波普猷と同様に山路は日琉同祖論を主張し,明治政府による琉球処分を肯定的に見ていた。しかし山路は,単に「帝国主義的」な琉球観を抱いていたのではなく,琉球を含む日本列島における女性の商業・宗教上の活動に注目し,良妻賢母を支える家父長制が建国以来の日本固有のものだという当時の通説には根拠がないと批判した。本稿では,歴史における女性の社会的役割に注目した新井白石の業績を高く評価した山路が,琉球などの「周辺地域」を日本史研究の中に取り込み,さらに儒教主義に基づく紋切型の日本女性像を是正し,「婦人の解放」の必要性を訴えていたことを明らかにしたい。
王, 秀文
桃は強い生命力を持つ仙果、陰や死に対して不思議な呪力をもつ陽木として、当然ながら長生の神仙の世界や不死の楽園に結びつけられる。伝承上では、神仙の住む世界は東の大海原にある蓬莱山で、桃の巨大な樹のある度朔山または桃都山でもあり、仙木である扶桑は桃と同じ陽性の植物である。また信仰上では、不死の薬の持ち主として人間の福寿を操る女神である西王母は、桃をシンボルとし、死を再生に転換させる生命の象徴である。
木戸, 雄一 KIDO, Yuichi
島崎藤村の小説「旧主人」は、作中人物の下女が語り手となっており、その下女の視点によって意味付けられた物語系とそのように積極的に意味付けられず、暗示的に示された物語系との複線的な構造になっている。従来、あまり意味付けられてこなかった後者の物語系は、実は〈金銭〉の流れを示しており、それが〈衣裳〉によって象徴される前者の物語系を支えている。この二重構造はそのまま、作品の舞台となっている新興商業都市小諸の構造でもあった。
村木, 二郎 Muraki, Jiro
経塚は弥勒信仰や阿弥陀信仰などの様々な影響のもと造られた。それが時代を経るにしたがって、経塚を造る功徳によって極楽往生を願う、という阿弥陀信仰に収斂されていく。ところで、紙に書いた経典を埋める一般的な紙本経塚以外に、粘土板に経典を刻んで焼き上げたものを埋納した瓦経塚がある。紙が腐ってしまうのに対し、瓦経は「不朽」なので、弥勒下生の時まで残すことができるのである。このため瓦経は弥勒信仰による経塚の象徴として位置付けられてきた。
吉野, 武 YOSHINO, Takeshi
本稿では、多賀城南面における街並み形成の前提として、宝亀十一年(七八〇)の伊治公呰麻呂の謀反を契機とする多賀城の火災と復興、それらと征討との関連を検討した。まず、多賀城の火災が律令制的な支配や国家の威光を象徴する政庁等の主要施設を中心とした点に注目し、本来は小規模な単位からなる蝦夷の部隊が呰麻呂の謀反で一斉蜂起し、国司の逃走と籠城した百姓の四散で空城となった多賀城に襲来した結果とみた。蝦夷は貴重な物品がありそうな施設に殺到し、略奪を尽くしたうえで放火したと考えられる。
石田, 一之 Ishida, Kazuyuki
本稿は、ドイツ語圏における新自由主義の基盤を形成した論者のなかで、みずからの主張を歴史-文化社会学の視点から基礎づけようとしたアレクサンダー・リュストウ(Alexander Rüstow)の代表著作『現代の位置づけ』並びにその他の著作の検討を通して、歴史-文化社会学的立場に立脚した視点から人間の自由、並びに彼の主要概念である支配を考察し、それとともに、現代における人間の文化的・社会学的状況に関して実質的自由の視点から重要な示唆を得ようとするものである。
呉, 昌炫 Oh, Changhyun
本論文は,まず開港以来,日本の漁民が朝鮮漁民と出会ってからお互いに認識するようになった両国の漁業技術上の差異を確認し,こうした両国の漁業技術的差が選好の魚種の違いに基づいていたという点を究明する。そして特定の魚種に対する両国の異なる選好が両国間の自然環境と経済水準ではなく,魚の象徴的意味とその歴史的形成過程に関連していることをマダイとグチ(韓国名:チョウギ)を例に説明する。最後に特定の魚種に対する民族的選好が植民地朝鮮の漁業(と漁業技術)の展開過程に及ぼした影響を分析する。
須藤, 眞志
本稿は一九四一年の日米交渉の失敗の原因を木村汎教授の「交渉研究所説(その一)」に依拠して、木村氏の論文の枠組を使って分析したものである。木村論文は「交渉の定義」と「交渉と文化」に大きく分けられている。交渉とは何かという分類で日米交渉を見たとき、コミュニケーション・ギャップとパーセプション・ギャップがあったことがはっきりした。また、文化との関係ではアメリカの合理主義と日本の非合理主義の違いが明確となった。また日本は大東亜共栄圏をグランド・デザインとして作る気はなかったのであるが、アメリカ側は日本が東南アジア一帯を支配するための一種のドミノ理論で解釈していた。そのための時間稼ぎとして日米交渉を見ていたのである。日米交渉は交渉学の観点からみてもかなり困難な交渉であったことが良く理解できた。交渉が失敗して戦争となってしまったのは、必ずしも両国の交渉者の力不足であったとばかりとは言えないことを交渉学は教えている。
大城, 郁寛 Oshiro, Ikuhiro
1960年代の沖縄の製造業は、就業者の構成比でみると9%を占めるまで規模拡大を果たす。琉球政府下の沖縄はドルを域内通貨と用い、自由貿易及び外資の積極的な導入など開放的な経済体制をとっていたといわれる。しかし、本稿では琉球政府の物品税等の課税のあり方、重要産業育成法等の産業に関する法律、その実際の運用を検討することによって、琉球政府下の沖縄が製造業に関して保護主義的な政策を取っていたことを明らかにする。製造業の規模拡大は、糖業やパイン缶詰産業といった沖縄の輸出商品に関しては日本政府による特別措置によって、またその他の食品加工、衣料・縫製業等の輸入競合産業は琉球政府による保護に拠るものである。その反動で、1960年代に日本政府が保護主義から自由貿易に政策転換を行い、また1972年の復帰により日本経済との一体化を達成すると移入品が自由に流入し沖縄の製造業は再び規模を縮小させる結果となる。
門田, 岳久 Kadota, Takehisa
本論文は消費の民俗学的研究の観点から、沖縄県南部に位置する斎場御嶽の観光地化、「聖性」の商品化の動態を民族誌的に論じたものである。二〇〇〇(平成一二)年に世界遺産登録されたこの御嶽は、近年急激な訪問者の増加と域内の荒廃が指摘されており、入場制限や管理強化が進んでいるが、関係主体の増加によって御嶽への意味づけや関わり方もまた錯綜している。例えば現場管理者側は琉球王国に繋がる沖縄の信仰上の中心性をこの御嶽に象徴させようとする一方、訪問者は従来の門中や地域住民、民間宗教者に加え、国内外の観光客、修学旅行客、現場管理者の言うところの「スピリチュアルな人」など、極めて多様化しており、それぞれがそれぞれの仕方で「聖」を消費する多元的な状況になっている。メディアにおける聖地表象の影響を多分に受け、非伝統的な文脈で「聖」を体験しようとする「スピリチュアルな人」という、いわゆるポスト世俗化社会を象徴するような新たなカテゴリーの出現は、従来のように「観光か信仰か」という単純な二分法では解釈できない様々な状況を引き起こす。例えばある時期以来斎場御嶽に入るには二〇〇円を支払うことが必要となり、「拝みの人」は申請に基づいて半額にする策が採られたが、新たなカテゴリーの人々をどう識別するかは現場管理者の難題であるとともに、この二〇〇円という金額が何に対する対価なのかという問いを突きつける。
土田, 宏成 Tsuchida, Hiroshige
満州事変後における軍部の宣伝活動が、国民世論を軍国主義的な方向に導くうえで大きな力を発揮したことはよく知られているが、これまでの研究では陸軍の宣伝に関心が集中しており、海軍についてはあまり注目されてこなかった。海軍の宣伝は内容、規模、影響力ともに陸軍に及ばなかったとみなされているからである。
道田, 泰司 比嘉, 俊 比嘉, ゆかり 平良, 学 嘉陽, 護 仲山, 夢乃 山城, 慶太 Michita, Yasushi Higa, Takashi Higa, Yukari Taira, Manabu Kayou, Mamoru Nakayama, Yumeno Yamashiro, Keita
本研究の目的は,学校教育において協同学習が成立するか否かを分けるものについて,実践事例を通して考察を行うことである。教職大学院生が9月と2月に公立学校で2週間行う実習において試みられた協同学習の事例5つを提示した。それらの事例に加え,道田他(2019) に挙げた事例も加えて検討を行った。その結果,授業者が正解主義に陥らないこと,認知面だけでなく,学習者の情意面を育むこと,という協同学習のポイントが示唆された。
本康, 宏史 Motoyasu, Hiroshi
近年、戦争記念碑に関して、近代社会を特徴づける「モニュメンタリズム」を表象する「非文献資料」ととらえる研究がすすみ、その学問的意義がしだいに理解されるようになってきた。その際、戦争記念碑は「『癒し』の行為を表す象徴であった」だけでなく、「戦争の歴史化と再歴史化にも重要な役割を果たしてきたものである」という指摘がある。つまり、戦争というものがいかに記憶されるべきか、戦争では誰が記憶されるべきなのか、という問題をめぐって、戦争記念碑はまさに論争の的になってきたのである。
篠原, 武夫 Shinohara, Takeo
(1)ビルマ植民地。イギリス帝国主義はビルマ植民地の森林資源(チーク林)を独占的に支配するために,まず森林資源の国家的所有を実現し,民間商社のチーク林伐採は政府発行の特許によって行ない,それは主に自国独占商社に与えられた。その結果,ビルマ人民の自主的経営は禁止され,全ビルマのチーク林資源はイギリス帝国主義の独占的支配下におかれたのである。このようにして経済的価値の高いチーク林資源はイギリス帝国主義に収奪され,それはビルマ人民の経済からまったく遊離することになったのである。(2)マレー植民地。イギリス帝国はマレーの植民地化に際して,全マレーの土地・森林を国有した。イギリス帝国のとったマレーの植民地政策は,国際的ゴム景気の影響によって,独占資本が森林をとらえた時に,そこには木材生産を主目的とする生産形態でなく,栽植農業を中心としたゴム開発に主力がそそがれ,そのため国有林は農業開発資本と結合して独占利潤追求に奉仕するようになった。そのことは栽植農業(主にゴム)に対するイギリス投資が全投資額の約9割近くに達し,森林資源が豊富に存するにもかかわらず,林業開発に対するイギリスの投資がみられないといったことから明らかであろう。それはまた農業開発に伴って成立した林政が林業生産面で消極的であったこと,および木材生産の担い手が主に支那人で,彼らによる木材生産は国内需要を十分にみたし得なかったこと,などからもわかろう。このようにマレー林業の後進性をもたらした最も基本的な原因は,イギリス帝国主義のとった産業政策の偏倚性,すなわち森林開発=農業開発という政策のあり方に起因していたと言えよう。(3)タイ国半植民地。純然たる植民地における独占資本の森林開発は,宗主国の国家的林野所有を舞台にして展開されるので,森林資源の独占的開発はきわめて容易に進行するが,領土的支配までにいたらない半植民地タイ国の森林開発では,森林がイギリス帝国の所有でないので,同帝国はもっぱら強力な資本力をテコに,まずは林政改革の実権を掌握して,自国独占資本による森林の支配の活動を有利に導き,他の資本を圧倒して森林資源(チーク林)の独占的開発を可能にして行ったのである。イギリス独占資本の支配力は森林の生産過程はもとより,流通過程にまでおよんでいるので,チーク林からの独占利潤の享受は大きかったと言えよう。以上のようなメカニズムを通じてタイ国半植民地の森林資源は,ヨーロッパ資本,なかでもイギリス独占資本の開発下におかれたのである。
島村, 恭則 Shimamura, Takanori
近年,民俗学をとりまく人文・社会科学の世界において,パラダイムの転換が見られるようになっている。それは,たとえば,個人の主体性に重きを置かない構造主義的な人間・社会認識に対する批判と乗り越え,「民族」「文化」「歴史」といった近代西欧に生まれた諸概念の脱構築,他者表象をめぐる政治性や権力構造についての批判的考察の深まりといった動きである。
小杉, 亮子 Kosugi, Ryoko
本稿では,1960年代に拡大・多発した学生運動(1960年代学生運動)について,先行研究が大規模社会変動にたいする反応や挑戦としてのみ位置づける傾向にあったのにたいし,より多面的かつ立体的な1960年代学生運動像を提示することをめざし,新たな視角として,社会運動論の戦略・戦術分析を導入する。具体的には,本稿では,1968~1969年に東京大学で発生した東大闘争における戦略・戦術を検討する。その結果,次のことが明らかになった。第一に,東大闘争では直接行動戦略がとられ,さらに,それが非暴力よりも対抗暴力を志向していったために,腕力・体力の有無と闘争での優劣や闘争参加資格とが連関するようになっていた。第二に,東大闘争終盤においては,対抗暴力が軍事的な実力闘争へと傾斜し,闘争の軍事化が見られた。第三に,1960年代学生運動の直接行動戦略が対抗暴力を志向するものとなった要因には,新旧左翼運動が持っていた実力闘争志向や武装主義と,アジア,アフリカ,ラテンアメリカにおける脱植民地・独立運動に影響を受けた第三世界主義とがあった。
安道, 百合子 ANDO, Yuriko
『しのびね物語』は一般には『悲恋に忍び泣く姫君の物語』として読まれており、中世物語の典型であるという理解がある。しかし、その「しのびね」という語が、女主人公の呼称として用いられている点や、物語の後半部に唐突に出現し集中的に用いられているという点には特徴が認められる。「しのびね」なる語は、帝の介入によって生じた悲恋を象徴的にあらわし、姫君の境遇の変化ではなく、心情の変化に即して、効果的に用いられている。また、物語は、前半部と後半部とで対極的に描かれていることを確認する。
野原, ゆかり 神園, 幸郎 Nohara, Yukari Kamizono, Sachiro
本研究は、自閉性障害児が特定の他者(以下「他者」とする)とどのような関係を形成するのか、また、この関係が彼らの発達にどのような関連性を持つのかについて他者理解の視点で記述し、検討することを目的とした。話し言葉を持つ自閉性障害児の男子を対象児として、筆者を含めた女子学生2名が「他者」として関わった。 その結果、対象児はどちらの「他者」とも確実に愛着関係を形成し、最終的には質的に高い愛着関係を成立させた。さらに、このことが「他者」との関係以外(象徴遊び、言葉、こだわり行動)の発達にも影響して、本児の発達が促された。
島袋, 恒男 當山, りえ 喜友名, 静子 Shimabukuro, Tsuneo
本研究は、保育科短大生216名を対象とし、(1)保育科学生の「子ども観」尺度を作成し、(2)保育職への志望度の違いによる「子ども観」の違いを検討することを目的とした。因子分析の結果、「子ども観」尺度価値体系の第1因子は、「立身出世」の因子、第2因子は「親族主義」因子、第3因子「伸び伸びした存在」の因子、第4因子「自己制御」因子が抽出された。概念体系においては6因子が抽出され、第1因子「可能性」因子、第2因子「否定的」因子、第3因子「あてになる存在」の因子、第4因子「自立的存在」因子、第5因子「個としての存在」因子、第6因子「了解可能な存在」の因子と命名した。\n沖縄県と愛媛県の地域比較の結果、親族主義的価値観は沖縄県の方が高かった。概念体系においてポジティブな「子ども観」の2因子において、沖縄県の方が肯定度が高かかった。志望度別の比較から、保育職を志望する群の方が、志望しない群よりも子どもをいとおしくまた個性的な存在として、肯定していることが明らかになった。愛媛県の方が志望度の違いと子ども観との関連が深かった。
名嶋, 義直
本稿では、まず日本語教育の必要性を、社会状況/保障教育/子どもの教育/複言語・複文化主義の観点から考察する。そしていわゆる「日本語教育基本法」の制定から日本語教育に対する社会的要請を読み取り、本学の日本語教育副専攻課程の存在意義を考察する。そして最後に、さらにその要請に応えるために取り組むべき課題を挙げ、本学の日本語教育副専攻課程における今後の教育のあり方についてその展開の道筋を整理して示す。
辛島, 理人
本稿は、アメリカの反共リベラル知識人と民間財団による、一九五〇・六〇年代の日本の社会科学への介入とその反応・成果に焦点をあて、戦後における日本とアメリカの文化交流を議論するものである。その事例として、経済学者・板垣與一がロックフェラー財団の支援を受けて行ったアジア、ヨーロッパ、アメリカ訪問(一九五七~五八)を取り上げる。ロックフェラー財団は、第二次対戦終了直後に日本での活動を再開し、日本の文化政治の「方向付け」を試みた。その一つが、日本の大学や学術をドイツ式の「象牙の塔」からアメリカのような政策志向の実践的なものへと転換させることであった。そのような方針を持つロックフェラー財団にとって、官庁エコノミストと協働していわゆる「近代経済学」を押し進めていた一橋大学は好ましい機関であった。板垣與一は、同財団が支援する「アングロサクソン・スカンジナビア」型の経済学を推進する研究者ではなかったが、日本の反共リベラルを支援しようとしたアメリカの近代化論者の推薦をうけて、同財団の助成金を得ることとなる。そして、一九五七~五八年に板垣は、「民族主義と経済発展」を主題としてアジア、ヨーロッパ、アメリカを巡検する。アメリカでは、近代化論者の多かったMITなどの機関ではなく、ナショナリズムへ関心を払うコーネル大学の東南アジア研究者との交流を楽しんだ。板垣は日本における近代化論の導入に大きな役割を果たすものの、必ずしもロストウら主唱者の議論に同調したわけではなかった。戦時期に学んだ植民地社会の二重性・複合性に関する議論を、戦後も展開して近代化論を批判したのである。ロックフェラー財団野援助による海外渡航後、板垣は民主社会主義者の政治文化活動に積極的に参加した。しかし、ケネディ・ジョンソン政権と近しい関係にあったアメリカの反共リベラル知識人・財団の期待に反し、反共社会民主主義が議会においても論壇においても大きな影響力を持つことはなかった。
設楽, 博己 Shitara, Hiromi
縄文時代の代表的な呪具である土偶は,基本的に女性の産む能力とそれにからむ役割といった,成熟した女性原理にもとつく象徴性をほぼ一貫して保持していた。多くの土偶は割れた状態で,何ら施設を伴わずに出土する。これらは故意に割って捨てたものだという説があるが,賛否両論ある。縄文時代後・晩期に発達した呪具である石棒や土版,岩版,岩偶などには火にかけたり叩いたりして故意に破壊したものがみられる。したがって,これらの呪具と関連する儀礼の際に用いたと考えられる土偶にも,故意に壊したものがあった蓋然性は高い。壊したり壊れた呪具を再利用することも,しばしばおこなわれた。
Camacho, Keith L. Ueunten, Wesley Iwao カマチョ, キース L ウエウンテン, ウェスリー 巌
オセアニアでは様々な形でアメリカ合衆国の軍事化が進行しているが、本論はこうした軍事化の渦中で起こっている「先住民の抵抗運動」について、民族誌的な考察を呈示することを目的としている。我々の民族誌は、個人的な思索や、帝国主義と抵抗に関する文献の知識、そして我々の社会変革への貢献を通して得た知見にもとづいている。本論では「先住民の抵抗」という包括的表現を使用するが、「先住民性」についての概念やその解釈、その使い方は、人々や場所によって異なることは認識しているつもりである。そのうえで、過去数十年間のグアムと沖縄における先住民の抵抗の状況が、予備段階的にどう評価できるかについて解説する。最も特徴的なのは、これらの先住民運動を通して、トンガ出身の批評家であるエペリ・ハウオファが言う「歴史と文化が帝国主義的現実と具体的実践行動に結びつく」オセアニアという場所に、もうひとつ新たな地域的アイデンティティが生じているという点である。こうした運動は、海を遺産として共有しているという認識のもと、包括的で順応性に富んだアイデンティティのありようを模索し続けてきたが、このアイデンティティはグアムと沖縄に駐留する米軍を批判する手段ともなると言える。
廣瀬, 浩二郎
大本教の出口王仁三郎は,日本の新宗教の源に位置する思想家である。彼の人類愛善主義を芸術・武道・農業・エスペラントなどへの取り組みを中心に,「文化史」の立場から分析するのが本稿の課題である。王仁三郎の主著『霊界物語』は従来の学問的な研究では注目されてこなかったが,その中から現代社会にも通用する「脱近代」性,宗教の枠を超えた人間解放論の意義を明らかにしたい。併せて,大本教弾圧の意味や新宗教運動と近代日本史の関係についても多角的に考える。
山田, 奨治
ドイツ人哲学者オイゲン・ヘリゲル(一八八四~一九五五)は、日本の弓道を通して禅を広く海外へと紹介した人物として知られている。しかしながら、彼の生涯の全体像について、とりわけ幼少期と来日前後の活動状況、戦前・戦中のドイツを支配していた国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)との関連については、いまだ明らかではない。本論文では、ドイツ南部にある複数の文書館から見出された未公刊資料をもとに家族歴と来日前後の活動を解明し、へリゲルの生涯の再構成を試みた。
青柳, 正俊 Aoyagi, Masatoshi
通商司は、明治新政府の貿易政策を所管する官庁一機関として明治二年に設置され、その後、産業育成、金融など広範な政策領域を担った。その政策展開は、通商会社・為替会社の設立を通じて、会社・銀行という近代資本主義に不可欠な経済単位の創出を目指す取組でもあった。しかしながら、政策は早期に隘路に陥り、短命に終わった。この失敗の要因としては、政策に内在するいくつかの要因とともに、外国からの強い抗議の圧力があったことが指摘されている。
白石, 太一郎 Shiraishi, Taichiro
古墳時代前期から中期初めにかけての4世紀前後の古墳の埋葬例のうちには,特に多量の腕輪形石製品をともなうものがある。鍬形石・石釧・車輪石の三種の腕輪形石製品は,いづれも弥生時代に南海産の貝で作られていた貝輪に起源するもので,神をまつる職能を持った司祭者を象徴する遺物と捉えられている。したがって,こうした特に多量の腕輪形石製品を持った被葬者は,呪術的・宗教的な性格の首長と考えられる。小論は,古墳の一つの埋葬施設から多量の腕輪形石製品が出土した例を取り上げて検討するとともに,一つの古墳の中でそうした埋葬施設の占める位置を検証し,一代の首長権のなかでの政治的・軍事的首長権と呪術的・宗教的首長権の関係を考察したものである。
岩本, 通弥 Iwamoto, Michiya
本稿はこれまで概して「日本独特の現象」ともされてきた〈親子心中〉に関し、韓国におけるその事例を紹介することで、そうした言説に修正をはかるとともに、両者を比較することにより、より深いレベルにおける〈親子心中〉の諸現象、すなわち〈親子心中〉という行為だけでなく、それをめぐる社会や文化のより大きな象徴的システムのうち、何が普遍的であり、あるいは何が日本的であるのか、そのおおよその見通しを得ることを目的としている。そのため本稿では、これまでほとんど日本には報告されてこなかった、韓国における〈親子心中〉を含めた「自殺の全体像」を提示することからはじめるが、資料としては、その代表的な中央紙である朝鮮日報と東亜日報における自殺記事を、一年分収集し、これを分析した。新聞を資料として用いることに関し、方法的な視角を述べるならば、新聞記事というニュースの性質を、単なる情報の〈伝達〉という機能から捉えるのではなく、むしろ、より読み手(decorder)の役割を重視した、神話的な〈物語〉を創出していくものとして、繰り返し語られるニュースのなかの、隠れたメッセージや象徴的コードを読み解いていく。その物語性は、読み手に文化的諸価値の定義を提供しているが、こうした視角で分析してみると、日韓の自殺と親子心中「事件」のコードは類似したものが多い一方、大きく異なる点も存在する。最も相違するのは日本の自殺・親子心中の〈物語〉が「他人に迷惑を掛けること」の忌避を訴えているのに対し、韓国のそれは「抗議性(憤り)」を媒介とした「他者との心情の交流」が主要な価値コードとなっている。正反対の日本の価値コードからすれば、韓国の自殺・同伴自殺は「いさぎよし」とは見做されず、また逆に日本のそれも韓国的コードでは負に位置付けられようが、それは両国の感情表現の方法をはじめ「死の美学」や死生観・霊魂観の相違に起因するものであり、表面的形態的には類似している日韓の〈親子心中〉も、その意味するところは大きく異なっている。
依岡, 隆児
ドイツ語圏における「ハイク」生成と日本におけるその影響を、近代と伝統の相互関連も加味して、双方向的に論じた。ドイツ・ハイクは一九世紀末からのドイツ人日本学者による俳句紹介と一九一〇年代からのドイツにおけるフランス・ハイカイの受容に始まり、やがてドイツにおける短詩形式の抒情詩と融合、独自の「ハイク」となり、近代詩の表現形式にも刺激を与えていった。一方、日本の俳句に触発されたドイツの「ハイク」という「モダン」な詩が、今度は日本に逆輸入され、「情調」や「象徴」という概念との関連で日本の伝統的な概念を顕在化させ、日本の文学に受容され、影響を及ぼしていった。こうした交流から、新たに「ハイク」の文芸ジャンルとしての可能性も生まれたのである。
岩橋, 清美 IWAHASHI, Kiyomi
本論文は、一九世紀初頭における日光をめぐる歴史意識について、植田孟縉の『日光山志』と竹村立義の『日光巡拝図誌』をもとに論じるものである。『日光山志』は五巻五冊からなり、天保七年(一八三六)に刊行されたもので、日光に関する最もまとまった内容を持つ地誌である。その内容は中世以来の山岳霊場としての歴史から書きはじめられ、山内の景観・建物の構造・奥日光の動植物・日光周辺地域の人々の暮らしにまで及ぶ。孟縉は、東照宮だけではなく周辺地域を含めて「日光」であることを示し、江戸幕府の権威の象徴として描いている。こうした、彼の歴史意識は、八王子千人同心という身分集団に属していたことに規定されていると言える。
Kobayashi, Masaomi 小林, 正臣
本稿は、これまで人文科学において広範に実践されてきた「文化的研究(Cultural Studies)」の在り方について検証している。自然科学における実証と異なり、人文科学における論証は、なるほど厳密な客観性を要求されない場合が往々にしてある。したがって、ある社会における文化と別の社会における文化に、あるいは一つの社会における複数の文化の相違に個別性と連続性を見出しつつ、それらの問題を文化の問題として論じることには、それなりの学問的価値はあるだろう。しかし、Bill Readingsが指摘するように、個々の集団間の差異性と連続性の問題を「文化」という観点から総括してしまうことには議論の余地がある。なぜなら、それは否定的な意味における還元主義的な論法となる危険性があるからである。一方、社会科学においても還元主義的な論法は存在する。たとえば、新古典派経済学は、社会における人間の活動を利益の追求または最大化という観点のみから説明する傾向がある。かくして本稿は、人文科学(例えば文学)と社会科学(例えば経済学)の学際性を図る際には、それら学際的研究の個々が「特殊(specific)」であるべきであり、学際性を総括的な概念としてではなく、永続的に追求されるべき概念として捉えることを提唱している。
石田, 一之
本稿では、第1節では、ドイツの社会学的新自由主義のアレクサンダー・リュストウ(Alexander Rüstow)の主要著作である『現代の位置づけ』の内容の検討を中心としながら、歴史的、文化社会学的視点からみた現代の位置づけという問題を検討する。第2節では、リュストウの現代の位置づけを巡る社会学的分析とそこから導かれた政策論の今日的意義に関連した事柄を中心に取り上げる。現代の位置づけの議論に関連して、人間の社会学的状況の分析を表すものとして用いたVitalsituationの概念や、その政策分野への応用としてのVitalpolitikの考え方が、今日、欧州を中心として社会的包摂や社会的統合ををめぐる政策の議論が活発化する中で、新たな政策的意義を持つものとして捉えられるようになった。
比嘉, 俊 岸本, 恵一 比嘉, 栞菜 榎本, 陽音
本稿の目的は,協同学習が上手くいくポイントを琉球大学大学院教育学研究科高度教職実践専攻(以下教職大学院)の実習における実践事例を基に検討することである。授業者は協同学習を授業に取り入れると,何らかの効果があるだろうと協同学習に過大な期待を寄せ,授業手立てが曖昧で授業を行った。活動主義的な授業を展開した結果,授業が上手くいかなかった。この失敗から,授業者は学習者理解から授業改善をスタートし,学習者の状況を理解した上で,状況に応じた手立てを講じた。その手立ては,学級の雰囲気づくり,個人活動の時間の確保,紙媒体による交流であった。これらの手立てにより,協同学習での効果が確認され,これらは協同学習のポイントとの1つと考える。これからも,更なる実践の成功事例の蓄積が望まれる。
正木, 晃
日本人が伝統的に聖性をもつとみなしてきた空間――たとえば、あの世あるいは浄土・曼荼羅――において、自然がどのように表現されてきたか、且つそれがどのように変遷してきたか、を図像学および宗教学の手法をもちいて考察したのが、この論文である。Iでは、縄文時代から奈良時代までを対象の範囲としたが、この範囲内では、聖なる空間を代表する「あの世」に関し、日本人はそれが如何なる場所であるのか、子細に論ずる段階には未だ達していない。しかし、縄文時代の図像には、すでに転生の観念が存在した事実を示唆する例があり、その後、大陸文化の影響を受けつつ次々と生み出された聖空間の中に、たとえ象徴的な表現にとどまる場合が多いとはいえ、自然の描写が図像として重要な位置を占める事例も確認でき、日本人の自然観を探る上で絶好の材料となる。
西田, 彰一
本稿では筧克彥の思想がどのように広がったのかについての研究の一環として、「誓の御柱」という記念碑を取り上げる。「誓の御柱」は、一九二一年に当時の滋賀県警察部長であり、筧克彥の教え子であった水上七郎の手によって発案され、一九二六年に滋賀県の琵琶湖内の小島である多景島に最初の一基が建設された。水上が「誓の御柱」を建設したのは、デモクラシーの勃興や、社会主義の台頭など第一次世界大戦後の急激な社会変動に対応し、彼の恩師であった筧克彥の思想を具現化するためであった。
糸数, 剛
小説読解指導において主題主義ではなく,言葉の力をつけるための指導法として,筆者は「小説読解観点論」(中学生向けには「読みの要素」)による手法を推し進めてきた。「小説読解観点論」とは,それぞれの小説の本質に迫るために多様な観点(既存の観点も用いるが,既存の観点にふさわしいのがなければ創造的に観点を開発していく)の中からふさわしい観点によって説明し,その観点を術語のレベルまで抽象化する(その際,既存の術語も用いるが,ふさわしいものがない場合は新たにネーミングをしていく)ことを通して読解を定着させていく手法である。
後藤, 武俊 Goto, Taketoshi
本稿の目的は、福岡市の「不登校よりそいネット」事業を事例に、多様な主体間のネットワークの形成・維持に寄与した要因を析出し、不登校当事者支援の領域における公私協働のガバナンスヘの示唆を得ることである。「不登校よりそいネット」の構築には、C氏と行政との連携実績、共働事業提案制度の存在、不登校に悩む保護者支援という課題設定、当事者性に根ざした保護者支援人材の育成という4つの要因が見出された。また、その構築過程でC氏が果たした役割・機能は、境界連結者の観点から、「情報プロセッシング機能」「組織間調救機能」「象徴的機能」の3点で捉えることができた。ここから、不登校当事者支援の領域における公私協働のガバナンスにおいては、C氏のような人物が台頭・活躍できる場づくりと、協働の可能性を広げる課題設定が重要になることを指摘した。
嘉数, 朝子 Kakazu, Tomoko
本研究では,幼児の象徴機能の発達を次の3点から検討することを目的とした。(1)能記と所記の類似度の効果,(2)対象の性質の効果,(3)あそびテーマおよび行為を伴う場合の効果。要因計画は,3年齢(3,4,5歳)×2対象の性質(対自己,対外)×2場面状況(あそびの外,あそびの中)であった。第1と第2の要因は被験者間要因で,第3と第4の要因は被験者内要因であった。被験者は保育園児48名(3歳児10名,4歳児20名,5歳児18名であった。課題は,予備テストの後,各場面状況下で一課題ずつ代用物を提示し,それを使って所定の行為を被験者に要求するものであった。その結果,(1)各年齢において類似度条件の方が非類似条件よりも「みたて」得点が高かった,(2)対象の性質については,対自己の方が対外を対象とする行為よりも「みたて」やすく,発達的にも早くから可能になること,(3)どの年齢においても,「あそびの中」状況の方が「あそびの外」状況よりも「みたて」得点が高いこと,また,あそびの効果は低年齢ほど大であることがわかった。
高橋, 実 TAKAHASHI, Minoru
中世の口頭を主とする社会から近世の文書を不可欠とする社会への移行は、文字の意思伝達機能と記録機能を基礎とする社会への移行であった。「文書による支配」といわれる近世統治システムは、地域が文字読解能力を持っていることが前提であり、同時に地域は後日の証拠や参照のために文書を管理・保存してきた。19世紀に入り初等教育機関が普及して文字を知る村人が一段と増加した。それは、商品経済の発展などによる文字使用機会の増大に対応する必要性によったものである。こうして文書主義社会がしだいに厚みを増し、管理・保存の必要な文書はしだいに増加してきた。
Uehara, Kozue 上原, こずえ
本論文は,1970年代の沖縄における金武湾闘争,そしてハワイにおけるカホオラヴェの運動に着目し,抵抗運動における「伝統」文化の実践に関する新たな視点を提示する。金武湾闘争は沖縄の復帰後の1973年に始まり,金武湾の宮城島―平安座島間の埋立て,石油備蓄基地・石油精製工場の建設に反対した。一方のカホオラヴェの運動は1976年に起こり,1941年の日本軍による真珠湾攻撃から始まった,米軍によるカホオラヴェ島での軍事射撃・爆撃訓練に反対した。両運動は,太平洋で隔たれた沖縄とハワイで組織され,異なる問題を扱っていたが,そこで表出した思想や実践には連続性が見られる。金武湾闘争とカホオラヴェの運動における「伝統」文化の実践は,「伝統の創造」論に重要な問題を提起する。1980年代以降,太平洋諸島の民族主義運動における「伝統」文化の語りや実践が集団内の権力構造を確立し維持する,という批判が「伝統の創造」論をもってなされた。この主張に対し,さまざまな立場からの批判がなされた。本論文では,「伝統の創造」論による民族主義運動への批判が,抵抗運動における「伝統」文化の意義を認識できていないことを指摘し,その意義を金武湾闘争とカホオラヴェの運動における「伝統」文化の実践を分析することで提示する。本研究は,筆者の移動者としての個人的な経験から生まれた問いや,比較の視点に基づき議論を進める。沖縄からハワイに移動し,そこで知りえたカホオラヴェの運動と,筆者のホームである沖縄の金武湾闘争との間にはどのような接点があるのか。本論文では第一に,「伝統の創造」論による太平洋諸島の民族主義運動に対する批判と,それに対する反論を概観する。第二に,金武湾闘争とカホオラヴェの運動の歴史的な背景をふまえ,機関誌,その他の未出版資料,聞き取り調査の記録から,両運動における「伝統」文化の実践とその意義を検証する。研究結果として,次の三点を明らかにした。金武湾闘争とカホオラヴェの運動では,「住民」や「オハナ」という運動参加者個々人の行為者としての役割が強調された。また両運動では海や土地の重要性が「伝統」文化の実践を通じて主張され,開発や軍事訓練への抵抗とされた。さらに両運動では,「伝統」文化の実践が,運動参加者間の結びつきを強め,援農活動や共同体の自治を模索する動きにつながり,他の島々における抵抗運動との連帯を生んだ。
王, 秀文
本稿は、「桃の植物文化誌」につづいて、桃の生命力をめぐる伝承を調べ、分析したものである。桃の生命力に関する伝承は、古く中国の『詩経』「桃夭」などの歌謡に現われ、それは主に桃の花・実・葉をもって年ごろの娘の結婚を祝福したものであるが、季節が冬から春に変わろうとするとき、何よりも早く花が咲き、うっそうとした葉が茂り、木いっぱいに実がなる桃のイメージを受けて生まれた感覚であろう。そのため、桃は強い生命力を持つものとして、農耕を迎える三月三日の祭りと融合され、「桃太郎」の話を生み出し、さらに不老長寿の仙果として仰がれた。このような数多くの伝承において、桃に基本的に陰気に対抗して陽気を復帰させ、生命の蘇生・誕生を象徴し、さらに観念的に女性の生殖力と結びつき、多産・豊饒や生命の不滅への期待が託されているものとみられる。
Kobayashi, Masaomi 小林, 正臣
本稿はアメリカ諸文学における作品(具体的には、John Steinbeck、Bernard Malamud、Leslie Marmon Silko、Kurt Vonnegutの作品)を批評しながら、様々な環境における存在の在り方を議論している。たとえば、自然環境における人間は、その環境の一員であり、この意味において他の生物―「生」きる「物」としての「生物(living things)」―とは「共者(another)」の関係と捉えることが出来る。とすれば、生物学において人間は「ヒト」と呼称されるように、それら生物をヒトと類比した存在と捉えることは、あながち人間中心主義的ではなく、互いを共者として再定義することを可能にする。この「ヒト」という概念は、社会という環境においても適用できる。たとえば「法人(legal person)」という人物は、主体としての「人」であり、客体としての「物」でもある「人物(person)」であり、少なくとも法律における扱いは「自然人(natural person)」と類比的な存在である。この認識を基盤とすれば、アメリカ資本主義社会における人間と法人の関係は、必ずしも対立関係ではなく、共者同士の関係として再解釈できる。そして法人の活動は、いまや環境に対する責任能力を求められている。すなわち「企業の社気的責任(corporate social responsibility)」という問題は、「企業の市民性(corporate citizenship)」という問題と不可分である。法人が「市民(citizen)」としての地位を獲得することの是非は、環境における存在の在り方を問ううえで重要である。かくして本稿は、以上のような人文科学としての文学研究における発想および課題を提示する。
陳, 少峰 CHEN, SHAOFENG
森鴎外は五十歳前後のころ個人に内在する価値意識をいかに確立するかについて熱心に探究した。彼は価値の理想を、孔子の鬼神観・天命感と、個人主義的価値観の責任意識という二つの側面から考え、それを総体として安心立命という価値意識として表現した。それから数年間、とくに渋江抽斎の事跡から分かることだが、鴎外は孔子が賞賛した人生の道を渋江が懸命に実行していることに対して非常に共鳴し、また「楽天知命」という深遠なる悟りに到達した。本稿の課題は、森鴎外の明治末期・大正前期における思想と価値観の転換と、孔子の「楽天知命」観との間のつながりを検討することである。
浅田, 徹 ASADA, Toru
藤原定家の下官集について、その内容を検討する。本書は草子の書き方を中心とした伝書で、文学の内容そのものとは直接関わらないため、和歌研究者からのまとまった考察がない。しかしその記述を考証していくことで、顕註密勘・三代集之間事・僻案抄といった歌学書群、あるいは定家本三代集の校訂作業などと同じ基盤を有していることを指摘できるのではないかと考える。従来の研究(国語学の分野からのもの)は仮名遣い規定に集中し、それ以外の部分は詳しい注釈も行われずにきているので、本稿ではまず全文を改めて検討することから始める。同時にそこに一貫する定家の姿勢を「他者と自分との差異を提示して、それを一つずつ根拠付けていく」ものと捉え、最終的にそれを歌道家当主としての自己定位の営みを象徴するものとして読むことを試みる。また、他者としての六条家の存在はここでも作品形成の一つの契機となっていただろう事を示す。
荒川, 章二 Arakawa, Shoji
1968~69年における日本大学学生運動は,全国学生総数が約100万人と言われたこの時代に,学内学生3万人の参加という空前絶後の対理事会大衆団交を実現し,東京大学全共闘運動とともに当該時期の全共闘型学生運動の双璧に位置付けられている。本稿は,日大全共闘運動の組織論・運動論の特質を考察した拙稿「「1968年」大学闘争が問うたもの―日大闘争の事例に即して」の続編であり,日大闘争の展開過程を基本的な事実,諸資料から確定するという課題を継続している。前稿は,日大全共闘が,大衆団交という場において勝利できる展望を有していた時期までを対象とした。本稿では1968年9月30日「9.30 団交」への過程を再検討したうえで,日大闘争の戦術を象徴する各学部・各校舎のバリケードが一斉に解除・強制撤去される69年2月~3月までの基本的な経緯を示しながら,日大全共闘の組織と運動の時期的変化を検討する。
樹下, 文隆 KINOSHITA, Fumitaka
国文学研究資料館蔵『四座御役者手鑑』は、乾坤二冊の内、下巻のみ残存する刊本の零本ながら、『国書総目録』に唯一所載の鴻山文庫旧蔵本であり、他に存在を聞かない孤本である。観世座十六名・宝生座十七名・御部屋役者衆十名・惣役者衆取次(触流)四名、計四十七名の役者を収録する本書は、記事内容より、貞享三年から貞享四年にかけての事情を反映したもので、刊行時期もその頃と推定できる。宝生九郎を「当世日出の大夫」と称賛する本書は、取り上げた役者の数が江戸期を通して四座の筆頭だった観世座よりも宝生座の方が多いことに象徴されるように、綱吉時代の宝生流繁栄のさまを顕著に描いており、零本ながら将軍綱吉に贔屓された宝生座を始めとする当時の能界の雰囲気が窺える好資料である。本書を翻刻紹介するに際し、原資料の面影を伝えるべく写真を付載し、本書に関する書誌的な解題と収録役者について内容に関する若干の注釈を試みた。
津金, 澪乃
「三枚のお札」は、寺の小僧が山へ出かけ鬼婆や山姥の家に泊まり、便所へ行きお札を投げて山や川を出して逃げるという昔話である。まず、類話を整理してその構成から、(1)鬼婆タイプ[寺-小僧-山-花採り-鬼婆-便所-逃走(お札)]、(2)山姥タイプ[寺-小僧-山-栗拾い-山姥-便所-逃走(お札)]、(3)ヤマハハタイプ[娘-山-ヤマハハ-逃走]の三つを設定した。鬼婆タイプは盆や彼岸に登場し子をとって食う点、山姥タイプは栗や茸を勝手に取る者を責めて山の領域を主張する点、ヤマハハタイプは寺・便所・お札の要素がない点が特徴である。柳田國男の『先祖の話』や山人論を参考にすると、鬼婆の背景には子のない老婆への差別視とその裏返しとしての恐怖感が、山姥とヤマハハの背景には柳田が先住民の末裔と論じている山人への恐怖感が、想定される。そして、昔話の構成要素の比較から、素朴なヤマハハタイプが古いかたち、山姥タイプが新しいかたち、鬼婆タイプがさらに新しいかたちであると分析した。次に、現在の昔話が歴史的にどのような深度をもって伝えられているものなのかを検証するために、室町期の謡曲「黒塚」と「山姥」の存在に注目した。山や野原で日暮れに一人の女が現れるという点が「三枚のお札」で語られている情景と共通している。謡曲「黒塚」では鬼女が里の女として登場し「長き命のつれなさ」を象徴する糸繰りをする。鬼女は山伏に祈り伏せられる。謡曲「山姥」では山姥が山の女として登場し領域の主張を象徴する「山廻り」をする。山姥はどこへともなく去って行く。そこから昔話「三枚のお札」の鬼婆と山姥と、謡曲「黒塚」の鬼女と謡曲「山姥」の山姥との間の対応関係を指摘した。これらの伝承の背景には、山人と里人の遭遇と緊張、その現実の歴史記憶の反映と心象世界の反映、そしてその記憶の稀薄化があると推定した。鬼婆系の伝承と山姥系の伝承が併存しているという点で、近現代に採録された昔話と室町期に成立した謡曲とが共通していることから、昔話には室町期に通じるほど古い伝承情報が伝わっている可能性があることを指摘した。
森田, 登代子
大雑書は平安時代以降の陰陽道や宿曜道の系統をひき、八卦・方位・干支・納音・十二直・星宿・七曜などによる日の吉凶、さまざまな禁忌やまじない、男女の相性運などを内容とした書物のことである。近世後期には庶民の関心をひく生活情報を加え内容を肥大化させ百科全書の体裁を帯びるようになった。これが大雑書である。『簠簋内傳』『東方朔秘傳置文"などの歴註書』や、公家武家階層が利用した百科全書『拾芥抄』をもとに大雑書が刊行された経緯から、天保年間に出版された代表的な大雑書の一つ『永代大雑書萬歴大成』をもとに考察する。大雑書に組み込まれた内容は各板元が所有する版権に大きく左右されたことを、大阪本屋仲間の記録をもとに検証し、自己株の書籍に新しい情報をつけくわえ手直し編集して出版したものが大雑書であったことを明らかにする。また各大雑書の特徴をあげ、大雑書が近世の社会・文化・風俗・生活を知る手がかりになることを強調し、ひいては絵の文化のシンクレティズムを象徴するものであったことを追究する。
堀, 裕
日本古代の安居講経は、国家が期待する僧尼像・仏教像を象徴的に示すと考えられる。おもに『類聚三代格』延暦二十五年(八〇六)四月二十五日官符をとりあげ、政治史や制度史、史料学の視点から検討を行った。①この時、大寺と国分寺の安居講経に、新たに『仁王経』が追加されたのは、桓武から平城への皇位継承を契機にしており、早良親王等の祟りなど、新天皇にもたらされる災いを攘うことで、無事な即位や、治世の安穏を願ったことにある。②一代一度仁王会の開始や、宮中年料写経の伝鳩摩羅什訳『仁王経』への転換との関係も推測され、国家制度の重点が、五穀豊穣を祈念する『最勝王経』から、災いを避けるための『仁王経』へと、変化したことを示していると考えられる。③『類聚三代格』の写本研究の成果を踏まえ、従来の研究成果とは異なり、大寺と国分寺において、『仁王経』の安居講経は、延暦二十五年から少なくとも『延喜格』編纂時までは、維持されたとみるのがよいと考える。
瀬底, 正栄 浦崎, 武 Sesoko, Masae Urasaki, Takeshi
学習指導要領にある交流学習では,「児童が他の学校の児童を理解し合うための絶好の機会であり,また,学校同士が相互に連携を図り,積極的に交流を深め,学校生活をより豊かにするとともに,児童の人間関係や経験を広げるなど広い視野に立った適切な教育活動である。」と述べられている。しかし,沖縄県北部国頭地区の現状としては地理的な難しさから他校との交流学習は容易ではなく,生活経験の広がりは自校を中心とした環境で終始していく傾向がみられる。そこで,沖縄県北部国頭地区での交流学習の在り方について,市町村の異なる3校の特別支援学級が実際に交流学習を行い,課題としてあげられたコミュニケーションについて遊びを取り入れた「まち」づくりの活動を通して考えていった。交流学習の中で課題とされてきたコミュニケーションは,統一のテーマ「まちを作って遊ぼう」で行った個々の象徴遊びの中で,回を重ねるごとに改善されさらに関係の形成は子どもたちの新たな生活経験の一つになっていくことが示唆された。
鈴木, 貞美
日本の「大衆文学」を代表する『大菩薩峠』の著者、中里介山の独自の仏教思想を検討する。まず、彼の「文学」概念が明治初・中期の洋学者や啓蒙主義者たちが主張した広義の「文学」の枠内で、感情の表現をも重んじる北村透谷や木下尚江のそれを受け継ぐものであることを指摘し、それゆえに仏教思想を根幹におく文芸が展開されたとする。次に、介山の青年期の宗教観について、ある意味では同時代の青年たちの一般的風潮を実践したものであること、それがなぜ法然に傾倒したかを問い、そして、介山の代表作の一つと目される『夢殿』について、明治から昭和戦前期までの聖徳太子像の変遷と関連させつつ、二十世紀前半の力の政治に対して、仏教の教えによる政治という理想を主張したものと結論する。
長谷川, 裕
「コンサマトリー」とは、未来における目標実現のために邁進するのではなく、今現在に関心を焦点化しそれが満ち足りることを重視する価値志向を表す言葉である。この価値志向は、それがとりわけ若者の間に浸透することで、かれらにおいて自身の生活を肯定的に受けとめる傾向を強め、特に1990 年代以降かれらの生活満足度・幸福感を高めているという、さらに、この価値志向は、能力主義をはじめとする現状の社会の支配・統合原理に対するかれらの批判意識の高まりを表すものでもあるという見解が存在する。 本稿は、2007 年度及び2021 年度に筆者が携わった子ども・若者対象の意識調査のうち特に高校2 年生のデータを利用して、上記の見解の妥当性を検証しつつ、今日の日本の若者の社会意識の特徴やその変化の傾向性の把握を試みる。
Koikari, Mire 小碇, 美玲
本稿は、米国占領初期に沖縄を訪問し戦後生活改善活動の火付け役を担った家政教育者ジェネヴィーブ・フィーガンの軌跡を追う。米国テキサス州出身の彼女は、第二次世界大戦中のハワイにてアジア系移民を対象とした生活改革に従事し「他者」のアメリカ化に貢献した人物であった。1951 年、米国政府の意向を受けたフィーガンは沖縄にて女性及び家庭生活に関わる調査・教育活動を 3 ヶ月に亘り勢力的に遂行した。島民の生活改良を主眼としたフィーガンの啓蒙活動は、しかし、帝国主義者としての眼差しにもとづいており、沖縄生活様式を西洋のそれと比べて「不衛生」「不合理」「劣性」なものとし、米国文化の「優越性」を強調するものであった。米国本土から準州ハワイ、そして占領地沖縄へと移行したフィーガンの軌跡は、女性・家庭・帝国史の複雑な絡み合いを体現したものであった。
白尾, 裕志 Shirao, Hiroshi
社会科は1947 年の創設直後から,道徳教育の振興との関わりからその改善を問われてきた。「道徳教育振興に関する答申」(1951 年1月4日)では,学校の教育活動全体を通じて行う道徳教育の全面主義が確認され,学習指導要領での「社会科の意義」として示された。「社会科の改善に関する教育課程審議会答申」(1953 年8月7日)では,社会科の教科としての特質を踏まえた問題解決学習の過程での道徳性の育成が明確化された。この二つの答申によって,その後の教育課程審議会にどのような影響が出たかについて,「文部時報」等の文部省側の文献を中心に明らかにしていき,社会科が学習指導要領として整理される過程で明らかになった特設道徳に伴う社会科の変化について考察する。
千田, 稔
近年出雲における多数の銅鐸の発見などによって出雲の古代における位置づけが論議されだした。本稿では絵画銅鐸の図像学的な解釈や、銅鐸出土地と『出雲国風土記』及び『播磨国風土記』の地名起源説話などから、銅鐸はオオクニヌシ系の神々を祭祀するための祭器であると想定した。また、『播磨国風土記』にみる、オオクニヌシ系の神々(イワ大神も含む)と新羅の王子の渡来と伝承されるアメノヒボコとの土地争いを倭の大乱を表すものとしてとらえた。通説にいうように、アメノヒボコは西日本の兵主神社にまつられたものとすれば、兵主神社の最も中心的な存在は奈良県桜井市纏向の穴師坐兵神社である。周知のように銅鐸は弥生時代の終末に使用されなくなり、それにとって変わるのが祭器としての鏡であるが、アメノヒボコで象徴される集団は鏡のほかに玉や刀子を日本にもたらしたという。つまり、倭の大乱をおさめ、後の三種の神器の原型をもって、卑弥呼は邪馬台国に君臨することになったと想定できる。したがって、邪馬台国は歴史地理学的に纏向付近に比定でき、これは近年の考古学の年代論から考察される纏向遺跡の状況と矛盾しない。
小川, 順子
本論の目的は、美空ひばりが銀幕で果たした役割を考察することによって、チャンバラ映画と大衆演劇の密接な関係を確認することである。戦後一九五〇年代から六〇年代にかけて、日本映画は黄金期を迎える。当時は週替わり二本立て興行が行われており、組み合わせとして、現代劇映画と時代劇映画をセットにするケースが多かった。そのように大量生産されたチャンバラ映画を中心とした時代劇映画のほとんどは、大衆娯楽映画として位置づけられ、連続上映することから「プログラム・ピクチャア」とも呼ばれている。映画産業を支え、発展させ、もっとも観客を動員したこれらの映画群を考察することには意義があると考える。そして、これらの映画群で重要なのが「スター」であった。そのようなスターの果たした役割を看過することはできないであろう。本論では、戦後のスターとして、あるいは戦後に光り輝いた女優として活躍した一人であるにもかかわらず、「映画スター」としての側面をほとんど語られることがない「美空ひばり」に焦点を当てた。そして、彼女によってどのように演劇と映画の関係が象徴されたのかを検証することを試みた。
陳, 碧霞 仲間, 勇栄 Chen, Bixia Nakama, Yuei
琉球の風水集落には、村抱護と呼ばれている林帯がある。この村抱護の林帯は、集落後方の森とともに、集落を取り囲むように造成されている。さらに各家屋を囲むように、フクギの屋敷林が植えられている。中国や他の東アジア地域の風水樹の使い方は象徴的であるのに比べ、沖縄の場合は、風水的欠落のある地域を補うため、植林の仕方が機能的に配置されている。沖縄は平坦な島々が多く、厳しい自然条件から島を守るため、独特な風水樹のレイアウト構造になっている。本研究では、多良間島を事例に、集落景観、村抱護、屋敷林及び腰当森(クサティムイ)の構造を明らかにした。村抱護の林帯の上層では、フクギとテリハボクが優占種になっている。集落北側の林帯は、自然林を修復する形で人工林が補植されている。抱護の下層植生には多くの種が見られ、植生の多様性を示している。これらの景観は冬の北風と台風時の東風を想定したレイアウトになっていて、東アジアの集落風水景観の中でも、より自然環境に適応した独特な島喚型景観を形成している。
下地, 敏洋 城間, 盛市 Shimoji, Toshihiro Shiroma, Seiichi
本報は、教職科目である「教職指導」の指導項目に工夫改善を図ることが、教員を希望する学生にどのような効果があったのかについて実践報告することが目的である。「教職指導」において、学生は教員の資質である教科指導能力の基礎・基本を養成することに加えて、学校現場で実施される「学校一日体験プログラム」を通して、教科指導、学級経営、部活動などを総合的に関連させながら学ぶことができる。これらの内容を通して、教育に対する視点が学生から教員としての立場へ意識が変容することで、将来の教師像を客観的に見つめる機会となっていることが明らかになった。昨今の教育基本法の改正、学習指導要領の全面改定などに象徴されるように教育環境は常に変化しており、教師に求められる力量量も実践的コミュニケーション能力や組織マネジメントなど変化に対応した多様なものとなってきている。そのため、教職科目においても教育環境を取り巻く変化を見据えながら、いつの時代でも教員に求められる資質能力やこれからの時代に求められる資質能力など、教員としての力量を高めるために寄与する指導内容となるよう一層の工夫改善が必要である。
林, 容澤
金素雲訳『朝鮮詩集』は植民地時代に刊行されたもので、様々な意味合いを持っている。韓国人から見て気になるのは、日本的情感に密着した翻訳態度で、それによって、韓国と日本の文化は根本的に同質だとみられる可能性がある。現に、本稿で取り上げた、佐藤春夫の跋文と藤島武二の扉絵がそれを裏付けており、彼らは、はっきりと日本優越主義的な視線で同詩集を眺めている。しかし、訳者には祖国の詩心の優秀さを当時の日本人に知らせようとする目的があったように思われる。したがって、この訳詩集を当時の日本文学に主体的に同化しようとしたものと見做すのは間違っている。『朝鮮詩集』からは、日本語という”権力”の言語をもって祖国の詩の存在性をアピールするという戦略的意味合いを読み取るべきである。
高久, 健二 Takaku, Kenji
朝鮮民主主義人民共和国の平壌・黄海道地域に分布する楽浪・帯方郡の塼室墓について,型式分類と編年を行い,関連墓制との関係,系譜,および出現・消滅の背景について考察した。その結果,楽浪塼室墓の主流をなす穹窿式塼天井単室塼室墓については,四型式に分類・編年し,実年代を推定した。さらに,諸属性の共有関係からその他の塼室墓との併行関係を明らかにした。これらの変遷過程をみると,穹窿式塼天井単室塼室墓1BⅡ型式が成立・普及する2世紀後葉~3世紀前葉に大きな画期があり,その背景としては公孫氏による楽浪郡の支配と帯方郡の分置を想定した。これらの系譜については,中国東北における漢墓資料との比較検討の結果,典型的な穹窿式塼天井塼室墓は,とくに遼東半島とのつながりが強いことを指摘した。
于, 彦 篠原, 武夫 Yu, Yan Shinohara, Takeo
国有林の経営活動は国家の経済改革の影響を強く受け,大きな曲がり角を迎えている。計画経済体制下に作られ肥大化した伊春林業管理局が国家による庇護がなくなりつつある現在と将来においては,市場経済体制への移行に生き残れるか,どのようにしてこの試練を乗り越えるかということは伊春林業管理局だけではなく,国有林の全体が直面している問題であると言えるだろう。これらの問題の解決は国家として,部門として,企業自身として,もう少し時間をかけて検討していく必要がであろう。さらにこうした状況の中で,国有林の新たな展開にとっての大きな目標である地元への経済的貢献と国民への奉仕との両立がどのように達成されるのか,今後とも黒竜江国有林の社会主義市場経済体制の進展に注目していきたい。
アイオン, H. A.
明治期、大正期、昭和前期において、日本の教育、文化、社会に大きな影響を与えた欧米プロテスタント宣教師たちの活動の中から、三つの事例を挙げて論じる。1.明治初期、カナダ・ウェスレアン・メソジスト教会から派遣されたG・カックランは、日本近代化の唱道者の一人、中村正直の家塾・同人社で教え、東京における初期キリスト教徒のグループ小石川バンド結成の土台を築いた。同じく、派遣宣教医師のD・マクドナルドは、静岡における教育と医療活動に大きな成果を上げ、静岡バンドの形成に尽力した。2.英国国教会牧師のW・ウェストンは、明治中期から大正前期に三度にわたり来日、伝道の傍ら日本アルプスを踏破、スポーツとしての登山活動を日本に誕生させた。また、日本アルプスをその著作を通して欧米に紹介した。日本人と日本の自然美を愛した彼の個人的な努力は、その後の日英の文化交流の発展に貢献した。3.S・ヘーズレットは、英国聖公会宣教協会宣教師として明治三三年来日、各地で伝道を行い、昭和八年日本聖公会主教会議長に就任した。日中戦争以後の日英関係の悪化とともに彼の立場は次第に困難となり、ついに投獄にまで至る。明治以後に展開された宣教師時代の終焉を示す象徴的な出来事であった。
魯, 成煥
本稿は、九州のある篤志家が自分の私有地に朝鮮の義妓である論介を祀ることによって惹起した韓日間の葛藤について考察したものである。論介は、晋州の妓女というだけでなく、全国民に尊敬される愛国的英雄で民間信仰においても神的な人物である。韓国の国民的な英雄である論介の霊魂を祀った宝寿院の建立と廃亡は、韓日間の独特な霊魂観の対立を象徴するものであった。和解と寛容、平和という純粋な理念に基づいて行われたとしても、当初から様々な問題点を抱えていた。論介にまつわる伝説を歴史的な事件として理解し、命を失った論介と六助に対する同情から彼らの墓碑が造成され、韓日軍官民合同慰霊祭が行われた。これを日本人は、怨親平等思想に基づいた博愛精神の発露だと表現するかもしれない。しかし韓国人はそれとはまったく違う感覚で見る。つまり、それは敵と一緒に葬られることであり、霊魂の分離であり、祭祀権と所有権の侵害というだけでなく、夫のある婦人を強制的に連行し、無理やり敵将と死後結婚させる行為だと考え、想像を超える民族的な侮辱であると感じるのである。
義江, 明子 Yoshie, Akiko
日本の伝統的「家」は、一筋の継承ラインにそう永続性を第一義とし、血縁のつながりを必ずしも重視しない。また、非血縁の従属者も「家の子」として包摂される。こうした「家」の非血縁原理は、古代の氏、及び氏形成の基盤となった共同体の構成原理にまでその淵源をたどることができる。古代には「祖の子」(OyanoKo)という非血縁の「オヤ―コ」(Oya-Ko)観念が広く存在し、血縁の親子関係はそれと区別して敢えて「生の子」(UminoKo)といわれた。七世紀末までは、両者はそれぞれ異なる類型の系譜に表されている。氏は、本来、「祖の子」の観念を骨格とする非出自集団である。「祖の子」の「祖」(Oya)は集団の統合の象徴である英雄的首長(始祖)、「子」(Ko)は成員(氏人)を意味し、代々の首長(氏上)は血縁関係と関わりなく前首長の「子」とみなされ、儀礼を通じて霊力(集団を統合する力)を始祖と一体化した前首長から更新=継承した。一方の「生の子」は、親子関係の連鎖による双方的親族関係を表すだけで、集団の構成原理とはなっていない。
笠谷, 和比古
徳川幕府体制の下での特異な政治的問題の一つとして、「大名改易」のあったことは周知の通りである。それは軍事的敗北、血統の断絶、法律違反などの諸理由に基づいて、大名の領地を幕府が没収し、当該大名がそれまで保持してきた武家社会内での身分的地位を剥奪してしまうものであった。徳川時代にはこの大名改易が頻繁に執行され、結果的に見れば、それによって幕府の全国支配の拡大と安定化がもたらされたこと、また改易事件の幾つかは、その理由が不可解に見えるものがあり、それによって有力大名が取り潰されてもいることからして、この大名改易を幕府の政略的で権力主義的な政策として位置づけるのは定説となっている。そしてまたそのような大名改易の歴史像が、徳川幕府体制の権力構造、政治秩序一般のあり方を理解するうえでの重要な根拠をなしてきた。
池内, 恵
日本におけるイスラーム思想の研究において、井筒俊彦の諸著作が与えた影響は他を圧している。日本の知識階層のイスラーム世界理解は、ほとんど井筒俊彦の著作のみを通じて行われてきたと言ってしまっても誇張ではないかもしれない。井筒の著作の特徴は、日本の知識人のイスラーム理解の特徴と等しいともいえる。この論文ではまず、井筒の著作において関心がもっぱらイスラーム神秘主義(スーフィズム)とイスラーム哲学にあり、イスラーム法学についてはほとんど言及されないことを指摘する。その上で、井筒がイスラーム思想史の神秘的な側面に特に重点をおいたことは、井筒が禅の素養を持つ父から受けた神秘的修道を基調とする教育に由来すると論じる。また、井筒の精神形成をめぐる自伝的な情報を井筒の初期の著作に散在する記述から読み取り、井筒の神秘家としての生育環境が、イスラーム思想史をめぐる著作に強く影響を及ぼしていることを示す。
加藤, 禎行 KATO, Yoshiyuki
本稿では、一九○七〈明治40〉年一月、雑誌『文藝倶楽部』に掲載された泉鏡花「霊象」を論じた。従来、ほとんど検討対象として採り上げられなかった小説であるが、鏡花が小説に導入した象の形象を、謡曲「江口」の引用と、南洋への異国情緒趣味の結合として捉え直そうと試みた。また小説世界の論理が、「群盲象を撫でる」という慣用句に基づく三題噺として構想されていることを指摘しつつ、「群衆」に対する鏡花の嫌悪のなかに、小説「霊象」の同時代性を確認した。なお「霊象」については、正宗白鳥による間接的な証言ながら、島村抱月による称賛が伝えられており、この時期の抱月の周辺についても検討することで、「ロマンテイツク」の文学を積極的に推進していく、自然主義文学路線への転換以前の抱月の姿を見出し、白鳥による証言が正確であった可能性が高いことを確認した。
岩橋, 法雄 Iwahashi, Norio
ニュー・レイバーは、弱者への援助としての能力向上施策を強力に遂行してきた。これが教育を第1のプライオリティとしたブレア労働党政権の教育政策である。しかし、その本質は、あるがままの弱者に対する社会的公正の観点からの富の再分配的支援というよりは、富を自分で勝ち取らせるための支援の推進である。このいわゆるハンズ・アップ (hands-up) 支援は、機会の提供という「支援」を通じて自助を費用効果において組織しようとするものであり、結果としての「到達」の不平等の存在は自己責任というイデオロギーを必然として伴うものである。こうしてサッチャーからの「旅立ち」に映ったブレアの被剥奪者への配慮の思いは、そのレトリックとは裏腹に、教育を通じて被剥奪者の内の「有能」者を能力主義的価値観の社会に「包摂」する(「動員」する)側面にますます転化し始める。よって、その「社会的包摂」は、公正を旨とする平等と決して同じものではない。
服部, 洋一 Hattori, Yoichi
要旨:19世紀中頃のスペインのカタルーニャ地方において, 主に文学をその起点として始まったくカタルーニャ・ルネサンス〉(Renaixencaレナシェンサ) は, その後国民的文化・社会運動へと拡大した。カタルーニャは, すでに中世において, 商業を中心にその勢力を地中海に拡大し, 海洋帝国を築いたが, ルネサンス期以後は, 再征服運動の中心的役割を果たしたカスティーリャの中央集権的政治政策に, その政治的主導権を奪われ, カタルーニャはその後幾度も, その地方主義的自主独立性に対する弾圧を受け続けてきた。このような歴史的背景が強く影響して, カタルーニャ・ルネサンスは, カタルーニャの独自性の回復を強く主張するカタルーニャ・ナショナリズムへと発展した。諸芸術(文学・絵画・建築)においても, カタルーニャの歴史的・地理的アイデンティティーを全面に押し出した作品や, あるいはそれを内包する作品が数多く生み出された。絵画や建築の分野では, これまでは, レナシェンサの精神と作品との関連を究明したものも発表されたが, その影響を必ず受けたに違いないカタルーニャ歌曲に関しては, 皆無といってよいほどである。
陳, 㬢 松本, 理美 小椋, 秀樹 Chen, Xi Matsumoto, Satomi
校歌は、その学校を象徴するものであり、校風、所在地の地理的特徴などが歌詞に歌われることが多い。式典で歌うなど、児童・生徒にとって身近なものでもある。しかし校歌の歌詞の言語的特徴について分析した研究は少なく、いまだ十分に明らかにされているとは言い難い。そこで筆者らは、滋賀県の公立小中高を対象に校歌の歌詞を各校Webページから収集し、コーパスを構築した。このコーパスを基に、MVR、受身形、動詞「V+あう」、連体修飾節といった観点から歌詞の言語的特徴について多角的な分析を行った。調査の結果、次のことが明らかとなった。(1)名詞比率とMVRとによる分析から、小学校は「ありさま描写」的な歌詞が多く、中学校・高校になると「動き描写」的な歌詞になる傾向が見られる。(2)受身形・動詞「V+あう」(「育まれる」「助け合う」等)については、小学校の歌詞に多く見られるが、中学校・高校になると減少する傾向が見られる。(3)連体修飾節は小・中・高校の教科書(書き言葉)とは異なって補足語修飾節に集中する傾向が見られ、また主名詞は学年上昇とともに生徒や学校を表す名詞が減少し、自然や徳目を表す名詞が増加する傾向が見られる。
道田, 泰司 Michita, Yasushi
批判的思考を行うためには,「共感」や「相手の尊重」のような,soft heartが必要になることが論じられた。それは第一に,批判を行う前提として「理解」が重要だからであり,相手のことをきちんと理解するためには「好意の原則」に支えられた共感的理解が必要だからである。このことは,-聴して容易に意味が取れると思われる場合でも,論理主義的な批判的思考を想定している場合でも同じである。共感的理解には,自分の理解の前提や枠組みをこそ批判的に検討する必要がある。そのことが,臨床心理学における共感のとらえられ方を元に考察された。また,批判を行うためには理解の足場が必要であること,それを自分と相手に繰り返し行うことによって理解が深まっていくことが論じられた。最後に,このような「批判」を伴うコミュニケーションにおいては,「相手の尊重」というもう1つのsoft heartも重要であることが,アサーティプネスの概念を引用しながら論じられた。
Shinzato, Rumiko Serafim, Leon A. 新里, 瑠美子 セラフィム, レオン・A
係り結びは、世界の言語においても稀な構文であるだけでなく、生成・機能主義の両学派に注目される構文でもある。本稿は、『おもろさうし』、組踊、現代首里・那覇方言を基に構築された係り結びの仮説(Shinzato and Serafi m 2013)の妥当性を、先学による琉球諸方言係り結びの記述的研究を通して検証するものである。その過程で、一見仮説への反例と見られる事象、不可解と思われてきた事象について、詳細に検討し、新たな見解を提示する。また、古代日本語の係り結び構文についても、沖縄語の係り結びとの比較研究により得られる知見を指摘する。特に、日本本土の言語の歴史において、係り結びの延長線上にノダ構文を据える見解が沖縄の係り結びの歴史的流れに合致するものと述べる。更に、昨今欧米にて脚光を浴びてきた文法化理論の枠内において、係り結びの成立・発展がどのように捉えられるかについても言及する。これら一連の議論を通し、沖縄語の係り結び研究の意義を明らかにする。
Akamine, Kenji 赤嶺, 健治
1887年に出版された小説『牧師の責任』はウイリアム・ディーン・ハウエルズの関心が個人的問題から社会的問題へ移行したことを示す最初の作品であり、トルストイの人道主義の影響を反映している。この小説の中でハウエルズは新約聖書の「へブル人への手紙」やトルストイによって示された兄弟愛の教えに基づく彼独自の「連帯意識の思想」(the doctrine of Complicity)を主人公 Sewell牧師のロを借りて展開させている。田舎育ちの Lemuel Barker は Sewell牧師の過失によりボストンでの文筆活動に対する過大な期待を抱くようになり、ボストンへ出て来て牧師を訪ねるが、牧師は自らの過ちに気付きながら、Lemuel\nに故郷へ戻るように勧めるため、牧師に裏切られたと思い込んだ Lemuel は牧師宅を飛び出し、大都会の様々な誘惑やわなに翻弄されながら階層化されたボストン社会に対する不満と幻滅を募らせていき、結局は故郷へ戻ることになる。牧師は Lemuel の逆境について良心のとがめを感じ、埋め合わせに自分の教会での説教の中で日々の生活の中ですべての人が兄弟愛を実行するよう熱烈に訴える。
福仲, 憲 Fukunaka, Ken
一般的に, 日本本土の農業を基準にして沖縄の農業がそれからどれ程ずれているかを見ようとする考え方はかなり強いものがある。これは沖縄農業を温帯農業の「はずれ部分」としてだけ見るいわば単眼的な捉え方と言えよう。しかし, 沖縄での「亜熱帯農業」の確立を考える場合には, 北の温帯農業の原理と南の熱帯農業の原理を併せて複眼的に捉えることが基本的に必要である。沖縄農業の近代化が進むにつれて伝統的な複合経営である「甘蔗畑作経営」が, したがってその「防災営農」の技術体系が崩壊し農業経営の単一化は確実に進んできている。つまり, さとうきびモノカルチュアに象徴されるように畜産を含めた他のどの作目もそれぞれが単一経営の技術体系に変わってきている。だから, 近代化技術としての機械化, 施設化, 化学化は農業経営の規模拡大と資本集約化によって経済的な効率化を進めたが, 複合経営の技術体系化による生産力構造の持続的な安定化には結びついてきていない。かつて近世の琉球農業では技術的には地域の自然条件にみあった足腰の強い安定した「家族複合経営」があった。従って今一度, 本来の複合経営の理念に立ち戻って, 今日の発達した科学技術でもって改めて自然と人間のかかわりとして農業のあり方をとらえ直すことによって, 地域農業を再編していくことが沖縄における「亜熱帯農業」確立の原点と言える。
賀茂, 道子
本稿は,占領期に実施された言語改革の政治的側面を検討するものである。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は,複雑な日本語表記システムが民主化のための情報アクセスへの障害になると考え,言語改革を推し進めようとした。とりわけGHQによる民主化のための情報発信を日本人が理解できないことが問題視された。そのため,GHQが想定したリテラシーとは,新聞や憲法などを読んで理解できる能力であった。しかしながら,占領体制が安定し民主主義が浸透するなか,民主化のための情報発信も減少したことで,言語改革はローマ字化といった抜本的なものではなく,部分的な改革に終わった。同様に,リテラシーを測るための「日本人の読み書き能力調査」は,社会生活を送るうえでの最低限の能力を測るものへと変節した。しかしながら,漢字の削減などの言語簡易化によって民衆の情報アクセスは容易になっただけでなく,GHQの意向を斟酌した日本側の自主的な動きによって天皇の言葉や法律が口語化したことにより,民主化の動きを加速させたと考えられる。
岩淵, 令治 Iwabuchi, Reiji
国民国家としての「日本」成立以降,今日に到るまで,さまざまな立場で共有する物語を形成する際に「参照」され,「発見」される「伝統」の多くは,「基層文化」としての原始・古代と,都市江戸を主な舞台とした「江戸」である。明治20年代から関東大震災前までの時期は,「江戸」が「発見」された嚆矢であり,時間差を生じながら,政治的位相と商品化の位相で進行した。前者は,欧化政策への反撥,国粋保存主義として明治20年代に表出してくるもので,「日本」固有の伝統の創造という日本型国民国家論の中で,「江戸」の国民国家への接合として,注目されてきた。しかし後者の商品化の位相についてはいまだ検討が不十分である。そこで本稿では,明治末より大正期において三越がすすめた「江戸」の商品化,具体的には,日露戦後の元禄模様,および大正期の生活・文化の位相での「江戸趣味」の流行をとりあげ,「江戸」の商品化のしくみと影響を検討した。明らかになったのは以下の点である。
シャイヤステ, 榮子 Shayesteh, Yoko
音楽は時間芸術である。音楽は絵画のように空間に留まる事なく未来へ向かって流れて行く。そして、今一瞬流れた音は消え去り、二度と戻っては来ない。この様な特性を持つ音楽を鑑賞するにはどれだけ一瞬に流れ去った音楽を記憶しているかが重要な基礎力となるのである。音楽は複雑に絡み合い時間と共に変化していく。旋律、リズム、ダイナミックス、ハーモニー、テクスチャー、そしてそれらの要素がどのような形式の箱に収められているのかを読み取る能力が求められる。拍感を感じながら旋律を記憶し、主題を記憶しながら主題の行き着く場所を探り、主題の次にブリッジを渡って次の新しい主題へとバトンタッチするのか、或いは、主題が何度も何度もしかし、形を徐々に変えながら進行して行く様を聴けるように訓練していくことが鑑賞指導では大切なのである。本論文は、ハンスリックの形式主義理論に基づく音楽美の視点に立ち、その音楽美を体感するための基礎力を学校教育の音楽科の授業で習得させる為の指導法をその鑑賞教材選択の視点とともに提案するものである。
Komoto, Yasuko
エレーナ・ペトローヴナ・ブラヴァツカヤ(1831-1891,以下「ブラヴァツキー」)は、19世紀末から20世紀初頭の欧米において大きな影響力を持った神秘主義の啓蒙団体神智学協会の、協議を確立した人物の一人である。彼女の「宗教的、形而上学的嗜好」がチベットにあったことは、しばしば言及されるところである(オッペンハイム 1992:215)。例えば、彼女のニューヨークの居室は、「ラマ僧院」(lamasery)と呼ばれていた。しかし、その彼女の部屋に置かれた雑多な品々は、「東洋」を連想させるものではあっても、直接チベットにかかわりを持たないものが多かった。そしてそこに集う人間たちも、チベット人でも、チベット仏教の僧侶でもなかった。従ってその場所と、実際のチベットの事物、または現実の「ラマ僧院」との関連は不明瞭であるように見える。では、何がその場を「ラマ僧院」たり得るものとしていたのか。ブラヴァツキーをめぐる状況において、何が「チベット」として表象されるものとなったのか。本稿はそのありようを手がかりに欧米および日本におけるチベット・イメージの特徴を把握しようと試みるものである。
Hsu, Ruth Y. シュー, ルース Y
本稿では、抵抗と解放への可能性を生じさせる「場」としての記憶と歴史に注目しつつ、アジア太平洋地域の反主導権力的文学テクストについて考察する。アジア太平洋地域の異なる地理的場所において、過去数十年の異なる時期に書かれたテクストを分析していくが、特に21 世紀における昨今の動きの中で有利な位置にあるアジア系アメリカ文学・文化が、いかに合衆国の文学研究をさらなる脱中心化へと導く方法として有効かということについて、合衆国の昨今の問題意識のもとに分析していく。その覇権的な作用が多岐にわたる決定論を無効にするひとつの方法は、支配的な歴史的語り^^ナラティヴに埋もれた、場所や人々の物語^^ストーリーを掘り起こすことである。私たちが過去をどのように認知し、その知見とどのように向き合うかは、日常生活的に課せられた現在の責務(例えば、共同体意識や共通の目的のもとに、政治的に機能する社会を築くことなど)と関わっており、私たちが脱植民地化の流れの中で過去や現在を刷新していくことは、そうした共同体形成の作業に影響を与える。必要なのは、個人的な記憶と共同体や国家の集合的記憶の両方を再構築することであり、それによって、歴史の創造過程が、主導権を掌握する勢力との交渉や闘争の場そのものとなるのである。本稿は、スーチェン・クリスティン・リム(シンガポール)、マリア・N. ヌグ(香港マカオ)、R. ザモラ・リンマーク(ハワイ)の著作やラッセル・リオン(ロサンジェルス)の詩などを検証することにより、脱植民地主義的試みにおける記憶や集合的歴史の問題点に迫る。これらの「物語^^ストーリー」は、アジア太平洋地域の人々がどのように西洋の植民地主義と関わってきたかという経験のありようを垣間見せてくれる。また、これらの語りは、実際にある多様な奴隷状態から登場人物たちがどのように自らを解放へと導いていったかについても明らかにする。読者は、フィクションとしてのこれらの語りを、過去を「再追悼」する行為であると認識すると同時に、広大な脱植民地化の動きの中で人々をつなげる反主導権的ネットワークの生じる場所を、時間的・空間的な多面性、その予想不可能性、流動性、順応性といった力を備えた「場」として位置づける。本論ではまた、そのポストモダン的語りによって脱植民地化の文学の中でイコン的な存在となっているテレーサ・ハッキョン・チャの『ディクテ』についても論じ、結びとして、これまで英訳されることのなかった沖縄文学の作品を含む MANOA の沖縄文学特集号についても触れる。
光田, 和伸
日本の近世において大いに発達した表現手法である「見立て」は「俳諧」においては、ジャンルの芽生え以来深く宿命づけられた手法であった。和歌・連歌の作者の余技・余興として始められた俳諧は、それら先行の文学を参照しつつ、それを異化することで、ジャンルを樹立したのである。その結果、重頼(一六〇二―八〇)の編集になる俳諧作法書『毛吹草』(一六四五)には、「見たて」の条をはじめ「云立」「取成」「たとへ」などの項目を細かく列挙するまでになる。今日の目からすれば、相互の差異を容易には見出しがたいこの精細な分類に、ジャンルの表現の洗練にかける当時の状況がうかがわれる。芭蕉(一六四四―九四)はこのような時代に生まれ、当時の常套的な作風をいちはやく摂取していくが、次第に「和歌世界の見立て」であるという俳諧の表現世界の限界に気付きはじめる。しかし「見立て」は俳諧というジャンルが存立するための基盤であった。彼は逆に表現主体自らを古典作者の「見立て」と見なす方法によるならば、俳諧というジャンルの制約をまもりながら、表現世界の限界を脱して、対象を一挙に時代の全域にまで広げることが可能であるということに目覚めてゆく。表現主題自身を「見立て」と化し、先行の古典作者と自身とを貫くものの自覚へと沈潜することによって、ジャンルの二律背反から脱出した芭蕉は、その原理を、絶えずより広く、深めることで、今日「不易流行」「高悟帰俗」の語によって象徴される新しい文学の方法へと到達したのである。
笠谷, 和比古
本稿は、拙著『士(サムライ)の思想』において論述した日本型組織の源流と、同組織の機能特性をめぐる諸問題について、平山朝治氏から提示された再批判に対する再度の応答である。今回の論争の争点は、一、日本型組織を分析、研究するに際しての方法論上の問題。ここでは平山氏の解釈学的方法に対して実証主義歴史学の立場から、学の認識における「客観性」の性格を論じている。二、イエなる社会単位の発生の経緯とその組織的成長の特質をめぐる問題。ここではイエの擬制的拡大という、本来のイエの組織的成長の意味内容が争点をなしている。三、拙著で論述した近世の大名家(藩)なる組織と、イエモト型組織との組織原理をめぐる問題。ここでは西山松之助氏のイエモト観が取り上げられ、家元が流派の全体に対して絶大な権威をもって臨むイエモト型組織と、藩主が組織の末端の足軽・小者にいたるまで直接的支配を行う大名家(藩)の組織との、組織原理上の移動をめぐる問題が論じられる。そして付論として、日本の在地領主制と西欧の封建領主制との比較検討、特に日本の家と西欧の「全く家」との異同をめぐるやや専門的な問題を取り上げている。
武藤, 秀太郎
本稿は、戦後日本のマルクス主義経済学の第一人者であった宇野弘蔵(一八九七―一九七七)の東アジア認識を、主に戦時中に彼が執筆した二つの広域経済論を手掛かりに検討する。「大東亜共栄圏」は、「広域経済を具体的に実現すべき任務を有するものと考えることが出来る」。――このように結論づけられた宇野の広域経済論に関しては、これまでいくつかの解釈が試みられてきた。だが、先行研究では、宇野が転向したか否か、あるいは、かかる発言をした社会的責任はあるかどうか、といった点に議論がいささか限定されているきらいがあり、戦後の宇野の発言等を含めた総合的な分析はなされていない。私見では、宇野の広域経済論は、戦前戦後を通じて一貫した経済学方法論に基づいて展開されており、彼の東アジア認識を問う上で非常に貴重な資料である。大東亜共栄圏樹立を目指す日本は、東アジア諸国と「密接不可分の共同関係」を築いていかねばならないという、広域経済論で打ち出されたヴィジョンは戦後も基本的に継承されている。このことを明らかにするために、広域経済論を戦後初期に宇野が発表している日本経済論との対比から考察する。
本田, 康雄 HONDA, Yasuo
日本の新聞は総発行部数において自由主義諸国中の第一位であり、一社あたりの総発行部数は読売新聞の約一千万部が世界最高である。そして中央紙、地方紙を問わず日本の新聞には絵入りの新聞小説が朝・夕刊に掲載されている(序)。これは明治のはじめ東京絵入新聞などの小新聞(大衆紙)の雑報欄に生じた所謂三面記事の連載にはじまり(一、雑報記事の連載)、これが虚実相半ばする実話から記事の形を採る創作へ展開して読者の人気を得た(三、所謂「続きもの」)。坪内道遙は読売新聞(改進党系)において紙面の改革を断行し、雑報記事を綴り合せた様な続きものを廃し、別に小説欄を新設した。明治十九年一月より『鍛鐵場の主人』(フランスのジオルジュオネー原作、加藤瓢乎訳)、つゞいて『当世商人気質』(饗庭篁村)を連載した。小説の書き手として尾崎紅葉、幸田露伴が入社し、文壇に紅露時代が成立することとなった(三、新聞小説と坪内遁遙)。坪内道遙の小説欄の改革は、明治十八年に発表した『小説神髄』の理論に基くもので江戸時代以来の我国の道徳的文学観と文化の構造に変更を迫るものであった(おわりに―坪内逍遙の小説観)。
山下, 裕作 Yamashita, Yusaku
現在民俗学においては「文化の資源化」,「ふるさとの資源化」について盛んに議論されている。そこでは主に行政主導の地域振興事業や文化事業への批判的議論が主流をしめ,民俗学の「本質主義」的側面がそうした行政の事業施策に寄与したのだという学への批判が展開される。しかし,これらの議論は,地域の生活者が抱える卑近で切実な問題から目を背けたまま行われているように見える。本稿は,農村が直面する大きな問題として「限界集落」の問題を取り上げ,民俗文化的知見を活かしながらその解決を図る現場の実践を,島根県大田市大代町,新潟県十日町市松代町の二つの事例から分析する。従来の議論が官製の資源化に対する批判に留まっているのに対し,資源化の過程を見ながら,その新しい意味を問い直す試みである。そのうえで,民俗学が提起しうる健全な資源化の方法論の構築を企て,岩手県下閉伊郡岩泉町の現場で実践した試みの顛末を紹介する。いずれも大きな課題であり,未だ検討途上の域を出ない中途半端な検討ではあるが,現在のやや一方的な「資源化」批判の議論に一石を投じることとなれば幸いである。
平川, 南 Hirakawa, Minami
岩手(いわて)県水沢(みずさわ)市の胆沢城跡(いさわじようあと)から出土した一点の木簡は、「内神(うちがみ)」を警護する射手(いて)の食料を請求したものである。その出土地点は胆沢城の中心・政庁(せいちよう)の西北隅(せいほくすみ)であったことから、ここに内神が祀(まつ)られたと理解した。そこで、古代の文献史料をみると、例えば『今昔物語集(こんじやくものがたりしゆう)』には、藤原氏の邸宅・東三条殿(とうさんじようでん)の戌亥隅(いぬいのすみ)(西北隅)に神を祀っており、その神を「内神」と称している。『三代実録(さんだいじつろく)』によれば、都の左京職(さきようしき)や織部司(おりべのつかさ)に戌亥隅神(いぬいのすみのかみ)が祀られている。一方、地方においても、国府内に「中神」「裏神」(うちがみ)が置かれていた。以上の史料はいずれも九世紀以降のものである。郡家については、八世紀の文書に西北隅に神が祀られていたとみえる。こうした役所の施設内の西北隅に神が祀られたのがいつからかは定かでないが、やがて中央の役所や地方の国府などの最も象徴的な施設の西北隅に小さな神殿を形式的に設けたのであろう。この西北隅は、福徳(ふくとく)をもたらす方角として重視されたことが、各地の民俗例において確認できる。〝屋敷神(やしきがみ)〟を西北隅に祀る信仰は、古代以来の役所の一隅に祀った内神を引き継ぐものと理解できる。
下地, 敏洋 城間, 盛市 Shimoji, Toshihiro Shiroma, Seiichi
本報は、教職科目の「教職指導」と「学校教育実践研究」の指導内容に工夫・改善を図ることが、教師を希望する学生にどのような効果があるのかについて報告することが目的である。最初に、「教職指導」においては、教師の基本的な資質である教科指導技術を養成することに加えて、学校現場で突施される「学校一日体験プログラム」を通して教科指導、学級経営、そして部活動などを総合的に関連させることができる。そのことにより、教育に対する視点が学生から教師としての立場へ移行することで、将来の教師像を客観的に見つめる機会となるばかりでなく、課題などの把握にも寄与していることが明らかになってきた。次に、「学校教育実践研究」においては、教師の現状や課題などを理解することで、教師としての使命感を高め、教育実習の事前指導として「模擬授業」を実施した。そのことにより、教科指導に必要な基本的技術の習得、学習指導案の作成を通して、教科書の活用方法、生徒の学習活動、板書計画の在り方などの研究に加え、教育基本法など教育関連法規や学習指導要領の理解に寄与していることが明らかになった。昨今の教育基本法の改正、学習指導要領の全面改定などに象徴されるように教育環境は常に変化しており、教師に求められる力量も実践的コミュニケーション能力や組織マネジメントなど多様な変化に対応するものとなってきている。従って、教職科目においても教育墳境の変化を見据え、教師の力量を高めるための指導内容となる一層の工夫・改善が必要であると考えられる。
鶴田, 欣也 TSURUTA, KINYA
川端という作家の特質の一つは禁止というテーマを巧承に使ったことである。簡単にいうと、生命の流れを塞き止めることで、それをむしろ圧縮し、ほとばしり出すカラクリである。とり上げた三つの作品は禁止のテーマと関連がある。「化粧」は葬儀場の側という特殊な空間を舞台にしている。葬儀場が死の場所、禁止の場所とすると側は排泄の場所であり、解放のプライベートな空間である。作者は側を女の魔性と純粋性を露呈する空間として巧承に使い、最後に「水を浴びたやうな驚きで、危ぐ叫び出す」効果を収める。「ざくろ」の主人公きゑ子はこれから出征する啓吉との間に世間という禁止を意識しているが、それを乗り越えるために、偶然、そこにあったざくろを利用することで機縮された生命感を放射することができる。ざくろは単なる象徴の域を越えて、幾隅もの意味を持って読者に呼びかけてくる。「水月」の京子の生命は二つの全く異った世界から生じるテンションで支えられている。一つは病死した前の夫の世界、もう一つは健康ではあるが鈍いところのある現在の夫である。胸で病死した夫の世界には禁欲のテーマがあり、それを補うために鏡が二人の間に介在した。鏡を通した世界はより美しく、清く、生き生きしていた。この世界は夫と妻というよりも、子供と母親という要素があった。京子はある日現在の夫によって妊娠する。この作品にある何層かのアイロニイを分析すると、京子は妊娠という過程を通して、以前の夫を自分の赤ん坊として蘇えらせたことが判明する。
土生田, 純之 Habuta, Yoshiyuki
西毛地域の古墳出土品を鉛同位体比分析した。分析した古墳は一部に5世紀後半(井出二子山古墳・原材料は朝鮮半島産)や6世紀前半のものも含むが大半は6世紀後半~7世紀初頭に属する。さらにその中で角閃石安山岩削り石積み石室を内蔵する古墳が多い。この石室は綿貫観音山古墳や総社二子山古墳を代表とする西毛首長連合を象徴する墓制と考えられている。特に観音山古墳からは中国北朝の北斉製と考えられている銅製水瓶や中国系の鉄冑などをはじめ,新羅製品も多い。新羅製品は他の角閃石安山岩削り石積み石室出土品にも認められている。かつて倭は百済と良好な関係を結ぶ一方,新羅とは常に敵対関係にあったと考えられてきたため,学界ではこの一見矛盾する事実の解釈に苦しんできたが,筆者は「新羅調」「任那調」に由来するものと考えた。特に今回分析に供した小泉長塚1号墳の出土品中に中国華北産原料を用いた金銅製冠があったが,新羅は当該期の倭同様,銅の原料が少なく何度も遣使した北朝から何らかの形で入手した原材料を用いて制作したものを「新羅調」等として倭にもたらしたものと考えた。もちろん直接西毛の豪族連合にもたらしたのではなく,倭王権にもたらされたものが再分配されて西毛の地にもたらされたものと考えている。西毛は朝鮮半島での活動や対「蝦夷」戦に重要な役割を演じ,そのことを倭王権が高く評価していたことは『日本書紀』の記事からも窺える。こうして6世紀後半~7世紀初頭における西毛の角閃石安山岩削り石積み石室出土品から,当該期の国際情勢を窺うことができるのである。
小澤, 保博 Ozawa, Yasuhiro
佐喜真, 望 Sakima, Nozomi
福田, アジオ Fukuta, Azio
佐喜真, 望 Sakima, Nozomi
本論文では、いち早く労働組合運動とその指導者に好意的な発言を行い、労働組合運動の指導者とも親密な関係にあったリブ=ラブ派資本家の代弁者トマス=ブラッシー二世が1879年に出版した著書Foreign Works and English Wages, Considered with Reference to the Depression of Tradeを主な史料として、トマス=ブラッシー二世の当時の経済状況の分析、労働者の賃金と労働組合に対する態度、不況克服策について分析した。その結果、ブラッシーニ世は、国際競争の激化は認めたものの、イギリスの労働者の能力は他の国に比べて高く、労働者の高賃金がイギリス経済全体に深刻な影響を及ぼしているとは考えていなかったこと、不況の克服策として労働者の質の向上、農業における穀物から畜産の転換と土地の売買を容易にする法律の改正、植民地への移民を提言していること、ストライキに対する態度と出来高払い制の必要性についてはこれまでよりも強硬になっているが、情報収集及び政党に働きかけて法律の改正を実現する機関としての労働組合の積極的意義を強調し、自らも雇用者責任法の実現のために大きく貢献したことなどが明らかになった。この著書において表明された労働問題に対する彼の提言とその後の行動はハウエルやバートのようなリブ=ラブ派の労働運動の指導者によって高く評価され、その後のリブ=ラブ主義の展開とプログレッシヴィズムの成立に大きな影響を及ぼし続けるのである。
佐山, 美佳 SAYAMA, MIKA
『漫文漫画』(大正11)が出版された経緯は、その序文にも述べられているように、もともと大杉栄が望月桂の漫画集の上梓を企て、アルスに持ちかけたものである。ところがアルスは、大杉自身の漫文も一緒に付けることを条件にしたため、大杉がそれに応じることで出版が成立した。つまりアルスの意向は、無政府主義者として世に知られていた大杉の名前で売り出そうとするものだった。それゆえ、出版広告には大杉の名前が強調され、キャッチコピーでは「深刻にして軽妙」と謳われた。だが実際、この書物はコピーに相応しい「深刻さ」を持っているといえるだろうか。題名が示すように、漫文と漫画の共作という、笑いを基調にした書物なのである。このように「深刻」などと大仰に調われる背景には、文壇および出版ジャーナリズムにおける文芸用語の評価軸が関係している。明治二十年代後半以降、「深刻」とは傑作を指し示す紋切り型の表現として浸透していた。その一方で、「深刻にして軽妙」と謳われた大杉自身が、この用語を著述の中で積極的に用いている様子は見られない。管見では、小川未明の小説「嘘」を批評する中で、皮肉を込めながら使用した例が唯一である。こうした大杉の「深刻」という用語に対する冷淡な態度は、七カ国語を理解したという大杉の表現意識や、労働文学へと連結してゆく文学観などが関係すると考えられる。
Chinen, Joyce N. チネン, ジョイス・N
21世紀を生きるハワイの住民は概して他のアメリカ国民よりも優れた市民権と労働権を享受している。これらの権利がどのように獲得されたかということについて、社会的には二つの説明の仕方が定着している。一つは多民族的労働組合主義を基盤とした組織化に成功した労働運動によるものとしての説明である。二つ目は、以前の民主党支持者、労働組合、そして特に第二次世界大戦に従軍し多大な犠牲を払った日系退役軍人たちが共闘しながら社会で政策決定過程における平等を要求し、半世紀にもわたる共和党支配をひっくり返した「民主党革命」によるものとしての説明である。いずれにおいても、沖縄人と沖縄アイデンティティは一般的日本人の括りの中に埋没し、評価されることはなかった。また、一方では、一般的沖縄人は、経済的、社会的成功を勝ち取るべく起業家精神にあふれ、民族的連携を図り、ハワイ農業で苦役に従事する一世として説明される。公文資料と口述史料を基に、本稿では沖縄人が起業家としてではなく社会の活動家として果たした役割を強調したい。特に人口統計学的要素や社会史的要素がどのように活動家としての役割を後押ししたのかを明らかにする。結論として、言祝がれ流布するハワイにおける沖縄人の「立身出世話」とハワイ社会における沖縄人共同体の将来の方向性について再検討を促す。
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