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Miyahira, Katsuyuki 宮平, 勝行
「ことばの民族誌」研究は伝統的に、特定の文化内での言語行動の記述調査を通して当該文化内での「アイデンティティー」や「社会」の意味、もしくは多様な「アイデンティティー」の表現方法を明らかにした。本稿では。このような「ことばの民族誌」の伝統的な研究方法を再考し、ことばの解釈学の論点を取り入れながら、異文化間コミュニケーションの研究に「ことばの民族誌」的アプローチが有効であるかを考察する。ことばが人間の存在そのものとなる社会的行政であるという点に着目すると、異文化間のコミュニケーション、とりわけ異文化間での自他同一化においては、個々の文化的話法の調和を図ることが必要となる。このことは、<言語共同体に土着のことばとその意味の発見>という伝統的な「ことばの民族誌」研究の視点から、<個々の文化的話法の調和とその方法>に分析の視点を移すことによって、異文化間コミュニケーションにおいても「ことばの民族誌」が有効に活用できることを示唆する。このような視点の転換を越して、それぞれの文化の特徴がより明白となり、絶えず変容する文化的アイデンティティーの実像が明らかになる。本稿は、こうした視点の移行を立脚点とし、「ことばの民族誌」を確立した原点の理論にたち返ることによって、異文化間コミュニケーションにおける「ことばの民族誌」研究の可能性を検討した試論である。
金城, 尚美 Kinjo, Naomi
日本人または日本人学生と留学生に教育的な交流の場を提供し,参加者相互の異文化理解を促進する教育実践がさまざまな形で行われているが,その意義と効果を明らかにする実証的な研究の蓄積は少ないことが指摘されている(岩井2006)。そこで本研究では,小学校で行った6年生(32名)と留学生(13人)の交流活動の事前と事後に調査を行い,小学生の留学生に対するイメージの変化と,異文化を受容する態度の変化を調査し検証した。その結果,留学生に対するイメージの変化と異文化受容態度の変化に統計的に有意な差が現れ異文化理解を目的とした教育の効果が示された。また留学生との交流前に手紙の交換,ビデオ・レターの交換,質問交換などの事前のやり取りを通し,小学生が留学生と交流することについて感じている不安を軽減することができ,交流活動がより円滑に進められることがわかった。この結果から,交流会前のやり取りの重要性が示唆された。
Miyahira, Katsuyuki 宮平, 勝行
普遍的な発話行為のひとつとして唱えられた依頼行為(directive)については、多くの言語共同体における比較談話研究から、その表現上の多様性が明らかにされてきた。言語共同体に特有な依頼行為から推察される、文化的に規定された自己、対人関係、そして権力構造などについても多くの論考が存在する。異文化コミュニケーションにおいては、このような文化的特色を持つ総体が複数存在することから、談話を通して依頼行為の表現と意味の違いに関する相互調整が必要となる。そこで本稿では、従来の比較談話研究の結果を考察することによって、異文化コミュニケーションにおける依頼行為の研究の理論的立脚点をまとめてみた。考察の結果は四つの論点にまとめられる。(1)異文化コミュニケーションの研究では、発話者と聞き手の能力や態度、権利、義務などに関する語用論上の条件を当然のものとして受け止めず、意識的に分析することによってまず依頼に関する異文化間の類似点と相違点が明らかになる。(2)依頼行為の最も基本的な誤用論的特徴はその直接性と間接性にある。(3)依頼表現を直接-間接という連続体の上で捉えることによって、顕著な依頼表現の特徴を見出すことができる。このようにして明らかにされた依頼表現の誤用論的特徴は、背景にある文化特有の意味を発見し、それを的確に解釈する手がかりとなる。(4)異文化コミュニケーションで必要な依頼行為の相互調整の方法とそこから推察できる自己や対人関係の文化的な解釈には、直接-間接という連続体での駆け引きを考察することがひとつの有効な方法である。
Miyahira, Katsuyuki 宮平, 勝行
コミュニケーション学において,言語共同体独自の話しことばの意味を記述・解明することがひとつの研究テーマである。各共同休に特有の「自己像」や「社会」,「ことば」の意味がどのように記号化されるのか,そして文化的に定義されたこれらの意味を独自の発話形式でどのように表明するのかということが問われてきた。その一端として,ことばの民族誌や異文化接触の研究に基づき,多様な文化的シンボルの意味やコミュニケーション行動の形式と規範というものが明らかにされている。本稿では,これらの事例研究をいくつか取り上げ,比較対照することによって,話しことばによる自己表現の文化的な特徴や異文化間での類似点と相違点について考えてみる。「自己」や「社会」は文化のシンボルとして特殊な意味を帯びており,それに伴い「コミュニケーション」,「命令」,「模倣」,「自己表現」等の発話行為も特殊化され,言語共同体独自の意味を含むことになる。こうしたシンボルの意味を言語共同体独自のコミュニケーション儀式や話し方の論理の枠内で捉えると,コミュニケーション行動の一部は常に文化的行為であることがわかる。まとめとして,文化的自己に関するシンボルと発話形式,更に模範的なコミュニケーション行動を「個人」,「他者関係」,「行為」,「共同体」という四種の自己像のフレームにまとめてみた。こうしたメタアナラシスから得られる類似点と相違点が異文化接触にもたらす影響は大きい。
Kase, Yasuko
英語文化専攻の必修科目『異文化理解』を担当する中で、どのようにダイバーシティ教育に取り組んできたのかをレポートする。教材の選定と使用例、学生に提示したディスカッションのトピック、授業の展開方法、学生の反応を紹介し、琉球大学でダイバーシティに関する授業を提供する意義について論ずる。
Miyahira, Katsuyuki 宮平, 勝行
生活史(life history)を用いた記述研究によって、言語共同体の話しことばの文化的特色がこれまでに多く解明された。従来の研究では、特定の言語共同体のメンバーが分析の対象であるため、最近の国際社会を反映するようなバイリンガルによる言語行動の生活史研究はまれである。そこで、本稿では日本文化を異文化として体験したひとりの日系アメリカ人の生活史を記述し、バイリンガルによる話しことばの諸相を分析する。生活史に「ことばのエスノグラフィ_」(ethnography of communication)を加えた複合方法論に基づく分析の結果、顕著にあらわれたのが被験者の抱く「自己」と「社会」の概念である。「自己」とは「他」との関係によって決まるのではなく、自発的な定義づけにより確立されるものである。さらに、「社会」というのは常に画一化きれ、実像のない抽象化の産物にすぎないこともわかった。日本社会やアメリカ社会ということばによって表象されるものは、極度に一般化されたステレオタイプの世界にすぎないことになる。バイリンガルの被験者はこうした「自己」と「社会」の概念に基づき、異文化に関する無知から生じる誤解や個人間の不和に直面した場合には、独特なレトリックで事態を収拾する。つまり、異文化に関する無知に起因する個人間の不和は克服不可能であり、和解に向けた協議も実を結ぶことがない。翻って、被験者は「相手の先入観によって文化的無知を自己認識させる」レトリックの手法をとる。本論では、こうした被験者のレトリックが、結果として他文化学習の機会となることを論証する。
Ikehara, Atsuko Shayesteh, Yoko 池原, 敦子 シャイヤステ, 榮子
現在,アメリカ合衆国では,社会の移民の人口増加に伴い,学校教育における多文化教育の必要性が問われている。音楽教育においても,音楽を通しての異文化理解と国際理解の実践が提案されている。児童の異文化音楽に対する興味や関心は,多文化音楽教育を実践するにあたって重要な影響をあたえる。同様に,異文化音楽の指導方法を研究するのも必要である。当報告は,アメリカ合衆国の小学校第2学年の児童40名を2つのグループに分け,沖縄伝統音楽を教材とした多文化音楽授業を行い,そのなかで2種類の指導方法,1.受け身的鑑賞指導のみ 2.鑑賞に加えて,エイサー太鼓のダンス指導を取り入れた体験学習,を比べ,児童の異文化音楽における興味と指導方法に対する態度をアンケートによって採取したものである。結果は,2つの指導効果に有意差は見られなかったものの,両グループ共に異文化音楽に対する興味や関心を示した。受け身的鑑賞指導と体験学習については,継続的な指導のもとに,体験学習の指導効果が期待できると考えられる。
石原, 嘉人 Ishihara, Yoshihito
さまざまな文化的背景や学習目標を持つ上級レベルの講読クラスにおいて、テキストは共通の関心事である「日本文化」を扱うことが少なくない。このことは、文化的な摩擦を事前に回避するという名目で、結果として一方的な同化を働きかけてしまう危険性を常に含んでいる。我々は「日本文化」を講読の授業で扱う際に、このことに充分に注意を払わなければならない。小論では、異文化を画一的、固定的なものとして学ぶのではなく、多角的且つ柔軟に理解する方略を身につけられるような講読のあり方を、実践に基づいて追求した。このことは、沖縄を留学先に選んだことの意義を確認するプロセスともなりうる。日本と沖縄の現状を対比させることで文化の多様性を理解し、その延長として各受講生の出身地域について書かれたテキストを批判的に読むことに繋げられるからである。こういった内容の文章を読むことは、異文化環境のさなかにある学習者にとって自らの体験を振り返りつつ参照し、それを日本語によって言語化することを意味する。そのため、かなり難易度の高い文章であっても、強い関心を持って取り組み、理解することが可能となる。
Kanemoto, Madoka 兼本, 円
本稿では、「XはX」(ホモロガス・トートロジー)の発話の持つ異文化間に於ける価値の相違について検討してみた。ホモロガス・トートロジーは、高文脈の日本文化では、低文脈の米国での低い評価とは逆に、美的であり、説得力に豊むコミュニケーションの手段として高く評価されていることが分った。さらに、今後の研究の必要性を説いた。
Miyahira, Katsuyuki 宮平, 勝行
1978年の発表以来、ポライトネス理論は様々な論争を巻き起こして発展してきた。本稿ではまずその発展の経緯をたどり、理論の問題点を整理する。さらに、ポライトネス理論を異文化間依頼行動研究に応用する場合に必要だと考えられる修正点を指摘し、新しい理論的枠組みを提示する。ポライトネス理論の中心的な概念であるフェイスは、当初唱えられたように、「承認」と「押し付けからの解放」というふたつの欲求に普遍的に分類できるものではなく、社会から与えられるものであり、その構成要素はそれぞれの文化・共同体に独自の概念である。したがって、特定の言語行為がフェイスを汚すものかどうかは、文化によって解釈が異なってくる。こうした文化依存性を考えると、ポライトネス理論の核心的概念である「フェイスを汚す行為」(FTA)は、その視点を「フェイスを立てる行為」に転換することが望まれる。そうすることにより、異文化コミュニケーション行動は、発話者がお互いのフェイスに適応するプロセスであるととらえることができ、フェイスのコミュニケーション理論に論理的な一貫性が生まれてくる。さらに、フェイスという文化的概念を支える「己」の意識、意味、そして言語シンボルを民族誌学的にとらえることが重要となる。本論ではこのような新しい理論に向けての試みを五つの論点にまとめてみた。
大高, 洋司 OTAKA, Yoji
互いに内容の近似した曲亭馬琴の読本『四天王剿盗異録』(前・後編一○巻一○冊、文化三年一月、鶴屋喜右衛門刊)と山東京伝の読本『善知安方忠義伝』(前編六冊、文化三年一二月、鶴喜刊)の関係について、稿者自身の旧稿「京伝と馬琴―文化三、四年の読本における構成の差違について―」、「読本研究」第三輯、平成一〈一九八九〉・六)を大幅に訂正しながら再説し、類似は両作の間のみならず互いの周辺作にまで広がっていることを指摘して、寛政中から文化四年に至る京伝・馬琴の読本の制作・刊行は、そこに版元をも加えた両者の談合を前提としているのではないかとの仮説を提示した。
金, 孝珍
本研究では、日本語コミュニケーションにおいてスピーチレベルが非対称的に運用される現象に着目し、接触場面と母語場面における相互行為、及びそれによって形成されるコンテクストの特徴について比較考察を行った。さらに接触場面のスピーチレベル運用に影響を与える言語的・文化的要素について解明することを試みた。 分析対象は、場の性質や対話者間の関係(すなわち年齢差、社会的地位の差、性差などの要因)を考慮したスピーチレベル運用によって、コンテクスト化が活発に行われる成人二者間の初対面会話とし、母語場面と接触場面の会話を収集した。研究手法及び比較考察の理論的枠組みは、異文化間コミュニケーションにおけるコンテクスト化のプロセスや会話の推論についての解釈的枠組みを打ち立てたJohn Gumperz(1982)の「相互行為の社会言語学」、及びコンテクストを「言語使用者が継続して携わっているところの、ダイナミックに変化するコミュニケーションの状況や経験を現在進行形で表すもの」と捉えるTeun A、 Van Dijk(2008・2009)の「コンテクストモデル論」を拠り所とした。 分析の結果、母語場面における同性間の会話では、初対面であっても年齢差や立場の差が意識されやすく、スピーチレベルの掛け合いや非対称的なスピーチレベル運用が生じやすいことが分かった。異性間の会話では年齢差やスタンスの差の影響は顕著ではなく、初対面という心理的距離と性差がスピーチレベル運用を左右する決定的な要因であることが明かになった。一方、接触場面会話における非対称的なスピーチレベル運用の様子は母語場面とは異なり、必ずしも年齢差や性差、スタンスの差に起因するわけではなかった。その背景には、伝わりやすいことば遣い、分かりやすい日本語、助け舟といった仕方で顕在化する対話者間の言語的・認識的地位の差、及び対等なスタンスへの志向、母語話者と非母語話者という成員カテゴリー、非母語話者の日本語能力やスピーチレベル運用の仕方といった異文化性に応じて変容したコンテクストモデルがあることが示された。さらに、非母語話者のスピーチレベル運用についての解釈は、非母語話者の言語文化的背景の影響を受ける一方で、個々人のコンテクストモデルによって多種多様であることが明かになった。また、スピーチレベル運用についての解釈の相違が異文化間のミスコミュニケーションを引き起こす要因になり得るということが示唆された。
君塚, 仁彦 Kimizuka, Yoshihiko
日本国内で「異文化」とされる存在。そこには,在日外国人の歴史,そして生活・文化がある。その多くは,日本の近代化への歴史的過程における海外移民や植民地政策の延長線上にあるが,在日外国人のなかで,在日中国人である華僑とともに最も古い歴史を持つのが在日朝鮮人である。本稿では,在日朝鮮人の労働そして生活の記憶をとどめようとする,設立母体の異なる二つの博物館,丹波マンガン記念館(京都市)と在日韓人歴史資料館(東京都)の二館を取り上げ,在日朝鮮人の記憶をどのように記録し,いかに展示表象しているのか,その内容と意義を,在日朝鮮人による博物館運動に焦点をあてながら明らかにした。この2つの博物館展示が物語っているのは,日本人・日本社会にとって在日朝鮮人,あるいは在日朝鮮人社会が「隠された存在」であり続けているということである。日本社会で多文化共生を実質化していくためには,本稿で取り上げたような博物館は必要不可欠である。在日朝鮮人の記憶の継承と課題は,日本における固有の歴史的課題であり,今後は,行政立の施設もこれを分担すべきであろう。地域史概念の中に,より積極的に在日朝鮮人の生活史,彼ら,彼女らが果たしてきた歴史的かつ社会的役割について組み入れる必要があり,史実の掘り起こしや継承という点も含めて,公立博物館の展示にも反映させなければならない。博物館の歴史展示が,彼ら,彼女らを一方的に「異文化」として位置づけ,囲い込むのではなく,差別・抑圧の歴史を認識し,それを乗り越えていくためにも,産業・文化などで果たしてきた役割をより積極的に明らかにし,関連資料の収集・保存・公開を図っていくことが重要である。在日朝鮮人は文化的側面だけで記憶され,表象されることも多いが,差別や抑圧,人権問題を踏まえた展示や継続する植民地主義的な状況を伝えていくことも大切である。二つの博物館の展示表象は,そのことの大切さを端的に物語っている。
谷口, 康浩
本論では,縄文時代中期の環状集落を構成する家屋の中に系統の異なる家屋型式が共存する現象に着目し,これを「異系統家屋」として概念化するとともに,かかる観点から環状集落の分節構造の成り立ちとその背後にある社会関係について考察した。関東・甲信地方で拠点的な環状集落の造営が始まる中期前葉の五領ヶ台式後半から中期中葉の勝坂式期の事例に焦点を当て,分節構造の形成過程に異系統家屋がどのように関わったのかを検討した。その結果,中期中葉勝坂式期の関東地方南西部には,北陸系の異系統家屋と推定される二重柱穴列の掘立柱建物,中信系の異系統家屋と推定される「柱間溝」を有する大形竪穴住居や多柱穴の円形竪穴住居が移入され,一部の環状集落に受容されていたことが明らかとなった。異系統家屋の受容は同じ地域にある集落でも一様ではなく,また環状集落を構成する分節単位ごとに異なる場合があることも指摘した。また,それらの異系統家屋の伝わり方が,隣接する地域や集落を順に経由した玉突き式の単純な伝播ではなく遠隔地間の直接的関係を示唆している点を,事例集成と分布論的分析から明らかにした。このような諸現象を根拠として,勝坂式期における拠点的な環状集落の造営に複数の系統の異なる単位集団が関与していた可能性があること,そしてそれらの単位集団が個々にアイデンティティーを保持し,かつ集落外・遠隔地につながる集団関係を有していたことを論じた。また,異系統家屋の受容・共存が,同時期の土器群に見られるキメラ的な折衷土器や異系統土器の共存という現象とも密接に関連している点を指摘した。結論として,こうした諸現象を生じさせた要因を合理的に説明するモデルを提示し,勝坂式土器の分布圏に広がる広域部族の内部がリネージまたはシブのような単系出自集団に分節化していたこと,地域を超越した異系統家屋や異系統土器の動きが外婚制や半族組織によって助長された可能性が高いと考察した。
河辺, 俊雄 山内, 太郎 大西, 秀之 KAWABE, Toshio YAMAUCHI, Taro ONISHI, Hideyuki
本研究ユニットは、ラオス国内における生態学的環境を異にする複数の地域において、地域住民の生活環境への生物学的適応と社会文化的適応を同時に評価することを目的とする。特に「身体」に焦点を当て、人びとの形態と行動(活動)を規定している要因について、生物学的側面から社会文化的側面に至るまでを射程に入れ、さらにはその相互作用について検討する。また、開発や市場経済化などの「近代化」に起因するライフスタイルの変化が身体の形質や活動に及ぼしている影響を把握するとともに、その現在までの歴史的変遷を世代間や地域間などの比較を通して考察する。
桑山, 敬己
本論は,アメリカ人類学の研究および教育動向を,教科書の記述の変化を通して検討する。ケーススタディとして,Serena Nanda著Cultural anthropologyの旧版と新版を取り上げる。新版の新たな特徴として,インターネットの使用,グローバリゼーションおよびジェンダーの議論がある。ポストモダニズムの影響も強く,特に認識論,民族誌の書き方,文化の概念,政治権力,芸術の章に著しい。但し旧版の進化論的アプローチも残されており,従来の「大きな物語」とポストモダニズムが共存するという理論的矛盾が見られる。またアメリカの人類学を全世界の人類学と同一視するのも問題である。こうした欠点は他の教科書にも見られる。今後はより体系的な教科書分析を行ない,異文化としてのアメリカ人類学に迫る試みが望まれる。
大橋, 幸泰 OHASHI, YUKIHIRO
本稿では、日本へキリシタンが伝来した16世紀中期から、キリスト教の再布教が行われた19世紀中期までを対象に、日本におけるキリシタンの受容・禁制・潜伏の過程を概観する。そのうえで、どのようにしたら異文化の共生は可能か、という問いについて考えるためのヒントを得たい。キリシタンをめぐる当時の日本の動向は、異文化交流の一つと見ることができるから、異文化共生の条件について考える恰好の材料となるであろう。 16世紀中期に日本に伝来したキリシタンは、当時の日本人に幅広く受容されたが、既存秩序を維持しようとする勢力から反発も受けた。キリシタンは、戦国時代を統一した豊臣秀吉・徳川家康が目指す国家秩序とは相容れないものとみなされ、徹底的に排除された。そして、17世紀中後期までにキリシタン禁制を維持するための諸制度が整備されるとともに、江戸時代の宗教秩序が形成されていった。こうして成立した宗教秩序はもちろん、江戸時代の人びとの宗教活動を制約するものであったが、そうした秩序に制約されながらも、潜伏キリシタンは19世紀中期まで存続することができた。その制約された状況のなかでキリシタンを含む諸宗教は共生していたといえる。ただし、それには条件が必要であった。その条件とは、表向き諸宗教の境界の曖昧性が保たれていたことと、人びとの共通の属性が優先されたことである。
浅井, 玲子 池田, 悠美 Asai, Reiko Ikeda, Yuumi
高等学校の「家庭総合」において福祉複合施設を題材とし、(1)高齢者・子ども・高校生、それぞれの立場に立ち、お互いのためにできることをディスカッションし、立場を入れ替える場面を仕組み、異世代が関わる事の大切さに気づかせる。(2)地域にある異世代の関わりがある施設の取り組みを知らせ、自分の生活と関連付けることで、異世代が関わる事について、興味・関心を持たせる。をねらいとして行った授業実践と検証結果である。線結び内容分析、会話プロトコル分析、自由記述による検証によって、本提案題材は有効と判断できた。
高井ヘラー, 由紀
植民地支配におけるキリスト教の役割は、これまで「教会と国家」という観点から、どちらかというと統治権力に対して妥協的であったその姿勢が、批判的反省的にとらえられる傾向があった。そのような妥協的姿勢は、「キリスト教国」である欧米のみならず、日本による植民地支配の場合においても同様であった。しかしキリスト教は、植民地支配が生み出す多文化的な状況において、しばしば、異文化に属する「支配者」及び「被支配者」間に、文化的政治的障壁を越えた交流をもたらす媒介でもあった。このことを示す具体的な事例として、本稿では、日本による台湾植民地統治が開始した一八九五年、台湾武力制圧の過程において見られた事例に着目し、植民地統治下台湾における日本、台湾(澎湖)、欧米宣教師の三者間のキリスト教を媒介とした「出会い」及び「交流」の事実を描くことによって、植民地支配下における異文化交流の現実とその問題点を探ることを目的とする。 第一に扱う事例は、台湾本島にさきがけて占拠された澎湖における、日本軍人キリスト教徒と現地住民キリスト教徒間の交流である。この事例からは、両者間に「親交的」ともいえる関係が成立した経緯を追った上で、相互に対する思惑においては「擦れ違い」があった側面を指摘する。 第二に扱う事例は、日本教会より日本軍慰問の目的で台湾に派遣された従軍慰問使の、台湾現地キリスト教会との出会い及び交流である。ここでは特に、慰問使の一人であった細川瀏の行程に着目し、その台湾教会及び英加宣教師との交流及び関係構築を描きつつ、慰問使としてのメンタリティーに見られる問題性を検討する。 日本軍と現地住民が互いに猜疑心を抱いていたこの時期に、キリスト教を介して、台―日―英加信徒及び聖職者間に「親交」関係が構築されたのは興味深いことであった。しかしそれは、いまだ互いに言語疎通もままならない状況において、日本人側の有する「支配者」的メンタリティーが、台湾人側にも宣教師側にも明確には把握されていなかったために可能だったのでもあった。三者間の思惑の擦れ違いは、その後五〇年間にわたる相互の関係において明らかになっていくのである。
ケリ, 綾子 Kelly, Ayako
日本語を習得する上で,日本を理解し学習意欲を向上させるために,日本事情のテーマとしてふさわしいものは何か,そしてどのようにして授業を進めていくのが効果的なのかを,アンケート結果をもとに考察しカリキュラムを構成し実践した。その結果,特に実習,体験学習,見学を通して学ぶことに留学生は意義を見い出していることがわかった。また留学生の発表する活動については,教室外での学習を促すことになり,自ら取り組み理解を深めることができた様子がうかがえた。つまり,日本事情のカリキュラムの組み立てや内容を考えるにあたっては,情報を与えるに留まらず,能動的な活動を取り入れる必要性があると言える。さらに異文化を理解し,受け入れ,また自国文化との相違点や共通点などを考え,意見を述べることが出来るようなテーマを選ぶ必要があると考えられる。
佐々木, 高明
本稿は岡正雄・柳田国男の所説に始まり,民博の「日本民族文化の源流の比較研究」をへて,日文研を中心とした「日本人及び日本文化の起源の研究」に至る,戦後の日本民族文化起源論の展開の大要とその間にみられた諸学説の変遷を大観し,あわせてこの種の起源論の直面するいくつかの問題点を指摘したものである。結論として次の4 点を摘記することができる。 1.日本文化を単一・同質の稲作文化だとするのではなく,それは起源を異にするいくつかの文化化が複合した多元的で多重な構造をもつものだという認識が一連の研究を通じて共有されるようになった。 2.考古学・人類学・遺伝学その他の隣諸科学の発達とそれらとの協業の成果が起源論の研究に格段の発展をもたらした。その傾向は今後も一層顕著になると思われるが,この種の学際的総合的研究を推進するには,すぐれた研究プロデューサーとそれを支える大型の研究組織が必要である。 3.日本民族文化起源論の展開は,わが国では日本人のアイデンティティを問うという問題意識に支えられて展開してきたが,最近の国際化の進展などの状況のもとで,この種の問題意識とその理解を求める社会的要請は一層拡大してきている。それに応じることが学界としても必要である。 4.だが,現下の最大の問題は,組織の問題ではなく人の問題である。大林太良が指摘した如く「最近の若い世代の民族学者に日本民族文化形成論の研究が低調なこと」が今日の難問である。日本民族文化起源論を含め,歴史民族学的課題の克服に,日本の民族学界は,今後どのように対応するのだろうか。
金城, 尚美 渡真利, 聖子 Kinjo, Naomi Tomari, Seiko
国の施策による留学生の増加により、日本に来る留学生の背景が多様化している。また日本という異文化の環境におかれ心身に不調をきたす留学生も少なくない。そのため、より充実した支援が求められている。本稿では特に精神的な面で問題を抱える留学生についてどのようなサポートを行ったのか事例を報告し、指導教員の役割について考察した。その結果、留学生の個人情報の保護に配慮しつつ、関係教職員、専門家、友人を含めた関係者との連携と恊働によるサポート態勢の必要性が浮き彫りになった。さらに連携と協力、適切な支援のためには指導教員がキーパーソンとなり「つなぐ」という役割が重要であることがわかった。
Kishigami, Nobuhiro
カナダにおいては1980年代に入ってから,多数のイヌイットが都市に移動し,居住するようになった。1991年に実施された先住民人口調査によると,カナダ全体でイヌイットであるというアイデンティティを持つ4万9千人の中で,10万人以上の都市に住んでいる人口は8,300人あまりである。これらの都市在住のイヌイットの生活の実態はあまりよく知られていない。本稿では,カナダ国ケベック州モントリオール地区に在住するイヌイットの出身地,生活の実態,彼らの将来展望について報告する。そして彼らの文化やエスニック・アイデンティティがどのように変容しつつあるのかについて論ずる。1997年の時点では,地区に在住す るイヌイットは独自のコミュニティーや都市文化を形成していない。片親が非イヌイットであったり,モントリオール地区で生まれ育ったイヌイット出自の人はイヌイット語を話せなかったり,イヌイット的な生活様式を保持していなかったりするが,イヌイット意識は持ち続けている。この中には長期にわたる都市生活や異民族婚の結果,2つ以上のエスニック・アイデンティティを併せ持つ人が出現しつつある。
全, 京秀
博物館の概念は西洋における帝国主義及び植民地主義の拡大という脈絡とは無縁ではありえない。朝鮮総督府博物館は1915年に朝鮮王宮跡地に創設され,しかも博物館の名称自体が,植民地の民族に対する支配を明白に示していた。これを「植民地主義博物館」と私は呼びたい。前者と対照をなす「民族主義博物館」は,米国軍政府の援助のもとでの独立と共に,最終的に建物・機構ともに前者に取って代わった。この博物館は1950年の朝鮮戦争の直前にソウルの人類学博物館と合併した。この意味ではこの博物館は,異文化を展示するという人類学的内容をもっていたわけである。植民地時代には民族を支配するために,独立以降は民族とその政府にとって,古くからの由来や文化的価値,そして政治的正統性を提示することで,博物館は少なくとも植民地主義的利益と民族主義的利益のために尽くしてきたのである。21世紀にはグローバリズムというキーワードが世界の中で我が国の博物館を示していく主要な課題となるかもしれない。
宮島, 達夫 MIYAZIMA, Tatuo
国立国語研究所は1956年の雑誌九十種について大規模な語彙調査を実施した。その結果は報告書として発表されているが,今回,その各異表記の度数をふくめた,全部の語彙の度数を言語処理データ集7として公表することになった。本報告は,そのデータの統計的な分析である。修正したデータによって,これまでの報告書にのっている統計表を書きなおしたほか,異表記の度数についての統計をあらたに追加し,表記のゆれが多いのは和語・動詞,すくないのは漢語・固有名詞といった点をあきらかにした。
並木, 美砂子 Namiki, Misako
博物館教育の理論構築には,利用者主体の学習論が役立つが,とりわけ歴史展示を中心に考える上で,以下の3つの学習論の採用を提案した。第1は,「自由選択学習」の考え方,第2は,「正統的参加論」,そして第3に「ナラティヴ」の概念である。いずれの学習論においても,博物館利用者を中心におき,その視点から動的な学習プロセスを重視している。学習を個人の閉じられた世界で起きることとしてとらえるのではなく,社会的交流や博物館組織の変容を視野にいれた学習論はいずれも博物館教育の実践に有効である。なかでも,第3のナラティヴ概念の積極的採用は,利用者のより主体的な博物館利用のありかたを考えるうえで,歴史系の博物館では参考になると思われる。とくに,歴史が異文化相互の交わりや軋轢の経緯として描かれる際,自らの所属する文化と社会について熟考が求められることになり,個人の「生」の意味を社会や歴史との関係において深く考える体験を促すという,このナラティヴ的解釈の勧めが役立つと考えられる。
石原, 嘉人 Ishihara, Yoshihito
小論は,異文化を画一的,固定的なものとして学ぶのではなく,多角的且つ柔軟に理解する方略を身につけられるような講読のあり方を.2002年と2003年の前学期での実践に基づいて追求した「講読を通じての異文化理解(その一)」の続編である。国家や民族という枠組みを前提にしたテキストを多く用いた(その一)と異なり,本論では個人の内面を扱ったテキストが中心となっている。主なトピックは,近代的自我,無意識,歴史認識,贈与と交換,といったものである。近代化された社会において,個人という単位を成立させることが,個々の人間にとってどのような影響を及ぼすのかを読み解くことが全体を通した一つのテーマとなっている。
名護, 麻美 タン, セリーナ 當間, 千夏 東矢, 光代
この事例報告では、2021年3月に実施した世界展開力強化事業のオンライン型短期研修プログラム(「太平洋島嶼地域特定課題プログラム」)の概要を紹介するとともに、プログラムの自己点検・評価をふまえた質保証を伴う教育効果を分析し、効果的なオンライン型研修プログラムを構築するための取り組みの整理を試みる。教育効果に関する分析は、BEVI(Beliefs, Events, and Values Intentory)によるアセスメントと学生への事後アンケート調査を用いた。分析結果から、海外連携大学の学生、日本人学生ともに社会的開放性が元々高い参加者の集団で、研修後はさらに環境への関心や異文化理解に通ずる国際志向性が向上したということがわかった。またアンケートの質的回答からも本プログラムに対する参加者の満足度が高かったことが伺える。本研修の取り組みが今後オンライン型研修プログラムを実施する際に参考となりえる。
片倉, もとこ
人間の存在そのものが多重的複合的であるように、人間のつくり出す文化も多種多様なものの総合体である。現在の日本文化も、日本列島の外からの文化や文明を受け入れていく過程のなかで、つくりあげられてきた。多種多様なるものが併行して、あるいは重なり合って存在してきたのが日本の文化の様相であろう。それを日本文化の「雑種性」とか「雑居性」とよんだ人もいる。 価値フリーで言葉をつかったとしても、一般には「雑種」は低く見られ、「純粋」の方が上等であると見られる傾向が存在している。「純粋」は「雑種」を排除し、ときには原理主義、正統主義をかざして過激な行動をとりやすい。しかし私も含めて日本人は、純粋への憧憬をどこかにもってしまうものなのかもしれない。 地球上の民族の興亡を見てみると、雑種を是とし多様なる文化をとりこんだところは、みずからの文化を強くし、歴史上に輝く業績をあげたことがみとめられる。多くの花々が、それぞれに咲きそよぐ状況を積極的に捉え得るものが「多花性」という言葉に託された意味である。 本稿では、縄文時代からの日本の文化の様相について先達の研究業績をふまえながら、そこに見られる「多花性」が現代日本の文化状況のなかに、顕著にみられることを述べる。 日本人にとって異文化の代表格とされてきたイスラーム文化をとりあげて、日本人の異文化受容のありようを、文献とフィールドワークから検証してみた。そこで浮かびあがった実態は、日本文化の雑居性とか雑種性という言葉で表現されるよりは、「多花性」と呼ばれていいものであった。 人間のつくりだす文化には、他の文化にも通ずる価値が底辺に存在する、すなわち通底性があるという仮説の一歩としても、他の文化とは距離があるとおもいこまれているイスラーム文化について検討してみた。その結果、イスラーム文化が、日本人にとっては異質なものとして受容されているのではないことが明らかになった。仏教や神道との共通性も浮かび上がってきた。それを多花性のなかの通底価値、すなわち「共価性」と、よんでみることにした。 戦後六〇年になる昨今、「ひとつの日本」への収斂がおこってきている。ひとつの花を咲かせようとする風潮、一花性をもつ日本を求める傾向が顕著に出てきた。そういう傾向の強い現今の状況であるからこそ、「日本の多花性」を検討してみる必要があると考える。 縄文から平成というとてつもない時空間を取り上げる結果は、いわゆる「論文」にはなり得ないかもしれない。しかし従来の論文のように、専門的に物事を細分化し分析していく手法だけでは全体を見失う危険性が高い。物事の本質を見誤ってしまう危惧さえある。 理で解するすなわち「理解」だけでなく、情や勘や感性で解く「情解」というべきものもあって、初めて全体的な「諒解」をなすことができるのではなかろうか。そういったアプローチの試みでもある。
馬場, 伸一郎 BaBa, Shinichiro
本稿の目的は,中部高地に分布する弥生中期・栗林式土器編年の再構築と広域編年上の位置づけ,分布と動態の明確化を行うことで,人の「うごき」を具体化することである。弥生社会・文化の研究という総合的研究を射程とするならば,まず土器型式の設定や細分,広域編年の作成は必須である。分析の結果,弥生IV期前半である栗林2式新段階は栗林式の分布域が最大化する時期であり,またその時期には,栗林式の中心地から離れた上越高田平野の吹上遺跡と北武蔵妻沼低地の北島遺跡で,栗林式およびその系統の土器が多量に出土するという現象を確認した。さらに同時期,小松式関連の土器分布のあり方から,高田平野から北関東へ抜ける主要交流ルートが「白根山-吾妻川ルート」から「千曲川-碓氷川ルート」へ転換することが判明した。そして千曲川流域内で最大級の集落遺跡である松原遺跡に,小松式関連土器の出土が偏る。まさにそうした土器分布の動態のあり方は人々の往来の仕方の変化であり,特定の場所で生産される物資の互酬性的交換活動のあり方の変化を示すと考えられる。栗林2式新段階は折しも佐渡産管玉の流通が明瞭になり,また長野盆地南部の榎田遺跡と松原遺跡の間で磨製石斧生産の分業が確立する時期である。異系統土器を多量に出土する複数の遺跡は,異系統土器集団間の「交易場」であると考えられる。すなわち,IV期前半の栗林式集団による広域ネットワークの形成と「交易場」の設定,長野盆地南部の磨製石斧分業生産の確立は,パラレルに進展した歴史的事象であり,集団間の互酬性的交易活動の極度の発達を示す歴史的意義をもつと考えられる。
村上, 学 MURAKAMI, Manabu
仮名本曽我物語の本文は各巻ごとに諸本の関係を異にし、全貌は未だ明らかでない。仮名本の生成論の前段階作業として校本を作成し、その関係を明らかにしようとする作業の、これは巻四の分である。
滕, 越 TENG, Yue
異文化間の「断り」に関しては,中間言語語用論などの分野で,「言語や社会的規範の違いにより衝突が起きやすい」と論じられることが多い。本研究では,個人差に焦点を当て,評価 の視点から研究を進めた。『BTSJコーパス』から5つの「友人の依頼への断り」の音声データを選択し,日本語母語話者3名と中国人日本語話者3名に,断られる側の視点に立って,5つの音声の好ましさをプロトコル分析とインタビューを通して評価してもらった。その結果,録音ごとに評価が比較的一致しているものとばらけているものがあり,特に評価のばらつきが大きかった2つの録音は,評価者の「友人への断り」における基本的態度が,「合理性・効率性重視」か,「心情・気遣い重視」かで評価が分かれていた。また,今回のデータからは,評価のばらつきと評価者の母語との関連性は見いだせなかった。
宮本, 一夫 Miyamoto, Kazuo
夫余は吉長地区を中心に生まれた古代国家であった。まず吉長地区に前5世紀に生まれた触角式銅剣は,嫰江から大興安嶺を超えオロンバイル平原からモンゴル高原といった文化接触によって生まれたものであり,遼西を介さないで成立した北方青銅器文化系統の銅剣であることを示した。さらに剣身である遼寧式銅剣や細形銅剣の編年を基に触角式銅剣の変遷と展開を明らかにした。それは吉長地区から朝鮮半島へ広がる分布を示している。その中でも,前2世紀の触角式鉄剣Ⅱc式と前1世紀の触角式鉄剣Ⅴ式は吉長地区にのみ分布するものであり,夫余の政治的まとまりが成立する時期に,夫余を象徴する鉄剣として成立している。前1世紀末から後1世紀前半の墓地である老河深の葬送分析を行い,副葬品構成による階層差が墓壙面積や副葬品数と相関することから,A型式,B型式,C・D型式ならびにその細分型式といった階層差を抽出する。この副葬品型式ごとに墓葬分布を確かめると,3群の墓地分布が認められた。すなわち南群,北群,中群の順に集団の相対的階層差が存在することが明らかとなった。また,冑や漢鏡や鍑などの威信財をもつ最上位階層のA1式墓地は男性墓で3基からなり,南群内でも一定の位置を占地している。異穴男女合葬墓の存在を男性優位の夫婦合葬墓であると判断し,家父長制社会の存在が想定できる。A1式墓地は族長の墓であり,父系による世襲の家父長制氏族社会が構成され,南群,北群,中群として氏族単位での階層差が明確に存在する。これら氏族単位の階層構造の頂点が吉林に所在する王族であろう。紀元後1世紀には認められる始祖伝説の東明伝説の存在から,少なくともこの段階には既に王権が成立していた可能性が想定される。夫余における王権の成立は,老河深墓地の階層関係や触角式銅剣Ⅴ式などの存在から,紀元前1世紀に遡るものであろう。沃沮は考古学的文化でいうクロウノフカ文化に相当する。クロウノフカ文化の土器編年の細分を行うことにより,壁カマドから直線的煙道をもつトンネル形炉址,さらに規矩形トンネル形炉址への変化を明らかにし,いわゆる炕などの暖房施設の起源がクロウノフカ文化の壁カマドにある可能性を示した。さらにこうした暖房施設が周辺地域へと広がり,朝鮮半島の嶺東や嶺西さらに嶺南地域へ広がるに際し,土器様式の一部も影響を受けた可能性を述べた。こうした一連の文化的影響の導因を,紀元前後に見られるポリッツェ文化の南進と関係することを想定した。
金城, 克哉 副島, 健作 Kinjo, Katsuya Soejima, Kensaku
平成15年度前期のまとめの活動として初級レベルの日本語クラスでプロジェクトワークを行った。中学校を訪問し, 留学生が自国について紹介するという活動である。本稿ではその過程について述べ, その後の留学生へのアンケート調査の結果をまとめ, 地域との交流をとおしたプロジェクトワークの試みの教育的効果や問題点を検討した。調査の結果, 留学生は今回のプロジェクトワークを高く評価していることがわかった。とくに, 教室で学んだ日本語を応用したり, 発表の技能を身に付けたりすることができたという言語技能が向上したという達成感が得られ, 日本の中学生について知り, また自国を紹介することで, 異文化理解が深まったと学習者が感じていることがわかった。一方で, 1) グループ活動として適切なテーマ設定だったか, 2) プロジェクトワークを行う時期として適切だったか, 3) 発表の技能の指導が十分だったか, といった問題点も明らかになった。
宇佐美, まゆみ USAMI, Mayumi
本稿では、ポライトネスを敬語のような言語形式だけの問題としてではなく、あいづちやスピーチレベルのシフトなどの現象など、談話レベルの現象も含めて実際の「ポライトネス効果」を捉える必要があるとして、その基本原則を体系化した「ディスコース・ポライトネス理論」(宇佐美2001;2003;2008;2009,2011)の基本的概念を簡単に導入する。DP理論では、話し手と聞き手の「ある言語行動の適切性についての捉え方や期待値」(「基本状態(デフォルト)」)が許容ずれ幅を超えて異なることが、実際の「インポライトネス効果」をもたらすと説明する。ここでは、主に、フランス語圏における学習者が様々な状況で遭遇する異文化間ミス・コミュニケーション場面の事例を取り上げ、それらがこの理論でいかに解釈できるかを提示し、この理論の解釈の可能性と妥当性を検証する。また、このような分析や解釈が、ミス・コミュニケーションの事前防止にいかに適用できるか、また、それらの考察をいかに日本語教育に生かしていくことができるかについても考察する。
出口, 顯 Deguchi, Akira
スカンジナビア諸国では,不妊のカップルが子供をもつ選択肢として国際養子縁組が定着している。養子はアジア・アフリカ,南アメリカの諸国を出生国としており,国際養子は異人種間養子でもあり,親子の間に生物学的・遺伝子的絆がないのは,一目瞭然である。彼らの間では,遺伝子や血縁といった自然のつながりより,日々の生活をともにしたつながりが親子の絆として大切にされている。最近の国際養子縁組においては,養子に受け入れ国の一員としてだけでなく,出生国の文化を担った人間でもあるダブルアイデンティティをもたせようという考え方が浸透している。そのような中,国際養子が不妊になり,実子ではなく養子縁組によって家族を新たに形成するとき,養子の出生国選択の理由は何によるのか,養父母になった国際養子5例の事例を紹介し,生物学的特徴の類似性が決して重要ではないことを浮き彫りにする。
藤尾, 慎一郎
全羅南道の島嶼部に位置する安島貝塚で出土した新石器時代前期の人の中に,古代東アジア沿岸集団の核ゲノムを含まない人が存在することを2021年11月刊行のNatureで知った。このことは,新石器時代の当初から古代東アジア沿岸集団の核ゲノムを含まない人びとが韓半島の南部にも存在していたことを意味する。したがって,韓半島新石器時代人の核ゲノムは,古代東アジア沿岸集団の核ゲノムを持っている新石器文化人(韓半島系)と,もっていない新石器文化人(西遼河(さいりょうが)系)などを含むなど,前期から多様であったと考えられる。そこで多様な核ゲノムを引き継いだ韓半島青銅器文化人を想定し,渡来人として水田稲作を九州北部に伝えた場合の弥生時代人の成立と展開について作業仮説をたてた。その結果,現状では核ゲノムを異にする4タイプの弥生時代人を想定できることがわかった。① 渡来系弥生人Ⅰ:西遼河系+在来(縄文)系弥生人の核ゲノムをもつ。例:福岡県安徳台遺跡,鳥取県青谷上寺地遺跡など弥生中期~後期の遺跡。② 渡来系弥生人Ⅱ:韓半島系(西遼河系+古代東アジア沿岸集団系)の核ゲノムをもつ。例:愛知県朝日遺跡で弥生前期後半。在来(縄文)系弥生人との混血ほぼ認められない。③ 在来系弥生人:渡来系弥生人ⅠまたはⅡ+在来(縄文)系弥生人の核ゲノムをもつ。例:長崎県下本山遺跡や熊本県大坪貝塚など,弥生後期以降の遺跡。いわゆる西北九州弥生人。④ 在来(縄文)系弥生人:縄文人と同じ核ゲノムをもつ。例:佐賀県大友遺跡や愛知県伊川津貝塚など,弥生早~前期の遺跡。
伝, 康晴 小木曽, 智信 小椋, 秀樹 山田, 篤 峯松, 信明 内元, 清貴 小磯, 花絵 DEN, Yasuharu OGISO, Toshinobu OGURA, Hideki YAMADA, Atsushi MINEMATSU, Nobuaki UCHIMOTO, Kiyotaka KOISO, Hanae
コーパス日本語学への応用を指向した形態素解析用電子化辞書UniDicを開発した。大規模コーパスに対する形態論情報付与作業には,計算機を用いた形態素解析システムの利用が不可欠であるが,既存の形態素解析システム用辞書には,コーパス日本語学への応用を考える上でさまざまな不都合がある。1つは,単位の認定がある場合には長く,ある場合には短いといった不揃いがあることであり,もう1つは,異表記や異形態に対して同一の見出しが与えられないということである。言語研究で重要な要件となる,このような単位の斉一性や見出しの同一性への対処といったことを中心に,本電子化辞書の設計方針とそれを実装した辞書データベースシステムについて述べる。さらに,この設計の有用性を示すため,表記や語形の変異に関するコーパス分析の事例を紹介する。
金城, 須美子 Kinjo, Sumiko
1 琉大の男子寮, 女子寮生を対象に食品の嗜好調査を行った。その結果, 肉料理, すし類, 果物, 野菜サラダの平均嗜好度は男女とも高く標準偏差も小さい。男子の肉料理に対する嗜好は女子より高い。特にビフテキは全食品中最も高い嗜好を示し偏差も1.04と非常に小さい。これは殆んどの男性が, 文句なしにビフテキを好んでいることが分る。これに対して女子は野菜サラダを最も好む食品としている。琉球料理のイリチーやチャンプルーはさ程好まれない。各食品に対する男女の嗜好の相違は顕著でないように思う。2 気候, 健康状態によって嗜好が異るかどうかを調査した。その結果, 夏と冬, それに疲れたときの食品に対する嗜好が異ることが分った。特に気候の影響が大きい。それ故, 食品の嗜好に及ぼす要因として性別よりも, むしろ季節, その他の要因が大きいと思われる。
梶原, 滉太郎 KAJIWARA, Kōtarō
日本語においてく温度計〉を表わす語は江戸時代に出現する。そして江戸時代と明治の10年ごろまでは「験温器」を中心として他に多くの異語形があった。明治10年代の後半からは新しく「寒暖計」が中心的存在となり,さらに勢力を強めて昭和40年ごろまで広く使われた。しかし,それ以後は「温度計」が中心的存在となって現在に至っている。〈温度計〉を表わす語には異語形がずば抜けて多い。そして,昭和の後半に至って,すでに定着していた「寒暖計」にかわって「温度計」が中心的存在となったことも,他の漢語に比べて非常に珍しい例である。「温度計」が「寒暖計」よりも優勢になった理由として,「寒暖計」という語のもつ意味領域の狭さがあると思われる。すなわち,「寒暖計」という語は人間の皮膚感覚の受け付ける範囲を基準にして命名した語なのである。
白井, 清昭
日本語単語の読み推定タスクの評価用データセット。読みの曖昧性のある日本語単語について、用例を収集または生成し、人手で正解の読みを付与した。国立国語研究所共同研究プロジェクト異分野融合型共同研究「テキスト読み上げのための読みの曖昧性の分類と読み推定タスクのデータセットの構築」(2022年10月-2025年9月・研究代表者:新納浩幸)の成果物である。
山崎, 誠 YAMAZAKI, Makoto
天理図書館蔵(唐招提寺北川智海旧蔵)「佚名韻字集」桝形列帖装七帖零冊は、嘗て「詩苑韻集十巻」に比定されたが、猶積極的に支持すべき根拠に乏しい。本書は詩賦作成のための辞書で、文鳳抄・擲金抄などとはまた趣を異にする資料である。平安時代漢文学史の視点から、本書の持つ問題点を出来る限り多角的に検討してみたいと考える。
金城, 俊夫 Kinjo, Toshio
生後70-120日令の白色レグホン種およびニューハンプシヤー種鶏を用い, Tp感染に対する態度を経口, 心臓, 筋肉および腹腔内など, 接種ルートを変えて比較検討し, 次の如き結果を得た。1.接種ルートの如何に拘わらず, 何れの場合も接種2∿7日目から流血中にTpが現われ, 感染の成立することを認めた。特に経口感染の可能な点興味ある所見である。2.感染鶏はほとんど無症状に耐過する。稀に発症する例では発熱を伴なう元気, 食欲の消失と, 脚麻痺等の症状を呈して斃死し, 各臓器には多数のTpの増殖がみられる。3.血中抗体価は概して低く, 大部分8倍以下である。心臓内接種でほゞ1週間後, 腹腔内接種で2週間後, 筋肉内接種で3週間後にそれぞれ抗体がはじめて検出され, 経口投与ではほとんど抗体の産生が認められず, 接種ルートによってその態度を異にしている。4.一定期間後, 初回に比して大量のTpの再接種を行なうと, 接種部位の組合わせによって成績は幾分趣を異にするが, 初感染によって抗体価は低くても, かなり抵抗性が賦与されていることが明らかである。5.Tpの体内分布状況は接種ルートによって特に異ることなく, 感染後ほぼ1∿2ケ月前後でTpは体内からほとんど消滅されるものと思われる。しかしそれ以後でもなお, チストの型で潜在し, 生体に変調を来たした時, 急激に増殖して生体を発症斃死せしめうる可能性が考えられる。6.剖検上著明な変化を認めたのは比較的少数であったが, 一般に肝における白斑形成が多くみられ, また肝, 脾の腫脹等もかなり多数に認められた。7.産卵開始期に感染を受けた鶏では, 卵巣等を介して卵へTpが移行しやすいように解され, 検索した卵12ケ中3ケの卵黄にTpの移行を確認した。
川村, 清志
本論は,日記資料のデジタルアーカイブ化の手続きにおいて生起した課題と,そこで醸成された民俗学の外延の拡張と更新の可能性について論じる。本論の最終的な目的は,大きく二つに分けることができる。一つは,特定の学問分野(ここでは民俗学)が扱う資料を一般化することで共有度を高め,関心を異にする民俗研究者はもちろん,他分野の研究者や一次資料に関心をもつ一般の人びとにも利用可能な形態を構築することである。もう一つは,一次資料の綿密な検証と分析から,既存の学問の外延と内包を再考し,当該研究分野のバージョンアップを図ることを目的としている。ここで対象とする資料とは,東日本大震災で被災した昭和初期の日記資料である。この資料からは民俗学的な視点では収まりきらない,当時の社会状況や文化的背景を垣間見ることができる。資料が示す多様な情報をできるだけ十全に抽出し,分類し,デジタルアーカイブ化するという非常に地道な作業から,上記で示した研究領域の再編を促す糸口をたどり直したいと考える。そこで,本論では,まず,日記と文字資料を巡る民俗学とその周辺領域での研究成果を概観し,研究上のテーマを設定する。次に本稿の具体的な分析対象となる日記資料の概要について説明する。その上で資料のデジタル化,データベース化の過程で生じた課題とそれらへの対処の過程で明らかになった分類枠の検証を行う。この分類枠は,日記のデジタル化を進めていくなかで累積的に変化していった。具体的な事例との往復作業のなかで,どのような変更が必要になったのかを確認していく。ここで抽出された分類カテゴリーを,既存の民俗学の外延と比較し,両者のズレを検証した。これらの作業を通してこれまでの民俗学の分類枠組みを批判的に相対化する作業を行い,近代化に関わる諸制度の浸透や新たなメディア網,交通網といった人々の生活文化を把握するために必要なカテゴリーを確認していった。
小川, 仁
ナポリ出身の弁護士にして文筆家であったロレンツォ・クラッソ(Lorenzo Crasso, 1623–1691)は、『著名武将伝賛』(Elogi di capitani illustri, Venezia, 1683)を著し、16~17世紀の世界各地の著名な武将98名の事績を、礼賛というスタンスから評伝形式で紹介した。この著作は、豊臣秀吉や徳川家康も取り上げている。日本をはじめとした非ヨーロッパ文化圏の人物を、報告書や旅行記形式ではなく、人物伝あるいは伝賛という形式で纏め上げた著作は、同時代では他に類を見ない。 本論文は、『著名武将伝賛』で取り上げられている豊臣秀吉と徳川家康の記述を分析することで、17世紀中葉イタリアにおける日本人イメージの受容、とりわけ日本人武将のイメージの解明に注力する。まず、著者ロレンツォ・クラッソの生い立ち、生まれ育ったナポリの当時の状況を明らかにする。そののち当該著作の17世紀イタリアにおける文学のなかでの位置を確認し、『著名武将伝賛』の概要に目を向けたうえで典拠同定を試み、著者クラッソにより描かれた豊臣秀吉と徳川家康の人物像を考察することに努める。 クラッソは、秀吉を統治者・武将としての資質を備えるものの、ヨーロッパでは認められない奇想天外な生涯を送った人物として取り上げようとした一方、家康のなかに、現実と向き合い粛々と判断を下していくというヨーロッパにおける理想の統治者像を見出し、非西欧社会にも西洋の理想を体現した統治者がいたことを評価していた事実の解明を本稿は企図する。 イタリア語を解しクラッソの著作を目にしたヨーロッパの読者には、『著名武将伝賛』で取り上げられた奇想天外な秀吉と、ヨーロッパの武将と同様な政治手腕を発揮した家康は、自分たちには未知の異文化世界の驚異と映ったことは想像に難くない。同時代読者の反応をも考慮に入れながら、『著名武将伝賛』執筆にあたりクラッソが秀吉と家康を列することで、洋の東西を超えて共通して見られるその類まれな政治手腕という「驚異」に賛辞を送っていたメッセージを読み解き、そして紹介することを本稿は主眼とする。
大角, 玉樹
筆者は平成27 年度から平成29 年度まで,異分野融合型の研究として,沖縄感染症研究拠点形成促進事業「動物媒介性感染症対策の沖縄での施策提言とネットワーク形成に関する研究」に共同研究者として参画した。感染症対策における技術イノベーションと政策・施策提言をテーマに取り組み,その成果とネットワークを活用した,新たな研究の展開を模索してきたものの,長らく方向性が定まらなかったが,今回のコロナ禍を受けて,これまでに考えてきた研究課題を再整理することにより,実践的な提言につながる研究を探求していきたい。
成田, 龍一
戦後における日本文化の歴史的な研究のいくつかの局面に着目し、その推移を考察する。まずは、1980年代以降の特徴として、A「文化」に力点を置くものと、B「歴史」に比重を多く日本文化研究の二つが併存していることを入り口とする。Aは「日本文化論」、Bは「日本文化史」として提供されてきた。 A(日本文化論)は、対象に着目し、叙述はしばしばテーマ別の編成となるのに対し、B(日本文化史)は通時的に論を立てることに主眼を置く。このとき、本稿で扱う1980年ごろまでは、双方ともに素朴な実在論に立つ。1980年ころまでは、AもBも、「日本」と「日本文化」の実在をもとに、それぞれ「論」と「歴史」を切り口としていった。 AとBとの相違は、前者が日本、日本文化に肯定的であるのに対し、後者が批判的であるという点にとどまる。ことばを換えれば、日本、日本文化を論ずるにあたり、双方ともにアイデンティティとして、日本、日本文化をみていたということである。そのため、AとBとが近接する動向も見られる。 だが、1980年代以降は、双方は文化と歴史への向きあい方が大きく異なってくる。言語論的転回が日本文化研究にも波及し、素朴な実在論が成立しなくなるなか、Aはあえて日本、日本文化を自明のものとし、それをテーマへと分節するのに対し、Bは日本、日本文化が自明とみえてしまうカラクリを問題化していくのである。そしてBは構成的な日本、日本文化の概念が、どのような画期をもち、どのようにそれぞれの時期で「日本なるもの」「日本文化なるもの」を創りあげたかに関心を寄せる。 本稿は、こうして日本文化研究の推移を、文化論と文化史、実体論と構成論を軸として考察することにする。このとき、それぞれが日本文化を礼賛する見解と、「批判」的な議論と、日本文化を礼賛し「肯定」する議論として論及されることにも目を配る。
韓, 玲玲
本論では、北村の満洲時代の短編連作小説『或る環境』を取り上げ、この小説の構成内容およびその社会的背景を示す歴史的文献を紹介して、作中人物の異民族に抱いている態度に触れてみたい。 北村は1904年に東京に生まれ、幼い頃関東州の大連に渡った。そこで10年間の少年時代を送った後、日本に帰り、文学活動をスタートさせた。東京で北村は個人誌『文芸プラニング』を創刊したり、『作品』『青い花』『日本浪漫派』などの雑誌に関わったりして、日本文壇から注目された。しかし、1937年、北村は満洲国の首都・新京に赴き、そこで大陸土着の文学を志すことになった。新京では、北村は雑誌『満洲浪漫』を創刊するほか、長編小説「春聯」などを発表し、満洲国唯一の職業作家となった。戦後、彼は『北辺慕情記』など、満洲を題材にした著述を多く書き残した。 「或る環境」は、1939年から1941年にかけて、種々の雑誌に断続的に掲載された、全12篇の短編からなる。「満洲の阿片王」と呼ばれた人物を中心とする特異な環境のもとで、日々、成長していく主人公。その少年が観察する日本人と中国人の生活相は、この小説の大きな見どころである。このシリーズには、北村自身の自我の形成過程が生き生きと記録されている。また同時に、この作家が、文学を通して異民族との共生を求めていたことも映し出されている。その意味で、「或る環境」は北村文学における一番の問題作であり、世に知られざる代表作だといえる。
森岡, 正博
二十世紀の学問は、専門分化された縦割りの学問であった。二十一世紀には、専門分野横断的な新しいスタイルの学問が誕生しなければならない。そのような横断的学問のひとつとして、「文化位相学」を提案する。文化位相学は、「文化位相」という手法を用いることで、文化を扱うすべての学問を横断する形で形成される。 本論文では、まず、学際的方法の限界を克服するための条件を考察し、ついで「文化位相」の手法を解説する。最後に「文化位相」の手法を用いた「文化位相学」のアウトラインを述べる。
橋本, 裕之 Hashimoto, Hiroyuki
本稿であつかわれるのは,福井県三方郡美浜町木野に鎮座する木野神社の祭礼である。今日,木野は弥美神社の氏子集落でありながら弥美神社の祭礼には参加せず,単独で木野神社の祭礼を行なっている。本稿ではこのような事例に注目しながら,弥美神社の祭礼とのかかわりに大きな注意をはらおうとしている。じっさい,ふたつの祭礼はさまざまな局面において酷似しており,何らかの深いつながりを彷彿とさせてくれるのである。ところで,筆者はこれまでにもいくつかの論考をつうじて,弥美神社の祭礼と芸能にうかがわれる,きわめて興味深い民俗的世界観を明らかにしようとしてきた。それは異質なものとの出会いにむけられた強い関心,すなわち異文化間コミュニケーションの記憶にふちどられており,さらに弥美神社を中心としてまとめあげられる地域をつらぬいているように思われる。本稿もまた,そのような民俗的世界観を描き出そうとする試みの延長線上に位置づけられる。木野はこの地域に対して,きわめて特異な立場を選びとっており,はからずも弥美神社の祭礼を異化していた。そこで本稿では,木野の立場が最もよくうかがわれる木野神社の祭礼をとりあげながら,残された伝承のいくつかにも注目することによって,いささか異なった角度から弥美神社の祭礼に表現される民俗的世界観を照射したい。木野のおかれた特異な立場を弥美神社の祭礼に対する視座として位置づけるならば,やがて民俗的世界観じたいをはげしくゆるがす異なった現実がせりあがってくるとともに,そのような民俗的世界観の,また異なった現実が立ち現われてくる。木野という集落はまさしくそれじたいで,弥美神社の祭礼を「異化する視線」を内在していたのであった。
Hirose, Kojiro
田﨑, 聡 Tasaki, Satoshi
現在、沖縄県をはじめ伝統的食文化と課題に対して、保存、普及、継承、連携という推進計画が取り組まれているが、基本的に琉球料理とは、琉球王国料理を中心に食文化を展開しており、王朝以前の食文化や農漁村の食文化、商人や町民の食文化はどういうものだったかという文献があまり残されていない。そこで、日本の和食文化との時代的背景、中国、東アジアと時代的背景を探りながら、失われた長寿食文化の源流を探り、考察する。
才津, 祐美子 Saitsu, Yumiko
近代日本の文化財保護制度の歴史的変遷を見ていくと,保護する対象が次第に拡大していっているのがわかる。戦後の文化財保護法(1950年)においても,年を追うごとに文化財の種類が増え,2008年現在では,戦前の国宝保存法(1929年)と史蹟名勝天然紀念物保存法(1919年)の保護対象だった有形文化財,記念物の他に,無形文化財や有形無形の民俗文化財,伝統的建造物群,文化的景観が創設されている。ここまで対象が拡大すると,理念上はすべての過去と繋がるものが文化財として見なされうるわけであり,まるで「総文化財化」とでもいえるような様相を呈している。さらに文化財保護制度の変遷を追っていくと,このような保護対象の変化の他に,保護の在り方にも多様な変化が見られる。その中で本稿が注目し,考察するのは,文化財の単体保存―いわば「点」としての保存から,文化財を取り囲む一定の空間を一纏まりのものとしてまるごと保護の対象にしていこうとする動き―いうなれば「面」としての保存および保全に至るまでの歴史的展開である。そしてそれは,文化財としての保存から文化資源としての活用あるいは開発へという,近年急速に進んでいる動きの考察でもある。
小熊, 誠 Oguma, Makoto
民俗学において文化交流をどのように位置づけるかについて,第1に柳田國男の言説を中心に検討し,第2に,文化交流という概念のもとで,沖縄と中国の比較研究が可能かどうか考察する。柳田國男は,民俗学の対象を民間伝承とし,文字記録に残されてきた文化とは区別した。つまり,文字に代表される学問や技芸などの文化を都市の中央文化とし,文字資料によらない民間の伝承を郷土の地方文化として対立的に捉えた。日本国内における文化の交流は,柳田によれば,流行,つまり新たな中央表層文化が,中心から周囲に時間の経過とともに空間的に広がっていき,それが郷土に定着していく過程と考えられた。都市は,新しい文化の窓口であり,新しい文化を創造する場所であり,それを発信する文化的中心であった。学問や文芸としての外国文化は,表層文化のレベルで,まず都市に伝わる。そこで日本文化のフィルターにかけられて,都市から地方へと伝播する過程で,あるものは民俗として定着していく。柳田の「文化普及の法則」は,海外文化の都市文化への流入と都市から地方への伝播という2段階の文化の流れでとらえることができる。沖縄と中国,あるいは日本本土との文化交流は,先史時代から歴史的事実として繰り返し行われてきた。その中で,比較の回路として儒教的制度について問題を絞ると,沖縄の父系血縁集団である門中の形成に与えた影響は大きい。近世琉球における士族層には,この父系血縁を基本とする家譜の作成,同姓不婚,異姓不養など中国的家族制度が導入されていく。しかし,同時に,一子残留による日本の家的家族制度をも取り込んで沖縄的な家族制度が整備されていったと考えられる。儒教制度を回路とする文化交流の比較研究は,ただ単に中国から儒教的な影響が沖縄に伝播したという事実の指摘で終わるのではなく,それがどのように沖縄の中で展開し,どういう意味をもっているのかを総合的な視点で整理する必要がある。
工藤, 雄一郎
本論文では,縄文時代の漆文化の起源をめぐる研究史について,1926年から2010年代まで歴史を整理した。縄文時代の編年的な位置づけが定まらない1930年代には,是川遺跡に代表される縄文時代晩期の東北地方の漆文化は,平泉文化の影響を受けて成立したものという考えがあった。1940年代に唐古遺跡で弥生時代の漆文化の存在が確認されて以降,中国の漢文化の影響を受けた弥生文化から伝わったという意見もあった。1960年代以降,照葉樹林文化論の提唱を受け,縄文時代の漆文化は大陸から各種の栽培植物とともに伝わったという見方も広がった。1980年代には,中国新石器文化と縄文文化との共通の起源を想定する共通起源説も登場した。これらはいずれも縄文時代の漆文化を列島外から来たとする伝播論である。一方,加茂遺跡の縄文時代前期の漆器の出土を考慮して,1960年代には縄文時代の漆文化自生説も登場する。その後,1990年代には縄文文化の独自性や縄文時代の漆文化の成熟度を重視する研究者から,自生説が主張されるようになる。2000年の垣ノ島B遺跡の発見,2007年の鳥浜貝塚の最古のウルシ材の存在の確認によって,縄文時代の漆文化自生説は力を増した。しかし,垣ノ島B遺跡の年代は信頼性が担保されていないこと,また垣ノ島B遺跡の事例を除外すると,中国の河姆渡文化の漆製品は日本列島の縄文時代早期末の漆器と同等かそれ以上の古さを持っていることを年代学的に検証し,改めて縄文時代の漆文化の起源が大陸からの伝来であった可能性を考慮する必要性があることを論じた。
白幡, 洋三郎
従来の日本文化研究は、日常生活からはなれた、しかし日本独特と思われる文化の性格や形成の経緯、またその後の変容の歴史などを、日本という地域内部で起こる現象としてとらえる姿勢で行われてきた。しかし現在のように、交通や情報網の発達によって、さまざまな文化が国境を容易に越えるボーダーレス化が進んでいる時代では、ある文化をその文化圏でのみ考察することはほとんど無意味になっている。誰もが享受している日常の生活文化を対象とし、それが別の文化圏ではどのように受け入れられ、または反発や変形をこうむっているかという需要や拒絶の様相を探ることによって、ある文化の特徴が浮き彫りにされるだろう。日本文化に関しても、その輪郭と特徴を明らかにするには、ほかの文化圏における普及や拒絶といった動態においてとらえる「文明論」的な方法が有効であろう。
日髙, 真吾
わが国において,災害で被災した文化財に対しておこなわれる文化財レスキューがはじまったのは,1995年の阪神・淡路大震災である。その後,文化財レスキューは,地震や水害などの災害が発生するたびに,被災地の状況に応じておこなわれ,実践事例を積み重ねてきた[村田2014,中村2014,日髙・内田2014]。そして,阪神・淡路大震災から約15年後となる2011年に東日本大震災が発生し,これまでおこなわれてきた文化財レスキューの集大成ともいえる活動が展開された。東日本大震災では,これまでの文化財レスキューで経験したことのない広範囲にわたる被災地と大量の被災文化財に対して,阪神・淡路大震災以来となる全国規模の支援体制のもと,文化財レスキューがおこなわれた。2011年度から2012年度の2年度にわたっておこなわれたこの文化財レスキューは,阪神・淡路大震災の経験はもちろん,それ以降の災害において実践されてきた文化財レスキューの経験を活かし,大きな成果を上げたと評価できる。一方で,東日本大震災の文化財レスキューは,今後の大規模災害を想定した場合,いくつかの課題が明らかになった活動でもある。そこで本論では,筆者自身が参加した東日本大震災における文化財レスキューの体制について課題を示し,文化財レスキューの拠点施設となる被災地の県立博物館・美術館の役割の重要性を明らかにする。次に,文化財レスキューの対象として示された「文化財等」という表現に着目し,その所見を述べる。また,文化財レスキューの対象となった文化財が,地域の文化財として再び利用される一つの方法として,展示活用の在り方を示すとともに,これら地域文化財が,平常時から地域で活用,保存されるための仕掛けづくりの必要性と実現のための可能性について示唆する。
設楽, 博己 Shitara, Hiromi
東日本の弥生文化は西日本からの影響のもとに形成されるという観点が,これまでの研究の主流を占めてきた。しかし,東日本における弥生文化の形成は,西日本からの一方的な影響だけで説明できず,地域相互の絡み合いの中から固有の地域文化が成立してきたという視点が重視されつつある。本稿は弥生文化圏外の北海道を中心として展開した続縄文文化である恵山文化ならびにそれに先立つ時期の文化と中部日本の弥生文化との地域を越えた相互交流を,墓制を構成する文化要素を中心に経済的側面をまじえて考察した。東日本の縄文時代から弥生時代に至る経済的,文化的な画期は,①縄文晩期後葉の大洞A式期に稲作を含む西日本の新たな文化の情報を獲得し,②縄文晩期終末の大洞A´式に続く砂沢式期,すなわち弥生Ⅰ期に水田稲作を導入し,試行錯誤を経て③弥生Ⅲ期に大規模な水田の経営を達成する,というように概括できるが,そうした諸段階と連動するかのように,北海道と中部日本の弥生文化には遠隔地間の相互交流が認められる。①,②の画期には,恵山文化およびそれに先立つ時期の墓に中部日本の再葬墓に付随する要素が認められる一方,恵山文化で発達した剥片や小型土器の副葬が中部日本に認められ,そうした交流を経て③の画期には再葬墓に特有の顔面付土器の要素が恵山文化に受容された。弥生Ⅲ期は東日本で本格的な農業集落が成立した大画期であり,弥生Ⅳ期にかけての太平洋沿岸では北海道から駿河湾に及ぶ交流を,土器の動きや回転式銛頭の南下・北上から跡づけることができる。北方系文化が南関東の農業集団の漁撈活動に影響を与えていたことと,農耕集落の組織編成が漁撈集団との関わりのなかで進行した可能性が指摘できるのも重要である。こうした稲作以外の面での相互交流が道南地方と中部日本の間に築かれていたことは,恵山文化の性格のみならず,東日本の弥生文化の性格を理解する上でも看過できない点である。
青木, 睦 AOKI, Mutsumi
本稿では、国文学研究資料館が関わった大津波被害の歴史文化情報資源のレスキューの事例を中心に報告する。加えて、文化庁「東北地方太平洋沖地震被災文化財等救援事業(文化財レスキュー事業)」や全国的規模での大学・研究機関、博物館・図書館・アーカイブズ、文化財関係行政機関等が連携してどのように歴史・文化等の情報資源を救助・復旧活動を行ってきたか、また、研究教育文化行政、公文書管理行政の課題や全国規模で人間文化研究に関わる歴史・文化等の情報資源をどのように蓄積・保存すべきかについて検討する。本稿においては、これまでの活動について、釜石市を中心とした被災自治体の被災状況とレスキュー事例、東日本大震災における文化財等のレスキュー概要、民間所在アーカイブズの被災と救助の概況について報告する。最後に、被災アーカイブズの科学的分析と保存の課題、今後の被災資料の復旧支援とその課題をまとめて提案したい。
寺村, 裕史
本論文では,人文社会科学の研究で重視される文化資源(資料)情報というものを,方法論や技術論の視座から整理し,実例をふまえつつ検討する。特に,考古学や文化財科学分野における文化資源に焦点を当て,それらの分野で情報がどのように扱われているかを概観し,考古資料情報の多様なデジタル化手法について整理する。 文化資源としての文化財・文化遺産は,人類の様々な文化的活動による有形・無形の痕跡と捉えることができる。しかし,現状では,そこから取得したデータの共有化の問題や,それらを用いた領域横断的な研究の難しさが存在する。そのため,文化財の情報化の方法論や,デジタル化の意義を再検討する必要があると考える。そこで特に,資料の3 次元モデル化に焦点を当て,デジタルによるモデル化の有効性や課題を検討しながら,その応用事例を通じて文化資源情報の活用方法を考察する。
道田, 泰司 Michita, Yasushi
批判的,論理的,合理的に考えることとは異なる思考について,主に文化という観点から検討された。\n検討は,主に「声の文化」との関連からなされた。最後に,声の文化的な思考と文字の文化的な思考との関連や,どのような教育的アプローチが考えられるかについて論じられた。
木下, 尚子
「貝文化」とは、法螺や螺鈿、貝杓子などおよそ貝殻の関与する文化の総体をいう。本稿は、日本列島の先史時代から古代を対象に、貝文化のありようを構造的に把握しようと試みた文化試論である。九州以北の本土地域とサンゴ礁の発達する琉球列島を分け、両者を比較しながら論を進めた。 はじめに貝殻の使用を成立させている貝殻の属性を羅列し、貝が素材として多様な属性を備えていることを指摘した。次に貝殻の使用に二つの文化的評価レベルのあることを述べ、これが先の貝殻の属性に対応していることを示して、以後の分類の枠組みとした。二つのレベルとは「素材としての貝殻」と、「観念の表出手段としての貝殻」である。前者はさらに三段階に、後者は二段階に細別できる。これらにⅠ~Ⅴの通し番号をふり、数値が大きいほど文化的意味が増大する指標とした。こうして本土地域、琉球列島の貝製品についていくつかの代表的類例を示し、それぞれに該当する文化レベルを検討して、両地域における貝文化の概要を示した。 本土地域では弥生時代以来、極めて目的的に多種の琉球列島の貝類を輸入し、自らの貝文化に積極的に採り入れてきた。しかしⅤレベルの貝文化は、在地の貝を用いた縄文時代の例以外認められず、それ以降の貝文化は徐々に文化レベルを下げながら展開している。これに対し琉球列島では、一貫して自地の貝のみでⅠ~Ⅴレベルの文化体系を作り、さらにこれが基本的には現代まで持続している。 貝文化を通してみる両地域は、先史時代以来、たがいに異質な展開をしてきたことを明らかにした。
佐藤, 孝雄 Satō, Takao
アイヌ文化の「クマ送り」について系統を論じる時,考古学ではこれまで,オホーツク文化期のヒグマ儀礼との関係のみが重視される傾向にあった。なぜならば,「アイヌ文化期」と直接的な連続性をもつ擦文文化期には,従来,ヒグマ儀礼の存在を明確に示し,かつその内容を検討するに足る資料が得られていなかったからである。ところが,最近,知床半島南岸の羅臼町オタフク岩洞窟において,擦文文化終末期におけるヒグマ儀礼の存在を明確に裏付ける資料が出土した。本稿では,まずこの資料を観察・分析することにより,当洞窟を利用した擦文文化の人々がヒグマ儀礼を行うに際し慣習としていたと考えられる6つの行為を指摘し,次いで,各行為について,オホーツク文化の考古学的事例とアイヌの民俗事例に照らして順次検討を行った。その結果,指摘し得た諸行為は,オホーツク文化のヒグマ儀礼よりも,むしろ北海道アイヌの「クマ送り」,特に狩猟先で行う「狩猟グマ送り」に共通するものであることが明らかとなった。このことは,擦文文化のヒグマ儀礼が,系統上,オホーツク文化のヒグマ儀礼に比べ,アイヌの「クマ送り」により近い関係にあったことを示唆する。発生に際し,オホーツク文化のヒグマ儀礼からいくらかの影響を受けたにせよ,今日民族誌に知られる北海道アイヌの「クマ送り」は,あくまでも北海道在地文化の担い手である擦文文化の人々によってその基本形態が形成されたと考えるべきである。
高倉, 健一
麗江古城は、少数民族・納西族の中心的な都市として約800年の歴史を持つ古都である。改革・開放政策以降、他の文化的特色を持つ都市と同様に文化資源を利用した観光開発が進められ、1997年には麗江古城の街並みが世界文化遺産に登録された。その結果、麗江古城は国内外から年間数百万人の観光客が訪れるなど観光開発による経済発展は成功したが、観光地化による生活環境の変化などによって観光開発が進められる以前から麗江古城内に住んでいた人々の多くが近隣地域に流出し、その民居を外部から来た商売人が宿泊施設や土産物屋などに改装して商売をおこなうようになった。そのため、これまで麗江古城に住んできた人々によって継承されてきた生活文化の存続が危ぶまれる状況となっている。 麗江古城のような、現在も人が居住する建物や街並みそのものが登録対象となっている文化遺産は、これまでそこに住んできた人々の生活文化によってその文化形態が形成されてきた面が大きい。また、そこに住む人々が生活の中で日々利用していることから、生活文化の変化に合わせてその形態が変容することもよくみられる事象であり、その特徴から「生きている文化遺産」とも呼ばれる。このような特徴を持つ文化遺産の保護には、生活文化が文化遺産に与える影響を考慮したうえでの保護活動が必要となる。 本稿は、生きている文化遺産の保護と活用の両立には、文化遺産に携わる住民自身が自分たちの利益や生活のために自律的に文化遺産を利用することができる環境を整えることが重要という考えについて論じる。また、時代の変化などに応じて住民の定義について再考することの必要性についても検討する。
高橋, 敏 Takahashi, Satoshi
子どもと文字文化の関連性については、従来からプラスの評価がなされるのが通例であった。しかし、無文字文化を基調とする村落社会に埋没していた子どもが文字文化の習得に向うに際しては、すべてがこの動きを肯定したわけではなく、激しいリアクションが加えられていた。換言するなら、文字文化は強力な無文字文化の抵抗に耐えて村落社会へ定着していったのである。この教育・文化の変動を伝える史料は少ない。小論で紹介した「イロハ異見」や「世話字往来」は、村落社会にあって文字文化を子どもに学ばせることを使命と考えた幕末期の百姓文人、手習師匠が遺した稀少な文献である。手習師匠から見た村落社会における子どもの生々しい姿が映されている。彼らは全面的文字文化の肯定の上に、文字文化の学習を推進したのではなく、その前提としてヒトが人間になるための社会共同の教育が必要不可欠であることを充分に承知していた。また、すでに始まっていた親の子どもへの偏った愛情のあらわれを批判し、子どもの成長にとって村共同の厳しい対応を求めている。そこには、自生的に応汎に展開し始めた文字文化に対する強い警戒心が認められるのである。文字文化の展開を前に、自己制御の機能を失いつつある現今の状況を見るにつけ、村落社会における文字文化の離陸の実態を考える意味もあろう。
高瀬, 克範 Takase, Katsunori
続縄文概念の有効性の評価にあたり,隣接諸文化との比較からその異同性をさぐることは重要な手段となりえる。本稿では,資源・土地利用を中心とした経済の観点から縄文・弥生および一部古墳文化との比較をおこない,以下の点を指摘した。1)続縄文文化前半期には,道南部・道央部・道東部においてそれぞれ独自の方式で資源開発が行われたが,縄文文化期よりも魚類の重要性が高まる点ではすべての地域が共通している。2)道央部は続縄文文化期前半から外来系の物資入手力が相対的に高かったと推定され,そのネットワークとサケ科の利用を基軸とした経済が,後半期の道央部の優位性にも関係する可能性がある。3)続縄文文化後半の焼土遺構のなかには,居住施設が含まれている。移動性の高さについては明確な結論をすぐに出すことはできないものの,居住施設の簡便性にくわえて土器の広域分布,石器の段階的減少,重量ベースでサケが中心となる遺存体,偶像を埋め込んだ儀礼の場としての洞窟遺跡の発達などからみて,少なくとも一部には広域に移動して物資を運搬する集団が含まれていたと考えられる。4)東北北部の弥生文化は平野部で稲作を積極的に行うA地域と,平野部以外で狩猟採集に重きをおく生業を展開したB地域が複合して地域社会を形成する。このうち,続縄文文化が直接的に関係を有していた可能性が高いのは,B地域である。5)東北北部の弥生文化は中期中葉に生じた自然災害により稲作が中断し,A・B地域複合の崩壊,人口激減がみられる。この点が,弥生中期後葉の続縄文文化の分布域拡大とも間接的にむすびついている。6)後北C2‒D~北大式期の東北北部は,文化境界(帯)や文化遷移帯ではなく,異なる考古学的文化の雑居地帯(Mixed residential area,Mixed residential quarter)としてとらえ直す必要がある。これらの特色はいずれも縄文文化にはみられなかったもので,現時点で続縄文文化の括りには一定の妥当性を認めうる。
邓, 晓华
私は中国南方の言語区域の区分について研究する際に,ひとつの特別な現象を発見した。それは,現代福建方言の区域が,福建の有史前の文化区域と完全に重なっているということである。福建の漢民族は中国地方(中原)の漢民族が六朝時代に南に移住してきた結果という,現在も有力である伝統的な歴史学の観点を再検討せざるを得ない。私はこの見方が確かかどうかという疑いをもち始めている。私は,伝統的な進化論の観点から福建の漢文化の多様性と変異性を十分に解釈することができないと考えており,エスニック・グループの相互作用および地域の文化伝統が福建漢文化の特質を形成する要因であると考えている。漢民族の閾南グループはオーストロネシア文化からの影響を強く受けたが,他方,同じ漢民族の客家グループは,中原から南に移住してきた漢民族と土着の番族との間の文化的相互作用をうけて形成されたものである。「主流文化」である漢文化は,「地方化」の文化的過程を通じて,閾,客グループ各地域文化の相互の異質性を生じた。それと同時に,フリ,客雷グループが異なる歴史文化伝統と自然生態環境,およびアイデンティティーにより,分立したエスニック・グループを形成した。この三つの大きなエスニック・グループは,文化的特徴が互いに共通性もあれば,多様性,変異性もあり,漢文化社会の「大伝統」が,異なる文化環境においていかに「小伝統」と適応するかをあらわしているものである。
村上, 紀夫 Murakami, Norio
本稿に与えられた課題は内なる異文化としての被差別民について論ずるというものであったが,ここでは大坂のかわた村,渡辺村に関する絵図の読解を通じて近世における被差別民の具体像と社会の意識のずれを明らかにすることを目指したい。渡辺村は17世紀後半には渡辺村が下難波村領にあったが,当時の空間構造については先行研究でいくつかの復元が出されているが若干の検討の余地を残している。下難波村領所在時の渡辺村は「由来書」と絵図の景観を対照させると村を南北に走る3本の道を主軸としてE字型をした4町を基準とし,後に2町が接続し南側に拡張した景観をしていたと考えられる。こうした景観は元禄期に木津村領内に移転した後の景観にも影響を与えている。先行研究で指摘されているように下難波村当時の町共同体を維持するため空間的にいくつかの無理を看取することができる。いずれにせよ,渡辺村は移転前後ともに一貫して町としてのまとまりをもち,その景観にも共同体の存在が影響をあたえていたことが知られる。しかしながら,近世に作成された最大・最詳といわれる版行大阪図『増修改正摂州大阪地図』では,町の景観は複雑な道の曲折まで表現しているにもかかわらず,この図では渡辺村を「穢多村」と一括りに身分名で表記するのみで,町の名称まで記載されていない。本図の作成者がこうした情報の取捨選択をした背景には何らかの基準があったはずである。まず想定される地図利用者にとって必要な情報の最大公約数的な部分を掲載すると考えれば,省略された部分は必要ないと判断された情報であるといえよう。つまり,木津村の町名は必要であるが,渡辺村についてはそこが「穢多村」であること,町場を形成していることがわかれば十分である,ということであろう。こうした絵図における情報の取捨選択から,近世大坂における社会の被差別民への視線と意識を読み解くことができるのではないだろうか。
後藤, 雅彦 Goto, Masahiko
東南中国、中でも沿海地域の新石器文化の形成と展開に焦点をあて、中国新石器文化の中での位置付けを再検討し、その特徴を明らかにした。最近の調査によって、東南中国沿海地域では、紀元前6000 年の新石器文化出現期から貝塚を伴うことが明らかになったが、植物利用の進展が新石器文化の定着に重要な役割を果たしていたと考えられる。その後も、農耕に集約化せず、地域ごとに漁撈・狩猟・採集の生業活動をその環境に応じながら展開したことが東南中国沿海地域の新石器文化の特徴である。
山崎, 誠 YAMAZAKI, Makoto
本邦に於ける漢籍の講誦は学制の定めに見られる如く、特定の注釈に拠ってなされるのを通例とするが、文選の講読は数種の注釈を撰択して訓注を施すものであったらしい。古伝の昭明文選(無注)を会本の注釈で読む故に、互に本文を異にする場合も生じ、訓注も特定の注に限定されぬ重層性を帯びる結果となる。かような事実を古鈔本の欄外注や勘物に認めることが出来る。式家の訓法を伝えると称せられる九条本文選に、それら文選講誦の具体相を探り、本邦にのみ伝存する文選集注の利用状況を解明した。あわせて、平安末期衰微に向う博士家の文選学が、仁和寺を中心とする祖典の注釈活動に利用され、最後の光芒を放つ様相を一瞥した。
大貫, 静夫 Onuki, Shizuo
挹婁は魏志東夷伝 Weizhi Dongyizhuan の中では夫餘の東北,沃沮の北にあり,魏からもっとも遠い地に住む集団である。漢代では,夫餘の残した考古学文化は第2松花江 Songhua Jiang 流域に広がる老河深2期文化 Laoheshen 2nd Culture とされ,北沃沮は沿海州 Primorskii 南部から豆満江 Tuman-gang 流域にかけての沿日本海地域に広がっていた団結文化 Tuanjie Culture に当てることで大方の一致を見ている。漢代の挹婁はその外側にいたことになる。漢代から魏晋時代 Wei-Jin Period に竪穴住居に住み,高坏を伴わないという挹婁の考古学的条件に符合する考古学文化はロシア側のアムール川(黒龍江 Heilong Jiang)中・下流域および一部中国側の三江平原 Sanjiang Plain 側に広がるポリツェ文化がよく知られている。北は極まるところを知らず,東は大海に浜するという点では,今知られる考古学文化の中ではアムール川河口域まで広がり,沿海州の日本海沿岸部まで広がるポリツェ文化が地理的にもっともそれに相応しいことは現在でも変わらない。そのポリツェ文化はその新段階に沿海州南部に分布を広げる。層位的にも団結文化より新しい。魏志東夷伝沃沮条に記された,挹婁がしばしば沃沮を襲うという記事はこの間の事情を反映したものであろう。ただし,ロシア考古学で一般的な年代観を一部修正する必要がある。最近,第2松花江流域以東,豆満江流域以北に位置する,牡丹江流域や七星河 Qixing He 流域において漢魏時代の調査が進み,ポリツェ文化とは異なる諸文化が展開したことが分かってきた。これらの魏志東夷伝の中での位置づけが問題となっている。すなわち,東夷伝に記された挹婁としての条件を考えるかぎり,やはり既知の考古学文化の中ではポリツェ文化がもっともそれに相応しく,七星河流域の諸文化がそれに次ぎ,牡丹江流域の諸文化,遺存がもっともそれらから遠い。しかし,だからといって,これらを即沃沮か夫餘の一部とするわけにはいかない。魏志東夷伝の記載から復元される単純な布置関係ではなく,実際はより複雑だったらしい。
設楽, 博己 Shitara, Hiromi
弥生時代の定義に関しては,水田稲作など本格的な農耕のはじまった時代とする経済的側面を重視する立場と,イデオロギーの質的転換などの社会的側面を重視する立場がある。時代区分の指標は時代性を反映していると同時に単純でわかりやすいことが求められるから,弥生文化の指標として,水田稲作という同じ現象に「目的」や「目指すもの」の違いという思惟的な分野での価値判断を要求する後者の立場は,客観的でだれにでもわかる基準とはいいがたい。本稿は前者の立場に立ち,その場合に問題とされてきた「本格的な」という判断の基準を,縄文農耕との違いである「農耕文化複合」の形成に求める。これまでの東日本の弥生文化研究の歴史に,近年のレプリカ法による初期農耕の様態解明の研究成果を踏まえたうえで,東日本の初期弥生文化を農耕文化複合ととらえ,関東地方の中期中葉以前あるいは東北地方北部などの農耕文化を弥生文化と認めない後者の立場との異同を論じる。弥生文化は,大陸で長い期間をかけて形成された多様な農耕の形態を受容して,土地条件などの自然環境や集団編成の違いに応じて地域ごとに多様に展開した農耕文化複合ととらえたうえで,真の農耕社会や政治的社会の形成はその後半期に,限られた地域で進行したものとみなした。
丹羽, 朋子
中国黄土高原に位置する陝北地域には、伝統住居「窰ヤオトン洞」の窓に貼る正月飾りに、女性たちが剪せんし紙(切り紙細工)を作る習慣があり、2008年以降、多くの県の剪紙が国家級・省級の無形文化遺産に登録されている。本稿は、陝北の延えんせん川県に設立した「碾ニエンパン畔黄河原生態民俗文化博物館」と「小シャオチャン程民間芸術村」の活動を取り上げ、人々が民俗文化の保存に動くとき、いかにして無形文化遺産という外来の概念や制度が移植され、また民俗文化という客体視しづらい対象が表象や実践の形式へと〈翻訳〉されるかを考察していく。この活動は、剪紙技術が廃れた僻村における作り手の育成活動と、生活文化の保存活動とを組み合わせて、民俗文化全体0 0 0 0 0 0 を無形文化遺産として登録したユニークな事例である。本稿ではこの試みを、牽引した知識人芸術家や村民らが参与するエコミュージアム活動と捉えて、設立・運営の現場における彼らの相互交渉の諸相を、〈翻訳劇〉になぞらえて描き出す。文化遺産保護という新たな潮流と、建国以来の民俗文化のプロパガンダ利用の歴史との関係性、また製作指揮者らの企図を超えた、村民ら〈演者〉による〈翻訳劇〉の再編等の展開も合わせて論じる。
パンツァー, ペーター
丘, 培培
江戸時代の俳諧と『荘子』との深い関わりは早くから研究者たちの関心をよんだが、その理由解明について、まだ解けていない謎が残っている。なぜ十七世紀の日本の俳人たちは千年以上も前に他の国で作られた、文学作品でもない『荘子』という本に、俳諧の本意を見つけようとしたのか。本稿は、その謎を日本詩歌の古典重要視の伝統に探る。 日本詩歌の古典趣味は詩歌の理論付けにのみならず、作詩の方法と表現体系にもはっきり現れている。本研究は、『古今和歌集』の序から季吟の俳論までのほとんどの歌論俳論が中国の『詩経』から六義を借りて論をはじめるという現象の意義を探究し、典故、本歌、本説の発達に見られた日本詩歌表現の古典への依存を分析して、その古典重視の伝統の末端に生まれた、短詩形と座の文学を特徴とする俳諧がどうして因習を超えようとしていながら、それでもなお古典にたよらなければならなかったかを明らかにする。そして、江戸時代の三大流派、貞門、談林、蕉門の作品から例を引いて、現代記号論の概念を分析の参照系に入れて、十七世紀の俳人たちはどのように『荘子』という古典を基にして、「下位的なもの」と思われる俳諧の文学的地位を確立し、その表現体系を更新させ、俳諧の表現力を豊かにしたかを解明する。江戸俳諧における『荘子』の成功は日本詩歌の古典重要視の伝統に深く関わった。貞門の実用的『荘子』寓言論から、談林の形式的『荘子』本位論を経て、『荘子』という異文化の古典は芭蕉の世界に創造的に生かされ、言葉の遊びに源を発した俳諧を芸術性のたかい、表現力の極めて豊富な詩に昇華させる過程に重要な役割を果たしたと結論づける。
藤沢, 敦 Fujisawa, Atsushi
古墳時代から飛鳥時代,奈良時代にかけての,東北地方日本海側の考古資料について,全体を俯瞰して検討する。弥生時代後期の様相,南東北での古墳の築造動向,北東北を中心とする続縄文文化の様相,7世紀以降に北東北に展開する「末期古墳」を概観した。さらに,城柵遺跡の概要と,「蝦夷」の領域について文献史学の研究成果を確認した。その上で,日本海側の特質を太平洋側の様相と比較しつつ,考古資料の変移と文献史料に見える「蝦夷」の領域との関係を検討し,律令国家の領域認識について考察した。日本海側の古墳の築造動向は,後期前半までは太平洋側の動向と基本的に共通した変化を示すことから,倭国域全体での政治的変動と連動した変化と考えられる。ところが後期後半以降,古墳築造が続く地域と途切れる地域に分かれ,地域ごとの差違が顕著となる。終末期には太平洋側以上に地域ごとの差違が顕著となる。時期が下るとともに,地域独自の様相が強まっており,中央政権による地方支配が強化されたと見なすことはできない。続縄文文化系の考古資料は,日本海沿いでは新潟県域まで分布し,きわめて遠距離まで及ぶ。また海上交通の要衝と考えられる場所に,続縄文文化と古墳文化の交流を示す遺跡が存在する。これらの点から,日本海側では海上交通路が重要な位置を占めていた可能性が高く,続縄文文化を担った人々が大きな役割を果たした可能性が指摘できる。文献史料の検討による蝦夷の領域と,考古資料に見られる文化の違いは,ほとんど対応しない。日本海側では,蝦夷の領域と推測される,山形県域のほぼ全て,福島県会津盆地,新潟県域の東半部は,古墳文化が広がっていた地域である。両者には,あきらかな「ずれ」が存在し,それは太平洋側より大きい。この事実は,考古資料の分布に見える文化の違いと人間集団の違いに関する考えを,根本的に見直すことを要求している。排他的な文化的同一性が先に存在するのではなく,ある「違い」をとりあげることで,「彼ら」と「われわれ」の境界が形成されると考えるべきである。これらの検討を踏まえるならば,律令国家による「蝦夷」という名付けは,境界創出のための他者認識であったと考えられる。
岡田, 祥平 正木, 喜勝
2017年4月1日,公益財団法人阪急文化財団は,財団が所有する各種資料をインターネット上で検索・閲覧できる「阪急文化アーカイブズ」を公開した。「阪急文化アーカイブズ」で検索・閲覧できる資料の中でも,1910年の開業以来阪急電鉄が手がけた事業に関する掲示物や,阪急沿線のイベントを告知する掲示物である「阪急・宝塚ポスター」類は,日本語研究,中でも言語景観研究の貴重な資料となり得る可能性を秘めていると思われる。本稿では,「阪急文化アーカイブズ」の概要を紹介したうえで,「阪急文化アーカイブズ」を利用した日本語研究,中でも言語景観研究の簡単な実践例を示す。そのうえで,「阪急文化アーカイブズ」を利用した日本語研究,中でも言語景観研究の可能性と限界を考える。
ツィゴヴァ, ボイカ
各国の母語によって翻訳された文学や表現は、単なる情報源であるだけでなく、「他社」との壁を乗り越える自然な誘因でもある。これは日本文学の翻訳についても同じである。それは様々な感性の中に存在する、異なった固定観念との出会いへと導く。従って、日本の作家による作品の翻訳はそれぞれ、この遠い東の国の、包括的な文化的伝統を知る一側面だと言えるだろう。またそれとは別に、二つの異なった感性、日本語からブルガリア語への翻訳は、相互理解の過程において重要な役割を果たすものだとも言えよう。翻訳という過程を通して、ブルガリアでの日本の作家に対する大きな関心は、単なる好奇心から、よりいっそう個別化したものへと移行していくようになる。 本論文の目的は、ブルガリアの日本文化受容の道を辿ることである。 ブルガリアに初めて日本の文化が出現したのは文学を通してであるが、二十世紀の初めから現在まで。日本についてのブルガリア人著者による図書が何冊も出版されている。本稿の第一部は、それらの本から見たブルガリアの日本文化観を概観した。第二部は、ブルガリアにおいて出版された日本文芸や小説の翻訳を紹介するものである。
塚本, 學 Tsukamoto, Manabu
文化財ということばは,文化財保護法の制定(1950)以前にもあったが,その普及は,法の制定後であった。はじめその内容は,芸術的価値を中心に理解され,狭義の文化史への歴史研究者の関心の低さも一因となって,歴史研究者の文化財への関心は,一般的には弱かった。だが,考古・民俗資料を中心に,芸術的価値を離れて,過去の人生の痕跡を保存すべき財とみなす感覚が成長し,一方では,経済成長の過程での開発の進行によって失われるものの大きさに対して,その保存を求める運動も伸びてきた。また,文化を,学問・芸術等の狭義の領域のものとだけみるのではなく,生業や衣食住等をふくめた概念として理解する機運も高まった。このなかで,文献以外の史料への重視の姿勢を強めた歴史学の分野でも,民衆の日常生活の歴史への関心とあいまって,文化財保存運動に大きな努力を傾けるうごきが出ている。文化財保護法での文化財定義も,芸術的価値からだけでなく,こうした広義の文化遺産の方向に動いていっている。文化財の概念と,歴史・考古・民俗等の諸学での研究のための素材,すなわち史料の概念とは次第に接近し,そのことが諸学の共同の場を考える上でも役割を演ずるかにみえる。だが,文化財を,継承さるべき文化の産物とだけみなすなら,反省の学としての歴史学とは両立できない。過去の人生は,現代に,よいものだけを残したわけではない。たとえば戦争の痕跡のように,私たちが継承すべきではないが,忘れるべきでないものは少なくない。すぐれた芸術品と理解される作品のなかにも,ある時代の屈辱の歴史が秘められていたり,新しい芸術創造の試みを抑圧する役割を担った例があること等を思いあわせて,継承さるべきでない文化の所産もまた文化財であるというみかたが必要である。歴史博物館の展示でも,この点が考えられねばならない。
後藤, 雅彦 Goto, Msahiko
東アジアにおいて、各地で新石器文化が形成された際、東南中国から台湾、そして琉球列島を含む東アジア南方沿海地域では貝塚形成がはじまる。一方、長江中・下流域を源とする稲作文化が分断された地域的文化を特徴とする東南中国・台湾に波及する。東南中国では内陸地域の広東石峡文化(東南中国稲作農耕社会)と沿海地域の曇石山文化を代表とする東南中国貝塚社会に大別することができる。本稿では、東南中国の北に隣接する浙江南部の好川文化について副葬武器類と耕作具を分析する。それをふまえて、東アジア南方沿海地域の先史考古学の視点として、農耕社会(内陸性)と貝塚社会(沿海性)の比較に関して検討する。
金, 仁徳
今日の在日朝鮮人の文化は明らかに移住の歴史から出発した。朝鮮人の移住は徹底して日本資本主義経済の必要によったものであった。そして朝鮮人は日本社会の最下層民として編入され、帝国主義日本の民衆と生活を共にした。 在日朝鮮人が造成した朝鮮村は朝鮮人の"解放区"であった。日本語もよく分からないまま、昼間の労働に苦しんだ朝鮮人が夜になり戻ってきた時、何の気兼ねもなく、休むことができる場所がまさに朝鮮村であった。朝鮮村では地縁と血縁的相互扶助がよくなされていたので、生活上の便宜と就職を簡単に得ることもできた。 このような在日朝鮮人の大多数は労働者であった。したがって彼らの文化は日本の大都市の労働者文化の普遍性と共に、日本の中の朝鮮人文化として規定することができる。少数のインテリは多様な日本の文化的な体験をし、彼らが同化的文化を牽引していた中枢勢力であった。また、在日朝鮮人の文化・芸術活動においては留学生の役割が大きかった。 結局、在日朝鮮人の文化は民族的・同化的要素と共に共生的部分までもある程度含みながらも、日本の中の朝鮮人文化として存在したのである。
小林, 青樹 Kobayashi, Seiji
本論は,弥生文化における青銅器文化の起源と系譜の検討を,紀元前2千年紀以降のユーラシア東部における諸文化圏のなかで検討したものである。具体的には,この形成過程のなかで,弥生青銅器における細形銅剣と細形銅矛の起源と系譜について論じた。
稲村, 務 Inamura, Tsutomu
2013年6月22日の紅河ハニ棚田の「文化的景観」の世界文化遺産登録を事例に、ユネスコのいう「文化的景観」を分析した。方法としては中国側の申請書とイコモスの評価書およびその他の文書の検討からイコモス、中国政府、ハニ族知識人、紅河州などのアクターの戦略を考察した。その上で今回の指定が住民に及ぼすものは何かを資源人類学的観点から明らかにした。ユネスコの世界文化遺産における「普遍的価値」とは政治的妥協の結果であることをハニ族の棚田を事例として示した。
川村, 清志
東日本大震災から10余年が経過し,復旧・復興の流れのなかで災害の記憶を未来へとつなぎとめる試みが,多くの地域社会で進められている。しかし,新たなモニュメントや施設が発するメッセージは,国家的な制度やシステムに人々を内属させる準拠枠に収斂する傾向にある。個別の経験や記憶は集団的な表象に還元され,無色透明の匿名性の高い事物やメッセージに統合されてしまうことが多い。本論では,組織的な展示や遺構の保存活用においても,個別の経験や記憶を担保しつつ,災害の記憶を分有しうる仕掛けと枠組みの可能性について検証を試みたい。そのために本稿が注目するのは,宮城県気仙沼市にあるリアス・アーク美術館の震災をテーマとした常設展示である。リアス・アークの震災に関する展示はすでに多方面から注目され,いくつもの論考が記されている。以下では,リアス・アーク美術館とその常設展示の概要と展示を推進した学芸員の山内宏泰の震災についての立場性をまとめ直していきたい。そのうえでこの展示がもたらしたインパクトとその意義について検証を行い,既存の伝承施設とは一線を画した展示の特質と,そこに込められたメッセージの可能性について論じたいと考える。1節では気仙沼市とリアス・アーク美術館の概要を記し,筆者自身による震災展示の巡検の様子を紹介しながら,この展示の特質を紹介する。2節ではこの展示についてこれまでの議論をまとめつつ,多くの先行研究が指摘する展示の表現方法が抱える課題について整理した。3節からはこれまでの議論を踏まえて展示についての詳細な検証を加えた。展示が多義性・多声性によって構成され,質を異にする資料とそこに付された解説や物語の閲覧という実践を経て,相互に節合される過程を明らかにする。その上でこれらの展示が,画像や被災物を通じて,我々のメタレベルでの認識や価値観の変更を要請し,災害に抗する「津波文化」の共創を目指すものであることを論じていく。
鈴木, 貞美
今日、日本の近現代文芸をめぐって、一部に、「文化研究」を標榜し、新しさを装いつつ、その実、むしろ単純な反権力主義的な姿勢によって、種々の文化現象を「国民国家」や「帝国主義」との関連に還元する議論が流行している。この傾向は、レーニンならば「左翼小児病」というところであり、当の権力とその政策の実態、その変化を分析しえないという致命的な欠陥をもっている。それらは、「新しい歴史教科書」問題に見られるような「日本の威信回復」運動の顕在化や、世界各国におけるナショナリズムの高揚に呼応するような雰囲気が呼び起こしたリアクションのひとつであろう。その両者とは、まったく無縁なところから、第二次大戦後の進歩的文化人が書いてきた日本の近代文学史・文化史を、その根本から――言い換えると、そのストラテジーを明確に転換して――書き換えることを提唱し、試行錯誤を繰り返しつつも、少しずつ、その再編成の作業を進めてきた立場から、今日の議論の混乱の原因になっていると思われる要点について整理し、私自身と私が組織した共同研究が明らかにしてきたことの要点をふくめて、今後の日本近現代文芸・文化史研究が探るべきと思われる方向、すなわち、ガイドラインを示してみたい。整理すべき要点とは、グローバリゼイション、ステイト・ナショナリズム(国民国家主義)、エスノ・ナショナリズム、アジア主義、帝国主義、文化ナショナリズム、文化相対主義、多文化主義、都市大衆社会(文化)などの諸概念であり、それらと日本文芸との関連である。全体を三部に分け、Ⅰ「今日のグローバリゼイションとそれに対するリアクションズ」、Ⅱ「日本における文化ナショナリズムとアジア主義の流れ」、Ⅲ「日本近現代文芸における文化相対主義と多文化主義」について考えてゆく。なお、本稿は、言語とりわけリテラシー、思想などの文化総体にわたる問題を扱い、かつ、これまでの日本近現代文学・文化についての通説を大幅に書き換えるところも多いため、できるだけわかりやすく図式化して議論を進めることにする。言い換えると、ここには、たとえば「国家神道」など、当然ふれるべき問題について捨象や裁断が多々生じており、あくまで方向付けのための議論であることをおことわりしておく。
蔡, 鳳書
これまでの中日古代文化交流歴史研究においては、文献記録の資料に主として依拠する場合が多かったが、戦後の五〇年間には中国、日本ともに考古学の研究成果が多い。この情勢により、両国の発掘調査の資料を利用し、中日文化交流史を研究することが必要になる。 中国の山東省と日本列島は間に海一つ隔て、昔から人間と文化の交流は存在した。特に紀元前後になると、このような交流は盛んになっていた。山東地区の物質文化と精神文明は日本列島に強い影響を与えた。山東省の古代文化は弥生文化に影響し、いろいろな面に表現される。例えば、金属製の道具と武器および大陸系石器の導入、稲作農耕の普及、信仰崇拝と観念の変化、埋葬習慣の多様化などが挙げられる。 山東省と西日本間の連結を出発点として、中日交流史の深い研究が可能になる。
長田, 俊樹
筆者はこの『日本研究』に「ムンダ民族誌ノート」を連載しているが、今回は日本における稲作文化と畑作文化の区別について論じる。なぜなら、稲作文化論や畑作文化論のなかで、ムンダ人のケースが言及されることがあるからだ。 われわれの疑問点はふたつある。ひとつは共時的な問題で、もうひとつは通時的な問題である。さいしょの質問は、この稲作文化と畑作文化の区別は普遍的なものなのか。二番目の質問は、雑穀作焼き畑から稲作水田へという進化図式は例外なくおこるのか。このふたつである。いずれも、ムンダのケースなどでは否といわざるをえない。では、どのようにかんがえるべきか。 そのこたえとして、共時的にいえば、安室が提唱する理論をあげることができる。安室は日本民俗学を専門とするが、この理論は複合生業論とよばれている。複合生業論によれば、生業は単一ではなく、複合的であるとされる。つまり、稲作文化と畑作文化が対立するのではなく、相補的にある場合を想定する。この解釈はムンダ人のケースにもあてはまるのである。ただ、この理論は共時的な視点としては有効であるが、通時的な問題はこれから解決されなければならない。
横田, 浩一
本論文的目的是從潮汕的角度出發,探討客家與潮汕之間邊界的不穩定性。目前,對客家和潮州族群的研究成果已經不小。然而,他們的關係往往被先驗地視為不同性質的族群,關於客家和潮汕的邊界是如何在政治、經濟和社會上被建構的,至今尚未有充分的解釋。本論文將針對這一點,指出客家邊界其實含有相當程度的模糊性。本論文以台灣客家為中心,並將其文化與大陸潮汕地區的文化進行比較,基於客家的“名”與文化之間的鬆散關聯可能已轉化為強烈關聯的假設進行討論。討論的事例是韓愈和三山國王信仰、在潮州地區和台灣北部的客家、以及在移民來源和目的地有不同族群性的劉氏家族。從這些事例的分析中可以看出,“名”和文化元素在時間或空間上是無法固定的。換言之,客家人或潮州人的文化元素可能會隨著時間的推移而改變,即使是同名的族群也會因居住地區的不同而改變其文化元素。如果這伴隨著該地區社會群體的社會經驗,就更有可能成為現實,否則就不容易被確立為該地區或群體的“文化”。可是,需要注意的是,有一個潛在的考慮,即客家文化可能是另一個族群的文化。
Hidaka, Shingo
わが国において,全国規模で展開した文化財レスキューは,1995 年の阪神・淡路大震災を契機とする。それから約15 年のときを経た2011 年に,東日本大震災に遭遇してしまった。そして,東日本大震災ではこれまで経験したことのない大量の被災文化財に対して,阪神・淡路大震災からは2 度目となる文化財等レスキュー事業がおこなわれた。2011 年度から2012 年度の2 年度にわたっておこなわれた本事業は,阪神・淡路大震災の経験はもちろん,それ以降の災害において実践されてきた文化財レスキューの経験を活かし,大きな成果を上げたと評価できる。一方で,東日本大震災での文化財等レスキュー事業は,次の災害を想定した場合,活動体制やその方法についての課題も明らかになった活動でもある。 そこで本論では,筆者自身が参加した東日本大震災における文化財等レスキュー事業を通して,その活動内容と課題について明らかにし,次の災害に備えた文化財レスキューの在りようについて考察した。その結果,文化財レスキューは,救出・一時保管・応急措置で終わらせるものではなく,レスキューした被災文化財を積極的に展示等で活用し,被災地の復興活動や地域再生につなげなければならないことを明らかにした。また,被災文化財をとおして,災害の記憶をどのように次世代に引き継いでいくのかという課題も視野に入れなければならないことを指摘した。ただし,文化財レスキュー後の活動をどのように考えるかについては,未だ経験も少ないことから,今後の活動のなかで事例を積み上げて検証することが喫緊の課題であるとした。
Takezawa, Shoichiro
2005 年はヨーロッパ各国で,文化の名による問題が噴出した年であった。移民第2 世代が主体となったロンドンの地下鉄テロや,フランス各地の郊外で発生した「都市暴動」,デンマークの日刊紙によるムハンマドの風刺画の掲載など,事例は枚挙にいとまがない。 これらの事件の背後にあったのは,EU の拡大とグローバル化の進展によって国民国家が弱体したという意識であり,そのため内的境界としてのナショナリズムが各国民のあいだで昂進したことであった。その結果,外国人移民およびその子弟や,イスラームに代表される文化的他者に対する排他意識は,これまで以上に高まっている。 従来,文化的他者の統合については2 つのモデルが示されてきた。文化的アイデンティティに沿って共同体を形成することを求めるアングロサクソン系の多文化主義と,公の場で宗教の表出を禁止し,個と国家のあいだに中間団体を認めないフランス式共和主義である。しかし,2005 年に英仏両国で生じた一連の事件は,両国とも文化的他者の統合に成功していないことを示している。多文化主義も共和主義も文化的他者の統合に成功していないとすれば,私たちはどこに統合のモデルを求めればよいのか。 産業革命以降,工業化に成功した諸国ではさまざまな社会問題が生じたが,問題に直面した人びとが団結して社会運動を起こすことでこれらの問題は解決するはずだ,というのが社会学のメタ物語であった。しかし,文化をめぐる問題が多発している今日,文化の諸問題を解決するためのメタ物語はまだ見つかっていない。フランスでは80 年代以降,移民の子弟を中心にさまざまな社会運動や文化運動がつくられてきたが,問題の解決には程遠いのが現状である。本稿では,2005 年のパリとマルセイユでおこなった現地調査にもとづきながら,文化の諸問題に対する効果的なアプローチを構築することを目的とする。国民国家に倣って境界づけられ,内部における等質性と外部に対する排他性を付与された文化の概念を,いまなお使いつづけるべきなのか。あるいは,複数の文化の出会う場としてのローカリティやテリトリー,空間の概念によって代置すべきなのか。それらの問いを具体例に沿って問うことが,本稿の課題とするものである。
寺澤, 正直 TERASAWA, Masanao
地域史料、民間所在史料の散逸は、個人の財産が失われるのみならず、地域の財産が失われることでもあり、文化行政の課題のひとつでもある。近年インターネットオークション(以下ネットオークション)の登場により、これまでの古書業者、故紙業者などとは異なる、新たな史料流通の市場が作られつつある。本研究の目的は、ネットオークション内の史料流通が文化行政に与える影響を明らかにすることである。そのために、ネットオークション内の取引状況を調査し、その取引情報が文化行政に与える影響について確認した。はじめに、国文学研究資料館の史料収集規模の最も多い地域を対象に、従来の悉皆調査と同様の手順で、ネットオークションの取引記録を収集し、現状の把握を試みた。その結果と、これまでの文化行政による史料収集報告から、史料の散逸に対する文化行政の対応について聞き取り調査を行った。散逸史料の規模が比較的多い地域は長野県であり、同県の文化行政の中心である長野県立歴史館の史料収集状況を確認したところ、ネットオークションの史料流通量は軽視できない規模であった。調査結果を元に、文化行政が現状でどの程度の対策ができるのかを考察したところ、文化行政が史料流通対策を検討するためには、技術的な課題以上に、文化行政組織の運営上の課題が確認できた。今後は、対策を検討するための基礎情報として、広域かつ詳細な取引情報の収集が求められる。
阮, 雲星
浙江省杭州市に位置する西湖は、古代より多くの詩人や文人などが愛した風光明媚な地として知られ、現在は観光名勝地として注目されている。「杭州西湖の文化的景観」はその美しさから世界的に高く評価され、2011年6 月24日にパリで開かれた第35回の世界遺産委員会で『世界遺産名簿』に登録された。本稿は、この「杭州西湖の文化的景観」を研究対象に、現代における文化遺産保護の登録と保護活動をめぐる市民の参与について考察する。まず、ユネスコの世界遺産となった「杭州西湖の文化的景観」を紹介し、次に市民の文化的自覚、都市の文化遺産保護、および世界遺産の申請登録との関係性について論じる。最後に、世界遺産登録後に生じた杭州の地方政府と市民による遺産保護活動、並びに彼らが直面している課題を提示する。
青木, 隆浩 Aoki, Takahiro
近年,世界遺産の制度に「文化的景観」という枠組みが設けられた。この制度は,文化遺産と自然遺産の中間に位置し,かつ広い地域を保護するものである。その枠組みは曖昧であるが,一方であらゆるタイプの景観を文化財に選定する可能性を持っている。ただし,日本では文化的景観として,まず農林水産業に関連する景観が選定された。なぜなら,それが文化財として明らかに新規の分野であったからである。だが,農林水産業に関連する景観は,大半が私有地であり,公共の財産として保護するのに適していない。また,それは広域であるため,観光資源にも向いていない。本稿では,日本ではじめて重要文化的景観に選定された滋賀県近江八幡市の「近江八幡の水郷」と,同県高島市の「高島市海津・西浜・知内の水辺景観」をおもな事例として,この制度の現状と諸問題を明らかにした。
鈴木, 寿志
令和4年度に国際日本文化研究センターにおいて共同研究「日本文化の地質学的特質」が行われた。地質学者に加えて宗教学・哲学・歴史学・考古学・文学などの研究者が集い,地質に関する文化事象を学際的に議論した。石材としての地質の利用,生きる場としての大地,信仰対象としての岩石・山,文学素材としての地質を検討した結果,日本列島の地質や大地が日本人の精神面と強く結びつき,文化の基層をなしていることが示唆された。変動帯に位置する日本列島では地震動や火山噴火による災害が度々発生して人々を苦しめてきたが,逆に変動帯ゆえの多様な地質が日本文化のあらゆる事象へと浸透していったとみられる。
金, 彦志 方, 貴姫 韓, 智怜 韓, 昌完 Kim, Eon-Ji Bang, Gui-Hee Han, Ji-Young Han, Chang-Wan
障害学生のための文化芸術教育が特殊学校において様々な形で実施されているが、障害学生のための具体的かつ長期的な支援策が設けられていないのが現状である。これにより学校現場での文化芸術教育活性化に困難があると言える。本研究では、障害学生の文化芸術に関する先行研究の考察と特殊学校における障害学生文化芸術教育の実態把握を通じて、今後の学校教育課程における障害学生文化芸術支援の方向に対する政策案を提示した。特殊学校文化芸術教育の実態調査では、韓国の特殊学校153校を対象に実施しており、音楽教科の場合、118校(77.1%)の担当教師181人が回答し、美術教科の場合、98校(64.1%)の担当教師154人が回答している。アンケート調査の結果をもとに、芸術教科担当教師の専門性の確保、芸術教科プログラムの多様性の確保、文化芸術教育環境の改善と専門人材のネットワーク構築など、特殊学校で適用可能なサポートの方向を提示した。
仲村, 実久 Nakamura, Sanehisa
(1)タンニンのレーベンタール法による定量で過マンガン酸カリ標準液の添加速度およびマグネチックスタラーによる攪拌速度が同標準液消費量におよぼす影きょうを統計的方法により検討した。(2)添加時間間隔は分散分析の結果5%水準で有意であった。添加容量および1mℓ添加法は有意の差はなかった。(3)添加時間間隔は5秒が最も良好と推定されたが, 10秒における攪拌速度を異にするデータを推定してマグネチックスタラーの速度をFastにすれば5秒のときと同程度の分散が得られたので, 添加容量5mℓ, 添加間隔10秒, 攪拌速度Fastの条件で定量を行う滴定法を提唱する。(4)上記方法で荒茶のタンニン含量を測定したら分析の精度は平均値に対して±7%程度のふれがあった。
横谷, 一子
『隔蓂記』(一六三五~一六六八)の記主鳳林承章は『隔蓂記』執筆時には、すでに当代一級の文化人の一人として、時の後水尾天皇が主催する「宮廷文化サロン」の中心的存在であった。 その文化的業績については『隔蓂記』において充分窺い知ることができる。 しかし、『隔蓂記』以前の承章については、その動向等、現在のところ殆ど解明されていない。 そこで本稿では当時の「古記録」を手がかりとして、『隔蓂記』以前の鳳林承章の文化動向について検証した。
松田, 睦彦 Matsuda, Mutsuhiko
小稿は柳田国男の1910年代から1930年代の論考を紐解くことによって,当時の「生業」研究の目的と手法を再確認し,その可能性の一端を示そうとするものである。一般的な柳田の民俗の資料分類の理解では,今日の生業に関わる分野は第一部の有形文化に分類され,第三部の心意現象に比して研究の中心とはならなかったとされる。また,農政学に「挫折」した柳田が,農政学との距離を図るために,故意に「生業」研究を矮小化したという意見も見られる。しかし,民俗学成立期の柳田の論考を検証してみると,その理解が改められなければならないことは明白である。柳田は1910年代から農政学を離れ,民俗学という新たな学問の確立に邁進するが,そこでは農政学時代からの「生業」に対する視点が継承され,より同時代的なものへと深化した。その過程は,『都市と農村』等の論考から読み取ることができる。柳田の「生業」研究の眼目は,農民の抱える同時代的な問題を,彼らの今日までの生活の歴史と,彼らが築き上げてきた生活観念の理解を通して解決に導くと同時に,農民たち自身が自己省察するに至らしめることにあった。この目的を果たすためには,官界や学界の指導を上から押し付ける農政学という手法は適さなかった。そこで柳田自身が新たに興したのが民俗学というフィールドであった。つまり,民俗学の成立の一端に,柳田の「生業」へのまなざしの深化が関わっているのである。今日の生業研究と柳田の「生業」研究とは位相を異にするものである。けれども,あるいは,だからこそ,隣接諸分野との協業のなかで発展し続ける今日の生業研究が,民俗学としての論理と理念とを再確認する上で,柳田の「生業」研究から学び得ることは多いはずである。
池上, 悟 Ikegami, Satoru
南武蔵地域に於ける古墳文化の特色は,三角縁神獣鏡を有する前期古墳,あるいは甲冑を有する中期古墳の所在も若干知られているものの,最大の特色は後期の群集墳の存在であり,就中横穴墓の集中的な造営である。この後期の段階でようやく全域的に古墳の造営が可能となったものであり,集落址の調査などの成果を勘案すると,安定した地域発展の結果としての横穴墓の造営というよりも,むしろ唐突に高揚する群集墳の盛行状況を窺うことができる。しかもこの存在状況は個別横穴墓が無秩序に展開するものでなく,地区の首長墓と考えられる横穴式石室を有する高塚古墳との有機的な関連の下で造営されており,その性格を明示するものである。また地区を限り僅かに展開している横穴式石室墳の群集墳は,地区首長を直接的に支える支配的な立場にあった有力な集団を被葬者と想定することができ,横穴墓とは峻別される。一体に地方における群集墳は,地域首長墓の衰退状況との対応でのみ問題にされる例が多い。しかし,これが解釈のみでは単純に過ぎ何等新たな問題の解明には至らない。群集墳は創出の要因により類別が可能であり,大きくは外的要因に基づく例と,地域の内部的要因が考慮される例であり,これは立地・埋葬施設・副葬品などの様相により区分できる。群集墳はまた,一般的に武装した集団の墓とされる例が多い。しかし,南武蔵のみならず,広く東国で群集墳の主体をなす横穴墓の武器の出土状況を見てみると,高塚古墳とは大きく様相を異にする。武器の代表例としての鉄鏃は,勿論高塚古墳例でも出土しない例は僅かに認められるものの,東国の多くの横穴墓からは出土しない例が多い。出土する例においても高塚古墳との格差は極めて大きなものであり,圧倒的な支配的立場の相違を明示するものである。
安藤, 広道 Ando, Hiromichi
「水田中心史観批判」は,過去四半世紀における日本史学のひとつのトレンドであった。それは,文化人類学,日本民俗学の問題提起に始まり日本文献史学,考古学へと拡がった,水田稲作中心の歴史や文化の解釈を批判し,畑作を含む他の生業を視野に入れた多面的な歴史の構築を目指す動きである。その論点は多様であるが,一方で日本文化を複数の文化の複合体とし,水田中心の価値体系の確立を律令期以降の国家権力との関係で理解しようとする傾向が強く認められる。そして考古学の縄文文化,弥生文化の研究成果も,その動向に深く関わってきた。しかし,そこで描かれた複数の文化の対立や複合の歴史は,位相の異なる文化概念の混同のうえに構築されたものであり,その土台としての役割を担ってきた縄文文化や弥生文化の農耕をめぐる研究成果も,必ずしも信頼できる資料に基づくものではなかった。文化概念の整理と,農耕関係資料の徹底した資料批判を進めた結果,「水田中心史観批判」が構築してきた歴史は,抜本的な見直しが必要であることが明らかになった。「水田中心史観批判」は,批判的姿勢と視点の多様化が,多面的で厚みのある歴史の構築を可能とし,併せて研究対象資料と分析方法の幅の拡充につながることを示してきた。一方で,文化の概念から個々の観察事実に至る理論に対する議論が充分でなく,「水田中心史観」に対する批判の意識が強すぎたこともあって,研究成果を批判的・内省的に見直す姿勢が弱くなってしまっていた。そのため,視点の多様化の有効性が生かされず,複数の学問分野のもたれ合いのなかで,問題ある歴史が構築されることになったのである。今後は,こうした「水田中心史観批判」の功罪を踏まえ,相互批判と内省を徹底し,より多くの事象を説明し得る広い視野に基づく理論の構築と表裏一体となった歴史研究を進めていく必要がある。
スタインバーグ, マーク エルネスト・ディ・アルバン, エドモン 須川, 亜紀子 松井, 広志 エルナンデス・エルナンデス, アルバロ・ダビド
現代日本の大衆文化の一種であるアニメやマンガが益々注目を集める中、同人誌やコスプレなどのように、このメディア文化を中心にして行われる活動にも注目が集まっている。アニメやマンガといったメディア表現とファン文化を考える際、「商品と消費者」という単純な構造を超え、メディアの性質とその発展、メディア表現の特徴や我々がどのようにメディアと付き合うのかを、考える必要がある。この公開ワークショップにおいては、最先端のメディア論を踏まえ、3名の講師から現代日本の大衆文化におけるメディア表現とメディア使用の接点について学ぶ。
岩本, 通弥 Iwamoto, Michiya
本稿は柳田國男「葬制の沿革について」に対して示された,いわゆる両墓制の解釈をめぐって,戦後の民俗学が陥った「誤読」の構造を分析し,戦後民俗学の認識論的変質とその問題点を明らかにし,現在の民俗学に支配的な,いわゆる民俗を見る視線を規定している根底的文化論の再構築を目的とする。柳田の議論は,この論考に限らず,変化こそ「文化」の常態とみた認識に立っており,その論題にもあるように,葬制の全体的な変遷を扱うものであった。ところが戦後,民俗を変化しにくい存在として捉える認識が優勢になると,論題に「沿革」とあるにも拘らず,変遷過程=「変化」の議論と捉えずに,文化の「型」の議論と読み違える傾向が生まれ,それが通説化する。柳田の元の議論も霊肉分離と死穢忌避の観念が超歴史的に貫徹する,あたかも伝統論のように解釈されはじめる。南島の洗骨改葬習俗と,本土に周圏論的に分布する両墓制を,関連のある事象として,これを連続的に捉える議論や解釈・思考法は,1960年代に登場するが,一つの誤読を定説化させた学史的背景には,民俗を変化しにくい地域的伝統と見做す,こうした根底的文化論が混入したことに尽きている。このような理解を生み出す民俗あるいは文化を,伝統論的構造論的に把捉する文化認識は,いわゆる京都学派の文化論を介して,大政翼賛会の地方文化運動において初めて生成された認識であるが,加えて戦後のいわゆる基層文化論の誤謬的受容によって,より強固に民俗学内部に浸透,定着化する。基層文化論は柳田の文化認識に近似していたナウマンの二層化説を,正反対に読解して受容したものであり,その結果,方法的な資料操作法のレベルにおいても,観察できる現象としての形(form)を,型(type)と混同して,民俗資料の類型化論として捉えられていく。
Yoshioka , Masanori
ヴァヌアツの都市生活を語る上で,最も独特な都市文化としての存在を主張している事象がある。それが,都市部で隆盛を極めているカヴァを飲ませる店,すなわち,カヴァ・バーである。本論では,ヴァヌアツの地方都市ルガンヴィルにおけるカヴァ・バーを題材に,カヴァ・バーの様々な側面を論じるとともに,それを通して,メラネシア的な都市文化のあり方を抽出しようとしている。着目点は,人々の都市観である。ヴァヌアツの人々は,都市には都市独自のカストム(伝統,慣習)がなくそれぞれの島のカストムが集まっているに過ぎないと考えると同時に,たとえ都市生まれのものであっても,その都市に帰属するのではなくどこかの島に帰属していなけれぽならないと考えている。こうした人々の都市観は,都市文化をトランジットで他者的なものと位置づけているということを示している。本論ではそうした点を踏まえて,メラネシアの都市文化をクレオール文化とは異なる「ピジン文化」という概念で把握する試みを行っている。
魏, 敏
近代の様々な外国文化は上海に伝わり、伝統的な中国文化と西洋文化が融合し、上海独自の「海派文化」を形成した。上海の華東政法大学の法律史学科は正にこの「海派文化」を意識しながら外国の法律、特に日本法を法規範や法文化等に関係する研究を推進し、中国に紹介している。古代より日中両国の法律交流は頻繁に行われており、それ故、古代、近代、現在に至っても、日中法律に関する研究は緊密な関係を持つ。中国法を比較の対象と想定するならば、日本法の不変原理は何であろう。日本法をより全面的に把握するために、外国からの視点が必要と言えるだろう。
田村, 彩子
本稿は、独立行政法人国立文化財機構東京文化財研究所における年史資料群の目録公開に向けての業務を、事例報告としてまとめたものである。 東京文化財研究所は、2008(平成20)年〜2010(平成22)年に刊行した『東京文化財研究所七十五年史』編纂のため編集委員会により収集・作成された文書を中心とする資料群を「東京文化財研究所年史資料」として、2023(令和5)年3月に目録を公開した。 組織の母体となった美術研究所の設立から現在までの90余年の間には、その事業活動のありようも移り変わってきた。『東京文化財研究所七十五年史 本文編』の目次を基準として、「東京文化財研究所年史資料」群の編成に組織と事業の変遷を反映させ、公開中の「東京文化財研究所刊行物等一覧」とともに一組織が作成した資料としての統一性を持たせた。 資料保存対策を機に始まった資料群の再整理では、活用を促すために早期の公開を優先し、段階的に目録整備を進める方法を取った。また、公開により資料現物と目録データを利用可能な状態に維持したいと考えている。第1、第2節では資料群の物理的側面に着目して、第3節では編成の考察と目録データの整備を主軸にして、実務担当者の視点から資料群を永続的に保管・利用していくための試みを提示する。
阿部, 朋恒
2013年6 月にプノンペンで開催された第37回世界遺産委員会において、雲南省南部の哀牢山脈に広がる「紅河ハニ棚田群の文化的景観(Cultural Landscape of Honghe Hani Rice Terraces)」の世界遺産登録が決定した。わたしはこの喜ぶべき一報を、世界遺産指定地域から50㎞ほど離れたハニ族の村落で手にしたが、その時点では登録決定の事実はおろか、世界遺産とは何かを知る村人にすら誰一人として出会わなかった。本稿では、そこで事態を説明する役割を担った私自身を巻き込む対話を通じて形成された、ハニ族の村落コミュニティにおけるローカルな「世界遺産」認識の一例を紹介し、さらにそこから浮かび上がる論点として、ハニ族が自らの文化をどのように概念化しているのかを検討する。 近年の中国では、文化遺産の制度的認定を求める機運がますます高まりつつある。それに呼応して学術界においても文化の資源化をめぐる議論が活発に行われおり、紅河ハニ棚田の世界遺産登録もまた、地元出身の文化研究者たちが現地政府に働きかけて声高に主導してきた申請運動が実を結んだものであった。したがって、世界遺産委員会の認めるところとなったハニ族の文化とは、少なからず政治的な戦略のもとで描かれてきた文化像を下敷きにしたものにほかならず、そこから棚田に暮すハニ族の今日的な村落生活をうかがうことは難しい。本稿では、世界遺産登録を契機として際限なく拡散されつつあるこうした「ハニ族文化」と、ハニ族が語る自らの「文化」のすれ違いについて具体的に検討していく。
趙, 維平
中国は古代から文化制度、宮廷行事などの広い領域にわたって日本に影響を及ぼした。当然音楽もその中に含まれている。しかし当時両国の間における文化的土壌や民族性が異なり、社会の発展程度にも相違があるため、文化接触した際に、受け入れる程度やその内容に差異があり、中国文化のすべてをそのまま輸入したわけではない。「踏歌」という述語は七世紀の末に日本の史籍に初出し、つまり唐人、漢人が直接日本の宮廷で演奏したものである。その最初の演奏実態は中国人によるものであったが、日本に伝わってから、平安前期において宮廷儀式の音楽として重要な役割を果たしてきたことが六国史からうかがえる。小論は「踏歌」というジャンルはいったいどういうものであったのか、そもそも中国における踏歌、とくに中国の唐およびそれ以前の文献に見られる踏歌の実体はどうであったのか、また当時日本の文化受容層がどのように中国文化を受け入れ、消化し、自文化の中に組み込み、また変容させたのかを明らかにしようとしたものである。
武井, 基晃
琉球王国時代から今日に至るまでの沖縄の食文化は,第二次世界大戦時の地上戦という文化・生活の崩壊のあと,戦後アメリカ統治下における高度経済成長,日本本土復帰さらに観光化を経て復興した。それは,琉球の食文化・琉球料理の保存,そして次代へと沖縄の料理を発展させるための意識的な再定義の結果でもあった。食生活を知る上で,食文化としての動物性蛋白質の摂取は非常に重要である。しかし,豚肉・魚介類をはじめとする豊富な食材でイメージされがちな沖縄の食文化だが,その実態について復帰前の1967年に琉球政府文化財保護委員会が文部省文化財保護委員会立案の民俗資料緊急調査手引に沿って実施した調査の報告や,戦争を生きのび戦後を生きた生活者の回想を見ると,肉・魚など動物性蛋白質の摂取があまりにも書かれていない。豚肉は沖縄の食文化において儀礼的にも栄養的にもたしかに重要な食材だったが,それは決して豊富な日常の食材ではなく,実際に口にできる機会は年に1・2度の行事に限られていたのである。高度な漁業も未発達で,海沿いの集落であっても実態は手伝いかつ娯楽として,海を歩いて素手での漁獲だった。魚料理もその程度のものだった。当地の食文化を知るための資料として,1960年代~70年代にかけて刊行された料理本を分析する。これらの料理本は,沖縄戦で崩壊した文化と生活が復興する日本本土復帰前・後の時期において,戦争を生きのび戦後を生きた琉球料理の研究家・料理家たちが使命感を抱いて,琉球料理を復活させ書き残した成果である。「沖縄風」を含む標準語訳の試みも共有のために不可欠だった。しかし戦後に出現し今日までに当たり前となった料理は,これらの料理本の中に現れない。本稿で見た食文化は,長寿県としての沖縄を支えていた世代の食生活であるが,戦後の沖縄の料理は変容を遂げ,新たな要素を取り込みながら拡張し今日に至るのである。
森山, 克子 Moriyama, Katsuko
学校給食から海洋県沖縄の食文化を伝えるため、沖縄県内の小中学校の学校教育計画における海に関わる指導内容を調査したところ、都市地区より農村部の学校で沖縄の食文化に関わる内谷があった。北部の本部町や離島の座間味村、宮古島市では、沖縄の食文化のベースとなる鰹節づくりに関する内容があったことから海洋県沖縄の食文化の伝承が今後も可能であることがわかった。海産物では「もずく」の出現数が最も多く、給食管理の献立から伝承し易い海の食育教材は、「もずく」であった。これらのことから、国語、理科、社会科、家庭科の教科や道徳、総合学習等で学校教育計画全体で横断的に指導しつつ、給食から海洋県沖縄の食文化を伝承できることが示唆された。
Nakagawa, Satoshi
この論文は自然と文化の間の連続性の問題を扱う。文化人類学は,とりわけ構造主義の人類学は,文化(シンボルの思考)の解明の仕方は自然主義との譲歩を一切許さないものであると宣言する。構造主義的世界観の中では,文化と自然は断続しているのである。自然主義,例えば進化生物学の中では,自然から文化への変化は漸進的な変化であり,「魔法の瞬間」(デネット)などないという。両陣営ともに自然から文化への遷移について心の理論(あるいは他者の視点)の獲得に焦点をおく議論を展開する。この論文では第3 の立場を議論する。この議論でも,心の理論に焦点があてられる。これまでの議論での心の理論は,他者の心を外側から操作するための戦略である。このような能力は,霊長類も持っているかもしれない。それに対し,人間は,他者の心を虚構として内側から生きることができるのである。これこそがヒトをヒトたらしめた能力なのである。
岩本, 通弥 Iwamoto, Michiya
本稿は「民俗の地域差と地域性」に関する方法論的考察であり、文化の受容構造という視角から、新たな解釈モデルの構築を目指すものである。この課題を提示していく上で、これまで同じ「地域性」という言葉の下で行われてきた、幾つかの系統の研究を整理し(文化人類学的地域性論、地理学的地域性論、歴史学的地域性論)、この「地域性」概念の混乱が研究を阻害してきたことを明らかにし、解釈に混乱の余地のない「地域差」から研究をはじめるべきだとした。この地域差とは何か、何故地域差が生ずるのかという命題に関し、それまでの「地域差は時代差を示す」とした柳田民俗学に対する反動として、一九七〇年代以降、その全面否定の下で機能主義的な研究が展開してきたこと(個別分析法や地域民俗学)、しかしそれは全面否定には当たらないことを明らかにし、柳田民俗学の伝播論的成果も含めた、新たな解釈モデルとして、文化の受容構造論を提示した。その際、伝播論を地域性論に組み替えるために、かつての歴史地理学的な民俗学研究や文化領域論の諸理論を再検討するほか、言語地理学や文化地理学などの研究動向や研究方法(資料操作法)も参考にした結果、必然的に自然・社会・文化環境に対する適応という多系進化(特殊進化)論的な傾向をとるに至った。すなわち地域性論としての文化の受容構造論的モデルとは、文化移入を地域社会の受容・適応・変形・収斂・全体的再統合の過程と把握して、その過程と作用の構造を分析するもので、さらに社会文化的統合のレベルという操作概念を用いることによって、近代化・都市化の進行も視野に含めた、一種の文化変化の解釈モデルであるともいえよう。
高橋, 敏 Takahashi, Satoshi
「民衆の生活文化史」はどこでも安易に使われる耳慣れた研究テーマである。ところがその中身は,となると,抽象性が前面に出て空疎な民衆・人民概念が横行するのが,残念ながら戦後歴史学の実態ではなかったろうか。生活文化史を主唱するならば,まず「民衆」を抽象性から解放すべきであろう。歴史創造の主体である民衆はもちろん生身の人間であることを確認すべきである。これらは,支配・被支配の国家論を越えて実在するのである。ひとまず,衣食住という狭義の生活史一例をとってみても、文献史学は長くこれを苦手としてきた。また,これを誇りとするような自己欺瞞の中にいた。民衆の衣食住は,何か文化の底流であり,歴史をリードすることと無縁なものと考えられていた。抽象性に満ちた民衆万能の人民観と文化無縁の民衆観に挾撃されて、生活文化史は停滞してきたように思われる。これらを克服するためには,生活文化史概念のゆるやかな検討をくりかえしやらなくてはならない。この作業と同時進行して史料論の一新が図られねばならない。そして,文献史学からの生活文化史へのこだわりのうえに関連諸科学,考古学,民俗学等との学際的研究が行われねばならないであろう。このためには、まず,地域史での生活文化史のフィールドワークが積み重ねられていく必要があるのである。本稿は,上州赤城山麓の村々をフィールドに18世紀後半~19世紀前半にかけて起こった生活文化史上の変革を追求する。赤城型民家というこの地域特有の住居に凝集されてくる民衆の生活文化の実態を文献史料の見直しを通し,またこれに近世考古学,民具学の成果を援用しつつ,具体相をもって明らかにしたいと思う。
藤尾, 慎一郎 Fujio, Shin'ichiro
本稿では,弥生文化を,「灌漑式水田稲作を選択的な生業構造の中に位置づけて,生産基盤とする農耕社会の形成へと進み,それを維持するための弥生祭祀を行う文化」と定義し,どの地域のどの時期があてはまるのかという,弥生文化の輪郭について考えた。まず,灌漑式水田稲作を行い,環壕集落や方形周溝墓の存在から,弥生祭祀の存在を明確に認められる,宮崎~利根川までを橫の輪郭とした。次に各地で選択的な生業構造の中に位置づけた灌漑式水田稲作が始まり,古墳が成立するまでを縦の輪郭とした。その結果,前10 世紀後半以降の九州北部,前8 ~前6 世紀以降の九州北部を除く西日本,前3 世紀半ば以降の中部・南関東が先の定義にあてはまることがわかった。したがって弥生文化は,地域的にも時期的にもかなり限定されていることや,灌漑式水田稲作だけでは弥生文化と規定できないことは明らかである。古墳文化は,これまで弥生文化に後続すると考えられてきたが,今回の定義によって弥生文化から外れる北関東~東北中部や鹿児島でも,西日本とほぼ同じ時期に前方後円墳が造られることが知られているからである。したがって,利根川以西の地域には,生産力発展の延長線上に社会や祭祀が弥生化して,古墳が造られるという,これまでの理解があてはまるが,利根川から北の地域や鹿児島にはあてはまらない。古墳は,農耕社会化したのちに政治社会化した弥生文化の地域と,政治社会化しなかったが,網羅的な生業構造の中で,灌漑式水田稲作を行っていた地域において,ほぼ同時期に成立する。ここに古墳の成立を理解するためのヒントの1 つが隠されている。
吉田, 直人 Yoshida, Naohito
「収穫祭」という実践で,生徒が笑顔に満ち,自分の意志で考え行動していく姿に出会い,これが「文化的実践」に近いものではないかと実感した。そこで本研究では,「文化」というキーワードをもとに,この実践を考察することを通して,単元の再構成による学習の文脈づくりから文化的実践に高める端緒を見いだすことを目的とした。そして,考察を通して,「収穫祭」が文化的実践として生徒が学びの場を作りだしたのは,生徒の営みが自分の存在から派生しているか,その営みが社会に開かれ社会の吟味にさらされているかが重要な点であると考えた。また,文化的実践として生徒が学びの場を作るための,教師の支援の糸口についても考察した。
西谷, 大 Nishitani, Masaru
本稿は,大汶口文化諸遺跡で発見された仰韶文化の廟底溝類型系彩陶を取り上げ,この彩陶が,渭河流域,黄河中・下流域から山東地区の大汶口文化に伝播していく様態を追求することによって,廟底溝類型期の各地域間にみられる文化交流の中で,彩陶が具体的にどの様な意味をもつのかを考えようとするものである。まず,彩陶の各地域・遺跡での出土状況の相異に注目した。河南中部地域および渭水流域の仰韶文化地域において,廟底溝類型系彩陶は,他の土器とともに日常生活の中で使用されたと考えられ,彩陶を墓に副葬するといった習慣は低かったと推測した。次に,山東地区における大汶口文化早期では,廟底溝類型系彩陶が墓で副葬品として発見されることから,彩陶自体が本来有していた食生活用の容器という機能が,明器という機能へ変化したことを指摘し,さらに大汶口文化早期の山東地区では,仰韶文化の廟底溝類型系彩陶の一部の器形と文様を,選択的に取り入れたことを示した。最後に,大墩子・劉林遺跡の墓葬を分析することによって,廟底溝類型系彩陶を副葬するのは,墓域中,副葬品を多く有する裕福な人物の墓であり,彩陶は集団内での権威の象徴として取り扱われた確率が高いと推論した。いずれにしても大汶口文化早期段階の山東地区の人々は,彩陶を実に主体的に取り入れている。それは,本来日常容器であった彩陶を明器に用途を変化させたこと,また,廟底溝類型系の彩陶の中でも最も精緻で,複雑な文様のものを好んで使用したことに如実に現れている。大汶口文化早期の廟底溝類型系彩陶は,渭河流域・河南中部地域から,人の移住に伴って山東地区にもたらされたのではなく,むしろ物の交易を中心とした交流の中で出現したのだろうと思われる。
清水, 拓野
建造物のような有形のものと比べて、芸能、儀礼・祭礼、工芸技術などの無形文化は、人を媒介として伝承される形に残らない文化実践なので、とりわけ現代中国のような時代の移り変わりが激しい社会では、意識的に保護しないと相対的に失われやすい。その意味で、こうした無形のものが無形文化遺産に登録されて、保護・保存の対象となるのは、大変喜ばしいことである。ところが、無形文化遺産の保護に乗り出して日が浅い中国では、いまだに政策的な矛盾が多々あり、無形文化遺産の保護と継承においてさまざまな支障をきたしている。本稿は、伝統演劇・秦腔の西安易俗社という有名劇団を事例として、無形文化遺産の保護・伝承の現場でどのような実際問題がみられるかを報告するものである。事例の検討をとおして、演劇界の当事者たちが直面する保護と継承をめぐる現実に迫るとともに、いかに今後の発展と活性化につなげていくべきかという問題についても考えてみたい。
水口, 幹記 Mizuguchi, Motoki
本稿で対象とするのは、名古屋市蓬左文庫が所蔵する『天文図象玩占』(請求番号110‐12)という名の漢籍である。本書は、全四冊(不分巻)で構成されている天文関係の占書であり、文庫では「子部・術数類」に分類されている。本書の最大の特徴は、蓬左文庫本と同名の書名を持つ本が管見の所未発見であるという点にある。本書についての専論は皆無であるため、本稿では、まずは本書の基礎情報を提供した。全体の構成を掲げ、本書が彩色を持つ上図下文形式を採っていること、本書には「御製序」「天文図象玩占」(序文)「天文図象玩占後序」の三種の序文が付されていることや引用書目の特徴について触れた。続いて、本書同様に上図下文形式を持つ明代の類似の書物『天元玉暦祥異賦』と宋代の『宝元天人祥異書』について触れた。その上で、本書と両書との比較検討をしてみると、本書第二冊と第三冊は図案・内容・項目ともに『天元玉暦祥異賦』とほぼ同じであることが判明した。しかしながら、残る第一冊と第四冊は両書とも合致せず、また両冊にのみ目録が付されていること、両冊に収載されている項目が日月の雲気占のみであるのだが、これが序文・後序の内容と合致すること、さらには、後序に触れる占文の数が両冊を合わせた数に近いことから、両冊のみが元来の『天文図象玩占』であり、第二冊・第三冊はそれに後から付されたものであるということが判明した。最後に、本書の日本伝来時の状況を蓬左文庫に残された蔵書目録などから推察したところ、本書は中国で作成され日本に輸入された明本であり、初代藩主徳川義直・もしくは二代光友の時代に尾張徳川家に持ち込まれ、しばらくは藩主の元に置かれ、その時は「雲気書」と称されていた。しかし、書庫に移された享保六年から天明二年の間に改装され、外題に「天文図象玩占」と表記が付け加えられたものであることが考えられるとした。
秋沢, 美枝子 山田, 奨治
オイゲン・ヘリゲルが戦時中に出版したもののうち、その存在がほとんど知られていない未翻訳エッセイを研究資料として訳出する。ヘリゲルのエッセイは、日本文化の伝統性、精神性、花見の美学、輪廻、天皇崇拝、犠牲死の賛美について論じたものである。その最大の特徴は、彼の信念であったはずの日本文化=禅仏教論には触れずに、そのかわりに国家神道を日本文化の精神的な支柱に位置づけた点にある。
李, 亨源 Yi, Hyungwon
本稿は,突帯文土器と集落を使って韓半島の青銅器文化と初期弥生文化との関係について検討したものである。最近の発掘資料を整理・検討した結果,韓半島の突帯文土器は青銅器時代早期から前期後半(末)まで存続した可能性が高いことがわかった。その結果,両地域の突帯文土器の年代差はほとんど,なくなりつつある。したがって,突帯文土器文化は東アジア的な視野のもとで理解すべきであり,中国東北地域から韓半島の西北韓,東北韓地域,そして南部地域と日本列島に至る広範囲の地域において突帯文土器を伴う文化が伝播したことを想定する必要がある。集落を構成する要素のうち,これまであまり注目してこなかった地上建物のうち,両地域に見られる棟持柱建物,貯蔵穴,井戸を検討したところ,韓半島の青銅器文化と弥生文化との間には密接な関連があることを指摘した。集落構造では韓半島南部の網谷里遺跡と北部九州の江辻遺跡との共通点と相違点を検討し,とくに網谷里遺跡から出土した九州北部系突帯文土器の意味するものについて考えた。さらに青銅器中期文化において大規模貯蔵穴群が出現する背景には社会変化があること,初期弥生文化においてやや遅れて出現する原因を,水田稲作を伝えた初期の渡海集団の規模が小さく,社会経済的な水準あるいは階層が比較的低かったことに求めた。弥生早期に巨大な支石墓や区画墓のような大規模の記念物や,首長の権威や権力を象徴する青銅器が見られないのも同じ理由である。これは渡海の原因と背景を,韓半島の首長社会の情勢変化と気候環境の悪化に求める最近の研究成果とも符合している。
中尾, 七重 渡辺, 洋子 坂本, 稔 今村, 峯雄 Nakao, Nanae Watanabe, Yoko Sakamoto, Minoru Imamura, Mineo
放射性炭素年代測定を文化財建築遺構に適用し,その有効性を明らかにした。事例として,国宝大善寺本堂,旧土肥家本家住宅,旧土肥家隠居屋住宅,重要文化財三木家住宅の年代調査結果を報告する。文化財建造物を測定する場合の部材選択や試料採取の方法を示した。部材最外層年代から建築の年代情報を得るために,部材の年代測定から建物の年代判定へ研究発展の必要性を指摘した。
藤尾, 慎一郎 Fujio, Shinichiro
弥生文化は,縄文文化と新しく大陸から入ってきた文化があわさって成立するが,その際,縄文人と朝鮮半島に出自をもつ渡来人のどちらが主体的な役割を果たしたのかという点をめぐって長い間論争がおこなわれている。いわゆる縄文人主体説と渡来人主体説である。これらの議論は,縄文文化と弥生文化のもつ諸要素を比較して連続性と非連続性を抽出し,そのどちらかを強調するという方法に特徴があった。しかしいずれの要素もこの文化変容を考える場合には重要であるし,片方だけを取り上げて強調する姿勢は方法的に正しいとはいえず建設的でもない。本稿では,狩猟採集民が農耕民化することからすべては始まったという枠組みでこの文化変容をとらえ,その過程で縄文人と渡来人が実際に果たした役割を明確にすることによって,議論の基礎となる弥生文化の成立過程の実態を明らかにすることを目的とした。まず福岡平野の遺跡ごとに,煮炊き用土器である甕の保有形態と水田の種類,遺跡が造られてからの発展過程を調べた結果,農耕民化へと縄文人をうながした契機,農耕民化が達成された時期と場所,農耕社会化への過程,土器の保有形態に違いをみせる三つのタイプの農耕民化が存在したことを確認した。那珂タイプ,板付タイプ,四箇タイプと仮称した三つのケースのうち初めの二つは,縄文人と渡来人の双方がそれぞれの目的をもって共に生活集団を作ることからはじまり,農耕社会化を目指したものであった。役割分担はもちろん存在し,決してどちらか一方の主体性のもとに進行した現象ではない。この文化変容は少数民族の西洋文明化を考える場合のケーススタディでもあり,少数民族主体説や西洋文明主体説が成り立たないのと同じ性格のものと考える。
前川, さおり
本稿は,一地域の博物館職員の視点から見た文化財レスキューネットワーク論である。岩手県遠野市の博物館職員であった筆者には,業務を通じて三陸沿岸市町村の文化財担当者や県内外の博物館学芸員と公的・私的なネットワークがあった。筆者は,東日本大震災の際に地震によって被害を受けた遠野市役所の文化財レスキューを行った後に,三陸沿岸自治体の図書館博物館文化財レスキューを行った。筆者が,私的ネットワークと公的ネットワークと交互に駆使して文化財レスキューを行った結果,重層的なネットワークが形成された。さらにそのネットワークが,2016年に筆者の勤務する遠野市立図書館博物館所蔵資料が台風10号で被災した際の資料レスキューで再起動し,新たなネットワークが構築されていったことを述べる。また,岩手県上閉伊郡大槌町から救済した資料の中に,昭和8年三陸津波で遠野市の災害支援をした歴史を示す貴重な発見があったことにも言及する。
後藤, 雅彦 Goto, Masahiko
紀元前4千年紀の福建沿岸の殻坵頭遺跡は、閩江下流域における新石器文化の形成を辿る上で重要であるばかりか、出土遺物から同時期の南中国沿岸の人の移動と文化の交流を示す上で重要である。本稿では殻坵頭遺跡と長江下流域の杭州湾南岸の土器文化として多角口縁釜に着目し、紀元前4千年紀の南中国沿岸地域における地域間交流をめぐる問題を明らかにする。
李, 暁
喫茶養生観は古代中国の茶文化の発展に対して勢いを助長した働きがあるばかりでなく、更に、栄西禅師の『喫茶養生記』などを通じて鎌倉時代に中国の茶文化を受容する先駆けとして、日本の茶文化の再興の糸口となった。本稿は、中日の茶文化の交流史という視点から、それぞれの喫茶養生説について比較研究を行う。初めに中国唐宋時代の喫茶養生観を紹介する。喫茶と養生とは、陰陽五行や形神一体、道教神仙などの思想の影響を受けて繋がってきた。喫茶養生の具体的な方式は「食療」と「修心」であった。唐代の陸羽の『茶経』の著述の目的と主旨は飲食養生であるという観点を打ち出す。次に日本の鎌倉南北朝時代における『喫茶養生記』を中心としての喫茶養生観と中国のそれとの異同を分析する。中国の茶文化に対する日本の受容は、選択・受け継ぎ・改変・発展というような特色を検討する。最初に養生などのような実用性を際立たせたというのは、茶文化そのものの発展の特有的なルートであることを指摘する。
李, 均洋
雷神はただ人々によく知られている神様というだけではなく、文化史と思想史の上でも重要な位置を占めている。 中国の雷神信仰は農耕文化以前に溯ることができる。その時代の雷神の主な神徳は「致二風雨一」である。農耕時代に入って後、雷神信仰は龍信仰を生みだした。この段階の雷神信仰の進化とほぼおなじで、「龍」に加えて善悪を司る神格をもつに至る。雷神に関する『易経』などの哲学と倫理道徳の時代背景は農耕文化に属しているのである。 中国の最古の神話記載である商代(前一七~前一一世紀)の甲骨卜辞と金石銘文に対して、日本神話の最古の文献は、衆知のように、約七世紀に編集された「記・紀」などであり、中国神話の最古記載に二千年以上の年代差である。また衆知のように、紀元前三世紀ごろ中国大陸から日本に稲作農耕が伝わって弥生文化が興った。したがって、文献中の日本神話は農耕文化以来の産物である。が、中国の雷神が持っている農耕文化以前の水神性格や農耕文化以来の善悪を司る性格などは、日本の雷神も持っている。 中国の雷神も日本の雷神も水神、農耕神、疫神であると同時に、生命の神、豊饒の神、善悪を司る神徳を持っている。
高良, 鉄夫 Takara, Tetsuo
1.本文は尖閣列島の海鳥の生息状況について述べたものである。2.尖閣列島における海鳥の分布は, 各島によって, その様相を異にする。その起因は各島の地形, 地質, 地物が海鳥の生息を許容する生態的要因を備えているか, どうかにかかっており, 食物は有力な条件にはならない。3.従来尖閣列島から知られた海鳥のうち, アホウドリDiomedea albatrus, クロアシアホウドリD. nigripesはすでに跡を絶ち, その他の海鳥も年を経るにつれて激減している。4.アホウドリDiomedea albatrus, クロアシアホウドリD. nigripesが跡を絶った主な原因は, 羽毛採集のための乱獲と野生化したネコによる加害であり, その他の海鳥の激減は, 漁夫による最近の乱獲が主な原因と思われる。5.尖閣列島は, 琉球近海における海鳥の著名な繁殖地であり, 学術的ならびに資源保護の立場から早急に保護の方策を講ずる必要がある。
宮里, 興信 Miyazato, Koshin
香港製紅〓 (アンカー)から分離したM.N0.5の培養試験を行なった。試験結果を要約すればつぎの通りである。(1) 麹汁、同寒天、パン、馬鈴薯、甘藷、蒸米、牛乳等の培養基にはよく繁殖し色素の生産も良好であった。(2) 各穣培養基上の繁殖適温は30°~35℃ であった。(3) Monascus菌は一般に酸性肉汁では繁殖悪るく色素の生産も不良であると云われているが、M.N0.5は肉汁および同寒天培養基(pH 5.4)でも良く繁殖し色素の生産も良好であった。(4) 皴培養基では繁殖悪るく色素の生産も不良であった。(5) M.N0.5は各種天然培養基上での繁殖状態が東洋産Monascus pilosusによく似ているが、酸性肉汁および同寒天培養基にも良く繁殖し色素の生産も良好である点では該菌と著るしく異っている。
高橋, 由記
平安後期の後朱雀天皇のもとには、東宮時代を含めて五人のキサキがいた。キサキたちが妍を競ったであろう後朱雀朝の文化圏はどのようなものだったのか。後朱雀天皇やキサキたち、中でも、最後に入内した女御延子に注目して調査・考察した。その結果、諸資料から天皇はもちろんのこと、印象薄いと思われる延子の風雅の様もみてとれた。今回の調査により、後朱雀朝における文化・文学的営為や、延子文化圏の存在感を確認することができた。
小池, 淳一 Koike, Jun'ichi
東日本大震災後の日本社会において,民俗文化がどのような意味を持ちうるのか,具体的には被 災地の瓦礫のなかから民俗文化にかかわる資料を救出することはどのような意味を持ち,さらにそ れらは博物館における展示においてはどのように表象されるのだろうか。こうした点について本稿 では筆者自身が関わった国立歴史民俗博物館の文化財レスキューの経験や実感を通して考察する。本稿ではそうした意識のもと,まず民俗事象を民俗文化財ではなく,表題に掲げた文化資源とい う概念でとらえる意義について近年の研究動向をふまえて確認する。次にその主要な対象であり, 前提でもあった宮城県気仙沼市小々汐地区のオオイ(大本家)尾形家の歴史民俗的な位置づけを行 う。さらに同家を舞台として伝承されてきた民俗として年中行事,特に盆と正月を取り上げ,具体 的に記述する。そして最後にそうしたイエ(家)の年中行事を歴博における展示としてどのように 構成したかについて述べてみたい。
石田, 一之 Ishida, Kazuyuki
本稿は、ドイツ語圏における新自由主義の基盤を形成した論者のなかで、みずからの主張を歴史-文化社会学の視点から基礎づけようとしたアレクサンダー・リュストウ(Alexander Rüstow)の代表著作『現代の位置づけ』並びにその他の著作の検討を通して、歴史-文化社会学的立場に立脚した視点から人間の自由、並びに彼の主要概念である支配を考察し、それとともに、現代における人間の文化的・社会学的状況に関して実質的自由の視点から重要な示唆を得ようとするものである。
山田, 奨治
本論文では認知科学、美術史、文学史、芸道論、知的財産法などをてがかりに、類似性の科学への糸口と社会的要請・意義、情報伝達と創造性の観点からみた模倣の情報文化論の可能性について述べる。類似は人間の学習・認識過程の根底に深くかかわるものであり、模倣は人と人の間あるいは文化と文化の間の情報伝達、さらには創造性の問題に直結する課題を内包している。一九八〇年以降急速に発達した認知科学は、類似とは何かについての基礎を与えてくれるだろう。絵画・陶芸・産業技術史を振り返れば、模倣が円滑な情報伝達と文化のダイナミズムを生み出してきたことがわかる。また模倣と創造性は密接に関連している。日本の芸道では集団的共同体的なものを基盤としながら、その上に繊細で微妙な個性を追加して内面を引き出す感性がみいだされる。その個性は「風」とよばれる。現代のわれわれは、形の模倣の下にある「風」の創造性を感じ取る能力を退化させてしまったように思う。類似性と模倣をめぐる今日的な課題は、知的財産法とりわけ著作権法の諸問題である。著作権法は文化的創作活動の結果を経済財に転換し、経済原理のなかで文化的活動をして富を生み出さしめる効果をもっている。また著作権法ではオリジナリティという近代の幻想を前提としている。類似性と模倣をめぐる考察は、現代の情報文化が取り残しつつある何かを思い起こさせてくれるだろう。
東, 清二 金城, 政勝 Azuma, Seizi Kinjo, Masakatsu
焼畑農耕とその常畑化過程に関する農地生態学的研究の一環として, 西表島に設置した焼畑区, 焼畑改良区, 改良区及び自然林において昆虫類を採集し, その群集構造について検討したところ次の結果を得た。1.改良区及び焼畑改良区では焼畑区や自然林に比べ, 昆虫類の群集構造は目, 科, 種レベルで単純であった。2.目レベルにおける群集構造は優先度からみて次のとおりで, 改良区と焼畑改良区の構造は他区のそれとはかなり異っていた。Impr.-Hemiptera>Hymenoptera>Diptera>Coleoptera>Orthoptera Semi-Hemiptera>Hymenoptera>Diptera>Coleoptera>Orthoptera Shif.-Hymenoptera>Hemiptera>Coleoptera>Diptera>Orthoptera Nat.-Diptera>Hymenoptera>Coleoptera>Hemiptera>Orthoptera 3.種類数は改良区で14種, 焼畑改良区で20種, 焼畑区で55種で, 自然林では141種であった。種多様度指数(Simpson's index)は, 改良区, 焼畑改良区では極めて低く, 焼畑ではやや高く, 自然林では極めて高かった(Table 5)。
鈴木, 信 Suzuki, Makoto
続縄文文化の遺構・遺物には,「変異性が強く・現地性が弱く・転移は容易・伝達する際に欠落しにくい」という表出的属性,「変異性が弱く・現地性が強く・転移は容易でなく・伝達する際に欠落しやすい」という内在的属性,それらの中間的属性が備わる。また,属性における不変性・現地性の強弱は「遺構の内在的属性≧遺物の内在的属性>遺構の表出的属性>遺物の表出的属性」である。そして,内在的属性の転移は親密な接触によって伝わり,表出的属性の転移は疎遠な接触においても成立する。そのため,内在的属性の転移は型式変化の「大変」といえ,表出的属性の転移は型式変化の「小変」といえる。遺構・遺物の型式変化とは時空系における属性転移であり,空間分布の差異として第一~五の類型で現れる。そして,属性はコト・モノ・ヒトの授受に付帯して転移し,転移先において文化同化・文化異化・文化交代を起こす。物質交換は文化接触の一種であり,異質接触(渡海交易)においては「もの」を動かすために「かかわり」があり,社会的関係を緊密にすることで物理的距離を克服する(「ソト」関係の「ウチ」化)。同質接触(域内交易)においては「かかわり」の結果として「もの」が動き,基底には社会的距離が恒常的に縮んだ関係(「ウチ」の関係)において行われた。渡海交易と域内交易と生業の関係は弥生後期に東北地方に起こった利器の鉄器化が誘因となり,その後,鉄器の流通量が増加することで,域内交易は交換財の調節機能の強化が求められ,生業は交易原資のための毛皮猟とそれを支える生業の二重構造を生み出す。渡海交易Ⅱa段階に渡海交易・域内交易・生業が直結して文化異化がおこる。渡海交易Ⅱb~Ⅳ段階には鉄器・鋼の需要が恒常的となり文化異化が継続する。Ⅳ段階には文化異化が収束し,交易仲介の役割を失った東北在住の北海道系続縄文人が故地に帰ることで新たに東北地方から北海道への属性転移が生じる(擦文文化の成立)。
藤尾, 慎一郎 Fujio, Shin'ichiro
本稿は西日本における縄文時代後・晩期から弥生時代前期にかけて,植物質食糧獲得の手段がどのように変化するか検討したものである。後・晩期には雑穀・穀物を対象とした栽培の存在が主張されてきたが,考古学的にも自然科学的にも決め手にかける状況が続いている。原因はこの時期にみられる考古学的な変化が,水稲栽培が始まるときにみられる変化ほど直接的でないことにあるので,後・晩期における考古学的な変化が縄文文化の枠内だけで説明できるのか,説明できないのか調べる必要がある。そこで土器と石器を中心に考古学的な変化を再整理し,変化を引き起こした社会背景を検討した結果,従来からいわれているような東日本縄文文化の伝播による内的発展だけでは説明できない部分のあることがわかり,朝鮮畑作文化の影響を受けている可能性が考えられた。東日本からの文化伝播は集団的・組織的な人の移動を伴うので道具・技術・精神文化の面において考古学的な変化を把握できる。しかし後者にはそのような変化がみられない。それは朝鮮畑作文化が前期から続いている大陸と縄文社会との情報交流の中で伝わったため,道具・技術・精神文化が体系的に伝わらなかったことと,母体となった朝鮮畑作文化自身が網羅的な混合農耕だったこともあって,縄文時代の特定の生業に偏らない網羅的な食糧獲得システムとうまく適合したからと考えられる。道具は在来のものがわずかに変容する程度で新しい道具の出現や組成の変化というかたちではあらわれにくかったのである。それに対して水稲栽培を中心に位置づける水稲農耕文化の伝播は組織的・集団的な人の移動を伴ったものだったので,道具や石器組成,精神文化の面も含めて大きな考古学的な変化として捉えられるのである。縄文時代に穀物栽培は存在しても生産基盤の中心に位置づけられることはないが,弥生時代は水稲栽培が特定の生業として選択され生産基盤の中心となる。縄文から弥生への転換は栽培を含む網羅的な生業体系から穀物栽培を中心とする選択的な生業体系への変化に特徴づけられるのである。
岩淵, 令治
江戸の商人研究は、史料的な制約と流通史研究の関心から、長らく上方に本拠をおく他国住商人の江戸店、とくに呉服など限られた職種の問屋の分析に限られてきた。近年、江戸住商人をとりあげた論考も蓄積されつつあるが、とくに彼らの信仰の検討は不十分である。そこで、本稿では、質屋・古着商売の大店美濃屋加藤家を素材として、江戸住商人の大店の信仰を検討した。加藤家の信仰の基調は浄土宗であり、「陰徳」を積んで浄土に旅立つことに目的があった。そのため、自身の家の先祖供養を行うとともに他者を救済し、さまざまな講を組織し、また家としても寄進を行ってきた。「陰徳」や、「名聞ケ間敷」行為を避けるという点に、多くの商家が規範とした心学との整合性も認められることが注目される。とくに信仰の対象となったのは、甲斐善光寺と菩提寺の哲相院である。甲斐善光寺については、宝暦四(一七五四)年の火災からの再建にあたって莫大な寄進を行い、また江戸の旅宿を通じてその後も寄進を続けた。また、哲相院については先祖供養のみならず、最終的には甲斐善光寺の江戸の旅宿を設けている。このほか、信州善光寺、高田善導寺、江戸の十八檀林の一つである本所霊山寺、といった有力な浄土宗寺院にも寄進が及んだ。さらに浄土宗寺院にとどまらず、高野山での先祖供養、浅草観音や清涼寺への寄進など、信仰は他宗派の寺院、神社にも及んだ。こうした信仰の上に立って、加藤家では家族の人生儀礼のみならず、経営においても判断基準として「霊夢」や「御告」を用い、さらには「御仏勅」を求めた。その信心の実際は判断できないが、少なくとも納得する手段として重要な役割を果たしたのである。さらに、非日常的に行われる参詣や、開帳への参加も、こうした信仰と次元を異にするものではなかった。その参加にあたっても、「御仏勅」が働いたのであり、加藤家の信仰の一角を形成したのである。これまで江戸商人の信仰については、「行動文化」論の中で、いわば観光の要素を持つ参詣や祭礼の参加などがとりあげられてきたが、日常の信仰と合わせてその全体像を検討していく必要があろう。
安田, 喜憲
和辻哲郎によって先鞭がつけられた日本文化風土論は、第二次世界大戦の敗戦を契機として、挫折した。形成期から発展期へ至る道が、敗戦で頓挫した。しかし、和辻以来の伝統は、環境論を重視する戦後日本の地理学者の中に、細々としてではあるが受け継がれてきた。戦後四〇年、国際化時代の到来で、再び日本文化風土論は、地球時代の文明論を牽引する有力な文化論として注目を浴びはじめた。とりわけ東洋的自然観・生命観に立脚した風土論の展開が、この混迷した地球環境と文明の未来を救済するために、待望されている。
石井, 由香
本論文は,カンボジア出身の華人系移民の第2 世代で,弁護士,作家として活動するアリス・プンの自叙伝および編著書の内容とオーストラリア社会における反響,およびプンの文化・社会活動の分析を通じて,2000 年代以降のアジア系専門職移民の文化・社会参加の状況を考察することを目的とする。アジア系専門職移民は,経済重視の多文化主義において「好まれる」移民である。しかし,「オーストラリア市民」であるアジア系専門職移民の中には,経済的のみならず,政治的,社会的にも主流社会に深く関わり,単純なマジョリティ,マイノリティの二分法を越えようとしている人々がある。本論文は,アジア系専門職移民にとっての多文化主義,またホスト社会へのアジア系オーストラリア人としての主体的な参加戦略の一つのあり方を,アジア系(カンボジア出身の華人系)というエスニシティ,ミドルクラス,若い世代という特質をもつ作家の事例から検証する。
春成, 秀爾 Harunari, Hideji
朝鮮青銅器文化の忠清南道槐亭洞遺跡出土の剣把形銅器は,特異な形態と精巧な鋳造技術によって1967年に発見以来,注目され,その後,類例も加わっている。しかし,その起源と系譜は不明なままであった。このたび筆者は,その直接的な祖型を内蒙古の夏家店上層文化に属する小黒石遺跡出土の当顱に求め,さらにその祖型は西周前期の北京市琉璃河1193号大墓出土の当顱にあることを想定するにいたった。当顱とは,商代に現れる馬の面繋に取りつけて前頭部を飾る青銅製の頭当て(頭飾り)のことである。しかし,内蒙古の当顱と朝鮮の剣把形銅器すなわち当顱形銅器との型式および製作技術のうえでの隔たりはきわめて大きい。剣把形銅器の出現は朝鮮青銅器文化に細形銅剣が登場するのと同時であるので,それ以前の型式は内蒙古または遼寧地方にまだ埋もれている可能性が大きい。中国西周の当顱は,前11-10世紀に夏家店上層文化に伝わったあと,内蒙古から遠く朝鮮青銅器文化に前6-5世紀頃に達するまでの間に,馬車が脱落し,さらには乗馬の風習が欠落していった結果,その器種と使途が変化し,儀器化が進行するなど,著しく変容した。しかし,当顱形青銅器が日本列島の弥生文化まで伝わることはなかった。西周-夏家店上層文化の当顱の意匠に虎を採用し,長期にわたって継承している事実は,この地方で虎が辟邪動物の上位を占めていたこと,王が虎を従えるという意味で虎が各地の王の表徴になっていたことを暗示している。
外間, 宏一 Hokama, Koichi
摘要\n(1)泡盛醪の仕込は麹、酒母とも斜面培養のものを種菌として実験的に行なった。(2)還元糖定量用の試料としては泡盛醪濾液を稀釈したものを用い、ペーパークロマグラフィ用の試料としては泡盛醪濾液を濃縮し、之をピリジンで処理して用いた。(3)糖消費曲線は試料中の還元糖をレーン法に準じて定量することによって作成した。(4)試料中の還元糖の種類の検出はペーパークロマトグラム上の三重展開における展開距離を標品のそれと比較する事と、1回展開におけるR_f値を測定する事によってなされた。(5)その結果、試料中に検出された糖はグルコースとマルトースのみで、醗酵完了時においてはほとんど認められなかった。このことは清酒、ビール、麹汁、麦芽汁が数種の糖類を含有している事とは大部実験結果を異にしている。(6)試料中のグルコースとマルトースはペーパークロマトグラム上のスポットの面積から直接定量された。
楊, 暁捷
詞書と絵によって構成される中世の絵巻は、独自の表現の規則を持つ。その規則を析出することは、絵巻読解の上で大事な課題である。この論考は、言語における文法の言説を応用して、「絵巻の文法」を構築しようとする。規則の細目を説明するために、中世絵巻の基準作である『後三年合戦絵詞』三巻十五段を用いる。 「絵巻の文法」の枠組みを描き出すために、絵巻の表現方法をめぐる在来の研究成果を受け継ぎ、それを整理し、具体的な位置づけを与える一方、新たな表現の原則を見出すことを試みる。とりわけ時間と空間の表現に関連して、これまでの研究で繰り返し取り扱われた「瞬間表現」、「異時同図」、「単一固定視点の排除」に加えて、「同図多義」、「異次元の時空」などの概念を提出する。さらに構図にみる語彙と文型について、代表的な事例を詳しく分析し、絵巻における規則への反動、詞書にみる文字と音声という異なるメディアの特牲などを指摘する。
辻本, 裕成 TSUJIMOTO, Hiroshige
『とはずがたり』の人物呼称の不統一は作品の生成の二面性によるものであろう。一般の殿上人について言うと、女房日記的な叙述では公的な視点に立つため、敬意が低い呼称が使われ、物語的な叙述では私的な視点に立つため敬意が高い呼称が使われる。作者の身内の場合は反対で、公的な視点からは身分相応の呼称が使われ、私的な視点からは敬意の低い呼称が使われる。西園寺実兼の呼称については従来、実名仮名の二種類に分れることが指摘されてきたが、実は女房日記的叙述での春宮大夫(大納言)、物語的叙述での匿名呼称の他に、その中間的な呼称である「西園寺」及び「雪の曙」が存在している。「西園寺」「雪の曙」が登場する叙述は、一見違った描かれ方をしているかに見える「春宮大夫」と匿名の恋人とを結び付けるものであり、また、生まれを異にする日記的叙述と物語的叙述を結び付けるものである。
三井, はるみ MITSUI, Harumi
全国規模での文法事象の分布図である『方言文法全国地図』から,順接仮定の条件表現を取り上げ,方言文法体系の多様性を把握するための研究の端緒として,(1)全国における分布状況の概観と結果の整理,(2)青森県津軽方言の「バ」や佐賀方言の「ギー」といった,特定方言で観察されるそれぞれに特徴的な形式を中心とした体系記述の試み,を行った。(1)では,方言特有の形式は少なく,「バ」「タラ」「ト」「ナラ」など共通語と同じ形式が,方言によって用法の範囲を異にして分布している場合が目立つことを述べた。(2)では,共通語で効いている語用論的制約が働かない例,多くの方言で区別されている「なら」条件文の意味領域を,区別せずに同一の形式でカバーする例等を示した。最後に,条件表現および方言の文法体系の多様性の記述に向けての方向性について触れた。
後藤, 雅彦 主税, 英德
令和4年度戦略的地域連携推進経費地域協働プロジェクト推進事業「久米島の農と文化をめぐる多世代交流プロジェクト」は、「学」(琉球大学)・「官」(久米島博物館)・「産」(結人舎)との連携を行い、「久米島の農と文化」をテーマに「学んで」「語り合う」「伝える」という事業を通じて、多世代交流を軸に久米島の魅力の再発見とその共有化を進めることを目的にした。本稿では、本プロジェクトで実施した「久米島の農と文化」をテーマにした「久米島フィールドワーク」、「久米島セミナー」、「久米島ワークショップ」、「久米島フィールドマップ」について報告する。
福井, 七子
ベネディクトは、文化は個人や社会変化に対する可能性と開放を含むものであり、ひとたび人間が文化の力を意識し始めると、社会の要求に合うように修正され得るもので、文化は望まれる将来の世界への鍵のようなものと考えていた。 本稿は、ルース・ベネディクトによる『菊と刀 日本文化の型』を原点に立ち戻って考えるものである。すなわち、「菊」と「刀」の意味するものは何であったか、また、『菊と刀』誕生の過程を調べ、『菊と刀』に繋がった「戦時情報局」における報告書、“Japanese Behavior Patterns”とはいかなるものであったのかを考える。さらに、ベネディクトの文化に対する考え方が、戦時中の覚書や報告書にどのように反映されているかを見る。 戦後五〇年が経過し、また一九九八年にはベネディクト没後五〇年を迎えるにあたって、ベネディクトの戦時中の研究が明らかにされるのが待たれる。本稿では、とくに『菊と刀』の研究には不可欠である“Japanese Behavior Patterns”を中心に資料を紹介し、その意味を考える。
後藤, 雅彦 Goto, Masahiko
本稿は、最近の東アジアの先史文化の地域的枠組みや琉球列島と周辺地域との関わりに関する諸見解や中国大陸系遺物の分布をふまえ、東アジアの先史文化における琉球列島の位置づけについて検討を加えた。そして、研究対象地域として東アジア亜熱帯島嶼域を設定し、台湾との比較で、農耕民の移動や大陸系遺物の広がりを明らかにする視点を検討した。
廣内, 大助 Hirouchi, Daisuke
災害の被災地域では,災害の痕跡を保存することがよく行われている。これは災害の教訓を後世に伝え,再び同じ被害を繰り返さないためのものである。しかしこのことが地域の防災力をどのくらい向上させているのか考えると,非常に効果があると単純には言い難い。濃尾平野の輪中地域に代表されるように,本来災害にあわないために地域ぐるみでの工夫や仕組みが災害文化として存在した。これを受け継ぐことで,地域の防災力を維持してきたのである。水害リスクの低下と,コミュニティの崩壊によって,災害文化が受け継がれなくなった都市住民が災害に遭わないためには,現代の生活に合った新たな災害文化を創出し,受け継いでいく必要がある。河川流域を舞台に活動する市民団体の取り組みをヒントに,新たな災害文化の可能性について考えてみる。
Kishigami, Nobuhiro
文化人類学者は,さまざまな時代や地域,文化における人類とクジラの諸関係を研究してきた。捕鯨の文化人類学は,基礎的な調査と応用的な調査からなるが,研究者がいかに現代世界と関わりを持っているかを表明することができるフォーラム(場)である。また,研究者は現代の捕鯨を研究することによってグローバル化する世界システムのいくつかの様相を解明し,理解することができる。本稿において筆者は捕鯨についての主要な文化人類学研究およびそれらに関連する調査動向や特徴,諸問題について紹介し,検討を加える。近年では,各地の先住民生存捕鯨や地域捕鯨を例外とすれば,捕鯨に関する文化人類学的研究はあまり行われていない。先住民生存捕鯨研究や地域捕鯨研究では日本人による調査が多数行われているが,基礎的な研究が多い。一方,欧米人による先住民生存捕鯨研究は実践志向の研究が多い。文化人類学が大きく貢献できる研究課題として,(1)人類とクジラの多様な関係の地域的,歴史的な比較,(2)「先住民生存捕鯨」概念の再検討,(3)反捕鯨NGO と捕鯨推進NGO の研究,(4)反捕鯨運動の根底にある社会倫理と動物福祉,およびクジラ観に関する研究,(5)マスメディアのクジラ観やイルカ観への社会的な諸影響,(6)ホエール・ウォッチング観光の研究,(7)鯨類資源の持続可能な利用と管理に関する応用研究,(8)クジラや捕鯨者,環境NGO,政府,国際捕鯨委員会のような諸アクターによって構成される複雑なネットワークシステムに関するポリティカル・エコロジー研究などを提案する。これらの研究によって,文化人類学は学問的にも実践的にも捕鯨研究に貢献できると主張する。
日髙, 真吾
本稿では,心豊かな社会を実現するために地域博物館が果たす役割を考察するものである。そこで本稿では,まず,地域博物館にとって不可欠な所蔵資料の保存について,限られた人材で取り組んでいる廃校を利用した収蔵施設での実践事例と,地域博物館がより積極的に地域で活用されることを目的とした教育キットの開発事例からそれぞれ考察を加えた。また,地域住民と積極的に連携しながら博物館活動を活性化させている台湾の活動事例から,地域博物館と地域住民との関係の在り方を考察した。その結果,地域博物館を拠点とした地域文化を表象する資料の保存と活用の在り方について,資料保存という課題では,文化財IPM の導入と,文化財IPM コーディネータやPCO,博物館環境を専門とする研究者との連携が必要であることを示した。次に資料の活用については,従来から指摘されている学校教育との連携をあらためて提唱し,その実現のためには,博物館と学校という現場だけで解決するのではなく,国や自治体といった行政との協働が必要であることを改めて強調した。また,台湾の活動事例からは,活動する主体が博物館であれ,住民であれ,それぞれの状況でできることをきちんと整理し,実践する姿勢が大きな特徴であり,この姿勢に日本の地域博物館でも学ぶべきことが多いことを示した。そのうえで,これからの地域博物館が目指す姿勢として,地域文化の変容を受け入れつつ,変容前の地域文化についても理解を深めて継承しながら,地域文化の保存と活用を図る「文化継承主義」に基づいた活動モデルを提唱した。
Mishima, Teiko
本稿は2017 年にソニンケ民族が中心となってセネガルで開催された「文化週間」を記録した映像1)を題材に,運営側の活動と地域をとりまく社会経済的な状況を民族誌の観点から記述し,その成立要因や意義,および10 年間にわたって継続してきた背景を考察するものである。開催側が掲げた目的は,( 1)海外への労働移動と世代の交代によって失われつつある民族文化の継承,( 2)宗教対立や政治的な危機によって分断された地域間の連帯,である。諸要因を鑑みれば,「文化週間」は( 3) 国家の介入しない地域主導の文化運動,( 4) 反エスノセントリズムの民族主体の地域運動,と言い換えることができる。他方,筆者の関心は,( 5) 労働移動によって蓄積した富の価値とその利用,にあった。これらを考察の基本におきながら,取材をとおして浮かび上がってきたのは,(6) 国家と交渉する民族,( 7)「 残る」ことを選択した人びとの生活戦略,( 8)伝統的社会の変革である。
Hijirida, Kyoko 聖田, 京子
ハワイ大学東アジア言語・文学科では2004年秋学期より新講座「沖縄の言語と文化」を開講した。それに先立つ2年間の準備期間中に,担当教員2人(聖田京子,Leon Serafim)が,ハワイ大学及びハワイ地域社会の支援を得て,沖縄へ赴き資料収集を行った。琉球大学等とのネットワークを形成すると共に,豊富な資料・教材を収集することができ,講座開講に向けて,教材作成を中心とするカリキュラムの準備を順調に進めることができた。 コース内容は文化を中心にした楽しい沖縄学と,聞き,話し,読み,書きの4技能の習得及び基本的な言語構造を理解する沖縄語の初級レベルを設定した。言語学習には,まず表記法と,言語と文化の教科書を決めることが重要な課題であったが,琉球大学と沖縄国際大学の関係者の支援により解決することができた。 文化に関するコース内容は,年中行事,諺,歴史上の人物,民話,歌(琉歌を含む)と踊り,料理,ハワイの沖縄コミュニティーなどの領域を取り上げた。特に,沖縄の文化的特徴や価値観などを表すユイマール,イチヤリバチョーデー,かちゃーしーなどは,クラスのプロセスで実践による習得を目指した。 基本的な学習が終わると,学生は各自のテーマで研究し,ペーパーを書き,発表することとし,それによりクラス全員が更に沖縄学の幅と深みを加え,沖縄理解に至ることを目指した。 学生の取り上げた研究テーマは,沖縄の基地問題や平和記念館,平和の礎,ひめゆり部隊,沖縄の祭り,行事,観光,エイサー,歌手,空手,三線,紅型,ムーチー(民話),紅芋など多岐にわたっており,学生の沖縄に対する関心の幅広さがうかがわれた。 当講座の全体の教育目標は以下のように設定した。1)沖縄語の言語研究上の重要性を理解すると共に,基本文法を習得し,初級レベルでのコミュニケーション実践をタスクで学ぶ。2)沖縄文化を理解し,その価値観や考え方をクラスでの実践を通して学ぶ。3)ハワイにおける沖縄県系人コミュニティーの文化活動に気軽に参加し,かつ楽しめるようになる。 当講座は,開講以来,受講希望者がコースの定員を上回る状況であり,当大学の学生の沖縄の言語や文化への関心の高さを示している。かちゃーしーやユイマール,沖縄料理などの文化体験は大変好評で,講座終了後のコース評価では,沖縄語をもっと学びたい,沖縄文化をもっと知りたいという学生からの声が多く寄せられた。
張, 平星
2022 年6 月12 日(日),日文研共同研究「日本文化の地質学的特質」の初めての巡検を,京都の名石・白川石をテーマに,その産出と加工,産地の北白川地域の土地変遷と石の景観,日本庭園の中の白川砂の造形・意匠・維持管理に焦点を当てて実施した。地質学,考古学,歴史学,宗教学,哲学,文学など多分野の視点から活発な現地検討が行われ,比叡花崗岩の地質から生まれた白川石の石材文化の全体像を確認できた。
Miyahira, Katsuyuki 宮平, 勝行
民族誌学によるコミュニケーション研究に基づいて,本稿では言語行動にあらわれる文化的シンボルがどのような働きをするのかを考察する。特に,言語行動がどの様に社会変化もしくは文化変容を促すのか,事例研究の比較分析を通して変化構造の一端を解明することが本論の目的である。ウエスタン・アパッチ(米国)とサプラ(イスラエル)の言語行動を事例として挙げ,奥深い意味を持つ文化的シンボルが深層で複雑に相互作用する過程を詳しく調べてみた結果,言語共同体に特有な「話しことば」は社会変化あるいは文化変容の重要な媒体であることがわかった。社会の変化は言語共同体に特有なコミュニケーション行動による第一次テクストと代替テクストの相互作用や,それに基づくアイデンティティーの再認識と創出の繰り返しの中で遂行される。こうしたコミュニケーション行動の具体例としては,コードの切り替え(Code-Switching)や話しことばの儀式(Communicative Rituals)が挙げられる。従って,コードの切り替えや話しことばの儀式に注目してコミュニケーション行動を分析すれば,特定の言語共同体における話しことばの文化的意味を発見する大きな手がかりが得られることを本稿では論証する。
市野澤, 潤平
観光ダイビングは,近年マリン・レジャーとして人気が高まり,世界中に多数の愛好者がいる。海棲生物との出会いや海中での浮遊感を楽しむダイビングは,熱帯域のビーチリゾートでの観光活動の定番の一つとなっている。 しかしその一方で,人間が呼吸することができない水中に長時間とどまることから,スクーバ・ダイビングは本質的に危険な活動である。スクーバ・ダイビングは,窒息死を始めとする,様々な身体的リスクの源泉でもある。 本稿は,観光ダイビングを,かつては人間が滞在することの能わなかった水中という異世界へと進出する活動として捉える。観光ダイビングの実践においては,水中での人間の身体能力の限界を補うために,多様なテクノロジーを活用して事実上の身体能力の増強がなされている。本稿は,そうした各種テクノロジーのなかでもとりわけ,水中滞在時間と深度を計測して減圧症リスクを計算する技術/機器としてのダイブ・コンピュータに着目して,その導入と普及によって成立しているダイバーにおける独特なリスク認知の様相を,明らかにする。
竹村, 亜紀子 TAKEMURA, Akiko
本稿は親の母方言の影響によって鹿児島方言の習得が異なることを報告する。親が体系を異にする方言を母方言とする場合,その子供は方言接触の環境で育っているといえよう。本研究は鹿児島方言を対象に,方言接触がない環境(両親ともに鹿児島方言話者)で育った話者と方言接触の環境で育った話者(片/両親が非鹿児島方言話者)の方言習得の違いを捉えることを目的とする。本研究が行った調査の結果,(1)両親の出身地による方言習得の違いがあること,(2)方言接触がない環境(両親ともに鹿児島方言話者)で育った話者は文法的な要素(音韻規則)は変化しにくく,(3)方言接触の環境で育った話者(片/両親が非鹿児島方言話者)は伝統的な文法的要素の習得が不完全であるために文法的な要素(音韻規則)自体が異なっていることが明らかになった。また方言接触の環境で育った話者は鹿児島方言らしく聞こえるような疑似的な鹿児島方言が多く観察されることも明らかとなった。
Kobayashi, Masaomi 小林, 正臣
本稿は、これまで人文科学において広範に実践されてきた「文化的研究(Cultural Studies)」の在り方について検証している。自然科学における実証と異なり、人文科学における論証は、なるほど厳密な客観性を要求されない場合が往々にしてある。したがって、ある社会における文化と別の社会における文化に、あるいは一つの社会における複数の文化の相違に個別性と連続性を見出しつつ、それらの問題を文化の問題として論じることには、それなりの学問的価値はあるだろう。しかし、Bill Readingsが指摘するように、個々の集団間の差異性と連続性の問題を「文化」という観点から総括してしまうことには議論の余地がある。なぜなら、それは否定的な意味における還元主義的な論法となる危険性があるからである。一方、社会科学においても還元主義的な論法は存在する。たとえば、新古典派経済学は、社会における人間の活動を利益の追求または最大化という観点のみから説明する傾向がある。かくして本稿は、人文科学(例えば文学)と社会科学(例えば経済学)の学際性を図る際には、それら学際的研究の個々が「特殊(specific)」であるべきであり、学際性を総括的な概念としてではなく、永続的に追求されるべき概念として捉えることを提唱している。
福間, 真央
ヤキはメキシコとアメリカに国境を跨いで居住する先住民族である。近代国家の成立,国境の画定によって 2 つの国家に分断されながらも,ヤキは民族的同胞意識を維持し,1990 年代以降,越境的な交換を活発化させている。中でも文化的領域で行われるトランスナショナルな交換は贈与交換のシステムとして確立されてきた。そして主に儀礼から発展したネットワークは交換の活発化とともに多様化し,多元的なネットワークへと変化している。しかし,同時に,国籍,出身コミュニティなどの社会的,文化的背景が異なる個人や集団が参加するトランスナショナルな贈与交換は,しばしば当事者の間で齟齬を生んでいる。本稿ではトランスナショナルに展開する交換を 4 つのタイプ,儀礼における贈与交換,文化的贈与交換,文化アイテムの交換,贈与に分類し,考察することを通じて,ヤキのトランスナショナル化の様相を明らかにする。
ザトラウスキー, ポリー SZATROWSKI, Polly
本研究は,食べ物を評価する際に用いられる「客観的表現」と「主観的表現」について考察する。そのために食べ物を評価する語句が,語句のみの場合(調査A),食べ物を評価する語句が,文脈なしの発話に置かれた場合(調査B),食べ物を評価する語句が,実際の会話で用いられた場合(調査C)のそれぞれにおいて,その語句/発話が肯定的/否定的な意味を持つかどうかの3種類の調査を行った。資料は試食会のコーパスから取った,20代の女性3人が3つのコースからなる食事を食べながら話している実際の試食会の会話を録音・録画したものである。調査Aでは語句のリスト,調査Bでは(調査Aの語句が含まれている)文脈から切り取った発話のリストをもとに,それぞれの語句や発話が肯定的か否定的かを5段階で被験者に判断してもらった。調査Cでは(調査Bの発話が入っている)試食会のビデオを見せながら,被験者にビデオの参加者が評価していると思う発話に対して,それらが肯定的か否定的かを会話の文字化資料に+,-で記してもらった。その結果,いわゆる客観的な語句であっても,個別の語句もその語句が含まれた文脈なしの発話も肯定的/否定的な意味を持つこと(調査A,B),それが試食会の会話の場合では一層顕著であること(調査C)が分かった。このように,いわゆる客観的な語句で主観的な好みが示される。そして試食会の相互作用の中での使用を分析した結果,参加者は食べ物に関する知識と過去の経験との比較に基づいて評価すると同時に自分のアイデンティティを見せ,ほかの人との意見・考えの異同を確認し合い連携し,親疎の人間関係を作ること,食べ物の評価は動的に作り上げられ,時間とともに展開し,変わっていく社会的な活動であることが確認された。「客観的表現」と「主観的表現」は,従来の意味論の研究においては語句中心か文脈なしの文で考察されてきたが,実際の様々な種類の談話の相互作用の中で考察する必要がある。本研究は,食べ物を評価する形容詞等の意味に関する研究,異文化間の理解,食べ物に関する研究にも貢献できるものである。
山本, 理佳 Yamamoto, Rika
本論文は,近年の日本で極めて広範な対象を文化資源化している「近代化遺産」をめぐる動きを明らかにすることを目的として,とくに軍事施設までもが文化資源化される現象を取り上げた。すなわち,軍事施設の機密性と文化遺産の公開性との根本的な対立にもかかわらず,いかにして軍事施設の「近代化遺産」化が進んでいるのかをとらえた。対象としたのは,米海軍や海上自衛隊の大規模な「軍港」を抱える長崎県佐世保市である。佐世保市では,それら「軍港」内の施設の多くが戦前期に旧海軍が構築した「歴史的」建造物であることから,それらを「近代化遺産」として活用しようとする動きが1990年代半ばから活発化している。ここで明確にとらえられた点が,まず軍事施設の機密性が民間の開発などからの文化財の「保護」と結びつき,ことに軍を「優れた保存管理主体」として評価することにつながっている状況である。また,軍によって取り壊された煉瓦造建築物の廃材を活用した基地外での景観整備が近代化遺産の活用実践の主要な動きとなっている状況もとらえられた。いずれも軍の機密性に支障のない形での文化遺産化が進行していることが明らかとなったのみならず,「軍」を地域のアイデンティティとしてとらえる見方を醸成し,地域における軍存在の正当化につながっていることも明らかとなった。そして,そのような国家権力側に都合のよい「近代化遺産」化の動きは,地域内実践者の言説に垣間見える,軍事基地内の機密性と文化遺産活用との相容れなさへの実感と,それに伴う「返還」への強い執着との微妙なずれを生じつつも進行していた。総じて「近代化遺産」の貪欲な文化資源化の動きが浮き彫りとなった。
モートン, リース
恋愛の概念は、世紀末の日本において近代的繊細さが発展していく上で、大切な構成要素であるという認識が高まってきている。本論は、一八九五年から一九〇五年までの間に発行された総合雑誌『太陽』と同人雑誌『女學雜誌』を調べて、恋愛観がどう発展し、理解されていたかを検討するものである。これは、国際日本文化研究センターの鈴木貞美教授主催の共同研究「総合雑誌『太陽』」の一環である。ここでは、歴史上「恋愛」という観念が現れる現象的様式として、文化、特に文芸に焦点を当てている。『太陽』のような総合雑誌を経験的に検討することにより、文化・文芸史を書き換えていく基盤を築き、そして日本とヨーロッパの思想様式を比較文化的に検討する土壌を確立しようというものである。
Kishigami, Nobuhiro
本論文では,カナダ極北地域における有機汚染物質や重金属類,放射性核種による海洋資源,特に海棲哺乳動物資源の汚染問題について紹介し,この問題に対して国際連合や極北諸国,イヌイット環極北会議,カナダ政府,ケベック州政府,カナダ・イヌイット協会,カティヴィク地方政府,そしてヌナヴィク地域とヌナヴト準州のイヌイットがどのように対応してきたかを記述する。この問題について地元のイヌイットとそれ以外の団体や人々との間には,認識や行動,現実の対応に関してかなりの乖離がみられることを強調しておく。最後に,この汚染問題に関して文化人類学者が果たすことができる役割について検討を加える。筆者は,イヌイットの文化や社会を長期にわたって調査してきた文化人類学者は,他のアクターと有機的に協力すれば,イヌイットと外部社会を取り結ぶ文化の仲介者として,さらに資源の共同管理を立案し実施するうえでイヌイットと政府関係者の両者の助言者として,この問題の改善や解決に貢献できると主張する。
稲村, 務 Inamura, Tsutomu
世界中でみられる自文化研究への対応として、比較民俗学を提唱する。本稿においては、比較民俗学が民衆側から見た比較近代(化)論であるとして、これまでの系統論や文化圏論とは異なる「翻訳モデル」への転換が必要とされているのである。
山盛, 直 大山, 保表 Yamamori, Naoshi Oyama, Hohyo
リュウキュウマツの肥培効果を調査するため, 施肥量および施肥のくり返しを異にする試験を実施した(試験方法は第1表参照)。その結果つぎのことがわかった。1.5年後の生育本数は, 無施肥区でもっとも少なく, 枯損率も無施肥区でもっとも高かった。地位別では, 枯損率は下地位より上地位で低い傾向があった。2.樹高生長は, 施肥量の多い区ほど大きく, 上地位では施肥回数の多いほど大きい。5年生林分の樹高生長量は, 無施肥区に比較して, 施肥基準量区で約2倍, 施肥半量区で1.5倍の生長量をしめした。3.施肥区では, 3年目で林分が閉鎖し, その結果下刈回数を減少させて省力のできることがわかった。4.直径生長も樹高生長と同様に, 地位の高いほど施肥量の多いほど生長量が大きい。施肥のくり返しにおいては, 上地位で施肥回数の多いほど生長量の大きい傾向が認められた。5年生林分の直径生長は, 無施肥にくらべて施肥基準量区で2.5倍, 施肥半量区で1.5倍の生長量をしめし, 肥効の著しいことがわかった。
友利, 知子 Tomori, Tomoko
食生活の内容を決定する要因は何といっても所得で, その外に供給条件の変化や食習慣や嗜好も無視出来ない。なかでも供給条件の変化は大きく作用すると云われている。筆者はこれまで沖縄における野菜の消費構造, つまり野菜支出における収入ならびに家族人員数要因による影響について2回に亘り考察して来た。つまり沖縄における野菜支出は, 収入要因によってある程度増えるが余り顕著ではなく, また4月と11月という供給条件が全く異る場合にも収入要因は野菜支出にたいした影響を来さない。しかし一方家族人員数要因の方は明かに大きく影響を及ぼし, 供給条件の悪い11月には家族人員数がふえると野菜支出は全般に増えるが, 供給条件のいゝ4月には家族人員数がふえると野菜支出は全般には増えず, 野菜の中でも沢山出回って, しかも安いグループに属する野菜支出だけが増えてその他の野菜支出は増えない。つまり,食習慣的要因が働いて野菜の購入が決って来るものと思われる。その点を次の研究で具体的にしたいと思う。
北村, 啓子 KITAMURA, Keiko
古文のテキスト処理をしようとすると、表記のゆらぎは切実な問題であり、これをカバーするシソーラスや異表記辞書、読み辞書、固有名詞辞書などの語彙に関する電子辞書の構築が待望されている。古文のテキストデータ化が研究者個人で活発に行われるようになり十年を数え(国文学資料館でも二十年近く前から実験されていた)、大規模にテキストデータベースとして構築するプロジェクトもいくつか興っている。これらの活動で作られてきた古文テキストは、古文を対象にした一種の大規模コーパスを形成している。この生データであるコーパスから直接古典語彙を抽出するというアプローチは、トップダウンに作られた辞書にはない古文のテキスト処理に実際に役立つ語彙集の抽出が期待できる。特に古文を扱う上では、「もののあはれ」の例を出すまでもなく「かな表記の語彙」に重要な語彙が多く存在する。ここでは、この「かな表記の語彙」を抽出することに狙いを定め、現在利用できるテキストを分析することにより、コーパスから語彙を抽出する手法を検討し、いかに抽出できるかを試みる。
山中, 光一 YAMANAKA, MITSUICHI
「明治期における文学基盤の変化の指標について」(国文学研究資料館紀要6号,1980年)および「20世紀前半における文学基盤の変化の指標について」(同上8号,1982年)に続いて,20世紀後半における,文学に影響を与える社会的「場」の変化を論ずるものである。すなわち,この期間において,文学を担う作家および読者を構成する集団は,戦前に教育を受け戦争体験をもつ「戦前基盤」と,戦後の教育を受け戦争のない社会に育った「戦後基盤」との二つの基盤から成り,前者はさらに戦前の知識層と中間層の二重構造を受けついで全体として三成分構造になっている。そして各基盤で言語改革やメディアの発展の受け入れ方も異り,それらの影響は各基盤の消長によって変化した。「戦前基盤」は戦後その二重構造のギャップが狭められ,融合拡大した基盤となるが,1970年頃から失われ,文学の基盤は,それとは異質の戦後基盤に移ってゆくことを明らかにし,この基盤の変化と,戦後文学史との関係も考察する。
大高, 洋司 OTAKA, Yoji
山東京伝、曲亭馬琴の諸作の相互関係を中心に〈稗史もの〉読本の形成過程を跡づけようとする際に、文化三、四年(一八○六〜七)刊行の作については、従来はかばかしい説明がなされて来なかった。本稿では、まず、そこに至る京伝、馬琴の読本二七作の素材について、各作品の構成・趣向・主題にとっての重要性を再検討し、新たな基準で分類を施して一覧表として提示した上で、この時期京伝、馬琴が共に目指した方向が最も高いレヴェルで結実したのは、京伝『桜姫全伝曙草紙』(文化二・一二刊)であると結論づけた。また、これによって、京伝、馬琴は文化四年まで兄弟作者であるという稿者の仮説を一歩進めた。
島村, 恭則 Shimamura, Takanori
これまでの民俗学において,〈在日朝鮮人〉についての調査研究が行なわれたことは皆無であった。この要因は,民俗学(日本民俗学)が,その研究対象を,少なくとも日本列島上をフィールドとする場合には〈日本国民〉〈日本人〉であるとして,その自明性を疑わなかったところにある。そして,その背景には,日本民俗学が,国民国家イデオロギーと密接な関係を持っていたという経緯が存在していると考えられる。しかし,近代国民国家形成と関わる日本民俗学のイデオロギー性が明らかにされ,また批判されている今日,民俗学がその対象を〈日本国民〉〈日本人〉に限定し,それ以外の,〈在日朝鮮人〉をはじめとするさまざまな人々を研究対象から除外する論理的な根拠は存在しない。本稿では,このことを前提とした上で,民俗学の立場から,〈在日朝鮮人〉の生活文化について,これまで他の学問分野においても扱われることの少なかった事象を中心に,民俗誌的記述を試みた。ここで検討した生活文化は,いずれも現代日本社会におけるピジン・クレオール文化として展開されてきたものであり,また〈在日朝鮮人〉が日本社会で生活してゆくための工夫が随所に凝らされたものとなっていた。この場合,その工夫とは,マイノリティにおける「生きていく方法」「生存の技法」といいうるものである。さらにまた,ここで記述した生活文化は,マジョリティとしての国民文化との関係性を有しながらも,それに完全に同化しているわけではなく,相対的な自律性をもって展開され,かつ日本列島上に確実に根をおろしたものとなっていた。本稿は,多文化主義による民俗学研究の必要性を,こうした具体的生活文化の記述を通して主張しようとしたものである。
小島, 美子 Kojima, Tomiko
日本の民俗文化の地域性について考える場合、大きくはまず西日本と東日本という二つのグループに分ける考え方が一般的である。しかし日本民謡の音階分析の結果、西日本と東日本の差よりも、日本列島を中央の山脈で縦に分けた太平洋側と日本海側という二つのグループの違いの方が、むしろ強く現われる傾向があることがわかった。そのため本稿ではクサビ締め太鼓の分布を、日本と海外の諸民族について調べ、その分布から日本の民俗文化の地域性について、やはり同じ傾向が見られることを示し、日本文化の形成の問題にも少しふれた。日本の太鼓は基本的に二面相似の太鼓であるが、皮の張り方、締め方、胴の形などで分類される。クサビ締め太鼓は枠のない締め太鼓で、締めひもの間にクサビを入れてひもを締め皮を強く張るタイプの太鼓である。この種の太鼓は奄美諸島北部で現在も多く用いられている。おそらく古くは沖縄文化圏全体に広がっていたようで、現在でも与論島、波照間島などで使われているが、その中で奄美諸島北部でとくに様式化されたものと考えられる。また千葉県千倉町白間津や山梨県秋山村無生野の芸能でも、大型のクサビ締め太鼓が使われている。さらに韓国の済州島や、中国とタイのヤオ族、タイのアカ族、インドなどでも使われている。とくにヤオ族やアカ族のものは、クサビを盛大に使っており、基本的な構造が白間津の太鼓と共通である。この照葉樹林文化の故郷のようなところは、一大楽器製作センターでもあり、このクサビ締め太鼓もここがオリジンだったと考えられる。それがおそらく民間レベルのルートで日本に伝えられたのではないだろうか。本土と南島との先後関係は不明だが、この太鼓は照葉樹林文化と日本文化を結びつける一つのキイワードである。そしてそれが西日本ではなく、東日本の太平洋側に堂々と残っていることが注目されるのである。
大山, 保表 山盛, 直 Oyama, Hohyo Yamamori, Naoshi
1 本調査は, 現存の広葉樹林分の林分構成状態を調べ, 今後の広葉樹林分の施業の資料とするためにおこなわれた。2 林分上層木の樹種は28種で, 主要木はイタジイであって, 本数で全体の45%, 材積で全体の54%をしめている。その他の主要樹種は, ヒメユズリハ, シバニッケイ, ヒメツバキ, モッコク, ホソバシヤリンバイなどである。これら主要木のしめる本数および材積は, 全体の85%および90%である。3 上層木の地形区分別の平均樹高, ha当立木本数, 材積, および胸高断面積計, 閉鎖度は, 次の通りである。[table] 4 下層木の樹種は49種で, 総本数は3800本である。上層木における主要樹種7種は, 下層木においても生育本数が多く, 全体の50%をしめ, 特にイタジイはもっとも多くて, 全体の29%をしめている。5 主要樹種の下層木における樹高階別本数および歩合は次の通りで, 樹種によって異った型をしめしている。[table]6 全下層木の中で, 実生木および萠芽木のしめる本数歩合は, それぞれ25%および75%である。
照喜名, 聖実 田中, 敦士 細川, 徹 森, 浩平 Terukina, Mitami Tanaka, Atsushi Hosokawa, Toru Mori, Kohei
本研究では、八重山教育事務所圏内の小中高等学校に勤務する教員の複式学級における特別支援教育への「困り感」と「よさ」を明らかにすることを目的とした。問題が山積する複式学級を有する小規模校において、複式学級における特別支援教育の実態を把握するため、質問紙調査を行った。調査項目として、フェイスシートのほか、「複式学級という学級形態が特別な支援を必要とする子どもに与える影響」、「離島ならではの特別支媛教育に閲する取り組み」の2項目を自由記述形式で設定した。更に、前者の回答結果は「特別支援教育に関する困り感」と「よさ」の2つの観点に分けて分析した。その結果、複式学級を担当する教員の多くが複式指導と特別支援教育の2つの困り感を抱えていること、よさとして、複式学級における異学年との関わりが児童生徒に良い影響を生むと多くの教員が考えていることが明らかとなった。そのようなよさには豊かな自然環境や地域・家庭と学校の結びつきが深く関わっていることも明らかとなった。
木部, 暢子 KIBE, Nobuko
奄美喜界島方言の親族語彙のうち「お父さん・お母さん・お爺さん・お婆さん」を表す語を取り上げ,喜界島方言の親族名称(reference term)と親族呼称(address term)のシステムが東京方言のそれと大きく異なっていることについて述べる。たとえば,喜界島方言では,「アンマ」が地域により「お母さん」を表したり「お婆さん」を表したりする。その理由は,喜界島方言では,若い夫婦に子どもが生まれても,若い夫婦の「お母さん」(子どもにとっての「お婆さん」)が依然として元の名称「アンマ」で呼ばれる傾向があるからである。その場合,「若いお母さん」は「オッカ」--本土から取り入れた名称--で呼ばれる。一方,東京方言の親族名称と親族呼称は,一番下の子を基準として決められる。たとえば,若い夫婦に子どもが生まれると,若い夫婦の「お母さん」は「お婆さん」という位置づけを新たに与えられる。そうすると,名称・呼称も「オカーサン」から「オバーサン」へ取り替えられる。このように,両方言の親族語彙は,システムを大きく異にしている。
向井, 洋子 Mukai, Yoko
占領期沖縄におけるアメリカの文化政策は、アメリカ統治を円滑にすすめるための働きかけを市民に行っていくことだと考えられてきた。そして、アメリカ軍政府が設立した琉球大学や琉米文化会館は、その文化政策を実行する場とみなされてきた。しかし、なかには政府や大学という公的な枠組みを超えて、独自の関係を築いた人物がいた。琉球大学家政学科の翁長君代である。本稿は、元来、「人好きのする、親しみやすい」性格であった翁長が、アメリカ人と接するなかで、公共性をもつ慈善活動に目覚め、アメリカ軍政府の本音とは異なる方向で活動の輪を広げていった過程を論じる。
嘉数, 朝子 井上, 厚 當山, りえ Kakazu, Tomoko Inoue, Atushi Toyama, Rie
本論は、心理ストレスと対処行動に関する比較文化的研究の文献検索システムPsycLITを用いて論文概要を展望したものである。整理の観点としてAldwin(1994)が挙げるつぎの4点、(1)ストレッサーのタイプ、(2)ストレスフル度の査定、(3)対処方略の選択、(4)文化が提供する社会的資源を使って個々に比較考察した。最後に沖縄県における心理ストレスと対処行動の研究にむけて、環境要因や個人内要因の点から検討した。
李, 哲権
漱石文学の研究には、一つの系譜をなすものとして〈水の女〉がある。従来の研究は、このイメージを主に世紀末のデカダンスやラファエル前派の絵画との結びつきで論じてきた。そのために「西洋一辺倒」にならざるをえなかった。拙論は、それとはまったく異なるイメージとして〈水の属性を生きる女〉という解読格子を設け、それを主に老子の水の哲学や中国の「巫山の女」の神話との関連で考察する。 周知のように、漱石にとって文学は二つしかない。すなわち、「漢学に所謂文学」と「英語に所謂文学」である。彼はこの二種類の文学を「到底同定義の下に一括し得べからざる異種類のもの」として認識している。それと同様、〈水の女〉と〈水の属性を生きる女〉は全く性質を異にする異種類のものである。西洋の〈水の女〉のテーマ系に属する〈水の女〉は固定化されたイメージしか持たない類型的なものである。それに対して、中国の〈水の女〉のテーマ系に属する〈水の属性を生きる女〉は「人間の女」である前に、「物質の女」であり、「変化を生きる女」である。 漱石は東西を知る教養人として、この二種類の〈水の女〉を見渡せる高みを有している。そして、その高みから自分の独創性を編み出している。したがって、その独創性には一つの訣別、一つの放棄が含意されている。つまり、これから描く女を徹底的に〈水の女〉として描くことで、従来の慣習的なやり方――女を「人間の女」として描くことに別れを告げること。つぎに、そうすることで西洋伝来の古典的で排他的な手法――「人間の属性」という経験的所有の産物なる心理や精神性を登場人物たちの体に注入することを放棄すること、である。その代わりに、水という物質が有している「動の原理」を彼女たちの行動を可能にするエネルギーとして配分してやること、漱石的エクリチュールが有している独創性はすべてそこから流出(Emanatio)してきている。ゆえに、彼女たちが如何なる言動に出るかは、その心理や意思とはまったく無関係である。むろん、作家の意思やプランともまったく無関係である。 ひとことで言えば、漱石的テクストは単なる文学作品ではなく、そのような書く行為が試行錯誤的に実践される場である。したがって、そのようなテクストとの遭遇によって可能になるわれわれの読む行為も、自ずとそこに刻印されたエクリチュールの痕跡や軌跡を踏査するものにならざるをえなくなるのである。
内田, 順子 Uchida, Junko
基幹研究「地域開発における文化の保存と利用」におけるアイヌ文化に関する研究成果は,2013(平成25)年3月19日にリニューアルオープンした第4展示室(民俗)に反映されている。新しい民俗展示室におけるアイヌ文化についての展示は「アイヌ民族の伝統と現在」というテーマ名をもち,「現代のアイヌアート」と「資源の利用と文化の伝承」というふたつのテーマから構成されている。この展示のベースには,「文化の資源化」,すなわち,アイヌの人たちが,観光や大規模開発などをきっかけとして,どのように自身の文化を対象化し,継承すべき資源として見いだしてきたのか,という問題がある。本稿では,観光を契機とした文化の資源化の観点から,展示で紹介している白老および二風谷を事例として検討するものである。白老は,近代以降のアイヌ観光の中心地のひとつであり,和人によるアイヌ観光の問題が顕著に現れた地域でもある。アイヌ民族博物館(1984年設立)は,アイヌ自身が調査・研究をし,調査・研究したことを自ら実践するという体制を確立した。だからといって,観光の場に特有の,観る側と見られる側の非対称な構造がなくなったわけではない。そのような構造においても,アイヌ民族博物館の職員は,観光客に一方的に消費される対象から「見せる主体」へと立ち位置を変えようとする姿勢をもち,それに基づく実践を,日々の業務の中でおこなっている。二風谷については,二風谷における観光と工芸品制作の関係を確認した上で,現在の二風谷の代表的木彫家である貝澤徹氏のアイデンティティの変化について記述した。二風谷は,昭和30年代の民芸品ブームとその後の観光客の増加をきっかけとして,民芸品生産を生業のベースにした地域へと移行した。貝澤徹氏は,そのような状況のなかで自ずと木彫の道に入ったが,当初はアイヌの伝統的な木彫には抵抗があったという。その後しだいに伝統文化を受け入れ,自身がつくる作品を「美術的にも評価される作品」へと昇華させようとするところへと変化した。アイヌ民族が制作する木彫品を「工芸品」と呼ぶか,「民芸品」と呼ぶか,「美術」と呼ぶか,それは視線の制度の問題でもある。貝澤氏の実践は,従来「工芸品」「民芸品」と呼ばれることが多かったアイヌの木彫品に対する視線への問いかけでもある。アイヌ民族博物館や貝澤徹氏の営みの細部には,アイヌ民族とはなにか,アイヌ文化とは何か,という問いに対して,考えることなく一方的に答えを限定してしまうような構造への思考を可能にするものが含まれている。
Kobayashi, Masaomi 小林, 正臣
本稿は、ユダヤ系アメリカ人のBernard Malamudの作品において、どのように「多文化主義(multiculturalism)」が構築され実践されているかを検証する。特に注目した作品は“The First Seven Years”や“The German Refugee”などの短編およびThe Assistantなどの長編であり、これらにおいて「他者性(otherness)」が「共者性(anotherness)」へと変容していることを発見することで、作者独自の多文化主義が実現されていることを論証する。\n以上の点を論じるうえで重要なことは、文学の役割である。Malamudの文学作品には、文学作品を媒介として人物たちが関係を深める場合が往々にしてある。すなわち、文化的背景の異なる人物たちは、同一の作品を読むことで相互の交流の契機を見出し、結果として自己に対する「他者」は「共者」として認識される。そして相互の交流は、Mikhail Bakhtinが唱える「対話法(dialogics)」によって促進される。具体的には、上記に挙げた作品の主要人物たちは、話すことによる意思疎通という「外的な対話(external dialogue)」と、書くことによる意見交換という「内的な対話(internal dialogue)」を同時に実践している。それにより「ユダヤ系」と「非ユダヤ系」という二項対立が相克され、ついには人物たちは相違を認識したうえでの共者間の交流を実現するに至る。\nさらに本稿では、多文化主義が教育においても重要であることを説く。文化的背景という点においては、多くの場合、学生と学生ならびに教師と学生は異なる人間である。この意味において、多文化な環境(特に大学)における人間同士の共者性を育む場は教室であり、そこで文学作品を読むことは多文化主義を実践することと不可分である。かくして、Malamudの「文学(writings)」は理念的かつ実践的な「教学(teachings)」でもあると結論する。
Takezawa, Shoichiro
19 世紀後半に欧米諸国であいついで建設された民族学博物館は,新しい学問領域としての民族学・文化人類学の確立に大きく貢献した。植民地拡大の絶頂期であったこの時期,民族学博物館の展示は,器物の展示を通じて近代西欧を頂点におく諸民族・諸人種の進化を跡づけようとする,イデオロギー的性格の強いものであった。 やがて,文化人類学における文化相対主義・機能主義の発展とともに,民族学博物館の展示も,当該社会の文化的コンテキストを重視するものになっていった。そして,西暦2000 年前後に,ヨーロッパの多くの民族学博物館はその展示を大幅に変えたが,その背景にあったのは,「他者」を再現=表象することの政治的・倫理的課題をめぐる民族学内部の議論であった。 本稿は,ヨーロッパの民族学博物館の展示の刷新を概観することを通じて,今日の民族学博物館と民族学が直面している諸課題を浮彫りにすることをめざすものである。
国際日本文化研究センター, 図書館
2003年4月から2019年3月の間に図書館に入った資料のうち、「大衆」「文化」のキーワードを持つものをピックアップしました。気になる本がありましたら、ぜひ図書館でご利用ください。
赤沼, 英男
東日本大震災で襲来した大津波により岩手県太平洋沿岸部の中でもとりわけ深刻な被害を受けた陸前高田市では,津波で被災した4 つの文化施設から救出された被災資料の再生が今も連綿と続けられている。これまでの救援活動を通し,類似する大規模自然災害発生に備えるうえで,地域に伝わる歴史文化資源のデータベース化が極めて重要であることがみえてきた。歴史文化資源のデータベースは研究者のみならず,地域住民,児童・生徒などによる様々な形での活用が見込まれる。それに対応するため,3D 画像やイラスト,動画を加味するなど様々な質のデータ準備も欠かせない。大規模自然災害発生時,被災資料の救出を円滑に進めるためには,歴史文化資源のデータベースを駆使して被災状況を早期に的確に把握し,適切な救出チームを編成したうえで迅速な救出活動を展開する必要がある。救出された被災資料を仮保管するための,冷凍・冷蔵機能を含む一次保管施設の確保にも留意しなければならない。被災した資料の迅速な再生を図るには,陸前高田市内に立地する文化施設から救出された被災資料再生のために,多くの専門機関の連携によって構築された安定化処理技術の継承と普及,新たな技術開発を進めるための基盤整備も重要な課題である。上述した質の異なる様々な活動を円滑に進めるためには,それぞれの活動の趣旨に賛同する地域の機関や団体によって形成される地域連携を基軸に,必要に応じ地域外の機関や団体を加えた活動体制の構築と,それぞれの活動を統括する地域内拠点の整備が不可欠である。質的に異なる様々な連携を特定の機関や団体が全て統括することは難しい。それぞれの連携を統括する機関や団体との間で緩やかなネットワークを形成し,地域住民の理解と協力を得ながら様々な活動を展開することによって,地域に伝わる歴史文化資源を守り伝えることができるにちがいない。
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