3114 件中 1 〜 20 件
中塚, 武
気候変動は人間社会の歴史的変遷を規定する原因の一つであるとされてきたが,古代日本の気候変動を文献史学の時間解像度に合わせて詳細に解析できる古気候データは,これまで存在しなかった。近年,樹木年輪に含まれるセルロースの酸素同位体比が夏の降水量や気温の鋭敏な指標になることが分かり,現生木や自然の埋没木に加えて,遺跡出土材や建築古材の年輪セルロース酸素同位体比を測定することにより,先史・古代を含む過去数百~数千年間の夏季気候の変動を年単位で復元する研究が進められている。その中では,セルロースの酸素同位体比と水素同位体比を組み合わせることで,従来の年輪による古気候復元では難しかった数百~数千年スケールの気候の長期変動の復元もできるようになってきた。得られたデータは,近現代の気象観測データや国内外の既存の低時間解像度の古気候記録と良く合致するだけでなく,日本史の各時代から得られたさまざまな日記の天候記録や古文書の気象災害記録とも整合しており,日本史と気候変動の対応関係を年単位から千年単位までのあらゆる周期で議論することが可能になってきている。まず数百年以上の周期性に着目すると,日本の夏の気候には,紀元前3,2世紀と紀元10世紀に乾燥・温暖,紀元5,6世紀と紀元17,18世紀に湿潤・寒冷の極を迎える約1200年の周期での大きな変動があり,大規模な湿潤(寒冷)化と乾燥(温暖)化が古墳時代の到来と古代の終焉期にそれぞれ対応していた。また人間社会に大きな困難をもたらすと考えられる数十年周期の顕著な気候変動が6世紀と9世紀に認められ,それぞれ律令制の形成期と衰退期に当たっていることなども分かった。年単位の気候データは,文献史料はもとより,酸素同位体比年輪年代法によって明らかとなる年単位の遺跡動態とも直接の対比が可能であり,今後,文献史学,考古学,古気候学が一体となった古代史研究の進展が期待される。
中塚, 武 Nakatsuka, Takeshi
日本を含む東アジアでは,近年,樹木年輪幅の広域データベースや樹木年輪セルロースの酸素同位体比,或いは古日記の天候記録や古文書の気象災害記録などを広く用いて,過去2,000 年以上に亘って気温や降水量の変動を年単位で解明する,古気候復元の取り組みが進められている。その最新のデータ群を歴史史料や考古資料と詳細に比較することで,冷害や水害,干害といった気候災害に対して,過去の人々がどのように対応できたか(できなかったか)を,時代・地域ごとに詳細に明らかにできる可能性がある。近世・中世・古代のそれぞれの時代における,これまでの気温や降水量の復元結果からは,数十年の周期で夏の気温や降水量が大きく変動した際に,大きな飢饉や戦乱などが集中的に発生していたことが明らかとなってきた。このことは,地震や津波による災害を含めて数十年以上の間隔をおいて同じ種類の災害が再発する際に,つまり数十年間平穏な時期が続いた後に災害が起きる際に,社会の対応能力が低くなるという普遍的なメカニズムの存在を示唆する。本論ではさらに,古代から近世に至る歴史の時間・空間座標の中から,数十年以上の時間間隔をおいて大きく気候が変動した無数の事例を抽出して,気候災害の再発に際して社会の中のどのような要因が災害の被害を増幅(縮小)させたのかについて,普遍的に明らかにするための統計学的な研究の枠組みについて提案した。こうしたアプローチは,「高分解能古気候データからスタートする歴史研究」において初めて可能になる方法論であり,伝統的な歴史学・考古学の方法論を補強できる,新しい歴史研究の可能性を拓くものになるかもしれない。災害への社会の対応力を規定する要因が何であるのかは,現時点では結論は下せないが,中世や近世の事例は,特に「流通経済と地域社会の関係のあり方」が飢饉や戦乱の有無に深く影響することを示唆しており,関連するデータの収集が急がれる。
市野, 美夏 増田, 耕一 三上, 岳彦
気候変動が人間社会に与える影響については,歴史学においても,将来の気候変化への対応においても重要な課題である。気象観測開始より前の気候要因と社会および経済状態との連関を論じるためには,年よりも時間解像度の高い気候変化を空間パターンの時系列として示す必要がある。日本では毎日の天候記録を含んだ古文書が数多く残され,気候復元に利用されている。そこで,本研究では,天候不順などの異常天候による気候災害と社会への影響の議論に有用な,ある1年ではなく複数年にわたる,連続した空間分布をもつ気候要素の復元を試みた。天気の良し悪しと密接な関係にある気象変数として日射量を考え,天保の飢饉があった1830年代を含む1821年から1850年の30年間について,日記に含まれる天気記録から複数地点の月平均日射量の空間分布を推定した。定性的な天気記録から日射量を推定するため,まず,現在の天気の観測として気象庁の天気概況と全天日射量の関係から作成された推定方法を古日記の天気記録に適用した。日射量は植物の生長への寄与が大きい気象要素の一つであり,その変動は農作物の収量等にも影響する。そこで,1833年,1836年,1838年の月平均日射量推定値の30年平均値に対する割合による日射量の空間分布および季節進行を基に稲作への影響を議論した。1836年の日射量分布とその季節進行の特徴は,北東北と南九州を除き夏季の日射量が低く,本州の中央部分を中心に,5月から9月までの長期に渡り日射量が低い状態が続いたことである。また,1836年と1838年は,北東北の日射量が平年並みかそれ以上であり,夏季の間,梅雨前線と同様な前線帯が本州に停滞している状態が続き,いわゆる夏の晴れではなく,前線の北側で寒かった可能性が示唆された。
Ranganathan, C.R. Ranganathan, C.R.
本研究では、気候変動下での最適土地利用計画のフレームワークを提供する。気候変動が農業生産へ与える影響は多方面にわたる。すべての農業生産活動は非常に気候変動に対して敏感であり、作物収量の変動を伴う。よって、気候変動の影響を平均収量のみではなく、変動について研究することが必要である。定量的な情報は自然資源の賢明な利用と土地配分の最適化のために利用されるべきである。回帰分析を使った過去の研究では、平均生産性にのみ注目し、気候変動にともなう作物生産性の競合による最適土地配分にはあまり注目していなかった。都市化によって農業用地が減少している状況では、この問題はさらに重要度を増している。本研究では、この問題をタミルナドゥ州で生産されている主要穀物について検討する。計量経済分析により、平均収量と変動収量、そして異なる作物収量の共分散を推計する。気候変動の影響を反映している推計された平均収量は、多目的線形計画モデルによって最大穀物収量、最大米収量、現在の作物生産を維持するための最小農業用地などの目的を達成するために利用される。最後に、本研究では、2021年と2026年のタミルナドゥ州の人口予測と最適食料穀物生産をリンクさせて、一人当たりの可能食料穀物量を決定する。研究の結果、降雨量と温度は生産性と穀物の変動にさまざまな影響を与え、またHADCM3A2a シナリオによる気候変動は、タミルナドゥ州の5区域での作物生産性への影響は小さかった。伝統的な稲作地区では変動の増加と共に生産性も増加した。一方、多くの他の穀物の生産性は減少し、同一的な変化はなかった。土地のみが制約である場合、気候変動による生産性の変化により、作物の最適配分により食穀物の生産は増加する。これらの結果は政策決定者にとって人口予測下での穀物の供給と需要のギャップを知るために有効である。
Palanisami, K. Ranganathan, C. Senthilnathan, S. 梅津, 千恵子 Palanisami, K. Ranganathan, C. Senthilnathan, S. UMETSU, Chieko
インドの農業は気象、特に降水量の変動に大きく影響を受ける。インド亜大陸の降水量の80%は6月から9月の3ヶ月間に起こり、南西モンスーンとなる。旱魃がある地域で問題となる一方、洪水も別の地域で人間生活と農業にとって被害を及ぼし、平均的に氾濫しやすい土地の約3分の1は農地である。洪水となる過剰な雨量、不作をもたらす旱魃、財産に損害を与えるサイクロン等、気候の負の影響へは迅速な対応が求められる。その時々に気候の影響に対する社会の対処能力が試される。歴史的に社会の対処能力は地域的に試されてきており、社会は気候の変動にレジリアンスを持つ様に適応してきた。脆弱性とはその地域にすむ人口の経済システムの状態であり、また社会経済的な特徴でもある。本稿では、脆弱性の社会経済的な観点から、地域の発展段階およびさらに発展する能力を計る指標に焦点を当てた。Anand and Sen (1994)によって人間開発指標(Human Development Index: HDI)を計算するために開発された脆弱性指標の方法を基本とし、人口の脆弱性、気候の脆弱性、農業の脆弱性、就業の脆弱性を含めた。タミルナドゥ州の異なる農業気候地域で1980-2001 年までの3期間の指標を7地域で比較した結果、高降水量地域が一番脆弱性が高いことが明らかになった。脆弱性指標は、脆弱性をモニターし、脆弱性を低下させるための対策を開発し、優先順位を考え、またそれらの対策の効果を検討する際に潜在的に有効な方法であろう。
安田, 喜憲
インダス文明は、四五〇〇年前、突然といってよいほどに、インダス川の中・下流域に出現する。そして、三五〇〇年前頃、この文明は崩壊する。こうしたインダス文明の劇的な盛衰をもたらした自然史的背景に、ヒマラヤの気候変動が、深く関わっていることが、明らかとなった。西ネパールのララ湖の花粉分析の結果は、約四七〇〇年前以降、ヒマラヤの気候が冷涼化し、冬の積雪量が増加したことを、明らかにした。一方、冷涼化によって、南西モンスーンは弱化し夏雨は減少した。冬作物中心の原始的な灌漑農業は、インダス文明発展の基盤を形成していた。積雪量の増加は、冬作物にとって必要な春先の灌漑水を、安定的に供給し、インダス文明発展の契機をもたらした。夏雨の減少は、人々をインダス川のほとりに集中させた。こうしたインダス川沿いへの人口の集中は、文明発展の重要な契機となった。インダス文明は、三八〇〇年前以降、衰退期にはいる。日本を含めたユーラシア大陸の花粉分析の結果は、約四〇〇〇年前以降の気候の温暖化を指摘している。この温暖化は、ヒマラヤの積雪量を減少させ、春先の流出量の減少をもたらした。このヒマラヤから流出する河川の春先の流量の減少が、冬作物中心の農業に生産の基盤を置いたインダス文明に、壊滅的打撃を与えた。日本の縄文時代中期の文化も、五〇〇〇年前に始まる気候悪化を契機として、発展した。日本列島の気候は、五〇〇〇年前以降、冷涼・湿潤化した。とりわけ、海面の低下と沖積上部砂層の発達により、内湾の環境が悪化した。縄文人は内陸の資源を求めて、中部山岳などに移動集中した。この人口の集中が、縄文中期内陸文化の発展をもたらす契機となった。インダス文明と縄文中期文化の盛衰には、五〇〇〇-四〇〇〇年前の気候変動が、深い影を落としている。
Kajoba, Gear M. Kajoba, Gear M.
本研究の目的は、シナゾングェ県カファンビラ地区における、気候変動に対する小規模農家の食料生産システムの脆弱性を評価し、気候変動の影響および短期的対処戦略とともに長期的適応戦略のための農民の知見を評価することである。調査では、32世帯を対象とした半構造化インタビューと情報提供者を含む計44人が参加した2回のグループ討論から定性的、定量的データを収集した。小規模農家は気候変動の概念についての理解はないものの、度重なる旱ばつや時折生じる洪水からその影響を経験していた。回答者によれば、気候変動は急激に食料生産に大きな負の影響を与えており、トウジンビエ、ソルガム、メイズ等主食作物の不作をもたらしている。主な対処戦略(作物の組合せや間作の他)として以下のような生業活動があげられる。まず、家畜を売却した現金でカリバ湖畔で魚を購入する。購入した魚は、高地へ運ばれ、メイズを購入するために現金化されたり、メイズと交換されたりする。持ち帰ったメイズは製粉され食糧となる。農民は必要に応じてこのような生業活動を繰り返している。地域の農民は気候変動に対する長期的な対策は知らないと回答したものの、カリバ湖から灌漑用水を引く事業を設立し、小規模金融と旱ばつ耐性がある早生の高収量改良品種を供与してもらうために政府と関係者に働きかけた。また、農民達は政府に対して穀物、家畜、魚の交易を容易にするために、彼らが居住する遠隔地と高地をつなぐ道路の建設を要求した。
自然環境は、さまざまな恵みを私たちの暮らしや社会にもたらしています。 自然の恵みの一つに自然災害の抑制があり、「生態系を活用した防災減災」のアプローチが近年注目されています。 日本は、古くから多くの自然災害を経験してきましたが、気候変動が進むと、 さらなる自然災害が引き起こされると懸念されています。 さらには、人口減少や財政問題などの社会的課題は、 これからの防災減災のあり方にも影響します。 シンポジウムは、自然災害と自然の恵みのかかわりを国内外のさまざまな事例に学びながら、これからの人と自然のかかわり方について共に考える機会をつくることを目的に開催しました。
大城, 政一 古謝, 瑞幸 前当, 正範 宮城, 盛時 Oshiro, Seiichi Koja, Zuiko Maeto, Masanori Miyagi, Seiji
亜熱帯環境下飼育黒毛和種の生理的適応現象を明らかにするため, 黒毛和種を供試し, 畜舎-人工気候室内(20℃・85%-30℃・85%)の実験における3環境条件区の生理諸元, 血液及び第一胃内液等を測定し, 比較検討した。畜舎内29℃・86%-人工気候室内20℃・85%-30℃・85%の3実験区における, 直腸温, 心拍数及び呼吸数において, 畜舎内でそれぞれ38.60±0.16℃, 70.4±2.1回/分及び38.7±4.2回/分であったが, 人工気候室内20℃・85%で38.19±0.12℃, 59.2±3.2回/分及び19.4±2.8回/分と有意に減少した(P<0.01)。また, 人工気候室内30℃・85%で38.88±0.20℃, 79.0±1.9回/分及び64.2±6.1回/分と有意に上昇を示した(P<0.01)。赤血球数, 白血球数, Ht値, Hb量, 赤沈速度, 血糖値, FFA, 血漿アルブミン量, 血漿遊離コレステロール量, 血漿サイロキシン量, 総蛋白質量, 尿pH, 第一胃内液pH及び採食量において, 3実験区間に有意な差異はなかった。第一胃内プロトゾア数は旋毛類, 全毛類及び両者の総数において, 3実験区共に9 : 00の値より21 : 00の値の方が有意に高かった(P<0.01)。以上のことから, 亜熱帯地域沖縄県下で畜舎内飼育黒毛和種は主に心拍数, 呼吸数及びその他の物理的調節作用によって, 生体恒常性の維持を保って, 高温・多湿環境(8月)下に適応していることが示唆された。
藤原, 綾子 渡口, 文子 Fujiwara, Ayako Toguchi. Fumiko
沖縄県における大学生以上の男女を対象にして年間の着衣パターンについて調査を行なった結果、次のようなことがわかった。1.衣服の種類についてみると、男女とも洋服着用者が圧倒的に多く、和服着用者は男女とも1~2%である。また女子では70才以上に琉装の着用がある。2.男子の着衣パターンは上着の場合、5月から10月までの6ヶ月間を半袖上着ですごしている。下着は気候にあまり影響されず年代によって異なり、若い年代程薄着であ3.女子の着衣パターンは、上着、下着ともパターンの数が多く若い年代程多い。上着の着衣パターンは気候に影響されている。下着は若い年代程ファウンデーション下着の着用が多く、年をとるに従って少ない。下着の着用パタ-ンは気候に影簿されず、むしろ年令等によって決まっている。最後に-年間にわたる長期間にもかかわらず調査に御協力いただいた方々に深く感謝いたします。又写真撮影に協力して下さり話をきかせて下さいました那覇市首里平良町の久場様に深く感謝申し上げます。
趙, 廷寧 翁長, 謙良 宜保, 清一 Zhao, Tingning Onaga, Kenryo Gibo, Seiichi
天然・導入花棒の形態特徴を調査し,統計的な方法により花棒生態型の区分を定量的に行い,生態型別の花棒の形態区別,播種苗の形態変化過程を考察した。さらに,気候変遷に及ぼす花棒生態分化の要因と分化過程を検討した。得られた結果を要約すると次のようになる。1)天然花棒および導入花棒はともに,無小葉花棒と多小葉花棒の両生態型に分けられる。2)二種類生態型花棒の主な形態区別は,複葉,針状葉の数量及びそれぞれの割合が異なることに現れている。3)生態型別花棒苗の形態変化過程が異なる。4)花棒の生態分化は気候の変化,特に地域の乾燥度の変化により引き起こされたものである。
金城, 須美子 Kinjo, Sumiko
1 琉大の男子寮, 女子寮生を対象に食品の嗜好調査を行った。その結果, 肉料理, すし類, 果物, 野菜サラダの平均嗜好度は男女とも高く標準偏差も小さい。男子の肉料理に対する嗜好は女子より高い。特にビフテキは全食品中最も高い嗜好を示し偏差も1.04と非常に小さい。これは殆んどの男性が, 文句なしにビフテキを好んでいることが分る。これに対して女子は野菜サラダを最も好む食品としている。琉球料理のイリチーやチャンプルーはさ程好まれない。各食品に対する男女の嗜好の相違は顕著でないように思う。2 気候, 健康状態によって嗜好が異るかどうかを調査した。その結果, 夏と冬, それに疲れたときの食品に対する嗜好が異ることが分った。特に気候の影響が大きい。それ故, 食品の嗜好に及ぼす要因として性別よりも, むしろ季節, その他の要因が大きいと思われる。
福田, 正宏
縄文文化は,温暖湿潤気候と山岳地形に由来する箱庭的景観が特徴的な日本列島の環境に適応した,極東型新石器文化群のひとつである。縄文文化の担い手が分布する範囲は,寒冷地適応の限界と関係して,列島北辺域における温帯性の延長線上にある生活域にとどまる性質にあった。居住環境が必要条件を満たさない場合,縄文集団は適応困難な北方寒冷地に積極的に進出しないことが多かった。そのなかで道東北は,海産食料資源や石材資源が豊富に存在するため,縄文集団にとって占地するメリットがあった。しかし,オホーツク海沿岸では極端な気候変化が起こりやすく,温帯性の生活構造を持続させることが難しく,撤退を余儀なくされることもあった。また,温暖環境の拡大にともなって出現したサハリンや千島方面の適地に縄文集団が進出/占地した可能性はある。しかし,完新世初頭以降縄文晩期に至るまで,そうした動きは一過性であり,生活システムを転換させてまでして,新たな生態系に進出して,持続的な適応を果たしたことはなかった。気候が亜寒帯に近づけば近づくほど,縄文集団の居住要件は満たされにくくなる。つまり,日本列島北辺域に分布する亜寒帯性の生活環境は,縄文集団にとって進出するリスクが大きい地域であったと指摘することができる。
中塚, 武
樹木年輪セルロースの酸素同位体比は,夏の降水量や気温の鋭敏な指標として,過去の水稲生産量の経年変動の推定に利用できる。実際,近世の中部日本の年輪酸素同位体比は,近江や甲斐の水稲生産量の文書記録と高い相関を示し,前近代の水稲生産が夏の気候によって大きく支配されていたことが分かる。この関係性を紀元前500年以降の弥生時代と古墳時代の年輪酸素同位体比に当てはめ,本州南部の水稲生産量の経年変動ポテンシャルを推定し,さらに生産―備蓄―消費―人口の4要素からなる差分方程式を使って,同時期の人口の変動を計算した。ここでは農業技術や農地面積の変化が考慮されていないので,人口の長期変動は議論できないが,紀元前1世紀の冷湿化に伴う人口の急減や,紀元前3—4世紀,紀元2世紀,6世紀の気候の数十年周期変動の振幅拡大に伴って飢饉や難民が頻発した可能性などが指摘でき,集落遺跡データや文献史料と対比することが可能である。
松木, 武彦
紀元前375年頃から紀元後700年頃までの日本列島中央部の社会変化を,「社会規模」「成層的複雑度」「戦いの頻度と文化化の度合」「表象物質化の尖鋭度」という4大別の下に19項目の考古事象を選択し,それぞれの変化を数字で表記することによって定量的に示した。そのことによって,紀元前150—紀元後25年,および紀元後175—250年の2回に,変化が急速に進む時期があったことを明らかにし,それぞれを第1の急進期,第2の急進期とよんだ。次に,高精度古気候復元の成果から,それぞれの急進期にどのような気候変動があったかのかを推定し,それがいかにして急進期をもたらしたのかを考察した。結論として,第1の急進期には,急激な低温化と湿潤化を受けて居住地や耕地を移動させることにより社会の流動化が進み,その中で人びとのアイデンティティを維持するために,加飾された土器や儀礼具など,表象の媒体としての人工物が発達した。第2の急進期は,人間側の対応がもっとも難しい数十年周期の気候変動が繰り返される時期と対応しておりそれが生み出した社会的緊張が,集団よりも個人の意思決定や個人間の関係に比重を置いた行動規範に基づく新たな社会関係を生み出し,それを正当化する世界観の書き換えとして,表象の媒体としての人工物を個人と結びつける新しい傾向が全土的に展開した。
Chabatama, Chewe M. Chabatama, Chewe M.
ザンビア農業と食料安全保障に関する研究の多くは、トウモロコシとその他の換金作物に集中しており、トウモロコシ生産に余剰のあるセントラル州、ルサカ、南部州などに関するものが多い。換金作物ではないキャッサバ、ミレット、ソルガム等は、北西ザンビアにおける主食であるにもかかわらず注目する研究者は少なかった。北西州のトウモロコシ生産は少ないため、研究者や政府担当者から無視され、非難され、また取り残されてきた。本論文では、キャッサバ、シコクビエ、トウジンビエ、ソルガム、サツマイモが、有史以前から北西ザンビアの人々の食料安全保障を担ってきたという明確な事実を再認識する。北西州の農業と経済には高い潜在力が存在する。本稿では、厳しい生態条件の中にあるザンビア北西州における食料供給を検討する。特に地域の生態気候条件に適応した食料供給、そして生存のために食料不足世帯が対処する生存戦略を考察しながら、生態学的災害の変化と生存戦略の変遷を考える。
Murphy, Patrick D. マーフィー, パトリック D.
世界的な石油生産のピーク到来という観点から、沖縄は昨今の経済発展の方向性について再考する必要がある。エネルギーの価格高騰が沖縄の経済に打撃を与えることが予想される中、沖縄は安価な交通手段に支えられる観光産業とは異なる、新たな経済的手段を模索しなくてはならないだろう。液体燃料や石炭などの固形燃料の運搬コストが高騰しているため、電気エネルギーの生産は、化石燃料への依存から脱却する必要がある。また、海水の淡水化も影響を受けるため、観光産業に十分な量の水の供給能力にも問題が生じる可能性がある。ピークオイルと気候変動の衝撃は互いに不可分な合併要素として経済組織に衝撃を与えることなど、沖縄は、エネルギー生産と生活基盤の危機という観点からも、気候変動の危険性について指摘する必要がある。いずれの場合においても、持続可能性が最も重要な指針となることは言うまでもない。
温帯の湿潤な気候のもとで暮らす私たちにとって、乾燥地は、遠い世界に感じられます。緑に乏しい広漠とした風景は、一見すると、私たちを寄せ付けないような雰囲気があります。乾燥地の村々を歩いてき回ると、そんな印象とは正反対の、生き生きとした暮らしの風景が広がっています。
安田, 喜憲
食物の獲得は気候に左右される。ある人々の集団が何を食物とするかは、その人々が居住する土地の気候により決まる。例えば、アジアのモンスーン地域では、年間平均二〇〇〇ミリを超える降雨量は夏季に集中する。このような気候に適する穀物は米である。また豊かな水量は、河川での漁業を盛んにし、流域の人々にタンパク源を供給することを意味する。こうしてアジア・モンスーン地域の稲作漁撈民は、米と魚を食料とする生活様式を確立してきたのである。 しかしこうした生活様式は、年間平均雨量が少なく、主に冬季に降雨が集中する西アジアの住民には受け入れられない。この型の気候では、小麦が主たる穀物となるのである。しかも河川での漁獲量は少なく、人々は羊、ヤギを飼育して、その肉をもってタンパク源とする畑作牧畜民のライフスタイルをとらざるをえない。 この美しい地球上で、人類は気候に適した穀物の収穫を増大させることにより、豊かな生活が送れるように努力を重ねてきた。しかしこうした努力は、異なる文明間で、明らかに対照的な結果を生み出してしまったのだ。ある文明は、森林に対して回復し難い破壊をもたらした一方、またある文明は、森林や水循環系を持続可能の状態に維持することに成功している。 イスラエルからメソポタミアにかけてのベルト地帯は、文明発祥の地とされている。その文明は、小麦の栽培と牧畜により維持された畑作牧畜民の文明であった。この地帯は、今から一万年前ごろまでは深い森林に覆われていたが、間断なく、広範囲にわたる破壊を受けて、今から五〇〇〇年前までに、ほとんどが消滅した。主に家畜たちが森林を食い尽してしまった。 ギリシア文明最盛期の頃、ギリシアも深い森林に覆われていた。有名なデルフォイの神殿は建設当時森の中にあったのだ。しかし森林環境の破壊は、河川から海に流入する栄養素の枯渇の原因となり、プランクトンの減少により魚は餌を奪われ、地中海は“死の海”と化したのである。 一二世紀以後、文明の中心はヨーロッパに移動し、中世の大規模な土地開墾が始まって、多くの森林は急速に耕地化されてしまった。一七世紀までに、イングランド、ドイツ、そしてスイスにおける森林の破壊は七〇%以上に達した。今日、ヨーロッパに見られる森林のほとんどは、一八世紀以後の植林事業の所産である。 この森林破壊に加えて、一七世紀に生じた小氷河期の寒冷気候とともにペストが大流行し、ヨーロッパは食糧危機に陥った。人々はアメリカへの移住を余儀なくされ、続く三〇年の間に、アメリカの森林の八〇%が失われた。一八四〇年代、ヨーロッパ人はニュージーランドに達し、ここでも森林は急速に姿を消した。一八八〇年から一九〇〇年のわずか二〇年の短期間にニュージーランドの森林の四〇%が破壊されたのである。 同じような状況は、畑作牧畜民が居住する中国北東部(満州平野)でも見られる。明朝の時代(一三六八~一六四四年)、満州平野は森林に覆われていたが、清朝(一六四四~一九一二年)発足後、北東中国平原の急激な開発とともに森林は全く姿を消してしまった。 これに対し稲作漁撈民は、これまで常に慈悲の心をもって永きにわたり、生きとし生ける物すべてに思いやりの心、善隣の気持ちを示してきたのである。私はこの稲作漁撈文明のエートスでる慈悲の精神こそが、将来にわたってこの地球を救うことになると本稿で指摘する。
森, 勇一 Mori, Yuichi
日本各地の先史~歴史時代の地層中より昆虫化石を抽出し,古環境の変遷史について考察した。岩手県大渡Ⅱ・宮城県富沢両遺跡では,姶良―Tn火山灰層直上から,クロヒメゲンゴロウ・マメゲンゴロウ属・エゾオオミズクサハムシなどの亜寒帯性の昆虫化石が多産し,この時期,気候が寒冷であったことが明らかになった。縄文時代早期では,岐阜県宮ノ前遺跡よりヒメコガネ・ドウガネブイブイなどのコガネムシ科を主体に,水生昆虫を随伴する昆虫群集が確認され,湿地と人の介在した二次林の存在が復元された。縄文時代中期では,愛知県朝日・松河戸両遺跡などから冷温帯~亜寒帯性のコウホネネクイハムシが検出され,気候が冷涼であったと考えられる。弥生時代になると,日本各地の水田層よりイネネクイハムシ・イネノクロカメムシなどの稲作害虫と,ヤマトトックリゴミムシ・セマルガムシなどの水田指標昆虫が多く検出されるようになり,水稲耕作に伴い低地の改変が進み昆虫相が大きく変化したことが明らかになった。この時代の特徴には,もうひとつ人の集中居住に起因する食糞ないし汚物性昆虫の多産遺跡の存在があげられる。同じ地層からは,汚濁性珪藻や富栄養型珪藻・寄生虫卵なども検出され,農耕社会の進展とともに環境汚染が進行したことが考えられる。中近世は,ヒメコガネ・ドウガネブイブイ・サクラコガネ・クワハムシなどの食葉性昆虫の多産によって特徴づけられる。この時期,山林原野の開発が大規模に進められ,人間の居住域付近には有用植物が植栽され,里山はアカマツのみの繁茂する禿山になっていたと推定される。こうして,更新世から完新世に至る間の生物群集は,更新世においては気候変動が,完新世後半においては人間の与えた影響がきわめて大きかったことが明らかになった。
安田, 喜憲
本研究はスギと日本人のかかわりの歴史を花粉分析の手法にもとづき過去七〇万年について論じたものである。スギは約七三万年前の気候の寒冷化と年較差の増加をきっかけとして発展期に入った。同じ頃、真の人類といわれるホモ・エレクトゥスも誕生している。スギと人類は氷期と間氷期が約一〇万年間隔で交互にくりかえす激動の時代に発展期をむかえている。とりわけスギは氷期の亜間氷期に大発展した。しかし三・三万年以降の著しい気候の寒冷化によって、最終氷期の最寒冷期には、孤立分布をよぎなくされた。新潟平野の海岸部、伊豆半島それに山陰海岸部が主たる生育地であった。約一万年前の気候の温暖化と湿潤化を契機として、スギは再び発展期に入った。福井県鳥浜貝塚からは、すでに一万年以上前からスギの板を使用していたことがあきらかとなった。しかし鳥浜貝塚の例をのぞいて、縄文人は一般にスギとかかわることはまれだった。スギと日本人が密接にかかわりを持つのは弥生時代以降のことである。それはスギの生育適地と稲作の適地が重なったためである。とりわけ日本海側の弥生人はスギと深いかかわりをもった。しかし何よりもスギと日本人のかかわりをより密接にしたのは都市の発達であった。都市生活者の増大とともに、スギは都市の庶民の住宅の建築材や醸造業の樽や桶あるいは様々な日用品にいたるまであらゆる側面において日本人の生活ときってもきりはなせない関係を形成した。しかし高度経済成長期以降、安い熱帯材の輸入によって、スギは日本人に忘れ去られた。間伐のゆきとどかないスギの植林地は荒廃し、スギと日本人のかかわりは大きな断絶期を迎えた。地球環境の壊滅的悪化がさけばれる今日、日本人はもう一度スギとともに過ごした過去を思い起こし、森の文化を再認識する必要がある。
斉藤, 亨治 Saito, Kyoji
善光寺平では,更新世前期からの盆地西縁部の断層の活動により盆地が形成され,その盆地が地殻変動・火山活動・気候変化によって盛んに供給された土砂によって埋積された。善光寺平周縁をはじめ長野県に扇状地が多いのは,流域全体のおおまかな傾斜を表す起伏比(起伏を最大辺長で割った値)が大きく,大きい礫が運搬されやすいためである。その扇状地には,主に土石流堆積物からなる急傾斜扇状地と,主に河流堆積物からなる緩傾斜扇状地の2種類ある。急勾配の土石流扇状地については,その形成機構が観測や実験によりかなり詳しく明らかになってきた。しかし,緩傾斜の網状流扇状地については,その形成機構はよく分かっていない。扇状地と気候条件との関係では,乾燥地域を除いて,降水量が多いほど,気温が低いほど,扇状地を形成する粗粒物質の供給が盛んで,扇状地が形成されやすいといえる。また,気候変化との関係では,日本では寒冷な最終氷期に多くの扇状地ができた。その後の温暖な完新世では,扇状地が形成される場所が少なくなったが,寒冷・湿潤な9000年前頃と3000年前頃,扇状地が比較的できやすい環境となっていた。善光寺平の地形と災害との関係では,犀川扇状地および氾濫原部分では,1847年の善光寺地震で洪水に襲われているが,氾濫原部分では通常の洪水もよく発生している。扇端まで下刻をうけた開析扇状地では水害が発生しにくいが,扇頂付近が下刻をうけ,扇端付近では土砂が堆積するような扇状地では,下刻域から堆積域に変わるインターセクション・ポイントより下流部分で水害が発生しやすい。裾花川扇状地や浅川扇状地には扇央部にインターセクション・ポイントがあり,それより下流部分では,比較的最近まで水害が発生していたものと思われる。
Flint, Lawrence S Flint, Lawrence S
近年、食料、水、繊維、エネルギーの需要拡大を満たすため、人々はいまだかつてない供給を生態システムから求めるようになった。これらの需要は生態系のバランスに圧力を与え、自然環境が許容量を取り戻す能力を減少させ、大気・水の浄化作用、廃棄物の処理、アメニティ等の生態系サービスを供与する能力を弱体化させた。社会経済開発と環境持続可能性との間に明らかな緊張関係が存在している。生態系の財とサービスの減少を引き起こした直接的な原因は、生息地の変化、外来種の侵入、過度の収奪、汚染や気候変動と変化などである。これらのプロセスは社会生態的レジリアンス喪失の脅威を与え、環境と社会経済変化の双方に対する感受性を高める。本報告では、社会経済の脆弱性とレジリアンスを検討する科学的方法、特にこれら広範囲の問題に対する学際的アプローチについて議論する。また、脆弱性に対する社会経済レジリアンスと適応の本質を分析する。レジリアンスに影響を与えている政治経済、社会文化的ネットワークとダイナミズムについて歴史的、現代的生産の文脈の中で議論することによって説明される。経済活動と「河川文明」を擁する人間の居住地域である氾濫原生態システムを研究の対象とする。事例として現在生物物理的、社会経済的変化を示しているザンビア西部ザンベジ河上流渓谷のBulozi「自然」氾濫原に焦点を当てる。この氾濫原は現在のLozi民の祖先が居住し、彼らは生態財とサービスを氾濫原から得、強力で活気に満ちた政治経済を生み出してこの地域を独占し、余剰食料を使うことができ、また軍を擁し経済的機会を享受した。今日、Bulozi は低開発の地域とされており、この状況は気候の変動によって悪化しているが、気候変動は長い年月の間に社会的に蓄積された脆弱性に対しては追加の要因となるのみである。本報告ではBulozi の脆弱性の原因とレジリアンスを高めるための適応的能力を議論する。人々が外的内的圧力に対して適応し、社会生態システム(SES)のバランスを維持する能力は、彼らが在地的「所有」の立場から問題に対処する能力に依存している。同時に、社会生態システム(SES)のバランスを保全しながら、生活水準を向上する機運、コントロール、動機の感覚を社会が再び取り戻すことは、現在の生産行為を修正し、生産活動を多様化する彼らの能力に依存している。
城間, 理夫 Shiroma, Michio
この報告は, 沖縄におけるパインアップルの蒸散量を求めるために, 筆者が琉球大学構内において測定した結果をまとめたものである。測定は, 水収支法および秤量法によって行ない, 供試試料としては, スムースカイエン種の苗をポットに砂栽培したものを使った。この測定実験によって次のことが明らかになった。(1)ポット栽培によると, 沖縄では, パインアップルの蒸散量は, 月平均で, 最大1日当り1.0mmである。これは1株当り1日に250ccになる。(2)パインアップルの蒸散量は, 沖縄では, 8月から10月にかけて最も多い。この頃は, この作物の生育の最盛期に当っており, また, 気候的にも生育に好適な時期に当っている。次に, 蒸散量は2月から3月にかけて最も少なく, 月平均で, 1日当り0.4mmになる。これは1株当り1日に90ccになる。この頃は, この作物の出蕾期に当り, 気候的には沖縄における冬期の後半に当る。(3)10月から翌年の1月にかけて, パインアップルの蒸散量は, 夜間において, 時には, 昼間の量に匹敵する位になることが明らかになった。これは, パインアップルの蒸散作用が夜間にも盛んになるときがある, と言うことを示すものである。(4)パインアップルの蒸散量が, 夜間にもかなり多くなる一つの原因として, 夜間の湿度が低くなることが考えられる。
Sudmeier-Rieux, Karen Nehren, Udo Sandholz, Simone Doswald, Nathalie
日本語訳版は、総合地球環境学研究所Eco-DRRプロジェクト(RIHN14200103 )の一環として実現した。
辻, 誠一郎 Tsuji, Seiichiro
台地・丘陵を開析する谷および低地から得られた弥生時代以降の植生史の資料を再検討し,以下のような知見を得た。縄文時代後期から古代にかけて,木本泥炭か泥炭質堆積物の形成,削剥作用による侵食谷の形成,運搬・堆積作用および草本泥炭の生成による侵食谷の埋積,という一連の地形環境の変遷が認められた。気候の寒冷化,湿潤化,および海水準の低下という諸要因の組み合わせが木本泥炭か泥炭質堆積物の形成を,そのいっそうの進行が侵食谷の形成をもたらし,さらに,河川による粗粒砕屑物の供給と谷底での水位上昇が草本泥炭による侵食谷の埋積をもたらしたと考えられた。この時代を通して,関東平野では照葉樹林の要素,スギ・ヒノキ類・モミ属など針葉樹が拡大したが,これは気候の寒冷化と湿潤化,および地形環境の不安定化によると考えられた。弥生時代以降の人間活動と深いかかわりをもつ植生変化には少なくとも3つの段階が認められた。第1の変化は弥生時代から古代にかけてで,居住域周辺の森林資源の利用と農耕によってもたらされた。第2の変化は中世の13世紀に起こり,主にスギと照葉樹林要素のおびただしい資源利用および畑作農耕の拡大によってもたらされ,マツ二次林の形成が促進された。中世都市である鎌倉ではその典型をみることができる。第3の変化は近世の18世紀初頭において起こり,拡大しつつあったマツ二次林にマツとスギの植林が加わり,森林資源量が増大したと考えられた。
翁長, 謙良 Onaga, Kenryo
1.気象資料は主として1955年1月から1967年12月までの琉球気象庁発行の気象要覧, 那覇の気候表(1963年発行)および沖縄群島の気候表(1964年発行)をもとに作成した。2.第1表の月間降水量の平均値の中で( )内は欠測の値を除いた平均値であり, 他の地点と比較して大差のある月は平均値とかなり差のある雨量の欠測に起因するものである。また与那覇岳の雨量が極端に大きいのは標高498mで観測されており, 山岳特有の気象によるものと思われる。3.第4表の10分間確率降雨強度において各月の平均値と2年確率の値が殆んど同じ値を示しているのは, 各月のその年における降雨強度の最大値のばらつきが正規分布するとの仮定で計算され, かつ資料の分散が比較的よかったことによる。4.限界降雨強度は土地の傾斜や土壌の性質によって異なるが, 日本各地の実験結果によると, 傾斜15°で2mm&acd;3mm/10min.が限界降雨強度である。筆者が人工降雨により, 国頭マージ土壌(粘土)について実験した結果, 傾斜7°の土槽箱で含水比が32%のとき2.5mm&acd;3.5mm/10min.でrunoffを見た。沖繩においても2mm&acd;3mmを限界降雨強度としても差し支えないと思われる。5.図表に掲載されてない北部の他の観測所で, 与那や奥などは伊豆味と同様, 年間降水量が2500mm以上となっており, 地形因子と相まって北部農耕地の傾斜地は中南部のそれらより, 土壌侵食の危険性が大であるといえる。
百原, 新 工藤, 雄一郎 門叶, 冬樹 塚腰, 実
東京都中野区江古田で直良信夫博士により発見された江古田針葉樹層の大型植物化石群は,三木茂博士が分類学的記載を行い,更新統末期の寒冷気候下の植物化石群として位置づけられた。これは最終氷期の寒冷期植物化石群の日本での最初の発見であり,最終氷期の古環境を示す標準的な植物化石群とされている。その後の,江古田とその周辺に分布する針葉樹層の年代測定では,最終氷期のMIS 3から晩氷期までの広範囲の測定結果が得られており,ヤンガー・ドリアス期に対比されたこともある。そこで,最初に発見され三木により定義づけられた,江古田針葉樹層の植物化石群の年代と種組成を明らかにするために,大阪市立自然史博物館に所蔵されている三木茂標本を再検討し,放射性炭素年代測定を行った。その結果,マツ科針葉樹4点とコナラ1点の暦年較正年代は,約25,000cal BP から20,000cal BP の範囲に含まれており,最終氷期最寒冷期後半のものであることが明らかになった。針葉樹層由来と考えられる大型植物化石は木本22分類群,草本26分類群で構成されており,カラマツとトウヒ属バラモミ節の標本の個数がもっとも多かった。三木の文献に記載された25分類群のうちスズメノヤリ近似種の果実と種子は,それぞれミゾソバ果実とスミレ種子の誤同定だったほか,新たな分類群が追加された。三木標本から復元される古植生は,関東地域の他の最終氷期最寒冷期の植物化石群と同様に,マツ科針葉樹の産出量が多い一方,多様な落葉広葉樹種を含むことで特徴づけられた。
矢作, 健二 Yahagi, Kenji
縄文時代草創期・早期の遺跡である愛媛県上黒岩遺跡は,これまで岩陰遺跡として発掘調査がなされ,最近では,その成果の再調査と再評価により,縄文時代草創期には狩猟活動に伴うキャンプサイト,早期には一定の集団が通年的な居住をしていたと考えられている。しかし,岩陰からの明確な遺構の検出記録はない。上黒岩遺跡の岩陰を構成している石灰岩体の分布や山地を構成している泥質片岩の分布に,縄文時代草創期から早期に至る時期の気候変動を合わせて考えると,遺構を遺すような生活空間は,山地斜面と久万川との間に形成された狭小な段丘上の地形にあったと推定される。
設楽, 博己 Shitara, Hiromi
縄文中期終末から後期へ、縄文晩期から弥生時代の始まりへ、それらはいずれも列島規模で、文化や社会が大きく転換した時代であり、時期であった。その歴史の節目に、地域や時代を超えて再葬墓が営まれることは何を意味するのだろうか。再葬が発達した地域におけるそれぞれの転換点で共通するのは、集落の衰退すなわち人口の減少である。環境変動に目を向けると、その転換期に共通した要素として気候の寒冷化をあげることができる。まさに、環境の悪化が再葬を誘発したといっても過言ではない。歴史の中で再葬が出現する理由はさまざまであったろうが、死者を基軸に集落あるいは地域の結束を固めるための祖先祭祀として発生したことが、理由の一つにあげられる。自然環境の悪化によって小規模になり分散化した集落を統合する原点として再葬墓が機能したのであり、その象徴が再葬された祖先でありあるいは墓自体であった。再葬が発達した縄文後期前葉の京葉地方は、気候の再温暖化によって大貝塚を形成したように、再葬がすべて悪い環境のときに発達したとばかりはいえない。自然環境の回復あるいは集落の発展を迎えても、ひとたび制度として定着した再葬は、なおも集落結集の装置として機能したのであろう。琉球・奄美諸島の洗骨葬は、祖先祭祀の意味があり、縄文・弥生時代の再葬を考える手がかりになる。そこで再葬は一種の通過儀礼として行われていた。縄文晩期〜弥生時代前半は、抜歯をはじめとする儀礼を発達させた時期である。再葬制もこの時期に儀礼的要素を強めるのであり、祖先祭祀と通過儀礼の強化と言い換えることができる。それは厳しい自然環境に立ち向かうための生活技術であり、再葬の背景であった。
浅野, 恵子 陳, 森 Asano, Keiko Chen, Sen
同じ音声的及び音響的特徴をもちながら、文化や気候風土によって変化する音声行動があり、無意識に行われているものが少なくない。その一つとして、/m,n/などの有声鼻音の音声特徴は自然発話としては一般的であり、それをさらに上咽頭に響かせる音の「ハミング」がある。日本語では「鼻歌」と呼ばれている。他言語が理解できなくても音声行動としては個別言語の域を超えて普遍的に発せられる声音である。日常の発声時行動様式が文化的・言語別にどのように呼ばれているか、またいつから使われているかを日・中・英・米語の各言語のコーパスを比較し、初めて使用された時期や当時の意味などから推移を分析する。
山田, 浩世 Yamada, Kousei
近世琉球・奄美に発生した数々の災害は、各地域の社会に甚大な影響を与えてきた。本稿では、まず、地域の歴史を体系的に記述した市町村史誌の災害について述べた記述を整理・検討し、近世期の災害がどのように歴史化されてきたのかを考察した。さらに、災害の歴史化の過程の中で看過されてきた問題、とりわけ災害の地域的広がりや激変する気候変動との関係に着目し、近世後期に発生していた災害の歴史的位相について再検討を試みた。本稿の検討を通じて沖縄・奄美における災害は、地域社会の構造的脆弱性に左右されつつ発生・拡大し、地域社会のさまざまな側面に甚大な影響を与えており、社会の歴史的展開に密接に結びついた重要な問題であることが明らかとなった。
吉田, 茂 大城, 政一 Yoshida, Shigeru Oshiro, Seiichi
南西諸島は和牛の供給地域であり,牛肉の輸入自由化にともない全国的に和牛に対する需要が高まるものと予想されるので,その供給体制作りを早いうちに確立しておく必要がある。南西諸島の家畜市場での肉牛の取引は成牛に比べて子牛が多い。そして,そのほとんどが南西諸島外へ出荷されている。出荷先は鹿児島県本土を主体に九州地域が多い。南西諸島の家畜市場における子牛の取引状況を見ると,高価格がつけられるのはいい血統の子牛である。市場立地条件の不利性をカバーするには亜熱帯海洋性気候という恵まれた自然条件を最大限に活用し,更によりよい品質の母牛,種牛を導入し広範囲に普及することにかかっている。南西諸島の一部は鹿児島県に属しているが,自然条件並びに立地条件は沖縄県と類似しており,肉牛生産技術の研究開発,流通上の問題解決に当たっては同一経済圏域として協力し合うことにより南西諸島のより望ましい発展が期待出来るものと思われる。
上里, 健次 Uesato, Kenji
切り花用として栽培されるデンドロビウムを対象に,沖縄の亜熱帯気象条件下における発育生態を品種間差異を含めて調査検討した。供試した品種は主として沖縄で栽培されているもののおよそ19品種で,萌芽から開花に至る生長サイクルの動きと,栄養生長および開花に関する諸形質を比較することの両面から検討した。得られた結果の概要は次のとおりである。1. 冬季に低温となる亜熱帯気候下においては,萌芽期が春季に集中し,夏季に栄養生長が行われ,その結果開花が秋期に集中することとなり,このような生長サイクルの動きは環境温度の面から必然的である。2. その中で,生長の開始となる萌芽時期は品種によって異なり,また栄養生長に要する期間にもかなりの品種間差があり,とくにPramotは早生性を有する点で特異的であった。3. 茎長,葉数などの栄養生長に関する形質,開花本数,花序長,輪数などの開花に関する形質の,それぞれにも品種間差があり,とくにWaipahu Pinkは茎長が長く開花本数が多い点で目立った。
福田, アジオ Fukuta, Azio
考古学と民俗学は歴史研究の方法として登場してきた。そのため,歴史研究の中心に位置してきたいわゆる文献史学との関係で絶えず自己の存在を考えてきた。したがって,歴史学,考古学,民俗学の三者は歴史研究の方法として対等な存在であることが原理的には主張され,また文献史学との関係が論じられても,考古学と民俗学の相互の関係については必ずしも明確に議論されることがなかった。考古学と民俗学は近い関係にあるかのような印象を与えているが,その具体的な関係は必ずしも明らかではない。本稿は,一般的に主張されることが多い考古学と民俗学の協業関係の形成を目指して,両者の間についてどのように従来は考えられ,主張されてきたのかを整理して,その問題点を提示しようとするものである。柳田國男は民俗学と考古学の関係について大きな期待を抱いていた。しかし,その前提として考古学の問題点を指摘することに厳しかった。考古学の弱点あるいは欠点を指摘し,それを補って新しい研究を展開するのが民俗学であるという論法であった。したがって,柳田の主張は考古学の内容に踏み込んだものであり,彼以降の民俗学研究者の見解が表面的な対等性を言うのに比較して注目される点である。多くの民俗学研究者は,考古学と民俗学の対等な存在を言うばかりで,具体的な協業関係形成の試みはしてこなかった。その点で,柳田を除けば,民俗学研究者は考古学に対して冷淡であったと言える。それに対して,考古学研究者ははやくから考古学の研究にとって民俗学あるいは民俗資料が役に立つことを主張してきた。具体的な研究に裏付けられた民俗学との協業や民俗資料の利用の提言も少なくない。しかし,それは考古学が民俗学や民俗資料を参照することであり,考古学の内容を豊かにするための方策であった。その点で,両者の真の協業は,二つの学問を前提にしつつも,互いに参照する関係ではなく,二つの学問とは異なる第三の方法を形成しなければならない。
廣瀬, 孝 大城, 和也 Hirose, Takashi Oshiro, Kazuya
本研究では、沖縄島に分布する古期石灰岩地域6地点、第四紀琉球石灰岩地域9地点の湧水・河川水において調査を行い、電気伝導度(EC)の値から、両地域の溶食速度を推定した。その結果、溶食速度は、古期石灰岩地域では75.4mm/1,000年、第四紀琉球石灰岩地域では101.7mm/1,000年であり、大きな差がみられ、空隙率の大きさと水と岩石との接触面積の違いなどが影響していると考えられる。また、秋吉台で水質から求められた溶食速度(51mm/1,000年)よりも速く、亜熱帯気候に属している沖縄島の豊富な降水量や高い二酸化炭素(C02)濃度との関係が示唆される。また、沖縄島でも、カメニツァなどの溶食が進んでいる地点で求められた溶食速度に比べるとはるかに小さい値を示し、水の流出から求められた本研究の結果は、その地域全体の平均値を示しているものと考えられる。
比嘉, 俊 Higa, Takashi
沖縄県は亜熱帯地域に属し,その気候や生物相は日本本土と異なり,特有である。この特有な地域で,学校ではどのような生物教育が目指されているかを報告する。報告の基になっているのは沖縄県立教育総合センターの長期研修員による研究報告書である。昭和47年度から平成28年度までの研究報告179点を俯瞰した。その結果,小学校教員の報告数の多さ,教材開発研究の多さ,授業実践の少なさ,沖縄固有種扱いの少なさが明らかになった。また,研修員研究の流れは,基礎研究,教材開発,教育方法と推移してきた。さらに,授業実践も近年は行われるようになってきた。沖縄の子どもたちにより還元できる研究になってきているのだが,沖縄固有を教材とした実践が少ない。今後の沖縄の生物教育を鑑みると地域の素材を活かした教材や授業展開がもっと増えるとよいと考える。
山田, 浩世
近世琉球・奄美において発生した災害は、その多くが個別の事件として把握され、各島々でどのような災害が起こり、総体としてどのような対処がとられてきたのかについては十分に把握されてこなかった。また、琉球・奄美の島々で起った災害は、同時期の日本や世界的規模で発生していた災害とどのような関係性をもっていたのかという点についても十分に論じられているとは言いがたい状況に置かれてきた。1780年代及び1830年代において日本では、天明の大飢饉及び天保の大飢饉が発生し、大規模な飢饉が起っていた。飢饉の発生の要因には、冷夏や風水害などさまざまな要因が示されてきたが、琉球・奄美の島々ではどのような災害が発生していたのであろうか。本稿では、伝存する諸史料の記載によりながら、島々でどのような災害が発生していたのか、またその関連性について検討を加えた。琉球・奄美の島々の歴史の中で個別の災害として捉えられてきた現象が、実は広く世界的規模で展開していた気候変動の影響を受けたものであり、人々と社会は大きな転換を災害との関係の中で迫られていたことを本稿では検討した。
則竹, 理人
学際性を有するアーカイブズ学において、その対象である「記録」には「情報」の要素がある点、さらには情報技術の発展に伴い同要素の重大さが増している点から、同学問領域が一般的に情報学との結びつきを強めていることが指摘されうる。なかでもイベロアメリカと呼ばれる地域では、情報学において情報の記録的、証拠的側面がより重視される特徴があり、またアーカイブズ分野を含めた、情報関連分野の実務の強い連携が一部の国々でみられる事実も相まって、2 つの学問領域の親和性がより高いことが示唆される。そこで本稿では、イベロアメリカにおけるアーカイブズ学と情報学の関連性に着目し、複数の時期を基点に調査した実在のアーカイブズ学教育課程を分析し、傾向の把握を試みた。その結果、経緯や形式、程度は様々なものの、多くの国や地域の事例から情報学とのかかわりが見出された。アーカイブズ学が情報学の構成要素として扱われる課程もあれば、情報学の課程の途中でアーカイブズ学専門コースに分岐する場合もあった。また、学部レベルにアーカイブズ学専門課程、大学院レベルに情報学の課程が置かれ、進学によって補完される事例もみられたが、一方で情報学が先に教育される補完の形態もあった。このような多様性によって、数多の実践的な例を示していることが、同地域以外で、情報学との関連性を強化したアーカイブズ学教育を検討するうえでも有益である可能性を提示した。
Takezawa, Shoichiro
19 世紀後半に欧米諸国であいついで建設された民族学博物館は,新しい学問領域としての民族学・文化人類学の確立に大きく貢献した。植民地拡大の絶頂期であったこの時期,民族学博物館の展示は,器物の展示を通じて近代西欧を頂点におく諸民族・諸人種の進化を跡づけようとする,イデオロギー的性格の強いものであった。 やがて,文化人類学における文化相対主義・機能主義の発展とともに,民族学博物館の展示も,当該社会の文化的コンテキストを重視するものになっていった。そして,西暦2000 年前後に,ヨーロッパの多くの民族学博物館はその展示を大幅に変えたが,その背景にあったのは,「他者」を再現=表象することの政治的・倫理的課題をめぐる民族学内部の議論であった。 本稿は,ヨーロッパの民族学博物館の展示の刷新を概観することを通じて,今日の民族学博物館と民族学が直面している諸課題を浮彫りにすることをめざすものである。
ダニエルス, クリスチャン Daniels, Christian
本稿では、雲南の地方志から収集した14世紀から19世紀までの自然災害データ入力の進行状況について報告し、なおかつこのデータを分析する際に注意すべき問題点を指摘している。雲南の広域に亘り大きな被害をもたらした洪水が1625年と1626年の二年間連続して発生しているが、地方志はそれを記載していない事例から、地方志という類の史料は自然災害を網羅的には記録していない点が判明している。したがって、その不充分さを補充するためには、上奏文など別の史料からのデータ収集も望ましい。しかし、以上のような欠点が地方志にあったとしても、気候が長期に亘りどのように変動したかなど、長期的なパターンを明らかにすることはできる。本稿の考察では、16世紀の雲南が14、15,17、18世紀より湿潤だったとした上で、16世紀の人口増加によって土地開発が進行した雲南では、行政と社会は以前より湿潤になった天候に対応できなったため、洪水などの災害が被害を増幅させたと推定した。
Lekprichakul, Thamana Lekprichakul, Thamana
本稿では、2004/2005 年農作期旱魃から、ザンビアの農業収量の損害を調査し、損害がどの様に異なる生産システムに分布していたかを検討する。旱魃の分析はザンビア中央統計局(CSO)が毎年実施している2003/2004 年と2004/2005 年の農作期の収穫後調査に基づいている。分析の結果から、2004/2005 年の農作期旱魃は当初推計されたものより深刻であった可能性がある。穀物の損害は近年最大の旱魃であった1991/1992 年農作期に匹敵するものであった。これは、主に2003/2004 年に比較して50%増加した2004/2005 年の急速な耕作面積の拡大によるものであった。主食穀物の収量損害はミレットで40% 、メイズで50%、ソルガムで 60%にものぼった。旱魃に耐性のあると考えられているミレットとソルガムはメイズより特に南部州で損失が大きかった。この不可解な現象は損害を拡大した気候以外の要因によるものかもしれない。農民は小規模な売買への従事、食事の回数減少、野生植物の摂取、移住から、窃盗、売春までさまざまな対処戦略によって旱魃に対応していた。
山村, 奨
本論文は、日本の明治期に陽明学を研究した人物が、同時代や大塩の乱のことを視野に入れつつ、陽明学を変容させたことを明らかにする。そのために、井上哲次郎と教え子の高瀬武次郎の陽明学理解を考察する。 日本における儒学思想は、丸山眞男が説いた反朱子学としての徂徠学などが、近代性を内包していたと理解されてきた。一方で、明治期における陽明学を考察することで、それと異なる視角から、日本近代と儒教思想との関わりを示すことができる。明治期に陽明学は変容した。すなわち、陽明学に近代日本の原型がある訳ではなく、幕末期から近代にかけて、時代にあわせて変わっていった。 井上哲次郎は、陽明学を「国家主義的」に解釈したとされる。井上にとっての国家主義とは、天皇を中心とする体制を護持しようとする立場である。井上は陽明学を、国民道徳の理解に援用できると考えた。その態度は、キリスト教が国民の精神を乱すことに反発していたことに由来する。国内の精神的統一を重視した井上の陽明学理解は、水戸学の問題意識と共通する。しかし井上の陽明学観は水戸学に影響を受けた訳ではなく、幕末期に国事に関心を向けた陽明学者の伝統を受け継ぐ。また井上は、体制の秩序を志向していたために、大塩平八郎の暴挙には否定的であった。 一方で日本での陽明学の展開は、個人の精神修養として受け入れられた面を持つ。その点で、高瀬武次郎の主張は注目に値する。高瀬は陽明学が精神を修養するのに有効であり、同時に精神を陶冶した個人が社会に資するべきことを主張した。また井上の理解を踏襲しつつも、必ずしも井上の見解に与しなかった。高瀬は、大塩の行動に社会福祉的な意義も認めている。高瀬は幕末以来の実践重視の思想の中で、陽明学に新たな意味を付与した。その高瀬は、後に帝国主義に与した。 近代日本の陽明学は、時代状況の中で変容した。井上は国民の精神的な統一を重視したが、高瀬は陽明学による修養の社会的な意義を積極的に説いた。
辻, 誠一郎 Tsuji, Seiichiro
歴博国際シンポジウム「過去1万年間の陸域環境の変遷と自然災害史」は,文部省が推進するCOE中核的研究機関支援プログラムの一つである国際シンポジウムとして,1997(平成9)年11月25日~11月28日の4日間,国立歴史民俗博物館において開催された。このシンポジウムは,環境変動に深くかかわり,また生態系をかたちづくるさまざまな構成要素に見られる個別の現象を,乾燥から湿潤地域へと地域ごとに総合的に捉え直し,かつ地域を縦断的・広域的に捉え直すことで,個別の現象の環境変動史における位置づけをはかり,より広域的・総合的視点と新しい研究方法を育むとともに,これからの国際的視野に立った研究の推進,たとえば国際共同研究・調査のありかたや具体的な推進方法を模索することを目的とした。このシンポジウムでは,方法論についてはできるだけ地球規模で検討することにし,日本を含む湿潤地帯から乾燥地帯にかけての縦断的・広域的な現象論については,中国から日本を中心にした東アジアを取り上げた。シンポジウムは4つのオーラル・セッション,ポスター・セッション,公開講演,レセプションから構成された。セッション1「歴史時代の環境変遷」では,過去約1,000年間の気温と乾・湿度を中心とした地球規模から東アジア,そして日本における気候変動が議論された。研究の方法として,日記類などの古記録,樹木年輪の生理・生態学的解析などが用いられ,これまでにない高い分解能をもつ解析方法が提唱された。セッション2「アジア大陸内部から沿岸域にかけての完新世の環境変遷」では,テンシャン山脈,クンルン山脈,ジュンガル盆地,タクラマカン沙漠,長江中流域,長江デルタ・太湖における更新世末期から完新世の環境変化が議論された。セッション3「日本列島と周辺域における環境変遷」では,北部九州,濃尾平野,関東平野など日本の主要な海岸平野の発達史と環境変化,動物・植物資源と人間活動のかかわり史が議論された。セッション4「環境史の高精度編年」では,これまでの編年の問題点,高精度のタンデム加速器質量分析法(AMS)を用いた数十年から数百年オーダーの環境史編年の可能性と問題点,放射性炭素年代以外の高正確度編年の開発について議論された。
稲村, 務 Inamura, Tsutomu
柳田国男が自らの学問を民俗学と認めるのは彼が日本民俗学会会長になった1949年の4月1日であり、それ以前は日本文化を研究対象とした民族学(文化人類学)もしくは民間伝承学(民伝学)を目指していた。柳田が確立しようとした民俗学は自分以外の人々に担われるべきものであり、柳田自身を含んでいなかった。本稿ではこのことを検証するために、それ以前のテキストととともに、1948年9月に行われた座談会「民俗学の過去と将来Jを中心に検討する。柳田国男は本質的に民族学者である。
岩崎, 公典 屋, 宏典 IWASAKI, Hironori OKU, Hirosuke
沖縄県は亜熱帯性の気候に属し、その強い環境ストレスから、植物の生体防御物質は温帯のものより豊富であることが知られている。これらの植物群を長く食材として利用してきた沖縄県民は、何らかの影響を受けていると考えられる。筆者らは沖縄における低発ガン率に注目し、食品性の抗腫瘍活性のスクリーニングを行った。特に、細胞増殖速度に依存しない抗腫瘍活性、 「腫瘍選択的細胞抑制活性」についてスクリーニングを行った結果、沖縄県において特徴的に用いられている薬草茶であるサルカケミカン (Toddalia asiatica Lam.) に強い活性を見出した。単離された活性物質はジヒドロニチジン(Dihydronitidine : DHN) と同定された。DHNの抗腫瘍活性は既に示唆されていたが、今回の報告ではこれまでの活性だけでは説明できない抗腫瘍効果が示された。このDHNの選択的抑制活性は腫瘍細胞に特異的な物質輸送経路に依存していることが示唆された。今回示した腫瘍選択的細胞抑制活性は、特定の腫瘍細胞のみをターゲットとする新たな抗腫瘍剤の検索に貢献できると考えられた。
趙, 廷寧 翁長, 謙良 宜保, 清一 楊, 建英 孫, 保平 Zhao, Tingning Onaga, Kenryo Gibo, Seiichi Yang, Jianying Sun, Baoping
黄土丘陵ガリ区は中国における侵食の激しい地域の一つである。激しい土壌侵食に半乾燥・乾燥気候,峻険な地形と悪化した生態環境に加えて,土地生産力は極めて低く,住民の生活も貧困である。このような自然・経済状況に鑑み適当な侵食防止策と農業開発技術を探討する為に,「黄土丘陵ガリ区における小流域の土壌侵食防止と農業開発技術に関する研究」を国家の指定研究課題とし,北京林業大学が寧夏回族自治区の西吉県の黄家二岔小流域において,1981年から一連の研究を行ってきた。採用された技術は該当地域の資源レベルと一致し,研究成果は類似な小流域にも適用・普及できる。黄家二岔小流域の侵食防止・農業開発の実際により,流域管理事業には連続的な資金・技術投入があれば,土砂流失は98%まで低減でき,食糧生産高と住民の年平均収入がそれぞれ526%と566%まで増加できるとされている。本研究は当該小流域の侵食防止措置と侵食防止事業の効果について検討するものである。
翁長, 謙良 Onaga, Kenryo
1.著者の行なった実験は, 人工降雨による土壌侵食のモデルテストであり, 土壌の状態, 降雨のあり方など, 自然とは異なるが, 実際農地においても, 降雨強度と, 流亡土量との関係を知る上の1つの目安とすることができよう。2.吉良は実際農耕地においても, 降雨強度(I)と流亡土量(E)との関係を示す実験式E=aI^bなる式が適用されると報告しており, 土壌侵食のfactorは異なるが, 本実験で求めた実験式もある程度それにマッチしている。3.本実験は, 傾斜5°, 裸地という条件で行なったので, Baverの示すE=f(T.V.S.C.H)のC(気候)・T(地形)についての一元的な解析を試みたにすぎない。4.沖縄における最大10分間降雨強度の極値は68年までの観測では23mmであり, 実験の降雨強度において3mm&acd;23mmを目標にしたが, 初期の目的雨量にすることは困難であった。
久保, 正敏 KUBO, Masatoshi
この報告では、モノと情報班の活動目的を、以下の3 つの観点から整理する。(1)東南アジア生態史における物質文化の重要性を考察すること;(2)生態史を、さまざまな要素の組み合わせから成り立つ複雑なシステムとして理解すること。そこには、地球規模の気候変動や、社会経済的なグローバルトレンドの影響、環境や公衆衛生に関わる国際的ならびに地域的な諸政策、貿易と通信、民族集団のエートスなどが含まれる;そして、(3)マルチメディアアーカイブの構築を通して、人間知識の協働的な生成という調査研究スタイルを確立することである。 上記の目的に向けて、モノと情報班では、(1)博物館所蔵資料データベースの構築、ならびに(2)ユニークな情報検索・表示機能を備えた、マルチメディアアーカイブの構築に取り組んでいる。後者は、生態史におけるさまざまな要素間のダイナミックな相互関係をとりだすためのツールを目指している。その基本構想は、現在、生態史プロジェクトでこれまでに蓄積されてきた報告書・資料にもとづく、時空間統合型データベースの実現に向けた議論のなかで具体化されつつある。
謝, 蘇杭
本論文は京都本草学の代表者である稲生若水・松岡恕庵・小野蘭山などを中心に、それらの『詩経』に対する「名物学」的研究の内容と発展経緯を解明しようとするものである。近世期本草学者の学問における関心は、主として三つの領域に集中している。すなわち、伝統医学の傍流となる「薬学」と、動植鉱物の名実同定を重視する「名物学」、さらに天産物の有用性に目をつけ、その産業化によって実利を得ることを目的とする「物産学」である。そのなかに、近世期における「名物学」の発展は、『詩経』をめぐる注釈と考証を中心に展開されてきた。それに関する学問は、「『詩経』名物学」と呼ばれている。その根底をなすのは、朱子学における「正名論」や「格物致知」の思想と考えられる。しかし、もともと『詩経』に出てきた動植物に対する名実同定にとどまっていた『詩経』名物学研究は、近世中後期になると、その記述に生態や製法などといった内容が見られ、「物産学」的な色合いがついてきたのである。本論文では、各時期における京都本草学派の『詩経』名物学著作を取り上げ、それらの記述内容を分析しつつ、『詩経』名物学の発展の実態について具体的に検討していこうとする。
林, 正之 Hayashi, Masayuki
柳田國男著作中の考古学に関する箇所の集成をもとに、柳田の考古学に対する考え方の変遷を、五つの画期に整理した。画期(一)(一八九五〜):日本社会の歴史への広い関心から考古学・人類学に参与し、山人や塚等、村落とその境界の問題を探求する。土器・石器や古墳の偏重に反発して次第に考古学から離れ、『郷土研究』誌上で独自の歴史研究を行う。画期(二)(一九一七〜):南洋研究や渡欧を通じて人類学の動向を知り、日本での国際水準の人類学創設を図る。出土人骨研究の独走や「有史以前」ブームを批判し、人類学内での人文系・自然科学系の提携、近現代に及ぶ「有史以外」究明の為の考古学との協力を模索する。画期(三)(一九二九〜):人類学の総合を留保し、一国民俗学確立に傾注する中、考古学の発展を認め、考古学との対照によって、現代の文化複合の比較から民族の文化の変遷過程を抽出する方法論を確立する。戦時下、各植民地の民俗学の提携を唱えるも、考古遺物の分布等から民族間の歴史的連続を安易に想起する傾向を排し、各民族単位の内面生活に即した固有文化の究明を説く。画期(四)(一九四六〜):敗戦原因を解明し、批判力のある国民を創るべく、近現代重視の歴史教育構築に尽力する。登呂遺跡ブームが中世以降の地域史への関心を逸らすことを警戒し、身近な物質文化の変遷から社会分析の基礎を養う教育課程を構想するも挫折する。画期(五)(一九五二〜):自身の学問の挽回を賭け、島の社会環境や大陸の貨幣経済を踏まえた移住動機の総合的モデルに基づき、稲作を核とする集団が、琉球経由で海路日本列島へ渡来したとの説を掲げて、弥生時代の朝鮮半島からの稲作伝来という考古学の通説と対決する。しかし考古学側の知見に十分な反証を出せず、議論は閉塞する。柳田は、生涯に亘って考古学を意識し、批判的に参照する中で、研究の方向を模索した。考古学は、柳田の思想の全貌を照射する対立軸といえる。
Takezawa, Shoichiro
日本民俗学の創始者柳田国男については多くの研究がある。しかしその多くは,柳田が日本民俗学を完成させたという終着点に向けてその経歴を跡づけるという目的論的記述に終わっているために,民俗学も民族学も存在していなかった明治大正の知的環境のなかで,柳田がどのようにして自己の学問を築いていったかを跡づけることに成功していない。 彼の経歴を仔細にたどっていくと,彼が多くの挫折と変化を経験しながらみずからの人生と学問を自分の手で築いていったことが明らかである。青年期には多くの小説家や詩人と交流しながらロマンティックな詩を書いた詩人であり,東京帝国大学で農政学を学んだあとの十年間は,日本農業の改革に専念したリベラリスト農政官僚であった。その後,1911 年に南方熊楠と知り合うことで海外の民族学や民俗学を本格的に学びはじめ,第一次世界大戦後は国際連盟委員をつとめるなかで諸大国のエゴイズムを知らされて失望し,それを辞任して帰国したのちは日本民俗学の確立に邁進する。こうした彼の人生の有為転変が彼の民俗学を独自のものにしたのである。 柳田がようやく彼の民俗学を定義したのは1930 年ごろである。それは,隣接科学(=民族学)との峻別と,民俗学独自の方法(データの採集方法)の確立,社会のなかでのその役割の正当化,研究対象としての日本の特別視という4 重の操作を経ておこなわれたものであった。英米の人類学はとくに1925 年から1935 年のあいだに理論と実践の両面で革新を実現したが,すでに自分の民俗学の定義を完了した柳田はそれを取り入れることをしなかった。彼の民俗学は,隣接科学や海外の学問動向を参照することを必要としない一国民俗学になったのであり,隣接科学との対話や交流という課題は今日まで解決されることなく残っている。
石嶺, 行男 Ishimine, Yukio
沖縄県の基幹産業の首位は依然として糖業によって占められ, 糖業は県経済の安定維持を図る上で極めて重要な役割を果している。イネ科作物のサトウキビは糖業の唯一の原料として県内のほとんど全域にわたって栽培されており, 栽培面積は総耕地面積の70%を超える。サトウキビを栽培している農家世帯は総農家数の85%以上におよび, その生産は農業粗生産額の30%前後に相当する。他方, 沖縄県は高温多湿な亜熱帯に位置し気候が海洋性であるため雑草の生育に好適な環境が形成されており, 至る処に多種多様の雑草の発生・繁茂がみられ, 植生の様相は国内の他の地方とは著しく異なる。本研究で扱ったサトウキビ畑の雑草は一年生草と多年生草を合わせて233種を数えたが, このうち最も大型で, 繁殖・散布が極めて旺盛であることから雑草害の大きい草種として注目されるのはイネ科の多年生草タチスズメノヒエとキク科の多年生草タチアワユキセンダングサの2種である。タチスズメノヒエは1,2,3月を除き常時発生し, タチアワユキセンダングサは周年発生する。このため両草種の防除には多くの時間, 労力, 費用を必要とし, 蔓延が広範囲におよんだ場合は, サトウキビの栽培上由々しい問題となることが予想される。また, 両草種に関する限り従来の除草剤, 機械力または人力に依存する防除対策には自ら限界があり, これらの慣行的方法と併せて新たに有効適切な防除体系を組み立てることが強く望まれている。本研究は, まずサトウキビ畑に発生する雑草群落の実態を把握し, 次に代表的な強害雑草と判断されるイネ科のタチスズメノヒエとキク科のタチアワユキセンダングサの生育と環境要因との関係を追究し, 更に研究の最終段階でサトウキビと両草種の競合関係を検討し, 生理・生態学的観点から両草種の効果的な防除につながる基礎的知見を得ることを目的として1981年から1985年にかけて県内の主なサトウキビ栽培地域と琉球大学農学部附属農場において行われたものである。以下, その結果を総括し, 結論とする。1雑草群落と雑草相群落調査の結果, 調査地点のサトウキビ畑で確認された雑草は, 18亜種22変種を含む59科181属233種であった。これを科別にみると, イネ科とキク科が最も多く, 次いでカヤツリグサ科とタカトウダイグサ科が主なものであった。
上村, 幸雄 Uemura, Yukio
筆者がこれまでに係わった日本の方言学と言語地理学について概観する。
かりまた, しげひさ Karimata, Shigehisa / 狩俣, 繁久
琉球列島全域の言語地理学的な調査の資料を使って、構造的比較言語地理学を基礎にしながら、音韻論、文法論、語彙論等の基礎研究と比較言語学、言語類型論、言語接触論等の応用研究を融合させて、言語系統樹の研究を行なえば、琉球列島に人々が渡来、定着した過程を総合的に解明できる。言語史研究の方法として方言系統地理学を確立することを提案する。
吉田, 茂 大城, 政一 Yoshida, Shigeru Oshiro, Seiichi
南西諸島の肉牛生産は消費地から遠いと言う点では立地条件に恵まれていない。しかし,自然条件は全体が亜熱帯海洋性気候に属することから国内の他の地域に比べて牧草など飼料作物の通年生産が可能である,又畑作地帯であることからさとうきびとの複合経営による肉牛生産が可能であると言う点では恵まれている。南西諸島における肉牛生産農家は平成3年4月の牛肉の輸入自由化を控えて,総じて減少を示している。肉牛飼養農家規模別にみてみると,規模拡大の傾向を示していて,小規模経営農家の減少が比較的著しい。南西諸島における肉牛農家はほとんどが小規模の繁殖経営農家で,主として黒毛和種を生産している。南西諸島における肉牛飼養頭数も減少を示しているが,南西諸島の農家では子牛価格が現在(昭和63年)の高値であることから,肉牛繁殖農家の経営が維持されていると考える。南西諸島における肉牛繁殖経営農家の特徴は,必ずさとうきび生産と結び付けており,肉牛からの有機肥料としての堆肥生産とさとうきびからの下葉の飼料化及びさとうきび刈り取り時の梢頭部の利用をまめに行っていることである。以上のことは両者の何れかが哀退して行くと,この様な肉牛とさとうきびの有機的農法が維持できないことを示唆している。
浜本, 満
本論文の目的は,人類学の自然化の可能性を,人類学の過去に遡って再考することにある。人類学には過去に二回自然化の問題に直面した歴史がある。一回目は人類学が自然科学たりうるかどうかを巡ってなされた1950 年代から1960年代にかけての論争であり,二回目は1970 年代から1980 年代にかけての社会生物学を巡る相互の無理解に終始した論争だった。いずれにおいても文化人類学者の大多数は自然化を退ける選択をしたように見えた。一見正しいものに見えたこの選択は,大きな理論的な袋小路につながる危険が潜んでいた。本論文では,人文・社会科学全体がかかわった一回目の論争を中心に,人類学にとっての自然化の障害となりうる核心を明らかにするとともに,自然科学における経験主義的・実証主義的因果概念の限界を指摘すると同時に,生物学の領域でのダーウィニズムのロジックによって,この両者の懸隔を乗り越える可能性を示したい。
藤原, 幸男 Fujiwara, Yukio
他大学教育学部または教育大学における教育学と心理学を統合した学校教育学科では,教育学の専門科目は理論ばかりでおもしろくない,という批判が学生にあり,そのために,専修に分化するときに心理学専修を選ぶ者が多いと聞く。教育学について一面的な理解しかないにしても,学生の批判はあたっているところもある。学生の批判を受けとめ,教育学の専門科目の授業を教育内容・方法面において再編成し,魅力あるものにしていく必要がある。今年の夏,「教育方法学」の集中講義をF教育大学で試みた。理論と実践の結合を意識して,実践事例を多く紹介したプリント資料とビデオ教材を準備したために,学生の隠れた教育学批判に結果的に応えることができた。現実の教育問題への関心の喚起,教育方法学の理論の実感的理解,教育像・授業像・教師像の変化,教育方法学観の変化などについて刺激を与えることができた。「教育方法学」集中講義の講義内容・方法を概観し,実践的試みを実施したあとでの学生の感想を中心にして,上記事項などでの影響について報告する。
総合地球環境学研究所 研究室2
総合地球環境学研究所 研究室2
総合地球環境学研究所 研究室2
総合地球環境学研究所 研究室2
総合地球環境学研究所 研究室2
総合地球環境学研究所 研究室2
総合地球環境学研究所 研究室2
総合地球環境学研究所 研究室2
総合地球環境学研究所 研究室2
総合地球環境学研究所 研究室2
総合地球環境学研究所 研究室2
総合地球環境学研究所 研究室2
総合地球環境学研究所 研究室2
小池, 淳一 Koike, Jun'ichi
本稿は柳田民俗学の形成過程において考古研究がどのような位置を占めていたのか、柳田の言説と実際の行動に着目して考えてみようとした。明治末年の柳田の知的営為の出発期においては対象へのアプローチの方法として考古研究が、かなり意識されていた。大正末から昭和初期の雑誌『民族』の刊行とその後の柳田民俗学の形成期でも柳田自身は、考古学に強い関心を持ち続けていたが、人脈を形成するまでには至らず、民俗学自体の確立を希求するなかで批判的な言及がくり返された。昭和一〇年代以降の柳田民俗学の完成期では、考古学の長足の進展と民俗学が市民権を得ていく過程がほぼ一致し、そのなかで新たな歴史研究のライバルとしての意識が柳田にはあったらしいことが見通せた。柳田民俗学と考古研究とは、一定の距離を保ちながらも一種の信頼のようなものが最終的には形成されていた。こうした検討を通して近代的な学問における協業や総合化の問題が改めて大きな課題であることが確認できた。
本書の原著は,東海大学海洋学部の学生実験を主な対象とした「魚類学実験テキスト」として日本語で出版されました。今回,対象読者としてアジア・アフリカ域等の学部学生を念頭に,汎用性のある章を選んで翻訳出版いたしました。本出版は,総合地球環境学研究所エリアケイパビリティープロジェクトおよび東海大学海洋学部の助成を受けて行いました。
本書の原著は,東海大学海洋学部の学生実験を主な対象とした「魚類学実験テキスト」として日本語で出版されました。今回,対象読者としてアジア・アフリカ域等の学部学生を念頭に,汎用性のある章を選んで翻訳出版いたしました。本出版は,総合地球環境学研究所エリアケイパビリティープロジェクトおよび東海大学海洋学部の助成を受けて行いました。
本書の原著は,東海大学海洋学部の学生実験を主な対象とした「魚類学実験テキスト」として日本語で出版されました。今回,対象読者としてアジア・アフリカ域等の学部学生を念頭に,汎用性のある章を選んで翻訳出版いたしました。本出版は,総合地球環境学研究所エリアケイパビリティープロジェクトおよび東海大学海洋学部の助成を受けて行いました。
本書の原著は,東海大学海洋学部の学生実験を主な対象とした「魚類学実験テキスト」として日本語で出版されました。今回,対象読者としてアジア・アフリカ域等の学部学生を念頭に,汎用性のある章を選んで翻訳出版いたしました。本出版は,総合地球環境学研究所エリアケイパビリティープロジェクトおよび東海大学海洋学部の助成を受けて行いました。
本書の原著は,東海大学海洋学部の学生実験を主な対象とした「魚類学実験テキスト」として日本語で出版されました。今回,対象読者としてアジア・アフリカ域等の学部学生を念頭に,汎用性のある章を選んで翻訳出版いたしました。本出版は,総合地球環境学研究所エリアケイパビリティープロジェクトおよび東海大学海洋学部の助成を受けて行いました。
張, 平星
2022 年6 月12 日(日),日文研共同研究「日本文化の地質学的特質」の初めての巡検を,京都の名石・白川石をテーマに,その産出と加工,産地の北白川地域の土地変遷と石の景観,日本庭園の中の白川砂の造形・意匠・維持管理に焦点を当てて実施した。地質学,考古学,歴史学,宗教学,哲学,文学など多分野の視点から活発な現地検討が行われ,比叡花崗岩の地質から生まれた白川石の石材文化の全体像を確認できた。
Tanabe, Shigeharu
この論文は,人類学において日常的実践がいかに理解され,またいかにその理論的枠組みの中に適切に位置づけられるかを,特にプルデューの実践理論に焦点をあてながら論じる。ブルデューが持続的かつ移調可能な実践の発生母体としてのハビトゥスを概念化するにあたって,人類学的主体と観察され記述される人びととを同一地平に置ぎながら論じたことはきわめて重要な意義をもつだろう。人類学者の理論的実践と人びとの日常的実践を接合するこの先鋭的な試みは,レヴィ・ストロース的構造人類学と現象学的社会学の双方を批判することによって達成され,「再帰的人類学」と呼ばれる新たな研究の地平を開くことになった。この再帰的位置において,人類学者は構造的な制約の中で自由と「戦略」をもって実践を生みだすハビトゥスを検討するにあたって,自らの知識が前もって構成された特権的な図式でしかないことを理解する必要に迫られる。この論文はブルデューのハビトゥス概念の成立過程を明らかにするとともに,そのいくつかの問題点を指摘しながら,今日の再帰的人類学における理論的諸問題に取り組むためのより適切な展望を開こうとする。
総合地球環境学研究所 研究室2
総合地球環境学研究所 研究室2
長田, 俊樹
筆者は、主に言語学以外の自然人類学や考古学、そして民族学の立場から、大野教授の「日本語=タミル語同系説」を検討した結果、次のような問題点が明らかとなった。 まず自然人類学では、大野教授がいうように、もしタミル人が渡来したのであれば、人骨が見つかっていない点は大野説には不利である。また考古学的には、大野説を裏付けるものはほとんどない。大野説によると、墓制、稲、金属器などが、南インドから伝播してきたことになるが、これらを裏付ける物的証拠はほとんどなく、むしろ反証の方が多い。さらに、大野説の初期からいわれてきた正月行事の類似も、南インドと日本だけの類似ではなく、アジアの広範囲にみられ、南インドからの伝播とみなす積極的な根拠は全くない。 以上、大野教授の「日本語=タミル語同系説」は、言語学における問題点に加えて、言語学以外の関連分野ではさらに多くの疑問点があり、とても支持できないというのが筆者の結論である。
Kobayashi, Masaomi 小林, 正臣
本稿はMartha WoodmanseeとMark Osteenが提唱する「新経済批評(The New Economic Criticism)」を検証しながら、文学と経済学の新たな学際性を模索する。社会科学としての経済学は数式を多用した限定的な意味における「科学」を標榜する傾向にあり、人文科学としての文学は経済学-多数の学派に基づく経済学-をマルクス経済学に限定して援用または経済学の専門用語などを誤用する傾向にある。これら問題点を考慮しながら、本稿は両学問の類似性と相違点を認識することの重要性を強調する。例えば、Donald McCloskeyが指摘するように、経済学は数式を用いながらも言語による論証を行うことにおいて修辞的である。またPierre Bourdieuが指摘するように、言語と貨幣は機能的に類似する点が多くあり、それゆえ文学と経済学の「相同関係(homology)」が考えられる。しかし相同関係を発見する一方で、それら学問間の絶えざる緊張関係を維持しながら新たな相互関係を構築する必要があり、その際の媒介を果たすのが新経済批評である。換言すれば、文学は経済学を始めとする諸科学の理論を導入しながら、それら科学に新たな返答をすることが可能な「場」であると認識することで、両学問は相互的な知的活性化を永続できる。かくして本稿は、文学と経済学の学際性の追求は「未知(notknowing)」の探求であると結論する。
小西, 潤子
「山口修写真コレクション」は,山口修(1939–)が 1960 年代半ばから 1990年代にアジア・太平洋各地で収集した 5,000 点以上の写真資料からなる。これらの理解を深めるために,民族音楽学の歴史を遡ることで山口の学問的関心を突き詰める。すなわち,20 世紀前後の欧州における近代科学に基づいた比較音楽学,戦前日本における東洋音楽の歴史と理論を扱った東洋音楽研究,1950年代から米国で文化相対主義の影響によって開花した行動学的民族音楽学である。これらを基盤に,山口は民族音楽学の理論と実践を国内外に発信し,「応用音楽学」として集大成した。その中で楽器学の骨子は,(1)エティック/イーミックスなアプローチ,(2)楽器づくりのわざ,(3)楽器の素材,とされる。次に,これらの観点から 1970 年代沖縄・奄美における楽器の写真について,当該文化の担い手による解釈を交えて論じる。対話の積み重ねによる持続的なデータベースづくりは,まさに山口が目指した未来志向性の応用音楽学的実践だといえる。
粟津, 賢太 Awazu, Kenta
戦没者の記念追悼施設やその分析には大まかにいって二つの流れがある。ひとつは歴史学的研究であり、もうひとつは社会学的研究である。もちろん、これらの基礎をなす、死者の追悼や時間に関する哲学的研究や、それらが公共の場において問題化される政治学的な研究も存在するが、こうした研究のすべてを網羅するのは本稿の目的ではない。歴史学的研究においては、これらの施設の形成過程の研究と社会的位置づけをめぐる議論があった。歴史において、欧米社会がいかに死を扱ってきたのかという社会史的な問題設定の中に位置づけられてきた。一方、社会学的研究では、これまで国家儀礼に関する研究が主流であった。そこには、機能主義の前提があった。また、死の社会学という観点から、社会的に死がいかに扱われているのかという社会心理学的あるいは死生学的関心による研究も行われてきた。歴史研究と社会学的研究というこれら二つの動向は、ナショナリズム研究や慣習的実践論、また「場」の理論を取り込みつつ、次第に記憶の社会学という現代社会学へ収斂しつつある。本稿の目的は、その理論的形成や問題領域を整理し、現代社会学理論の中に集合的記憶研究を戦略的に位置づけることにある。集合的記憶の社会学は、物質的な基礎に着目することによって時間と空間を社会分析に取り入れるという点で、戦略的な高地を確保できる。また、そうした時間と空間における行為者としてエージェンシーを考える。ここでいうエージェンシーはある特定の記憶の場を目指した様々な社会的相互作用を行う主体である。それは儀礼を執行する主体であり参加者であり、言説を産出する主体でもある。エージェンシーが、ある特定の空間において(あるいはある空間に対して)、ある特定の時間の幅の中で、いかなる動きを示していったのかを考えることができる。
Iida, Taku Kawai, Hironao
本書は、2015年1 月24日から25日にかけて国立民族学博物館で開催された国際フォーラム「中国地域の文化遺産―人類学の視点から」のプロシーディングズである。国際フォーラムは、国立民族学博物館の機関研究「文化遺産の人類学―グローバル・システムにおけるコミュニティとマテリアリティ」の一環として開かれた。この序の前半では、機関研究全体の関心について述べ、後半では、中国地域というコンテクストに即した問題の所在を紹介する。
長田, 俊樹
さいきん、インドにおいて、ヒンドゥー・ナショナリズムの高まりのなかで、「アーリヤ人侵入説」に異議が唱えられている。そこで、小論では言語学、インド文献学、考古学の立場から、その「アーリヤ人侵入説」を検討する。 まず、言語学からいえば、もし「アーリヤ人侵入説」が成り立たないとしたら、「印欧祖語=サンスクリット語説」もしくは「印欧祖語インド原郷説」が想定されるが、いずれも、Hock(1999a)によって否定されている。また、インド文献学では、リグ・ヴェーダの成立年代問題など、たぶんに解釈の問題であって、インド文献学がこたえをだすことはない。考古学による証拠では、インダス文明が崩壊した時期における「アーリヤ人」の「大量移住」の痕跡はみとめられず、反「アーリヤ人侵入説」の根拠となっている。 結論をいえば、じゅうらいの「アーリヤ人侵入説」は見直しが必要である。「アーリヤ人」は「インド・アーリヤ祖語」を話す人々」とすべきで、かれらが同一民族・同一人種を形成している必要はけっしてない。また、「侵入」も「小規模な波状的な移住」とすべきで、年代についても紀元前一五〇〇年ごろと特定すべき積極的な根拠はない。
大村, 敬一
本論文の目的は,イヌイトの「伝統的な生態学的知識」に関してこれまでに行なわれてきた極北人類学の諸研究について検討し,伝統的な生態学的知識を記述,分析する際の問題点を浮き彫りにしたうえで,実践の理論をはじめ,「人類学の危機」を克服するために提示されているさまざまな理論を参考にしながら,従来の諸研究が陥ってしまった本質主義の陥穽から離脱するための方法論を考察することである。本論文では,まず,19世紀後半から今日にいたる極北人類学の諸研究の中で,イヌイトの知識と世界観がどのように描かれてきたのかを振り返り,その成果と問題点について検討する。特に本論文では,1970年代後半以来,今日にいたるまで展開されてきた伝統的な生態学的知識の諸研究に焦点をあて,それらの諸研究に次のような成果と問題点があることを明らかにする。従来の伝統的な生態学的知識の諸研究は,1970年代以前の民族科学研究の自文化中心主義的で普遍主義的な視点を修正し,イヌイトの視点からイヌイトの知識と世界観を把握する相対主義的な視点を提示するという成果をあげた。しかし一方で,これらの諸研究は,イヌイト個人が伝統的な生態学的知識を日常的な実践を通して絶え間なく再生産し,変化させつつあること忘却していたために,本質主義の陥穽に陥ってしまったのである。次に,このような伝統的な生態学的知識の諸研究の問題点を解決し,本質主義の陥穽から離脱するためには,どのような記述と分析の方法をとればよいのかを検討する。そして,実践の理論や戦術的リアリズムなど,本質主義を克服するために提示されている研究戦略を参考に,伝統的な生態学的知識を研究するための新たな分析モデルを模索する。特に本論文では実践の理論の立場に立つ人類学者の一人,ジーン・レイヴ(1995)が提案した分析モデルに注目し,その分析モデルに基づいて,人間と社会・文化の間に交わされるダイナミックな相互作用を統合的に把握する視点から伝統的な生態学的知識を再定義する。そして,この再定義に基づいて,伝統的な生態学的知識を記述して分析するための新たな分析モデルを提案し,さまざまな社会・文化的過程が縦横に交わる交差点として民族誌を再生させる試みを提示する。
松田, 睦彦 Matsuda, Mutsuhiko
小稿は人の日常的な地域移動とその生活文化への影響を扱うことが困難な民俗学の現状をふまえ,その原因を学史のなかに探り,検討することによって,今後,人の移動を民俗学の研究の俎上に載せるための足掛かりを模索することを目的とする。1930年代に柳田国男によって体系化が図られた民俗学は,農政学的な課題を継承したものであった。柳田の農業政策の重要な課題の一つは中農の養成である。しかし,中農を増やすためには余剰となる農村労働力の再配置が必要となる。そこで重要となったのが「労力配賦の問題」である。これは農村の余剰労働力の適正な配置をめざすものであり,柳田の農業政策の主要課題に位置づけられる。こうした「労力配賦の問題」は,人の移動のもたらす農村生活への影響についての考察という形に変化しながら,民俗学へと吸収される。柳田は社会変動の要因として人の移動を位置づけ,生活変化の様相を明らかにしようとしたのである。しかし,柳田の没後,1970年代から1980年代にかけて,柳田の民俗学は批判の対象となる。その過程で人の移動は「非常民」「非農民」の問題へと縮小される。一方で,伝承母体としての一定の地域の存在を前提とする個別分析法の隆盛により,人の移動は民俗学の視野の外へと追いやられることになった。人の日常的な移動を見ることが困難な民俗学の現況はここに由来する。今後,民俗学が人びとの地域移動が日常化した現代社会とより正面から向きあうためには,こうした学史的経緯を再確認し,人びとが移動するという事象そのものを視野の内に取り戻す必要がある。
吉田, 安規良 山口, 剛史 村田, 義幸 原田, 純治 橋本, 健夫 八田, 明夫 河原, 尚武 立石, 庸一 會澤, 卓司 Yoshida, Akira Yamaguchi, Takeshi Murata, Yoshiyuki Harada, Junji Hashimoto, Tateo Hatta, Akio Kawahara, Naotake Tateishi, Yoichi Aizawa Takuji
長崎大学教育学部で開講された「複式教育論」の講義に琉球大学教育学部の「複式学級授業論」担当者が出張し,沖縄県のへき地・複式教育を概説し,長崎県で実際に行われた複式学級での授業実践を追体験しながらその内容を分析するという2つの取り組みを行った。受講学生の講義内容に対する評価は有意に肯定的であった。とりわけ模擬授業分析については「もっと学びたい」という意見が多かった。
吉田, 安規良 山口, 剛史 村田, 義幸 原田, 純治 橋本, 健夫 八田, 明夫 河原, 尚武 立石, 庸一 會澤, 卓司 Yoshida, Akira Yamaguchi, Takeshi Murata, Yoshiyuki Harada, Junji Hashimoto, Tateo Hatta, Akio Kawahara, Naotake Tateishi, Yoichi Aizawa, Takuji
長崎大学教育学部で開講された「複式教育論」の講義に琉球大学教育学部の「複式学級授業論」担当者が出張し,沖縄県のへき地・複式教育を概説し,長崎県で実際に行われた複式学級での授業実践を追体験しながらその内容を分析するという2つの取り組みを行った。受講学生の講義内容に対する評価は有意に肯定的であった。とりわけ模擬授業分析については「もっと学びたい」という意見が多かった。
伊藤, 謙 宇都宮, 聡 小原, 正顕 塚腰, 実 渡辺, 克典 福田, 舞子 廣川, 和花 髙橋, 京子 上田, 貴洋 橋爪, 節也 江口, 太郎
日本では江戸時代、「奇石」趣味が、本草学者だけでなく民間にも広く浸透した。これは、特徴的な形態や性質を有する石についての興味の総称といえ、地質・鉱物・古生物学的な側面だけでなく、医薬・芸術の側面をも含む、多岐にわたる分野が融合したものであった。また木内石亭、木村蒹葭堂および平賀源内に代表される民間の蒐集家を中心に、奇石について活発に研究が行われた。しかし、明治期の西洋地質学導入以降、和田維四郎に代表される職業研究者たちによって奇石趣味は前近代的なものとして否定され、石の有する地質・古生物・鉱物学的な側面のみが、研究対象にされるようになった。職業研究者としての古生物学者たちにより、国内で産出する化石の研究が開始されて以降、現在にいたるまで、日本の地質学・古生物学史については、比較的多くの資料が編纂されているが、一般市民への地質学や古生物学的知識の普及度合いや民間研究者の活動についての史学的考察はほぼ皆無であり、検討の余地は大きい。さらに、地質学・古生物学的資料は、耐久性が他の歴史資料と比べてきわめて高く、蒐集当時の標本を現在においても直接再検討することができる貴重な手がかりとなり得る。本研究では、適塾の卒業生をも輩出した医家の家系であり、医業の傍ら、在野の知識人としても活躍した梅谷亨が青年期に蒐集した地質標本に着目した。これらの標本は、化石および岩石で構成されているが、今回は化石について検討を行った。古生物学の専門家による詳細な鑑定の結果、各化石標本が同定され、産地が推定された。その中には古生物学史上重要な産地として知られる地域由来のものが見出された。特に、pravitoceras sigmoidale Yabe, 1902(プラビトセラス)は、矢部長克によって記載された、本邦のみから産出する異常巻きアンモナイトであり、本種である可能性が高い化石標本が梅谷亨標本群に含まれていること、また記録されていた採集年が、本種の記載年の僅か3年後であることは注目に値する。これは、当時の日本の民間人に近代古生物学の知識が普及していた可能性を強く示唆するものといえよう。
佐藤, 健二 Sato, Kenji
本稿は近代日本における「民俗学史」を構築するための基礎作業である。学史の構築は、それ自体が「比較」の実践であり、その学問の現在のありようを相対化して再考し、いわば「総体化」ともいうべき立場を模索する契機となる。先行するいくつかの学史記述の歴史認識を対象に、雑誌を含む「刊行物・著作物」や、研究団体への注目が、理念的・実証的にどのように押さえられてきたかを批判的に検討し、「柳田国男中心主義」からの脱却を掲げる試みにおいてもまた、地方雑誌の果たした固有の役割がじつは軽視され、抽象的な「日本民俗学史」に止められてきた事実を明らかにする。そこから、近代日本のそれぞれの地域における、いわゆる「民俗学」「郷土研究」「郷土教育」の受容や成長のしかたの違いという主題を取り出す。糸魚川の郷土研究の歴史は、相馬御風のような文学者の関与を改めて考察すべき論点として加え、また『青木重孝著作集』(現在一五冊刊行)のような、地方で活躍した民俗学者のテクスト共有の地道で貴重な試みがもつ可能性を浮かびあがらせる。また、澤田四郎作を中心とした「大阪民俗談話会」の活動記録は、「場としての民俗学」の分析が、近代日本の民俗学史の研究において必要であることを暗示する。民俗学に対する複数の興味関心が交錯し、多様な特質をもつ研究主体が交流した「場」の分析はまた、理論史としての学史とは異なる、方法史・実践史としての学史認識の重要性という理論的課題をも開くだろう。最後に、歴史記述の一般的な技術としての「年表」の功罪の自覚から、柳田と同時代の歴史家でもあったマルク・ブロックの「起源の問題」をとりあげて、安易な「比較民俗学」への同調のもつ危うさとともに、探索・博捜・蓄積につとめる「博物学」的なアプローチと相補いあう、変数としてのカテゴリーの構成を追究する「代数学」的なアプローチが、民俗学史の研究において求められているという現状認識を掲げる。
清水, 昭俊
マリノフスキーは,「参与観察」の調査法を導入した,人類学史上もっとも著名な人物である。その反面,彼は理論的影響で無力であり,ラドクリフ=ブラウンに及びえなかった。イギリス社会人類学の二人の建設者を相補的な姿で描くこの歴史叙述は,広く受け入れられている。しかし,それは決して公平で正当な認識ではない。マリノフスキーがイギリス時代最後の10年間に行ったもっとも重要な研究プロジェクトを無視しているからだ。この論文で私は,アフリカ植民地における文化接触に関する彼の実用的人類学のプロジェクトを考察し,忘却の中から未知のマリノフスキーをよみがえらせてみたい。マリノフスキーは大規模なアフリカ・プロジェクトを主宰し,人類学を古物趣味から厳格な経験科学に変革しようとした。植民地の文化状況に関して統治政府に有用な現実的知識を提供する能力のある人類学への変革である。このプロジェクトは,帝国主義,植民地主義との共犯関係にある人類学のもっとも悪しき実例として,悪名高いものであるが,現実には,彼の同時代人でマリノフスキーほど厳しく植民地統治を批判した人類学者はいなかった。彼の弟子との論争を分析することによって,私は,アフリカ植民地の文化接触について人類学者が観察すべき事象とその方法に関する,マリノフスキーの思考を再構成する。1980年代に行われたポストモダン人類学批判を,おおくの点で彼がすでに提示し,かつ乗りこえていたことを示すつもりである。ラドクリフ=ブラウンの構造機能主義は,この新しい観点から見れぽ,旧弊な古物趣味への回帰だったが,構造機能主義者は人類学史を一貫した発展の歴史と描くために,マリノフスキーのプロジェクトの記憶を消去した。戦間期および戦後期初めの時期におけるマリノフスキーの影響の盛衰を跡づけよう。
山下, 博司
国語学者大野晋氏の所謂「日本語=タミル語同系説」は、過去十五年来、日本の言語学会やインド研究者たちの間で、センセーショナルな話題を提供してきた。大野氏の所論は、次第に比較言語学的な領域を踏み越え、民俗学や先史考古学の分野をも動員した大がかりなものになりつつある。特に最近では、紀元前数世紀に船でタミル人が渡来したとする説にまで発展し、新たなる論議を呼んでいる。 本稿では、一タミル研究者の視点に立ち、氏の方法論の不備と対応語彙表が抱える質的問題を指摘し、同系説を学問的に評価する上で障害となる難点のいくつかについて、具体的な事例に即しながら提示することにしたい。
上里, 健次 山城, 直樹 Uesato, Kenji Yamashiro, Naoki
D.Pramot のシュートの萌芽から開花にいたる発育の過程を、とくに開花の動きを中心に、亜熱帯気候下のハウス内環境と関連させて検討した。調査は切花生産者の栽培圃場にある約100株の植物を対象に年間をとおして行った。得られた結果の概要は次のとおりである。1.最低温度20℃のハウスにおける萌芽は、3月2日を中心に株間に3カ月弱の変動幅が見られた。また栄養生長の期間は花序抽出日を境い目とすると113.5日で、その間の栄養生長の結果は茎長55.8cm、葉数7.3枚で、この品種はかなりの矮性品種であることが示された。2.当年性バルブの第1花序の平均開花日は8月1日で、きわめて早生性の強い品種であることが示され、また第2花序、第3花序まで含めた株当たりの開花本数は2.0本であった。3.前年性バルブにおける株あたりの平均開花本数は0.8本で、これは前年度のバルブ数が2回の萌芽によって倍加したことによるもので、また開花期のピークは11月前後であった。4.花成要因については、当年性バルブではバルブの充実に伴う栄養依存性のタイプと考えられる反面、前年性バルブの花成に対しては、バルブ内の植物ホルモンなどの動きと環境要因との相互作用によるのではないか推測された。
川瀬, 久美子 Kawase, Kumiko
中部日本の矢作川下流低地において,縄文海進のおよんだ地域を対象として,ボーリング資料の整理,加速器質量分析計による堆積物の¹⁴C年代値の測定,珪藻分析を行い,完新世後半の低地の地形環境の変化を明らかにした。表層地質の整理から,沖積層上部砂層の上位に腐植物混じりの後背湿地堆積物が堆積し,洪水氾濫堆積物と考えられる砂層によって覆われていることが明らかとなった。後背湿地堆積物を覆う砂層は,支流沿いでは自然堤防を構成している。堆積物の珪藻分析結果は,後背湿地堆積物が安定した止水環境で堆積し,その上位は流水の影響が強まったことを示唆しており,堆積物からみた堆積環境の変遷を支持している。静穏な環境から河成作用が卓越する環境への変化は,約2,000年前におこった。本研究で推定された上記の環境変化が,対象地域の上流部においてもみられたことが従来の研究で指摘されている。それらによれば,約2,000年前頃から洪水氾濫の影響が強くなり,古墳時代には顕著な自然堤防が形成されるようになった。この一連の堆積環境の変化には,気候の湿潤化による洪水氾濫の激化と,人為的な森林破壊による土砂供給量の増大が関与している可能性がある。
松田, 睦彦 Matsuda, Mutsuhiko
小稿は柳田国男の1910年代から1930年代の論考を紐解くことによって,当時の「生業」研究の目的と手法を再確認し,その可能性の一端を示そうとするものである。一般的な柳田の民俗の資料分類の理解では,今日の生業に関わる分野は第一部の有形文化に分類され,第三部の心意現象に比して研究の中心とはならなかったとされる。また,農政学に「挫折」した柳田が,農政学との距離を図るために,故意に「生業」研究を矮小化したという意見も見られる。しかし,民俗学成立期の柳田の論考を検証してみると,その理解が改められなければならないことは明白である。柳田は1910年代から農政学を離れ,民俗学という新たな学問の確立に邁進するが,そこでは農政学時代からの「生業」に対する視点が継承され,より同時代的なものへと深化した。その過程は,『都市と農村』等の論考から読み取ることができる。柳田の「生業」研究の眼目は,農民の抱える同時代的な問題を,彼らの今日までの生活の歴史と,彼らが築き上げてきた生活観念の理解を通して解決に導くと同時に,農民たち自身が自己省察するに至らしめることにあった。この目的を果たすためには,官界や学界の指導を上から押し付ける農政学という手法は適さなかった。そこで柳田自身が新たに興したのが民俗学というフィールドであった。つまり,民俗学の成立の一端に,柳田の「生業」へのまなざしの深化が関わっているのである。今日の生業研究と柳田の「生業」研究とは位相を異にするものである。けれども,あるいは,だからこそ,隣接諸分野との協業のなかで発展し続ける今日の生業研究が,民俗学としての論理と理念とを再確認する上で,柳田の「生業」研究から学び得ることは多いはずである。
朱, 京偉 ZHU, Jingwei
本稿は,本誌12号に掲載した筆者の論考(朱京偉2002)の後を受け,明治初期以降,つまり,西周と『哲学字彙』初版以降の哲学用語と論理学用語の新出語を特定し検討することを目的とする。そのために,考察の範囲を明治期の哲学辞典類から哲学書と論理学書に拡大して,選定した31文献の範囲で用語調査を行い,個々の用語の初出文献をつきとめた。また,新出語の特定にあたり,抽出語を「哲学書と論理学書共通の用語」と「哲学書のみの用語」「論理学書のみの用語」に3分類した上,その下位分類として,さらに,「出典なし」「『漢詞』未見」「出典あり」「新義・分立」の4タイプに振り分けた。それぞれの所属語の性質を検討した結果,明治初期以降の新造語として,191語をリストアップしておいた。ただし,本稿で用いた方法は,哲学と論理学にしか使われない専門性の強い用語については,その初出例を求めるのに有効であるが,一方,哲学と論理学以外でも使われるような汎用性の高い用語については,哲学書と論理学書の範囲で初出例が明らかにされたとはいえ,他の分野でも使われている可能性があるため,今後は,その初出例の信憑性を検証しなければならない。
森茂, 岳雄
国立民族学博物館における教育活動の歩みを概観するとともに,特に博学連携の本格的取り組みの開始となった,「民博を活用した学習プログラムの開発」,およびそれに続く「博学連携教員研修ワークショップ」の取り組みを中心に,その成果と課題について論ずる。またそれらの取り組みが,学校という公共空間における教育実践の創造への人類学者の「関与」と,教師・教育研究者との「協働」の事例であり,教育の公共人類学にむけた実践であることを指摘した。
Nobuta, Toshihiro
本稿のキーワードである「市民社会」という概念は,東西冷戦終結後,グローバル化の波と共に地球規模に展開している。このようなグローバルに展開する「市民社会」,すなわち「グローバル市民社会」は,近年,人類学が伝統的にフィールドとしてきた周辺地域にまで拡がってきている。21 世紀に入ると,人類学的フィールドにおける「市民社会」的な空間が拡大し,人類学者はしばしばフィールドで「市民社会」的な現象に遭遇するようになってきている。それと同時に,人類学者は,フィールドに現れた「市民社会」の諸アクターが提示する同時代的なテーマに目を奪われるようになっている。本稿では,フィールドでしばしば遭遇する「市民社会」的な現象に対して人類学者がどのようにアプローチしているのかを,マレーシアの先住民運動を対象としたフィールドワークの事例をもとに明らかにする。さらに,わたし自身が経験したマレーシアのローカルNGO との遭遇の事例を手がかりにして,マクロな視点というよりもむしろミクロな視点から「市民社会」のグローバルな展開が人類学的フィールドに与えるインパクトについて考察を試みる。
石田, 一之 Ishida, Kazuyuki
本稿は、ドイツ語圏における新自由主義の基盤を形成した論者のなかで、みずからの主張を歴史-文化社会学の視点から基礎づけようとしたアレクサンダー・リュストウ(Alexander Rüstow)の代表著作『現代の位置づけ』並びにその他の著作の検討を通して、歴史-文化社会学的立場に立脚した視点から人間の自由、並びに彼の主要概念である支配を考察し、それとともに、現代における人間の文化的・社会学的状況に関して実質的自由の視点から重要な示唆を得ようとするものである。
岩本, 通弥 Iwamoto, Michiya
本稿は「民俗の地域差と地域性」に関する方法論的考察であり、文化の受容構造という視角から、新たな解釈モデルの構築を目指すものである。この課題を提示していく上で、これまで同じ「地域性」という言葉の下で行われてきた、幾つかの系統の研究を整理し(文化人類学的地域性論、地理学的地域性論、歴史学的地域性論)、この「地域性」概念の混乱が研究を阻害してきたことを明らかにし、解釈に混乱の余地のない「地域差」から研究をはじめるべきだとした。この地域差とは何か、何故地域差が生ずるのかという命題に関し、それまでの「地域差は時代差を示す」とした柳田民俗学に対する反動として、一九七〇年代以降、その全面否定の下で機能主義的な研究が展開してきたこと(個別分析法や地域民俗学)、しかしそれは全面否定には当たらないことを明らかにし、柳田民俗学の伝播論的成果も含めた、新たな解釈モデルとして、文化の受容構造論を提示した。その際、伝播論を地域性論に組み替えるために、かつての歴史地理学的な民俗学研究や文化領域論の諸理論を再検討するほか、言語地理学や文化地理学などの研究動向や研究方法(資料操作法)も参考にした結果、必然的に自然・社会・文化環境に対する適応という多系進化(特殊進化)論的な傾向をとるに至った。すなわち地域性論としての文化の受容構造論的モデルとは、文化移入を地域社会の受容・適応・変形・収斂・全体的再統合の過程と把握して、その過程と作用の構造を分析するもので、さらに社会文化的統合のレベルという操作概念を用いることによって、近代化・都市化の進行も視野に含めた、一種の文化変化の解釈モデルであるともいえよう。
国立国語研究所は,1988年12月20日(火)に創立40周年をむかえた。それを記念して,同日,「公開シンポジウム『これからの日本語研究』」が国立国語研究所講堂でひらかれた。本稿はそのシンポジウムの記録である。 (ただし,集録にあたっては,本報告集の論文集としての性格を考慮し,あいさつ,司会の発言は省略し,発表内容に関する発言のみを集録した。)ひとくちに「日本語研究」といっても,その研究対象は多様であり,また研究の視点・方法も多様である。そして,近年その多様性はますます拡大する傾向にある。このような状況をふまえ,今回のシンポジウムでは,(1)理論言語学・対照言語学,(2)言語地理学・社会言語学,(3)心理言語学・言語習得,(4)言語情報処理・計算言語学という四つの視点をたて,それぞれの専門家の方に日本語研究の現状と今後の展望を話していただき,それをもとにこれからの日本語研究のあり方について議論するという形をとった。
稲村, 務 Inamura, Tsutomu
本稿はC・ギアツの解釈人類学的理論を沖縄の大学生向けに解説するための教育的エッセイである。ギアツの解釈人類学は今日の文化人類学において様々なパラダイムの基礎と考えられるものであり、是非理解しておくべきものである。本稿ではゼンザイ、桜、ブッソウゲ、雲南百薬、ニコニコライス、墓、巫者といった沖縄・奄美の身近な事例を検討することでその理論を理解させる目的をもっている。
長田, 俊樹
1995年7月、辻惟雄教授(当時)の主催する「奇人・かざり研究会」で「石濱シューレ・露人日本学者・言語学界三大奇人」と題して発表したが、論文にまとめる機会がこれまでなかった。そこで、小論はその発表に、最近の研究成果を盛り込んでまとめたものである。 石濱純太郎(1888~1968)は大変有名な東洋学者であるとともに、大阪東洋学会、静安学社、大阪言語学会などを主催し、こうした研究会を通して、石濱の周りには多くの研究者が集まった。小論では、これを「石濱シューレ」と呼び、そこに集った人々がどんな人で、何を研究してきたのかに焦点をあてる。 小論では、これまでの石濱研究で論じられることがなかった、次のような点を指摘している。1)石濱が大阪東洋学会の創設から4年後には別組織である静安学社へと新たな研究会を立ち上げた理由、2)大阪言語学会の活動内容、3)戦後の浪華芸文会やウラル・アルタイ学会の活動内容など、これら3点を中心に、亡父・長田夏樹の残したハガキや雑誌資料などを丁寧に掘り起こして、その実態に迫っている。偶然の産物なのか、言語学会三大奇人と呼ばれる人々は、いずれも石濱シューレに集った人であったが、石濱の周りに集う奇人たちについても触れている。また、奇人として名高い、ロシア人日本語研究者ポリワーノフにも触れている。 結論として、石濱が成し遂げた功績はこうした学会、研究会を通して、ネットワークを構築したことであり、そのネットワークはロシア人研究者や中国人研究者を巻き込んだ国際的なものであったことである。昭和の初期にこうした国際研究者ネットワークを構築したのは、製薬会社の資金で文献を集め続けて、それら文献を研究者に供給し続けた石濱でしか成し得なかったであろう。
川村, 清志 小池, 淳一
本稿は,民俗学における日記資料に基づく研究成果を概観し,その位置づけを再考することを目的とする。民俗学による日記資料の分析は,いくつかの有効性が指摘されてきた。例えば日記資料は,聞き取りが不可能な過去の民俗文化を再現するための有効な素材である。とりわけ長期間にわたって記録された日記は,民俗事象の継起的な持続と変容を検証するうえでも,重要な資料とみなされる。さらに通常の聞き取りではなかなか明らかにし得ない定量的なデータ分析にも,日記資料は有用であると述べられている。確かにこのような目論見のもとに多くの研究が行われ,一定の成果が見られたことは間違いない。ただし日記を含めた文字資料の利用は,民俗学に恩恵だけをもたらしてきたとは,一概にはいえない。文字資料への過度な依存は,民俗学が担ってきた口承の文化の探求とそこで紡がれる日常的実践への回路を閉ざしかねないだろう。そこで本稿では,これまで民俗学が,日記資料とどのように向かい合ってきたのかを問い直すことにしたい。民俗学者が,日記資料からどのようなテーマを抽出してきたのか,また,それらはどのような手順を踏むものだったのか,そこでの成果は,民俗学に対して,どのような展開をもたらし得るものであったのかを検証していく。これらの検証を通して,本論では日記研究自体が内包していた可能性を拡張することで,民俗学の外延を再構成し,声の資料と文字資料との総合的な分析の可能性を指摘した。
木田, 歩 KIDA, Ayumi
人類学・民族学における学術的資料が、2000 年に上智大学から南山大学人類学博物館に寄贈された。これらは、白鳥芳郎を団長とし、1969 年から1974 年にかけて3 回おこなわれた「上智大学西北タイ歴史・文化調査団」が収集した資料である。本報告では、まず、調査団の概要について、白鳥による研究目標をもとに説明し、次に寄贈された資料を紹介する。最後に、今後の調査課題と研究の展望について提示する。
鈴木, 寿志
令和4年度に国際日本文化研究センターにおいて共同研究「日本文化の地質学的特質」が行われた。地質学者に加えて宗教学・哲学・歴史学・考古学・文学などの研究者が集い,地質に関する文化事象を学際的に議論した。石材としての地質の利用,生きる場としての大地,信仰対象としての岩石・山,文学素材としての地質を検討した結果,日本列島の地質や大地が日本人の精神面と強く結びつき,文化の基層をなしていることが示唆された。変動帯に位置する日本列島では地震動や火山噴火による災害が度々発生して人々を苦しめてきたが,逆に変動帯ゆえの多様な地質が日本文化のあらゆる事象へと浸透していったとみられる。
梶原, 滉太郎 KAJIWARA, Kōtarō
日本において<天文学>を表わす語は奈良時代から室町時代までは「天文」だけであった。しかし,江戸時代になると同じ<天文学>を表わす語として「天学」・「星学」・「天文学」なども使われるようになった。そのようになった理由は,「天文」という語には①<天体に起こる現象>・②<天文学>の二つの意味があってまぎらわしかったので,それを解消しようとしたためであろう。そして,その時期が江戸時代であるのはなぜかといえば,江戸時代はオランダや中国などを通じて西洋の近代的な学問が日体に伝えられた画期的な時期であったからだと考えられる。また,「天学」は明治時代の中期に廃れてしまい,「星学」も大正時代の初期に廃れたのである。現代において「天文」は少し使われるけれども,ほとんど「天文学」だけが使われる。
森, 力 兼本, 清寿 Mori, Chikara Kanemoto, Kiyohisa
新学習指導要領において,「主体的・対話的で深い学びの実現に向けた授業改善」が示された。また,現職の教師との談話の中で,「算数の授業で,主体的に学ぶ子どもはどのようにすれば現れるのか」という問いが出て来た。本研究では,算数科において,「主体的に学ぶ子どもが現れるには,どのような工夫をするといいか」ということを課題とし,授業者のイメージする「主体的に学ぶ子どもの姿」を共有した。授業実践においては「主体的に学ぶ子どもの姿」を見取り,授業リフレクションにおいては,事前にイメージした子どもの姿と比較しながら子どもの姿を共有し,授業構想を見直してきた。その結果,「解法及び答えが明確でない問題を提示する」「数学的な見方を促す操作的活動を取り入れる」といった工夫を行った授業については主体的に学ぶ子どもの姿が数多く見られた。本稿は,「主体的に学ぶ子どもの姿」に基づく算数科の授業づくりのあり方について考察を中心に報告するものである。
Nobayashi, Atsushi
本稿では,台湾原住民族のパイワンが行なってきた狩猟活動の遺跡化を考察した。具体的には,罠猟によって実際に捕獲されたイノシシの下顎骨を動物考古学における基本的な手法によって定量的に分析すると同時に,罠猟の具体についての観察,記録を行ない,人間の行動とそれによって生じる潜在的な考古学資料との関係を明らかにした。考古学資料は様々な手法を用いて分析することはできても,その結果を解釈するためには,かならず解釈の材料となるモデルが必要となる。本研究が提示するデータ及びその解釈は,同様な出土遺物をもつ遺跡の機能や過去の行動を解釈する際に有効な民族考古学的モデルとなる。
岡田, 浩樹 Okada, Hiroki
この論文の目的は,近年盛んになりつつあるかのように見える「老人の民俗学」という問題設定に対する一つの疑問を提示することにある。はたして「老人の民俗(文化)」という対象化が有効なのかを,比較民俗学(人類学)の立場から検討する。その際に韓国の事例を取り上げることにより,老人の民俗学の問題点を明らかにする方法をとる。今日においても韓国社会では,儒教的な規範が人々の行動を強く規定し,敬親の意識や儀礼的な孝の実践が強調されている。いわば老人が明確な社会的カテゴリーとして意味をもち,加齢や老いが価値をもちうる社会である。今日でも盛んに行われる還暦(還甲)儀礼は,いわば個人が老人という社会的カテゴリーに移行する通過儀礼となっており,明確な「老人」というカテゴリーを可視化する装置となっている。にもかかわらず,韓国においても「老人の民俗学」という問題領域は成立していない。同時に韓国においても「老人」が相対的なカテゴリーであることを示した。日本における「老人の民俗学」の展開を検討すると,その問題提起自体にある種の戦略的言説が込められている。つまり民俗学が近代以降における否定的な「老人」のイメージを覆すことで,高齢化を迎えつつある現代日本社会になにがしかの寄与をおこなうことができるという言説である。しかし人口統計学的に見ると,近代以前にはイメージとしての老人は存在しても,「民俗」を共有するような実体的な老人のカテゴリーが成立していないことが明らかである。したがって,近代以前の老人を今日まで連続するような実体的なカテゴリーとし,そこに「民俗」を見いだす「老人の民俗学」に対する疑問を提起した。
Ito, Atsunori
民族学博物館は展示活動以外にも研究成果の社会還元を目的とする催事を開催する。国立民族学博物館での「研究公演」はその一つで,「世界の諸民族の音楽や芸能などの公演をとおして,文化人類学・民族学に関する理解を深め」ることが目的とされる。筆者は通算80 回目の研究公演「ホピの踊りと音楽」(2012 年3 月20 日)の企画と実務と交渉を担当した。本稿ではその経験をもとに,「季節の踊り(ソーシャルダンス)」と称される米国南西部先住民ホピの儀礼の組織化と実施に関する民族誌的知見をちりばめながら,公演にまつわる具体的な実務と交渉の流れをドキュメンテーションするとともに,同時代を生きる招聘者と招聘元の博物館との間で交わされる対話として物語化する。そしてこの物語を素材として,国立民族学博物館において外国人招聘を伴う催事を実施する意義を「フォーラムとしてのミュージアム」という観点から考察する。
桑山, 敬己
本論は,アメリカ人類学の研究および教育動向を,教科書の記述の変化を通して検討する。ケーススタディとして,Serena Nanda著Cultural anthropologyの旧版と新版を取り上げる。新版の新たな特徴として,インターネットの使用,グローバリゼーションおよびジェンダーの議論がある。ポストモダニズムの影響も強く,特に認識論,民族誌の書き方,文化の概念,政治権力,芸術の章に著しい。但し旧版の進化論的アプローチも残されており,従来の「大きな物語」とポストモダニズムが共存するという理論的矛盾が見られる。またアメリカの人類学を全世界の人類学と同一視するのも問題である。こうした欠点は他の教科書にも見られる。今後はより体系的な教科書分析を行ない,異文化としてのアメリカ人類学に迫る試みが望まれる。
島村, 恭則 Shimamura, Takanori
近年,民俗学をとりまく人文・社会科学の世界において,パラダイムの転換が見られるようになっている。それは,たとえば,個人の主体性に重きを置かない構造主義的な人間・社会認識に対する批判と乗り越え,「民族」「文化」「歴史」といった近代西欧に生まれた諸概念の脱構築,他者表象をめぐる政治性や権力構造についての批判的考察の深まりといった動きである。民俗学も,人間を対象に「民族」「文化」を問題としてきた学問であり,こうした動きとは無関係でいられないはずである。しかしながら現実には,このような動向は民俗学において参照されることがほとんどなく,自己完結的な閉じられた言説空間において,個々の研究者が自らの狭いテーマの研究に明け暮れてきたというのが一般的な状況である。本稿では,こうした現状を打破し,新たな民俗学パラダイムの構築へ向けての試論を展開する。具体的には,「標本」としての「民俗」の形式ばかりを問題にし,また論理的,実証的な反省の手続きを伴わずに「民族文化」や「日本文化」といったイデオロギー的言説の生産に向かってきた従来の民俗学に対して,「生身の人間が,自らをとりまく世界に存在するさまざまなものごとを資源として選択,運用しながら自らの生活を構築してゆく方法」としての〈生きる方法〉に注目した新しい民俗学を提唱し,その大要を提示する。民俗学は,「標本」研究を目的とするのでもなければ,「民族文化」や「日本文化」といったイデオロギーの構築に向かうのでもなく,人々の〈生きる方法〉を,現実に生きている人々のあいだにおいて問う学として再生させられるべきであり,この新しい民俗学では,人々の〈生きる方法〉を明らかにすることによって,人間の生のあり方の多様性や,人間の生と環境や社会との関わりについて,従来の人文・社会科学で行なわれてきたものとは異なる解釈を提供することが可能になるものと予測されるものである。
島袋, 俊一 Shimabukuro, Shun-ichi
この報文は沖縄に関係ある日本植物病理学者13氏即ち平塚直治、宮城鉄夫、平塚直秀、岡本弘、内藤喬、平良芳久、向秀夫、藤岡保夫、宇都敏夫、平塚利子、小室康雄、村山大記、日野厳の各氏につき御来島時期と滞島期間、沖縄に関係のある植物病理学上の文献などについてのべた。
稲村, 務 Inamura, Tsutomu
世界中でみられる自文化研究への対応として、比較民俗学を提唱する。本稿においては、比較民俗学が民衆側から見た比較近代(化)論であるとして、これまでの系統論や文化圏論とは異なる「翻訳モデル」への転換が必要とされているのである。
山崎, 剛 YAMAZAKI, Go
南山大学人類学博物館は、2000 年に上智大学より西北タイに関するコレクションの寄贈を受けた。このコレクションには、西北タイの生活に関わる資料だけでなく、多くの写真資料が含まれている。この報告では、特に人類学的資料として、これら写真資料についての解説をおこなう。
福田, アジオ Fukuta, Azio
日本の民俗学は柳田國男のほとんど独力によってその全体像が作られたと言っても過言ではない。従って、民俗学のどの分野をとってみても、柳田國男の研究成果が大きく聳え立っており、現在なお多くの研究分野は柳田國男の学説に依存している。民俗学の研究成果として高く評価されることの多い子供研究も実は大部分が柳田國男の見解を言うのであり、柳田以降の民俗学を指してはいない。そのような高く評価され、実証済みの事実かのように扱われる柳田國男の見解を整理し、問題点を指摘し、それに続いて柳田以降の民俗学の研究成果も検討した。柳田國男の子供理解は大きく二つの分野に分けられる。一つは子供の関係する行事や彼等の遊びのなかに遠い昔の大人たちの信仰の世界を発見するものである。子供を通して大人の歴史を明らかにする認識である。これは手段として子供を位置づけていることになる。この子供を窓口にして大人の過去を見る場合は、「神に代りて来る」という表現に示されるように、例外なく信仰、さらには霊魂観と結びつけて解釈している。もう一つの柳田の子供研究の世界は「群の教育」という表現に示される。群の教育は近代公教育を批判するものとして注目され、教育学系統の人々から高く評価される視点であり、柳田以降にもほとんど疑われることなく継承されてきた。しかし、この視点は子供を教育の対象と見るもので、大人にとって望ましい一人前に育てる教育に過ぎない。民俗学はこれら柳田國男の呪縛から解放されなければ新たな研究の進展は見られないことは明白である。子供を大人から解放して、子供それ自体の存在を分析し、子供を理解することによって新たな民俗学の研究課題は発見されるであろう。
飯田, 経夫
ケインズ経済学と大衆民主主義とが「野合」するとき、深刻な事態が生じる。大衆民主主義下で、得票極大化行動を取らざるを得ない政治家は、選挙民に「迎合」するために、たえず政府支出を増やすことを好み、その財源たる税収を増やすことを好まない。したがって、財政規模の肥大化と、財政赤字を生み出す大きな原因である。これらは大衆民主主義の本質的な欠陥であり、その是正策は、基本的には存在しない。このきわめて常識的な点を、経済学者(や政治学者)は、これまで十分に議論してきたとはいえない。
森岡, 正博
二十世紀の学問は、専門分化された縦割りの学問であった。二十一世紀には、専門分野横断的な新しいスタイルの学問が誕生しなければならない。そのような横断的学問のひとつとして、「文化位相学」を提案する。文化位相学は、「文化位相」という手法を用いることで、文化を扱うすべての学問を横断する形で形成される。 本論文では、まず、学際的方法の限界を克服するための条件を考察し、ついで「文化位相」の手法を解説する。最後に「文化位相」の手法を用いた「文化位相学」のアウトラインを述べる。
道田, 泰司 Michita, Yasushi
本稿の目的は,大学教員として中学生に心理学の授業を計画し,実施したプロセスを報告することである。授業は90分,18名の中学3年生を対象に行われた。テーマは盲点の錯覚を中心とした知覚心理学としたが,テーマをどのように設定し,授業をどのように構想し,実施したのか。生徒の反応はどうであったか。このような点について報告することで,今後の中等教育における心理学教育について考える基礎資料とするのが本稿の狙いである。実践を実施した結果,盲点を中心に実験体験を通し,自分たちでも考えながら心理学に触れることの有効性が確認された。今後の課題としては,講義時間の長さや考える時間の確保,意見表出の方法などの方法論的な部分が挙げられた。
池上, 大祐
本稿は、教員養成を意識した大学における歴史教育の在り方を考察することを目的とする。具体的には、琉球大学歴史学講義科目「歴史総合」を事例に、非教育学部系における歴史学専門カリキュラム構成、科目特性、講義内容、講義方法、講義に対する学生の反応を分析する。2022年度から新高等学校学習指導要領にもとづき、知識・技能、思考力・判断力、主体的に学びに向かう姿勢といった、いわゆる「学力の三要素」を涵養する「歴史総合」「世界史探究」「日本史探究」が順次新設されることを受けて、これらの新科目を担当できる教員の資質とは何かを、教員養成課程を設置している歴史学専門教育はどのような講義構成の工夫が必要になるのか、改めて考察する必要があることを指摘する。
裵, 炯逸
植民地状況からの解放後の大韓民国において、その「朝鮮(Korea)」という国民的アイデンティティが形成される過程のなかで、学問分野としての考古学と古代史学は、重要な役割を果たしてきた。しかしながら、その学問的遺産は、二〇世紀初頭に朝鮮半島を侵略し、植民地として支配した大日本帝国の植民地行政者と学者によって形成されたものでもあった。本稿は、朝鮮半島での「植民地主義的人種差別」から、その後の民族主義的な反日抵抗運動へと、刻々と移り変わった政治によって、朝鮮の考古学・歴史理論の発展が、いかなる影響を被ったのかについて論じるものである。
西本, 豊弘 Nishimoto, Toyohiro
日本では,動物考古学の方法について,やさしく説明したものはない。そこで,ここでは,これから骨の分類を試みようとする学生や研究者を対象として,動物遺体の分類方法とその注意事項をまとめておくこととした。まず,動物遺体の同定の基本となる現生標本の作り方を紹介した。次に,部位・種名・雌雄・年齢の同定方法および,骨の大きさ・骨の病変・骨の損傷・加工の有無など観察すべき項目をあげた。そして,報告の記載をする時に必要な,骨の左右や存在する部分の記録など,データの表示方法にも触れた。最後に同定の方法や採集方法が,動物遺体の解釈に大きく影響することを指摘した。動物考古学の基礎は,骨の同定である。動物の骨を同定する時に必要な「道具」は,現生標本である。それと同時に,その動物が生まれてから老成するまでの骨の形についての「イメージ」を持つことが重要である。そのイメージがきちんと形成されていないと同定ミスが起こることになる。同定ミスは,自分が気がつかずに起こることが多い。同定ミスを防ぐには,自分が確信を持てないものは同定しないという謙虚さが必要である。その点から言えば,動物考古学にとって,もっとも要求されることは,すべての学問と同様に,事実に対する謙虚さである。そして,動物考古学の遂行には,動物考古学者の中だけではなく,他の考古学者との協力が不可欠である。共同研究の上に成り立っているのが動物考古学であると言える。
藤田, 義孝
サン= テグジュペリが地球と人間のあり方を新しい視点で捉える上で飛行機が大きな役割を果たしたことはよく知られているが,当時の地質学もまた作家の自然観・人間観の形成に寄与したのである。『夜間飛行』(1931 年)にはウェゲナーの提唱した大陸移動説の知識が見て取れるし,『人間の大地』(1939 年)には地質学的考察が主となるエピソードが存在している。本研究では,これらの作品の記述を分析した後,『星の王子さま』(1943 年)を視野に入れてサン= テグジュペリの自然観と人間観を概観し,地質学の知見が彼の思想と文学に何をもたらしたかを検討する。 検討の結果,サン= テグジュペリが伝統的な自然観を更新し,人新世を寓意的に予告することができたのは,地質学の知見によるところが少なくないと分かった。というのも,地質学は,大地の観察を通じて見えない深層に迫る学問であり,その点で「見えるものを通して見えない本質を見る」という作家の主要テーマと軌を一にするからである。
中村, 完 Nakamura, Tamotsu
精神的安静や行動の変容を目指す仏教の修道論に関して、四諦説、八正道、三学、坐禅について心理学的立場から文献的に紹介する。その際、坐禅の構成要素である調身、調息、調心に関して、それぞれの意味を説明し、また、これまで行われた心理生理学的研究の成果の概要も紹介する。ヨーガ修行法についても、同様にその概要を紹介する。他方、身体的操作を通して身心の安静をもたらすという点で、東洋的行法と類似している漸進的弛緩法についても概観する。このような修行法や訓練法を体験する人々に共通する心理生理的機能状態についての関心事は、覚醒レベルの問題である。本稿では覚醒の心理生理学的機構についても言及する。また、スポーツや武道等の身体運動の効果についても述べる。
西谷, 大 Nishitani, Masaru
調査地である中国雲南省紅河哈尼族彝族自治州に属する金平苗族瑤族傣族自治県者米拉祜族郷,老集寨郷では,8つの民族と1つの集団が混在して居住している。人々は海抜およそ500mの河谷平野からおよそ1,500mの山地の斜面にかけて異なった高度に居住し,地形と気候の複雑さは多様な生態的な環境を生み出し,そのことが各民族・村単位での生業戦略の差異につながってきた。生業戦略の差異は水田稲作の多様性を生起させているのだが,その要因は生態的な環境と土地利用や山の斜面に広がる畑作地(斜面畑),それに野生植物利用の方法や,さらには者米谷で6日ごとに開催される定期市とも深く関係している。者米谷の生態的な環境は複雑であるが,者米谷の各民族・村はこの多様な生態的な環境を,それぞれが網羅的,均質的に利用しているのではなく,ある特定の生態的な環境を部分的に選択して利用している。そのため各民族・村の生業戦略に独自性と差異性が存在する。そして多様な生業戦略が集合し相互に補完しあうことで,生業複合体を形成している。さらに者米谷の生業複合体は,市を介し生業戦略の差異化が促進されることで,より強固に進展してきた。このことが彼らを「水田稲作農耕民」という1つの概念だけでは把握しきれない,多様な水田稲作のあり方を創出している要因になっていると考えられる。
Takezawa, Shoichiro
19 世紀なかばのフランスでは,ブロカに率いられた人類学派が発展し,学界を超えて強い社会的影響をもった。それは,人間の頭蓋や身体各部位を計測し,一連の数字にまで還元することで,人びとを絶対的な人種の境界のあいだに分割することをめざした人種主義的性格の強い人類学であった。この人類学が当時のフランスで広く成功した理由は,産業革命が進行し,教会の権威が失墜した19 世紀なかばのフランスで,新しい自己認識と世界理解を求める個が大量に出現したことに求められる。こうした要求に対し,ブロカ派人類学は数字にまで還元/単純化された世界観と,白人を頂点におくナルシスティックな自己像/国民像の提出によって応えたのであった。 1871 年にはじまるフランス第三共和制において,この人類学は,共和派代議士,新興ブルジョワジー,海軍軍人などと結びつくことで,共和主義的帝国主義と呼ぶことのできる新しい制度をつくり出した。この帝国主義は,法と同意によって維持される国民国家の原則に立つ本国と,法と同意の適用を除外された植民地とのあいだの不平等を前提とするものであったが,ブロカ派人類学は植民地の有色人種を劣等人種とみなす理論的枠組みを提供することで,この制度の不可欠の要素となっていた。 1890 年以降,新しい社会学を築きつつあったデュルケームは,ユダヤ人排斥の人種主義を批判し,人種主義と関連しがちな進化論的方法の社会研究への導入を批判した。かれが構築した社会の概念は,社会に独自の実在性と法則性を与えるものであり,当時の支配的潮流としての人種主義とは無縁なところに社会研究・文化研究の領域をつくりだした。しかし,ナショナリスティックに構築されたがゆえに社会の統合を重視するその社会学は,社会と人びとを境界づけ,序列化するものとしての人種主義を乗りこえる言説をつくりだすことはできなかった。 人種,国民国家,民族,文化,共同体,性などの諸境界が,人びとの意識のなかに生み出している諸形象の力学を明らかにし,その布置を描きなおしていく可能性を,文化/社会人類学のなかに認めていきたい。
伊藤, 幹治
本稿は,1957 年から1972 年にかけて,南西諸島でおこなったフィールド・ワークの回想記である。その当時の日本における民俗学と民族学の関係,日本本土と沖縄の比較研究の視点と方法,宗教と社会の構造的関連,エスニック・アイデンティティについて述べる。
永野 マドセン, 泰子 イェーテボリ大学文学部 Nagano Madsen, Yasuko
2010年3月に琉球大学の法文学部とイェーテボリ大学文学部の学部協定が結ばれ,学生3名の交換他の交流が行われる事になった。2006年に初めてにコンタクトを取った折に対応してくださった金城尚美先生,その後学部協定の世話人になってくださった小那覇洋子先生および狩俣繁久先生に感謝の意を表したい。本稿ではイェーテボリ大学の日本語学科を紹介すると共に,近年の学生交流の傾向や今後の課題についても触れてみたい。
菅, 豊 Suga, Yutaka
柳田国男は,民俗学における生業・労働研究を狭隘にし,その魅力を減少させた。それは,民俗学の成立事情と大きく関わっている。その後,民俗学を継承した研究者にも同様の研究のあり方が,少なからず継承される。しかし,1980年代末から90年代にかけて,新しい視点と方法をもって,旧来の狭い生業・労働研究の超克が模索された。この模索は,「生態民俗学」,「民俗自然誌」,「環境民俗学」という三つの大きな潮流に区分できる。「生態民俗学」は,野本寛一により提唱された。それは,便宜的な項目やテーマが実態視されるようになって,研究分野として拡散してしまった従来の民俗誌(民俗報告書)の枠組みを壊すものとして評価される。それは,自然を軸として,民俗事象相互の関係や,その連続性のダイナミズムに関心を払いながら再統合することにより,本来の民俗誌をあるべき姿へと回復させる。「民俗自然誌」は,篠原徹により提唱された。それは,従来の民俗学が前提として認めてきた伝承母体(集団)から,個人へ視点を転換させるものとして評価される。それは,従来の民俗学が頻繁に採用してきた,文化の深層や基層,あるいはエトノスへと安易に繋げる歴史還元主義に利用されてきた伝承を,現在理解の素材としての伝承へと実質的に回帰させる。「環境民俗学」は,鳥越皓之により提唱された。それは,民俗学自体に拘泥されない脱領域的な研究手法から,生活者の立場に立って実践を行う点において評価される。それは,民俗学が初発に保持していたはずの経世済民の思想に,民俗学を回帰させる役割を果たす。これら三つの研究の潮流は,生業や労働の理論や方法に関して,1990年以前のものよりも,圧倒的に質的な妥当性を保持している。
上地, 完治 村上, 呂里 吉田, 安規良 津田, 正之 浅井, 玲子 道田, 泰司 Uechi, Kanji Murakami, Rori Yoshida, Akira Tsuda, Masayuki Asai, Reiko Michita, Yasushi
本研究は、本学部教員養成課程の3年生を対象に実施した聞き取り調査をもとに、彼らが教育実習前に学部授業で学んだことで教育実習中に役立ったと感じたことや、実習前に学んでおきたかったことについて分析することによって、学部教員養成教育と教育実習との接続に関する問題点を明らかにし、学部教員養成教育のあり方を再構築するための手がかりを得ようとする試みの一環である。
上地, 完治 村上, 呂里 吉田, 安規良 津田, 正之 浅井, 玲子 道田, 泰司 Uechi, Kanji Murakami, Rori Yoshida, Akira Tsuda, Masayuki Asai, Reiko Michita, Yasushi
本研究は、本学部教員養成課程の3年生を対象に実施した聞き取り調査をもとに、彼らが教育実習前に学部授業で学んだことで教育実習中に役立ったと感じたことや、実習前に学んでおきたかったことについて分析することによって、学部教員養成教育と教育実習との接続に関する問題点を明らかにし、学部教員養成教育のあり方を再構築するための手がかりを得ようとする試みの一環である。
鈴木, 淳 SUZUKI, Jun
小宮山木工進昌世は、将軍吉宗に抜擢された逸材として、享保年間、代官に任じて令名を馳せたが、享保末年には、年貢の金穀延滞を責められて、罷免されるに至った。学芸家としては、和歌、有職学を京都中院家について修め、漢籍は太宰春台の門に学んでおり、雑史、随筆類から尺牘学にわたる、和漢の著述若干をなし、学芸史上特異な足跡を印した。本稿は、昌世の出生から、代官職を追われるまでの、前半生の年譜考証である。
島村, 恭則 Shimamura, Takanori
これまでの民俗学において,〈在日朝鮮人〉についての調査研究が行なわれたことは皆無であった。この要因は,民俗学(日本民俗学)が,その研究対象を,少なくとも日本列島上をフィールドとする場合には〈日本国民〉〈日本人〉であるとして,その自明性を疑わなかったところにある。そして,その背景には,日本民俗学が,国民国家イデオロギーと密接な関係を持っていたという経緯が存在していると考えられる。しかし,近代国民国家形成と関わる日本民俗学のイデオロギー性が明らかにされ,また批判されている今日,民俗学がその対象を〈日本国民〉〈日本人〉に限定し,それ以外の,〈在日朝鮮人〉をはじめとするさまざまな人々を研究対象から除外する論理的な根拠は存在しない。本稿では,このことを前提とした上で,民俗学の立場から,〈在日朝鮮人〉の生活文化について,これまで他の学問分野においても扱われることの少なかった事象を中心に,民俗誌的記述を試みた。ここで検討した生活文化は,いずれも現代日本社会におけるピジン・クレオール文化として展開されてきたものであり,また〈在日朝鮮人〉が日本社会で生活してゆくための工夫が随所に凝らされたものとなっていた。この場合,その工夫とは,マイノリティにおける「生きていく方法」「生存の技法」といいうるものである。さらにまた,ここで記述した生活文化は,マジョリティとしての国民文化との関係性を有しながらも,それに完全に同化しているわけではなく,相対的な自律性をもって展開され,かつ日本列島上に確実に根をおろしたものとなっていた。本稿は,多文化主義による民俗学研究の必要性を,こうした具体的生活文化の記述を通して主張しようとしたものである。
遠藤, 徹 Endo, Toru
現代日本の音楽学は欧米の音楽学の輸入の系譜をひく研究が支配的であるため、今日注目する者は必ずしも多くはないが、西洋音楽が導入される以前の近世日本でも旺盛な楽律研究の営みがあった。儒学が官学化し浸透した近世には、儒学者を中心にして、儒教的な意味における「楽」の「律」を探求する学が盛んになり独自の展開を見せるようになっていたのである。それは今日一般に謂う音楽理論の研究と重なる部分もあるが、異なる問題意識の上に展開していたため大分色合いを異にしている。本稿は、近世日本で開花していた楽律研究の営みを掘り起こす手始めとして、京都の儒学者、中村惕斎(1629~1702)の楽律研究に注目し、惕斎が切り拓いた楽律学の要点と意義を試論として提示したものである。筆者の考える惕斎の楽律学の意義は次の六点に要約される。①『律呂新書』に基づき楽律の基準音、度量衡の本源としての「黄鐘」の概念を示した、②『律呂新書』を基本にすることで近世日本の楽律学を貫く、数理的な音律理解の基礎をつくった、③『律呂新書』の説く「候気」の説は受け入れず、楽律の基は人声とする考え方を提示した、④古の楽律を探求するにあたって、実証、実験を重んじた、⑤古の楽律の探求にあたって、日本の優位性を説いた、⑥古の楽の復興を希求した。
後藤, 雅彦 Goto, Masahiko
本稿では農業に関する考古学研究(農業考古)の中で収穫具について、中国漢代の画像石(磚)(「漁猟収穫画像磚」) と琉球列島の『八重山蔵元絵師画稿集』の「八重山農耕図」という図像資料に描かれている稲の収穫についてとりあげ、図像資料の有効性を検討した。そして、図像資料は対象(作物) ・方法・道具(収穫具)の同時代での相関関係を示すものであり、さらに図像資料を媒介して考古学資料、文献史料、そして民族・民俗学事例の研究上の接点が浮かびあがってくると考えた。
馮, 天瑜
古漢語「経済」の元々の意味は、「経世済民」、「経邦済国」であり、「政治」に近い。日本は古代より「経世済民」の意義で「経済」を使ってきた。近世になって、日本では実学が勃興し、その経済論は国家の経済と人民の生活に重点が置かれた。近代になると、さらに「経済」という言葉をもって英語の術語Economyを対訳する。「経済」の意味は国民生産、消費、交換、分配の総和に転じ、倹約の意味も兼ねる。しかし、近代の中国人学者は、「経済」という日本初の訳語に対してあまり賛同しないようで、Economyの訳語として「富国策、富国学、計学、生計学、平準学、理財学」などの漢語を対応させていた。清末民国初期、日本の経済学論著(とりわけ教科書)が広く中国に伝わったことや、孫文の提唱により、「経済」という術語が中国で通用するようになった。しかし、「経済」の新義は「経世済民」の古典義とかけ離れているばかりでなく、語形から推計することもできないから、漢語熟語の構成根拠を失った。にもかかわらず、「経済」が示した概念の変遷は、汎政治的汎道徳的な観念が中国においても日本においても縮小したことを表している。
井上, 淳 Inoue, Jun
文化一一年(一八一四)に宇和島藩領の宇和郡八代村(愛媛県八幡浜市)八尺神社の神職の家に生まれた堅庭は、地元の八幡浜本町の医師二宮春祥に医学を学んだ後、嘉永元年(一八四八)には長崎におもむき蘭方医楢林宗建のもとで蘭医学を本格的に学んだ。その後、嘉永三年(一八五〇)から亡くなる明治一〇年(一八七七)にかけて八幡浜と八代村で地域医療に従事した。堅庭が医療を行った幕末期、八幡浜地域では患者が望めば複数の医師の治療を受けることができる条件が整いつつあった。そうしたなか堅庭は、「薬品之儀ハ医術之根元」という精神のもと、よりよい薬を求めて医療にあたり、嘉永五年(一八五二)に宇和島藩で種痘が始まった際には、他の在村医とともに藩領全体への種痘の普及を地域で支える役割を果たした。本居派の国学・和歌も学んだ堅庭は、嘉永六年(一八五三)から明治六年(一八七三)にかけて私塾を開き近隣の約三百名の子弟を教えるなど、自らが身に付けた知識を地域に広める活動も行った。その最も特筆される活動に、八尺神社内に私設図書館の王子文庫を創設したことがあげられる。安政六年(一八五九)に二間四方瓦葺きの建物が完成し、漢学・国学・蘭医学など幅広い分野の書物が千冊以上も集められた。王子文庫は堅庭の蔵書を主体としつつも、近隣の庄屋や地方文人のネットワークで多くの書物が奉納されており、それらの書物は広く地域に公開された。これまで在村蘭方医の研究は医療を中心に進められてきたが、堅庭の事例からは、在村蘭方医が医療にとどまらず、自らが学んだ知識を地域に還元していく社会的な存在であったことが見えてきた。また、神職で国学を学んだ堅庭が医師となり、蘭医学を学んでいることは、堅庭のなかで国学と蘭学とが両立していたことを示している。その両立には、国学を中心に据えつつも、漢学と洋学の三学綜合の大学を設立しようとする明治二年(一八六九)の大学構想に示された精神に近似するものがある。
石黒, 圭
日本語教育の目的が学習者による日本語運用力の獲得にあり、日本語教育学の目的がその獲得を支援する日本語習得支援研究であると考えると、日本語教育学では、学習者が日本語という言語をどのように身につけていくのか、その習得過程を記述・分析する基礎資料、すなわち学習者コーパスの構築が必要になる。ところが、新型コロナウィルス感染症の世界的流行により、JFL 環境で学ぶ海外の学習者のもとを訪れての現地調査も、JSL 環境で学ぶ国内の留学生との対面調査も困難になってしまった。そこで、本稿では、現地調査や対面調査を行うかわりに、オンライン環境を活用して収集する作文コーパス、会話コーパス、ゼミ談話コーパスの収集法を紹介した。たとえコロナが終息したとしても、パンデミックの状況下で急速に発展したオンライン・コミュニケーションが今後衰退化することは考えにくく、むしろポストコロナ時代にあっては、オンライン・コミュニケーションにおける学習者の日本語運用のデータ蓄積が重要になる。その意味でも、本稿で示したようなオンライン環境を活用した調査法の試行錯誤と研究者間での情報共有が、日本語教育学の発展のカギとなると見込まれる。
益岡, 隆志 MASUOKA, Takashi
複文構文プロジェクトの目的は,日本語複文構文研究のさらなる発展の可能性を提示することである。考察対象に連用複文構文と連体複文構文の両方を掲げるとともに,歴史言語学,コーパス言語学,対照言語学などからの広範なアプローチを試みる。本報告では,複文構文プロジェクトの研究成果のなかから,2つの話題を紹介する。1つは連用節と連体節における接続形式の現れ方に関する言語類型の問題であり,もう1つはテ形節の定形性/非定形性の問題をめぐる話題である。
吉田, 安規良 柄木, 良友 富永, 篤 YOSHIDA, Akira KARAKI, Yoshitomo TOMINAGA, Atsushi
平成22年度に引き続き、平成23年度も琉球大学教育学部附属中学校は「体験!琉球大学 -大学の先生方による講義を受けてみよう-」と題した特別講義を、総合的な学習の時間の一環として全学年の生徒を対象に実施した。「中学校で学んでいることが、将来どのように発展し社会や生活と関わるのか、また大学における研究の深さ、面白さを体験させる」という附属中学校側の意図を踏まえて、筆者らはそれぞれの専門性に裏打ちされた特別講義を3つ提供した。そのうちの2つは自然科学(物理学・生物学)の専門的な内容に関する講義であり、残りの1つは教師教育(理科教育学)に関するものである。今回の3つの実践は、「科学や学問の世界への興味、関心を高める」と「総合キャリア教育」という観点で成果が見られ、特に事後アンケートの結果から参加した生徒達の興味を喚起できたと評価できる。しかし、内容が理解できたかどうかという点では、全員が肯定的な評価をしたものから、評価が二分されたものまで様々であった。
照屋, ひとみ Teruya, Hitomi
2009年2月6日(金)に開催された「沖縄地域学リポジトリ試験公開記念講演会」におけるデモンストレーション用のスライド。
神里, 美智子 岸本, 恵一
本研究は,「個別最適な学び」と「協働的な学び」の一体的な充実へ向けてより効果的な指導に寄与するため,多様な学び方を経験し自分に必要な学び方を選択する学習に取り組んだ85 名の生徒を対象に,学習への興味等と,学び方に関する質問紙調査を実施した。その結果,①友達と一緒に考えながら取り組む楽しさについて9割を超える生徒が肯定的に捉えていること,また,答えは自分で考えて探していくものだと思うことについて8割以上の生徒が肯定的に捉えていることが示唆された。多様な学び方を経験し自分に必要な学び方を選択する学習の中に,他者と協働しながら学びを進めることの楽しさやよさを実感する要素や,学びを自分自身の力で獲得するといった学習観をもつことができる要素が含まれていることが示唆された。②学び方について,9割以上の生徒が友だちと勉強を教えあうことを,また,7割以上の生徒が自分に合った勉強のやり方を工夫したり,考えても分からないことは先生に聞いたりすることを選択しながら学習を進めていることが示唆された。③授業の内容が理解できていると感じている生徒は,考えても分からないことは先生に聞いたり,問題を解いた後ほかの解き方がないかを考えたり,授業で習ったことを自分でもっと詳しく調べたりしながら学習を進めている可能性が示唆された。
主税, 英德 後藤, 雅彦
本報告は、地域に貢献する人材の育成を目的とした考古学関係授業の取り組みを紹介するものである。また、コロナ禍において、仲間とともに遺跡を実地調査(巡検の意味を含む、以下、「実地調査」と表現する)を行うことで、考古学専攻生が何を学び考えたかについても報告する。本取り組みでは、読谷村・恩納村をフィールドとして、学生主体で、遺跡の概要や見学スケジュールなどを調べ、実際に現地に赴き、かつ、遺跡保護に携わる文化財専門員の方と情報交換などを実施した。その結果、参加した学生たちは、遺跡と地域の関係や博物館をはじめとする文化財の普及啓発のあり方、現地でしかわからない遺跡の情報など、実地調査を行うことで得る学びを習得することができた。新型コロナウィルスの影響により対面でのコミュニケーションが難しい現在、考古学教育において、遺物・遺構の実測や発掘調査などの技術的方法だけではなく、「遺跡を現地で知る」機会を与えることも、今後の文化財保護を担う人材を育成するにあたっては必要であることを再認識することができた。
Iida, Taku
本稿では,人類学の分野で別個に扱われることの多かったアフォーダンス理論(生態心理学,道具技法論)と関連性理論(記号論,コミュニケーション理論)を統合するための基礎的作業として,ふたつの理論の共通性を考察する。まず,両理論は互いに排除しあうものではない。アフォーダンス理論は記号現象を対象としにくいという制約があるが,関連性理論をはじめとするコミュニケーション理論は物理的環境のなかでの行為も記号現象も等しく対象としうる。そのいっぽう,いずれの理論も,主体をとりまく環境に散在するさまざまな情報を探索しながら選びだし,それをもとにして状況を認知する点で共通する。これは,脳内に精密な表象を構成することで状況を認知するという考えかたとは大きく隔たる。ふたつの理論は,その適用対象を違えながらも同じ立場に立っており,統合することも不可能ではないのである。このことを意識していれば,心理学者ならぬ門外漢の民族誌家でも,他者の「心理」にもとづきつつ,フィールドで直面することがらを記述できる可能性がある。本稿は,そうした「限界心理学」を始めるための準備作業である。
呉, 佩遥
近年の宗教概念研究によってもたらされた「宗教」の脱自明化から、近代日本における宗教学の成立と展開を考察することは、宗教学なる領域に対する理解を反省的に把握するために重要である。しかし、アカデミックな場に成立した「宗教学」において、「宗教」に隣接した概念であり、「宗教」の中核的な要素とされる「信仰」と、「宗教」の身体的実践の一つである「儀礼」がいかに語られたかについては、まだあまり考察されていない。 本稿では、東京帝国大学に設立された宗教学講座の初代教授であり、近代日本における儀礼研究の先駆者としても知られる姉崎正治(1873-1949)を中心として、彼の『宗教学概論』(1900年)における「信仰」と「儀礼」の語り方を考察した。そして世紀転換期における姉崎の宗教学を同時代の社会的・思想的なコンテキストの中に位置付け、姉崎が同時代の「修養」に関する議論を意識しつつ、新たな学問領域である宗教学の立場から自らの修養法を提示したということを指摘した。かかる時代状況で、「信仰」と「儀礼」の結び付きは「修養」との関わりの中で主張されたのである。 具体的にはまず、姉崎があらゆる宗教に共通している固有のものを探る宗教学の立場を強調した1900年代前後は、人格の向上を目的とする自己研鑽を求める「修養」という概念がブーム化していた時代であるということを指摘した。この時期の修養論には、「自発的実践の重視」とその半面としての「特殊的・形式的な教義や儀礼の軽視」という傾向がある(栗田 2015)。こうした時代状況に身を置いた姉崎は、「信仰」と「儀礼」を再解釈することにより、「修養」を「主我主義」・「他律主義」・「自律主義」と段階的に説き、「信仰」と「儀礼」の結び付きによる「自律主義」を理想とした。このように、1900年代前後における「修養」というあいまいなカテゴリーは、宗教学の鍵概念である「信仰」や「儀礼」が再解釈される方向に導いていったといえる。かかる姉崎の学問的営為は、近代日本における「宗教」の展開を考える上で重要な意義を持っている。
茂呂, 雄二 小高, 京子 MORO, Yuji ODAKA, Kyoko
本論は2部からなる。第1部では日本語談話研究の現状を展望して,それぞれの研究が指向する方法論の違いを取り出してみた。第2部には日本語談話に関係する研究の文献目録を収めた。日本語談話研究は学際的に展開されており,言語学では言語行動研究および談話分析,社会学からはエスノメソドロジーに基づく会話分析とライフストーリー研究が,心理学・認知科学研究からはプロトコル分析およびインターフェース研究などが,広い意味での日本語談話分析研究を行っている。この研究の広がりからわれわれが取り出した研究指向の違いは以下の通りである。
呂, 政慧
本論文は、清朝末期の中国湖北省師範留学生が編纂した音楽教科書『音楽学』(一九〇五年)を取り上げ、近代における曲の越境をめぐる受容と変容の問題を論ずるものである。まず先行研究を参照しつつ、中国・日本・西洋それぞれにおける「唱歌」の概念とその変遷及び中日における唱歌教育の歴史を振り返ったうえ、『音楽学』の編纂者や出版情報の分析に基づき、本書が中日音楽交流史における重要な位置を占めることを明確にした。次に、『音楽学』所収の四十二曲の唱歌が参照した元歌を可能な限り検証し、『音楽学』の唱歌と日本、更に西洋の曲との受容関係を表で示した。最後に、日本の曲に新たに中国語の歌詞が付された唱歌を歌詞の変化の度合いにより「翻訳唱歌」と「翻案唱歌」に分類し、それぞれ元歌との比較分析を行った結果、日本人の民族精神を高揚させる日本の唱歌から中国の民族精神を高揚させる中国の唱歌に変貌をとげたことも指摘できた。
北川, 浩之
日本文化は日本の自然や社会と親密に結びついている。日本文化をより深く理解するには、その歴史的な変遷を明らかにする必要がある。そのためには正確な時間目盛が必要不可欠である。さらにそれは、国際的な比較から日本文化の研究を進める場合、世界的に認知された共通の時間目盛である必要がある。そのような時間目盛の一つに「炭素14年代」がある。炭素14年代は考古学、歴史学、人類学、第四紀学、地質学などの日本文化に深く関係する研究分野に有益な情報を与えてきた。これらの研究分野に炭素14年代を適用する際、年代測定に用いることができる試料の量が限られ、試料の量の不足から年代測定できないことが往々にある。したがって、少量試料の炭素14年代測定法の確立が望まれている。 最近、少量試料の炭素14年代測定に適した加速器質量分析計を用いた新しい炭素14年代測定法が考案され、従来の方法の1/1000以下の試料においても精度良い年代決定が可能となった。本稿では、この方法を用いて行なった実験の結果をもとに、少量試料の炭素14年代測定に関係する諸問題について検討する。
西本, 豊弘 Nishimoto, Toyohiro
弥生時代のブタの形質について,家畜化現象を見るポイントを説明した後,第1頚椎と上顎第3後臼歯の計測値を中心に検討した。まず,第1頚椎の形態では,朝日遺跡の資料によって,イノシシとブタを区別できることを示した。第1頚椎の上部は,イノシシでは高くなるのに対してブタでは低くなる。縄文時代や現代のイノシシの計測値を参考にすると,高さが長さの58%よりも高いものはイノシシで,それよりも低いものはブタと推定された。これは,ブタが餌を与えられるために,イノシシよりも首の筋肉を使う程度が低く,そのため首の筋肉の発達が弱くなり,それにしたがって骨の発達も悪くなるのではないかと思われる。この基準に従えば,朝日遺跡ではイノシシ類の15%がイノシシで85%がブタということになった。次に上顎第3後臼歯では,縄文時代のイノシシに比べて弥生時代のイノシシ類では小さくなっていることが明らかとなった。この縮小の程度は,縄文時代以降のイノシシの縮小の程度と比べてみても大きい。気候変化や人口増加・狩猟圧などを含む島嶼化現象だけではなく,家畜化の影響が歯を小さくした大きな要因ではないかと推測された。その他の部位では,これまでにも述べているように,ブタでは頭蓋骨が高くなることを,下郡桑苗遺跡出土の資料で説明した。また,下顎骨では連合部と下顎骨底部の延長線の成す角度が,ブタではイノシシに比べて大きくなることを説明した。
伊庭, 功 Iba, Isao
滋賀県大津市域の琵琶湖底に所在する粟津湖底遺跡は,縄文時代早期初頭から中期前葉を中心とする時期に営まれ,琵琶湖においては数少ない大規模な貝塚を伴う遺跡である。1990~1991年に航路浚渫工事に伴って実施された湖底の発掘調査では,中期前葉の第3貝塚が新たに発見された。ここには貝殻や魚類・哺乳類の骨片とともに,イチイガシ・トチノキ・ヒシの殻が良好な状態で保存されていて,当時の動物質食料・植物質食料の両方を同時に明らかにした。これらをもとに,種類ごとの出土量を栄養価に換算して食料として比較を試みたところ,堅果類,特にトチノキが大きな比率を占めていることがわかり,従来から行われてきた推定を具体的に証明することができた。また,同じ調査区で早期初頭の地層からクリの殻の集積層も検出され,中期前葉とは異なる種類の堅果類が利用されていたことがわかった。この相違は早期初頭と中期前葉の気候および植生の相違によるものと推定される。また,第3貝塚から,日本列島において約50万年前に絶滅したと考えられてきたコイ科魚類の咽頭歯が発見され,この魚類が絶滅したのが約4,500年前以降であったことを示し,その絶滅には人の活動が大きく関わっていたことが推測された。このように,粟津湖底遺跡の調査は人の生業について具体的な事実を明らかにしたばかりでなく,それと環境変化との関わりをうかがわせる資料も提供した。
友寄, 全志
令和3年度プロフェッサー・オブ・ザ・イヤーの受賞対象となった物理学実験で工夫したこと、特に実験の動画およびレポートの評価で心掛けた点を紹介する。
尾本, 惠市
本論文は、北海道のアイヌ集団の起源に関する人類学的研究の現況を、とくに最近の分子人類学の発展という見地から検討するもので、次の3章から成る。 (一)古典的人種分類への疑問、(二)日本人起源論、(三)アイヌの遺伝的起源。まず、第一章で筆者は、人種という概念を現代生物学の見地より検討し、それがもはや科学的に有効ではなく、人種分類は無意味であることを示す。第二章では、明治時代以降の様々な日本人起源論を概観し、埴原一雄の「二重構造説」が現在の出発点としてもっとも適当であることを確認する。筆者は、便宜上この仮説を次の二部分に分けて検証しようとしている。第一の部分は、後期旧石器時代および縄紋時代の集団(仮に原日本人と呼ばれる)と、弥生時代以後の渡来系の集団との二重構造が存在するという点、また、第二の部分は、原日本人が東南アジア起源であるという点についてのものである。筆者の行った分子人類学的研究の結果では、第一の仮説は支持されるが、第二の仮説は支持できない。また、アイヌと琉球人との類縁性が遺伝学的に示唆された。第三章で筆者は、混血の問題を考慮しても、アイヌと東南アジアの集団との間の類縁性が低いという事実に基づき、アイヌの起源に関する一つの作業仮説を提起している。それは、アイヌ集団が上洞人を含む東北アジアの後期旧石器時代人の集団に由来するというものである。また、分子人類学の手法は起源や系統の研究には有効であるが、個人や集団の形態や生活を復元するために、人骨資料がないときには先史考古学の資料を用いる学際的な研究が必要であると述べられている。
下地, 敏洋 Shimoji, Toshihiro
本事例報告は、観光産業科学部の提供科目である「長寿の科学」において、著者が担当した「老年学への招待-サクセスフル・エイジングを通して-」の講義内容に基づくものである。
Suzuki, Motoi
本稿は,文化人類学がフェアトレードをどのように支援できるかを検討するものである。そのために,第1 に文化人類学的研究の主な貢献は,フェアトレードの言説と実践を比較し,その齟齬を明らかにすることであることを示す。第2 に,フェアトレードに批判的な研究成果を提示する際には,北の消費者が南の生産者に対して抱く連帯感を考慮し,建設的な批判となるための工夫が必要であることを主張する。こうした考察を進めるにあたって,本稿では,国立民族学博物館で実施したフェアトレードに関する2 つの国際シンポジウム「フェアトレード・コミュニケーション―商品が運ぶ物語」と「倫理的な消費―フェアトレードの新展開」の成果,および著者によるベリーズのカカオ生産者に関する研究を参照する。
安永, 尚志 YASUNAGA, Hisashi
国文学に関する学術情報データベースの形成、管理、利用について、国文学研究推進のためのコンピュータ利用の観点からまとめた。国文学データベースの概念と特徴を示し、その組織化の実際をまとめた。国文学データベースの形成、管理は、国文学研究資料館の事業と密接な関連を持っているので、本文は国文学研究資料館における国文学研究推進のための支援システムに焦点を当て述べている。各種国文学データベース、及び国文学研究のためのコンピュータの利用は、主として以下の4点から述べた。(1)資料(伝本)の検索、(2)文献(論文等)の検索、(3)主要語彙の検索、(4)定本の作成(校定本文)へのアプローチ。なお、本研究は主に文部省科学研究費補助金によっている。
Niwa, Norio
人類学が学問として制度的に確立する前の移行期にはさまざまな探検という調査プロジェクトが存在していた。本稿では,そうしたなかでも日本人博物学者朝枝利男の参加したアメリカの探検隊に注目したい。朝枝利男は,多様な経歴を経た人物であるが,1923 年の渡米後,アメリカで活躍した博物学者・学芸員とさしあたりまとめられる。彼は,剥製から水彩画と写真撮影までの多才な博物学的技術を身に着けていたことから,1930 年代に企画された半ば私的な調査隊に数多く参加していた。その結果,数多くの博物学的な写真と水彩画を残している。しかしそれらは世界各地の博物館に散在して資料としての整理の段階から進められていないままにおかれている。そこで本稿では,以下3 点を目的としたい。まず,これまで基礎的な資料整備の水準で取り扱われていなかった朝枝利男コレクションの資料が作られた背景を精査することで,資料としての特徴を明確化すること。その際,あわせていまではほぼ忘れられた朝枝利男の活動を傍系的に復元すること。そして最後に,本稿からみえてくるアメリカで行われた史的探検に関わる資料を読み解くに際しての留意点を指摘することである。
高橋, 敏 Takahashi, Satoshi
「民衆の生活文化史」はどこでも安易に使われる耳慣れた研究テーマである。ところがその中身は,となると,抽象性が前面に出て空疎な民衆・人民概念が横行するのが,残念ながら戦後歴史学の実態ではなかったろうか。生活文化史を主唱するならば,まず「民衆」を抽象性から解放すべきであろう。歴史創造の主体である民衆はもちろん生身の人間であることを確認すべきである。これらは,支配・被支配の国家論を越えて実在するのである。ひとまず,衣食住という狭義の生活史一例をとってみても、文献史学は長くこれを苦手としてきた。また,これを誇りとするような自己欺瞞の中にいた。民衆の衣食住は,何か文化の底流であり,歴史をリードすることと無縁なものと考えられていた。抽象性に満ちた民衆万能の人民観と文化無縁の民衆観に挾撃されて、生活文化史は停滞してきたように思われる。これらを克服するためには,生活文化史概念のゆるやかな検討をくりかえしやらなくてはならない。この作業と同時進行して史料論の一新が図られねばならない。そして,文献史学からの生活文化史へのこだわりのうえに関連諸科学,考古学,民俗学等との学際的研究が行われねばならないであろう。このためには、まず,地域史での生活文化史のフィールドワークが積み重ねられていく必要があるのである。本稿は,上州赤城山麓の村々をフィールドに18世紀後半~19世紀前半にかけて起こった生活文化史上の変革を追求する。赤城型民家というこの地域特有の住居に凝集されてくる民衆の生活文化の実態を文献史料の見直しを通し,またこれに近世考古学,民具学の成果を援用しつつ,具体相をもって明らかにしたいと思う。
種村, 威史 TANEMURA, Takeshi
近世の文書社会については、近世史料学やアーカイブズ学の進展によって、その特質が解明されつつあるといってよい。ただし、文書のライフサイクルについていえば、作成・授受、管理・保存、引継ぎについては研究成果が蓄積されているのに対して、廃棄に関しては立ち後れている。中世史料学において、政治組織の特質との関連で廃棄の問題を論じていることを考えれば、近世史料学においても、近世社会の特質との関連で検討する必要がある。そこで、本稿では、幕府によって「民間」より回収された徳川将軍文書の焼却を事例とし文書焼却を検討した。その結果、焼却が将軍文書の効力を抹消する唯一の方法であること、焼却方法が喪葬に酷似した作法を伴うものであったこと、その背景には文書に対して将軍のイメージを投影するかのような文書認識が存在していたこと等を明らかにした。
福嶋, 秩子 FUKUSHIMA, Chitsuko
アジアとヨーロッパの言語地理学者による各地の言語地図作成状況と活用方法についての国際シンポジウムでの発表をもとに,世界の言語地理学の現状と課題を概括する。まず,言語地図作成は,方言境界線の画定のため,あるいは地図の分布から歴史を読み取るために行われてきた。さらに言語学の実験や訓練の場という性格もある。地図化にあたり,等語線をひいて境界を示すこともできるが,言語の推移を示すには,記号地図が有用である。また,伝統方言の衰退もあって社会言語学との融合が起き,日本ではグロットグラムのような新しい調査法が生まれた。情報技術の導入により,言語地図作成のためのデータは言語データベースあるいは言語コーパスという性格が強まった。コンピュータを利用した言語地図の作成には,1.電子データ化,2.一定の基準によるデータの選択・地図化,3.他のデータとの比較・総合・重ね合わせ・関連付け,4.言語地図の発表・公開,という4段階がある。最後に,言語地図作成の課題は,言語データの共有・統合,そして成果の公開である。
Kishigami, Nobuhiro
文化人類学者は,さまざまな時代や地域,文化における人類とクジラの諸関係を研究してきた。捕鯨の文化人類学は,基礎的な調査と応用的な調査からなるが,研究者がいかに現代世界と関わりを持っているかを表明することができるフォーラム(場)である。また,研究者は現代の捕鯨を研究することによってグローバル化する世界システムのいくつかの様相を解明し,理解することができる。本稿において筆者は捕鯨についての主要な文化人類学研究およびそれらに関連する調査動向や特徴,諸問題について紹介し,検討を加える。近年では,各地の先住民生存捕鯨や地域捕鯨を例外とすれば,捕鯨に関する文化人類学的研究はあまり行われていない。先住民生存捕鯨研究や地域捕鯨研究では日本人による調査が多数行われているが,基礎的な研究が多い。一方,欧米人による先住民生存捕鯨研究は実践志向の研究が多い。文化人類学が大きく貢献できる研究課題として,(1)人類とクジラの多様な関係の地域的,歴史的な比較,(2)「先住民生存捕鯨」概念の再検討,(3)反捕鯨NGO と捕鯨推進NGO の研究,(4)反捕鯨運動の根底にある社会倫理と動物福祉,およびクジラ観に関する研究,(5)マスメディアのクジラ観やイルカ観への社会的な諸影響,(6)ホエール・ウォッチング観光の研究,(7)鯨類資源の持続可能な利用と管理に関する応用研究,(8)クジラや捕鯨者,環境NGO,政府,国際捕鯨委員会のような諸アクターによって構成される複雑なネットワークシステムに関するポリティカル・エコロジー研究などを提案する。これらの研究によって,文化人類学は学問的にも実践的にも捕鯨研究に貢献できると主張する。
孫, 傳玲
「中」概念は、『中庸』以来の重要な儒学概念で、従来から各時代の儒学者によって多様な解釈が行われてきた。それは、宋代にいたって程朱によって特に重要視され、朱子学体系を構成する枢要な概念である「性」や「道」「徳」「敬」など、そのすべてと関連する基本概念となった。朱子学の学統を継承した山崎闇斎(一六一八~一六八二)も、この「中」概念を重視し、その真意への理解に組み込んだ。その一方、闇斎は、神道研究を進めるなかで、この「中」が日本本来の「道」である神道にもあると考えるようになり、それを日本の神話、神道思想と結びつけ、神道的な解釈を展開するにいたった。 本稿では、朱子学と比較しながら、闇斎の学問思想の内部から、この概念について闇斎の朱子学的理解と神道的解釈との関連性を考察し、彼の「中」概念の特質・意義を明らかにしてみたい。 ここでは、あえて朱子学概念としての「中」を「チュウ」と訓み、そして、闇斎によって展開された神道的概念としての「中」を「ナカ」と訓む。闇斎における「中」概念は、つまり「チュウ」と「ナカ」という二重の意味を持っているのである。
河辺, 俊雄 山内, 太郎 大西, 秀之 KAWABE, Toshio YAMAUCHI, Taro ONISHI, Hideyuki
本研究ユニットは、ラオス国内における生態学的環境を異にする複数の地域において、地域住民の生活環境への生物学的適応と社会文化的適応を同時に評価することを目的とする。特に「身体」に焦点を当て、人びとの形態と行動(活動)を規定している要因について、生物学的側面から社会文化的側面に至るまでを射程に入れ、さらにはその相互作用について検討する。また、開発や市場経済化などの「近代化」に起因するライフスタイルの変化が身体の形質や活動に及ぼしている影響を把握するとともに、その現在までの歴史的変遷を世代間や地域間などの比較を通して考察する。
小川, 由美 上地, 完治 上村, 豊 道田, 泰司 村上, 呂里 浅井, 玲子 小田切, 忠人 加藤, 好一 藤原, 幸男 吉田, 安規良 Ogawa, Yumi Uechi, Kanji Uemura, Yutaka Michita, Yasushi Murakami, Rori Asai, Reiko Kodagiri, Tadato Katou, Yoshikazu Fujiwara, Yukio Yoshida, Akira
琉球大学教育学部学校教育教員養成課程小学校教育コース教育実践学専修は、教育課程の理念として、「早期から系統的な教育実践経験を継続的に積ませ、実践と理論とを往還的に学ぶ機会を繰り返し提供する」ことをめざしている。教育実践学専修の概要とその特色あるカリキュラムについては『日本教育大学協会研究年報』第30集にも掲載されている。本報では、その特色あるカリキュラムの中から、専修専門科目で必修の実習科目でもある「小学校教育フィールドワークⅠ」(以下「FWⅠ」と略記)及び「小学校教育フィールドワークⅡ」(以下「FWⅡ」と略記)に焦点をあて、このFWⅠならびにFWⅡが従来の教育実習体系の間隙を時系列的にも内容的にも埋めて、体系的・継続的な教育実践経験を通した教員養成のために非常に有意義であることを示したい。
山本, 英二 YAMAMOTO, Eiji
本稿は、幕藩前期(17世紀前半)の三河国山間部を事例に、年貢割付状・年貢皆済目録・年貢小請取といった年貢文書について、史料学的な検討を試みたものである。従来の年貢割付状や年貢皆済目録に関する研究は、定量分析もしくは古文書学的な様式研究がおこなわれてきたが、記録史料学的な関心からの研究はほとんどみられなかった。本稿では、史料の制約からほとんど研究のない慶長~寛永期の年貢関係文書について、発給記載形式の詳細な分析をおこなった。その結果、三河国山間部では、銀納基準に基づく金納年貢制度が採用され、貫高・永高・石高が時期により併用されることが判明した。その理由は、三河国が東日本と西日本の交流・分岐点に位置する地理的条件に規定されていることにあると考えられる。
Miyazaki, Hidetoshi ISHIMOTO, Yudai Tanaka, Ueru Miyazaki, Hidetoshi Ishimoto, Yudai Tanaka, Ueru
ザンビアにおける食料安全保障を改善するためには、安定したメイズ生産と生産性の向上が重要である。しかし、多くの農民は天水農業下でメイズを栽培しており、メイズに偏重した作付けは干ばつや過度の降雨に脆弱である。したがって、気候変動に直面しながら食料安全保障を成し遂げるには、作物の多様性を増すことが重要となる。サツマイモは自家消費用食料、ならびに世帯の現金収入源として大きな可能性があるといわれている。そこで、本研究では、ザンビア南部州農村地帯の3 サイトにおいて、サツマイモ品種についての農民の知識を理解すること、また、サツマイモの生産と消費を明らかにすることを目的とした。サツマイモは雨季、乾季ともに栽培されているが、その栽培割合は季節間、サイト間で異なっている。農民へのインタビューの結果、22 種類ものサツマイモ品種があることが判明したが、彼らの多くは1 種類も回答することができなかった。また、確認された22 種類のうち栽培されていたのは10 種類に過ぎなかった。調査した3サイトのうち1 サイトでは、特にサツマイモ生産が盛んにおこなわれていたが、そのサイトでのさらなる調査の結果、サツマイモの塊根は主に朝食として利用されており、1 年間の全食事を通じてみると、1 週間に2 回程度消費されていた。消費は収穫直後に最も高く、徐々に減少した。サツマイモの葉は、ほとんど消費されていないこともわかった。サツマイモ販売による売り上げ額は高く、1年間当たりの売り上げで大人7.4 人分の主食(メイズの粗挽き粉)を購入できることがわかった。
臼居, 直之 Usui, Naoyuki
千曲川流域の沖積低地には,弥生時代から近世にわたる数多くの集落跡と水田跡が発見されている。洪水堆積層に覆われた遺跡からは,畦畔や溝で区切られた各時代の水田区画が検出され,多量の木製農耕具が出土している。これらの水田区画と農耕具には時代ごとに特長があり,いくつかの画期を見いだすことができる。またその変化の背景には自然条件を克服した技術や政治・社会的な要因が推察される。善光寺平の水田区画は,低地開発が始まり小規模で短期に消滅した縄文時代晩期から弥生時代中期前半までの0段階,自然地形を有効利用して大・小畦畔を配した小区画水田をつくる弥生時代中期から古墳時代前期までのⅠ段階,大畦畔によって企画性を帯びた大区画をつくりその内部を極小区画する古墳時代中期から後期(奈良時代)までのⅡ段階,平安時代以降の条里型地割となるⅢ段階の大きく4期区分の変遷をたどる。農耕具の変化もこれに付随している。Ⅰ段階は,多様な形状の曲柄鍬と直柄鍬が主体で,方形板状鉄刃が着装された鍬もある。この段階には曲柄鍬の形態にナスビ型が加わる古墳前期に小画期を見いだせる(Ⅰ-②段階)。Ⅱ段階は,曲柄鍬にU字形の鉄刃が装着され,直柄の打ち鍬が消滅する。Ⅲ段階は,曲柄鍬が消滅してU字形鉄刃が装着された直柄鍬だけとなる。ⅠからⅡ段階,ⅡからⅢ段階への変化の要因は,地域社会の解体や土地所有,開発主体の変化,畜力を導入した耕作技術の革新,気候の寒冷化などが考えられるが,今後総合的な検討が必要である。
大野, 綾佳 ŌNO, ayaka
フランスでは19世紀前半より国立古文書学校が古文書の研究およびアーキビスト養成を担ってきた。一方、大量で多様な現代の行政文書にも対応するため、1990年代より大学、特に修士課程におけるアーカイブズ学教育が顕著に増加した。後者は現場のアーキビストを養成する目的に特化しており、実践力・即戦力を重視している。大学の教育課程が発展してきたことにより、フランスのアーカイブズ学教育も縦・横の広がりを見せている。まず縦の広がり(ランキング)として国立古文書学校から大学の複数レベルの課程においてそれぞれの段階ごとに就職機会が設けられている。一方、横の広がりでは時間軸である歴史文書と現代アーカイブズという区切りや、空間軸に広がる媒体やテーマの切り口を通して、大学ごとに特色を見せながら隣接分野との繋がりを拡張している。本稿では現場のアーキビスト養成を狙いとした大学の修士課程のひとつであるアンジェ大学と、学生にアーキビストの視点を与える導入および現職者の能力証明の機会として機能しているポアティエ大学独自の免状によるアーカイブズ学教育を例に、現在のフランスのアーカイブズ学教育の一端を紹介する。そしてその成り立ちから現在の課題を考えてみたい。
道田, 泰司 吉田, 安規良 浅井, 玲子 Michita, Yasushi Yoshida, Akira Asai, Reiko
琉球大学教育学部が「質の高い小学校教員養成を強化すること」を目指して学生教育組織を改組した結果として誕生した学校教育教員養成課程小学校教育コース教育実践学専修の1期生が大学教育に何を求めているのかについて調査することを通して、教員養成学部の学生が大学教育に何を求めているかについて検討し、「教員として最小限必要な資質能力を確実に身に付けさせる」「学び続ける教員像」に対応した大学のカリキュラム改革の一助となる基礎資料を作成した。学生の声を分析した結果、小学校教員志望の学生は実践や教育実習、学校現場や教員の実際に関わる科目や実践とのつながりが見える授業を求めている傾向が見られた。科目区分ごとにみると共通教育科目では楽しく分かりやすく学習内容を、教職科目では教員として指導する立場になったときのことを考える授業を、教育学部科目では公立小学校や離島を体験したり、他者の体験を聞いたりすることを、専修専門科目では、実際の現場や実践記録など、教育実習に役立つことを学生はそれぞれ求めている傾向が見られた。
金城, 克哉 Kinjo, Katsuya
本論文は、近年注目を集めているコーパス言語学の概要を示し、同時に言語教育への応用とフリーソフトウェアを用いた分析方法を紹介するものである。コーパス言語学は、コーパスを利用して言語分析を進める研究方法の分野として近年盛んに議論され、様々な論考もすでに多くある。ここでは短いながらもどのような研究分野があるのか、それが日本語教育と英語教育にどのように応用できるのか、また実際の分析はどのようにすればよいのかを論じる。
相澤, 正夫 AIZAWA, Masao
2007年10月に中国北京日本学研究センターで開催された国際シンポジウムにおいて,最近の日本語研究の新動向の一つとして,「言語問題への対応を志向する日本語研究」の事例を紹介した。国立国語研究所の「外来語」言い換え提案を取り上げることにより,日本語の体系や構造,あるいは日本語の使用実態に関する調査研究を基盤としながらも,さらにその先に日本語の現実の問題を見据えた総合的・実践的な「福祉言語学」の一領域が既に開拓されていることを示した。
川田, 牧人 Kawada, Makito
本稿は、フィールドワークによって知識が獲得され形成される過程において、可視性すなわち見ることがいかに関連するかという課題を検討することを目的としている。自然科学における「客観的」観察の前提を相対化し、主観と客観の相互作用や一体化といった側面が見いだされることに関連させて、文化人類学と民俗学の「見る」方法を考察する。その第一の立脚点は「way of looking」と「way of seeing」の対比である。前者はものの見方、観察の仕方といった具体的な方法のことであり、後者は個々の技術の背景をなしているような人間観、社会観をさしている。本稿ではこの両者の観察のモードによって、とりわけ文化人類学の観察調査が現場でどのようにおこなわれるかを検討する。一方、民俗学の観察の特徴として、「主観の共同性」をとりあげる。自然を観察しそこから季節の変わり目を感じたり農作業の開始時期を判断したりすることは個人的で主観的な感覚であるはずだが、その主観が一定範囲の人々のあいだで季節の慣用表現や農耕儀礼として共同化されていることが主観の共同性である。それは同時に「見立て」や「なぞらえ」といったメタファー的視覚の生成を意味している。そこで考察の第二の立脚点として、ウィトゲンシュタインのアスペクト論を検討し、意味理解の文脈依存性という論点を導き出す。この観点から、エヴァンス=プリチャードやミシェル・レリス、柳田國男などの民族誌記述を検討する。これらの議論を経由して、何ら先見性のない白紙の観察ではなく、むしろフィールドという場の論理としての文脈においてなされるような観察と、アスペクト転換を反映させたような把握・理解と叙述が、文化人類学と民俗学の観察法の特徴であるという帰結にいたる。そのような観察と記述のありかたから、現実と仮想が行き来する生活世界にせまる方法を吟味する。
Kishigami, Nobuhiro
狩猟採集民社会における食物分配に関してはさまざまな研究がなされてきた。本稿ではそれらを社会・文化人類学的研究,生態人類学的研究,進化生態学的研究,霊長類研究に大別し,諸仮説を紹介し,検討する。そしてイヌイット研究が狩猟採集民社会における食物分配研究に貢献できるテーマとして,1)人口規模が小さいキャンプ集団と人口規模が大きい村における食物分配の違いを解明すること,2)特定の集団(コミュニティー)を対象として食物分配の変化と現状を通時的に解明すること,そして3)地域間や同一地域内における食物分配の差異や共通性およびその歴史的変化を解明すること,という3つの研究課題を提示する。
丹羽, 朋子
中国黄土高原の女性が作る切り紙「窓花」を,その多重的なイメージのあり方に倣って,いかにして人類学的表現へと〈うつす〉(移動・変換・投影)か。本稿では,筆者がこのような問いを掲げて制作してきた映像や展覧会を取り上げる。2013–2014 年に福岡と東京で開催した「窓花・中国の切り紙」展では,現地の人々と日本の造形作家と協働し,フィールドの感性的経験を再構成して提示すべく,映像と実物資料を合わせたインスタレーションの制作や,ワークショップを行った。その過程ではフィールドの現実とその記録映像とギャラリー空間との間,或いは日本の観者たちの経験や記憶との間に生起する多元的なズレが焦点化し,展示に反映された。人類学とアートの協働実践としての本展の実験的試みを,「イメージの再‒物質化」「時空間の混成化」「観者の巻き込み」等の観点から省察し,身体を介した「創造的翻訳」としての人類学的表現実践の可能性を考える。
吉田, 安規良 中尾, 達馬 Yoshida, Akira Nakao, Tatsuma
本研究では,平成27年度の実践が受講学生の受講前後段階での自己分析にどのような影響を及ぼしているのか,教員として求められる4つの事項の修得状況をどのように自己評価しているのか,一連の実践後の自己評価と他者評価の結果の差を検証するとともに平成24年度から平成27年度まで一連の実践で得られた学生の変容の経年変化や差異を検証した。あわせてこれまでの授業実践に対する学生の授業評価の結果から沖縄こどもの国と連携した行事企画・運営を教材とした教職実践演習を総括した。平成27年度の実践は,教育実践学専修に所属する7名の受講学生で実施された。これまでの実践よりも受講学生が少ないこともあり,受講学生はそれぞれ1つの企画を独自に担当し,担当した企画に対する全責任を自分1人で担う形で活動した。自己評価・他者評価に特徴が見られた3名はいずれも「協働すること」からそれぞれに\n学びを深めていた。自己評価(事前)が最低の者は,同期や目上の立場の人間から自分の意見を否定されるのを恐れており,そこに課題があると認識していた。自己評価(事前)が最高の者は「仕事をこなす力」が身についたと認識する一方,もっと他人を頼ればより高いものに迫れたと「頼れなかった自分」を反省していた。他者評価(事後)が最高だった者は「頼ること」で高い目標に迫れたと認識していた。どの年度でも沖縄こどもの国と連携した教職実践研究・教職実践演習を履修することを通して,受講学生は教員として必要な能力をおおむね身につけていたと評価しており,概して他者評価の方が自己評価に比べて高い傾向が見られた。また,受講学生が単一専修・コースだけで構成されるよりも,複数の専修・コースで構成された方が,教育効果は高いこと,受講学生が企画・運営の表舞台に立つ機会が多いと責任感や使命感に対する認識に高まりが見られることが示唆された。学生による授業評価の分析結果から,沖縄こどもの国と連携した行事企画・運営を教材とした教職実践研究・教職実践演習は,他内容の教職実践研究・教職実践演習と比較して,受講生の授業評価が全体的に高く,受講学生にとって「良い授業」であったことが伺えた。本研究は,平成29年度に実施される琉球大学教育学部の改組後の教職実践演習の在り方を検討するというカリキュラム・マネジメントのための基礎資料として,その存在意義は大きいと考えられる。
宇佐美, まゆみ
「談話(discourse)」という用語がよく聞かれるようになってかなりの年月が経つ。「談話研究(discourse studies)」という用語は、1970年代頃でも、言語学のみならず、心理学、哲学、文化人類学などの関連分野でも使われてきたが、最近では、学際的研究のさらなる広がりの影響を受けて、政治科学、言語処理、人工知能研究などにおいても、それぞれの分野における意味を持って使われるようになっている。本稿では、まず、「談話」という用語が言語学に比較的近い分野においてどのように用いられてきたかを、1960年代頃に遡って、7つのアプロ―チに分けて、概観する。また、「談話分析」や「会話分析」と「第二言語習得研究」、「語用論」、「日本語教育」との関係について簡単にまとめる。さらには、1980年代以降のさらなる学際的広がりを受けての「政治科学」や「AI(人工知能)研究」における用語の用いられ方にも触れ、それらの分野との連携の可能性についても触れる。
吉岡, 泰夫
国立国語研究所の方言研究は,「現代の言語生活」を課題として,話しことばをめぐる言語問題をタイムリーに探索し,問題解決のための科学的調査研究を,独自に開発した方法で実施してきた。言語政策の企画立案に資する基礎研究資料を提供するとともに,日本語研究の中枢的機開として学界の発展と充実にも寄与してきた。特に,社会言語学,言語地理学の分野においては,先進的研究の開拓によって,戦後の日本語研究にリーダーシップを発揮してきたところである。社会言語学の分野では,地域社会住民の言語生活の実態,方言と共通語との接触・干渉に観点をおいた調査研究,地域社会における敬語使用や敬語意識を明らかにする敬語行動研究の成果がある。言語地理学の分野の成果では,全国規模の組織的な調査にもとづく「言語地図」作成がある。全国規模の言語地図作成は,他の研究機関では成し難い,国語研究所ならではのプロジェクトである。また,「方言辞典」などの資料作成にも成果をあげている。
長田, 俊樹
小論の目的はこれまでのムンダ語族の比較言語学研究を概観することである。まず、ムンダ語族の分布と話者人口、およびそれぞれの言語についてのこれまでの研究を紹介する。そして比較言語学研究のうち、さいしょに音韻論について述べる。とくに、母音についてはいろいろと議論されてきたので、母音を中心にみる。次に形態論、統語論、語彙論について述べる。その際、インドの他の語族との関連を中心に論ずる。さいごに、オーストロアジア語族とムンダ諸語について、ドネガンらの研究を中心に述べる。
李, 亨源 Yi, Hyungwon
本稿は,突帯文土器と集落を使って韓半島の青銅器文化と初期弥生文化との関係について検討したものである。最近の発掘資料を整理・検討した結果,韓半島の突帯文土器は青銅器時代早期から前期後半(末)まで存続した可能性が高いことがわかった。その結果,両地域の突帯文土器の年代差はほとんど,なくなりつつある。したがって,突帯文土器文化は東アジア的な視野のもとで理解すべきであり,中国東北地域から韓半島の西北韓,東北韓地域,そして南部地域と日本列島に至る広範囲の地域において突帯文土器を伴う文化が伝播したことを想定する必要がある。集落を構成する要素のうち,これまであまり注目してこなかった地上建物のうち,両地域に見られる棟持柱建物,貯蔵穴,井戸を検討したところ,韓半島の青銅器文化と弥生文化との間には密接な関連があることを指摘した。集落構造では韓半島南部の網谷里遺跡と北部九州の江辻遺跡との共通点と相違点を検討し,とくに網谷里遺跡から出土した九州北部系突帯文土器の意味するものについて考えた。さらに青銅器中期文化において大規模貯蔵穴群が出現する背景には社会変化があること,初期弥生文化においてやや遅れて出現する原因を,水田稲作を伝えた初期の渡海集団の規模が小さく,社会経済的な水準あるいは階層が比較的低かったことに求めた。弥生早期に巨大な支石墓や区画墓のような大規模の記念物や,首長の権威や権力を象徴する青銅器が見られないのも同じ理由である。これは渡海の原因と背景を,韓半島の首長社会の情勢変化と気候環境の悪化に求める最近の研究成果とも符合している。
井上, 宗一郎 Inoue, Soichiro
昨今、日本の相撲、特に大相撲やアマチュア相撲の動態は、相撲に付与された「国技」という呼称、およびそれに付随して共有されているイメージを揺るがしつつある。大相撲における外国人力士の台頭、アマチュア相撲によるオリンピック正式種目登録への動きなど、選手構成、組織の運営方針や競技の形態などの多様な展開がその大きな要因のひとつである。その一方、力士の人間性や所作などについては、宗教的な言説を基盤とした一種の様式美とされ、「品格」、「品位」といった言説と絡み合いながら、「日本の伝統的競技」の代表的なもの、つまり「国技」として位置付けられる要因となっている。これまでの民俗学における相撲研究では、相撲の「国技」たる「品格」を保証するような、相撲の宗教儀礼としての側面のみを照射し、それ以外の側面についてあまり語られてきていない。そこには、民俗学固有ともいえる事例の選別や、言及の指向が存在しており、さらに言うならば、民俗学は相撲のみならず、競技を競技として対象化してこなかったのではないかと考える。本稿ではまず、民俗学における競技についての言及を振り返り、その固有ともいえる指向を検討する。次いで北陸地方で行なわれている神事相撲の事例を通して、対象とする事例を拡大して検討することで、民俗学での競技に対する、より開かれたアプローチの構築に寄与したい。
道田, 泰司 Michita, Yasushi
「考える」(思考する)とはどういうことかについて,国語学者,哲学者,認知科学者,発達心理学者の論考を参考に考察した。それらの議論を暫定的にまとめ,各概念の関連およびその教育上の示唆を考察した。最後に,本稿に欠けているものとして,問いに答えるのではなく\n問いを問う思考について検討した。
末吉, 敏恭
令和元年度大学教育改善等経費にて採択された微分積分学等の数学的素養不足者に対する学習サポート事業について,実施目的,実施方法とその成果を報告する。
森岡, 正博
本論文は、パソコン通信のフリーチャットに典型的に見られる、匿名性のコミュニケーションを分析し、電子架空空間で成立する匿名性のコミュニティの諸性質について論じる。その際に、都市社会学の観点からの分析を試みる。 パソコン通信を都市社会学の観点から議論する試みにはほとんど前例がない。本論文で提起されるいくつかの仮説は、今後のメディア論に一定の影響を与えると思われる。
琉球医学会事務局
2010年10月8日(金)に開催された、琉球大学附属図書館・広島大学図書館ShaRe2共催研修会「共同リポジトリの現状と今後 ~沖縄地域学リポジトリ正式公開を迎えて~」における講演スライド。
C. , Сасаки
アムール川下流域から樺太(サハリン)にかけての地域に居住してきた先住民は,現在,ナーナイ,ウリチ,オロチ,ウデへ,ネギダール,オロキ,エヴェンキ,ニヴヒの8つの民族に区分されている。しかし,このような民族分類と名称が確立したのは1930年代であり,それまでは様々な分類方法と名称が用いられていた。それは学術的な民族分類だけでなく,その成果を使った行政的な住民区分でも同様であった。本稿は1850年代にこの地域で本格的な人類学的,民族学的学術調査が開始されて以来の民族分類の変遷過程を明らかにすることを目的としている。従来の民族学的,歴史学的研究では,しばしば学術上の民族分類と行政上の民族的範疇との混同が見られ,この地域の先住民史研究の障害となっていた。そのことへの反省から,本稿では両者を厳密に区別することから出発し,行政,研究者,そして分類される住民の3者間の関係に焦点を当てる。それにより,現在の民族分類の学術的な背景と行政を通じたその住民自身の民族意識への影響を明らかにすることができる。
斎藤, 達哉 新野, 直哉 SAITO, Tatsuya NIINO, Naoya
1985~2000年の『国語年鑑』の雑誌掲載文献の目録情報にもとづいて,分野別の文献数の動向調査を行った。雑誌掲載の文献の採録数は年鑑のデータベース化にともなって1991年に大きく減少したが,1994年以降は緩やかな増加傾向にある。その状況下で,国語学にとっての「中核的領域」の文献数は,近年,横這い状態になっている。そのなかでも,[文法]だけは増加している。いっぽう,国語学にとっての「関連領域」の文献数は,近年,緩やかな増加の傾向にある。とくに,[国語教育]が伸びを示している。また,[コミュニケーション][言語学]には「中核的領域」に含まれる内容の文献も多く,文献数においても上位を維持している。「関連領域」のなかでの大分野となっている[国語教育][コミュニケーション][言語学]については,『国語年鑑』で,それぞれの分野の下位分類を増補・改訂するなど,近年の研究動向に対応が必要な時期に来ているのではないかと思われる。
田中, 牧郎 島田, むつみ 髙橋, 雄太 TANAKA, Makiro SHIMADA, Mutsumi TAKAHASHI, Yuta
明治5 年に文部省から刊行された『物理階梯』は,日本で初めての物理学の教科書である。発表者らは,本書のコーパス化を進めており,そのコーパスによって行った語彙調査の概要を報告し,本書の語彙の性格について若干の考察を加える。本書は,短単位で,延べ約39,000 語,異なり約4,400 語からなる。本書の語彙を,同時期の啓蒙雑誌『明六雑誌』の語彙(延べ約178,000 語,異なり約13,200 語)と比較し,本書で高頻度でありながら,『明六雑誌』で頻度0 または1 の約300語を抽出し,その性格を考察した。その結果,(1) 物理学の話題で使われる「テーマ語」,(2) 物理学の「専門語」,(3) 物理学に限定されない「学術語」に分けられた。(1) は「管」「動き」「浮かぶ」など,旧来からある語,(2) は「光線」「静止」「空気」など,蘭学以後登場した語,(2) は「距離」「両端」「中央」など従来の一般語が学術語化したものと,蘭学以後登場した新語の両方が見られた。
西村, 明 Nishimura, Akira
本稿は、アジア・太平洋戦争期の宗教学・宗教研究の動向、とくに戦時下の日本宗教学会の状況と、当時の学会誌に表れた戦争にかんする研究の二つに焦点をあて、当時の宗教学・宗教研究のおかれた社会的ポジションの理解を試みるものである。戦時期の一九三〇年・四〇年代前半は、日本宗教学会の草創期にあたり、宗教をとりまく大きな状況の変化が起った時期でもあった。学術大会における会長挨拶では、同時代の状況にたいする当事者的参加が要請され、諸宗教の理解という学問的関心の社会的意義が強調されたが、それは同時に本国や占領地等における政府の宗教統制・宗教政策と奇妙な同調を見せる結果となっている。一九四〇年前後に『宗教研究』誌に登場した、戦時下の宗教現象にかんする論考は、千人針などの当時の前線・銃後の日本人たちの宗教的・民俗的営みを視野に入れたものであったが、あくまで戦争遂行や天皇にたいする尊崇を第一義とするような体制的な価値判断に基づくものであったと言える。
財部, 盛久 我如古, さゆり Takarabe, Morihisa Ganeko, Sayuri
本研究では12年間にわたり保育園で開催されている子育て座談会の参加者にとって,座談会に参加することにどのような意味があると考えているのか明らかにし,今後,座談会を展開するうえでの課題について検討することを目的としている。座談会の形式には変遷があるが,保護者は座談会に参加し,子どもの発達や対応について学ぶことができた。また,参加した保護者との交流を通して子育ての不安や負担感を解消して安堵感を得ていた。一方保育士は保育の振り返りや反省,新しい考え方を学ぶこと,保護者の悩みを知り不安や悩みを共有し共感している。そして,このことが子どもや保護者に寄り添おうとする対応に反映されていることが明らかになった。これを踏まえ,今後の座談会を展開するうえでの課題を臨床心理学的観点から論じた。
Nobori, Kukiko Kanematsu, Mei
本特集では協働を特徴とする同時代のアート実践を取り上げ,それらの多様なプロセスのあり方から出来事としてのアートを人類学的に考察することを目的としている。近年,アートの現場において「協働的」な実践やその「プロセス」が注目を集めてきた。そこでは異なる分野やアクターと共にはたらくこと自体に価値が見出され,完成された作品というよりもむしろ協働するプロセスが重視される。本特集では,参加型アート,アートプロジェクト,ストリートアート,そして人類学者とアーティストによる展覧会づくりという5 つの事例において,1)各プロセスにおける時間性,2)主客を超えた人やモノの複雑で複層的な関係性が切断する瞬間に着目し,比較検討を試みる。これらの議論を通して出来事としてアートをとらえ,同時代のアート実践に共通する「驚き」や「気づき」あるいは葛藤を人類学的に理解する。
西内, 沙恵 NISHIUCHI, Sae
本稿では多義語が有する複数の意味をどのように確認できるか,言語学的な方法に焦点をあてて検討する。多義語は同一の音形に意味的に何らかの関連を持つ二つ以上の意味が結びついている語と定義される。多義語の語義の粒度は研究の目的や研究者の立場によって異なるため,多義性を認める方法も言語学的なアプローチと心理実験的アプローチからさまざまに考案されてきた。本稿では先行研究で提案されてきた,多義性を認める言語学的な方法を,語彙テスト・文法テスト・論理テストに区分して一覧し,その有効性を検討する。それぞれのテストがどのような仕組みによって成り立っているかを分析し,どの程度の粒度で語義が認められるかという観点から各テストの特徴を論じる。現代日本語の名詞・形容詞・動詞を対象にそれぞれのテストが有効に働く品詞を検討し,その適用範囲を示す。
マティソフ, ジェイムズ A.
近年N. Hill氏はチベット・ビルマ歴史言語学では確立された音対応,文語チベット語-o(-):文語ビルマ語-wa(-),に疑義を唱える論考を発表した。この根底には,文字を持つ古い言語に依拠する文献学的研究傾向と,文字を持たない現代の言語をベースとするフィールドワーク言語学との相剋があると思われ,私はHill氏の論旨に反対の立場をとる。だが,小稿は単なる反論ではなく,私はこれを機に上記の音対応に関わる事象をチベット・ビルマ祖語との関連において総ざらいし,*-e(-)と*-o(-)をチベット・ビルマ祖語の母音体系から外し,替わりに-ay(-) / -ya(-)と-aw(-) / -wa(-)を立てるべきであることを発見した。以下はそのプロセスを詳細に述べたものである。
関連キーワード