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宮国, 薫子 Miyakuni Kaoruko
沖縄県の観光客数は2000年以降、従来の圏内の観光客とともに外国人観光客が勢いをつけて増加している。観光客は、沖縄の美しい自然や南国の雰囲気をもとめて、また、独特の文化や歴史に触れるために、老若男女、様々な観光客がやってくる。沖縄の様々な観光地の中でも、始めてくる観光客もリピーターも、一度は訪れるともいわれる観光デステイネーション(観光地)に那覇の国際通りがある。本稿では、観光地(デステイネーション)において持続可能な観光が行われているかどうかの指標として提示された、「観光リンケージ(Miyakuni& Vander Stoep2006) 」 (観光開発の枠組み)を用いる。観光リンケージには、構造物、視覚、情報、経済・マーケティング、解説(インタープリテーション)のリンケージがあるが、本稿では、特に、構造物のリンケージと交通のリンケージに言及し、住民の暮らしの質を守りつつ観光客の観光経験をも高めるために、どのような施策ができるかを考えることにある。
宮国, 薫子 Miyakuni, Kaoruko
本稿では、持続可能な観光開発のための枠組みとして2006年に提示し、沖縄県那覇市首里金城地区景観形成地域をモデルに検証した「観光リンケージ」を再考する。観光開発は、地域の様々なステークホルダーが関与しており、地域に様々な経済的、社会的、環境へのインパクトをもたらすがゆえ、様々な観光を構成する要素を考えて計画的に行われなければならない。観光リンケージの概念は、観光のあらゆる要素(構造物、視覚、情報、交通、経済・マーケティング)において、連携を持たせることによって、持続可能な観光開発ができることを示唆している。2006年の時点において「観光リンケージ」は、観光開発を見る一つのレンズとして様々な特徴や問題点を指摘した。本稿では、近年、急速に発展する沖縄県の観光の中核をなす首里景観形成地域の変化を再度、観光リンケージという枠組みを通して検証する。
宮国, 薫子
沖縄県の首里城周辺では、1990 年後半に景観形成地域が指定され景観に配慮した統一感のある美しい街並みが形成されてきている。 沖縄県では、2019 年に過去最高の観光客数を記録したが10 月に首里城が焼失、2020 年より新型コロナウィルスの影響を受け観光客数が大幅に減少した。2023 年から観光は回復している。これまでの観光の在り方を見直し持続可能な観光を推進するために、持続可能な観光推進で定評のある地域住民の観光に対する態度の調査を、多くの観光客が訪れる首里城周辺で行った。その結果、地域住民は観光の経済、社会・文化、環境における正の影響をある程度、感じていること、また、負の影響を強く感じていることが明らかになった。
柴崎, 茂光
本報告では,観光雑誌・ガイドブックとして知られている「旅」や「るるぶ」の文字情報や写真情報を活用しながら,1993年に世界自然遺産に登録された屋久島の観光イメージの変遷を明らかにした。その結果,時代ごとに観光地「屋久島」のイメージが変化してきたことが明らかとなった。1950年代には秘境としての屋久島が強調され,山域よりも里の暮らしなどが観光資源と表現されていた。国立公園に編入された時期を除いて,1980年代までは里の温泉や滝が主要な観光資源として頻繁に写真などにも掲載された。しかし 1990年代以降になり,世界遺産登録も一つの契機となり,観光イメージの中心が,縄文杉や白谷雲水峡といった山域に移行した。とりわけ近年は,エコツーリズムを活用した新たな観光形態が紹介されるようになる。例えば,太鼓岩やウィルソン株のハート形の空洞などに代表される新しい観光資源が誕生し,観光地「屋久島」イメージの変化にも影響を与えていた。こうした観光地のイメージ変化をもたらす要因として,観光発展の初期の段階では,観光地へのアクセスが大きく影響しているものと考察された。そして飛行場といった交通機関や道路環境や木道といった登山道整備が改善される中で,アクセスが容易となり,山岳記事が少しずつ増えていったと考えられる。山岳記事が増える中で,大衆観光地化やエコツーリズム産業の発展も進み,観光雑誌・ガイドブックの出版社側も新たな情報の更新を繰り返してきた。ただしこうした迅速な観光資源化は,コンフリクトを生み出してきた。持続的な観光発展のために,行政側が提供する観光情報を検討する時期に来ている。
王, 怡人 Wang, Yi Jen
本稿の目的は、訪日観光客の大半を占める中国人旅行者の旅行先での写真撮影行動について、撮影状況( 内容と枚数)、ネットメディアでの投稿状況、そして観光経験といった側面から実証データを使って検証することである。 さらに検証結果に対して考察を行い、観光地の運営に関して「非日常を演出するための動態的資源開発」、「観光客と観光地における物事・人々との関係性構築」、「パフォーマンスを活用した観光地魅力度の風化対策」と「観光客の情報発信に関連する試み」といった4 つのインプリケーションを見出した。
原山, 浩介 Harayama, Kosuke
20世紀のツーリズムの高揚は,まず1930年代にひとつのピークを迎えた。その後,日中戦争に突入後も,1942年までは戦時ツーリズムというべき状態が続いたとされる。こうした現象は,都市部に住む人びとの旅行熱を説明するものであるが,そうした人びとを受け入れる観光地からこの時代を眺めたとき,違った説明が必要になる。観光地の中でも,伊勢,日光,白浜といった著名な観光地は,確かに戦時下においても,多くの観光客が来訪した。しかしながら,1930年代までは観光開発が十分に進まず,アクセス手段の整備も限定的であった周縁的な観光地は,日中戦争の開戦により,集客が困難になっていく。この戦時の観光地としての休眠期間が当該地域にどのような影響を及ぼしたのかは,戦禍に巻き込まれたか否か,どのような観光資源があるのか,といったさまざまなファクターが絡んでくるうえ,戦後の観光地としての大衆化をも視野に入れて考える必要があるため,一義的なイメージによって説明することは困難である。本稿では,ひとまず長野県戸隠の観光地としての展開を,戦時を挟む形で取り上げた。この地域は,古くから,霊山として,あるいは鬼女紅葉伝説などで,その名を知られていた。さらに1930年代の乗合自動車の開通と,この時期の観光ブームにより,その知名度は飛躍的に向上した。しかしながら,燃料統制による乗合自動車の減便ないし運行休止により,戦時の戸隠は観光地としては凋落する。そのことにより,文人にとってはむしろ静かな逗留先として好まれるようになり,戦時下に多くの文学作品や随筆の中で,この地が叙情的に取り上げられることにつながった。戦後になると,ひとまずは長野市民の観光地として戸隠は再スタートする。そして国立公園への編入や道路の開通により,高度経済成長期には観光地として成長を遂げることになる。戦後の観光地としての戸隠とは,戦時に文人たちによって描かれた叙情的なイメージを湛えつつも,その一方で華々しい観光地としての大衆化によってかえってその魅力を減じていくという,両義的な経過を辿った。
大角, 玉樹
2022 年の夏はレンタカーが沖縄から消えた。コロナ禍で観光需要が蒸発したことから,県内のレンタカー会社は大幅に在庫を減らした。その状況下で,国内の観光客が一挙に沖縄に押し寄せたため,レンタカーが予約できな異常事態を迎えた。沖縄観光の主要な交通手段はレンタカーであり,公共交通機関が脆弱なため,レンタカー無しの観光客は不便を強いられることとなった。本稿では,筆者の宮古島での体験をもとに,車無しでも観光が楽しめるだけではなく,地域住民の移動手段も同時に向上できるような沖縄MaaS への期待を整理した。
桑原, 浩 Kuwabara, Hiroshi
本研究の目的は、デステイネーションマーケティングの視点から、各観光地における観光客の飲食庖体験の特徴を把握する新手法を、試行し提案することであった。具体的には、観光地における食の地域性の肯定的知覚を成果指標として、それに影響する飲食庖体験の属性を線形重回帰モデルによって確認し、その属性情報によって観光地の特徴を把握するという手法である。本手法の有効性を検討するために、北海道と京都府への観光客から得たデータにこの手法を適用した結果と、地域毎の体験属性の直接測定結果とを比較した。その結果、前者の結果が後者の結果以上に、DMOの意志決定に貢献できる明瞭な情報をもたらすという事例が示された。
宮国, 薫子
2015 年に国連のSDGs(Sustainable Development Goals)が採択された。SDGs が様々な分野で研究され取り組まれているが、観光の分野においても、観光がSDGs の達成にどのように貢献できるかの議論が活発になっており、観光と SDGs の関係が模索されている。2021 年 7 月に,奄美大島,徳之島,沖縄県北部,西表島,が世界自然遺産に認定された。沖縄県北部では,電気自動車を用いたエコツーリズム事業が開始され,2020 年から,環境省や沖縄県自然保護課、一旅行会社が主体となって、SDGs を基に作成された GSTC (Global Sustainable Tourism Council)の持続可能なデスティネーション基準をもとに観光の自主ルール構築に取り組んできた。本稿では,SDGs と観光について概観し,その取り組みについて紹介し、持続可能な観光開発が,国連のSDGs 達成にどのように貢献できるかを,明らかにすることである。
王, 怡人 大津, 正和 地頭所, 里紗 張, 瑋容 竹村, 正明
既存の観光地研究は,(成功)事例の報告に傾注するあまり,理論的定式化が看過され,理論の構築や蓄積に繋がりにくかった。本稿は「資源アプリケーション・マトリックス」という概念モデルを用いて,観光地研究の理論的枠組の開発に寄与する。とりわけ製品開発やイノベーション研究の知見を援用しながら,観光地化のメカニズムを実証的に明らかにする分析枠組みの開発を目指す。
Kakazu, Hiroshi 嘉数, 啓
沖縄を含む太平洋島嶼地域にとって, 観光産業は対外受け取り総額の20-70%を占ある基幹産業であると同時に, 今後の成長産業でもある。観光は貴重な「外貨」を稼ぐ「サービス産業」であると同時に,「平和産業」,「文化産業」であり, これらの島嶼地域のもつ, ユニークな自然, 気候風土, 文化, ニッチ市場, 人的資源をフルに活用しうる複合・連携型産業である。島嶼観光は, 水, 電気, 交通・通信, ゴミ処理施設などの生活インフラはむろんのこと, 島嶼の限られた, しかも壊れやすい自然環境資源と人々の「ホスピタリティ・マインド (社会的心理状態)」に大きく依存していることもあって, これらの観光資源の社会的キャリング・キャパシティが課題になって久しい。特に沖縄への入域観光客数は,「沖縄ブーム」の追い風を受けて, 復帰後の35年間に12倍, 県人口の4倍に達し, 予想以上のペースで成長していることから, 受け入れのキャパシティが問われている。沖縄県は今後10年間で, 一千万人 (県推計人口の7倍) の観光客受け入れを目論んでおり, 観光のもたらす経済効果と同時に, そのマイナス面も議論する時期にきている。果たして, 沖縄の自然環境, 生活インフラは, (水だけでも県民の3倍もの量を消費すると言われている) 一千万人の観光客を収容しうる環境容量があるかどうかが問われている。本論の目的は, 成長が持続する沖縄観光に焦点をあて, 島嶼観光の現実と課題, その持続可能性, キャリング・キャパシティについて, 利用可能なデータを駆使して検証する。特に沖縄観光のキャリング・キャパシティについて, 種々のアプローチを試みた。キャリング・キャパシティの制約要因の中で, 座間味村ですでに顕在化しているように, 水供給と環境汚染に加えて, 過度の財政支出が最も深刻な問題になることが考えられる。これらの問題を解決する手法も提示した。沖縄観光のキャリング・キャパシティについての測定は限定的ながらすでになされているが, しっかりした理論フレームの下での信頼できる膨大なデータ収集が要求されることから, 個人レベルでの研究には限界がある。ここで提示したデータとアプローチは, その初歩的な段階であり, 今後のフォローアップに期待したい。
越智, 正樹 Ochi, Masaki
事業の費用対効果への説明要求が厳しさを増し、また機械的ガイド等の技術革新も盛んな今日において、まち歩き観光はその継続発展のために、他の観光形態との弁別性と成果(特に社会的効果)の説明可能性を高めることが求められている。だが、そのいずれを説明するにおいても、十分に論理的な基準は構築されてこなかった。本論の目的はこのうち、まち歩き観光の弁別性について、ツアー内容の分析基準を掲示することにある。まち歩き観光およびツアーガイドに関する諸論考に依拠して本論は①市民参画、②ツアーリーダー性の先行、③語りの特有性、⑤まなざしの革新と回収、⑥歩くことの意識、の6つの分析基準を算出した。
編集委員
琉球大学観光科学科は、2005年度、国立大学法人の中で全国初となる、観光学を専門とする学科として設立された。すなわち、本学科は2014年度末をもって、設立10年という節目を迎えたことになる。また2014年度は、琉球大学と沖縄観光コンベンションビューローとの共催により、「地域観光人材育成セミナー」を執り行った。そこで、同セミナーの締めくくりたる総括シンポジウムを、学科10周年記念シンポジウムと合わせて、下記のとおり開催することになった。学科としてこの10年に成し得たこと、成し得なかったこと、また、これからの10年、さらにその先の将来に向けて進むべき方向性について、各分野の有識者にお集まりいただき、議論を行った。本誌はこのシンポジウムのうち、パネルディスカッションの記録を掲載するものである。
宇野, 功一 Uno, Kouiti
都市祭礼を中核とする経済構造を以下のように定義する。①祭礼の運営主体が祭礼に必要な資金を調達し、②ついでその資金を諸物品・技術・労働力・芸能の確保に支出して祭礼を準備、実施し、③祭礼が始まると、これを見物するために都市外部から来る観光客が手持ちの金銭を諸物品や宿泊場所の確保に支出する。以上の三つの段階ないし種類によってその都市を中心に多額の金銭が流通する。この構造を祭礼観光経済と呼ぶことにする。また、②に関係する商工業を祭礼産業、③に関係する商工業を観光産業と呼ぶことにする。本稿では近世と近代の博多祇園山笠を例にこの構造の具体像と歴史的変遷を分析した。近世においては、この祭礼の運営主体である個々の町が祭礼運営に必要な費用のほとんどを町内各家から集めた。そしてその費用のほとんどを博多内の祭礼産業に支出した。祭礼が始まると、博多外部から来る観光客が観光産業に金銭を支出した。博多は中世以来、各種の手工業が盛んな都市だった。このことが祭礼産業と観光産業の基盤となっていた。祭礼産業は祭礼収益を祭礼後の自家の日常の経営活動に利用したと考えられる。観光産業も観光収益を同様に扱ったと考えられる。一方、祭礼後の盂蘭盆会のさいには周辺農村の農民が博多の住民に大掛かりに物を売っていた。このような形で、博多の内部で、そして博多の内部と外部の間で、一年間に利潤が循環していた。近代の博多では商工業の近代化と大規模化が進まず、小規模な商工業者が引き続き多数を占めていた。そのため資本・生産・利潤の拡大を骨子とする近代資本主義にもとづく経済構造は脆弱だった。明治末期以来の慢性的な不況や都市空間の変容などさまざまな要因により、町々が祭礼費用を調達することは困難になっていった。しかし小規模な商工業者たちにとって祭礼収益や観光収益が年間の自家の収益全体に占める割合は高かった。この理由で、祭礼費用の調達に苦しみつつも、博多祇園山笠はかろうじて近代にも継続された。
高橋, 晋一 Takahashi, Shinichi
本稿の目的は,阿波踊りにおける「企業連」の誕生の経緯を阿波踊りの観光化の過程と関連づけながら検討することにある。とくに,阿波踊りの観光化が進み,現代の阿波踊りの基盤が作られるに至る大正期~戦後(昭和20年代)に注目して分析を行う。大正時代には,すでに工場などの職縁団体による連が存在していた。またこの頃から阿波踊りの観光化が始まり,阿波踊りを会社,商品等の宣伝に利用する動きが出てきた。昭和(戦前)に入ると阿波踊りの観光化が進み,観光客の増加,審査場の整備などを通して「見せる」祭りとしての性格が定着してくる。小規模な個人商店・工場などが踊りを通じて積極的に自店・自社PRを行うケースも出てきた。戦後になるとさらに阿波踊りの観光化・商品化が進み,祭りの規模も拡大。大規模な競演場の建設と踊り子の競演場への集中は,阿波踊りの「ステージ芸」化を促進した。祭りの肥大化にともない小規模商店・工場などの連が激減,その一方で地元の大会社(企業)・事業所の連が急激に勃興・増加し,競演場を主な舞台として「見せる」連(PR連)としての性格を強めていった。こうした連の多くは,企業PRを目的とした大規模連という点で基本的に現在の企業連につながる性格を有しており,この時期(昭和20年代)を企業連の誕生・萌芽期とみてよいと思われる。なお,阿波踊りの観光化がさらに進む高度経済成長期には,職縁連(職縁で結びついた連)の中心は地元有名企業から全国的な大企業へと移っていく。阿波踊りの観光化の進展とともに,職縁連は,個人商店や中小の会社,工場中心→県内の有力企業中心→県内外の大企業中心というように変化していく。こうした過程は,阿波踊りが市民主体のローカルな祭り(コミュニティ・イベント)から,県内,関西圏,さらには全国の観光客に「見せる」マス・イベントへと変容(肥大化)していくプロセスに対応していると言える。
桑原, 浩 Kuwahara, Hiroshi
本研究の目的は、桑原(2017)に引き続き、デスティネーション・マーケティングの視点から、観光客による地域特有の飲食店体験に注目した。具体的には、観光客による最上級の飲食店体験評価(地域飲食店ピーク体験度)を目標指標として設定したうえで、その目標に有意に影響する飲食店体験属性を検出し、それら属性の分析をもって各地域の飲食店体験の現在特徴と仮定する、という手法を提案した。そして、国内旅行市場における北海道と京都府の観光客データに適用した限りにおいて、地域飲食店ピーク体験度は両地域で同水準ながら、北海道旅行者のモデルで最も影響力のあった体験属性は「斬新な料理を食べた」であり、京都府旅行者のモデルでは、「店内が伝統的な雰囲気だった」であるという明確に特徴的な結果を得た。本手法は、多様な観光体験の中で、特に飲食体験を最も重視してプロモーション活動を行おうとするDMOs にとって、有効性を発揮する可能性が示唆された。
市野澤, 潤平
観光ダイビングは,近年マリン・レジャーとして人気が高まり,世界中に多数の愛好者がいる。海棲生物との出会いや海中での浮遊感を楽しむダイビングは,熱帯域のビーチリゾートでの観光活動の定番の一つとなっている。 しかしその一方で,人間が呼吸することができない水中に長時間とどまることから,スクーバ・ダイビングは本質的に危険な活動である。スクーバ・ダイビングは,窒息死を始めとする,様々な身体的リスクの源泉でもある。 本稿は,観光ダイビングを,かつては人間が滞在することの能わなかった水中という異世界へと進出する活動として捉える。観光ダイビングの実践においては,水中での人間の身体能力の限界を補うために,多様なテクノロジーを活用して事実上の身体能力の増強がなされている。本稿は,そうした各種テクノロジーのなかでもとりわけ,水中滞在時間と深度を計測して減圧症リスクを計算する技術/機器としてのダイブ・コンピュータに着目して,その導入と普及によって成立しているダイバーにおける独特なリスク認知の様相を,明らかにする。
飯島, 祥二 桑原, 浩 金城, 盛彦 Iijima, Shoji Kuwahra, Hiroshi Kinjo, Morihiko
本講演会は,株式会社OTS サービス経営研究所と,琉球大学大学院観光科学研究科が共同で設置した, 「沖縄DMO セミナー in 沖縄実行委員会」の主催で企画されました。その趣旨は,2017 年に入域観光客 数が939 万人となり,目標だったハワイの観光客数を初めて上回ったものの,平均滞在時間や消費額 では依然として及んでいません。また,観光の急速な拡大により浮き彫りになる様々な問題や課題を解 決する上で中心的役割を果たす組織として近年,益々注目を集める「DMO(Destination Management Organization)」について,国内外で活躍する米国の州立セントラルフロリダ大学の原忠之准教授,お よび首都大学東京清水哲夫教授のお二人の識者をお招きし,事例をまじえそこで必要とされる人材と機 能について,お話をうかがう予定でした。しかし,開催日の9 月28 日(金)に沖縄地方が台風28 号 の直撃を受け,多数の事前参加希望者の登録があったにもかかわらず,中止となってしまいました。  そこで,少しでも講演会に代わり得るものとして,ここでは,両識者より事前に預かっていた同日の 講演資料を提示させて頂きたいと思います。
山本, 光正 Yamamoto, Mitsumasa
本稿は明治から大正にかけての東京の観光及び東京人の行楽について考察したものである。東京は江戸の時代から現代に至るまで、観光地しての側面を持ち、多くの人々が訪れているが、ここでは、観光地東京を考察するための主たる資料として、東京の案内書を利用した。明治期の東京の案内書出版には何回かの波があった。最初は明治四年における大区小区制の実施、ついで同十一年における郡区町村制に伴う東京の一五区六郡改変時、そしてもっとも多くの案内書が出版されたとみられるのが、二十二年の東海道線の開通と翌二十三年の第三回内国勧業博覧会である。明治四十年には東京勧業博覧会が開催されるが、この時東京市は大冊の『東京案内』上下二冊と、携行用の『東京遊覧案内』を出版している。なお前者は近代東京の地誌として現在も高く評価されている。以上の案内書の出版時期と一時的に多くの観光客が訪れた時期とほぼ合致しているようだが、明治も後期になると一週間前後東京に滞在する観光客が増加した。それは地方から東京に定住した親類や、下宿した子供のところに泊まるようになったためである。さらに東海道線の開通により東京以西からの観光客も増加したであろう。明治三十年代後半からは東京住民のための行楽案内が出版されるようになった。近世以来の行楽地は近代にも利用されたが、市街地の発展により「情緒」のないものとなり、地方からの定住者も新たな行楽地を求めだした。こうした時期に国木田独歩の『武蔵野』が発表され、大町桂月は『東京遊行記』を著している。大正期に入り田山花袋が『東京の近郊』『一日の行楽』を出版するに及んで、現在の中央線・京王線を中心とした東京西部が「武蔵野」として注目され、行楽地として発展していった。江戸の文人墨客が作り上げた行楽地に対抗するように、新しい知識人が行楽地を作り上げていったわけである。
内田, 順子 Uchida, Junko
基幹研究「地域開発における文化の保存と利用」におけるアイヌ文化に関する研究成果は,2013(平成25)年3月19日にリニューアルオープンした第4展示室(民俗)に反映されている。新しい民俗展示室におけるアイヌ文化についての展示は「アイヌ民族の伝統と現在」というテーマ名をもち,「現代のアイヌアート」と「資源の利用と文化の伝承」というふたつのテーマから構成されている。この展示のベースには,「文化の資源化」,すなわち,アイヌの人たちが,観光や大規模開発などをきっかけとして,どのように自身の文化を対象化し,継承すべき資源として見いだしてきたのか,という問題がある。本稿では,観光を契機とした文化の資源化の観点から,展示で紹介している白老および二風谷を事例として検討するものである。白老は,近代以降のアイヌ観光の中心地のひとつであり,和人によるアイヌ観光の問題が顕著に現れた地域でもある。アイヌ民族博物館(1984年設立)は,アイヌ自身が調査・研究をし,調査・研究したことを自ら実践するという体制を確立した。だからといって,観光の場に特有の,観る側と見られる側の非対称な構造がなくなったわけではない。そのような構造においても,アイヌ民族博物館の職員は,観光客に一方的に消費される対象から「見せる主体」へと立ち位置を変えようとする姿勢をもち,それに基づく実践を,日々の業務の中でおこなっている。二風谷については,二風谷における観光と工芸品制作の関係を確認した上で,現在の二風谷の代表的木彫家である貝澤徹氏のアイデンティティの変化について記述した。二風谷は,昭和30年代の民芸品ブームとその後の観光客の増加をきっかけとして,民芸品生産を生業のベースにした地域へと移行した。貝澤徹氏は,そのような状況のなかで自ずと木彫の道に入ったが,当初はアイヌの伝統的な木彫には抵抗があったという。その後しだいに伝統文化を受け入れ,自身がつくる作品を「美術的にも評価される作品」へと昇華させようとするところへと変化した。アイヌ民族が制作する木彫品を「工芸品」と呼ぶか,「民芸品」と呼ぶか,「美術」と呼ぶか,それは視線の制度の問題でもある。貝澤氏の実践は,従来「工芸品」「民芸品」と呼ばれることが多かったアイヌの木彫品に対する視線への問いかけでもある。アイヌ民族博物館や貝澤徹氏の営みの細部には,アイヌ民族とはなにか,アイヌ文化とは何か,という問いに対して,考えることなく一方的に答えを限定してしまうような構造への思考を可能にするものが含まれている。
王, 怡人 大津, 正和 地頭所, 里紗 張, 瑋容 竹村, 正明
本稿は2023 年にDMO を対象に実施した実態調査の結果をまとめたものである。目的は,DMO の組織特性, 観光資源の豊富さという地域特性,そして観光振興に関連する様々な取組への積極性といった3 つの変数間の関係 を明らかにすることである。なお,DMO の組織特性について本調査では,組織の種別や常勤職員数の他,意思決定 の様式など多次元的に検討した。
宮内, 久光 Miyauchi, Hisamitsu
1990年代に入り、沖縄県では新しい観光形態の一つであるエコツーリズムが導入された。本稿では、まず先例研究の定義例から、エコツーリズムの目的、対象地(目的地)、環境に対する責任の3点から考察した。次に、沖縄県におけるエコツーリズムの導入と現状について、行政の取り組みとエコツーリズム協会の設立を紹介した。2002年の段階では、離島市町村の行政レベルでエコツーリズムの取り組みはあまり行われていないが、今後、沖縄振興策の具体的政策としてエコツーリズムが県内各地に導入されることが予想された。最後に、エコツーリズムに基づく観光の先進地である竹富町西表島で、住民にその評価を尋ねたところ、エコツーリズムは自然環境の保全や、観光業の発展には弱い正の評価が認められた。しかし、雇用や所得の増加など、経済的な効果にはあまり貢献をしていないと認識されていた。
青木, 隆浩 Aoki, Takahiro
本稿は,五箇由と白川郷に計3ヶ所の世界遺産登録地域を有する庄川流域を事例として,観光化の進展によって忘れられていった開発の歴史と研究史をあらためて見直し,かつての山村生活の様子を思い起こす試みをおこなったものである。現在の五箇山と白川郷においては,世界遺産に登録された相倉集落,菅沼集落,荻町集落の合掌造り民家ばかりが注目されているが,かつては庄川流域一帯で同様の民家に住み,焼畑や養蚕を中心とした生活を営んでいた。それが,1920年代からのダム開発とそれに伴う道路改良事業によって合掌造りの屋根を下ろす民家が急増し,その一方で生活水準の格差が拡大して,離村・廃村が相次いだ。また,研究上においても,1900年頃から合掌造り民家の起源に注目が集まっており,その後,ダム開発に対する住民の対応や生活様式の変化に関心が移っていった。ダム開発は,庄川流域の集落を農業主体の生活から土木建設業や商業,サービス業中心の生活へと変えていき,さらに第二次世界大戦後から本格化した合掌造り民家の文化財保護や,1970年における相倉集落と菅沼集落の史跡指定は観光化を促進させた。そして,研究上の関心も合掌造り集落の景観保護や観光化の影響へと移行したため,かつての山村生活は忘れられていった。しかし,そのことは観光化以前の生活を経験してきた世代に違和感を抱かせる要因となっている。
高倉, 健一
麗江古城は、少数民族・納西族の中心的な都市として約800年の歴史を持つ古都である。改革・開放政策以降、他の文化的特色を持つ都市と同様に文化資源を利用した観光開発が進められ、1997年には麗江古城の街並みが世界文化遺産に登録された。その結果、麗江古城は国内外から年間数百万人の観光客が訪れるなど観光開発による経済発展は成功したが、観光地化による生活環境の変化などによって観光開発が進められる以前から麗江古城内に住んでいた人々の多くが近隣地域に流出し、その民居を外部から来た商売人が宿泊施設や土産物屋などに改装して商売をおこなうようになった。そのため、これまで麗江古城に住んできた人々によって継承されてきた生活文化の存続が危ぶまれる状況となっている。 麗江古城のような、現在も人が居住する建物や街並みそのものが登録対象となっている文化遺産は、これまでそこに住んできた人々の生活文化によってその文化形態が形成されてきた面が大きい。また、そこに住む人々が生活の中で日々利用していることから、生活文化の変化に合わせてその形態が変容することもよくみられる事象であり、その特徴から「生きている文化遺産」とも呼ばれる。このような特徴を持つ文化遺産の保護には、生活文化が文化遺産に与える影響を考慮したうえでの保護活動が必要となる。 本稿は、生きている文化遺産の保護と活用の両立には、文化遺産に携わる住民自身が自分たちの利益や生活のために自律的に文化遺産を利用することができる環境を整えることが重要という考えについて論じる。また、時代の変化などに応じて住民の定義について再考することの必要性についても検討する。
越智, 正樹 Ochi, Masaki
本論の目的は、「農的自然」という新たな概念の必要性と可能性について、観光的現象を手がかりとして指摘することである。議論は、観光立県を標榜する沖縄県において、都市とも農村とも言いがたい地域が広がる本島中部地方の、あまり注目されていない2事例を紹介しながら展開する。まず中城村のNPOによる民泊事業の事例からは、観光的現象との接続において二次的自然の再-序列化が生じていること、都市圏の鄙における実践をすくい取るためには農村的自然と等値でないものとして「農的自然」概念を設定する必要があること、を指摘する。次に宜野湾市大山の田イモ水田域の事例からは、都市圏の広大な栽培湿地塊の衰滅を遵けるため、「緑地」「公園」としての客体化はもはや不可避だとしても、生産活動とかかわる自然性は緑地等と異なるものとして分節化しておくべきであること、そのために「農的自然」概念が必要であることを指摘する。以上の議論を踏まえて本論は、「農的自然」概念を広義と狭義に分け、農村的自然との関係性も内包した整理を行う。その上で最後に、「農的自然」の公益性と可能性について論及する。
越智, 正樹 Ochi, Masaki
今日、全国の様々な観光現象において、非観光業者である住民が参画して個性的な魅力を発揮することが奨励されている。一方で、素人による個性の発揮はトラプルの発生にも繋がりやすく、平準化に向けた規制等が発動される例もある。このような平準化の流れの中で、非観光業者ならではの個性発揮はどのように維持あるいは変質されるものなのだろうか。本論はこの問いについて、沖縄県の教育旅行民泊を対象とし、民泊受入団体と旅行社とがその個性的価値をどのように認識しているか、またその価値がいかに(非)伝達・共有されているか、さらに受入団体側の自己規範化がいかに行われているか、の分析を通じて考察した。結果として、個性的価値が不明瞭なまま措かれている事柄は、価値仲介者(旅行社)との意思疎通の不足が拍車をかけて、その価値を担う主体(受入団体)自らによって平準化が優先され、その価値は矮小化の恐れに晒されていると言わざるを得なかった。これを避けるためには、受入団体側と旅行社側との協働による価値の言語化が必要であり、これを実現するためには第3者がリーダーシップを発揮するしかないことが指摘される。
下地, 敏洋 Shimoji, Toshihiro
本事例報告は、観光産業科学部の提供科目である「長寿の科学」において、著者が担当した「老年学への招待-サクセスフル・エイジングを通して-」の講義内容に基づくものである。
大角, 玉樹 Osumi, Tamaki
観光産業科学部では、早期キャリア教育の一環としての東京派遣プログラム、かりゆし人財育成基金を活用したハワイ研修、シンガポール研修、および国内研修等、数多くの充実した研修プログラムを実施している。しかしながら、就労しながら学んでいる社会人学生にとっては、研修期間が長すぎることがネックとなっており、比較的短期間で設計された社会人学生向けの研修プログラムの開催を望む声が多く出されていた。産業経営学科は夜間主コースを提供しており、社会人学生も多く学んでいることから、これまで社会人特別経費を活用して、ITやサービス分野の第一線で活躍する講師陣を招聘した産学官連携講座や特別セミナーを実施してきた。しかしながら、夜間の時間帯や土曜日を利用した講義運営が難しいことと、県外ないしは海外での特別研修を希望する声が強いことを受け、本年度は試行として、北海道での研修を実施することとなった。北海道も沖縄同様、観光に力を入れており、産業振興のための産学官連携も数多くみられ、社会人学生が政策の調査、比較検討を行う場として適した環境にある。周知のとおり、沖縄県民は北の地の雪に憧れ、北海道民は冬に南国沖縄の暖かさを夢見ると言われている。いわばお互いが憧れの地の一つでもある。また、北海道は、「食と観光」に関連する政策にも力を入れており、沖縄との連携による新製品開発、販路拡大や物流経路の拡大などの可能性も広がっている。観光と経営を学んでいる学生にとっては、今後の政策を身近に考える格好の教材ともいえるロケーションである。本稿では、今回の研修の目的、内容、及び現地での活動と参加者のアンケートを整理し、政策課題でもある交流産業創出と産学連携によるイノベーションを促進するための社会人学生研修プログラム・デザインに向けた課題と方向性を議論している。
柴崎, 茂光 Shibasaki, Shigemitsu
本報告では,鹿児島県屋久島で行われているエコツーリズム業が地域社会に及ぼす経済的影響を,西暦2000年前後に焦点を絞って,需要側(観光客側)・供給側(エコツーリズム業従業者側)双方の視点から明らかにした。屋久島を訪問する年間約20万人程度の観光客のうち,19-21%に当たる約34,000-38,000人が,屋久島滞在中にエコツアーを利用していた(2001-2002年)。またエコツアーを利用した観光客の過半数(57-60%)が,パッケージツアー(以下,パック旅行)を利用しており,エコツーリズム業とパック旅行の関係が密接であることが判明した。エコツーリズム業の経営構造を分析した所,費用の約50%は労務費が占めていた。その一方,減価償却費は旅館業やボーリング場経営に比べ小さい金額・比率にとどまっており,開業に必要な投資額が莫大でないことが示唆された。損益分岐点分析を行ったところ,売上高は損益分岐点売上高を上回り,また損益分岐点比率もホテル業などよりも小さい値であるため,経営環境は良好であると推測された。屋久島のエコツーリズム業の売上高は,年間5億1,000万-5億7,000万円と推定された。エコツアー業の経営環境は良好である一方で,山岳地域への環境負荷も増大させてきた。こうした状況に対して公的機関を中心に,荒川登山バス(シャトルバス制度),様々な対策を導入してきたものの,抜本的な解決には至っていない。
王, 怡人 大津, 正和 地頭所, 里紗 張, 瑋容 竹村, 正明 青谷, 実知代
国内DMO の実態調査と4 つの地域に対する日本人観光者の満足度調査の結果をまとめ,日本版DMO の取り組みについて批判的に検討することが本稿の目的である。検討するに当たって,本稿はコンティンジェンシー理論と資源アプリケーション・マトリックスの分析フレームを引用した。
山本, 理佳 Yamamoto, Rika
本稿で取り上げる大和ミュージアム(広島県呉市)は,正式名称が「呉市海事歴史科学館」であり,呉市を設立主体とする博物館である。呉における戦前から戦後に至る船舶製造技術を主たる展示内容としているが,愛称の「大和ミュージアム」が示すように,旧日本海軍の超大型軍艦「大和」の建造およびその軍事活動が展示の中心となっている。こうした特徴から,大和ミュージアムは少なからぬ物議を醸しつつ,2005(平成17)年4月23日に開館した。ただし,多くの関係者の予想を大きく裏切り,大和ミュージアムは極めて多くの入館者を集め,開館後約8年を迎えた2013(平成25)年3月17日,累計入館者数が800万人に達した。通常の地方の歴史博物館の年間入館者数が数万人という規模であることからも,その極度の人気ぶりがうかがえる。この博物館は,その人気ぶりから呉市やその周辺の観光・地域戦略を大きく変化させている。本稿では,そうした大和ミュージアム開館を契機とする呉市周辺の観光・地域戦略の変化について明らかにするものである。
阿南, 透
本稿は,高度成長期における都市祭礼の変化を,地域社会との関係に注目しながら比較し,変化の特徴を明らかにするものである。具体的には,青森ねぶた祭(青森県青森市),野田七夕まつり(千葉県野田市),となみ夜高まつり(富山県砺波市)を例とする。青森ねぶた祭では,1960年代に地域ねぶたが減少するが,1970年代には公共団体や全国企業が加わって台数が増加し,観光化が進んだ。そして各地への遠征や文化財指定へとつながった。野田七夕まつりなどの都市部の七夕まつりは,1951〜1955年に各地の商店街に普及するが,1965〜1970年頃に中止が目立った。野田でも1972年にパレードを導入し,市民祭に近づけることで存続を図った。となみ夜高まつりなど富山県の「喧嘩祭」は,1960年頃に警察やPTAなどから批判されて中断し,60年代後半に復活した。このように,高度成長期前期には,どの祭礼にも衰退や中断,重要な変更がみられた。一方,後期には,祭礼が復興し発展したことが明らかになった。変化の要因として,前期の衰退には,経済効率第一の風潮のほか,新生活運動も関与していた可能性がある。後期の復興には,石油ショック以後の安定成長期の「文化の時代」に,祭礼が文化として扱われ,文化財指定を受ける「文化化」,祭礼が観光資源になる「観光化」,行政などが予算を立案し,業務として運営する「組織化」,さらに事故のない祭礼を目指す「健全化」などの特徴が見られる。
Murphy, Patrick D. マーフィー, パトリック D.
世界的な石油生産のピーク到来という観点から、沖縄は昨今の経済発展の方向性について再考する必要がある。エネルギーの価格高騰が沖縄の経済に打撃を与えることが予想される中、沖縄は安価な交通手段に支えられる観光産業とは異なる、新たな経済的手段を模索しなくてはならないだろう。液体燃料や石炭などの固形燃料の運搬コストが高騰しているため、電気エネルギーの生産は、化石燃料への依存から脱却する必要がある。また、海水の淡水化も影響を受けるため、観光産業に十分な量の水の供給能力にも問題が生じる可能性がある。ピークオイルと気候変動の衝撃は互いに不可分な合併要素として経済組織に衝撃を与えることなど、沖縄は、エネルギー生産と生活基盤の危機という観点からも、気候変動の危険性について指摘する必要がある。いずれの場合においても、持続可能性が最も重要な指針となることは言うまでもない。
市野澤, 潤平
2004 年12 月26 日,スマトラ沖地震によって引き起こされた大津波に襲われた世界的に著名な観光地であるプーケットは,深刻な観光客の減少に苦しむこととなった。本稿は,風評災害に見舞われた人々の経験を,リスクという視座において考察する。M. ダグラスらによる「リスクの文化理論」は,リスクを社会的構築物として提示した点で大きな影響力を発揮したが,人々による危機への対応が生み出す社会の動態性を,充分には考慮していない。そこで本稿は,社会(文化)がリスク認識を規定するという「リスクの文化理論」の前提を継承しつつ,N. ルーマンによる「危険/リスク」の弁別を導入することによって,「危険のリスク化」という視座を提案する。「危険のリスク化」とは,危機に直面した個人の認識および行動の両面における継時的な運動である。その視座において本稿は,津波後のプーケット在住者によるリスクへの認識と対応は,事態の変化に対する反応である一方で,自らが身を置く社会環境と人間関係のネットワークの有り様を更新していく運動でもあったという事実を,浮き彫りにする。
国際日本文化研究センター, 資料課資料利用係
京都東部に位置する岡崎。美術館・図書館・動物園・平安神宮など、さまざまな文化施設や観光名所があり、いつも賑わいを見せています。1895(明治28)年の第4回内国勧業博覧会以来、徐々に開発が進んで現在の形へと近づいていきます。古地図と絵はがきでその歴史をたどります。
門田, 岳久 Kadota, Takehisa
本論文は消費の民俗学的研究の観点から、沖縄県南部に位置する斎場御嶽の観光地化、「聖性」の商品化の動態を民族誌的に論じたものである。二〇〇〇(平成一二)年に世界遺産登録されたこの御嶽は、近年急激な訪問者の増加と域内の荒廃が指摘されており、入場制限や管理強化が進んでいるが、関係主体の増加によって御嶽への意味づけや関わり方もまた錯綜している。例えば現場管理者側は琉球王国に繋がる沖縄の信仰上の中心性をこの御嶽に象徴させようとする一方、訪問者は従来の門中や地域住民、民間宗教者に加え、国内外の観光客、修学旅行客、現場管理者の言うところの「スピリチュアルな人」など、極めて多様化しており、それぞれがそれぞれの仕方で「聖」を消費する多元的な状況になっている。メディアにおける聖地表象の影響を多分に受け、非伝統的な文脈で「聖」を体験しようとする「スピリチュアルな人」という、いわゆるポスト世俗化社会を象徴するような新たなカテゴリーの出現は、従来のように「観光か信仰か」という単純な二分法では解釈できない様々な状況を引き起こす。例えばある時期以来斎場御嶽に入るには二〇〇円を支払うことが必要となり、「拝みの人」は申請に基づいて半額にする策が採られたが、新たなカテゴリーの人々をどう識別するかは現場管理者の難題であるとともに、この二〇〇円という金額が何に対する対価なのかという問いを突きつける。古典的な枠組みにおいて消費の民俗学的研究は、伝統社会における生活必需品の交易と日常での使い方に関してもっぱら議論されてきたため、情報と産業によって欲求を喚起されるような高度消費社会的な消費実践にはほとんど未対応の分野であったと言える。しかし斎場御嶽に明らかなように、信仰・儀礼を含む既存の民俗学的対象のあらゆる領域が「商品」という形式を介して人々に経験される時代において、伝統社会から「離床」した経済現象としてこれを扱うことは、現代民俗学の重要な課題となっている。
高, 茜
中国雲南省の納西族は古くから漢文化を受容してきたことで知られている。文化的および経済的に漢民族から大きな影響を受け,中央からみて周辺民族より進んだいわゆる現代文明を享受してきた少数民族とされている。東巴教は,この納西族に古くから伝わる民族宗教であり,その宗教祭司が用いてきたのが東巴文字である。しかし納西族にとって東巴教および東巴文字に対する思いは,時代とともに変わってきた。とくに1990 年代以降における観光業の発展は,納西族と東巴文字の間にもっとも大きな変革をもたらすこととなった。本稿は,麗江納西族と東巴文字の関係について,とくに東巴文字の伝承活動に注目しながら,その変遷を叙述するとともに,変化の要因となる社会的背景を明らかにしようとするものである。 この民族文化としての東巴文化の伝承活動は,中国のほかの少数民族と同様に,中国の少数民族政策と大きく関わっていることは言うまでもない。しかし,東巴文字およびそれを用いる納西族がおかれている言語的状況は,他の多くの少数民族と比較しても特異なものである。例えば,東巴文字の伝承活動を考察する上で,その宗教的性格や改革開放以後におけるこの地域の観光業の発展などとの深い関係は,中国の少数民族一般に対する言語政策とは同列にして論じる事はできないと考えられる。 そこで本論文では,文化大革命以前における東巴文字の歴史的盛衰,改革開放以降における東巴文字の研究および保護の進展,1990 年代以降における東巴文化に対する政策転換,などを時代背景に即して概観し,現在の東巴文字の伝承活動の状況や課題についても論じたい。本来,宗教祭司だけのものであった東巴文字は,現在,観光業を通して麗江納西族の日常生活と深く結びつき,多様な社会的需要に応じて麗江各地で伝承活動が行われている。このような伝承活動は,伝統的な目的や方法とは大きく異なるものであり,今では学校教育にまで導入されつつある。いまだ十分に定着してはいないものの,伝承活動が推進されるなかで,東巴文字が納西族の新たなアイデンティティー形成に影響を与えつつあるといえよう。
大角, 玉樹 Osumi, Tamaki
本稿では、沖縄感染症研究拠点形成促進事業の一環として実施されているイノベーション・エコシステム形成に向けた研究を紹介し、政策提言に向けた分析を行う。地球温暖化、グローバル化、ヒトやモノの移動の急増により、感染症のリスクが急増しており、実効性の高い政策が求められている。沖縄も、観光客と物流の急増を受けて、感染症対策が急務であり、内外の研究機関や公的機関と連携をとりながら研究開発とネットワーク形成を推進しており、将来的には持続的なイノベーションを創出する感染症研究拠点形成も予定されている。本稿では、その実現に向けたCSV モデルと今後の政策的課題を提示する。
新本, 光孝 砂川, 季昭 Aramoto, Mitsunori Sunakawa, Sueaki
1.本研究は西表島における観光開発の基本的な方法を明らかにするためにおこなったものである。2.今回は, 西表島の概況, レクリェーション利用者の分析, 森林保護の状況などについて述べた。この研究調査をおこなうにあたり, 貴重な文献のご送付やご助言をいただいた日本林業技術協会指導部長島俊夫氏, 熊本営林局計画課長有村洋氏, 沖縄営林署長羽賀正雄氏ならびに調査にご協力をいただいた祖納担当区宮内泰人氏, 上原担当区金城誠俊氏, 琉球大学熱帯農研新城健氏, 神里良和氏, 新本肇氏, 祖納部落の那根団氏に対し深謝の意を表する次第である。
山本, 芳美
本論は、19世紀後半から20世紀初頭における外国旅行者による日本でのイレズミ施術について取り上げる。この時代は、日本においてイレズミに対する法的規制が強化され、警察により取り締まられた時代でもある。しかし、法的規制が課せられた時代においても、日本人対象の施術がひそかに続けられていた。一方、同時期は欧米を中心にイレズミが流行した時期でもある。日本人彫師たちは、長崎、神戸、横浜ばかりでなく、香港、アジア各地の国際港に集まって仕事をしていた。状況を総合すると、日本国内の施術では、外国人客にとっては「受け皿」、彫師にとっては「抜け道」が形成されていたことが強く示唆される。つまりは、日本ならではの観光体験メニューとして、イレズミ体験が存在していたと考えられるのである。 本稿では、こうした視点から、外国人観光客と彫師、それを仲介する人々や場を歴史人類学的に分析する。1870年代以降から1948年までの日本のイレズミと規制についての概略をしめしたうえで、1881(明治14)年に英国二皇孫であるアルベルト・ヴィクトルおよびジョージが来日に際して政府高官に示した施術の希望にどのように対応したのかについて検討する。そして、この二人の施術が、外国人客たちが施術を受ける誘因となった可能性を指摘する。その上で、横浜で活動した彫師、彫千代を例に、日本のイレズミがどのように評価され、どの程度の日数でどのように彫られていたのかを整理する。客の誘致が旅行案内書やホテルのメニューなどの広告でどのようにおこなわれ、どのような勧誘者が関わっていたのかを論じる。 日本みやげのイレズミについての記述は英米圏の新聞、雑誌などに多く残っており、先行研究は英米圏が中心であった。日本人にとってはイレズミが禁止されていた時代でもあり、外国人向けの施術に関する国内外の資料は多くはないが、近年、雑誌や新聞記事のデジタル化が進んだことにより新たな資料が見つかっている。本論ではいくつかの新資料を提示しつつ、論を進めている。
古谷, 嘉章
グァテマラの観光地のひとつアティトラソ湖地方の2つのマヤ系のコミュニティーは,「マヤの伝統的生活」を描くインディヘナの油彩画家の存在によって知られている。本稿は,彼らの絵画の生産・流通・消費のプロセスを,「インディヘナ芸術」と「インディヘナ文化」をめぐる「交渉」(negotiation)の場として分析する。そこでは,「インディヘナ画家」として「インディヘナ絵画」を制作・販売することを余儀なくされている彼らが,一方で,西洋近代的な芸術=文化システムによる「芸術(家)」としての認知を求めつつ,他方で,そのようなかたちで理解=消化されてしまわない差異を生産している点について,同様に「コンタクトゾーン」で絵画を生産している他の事例をも参照して考察する。
森, 誠一 Mori, Seiichi
メコン川流域における魚類相とその特徴を文献から整理し、生物多様性への人為的影響に関する資料収集をおこなった。ダム構造物とその管理実態は、生物に生息にとって負荷的影響が一般に考えられ、ナムグム・ダム湖面の観光利用やアフリカから移入されたティラピアの粗放的養殖場を含めた視察をおこなった。ナムグム・ダム周辺および近隣の粗放的水田地帯(湿地)や湖沼における魚類相の把握を、文献や現地取材によっておこなった。ダム構造物による水文的変化、外来魚の養殖と拡散、日常生活における食利用や遊興としての魚取りといった3つの様相が、生物多様性に与える影響としてどのような質的差異があり、それぞれがどの程度に有効であるのかを解析するための資料を得た。
大角, 玉樹 Osumi, Tamaki
平成22年2月25日に大学設置基準等が改正され、教育課程内外を通じた「社会的・職業的自立に向けた指導等(キャリアガイダンス)」の制度化が行なわれ、平成23年4月1日から施行された。これを受けて、平成22年度に文部科学省「大学生の就業力支援事業」がスタートした。これは、近年の長引く不況と雇用環境の悪化を背景に、大学が産業界等との連携による実学的専門教育を含む、学生の卒業後の社会的・職業的自立に向けた取組に対する国の支援事業であり、全国で180校が採択された。一般に、GP(GoodPractice)と称される、大学教育改革の優れた取組を支援する事業である。時代や経済・社会が大きく変化しているにも関わらず、大学教育は旧態依然としていて、社会や学生のニーズから大きく乖離しているという批判はよく耳にするところである。中でも、大学を卒業しても就職できない、あるいは就職してもすぐに離職してしまうという現実は、大学教育の抜本的な変革を迫っていると言える。このような状況の中で、企業や社会が求める人材像も大きく変化し、大学に対しても、学士としての資質はもちろんのこと、卒業後も自らの未来を自分自身で切り拓いていくことのできる能力が身に付く教育を実践してほしいというニーズが高まった。つまり、四年間の教育課程の中で、就業力が確実に習得できるようなカリキュラムやプログラムを策定し、学内・学外の有機的な連携を深めることによって、それらを実施することが、これからの大学に課せられた新たな役割となったのである。この改革を推進するために、文部科学省は大学設置基準等を改正し、社会的・職業的自立に向けたキャリアガイダンスを制度化し、その支援のために、「大学生の就業力育成支援事業」の公募が行われ、本学の観光産業科学部の事業案も採択された。本稿では、観光産業科学部が就業力育成事業に応募するに至った経緯および事業内容を紹介し、今後に向けた課題を整理している。
阿南, 透 Anami, Toru
本論文は、青森市で毎年八月二日から七日まで開催される「青森ねぶた祭」を取り上げ、それが現在のような大規模な都市祭礼になっていった過程を考察する。現在の青森ねぶた祭は、巨大な人形型の燈籠、囃子、ハネトと呼ばれる踊子、この三つのセットで構成された集団が合同で運行する行事である。国の重要無形民俗文化財に指定されているものの、特定社寺と結びついた宗教行事ではなく、起源や由来も定かではない。ねぶたに類する行事は青森県内をはじめ東日本各地に見られ、青森市のねぶたも戦前まではそうした各地の行事と大差ないものであった。現在のような様式が成立したのは戦後のことと考えられる。本論文は、その成立過程とその後の変容を、ねぶた本体(燈籠)、祭りの組織、運行形態の三点から明らかにする。まずねぶた本体は、道路幅や歩道橋の高さといった、青森市街地の形状により大きさの上限が決まり、ねぶた師と呼ばれる制作者の創意工夫で一九七二年頃に現在の様式が確立した。次に祭りの組織については、経費の高額化に伴い、ねぶたを運行する団体が地域から行政・企業へ移行し、主催者と対等の発言権を有するに至った。そして運行形態については、有料観覧席の設置など観光客対策、国道の使用時間制限、さらには急増するハネトとその逸脱行為が、運行コースや運行台数を規定した。このような戦後の変化は五つの時期に区分できる。すなわち、一九四七年の本格復活から六一年までの第一期は、戦争による中断からの復興の時期である。一九六二年から六七年までの第二期は、観光化の開始と大型化の時期である。そして一九六八年から七九年の第三期に、青森ねぶた祭が確立し、一つのピークを迎える。一九八〇年から九六年の第四期は、若者の逸脱行為が目立ち始める転換期である。そして一九九六年の暴力事件をきっかけとして、一九九七年からの第五期は、逸脱行為への対応に追われる変容期に入り、現在も試行錯誤が続いているのである。
朝岡, 康二 Asaoka, Koji
本稿はスペイン・バルセロナにおける公的な博物館群の社会的な位置付けやその表象機能を紹介するとともに,これらの博物館群のひとつを構成するバルセロナ民族学博物館の特徴を示し,同時に,そこに収蔵されている日本関係コレクションの持つ意味の検討を行ったものである。同博物館の日本関係コレクションは,収集を行ったエウドラド・セラ・グエルの名を借りて,ここでは仮に「セラ・コレクション」と称することにする。同コレクションは決して古いものではなく,1960年代のいわゆる民芸ブームの中で収集された民芸品(あるいは観光記念品)であり,美術的な価値という点から評価するならば,貴重であるとは,必ずしも言い難いものである。しかし,見方を変えるならば,戦後の観光文化(なかでも地方都市の文化表象としての)を具体的に示すものとして興味深い資料であるし,また,当時のヨーロッパの一般的な観点からの「日本文化」であると言う点から言えば,また別の意味を導き出すことができる。近年のヨーロッパにおける大衆的な日本ブームと繋がるものだからである。さらに,このコレクションを集めた意図・過程・集めた人物などを検証していくと,その成立の背後に戦後のバルセロナのブルジュワと芸術家の集団があることがわかり,その持つ意味を知ることができるし,あるいは,明治・大正・昭和に跨るヨーロッパと日本を繋ぐ複雑な人的関係の一端も明らかにすることができる。そのキーパーソンがエウドラド・セラ・グエルなのである。本稿においてこれらの諸点が充分に解明されたというわけではない。いわば手掛かりを得たに過ぎないのであるが,それでも,次の点を知ることができた。それは,バルセロナにおけるセラを中心とする広範な人的関係に加えて,セラと日本を結ぶ(したがって,「セラ・コレクション」の背景となる)人的関係に,住友財閥の二代目総理事であった伊庭貞剛の一族がおり,「セラ・コレクション」はこの一族の広範な海外交渉史の一面を示すものでもある,ということである。
阮, 雲星
浙江省杭州市に位置する西湖は、古代より多くの詩人や文人などが愛した風光明媚な地として知られ、現在は観光名勝地として注目されている。「杭州西湖の文化的景観」はその美しさから世界的に高く評価され、2011年6 月24日にパリで開かれた第35回の世界遺産委員会で『世界遺産名簿』に登録された。本稿は、この「杭州西湖の文化的景観」を研究対象に、現代における文化遺産保護の登録と保護活動をめぐる市民の参与について考察する。まず、ユネスコの世界遺産となった「杭州西湖の文化的景観」を紹介し、次に市民の文化的自覚、都市の文化遺産保護、および世界遺産の申請登録との関係性について論じる。最後に、世界遺産登録後に生じた杭州の地方政府と市民による遺産保護活動、並びに彼らが直面している課題を提示する。
新本, 光孝 砂川, 季昭 山盛, 直 Aramoto, Mitsunori Sunakawa, Sueaki Yamamori, Naoshi
本研究は, 西表島における観光および森林レクリェーション開発の基本的な方法を明らかにするためにおこなったものである。今回は, レクリェーション・エリアの森林植生の特徴について報告した。その結果を要約するとつぎのとおりである。1.西表島の森林植生は, 熱帯林と亜熱帯林とに大別される。さらに熱帯林はマングローブ林, 海岸乾性林, 熱帯広葉樹林にわけられる。2.森林レクリェーション・エリアの低平地および河川の流域は, 熱帯林でおおわれ, 丘陵地および山の中腹以上は亜熱帯林を構成している。3.このように, 樹種構成の多様性, 複層的構成および標高位置における植生の変化などが西表島における森林レクリェーション・エリアの大きな特徴である。4.さらに, マングローブ林の樹形, 支柱根, 気根およびサキシマスオウノキの板根などの特異な景観は, 保健休養的機能を十分にはたすものと考えられる。
喬旦, 加布
中国青海省黄南チベット族自治州同仁県では、チベットの歴史、仏教、文化と深く結びついた、レプコン(熱貢)芸術と総称される美術品および工芸品が発達している。同仁県は、チベット仏教芸術の中心地として、何世代にもわたって栄えてきた。現在でも、同地域の村々の男性の7 ~ 8 割はなんらかの伝統芸術を継承する工芸職人である。農閑期に村人により制作されるレプコン芸術は、市場経済化が促進するにつれ重要な現金収入の源となっている。西部大開発や観光化政策が進み、またユネスコの無形文化遺産に登録されてから、レプコン芸術の美術品としての値段が高騰した。しかし同時に、それと反比例して、質が下がるなどの問題が出現している。本稿は、「レプコン芸術」の形成と分布、タンカ制作の過程、さらには無形文化遺産への登録と登録後の動態などについて述べる。
辻垣, 晃一
本報告は、函館市中央図書館と国立国会図書館で発見された新出の森幸安地図について調査した成果をまとめたものである。函館市中央図書館所蔵分(七点)からは、地図での校合方法や幸案に地図を提供した人物などを確認できた。国会図書館所蔵分(八十五点)からは、幸安が同形同内容の地図を二部ずつ大量に作成していた事実が判明した。 森幸安は、江戸時代中期の地図考証家であり、林吉永らの「観光絵図」や伊能忠敬の「実測図」とは性格が異なる「情報地図」とも呼ぶべき性格の地図を描いた。詳細は、『森幸安の描いた地図』(日文研叢書29)で述べている。今回の調査では、前著を補強する材料が見つかったこと、さらに幸安の地図作成動機の一部をつかむ手掛かりが得られたこと、この二点の成果が挙げられる。
青木, 隆浩 Aoki, Takahiro
近年,世界遺産の制度に「文化的景観」という枠組みが設けられた。この制度は,文化遺産と自然遺産の中間に位置し,かつ広い地域を保護するものである。その枠組みは曖昧であるが,一方であらゆるタイプの景観を文化財に選定する可能性を持っている。ただし,日本では文化的景観として,まず農林水産業に関連する景観が選定された。なぜなら,それが文化財として明らかに新規の分野であったからである。だが,農林水産業に関連する景観は,大半が私有地であり,公共の財産として保護するのに適していない。また,それは広域であるため,観光資源にも向いていない。本稿では,日本ではじめて重要文化的景観に選定された滋賀県近江八幡市の「近江八幡の水郷」と,同県高島市の「高島市海津・西浜・知内の水辺景観」をおもな事例として,この制度の現状と諸問題を明らかにした。
仲井真, 治子 Nakaima, Haruko
本研究の目的は1.琉球染織を文化史的に体系づける。2.球琉染織の色彩配合と, 現代の沖縄人の服色嗜好の関連性を追求する。3.琉球染織の消費動向の実態を把握する。の3項目である。実地踏査による資料, 文献資料, 及び口説等から次項の成果を得た。(1)第2次世界大戦前及び大戦後の琉球染織の分布はFig.1,Fig.2に示すとおりである。(2)琉球染織の文化史的特徴はa), 各々の染織の起源はTable 3に示すようにマーウー及びバサー, 紅型, 絣, 久米島紬, 花織の順になっている。b), 発展過程における特色は, 貿易品として重要だったことと, 琉球歴史にみられる税制度, この2つの事柄が琉球染織の発展を促した大きな要因となっている。c)琉球染織の用途はTable 5に示すとおりである。第2次世界大戦前と大戦後に分けて考察すると, (1)大戦前は社会の身分, 階級によって用途が決められていた。(2)大戦後の現在は, 観光関連産業と日本本土への輸出が主な用途になっている。(3), 琉球染織の色彩を考察するとa), 紅型の彩色は有らゆる色相を純色で配合し, 花織の彩色はいくらかこれに近く, 久米島紬がその次に来る。絣, 芭蕉布の彩色が最も純色から遠く, 大部分が単彩である。b)全色相が配された染織物, 純色, それに近い色が配された染織物の使用は少数の王朝士族に限られ, 人口の多数を占める一般平民の着用色は無彩色, 及びほとんどそれに近い色になっていた。400年以上続いたこの制度は, 現代の沖縄人の服色嗜好を支配する一要因になっている。(4), 琉球染織の消費動向は, a)市販状態はTable 5に示すとおりである。宮古上布以外は観光関連産業になっている。b), 消費量は島内消費, 島外消費とも上昇の傾向にあるが生産量の実際には海外需要に応じきれない諸問題がある。今回の研究は琉球染織を対象に, これらの文化史的一研究に, 現状の把握, という段階にとどまった。現状の諸問題にメスを入れていくことを今後の問題として, 琉球染織に関する研究を続行したい。
山田, 慎也 Yamada, Shinya
本稿では,徳島県勝浦郡勝浦町のビッグひな祭りの事例を通して,地域固有の特徴ある民俗文化ではないごく一般的な民俗が,その地域を特徴付けるイベントとして成功し,地域おこしを果たしていく過程とその要因について分析し,現代社会における民俗の利用の様相を照射することを目的としている。徳島県勝浦町は,戦前から県下で最も早くミカン栽培が導入され,昭和40年代までミカン産地としてかなり潤っていたが,その後生産は低迷し,他の地方と同様人口流出が続いていた。こうしたなかで,地域おこしとして1988年,ビッグひな祭りが開催され,途中1年は開催されなかったが,以後現在まで連続して行っている。当初役場の職員を中心に,全国で誇れるイベントを作り出そうとして企画され,その対象はおもに町民であった。しかも雛祭り自体は勝浦町に特徴あるものではなく,また地域に固有の雛人形を前面に出したわけではない。各家庭で収蔵されていた雛人形を,勝浦町周辺地域からあつめて,巨大な雛段に飾ることで,イベントの特性を形成していった。さらに,町民が参加するかたちで,主催は役場職員から民間団体に移行し,開催会場のために土地建物を所有する。こうして民間主催のイベントにすることで,行政では制約が課されていたさまざまな企画を可能とするとともに,創作的な人形の飾り方を導入することで,多様な形態での町民の参加が可能となり,その新奇性からも町内外の観覧者を集めることに成功した。そして徳島県下から,近畿圏など広域の観光イベントとして成長していった。さらに,このノウハウとともに,集まった雛人形自体を贈与し,地域おこしを必要とする全国の市町村に積極的に供与することで,全国での認知も高まっていった。こうした状況を生み出す背景となったのは,実は戦後衣装着の人形飾りを用いた三月節供の行事が全国に浸透し,大量に消費された雛人形が各家庭で役目を終えたままとなっているからであり,それらを再利用する方法がみいだされたことによる。さらに自宅で飾られなくなった雛人形を観光を通して享受していくという,民俗の現在的な展開をも見て取ることができる。
桑原, 浩 Kuwahara, Hiroshi
本研究は、日本における海外休暇旅行市場の有力セグメントである若年女性層を調査対象者として、インターネット調査により、海外パッケージツアーにおける食サービスの問題点を明らかにすることを目的とした。その結果、旅行中の食事体験に関する全体的満足度、食事がおいしいという属性評価、その国の名物料理を体験できたという属性評価、の3点に関して、食事付の海外パッケージツアーによる旅行者のスコアが、食事をすべて自身で手配している旅行者に比して、有意に劣っていた。しかも上記2つの属性評価に関しては、全体的な満足度に対して特に大きな正の影響度があることが重回帰分析により確認され、改善点として明確となった。また、食体験への期待度が特に大きい観光目的地への旅行者サンプルへの分析結果でも、その国の名物料理を体験できたという属性に関しては、食事付海外パッケージツアー旅行者の評価が、その他の旅行者に比して有意に劣っていた。
南部, 智史
本稿では,日本の多言語使用に関するプロジェクトの一環として2022年に実施した横浜中華街と大阪生野コリアタウンでの言語景観調査の予備報告を行い,それぞれの地域の公共空間における看板に使用される言語および記号資源が多言語空間の形成にどのように寄与しているか考察する。両地域はともに「エスニシティの商品化」が顕著な観光地として認知されているが,横浜中華街は伝統的な中国文化を象徴する記号的要素で溢れた統一感のある空間を形成しているのに対して,生野コリアタウンでは伝統的な韓国文化を表す記号的要素の積極的な活用は比較的少なかった。また,言語使用の面では両地域で言語の商品化としての象徴的機能が確認されたが,その役割には明確な違いが見られた。横浜中華街における中国語の象徴的使用は,伝統的な中国文化と結び付いた指標としての役割を担っているのに対し,生野コリアタウンの韓国語・ハングル文字は,近年のK-POPの世界的流行を背景に,現代的な韓国文化を想起させる新しい役割を果たしている。
鈴木, 博之
本稿では,中国雲南省迪慶藏族自治州香格里拉県に位置し,四川省甘孜藏族自治州得榮県と接する尼西郷巴拉村において話されるカムチベット語mBalhag 方言について音声分析を行い,それをもとにチベット文語形式(蔵文)との対応関係を議論することを通じて方言特徴を明らかにする。巴拉村は尼西郷の西部にある香格里拉大渓谷の巴拉格宗神山のふもとに位置する。この村は近年の観光開発が始まるまでほぼ孤立した状態におかれていた。この村の住民は現在の四川省甘孜州巴塘県付近から約1000 年前に移住してきたという伝説があり,住民の話す言葉は迪慶州で話されるどのチベット語とも異なることで知られている。筆者は初歩的な調査からmBalhag 方言がsDerong-nJol方言群に属すると考えているが,その位置づけの根拠を具体的にチベット言語学の方法で検証する必要性がある。考察の結果,蔵文との音対応においてmBalhag 方言はSems-kyi-nyila 方言群の特徴を示す層およびsDerong-nJol 方言群,Chaphreng 方言群の特徴を示す層を兼備しており,sDerong-nJol 方言群の対応形式が多くの基本語彙に対応することが明らかになった。
藤原, 幸男 Fujiwara, Yukio
沖縄は終戦後すぐにアメリカ占領統治下に置かれ,アメリカ的な教育の側面を織り込みながら,日本本土とは相対的に独自な歩みをしてきた。ところが1969年に日本復帰が決まり,1972年の日本復帰によって日本本土の教育と同じ歩みが要求された。財政的援助によって学校施設・設備は全国水準に近づいたが,他方で,これまで国費学生制度・米国留学生制度によって沖縄県内の選抜で大学進学できたのが,急に全国の学生と対等に競争することになった。そのため,学力の低さが自覚され,学力向上を希求する意識が高まり,そこから学力問題が浮上してきた。また県教育庁は文部省中央の指示・助言を受けて全国並みの教育施策の実現に力を注いだ。授業についていけない子どもは,旧来の沖縄のテーゲー(適当・いい加減)文化に加えて,急速な観光地化にともない,金銭恐喝・集団暴行などの問題行動に走った。その背後に教師の体罰があるとも言われ,校則・体罰・人権が大きく取り上げられた。以下で,第一期(1972年~1981年),第二期(1982年~1987年),第三期(1988年~現在)に時期区分して,日本復帰後23年の沖縄における学校教育の展開を概観する。
小暮, 修三
かつて、日本の沿岸各地には、裸潜水漁を行いながら生計の主要な部分を賄う人々が存在し、彼/女らは俗に「海人(アマ)」と呼ばれ、特に、男性は「海士」、女性は「海女」と表記されている。この海人の歴史は古く、『魏志倭人伝』や記紀、『万葉集』から『枕草子』に至るまで、その存在が散見される。また、海女をモチーフとした文学作品や能楽、浮世絵も数多く残されている。しかしながら、もはや裸潜水漁で生計を立てている海女の姿は、日本全国のどこにも見つけられない。 このような海女を対象とする研究は、一九三〇年代から民俗学を筆頭に、歴史学、経済地理学、医療衛生学、労働科学、社会学等において、数多く見つけ出すことができる。しかしながら、海女の表象、特にその裸体の表象に関しては、浮世絵に描かれた海女についての記述を除き、特別な関心は持たれてこなかった。 そこで、本稿では、二十世紀を通してアメリカの「科学」雑誌『ナショナル ジオグラフィック』(National Geographic)に現れた海女の姿から、性的視線を内在させるオリエンタリズムの形成について考察する。ただし、そのような過去(二十世紀)のオリエンタリズム批判「のみ」で、この考察を終わらせてしまえば、既存の反オリエンタリズム的枠組みに留まるだけの論考になってしまう。そこから、太平洋戦争前の海女に関するナショナルな表象に触れると共に、戦後の『ナショナル ジオグラフィック』における海女の表象を維持・補完していたと思われる「観光海女」の存在、及び、海女をとりまく社会環境の変化を取りあげ、オリエンタリズムと国内言説の相互関係について考察を行う。
Ikeda, Kyle イケダ, カイル
本論文では、かつての戦地が沖縄戦の生存者とその子孫にとっていかなる意義と意味を有しているかということの例示として、目取真俊の小説およびノンフィクションについて考察する。まず目取真の小説に描かれた第一世代の戦争生存者について分析し、その次に、世代を越えた戦争の記憶がどのように表現されているかについて究明する。戦争の過去を持つ場所で生まれ育った経験は、ホロコーストの生存者の第二世代のような「地理的に強制追放された追記憶」よりもより「追体験的」な語りと想像を展開する傾向にある追記憶、すなわち「地理的に隣接した追記憶」を生み出す。目取真はその小説の中で、沖縄戦が起こった具体的な場所と背景についての深い理解をもとにして戦争生存者の戦争に対する記憶を追体験的に語り、想像している。こうした考察以前に、私はまず日本の戦後世代の全体的な考え方と生存者第二世代のもつより特定的な考え方との間にどのような差異があるかについて論じ、目取真の小説を、生存者第二世代の追記憶と文学の表現の文脈の中に位置づける。最後に、沖縄を観光イメージの風景に塗り替えようとする戦後から現代までの試みに対し、戦争に関する幾層にも交錯した意味がいかに沖縄の風景に生命を吹き込んできたか、その重要性について論じる。
筒井, 聡史 TSUTSUI, satoshi
本稿では、高知県立高知城歴史博物館の地域資料の保存や調査に関する4 つの活動事例を紹介し、そこから見える当館および高知県における地域資料問題の課題を検討した。高知県において、急速に進む過疎高齢化を起因とする地域社会の衰退・消滅は、その地で展開した歴史や特色ある文化の消失にも繋がりかねない。このような地域が抱える現在的課題に積極的に関わり、地域の歴史文化を活かした活動を展開していくため、当館には「地域振興・観光振興への寄与」という使命が課せられている。使命を実現すべく、当館では現在(1)地域資料の保存等に関する相談窓口の設置、(2)旧役場に伝わった行政文書の保存・調査、(3)地域の歴史を資料調査の結果も含めて1冊にまとめた記録集の作成、(4)地域住民が主体的に行う資料保存・調査への協力等、地域の歴史文化の裏付けとなる地域資料の保存・調査に重点を置いた活動に取り組んでいる。しかし、県全域の地域資料の所在確認や保存管理、調査結果の公開には、相当の時間と労力が必要であり、単館で完結できるものではない。地域資料の保存・調査を広く進めていくためには、博物館だけでなく行政や住民等の地域資料に関わる人たちが連携し、県全体の活動にしていくことが必要であろう。先人より受け継がれてきた歴史や文化、そしてそれを継承していこうとする「今」をいかに考えるか。それが地域の未来を改めて考えることに繋がるのではないだろうか。
金城, 盛彦 Kinjo, Morihiko
金, 廷恩
近世は、街道の整備と庶民生活の経済的向上にともない、楽しむ旅が大衆化した時代であった。京都の寺社では、近世初期から遠忌・開帳を盛んに催して客の誘致につとめており、旅人の来訪による経済効果も無視できない水準にまで達していた。このような時代背景の中で、モデルコースを収録した案内記が登場した。それは、アクセスに重点を置いた内容で、旅人が携帯して参照できるよう、小型に作られた実用書であった。そこに収載されたモデルコースとは、定められた基点から出発して、道なりの名所を順覧し、基点に戻るというものであり、現在のワンデープランや周遊モデルコースにつながるわかりやすい観光案内の原型と言える。しかし、これまでの研究では、注目されることが少なく、地誌の形態における多様化の一環として捉えられるにとどまってきた。 本稿は、以上のような問題意識に基づき、モデルコースを収める案内記がどのように成立し、発展・継承されていったのかについて、このジャンルの嚆矢となる貝原益軒著『京城勝覧』を中心に検証した試論である。十八世紀初めに登場した『京城勝覧』は、益軒が藩儒としての公務の合間に培った京都に関する経験と知識をもとに、一巻が一日のコースになっている『鎌倉志』から手がかりを得るなどして、編集されたものであった。後続の案内記には、モデルコース仕立ての構成を意識し、それに続こうとした背景を裏付けるかのように、『京城勝覧』ほか先行案内記の文章が利用されている。一方、このタイプの案内記は、現地で参照される以外にも使用例があった。浅加久敬は、京都への旅を終えて帰郷した後、自身の紀行文をまとめるにあたって、『京城勝覧』を参照して書いていたのである。このような事例を踏まえて、モデルコース案内記が初歩的地理知識を担うものになっていたことを念頭に置く必要があり、小型案内記の役割について、今後のさらなる考察が俟たれるところである。
Kishigami, Nobuhiro
文化人類学者は,さまざまな時代や地域,文化における人類とクジラの諸関係を研究してきた。捕鯨の文化人類学は,基礎的な調査と応用的な調査からなるが,研究者がいかに現代世界と関わりを持っているかを表明することができるフォーラム(場)である。また,研究者は現代の捕鯨を研究することによってグローバル化する世界システムのいくつかの様相を解明し,理解することができる。本稿において筆者は捕鯨についての主要な文化人類学研究およびそれらに関連する調査動向や特徴,諸問題について紹介し,検討を加える。近年では,各地の先住民生存捕鯨や地域捕鯨を例外とすれば,捕鯨に関する文化人類学的研究はあまり行われていない。先住民生存捕鯨研究や地域捕鯨研究では日本人による調査が多数行われているが,基礎的な研究が多い。一方,欧米人による先住民生存捕鯨研究は実践志向の研究が多い。文化人類学が大きく貢献できる研究課題として,(1)人類とクジラの多様な関係の地域的,歴史的な比較,(2)「先住民生存捕鯨」概念の再検討,(3)反捕鯨NGO と捕鯨推進NGO の研究,(4)反捕鯨運動の根底にある社会倫理と動物福祉,およびクジラ観に関する研究,(5)マスメディアのクジラ観やイルカ観への社会的な諸影響,(6)ホエール・ウォッチング観光の研究,(7)鯨類資源の持続可能な利用と管理に関する応用研究,(8)クジラや捕鯨者,環境NGO,政府,国際捕鯨委員会のような諸アクターによって構成される複雑なネットワークシステムに関するポリティカル・エコロジー研究などを提案する。これらの研究によって,文化人類学は学問的にも実践的にも捕鯨研究に貢献できると主張する。
宮内, 貴久
本稿は福岡市南区弥永団地周辺をフィールドにして,聞き取り調査と総務省『家計調査年報』を手がかりにして,高度経済成長期の福岡市における魚類と肉類の購入数量を検証した。鮮魚の購入数量が1953年の69,761グラムから,1975年の21,135グラムまで激減する。サバ,アジの次に購入されるのが,年によりカレイ,イワシ,ブリ,タイと変化していく。マグロ,カツオ,サケの購入数量は微量で,高度経済成長期を通じて変化しない。肉類の購入数量は,1965年まで牛肉が一番であり,豚肉,鯨肉,鶏肉の購入数量はほぼ変わらない。1960年代後半から大きく変化し,豚肉,特に鶏肉の購入数量が激増する。肉類の購入数量の増加は急激で,1972年には肉類の購入数量が鮮魚購入量の倍以上になる。1980年以降の鮮魚の購入数量について全国と福岡市を比較した。1980年の全国の鮮魚の購入数量は,マグロ,サバ,カレイ,ブリ,イワシ,サンマ,アジ,カツオ,サケ,タイという順だった。魚種により増減がみられた。2020年はサケ,マグロ,ブリ,カツオ,サバ,アジ,サンマ,カレイ,イワシ,タイの順に変化した。1980年の福岡市の鮮魚の購入数量は,サバ,イワシ,アジ,カレイ,タイ,ブリ,サンマ,カツオ,サケ,マグロという順であり,全国の魚種の割合とは異なった。2020年はサケ,ブリ,アジ,サバ,タイ,イワシ,カレイ,カツオ,マグロ,サンマの順である。サケが最上位となるのは全国の動向と同じで,平準化がみられる。マグロとカツオは60年以上購入数量が少ないままだった。観光資源としてごまサバが宣伝され,青魚を好むというが,2000年以降は減少している。
茅野, 恒秀
近年,日本各地の人工林が本格的な利用期にさしかかっているが,とくに国有林においては,1980年代の自然保護問題への対応と2000年前後の国有林野事業の抜本的改革を経て,天然林の利用はほぼ止まっている。資源の存する地域を取り巻く社会状況・制約条件と,主体による価値付与の関数として「資源化のダイナミズム」を捉えれば,地域の生業と密接にかかわってきた天然林資源をめぐるダイナミズムは喪失されたといえる。群馬県みなかみ町新治地区の約1万ヘクタールの「赤谷の森」は,戦前から森林を大規模に伐採,戦後の拡大造林政策によって人工林の増大が推し進められ,観光レクリエーション施設が立地した。1980~90年代にはスキー場計画やダム計画をめぐる自然保護問題が生じ,その後,奥山が「緑の回廊」に指定された,国有林野政策の典型的な経過をたどった森のひとつである。その「赤谷の森」で,赤谷プロジェクト地域協議会,関東森林管理局,日本自然保護協会の三者が協働する「赤谷プロジェクト」が発足し,生物多様性保全と持続的な地域づくりに取り組んでいる。赤谷プロジェクトの特徴は,単なる自然再生事業ではなく,国有林の共同管理を進め,実効性ある森のガバナンスを実行している点にある。2013年,かつて国内シェアの多くを占めていたが近年は用材の入手が困難になり,廃業を余儀なくされていた地元の木製カスタネット製造業と赤谷プロジェクトとの関係が構築され,関東森林管理局は2016年,地域からの需要に応えるため,生物多様性を確保した上で広葉樹を利用することを森林計画に明記するに至った。この過程には,本来あるべき森林資源と社会との望ましい関係を再構築する「守りながら伐れる時代」の要請と応答とを見てとることができるが,そのための地域資源管理の社会的技術の再構築が必要である。
齋藤, 暖生
本研究は,富士山北斜面にて行われてきた生業について,(1)特に採取活動の実態を通時的に明らかにし,(2)これが国立公園制度といかなる関係を持ってきたかを検討した。この地域では,近世から富士山の高山帯に至るまでの広大な山野を背景とした生業活動が繰り広げられていた。大正時代から昭和初期にかけて訪れた国立公園指定と観光開発の動きの中で,富士山北斜面の入会(いりあい)住民はこの動きに主体的にかかわることはなかった。一方で,近世より継続されてきた富士山入会地での資源採取は,入会地の地盤が国有,皇室有,県有と変わる中で,管理の仕組みが精緻化し,特に今に続く入山鑑札制度として基盤が確立した。富士山の国立公園指定により,入会地のほぼ全域が国立公園の区域に包含され,現行制度においては,高山帯および亜高山帯は特別保護地区あるいは特別地域として,旧来の採取活動を停止しうるような規制内容を持っている。しかしながら,各入会組合は依然として入山鑑札を発行し,高山帯であっても人々の採取を容認している。これを可能にするものとして,現行法である自然公園法により特別保護地区が新設される際に,厚生省と農林省間で交わされた覚書で,区域設定前からの慣行は着手行為として規制の対象外とする了解事項が存在する。富士山北麓地域では,少なくとも近世まで遡ることのできる採取活動が実質的に継続しており,かつ,形式的にも鑑札制度があるために採取活動の存在が公認しうるものになっていることが,着手行為としての正当性を担保しているものと考えられた。一方で,入会組合と国立公園管理者の間での情報共有は行われておらず,将来的には,対立が引き起こされる可能性が指摘できる。
小山, 隆秀 Oyama, Takahide
青森県津軽地方のネブタ(「ねぷた」および「ねぶた」を総称する)とは、毎年8月初旬に、木竹や紙で山車を新造して、毎夜、囃子を付けて集団で練り歩く習俗である。現在では海外でも有名な観光行事となった。そのルーツには七夕や眠り流し、盆行事があるとされてきたが、その一方で近世から近現代まで喧嘩や口論、騒動が発生する行事でもあった。本論ではこれをケンカネプタ(喧嘩ねぷた)として分析する。ケンカネプタは、各町の青少壮年達によるネブタ運行が、他町と遭遇して乱闘へ発展するものであるが、無軌道にみえる行為のなかには、一定の様式や儀礼的要素が伝承されてきたことが判明した。しかし近代以降、都市部ではネブタの統制が強化され、ケンカネプタの習俗は消滅したが、村落ではその一部が、投石や喧嘩囃子等で近年まで伝承されていた。さらに都市部では、近世以来行われてきた子供たちの自主的なネブタ運行が禁止されるとともに、喧嘩防止のため、目抜き通りでの合同運行方式を導入することによって、各ネブタ組は、隊列を整えて大型化した山車を運行し、合同審査での受賞を競うことへ価値観を転換していった。近年は、山車の構造や参加者の習俗形態が急速に多様化しており、それにともなう事故が発生したため、市民からは、ネブタが「伝統」または「本来の姿」へ回帰することを訴える動きがある。しかし本論の分析によれば、現在推奨されている審査基準や「伝統」とされる山車の形態や習俗は、近世以降の違反や騒乱から形成され、後世に定着したものであることがわかる。よって、現在の諸問題を解決するための拠り所、または行事全体の紐帯として現代の人々が希求している「本来の姿」に定型はなく、各時代ごとに変容し続けてきた存在であるといえよう。
上嶋, 秀和 片岡, 英尋 Ueshima, Hidekazu Kataoka, Hidehiro
田中, 祐未
本稿では、美術家・吉田初三郎(1884-1955)の制作活動に対する理解を深めることを目的として、印刷折本『旭川』(1930年)と、その中に収録された「旭川市を中心とせる名所交通鳥瞰図」を取り上げた。 まず、書誌情報や先行研究を把握した後、『旭川』の各部、すなわち表紙・表紙裏・概要面・鳥瞰図面の掲載内容を確認した。『旭川』は、旭川商工会議所の注文によって制作された。旭川商工会議所発行の書籍『伸びゆく旭川』(1929年)との比較などから、『旭川』の特徴を述べた。 次に、『旭川』には、一部のみ掲載内容が異なる版(以下、「異種本」)が50種以上も存在することについて、各種の違いを、12種の調査結果をもとに紹介した。また、『旭川』と同一の鳥瞰図を収録する印刷折本『みなとの留萌と旭川』(1930年)について、掲載内容を確認した。 さらに、同時期の『観光春秋』や旭川新聞記事から、『旭川』制作にかかる初三郎の動向などについて確認した。旧留萌町に初三郎が滞在した記録が確認できないことや、初三郎が大雪山・層雲峡に深く関心を寄せたことについて言及した。 以上の調査から得た情報をもとに、1)「旭川市を中心とせる名所交通鳥瞰図」において旧留萌町が強調されたのは、注文主である旭川商工会議所の意向による可能性が高いこと 2)『みなとの留萌と旭川』の制作背景には、旭川商工会議所と留萌商工会の協力関係があったと推定されること 3)『旭川』の全体構成のなかで大雪山と層雲峡がとりわけ強調されたことについて、初三郎の意向が反映された可能性が高いことを指摘した。 『旭川』および『みなとの留萌と旭川』は、国際日本文化研究センターの「吉田初三郎式鳥瞰図データベース」において公開されているほか、各地の図書館や博物館が所蔵していることから、資料紹介の意義は大きいと考える。
工藤, 泰子
平良, 一彦 荒川, 雅志 笠原, 大吾 Taira, Kazuhiko Arakawa, Masashi Kasahara, Daigo
砂川, 秀昭
下地, 敏洋 城間, 盛市 SHIMOJI, Toshihiro SHIROMA, Seiichi
本報の目的は、教職科目「学校教育実践研究2」における指導内容が、「学校教育実践研究1」の導入後、教育実習に対してどのような効果があったのかについて報告することである。特に「学校教育実践研究2」において、学生は教員としての教科指導力の基礎・基本を習得するため、年間指導計画や学習指導案の作成及び模擬授業に取り組んでいる。対象学生は、平成20年度から平成23年度の期間に著者の「学校教育実践研究」及び「学校教育実践研究2」を受講した254人であった。対象学部等は教育学部生涯教育課程、法文学部、理学部、農学部、工学部、観光産業科学部であった。研究方法としては、教育実習事後指導の中で「教育実習所感」としてグループ討議及び発表した内容を「教育実習期間中、困ったこと、改善してほしいこと」、「教育実習を経験して感じたこと」、「大学での事前・事後指導で改善してほしい点、または良かった点」、「これから教育実習を受ける後輩に望むこと」に分類、年度別に集約した。その内容を「学校教育実践研究1」導入前の平成20年度及び21年度と導入後の平成22年度及び23年度について比較検討した。結果は、「学校教育実践研究2」における学習指導案作成や模擬授業の実施は、教育実習での教科指導に有益であることが明らかになった。しかしながら、模擬授業は実施時間が短く、実施時間の拡大、実施回数の増の必要性などの改善が求められている。そのため、自主的に模擬授業を実施することの必要性や実施報告書を提出させるなどの改善が必要であると考えられる。また、学校現場においては、教育実習生に対する評価も高まる一方で、教職に対する意欲の欠如など、教師としての資質に課題のある学生がいることも指摘されている。従って、「学校教育実践研究2」における指導内容の一層の工夫・改善、関係学部間の連携協力の強化を図ることで、資質の高い教員養成の取り組みが求められている。
葉山, 茂 Hayama, Shigeru
本稿は被災地でおこなわれる文化財レスキュー活動を地域開発の視点からとらえ,課題を検討することを目的とする。事例として国立歴史民俗博物館が携わった宮城県気仙沼市小々汐の個人住宅,尾形家住宅における生活用具・民具・文書・建材の救援活動を取り上げた。課題の検討にあたり,建物や生活の痕跡が失われた被災地で現在,地域を見つめる地域開発の視点が必要であることを論じた。そして民俗学における地域開発の問題を整理し,地域開発の議論が観光に偏重している現状と,民俗学における地域開発の視点を遡ると,宮本常一の「郷土教育」に至ることを論じた。また宮本常一の「郷土教育」が人びとの論理を起点に検討されていたことを論じ,被災地でも地域開発の文脈で人びとがいかに生きてきたのか,そして現在ある問題をどう解決するのかという視点で文化財レスキューの結果を活かす必要性があることを論じた。以上の点を踏まえ,地域社会の人びとの生き方を検討するとき,人びとが自然や他者との間で築く関係性に注目し,その関係性の具体的な中身を検討する必要性を論じた。その上で尾形家の歴史を概観し,尾形家から救ったものからみえる社会関係を御札,オシラサマ,薬箱などの事例から紹介した。また物質の背景にある人びとの記憶が生起する過程を,尾形家のワラ打ち石捜索過程を例に論じた。そして物質を前にして語られる物語が,単なる個人の内部的な記憶ではなく,物質や場所と密接に結びついており,条件が揃ったときに生起してくることをギブソンのアフォーダンスの議論を援用して論じた。以上のことから,記憶は状況依存的に生じることと,その状況を生み出すツールとして文化財レスキューで救われた物質が機能する可能性を論じ,インフラストラクチャーが整備されたあとのそれらの運用という地域開発の課題に対して,物質の背景にある生活や文化を救う試みが役立つ可能性があることを論じた。
門田, 岳久 Kadota, Takehisa
本論の目的は,第一に,「文化資源化」「宗教の商品化」といった概念を用いて,現代日本における巡礼ツーリズム(半ば産業化された巡礼)の成立と地域的展開の民族誌的記述を行うことであり,第二に,市場経済や消費社会の文脈上に生成される「宗教的なるもの」を記述していく作業が,日常生活の全体を描こうとする現代民俗学的な宗教研究において,いかなる理論的貢献をなすものなのか明らかにすることである。本論はマクロからミクロへとスコープを絞っていく記述方式を採る。まず,20世紀初頭以降の日本において,「観光」という行為形式が人々に広まっていくマクロな状況を背景に,巡礼が生活世界における慣習的習俗から脱埋め込みをなされ,文化産業によって,人々が自由選択可能な「商品」としての巡礼ツーリズムへと転化するプロセスを描く。次に,宗教的習俗の商品化が,よりローカルな社会空間において具体化していく姿を示すために,新潟佐渡地方における調査事例から,地元巡礼産業の営業活動と,そこに参与する巡礼者たちの日常的実践を記述していく。ここに観察されるのは,資源化=脱埋め込みによってもとの文脈を離れた諸要素が,巡礼産業の地域活動と巡礼経験者の諸実践を媒介することで,再び日常の文脈に再埋め込みされていくプロセスである。一見「信仰」が盛んであるように見える佐渡の巡礼ではあるが,人々の宗教的経験を可能としているのは地域的伝統であるというよりも,このように巡礼諸産業に下支えされた市場経済的構造である。従って生活論としての現代民俗学は,空間的に境界付けられた小地域(村)を記述の外延として設定し,その内部の出来事をただ描くだけでは不十分である。「文化資源化」は,観察対象が「全体」においていかなる布置を見せているのかという,ミクロとマクロの相互反照性を常に考慮すべきことを,我々に要求する概念なのである。
香川, 雄一 Kagawa, Yuichi
公害問題発生工場の立地と移転を通じて,研究対象地域における景観の意味づけを捉えなおした。日本において代表的な工業都市である川崎の臨海部は戦前から高度経済成長期にかけて工業地帯を形成してきた。結果的に工場が乱立する景観を構成していくのだが,工場立地当初は別の場所における公害問題発生工場が移転してきたという歴史的経緯を持つ。川崎が工業化を進めたのに対して,以前の工場立地場所である東京の深川と三浦半島の逗子はそれぞれ工場景観を消し去ってきた。深川は都心周辺部の居住地や業務地区さらに周囲には庭園を備えるように景観を転換させた。逗子は高級リゾート地と大衆観光地の両方で臨海部の景観資源を活用していく。工場の跡地がマリーナとして整備されたことにもその一端がうかがえる。景観の意味づけが転換可能であるのならば,時代の転機によって工場景観を備えるようになった川崎にも工業化以前の景観資源を復活させる機運が残されている。公害裁判以後の環境再生に向けた動きは,在来産業としての漁業に従事していた人々の海への思いを継承しつつ,東京湾臨海部に新たな土地利用と景観を生み出そうとしている。自然環境をいかした景観資源をとりもどす際に,活用可能である工業化以前の歴史を踏まえた経験を持つ漁業者の景観への意味づけは,物理的には存在しないもののいくつかの石碑によって確認できる。川崎が臨海部として工場立地の機能を充実化させてきたことは公害問題によって負の歴史遺産を積み重ねてきたことでもあった。しかし深川や逗子が完全なまでに公害問題発生工場の景観を消去してきたように,川崎においても過去の景観資源をとりもどし,新たな景観の意味づけを浮かび上がらせていくことが可能である。このことは景観政策において開発や産業に重きをおいた意味づけに再考を迫るとともに,今後の景観に関する議論の活性化につながるであろう。
山田, 嚴子
小川原湖民俗博物館は1961年に渋沢敬三の秘書であった杉本行雄が青森県三沢市に設立した民間博物館であった。2006年に経営が破綻し,建物の老朽化から2015年に廃館となった。筆者は2015年に当該博物館の旧蔵資料の移設に関わり,旧蔵資料の一部を勤務先の弘前大学人文社会科学部で預かり,整理と公開に努めてきた。その結果次のようなことが分かった。渋沢にはこの博物館を「小川原湖を中心とした自然,人文を広く含むものとする構想」があり,杉本には「十和田湖と小川原湖を結ぶ大規模な観光計画」があった。当初総合博物館として構想された博物館が「小川原湖民俗博物館」と改称されたのは,中道等による精力的な民具蒐集の結果であった。中道には,上北地方をアイヌ民族をはじめとした少数民族と和人が交流した場であったことを生活文化から証明したいという意図があり,博物館の旧蔵資料の中には土器も含まれている。旧蔵資料からはまた,小川原湖民俗博物館と宮本馨太郎の関わりを看取できる。旧蔵資料の中に「昭和35年 立教大学民俗資料室」と書かれた「民俗資料整理台帳」が残っている。当時立教大学教授であった馨太郎が小川原湖民俗博物館に送ったものであろう。馨太郎は,1962年に「日本在来民具の民族学的研究」で科学研究補助金を得て,その研究分担者の中に中道等の名前がある。また,岩手県在住であった森口多里もまた研究分担者になっているが,小川原湖民俗博物館には森口からの寄贈品があったことが「台帳」から読み取れる。小川原湖民俗博物館は,宮本馨太郎には,「気心の知れた」相手のコレクションで,民具分類・整理のための試案を重ねる場として機能していたと考えることができる。中央の研究者,郷土史家,実業家が,お互いの役割に深く立ち入らない形でそれぞれのなすべきことをするという協同のあり方が,地方民間博物館を可能にしたといえる。
武井, 基晃
琉球王国時代から今日に至るまでの沖縄の食文化は,第二次世界大戦時の地上戦という文化・生活の崩壊のあと,戦後アメリカ統治下における高度経済成長,日本本土復帰さらに観光化を経て復興した。それは,琉球の食文化・琉球料理の保存,そして次代へと沖縄の料理を発展させるための意識的な再定義の結果でもあった。食生活を知る上で,食文化としての動物性蛋白質の摂取は非常に重要である。しかし,豚肉・魚介類をはじめとする豊富な食材でイメージされがちな沖縄の食文化だが,その実態について復帰前の1967年に琉球政府文化財保護委員会が文部省文化財保護委員会立案の民俗資料緊急調査手引に沿って実施した調査の報告や,戦争を生きのび戦後を生きた生活者の回想を見ると,肉・魚など動物性蛋白質の摂取があまりにも書かれていない。豚肉は沖縄の食文化において儀礼的にも栄養的にもたしかに重要な食材だったが,それは決して豊富な日常の食材ではなく,実際に口にできる機会は年に1・2度の行事に限られていたのである。高度な漁業も未発達で,海沿いの集落であっても実態は手伝いかつ娯楽として,海を歩いて素手での漁獲だった。魚料理もその程度のものだった。当地の食文化を知るための資料として,1960年代~70年代にかけて刊行された料理本を分析する。これらの料理本は,沖縄戦で崩壊した文化と生活が復興する日本本土復帰前・後の時期において,戦争を生きのび戦後を生きた琉球料理の研究家・料理家たちが使命感を抱いて,琉球料理を復活させ書き残した成果である。「沖縄風」を含む標準語訳の試みも共有のために不可欠だった。しかし戦後に出現し今日までに当たり前となった料理は,これらの料理本の中に現れない。本稿で見た食文化は,長寿県としての沖縄を支えていた世代の食生活であるが,戦後の沖縄の料理は変容を遂げ,新たな要素を取り込みながら拡張し今日に至るのである。
馬, 建釗
中国の南端にある海南島三亜市羊欄鎮回輝村,回新村は,海南省内で唯一の回族集居地である。2002 年には,1218 戸,6,400 人の回族人口を有していた。1983 年12 月から2003 年3 月までの間に,筆者は合計8 回にわたって回輝,回新両村でのフィールドワークを行った。本稿は,このフィールドワーク資料を基に,歴史学,人類学,考古学,言語学の関連資料をも参照しながら,海南回族の歴史来源および羊欄回族コミュニティーの社会変化の過程について論じようとするものである。 海南島の回族には,2 つの主要な来源がある。一つは唐宋時代に中国に来住したアラビア人商人であり,もう一つは宋元二代に占城(チャンパ)から移住してきたイスラム教徒である。 唐宋時代には,イスラム教を信仰するアラビア人商人が,「海上のシルクロード」沿いに広州,泉州など中国の沿海都市に来住し,貿易活動に従事した。海南島はアラビア商船の通り道であった。それらアラビア人商人の一部分は,台風や海賊の被害によって,海南島東南部の陵水,万寧,崖県(現在の三亜市)など沿海地区に居留することになった。 明末清初から1943 年までの間は,三亜里という地点が羊欄回族の唯一の集居地であった。1943 年には,日本軍がこの地点に飛行場を建設したために,当地の回族は現在の回輝村に移転させられた。1945 年の終戦の後,回族の一部はもとの村に戻り,地名を回新と改め,こうして現在の回輝・回新両村落からなる回族コミュニティーができあがった。羊欄の回族社会では,1980 年代になって経済,文化等の方面で非常に大きな変化が生じた。80 年代後半には,三亜市の発展にともなってコミュニティー全体に衆人の注目を集める一大変化が生じたが,その主要なものは以下の四方面の変化である。1.産業構造の変革 回輝,回新両村は海辺に位置していたので,回族の人々は代々魚を捕ることを主要な生活手段としてきた。漁船は小型で性能の低いものだったので,沖合い漁業には適さず,収入は少なかったので,回族の人々の生活は極めて貧しかった。1987 年の両村住民の平均年収は200 元強であり,羊欄鎮の中でも最も低収入の村であった。 1987 年に三亜が県レベルから地区レベルの市に昇格した後,省政府は「三亜を現代的国際ビーチリゾート都市に」という全体目標を掲げ,これによって不動産開発ブームと観光産業の隆盛が引き起こされた。羊欄の回族はこの機を捉え,一連の経済活動に取り組み,わずか十数年のうちには運送業,観光販売・サービス業,青果の卸し・小売業を筆頭に,多様な経営活動を含む新たな経済発展の局面が到来して,この村は鎮の中でも最も裕福な村へと変身したのである。2.生活様式の変化 経済的収入の増加は,生活様式の変化を生み出した。まず,住居の様態が変わり,低層の草葺き屋根はスレート葺き家屋やビルになった。また,交通手段が改善され,徒歩や自転車に代わってモータリゼーションが生じた。さらに,生活用品が多様化,高級化した。3.価値観および行動パターンの革新 1980 年代以前には,回族コミュニティーの住民は,中国農村一般と同じく「靠山吃山,靠海吃海」(山にあれば山の幸を食べ,海にあれば海の幸を食べる)の伝統的な自然経済観念を墨守していた。80 年代に中国が改革開放を実行して以降,回族の人々は「法律・道徳に触れない限り,金の稼げることならなんでもする」という価値観をもつようになった。そして,回族コミュニティーの経済状況は,量的変化と,質的飛躍を成し遂げたのである。 伝統的観念と,行動パターンの変化にともない,羊欄の回族女性は,家庭の外に出て各種の経済活動に携わるようになり,家計の担い手の主力となった。4.伝統文化の継承と発揚 回族は,イスラム教を信仰する民族であり,回族の伝統文化は,至る部分において,イスラム文化の刻印を受けている。伝統文化の継承と発揚のため,羊欄の回族は以下のいくつかの措置を採用している。 まず,モスクの再建・新設を,伝統文化の発揚上の最重要事項とし,1990 年代には,6 個のモスクが次々と再建・新設された。 また,地元での宗教的人材の養成を重視し,80 年代以来,十数名の優秀な青年を,サウジアラビア,イランなどの国家のイスラム学校へ留学させ,帰国後は各モスクで,教長や,アホンを担当したり,宗教教育活動に従事したりしている。さらに,青少年に対する宗教文化知識の普及に努め,各モスクではコーラン学校を開いている。 そして,宗教生活並びに日常生活上,イスラム教の教義としきたりを遵守している。
本保, 芳明 Hompo, Yoshiaki
小椋, 純一
森林や草原の景観はふつう1~2年で大きく変わることはないが,数十年の単位で見ると,樹木の成長や枯死,あるいは草原の放置による森林化などにより,しばしば大きく変化する。本稿では,高度経済成長期を画期とする植生景観変化とその背景について,中国山地西部の2つの地域の例について考えてみた。その具体的な地域として取り上げたのは,広島県北西部の北広島町の八幡高原と山口県のやや西部に位置する秋吉台である。その2つの地域について,文献類や写真,また古老への聞き取りなどをもとに考察した。その結果,八幡高原では,たとえば,今はスキー場などの一部を除き,草原はわずかしか見られないが,高度経済成長期の前までは,牛馬の放牧などのためなどに存在した草原が少なからず見られた。その草原の大部分は森林に変わり,また,高度経済成長期の前の森林には大きな木が少なかったが,燃料の変化などにより,森林の樹木は高木化した。なお,その地の草原は,高度経済成長期の直前の頃よりも少し遡る昭和初頭の頃,あるいは大正期頃まではさらに広く,その面積は森林を上回るほどであった。その変化の背景には,そこで飼育されていた馬の減少もあったが,別の背景として,大正の終り頃から製炭が盛んになり,山林の主な運用方法が旧来の牛馬の飼育や肥料用などのための柴草採取から,炭の原木確保のための立木育成へと変わったことがあった。一方,秋吉台には,今も草原が広く見られるが,それはそこが国定公園などに指定されている所で,草原の景観を守ることが観光地としての価値を維持するためにも重要であるためである。しかし,その秋吉台の草原も,高度経済成長期の前と比べると,草原面積は少し減少している。また,草原やその周辺の山林への人の関わり方の大きな変化により,植物種の変化など,その草原には大きな質的変化が見られ,また草原を取り巻く森林も高木化が進むなど大きく変化してきている。
米屋, 武文 Yoneya, Takefumi
宮内, 久光 Miyauchi, Hisamitsu
大島, 順子 Oshima, Junko
中務, 真人 Nakatsukasa, Masato
清水, 哲夫 Shimizu, Tetsuo
松本, 晶子 Matsumoto-Oda, Akiko
Hijirida, Kyoko 聖田, 京子
ハワイ大学東アジア言語・文学科では2004年秋学期より新講座「沖縄の言語と文化」を開講した。それに先立つ2年間の準備期間中に,担当教員2人(聖田京子,Leon Serafim)が,ハワイ大学及びハワイ地域社会の支援を得て,沖縄へ赴き資料収集を行った。琉球大学等とのネットワークを形成すると共に,豊富な資料・教材を収集することができ,講座開講に向けて,教材作成を中心とするカリキュラムの準備を順調に進めることができた。 コース内容は文化を中心にした楽しい沖縄学と,聞き,話し,読み,書きの4技能の習得及び基本的な言語構造を理解する沖縄語の初級レベルを設定した。言語学習には,まず表記法と,言語と文化の教科書を決めることが重要な課題であったが,琉球大学と沖縄国際大学の関係者の支援により解決することができた。 文化に関するコース内容は,年中行事,諺,歴史上の人物,民話,歌(琉歌を含む)と踊り,料理,ハワイの沖縄コミュニティーなどの領域を取り上げた。特に,沖縄の文化的特徴や価値観などを表すユイマール,イチヤリバチョーデー,かちゃーしーなどは,クラスのプロセスで実践による習得を目指した。 基本的な学習が終わると,学生は各自のテーマで研究し,ペーパーを書き,発表することとし,それによりクラス全員が更に沖縄学の幅と深みを加え,沖縄理解に至ることを目指した。 学生の取り上げた研究テーマは,沖縄の基地問題や平和記念館,平和の礎,ひめゆり部隊,沖縄の祭り,行事,観光,エイサー,歌手,空手,三線,紅型,ムーチー(民話),紅芋など多岐にわたっており,学生の沖縄に対する関心の幅広さがうかがわれた。 当講座の全体の教育目標は以下のように設定した。1)沖縄語の言語研究上の重要性を理解すると共に,基本文法を習得し,初級レベルでのコミュニケーション実践をタスクで学ぶ。2)沖縄文化を理解し,その価値観や考え方をクラスでの実践を通して学ぶ。3)ハワイにおける沖縄県系人コミュニティーの文化活動に気軽に参加し,かつ楽しめるようになる。 当講座は,開講以来,受講希望者がコースの定員を上回る状況であり,当大学の学生の沖縄の言語や文化への関心の高さを示している。かちゃーしーやユイマール,沖縄料理などの文化体験は大変好評で,講座終了後のコース評価では,沖縄語をもっと学びたい,沖縄文化をもっと知りたいという学生からの声が多く寄せられた。
岩淵, 令治
江戸の商人研究は、史料的な制約と流通史研究の関心から、長らく上方に本拠をおく他国住商人の江戸店、とくに呉服など限られた職種の問屋の分析に限られてきた。近年、江戸住商人をとりあげた論考も蓄積されつつあるが、とくに彼らの信仰の検討は不十分である。そこで、本稿では、質屋・古着商売の大店美濃屋加藤家を素材として、江戸住商人の大店の信仰を検討した。加藤家の信仰の基調は浄土宗であり、「陰徳」を積んで浄土に旅立つことに目的があった。そのため、自身の家の先祖供養を行うとともに他者を救済し、さまざまな講を組織し、また家としても寄進を行ってきた。「陰徳」や、「名聞ケ間敷」行為を避けるという点に、多くの商家が規範とした心学との整合性も認められることが注目される。とくに信仰の対象となったのは、甲斐善光寺と菩提寺の哲相院である。甲斐善光寺については、宝暦四(一七五四)年の火災からの再建にあたって莫大な寄進を行い、また江戸の旅宿を通じてその後も寄進を続けた。また、哲相院については先祖供養のみならず、最終的には甲斐善光寺の江戸の旅宿を設けている。このほか、信州善光寺、高田善導寺、江戸の十八檀林の一つである本所霊山寺、といった有力な浄土宗寺院にも寄進が及んだ。さらに浄土宗寺院にとどまらず、高野山での先祖供養、浅草観音や清涼寺への寄進など、信仰は他宗派の寺院、神社にも及んだ。こうした信仰の上に立って、加藤家では家族の人生儀礼のみならず、経営においても判断基準として「霊夢」や「御告」を用い、さらには「御仏勅」を求めた。その信心の実際は判断できないが、少なくとも納得する手段として重要な役割を果たしたのである。さらに、非日常的に行われる参詣や、開帳への参加も、こうした信仰と次元を異にするものではなかった。その参加にあたっても、「御仏勅」が働いたのであり、加藤家の信仰の一角を形成したのである。これまで江戸商人の信仰については、「行動文化」論の中で、いわば観光の要素を持つ参詣や祭礼の参加などがとりあげられてきたが、日常の信仰と合わせてその全体像を検討していく必要があろう。
大角, 玉樹 Osumi, Tamaki
沖縄及び琉球大学の戦略的な研究として、「亜熱帯島嶼科学」が提唱され、その推進のため、2005年に、亜熱帯島嶼科学超域研究推進機構が開設されている。過去の外部評価では、学術的な取り組みとしては高く評価されているが、応用研究として、イノベーションや事業化につながる産学官連携を促進することの必要性が喫緊の課題として指摘されている。我が国の経済政策の一つである、「イノベーション25」においても、イノベーションによる持続的成長と豊かな社会の実現が謳われており、辺境に位置し、観光への依存度の高い沖縄が科学技術を活用したイノベーション・アイランドに変貌を遂げていくことが期待されている。世界水準の研究教育を目的とした沖縄科学技術大学院大学の開学は、この期待を一層大きくしている。筆者は、1995年に施行された科学技術基本法以降の、我が国の政策と地域の政策を検討し、国際会議や国際展示会への参加、フィールドワークを通じて、イノベーションを創造する環境や地域特性の調査研究を続けている。過去10数年にわたり、関連研究機関や技術移転に関わる組織、科学技術コーディネータを含め多くの専門家や実務家と意見交換をしてきたが、その大半が、産学官連携によるイノベーション創出の困難性や問題点を指摘する声であり、有効性に疑問を投げかける意見であった。「連携」といいながらも、依然として、お互いの立場や考え方の違いを尊重することが少なく、それぞれが所属組織・機関の目的に従って、個別ばらばらに動いているのが現状であろう。琉球大学における亜熱帯島嶼科学の応用研究の必要性、沖縄21世紀ビジョンに掲げられている沖縄科学技術大学院大学の産学連携やベンチャー創出という政策的方向性を検討する際にも、「連携」ないしネットワーク形成がキーワードの一つになっている。過去の調査研究から、イノベーションを促進・加速するための連携が実現し、地域クラスターがエコシステムに変容を遂げるには、従来の政策ではほとんど考慮されることのなかったソーシャル・ファクターに注目し、そのマネジメントを確立することの必要性を感じている。まだ概念や研究のフレームワークが明確ではないことから、これまでの産学官連携、クラスターに関する主要な研究と近年の経営学における主要な研究トレンドを参考に、予備的考察を試みたものが本稿である。まだ、漠としたイメージしか掴めないものの、ソーシャル・ファクターとツーリズム・キャピタルという概念を取り入れた産学官連携モデルの進化と深化に向けて、理論構築と検証を行っておきたい。
大角, 玉樹
西普天間基地跡地利用の方向性として国際医療拠点構想が本格化している。同基地は、平成27年3月に返還され、現在、急ピッチで旧米軍住宅が取り壊され、整備が行われている。このエリアを先進的な医療研究を行う国際医療拠点として開発することが閣議決定しており、琉球大学医学部及び同附属病院の移転も計画に含まれている。主に、生活習慣病、再生医療、及び感染症に関する研究開発が行われる予定であり、その実現に向け、沖縄県の事業として感染症研究拠点形成事業が行われており、筆者も感染症研究の技術マネジメントとイノベーションをテーマに共同研究者として参画している。事業の目的は、沖縄を感染症研究の国際研究拠点とし、知的・産業クラスター、すなわち、イノベーション・エコシステムを形成することにより、新たな産業や高付加価値の雇用を生み出すことにある。もちろん、感染症のみならず、先進医療に関する数多くの事業も同時進行中であり、アジアにおけるメデイカル・イノベーションの拠点になることが期待されている。いうまでもなく、感染症の撲滅や制御は長年にわたる地球規模の課題である。2000年に開催されたG8九州|・沖縄サミットにおいて、感染症に対する沖縄イニシアティブが宣言されているほか、エボラ熱、ジカ熱やデング熱の発生を受けた伊勢志摩サミットにおいても共同宣言が採択されている。また、2016年7月に神戸で開催されたG7保健大臣サミットでも、国際的な協調が再確認されている。沖縄も、ひとたび感染症が発生すると、観光産業や物流に壊滅的な影響を及ぼすことから、検疫・防疫対策も含めた感染症研究の推進が求められている。また、わが国の科学技術政策においても、科技術を基盤としたイノベーションの創出が植われており、環境・エネルギ一分野と健康・医療分野がその中核として位置づけられている。これを受けて、沖縄21世紀ビジョンにおいても、同分野の研究開発の推進とイノベーションの創出が政策目標に掲げられており、平成28年度の科学技術ロードマップには、今後10年間の方向性が描かれている。とりわけ、健康・医療分野の市場成長性が高いと予想されていることから、沖縄の国際医療拠点構想にかける政策サイドの意気込みは、非常に強くなってきている。本稿では、このような状況にある国際医療拠点構想に関して、その背景となっている関連政策を整理し、実際にプロジェクトの一つに参画している筆者の視点から、今後の動向を展望しつつ、可能性と課題を検討している。
伊波, 匡彦 屋宜, 貴行 田村, 博三 伊良部, 忠男 Iha, Masahiko Yagi, Takayuki Tamura, Hiromi Irabu, Tadao
1. 抽出条件の検討 グァバ葉(100g)粉末を蒸留水2.0ℓで加熱撹拌し抽出した。抽出は30分、40、60、80、95℃でそれぞれ行った。また塩酸および水酸化ナトリウムを添加し、初発pHを2、5、7、9、12に調整して抽出条件を検討した。これらの評価は105℃で加熱乾燥法による固形分量、Folim-Denis法によるポリフェノール量(没食子酸換算)、DPPHラジカルスカベンジャー法による抗酸化活性、アミラーゼ阻害活性(和光純薬工業製アミラーゼテストワコー)を指標として行った。その結果、グァバ葉抽出液の固形分量は温度の上昇と共に増加したがポリフェノール含量は80℃で最大になった。抗酸化活性およびアミラーゼ阻害活性についても同様に80℃が最も高い活性を示した。また、酸性およびアルカリ性では固形分量は増加したが、ポリフェノール含量はpH5.0が最も高かった。抗酸化活性についても同様にpH5.0が最も高い活性を示した。アミラーゼ阻害活性についてはpH5.0よりわずかにpH12.0が高い活性を示した。2.グァバ葉抽出物の製造 乾燥グァバ葉7kgを200ℓ抽出槽を用いて80℃、1時間抽出を行った。その後遠心分離によって固液分離を行い、グァバ葉抽出エキスを得た。これを噴霧乾燥によって粉末化を行った。本法によって得られるグァバ葉抽出物は17.2%のポリフェノールを含み、抗酸化活性およびアミラーゼ阻害活性は保存されていた。また、グァバ葉抽出物粉体は流動性および水に対する溶解性についても良好であった。3.製品開発 グァバ葉抽出物を用いて錠剤およびドリンクの試作を行った。これらは中高年層をターゲットにした、肥満や糖尿病の予防効果が期待される商品として検討した。錠剤は150mg/粒の太鼓型で、グァバ葉抽出物10%を配合した。本製品はバルクでの出荷を検討しており、(株)仲善によって商品化される。ドリンクは50mℓのボトルで、その性格上、グアバ葉抽出物100mgのほか類似した活性を持つ素材を配合した。これらの製品について、健常者を対象とした血糖上昇抑制効果についての試験を検討している。4.商品の販売 グァバ葉抽出物(エキス)を利用して製造した錠剤およびドリンクはそれぞれ「グァバ葉エキス粒蕃」および「グァバ葉エキスドリンク蕃」として平成13年8月(株)仲善から発売を予定している。本商品はこれまで多く市場に見られた「お茶」の形態とは異なる、グァバ葉の生理活性物質を積極的に活用した初めての商品である。主な販路は県内では薬局、スーパー、観光土産品店など、県外ではDMおよびインターネットを活用した直販を行う予定である。
神谷, 大介 赤松, 良久 宮良, 工 Kamiya, Daisuke Akamatsu, Yoshihisa Miyara, Koh
郑, 晓云
中国に居住しているタイ族の人ロは、110万人あまりである。紅河(中国では元江と呼ばれる)地域は、タイ族が比較的集中し、独特の文化を持っている地域である。中国の紅河流域に居住しているタイ族の人口は、およそ15万人であり、中国のタイ族全人口の13パーセントを占めている。そのうち、紅河上流の新平県と元江県の両地域のタイ族の人口が最も多く、紅河流域のタイ族全人口の半分以上を占めている。 花腰タイは、そもそも紅河流域に住んでいる一部のタイ族に対して他の民族が与えた称呼である。この地域の女性がいつも長くてカラフルな布帯を腰にしめていたことから、このような名前が付けられたのである。花腰タイは、いくつかの自称の異なるサブエスニックグループに分けられている0主なものとして、新平県のタイ洒、タイf、タイ雅、そして元江県のタイ仲、タイ未、タイ雅、タイ得とタイ濾がある。 花腰タイ独特の文化的特徴は、主に4つの側面に現れている。1)服飾様式:女性は長くてカラフルな帯を腰にしめる慣習がある。この慣習は、さらに腰帯の織り、腰帯の使用及び腰帯の意味合いを含む関連文化を生み出している。2)居住様式:紅河上流の花腰タイは、自分たちの建物を「土掌房」と呼んでいる。それは他の地域のタイ族の建築様式とはかなり異なっている。3)祝日:花腰タイには「赴花街」のような独特の祝日がある。4)信仰:花腰タイは、他のタイ族と同じようにアニミズム的な原始宗教を持っているが、独自の宗教観念と祭祀活動も持っている。 本論文の目的は、現代の社会環境における花腰タイの文化的変化を考察するところにある。花腰タイの文化的変化の特徴は、伝統を維持しながら変化するところにある。伝統的服飾、「土掌房」のような伝統的民居、お歯黒や入れ墨などの慣習がまだ残っている。いまでも、多くの若者の間に、お歯黒や入れ墨がみられる。タイ語は依然として日常生活の中で重要な言語になっている。伝統的な祝日もまだ残っている。一方では、最も典型的で、花腰タイの特色がよく出ている「赴花街」が復活し、活性化している。原始的宗教の主要な儀式は、他の地域のタイ族のそれと比べより完全な形で残されている。 現在,花腰タイの社会生活には大きな変化が起きている。彼らの経済活動は、自給自足の伝統的様式から市場経済の様式に変わっている。花腰タイの文化も、ますます注目され、その知名度が高くなりつつある。観光産業はこの地域において、迅速な発展を成し遂げてきた。人口の流動も激しくなってきて、地元の人々が出稼ぎやビジネスのために外に出ることが以前より頻繁になっている。
吉田, 茂 大城, 安弘 福仲, 憲 Yoshida, Shigeru Oshiro, Yasuhiro FukuNaka, Ken
藤田, 陽子 Fujita, Yoko
本報告では、(1)研究プロジェクト「新しい島嶼学の創造-日本と東アジア・オセアニア圏を結ぶ基点としての琉球弧」(Toward New Island Studies-Okinawa as an Academic Node to Connect Japan, East Asia and Oceania) における問題意識と研究目的、(2)沖縄における重要な環境問題とその特徴及び解決に向けた課題に関する考察、の2点について述べる。(1)「新しい島嶼学の創造」プロジェクト 国際沖縄研究所の研究プロジェクト「新しい島嶼学の創造」は、島嶼地域の持続的・自立型発展の実現に向けた多様な課題について、学際的アプローチにより問題解決策を導出・提案することを目的とした事業である。従来の島嶼研究は、歴史や民俗、自然地理、文化人類学など、大陸との比較においてその特徴を捉えることを中心として展開してきた。また、「狭小性」「環海性」「遠隔性」といった大陸との相対的不利性に焦点を当てる研究も数多く行われてきた。こうした従来の島嶼研究の成果を踏まえつつ、本プロジェクトにおいては島嶼の不利性を優位性と捉え直すことによって島嶼地域・島嶼社会の発展可能性を探り、問題解決に向けた具体的な処方箋の導出を目指す研究を展開する。そのために「琉球・沖縄比較研究」「環境・文化・社会融合研究」「超領域研究」の三つの学際的研究フレームを設定し、島嶼に関する学際的・複合的研究を推進している。(2)沖縄における環境問題 沖縄の自然環境は、その生物多様性の豊かさや自然景観の美しさなどにより多数の観光客を惹きつけ、専門家の関心を集めている。しかし2003年には、沖縄本島北部やんばるの森を分断するように敷設されている林道の存在や、日本国内法が適用されない米軍基地の存在、重要地域の国立公園化など保護区域の設定が不十分であることを理由に、環境省が琉球諸島の世界自然遺産委員会への推薦を見送った。これは、長い年月をかけて培ってきたストックとしての自然は優れているが、それを維持・管理する人間側の体制が十分に整備されていない、ということを意味していた。2013年1月31日、環境省はこれらの課題に取り組みつつ奄美大島・徳之島・沖縄本島北部(やんばる地域)・西表島の4島を中心とした奄美・琉球のユネスコ暫定リスト入りを決定したが、最終的な世界自然遺産認定に向けては、自然保護に対する地域住民の認識の共有や、開発を制約する国立公園化など、困難な課題に直面している。在沖米軍の活動に起因する環境問題については、地位協定あるいは軍事機密の壁による情報の非対称性が問題の深刻化をもたらしている。米軍には、運用中の基地内で行われている軍事関連活動について日本あるいは沖縄に対して情報開示の義務は負わない。また、返還後の跡地利用の段階で汚染等が発覚した場合の浄化に伴う費用負担のあり方について汚染者負担の原則が適用されず、また汚染状況の詳細が予め把握できないことによる開発の遅延という経済的損失も地域にとっては大きな負担となる。これらの問題を解決するためには、地位協定の運用改善および改正を含め、日本の環境関連法あるいは米国環境法の適用可能性について検証することが不可欠となる。
下地, 芳郎 内山, 愉太 藤平, 祥考 香坂, 玲 松本, 晶子 平野, 典男 Shimoji, Yoshiro Uchiyama, Yuta Fujihira, Yoshinori Kohsaka, Ryo / Kosaka, Ryo Matsumoto-Oda, Akiko Hirano, Norio
才津, 祐美子 Saitsu, Yumiko
本稿では,オーモンデーという民俗芸能(「念仏踊」といわれている)の起源の語りに焦点を当てて議論を展開していく。なぜ衣装や芸態など他の構成要素ではなく,起源の語りを問題にするのかといえば,起源の語りにはそれを語る人の「願望」のようなものが込められているからである。民俗芸能と呼ばれるものの多くは,その起源が明確ではない。いつ,誰が,どのようにして,何のためにはじめたのかは,今となっては誰にもわからないのである。それ故に,多様な語りを許してきた。しかし,起源の語りというのは,単なる自由気ままな想像からのみ生まれるわけではない。いつ,誰が,どういう目的でそのような起源を語るのかということは,語り手自身がその民俗芸能をどう見たいかということと密接な関係がある。オーモンデーの場合,「南方]系の踊という説と,この説を全否定か部分否定する,あるいは全く無視する「風流」系の踊という説があり,この二つが主たる起源の語りとしてあげられる。本稿では,流通量としては圧倒的に多い「南方」系という語りの創出過程を丹念に検討した上で,それがテクスト間で援用されていく様子を考察していく。その際,対抗言説としての「風流」系という語りについても合わせて考察し,両説と語り手の関係について明らかにする。また,本稿はこうした起源の語りに関する考察をもとに,現在の聞き取り調査で得られる資料を取り扱う際には一定の留保が必要であることを示す。われわれが「インフォーマント」と呼ぶ人々は,単なる「前世代からの伝承の継承者」ではない。彼らはテクストや口承など複数の形で知り得た「いろんな人」の話を自らの語りとする。このように,フィールドでの語りは錯綜している。こうした状況は今後ますます加速していくだろう。テクスト間で,テクストと口承の間で,あるいはロ承間で行われる不断の交渉の中で,新たな語りが創出されていく。賢しげな理論を振り翳すより,さしあたり,目の前の語りと正面から対峙することからはじめるしかない。
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