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ダニエルス, クリスチャン Daniels, Christian
本稿では、思茅の生態環境史に大きな影響を与えた漢族移民が入植する以前にタイ族の政権が存在したこと、及び18世紀における漢族商人による思茅山地の開発という二つの要因を指摘した後、この度の調査で得た碑文資料に基づいて、18世紀末19世紀初め、現地の住民がこの開発に対して自発的に採択した環境保全措置とその意義を紹介する。
増田, 厚之 MASUDA, Atsushi
漢族商人が雲南省で商業を行なう際にその拠点としていたのが会館である。雲南省蒙自県に存在する江西会館に関する碑文を見てみると、会館には不法占拠という問題が存在していたと記録されていた。会館は、自らの活動によってその経営資金を獲得していたが、同時にその資金を狙って会館を簒奪せんとする遊民の標的ともなっていたのである。これは、漢族商人による商業活動の大きさや、商品開発の積極性を示すものであり、大規模な商品開発が環境に大きな負担を強いていたことを表す一つの証明である。
簡, 中昊
日本人作家大鹿卓は、その出世作である短編小説『野蛮人』において、植民地時代の台湾原住民を題材に、いわゆる「野蛮性」を描写することによって独自の原住民像を作り、それに憧れる主人公を描いた。具体的には原住民女性の原動と旧習としての「馘首」の背後にある社会の仕組みを取り上げ、原住民の「野蛮」の精神を知らせた。「野蛮」を賛美することによって、日本を優位に置き台湾を劣位に据えるという当時の社会通念ないし「野蛮/文明」の二元対立の図式を反転させようとした。小論はテキスト分析を通して「野蛮」の意味を分析し、植民地期の台湾文学における原住民と漢族の女性像を比較して、大鹿の創作意図を検討する。大鹿の「蕃婦」像は、「野蛮/文明」という二元対立論とは異なり、福沢諭吉の文明論や一九三〇年代に流行したドイツの文化論の影響も見られない。作中では、「野蛮」の相対概念としての「文明」「文化」には言及されない。おそらく大鹿は最初から二元対立的な構造に陥ることを避け、植民地統治の現場の深層を探求するために書いたのではないかと考えられる。大鹿の創作の主眼は、近代日本が植民地台湾で作った優劣順位を覆すことにあっただろうが、台湾原住民の旧習であった馘首などがすでに帝国の視野に入っていたため、当時、彼の意図は結局理解されなかった。しかし、彼の試みは当時の植民地文学においては先鋭的なものであった。以上のように、小論は、大鹿の作品の歴史的意味を明らかにすることを目的とする。
長部 悦弘 Osabe Yoshihiro
研究概要:本研究報告では総計427の北朝の漢族士大夫の通婚例を抽出し、山東(太行山脈以東、292例)と山西(太行山脈以西、関隴地方も含む、135例)に分け整理した。以下、これまで進めてまた作業を通して得た知見を披瀝しよう。(1)通婚関係を記す史料の記述対象が山西士大夫に比べて山東士大夫に大きく偏っている。そのことは北朝士大夫の通婚状況を考察する上で山西士大夫より山東士大夫の方がより精度の高い結果が得られると考えられる。(2)山東士大夫の通婚関係に関する記述が山西士大夫のそれより多い史料上の原因は第1に正史の『魏書』の記述対象が山東に傾いていたこと、第2に発掘された北朝の墓誌中、山東士大夫の通婚関係を記したものの方が、山西士大夫のそれより多いことである。(3)山東士大夫の頂点に位置付けられる清河郡崔氏・范陽郡慮氏・趙郡李氏・榮陽郡鄭氏・博陵郡崔氏は通婚相手の出身地が不明なものを除けば、40~75%が山東出身者により占められており、山西士大夫より山東士大夫が通婚相手として選ばれたことが明らかとなった。以上の五姓は相互に繁く通婚した上、それを中核として他の山東士大夫と通婚した。(4)五姓以外の山東士大夫では、鉅鹿郡魏氏、清河郡房氏、平原郡明氏、東清河郡僅氏が五姓と多く通婚していた以外は、五姓以外の山東士大夫が主たる通婚相手であった。(5)山西士大夫の通婚相手は山東士大夫より山西士大夫の方が多いように思われるが、中でも顕著な例は太原郡郭氏・河東郡裴氏・馮翅郡冠氏・安定郡旱甫氏である。その一方で、山東士大夫と多く通婚した隴西郡李氏のような山西士大夫もみられるが、少数である。
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