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鈴木, 貞美
本稿では、第二次大戦後の日本で主流になっていた「自然主義」対「反自然主義」という日本近代文学史の分析スキームを完全に解体し、文藝表現観と文藝表現の様式(style)を指標に、広い意味での象徴主義を主流においた文藝史を新たに構想する。そのために、文藝(literar art)をめぐる近代的概念体系(conceptual system)とその組み換えの過程を明らかにし、宗教や自然科学との関連を示しながら、藝術観と藝術全般の様式の変化のなかで文藝表現の変化を跡づけるために、絵画における印象主義から「モダニズム」と呼ぶ用法を採用する。印象主義は、外界を受けとる人間の感覚や意識に根ざそうとする姿勢を藝術表現上に示したものであり、その意味で、のちの現象学と共通の根をもち、今日につながる現代的な表現の態度のはじまりを意味するからである。 従来用いられてきた一九二〇年代後半から顕著になる新傾向には、「狭義のモダニズム」という規定を行い、ここにいう広義のモダニズムの流れに、どのような変化が起こったことによって、それが生じたのかを明らかにする。従来の狭義のモダニズムを基準にするなら、ここにいうのはモダニズム前史ないし"early modernism"からの流れということになる。 本稿は、次の三章で構成する。第一章「文藝という概念」では、日本および東アジアにおける文藝(狭義の「文学」、文字で記された言語藝術)という概念について、広義の「文学」の日本的特殊性――ヨーロッパ語の"humanities"の翻訳語として成立したものだが、ヨーロッパと異なり、宗教の叙述、「漢文」と呼ばれる中国語による記述、また民衆文藝を内包する――と関連させつつ、ごく簡単に示す。その上で、それがヨーロッパの一九世紀後期に台頭した象徴主義が帯びていた神秘的宗教性を受容し、藝術の普遍性、永遠性の観念とアジア主義や文化相対主義をともなって展開する様子を概括する。日本の象徴主義は、イギリス、フランス、ドイツの、それぞれに異なる傾向の象徴主義を受容しつつ、東洋的伝統を織り込みながら、多彩に展開したものだったが、その核心に「普遍的な生命の表現」という表現観をもっていた。これは国際的な前衛美術にも認められるものである。 第二章「美術におけるモダニズム」では、印象主義、象徴主義、アーリイ・モダニズムの流れを一連のものとしてとらえ、その刺戟を受けながら、二〇世紀前期の日本の美術がたどった歩みを概観する。 第三章「文藝におけるモダニズム」では、二〇世紀前期の日本美術と平行する文藝表現の動向を概観する。そして、それと狭義のモダニズムの顕著な傾向である表現の形式と構成法への強い関心との連続性と断絶を示す。ただし、広義のモダニズムの中には、もうひとつ、表現の即興性にかける流れも生まれていた。小説においては「しゃべるように書く」饒舌体で、それが一九三五年前後に、狭義のモダニズムに対して、ポスト・モダニズムともいうべき「この小説の小説」形式を生んでいたことをも指摘する。
権藤, 愛順
本稿では、明治期のわが国における感情移入美学の受容とその展開について、文学の場から論じることを目標とする。明治三一年(一八九八)~明治三二年(一八九九)に森鷗外によって翻訳されたフォルケルト(Johannes Volkelt 1848-1930)の『審美新説』は、その後の文壇の様々な分野に多大な影響を与えている。また、世紀転換期のドイツに留学した島村抱月が、明治三九年(一九〇六)すぐに日本の文壇に紹介したのも、リップス(Theodor Lipps 1851-1914)やフォルケルトの感情移入美学を理論的根拠の一つとした「新自然主義」であった。西洋では、象徴主義と深い関わりをもつ感情移入美学であるが、わが国では、自然主義の中で多様なひろがりをみせるというところに特徴がある。本論では、島村抱月を中心に、「新自然主義」の議論を追うことで、いかに、感情移入美学が機能しているのかを検討した。 感情移入美学の受容とともに、<Stimmung>という、人間の知的判断、認識以前の本源的な「情調」に対する関心が作家たちの間にひろがりをもつ。そして、文学表現の場で、<Stimmung>をいかに表すかという表現の方法も盛んに議論されている。本稿では、感情移入美学がもたらした描写法の一つの展開として、印象主義的な表現のあり方に着目し当時の議論を追っている。 さらに、感情移入美学と当時の「生の哲学」などの受容があいまって、<生命の象徴>ということが、自然派の作家たちの間で盛んに説かれるようになる。<生命の象徴>ということと感情移入美学は切り離せない関係にある。感情移入美学が展開していくなかで、<生命の象徴>ということにどのような価値が与えられているのかを論じている。 また、感情移入美学の大きな特徴である主客融合という概念は、作家たちが近代を乗り越える際の重要な方向性を示すことになる。ドイツの<モデルネ>という概念と合わせて、明治期のわが国の流れを追っている。
山本, 良 YAMAMOTO, Ryo
〈美〉に関する言説は、明治十年代の半ばから大量に流通するようになった。これは、啓蒙主義からロマン主義への転換という事態と相即的な関係にある。そうした動向のなかで、坪内逍遙『小説神髄』(明治十八~十九)によって江戸・明治期の稗史小説とは異なる〈小説〉の生産が提唱され、その後、〈美〉と〈小説〉とは急速に結びつけられる。それはまた、東京大学を中心とする当時の知的変動を象徴する動きでもあった。本稿は、そのような動きを美学化aestheticization―理性の普遍性と感性の特殊性とを媒介する試み―と呼び、〈小説〉に関する言説を中心にその動向を分析する。
東, 晴美
近代の歌舞伎研究については、明治以降に新作された作品、得に局外者と呼ばれる文学者が手がけた新歌舞伎に注目されることが多い。しかし、前近代に初演された純歌舞伎狂言も、近代を経て現代に伝えられている。本稿では、江戸時代に初演され、現代においても中学生や高校生の歌舞伎鑑賞教室などでも上演される機会の多い「鳴神」をとりあげる。 「鳴神」は明治期に二代目市川左団次によって復活上演された。左団次は小山内薫とともに自由劇場をたちあげ、近代劇にも深く関与した。本稿は、左団次が渡欧した一九〇七年から一九一〇年の「鳴神」の復活上演までの活動を検証し、前近代の作品が現代に継承される過程で、近代の知識がどのように関わったのかを明らかにする。 これまでの二代目市川左団次の評価は、新歌舞伎や翻訳物を手がけ、小山内薫と自由劇場を立ち上げたことから、「近代的」とされることが多い。しかし、左団次の近代性がどのようなものなのか、明らかにされてこなかった。本稿では、松居松葉と二代目市川左団次の一九〇七年における渡欧体験を分析し、左団次の近代性は一九〇七年のヨーロッパの演劇の動向と深く関わっていることを指摘した。 また、左団次が復活上演した「鳴神」は、劇評や左団次の芸談が「自然主義」に触れているため、近代の自然主義を取り入れたものと指摘されてきた。しかし、日本における自然主義は近年の研究で、十九世紀末二十世紀初頭においては極めて多義的で象徴主義や表現主義にも連なっていくことが明らかにされてきた。本稿は、このような研究成果を踏まえて、復活上演された「鳴神」にみられる自然主義が同時代の文芸思潮と密接に関係するものであったことを検証した。
Cheah, Pheng チャー, フェン
学術的に多大な影響を与えた2000年の著作『帝国』で、マイケル・ハートとアントニオ・ネグリは、ポストコロニアル理論は行き詰まっているという議論を展開した。近代的な支配の形にこだわるコロニアリズムは、現代のグローバリゼーションにおいてもはや主要な権力として存在していないというのが彼らの論点である。彼らが「帝国」と呼ぶポストモダン的主権国家にも利点と弱点はあるものの、こうした主張に真実がないこともない。文学研究分野におけるポストコロニアル理論や文化批評は、19世紀ヨーロッパの領土的な帝国主義や植民地主義の経験を根本的なパラダイムとする抑圧や支配、そして搾取についての分析に端を発してきた。よって、我々がサイードのオリエンタリズム的言説や表象のシステムや、ファノンを書き換えたバーバの「植民地主義的言説における人種差別的ステロタイプ」や、さらにはスピヴァクのいう、植民地主義的法律や教育の文明化的プロセスを経てつくられていく「植民地主義における主体形成」の認識論的な暴力などというものを考察しようとするとき、ポストコロニアル的文化批評の異なる位相は、植民地化された主体が生じる瞬間に押し付けられる神話やイデオロギー、あるいは、様々な基準との関係において理解され、「精神主義的」あるいは「象徴的/想像的」な性質を強調し、「権力に対する共通理解」と結びついていく。本論では、まず、現代のグローバリゼーションにおける権力を、精神論的なものとして理解することは不適切であるという点について述べていく。すなわち、現代のグローバル資本主義において必然的に「女性化」している越境的労働力は三種類あり、その三つのタイプの女性の主体がどのように作られていくかを論じたい。そこには、外国による直接投資の体制下にある女性工場労働者、外国人家事労働者、そして人身売買されて来るかまたは別の理由で越境して来る性労働者などが含まれる。物質中心的なシステムにおける主体形成のプロセスが、どのようにしてポストコロニアルやフェミニストの理論に関わる中心概念を根本から再考することにつながっていくだろうか。
Kobayashi, Masaomi
全ては他の全てと関連している――それが一般的なエコロジーの第一原則である。本稿は、そのように全てを関連性の総体とする全体論を広義のエコロジーとして捉え、様々なエコロジーの外部を探求する。その際に文学作品に言及することで、フィクションが提示する外部性の可能性も見出す。第一に扱う全体論は、カント以来とされる相関主義――現実は意識と事物の相関による現象であると主張することで人間の思考の外部性を排除する主義――である。この哲学論に対して、意識に先立つ事物の存在から意識の外部を考えるのが思弁的実在論である。主唱者の一人であるカンタン・メイヤスーは、偶然性の必然性を説くことで思考に基づく相関性の外部性を指摘する。そして相関性を前面にした作品がアーネスト・ヘミングウェイの「何を見ても何かを思い出す」であり、対照的に偶然性を前面にした作品がポール・オースターの『最後の物たちの国で』である。つづく全体論は、人間中心主義としてのヒューマニズムである。この全体論は、IoTやAIの登場によって、その完全性を維持できなくなりつつある。そしてP・K・ディックの代表作『電気羊はアンドロイドの夢を見るか?』におけるモノの世界は、まさに外部性を体現している。最後に扱う全体論は、歴史哲学者ユヴァル・ノア・ハラリが考察するデータ主義である。ビッグデータなどの膨大なデータにおいては、ヒトもモノも解析データとして一様に存在する。そして絶え間ないデータの流通を生命体として描いているのがドン・デリーロの『コズモポリス』である。データ主義を体現する主人公の死をもって終わる本作は、データ主義の外部性を象徴的に描く。かくして本稿は、「外部性の可能性」(outside possibilities)を発見することで、エコロジーとしての全体論を批判的に思考するための本来的な意味における「わずかな可能性」(outside possibilities)を提示する。
竹村, 民郎
大連勧業博覧会(以下大連勧業博と略す)が一九二五年八月十日に、大連市で幕をあけた。これは博覧会と植民地主義との結合というものの輪郭をしめすのに大きく寄与した。博覧会が開催された時期は、大連市で新市制が施行された年(一九二五年)である。さらに言うならば中国上海市における五・三〇事件勃発及び満州における国際資本戦が激化し始めた時代でもある。この帝国の危機は合理的な満蒙政策と結びついた「文化主義的支配」と称されているものへの転換を導いていくこととなる。 まさに大連勧業博はこれを象徴するものであり、博覧会を契機として、日満鮮をつなぐツーリズム、ラジオ放送、映画、ライフ・スタイルの新しい形態、都市空間を彩る夜間電飾等の情報・文化装置が一斉に出現した。経済的にも大連勧業博開催期は、大連市における政商的企業家層の退潮と、満鉄及び日本の一流企業、実務的知識人等による大連市経済界への進出に特徴づけられる。さらに言うならば大連勧業博開催期は、大連市のみならず、満州の日本人社会に満蒙統合や、ラディカルな満蒙認識を呼ぶ世論が沸騰しはじめた時期でもあった。
森, まり子
本稿は,チュニジアの「ジャスミン革命」と「アラブの春」を経た今日新たな意味を帯びるパレスチナ人政治学者タミーミーの著書を再読し,イスラームと民主主義の関わりについての論点を提示しようとするものである。約10 年前に出た同書は,1970 年代以来チュニジアの民主化運動で重要な役割を果たしてきた穏健なイスラーム主義者で,「ジャスミン革命」後の総選挙で第一党となったナフダ党の党首ガンヌーシーの「イスラーム的民主主義」に光を当てている。ガンヌーシーは西洋民主主義の制度と哲学を切り離し,前者をイスラーム的価値観と合体させた「イスラーム的民主主義」による独裁の終焉を構想した。マグリブの独裁と結び付いた世俗主義への彼の批判は,民主主義は世俗的であるべきという西洋的概念の自明性を問うものでもある。彼の思想は急進派が主張する「神の主権」を「人民主権」に限りなく近づけるが,イスラームの枠内の自由やプルーラリズムが前提になる点で西洋的自由概念との相剋もはらむという,イスラーム主義に共通する未決の問題点を持つ。西洋民主主義とイスラーム的民主主義の相剋は,19 世紀末以来の西洋的近代とイスラーム的近代(二つの近代)の相剋の問題でもあった。またイスラーム的近代,イスラーム的民主主義自体も,複数形でしか語り得ない多様性を持つことを本書は示唆している。
鈴木, 貞美
和辻哲郎(一八八九―一九六〇)の『ニイチェ研究』(一九一三)は、彼の哲学者としての出発点をなす書物であり、同時に、日本における初めてのまとまったフリードリッヒ・ウィルヘルム・ニーチェ(Friedrich Willhelm Nietzsche, 1844-1900)の研究書として知られている。また、そこに示された考え方は、その後の彼の歩みに、かなりの意味をもつものとなった。 本稿第一章では、『ニイチェ研究』の立場、方法、意図を分析し、「宇宙生命」を原理とする初期和辻哲郎の哲学観が大正生命主義の一典型であることを明らかにする。第二章「『ニイチェ研究』まで」では、和辻哲郎の最初期の著作にニーチェへの接近の跡をたどり、第三章では、内的経験、暗示象徴、永遠回帰、宇宙生命などのキイワードについて考察し、また同時代思潮との関連をさぐる。第二章、第三章をあわせて、初期和辻の哲学観、世界観(狭義の哲学観、表現観)の形成過程を明らかにする。「結語」では、各章の結論をまとめるとともに、和辻哲郎の初期哲学が、その後の歩みに、どのように働いているかを展望する。 なお、本稿は、和辻哲郎の「哲学」「芸術」観をめぐって、「修養」及び「人生論」との関係を探る点で、二十世紀初頭の学芸ジャンル概念編成の解明に資するものであり、同時に和辻哲郎の「宇宙生命」観念と、その形成過程を探る点において、二十世紀初頭の生命観、とりわけ大正生命主義研究を増補するものである。
関沢, まゆみ Sekizawa, Mayumi
本館第6展示「現代」の「高度経済成長と生活の変貌」のコーナーでは,高度経済成長期に生まれた新しい都市型生活の象徴として団地を,そしてその都市部へ電力や水資源を供給するために新しく造られたダムとそれによって消滅した山村の生活を,それぞれ対比的な位置づけでとりあげた。ここではそれに関連する研究情報として,高度経済成長期に起こった生活の変化とその後,そして人びとの意識や価値観の変化についての分析を試みた。それらを通して論点として浮上したのは,以下のような諸点であった。第一に,民俗学の特徴は,高度経済成長期だけでなく,そこに端を発しながらそれ以降に急速に進んだ生活の変化について追跡的に把握し変遷論的な視点から分析を進める点にある。第二に,それはたとえば昭和30年代には憧れの団地であったのが昭和40年代には郊外の1戸建てマイホームが憧れとなるなど変化が早かったこと,ダム建設によって水底に沈んだ村ではそれまでの自給自足的な山の生活が失われた一方,現在でも鎮守社の秋祭りを継続して村人の親睦の会が継承されていること,など変化と継続との両方の視点が有効である。第三に,高度経済成長が生んだものの一つが,大量生産,大量消費,そして大量投棄というまったく新たな生活問題であったが,「東京ゴミ戦争」に象徴されるようにそこには物質としてのゴミ問題に止まらず,人びとの不潔,汚穢をめぐる意識としてのゴミ問題が存在し,その克服への努力の実際が確認された。第四に,かつて日露戦争後の農村から都市への人口の大量移動に対して柳田國男が指摘した「家の自殺・他殺」が,従来とはまったく異なる規模で起こっている現場の確認ができ,それらについてのより広範な調査情報の収集の必要性が痛感された。そして,もっとも重要な第五の点として指摘できるのが,「生活革命」という語および概念を安易に使用してはならないという論点である。高度経済成長期を通じて,人びとの生活様式が変化するとともに人びとの意識も変化した。その意識の変化のなかで最も顕著なものとして指摘できるのが,「個人化」・「私事化」である。しかし,ではそれによって個人主義,自立主義が確立したかといえばそうではない。かつてと同じ大衆主義,大衆迎合主義が依然として残り,宣伝や流行に乗りやすい集団志向は変わっていない。高度経済成長によってもたらされた新しい生活様式は生活用品や生産用具が機械や電気によって変えられただけで,人々の思考方法や意思決定の方法までは変えていないことを意味している。つまり,高度経済成長はエネルギー革命や技術革新などによる生活の大変化をもたらしたが,それは基本的に政治と経済,政策と資本がリードした生活変化であり,村や町の生活現場からの内発的な動機や要求によって起こった変化ではなかったのである。つまり,高度経済成長期の生活変化は,外在的な影響による形式変化が中心であって,内発的な能動的なものではなかったというこの点は重要である。つまり,「生活変化」と呼ぶべきレベルにとどまっているのであり,「生活革命」と呼ぶべきではないと考える。
Shinmen, Mitsuhiro
社会主義体制崩壊後の旧東欧社会において民族主義や宗教の影響が大きくなったばかりでなく,この両老が相互に深く結びついて対立や紛争のなかで大きな役割を果たしたことは西側の人々に驚きを与えた。しかし,旧東欧の社会主義体制下では社会主義イデオロギーが社会を表層では支配していたものの,実際には民族主義が社会的に大きな影響力をもっていたのである。旧東欧諸国のひとつであるルーマニアも例外ではなかった。社会主義体制下において民族に関する表象およびその言説が社会のなかで支配的であり,一方キリスト教も民族的伝統を代表し,民族的価値を肯定するかぎりで肯定的な評価を保っていた。このことが意味するのは,もともと民族に限定されず普遍的な立場に立つはずのキリスト教や国際間の階級的連帯に立脚して国家や民族を否定する社会主義思想が,実際には民族的感情や民族理念を強調する民族主義的立場に近づいていたという事実である。 本稿ではこうした共存のしくみを説明するために,スターリン批判以後の政治的危機,および民衆の日常生活における戦略的行為が生み出した社会主義体制の危機に対して,共産党指導部が行った民族表象の操作とその効果に注目する。その具体的手段として党指導部が利用しようとしたのは聖職者と知識人であり,その求めに応じて聖職者や知識人は社会主義体制下での従属的な役割を受け入れた。党指導部がこの操作を行った理由は,ルーマニア社会における戦前からの強い民族主義的な傾向と民衆へのキリスト教会の大きな影響力にあった。民族主義は第二次大戦後は抑圧され,キリスト教もスターリン主義体制のもとで弾圧されたが,いぜんとして強い影響力を保持していた。スターリソ批判以後の政治的危機をのりこえるためにソ連からの自立の道を選んだ党指導部は,独自の社会主義体制を確立するために国内統合の原理として民族主義とキリスト教を利用しようとしたのである。ただし,これら聖職者や知識人もただ一方的に受動的に操作されたわけではなく,主体的な戦略をもっていた。聖職者はキリスト教に民族的伝統を代表させることによって社会的な影響力を増大させ,知識人は党指導部との言説のヘゲモニーを競うとともに知識人共同体の内部でも競合することによって,結果として伝統的な民族的言説を強化した。さらに民衆も民族主義とキリスト教を利用する党指導部のプロパガンダによって操作されていたばかりではなく,生活上の必要に迫られて民衆が選択した戦略は,党による社会的支配の効力を弱めた。一方,石油ショックの影響による経済発展の挫折は,発展を約束する社会主義イデオロギーの建前としての根拠すら失わせ,党指導部は対外的緊張や民族主義にいっそう依存せざるをえなくなった。こうして,政府が行った民族表象の操作は,その意図をこえて民族主義が社会の支配的な思想となって,社会主義とキリスト教の共存を可能にする結果をもたらしたのである。
張, 帆
近年、学界では「グローバル国際政治学」(Global IR)に関する議論が高まり、日本の国際政治学の再考は重要な課題となった。とりわけ、高坂正堯、永井陽之助ら「現実主義者」の国際政治思想は大きく注目され、いわゆる「日本的現実主義」に関する研究が進んできた。しかし、既存の研究の多くが冷戦前期に焦点を当てるため、冷戦後期の日本的現実主義の展開は十分検討されていない。他方、同時期の安全保障・防衛政策に関する研究において「防衛計画の大綱」や総合安全保障戦略、防衛費「GNP 1%枠」の撤廃に対する「現実主義者」の関与がしばしば言及されるが、日本的現実主義の動向が議論の中心ではない。 以上を踏まえ、本稿では冷戦後期の日本的現実主義の展開を考察対象とする。同時期の日本的現実主義に関する重要な手がかりとされた「モチヅキ=永井説」は、「政治的リアリスト」対「軍事的リアリスト」という日本的現実主義の内部対立を示唆した。しかし、同説が必ずしも当時の日本的現実主義の全体像を示したわけではなく、その妥当性について議論の余地がある。これに対して、本稿では冷戦後期の防衛論争を顧みながら、同時期の日本的現実主義を再検討することを試みる。 本稿の構成は以下の通りである。第一節では、冷戦前期の日本的現実主義の展開を概観しながら、いわゆる「政治的リアリスト」の主張が七〇年代に体系化され、日本の安全保障・防衛政策と一体化する過程を分析する。第二節では、高坂、永井、猪木正道、岡崎久彦、中川八洋、佐藤誠三郎らの議論を中心に、冷戦後期の防衛論争を詳細に検討する。第三節では、防衛論争における主な争点をまとめ、「モチヅキ=永井説」の問題点を指摘したうえで、冷戦後期の日本的現実主義が「総合安全保障論」対「伝統的安全保障論」を軸に変容したことを解明する。
堀, まどか
野口米二郎(一八七四―一九四七)は、一九一四年一月、ロンドンのJapan Societyにて “Japanese Poetry”、オックスフォード大学Magdalen Collegeのホールにて “The Japanese Hokku Poetry”と題して、日本詩歌についての講演を行った。それらの講演がまとめられ、同年三月にはThe Spirit of Japanese Poetry としてジョン・マレー社から刊行され、翌一九一五年一〇月に日本語版『日本詩歌論』(白日社)として出版された。本稿は、野口がこれらにおいて何を語り、そこにいかなる意義があったのかについて論じたものである。 この講演において、野口は、日本詩歌の最も優れた詩は《書かれない(Unwritten)》詩、《沈黙の中に歌われる(sung in silence)》詩であると述べた。野口はすでに欧米で関心がもたれていた俳句(野口はhokkuと呼ぶ)を中心に日本詩歌の精神を論じ、松尾芭蕉をその最高峰として語った。野口が、当時欧米において評価の高かった「落花枝に」を批判して、芭蕉の「古池や」を秀句として示したことは、英国聴衆に対して衝撃を与えたといえる。また芭蕉と比較して、マラルメを挙げ、ペーターを挙げて、俳句を象徴主義(野口は表象主義と呼ぶ)や同時代的な英国詩壇の潮流の中で論じたことは、たいへん重要である。野口の、芭蕉と西洋詩人たちとの対比、そして欧米の文学論にはめ込んだ日本詩歌論は、欧米人には勿論、日本人にとっても刺激的な興味深いものであったに違いない。 野口は、日本詩歌の伝統とその美のありようを、日本の詩人としては初めて欧米に紹介した。アストンやチェンバレン、天心によって既に知られていた例や概念を用いながらも、自らの翻訳をもって、従来の解釈に批判を加え、あるいは深化させた。詩人としての独自の見解を示しつつ、幅広い観点と優れた感性をもって日本文化の精神を論じようとしたといえる。彼の日本詩歌論は、欧米文壇の時代の潮流にのり、また日本に逆輸入されるような形でも影響し、インタラクティブに同時代に作用したといえる。
全, 京秀
博物館の概念は西洋における帝国主義及び植民地主義の拡大という脈絡とは無縁ではありえない。朝鮮総督府博物館は1915年に朝鮮王宮跡地に創設され,しかも博物館の名称自体が,植民地の民族に対する支配を明白に示していた。これを「植民地主義博物館」と私は呼びたい。前者と対照をなす「民族主義博物館」は,米国軍政府の援助のもとでの独立と共に,最終的に建物・機構ともに前者に取って代わった。この博物館は1950年の朝鮮戦争の直前にソウルの人類学博物館と合併した。この意味ではこの博物館は,異文化を展示するという人類学的内容をもっていたわけである。植民地時代には民族を支配するために,独立以降は民族とその政府にとって,古くからの由来や文化的価値,そして政治的正統性を提示することで,博物館は少なくとも植民地主義的利益と民族主義的利益のために尽くしてきたのである。21世紀にはグローバリズムというキーワードが世界の中で我が国の博物館を示していく主要な課題となるかもしれない。
林, 正子
本稿は、早稲田派の文芸思想家=金子筑水(一八七〇―一九三七)が、総合雑誌『太陽』の文芸時評欄を担当した明治四三(一九一九)年七月から大正二(一九一三)年一二月までの三年半のうち、特に明治期に発表した論説を考察対象として、時代精神の洞察者・提言者である筑水の再評価を試みたもの。 筑水の業績としては、ルドルフ・オイケン(Rudolf Eucken 1846-1926)らドイツ哲学についての先駆的な紹介、ドイツ自然主義文学理念をもとにしての日本自然主義文学論の展開、明治・大正期の哲学に関する鳥瞰的な見取り図の提示、時代精神を読み解く両性問題論、生命哲学論、文化主義論の展開などの項目が挙げられる。 そして、このドイツ思想・文化受容を通しての筑水の近代日本精神論を貫くのが、オイケン哲学の受容をひとつの契機として提唱された〈新理想主義〉。これは、現代文明・自然主義の超克を訴え、新しい精神生活の建設を唱える思想であり、この〈新理想主義〉をバックボーンにして展開された〈自然主義的論調の時代〉の『太陽』において、時代の思潮を映し出す鏡としての意義を発揮していると言えるだろう。
イノウエ, チャールズ シロー
近代意識は、figuralityの制御によって発展してきた。Figuralityというのは、書記素の表現力である。そして、書記素は、記号の持つ目に見える物質的記号の要素だ。したがって、近代意識は物質的な目に見えるものの表現力を抑えること、つまり、目に見えない非物質的な音素の表現力を生かすことによって展開してきた。 本稿は、およそ一七世紀の初めから一九七〇年までの間に起こった三つの記号上の傾向をまず指摘する。それは、(1)音声中心主義、(2)写実主義、(3)象徴的な枠を造る傾向である。この三つが、近代において支配的だった「近代小説」という形で合流してきた。近代小説に口語的、描写的、心理的な要素があるのは、このような傾向があったからである。あの時代になぜ小説がそれほど人気を集めたのか、また一九世紀の終わりごろになぜ挿絵とテキストが分裂したのかがこれで説明できるであろう。 この三つの傾向の共通点は、書記素の制御である。物質的で、目に見える物の表現力を抑える必要があったのは、書記素には、近代人の各々の理解の相違を明らかにしてしまうところがあったからである。近代という時代に、理解の相違を明白にすることは甚だ好ましくなかった。なぜなら、近代社会は、「国家」や「帝国」のような(ものを正しく見るための視点や枠を与える)象徴の共通の理解の上に成り立っていたからだ。むろん、それは錯覚であったには違いないが、虚構というものがあったので、真実でないものが真実のようになることができた。つまり、その嘘を信じられる形にして、広く納得させることを可能にした。 近代的技術の発展が多くのものを作り出した。例えば、写真、映画、写真印刷、テレビ等があるが、それらの出現によって、書記素が抑え切れなくなってきた。その結果として、近代意識がだんだん弱くなってきた。おそらく、そのようなものを発明する必然性は、人間が記号の持つ可能性に応じることにあろう。新しい記号が持つ可能性に気づき、それを今までの記号的形成に取り入れようと努力する。つまり、記号の変身は、文化を発展させる基本的なエネルギーであろう。 ポスト近代である今の時代は、figuralityがもう一度支配的になってきている。今は、歪みは歪みとして現れてもよくなってきた。歪みはもはや仮面を付けて出る必要がないし、我々の理解の相違が、一致して出る必要もなくなったのである。
McNally, Mark T. マクナリー, マーク
尚泰久王統治下の琉球王国において、万国津梁の鐘は、王の統治の正当性を主張する重要な機能を持っていた。王は王国の持つ富と権力を誇る内容の碑文を鐘に刻ませたが、その碑文を政治的に有効にし、その有効性をその後も継続させたのは、今日アメリカ研究の分野において例外主義(exceptionalism)と呼ばれている形態にあった。近世の琉球人が、朝貢国である中国を自分の国よりも優れていると認識していたことは、東アジアにおける中国の優位性の上に成立していた朝貢貿易というしくみが、琉球王国にとって特に重要であり、例外主義として機能しているという点で、歴史的重要性をもつ。中国、アメリカ合衆国、そして日本の事例において、歴史家はしばしば政治的・文化的優位性を表明する言説がいかに例外主義として機能するかを分析しようとするが、琉球王国の事例における例外主義には、そうした優位性の主張が見られない。琉球王国の例外主義は十九世紀のアメリカと同じように、世界主義(cosmopolitanism)を支持する例外主義であり、世界史的な観点からも意義深いと言える。
小林, 青樹 Kobayashi, Seiji
弥生集落の景観形成にあたって重要であるのは,絵画の分析から,第1に集落の中枢に位置する祭殿と考える建物(A2・A3)の存在であり,この祭殿を中心として同心円状に景観を形成している。そして,第2に重要であるのは,祭場をもつ内部と外部を区別化する環濠である。本論では後者を中心に検討した。平野部の環濠集落のなかには,環濠が河川と接続するものがあり,水をたたえた環濠はむしろ河川を象徴化したものであると考えた。環濠は,境界・結界を現す区別化の象徴である。このあり方と連動して,絵画の中には,それぞれの空間における儀式・儀礼に,景観形成で確認した「辟邪」を意図した図像や身体技法をも表現している。弥生集落の景観は,こうした各々の儀式や儀礼に一貫した約束事である「儀礼的実践」を根底におき形成されていたと考える。環濠の境界・結界としての象徴的意味は,銅鐸の埋納・絵画・文様の意味とも相同関係にある。いずれも辟邪としての機能をもち,銅鐸は境界・結界に埋納され,鋸歯文のような文様自体も辟邪の象徴であり,それは祭殿の飾り文様としても機能した。その後鋸歯文は,古墳時代の柵形埴輪の飾りにも引き継がれ,祭場を区別化する境界・結界の象徴として機能した。弥生集落で確認した祭場を中心とした景観形成は,古墳時代に一般集落からの祭場の分離独立という変化を経るが,その根底の儀礼的意味と儀礼的実践は形を変えながらも継承されたと考える。
寺石, 悦章 Teraishi, Yoshiaki
シュタイナーとフランクルは中心的な活動分野こそ異なるものの、その思想には多くの類似点が見出される。本稿では楽観主義と悲観主義、およびそれらと関連する快、不快、苦悩、平静などに注目して、両者の思想を比較考察する。一般に楽観主義・悲観主義は快・不快と関連づけて捉えられることが多いが、シュタイナーとフランクルはいずれも快は結果として生じるものであって目標ではないとする。そして快・不快に基づいて人生を考えること、快を目標として捉えること自体が誤りだと指摘している。また快・不快の比較については、比較自体はどうにか可能かもしれないが、人間の行動には本来、影響を与えないと主張している。フランクルは苦悩を重視し、苦悩に耐えることによって人間は成長すると考えている。これに対しシュタイナーは平静の重要性を指摘する。ここでの平静とは「苦悩しないこと」「苦悩せずに済ませること」として理解することも可能だが、そこに至る過程においては苦悩に耐えることが必要になる。この点からすれば、フランクルが語る苦悩とシュタイナーが語る平静には、重なる部分が大きいといえそうである。フランクルもシュタイナーも、自らの立場を楽観主義だと明言しているわけではない。ただし楽観主義を「人生あるいは未来に希望を見出す立場」といった形で捉えるならば、両者とも楽観主義の立場を取っていると判断して 差し支えないと思われる。
長谷川, 裕 Hasegawa, Yutaka
本稿の課題は、中内敏夫の教育理論が「能力主義」をどう捉えそれとどう向き合おうとしてきたのかを検討することである。中内は、能力主義は、教育領域にそれが浸透すると、教育による人間の発達の可能性の追求を断ち切ってしまうものとして捉えこれを批判し、一定水準の能力獲得をすべての者に確実に保障するための教育の実践と制度の構築をこれに対置して提起した。1990年頃中内は、近代になり〈教育〉という特殊な「人づくり」の様式が誕生・普及したが、そこには能力主義的・競争的性格が根源的に抜き難く刻み込まれているという論を押し出すようになるが、しかしその後も、上記のようないわば〈教育〉の徹底による能力主義への対峙という主張を基本的に変えていない。すなわち、〈教育〉は能力主義社会・競争社会に生きる人間の自立を助成する営みであらざるを得ないとの前提に立ち、その上で、「義務教育」としての「普通教育」においては、その社会を渡っていけるだけの「最低必要量」の能力獲得の保障を徹底させる、そのことが可能になるように〈教育〉の効力を向上させる―これが中内の能力主義に向き合う際の基本的スタンスである。本稿はこのように論じた上で最後に、中内の教育論とビースタのそれとを比較対照し、それを踏まえて〈教育〉がどのように能力主義と対峙すべきかについての筆者自身の見解を述べた。
鈴木, 貞美
今日、日本の近現代文芸をめぐって、一部に、「文化研究」を標榜し、新しさを装いつつ、その実、むしろ単純な反権力主義的な姿勢によって、種々の文化現象を「国民国家」や「帝国主義」との関連に還元する議論が流行している。この傾向は、レーニンならば「左翼小児病」というところであり、当の権力とその政策の実態、その変化を分析しえないという致命的な欠陥をもっている。それらは、「新しい歴史教科書」問題に見られるような「日本の威信回復」運動の顕在化や、世界各国におけるナショナリズムの高揚に呼応するような雰囲気が呼び起こしたリアクションのひとつであろう。その両者とは、まったく無縁なところから、第二次大戦後の進歩的文化人が書いてきた日本の近代文学史・文化史を、その根本から――言い換えると、そのストラテジーを明確に転換して――書き換えることを提唱し、試行錯誤を繰り返しつつも、少しずつ、その再編成の作業を進めてきた立場から、今日の議論の混乱の原因になっていると思われる要点について整理し、私自身と私が組織した共同研究が明らかにしてきたことの要点をふくめて、今後の日本近現代文芸・文化史研究が探るべきと思われる方向、すなわち、ガイドラインを示してみたい。整理すべき要点とは、グローバリゼイション、ステイト・ナショナリズム(国民国家主義)、エスノ・ナショナリズム、アジア主義、帝国主義、文化ナショナリズム、文化相対主義、多文化主義、都市大衆社会(文化)などの諸概念であり、それらと日本文芸との関連である。全体を三部に分け、Ⅰ「今日のグローバリゼイションとそれに対するリアクションズ」、Ⅱ「日本における文化ナショナリズムとアジア主義の流れ」、Ⅲ「日本近現代文芸における文化相対主義と多文化主義」について考えてゆく。なお、本稿は、言語とりわけリテラシー、思想などの文化総体にわたる問題を扱い、かつ、これまでの日本近現代文学・文化についての通説を大幅に書き換えるところも多いため、できるだけわかりやすく図式化して議論を進めることにする。言い換えると、ここには、たとえば「国家神道」など、当然ふれるべき問題について捨象や裁断が多々生じており、あくまで方向付けのための議論であることをおことわりしておく。
Smits, Gregory スミッツ, グレゴリー
昔から、琉球は人々の空想や願望を反映させる空白の画面として機能してきた。ここでこの現象の一側面、すなわち琉球は平和主義の王国であり、軍や警察力を持たなかったという考えについて述べる。このエッセイは4つの主要部分で構成される。最初は沖縄の平和主義という現代神話の考察である。次に、琉球の平和主義の神話は事実に基づく根拠がないということを明らかにするために、琉球軍の構造体や武器、戦闘などを見てみる。その後、「沖縄は平和主義の歴史がある」という神話の19世紀から、20世紀初期までの展開を論じる。最後に架空の構造としての沖縄・琉球について結論する。
飯田, 経夫
ケインズ経済学と大衆民主主義とが「野合」するとき、深刻な事態が生じる。大衆民主主義下で、得票極大化行動を取らざるを得ない政治家は、選挙民に「迎合」するために、たえず政府支出を増やすことを好み、その財源たる税収を増やすことを好まない。したがって、財政規模の肥大化と、財政赤字を生み出す大きな原因である。これらは大衆民主主義の本質的な欠陥であり、その是正策は、基本的には存在しない。このきわめて常識的な点を、経済学者(や政治学者)は、これまで十分に議論してきたとはいえない。
Sugimoto, Yoshio
小論は,スリランカ(セイロン)の仏教改革者アナガーリカ・ダルマパーラにおける神智主義の影響に関する人類学的系譜学的研究である。ダルマパーラは4 度日本を訪れ,仏教界の統合を訴えるとともに,明治維新以降の目覚ましい経済・技術発展にとりわけ大きな関心を抱き,その成果をセイロンに持ち帰ろうとした。実際,帰国後セイロンで職業学校などを創設して,母国の経済・技術発展に貢献しようとした。そこには,同じく伝統主義者としてふるまったマハートマ・ガンディーと同様に,根本的に近代主義者としての性格が見えている。ところで,一連のダルマパーラの活動の手助けをしたのは,神智協会のメンバーであったこと,さらには生涯を通じて神智主義,神智協会の影響が決定的に重要であったことは,これまでそれほど深くは論じられてこなかった。しかし,ケンパーが言うようにダルマパーラにおける神智主義が世上考えられているよりはるかにその影響が決定的であったことは否定すべくもない。さらに,神智協会が母体となってセイロンに創設された仏教神智協会は,ダルマパーラの大菩提会とは仇敵のような立場ではあったが,ともに仏教ナショナリズムを強硬に主張した点では共通していた。仏教神智協会には,S.W.R.D. バンダーラナーヤカ,ダッドリー・セーナーナーヤカ,J.R. ジャヤワルダナなど,長く独立セイロン,スリランカを支えた指導者が集まっていた。その後の過激派集団JVP への影響も含めて,神智主義の普遍宗教理念が,逆に生み出したさまざまな分断線は,現在まで混乱を招いている。同じように,インド・パキスタン分離を避けられなかったマハートマ・ガンディーとともに,神智主義,秘教思想を媒介にしたその「普遍主義」の功罪について,その責めを問うというよりは,たとえそれが意図せざる帰結ではあっても,その背景,関係性,経緯などを解きほぐす系譜学的研究に委ねて,問い直されるべき立場にある。
伊良波, 剛 Iraha, Tsuyoshi
琉球大学教育学部附属中学校(以下「附属中学校」とする)は,1985 年に国立大学で最後に創立された附属中学校である。創立 35 年の間に,3・4年のスパンで過去 10 回の全体の研究主題を掲げ研究が進められた。2020 年から「学びに向かう力をはぐくむ」をテーマに第 11 期研究が始まった。本稿は,創立期(1985 ~)から第4期(~ 2000)を「琉球大学教育学部附属中学校研究史 上」,第5期~第 10 期までを「下」とし,附属中学校研究史から,そこにある学習理論とその変遷がどのような背景や過程があったかを全体総論から俯瞰したものである。「上」では,行動主義,構成主義に位置する認知主義・状況主義の学習理論がみえ,「下」では,引き続き構成主義に位置する協同学習・協調学習がみえた。校内研については,教科と全体を土台とした共同研究や学部との専門研究,グループ研・班研究や教科間を超えたユンタク研究の共同研究がみえてきた。
吉田, 和男
日本型システムが世界的に関心を持たれている。日本経済の発展に伴う摩擦やあこがれがそうさせている。同時に欧米のシステムとは大きく異なっていることから、「異質」である、「特殊」であることが内外から指摘されている。しかし、特殊であることを示しても意味がなく、普遍理論で包括的に分析されなければならない。また、欧米の個人主義に対して、集団主義という概念で一くくりにされる。しかし、集団主義と言っても何も分析したことにならない。日本型の集団主義のメカニズムを分析しなければならない。そこで社会科学としての分析が必要となるが、日本型システムが欧米で発達してきた社会科学の分析に馴染まないために、国民性の違いや非合理的行動として理解されることが少なくなかった。しかし、それは単に、欧米の社会科学を発達させてきた方法に問題があるにすぎない。個人主義を基礎とし、要素還元主義的方法であることが日本型システムの分析を難しくさせている。新しい分析のパラダイムが求められるところである。この要素還元主義による方法はすでに物理学や化学の分野では有効性を失い変化し始めている。これに対して、求められているのは要素間関係を重視する方法であり、システムを複雑系として理解する方法である。浜口教授の間人主義、ケストラーのホロン、清水教授のバイオ・ホロン、ハーケンのシナジェティクス、プリゴージンの散逸構造などの分析方法が有効性を持つことになる。伝統的な社会科学によって切り捨てられてきた問題をもう一度振り返る必要がある。逆にこの研究によって欧米のシステムももっと深く理解されることになる。日本型システムの分析という特殊性論の研究が普遍的理論へと発展していく可能性がある。
比嘉, 麻莉奈
本研究は英語教育実践研究の観点に立ち、拡大円圏である沖縄に生まれ育ち英語帝国主義の影響を受けた個人、そこから沖縄の大学の英語教育実践に取り組む大学教員である個人の内的体験にもとづいた英語教育(ELT: English Language Teaching/Training)に存在する言語イデオロギーとしての語母語話者主義の記述をおこなうことを目的とする。非英語圏における英語教育が英語帝国主義の影響から脱却するためには、教育機関、ひいてはそこの地域社会が英語帝国主義・英語母語話者主義に立ち向かうことが重要であり、それにはまず従来の日本―沖縄における英語学習や英語使用そのものが学習者/教員にどのように捉えられているのかを明らかにすることが求められる。英語は現在リンガ・フランカのひとつであり世界中で使用されている。政治・経済・研究・軍事等に対する英語の影響力は絶大であり、それゆえに英語母語話者/非母語話者間に言語のみならずさまざまな格差が生まれている現状がある。本研究では、英語教育に存在する言語的人種的権力構造を含んだ英語イデオロギーの影響力を考察するうえでも、個々の具体的な英語使用がなぜ行われるのかを分析するうえでも有効な分析概念として、「英語母語話者主義 native speakerism」(Holliday, 2005)を援用し、個人のライフストーリーを分析した。分析の結果、生育環境、留学体験、英語母語話者主義の影響、沖縄の大学英語教育の問題点、教育理念と実践を表す5つのカテゴリが抽出され、「国際的に活躍できる人材の育成」を国策としてうたう日本の英語教育方針と併せて、拡大円圏であり米軍基地を有する土地でもある沖縄において英語母語話者主義という言語イデオロギーは英語教育と非常に緊密に存在していることが明らかになった。カテゴリをさらに追究した結果、研究協力者の語りからは、非英語母語話者が英語母語話者主義を内在化する一因に「正しい英語」イデオロギーがあること、そのイデオロギーは社会構造の影響はもちろん自己/他者の比較から生まれるが、その乗り越えも他者との関係性の中に見ることができることが分かった。そして英語教育現場においては「英語の多様性」を重視した実践と、教員だけでなく教育機関、そして学生においても母語話者を偏重しない態度が求められていることが分かった。
Takezawa, Shoichiro
19 世紀なかばのフランスでは,ブロカに率いられた人類学派が発展し,学界を超えて強い社会的影響をもった。それは,人間の頭蓋や身体各部位を計測し,一連の数字にまで還元することで,人びとを絶対的な人種の境界のあいだに分割することをめざした人種主義的性格の強い人類学であった。この人類学が当時のフランスで広く成功した理由は,産業革命が進行し,教会の権威が失墜した19 世紀なかばのフランスで,新しい自己認識と世界理解を求める個が大量に出現したことに求められる。こうした要求に対し,ブロカ派人類学は数字にまで還元/単純化された世界観と,白人を頂点におくナルシスティックな自己像/国民像の提出によって応えたのであった。 1871 年にはじまるフランス第三共和制において,この人類学は,共和派代議士,新興ブルジョワジー,海軍軍人などと結びつくことで,共和主義的帝国主義と呼ぶことのできる新しい制度をつくり出した。この帝国主義は,法と同意によって維持される国民国家の原則に立つ本国と,法と同意の適用を除外された植民地とのあいだの不平等を前提とするものであったが,ブロカ派人類学は植民地の有色人種を劣等人種とみなす理論的枠組みを提供することで,この制度の不可欠の要素となっていた。 1890 年以降,新しい社会学を築きつつあったデュルケームは,ユダヤ人排斥の人種主義を批判し,人種主義と関連しがちな進化論的方法の社会研究への導入を批判した。かれが構築した社会の概念は,社会に独自の実在性と法則性を与えるものであり,当時の支配的潮流としての人種主義とは無縁なところに社会研究・文化研究の領域をつくりだした。しかし,ナショナリスティックに構築されたがゆえに社会の統合を重視するその社会学は,社会と人びとを境界づけ,序列化するものとしての人種主義を乗りこえる言説をつくりだすことはできなかった。 人種,国民国家,民族,文化,共同体,性などの諸境界が,人びとの意識のなかに生み出している諸形象の力学を明らかにし,その布置を描きなおしていく可能性を,文化/社会人類学のなかに認めていきたい。
Sugimoto, Yoshio
小稿は,神智協会の創設者にして,のちの隠秘主義(オカルティズム)や西欧世界における仏教なかんずくチベット仏教の受容,普及に決定的な役割を果たしたマダム・ブラヴァツキーが,具体的にどのようにチベット(仏教)に関わり,どのような成果を収め,さらにその結果後世にどのような影響を及ぼしたのかについて,とくに南アジア・ナショナリズムとの関連に議論を収斂させながら,神話論的,系譜学的な観点から人類学的に考察しようとするものである。ここでは,マダム・ブラヴァツキー自身のアストラハン地方における幼児体験をもとに,当時未踏の地,不可視の秘境などととらえられていたオリエンタリスト的チベット表象を触媒にして,チベット・イデオロギーへと転換していったのかが跡づけられる。その際,マダム・ブラヴァツキーのみならず,隠秘主義そのものが,概念の境界を明確化する西欧近代主義イデオロギーを無効化するとともに,むしろそれを逆手にとった植民地主義批判であったことの意義を明らかにする。
Sugimoto, Yoshio
「儀礼」の概念は,ヨーロッパ・キリスト教世界とくにプロテスタントからは否定的なイメージをもたれている。そこには,カトリックとプロテスタントとの対立関係が潜在しているが,とくに19世紀イギリスにおける「儀礼主義」は,福音主義者からのはげしい非難にさらされた。1830年代をさかいにイギリス植民地政策そして宗教政策は,現地主義から文明化路線へと大きく転換をとげた。それは,福音主義的なイデオロギーに基づく変革であり,そのことが,当然ながら植民地スリランカにおける宗教儀礼のあり方にも大きな変化を与えた。小稿では,ポルトガルに始まり,オランダを経てイギリスの植民地支配を経験したスリランカにおいて,「儀礼」がどのような視線にさらされ,またその視線をどのように受け止め,さらにその結果,現在どのような存在形態を示しているのかについて,系譜学的に跡づけたものである。
王, 秀梅
古代日本人の地質や地形に対する関わり方,考え方を万葉集の歌に見える「岩」の語と歌句から検討した。万葉集中,「イハ系列語」45 語は,133 首の歌に計140 例が挙げられる。本稿はそれらを語構成・意味属性の観点から分類した上,万葉集の部立分類に合わせて,その分布状況と詠まれた歌句の表現類型について考察し,次の結論を得た。歌句において使用頻度の高い語は,「イハ」,「イハネ」,「イハホ」,「トキハ」等である。部立分類で見れば,「岩」は相聞歌の歌句に最も多く現れるが,各部立内で占める割合と合わせて見れば,「岩」は挽歌に出現する頻度が高い。歌句に見える「岩」は主に,①険しい山道を構成し,恋や前進を阻む象徴,②水流などとの自然作用を心情に譬える際は,堅固の象徴,③現実世界と異なる空間,④風景の一部で永久不変の象徴,として詠まれており,「岩」と古代日本人との様々な繋がりが,日本文化における地質学的特質を反映している。
南部, 智史
本稿では,日本の多言語使用に関するプロジェクトの一環として2022年に実施した横浜中華街と大阪生野コリアタウンでの言語景観調査の予備報告を行い,それぞれの地域の公共空間における看板に使用される言語および記号資源が多言語空間の形成にどのように寄与しているか考察する。両地域はともに「エスニシティの商品化」が顕著な観光地として認知されているが,横浜中華街は伝統的な中国文化を象徴する記号的要素で溢れた統一感のある空間を形成しているのに対して,生野コリアタウンでは伝統的な韓国文化を表す記号的要素の積極的な活用は比較的少なかった。また,言語使用の面では両地域で言語の商品化としての象徴的機能が確認されたが,その役割には明確な違いが見られた。横浜中華街における中国語の象徴的使用は,伝統的な中国文化と結び付いた指標としての役割を担っているのに対し,生野コリアタウンの韓国語・ハングル文字は,近年のK-POPの世界的流行を背景に,現代的な韓国文化を想起させる新しい役割を果たしている。
Taira, Masashi 平良, 柾史
1925年に出版された Cather のThe Professor's Houseは、科学の隆盛に裏打ちされた物質主義が人間の生き方に強いインパクトを与えた20世紀初期の社会を如実に反映した作品となっている。物質主義に抵抗しながらもその潮流に流され疎外されていく St. Peter 教授。物質主義にどっぷりとつかり互いに憎しみ、敵意さえ抱く St. Peter の家族や大学の同僚たち。The Professor's House は、物質主義に毒された人々が互いに真のコミュニケーションをもちえず疎外されていく悲劇的状況を描いた作品といえよう。しかしながらこの作品では、物質主義という外的要因に加えて、内的要因、すなわち人間の内面に潜む罪を犯しがちな人間のもって生まれた弱さ(human flaw)が作品の登場人物たちの行動や生き方を規定し、外的要因以上に、内部から登場人物たちをコミュニケーションの欠如した疎外状況に落し込んでいるかと思われる。この小論では、人間の内面に潜む弱さ(human flaw)を七つの大罪-the sins of pride, envy, avarice, gluttony, wrath, sloth, lust-に起因するファクターとしての軌軸でとらえ、それぞれの大罪がどのような形で登場人物たちの行動に現れているのかを分析してみた。
島袋, 純 康, 栄勲 Shimabukuro, Jun Kang, Younghoon
本論文は島地域の開発と保全を両立させる方法、即ち制度的には環境従属的パラダイムから実用的島生態主義パラダイムへ、意識的な側面では伝統、保守的パラダイムから創造破壊的パラダイムへの転換を模索する島生態主義哲学の論理とモデルを提示することに、その目標を置いている。このような認識は、島地域は自然環境的な用件や社会文化的、環境的要因により、大陸や半島地域\nよりも実用的な生活方式が、比較的強く表面化するため、島地域に合ったパラダイムが必要であるという基本前提の下に済州島の場合を中心に論議する。このために、済州の島地域の状況を診断するため(1)内・外的分析 (Internal-External Analysis) を使用し、地方の強点、弱点、機会、危険要素に対する開発の脈絡を整理し、(2)島地域は大陸や半島に適用される論理ではなく、島地域なりに環境問題に対処できる実用的な島生態主義のモデルを創案し、(1)の分析を統合する実用的な島生態主義のモデルを提示し、(3)実用的島生態主義のモデルに立脚した事例を分析し、開発と保全の櫛成要素に対する分析、済州道の7つの行政政策事例の分析、開発および環境関連法規と土地使用の事例分析、3つの開発事例の脈絡分析を経て、(4)環境従属的パラダイムから実用的島生態主義のパラダイムへ転換するための制度的側面の実践命題と、伝統保守的パラダイムから創造破壊的なパラダイムへ転換するための意識的側面の実践命題を提起し、(5)上記の論理に基づき筆者は、大陸、半\n島とは異なる海洋地域としての島の現状と特殊性を鑑み、開発と保全の調和を追求する政策的・日常的な問題解決の枠組みを探ってみた。
Nakagawa, Satoshi
この論文は自然と文化の間の連続性の問題を扱う。文化人類学は,とりわけ構造主義の人類学は,文化(シンボルの思考)の解明の仕方は自然主義との譲歩を一切許さないものであると宣言する。構造主義的世界観の中では,文化と自然は断続しているのである。自然主義,例えば進化生物学の中では,自然から文化への変化は漸進的な変化であり,「魔法の瞬間」(デネット)などないという。両陣営ともに自然から文化への遷移について心の理論(あるいは他者の視点)の獲得に焦点をおく議論を展開する。この論文では第3 の立場を議論する。この議論でも,心の理論に焦点があてられる。これまでの議論での心の理論は,他者の心を外側から操作するための戦略である。このような能力は,霊長類も持っているかもしれない。それに対し,人間は,他者の心を虚構として内側から生きることができるのである。これこそがヒトをヒトたらしめた能力なのである。
上野, 和男 Ueno, Kazuo
この報告は,儒教思想との関連で日本の家族の特質を明らかにしようとする試論である。考察の中心は,日本の家族の構造と祖先祭祀の特質である。家族との関連においては,儒教思想は親子中心主義,父子主義,血縁主義を原理としているといえるが,この3つの原理が日本の家族や祖先祭祀の原理をなしているかが,本報告の課題である。結論として,つぎの3点を指摘できる。第1は,日本には儒教的な親子中心型の家族とは異質な夫婦中心型家族が伝統的に広く存在してきたことである。この意味で儒教的な親子中心主義イデオロギーのみならず,夫婦中心主義イデオロギーも存在してきたのである。第2は,日本の祖先祭祀においては父方先祖のみを祀る形態もあるが,母方や妻方の先祖をも祀る型が広範に存在することである。このことは日本の祖先祭祀が父子主義のみによって貫徹されてきたわけではなかったことを意味している。第3に,日本の家族においては,財産を相続し祖先祭祀を担うのは必ずしも血縁によって結ばれた子供に限定されないこと,また,子供たちのなかでひとりの相続者がきわめて重要な位置を占めてきたことである。したがって,日本の祖先祭祀と家族は伝統的にも現代的にも儒教的な家族イデオロギーのみによって規定され,存在してきたわけではなかったといえよう。儒教的な家族行動規範は,日本社会の基本的な構造が確立した後に部分的に受容されたのであって,これが全面的に日本の家族や祖先祭祀を規定したことはこれまでにはなかったのである。
丹野, 清彦 Tanno, Kiyohiko
詩を書かせる目的は,子どもたちが詩を書き,その交流を通して相互理解を図ることである。子どもたちは教師との間に,あるいは子ども同士の間にどのような関係が成り立てば,詩を書き表現するのだろうか。本研究は書くことの意味を問い直し,能力主義・競争主義によって傷ついた子どもたちを受容するケア的アプローチとしての側面から,詩を書く活動を考察した。
張, 鈴
小論は大正初期の第一高等学校における「読書による自己形成」、すなわち教養の成立を、修養、煩悶青年および個人主義の受容との関係を見直した上で再考してみた。具体的には教養主義者と呼ばれる谷川徹三(一八九五~一九八九年)の修養に勉めた中学校時代、自殺危機と煩悶を抱く旧制第一高等学校入学前後、転機となった一高在学中という三つの内面的成長の断片を中心に、谷川の一高の先輩である藤村操、阿部次郎、安倍能成、折蘆魚住影雄、藤原正などによる言説を補助線にして考察した。 小論は、まず谷川徹三が中学三年生(一九一〇年)の夏休みに書いた作文集『五十の日子』という一次資料を利用し、彼にとっての修養のメカニズムを検討した。そして、第一高等学校入学(一九一三年)前後に、性の悩みをきっかけに煩悶青年になった経緯を見ることを通して、第一高等学校という場が青年に苦悩の自由および煩悶まで発酵するゆとりを与えたことを解明した。さらに、個人主義の受容という点において、大正初期の谷川の煩悶と、明治末期の藤村操の遺書、個人主義をめぐる阿部次郎、安倍能成、折蘆魚住影雄、藤原正などの発言、および操の自死に対する彼らの思考を考察することによって、一九一〇年前後の一高の煩悶青年に通底した内面的な悩みが個人主義、個の覚醒の結果であることを明らかにした。藤村操は宗教的救いを拒否して自死し、煩悶の段階に留まった。谷川、阿部、安倍のような青年と、折蘆、藤原正のような青年は、それぞれ幅広い読書と宗教思想運動によって煩悶解説・個人形成を遂げた。これらの青年は個人主義の受容という一つの〈系譜〉の中に捉えることができる。修養と当時形成されつつあった教養は異なる煩悶脱出・主体形成の方法である。
大村, 敬一
本論文の目的は,イヌイトの「伝統的な生態学的知識」に関してこれまでに行なわれてきた極北人類学の諸研究について検討し,伝統的な生態学的知識を記述,分析する際の問題点を浮き彫りにしたうえで,実践の理論をはじめ,「人類学の危機」を克服するために提示されているさまざまな理論を参考にしながら,従来の諸研究が陥ってしまった本質主義の陥穽から離脱するための方法論を考察することである。本論文では,まず,19世紀後半から今日にいたる極北人類学の諸研究の中で,イヌイトの知識と世界観がどのように描かれてきたのかを振り返り,その成果と問題点について検討する。特に本論文では,1970年代後半以来,今日にいたるまで展開されてきた伝統的な生態学的知識の諸研究に焦点をあて,それらの諸研究に次のような成果と問題点があることを明らかにする。従来の伝統的な生態学的知識の諸研究は,1970年代以前の民族科学研究の自文化中心主義的で普遍主義的な視点を修正し,イヌイトの視点からイヌイトの知識と世界観を把握する相対主義的な視点を提示するという成果をあげた。しかし一方で,これらの諸研究は,イヌイト個人が伝統的な生態学的知識を日常的な実践を通して絶え間なく再生産し,変化させつつあること忘却していたために,本質主義の陥穽に陥ってしまったのである。次に,このような伝統的な生態学的知識の諸研究の問題点を解決し,本質主義の陥穽から離脱するためには,どのような記述と分析の方法をとればよいのかを検討する。そして,実践の理論や戦術的リアリズムなど,本質主義を克服するために提示されている研究戦略を参考に,伝統的な生態学的知識を研究するための新たな分析モデルを模索する。特に本論文では実践の理論の立場に立つ人類学者の一人,ジーン・レイヴ(1995)が提案した分析モデルに注目し,その分析モデルに基づいて,人間と社会・文化の間に交わされるダイナミックな相互作用を統合的に把握する視点から伝統的な生態学的知識を再定義する。そして,この再定義に基づいて,伝統的な生態学的知識を記述して分析するための新たな分析モデルを提案し,さまざまな社会・文化的過程が縦横に交わる交差点として民族誌を再生させる試みを提示する。
張, 小栄
「王道主義」は「満洲国」建国過程で唱えられた統治理念である。満洲事変(九・一八事変)後に、関東軍のイニシアチブのもとで進められた建国工作では、主として現地文治派指導者、関東軍に随伴する植民地統治のイデオローグである橘樸や野田蘭蔵等「理念派」および満鉄実務官僚出身の上村哲弥等「実務派」が相互に絡み合いながら統治理念の形成に関わった。 橘樸や野田蘭蔵等「理念派」は、現地文治派指導者の政治的主張を取り込みつつ、中国の伝統的儒学思想を淵源とする「大同の世」の理想的社会像を「農民自治」に見出しつつ「王道方法論」を構築した。しかしそれは、関東軍の「満洲国」統治を正当化する論理にとどまり、実質的な内容を持たない理念となった。 これに対して、上村哲弥らによって代表され、金子雪斎の満蒙経営論からの思想系譜をもつ実務派は、大正期から「王道主義」を唱え、中国の東北地域における長年の「満蒙経営」、なかんずく教育実務者としての経験から、その教育政策立案を通じて政治的具体化を目指した。しかしその重要性にも拘わらず、従来上村等は「王道主義」の文脈では重視されてこなかった。 そこで本稿では、「満洲国」の統治理念として唱えた「王道主義」をいかに認識し、いかに教育政策に反映させようとしたのかを検討する。
諸喜田, 峰子 村上, 呂里 村末, 勇介
2017(平成29)年小学校学習指導要領「国語」の各領域では,「考えの形成」が位置づけられた。これを受け,本研究は「考えを形成し,深める力」を育てる文学の授業の在り方を解明することを目的とする。文学の授業では,文学ならではの作品の仕組みとの対話に根ざし,考えが形成されると考えられる。本研究では,小学3年生「モチモチの木」を教材とし,象徴語として「モチモチの木」の意味を推論する力に注目して授業を行った。「モチモチの木」は,山に住む人々,じさま,豆太の願いと密接につながる存在である。舞台設定への共感,登場人物への共感など作品との対話を丁寧に仕組むことで教室での対話が活性化され,学級全員が「モチモチの木」にこめられた意味を書くことができた。象徴語を推論し,意味づける力は,全連関的な読みのプロセスで生まれ,〈いのちのつながりや再生〉と深く結びつくイメージ体験とセットで育まれることを明らかにした 。
八木, 風輝 YAGI, Fuki
旧ソ連圏にある音楽アーカイブズは、首都に設立された音楽アーカイブズの設立と維持が従来報告されてきた。本稿は、旧ソ連の衛星国であったモンゴル国の最西部に位置するバヤンウルギー県を対象とし、そこに1960年代に設立された音楽アーカイブズを取り上げる。バヤンウルギー県は、少数民族のカザフ人が県人口の9割を占めている。バヤンウルギー県の県庁所在地にあたるウルギー市には、バヤンウルギー県地方ラジオ・テレビ局があり、局内に「アルトゥンコル」という音楽アーカイブズがある。設置当時から、当県のカザフ音楽の演奏を磁気テープに記録・収録する活動が行われてきた。現在、アルトゥンコルには、2000曲を超える社会主義期に録音されたカザフ語、モンゴル語、ロシア語の音源が保管されている。本稿は、筆者が2018年にアルトゥンコルでのデジタル化に参与した際のデータを用い、アルトゥンコル設立の過程、収蔵シリーズの特徴、収蔵音源の詳細、保存環境について考察する。社会主義体制が崩壊した後、保存媒体である磁気テープを維持する環境や、デジタル化に様々な課題を抱えているが、アルトゥンコルに収蔵された曲は、社会主義期にモンゴル国のカザフ人が演奏した音楽を再現できる可能性を持ち、社会主義期の演奏実態を解明する一助となる。
ゴードン, アンドルー 朝倉, 和子
日本に関する言論の内容と論調は国内でも国外でも1990年代にがらりと変わった。「失われた十年」という言葉が急激に流通し始めたことは、それを象徴する。この言葉は1998年夏の同じ週に、英語と日本語双方の活字メディアで初めて登場した。日本は凋落しつつある、日本は失われたという認識が、国の内外でほぼ同時に生まれていたのである。本稿では、1970年代から2010年代にいたる保守派のイデオロギーを検証することによって、「喪失」論議の登場を理解しようと思う。なかでも、中流社会日本という未来への自信喪失と深く関わるイデオロギーの風景の変遷をめぐり、その二つの局面を追うことにする。それは第一に、健全な社会を維持する手段として市場と競争をとらえる考え方、第二に、ジェンダーの役割の変化に対する姿勢である。過去二十余年に「失われた」のは、健全な社会を構成するものは何か、それをどのように維持し達成するのかについての保守本流のコンセンサスだった。1970年代と80年代には、管理された競争という日本的なあり方、および女は家庭・男は仕事というジェンダー分割に支えられた社会構造が、このコンセンサスの根拠だった。それが1990年代、2000年代になると、全世界共通の現象だが、日本でも管理経済に対して新自由主義から猛烈な挑戦が始まると同時に、それよりは弱いものの、日本社会に埋めこまれたジェンダーによる役割分業への挑戦が始まった。しかし、いずれの挑戦もはっきりと勝利をおさめたわけではない。
ジョージ, プラット アブラハム
宮沢賢治は、詩人・童話作家として世界中に知られるようになった。岩手県出身の賢治の作品に岩手県もなければ、日本もなく、「宇宙」だけがあるとよく言われる。まさにその通りである。彼のどの作品の中にも、彼独自の人生観、世界観及び宗教観が貫いていて、一種の普遍性が顕現していることは、一目瞭然である。彼の優れた想像力、超人的な能力、そして一般常識の領域を超えた彼の感受性は、日本文学史上、前例のない一連の文学作品を生み出した。賢治の文学作品に顕現されている「インド・仏教的思想」、つまり生き物への慈悲賢治の思想と彼の人格を形成した主な外力として、彼の生まれ育った家の環境、宗教とりわけ、法華経から受けた霊感、教育と自然の観察によって取得した啓蒙的知識、貧しい県民への同情などが取り上げられる。本稿の前半で賢治の思想と人格を形成したこれらの外力についてふれ、その次に「よだかの星」という作品を中心に賢治作品に顕在している「非暴力」「慈悲」及び「自己犠牲の精神」の思想を考察した。最後に、「ビヂテリアン大祭」という作品を基に、賢治の菜食主義の思想の裏に潜む仏教的観念とインドにおける菜食主義との関連性を論じ、賢治作品の顕現しているインド・仏教的思想を究明した。と同情、不殺生と非暴力主義、輪廻転生、自己犠牲の精神及び菜食主義などの観念はどんなものか、インド人の観点から調べ、解釈するとともの賢治思想の東洋的特性を強調することが、本稿のねらいである。
高橋, 実 TAKAHASHI, Minoru
中世の口頭を主とする社会から近世の文書を不可欠とする社会への移行は、文字の意思伝達機能と記録機能を基礎とする社会への移行であった。「文書による支配」といわれる近世統治システムは、地域が文字読解能力を持っていることが前提であり、同時に地域は後日の証拠や参照のために文書を管理・保存してきた。19世紀に入り初等教育機関が普及して文字を知る村人が一段と増加した。それは、商品経済の発展などによる文字使用機会の増大に対応する必要性によったものである。こうして文書主義社会がしだいに厚みを増し、管理・保存の必要な文書はしだいに増加してきた。本稿は、近世社会の特質や文書主義を背景に置いて、「文書による支配と文書主義」と「近世社会の仕組みと文書管理」について具体的に検討したものである。
申, 昌浩
十九世紀に入り、近代的な西洋の物質と精神文化が拡まると、封建支配階級と民衆とのあいだの矛盾と対立が一層尖鋭化してくる。「親日」仏教は、そういった背景の中で日本の帝国主義と西洋列強の資本主義の接近によって、朝鮮王朝がそれまで進めていた近代国家としての成立の時点を起点としている。一八七六年の開国と日本人の朝鮮進出によって、日本から多くの宗派の伝来が始まった。そして、それより二〇年後の一八九五年に、日蓮宗の僧侶の嘆願によって「都城出入禁止」が解除され、仏教本然の任務である布教活動や社会活動を展開する契機を得るのであった。しかし、この朝鮮僧侶たちの「都出入禁止」の解除というのは、朝鮮仏教史においても近代の始まりを意味する。一方では、近代韓国仏教が「親日」であったことも意味している。 韓国が近代化という外からの力に、扉を開いていく過程に内在した親日の問題は、民族主義形成と宗教情勢の変動が深く関わりをもっている。この論文の目的は、歴史的に認められるいくつかの政治的変動期に韓国仏教が果たしていた役割と、その位置づけを新たに分析し、その深層に流れる韓国的民族主義の意味を究明することである。
篠原, 武夫 Shinohara, Takeo
(1)アメリカ帝国主義は, 米西戦争の勝利によって, スペイン領フィリピンを分割支配することになった。アメリカ帝国主義はフィピンを自国経済にとっての良き資本輸出, 製品販売, 原料供給市場として位置づけたばかりでなく, 該領を中国市場へ進出するための軍事的拠点としても高く評価していた。アメリカの植民地政策は, 産業資本の未成熟なスペイン時代における消極的な植民地政策とは異なり, 産業開発をかなり推進した。植民地主義の枠内ではあるが, 経済開発が必要であったからである。だが, その枠は本国本位を修正したものであった。農民を基盤とする革命軍の革命的性格を除去するためには民族的要求もとりいれざるをえず, また19世紀末から20世紀にかけての国際経済の発展と独占段階における激しい植民地獲得競争が, 完全な本国経済中心を許さなかったからである。したがって帝国主義国家ではあるが, 懐柔策として宗教体制を基盤とするスペイン領有時代の政治を転換し, 民主政治と独立への展望をフィリピン人に与えた。それはアメリカがフィリピン植民地支配に残した大きな特徴の一つである。アメリカは植民地化当初はフィリピン民族主義を弾圧したが, 漸次フィリピンの自治拡大を図っていった。ついに1934年にはコモンウエルス政府ができ, アメリカ統治機構の中枢であった総督制はなくなり, それに代るものとして高等弁務官制が布かれた。しかし, せっかくフィピン人独自の自治政府ができたものの, その自治には限界があり, 重要な政治, 経済権はすべてアメリカが握っていたのである。アメリカがフィリピン植民地に認めた自治体制は, いってみればアメリカ資本の利益に基づくものであり, そこには常に資本の論理が作用していたのである。
阿部, 純
本稿は、1980年代のアメリカで展開した日系人リドレス運動(第二次大戦時の日系人強制転住・収容政策に対する補償要求運動)に関する『読売新聞』の報道内容を分析したものである。日系の活動家たちは「過ちの是正」を意味する「リドレス(redress)」という言葉を掲げて運動を推進した。従来の研究は、リドレス運動の「成功」や、歴史的不正を認め償ったアメリカの「正義」を強調してきた。しかし近年の研究は、アメリカの国家的戦略としての国際的プレゼンスの向上とリドレス運動の連動に注目することで、「リドレス」なる概念がポスト冷戦期の道徳的人権リーダーというアメリカの自画像の確立のために取り込まれていく諸相を明らかにしている。 一方、リドレス言説をめぐる先行研究の議論は、日系人活動家や連邦議会議員などアメリカ国内のアクターを中心に組み立てられてきた。そこで本稿では、リドレス運動に大きな関心を払った『読売新聞』の報道内容を分析し、1980年代の日本におけるリドレス言説の形成過程の一端を解明することでこの議論に加わることを試みた。 リドレス運動に注目した『読売新聞』の記者および読者は、この運動を単なるアメリカでの一出来事として捉えることなく、日本をめぐるグローバルな文脈の中で、教科書問題、米ソ冷戦、日米関係に対する自身の立場や主張をリドレスに投影することで独自の言説を形成した。アメリカにおけるリドレス言説を受動的に受容したわけではなく、1980年代を通して自分たちの関心や利益に沿う形でそれを積極的に利用したのである。ただし、このようにして『読売新聞』が構築したリドレス言説には、共産主義国家とも日本とも異なる模範的民主主義国家としてのアメリカ像が潜在していた。『読売新聞』が正義や民主主義と関連付けながら構築・拡散したリドレス言説は、アメリカの連邦議会議員たちと同様に、世界に比類なき道徳的権威をアメリカに付与するものだった。すなわち、『読売新聞』は1980年代を通してリドレスの受容と再構築を行う中で、道徳的・多文化主義的なアメリカ例外主義を日本国内で強化する役割を果たしたのである。
Ishikawa, Ryuji 石川, 隆士
本論はW.B.YeatsのA Visionにおける、3つの詩篇、“The Phases of the Moon”,“Leda”,“All Souls’Night”を「視線」という観点から分析することを目的とする。A VisionはYeatsの特異な神秘主義的記号体系が収められた問題作である。当然のことながらその主たる目的はその記号体系を詳らかにする事であるが、そこには散文による平易な説明あるいは論証は存在せず、謎に満ちた図表、シンボル、物語等、様々なタイプのテクストが混在している。\nこの異種混交テクストの中でも本論で取り上げる3つの詩は特別な位置を与えられており、それはそのままこれらがA Visionにおいて重要な機能を果たしていることの証と言える。それぞれ独立した形で別の詩集に収められているものであるが、いずれの詩集においてもA Visionにおける神秘主義的記号体系の文脈とは切り離せない関係にある。\n本論で取り扱う「視線」は、それぞれの詩においてその主体が異なる。“The Phases of the Moon”においては、架空の神秘主義者Michael Robartesがその主体であり、彼の視線を介することによって主張される秘儀探求者としてのYeatsの立場が論じられる。“Leda”においては、Yeats自身がその主体であり、官能的崩壊の中に歴史のダイナミズムを見取る隠された視線が彼の審美主義との関係において考察される。“All Souls’Night”においても、その視線の主体はYeatsであるが、彼自身の神秘主義的記号体系の論述を締めくくるにあたっての自己矛盾した心境が論じられる。\nこれら3つの詩における視線は、主体、客体そのいずれかにYeats自身が関わっている。いずれの場合も、その視線を介した相手との関係が、主体あるいは客体としての役割を決定し、意味づけを行っている。
西川, 宏昌 Nishikawa, Hiroaki
フランク・ジャクソンはその知識論証において、今では周知の思考実験により物理主義が誤りである事を論証しようと試みた。それは多くの反響を呼び、物理主義者からのさまざまな反論が提示されたが、その主なものの一つが「能力仮説」である。この小論ではこの仮説を批判しているマイケル・タイの議論を取り上げ、彼の批判の問題点を指摘することを通じて、タイとは異なった論拠に基づいて能力仮説自体が誤りであると論じる。さらに、新たな観点からジャクソンの知識論証がその意図に反して不成功に終わる理由を提示する。
中島, 俊郎
本稿は、サー・ジェームズ・ブルックがサラワクを統括した時、ミッショナリー活動を通じて先住部族民イバン(ダヤク族)に文化変容を強いながら、統治し、かつ宣撫工作としてキリスト教を援用した事例を検証する。次に大英帝国は重商主義政策でもって、サラワクを統治したが、どのように宗教活動が有効な施策となりえたのか、を考察する。三代にわたるラジャ・ブルックは植民地主義を遂行するうえで、ミッショナリー活動と不即不離の関係を保持していく。だが三代目ヴァイナー・ブルックはミッショナリー活動を日沙商会との経済活動に転化させつつ共存の道を模索していく。
Kinjo, Hiroyuki 金城, 宏幸
1921年、スペインに起こった詩の改革運動“ウルトライスモ”の洗礼を受けて帰国する21才のボルヘスは,膨張し変貌したブエノス・アイレスを見て大きな衝撃を受ける。それは7年ぶりの帰郷というありきたりのものではなく,鋭い感性とたぐいまれな想像力に恵まれた詩人が,そして時には国境を越えた博識とその形而上学で最も非アルゼンチン的とされた作家が,自分の魂の根源を衝撃的に感じ取った新しい“発見”であった。ダダイズム,シュールレアリスム,表現主義,未来主義といった当時のヨーロッパの前衛主義的な傾向を混ぜ合わせたような“ウルトライスモ”を標榜し,アルゼンチンにおける“ウルトラ宣言”をしてその先頭に立つボルヘスは,しかし,ほどなくその活動から遠ざかり後に自らそれを鋭く批難するようになる。本稿では,ウルトライスモという前衛的な詩の改革運動に,“ブエノス・アイレスの発見”という詩人の内なる大事件を重ね合わせながら,ボルヘス初期(1920年代)における詩作活動の原点について考察した。
笠谷, 和比古
前稿(一)においては、福島正則と加藤忠広の二大名の改易事件について検討した。その結果、両改易ともに、幕府側の政略的な取り潰しということはできず、むしろ両大名側に処罰されて致し方のない重大な違法行為のあることが否定できないことが明らかとなった。このように徳川幕府の大名改易政策は、従前考えられてきたような政略的で権力主義的な性格のものではないのである。そしてこのことは、この大名改易の実現過程における、その実現のあり方という面についても言いうる。本稿では大名改易の実現過程を、改易の決定過程と、当該大名の居城と領地の接収を行うその執行過程とに分けて見ていく。秘密主義と権力主義という幕府政治についての一般通念と異なって、大名改易政策の実現過程に見られるのは、諸大名へのそれぞれの改易事情の積極的な説明であり、城地の接収に際しての大名領有権に対する尊重と配慮であった。
Yoshimoto, Yasushi 吉本, 靖
チョムスキーの極小主義プログラムが世に問われて以来、変形生成文法の研究の傾向にも大きな変動があった。極小主義以前盛んに研究されていた島の制約に代表されるような統語的制約については、極小理論では目覚ましい展開がこれまでなかったと言っていいであろう。そこで、極小主義の枠組みでそれらの制約を考える際の参考に供するため、本研究ノートでは極小主義以前の理論で統語的制約がどのように研究され発展してきたのかを概観してみた。\n要約すると以下のとおりである。Chomsky(1964)は変形操作を制約する原理の存在を主張し、それは後にA-over-A原理と呼ばれるようになった。A-over-A原理に触発されRoss(1967)はその後の研究に重大な影響を与える制約群(ロスの制約)を提唱した。その成果を受けChomsky(1973)は下接の条件を提案し、ロスの制約のいくつかが統合可能であることを示した。その後Chomsky(1981)によって空範疇原理(ECP)が提案され、移動の結果生じる痕跡に関わる重要な制約として認識されるに至った。Kayne(1981)はECPを修正し下接の条件の大部分をECPに包含することを提案したが、Huang(1982)らの批判を受け、下接の条件は存続することになった。Huang(1982)は抽出領域条件(CED)を提案したが、CEDと下接の条件の間に見られる重複性の問題が課題として残った。その重複性を克服するためにChomsky(1986)は、下接の条件における境界節点の定義を環境に依存するものに変更し、障壁という概念が誕生した。これにより下接の条件がCEDを包含することになった。その結果、極小主義移行直前のチョムスキー派の変形生成文法理論においては、下接の条件やECPが移動にかかる制約として残され、それらが束縛原理やθ-基準等と「共謀」して移動操作を拘束するという状況を呈していた。
山田, 慶兒
ひとは物を分類し、認識する。しかし、どのような分類法を使っても、うまく分類できない物、複数の領域に分類される物、いいかえれば両義的な物が存在する。このような両義的な存在は、存在の不確かさのゆえに、独自の意味の世界を構成する。ここでは牡蠣と雷斧という二つの両義的存在をとりあげ、その意味の世界と象徴作用を分析する。
上江洲, 朝男 江藤, 真生子 里井, 洋一 Uezu, Asao Eto, Makiko Satoi, Yoichi
伊良波は,「琉球大学教育学部附属中学校研究史~理論変遷と校内研の在り方~(上)」において,琉球大学教育学部附属中学校(以下,附属中)の創立期から第10 期までの34 年間の研究史を紐解いて概観し,第4期までの研究を分析,考察した。その結果,行動主義から構成主義の研究にどのように移行していったのかを明らかにした。 本論では上記「2『全体総論』の変遷」に引き続き,第5期から第10 期までの研究の理論変遷と研究の在り方について述べていくこととする。
Kina, Ikue 喜納, 育江
400年以上に渡る沖縄の被植民地的状況は、沖縄の人々から土着の言語を奪った。しかし、それは沖縄の物語る力そのものを完全に奪ったわけではない。「沖縄文学」は、沖縄の発する「声」として、時代と共に移り変わる読者の意識や、日本語と沖縄口(ウチナーグチ)の葛藤の中で、ふさわしい表現を模索しながら存続している。1990 年代に世界的な多文化主義の動きによって、日本文学の多様性の一部として位置づけられた沖縄文学は、21世紀的なグローバリゼーションの中では、国家主義的文学観を越え、「沖縄系」という越境的でディアスポリックなアイデンティティへの認識を高めることによって、新たな位置を獲得しようとしている。沖縄文学の受容をめぐるこのような考察にもとづき、本稿では、崎山多美の文学が、どのような論理にもとづいて、多文化主義や沖縄系ディアスポラの視点による沖縄文学観ともまた異なる「越境言語的」な位相を表現し、グローバルな文脈の中に立脚しているのか。本稿では、拙訳による2006年発表の崎山の短編小説「アコウクロウ幻視行」を例として論じていく。
戦, 暁梅
日本文人画の「最後の巨匠」と称賛される富岡鐡斎は近代日本画壇において非常に象徴的、且つ矛盾に満ちた存在である。彼は全く東洋的な教養から出発しながらも、画面一杯に漲る力強いタッチ、原色に近い鮮やかな色彩表現、ユーモラスな筆触などの要素を混合させながら独自の画風を作り上げた。この画風は原始主義、稚拙、醜さの賛美を求める西洋の近代絵画に通じるところがある。伝統の文人画から出発し、文人画家の道を貫いた富岡鐡斎は、何を求めてこのような画境に至ったのか。 今までの鐡斎の藝術観に関する研究は殆ど彼が文人画の一般論を語った幾つかの資料をまとめたものであるが、あの近代的な画風を連想させる鐡斎自身の独自な芸術観はなかった。この小論は、今までほとんど見落とされてきた鐡斎画の賛文を主な手がかりとして、改めて画家富岡鐡斎の藝術観を検討する試みをしようとするものである。 賛文の分析を通じて、伝統からの逸脱、画風における「痴・奇・拙・醜」の追求、自我と「心」の重視、遊び心などが鐡斎藝術観の大きな特徴として浮上し、これらの特徴が個性溢れる鐡斎の画風の根底にあることが明らかになった。 伝統文化の中から新しい表現の方法を求めて形になった富岡鐡斎の藝術は、西洋様式の取り入れに焦る日本の美術界に日本画、文人画を発展させるもう一つのあり方を提示した。また、印象派や後期印象派が西洋の近代美術の発端となったのと同じように、鐡斎は文人画の分野を超えて、日本の近代美術において大きな役割を果たした。文人画の伝統を受け継ぎながら、その中に潜む正統に反する部分を大切にし、これをベースに築き上げや豊かな近代感覚に、鐡斎藝術の最も大きな意義がある。
長谷川, 裕 Hasegawa, Yutaka
能力主義は、能力・努力に基づく業績に応じて地位・報酬を配分することを、またそうした能力・努力に基づく業績を基準に人の価値を判断することを是とする考え方である。それは、近現代社会の、地位・報酬に関わる点での社会構成原理=正統化原理であるとともに、人間観・人生観をも含む人びとの価値意識でもある。本稿は、こうした能力主義を肯定する意識を現代日本の若者がどの程度もっており、かれらの様々な意識や行動全体の中でそれがどのような位置を占めているか、またそれがどのような変化の傾向性を孕んでいるかを把握することを目的とした調査研究の一環として、筆者が2007 年に行った高校生対象の意識調査のデータに対して、上記の目的の視点から再分析を試みるものである。
秋沢, 美枝子 山田, 奨治
ドイツ人哲学者オイゲン・ヘリゲル(一八八四~一九五五)がナチ時代に書いた、「国家社会主義と哲学」(一九三五)、「サムライのエトス」(一九四四)の全訳と改題である。 「国家社会主義と哲学」は、ヒトラーの第三帝国下で、哲学がいかなる任務を担いうるかを論じた講演録である。ヘリゲルは、精神生活の前提条件に「血統」と「人種」を置き、新しい反実証主義の哲学者としてニーチェ(一八四四~一九〇〇)を称揚した。ニーチェの著作には「主人の精神と奴隷の精神」があるといい、その支配―被支配の関係をドイツ人とユダヤ人に移し、差別を正当化しようとした。 「サムライのエトス」は、ドイツの敗色が濃くなった戦況のなかで、日本のサムライ精神を讃えた講演録である。同盟国・日本の特攻精神の背後にある武道や武士道を、知日派学者として語ったものと思われる。ここでヘリゲルが一貫して語っているのは玉砕の美学であり、『弓と禅』で彼が論じた高尚な日本文化論とは、あざやかな対照をなしている。 これらの講演録の存在は、ドイツ国内でも忘れられていた。無論、これらははじめての邦訳であり、戦時下ドイツにおける日本学の研究にとって貴重な資料となるだろう。
裵, 炯逸
植民地状況からの解放後の大韓民国において、その「朝鮮(Korea)」という国民的アイデンティティが形成される過程のなかで、学問分野としての考古学と古代史学は、重要な役割を果たしてきた。しかしながら、その学問的遺産は、二〇世紀初頭に朝鮮半島を侵略し、植民地として支配した大日本帝国の植民地行政者と学者によって形成されたものでもあった。本稿は、朝鮮半島での「植民地主義的人種差別」から、その後の民族主義的な反日抵抗運動へと、刻々と移り変わった政治によって、朝鮮の考古学・歴史理論の発展が、いかなる影響を被ったのかについて論じるものである。
鈴木, 貞美
本稿は、西田哲学を二〇世紀前半の日本に擡頭した「生命」を原理におく思潮、すなわち生命主義のひとつとして読み直し、その歴史的な相対化をはかる一連の試みのひとつであり、”NISHIDA Kitaro as Vitalist, Part 1―The Ideology of the Imperial Way in NISHIDA’s “Problem of Japanese Culture” and the Symposia on “The World-Historical Standpoint and Japan” (“Japan Review” No. 9, 1997)の続稿にあたる。 『善の研究』が成立するまでの西田幾多郎の思想を、同時代の思想状況のなかにおいて読み直し、その骨格をなす考えが、どのようにかたちづくられ、また、時代思潮に対してどのような特徴をもつか、そして時代思潮に対してどのような役割を果たしたか、を明らかにすることを目的とする。『善の研究』は明治二〇年代の「国粋保存主義」の擡頭期に思想基盤の形成がなされていること、いわゆる近代的自我の煩悶が知的青年層に広がってゆく時代に応えるための哲学であったこと、とりわけ近代自然科学の展開によって一般化した主客対立の観念を人間疎外ととらえ、二〇世紀初頭の西ヨーロッパおよびアメリカの哲学の関心が「意識」に向かっていることを敏感に受け止め、その疎外を克服するために「純粋経験」を哲学の始原にすえることによって機械的唯物論を超える哲学の体系を企てたこと、「『我』の思想」、「愛の理念」、「宗教の本質」などをめぐる西田の考察の内容は、陽明学や禅を中核にしつつ、浄土真宗、キリスト教神秘主義、トルストイの宗教思想、カントに発するドイツ観念論の流れに属する諸思想、遺伝学・進化論などの生物学の知識とを一挙に自分流に統合して、「純粋経験」から「神との瞑合」に至る概念の体系化を試みたものであることなどを明らかにする。最後に、その体系が観念によって保持されていることを明らかにして、『善の研究』の核心部に生命主義があると結論づける。
Sugimoto, Yoshio
小論は,スリランカの仏教改革者でかつ闘う民族主義者としてのアナガーリカ・ダルマパーラの流転の生涯,およびそれ以後のシンハラ仏教ナショナリズムの展開に関する人類学的系譜学的研究である。小論ではダルマパーラの改革理念のもつ曖昧性や不協和にこだわり,あらたに再編されたシンハラ仏教を,近代西欧的,キリスト教的モデルを否定しながらその影響を強くうけたものとして,その理想と現実との食い違いを明らかにする。こうした改革仏教はオベーセーカラによって2 つの意味を持つ「プロテスタント仏教」と名づけられた。ひとつには英国植民地支配に「プロテスト」するためのシンハラ仏教ナショナリズムと深く関わっている。ふたつには,マックス・ウェーバーのいう在家信者を主体とするプロテスタント的な現世内禁欲主義を仏教に応用しようとしたものである。しかしながら,ダルマパーラの急進的なナショナリスト的改革はいったん頓挫し,1950 年代半ばのバーダーラナーヤカ政権の「シンハラ唯一」政策などによって実質化されることになった。そのさい仏陀一仏信仰を旨とするプロテスタント的仏教は,宗教的に儀礼主義と偶像崇拝を排除し,また政治的にはタミル・ヒンドゥー教徒などの少数派を排除する論理を提供した。もともとナショナリズムと親和的なプロテスタンティズムの論理が貫徹したシンハラ仏教ナショナリズムはそれまであいまいであった民族間,宗教間の対立を実体化し深刻化する結果を招いた。ダルマパーラの改革仏教はそうした紛争の一因を提供した意味においても評価されなければならない。
清水, 昭俊
マリノフスキーは,「参与観察」の調査法を導入した,人類学史上もっとも著名な人物である。その反面,彼は理論的影響で無力であり,ラドクリフ=ブラウンに及びえなかった。イギリス社会人類学の二人の建設者を相補的な姿で描くこの歴史叙述は,広く受け入れられている。しかし,それは決して公平で正当な認識ではない。マリノフスキーがイギリス時代最後の10年間に行ったもっとも重要な研究プロジェクトを無視しているからだ。この論文で私は,アフリカ植民地における文化接触に関する彼の実用的人類学のプロジェクトを考察し,忘却の中から未知のマリノフスキーをよみがえらせてみたい。マリノフスキーは大規模なアフリカ・プロジェクトを主宰し,人類学を古物趣味から厳格な経験科学に変革しようとした。植民地の文化状況に関して統治政府に有用な現実的知識を提供する能力のある人類学への変革である。このプロジェクトは,帝国主義,植民地主義との共犯関係にある人類学のもっとも悪しき実例として,悪名高いものであるが,現実には,彼の同時代人でマリノフスキーほど厳しく植民地統治を批判した人類学者はいなかった。彼の弟子との論争を分析することによって,私は,アフリカ植民地の文化接触について人類学者が観察すべき事象とその方法に関する,マリノフスキーの思考を再構成する。1980年代に行われたポストモダン人類学批判を,おおくの点で彼がすでに提示し,かつ乗りこえていたことを示すつもりである。ラドクリフ=ブラウンの構造機能主義は,この新しい観点から見れぽ,旧弊な古物趣味への回帰だったが,構造機能主義者は人類学史を一貫した発展の歴史と描くために,マリノフスキーのプロジェクトの記憶を消去した。戦間期および戦後期初めの時期におけるマリノフスキーの影響の盛衰を跡づけよう。
Yamazato, Kinuko Maehara 山里, 絹子
本論文では、第二次世界大戦後27年間、米国統治下に置かれた沖縄で陸軍省が実施した「米国留学制度」に着目し、米国留学を経験した沖縄の人々の帰郷後に焦点を当てる。米国は民主主義を推進する外交戦略として、冷戦期にアジアで様々な文化・教育交流を実施した。「米国留学制度」設立の背景には、戦後沖縄の経済復興、民主主義の推進、親米的指導者の育成などの米国側の思惑があった。本論文では、米国留学経験者のライフストーリーの分析を基に、彼ら・彼女らが帰郷後、米軍関係者と地元の沖縄住民との間で、どのように自らの立ち位置をつくり、主体性を形成し、交渉を行ったかを明らかにする。
吉本, 弥生
明治後期、日本の美術界においてフランスやイギリスと同様、ドイツ美術は大きな影響を与えていた。しかし、従来はフランスとイギリスにその重きが置かれ、ドイツからの影響については、あまり大きく取り上げられてこなかった。これは、当時、日本において西洋芸術紹介者としての役割を担っていた雑誌『白樺』とのかかわりが考えられる。 『白樺』は、特にフランスとドイツの哲学思想から強い影響を受けているが、ドイツからの影響は従来、初期に限定され、その後はフランスの影響下にあったと認識されてきた。そして、同時に『白樺』には、人格主義の思想を持つ芸術家が次々に紹介される。 人格主義は、その人物の世界観や思想に重点をおいた解釈方法である。日本では、阿部次郎(『人格主義』岩波書店、一九二二年)や波多野精一(『宗教哲学』岩波書店、一九三五年)の著作がよく知られ、日本への受容において彼らの功績は大きい。 しかし、日本でのこの人格主義の流れの源泉は実は、当時の受容だけによらず、それより以前から日本に定着していた感情移入説にもとをたどることができる。 感情移入説は、ドイツで盛んになった美術概念で、主に「主観の挿入」をキーワードとして対象に感情を落とし込む表現をおこなうものである。その思想を体系化したのがテオドール・リップスである。リップスの思想は、一九一〇年以前から日本でも見られる。本稿では、その紹介者の嚆矢として、伊藤尚の「リップス論」(『早稲田文学』第七二号、一九一一年一一月)を取り上げ、それとの比較として阿部次郎の『美学』(岩波書店、一九一七年)を考察した。その結果、伊藤のリップス受容の特徴がオイケンとの比較にあり、それは早稲田大学哲学科の系譜に沿っていることが解された。伊藤の「リップス論」は、『早稲田文学』に広く影響を与えた。そして、阿部にも特徴的なことに、鑑賞者が制作者の経験を自己のものとして感じる「直接経験」という鑑賞方法が、『帝国文学』で盛んに紹介された『ファウスト』を例として具体的に提示され、それが人格主義の概念を中心に受容されていったことが明らかとなった。つまり、日本におけるリップス受容は、『帝国文学』と『早稲田文学』にも共通する鑑賞における新思潮として受容されていったのであった。
吉本, 弥生
絵画の約束論争(一九一一~一九一二年)は、木下杢太郎・山脇信徳・武者小路実篤によって交わされた、当時の絵画の評価基準に関する論争である。三人の議論が起こった最初のきっかけは、木下杢太郎が、山脇信徳の絵画についておこなった批評にある。本稿は、論争の中心人物となった三人の言説を明確化し、従来、指摘されてきた「主観」と「客観」の二項対立からではなく、「主客合一」の視点で論争をとらえ直した上で、同時代の芸術傾向と、批評を合わせて考察した結果、三人の芸術観には、共通して「印象」ではなく、「象徴」がベースにあることが分かった。
李, 省展
本論文は日本帝国主義による朝鮮の保護国化とその後の植民地化という二〇世紀初頭からの東北アジアに新たに出現した政治状況との関わりにおいて、アメリカ北長老派の朝鮮ミッションとその宣教本部が日本と朝鮮との関係をどのように把握していたのかを検討するとともに、宣教との関わりにおいてどのような帝国主義観を有していたのかを明らかにする。また一〇年代から二〇年代にかけての朝鮮ミッションと総督府の関係などを、宣教関連資料を用いて検証するものである。 二〇世紀初頭に宣教本部セクレタリーのブラウンは、朝鮮の独立に関しては両義的可能性を見出していた。しかし植民地化直前の一九〇九年には、英国、アメリカの帝国主義支配を是認するとともに、その延長線上に日本の朝鮮に対する帝国支配を容認している。また日本との協力関係の確立を言明しているが、これはアメリカの外交政策と軌を一にするものであった。 一〇年代は朝鮮ミッションと朝鮮総督府との対抗関係が顕在化する時期であった。それは一〇五人事件(「寺内総督暗殺未遂事件」)によるキリスト教勢力に対する政治的弾圧、また「改正私立学校規則」によるミッションスクールに対する弾圧がその背景に存在していた。この時期は日本の帝国支配を是認する宣教本部の姿勢と、現地ミッションの総督府に対する対抗的姿勢の乖離が顕在化している。 しかし二十年代の「文化政治」期に入ると、現地ミッションも総督府の「文化政治」を肯定していく。総督府の要請に応え、宣教師も「文化政治」に協力し、植民地体制へのさらなる適応への道を歩んでいる。これは「武断政治」がキリスト教に抑圧的で、「文化政治」が寛容であるという植民地における政治権力と宗教の関係に左右されていた。しかし宣教本部セクレタリーのスピアに見られるような、帝国主義的膨張の中核にキリスト教を位置づけ、西洋道徳の優位性を主張するとともに、臣民の良心とキリスト教との接触を暴力でもって禁ずるならば、もっとも高度な人類の道徳的権利への攻撃であると見なされるというミッションの文明観と論理が、宣教本部並びに朝鮮ミッションが「武断政治」を批判し「文化政治」を容認する背景に存在していると考察される。 このように総督府とミッションは帝国主義近代への眼差しは共有していたが、アメリカ型近代と日本型近代の根底をなすものの違いが露呈されるのが神社参拝を強要される三〇年代であった。
篠原, 武夫 Shinohara, Takeo
(1)近年わが国の国産材供給危機の情勢により, 東南アジア森林開発に対する関心の高まりは, まことに著しくなってきている。東南アジア森林開発の問題はわが国の林業問題と密接不可分の関係にある。今日の東南アジアの森林は植民地時代の影響を強く受けているので歴史的認識に基づいた東南アジア森林開発の理論的研究は急務である。本論の中心的課題も, 戦前のイギリス帝国主義によって東南アジアの森林がいかに開発されたか, つまり帝国主義の資本の論理が東南アジア植民地の森林にいかに展開して行ったか, という過程を明らかにすることにある。(2)分析方法は植民地森林開発の理論に基づき, 「イギリス帝国主義経済と東南アジア植民地森林開発」の視点に立って接近して行くことにした。一般に帝国主義が植民地開発(資本輸出)を試みる究極の目的は, 超過利潤取得以外の何物でもないが, その目的を達成するために, 独占資本にとって最も要求される課題は植民地原料資源の独占的支配である。この課題を実現するために領土的支配を確立した植民地においては独占資本は国家権力と一体となって原料資源の独占的開発を進めていく。これに対して領土的支配の確立までに至っていない半植民地においては資本侵略によって原料資源の独占的開発を行なうのである。このことは植民地で森林開発が行なわれる場合にも同じように現われる。すなわち(1)領土的支配の確立した植民地の森林開発はなんらかの国家的規模における強権を背景として独占資本の手で開発され, そのために開発対象林は基本的には国有林であり, 資本活動が国家的林野所有を舞台として展開する。すなわち独占資本は森林の所有主体である国家権力と結合して森林資源の独占的開発を可能にするのである。(2)しかし, 同じ植民地で森林の国家的所有が成立しても森林開発が農業開発に重点が置かれて行なわれることがある。そこでの開発資本には農業開発資本のみが存する。この場合の森林資源の意義は農業開発資本の独占的利潤追求と不可分離の関係にある。(3)領土的支配の確立していない半植民地の森林開発では森林の所有主体が民族国家に属しているため, そこでの一資本による森林資源の独占的開発はもっぱら巨大資本力によって生産過程における民族資本および他の帝国主義国資本を圧倒して実現される。以上に述べた植民地森林開発理論の(1)に該当する植民地はビルマ, (2)はマレー, (3)はタイである。
菊田, 悠
近代化が各地でいかに進んできたかを考察する近代化論は1960 年代頃から盛んになったが,旧ソヴィエト連邦ではイデオロギーや調査上の制約から,そのミクロ・レベルでの近代化の実態を検討することが難しく,近代化論における社会主義体制の意義も十分に論じられてきたとはいえない。 それに対して本稿は,旧ソ連を構成していたウズベキスタンのリシトン陶業が,ソ連時代に経験した変化を,先行研究および人類学的フィールドワークに基づいて仔細に検討する。そしてそれがどのような近代化といえるものだったのかを考察する。具体的には,20 世紀初頭,1920 年代から1960 年代,1970 年代から1991 年という3 つの時代区分を設定し,これに沿って生産体制,陶工の内部構造,技能の伝承という3 点からリシトン陶業の変遷を追う。 その結果,まず組織の面で社会主義的生産のための大改編がなされ,1970 年代になってからは技術面の近代化が進み,それに合わせて陶工間関係もゆるやかに変化してきたことが明らかになった。一方で,近代化の枠にはそぐわない技能や組織,観念も国営陶器工場内の工房を中心とした場で見られ,このような工房でのインフォーマルな活動はフォーマルな工場制度と相互補完的に支えあっていた。以上のように社会主義体制下での近代化の実態は複雑な様相を持ち,今後のさらなる人類学的調査を待っている。
Kobayashi, Masaomi 小林, 正臣
本稿は、ユダヤ系アメリカ人のBernard Malamudの作品において、どのように「多文化主義(multiculturalism)」が構築され実践されているかを検証する。特に注目した作品は“The First Seven Years”や“The German Refugee”などの短編およびThe Assistantなどの長編であり、これらにおいて「他者性(otherness)」が「共者性(anotherness)」へと変容していることを発見することで、作者独自の多文化主義が実現されていることを論証する。\n以上の点を論じるうえで重要なことは、文学の役割である。Malamudの文学作品には、文学作品を媒介として人物たちが関係を深める場合が往々にしてある。すなわち、文化的背景の異なる人物たちは、同一の作品を読むことで相互の交流の契機を見出し、結果として自己に対する「他者」は「共者」として認識される。そして相互の交流は、Mikhail Bakhtinが唱える「対話法(dialogics)」によって促進される。具体的には、上記に挙げた作品の主要人物たちは、話すことによる意思疎通という「外的な対話(external dialogue)」と、書くことによる意見交換という「内的な対話(internal dialogue)」を同時に実践している。それにより「ユダヤ系」と「非ユダヤ系」という二項対立が相克され、ついには人物たちは相違を認識したうえでの共者間の交流を実現するに至る。\nさらに本稿では、多文化主義が教育においても重要であることを説く。文化的背景という点においては、多くの場合、学生と学生ならびに教師と学生は異なる人間である。この意味において、多文化な環境(特に大学)における人間同士の共者性を育む場は教室であり、そこで文学作品を読むことは多文化主義を実践することと不可分である。かくして、Malamudの「文学(writings)」は理念的かつ実践的な「教学(teachings)」でもあると結論する。
木村, 汎
ゴルバチョフがペレストロイカを開始した背景や理由として、多くの要素を指摘することができる。例えば、次のファクターは、そのほんの一例である。ソ連経済の停滞、否定的な社会現象の発生、政治的無関心(アパシー)の蔓延、ソ連と先進資本主義諸国との間で拡大する一方の経済的格差、NIES、ASEAN、中国らの擡頭、”強いアメリカの再建”のスローガンを掲げ、その象徴としてSDIを推進しようとしたレーガンの挑戦、西側世界の団結、繁栄、安定、それに比べて国際場裡において目をおおいたくなる程度にまで進行中のソ連邦の実力、影響力、威信の低下……等々。このようにペレストロイカの開始を促した数多くの要因の存在を十二分に意識しているが故に、日本の経験や教訓だけがペレストロイカを生み出す引き金となったとか、日本の成功がペレストロイカの唯一のモデルであると、私の論文が主張していると誤解されてはならない。ましてや、私が日本人であるが故に、ナショナリスティックな偏見に基づいて戦後日本の達成物を過大評価していると誤解しないことを望む。客観的な立場から、明治以来、とくに戦後の日本の発展が旧ソ連/ロシアの改革に一モデルと目されてよい程の有益な教訓を提供していると十分主張しうると、私は考えるのである。 ペレストロイカは、なによりもまず停滞したソ連経済の立て直しを目指して、経済分野から始められた。約百年前にほぼ同レベルから近代化ないし工業化を開始したにもかかわらず、日本が今日米国に次ぎ世界第二位の経済大国の地位にのし上がった現実は、ロシア人に「日本ショック」の衝撃を与えた。国土面積、人口、天然資源などの諸点でロシアに著しく見劣りのする日本が、ロシアを遙かに上回る経済パフォーマンスを上げている理由は、何か。ゴルバチョフは、科学・技術の力を借りて資源の最大有効利用に努めている点に「日本の奇蹟」の主因が存在すると考えた。軍事・安全保障の分野でも、ゴルバチョフは、日本の生き方が自国にとり参考となると考えた。戦後日本の驚異的な経済復興および繁栄は、軍事力を国の発言力を増大する源泉と見ずに、むしろ非軍事部門の充実を重視した点にある。ゴルバチョフが「新思考」のキャッチフレーズ下に「安全保障を確保するためにすら軍事力の限界が存在する」ことを指摘したのは、偶然の一致といいうるかもしれないが、戦後日本の経験を遅まきながら学んだからだともいいうる。同様に、外交政策の分野でも、ゴルバチョフは軍事力が有効な外交的な道具(ツール)となりえないことを悟ると同時に、二十一世紀に向けて世界で最もダイナミックな発展を遂げつつあるアジア・太平洋地域へ、日本に倣って参入すべきであると悟るようになった。日本の国内政治の分野においても、野党の反対意見をとり込みつつ事実上自民党の永久支配を可能にしている点や、大蔵省や通産省の行政指導下に「上からの改革」が推進されている点などにおいて、日本式政治のほうが、欧米モデルに比べ、全体主義体制崩壊後のソ連にとり身近なモデルを提供している。
山越, 英嗣
本稿は,オアハカのストリートアーティスト集団ASARO(Asamblea deArtistas Revolucionarios de Oaxaca,オアハカ革命芸術家集会)による創作活動が,西洋の美術市場による一方的な影響力のもとに存在しているわけではなく,ローカルな文脈において,そこには回収されないような人々とアートの関係性を生み出していることを論じる。 オアハカで2006 年に生じた州政府への抗議運動には多数のストリートアーティストが参加し,政治的メッセージを発信した。当時,オアハカの町に描かれたASARO のストリートアートは,現地の人々によって受容されただけでなく,メディアを通じて世界中へと拡散していった。やがて,美術市場が彼らに注目し,アート・ワールドにおいてある程度の知名度を獲得すると,さまざまなアクターによる干渉が行われるようになっていった。ASARO は資本主義とアートの関係性を批判し,それを村落の若者たちに伝えていくことを新たな目標として活動を行い,彼らを搾取する資本主義へ対抗するための共同体としてのプエブロを創造する。本稿は,ここに西洋による一方的価値づけを超えた,ローカルな物語性を見出す。
鈴木, 貞美
日本文学、特に近・現代小説の特殊性をめぐる議論について、曽根博義氏の「昭和文学史Ⅱ 戦前・戦中の文学 第二章小説の方法」(小学館版『昭和文学全集』別巻)を取り上げて検討する。曽根博義氏は、昭和十年を前後する時期における小説の方法的追究のうち、横光利一の「四人称」の提唱と、太宰治や石川淳の前衛的な一人称の試みを、「主格が曖昧な日本人の自意識」と「超越的主体を持たない日本語の話法」と関係づけて論じている。ここにあるのは、当代の表現意識及び自意識の問題についての歴史性の閑却と、ア・プリオリに想定された「日本人の自意識」及び「日本語の話法」への還元主義である。その背後には、西欧の「近代的自我」と「客観的レアリスム」を基準として文芸を価値判断する”近代主義”があり、さらにその根本には、発展段階論的な一国文学史観に基づいて第二次大戦後に形成された”近代化主義”がある。 この問題は、日本における小説の方法の二〇世紀的な追究として論議すべきであること、とりわけ前衛的な一人称による饒舌体には、落語や戯作などの伝統的話法の汲み上げがあり、そこにこそ日本的特殊性が見られることを明らかにする。また、すでに江戸期の小説において場面超越的語り手が成立していることを示し、井原西鶴以来の日本の小説話法を検討すべきことを提起する。
中野, 真麻理 NAKANO, Maori
昔話「笠地蔵」は日本全国に伝承されており、その広範な流布は、同話の歴史的古さを思わせる。仏像に笠を被せたことに依って善報を得たと語る類話は、覚鑁の『打聞集』や『元亨釈書』『諸国一見聖物語』『延命地蔵菩薩直談鈔』のほか、尾張国天林山笠覆寺、上総国大悲山笠森寺の縁起等々に散見する。なぜ、これ程までに「笠」が頻出するのだろうか。仏像に奉られた「笠」の象徴性を考察し、「笠地蔵」「笠観音」の源流について推測する。
西田, 彰一
本稿では筧克彥の思想がどのように広がったのかについての研究の一環として、「誓の御柱」という記念碑を取り上げる。「誓の御柱」は、一九二一年に当時の滋賀県警察部長であり、筧克彥の教え子であった水上七郎の手によって発案され、一九二六年に滋賀県の琵琶湖内の小島である多景島に最初の一基が建設された。水上が「誓の御柱」を建設したのは、デモクラシーの勃興や、社会主義の台頭など第一次世界大戦後の急激な社会変動に対応し、彼の恩師であった筧克彥の思想を具現化するためであった。 水上の活動は、国民一人一人に国家にふさわしい「自覚」を促すものであった。この水上の提唱によって作り出された記念碑が、国民精神の具現化であり、同時に筧の思想の可視化である「誓の御柱」なのである。この記念碑の建設運動は、滋賀県に建てられたことを皮切りに、水上が病死した後も彼の友人であった二荒芳徳や渡邊八郎、そして筧克彥らが結成した大日本彌榮會に継承され、他の地域でもつくられるようになった。こうした大日本彌榮会の活動は、特に秋田の伊東晃璋の事例に明らかなように、宗教的情熱に基づいて地域を良くしたいという社会教育に取り組む地域の教育者を巻き込む形で発展していったのである。 この「誓の御柱」建設運動の真価は、明治天皇が王政復古の際に神々に誓った五箇条の御誓文を、国民が繰り返し唱えるべき標語として読み替え、それを象徴する国民の記念碑を建てようと運動を展開したことであろう。筧や水上たちは、国民皆が標語としての御誓文の精神に則り、建設に参加することで、一人一人に国家の構成者としての「自覚」を持たせ、秩序に基づいた形で自らの精神を高めることを求めたのである。そしてこの大義名分があったからこそ、「誓の御柱」建設運動は地域の人々の精神的教化の素材として伊東たち地域で社会教育を主導する人々にも受け入れられ、日本各地に建設されるに至ったのである。
李, 原榛
近代日本という国民国家の発展とその中における「臣民」の形成を理解するには、国体思想と「民主主義」との関係性を、二元対立的な図式でではなく、相互に影響し吸収し合うという視点で捉える必要がある。本稿では「大正デモクラシー」期における、井上哲次郎(1856-1944)の神道論の展開を中心に、国体思想と「民主主義」との複雑な関係を考察する。 日露戦争での勝利をきっかけに、井上は神道についての研究を始めた。この段階において、井上は神道における「祖先崇拝」の論理を抽出し、日露戦争で勝利した原因を説明しようとした。しかしこの段階の神道研究は、まだ「国民道徳論」の一部分として扱われており、独立した理論まで発展していなかった。 1912年の三教会同の頃、井上は神道の「徳教」としての重要性を意識するようになり、体系的な神道論を創ろうとした。この理論化の過程には、国体思想の改造と民主的思想の改造という二つの方面が存在していた。一方は、井上が神道における「祖先崇拝」の論理を、国民が神々の人格的優越性を承認する論理へと改造した過程である。国民の内面まで浸透できるようになった神道論は、「国民道徳論」の中核であった「家族制度」論をもその一部分として吸収し、体系的なものへと発展した。もう一方は、井上が第一次世界大戦後の世界的な「民主的傾向」に直面し、「民主主義」に発見した「人民の意思」を「シラス」論に取り入れ、民主的思想を改造することによって神道論を更に展開した過程である。この過程で、井上は臣民の主体性を国家と「国家の恩人」たる神々に回収する論理を創出した。 二つの改造を経た井上の神道論は、主体性を発揮できる「臣民」を創出する、新しい段階の国体思想となった。井上の神道論についての考察を通じて、近代における国体思想と「民主主義」との関係、そして国民国家のあり方を捉え直す新しい視点が獲得できよう。
Gallicchio, Marc ガレッキオ, マーク
終戦後70 年の間に、占領政策が成功だったか否かに対する米国の見解は劇的に変化した。1990 年代以前は、占領政策の成果や意義については学問の対象であり、多くの研究者が占領政策における占領地の民主化の努力不足について指摘した。その最たる例は1980 年代における米国経済の競争相手国としての日本の台頭である。 しかし、冷戦終結後、政策立案者は一般の論者やシンクタンクに影響され、占領政策を米国による国家再建の成功例とみなすようになった。特に日本の例は、非西洋諸国を民主化する米国の手腕を疑問視する懐疑派への反証を示すモデルとして引き合いに出された。議論の批判者側は、日本占領下で起こった特異的かつ再度起こりえない教訓に焦点をあてつつ、そもそも国家再建を国家間で比較することはできないと主張し、反論を試みた。しかし、歴史修正主義の研究者たちのこうした主張は、日本の復興におけるマッカーサーおよび天皇の果たした役割といったテーマについて、それまで自らの研究が導き出してきた結論に矛盾する内容であった。 今日においても、新保守主義の評論家は、米国の行動主義的外交政策を正当化する実例として占領が成功したことを引き合いに出すが、オバマ政権当局者は、占領政策を和解の意義を表す一例として引用することを好む。和解という考え方は、政権がアジア地域の情勢に対応する際の施策として訴求力があると考えられる。
伊藤, 雄志 Ito, Yushi
明治大正時代のジャーナリスト山路愛山は,日本および琉球などの「周辺地域」における女性の社会生活に注目し,戦後に盛んになった社会史研究に先行する史論を発表した。沖縄学の父伊波普猷と同様に山路は日琉同祖論を主張し,明治政府による琉球処分を肯定的に見ていた。しかし山路は,単に「帝国主義的」な琉球観を抱いていたのではなく,琉球を含む日本列島における女性の商業・宗教上の活動に注目し,良妻賢母を支える家父長制が建国以来の日本固有のものだという当時の通説には根拠がないと批判した。本稿では,歴史における女性の社会的役割に注目した新井白石の業績を高く評価した山路が,琉球などの「周辺地域」を日本史研究の中に取り込み,さらに儒教主義に基づく紋切型の日本女性像を是正し,「婦人の解放」の必要性を訴えていたことを明らかにしたい。
前川, 真由子
本論は人々が考える「理想的なオーストラリア」を同国の反捕鯨思想の中から考察していくものである。長らくオーストラリアでは反捕鯨思想が広く支持されており,鯨に対する人道主義的な立場が取られてきた。先行研究では鯨に対する人道主義を,モラル・キャピタルといったトランスナショナルな反捕鯨思想の広がりの中で展開されてきた概念と共に考察し,動物との関係性から西洋近代的な人間像を追求していく人々の様子を明らかにしている。一方で本論は先行研究に依拠しながらも,これまでの議論では言及されることの少なかったオーストラリアに特有の歴史的,政治的,地理的な文脈から,同国で高まる反捕鯨の社会的背景を紐解いていく作業を試みたい。特に,「われわれのオーストラリア」や「われわれオーストラリア人」といった人々が想像する理想的なオーストラリアが,鯨を含む自然を媒介にして描かれる様子を彼らの語りから分析していく。
木戸, 雄一 KIDO, Yuichi
島崎藤村の小説「旧主人」は、作中人物の下女が語り手となっており、その下女の視点によって意味付けられた物語系とそのように積極的に意味付けられず、暗示的に示された物語系との複線的な構造になっている。従来、あまり意味付けられてこなかった後者の物語系は、実は〈金銭〉の流れを示しており、それが〈衣裳〉によって象徴される前者の物語系を支えている。この二重構造はそのまま、作品の舞台となっている新興商業都市小諸の構造でもあった。
石井, 由香
本論文は,カンボジア出身の華人系移民の第2 世代で,弁護士,作家として活動するアリス・プンの自叙伝および編著書の内容とオーストラリア社会における反響,およびプンの文化・社会活動の分析を通じて,2000 年代以降のアジア系専門職移民の文化・社会参加の状況を考察することを目的とする。アジア系専門職移民は,経済重視の多文化主義において「好まれる」移民である。しかし,「オーストラリア市民」であるアジア系専門職移民の中には,経済的のみならず,政治的,社会的にも主流社会に深く関わり,単純なマジョリティ,マイノリティの二分法を越えようとしている人々がある。本論文は,アジア系専門職移民にとっての多文化主義,またホスト社会へのアジア系オーストラリア人としての主体的な参加戦略の一つのあり方を,アジア系(カンボジア出身の華人系)というエスニシティ,ミドルクラス,若い世代という特質をもつ作家の事例から検証する。
石田, 一之 Ishida, Kazuyuki
本稿は、ドイツ語圏における新自由主義の基盤を形成した論者のなかで、みずからの主張を歴史-文化社会学の視点から基礎づけようとしたアレクサンダー・リュストウ(Alexander Rüstow)の代表著作『現代の位置づけ』並びにその他の著作の検討を通して、歴史-文化社会学的立場に立脚した視点から人間の自由、並びに彼の主要概念である支配を考察し、それとともに、現代における人間の文化的・社会学的状況に関して実質的自由の視点から重要な示唆を得ようとするものである。
Takezawa, Shoichiro
2005 年はヨーロッパ各国で,文化の名による問題が噴出した年であった。移民第2 世代が主体となったロンドンの地下鉄テロや,フランス各地の郊外で発生した「都市暴動」,デンマークの日刊紙によるムハンマドの風刺画の掲載など,事例は枚挙にいとまがない。 これらの事件の背後にあったのは,EU の拡大とグローバル化の進展によって国民国家が弱体したという意識であり,そのため内的境界としてのナショナリズムが各国民のあいだで昂進したことであった。その結果,外国人移民およびその子弟や,イスラームに代表される文化的他者に対する排他意識は,これまで以上に高まっている。 従来,文化的他者の統合については2 つのモデルが示されてきた。文化的アイデンティティに沿って共同体を形成することを求めるアングロサクソン系の多文化主義と,公の場で宗教の表出を禁止し,個と国家のあいだに中間団体を認めないフランス式共和主義である。しかし,2005 年に英仏両国で生じた一連の事件は,両国とも文化的他者の統合に成功していないことを示している。多文化主義も共和主義も文化的他者の統合に成功していないとすれば,私たちはどこに統合のモデルを求めればよいのか。 産業革命以降,工業化に成功した諸国ではさまざまな社会問題が生じたが,問題に直面した人びとが団結して社会運動を起こすことでこれらの問題は解決するはずだ,というのが社会学のメタ物語であった。しかし,文化をめぐる問題が多発している今日,文化の諸問題を解決するためのメタ物語はまだ見つかっていない。フランスでは80 年代以降,移民の子弟を中心にさまざまな社会運動や文化運動がつくられてきたが,問題の解決には程遠いのが現状である。本稿では,2005 年のパリとマルセイユでおこなった現地調査にもとづきながら,文化の諸問題に対する効果的なアプローチを構築することを目的とする。国民国家に倣って境界づけられ,内部における等質性と外部に対する排他性を付与された文化の概念を,いまなお使いつづけるべきなのか。あるいは,複数の文化の出会う場としてのローカリティやテリトリー,空間の概念によって代置すべきなのか。それらの問いを具体例に沿って問うことが,本稿の課題とするものである。
呉, 昌炫
本論文は,まず開港以来,日本の漁民が朝鮮漁民と出会ってからお互いに認識するようになった両国の漁業技術上の差異を確認し,こうした両国の漁業技術的差が選好の魚種の違いに基づいていたという点を究明する。そして特定の魚種に対する両国の異なる選好が両国間の自然環境と経済水準ではなく,魚の象徴的意味とその歴史的形成過程に関連していることをマダイとグチ(韓国名:チョウギ)を例に説明する。最後に特定の魚種に対する民族的選好が植民地朝鮮の漁業(と漁業技術)の展開過程に及ぼした影響を分析する。
大城, 郁寛 Oshiro, Ikuhiro
1960年代の沖縄の製造業は、就業者の構成比でみると9%を占めるまで規模拡大を果たす。琉球政府下の沖縄はドルを域内通貨と用い、自由貿易及び外資の積極的な導入など開放的な経済体制をとっていたといわれる。しかし、本稿では琉球政府の物品税等の課税のあり方、重要産業育成法等の産業に関する法律、その実際の運用を検討することによって、琉球政府下の沖縄が製造業に関して保護主義的な政策を取っていたことを明らかにする。製造業の規模拡大は、糖業やパイン缶詰産業といった沖縄の輸出商品に関しては日本政府による特別措置によって、またその他の食品加工、衣料・縫製業等の輸入競合産業は琉球政府による保護に拠るものである。その反動で、1960年代に日本政府が保護主義から自由貿易に政策転換を行い、また1972年の復帰により日本経済との一体化を達成すると移入品が自由に流入し沖縄の製造業は再び規模を縮小させる結果となる。
浜本, 満
本論文の目的は,人類学の自然化の可能性を,人類学の過去に遡って再考することにある。人類学には過去に二回自然化の問題に直面した歴史がある。一回目は人類学が自然科学たりうるかどうかを巡ってなされた1950 年代から1960年代にかけての論争であり,二回目は1970 年代から1980 年代にかけての社会生物学を巡る相互の無理解に終始した論争だった。いずれにおいても文化人類学者の大多数は自然化を退ける選択をしたように見えた。一見正しいものに見えたこの選択は,大きな理論的な袋小路につながる危険が潜んでいた。本論文では,人文・社会科学全体がかかわった一回目の論争を中心に,人類学にとっての自然化の障害となりうる核心を明らかにするとともに,自然科学における経験主義的・実証主義的因果概念の限界を指摘すると同時に,生物学の領域でのダーウィニズムのロジックによって,この両者の懸隔を乗り越える可能性を示したい。
Takezawa, Shoichiro
19 世紀後半に欧米諸国であいついで建設された民族学博物館は,新しい学問領域としての民族学・文化人類学の確立に大きく貢献した。植民地拡大の絶頂期であったこの時期,民族学博物館の展示は,器物の展示を通じて近代西欧を頂点におく諸民族・諸人種の進化を跡づけようとする,イデオロギー的性格の強いものであった。 やがて,文化人類学における文化相対主義・機能主義の発展とともに,民族学博物館の展示も,当該社会の文化的コンテキストを重視するものになっていった。そして,西暦2000 年前後に,ヨーロッパの多くの民族学博物館はその展示を大幅に変えたが,その背景にあったのは,「他者」を再現=表象することの政治的・倫理的課題をめぐる民族学内部の議論であった。 本稿は,ヨーロッパの民族学博物館の展示の刷新を概観することを通じて,今日の民族学博物館と民族学が直面している諸課題を浮彫りにすることをめざすものである。
須藤, 眞志
本稿は一九四一年の日米交渉の失敗の原因を木村汎教授の「交渉研究所説(その一)」に依拠して、木村氏の論文の枠組を使って分析したものである。木村論文は「交渉の定義」と「交渉と文化」に大きく分けられている。交渉とは何かという分類で日米交渉を見たとき、コミュニケーション・ギャップとパーセプション・ギャップがあったことがはっきりした。また、文化との関係ではアメリカの合理主義と日本の非合理主義の違いが明確となった。また日本は大東亜共栄圏をグランド・デザインとして作る気はなかったのであるが、アメリカ側は日本が東南アジア一帯を支配するための一種のドミノ理論で解釈していた。そのための時間稼ぎとして日米交渉を見ていたのである。日米交渉は交渉学の観点からみてもかなり困難な交渉であったことが良く理解できた。交渉が失敗して戦争となってしまったのは、必ずしも両国の交渉者の力不足であったとばかりとは言えないことを交渉学は教えている。
篠原, 武夫 Shinohara, Takeo
(1)ビルマ植民地。イギリス帝国主義はビルマ植民地の森林資源(チーク林)を独占的に支配するために,まず森林資源の国家的所有を実現し,民間商社のチーク林伐採は政府発行の特許によって行ない,それは主に自国独占商社に与えられた。その結果,ビルマ人民の自主的経営は禁止され,全ビルマのチーク林資源はイギリス帝国主義の独占的支配下におかれたのである。このようにして経済的価値の高いチーク林資源はイギリス帝国主義に収奪され,それはビルマ人民の経済からまったく遊離することになったのである。(2)マレー植民地。イギリス帝国はマレーの植民地化に際して,全マレーの土地・森林を国有した。イギリス帝国のとったマレーの植民地政策は,国際的ゴム景気の影響によって,独占資本が森林をとらえた時に,そこには木材生産を主目的とする生産形態でなく,栽植農業を中心としたゴム開発に主力がそそがれ,そのため国有林は農業開発資本と結合して独占利潤追求に奉仕するようになった。そのことは栽植農業(主にゴム)に対するイギリス投資が全投資額の約9割近くに達し,森林資源が豊富に存するにもかかわらず,林業開発に対するイギリスの投資がみられないといったことから明らかであろう。それはまた農業開発に伴って成立した林政が林業生産面で消極的であったこと,および木材生産の担い手が主に支那人で,彼らによる木材生産は国内需要を十分にみたし得なかったこと,などからもわかろう。このようにマレー林業の後進性をもたらした最も基本的な原因は,イギリス帝国主義のとった産業政策の偏倚性,すなわち森林開発=農業開発という政策のあり方に起因していたと言えよう。(3)タイ国半植民地。純然たる植民地における独占資本の森林開発は,宗主国の国家的林野所有を舞台にして展開されるので,森林資源の独占的開発はきわめて容易に進行するが,領土的支配までにいたらない半植民地タイ国の森林開発では,森林がイギリス帝国の所有でないので,同帝国はもっぱら強力な資本力をテコに,まずは林政改革の実権を掌握して,自国独占資本による森林の支配の活動を有利に導き,他の資本を圧倒して森林資源(チーク林)の独占的開発を可能にして行ったのである。イギリス独占資本の支配力は森林の生産過程はもとより,流通過程にまでおよんでいるので,チーク林からの独占利潤の享受は大きかったと言えよう。以上のようなメカニズムを通じてタイ国半植民地の森林資源は,ヨーロッパ資本,なかでもイギリス独占資本の開発下におかれたのである。
呉, 佩遥
近年の宗教概念研究によってもたらされた「宗教」の脱自明化から、近代日本における宗教学の成立と展開を考察することは、宗教学なる領域に対する理解を反省的に把握するために重要である。しかし、アカデミックな場に成立した「宗教学」において、「宗教」に隣接した概念であり、「宗教」の中核的な要素とされる「信仰」と、「宗教」の身体的実践の一つである「儀礼」がいかに語られたかについては、まだあまり考察されていない。 本稿では、東京帝国大学に設立された宗教学講座の初代教授であり、近代日本における儀礼研究の先駆者としても知られる姉崎正治(1873-1949)を中心として、彼の『宗教学概論』(1900年)における「信仰」と「儀礼」の語り方を考察した。そして世紀転換期における姉崎の宗教学を同時代の社会的・思想的なコンテキストの中に位置付け、姉崎が同時代の「修養」に関する議論を意識しつつ、新たな学問領域である宗教学の立場から自らの修養法を提示したということを指摘した。かかる時代状況で、「信仰」と「儀礼」の結び付きは「修養」との関わりの中で主張されたのである。 具体的にはまず、姉崎があらゆる宗教に共通している固有のものを探る宗教学の立場を強調した1900年代前後は、人格の向上を目的とする自己研鑽を求める「修養」という概念がブーム化していた時代であるということを指摘した。この時期の修養論には、「自発的実践の重視」とその半面としての「特殊的・形式的な教義や儀礼の軽視」という傾向がある(栗田 2015)。こうした時代状況に身を置いた姉崎は、「信仰」と「儀礼」を再解釈することにより、「修養」を「主我主義」・「他律主義」・「自律主義」と段階的に説き、「信仰」と「儀礼」の結び付きによる「自律主義」を理想とした。このように、1900年代前後における「修養」というあいまいなカテゴリーは、宗教学の鍵概念である「信仰」や「儀礼」が再解釈される方向に導いていったといえる。かかる姉崎の学問的営為は、近代日本における「宗教」の展開を考える上で重要な意義を持っている。
上垣外, 憲一
雨森芳州(一六六八~一七五五)は長いこと対馬藩にあって、朝鮮関係の外交を担当していた。彼はまた朝鮮語、中国語に堪能だったことでも知られている。 当時の日本の儒学者たちは中国文明を中華と見なすかどうかをめぐって議論を繰り広げたのだった。荻生徂徠は、中国文化、それも古代の中国こそが最もすぐれているとした。言語においても中国語は日本語よりも優れ、その中国でも古代の言語が最高であるとした。なぜなら聖人は、日本でもなく西域でもなくまさに中国古代にのみ生まれたからである。 芳州はこのような中国文明の崇拝、中国中心主義を否定した。中国と周辺の「夷狄」の国々は貿易を通じて相互依存の関係にある。また言語についても芳州は中国語と日本語が、コミュニケーションの手段としては、等しい価値を持つと考えていた。ある国、ある民族の価値は、「君子と小人」の数の多い、少ないによってきまる、と芳州はいう。一民族の価値は歴史の中でその道徳水準、教育水準によって可変なのである。 このような相対主義的な思考法は、同じ十八世紀のヨーロッパにも見て取れる。ヴォルテールはその「寛容論」(一七六三)の中で一つの決まった宗教の優越を否定した。ドイツの劇作家レッシングは「賢人ナータン」の中でキリスト教、ユダヤ教、イスラム教の平等を主張している。宗教は人間性の基準によって評価されるのである。このようなヨーロッパの人道思想と興味深い類似点を持つ芳州の著作は、一人の徳川知識人がいかに相互依存的で平等主義的な世界像を形成していったかを、われわれに示してくれる。
安道, 百合子 ANDO, Yuriko
『しのびね物語』は一般には『悲恋に忍び泣く姫君の物語』として読まれており、中世物語の典型であるという理解がある。しかし、その「しのびね」という語が、女主人公の呼称として用いられている点や、物語の後半部に唐突に出現し集中的に用いられているという点には特徴が認められる。「しのびね」なる語は、帝の介入によって生じた悲恋を象徴的にあらわし、姫君の境遇の変化ではなく、心情の変化に即して、効果的に用いられている。また、物語は、前半部と後半部とで対極的に描かれていることを確認する。
藤原, 貞朗
一八九八年にサイゴンに組織され、一八九九年、名称を改めて、ハノイに恒久的機関として設立されたフランス極東学院は、二〇世紀前半期、アンコール遺跡の考古学調査と保存活動を独占的に行った。学術的には多大な貢献をしたとはいえ、学院の活動には、当時インドシナを植民地支配していたフランスの政治的な理念が強く反映されていた。 一八九三年にフランス領インドシナ連邦を形成し、世界第二の植民地大国となったフランスは、国際的に、政治、経済および軍事的役割の重要性を誇示した。極東学院は、この政治的威信を、いわば、学術レベルで表現した。とりわけ、活動の中心となったアンコールの考古学は、フランスが「極東」に介入し、「堕落」したアジアを復興する象徴として、利用されることとなった。学院は、考古学を含む学術活動が、「植民地学」として、政治的貢献をなしうるものと確信していたのである。しかし、植民地経営が困難となった一九二〇年代以降、学院は、学術的活動の逸脱を繰り返すようになる。たとえば、学院は、調査費用を捻出するために、一九二三年より、アンコール古美術品の販売を開始する。「歴史的にも、美術的にも、二級品」を、国内外の美術愛好者やニューヨークのメトロポリタン美術館などの欧米美術館に販売したのである。また、第二次大戦中の一九四三年、学院と日本との間で「古美術品交換」が行われ、学院から、東京帝室博物館に、「総計八トン、二三箱のカンボジア美術品」が贈られるのである。いわば、政治的な「貢ぎ物」として、日本にカンボジアの古美術品が供されるかたちとなった。 アンコールの考古学は、フランスの政治的威信の高揚とともに立ち上げられ、その失墜とともに逸脱の道を歩む。具体的な解決策を持たないまま一九五〇年代まで継続された植民地政策のご都合主義に、翻弄される運命にあったのである。アンコール遺跡の考古学の理念が、「過去の蘇生」の代償として「現在の破壊」を引き起こしてきたこと、アンコール考古学の国際的な成熟が、現地に多大な喪失を強いたという歴史的事実を確認したい。再び、アンコール遺跡群の保存活動が開始された現在、この歴史的事実を確認する意義はきわめて大きい。
Sugase, Akiko
イスラーム世界にあって,少数派のシーア派や,非ムスリムのキリスト教徒やドルーズが多数派を占めるシャーム地方では,ムスリムと非ムスリムが混住し,宗教・教派間の共存が保たれてきた。その状況を象徴するのが聖者崇敬の共有であり,なかでも聖者アル・ハディル(レバノンではアル・ホドル)は,歴史的パレスチナを中心に病の治癒や降雨,豊穣をもたらす聖者として,さかんに崇敬されてきた。ことに歴史的パレスチナでは,地元出身の英雄という点が強調されている。 歴史的パレスチナと隣接するレバノン南部でも,アル・ハディルはアル・ホドルと呼ばれ,複数宗教・教派信徒によって崇敬が共有されてきた。シーア派の村サラファンドにあるアル・ホドル・モスクには,周辺の町村からも非シーア派の人びとが参詣に訪れる姿がみられた。しかしながら現在,村外からの参詣はみられず,共有がそこなわれつつある。モスクも聖者崇敬の聖所というよりもシーア派色が強くなり,アル・ホドルをシーア派の正統性を保証する聖者と定義づけ,占有しようとする語りも出現している。このような現象の背景には,レバノン南部と歴史的パレスチナにおけるアル・ハディル/アル・ホドルの役割の相違や,双方の自然環境と農業形態の相違が挙げられるが,ヒズブッラーの勢力拡大に象徴されるシーア派ナショナリズムの高揚も大きく影響をおよぼしている。レバノン南部における聖者の占有は,すでに非シーア派の周辺住民から警戒されており,シャーム地方で培われてきた宗教・教派間の共存を損なうおそれがある。
道田, 泰司 比嘉, 俊 比嘉, ゆかり 平良, 学 嘉陽, 護 仲山, 夢乃 山城, 慶太 Michita, Yasushi Higa, Takashi Higa, Yukari Taira, Manabu Kayou, Mamoru Nakayama, Yumeno Yamashiro, Keita
本研究の目的は,学校教育において協同学習が成立するか否かを分けるものについて,実践事例を通して考察を行うことである。教職大学院生が9月と2月に公立学校で2週間行う実習において試みられた協同学習の事例5つを提示した。それらの事例に加え,道田他(2019) に挙げた事例も加えて検討を行った。その結果,授業者が正解主義に陥らないこと,認知面だけでなく,学習者の情意面を育むこと,という協同学習のポイントが示唆された。
深井, 智朗
二〇〇九年三月、一九三三年のナチスの焚書の際に非ドイツ的な思想と判断され、その後発禁処分、断裁処分となったパウル・ティリッヒの『社会主義的決断』の初版の一冊が京都大学文学部長を歴任した神学者有賀鐵太郎の蔵書から発見された。この書物は戦後一九四八年になってリプリント版が出版され、それによって広く知られ、読まれるようになったが、初版は大変貴重なものである。 本論は、(1)この書物に著者ティリッヒ自身や所有者である有賀によって書き込まれたさまざまな情報、また京都大学文書館、ハーヴァード大学アンドーバー神学図書館ティリッヒ文庫、さらには東京の国際文化会館で同時期に発見したティリッヒと有賀との往復書簡、有賀の日記やティリッヒの未出版の諸文書、また『社会主義的決断』の出版元ポツダムのアルフレット・プロッテ出版社についてブランデンブルク州文書館に残されていた諸資料に基づいて、この書物が有賀の手に届いた経緯を解明しようとするものである。また、(2)この書物がティリッヒと有賀とのその後の交流において果たした役割についても解明した。そしてさらに、(3)ドイツで生まれ、ニューヨークで亡命知識人として生きたティリッヒと欧米の神学を日本で最初に本格的に受容した京都の神学者有賀鐵太郎との知的交流を「同時代史」という視点から考察した。
西槇, 偉
本論は中井宗太郎(一八七九―一九八六)著『近代芸術概論』(一九二二)と豊子愷(一八九八―一九七五)による中国語抄訳『近代芸術綱要』(一九三四)を比較検討することにより、民国期の西洋美術受容と日本との関わりや、共通する特徴を明らかにしようとするものである。 中井宗太郎はその『近代芸術概論』において、人格を芸術創作の基準に西洋近代画家を論じた。彼によれば、西洋近代絵画は優れた人格を持った画家達によって発展を遂げてきた。中井は取り上げるすべての画家の人格に言及し、強調している。ドラクロワは想像力に富み、情熱的であり、ドーミエ、ミレー、ギースもそれぞれ突出した人格の持ち主である。クールベは過去の伝統や模倣という技法に反発し、その性格は革命的である。印象派画家のドガは人嫌いで、孤独な人間であった。 さらにセザンヌは近代芸術の分水嶺となる人物だが、彼は自然に霊感を得て作品制作をした。中井は彼を山野に隠棲する東洋的な隠者と見なした。ゴッホに至っては、中井には「東洋的な禅僧」と映った。これらの画家には往々にして商業に対する嫌悪感が見られ、それも人格の高さを強調する働きをした。ドガは商人を嫌い、セザンヌも名誉には無関心であった。 以上のような画家像はむしろ東洋的なものだといえよう。東洋で重んじられた文人画家は、学問や道徳にすぐれ、自然に親しむ宗教者も多かった。彼らは職業画家ではないので、絵を売ることには執着しなかった。 西洋近代画家のイメージが東洋的になったばかりでなく、彼らの芸術理念、美学もまた東洋に近づいた、と中井は主張した。セザンヌやゴッホの芸術には主観的な傾向が見られ、彼らの芸術は主観と客観の融合を通して、宇宙自然に流れる生命のリズムを表出している、と中井は西洋近代表現主義と東洋古来の表現主義精神を同一のものと見なした。自然に憧れ、タヒチに逃れるゴーギャンの作品にも自然と人間の一体感が表現されており、それはある意味では東洋表現主義手法によるものでもある。 なぜ東西の表現主義が同一視されたのだろうか。 東洋と西洋の差異が強く意識されていた当時、東西の価値観はよく対立したものと受け取られた。西洋の衝撃を受け、価値観の取捨選択を迫られた矢先に、西洋近代芸術が日本などの影響を受け、変貌を遂げたことが注目され、西洋画が東洋風になった、と受け取られた。作品からも美学においても東洋に近づいたということは、東洋的価値観の再評価ということであり、西洋に対抗できる価値観を自らの伝統のうちに発見したということである。 同じように西洋に対峙していた中国は日本と同様、対抗する価値観を必要としていた。翻訳者の豊子愷は中国に西洋美術を紹介していた。彼は中井の理論をほぼ完全に受け入れた。そのうえ、西洋が東洋に近づいたことを根拠に、東洋あるいは東洋の代表である中国の優越を主張した。彼の「中国美術優位論」(一九三〇)の根が日本にあった。 原作と抄訳の違いは二つある。一つはルノワールをめぐり、評価が分かれ、豊子愷はルノワールの商業的姿勢を批判し、裸体画を描くことについても高くは評価しなかった。もう一つの違いは、中井が西洋に対する日本の影響を強調するが、抄訳ではそこに中国が付け加えられたことである。それは中国の優位を示すのに必要だったからである。 西洋近代表現主義は、自然を超えようとするもので、かつての東洋表現主義は自然との一体化を目指したものだった。双方はかなり異なる。違いを無視した同一視は性急であった。それは外来文化に対して示された反応の一典型ともいえる。異文化に自らの文化と共通する要素を発見し、それを同一視しようとする意志が働きがちである。中井に見られるように、日本の西洋美術受容には文学者などによる、画家や美術をめぐる文献記述、言説の需要が重視され先行していた、という特徴がある。そうした特徴が豊子愷においてさらに顕著になったといえる。
Tsukada, Shigeyuki
本稿では,宋朝,11 世紀半に大規模な蜂起を起こし,チワン(壮)族の「民族英雄」とされている歴史的人物儂智高(1025–1055 ?)に関する,現代中国における研究動向を検討した。あわせて,従来研究されてこなかった諸問題をも検討した。 1950 年代後半から1960 年代に,マルクス主義的発展段階論にそった論争が展開された。ついで1979 年の中越戦争以降,儂智高の国籍問題が論じられ,儂智高中国人説が有力となった。1990 年代後半,「民族英雄」としての評価が出現し,2000 年以降定着した。愛国主義思想の普及にともない儂智高の「愛国者」としての位置付けが定着した。また,雲南や東南アジア大陸部に研究の地域的な広がりが見られるようになった。さらに,メディアが論争に参入した。2000 年代,ウエブサイトの普及により一般の市民を巻き込んだ,新たな論争が展開されるようになった。地方からの論評が続々と出現し研究の裾野が広がった。 儂智高に関する再解釈が現代中国では絶えず行われ続けてきた。儂智高をめぐる研究には時代の風潮が映し出されてきたのである。
飯國, 有佳子
これまで女性と宗教のかかわりは,女性に対する不当な価値観や不平等な社会構造の形成に加担するものとして宗教を批判するフェミニズムからも,フェミニズムに抵抗を示す保守的な宗教学からも,研究対象として等閑視されてきた。そこで本論文では,上ビルマ村落において上座仏教を信仰する女性の視点から宗教をみなおすことで,両者の相克を克服し,宗教の男性中心主義性に対峙する方策を探る。事例からは,男女の宗教的位階の差は仏教儀礼において顕在化するが,村の宗教組織や世帯単位の仏教的責務では男女間に明確な優劣は見られず,むしろ女性の経験と参加が必要不可欠なことが明らかとなった。しかも女性は,仏教儀礼において女性に顕著な跪拝行為を,仏教の男性中心主義性の証左とせず,自らの宗教的劣位を相対化させるものと捉えていた。こうした女性の見方は,教義を軸に女性の劣位を本質化してきた宗教研究からも,宗教を切り捨てるフェミニズムの立場からも注目されてこなかったものである。ここから,両者の陥穽を乗り越えるには当事者たる女性の声や内発的な変化の可能性を丹念に拾うことが重要といえる。
野原, ゆかり 神園, 幸郎 Nohara, Yukari Kamizono, Sachiro
本研究は、自閉性障害児が特定の他者(以下「他者」とする)とどのような関係を形成するのか、また、この関係が彼らの発達にどのような関連性を持つのかについて他者理解の視点で記述し、検討することを目的とした。話し言葉を持つ自閉性障害児の男子を対象児として、筆者を含めた女子学生2名が「他者」として関わった。 その結果、対象児はどちらの「他者」とも確実に愛着関係を形成し、最終的には質的に高い愛着関係を成立させた。さらに、このことが「他者」との関係以外(象徴遊び、言葉、こだわり行動)の発達にも影響して、本児の発達が促された。
福原, 敏男 Fukuhara, Toshio
細男(人間が演ずる芸能と傀儡戯)は日本芸能史上の謎の一つである。従来は九州の八幡宮放生会の視点より理解され、九州より近畿に伝播したという暗黙の理解があった。それに対して本稿では、人間の芸細男は奈良・京都の大寺社における芸能構成の一つとして成立した、とみる。東大寺では九世紀末、京の御霊会では一一世紀にみられ、一二世紀には白面覆と鼓の細男が確認できる。春日若宮祭礼でも平安期より祭礼に登場している。宇佐八幡宮放生会には、近畿より人間芸細男が伝播し、元寇撃退の神威発揚を象徴する儀礼として神話的に意味付けらた。これは八幡縁起や縁起絵の変貌と軌を一にするものであった。柞原八幡や阿蘇の細男は宇佐より伝播した。大鳥社・諏訪社・杵築社へは、一宮・国衙型祭祀の一環として伝播した。一方、鎌倉期には石清水八幡宮を中心に傀儡戯の細男が確認できる。それは大山崎神人が勤める日使頭祭において演じられ、二体の傀儡(武内と高良神)の打ち合わせである。鎌倉期の宇佐放生会にも傀儡戯が存在したが、これは細男とは認識されていない。宇佐の傀儡や細男は百太夫を祀った。柞原八幡の細男は傀儡戯ではないが、ここにも傀儡の痕跡があり、善神王や武内が傀儡の神であった。細男と傀儡とは不可分の関係であり、人間芸の細男舞は傀儡神を和ませる意味をもっていたといえる。宇佐の放生会頓宮における夷社や柞原八幡の浜殿における善神王や武内大神は、放生会に立つ市・市神としての夷・夷を斎く傀儡の関係を象徴している。
辛島, 理人
本稿は、アメリカの反共リベラル知識人と民間財団による、一九五〇・六〇年代の日本の社会科学への介入とその反応・成果に焦点をあて、戦後における日本とアメリカの文化交流を議論するものである。その事例として、経済学者・板垣與一がロックフェラー財団の支援を受けて行ったアジア、ヨーロッパ、アメリカ訪問(一九五七~五八)を取り上げる。ロックフェラー財団は、第二次対戦終了直後に日本での活動を再開し、日本の文化政治の「方向付け」を試みた。その一つが、日本の大学や学術をドイツ式の「象牙の塔」からアメリカのような政策志向の実践的なものへと転換させることであった。そのような方針を持つロックフェラー財団にとって、官庁エコノミストと協働していわゆる「近代経済学」を押し進めていた一橋大学は好ましい機関であった。板垣與一は、同財団が支援する「アングロサクソン・スカンジナビア」型の経済学を推進する研究者ではなかったが、日本の反共リベラルを支援しようとしたアメリカの近代化論者の推薦をうけて、同財団の助成金を得ることとなる。そして、一九五七~五八年に板垣は、「民族主義と経済発展」を主題としてアジア、ヨーロッパ、アメリカを巡検する。アメリカでは、近代化論者の多かったMITなどの機関ではなく、ナショナリズムへ関心を払うコーネル大学の東南アジア研究者との交流を楽しんだ。板垣は日本における近代化論の導入に大きな役割を果たすものの、必ずしもロストウら主唱者の議論に同調したわけではなかった。戦時期に学んだ植民地社会の二重性・複合性に関する議論を、戦後も展開して近代化論を批判したのである。ロックフェラー財団野援助による海外渡航後、板垣は民主社会主義者の政治文化活動に積極的に参加した。しかし、ケネディ・ジョンソン政権と近しい関係にあったアメリカの反共リベラル知識人・財団の期待に反し、反共社会民主主義が議会においても論壇においても大きな影響力を持つことはなかった。
平, 雅行 Taira, Masayuki
中世社会における呪術の問題を考える際、その議論には二つの方向性がある。第一は中世を呪術からの解放という視点で捉える見方であり、第二は中世社会が呪術を構造的に不可欠としたという考えである。前者の視角は、赤松俊秀・石井進氏らによって提起された。しかし、中世社会では呪詛が実体的暴力として機能しており、天皇や将軍の護持僧は莫大な財と膨大な労力をかけて呪詛防御の祈祷を行っていた。その点からすれば、中世では呪詛への恐怖が薄れたとする両氏の考えは成り立たたない。とはいえ、合理的精神が着実に発展している以上、顕密仏教と合理性との関係をどう捉えるかが問題の焦点となる。そこで本稿では『東山往来(とうさんおうらい)』という書物をとりあげ、①そこでの合理性や批判精神が内外の文献を博捜した上で答えを見出そうとする挙証主義によって担保されていたこと、②その挙証主義は顕密仏教における論義や文献学研究を母胎として育まれたことを明らかにした。さらに密教祈祷においても、①僧侶が医療技術を援用しながら治病祈祷を行っていたこと、②一宮で行われた豊作祈願の予祝儀礼も、農業技術の達成を踏まえたものであったことを指摘した。そして、高い合理性を取り込んだ呪術、呪術性を融着させた高度な合理主義が顕密仏教の特質であると論じた。そして、顕密仏教が中世の呪術体系の頂点に君臨できた要因として、①文献的裏づけの豊かさと質の高さ、②祈祷を行う僧侶の日常的な鍛錬、③呪詛を正当化する高度な理論の3点をあげた。最後に、合理性と呪術性の共存、呪術的合理性と合理的呪術性との混在は、顕密仏教だけの特質ではなく、程度の差こそあれ、現代社会をも貫く超歴史的なものと捉えるべきだと結論している。
島袋, 恒男 當山, りえ 喜友名, 静子 Shimabukuro, Tsuneo
本研究は、保育科短大生216名を対象とし、(1)保育科学生の「子ども観」尺度を作成し、(2)保育職への志望度の違いによる「子ども観」の違いを検討することを目的とした。因子分析の結果、「子ども観」尺度価値体系の第1因子は、「立身出世」の因子、第2因子は「親族主義」因子、第3因子「伸び伸びした存在」の因子、第4因子「自己制御」因子が抽出された。概念体系においては6因子が抽出され、第1因子「可能性」因子、第2因子「否定的」因子、第3因子「あてになる存在」の因子、第4因子「自立的存在」因子、第5因子「個としての存在」因子、第6因子「了解可能な存在」の因子と命名した。\n沖縄県と愛媛県の地域比較の結果、親族主義的価値観は沖縄県の方が高かった。概念体系においてポジティブな「子ども観」の2因子において、沖縄県の方が肯定度が高かかった。志望度別の比較から、保育職を志望する群の方が、志望しない群よりも子どもをいとおしくまた個性的な存在として、肯定していることが明らかになった。愛媛県の方が志望度の違いと子ども観との関連が深かった。
魯, 成煥
本稿は、九州のある篤志家が自分の私有地に朝鮮の義妓である論介を祀ることによって惹起した韓日間の葛藤について考察したものである。論介は、晋州の妓女というだけでなく、全国民に尊敬される愛国的英雄で民間信仰においても神的な人物である。韓国の国民的な英雄である論介の霊魂を祀った宝寿院の建立と廃亡は、韓日間の独特な霊魂観の対立を象徴するものであった。和解と寛容、平和という純粋な理念に基づいて行われたとしても、当初から様々な問題点を抱えていた。論介にまつわる伝説を歴史的な事件として理解し、命を失った論介と六助に対する同情から彼らの墓碑が造成され、韓日軍官民合同慰霊祭が行われた。これを日本人は、怨親平等思想に基づいた博愛精神の発露だと表現するかもしれない。しかし韓国人はそれとはまったく違う感覚で見る。つまり、それは敵と一緒に葬られることであり、霊魂の分離であり、祭祀権と所有権の侵害というだけでなく、夫のある婦人を強制的に連行し、無理やり敵将と死後結婚させる行為だと考え、想像を超える民族的な侮辱であると感じるのである。 この問題は外交問題にまで発展し、韓国政府は日本人篤志家に対し、その私有財産の返還を求めた。その結果、論介の影幀と石碑は韓国側に返され、また合同慰霊祭もしないことになった。論介は日本で夫婦円満と子孫繁昌の神になりつつあったが、これによりあっけなく途絶えてしまった。言い換えれば、韓国人の子孫らは、論介が日本の神になるのを拒んだのである。まさに宝寿院の荒廃は、こうした韓日間の葛藤を象徴している。
岩本, 通弥 Iwamoto, Michiya
本稿はこれまで概して「日本独特の現象」ともされてきた〈親子心中〉に関し、韓国におけるその事例を紹介することで、そうした言説に修正をはかるとともに、両者を比較することにより、より深いレベルにおける〈親子心中〉の諸現象、すなわち〈親子心中〉という行為だけでなく、それをめぐる社会や文化のより大きな象徴的システムのうち、何が普遍的であり、あるいは何が日本的であるのか、そのおおよその見通しを得ることを目的としている。そのため本稿では、これまでほとんど日本には報告されてこなかった、韓国における〈親子心中〉を含めた「自殺の全体像」を提示することからはじめるが、資料としては、その代表的な中央紙である朝鮮日報と東亜日報における自殺記事を、一年分収集し、これを分析した。新聞を資料として用いることに関し、方法的な視角を述べるならば、新聞記事というニュースの性質を、単なる情報の〈伝達〉という機能から捉えるのではなく、むしろ、より読み手(decorder)の役割を重視した、神話的な〈物語〉を創出していくものとして、繰り返し語られるニュースのなかの、隠れたメッセージや象徴的コードを読み解いていく。その物語性は、読み手に文化的諸価値の定義を提供しているが、こうした視角で分析してみると、日韓の自殺と親子心中「事件」のコードは類似したものが多い一方、大きく異なる点も存在する。最も相違するのは日本の自殺・親子心中の〈物語〉が「他人に迷惑を掛けること」の忌避を訴えているのに対し、韓国のそれは「抗議性(憤り)」を媒介とした「他者との心情の交流」が主要な価値コードとなっている。正反対の日本の価値コードからすれば、韓国の自殺・同伴自殺は「いさぎよし」とは見做されず、また逆に日本のそれも韓国的コードでは負に位置付けられようが、それは両国の感情表現の方法をはじめ「死の美学」や死生観・霊魂観の相違に起因するものであり、表面的形態的には類似している日韓の〈親子心中〉も、その意味するところは大きく異なっている。
河西, 英通
1960年代後半の北海道大学の事態(北大闘争)は,戦後民主化闘争の流れと,ベトナム反戦運動や大学が抱えていた諸矛盾,さらには党派間の対立がぶつかり合うなかで生じた。本論は学内に大量に散布されたビラや当該期の学長の関係文書を中心に,学生新聞の紙面も追跡しながら,学生教職員の心情にまで踏み込んだ分析を試み,北大闘争の普遍性・個別性そして個人性の解明をめざした。北大闘争は周回遅れの大学闘争に見えたが,戦後の大学民主化においては1947年に全国に向けて大学制度改革案を発表するなど先駆的役割を果していた。大学をあげて取り組んだ1950年のイールズ闘争も知られている。大学民主化運動は60年代後半の北大闘争の渦中でも,栄えある「革新」史として回顧された。しかし一方で,他大学と同様に反戦運動,寮自治,軍事研究などが問題化していた。こうした大学民主化の伝統と1950年代半ばから60年代半ばに蓄積された大学の諸矛盾解決の焦点として,1967年に「革新学長」が誕生する。以後,北大闘争は(1)「革新学長」を先頭とし,学生自治会や教職員組合が推し進める大学民主化路線と,(2)それに批判的で大学そのものの存在意味を問うクラス反戦連合や全共闘,新左翼の大学解体路線が対抗し,(3)その間に解放大学運動などを通じて大学の内実を大幅に変革しようとする「造反」教員が位置するという構図をとる。北大闘争のピークは1968年ではなく1969年であり,(1)~(3)のアクターは激烈な対立を見せつつ,それぞれの内部にも複雑な構造をはらんでいく。(1)には強固な革命思想や暴力志向,(2)には反マルクス主義的傾向やロマンチシズム,(3)には敗北主義・諦念主義が見られた。北大闘争とは,戦後民主化の系譜に立つ北大民主化運動が60年代から70年代にかけた政治情況と大学の大衆化のなかで展開しきれず,大学という存在が地域社会における絶大な知的権威にとどまることで,社会変革の主体として形成されなかった歴史である。
名嶋, 義直
本稿では、まず日本語教育の必要性を、社会状況/保障教育/子どもの教育/複言語・複文化主義の観点から考察する。そしていわゆる「日本語教育基本法」の制定から日本語教育に対する社会的要請を読み取り、本学の日本語教育副専攻課程の存在意義を考察する。そして最後に、さらにその要請に応えるために取り組むべき課題を挙げ、本学の日本語教育副専攻課程における今後の教育のあり方についてその展開の道筋を整理して示す。
金, 仁徳
今日の在日朝鮮人の文化は明らかに移住の歴史から出発した。朝鮮人の移住は徹底して日本資本主義経済の必要によったものであった。そして朝鮮人は日本社会の最下層民として編入され、帝国主義日本の民衆と生活を共にした。 在日朝鮮人が造成した朝鮮村は朝鮮人の"解放区"であった。日本語もよく分からないまま、昼間の労働に苦しんだ朝鮮人が夜になり戻ってきた時、何の気兼ねもなく、休むことができる場所がまさに朝鮮村であった。朝鮮村では地縁と血縁的相互扶助がよくなされていたので、生活上の便宜と就職を簡単に得ることもできた。 このような在日朝鮮人の大多数は労働者であった。したがって彼らの文化は日本の大都市の労働者文化の普遍性と共に、日本の中の朝鮮人文化として規定することができる。少数のインテリは多様な日本の文化的な体験をし、彼らが同化的文化を牽引していた中枢勢力であった。また、在日朝鮮人の文化・芸術活動においては留学生の役割が大きかった。 結局、在日朝鮮人の文化は民族的・同化的要素と共に共生的部分までもある程度含みながらも、日本の中の朝鮮人文化として存在したのである。
石田, 一之
本稿では、第1節では、ドイツの社会学的新自由主義のアレクサンダー・リュストウ(Alexander Rüstow)の主要著作である『現代の位置づけ』の内容の検討を中心としながら、歴史的、文化社会学的視点からみた現代の位置づけという問題を検討する。第2節では、リュストウの現代の位置づけを巡る社会学的分析とそこから導かれた政策論の今日的意義に関連した事柄を中心に取り上げる。現代の位置づけの議論に関連して、人間の社会学的状況の分析を表すものとして用いたVitalsituationの概念や、その政策分野への応用としてのVitalpolitikの考え方が、今日、欧州を中心として社会的包摂や社会的統合ををめぐる政策の議論が活発化する中で、新たな政策的意義を持つものとして捉えられるようになった。 『現代の位置づけ』においては、近代以降、あるいは現代の社会を合理主義的思考が優位した産業社会と捉え、自然や技術の問題、ならびに社会、経済、政治の各分野における諸問題が扱われている。20世紀の産業化された社会システムにおいては、感情と切り離された理性が優位となり、伝統的諸条件の解体が進行し、他の人間並びに自然との人間的共生にとっての崩壊的帰結があらわれた。 これに対して、世紀の転換をはさんだ時期を中心として、本稿の第2節で取り上げたように、欧州を中心に社会のすべての構成員の社会への包摂を志向する動きが明らかとなり、また地球環境問題を巡る動きもより活発化して現れた。
岩井, 茂樹
本稿は、明治末期から大正時代にかけて増加した笑った写真(本稿では「笑う写真」とした)の誕生と定着過程を明確にすることを目的としたものであり、そこで重要な役割を担った雑誌『ニコニコ』の特徴について論じたものである。 従来、「笑う写真」の定着過程については、石黒敬章などによって、おおよそ大正時代のことであったということが指摘されてきたが、その原因についてはほとんど考察されることがなかった。 しかしながら、本稿では1911(明治44)年に、ニコニコ倶楽部によって創刊された雑誌『ニコニコ』が「笑う写真」の定着過程に大きな役割を担ったことを証明した。この雑誌には、従来なかったような特徴があった。その一つが「笑う写真」の多用である。口絵はもとより、本文中にも「笑う写真」を多数配していたのである。また1916(大正5)年時点での発行部数は当時もっとも多く発行されていた『婦人世界』に次ぐものであり、また図書館における閲覧回数も上位10 位内に入るほど広く読まれた雑誌であった。 この雑誌の発刊に尽力した中心人物は当時、不動貯金銀行頭取をしていた牧野元次郎という人物であったが、彼は大黒天の笑顔にヒントを得て「ニコニコ主義」という主義を提唱し、それを形象化するために雑誌『ニコニコ』に「笑う写真」を多数掲載したのである。大黒天の笑顔を手本にし、皆が大黒様のような笑顔になることを、牧野は望んだ。国民全員がニコニコ主義を信奉し、実践することによって、国際的な平和と、身体の健康、事業の成功(商売繁盛)を実現しようとしたのである。『ニコニコ』は好評を博し、大衆に広く受け入れられた。その結果、「笑う写真」が誕生し、急増した結果、大正時代になって「笑う写真」が普及したのである。 本稿によって、雑誌『ニコニコ』の特徴が示され、その普及程度が具体的な数値や言説を用いて推定されたとともに、この雑誌が「笑う写真」に及ぼした影響が明確になった。
山村, 奨
本論文は、日本の明治期に陽明学を研究した人物が、同時代や大塩の乱のことを視野に入れつつ、陽明学を変容させたことを明らかにする。そのために、井上哲次郎と教え子の高瀬武次郎の陽明学理解を考察する。 日本における儒学思想は、丸山眞男が説いた反朱子学としての徂徠学などが、近代性を内包していたと理解されてきた。一方で、明治期における陽明学を考察することで、それと異なる視角から、日本近代と儒教思想との関わりを示すことができる。明治期に陽明学は変容した。すなわち、陽明学に近代日本の原型がある訳ではなく、幕末期から近代にかけて、時代にあわせて変わっていった。 井上哲次郎は、陽明学を「国家主義的」に解釈したとされる。井上にとっての国家主義とは、天皇を中心とする体制を護持しようとする立場である。井上は陽明学を、国民道徳の理解に援用できると考えた。その態度は、キリスト教が国民の精神を乱すことに反発していたことに由来する。国内の精神的統一を重視した井上の陽明学理解は、水戸学の問題意識と共通する。しかし井上の陽明学観は水戸学に影響を受けた訳ではなく、幕末期に国事に関心を向けた陽明学者の伝統を受け継ぐ。また井上は、体制の秩序を志向していたために、大塩平八郎の暴挙には否定的であった。 一方で日本での陽明学の展開は、個人の精神修養として受け入れられた面を持つ。その点で、高瀬武次郎の主張は注目に値する。高瀬は陽明学が精神を修養するのに有効であり、同時に精神を陶冶した個人が社会に資するべきことを主張した。また井上の理解を踏襲しつつも、必ずしも井上の見解に与しなかった。高瀬は、大塩の行動に社会福祉的な意義も認めている。高瀬は幕末以来の実践重視の思想の中で、陽明学に新たな意味を付与した。その高瀬は、後に帝国主義に与した。 近代日本の陽明学は、時代状況の中で変容した。井上は国民の精神的な統一を重視したが、高瀬は陽明学による修養の社会的な意義を積極的に説いた。
伊藤, 大輔 Ito, Daisuke
本論考では、「似絵詞」を軸に、似絵の時期区分を試みている。「似絵詞」とは後堀河院の仰せによって制作されたもので、当時優れた技芸の持ち主であった八人の人物の似絵を描いた肖像画巻の詞書部分である。「似絵詞」成立の前後には、そこに採り上げられた八つの技芸と同一または類似する技芸を単独で主題とする似絵が集中的に作られており、この時期の似絵制作の動向を「似絵詞」が総括し、強い規範性を発していて、一つのまとまりを作っている点が注目される。「似絵詞」に示された似絵観は、技芸の盛んな様を示そうとしていることからも分かるように、文雅の興隆を国家隆盛の証とする儒教的政教主義の思想を背景としている。技芸を主題とする似絵が制作されたのは九条道家が宮廷政治を主導していた時期であり、このような似絵観の成立を主導したのも、道家であったと考えられる。道家の政治思想は儒教的な徳治主義に自覚的に立ち戻ろうとしている点に特徴があり、それが「似絵詞」に代表される後堀河院政期前後の似絵の技芸的主題を好む傾向と軌を一にしている点からもそのことはうなづける。似絵は徳治の具体的な証明であった。しかし、道家没後の似絵は、儒教的政教主義、徳治の証明としての似絵という路線からは変質してゆく。一方、道家登場以前の似絵は、行事絵という具体性の強い分野と融合し、思想的な抽象性にまでは十分に至っていない。このように、似絵史は、道家時代を中心に、その前と後という形で、三期に区分できる。一般に肖像は不在の身体の再生であり、文化的表現行為というよりは、自然の物質や生命の問題と考えられがちである。それゆえ自然の原理に人為的に介入しようとする呪術との関わりも問題になるのであるが、これまで見てきたように、似絵は生命を含めた物質的自然というよりは、言語的な思想を表現するものである。似絵研究は、物から言葉へとその視点を移行させる必要があるのである。
Camacho, Keith L. Ueunten, Wesley Iwao カマチョ, キース L ウエウンテン, ウェスリー 巌
オセアニアでは様々な形でアメリカ合衆国の軍事化が進行しているが、本論はこうした軍事化の渦中で起こっている「先住民の抵抗運動」について、民族誌的な考察を呈示することを目的としている。我々の民族誌は、個人的な思索や、帝国主義と抵抗に関する文献の知識、そして我々の社会変革への貢献を通して得た知見にもとづいている。本論では「先住民の抵抗」という包括的表現を使用するが、「先住民性」についての概念やその解釈、その使い方は、人々や場所によって異なることは認識しているつもりである。そのうえで、過去数十年間のグアムと沖縄における先住民の抵抗の状況が、予備段階的にどう評価できるかについて解説する。最も特徴的なのは、これらの先住民運動を通して、トンガ出身の批評家であるエペリ・ハウオファが言う「歴史と文化が帝国主義的現実と具体的実践行動に結びつく」オセアニアという場所に、もうひとつ新たな地域的アイデンティティが生じているという点である。こうした運動は、海を遺産として共有しているという認識のもと、包括的で順応性に富んだアイデンティティのありようを模索し続けてきたが、このアイデンティティはグアムと沖縄に駐留する米軍を批判する手段ともなると言える。
橋本, 章 Hashimoto, Akira
本論では,これまで比較的暖昧に使用されてきた長老制という概念について,まずその研究史を紐解くことによって曖昧さが生み出された要因を探ると共に,長老制に関する事例を取り上げてその再検討を試みるものである。長老制の概念については,マックス・ウェーバーによって構築された理論の翻訳に置く場合と,実際のフィールドから得られた経験に基づく場合との,2つの用法に大きく分類されるものと思われるが,両者の間には根本的な論理の乖離の見られることが指摘されており,この2つの長老制に対する解釈が提示されるに至った研究の系譜にその原因があると見られる。ここで興味深いのは,事例研究を中心に日本における長老制のあり様を導き出した研究では,ほとんどの場合において近江(滋賀県)の事例が用いられてきたという点である。それ故に,長老制に関するフィールドからの検証を進めるためには,近江という研究対象を見つめなおす必要が生じる。そこで本論では,滋賀県草津市下笠町のオトナの事例を取り上げる。下笠のオトナは,その中では年齢秩序による順位が明確であり,特に最高齢のホンオトナは祭祀の中で象徴的な役割を果たす。しかしながら「村」全体を見渡すならば,そこには年齢階梯的なシステムは見られない。オトナは祭祀のポイントとなる場面では象徴性の執行を求められるが,それは関連する地域全体を統べる存在としてではない。これまでフィールドでの資料より提示されてきた長老に関するシステムの考証は,ウェーバーの示した長老制とも相俟って錯綜した論展開を見せてきた。ここで問題があるとすればそれは,民俗学及びそれに類する手法をとった研究が,己が論を補強せんがために不用意に他分野の言葉を引用した点にあるのではないだろうか。
依岡, 隆児
ドイツ語圏における「ハイク」生成と日本におけるその影響を、近代と伝統の相互関連も加味して、双方向的に論じた。ドイツ・ハイクは一九世紀末からのドイツ人日本学者による俳句紹介と一九一〇年代からのドイツにおけるフランス・ハイカイの受容に始まり、やがてドイツにおける短詩形式の抒情詩と融合、独自の「ハイク」となり、近代詩の表現形式にも刺激を与えていった。一方、日本の俳句に触発されたドイツの「ハイク」という「モダン」な詩が、今度は日本に逆輸入され、「情調」や「象徴」という概念との関連で日本の伝統的な概念を顕在化させ、日本の文学に受容され、影響を及ぼしていった。こうした交流から、新たに「ハイク」の文芸ジャンルとしての可能性も生まれたのである。
Kobayashi, Masaomi 小林, 正臣
本稿は、これまで人文科学において広範に実践されてきた「文化的研究(Cultural Studies)」の在り方について検証している。自然科学における実証と異なり、人文科学における論証は、なるほど厳密な客観性を要求されない場合が往々にしてある。したがって、ある社会における文化と別の社会における文化に、あるいは一つの社会における複数の文化の相違に個別性と連続性を見出しつつ、それらの問題を文化の問題として論じることには、それなりの学問的価値はあるだろう。しかし、Bill Readingsが指摘するように、個々の集団間の差異性と連続性の問題を「文化」という観点から総括してしまうことには議論の余地がある。なぜなら、それは否定的な意味における還元主義的な論法となる危険性があるからである。一方、社会科学においても還元主義的な論法は存在する。たとえば、新古典派経済学は、社会における人間の活動を利益の追求または最大化という観点のみから説明する傾向がある。かくして本稿は、人文科学(例えば文学)と社会科学(例えば経済学)の学際性を図る際には、それら学際的研究の個々が「特殊(specific)」であるべきであり、学際性を総括的な概念としてではなく、永続的に追求されるべき概念として捉えることを提唱している。
Hirose, Kojiro
大本教の出口王仁三郎は,日本の新宗教の源に位置する思想家である。彼の人類愛善主義を芸術・武道・農業・エスペラントなどへの取り組みを中心に,「文化史」の立場から分析するのが本稿の課題である。王仁三郎の主著『霊界物語』は従来の学問的な研究では注目されてこなかったが,その中から現代社会にも通用する「脱近代」性,宗教の枠を超えた人間解放論の意義を明らかにしたい。併せて,大本教弾圧の意味や新宗教運動と近代日本史の関係についても多角的に考える。
廉, 沢奇 LIAN, Zeqi
本研究は、日本語会話において頻出する基本的なABAB型オノマトペ(例:どんどん、そろそろ)の音象徴の解明を目指したものである。研究は母音と子音、そして併せた五十音、最後は清濁の差をめぐって検討する。手法については、まずはA・B 位置の音の要素を行・段で分解し、全体での行・段の傾向性を明らかにした。そして対応分析を用い、代表的な音象徴を持つABAB型オノマトペを選定し、その意味傾向を探究するために3:3共起語を調べた。最後は清音語と濁音語の共起語の差を分析した。これより、ABAB 型オノマトペはその音で「動作系」と「変化系」に2つ分けられる。これ結果は、先行研究で示された印象に基づくイメージとは異なり、オノマトペの意味と音のつながりの新たな視角となっている。
福井, 栄二郎
本稿は老年人類学の新たな可能性を提示する。これまでにも老年人類学という分野は存在したが,そこでは常に老人を「伝統」という枠組みからしか捉えてこなかった。しかし現在,どの地域でも近代化が進み,老人のライフスタイルは多様となっている。こうした状況下で老人がどのように社会的ポジションを得ているのかを考察する必要がある。 その老年人類学における新たな視点として,本稿ではジェンダー論の議論を援用しつつ,社会構築主義―つまり「老人」というカテゴリーやそこに付随する社会的な規範は社会的,言説的,歴史的に構築されているという考え方―の再考を行いたい。社会構築主義では,ある概念やカテゴリーは,パフォーマティヴィティを破綻させることで変化するという前提が存在している。この前提は本当に妥当なのだろうか。 こうした問題を踏まえて,筆者が調査を行ってきたヴァヌアツ・アネイチュム島の事例を考察する。アネイチュムには,他の多くの地域と同様,「老人は伝統を知っている」という社会通念や規範がある。しかしその一方で,人生の大部分をアネイチュム以外の地域で過ごし,それゆえ「伝統を知らない」と考えられている老人たちも存在している。また概していえば,彼らを含め,多くの老人はそれほどアネイチュムの伝統に詳しいわけではない。つまり,老人としてのパフォーマティヴィティは破綻しているともいえる。だが彼らは若者たちに敬されており,それを支えているのは,歳を重ねているという事実だけである。つまり「歳を取る」という宿命的な行為ゆえ,「老人」は確固としたリアリティとして存在しているのだと主張する。
春成, 秀爾
吉備地方の弥生後期後半に発達した特殊器台形土器は,初期,前期,中期,後期に大別できる。そのうち,中期は西山式と上原式の西山系だけであるが,後期は宮山系,向木見系,矢藤治山系の3系列に分岐している。向木見系は矢部南向式,西江2式,西江3式,向木見式の順に変遷する。特殊器台は,同一型式が地域をこえて出土しているが,胎土分析の結果によると,特定の地域で製作した製品が移動したのではなく,特定の地域に住む人が移動して製作したと考えるほかない。向木見系最古の矢部南向式と矢藤治山系の矢藤治山式は,足守川地域でのみ見つかっている。矢藤治山系は,向木見式の器形に西山系の上原式の文様を施しているので,向木見式の後に成立したものである。向木見系と矢藤治山系の2系列は足守川地域で生成したのであろう。その一方,宮山系の柳坪式と宮山式は総社東部地域からのみ出土しているので,宮山系はこの地域で生成したのであろう。そして,都月系円筒埴輪の最古型式は足守川地域で見つかっているだけでなく,矢藤治山式特殊器台からの変換を型式学的に説明できるので,円筒埴輪はこの地域で生成したと考える。特殊器台前期には楯築,同中期には鯉喰神社の大型墳丘墓がともに足守川地域に存在する。しかし,2系列に分岐した同後期には,大型墳丘墓の築造は止み,その最後に足守川地域に矢藤治山墳丘墓,総社東部地域に宮山墳丘墓が築かれている。特殊器台を祭祀的統合の象徴的器物として使っていた備中の勢力は,向木見系と宮山系が成立する前に,東と西に分裂したのであろう。その後,宮山系特殊器台の最終型式,都月系円筒埴輪の初期型式が大和の箸墓古墳や西殿塚など超大型前方後円墳にたててあった事実は,吉備勢力の象徴とそれを祀る人を取り込んで前方後円墳が成立したことをつよく示唆している。
門田, 岳久 Kadota, Takehisa
本論文は消費の民俗学的研究の観点から、沖縄県南部に位置する斎場御嶽の観光地化、「聖性」の商品化の動態を民族誌的に論じたものである。二〇〇〇(平成一二)年に世界遺産登録されたこの御嶽は、近年急激な訪問者の増加と域内の荒廃が指摘されており、入場制限や管理強化が進んでいるが、関係主体の増加によって御嶽への意味づけや関わり方もまた錯綜している。例えば現場管理者側は琉球王国に繋がる沖縄の信仰上の中心性をこの御嶽に象徴させようとする一方、訪問者は従来の門中や地域住民、民間宗教者に加え、国内外の観光客、修学旅行客、現場管理者の言うところの「スピリチュアルな人」など、極めて多様化しており、それぞれがそれぞれの仕方で「聖」を消費する多元的な状況になっている。メディアにおける聖地表象の影響を多分に受け、非伝統的な文脈で「聖」を体験しようとする「スピリチュアルな人」という、いわゆるポスト世俗化社会を象徴するような新たなカテゴリーの出現は、従来のように「観光か信仰か」という単純な二分法では解釈できない様々な状況を引き起こす。例えばある時期以来斎場御嶽に入るには二〇〇円を支払うことが必要となり、「拝みの人」は申請に基づいて半額にする策が採られたが、新たなカテゴリーの人々をどう識別するかは現場管理者の難題であるとともに、この二〇〇円という金額が何に対する対価なのかという問いを突きつける。古典的な枠組みにおいて消費の民俗学的研究は、伝統社会における生活必需品の交易と日常での使い方に関してもっぱら議論されてきたため、情報と産業によって欲求を喚起されるような高度消費社会的な消費実践にはほとんど未対応の分野であったと言える。しかし斎場御嶽に明らかなように、信仰・儀礼を含む既存の民俗学的対象のあらゆる領域が「商品」という形式を介して人々に経験される時代において、伝統社会から「離床」した経済現象としてこれを扱うことは、現代民俗学の重要な課題となっている。
嘉数, 朝子 Kakazu, Tomoko
本研究では,幼児の象徴機能の発達を次の3点から検討することを目的とした。(1)能記と所記の類似度の効果,(2)対象の性質の効果,(3)あそびテーマおよび行為を伴う場合の効果。要因計画は,3年齢(3,4,5歳)×2対象の性質(対自己,対外)×2場面状況(あそびの外,あそびの中)であった。第1と第2の要因は被験者間要因で,第3と第4の要因は被験者内要因であった。被験者は保育園児48名(3歳児10名,4歳児20名,5歳児18名であった。課題は,予備テストの後,各場面状況下で一課題ずつ代用物を提示し,それを使って所定の行為を被験者に要求するものであった。その結果,(1)各年齢において類似度条件の方が非類似条件よりも「みたて」得点が高かった,(2)対象の性質については,対自己の方が対外を対象とする行為よりも「みたて」やすく,発達的にも早くから可能になること,(3)どの年齢においても,「あそびの中」状況の方が「あそびの外」状況よりも「みたて」得点が高いこと,また,あそびの効果は低年齢ほど大であることがわかった。
姜, 克實
満州は、かつて政治的には日本と「特殊の関係」を持つ地域とされた。また「赤い夕日」の「郷愁」に象徴されるように、日本人にとって「特殊の感情」を懐かせる土地でもあった。この特殊の関係・感情とはなにか、また歴史的にはいつ、どのように形成されていったかを、本稿において検証する。 日本人の満州に対する特殊な感情は、決して古いものではない。日露戦争以降、満州への進出という国策の下で生まれたもので、「特殊権益」の意識の上に築かれた政治意識であった。また、日本人の満州体験は実際、おびただしい殺戮、流血、差別、家族離散などの苦痛を伴うものであり、それを「赤い夕日」のロマンチシズムに仕上げたのは文化の創造力によるものであり、また戦後の平和な時代における追体験だったと本稿は主張する。
Fukuoka, Shota
小泉文夫(1927–1983)は,日本における民族音楽学研究のパイオニアとして知られている。彼の最初の代表的研究成果『日本伝統音楽の研究』(1958)は,日本の民謡を研究対象としてその音階構造を明らかにした。この論文は,小泉の日本伝統音楽研究を支えた基本的な考え方を検討し,彼の民族音楽学研究の出発点と特徴を明らかにすることを目的としている。 小泉が音楽研究を志した敗戦直後の日本社会において,多くの知識人が邦楽を封建的,非合理的,低俗なものとしていた。それを最もよく象徴したのが,1949 年,東京音楽学校が東京美術学校と統合され東京芸術大学として発足するときに邦楽科を廃止しようとした案だった。当時の東京音楽学校校長の小宮豊隆は,邦楽は新しい日本音楽創造の基礎とはなりえないとした。それに対して,日本音楽研究者である吉川英史は,邦楽にも洋楽に劣らない独自の価値があると論じ,邦楽科設置を訴えた。結局,東京芸術大学には邦楽科が設置されることになったが,復興をめざす日本社会における邦楽の存在価値をめぐる議論は,吉川を通じて小泉に大きな影響を与えた。 小泉は,洋楽を愛好していたが,東京大学で吉川の講義を受け,日本伝統音楽の研究に取り組み始めた。しかし,小泉が対象として取り上げたのは,吉川があまり関心を払わなかったわらべ歌をはじめとする民俗音楽だった。小泉は,民俗音楽は日本音楽の基層文化,すなわち個別性の強い邦楽の諸ジャンルの共通の基礎にある日本人の基本的音感を体現するものと捉えた。その研究方法として小泉がとったのは比較音楽学の方法である。彼は,音楽の研究を歌詞の文学的内容で置き換える従来の内容主義を退けて,主としてヨーロッパの音楽理論の立場において,音組織の「客観的な」認識を目指した。それは日本の伝統音楽を「音楽」として統一的に把握したいという態度の表れでもあった。小泉は,さらに,洋楽と邦楽の2 項対立をこえるために,第3 の視点として世界のさまざまな音楽との比較によりそれぞれを相対化して捉えることを目指していった。 その後,欧米の比較音楽学は民族音楽学へと展開し,それぞれの文化の中で音楽をとらえる方向へと研究の重点が移行していったのに対して,小泉は,世界のさまざまな音楽を調査し,比較しながら研究するという態度を基本的に維持した。そこには,日本の伝統音楽は日本人の民族性を反映している考えながらも,音楽という共通の枠組みの中で,相互に理解可能なものとしてとらえようとした小泉の基本的な態度が反映しているのだろう。
設楽, 博己 Shitara, Hiromi
縄文時代の代表的な呪具である土偶は,基本的に女性の産む能力とそれにからむ役割といった,成熟した女性原理にもとつく象徴性をほぼ一貫して保持していた。多くの土偶は割れた状態で,何ら施設を伴わずに出土する。これらは故意に割って捨てたものだという説があるが,賛否両論ある。縄文時代後・晩期に発達した呪具である石棒や土版,岩版,岩偶などには火にかけたり叩いたりして故意に破壊したものがみられる。したがって,これらの呪具と関連する儀礼の際に用いたと考えられる土偶にも,故意に壊したものがあった蓋然性は高い。壊したり壊れた呪具を再利用することも,しばしばおこなわれた。土偶のもうひとつの大きな特徴は,ヒトの埋葬に伴わないことである。しかし,他界観の明確化にともなって副葬行為が発達した北海道において,縄文後期後葉に土偶の副葬が始まる。この死者儀礼は晩期終末に南東北地方から東海地方にかけての中部日本に広まった。縄文晩期終末から弥生時代前半のこの地方では,遺骨を再埋葬した再葬が発達するが,再葬墓に土偶が副葬されるようになったり,土偶自体が再葬用の蔵骨器へと変化した。中部日本の弥生時代の再葬には,縄文晩期の葬法を受け継いだ,多数の人骨を焼いて埋納したり処理する焼人骨葬がみられる。こうした集団的な葬送儀礼としての再葬の目的の一つは,呪具の取り扱いと同様,遺体を解体したり遺骨を焼いたり破壊して再生を願うものと考えられる。つまり,ヒトの多産を含む自然の豊饒に対する思いが背後にあり,それが土偶の本来的意味と結びついて土偶を副葬するようになったのだろう。そもそも土偶が埋葬に伴わないのは,男性の象徴である石棒が埋葬に伴うことと対照的なありかたを示すが,それは縄文時代の生業活動などに根ざした,社会における性別の原理によって規定されたものであった。土偶の副葬,すなわち埋葬への関与はこうした縄文社会の原理に弛緩をもたらすもので,縄文時代から弥生時代へと移り変わる社会状況を反映した現象だといえる。
比嘉, 俊 岸本, 恵一 比嘉, 栞菜 榎本, 陽音
本稿の目的は,協同学習が上手くいくポイントを琉球大学大学院教育学研究科高度教職実践専攻(以下教職大学院)の実習における実践事例を基に検討することである。授業者は協同学習を授業に取り入れると,何らかの効果があるだろうと協同学習に過大な期待を寄せ,授業手立てが曖昧で授業を行った。活動主義的な授業を展開した結果,授業が上手くいかなかった。この失敗から,授業者は学習者理解から授業改善をスタートし,学習者の状況を理解した上で,状況に応じた手立てを講じた。その手立ては,学級の雰囲気づくり,個人活動の時間の確保,紙媒体による交流であった。これらの手立てにより,協同学習での効果が確認され,これらは協同学習のポイントとの1つと考える。これからも,更なる実践の成功事例の蓄積が望まれる。
稲賀, 繁美
20世紀前半の日本の近代美術史は、同時代の世界美術史の枠組みのなかで再考される必要がある。この課題に対処するうえで、橋本関雪(1883~1945)の事例は見過ごすことができない。関雪は明治末年から大正時代にかけ、文部省美術展覧会、ついで帝国美術展覧会で続けざまに最高賞を獲得したが、その画題は中国古典から題材を取りつつも、日本画の技法を駆使しており、さらに、清朝皇帝に仕えた郎世寧の画風を取り込むばかりか、洋行に前後して、同時代の西欧の最新流行にも目配せしていた。加えて筆者の仮説によれば、関雪は旧石器時代に遡る原初の美術やペルシア細密画をも自分の画業に取り込もうとしたことが推測される。こうした視点は先行研究からは見落とされてきた。 また橋本関雪は、辛亥革命から第一次世界大戦終了の時期を跨いで、従来日本では軽視されてきた明末清初の文人・画人を日本で再評価する機運にも働きかけ、新南画の隆盛に先鞭を着けるとともに、東洋画の美学的優位を主張することから、最新の表現主義の潮流に棹さしつつも、独自の東洋主義を唱道した。本稿は、こうした関雪の東洋画復権を目指す取り組みを、同時代の思想潮流のなか、とりわけ京都支那学の発展との関係において問い直す。 日露戦争から両大戦間期に至る関雪の画業と旺盛な執筆活動を再検討することから、本稿は中・日・欧の活発な交渉のなかに当時の画壇の一潮流を位置づけ直し、ひとり関雪のみならず、当時の東洋画再興の機運を世界史的な視野で見直すことを目的とする。なお本稿は昨年度、兵庫県立美術館で開催された大規模な回顧展での記念講演会、および昨年暮れのベルリン自由大学およびダーレム博物館での招聘講演に基づくものであることを付記する。
正木, 晃
日本人が伝統的に聖性をもつとみなしてきた空間――たとえば、あの世あるいは浄土・曼荼羅――において、自然がどのように表現されてきたか、且つそれがどのように変遷してきたか、を図像学および宗教学の手法をもちいて考察したのが、この論文である。Iでは、縄文時代から奈良時代までを対象の範囲としたが、この範囲内では、聖なる空間を代表する「あの世」に関し、日本人はそれが如何なる場所であるのか、子細に論ずる段階には未だ達していない。しかし、縄文時代の図像には、すでに転生の観念が存在した事実を示唆する例があり、その後、大陸文化の影響を受けつつ次々と生み出された聖空間の中に、たとえ象徴的な表現にとどまる場合が多いとはいえ、自然の描写が図像として重要な位置を占める事例も確認でき、日本人の自然観を探る上で絶好の材料となる。
後藤, 武俊 Goto, Taketoshi
本稿の目的は、福岡市の「不登校よりそいネット」事業を事例に、多様な主体間のネットワークの形成・維持に寄与した要因を析出し、不登校当事者支援の領域における公私協働のガバナンスヘの示唆を得ることである。「不登校よりそいネット」の構築には、C氏と行政との連携実績、共働事業提案制度の存在、不登校に悩む保護者支援という課題設定、当事者性に根ざした保護者支援人材の育成という4つの要因が見出された。また、その構築過程でC氏が果たした役割・機能は、境界連結者の観点から、「情報プロセッシング機能」「組織間調救機能」「象徴的機能」の3点で捉えることができた。ここから、不登校当事者支援の領域における公私協働のガバナンスにおいては、C氏のような人物が台頭・活躍できる場づくりと、協働の可能性を広げる課題設定が重要になることを指摘した。
若松, 文貴
1982 年に国際捕鯨委員会が商業捕鯨のモラトリアムを採択し,日本は1987年以降「調査捕鯨」として鯨の捕獲と消費を継続してきた。しかし,現在の鯨肉の供給量は限られており,大多数の消費者にとって鯨肉はもはや一般的な食糧ではなく,専門の料理店や地方の土産屋で提供される高級食材へと変貌してきた。本論稿では,戦後に鯨肉が普及し,モラトリアム以降に希少化する変遷を追い,鯨肉が「伝統的な珍味」として商品的・象徴的価値を得てきた経緯を検証する。とりわけ,本論稿では「食の文化産業」(Bestor 2004)という観点から,戦後とモラトリアム後の各時代において,鯨肉が生産・流通・消費・宣伝されてきた過程に焦点を当てながら,日本の「伝統食」として想像されるようになった経緯を追っていく。
Uehara, Kozue 上原, こずえ
本論文は,1970年代の沖縄における金武湾闘争,そしてハワイにおけるカホオラヴェの運動に着目し,抵抗運動における「伝統」文化の実践に関する新たな視点を提示する。金武湾闘争は沖縄の復帰後の1973年に始まり,金武湾の宮城島―平安座島間の埋立て,石油備蓄基地・石油精製工場の建設に反対した。一方のカホオラヴェの運動は1976年に起こり,1941年の日本軍による真珠湾攻撃から始まった,米軍によるカホオラヴェ島での軍事射撃・爆撃訓練に反対した。両運動は,太平洋で隔たれた沖縄とハワイで組織され,異なる問題を扱っていたが,そこで表出した思想や実践には連続性が見られる。金武湾闘争とカホオラヴェの運動における「伝統」文化の実践は,「伝統の創造」論に重要な問題を提起する。1980年代以降,太平洋諸島の民族主義運動における「伝統」文化の語りや実践が集団内の権力構造を確立し維持する,という批判が「伝統の創造」論をもってなされた。この主張に対し,さまざまな立場からの批判がなされた。本論文では,「伝統の創造」論による民族主義運動への批判が,抵抗運動における「伝統」文化の意義を認識できていないことを指摘し,その意義を金武湾闘争とカホオラヴェの運動における「伝統」文化の実践を分析することで提示する。本研究は,筆者の移動者としての個人的な経験から生まれた問いや,比較の視点に基づき議論を進める。沖縄からハワイに移動し,そこで知りえたカホオラヴェの運動と,筆者のホームである沖縄の金武湾闘争との間にはどのような接点があるのか。本論文では第一に,「伝統の創造」論による太平洋諸島の民族主義運動に対する批判と,それに対する反論を概観する。第二に,金武湾闘争とカホオラヴェの運動の歴史的な背景をふまえ,機関誌,その他の未出版資料,聞き取り調査の記録から,両運動における「伝統」文化の実践とその意義を検証する。研究結果として,次の三点を明らかにした。金武湾闘争とカホオラヴェの運動では,「住民」や「オハナ」という運動参加者個々人の行為者としての役割が強調された。また両運動では海や土地の重要性が「伝統」文化の実践を通じて主張され,開発や軍事訓練への抵抗とされた。さらに両運動では,「伝統」文化の実践が,運動参加者間の結びつきを強め,援農活動や共同体の自治を模索する動きにつながり,他の島々における抵抗運動との連帯を生んだ。
糸数, 剛
小説読解指導において主題主義ではなく,言葉の力をつけるための指導法として,筆者は「小説読解観点論」(中学生向けには「読みの要素」)による手法を推し進めてきた。「小説読解観点論」とは,それぞれの小説の本質に迫るために多様な観点(既存の観点も用いるが,既存の観点にふさわしいのがなければ創造的に観点を開発していく)の中からふさわしい観点によって説明し,その観点を術語のレベルまで抽象化する(その際,既存の術語も用いるが,ふさわしいものがない場合は新たにネーミングをしていく)ことを通して読解を定着させていく手法である。
山梨, 淳
本論は、フランス人画家ジョルジュ・ビゴーが、滞日中に発表した反教権的諷刺画を取り上げる。ビゴーの諷刺画は明治日本の社会や風俗を鋭く描いた作品として現在広く認められているが、彼が同国人のカトリックの宣教師や修道士に対して諷刺を行っていたことはあまり知られてはいない。本論は、ビゴーの雑誌『トバエ』(第二期、第四一号、一八八八年)に掲載されたマリア会に対する諷刺画と、『ル・ポタン』(第二期、第二号―六号、一八九二年)に掲載されたフェリクス・エヴラール神父(パリ外国宣教会)の諷刺画を研究対象に取り上げ、これらの作品の製作動機、内容、受容状況を明らかにすることを目的としている。 第三共和政下のフランスでは、二十世紀初頭に至るまで、反教権政策をとる共和政政府とカトリック教会の間で緊張関係が高まっていたが、日本の外国人居留地でも、在日フランス人の反教権的な動きが表面化することがあった。すでにビゴーの来日前、横浜のフランス語新聞は、フランス人宣教師に対して愛国心の欠如を理由に批判を展開していたが、ビゴーの反教権的諷刺画もフランス人聖職者を反フランス的、反共和主義的な存在とみなして、批判を試みたものであった。『ル・ポタン』において、ビゴーはフランスの在日公使館の通訳官であったエヴラール神父を諷刺したが、この作品は彼を重用する公使館を同時に批判するものでもあり、彼らが共和政フランスの外交官でありながら、カトリック教会の影響下におかれている点に向けて、批判が行われていた。これらのビゴーの作品は、批判対象となった教会関係者やフランス公使館には、根拠のない批判として反感をもって受けとめられていた。 本論は、ビゴーの反教権主義者としての一面に光を照らすことによって、従来とは異なったビゴー像の提示を試みるものである。
孫, 才喜
太宰治(一九〇九―一九四八)の『斜陽』(一九四七)は、日本の敗戦後に出版され、当時多くの反響を呼んだ作品である。本稿では、かず子の手記の物語過程と、作品中に頻出している蛇に関する言説を中心に作品を読み直し、『斜陽』におけるかず子の「恋と革命」の本質の探究を試みた。 敗戦直後の日本は激しい混乱と変化の時期を迎えていた。かず子の手記はそのような日本の社会的状況や文化的な背景と切り離して読むことは難しい。貴族からの没落と離婚と死産を経験したかず子は、汚れても平民として生きていくことを決意する。このようなかず子の生き方は、最後の貴族として美しく死んでいった母や、最後まで貴族としての死を選んだ弟の直治とは、非常に対照的である。 かず子は強い生命力の象徴である蛇を内在化させることによって、自分の中に野生的な生命力を高めていった。また聖書の中のキリストの言葉、「鳩のごとく素直に、蛇のごとく慧かれ」をもって、おのれの行為を正当化し、悪賢くても生き延び、「道徳革命」を通して「恋と革命」を成し遂げる道を選ぶのである。その「革命」は「女大学」的な生き方を否定し、「太陽のように生きる」ことである。この「女大学」は、日本の近代化のなかで強化されてきた家父長制度のもとで、女性に強いられた良妻賢母の生き方を象徴している。また「太陽のように生きる」とは、明治末から大正にかけて活動していた青鞜派の女性たちを連想させており、「女大学」的な旧倫理道徳を否定し、新しい道徳をもつことである。母になりたい願望をもっているかず子は、「恋」の戦略によって、家庭をもつ上原を誘惑し、彼の子供を得た。しかしそれはかず子の「道徳革命」の一歩にすぎない。かず子が母と子どもだけの母子家庭を築き上げて、堂々と生きていったとき、かず子の「道徳革命」は完成されるのである。 本稿では『斜陽』における蛇に関する言説と日本の民間信仰、聖書との関係、家父長制度とかず子の「道徳革命」との関係などを分析しており、それらが作品の展開とテーマの形成に深くかかわっていることが明らかにされている。
福田, アジオ Fukuta, Azio
日本の民俗学研究は従来集落その他の景観を資料として活用してこなかった。村落内部で伝承されてきた民俗事象のみに関心を集中させてきた。そのため,外見として示される景観のもつ意味については検討されることなく放置されてきたと言える。しかし,日本の中央部でも,関東・中部地方と近畿地方では東の緑,西の黒というように集落景観に大きな相違があり,さらに村落が作り出したさまざまな事物においても相違がある。この相違が民俗学にとっても重要な研究課題であることを主張した。東西の村落景観の相違を対比的に整理すれば,東の緑,西の黒という集落景観の印象の相違を作り出しているのは,家々の集合状況としての集村か小村かの違い,屋敷周囲の施設である屋敷林,垣根,塀等の有無の相違である。そして,それを基礎に,個別屋敷の様相,小祠や墓地の配置などにおいてもそれに対応した相違がある。その外見としての村落景観が示すものは,その社会の内部秩序の反映であり,家を強調する東とムラを強調する西をそれぞれ示している。東の村落景観は個別屋敷を閉鎖的な空間として示し,生活に必要な装置をその屋敷内外に揃えておこうとしてきた。単に生産・生活という現世の装置だけでない。神仏を祭る施設,あるいは墓地という他界につながる施設まで屋敷内あるいは屋敷続きに設けている。屋敷を拠点とした家の独自性,個別性,完結性を強調する社会が作り出した景観と言ってよいであろう。それに対して,西の村落景観は個別の家が明確ではなく,集落全体としてひとまとまりになっていて,ムラとしての結集を家々の密集と個別の家の開放性で表示していると言えそうである。個別屋敷は居住用であり,その他の生活・生産に必要な施設は村落として設定している。この家中心社会としての東を象徴する村落組織が「番」組織であり,ムラ中心社会の西を象徴する村落組織が「衆」組織である。以上のことを論じることによって,民俗学研究にとっても景観が重要な資料となり得ることを述べたものである。
王, 秀文
本稿は、「桃の植物文化誌」につづいて、桃の生命力をめぐる伝承を調べ、分析したものである。桃の生命力に関する伝承は、古く中国の『詩経』「桃夭」などの歌謡に現われ、それは主に桃の花・実・葉をもって年ごろの娘の結婚を祝福したものであるが、季節が冬から春に変わろうとするとき、何よりも早く花が咲き、うっそうとした葉が茂り、木いっぱいに実がなる桃のイメージを受けて生まれた感覚であろう。そのため、桃は強い生命力を持つものとして、農耕を迎える三月三日の祭りと融合され、「桃太郎」の話を生み出し、さらに不老長寿の仙果として仰がれた。このような数多くの伝承において、桃に基本的に陰気に対抗して陽気を復帰させ、生命の蘇生・誕生を象徴し、さらに観念的に女性の生殖力と結びつき、多産・豊饒や生命の不滅への期待が託されているものとみられる。
浅田, 徹 ASADA, Toru
藤原定家の下官集について、その内容を検討する。本書は草子の書き方を中心とした伝書で、文学の内容そのものとは直接関わらないため、和歌研究者からのまとまった考察がない。しかしその記述を考証していくことで、顕註密勘・三代集之間事・僻案抄といった歌学書群、あるいは定家本三代集の校訂作業などと同じ基盤を有していることを指摘できるのではないかと考える。従来の研究(国語学の分野からのもの)は仮名遣い規定に集中し、それ以外の部分は詳しい注釈も行われずにきているので、本稿ではまず全文を改めて検討することから始める。同時にそこに一貫する定家の姿勢を「他者と自分との差異を提示して、それを一つずつ根拠付けていく」ものと捉え、最終的にそれを歌道家当主としての自己定位の営みを象徴するものとして読むことを試みる。また、他者としての六条家の存在はここでも作品形成の一つの契機となっていただろう事を示す。
Кoнaгaя, Юки
2012 年11 月14 日,モンゴル国政府は「チンギス・ハーン生誕850 周年」記念行事をおこない,エルベグドルジ大統領は,チンギス・ハーンの末裔たちがひろく分散しているという歴史を利用して,中央ユーラシア諸国との国際的な協働的関係を強調した。1989 年の民主化以降,こうしたチンギス・ハーンをめぐる政治的な利用が活発化しており,一般にモンゴル社会でチンギス・ハーン崇拝がつよまっている。こうしたナショナリズムとむすびついた,近代的なチンギス・ハーン崇拝の起源について考察するために,本稿では,社会主義以前の中国内モンゴルで日本人によって流布されたと思われる「肖像画」と「軍歌」に着目し,協働的ナショナリズムが明示される資料をあきらかにした。
Kobayashi, Masaomi 小林, 正臣
本稿はアメリカ諸文学における作品(具体的には、John Steinbeck、Bernard Malamud、Leslie Marmon Silko、Kurt Vonnegutの作品)を批評しながら、様々な環境における存在の在り方を議論している。たとえば、自然環境における人間は、その環境の一員であり、この意味において他の生物―「生」きる「物」としての「生物(living things)」―とは「共者(another)」の関係と捉えることが出来る。とすれば、生物学において人間は「ヒト」と呼称されるように、それら生物をヒトと類比した存在と捉えることは、あながち人間中心主義的ではなく、互いを共者として再定義することを可能にする。この「ヒト」という概念は、社会という環境においても適用できる。たとえば「法人(legal person)」という人物は、主体としての「人」であり、客体としての「物」でもある「人物(person)」であり、少なくとも法律における扱いは「自然人(natural person)」と類比的な存在である。この認識を基盤とすれば、アメリカ資本主義社会における人間と法人の関係は、必ずしも対立関係ではなく、共者同士の関係として再解釈できる。そして法人の活動は、いまや環境に対する責任能力を求められている。すなわち「企業の社気的責任(corporate social responsibility)」という問題は、「企業の市民性(corporate citizenship)」という問題と不可分である。法人が「市民(citizen)」としての地位を獲得することの是非は、環境における存在の在り方を問ううえで重要である。かくして本稿は、以上のような人文科学としての文学研究における発想および課題を提示する。
小澤, 佳憲 Ozawa, Yoshinori
これまでの弥生時代社会構造論は,渡部義通に始まるマルクス主義社会発展段階論の日本古代史学界的解釈に大きく規定されてきた。これに対し,新進化主義的社会発展段階論を基礎に新たな弥生時代社会構造論を導入することが本稿の目的である。北部九州における集落動態を検討すると,前期末~中期初頭,中期末~後期初頭,後期中葉に大きな画期が認められる。この画期の前後における社会構造を比較した結果,弥生時代前期には入れ替わり立ち替わり現れる環濠集落を集団結節点とした平等的な部族社会が形成されていた。これに対し,弥生時代中期には丘陵上に一斉に進出した集落同士が前期的な集団関係をベースとして新たな集団関係を構築し,区画墓・大型列状墓・大型建物などの場において行う祖先祭祀をその強化手段として新たに導入した。これらは不動産であったことから,前期とは異なり拠点集落が固定化され,その結果潜在的な優位集団が成長することとなった。中期末~後期初頭の画期は,中期における潜在的な優位性が表面に表れる画期であり,それに伴い,集住現象と,集落内に潜在していた分子集団の顕在化,そして集団の各位相においてその境界を明瞭化する動きが現れる。これは,優位集団の存在が社会的に顕在化したことに伴う自集団の範囲の明確化と集団の大型化の動きと理解できる。その後,集団間の優劣関係が明瞭化したことにともない劣位集団が優位集団の系列下に取り込まれる動きが後期を通じて進行するのである。以上の社会構造の変遷をふまえると,弥生時代前~中期を部族社会,後期を首長制社会として位置づけることができよう。
許, 佩賢 駒込, 武
日本は戦争末期に人的資源が不足したために、1940年代以後、学生、生徒をさまざまな生産現場に動員した。この学徒勤労動員は日本本土ばかりでなく、植民地台湾でも実施された。本稿は「帝国の学知」との関連に着目することで、「時代」と「現場」に焦点を当て、大規模で組織的な勤労動員がいかに実現されたかを解明するものである。 資料としては、台北の士林国民小学に所蔵されている『学校日誌』という学校文書を主軸とした。現存する『学校日誌』から確認しうるかぎりでは、台湾の学校日誌は、校長による検印欄や、1頁に2日分という形式でスペースを限定する配置などが内地よりも早くできあがっていた。そのことは、植民地台湾の学校日誌が、学校活動が滞りなく行われているのを校長が迅速に確認するための資料という性格をより強く持っていたことを示している。 1943年から終戦後の1946年9月まで欠かさず記録し続けられた『学校日誌』からは、戦争末期における児童の勤労動員の実態が読み取れる。児童は主にそれぞれの学区の農村での農作業に動員された。目標は食料の増産や経済的作物の栽培と採集であった。動員対象は法規に明文化されていた高等科の児童ばかりでなく、初等科高学年および中学年の児童も能力に応じて協力を求められた。 学校日誌の記録の中で最も注目すべきは、蓖麻の植え付けの推奨と茄苳葉の採集作業である。本稿では、特に、1944年中期以後集中的に、児童が大量の茄苳葉を採集することを求められていた点に目を向けた。これは台北帝大附属病院薬局長の塚本赳夫が台湾のいたるところにある茄苳樹の葉から、高い割合で酒石酸を抽出できるという研究を発表したことが背景となっている。台湾で行われた学術研究は、台湾の特産物を利用して帝国の戦争の需要に貢献することを目指していた。この研究の出発点は、台湾現地住民による薬用植物の利用から科学的知見を引き出すことにあった。 学校日誌に象徴される「学校管理の知」と茄苳葉の利用に象徴される「植民地科学の知」が結合することにより、台湾国民学校の児童はそれまで以上に集中的に勤労動員に巻き込まれていったのである。
津金, 澪乃
「三枚のお札」は、寺の小僧が山へ出かけ鬼婆や山姥の家に泊まり、便所へ行きお札を投げて山や川を出して逃げるという昔話である。まず、類話を整理してその構成から、(1)鬼婆タイプ[寺-小僧-山-花採り-鬼婆-便所-逃走(お札)]、(2)山姥タイプ[寺-小僧-山-栗拾い-山姥-便所-逃走(お札)]、(3)ヤマハハタイプ[娘-山-ヤマハハ-逃走]の三つを設定した。鬼婆タイプは盆や彼岸に登場し子をとって食う点、山姥タイプは栗や茸を勝手に取る者を責めて山の領域を主張する点、ヤマハハタイプは寺・便所・お札の要素がない点が特徴である。柳田國男の『先祖の話』や山人論を参考にすると、鬼婆の背景には子のない老婆への差別視とその裏返しとしての恐怖感が、山姥とヤマハハの背景には柳田が先住民の末裔と論じている山人への恐怖感が、想定される。そして、昔話の構成要素の比較から、素朴なヤマハハタイプが古いかたち、山姥タイプが新しいかたち、鬼婆タイプがさらに新しいかたちであると分析した。次に、現在の昔話が歴史的にどのような深度をもって伝えられているものなのかを検証するために、室町期の謡曲「黒塚」と「山姥」の存在に注目した。山や野原で日暮れに一人の女が現れるという点が「三枚のお札」で語られている情景と共通している。謡曲「黒塚」では鬼女が里の女として登場し「長き命のつれなさ」を象徴する糸繰りをする。鬼女は山伏に祈り伏せられる。謡曲「山姥」では山姥が山の女として登場し領域の主張を象徴する「山廻り」をする。山姥はどこへともなく去って行く。そこから昔話「三枚のお札」の鬼婆と山姥と、謡曲「黒塚」の鬼女と謡曲「山姥」の山姥との間の対応関係を指摘した。これらの伝承の背景には、山人と里人の遭遇と緊張、その現実の歴史記憶の反映と心象世界の反映、そしてその記憶の稀薄化があると推定した。鬼婆系の伝承と山姥系の伝承が併存しているという点で、近現代に採録された昔話と室町期に成立した謡曲とが共通していることから、昔話には室町期に通じるほど古い伝承情報が伝わっている可能性があることを指摘した。
渡辺, 祐子
近代中国におけるキリスト教伝道が列強本国の対清政策にどのように関わったのかという問題は、より普遍的なキリスト教と帝国主義の問題として、二十一世紀に入った今もなお、あるいは今だからこそ問われなければならないテーマであると思われる。 本稿では問題を考える一つの材料として、十九世紀後半における「不平等特権」によって伝道が保証されるという状況を当の宣教師たちはどのように考えていたのか、宣教師は本国の外交政策にどのように関与したのか。これらの問題を、天津・北京条約交渉から、一八六八年の教案を機に「不平等特権」が問われるに至る時期までを中心に考察する。
陳, 少峰 CHEN, SHAOFENG
森鴎外は五十歳前後のころ個人に内在する価値意識をいかに確立するかについて熱心に探究した。彼は価値の理想を、孔子の鬼神観・天命感と、個人主義的価値観の責任意識という二つの側面から考え、それを総体として安心立命という価値意識として表現した。それから数年間、とくに渋江抽斎の事跡から分かることだが、鴎外は孔子が賞賛した人生の道を渋江が懸命に実行していることに対して非常に共鳴し、また「楽天知命」という深遠なる悟りに到達した。本稿の課題は、森鴎外の明治末期・大正前期における思想と価値観の転換と、孔子の「楽天知命」観との間のつながりを検討することである。
ミヒールセン, エドウィン
一九二〇年代に女性権利を代表する運動が登場すると同時に、女性のリプロダクティブ・ライツの闘争が始まった。その中、最も活躍していたプロレタリア婦人運動家たちは、階級闘争を女性権利と結び付け、女性の生殖権利を要求する無産者産児制限同盟(プロBC)を結成した。本稿では、無産者産児制限の言説と歴史背景を分析しながら、階級支配と性支配の統合を含めてプロレタリア作家平林たい子の「施療室にて」という短編を考察する。そうすること、産児制限とプロレタリア文学との相互関係を検討する。また、「施療室にて」をプロレタリア産児制限論と併読しながら、プロレタリア作家たちは、どのようにジェンダーの搾取と資本主義において唯一生産できない商品である労働力の再生産の必要性を結びつけたかを示したい。
Yamanaka, Yuriko
西アジアに伝わるアレクサンドロス大王に関する言説は,イスラームという信仰と不可分な関係にある。アラブ・ペルシア文学におけるアレクサンドロスは,宗教書においてのみならず,歴史書や叙事詩においても敬虔な信徒,神に特別な権威を与えられた真の教えの布教者,聖戦の闘士,そして預言者として描かれている。 本論文ではまず,アレクサンドロスが中世イスラーム世界においてこのように神聖視されるにいたった背景を明らかにするため,『コーラン』第18章「洞窟」に登場する二本角とアレクサンドロス伝説との関連を指摘し,また,イスラームに先行する一神教であるユダヤ・キリスト教がその宗教説話の中にアレクサンドロスを取り入れた経緯を辿る。 さらに,コーラン注釈書,預言者伝集,歴史書,韻文アレクサンドロス物語など,様々な分野のアラビア語・ペルシア語作品から具体的なテキストを採り上げ,それらを分析し,より象徴的・寓意的な存在である二本角と歴史的コンテキストの中のアレクサンドロスの微妙で密接な相関関係について考察する。 最後に,中国や日本の文献にまで伝わった二本角伝承にも触れる。
王, 秀文
桃は強い生命力を持つ仙果、陰や死に対して不思議な呪力をもつ陽木として、当然ながら長生の神仙の世界や不死の楽園に結びつけられる。伝承上では、神仙の住む世界は東の大海原にある蓬莱山で、桃の巨大な樹のある度朔山または桃都山でもあり、仙木である扶桑は桃と同じ陽性の植物である。また信仰上では、不死の薬の持ち主として人間の福寿を操る女神である西王母は、桃をシンボルとし、死を再生に転換させる生命の象徴である。 不老不死の楽園は仙界であり、俗人にとって生活苦のない理想郷である。したがって、俗界を逃れる「仙界訪問譚」は魏晋の時代から盛んになり、また桃の伝承と強く結び付けられる。その中で、桃の名を冠する陶淵明の「桃花源記」が最も知られ、異界の神秘性を無限に増幅したものである。この類の話において、桃は俗界と異界とを隔絶させ、俗人を仙人に転換させる役割を果たしている。
樹下, 文隆 KINOSHITA, Fumitaka
国文学研究資料館蔵『四座御役者手鑑』は、乾坤二冊の内、下巻のみ残存する刊本の零本ながら、『国書総目録』に唯一所載の鴻山文庫旧蔵本であり、他に存在を聞かない孤本である。観世座十六名・宝生座十七名・御部屋役者衆十名・惣役者衆取次(触流)四名、計四十七名の役者を収録する本書は、記事内容より、貞享三年から貞享四年にかけての事情を反映したもので、刊行時期もその頃と推定できる。宝生九郎を「当世日出の大夫」と称賛する本書は、取り上げた役者の数が江戸期を通して四座の筆頭だった観世座よりも宝生座の方が多いことに象徴されるように、綱吉時代の宝生流繁栄のさまを顕著に描いており、零本ながら将軍綱吉に贔屓された宝生座を始めとする当時の能界の雰囲気が窺える好資料である。本書を翻刻紹介するに際し、原資料の面影を伝えるべく写真を付載し、本書に関する書誌的な解題と収録役者について内容に関する若干の注釈を試みた。
小杉, 亮子
本稿では,1960年代に拡大・多発した学生運動(1960年代学生運動)について,先行研究が大規模社会変動にたいする反応や挑戦としてのみ位置づける傾向にあったのにたいし,より多面的かつ立体的な1960年代学生運動像を提示することをめざし,新たな視角として,社会運動論の戦略・戦術分析を導入する。具体的には,本稿では,1968~1969年に東京大学で発生した東大闘争における戦略・戦術を検討する。その結果,次のことが明らかになった。第一に,東大闘争では直接行動戦略がとられ,さらに,それが非暴力よりも対抗暴力を志向していったために,腕力・体力の有無と闘争での優劣や闘争参加資格とが連関するようになっていた。第二に,東大闘争終盤においては,対抗暴力が軍事的な実力闘争へと傾斜し,闘争の軍事化が見られた。第三に,1960年代学生運動の直接行動戦略が対抗暴力を志向するものとなった要因には,新旧左翼運動が持っていた実力闘争志向や武装主義と,アジア,アフリカ,ラテンアメリカにおける脱植民地・独立運動に影響を受けた第三世界主義とがあった。また本稿では,今後の展開可能性として,軍事的男性性概念の導入によって,ジェンダー的観点からなされてきた1960年代学生運動論と本稿の知見が接続しうることを示す。ジェンダー的1960年代学生運動論では,1960年代学生運動における性別役割分業や女性性の周辺化が1970年代以降の女性解放運動に与えた影響にかんする知見が蓄積されてきた。軍事的男性性という観点から,1960年代学生運動における女性参加者の動機や経験にアプローチすることによって,1960年代学生運動の軍事化とそれが運動の展開過程にもたらした影響について,さらに新たな光を当てることが可能になるだろう。
Hidaka, Shingo Seki, Yuji 橋本, 沙知 椎野, 博
筆者らは 2011 年 9 月 13 日から 9 月 25 日にかけて,ペルー共和国カハマルカ県クントゥル・ワシ村のクントゥル・ワシ博物館でクントゥル・ワシ遺跡出土の金属製品,同県カハマルカ市の文化省支所収蔵庫で,パコパンパ遺跡出土の金属製品の蛍光 X 線分析の調査をおこなった。このような文化財が所蔵されている場所に装置を直接持ち込んで調査をおこなうオン・サイト分析は,海外への文化財の持ち出しが厳しく制限されるようになった近年では,保存科学的な知見をもたらす方法として注目されている。 今回の調査の目的は,出土した金属製品のなかでも特に権力の象徴を示す金製装飾品を中心とした金属製品を蛍光 X 線分析によって,金属成分の組成を示すとともに,その加工技術について考察を加えることである。 調査の結果,各遺跡から出土した金属製品の金属素材の成分組成とその加工技術となる合金技術や鑞付けの技術についてのいくつかの考察をおこなうことができ,アンデス文明形成期の金属製品の加工技術について一石を投じる知見が得られた。
沈, 煕燦
日本の「失われた二十年」は日本経済の抱える問題の象徴であり、経済の停滞と崩壊の時代である。そして、その背景には、さしあたり、冷戦後の日本を支えてきた思想の崩壊があった。なかでも重要なのはデモクラシーの問題だ。本稿は、日本の「失われた二十年」と1967年の韓国小説、宝榮雄の『糞礼記』を比べて、デモクラシーの出現について考える。 本稿ではまずポピュリズムに関する最新の言説を紹介し、次いで冷戦体制が確立されようとしていた時代の韓国に目を向け、1960年の四月革命のとき芽生えたデモクラシーの可能性を探る。これは今日の韓国のデモクラシーとは似て非なるものではあろうが、『糞礼記』の登場人物たちの革命的性格に注目することによって、この時代が投げかけた問題を論じていきたい。彼らはならず者にされた人々、いわゆるルンペン・プロレタリアート、つまりデモクラシーが内包する排他性によって排斥され無視された人々である。本稿は、こうした人びとを政治的舞台に復権させることを目指すものである。
森田, 登代子
大雑書は平安時代以降の陰陽道や宿曜道の系統をひき、八卦・方位・干支・納音・十二直・星宿・七曜などによる日の吉凶、さまざまな禁忌やまじない、男女の相性運などを内容とした書物のことである。近世後期には庶民の関心をひく生活情報を加え内容を肥大化させ百科全書の体裁を帯びるようになった。これが大雑書である。『簠簋内傳』『東方朔秘傳置文"などの歴註書』や、公家武家階層が利用した百科全書『拾芥抄』をもとに大雑書が刊行された経緯から、天保年間に出版された代表的な大雑書の一つ『永代大雑書萬歴大成』をもとに考察する。大雑書に組み込まれた内容は各板元が所有する版権に大きく左右されたことを、大阪本屋仲間の記録をもとに検証し、自己株の書籍に新しい情報をつけくわえ手直し編集して出版したものが大雑書であったことを明らかにする。また各大雑書の特徴をあげ、大雑書が近世の社会・文化・風俗・生活を知る手がかりになることを強調し、ひいては絵の文化のシンクレティズムを象徴するものであったことを追究する。
春成, 秀爾 Harunari, Hideji
近年,佐賀県菜畑,奈良県唐古・鍵など西日本の弥生時代遺跡から,豚の下顎骨に穿孔し,そこに棒を通したり,下顎連合部を棒に掛けた例が発掘され,その習俗は中国大陸から伝来した農耕儀礼の一つであるとする見解が有力となっている。豚の下顎骨に穿孔した例は,中国大陸では稀であるが,豚の下顎骨や頭骨を墓に副葬したり,どこかに掛けておく習俗は,新石器時代以来発達しており,西南部の少数民族の間では,今日にいたるまでその習俗を伝えている。海南島の黎族は,人が亡くなると,牛や豚を殺して死者の霊魂を送る。そのあと,殺した豚の下顎骨を棺の上に置いて埋めるか,または棒に掛けて墓の上に立てる。また,雲南省の納西族は,豚の下顎骨を室内の壁に掛けて家族の安穏の象徴としており,誰かが亡くなると,村の外に捨てる。豚は,中国の古文献によると,恐怖の象徴であって,豚の頭骨や下顎骨をもって,邪悪を退け死者の霊魂を護る,とされる。中国新石器時代には,キバノロや豚の牙を装着した呪具を死者に副葬する習俗が,豚の下顎骨の副葬に併行または先行して存在する。豚の下顎骨が,死者の霊魂を送る,あるいは護ることができたのは,大きく曲がった鋭い牙すなわち鉤をもっていることに求めうる。鉤が辟邪の効果をもつことは,スイジガイの殻を魔除けとして家の入口に掛けておく民族例があり,また,楯に綴じ付ける巴形銅器の存在から弥生時代までさかのぼることが推定されている。豚の下顎骨は,鉤形の牙と,豚の獰猛な性格によって,死霊や邪霊に対抗することができたのであろう。また,時としては羊や鹿の下顎骨をもってそれに代えているのは,下顎骨そのものがV字形の鉤形を呈しているからであろう。弥生時代例は,住居の内部や入口あるいは集落の入口などに掛けてあり,死者がでたり,災厄にあったりすると,鉤部に死霊や邪霊が引っかかっているとみなし,居住区の外に捨てたか,または逆に,死者を護るために墓に副葬したのであろう。豚の下顎骨を辟邪の呪具として用いる習俗は,朝鮮半島ではまだ知られていないが,弥生時代早期に渡来した人々が稲作や農耕儀礼とともに西日本にもたらした,中国新石器時代に起源をもつ辟邪の習俗であったことは確かである。
瀬底, 正栄 浦崎, 武 Sesoko, Masae Urasaki, Takeshi
学習指導要領にある交流学習では,「児童が他の学校の児童を理解し合うための絶好の機会であり,また,学校同士が相互に連携を図り,積極的に交流を深め,学校生活をより豊かにするとともに,児童の人間関係や経験を広げるなど広い視野に立った適切な教育活動である。」と述べられている。しかし,沖縄県北部国頭地区の現状としては地理的な難しさから他校との交流学習は容易ではなく,生活経験の広がりは自校を中心とした環境で終始していく傾向がみられる。そこで,沖縄県北部国頭地区での交流学習の在り方について,市町村の異なる3校の特別支援学級が実際に交流学習を行い,課題としてあげられたコミュニケーションについて遊びを取り入れた「まち」づくりの活動を通して考えていった。交流学習の中で課題とされてきたコミュニケーションは,統一のテーマ「まちを作って遊ぼう」で行った個々の象徴遊びの中で,回を重ねるごとに改善されさらに関係の形成は子どもたちの新たな生活経験の一つになっていくことが示唆された。
堀, 裕
日本古代の安居講経は、国家が期待する僧尼像・仏教像を象徴的に示すと考えられる。おもに『類聚三代格』延暦二十五年(八〇六)四月二十五日官符をとりあげ、政治史や制度史、史料学の視点から検討を行った。①この時、大寺と国分寺の安居講経に、新たに『仁王経』が追加されたのは、桓武から平城への皇位継承を契機にしており、早良親王等の祟りなど、新天皇にもたらされる災いを攘うことで、無事な即位や、治世の安穏を願ったことにある。②一代一度仁王会の開始や、宮中年料写経の伝鳩摩羅什訳『仁王経』への転換との関係も推測され、国家制度の重点が、五穀豊穣を祈念する『最勝王経』から、災いを避けるための『仁王経』へと、変化したことを示していると考えられる。③『類聚三代格』の写本研究の成果を踏まえ、従来の研究成果とは異なり、大寺と国分寺において、『仁王経』の安居講経は、延暦二十五年から少なくとも『延喜格』編纂時までは、維持されたとみるのがよいと考える。
竹村, 英二
津田左右吉は、「儒者の講説するやうな道徳的教訓」は「武士の道義心」醸成にはあまり寄与しなかったとする。しかし、渋沢栄一や荘田兵五郎といった起業家に見られる儒学的公益意識や、一般には洋学者と目される福沢諭吉における漢籍の素養、さらには武術一辺倒の幕臣と認知される山岡鉄舟などにおける徂徠学、経書の素養も明らかであり、幕末武士への儒学の影響は否定できない。 しかし一方で、たとえば『太平策』にある「(武士が)柔弱の公家とな」ること、「町人らしくな」ることへの強烈な批判は、徂徠学における戦闘者的素養の重視を物語る。『山鹿語類』にある「親疎貴賤に不因、其の可改所を改め可糾事をたゞして、不諂人不世従の謂也」との文言は、惑溺と公式主義への真っ向かあらの批判であり、朱子学の道理の普遍主義にも通じるものである。また、武士の責任意識を実働させ得る胆力や能動的行動エネルギーを醸成した要素は、兵学教育、武道鍛錬、さらには法・制度、そして慣習に顕れるところの規範による薫陶であった。武的鍛錬の藩学カリキュラムとしての導入は、戦闘者的心身の構造的保持メカニズムの一角の装置化であり、責任意識や自立性を観念次元でとどめることなく実働させ得る”土台”(勝海舟)である。兵学においても、「生死の大事に至りても動転な」き「棟梁の如」き胆力を錬磨するための養気・発気の手法(『乙中甲伝』)が教えられる。 世の泰平化に従い、兵書の多くは儒学的洗練の度合を深める。その一方で、徳川儒者の書の多くに武人的気概の尊重がみられる。ここに、近世武家社会における儒、兵、そして戦闘者的習俗といった要素の相互規定性の一端を見ることができるといえよう。 さらには「家訓」では、「血気に犯され」るは「未練の士」と批判される一方、武士が「死べき場所に臨て」「最後迄も取りしづめて、常々の心の如く聊もせきたる」心を保持することが尊重されている(『明君家訓』)。近世武家社会は、文と武双方における教育、「士法」としての兵学の伝授、法(家訓、法度など)、制度と慣習の諸要素の構造連関をもって武士的徳目と行為の再構成を可能せしめる反射炉的媒体「場」として機能し、責任意識や自律性、そしてそれを実働させ得る胆力や能動的行動エネルギーを擁する精神=身体性の再生産を可能にしていたといえよう。翻って「士道」的徳育は、戦闘者的能動性を保持しつつも、「血気に犯される」暴力性を制御するに寄与したと考えられる。斯くなる社会的メカニズムは、武士がスタティックな儀礼主義と古典教養をコアとする”読書人的”文官官僚となることを許さず(丸山真男)、「大業を成」す勇力(福沢諭吉)を彼らのうちに保持せしめたといえる。
阿満, 利麿
死後の世界や生まれる以前の世界など<他界>に関心を払わず、もっぱら現世の人事に関心を集中する<現世主義>は、日本の場合、一六世紀後半から顕著となってくる。その背景には、新田開発による生産力の増強といった経済的要因があげられることがおおいが、この論文では、いくつかの思想史的要因が重要な役割を果たしていることを強調する。 第一は、儒教の排仏論が進むにつれてはっきりしてくる宗教的世界観にたいする無関心の増大である。儒教は、現世における倫理を強調し、仏教の脱社会倫理を攻撃した。そして、儒教が幕府の正統イデオロギーとなってからは、宗教に対して無関心であることが、知識人である条件となるにいたった。 第二の要因は、楽観的な人間観の浸透である。その典型は、伊藤仁斎(一六二七―一七〇五)である。仁斎は、正統朱子学を批判して孔子にかえれと主張したことで知られている。彼は、青年時代、禅の修行をしたことがあったが、その時、異常な心理状態に陥り、以後、仏教を捨てることになった。彼にとっては、真理はいつも日常卑近の世界に存在しているべきであり、内容の如何を問わず、異常なことは、真理とはほど遠い、と信じられていたのである。また、鎌倉仏教の祖師たちが、ひとしく抱いた「凡夫」という人間認識は、仁斎にとっては遠い考えでもあった。 第三は、国学者たちが主張した、現世は「神の国」という見解である。その代表は、本居宣長(一七三〇―一八〇一)だが、現世の生活を完全なものとして保障するのは、天皇支配であった。なぜなら天皇は、万物を生み出した神の子孫であったから。天皇支配のもとでは、いかなる超越的宗教の救済も不必要であった。天皇が生きているかぎり、その支配下にある現世は「神の国」なのである。 しかしながら、ここに興味ある現象がある。儒教や国学による激しい排仏論が進行していた時代はまた、葬式仏教が全国に広がっていた時期でもある。民衆は、死んでも「ホトケ」になるという葬式仏教の教えに支えられて、現世を謳歌していたのである。葬式仏教と<現世主義>は、楯の両面なのであった。
青木, 隆浩 Aoki, Takahiro
第二次大戦後,『風俗』は一般に変化しやすい生活様式を指す言葉として,変化しにくい『民俗』から区別されている。しかし,この区別は近代以前の用法から断絶している。江戸時代から明治10年代まで,『風俗』は変化しやすいという意味を含んでおらず,単に観察可能な生活様式を示すだけの言葉であった。明治20年代に欧化政策が急激に進められると,風俗は目まぐるしく変化した。これに対応して,『風俗』は変化するものと認識されるようになった。また,それに対抗する人々は伝統回帰を目的として,風俗の歴史的変遷を研究し,国粋主義の啓蒙活動に役立てようとした。この際,西欧文明に対して日本の精神が強調され,それに伴って『風俗』という言葉の示す範囲は非可視的な対象をも含むようになった。明治30年代から大正末期にかけては,風俗史研究が衰退する。その原因は,西欧化が進行したことによって,日本の伝統があまり顧みられなくなったからである。ところが,大正末期になると,西欧からの政治経済的な圧力を受けて,再び日本の伝統に回帰するための啓蒙活動が活発化した。この活動に便乗して,美術家やマルクス主義者,宗教者がそれぞれ異なる目的を持って風俗史研究を再開した。彼らは自身の組織を拡大するという目的と,国民を教化ないし団結させるという建前を持っていたが,あまり実効性を発揮できなかった。しかし,この時期の啓蒙活動は,『風俗』に上からの支配や統制という意味を付与した。ただし,第二次大戦後の風俗史研究は,大正末期から昭和初期の研究成果をあまり反映しておらず,明治20年代の方法と連続性を有している。同時に,明治20年代の風俗史研究が現在,重要な位置を占めているからこそ,明治10年代以前に使用されていた『風俗』の用法も忘れられている。
一ノ瀬, 俊也 Ichinose, Toshiya
各市町村における従軍者記念誌は、日露戦争終結直後、戦死者が忘却されていくことを嘆いて作られた。だが第一次大戦後、主に在郷軍人会市町村分会によって作られた記念誌は、そのような後ろ向きの意図ではなく、ある積極的な政治的意図、すなわち過去の栄光の記録・記憶化を通じて軍人という自己の存在意義を再確認し、反軍平和思想の盛んだった社会に訴えていくために作られていった。そのような記念誌の中で日清・日露の追憶を語った老兵たちは、戦死者の壮絶な死を語って戦争の「記憶」に具体性を与えて、人々の共感を呼び起こす役回りを演じた。そうした語りのあり方は「郷土の英雄」を求める人々の心情にもかなうものだった。老兵たちが自己の従軍体験を語る際、確かに悲惨な体験も語ったものの、基本的には名誉心充足の機会として戦争を描いていた。そのような従軍者たちの「語り」を彼らの〝郷土〟が一書に編む時、彼らが国家の大きな歴史に占めた位置、役割の説明が熱心に行われた。それは戦死者の死の〝意味〟を明らかにし、ひいては戦争自体の持つ価値を地域ぐるみで再確認、受容することに他ならなかった。以上の過程を通じて、満州事変勃発以前から満州は「血をもって購った」土地であり、したがってその権益は擁護されるべきという論理や「社会主義共産主義」の脅威が市町村という末端レベルで繰り返し確認されていった。満州事変に際して軍、在郷軍人会などが国民の支持を調達する際、日露戦争の「記憶」を強調したことは周知のことだが、本稿が掲げた諸事例は、そのような「記憶」が当時の社会において具体的にいつから、どのようにして共有化されていったのかを示すものである。
石垣, 悟
「国民的生活革命」と呼びうる高度経済成長について正面から取り上げた民俗学的成果は必ずしも多くない。しかし,統計等の資料とともに,聞き書きも重視して歴史を描き出す学的営為を民俗学の方法の一つとすれば,高度経済成長は必然的に聞き書きの対象となり,そこから描かれる「生きた歴史」は,現代に深く関わるものであり,未来を考える有用な材料を提供する可能性もある。拙稿では,福岡県大木町の生業の変化について,聞き書き資料を中心に統計や行政資料なども合わせながら調査・分析を試みた。大木町では,縦横に張り巡らされた堀を最大限に利用した稲作に,麦作や藺草栽培などを組み合わせた生業が営まれてきたが,高度経済成長を経て,稲作の機械化・化学化,その余剰労働力の新たな生業への振り分け,麦作の衰退,藺草栽培や工場等勤務の拡大などを通じて生業の多様化が進んだ。生業の変化は,堀干し,ゴミアゲなど堀を維持する作業を無用とし,人と堀との関係も大きく変えた。堀は邪魔者となって活動面でも精神面でも「堀離れ」が進み,高度経済成長後,精神面での「堀回帰」がまず生じ,今日では活動面での「堀回帰」も生じつつある。こうした中で現金主義も極端に拡大した。生業の多様化は地域の生業リズムにズレをもたらし,従来の共同性を弛緩させたが,その間隙を現金を介した共同が補完した。また,土地や用具などの権利意識も現金主義に規定されたものへと変わり,現金に置換される土地や現金を生む用具に価値が見出されるようになった。このように高度経済成長以来の動きを,聞き書き資料を中心に統計や行政資料なども併用しながら描いてみることは,高度経済成長を,現在へと連なる時間の中で精神面も考慮しつつ捉えることとなり,私たちの未来を考える一歩となるのではないだろうか。
長谷川, 裕
「コンサマトリー」とは、未来における目標実現のために邁進するのではなく、今現在に関心を焦点化しそれが満ち足りることを重視する価値志向を表す言葉である。この価値志向は、それがとりわけ若者の間に浸透することで、かれらにおいて自身の生活を肯定的に受けとめる傾向を強め、特に1990 年代以降かれらの生活満足度・幸福感を高めているという、さらに、この価値志向は、能力主義をはじめとする現状の社会の支配・統合原理に対するかれらの批判意識の高まりを表すものでもあるという見解が存在する。 本稿は、2007 年度及び2021 年度に筆者が携わった子ども・若者対象の意識調査のうち特に高校2 年生のデータを利用して、上記の見解の妥当性を検証しつつ、今日の日本の若者の社会意識の特徴やその変化の傾向性の把握を試みる。
高根, 務
本稿では,独立期ガーナのココア部門とンクルマ政権の盛衰との関係を検討し,当時の政治経済状況の問題点を指摘する。注目するのは,政治・経済の両面で脱植民地化を目指した独立期のンクルマ政権が,実際にはその基盤を植民地期の遺産そのものに置いていた事実である。反植民地主義を掲げるンクルマが国家建設を進めるために採用した具体的な方策は,植民地期の遺産であるココアマーケティングボードを中心とした体制を利用し強化することによって,開発のための資金を調達し,また自らの政治基盤を農村部に浸透させることであった。本稿では経済・制度・政治のすべてが複雑に絡まって表出するココア部門とンクルマ政権の関係を明らかにすることにより,現代ガーナの諸問題の根源にある独立期ガーナの政治経済過程を再検討する。
田尻, 信壹
本稿は,グローバル時代の博物館教育に求められる学びについて学校教育課程(カリキュラム)との関連の中で検討する。近年,学校教育では,社会構成主義に基づく学習理論が注目されるとともに,博物館の活用及び博物館との連携が「総合的な学習の時間」ばかりでなく,生涯学習の推進や「生きる力」の育成の観点からも重視されて来た。最初に,教育課程における博物館の位置付けや課題について現行学習指導要領等をもとに整理し,学校では博物館の重要性が認識されて来たものの,有効な活用の手だてが見いだせていない現状を確認する。次に,その対応策としてイギリスの博物館教育の先進的取組みを紹介し,学校教育で博物館を活用したり博物館と連携したりする上でのスキルやアイデアを提示したいと考える。
箭内, 匡
この論文は,チリ南部に居住する先住民マプーチェの社会において,口頭的コミュニケーションの問題が,口頭伝承,夢,儀礼といった彼らの伝統的な社会文化的実践の中心部分を縦断して,マプーチェ的な「考え方」,「生き方」そのものの問題と重なり合っていることを,一次データをもとに示そうとするものである。その中で,E・A・ハヴロックの『プラトン序説』を一つの土台に,こうした思考と存在の様式の独自性を,プラトン主義や近代的主体性との対照の中で浮き彫りにする試みもなされる。後者の作業は,近代国家チリの中で少数民族として暮らすマプーチェの人々が,口頭的なものと近代的・チリ的なものとの問で揺れ動く今日的状況を存在論的なレベルから把握する上で有益な作業と考えられる。
鈴木, 貞美
日本の「大衆文学」を代表する『大菩薩峠』の著者、中里介山の独自の仏教思想を検討する。まず、彼の「文学」概念が明治初・中期の洋学者や啓蒙主義者たちが主張した広義の「文学」の枠内で、感情の表現をも重んじる北村透谷や木下尚江のそれを受け継ぐものであることを指摘し、それゆえに仏教思想を根幹におく文芸が展開されたとする。次に、介山の青年期の宗教観について、ある意味では同時代の青年たちの一般的風潮を実践したものであること、それがなぜ法然に傾倒したかを問い、そして、介山の代表作の一つと目される『夢殿』について、明治から昭和戦前期までの聖徳太子像の変遷と関連させつつ、二十世紀前半の力の政治に対して、仏教の教えによる政治という理想を主張したものと結論する。
下地, 敏洋 城間, 盛市 Shimoji, Toshihiro Shiroma, Seiichi
本報は、教職科目である「教職指導」の指導項目に工夫改善を図ることが、教員を希望する学生にどのような効果があったのかについて実践報告することが目的である。「教職指導」において、学生は教員の資質である教科指導能力の基礎・基本を養成することに加えて、学校現場で実施される「学校一日体験プログラム」を通して、教科指導、学級経営、部活動などを総合的に関連させながら学ぶことができる。これらの内容を通して、教育に対する視点が学生から教員としての立場へ意識が変容することで、将来の教師像を客観的に見つめる機会となっていることが明らかになった。昨今の教育基本法の改正、学習指導要領の全面改定などに象徴されるように教育環境は常に変化しており、教師に求められる力量量も実践的コミュニケーション能力や組織マネジメントなど変化に対応した多様なものとなってきている。そのため、教職科目においても教育環境を取り巻く変化を見据えながら、いつの時代でも教員に求められる資質能力やこれからの時代に求められる資質能力など、教員としての力量を高めるために寄与する指導内容となるよう一層の工夫改善が必要である。
小川, 順子
本論の目的は、美空ひばりが銀幕で果たした役割を考察することによって、チャンバラ映画と大衆演劇の密接な関係を確認することである。戦後一九五〇年代から六〇年代にかけて、日本映画は黄金期を迎える。当時は週替わり二本立て興行が行われており、組み合わせとして、現代劇映画と時代劇映画をセットにするケースが多かった。そのように大量生産されたチャンバラ映画を中心とした時代劇映画のほとんどは、大衆娯楽映画として位置づけられ、連続上映することから「プログラム・ピクチャア」とも呼ばれている。映画産業を支え、発展させ、もっとも観客を動員したこれらの映画群を考察することには意義があると考える。そして、これらの映画群で重要なのが「スター」であった。そのようなスターの果たした役割を看過することはできないであろう。本論では、戦後のスターとして、あるいは戦後に光り輝いた女優として活躍した一人であるにもかかわらず、「映画スター」としての側面をほとんど語られることがない「美空ひばり」に焦点を当てた。そして、彼女によってどのように演劇と映画の関係が象徴されたのかを検証することを試みた。
小島, 道裕 Kojima, Michihiro
滋賀県守山市所在の小津神社祭祀圏を素材に、地域的祭祀の歴史的な背景を考察する。祭祀圏の地域が決定される要因としては、荘園、水利圏、交通路などが考えられるが、具体的に検討すると、いずれも祭祀圏全体に共通するものはなく、その地域を決定する要因としては単一では不十分であり、複合した要因によるものと考えられる。次に祭祀を担った主体の問題から考えると、土豪層の関与は間違いなく、またこの地域では一向一揆等の土豪層を中心とする組織も見られるが、祭祀圏を土豪層の連合から説明することにも無理がある。そこで当時の村落の状況に目を向けると、十五世紀頃には集落が移転して、在地領主と百姓の惣の共同により、現在に続く新しい集落が成立する現象が広範に見られる。この百姓の惣が、このような集落を基盤として新たに成立した地域社会において、様々な地域的問題の解決のために連合し、地域的共同体を形成して、その象徴として地域的祭祀が行われたのではないかと考えられる。ここに地域的祭祀の直接的な起源と機能を求めることができる。
白尾, 裕志 Shirao, Hiroshi
社会科は1947 年の創設直後から,道徳教育の振興との関わりからその改善を問われてきた。「道徳教育振興に関する答申」(1951 年1月4日)では,学校の教育活動全体を通じて行う道徳教育の全面主義が確認され,学習指導要領での「社会科の意義」として示された。「社会科の改善に関する教育課程審議会答申」(1953 年8月7日)では,社会科の教科としての特質を踏まえた問題解決学習の過程での道徳性の育成が明確化された。この二つの答申によって,その後の教育課程審議会にどのような影響が出たかについて,「文部時報」等の文部省側の文献を中心に明らかにしていき,社会科が学習指導要領として整理される過程で明らかになった特設道徳に伴う社会科の変化について考察する。
将基面, 貴巳
現在、欧米のみならず日本でも学会を揺るがせている問題のひとつに「人文学の危機」がある。ネオ・リベラリズムの席巻に伴い、人文学のような、国民経済に直接的に貢献しない学問は「役に立たない」という議論が横行するようになっている。その結果、人文学系学部・学科は各国政府やメディアからの攻撃にさらされつつある。いわゆる「日本研究」の分野に属する研究の多くは人文学的なものである以上、「人文学の危機」という問題を傍観視するわけにはゆかないであろう。実際、日本国内外を問わず、人文学系の研究者たちは、人文学の意義について積極的に発言するようになっている。しかし、そうした発言の多くは、ネオ・リベラル的潮流への批判であり、人文学の自己弁護に終始し、人文学的研究と教育の現状を再検討する視点が総じて欠落している。 本稿は、こうした現状認識に基づき日本研究の今後を考える上で、人文学的な専門研究が陥りがちな「落とし穴」を指摘することにより、人文学としての日本研究が、時代の逆風にもかかわらず、存立していく上での必要条件のひとつを考察するものである。 その「落とし穴」とは、「学問のプライベート化」とでも称すべき事態であろう。すなわち、人文学の専門的研究が、もっぱら研究者の個人的興味・関心に矮小化する結果、現代社会や文化の諸問題との関連性がもはや研究者によって自覚されない事態である。そうした状況の背後にあるのは、19世紀以降における歴史主義の圧倒的な影響力であろう。歴史主義が空気のように当たり前の存在となり、全ての事象が個性的かつ一回的なものと認識され、あらゆる価値が相対化される時、極めて専門化の進んだ歴史的研究が現代において主張しうる意義とは何か。この問いへの答えは必ずしも自明ではなくなっている。本稿は、この難問への手短な回答を試みる。
清松, 大
高山樗牛の唱えた「美的生活論」は、登張竹風による解説を一つの契機として、その「本能主義」的側面がニーチェの個人主義思想と強固に結びつきながら理解された。樗牛の美的生活論は文壇内外で多くの批判や論争を呼ぶとともに、同時代の文学空間を熱狂的なニーチェ論議へと駆り立てていった。 なかでも、坪内逍遙が「馬骨人言」において創出した「滑稽」な戯画的ニーチェ像は、『中央公論』や『新声』、『文庫』、『饒舌』といった、文学志向の青年たちを主たる読者層としていた雑誌において、その姿形を変えながら増殖していくことになる。そこでは、美的生活論の思想や樗牛という存在自体が「滑稽」化され、時には「滑稽」的なニーチェ像をつくりだした張本人たる逍遙をも組み込みながら、ニーチェ思想や美的生活論をめぐる論争そのものが戯画化された。 こうした現象は、「文閥打破」を掲げて既成文壇の批判者を自任し樗牛とも敵対関係にあった青年雑誌の特質を反映したものとみなすことができる。そして、中央文壇や論壇への対抗意識を燃やす青年たちの武器として選び取られた「滑稽」や「諷刺」への問いと実践は、美的生活論争以前にほかならぬ樗牛・逍遙によってたたかわされていた「滑稽文学(の不在)」をめぐる論争以降の文学空間に伏在していた要求であった。「馬骨人言」以後の「滑稽」的なニーチェ像の再生産や美的生活論の戯画化は、そうした時代の要求が表出したものとしても意味づけられる。 従来、高山樗牛という存在は明治期の青年層から敬慕された対象として語られることが多かったが、本稿では、中央文壇に対する明確な敵対意識を有していた青年雑誌と樗牛との間に緊張関係を見出し、「青年」と樗牛との関係性をとらえ直す契機を提示する。また同時に、明治期の文学空間において「滑稽」や「諷刺」といった問題がどのような意義を有していたかを問い直す視座を開こうとするものである。
陳, 碧霞 仲間, 勇栄 Chen, Bixia Nakama, Yuei
琉球の風水集落には、村抱護と呼ばれている林帯がある。この村抱護の林帯は、集落後方の森とともに、集落を取り囲むように造成されている。さらに各家屋を囲むように、フクギの屋敷林が植えられている。中国や他の東アジア地域の風水樹の使い方は象徴的であるのに比べ、沖縄の場合は、風水的欠落のある地域を補うため、植林の仕方が機能的に配置されている。沖縄は平坦な島々が多く、厳しい自然条件から島を守るため、独特な風水樹のレイアウト構造になっている。本研究では、多良間島を事例に、集落景観、村抱護、屋敷林及び腰当森(クサティムイ)の構造を明らかにした。村抱護の林帯の上層では、フクギとテリハボクが優占種になっている。集落北側の林帯は、自然林を修復する形で人工林が補植されている。抱護の下層植生には多くの種が見られ、植生の多様性を示している。これらの景観は冬の北風と台風時の東風を想定したレイアウトになっていて、東アジアの集落風水景観の中でも、より自然環境に適応した独特な島喚型景観を形成している。
立川, 陽仁
「カナダの北西海岸の先住民族にとってサケは現在でも不可欠な資源である」という語りは,当の先住民集団だけでなく,先住民社会を外側から観察する人々ないし組織カナダ政府,マスメディア,人類学者などからもしばしば主張されている。この主張には,先住民の日常生活に則した社会・経済的側面におけるサケの意義を指摘するものもあれば,彼らの宗教・象徴的側面でのサケの位置づけを説明するものもある。このうち社会・経済的側面におけるサケの価値に関する説明には,統計上の実証的裏づけが必然的に求められるものである。しかし皮肉なことに,先住民にせよ彼らを外側から観察する人々にせよ,こうした実証的検証を放棄し,そして先住民外部は先住民自身による語りを単に表層的に捉えてきたのである。こうした状況をふまえ,本稿ではまず,筆者が北西海岸の先住民族,クワクワカワクゥ社会において実施したフィールドワークをもとに,そこで得られた経済活動に関するデータを提示し,つぎにクワクワカワクゥの社会・経済的側面におけるサケの意義を検討する。そして最後に,言説レベルでのサケの意義に関する説明とフィールドワークで観察される状況(および収集されたデータの分析)と対比させる。
アイオン, H. A.
明治期、大正期、昭和前期において、日本の教育、文化、社会に大きな影響を与えた欧米プロテスタント宣教師たちの活動の中から、三つの事例を挙げて論じる。1.明治初期、カナダ・ウェスレアン・メソジスト教会から派遣されたG・カックランは、日本近代化の唱道者の一人、中村正直の家塾・同人社で教え、東京における初期キリスト教徒のグループ小石川バンド結成の土台を築いた。同じく、派遣宣教医師のD・マクドナルドは、静岡における教育と医療活動に大きな成果を上げ、静岡バンドの形成に尽力した。2.英国国教会牧師のW・ウェストンは、明治中期から大正前期に三度にわたり来日、伝道の傍ら日本アルプスを踏破、スポーツとしての登山活動を日本に誕生させた。また、日本アルプスをその著作を通して欧米に紹介した。日本人と日本の自然美を愛した彼の個人的な努力は、その後の日英の文化交流の発展に貢献した。3.S・ヘーズレットは、英国聖公会宣教協会宣教師として明治三三年来日、各地で伝道を行い、昭和八年日本聖公会主教会議長に就任した。日中戦争以後の日英関係の悪化とともに彼の立場は次第に困難となり、ついに投獄にまで至る。明治以後に展開された宣教師時代の終焉を示す象徴的な出来事であった。
Koikari, Mire 小碇, 美玲
本稿は、米国占領初期に沖縄を訪問し戦後生活改善活動の火付け役を担った家政教育者ジェネヴィーブ・フィーガンの軌跡を追う。米国テキサス州出身の彼女は、第二次世界大戦中のハワイにてアジア系移民を対象とした生活改革に従事し「他者」のアメリカ化に貢献した人物であった。1951 年、米国政府の意向を受けたフィーガンは沖縄にて女性及び家庭生活に関わる調査・教育活動を 3 ヶ月に亘り勢力的に遂行した。島民の生活改良を主眼としたフィーガンの啓蒙活動は、しかし、帝国主義者としての眼差しにもとづいており、沖縄生活様式を西洋のそれと比べて「不衛生」「不合理」「劣性」なものとし、米国文化の「優越性」を強調するものであった。米国本土から準州ハワイ、そして占領地沖縄へと移行したフィーガンの軌跡は、女性・家庭・帝国史の複雑な絡み合いを体現したものであった。
鈴木, 堅弘
本論は、浮世絵春画の借用表現に着目し、おもに<粉本主義の伝統>、<模倣の「趣向」化>、<出版元の依頼>の視座から、そのような表現が用いられた理由を解明する。 またこの問題を考察するにあたって、浮世絵春画の図柄だけを取り上げるのではなく、<唐本の挿絵>、<草子本の挿絵>、<浮世絵>との比較検証を積極的におこなった。なかでもとくに重視したのが<春画>と<浮世草子の挿絵>の関係である。従来の春画研究では双方の比較はほとんど試みられておらず、本論ではおもに西鶴浮世草子と八文字屋浮世草子を取り上げ、その挿絵と春画の類似画の関係性を考察する。またその際に、単に図柄が似ているという指摘に留まらず、むしろ双方の差異に注目し、春画が同時代の文芸表現に影響を受けつつも、その変奏表現を描くという創作の実態を明らかにする。
林, 容澤
金素雲訳『朝鮮詩集』は植民地時代に刊行されたもので、様々な意味合いを持っている。韓国人から見て気になるのは、日本的情感に密着した翻訳態度で、それによって、韓国と日本の文化は根本的に同質だとみられる可能性がある。現に、本稿で取り上げた、佐藤春夫の跋文と藤島武二の扉絵がそれを裏付けており、彼らは、はっきりと日本優越主義的な視線で同詩集を眺めている。しかし、訳者には祖国の詩心の優秀さを当時の日本人に知らせようとする目的があったように思われる。したがって、この訳詩集を当時の日本文学に主体的に同化しようとしたものと見做すのは間違っている。『朝鮮詩集』からは、日本語という”権力”の言語をもって祖国の詩の存在性をアピールするという戦略的意味合いを読み取るべきである。
Кoнaгaя, Юки
モンゴル国では,近年,農業開発のための政策が実施され,成果を挙げている。一方,農耕放棄地にはヨモギがはえてアレルギー源となり,人々に健康被害をもたらしている。したがって,農業をめぐり開発と保全のバランスをいかにとるかが今後の大きな課題となる。この目標に貢献するために,本稿で筆者は,モンゴル高原北部における農業に関する知見について,人々の知識と経験という観点から整理した。 知見は4 領域から構成される。1 つめは,考古学や歴史学の成果。とくに元朝時代は他の時代に比べて資料が多く,研究も進んでいるので,より詳しく記した。2 つめは民族学が提供するいわゆる伝統的知識。用いたモンゴル語資料は日本語に翻訳して末尾に添付した。3 つめは社会主義時代の人びとの経験。筆者自身が集めた口述史の資料を利用した。また,国営農場のリストの作成を試みた(モンゴル農牧省にもない)。4 つめは統計。 これらの整理から得られることは多いが,結論は以下の通り。 1.匈奴以来,モンゴル高原では外来の農民によって農業開発がしばしば行われた。とくにウイグル時代には積極的に都城が建設されたが,この時期は中世の温暖期に相当しており,有利な気象条件に恵まれていたと思われる。 2.モンゴル国西部ではオイラート・モンゴル人による農耕が発達していた。その技術は,牛による犂,灌漑,大麦など,休閑期があることなどの特徴がある。 3.社会主義的近代化の過程で導入された農業は,伝統的な技術と異なる,大規模乾燥農法であった。作付面積が40 万ヘクタールを超えると,規模の経済のメリットが得られるが,非常に投機的なビジネスとなり,社会的に安定的ではなくなる。 4.歴史的に農業開発はそれぞれの時代の政策によって実施されてきたので,断続的であるにすぎず,カラコルム地区を除いて決して持続的ではない。にもかかわらず,現実に農業開発は行われ,牧畜の定着化を同時に促進しているので,今後は,遊牧に適した非均衡モデルではなく,むしろ均衡モデルを適用した考察が必要になっている。
永渕, 康之
1980年代,インドネシアにおけるヒンドゥーはバリ島からの脱領域化を経験している。すなわち,バリ島以外のヒンドゥーがバリ島のヒンドゥーよりも多数をしめるという認識がヒンドゥー内部で広まり,バリ島以外のヒンドゥーの組織化がすすみ,発言力を増しているのである。従来,ヒンドゥーはバリ島のバリ人が多数をしめることを前提として,宗教行政におけるヒンドゥーに関する制度は整備されてきた。ヒンドゥーのバリからの脱領域化はその歴史を塗り替えるとともに,バリ中心主義批判をともなうものであった。すなわち,バリの共同体をあらかじめ前提として形成されたヒンドゥーをめぐる制度の限界が指摘されはじめたのである。2001年,バリにおけるヒンドゥー代表機関の分裂という劇的なかたちで批判は表面化した。本論の第一の目的は,ヒンドゥーの脱領域化がどのようにして起こり,批判の内実はいかなるものであり,何をもたらしたかを明らかにすることである。脱領域化が生み出した最大の変革はヒンドゥー内部における価値の多元化である。市民社会の実現や多様な声に開かれた民主的立場の強調といった従来なかった宗教の公共的役割をヒンドゥーの団体は意識しはじめた。こうした傾向は,スハルト体制の崩壊過程において顕在化した「改革」と並行するものであるとともに,公共宗教という枠組みにおいて論じられている近年の宗教運動の高まりをめぐる議論と呼応するものである。しかし,民主的ヒンドゥーという主張のもとに結集した多様な声のあり方を見た場合,市民社会や民主主義といった課題を参加主体が共有しているわけでは必ずしもない。むしろ,個々の主体は個別の要求を掲げており,しかも互いの主張において各主体は時には対立している。ヒンドゥーは決して同じ価値を共有する単一の閉じられた領域ではなく,むしろきわめて不連続な主体によって構成されているのである。不連続な主体による異なる主張がヒンドゥーという枠組みにおいて接合されている現実に焦点をあて,そのなかで宗教をめぐる諸価値がどのように問われているのかを明らかにすることが本論の第二の目的である。
森岡, 卓司
本稿は、1946年に山形で発行された雑誌『労農』の検討を通じて、占領期における地方文化運動の一側面について明らかにしようと試みる。 山形における占領期の地方文化運動について、非政治的な運動に焦点をさだめ、政治運動的な要素を持ったものについてはその意義を低く評価する語りが現在においても支配的だが、そうした事後的な操作には一定の死角が存在する。1946年に米沢を拠点として発行された雑誌『労農』が、夭逝の詩人森英介の「前史」としてのみ捉えられてきたことも、その一例とみなすことができる。 後に森英介と名乗った佐藤徹が編集発行人となった『労農』は、既存の言説資源を大いに活用した政治的論説誌として出発した。第2号の誌面において最も中心的な扱いを受けているのは、そのころ労働前衛党を結成した佐野学であるが、執筆者の顔ぶれや佐藤による社説、編集後記などを仔細に検討するならば、その誌面には昭和研究会、国民運動研究会、石原莞爾に率いられた東亜連盟運動などからの影響を確認できる。 しかし、最終号となった第3号において、政治運動を牽引する「前衛」像のヒロイズムに焦点化する「行動主義」を標榜することで、『労農』は大きくその方向性を転換する。政治過程への具体的な参画を運動の目標から外した第3号の誌面には、政治的論説と文学テクストとを「行動」という抽象的な理念によって結びつけようとする方針が明確に打ち出される。その方針転換の結果として掲げられた「新地方主義」は、「セクト的な郷土趣味」の閉鎖性を糾弾し、普遍性を持った「世界的な意義」を地方文化運動に追求するものとなっている。 経験的な「地方」からの離脱を志向した『労農』は、「行動文化」の標榜の中に、〈地方〉としての「東北」表象に対する批評性を浮上させた。そこには、〈全体/部分〉という区分を用いたアイデンティティポリティクスの隘路へと帰着せざるを得ない「地方」を巡る語りの臨界を看取し得る。
于, 彦 篠原, 武夫 Yu, Yan Shinohara, Takeo
国有林の経営活動は国家の経済改革の影響を強く受け,大きな曲がり角を迎えている。計画経済体制下に作られ肥大化した伊春林業管理局が国家による庇護がなくなりつつある現在と将来においては,市場経済体制への移行に生き残れるか,どのようにしてこの試練を乗り越えるかということは伊春林業管理局だけではなく,国有林の全体が直面している問題であると言えるだろう。これらの問題の解決は国家として,部門として,企業自身として,もう少し時間をかけて検討していく必要がであろう。さらにこうした状況の中で,国有林の新たな展開にとっての大きな目標である地元への経済的貢献と国民への奉仕との両立がどのように達成されるのか,今後とも黒竜江国有林の社会主義市場経済体制の進展に注目していきたい。
村木, 二郎 Muraki, Jiro
経塚は弥勒信仰や阿弥陀信仰などの様々な影響のもと造られた。それが時代を経るにしたがって、経塚を造る功徳によって極楽往生を願う、という阿弥陀信仰に収斂されていく。ところで、紙に書いた経典を埋める一般的な紙本経塚以外に、粘土板に経典を刻んで焼き上げたものを埋納した瓦経塚がある。紙が腐ってしまうのに対し、瓦経は「不朽」なので、弥勒下生の時まで残すことができるのである。このため瓦経は弥勒信仰による経塚の象徴として位置付けられてきた。同時に作られ二ヶ所に埋納された、伊勢小町塚瓦経と菩提山瓦経は遺物が混乱している。ところで、国立歴史民俗博物館所蔵拓本集に、確実に小町塚から出土したことが判る瓦経片が収集されている。これを分析することにより、両者の遺物は埋納当初から混ざっていたことが判明した。すなわち作ることに重点がおかれ、埋納、保存には意が注がれなかったのである。このことから最後の紀年銘瓦経である小町塚・菩提山瓦経には弥勒信仰の影は薄く、当時の紙本経塚同様、作善業としての阿弥陀信仰の所産であったことを論証し、瓦経がこれ以後作られなくなった意味を説く。
Kishigami, Nobuhiro
本論文の目的は,北米北方地域における交易活動について,1500年代から1870年代にかけて行われていた毛皮交易を中心にその全体像を素描することである。北米における毛皮資源の交易は,ヨーロッパと中国における毛皮需要や,イギリス,フランスなど西欧列強の政治的対立関係と連動しながら展開し,北米北方先住民を欧米の資本主義システムに接合させた。この過程で社会の崩壊,再編成を余儀なくさせられた先住民グループが存在した一方で,カナダ・イヌイット人やケベック・クリー人の大半は,毛皮交易に係わりつつもそれのみに経済特化をせず,狩猟・漁労活動を維持してきたため,変化を被りながらも,拡大家族関係などいくつかの社会関係を再生産させることができた。毛皮交易への北米先住民の係わり方は一様ではなく,毛皮交易は先住民社会を破壊するという仮説は北米先住民社会のすべてに妥当するわけではない。
池内, 恵
日本におけるイスラーム思想の研究において、井筒俊彦の諸著作が与えた影響は他を圧している。日本の知識階層のイスラーム世界理解は、ほとんど井筒俊彦の著作のみを通じて行われてきたと言ってしまっても誇張ではないかもしれない。井筒の著作の特徴は、日本の知識人のイスラーム理解の特徴と等しいともいえる。この論文ではまず、井筒の著作において関心がもっぱらイスラーム神秘主義(スーフィズム)とイスラーム哲学にあり、イスラーム法学についてはほとんど言及されないことを指摘する。その上で、井筒がイスラーム思想史の神秘的な側面に特に重点をおいたことは、井筒が禅の素養を持つ父から受けた神秘的修道を基調とする教育に由来すると論じる。また、井筒の精神形成をめぐる自伝的な情報を井筒の初期の著作に散在する記述から読み取り、井筒の神秘家としての生育環境が、イスラーム思想史をめぐる著作に強く影響を及ぼしていることを示す。
加藤, 禎行 KATO, Yoshiyuki
本稿では、一九○七〈明治40〉年一月、雑誌『文藝倶楽部』に掲載された泉鏡花「霊象」を論じた。従来、ほとんど検討対象として採り上げられなかった小説であるが、鏡花が小説に導入した象の形象を、謡曲「江口」の引用と、南洋への異国情緒趣味の結合として捉え直そうと試みた。また小説世界の論理が、「群盲象を撫でる」という慣用句に基づく三題噺として構想されていることを指摘しつつ、「群衆」に対する鏡花の嫌悪のなかに、小説「霊象」の同時代性を確認した。なお「霊象」については、正宗白鳥による間接的な証言ながら、島村抱月による称賛が伝えられており、この時期の抱月の周辺についても検討することで、「ロマンテイツク」の文学を積極的に推進していく、自然主義文学路線への転換以前の抱月の姿を見出し、白鳥による証言が正確であった可能性が高いことを確認した。
中西, 智子
道長家で作られた自家の「史実」を語るテクストである『栄花物語』の中で、妍子の造型は家の繁栄や物質的・人的交流の豊かさを体現する存在として、姉の彰子とはまた違った象徴性を有している。そのことは、妍子や娘の禎子の周辺に、女房たちの高い出自や豪奢な衣装、新たに制作された当世風の調度、道長家の幸いを喜ぶ人々の楽天的なさまが描かれること、さらに現世的な栄華と結びつく「栄花」「はなばな」などの、〈花〉にまつわる語の使用が顕著に見られることなどから推察される。 このように妍子方の描写を通じて道長家の繁栄が肯定的に印象づけられることは、〈源氏〉の血の卓越性を中心に据え、藤原氏を劣位のものとして描く『源氏物語』に対し、道長家のコミュニティが抱いたいくばくかの違和感の反映と考えられる。藤原氏の長者でありながら、〈源氏〉の側に立った物語を、実際に源氏を母に持つ娘のために作らせることの意義は、道長家内部の人々のアイデンティティの意識の複雑に錯綜したありようとかかわりが深いものと思われる。『源氏物語』をふまえて『栄花物語』正篇が作られ、読まれた空間は、藤原氏の誇りと〈源氏〉への憧れとが絡み合う混沌とした場であったと言える。
陳, 㬢 松本, 理美 小椋, 秀樹 Chen, Xi Matsumoto, Satomi
校歌は、その学校を象徴するものであり、校風、所在地の地理的特徴などが歌詞に歌われることが多い。式典で歌うなど、児童・生徒にとって身近なものでもある。しかし校歌の歌詞の言語的特徴について分析した研究は少なく、いまだ十分に明らかにされているとは言い難い。そこで筆者らは、滋賀県の公立小中高を対象に校歌の歌詞を各校Webページから収集し、コーパスを構築した。このコーパスを基に、MVR、受身形、動詞「V+あう」、連体修飾節といった観点から歌詞の言語的特徴について多角的な分析を行った。調査の結果、次のことが明らかとなった。(1)名詞比率とMVRとによる分析から、小学校は「ありさま描写」的な歌詞が多く、中学校・高校になると「動き描写」的な歌詞になる傾向が見られる。(2)受身形・動詞「V+あう」(「育まれる」「助け合う」等)については、小学校の歌詞に多く見られるが、中学校・高校になると減少する傾向が見られる。(3)連体修飾節は小・中・高校の教科書(書き言葉)とは異なって補足語修飾節に集中する傾向が見られ、また主名詞は学年上昇とともに生徒や学校を表す名詞が減少し、自然や徳目を表す名詞が増加する傾向が見られる。
藤本, 誉博 Fujimoto, Takahiro
本稿は、室町後期(一五世紀後期)から織田権力期(一六世紀後期)までを対象として、堺における自治および支配の構造とその変容過程を検討したものである。当該期は中近世移行期として「荘園制から村町制へ」というシェーマが示されているように社会構造が大きく変容する時期である。堺においても堺南北荘の存在や、近世都市の基礎単位になる町共同体の成立が確認されており、これらの総体としての都市構造の変容の追究が必要であった。検討の結果、堺南北荘を枠組みとする荘園制的社会構造から町共同体を基盤とした地縁的自治構造が主体となる社会構造への移行が確認され、その分水嶺は地縁的自治構造が都市全体に展開した一六世紀中期であった。そしてこの時期に、そのような社会構造の変容と連動して支配権力の交代、有力商人層(会合衆)の交代といった大きな変化が生じ、イエズス会宣教師が記した堺の「平和領域性」や自治の象徴とされる環濠の形成は、当該期の地縁的自治構造(都市共同体)の展開が生み出したものであると考えられた。そして、様々な部位で変化を遂げながら形成された一六世紀中期の都市構造が、近世的都市構造として一六世紀後期以降に継承されていくと見通した。
岩橋, 法雄 Iwahashi, Norio
ニュー・レイバーは、弱者への援助としての能力向上施策を強力に遂行してきた。これが教育を第1のプライオリティとしたブレア労働党政権の教育政策である。しかし、その本質は、あるがままの弱者に対する社会的公正の観点からの富の再分配的支援というよりは、富を自分で勝ち取らせるための支援の推進である。このいわゆるハンズ・アップ (hands-up) 支援は、機会の提供という「支援」を通じて自助を費用効果において組織しようとするものであり、結果としての「到達」の不平等の存在は自己責任というイデオロギーを必然として伴うものである。こうしてサッチャーからの「旅立ち」に映ったブレアの被剥奪者への配慮の思いは、そのレトリックとは裏腹に、教育を通じて被剥奪者の内の「有能」者を能力主義的価値観の社会に「包摂」する(「動員」する)側面にますます転化し始める。よって、その「社会的包摂」は、公正を旨とする平等と決して同じものではない。
Shoji , Hiroshi
社会主義政権樹立以来中国は,少数民族言語の平等な使用と発展を民族政策の一つの柱として,民族言語の文字化,民族言語による教育を掲げてきた。その一方では国家統合および近代化を進める中国にとって,共通語としての漢語,「普通語」の普及も重要な課題であった。文化大革命期をのぞき今日にいたるまで民族言語政策は基本的にこれら二つの理念のせめぎあいの場であったといえる。しかし1980年代以降,民族言語政策は従来の対立の構造とは異なる様相を呈しはじめている。本稿では,少数民族言語擁護と漢語普及との間での対立や矛盾の鮮明化,および双語教育(二言語教育)の枠内で民族語教育の足場を確保しようとする民族言語政策に注目し考察した。さらに近年少数民族言語やその政策に影響をあたえつつある現象として,急速な近代化の要請にともない進展しつつある漢語の実質的国語化政策,民族言語関係者による国際的言語理論の援用,さらに世界的な言語・民族運動への関心を指摘した。
Mishima, Teiko
本稿はソニンケのアジアへの移動についての報告であるとともに,フランスへの労働移動ゆえに出稼ぎ民として位置づけられてきたソニンケ移民をディアスポラの概念との比較のなかで捉えなおす試みである。 20世紀におけるソニンケの移動は,まず西アフリカの「故郷」から他のアフリカ諸国へ進み,80年代以後,アジアへ拡大した。移動は社会と家族がソニンケ男性に求める文化的な営みであると同時に,生計を立てるための経済的な活動である。また民族集団と「故郷」への強い帰属意識が基盤になっている。 内容は聞き取り調査から得られた移民の移動史の記述を中心とし,そこから移動の行程と経済的な営みの特徴を描き出している。移動先については世界経済のなかでソニンケの経済的な動きを理解することが重要であり,経済活動については帝国主義拡大期以前におけるソニンケの移動の営みとの連続性を考慮する必要がある。その作業を通じてソニンケの移動の全体像をつかむことができると思われる。
千田, 稔
近年出雲における多数の銅鐸の発見などによって出雲の古代における位置づけが論議されだした。本稿では絵画銅鐸の図像学的な解釈や、銅鐸出土地と『出雲国風土記』及び『播磨国風土記』の地名起源説話などから、銅鐸はオオクニヌシ系の神々を祭祀するための祭器であると想定した。また、『播磨国風土記』にみる、オオクニヌシ系の神々(イワ大神も含む)と新羅の王子の渡来と伝承されるアメノヒボコとの土地争いを倭の大乱を表すものとしてとらえた。通説にいうように、アメノヒボコは西日本の兵主神社にまつられたものとすれば、兵主神社の最も中心的な存在は奈良県桜井市纏向の穴師坐兵神社である。周知のように銅鐸は弥生時代の終末に使用されなくなり、それにとって変わるのが祭器としての鏡であるが、アメノヒボコで象徴される集団は鏡のほかに玉や刀子を日本にもたらしたという。つまり、倭の大乱をおさめ、後の三種の神器の原型をもって、卑弥呼は邪馬台国に君臨することになったと想定できる。したがって、邪馬台国は歴史地理学的に纏向付近に比定でき、これは近年の考古学の年代論から考察される纏向遺跡の状況と矛盾しない。 オオクニヌシからアメノヒボコへの転換は、記紀神話における天孫君臨の司令神がタカミムスヒとアマテラスであるという二重性と、神武天皇と崇神天皇がいずれもハツクニシラススメラミコトとして初代天皇として記紀が叙述する二重性にも理解の手がかりを与える。
道田, 泰司 Michita, Yasushi
批判的思考を行うためには,「共感」や「相手の尊重」のような,soft heartが必要になることが論じられた。それは第一に,批判を行う前提として「理解」が重要だからであり,相手のことをきちんと理解するためには「好意の原則」に支えられた共感的理解が必要だからである。このことは,-聴して容易に意味が取れると思われる場合でも,論理主義的な批判的思考を想定している場合でも同じである。共感的理解には,自分の理解の前提や枠組みをこそ批判的に検討する必要がある。そのことが,臨床心理学における共感のとらえられ方を元に考察された。また,批判を行うためには理解の足場が必要であること,それを自分と相手に繰り返し行うことによって理解が深まっていくことが論じられた。最後に,このような「批判」を伴うコミュニケーションにおいては,「相手の尊重」というもう1つのsoft heartも重要であることが,アサーティプネスの概念を引用しながら論じられた。
服部, 洋一 Hattori, Yoichi
要旨:19世紀中頃のスペインのカタルーニャ地方において, 主に文学をその起点として始まったくカタルーニャ・ルネサンス〉(Renaixencaレナシェンサ) は, その後国民的文化・社会運動へと拡大した。カタルーニャは, すでに中世において, 商業を中心にその勢力を地中海に拡大し, 海洋帝国を築いたが, ルネサンス期以後は, 再征服運動の中心的役割を果たしたカスティーリャの中央集権的政治政策に, その政治的主導権を奪われ, カタルーニャはその後幾度も, その地方主義的自主独立性に対する弾圧を受け続けてきた。このような歴史的背景が強く影響して, カタルーニャ・ルネサンスは, カタルーニャの独自性の回復を強く主張するカタルーニャ・ナショナリズムへと発展した。諸芸術(文学・絵画・建築)においても, カタルーニャの歴史的・地理的アイデンティティーを全面に押し出した作品や, あるいはそれを内包する作品が数多く生み出された。絵画や建築の分野では, これまでは, レナシェンサの精神と作品との関連を究明したものも発表されたが, その影響を必ず受けたに違いないカタルーニャ歌曲に関しては, 皆無といってよいほどである。
平野, 智佳子
本稿では,オーストラリア中央砂漠におけるアナングの狩猟採集を想起させる酒の獲得,すなわち「酒狩り」の過程に焦点をあて,規制や批判をかわすために重ねられる様々な調整や工夫を分析する。 従来のアボリジニ研究では,アボリジニ飲酒者は「植民地主義の犠牲者」として描かれ,その行為は文化喪失の言説に還元されてきた。これに対して本稿では,酒を手に入れようと奔走するアナングの諸行為を「ブラックフェラ・ウェイ」というアボリジニ独自の選択や決断に関わる議論に照らして,狩猟採集を装うような創意工夫として読み解く。それらの創意工夫によって人びとはトラブルの芽を摘みながら,協力者をみつけ,酒を獲得する。同時に,社会関係を維持・再生産して自らが逸脱していないことを示す。これらの分析から,酒を求めるアナングが,社会規範に追従するわけでもなく,かといって自らの飲酒欲求に翻弄されるのでもなく,両者のバランスをとりながら酒を獲得する術を編み出していることを指摘する。
福仲, 憲 Fukunaka, Ken
一般的に, 日本本土の農業を基準にして沖縄の農業がそれからどれ程ずれているかを見ようとする考え方はかなり強いものがある。これは沖縄農業を温帯農業の「はずれ部分」としてだけ見るいわば単眼的な捉え方と言えよう。しかし, 沖縄での「亜熱帯農業」の確立を考える場合には, 北の温帯農業の原理と南の熱帯農業の原理を併せて複眼的に捉えることが基本的に必要である。沖縄農業の近代化が進むにつれて伝統的な複合経営である「甘蔗畑作経営」が, したがってその「防災営農」の技術体系が崩壊し農業経営の単一化は確実に進んできている。つまり, さとうきびモノカルチュアに象徴されるように畜産を含めた他のどの作目もそれぞれが単一経営の技術体系に変わってきている。だから, 近代化技術としての機械化, 施設化, 化学化は農業経営の規模拡大と資本集約化によって経済的な効率化を進めたが, 複合経営の技術体系化による生産力構造の持続的な安定化には結びついてきていない。かつて近世の琉球農業では技術的には地域の自然条件にみあった足腰の強い安定した「家族複合経営」があった。従って今一度, 本来の複合経営の理念に立ち戻って, 今日の発達した科学技術でもって改めて自然と人間のかかわりとして農業のあり方をとらえ直すことによって, 地域農業を再編していくことが沖縄における「亜熱帯農業」確立の原点と言える。
岩井, 洋
本稿は、明治時代をおもな対象とし、<近代>を新しい<記憶装置>が誕生した時代として描いた、「記憶の歴史社会学」の試みである。ここでいう<記憶装置>とは、人々の記憶や想起の様式を方向づけるような社会的装置であり、それはハードウェア、ソフトウェアと実践からなる。ハードウェアは物質一般であり、ソフトウェアは思想、ルールやハードウェアの操作法などを意味し、実践はハードウェアとソフトウェアを結びつける身体的な実践を意味する。いうまでもなく、それぞれの時代には、それぞれの記憶装置があったはずであり、ここで問題となるのは、その記憶装置の<近代>性である。 近代の記憶装置を象徴していたのは、明治時代に起こった記憶術の大流行だった。そして、意識的であれ無意識的であれ、さまざまな分野に記憶術の原理が応用され、記憶術の実践を容易にするような道具立ても登場した。たとえば、教育現場では、新しい教授法が導入され、記憶を助けるような、掛け図をはじめとする視覚的な教具が使用された。また、記憶術の基本となる参照系にも変化がみられた。すなわち、五十音配列のリファレンス類の登場や、図書館における新しい分類法の導入、索引システムの開発などである。 <近代>は、文字の配列や分類体系といった参照系の変容と、それと連動したハードウェアの変化、さらには教育を含めた学問体系の変化などがあいまって、大きな<記憶装置>が作りあげられた時代であったといえる。
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