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藤本, 貴子 FUJIMOTO, Takako
本稿では、文化庁国立近現代建築資料館(以下、建築資料館)で収蔵している大髙正人建築設計資料群を事例に、近現代建築資料の編成記述について検討する。大髙正人(1923−2010)は、建築のみならず都市計画の分野でも活躍した建築家である。当該資料群はその活動の幅広さを反映しており、建築設計図面に加えて、大判の都市計画図や大量の報告書等も含まれている。建築資料館は2013年の開館以来、近現代建築資料の収集や展覧会開催を通じての活用とともに、資料整理の方法についても検討を行ってきた。その過程を振り返り、整理方法の再検討を行ったうえで、早期の閲覧公開を実現することを目指す観点から、近現代建築資料の編成記述方法について考察し、今後の課題について述べる。
飛田, ちづる TOBITA, Chizuru
本論は、国立近現代建築資料館に筆者が在籍していた当時、担当した村田豊建築設計資料を主に、資料館全体の保存管理について整理し、建築資料の保存管理について、資料館の運営を含めて考察したものである。
青木, 睦 AOKI, Mutsumi
本稿では、アーカイブズの基本的機能を前提としたアーカイブズ建築固有の建築計画の問題や施設のあり方ついて、海外の事例を比較検討し、その結果をもとにアーカイブズ建築・設備の特性について考えてみたい。
濱島, 正士 Hamashima, Masashi
日本の寺院・神社の建築には,装飾の一環として各種の塗装・彩色がされている。何色のどんな顔料がどのような組合わせで塗られているのか,それは建築の種類によって,あるいは時代によってどう違うのか,また,建築群全体としてはどのように構成され配置されているのだろうか。これらの点について,古代・中世はおもに絵画資料により,近世は建築遺例により時代を追って概観し,あわせて日本人の建築に対する色彩感覚にもふれてみたい。
黒田, 龍二 Kuroda, Ryuji
日本各地の祭礼の研究は民俗学を中心に膨大な蓄積がある。一方、建築史学においては、寺社建築の歴史的研究また文化財調査や発掘調査による即物的研究が積み重ねられてきている。近年にいたり、寺院建築に関してはその機能たる法会あるいは寺院社会との関わりに関する研究が深まりつつある。その反面、多くの場合は神社がその場となる祭礼と建築の関係に関する研究は、いまだ緒についていない。その原因は、祭礼が多様な側面をもつ複合的な存在であって、建築との関連を見据える視座が定まらないためである。本稿は、そのような視座の確立を目指して、滋賀県湖北地方のオコナイとその場となる建築との関係について考察した。
濱島, 正士 Hamashima, Masashi
日本建築を詳細に描いた絵画、絵巻・寺社境内図・都市図屏風などの主要な作品について、建築がどのような作図手法で描かれているか、描かれた内容がどの程度史実を伝えているか、を検討して絵画の資料性を探る。あわせて、それらの作品では建築をどうとらえ、どのように描こうとしたのかにもふれる。
清水, 郁郎 SHIMIZU, Ikuro
この報告書では、おもに東南アジア大陸部を含めた諸社会の建築を対象とした研究について、学説史の簡単な整理と現在の到達点を示す。つぎに、「モノと情報」班において近い将来おこなうラオスでの調査に向けて、建築研究の文脈におけるモノ研究の位置づけと可能性について考察する。
井上, 章一
日本に、いわゆる西洋建築がたちだすのは十九世紀の後半からであり、当初は伝統的な日本建築の要素ものこした和洋折衷のものがたくさん建設されている。文明開化期に特徴的なのは、そんな建築のなかに、近世城郭の天守閣を模倣した塔屋をもつデザインのものが、とりわけ金融関係の施設でふえだした点である。じゅうらいは、それを、近代のブルジョワが、封建時代の領主にあこがれてこしらえたのだと、解釈してきたが、拙論では、そこへもうひとつべつの可能性をつけ加えている。十八世紀後半ごろから、織田信長以後の天守閣を、南蛮渡来の建築様式だとみなす見解が普及し、その考え方は、十九世紀末まで維持された。明治維新後、文明開化期につくられた西洋をめざす建築に、天守閣形式の要素がまぎれこんだのも、それがなにほどか南蛮風、西洋的だと思われていたことに一因があるのではないかとする仮説を、ここではたててみたしだいである。
中尾, 七重 Nakao, Nanae
これまで現存遺構のうち社寺建築の年代測定については年輪年代学が大きな成果をあげているが,民家の多くは樹種が適合せず,高精度年代測定は行われていない。庶民住居である民家は記録が少なく,重要文化財などの指定を受けた民家でも,建築年代が判明していないものが多い。これらの民家の建築年代が特定できるならば,民家の歴史的価値を高め,民家研究,生活史,地域史など,多くの研究分野に有用である。本研究では民家研究の立場から,放射性炭素年代測定の可能性,有効性について検討した。
中尾, 七重 渡辺, 洋子 坂本, 稔 今村, 峯雄 Nakao, Nanae Watanabe, Yoko Sakamoto, Minoru Imamura, Mineo
放射性炭素年代測定を文化財建築遺構に適用し,その有効性を明らかにした。事例として,国宝大善寺本堂,旧土肥家本家住宅,旧土肥家隠居屋住宅,重要文化財三木家住宅の年代調査結果を報告する。文化財建造物を測定する場合の部材選択や試料採取の方法を示した。部材最外層年代から建築の年代情報を得るために,部材の年代測定から建物の年代判定へ研究発展の必要性を指摘した。
横山, 操 伊東, 隆夫 川井, 秀一 尾嵜, 大真 坂本, 稔 今村, 峯雄 光谷, 拓実 窪寺, 茂 濵島, 正士 Yokoyama, Misao Itoh, Takao Kawai, Shuichi Ozaki, Hiromasa Sakamoto, Minoru Imamura, Mineo Mitsutani, Takumi Kubodera, Shigeru Hamashima, Masaji
我が国に多数現存する歴史的木造建築群は,それ自体が実証編年を示しており,歴史文化的価値が非常に高い。このことから,著者らは,歴史的建造物由来古材が単なる建築史資料として重要であるばかりでなく,出自の明確な歴史的木質材料としての価値を有することに着目した。そして,それらを材料工学的試料として捉える上で必要となる古材の年代を得るための試みとして,飛鳥期から現代までの歴史的建造物由来試料9点を選定し,年輪年代と¹⁴Cウィグルマッチ法による年代,ならびに古材に関する建築史的情報とを複合的に比較検討し,それぞれの古材試料に関する基本情報を抽出した。
濱島, 正士 Hamashima, Masashi
日本の建築は木造で軸組構造とするのが特徴で、山から木を伐り出して製材し、所定の部材に加工し(木作り)、同時に基壇を築いて礎石を据え、柱を立て梁・桁を組んで棟を上げ、屋根を葺き、造作を取り付け、壁を塗り色を塗り金具を付けるなどして完成する。
徐, 蘇斌
明治末期、日本では国民意識の形成と共に、日本文化への関心が高まりを見せた。日本の文化のルーツを探すため、多くの日本人研究者は朝鮮、中国、蒙古などの地域へ調査に向かった。関野貞(一八六八―一九三五)は東アジアの建築史、美術史、考古学の領域の研究において注目すべき業績を残した研究者である。彼の研究経歴はそのまま近代日本の東洋研究の縮図といえる。本稿では、関野の六〇〇余枚に上る調査帖を中心にして、一九〇六年から一九三五年にいたる前後十回にわたる中国におけるフィールドワークを考察した。さらに、論者は関野の調査活動を通して、日本研究者のナショナル・アイデンティティー、学術研究と植民地政治の関連性、植民地と文化遺産の保存などの問題を論じた。また、満州事変以前の日中における学術交流、ならびに中国に及ぼせる日本建築史学研究の影響などの問題にも言及した。
横山, 操 杉山, 淳司 川井, 秀一 坂本, 稔 Yokoyama, Misao Sugiyama, Junji Kawai, Shuichi Sakamoto, Minoru
著者らは,歴史的建造物由来古材が単なる建築史資料として重要であるばかりではなく,出自の明確な歴史的木質材料としての価値を有することに着目し,材料工学的資料として捉える上で必要となる材料の履歴を得るための試みとして,古材の年代評価に取り組んでいる。
藤田, 盟児 Fujita, Meiji
宮島にある厳島神社の門前町には,オウエという吹き抜けになった部屋をもつ町家群があり,中部・北陸地方の町家形式に酷似する。平成17年度から18年度にかけて実施した伝統的建造物群保存対策調査で,それらの建造年代を形式や技法の新旧関係から推定する編年を行ったが,18世紀後期と推定した田中家住宅と飯田家作業所について¹⁴C年代調査を行ったところ,両方とも17世紀後期の建築である可能性が高まった。このことから,厳島神社門前町の町家建築の編年を見直して,¹⁴C年代調査が民家調査の編年に及ぼす影響について述べた。
中尾, 七重 坂本, 稔 今村, 峯雄 永井, 規男 西島, 眞理子 モリス, マーティン 丸山, 俊明 Nakao, Nanae Sakamoto, Minoru Imamura, Mineo Nagai, Norio Nishijima, Mariko Morris, Martin Maruyama, Toshiaki
放射性炭素年代測定を用いた住まいの建築年代調査において,庶民住居である民家と上層住宅の¹⁴C年代調査法の比較研究を行った。民家3棟と住宅4棟の事例報告を行い,年代調査の目的と,¹⁴C年代調査に適した部材選択の条件について検討した。
三浦, 正幸 Miura, Masayuki
寺院の仏堂に比べて、神社本殿は規模が小さく、内部を使用することも多くない。しかし、本殿の平面形式や外観の意匠はかえって多種多様であって、それが神社本殿の特色の一つと言える。建築史の分野ではその多様な形式を分類し、その起源が論じられてきた。その一方で、文化財に指定されている本殿の規模形式の表記は、寺院建築と同様に屋根形式の差異による機械的分類を主体として、それに神社特有の一部の本殿形式を混入したもので、不統一であるし、不適切でもある。本論文では、現行の形式分類を再考し、その一部を、とくに両流造について是正することを提案した。本殿形式の起源については、稲垣榮三によって、土台をもつ本殿・心御柱をもつ本殿・二室からなる本殿に分類されており、学際的に広い支持を受けている。しかし、土台をもつ春日造と流造が神輿のように移動する仮設の本殿から常設の本殿へ変化したものとすること、心御柱をもつ点で神明造と大社造とを同系統に扱うことを認めることができず、それについて批判を行った。土台は小規模建築の安定のために必要な構造部材であり、その成立は仮設の本殿の時期を経ず、神明造と同系統の常設本殿として創始されたものとした。また、神明造も大社造も仏教建築の影響を受けて、それに対抗するものとして創始されたという稲垣の意見を踏まえ、七世紀後半において神明造を朝廷による創始、大社造を在地首長による創始とした。また、「常在する神の専有空間をもつ建築」を本殿の定義とし、神明造はその内部全域が神の専有空間であること、大社造はその内部に安置された内殿のみが神の専有空間であることから、両者を全く別の系統のものとし、後者は祭殿を祖型とする可能性があることなどを示した。入母屋造本殿は神体山を崇敬した拝殿から転化したものとする太田博太郎の説にも批判を加え、平安時代後期における諸国一宮など特に有力な神社において成立した、他社を圧倒する大型の本殿で、調献された多くの神宝を収める神庫を神の専有空間に付加したものとした。そして、本殿形式の分類や起源を論じる際には、神の専有空間と人の参入する空間との関わりに注目する必要があると結論づけた。
後藤, 治 Goto, Osamu
本論は、絵画史料をもとに、平安時代末から江戸時代初頭にかけての店舗の建築とその変遷について検討したものである。中世前半までの初期の店舗は、通りを意識した建築として、おもに既存の町家を改造する形で生まれたと推定される。商品としては、食物・履物等の日用品を扱う店舗で、専門品を扱うものではなかった。店舗は、時代とともに棚を常設化した専用建築へと変化したが、中世前半までは通りとの関係はそれほど強いものではなかった。このため、鎌倉時代末には各地の都市で店舗がみられるようにはなっていたが、店舗が通りに面して軒を連ねる風景はみられなかったと考えられる。それが最初に確認されるのは、一六世紀前半に描かれた『洛中洛外図屏風』歴博甲本においてである。歴博甲本にみられる店舗は、専門品を扱うものが多数を占めており、商品を並べる棚は大きく、棚の構造は仮設的である。この歴博甲本にみられる店舗や棚には、中世に市が通りにおいて行われるようになったことからの影響をみることができる。ただし、歴博甲本にみられる店舗や棚は、通りの市を常設化したものというよりもむしろ、商家が、往来との取引を意識して、契約の場の前にサインとして設けたものと考えられる。一六世紀前半から近世にかけては、商品を陳列する棚と契約の場を、通りに面した部屋で兼ねる商家が多くなる。これによって、店舗の建築と通りとの密接な関係が確立し、近世の町家にみられる通りに面した部屋「ミセ」「ミセノマ」が生まれたものと考えられる。この変化によって、店という語そのものが、商品を置く棚を意味する語から、建物の内部を指す語へと変化した。同時に、商人が契約に使う家屋であった商家は、店舗を併用する商店へと変貌した。
山田, 邦和 Yamada, Kunikazu
桓武天皇の造営した平安宮においては、殿舎や門の左右に翼廊を延ばし、その先端に楼閣を附設するということがしばしば見られた。朝堂院正殿である大極殿、朝堂院南門である応天門、豊楽院正殿である豊楽殿などがその例である。また、最近の調査では、長岡宮においても朝堂院南門が翼廊と楼閣を附設していることが判明した。本稿ではこれらを「楼閣附設建築」と名付け、その意義を考察する。
仲間, 勇栄 篠原, 武夫 Nakama, Yuei Shinohara, Takeo
以上みてきたように, 戦後の島産材市場の特徴は, 前半は薪炭材, 後半は輸出パルプ, チップ材中心であったことがわかる。島内だけに限ってみると, 軍工事や一般建築の動向に規定されたものであった。これらのことは, 島内に建築用材として適当な大径木がなく, 小径木しか生産できないために, 量的にも質的にも外材によって規定され, 島産材市場は外材市場の中にあって, 付随的なかたちでしか展開することができなかった。このように, 島産材市場が衰退していった直接的な要因は, (1)戦前戦後の乱伐によって, 木材需要の増大に対応できる森林資源が枯渇していったこと, (2)既存の森林資源の利用・開発が遅れていること, などの生産基盤の脆弱性を指摘することができるが, 間接的には, 米軍支配下における, 本県林業施策の貧困化が, 大きな要因であろう。
高橋, 敏 Takahashi, Satoshi
大原幽学の東総地域における活動の結晶ともいうべきは、性学教団のシンボル、改心楼であった。改心楼をめぐっては幽学弾圧の端緒となった関東取締出役の手先と博徒の乱入事件がここで引き起こされたことでも著名である。関東取締出役が幽学に疑いを持ったきっかけは改心楼の大造な建築であった。
山田, 岳晴 Yamada, Takeharu
安芸国における神社玉殿の祖型は厳島神社玉殿である。その厳島神社の玉殿は、奈良時代に遡る神座の形式である御帳台に、本殿の形式の一部を取り入れて、すなわち、御帳台という調度を建築化させて成立したものである。その初源的な玉殿の形式は、大型で桁行一間または三間、梁間一間、切妻造、檜皮葺で、著しく床高は低く、見世棚造とせず、面取角柱、舟肘木、豕扠首とし、軒は正面二軒、背面一軒であった。また、その玉殿は本殿内陣の床に直に安置されていた。厳島神社の玉殿は、奈良時代まで遡る御帳台の形式を受け継ぎつつ、独自の形式を持つ神座として分化発展したものである。安芸国に広く分布している中世の玉殿は、祖型である厳島神社玉殿からさらに進化すなわち建築化していったものであり、いわば御帳台から分化した神座の一系統である。
山口, 佳巳 Yamaguchi, Yoshimi
厳島神社の廻廊は、海上に建つ社殿群を繋ぐ渡廊下であり、平清盛により造営が行われた仁安度以来存在する重要な建築である。仁安度社殿は、建永二年(一二〇七)と貞応二年(一二二三)の二度の火災で全焼したが、仁治二年(一二四一)に本社の正遷宮が行われた仁治度再建は、仁安度社殿を踏襲したものとされている。
服部, 洋一 Hattori, Yoichi
要旨:19世紀中頃のスペインのカタルーニャ地方において, 主に文学をその起点として始まったくカタルーニャ・ルネサンス〉(Renaixencaレナシェンサ) は, その後国民的文化・社会運動へと拡大した。カタルーニャは, すでに中世において, 商業を中心にその勢力を地中海に拡大し, 海洋帝国を築いたが, ルネサンス期以後は, 再征服運動の中心的役割を果たしたカスティーリャの中央集権的政治政策に, その政治的主導権を奪われ, カタルーニャはその後幾度も, その地方主義的自主独立性に対する弾圧を受け続けてきた。このような歴史的背景が強く影響して, カタルーニャ・ルネサンスは, カタルーニャの独自性の回復を強く主張するカタルーニャ・ナショナリズムへと発展した。諸芸術(文学・絵画・建築)においても, カタルーニャの歴史的・地理的アイデンティティーを全面に押し出した作品や, あるいはそれを内包する作品が数多く生み出された。絵画や建築の分野では, これまでは, レナシェンサの精神と作品との関連を究明したものも発表されたが, その影響を必ず受けたに違いないカタルーニャ歌曲に関しては, 皆無といってよいほどである。
濱島, 正士 Hamashima, Masaji
中国の福建省地方は、中世初頭の東大寺再建に際して取り入れられ、以後の日本建築に大きな影響を与えた大仏様ときわめて関係が深い地域とされている。その福建省に残る十世紀から十七世紀にかけて建立された古塔について、構造形式、様式手法を通観し、その時代的変遷を考察するとともに、十二世紀以前の仏堂遺構も加えて大仏様との関連を探ってみる。
山田, 岳晴 Yamada, Takeharu
安芸国の一宮である厳島神社(内宮および外宮)は,それぞれの大宮本殿内に六基,客人宮本殿内に五基の玉殿(神体を奉安する小建築)を安置している。その安置は全国的にも極めて早い仁安三年(1168)にまで遡る。また安芸国の主要な神社本殿内を調査した結果,中世玉殿が多く残っており,厳島神社の玉殿は,安芸国の神社本殿における玉殿安置に大きな影響を与えたものと考えられる。
宮内, 久光 大朝, 礼子 Miyauchi, Hisamitsu Ootomo, Reiko
本研究は,那覇市首里地区を対象とし,主要街路沿いの建築物の外壁や屋根,シーサーという景観要素の色彩について現地調査を行った。その結果,大きく二つの「地域の色」が確認できた。第1の「地域の色」は,白系無彩色を基調色とするもので,コンクリート造の個人住宅が卓越する街路沿いでみられる。1960年代以降,沖縄では台風の被害を防ぎ,かつ,米軍施設や外人住宅の建築技術が転用できるコンクリート建造物が盛んに造られた。この色は戦後の沖縄の歴史的,社会的な文脈が埋め込まれ,一般住民により造られた「戦後沖縄の地域の色」である。第2の「地域の色」は,琉球石灰岩をモチーフとした赤~黄の暖色系を基調色とするもので,店舗や事務所,集合住宅が多く立地する幹線道路沿いでみられる。この色は戦前期まで存在した首里地区本来の「伝統的な地域の色」といえる。そして,この「伝統的な地域の色」は,景観行政により復活した創られた色である。このように,首里地区には造られた「戦後沖縄の地域の色」と,創られた「伝統的な地域の色」という二つの「地域の色」が併存していることが明らかになった。
小林, 善帆
本稿は、「花」(いけばな)の最初の様式である「たて花」について、その成立と深い関わりを持つ連歌会・七夕花合・立阿弥の「花」、さらにその相関関係について検討する。いわば「たて花」を、整合性という視点から概括的に捉えることを目的とするものである。また歴史学の観点に立つものではあるが、連歌・連歌会のありようについては国文学、また建築史ほか関係諸分野の研究を随時取り入れ、論を成すものとした。そして以下のことを明らかにした。
屋我, 嗣良 Yaga, Shiryo
建築用木材, 18樹種(本土産材7個, 南方産材5個, 沖縄産材6個)について, 屋外試験と実験室的な試験方法を耐蟻性の立場から比較検討し, 併せて, 比重, 抽出量についても調べた。なお各供試材はイエシロアリに食害させた, その結果, つぎのようなことがわかった1)屋外試験と実験室的な試験方法は抗蟻の傾向はよく似ている。しかし再現性, 信頼性の点で, 実験室的な試験方法は有効と思われる。2)輸入材では一般的に本土産材が抗蟻値が大きい, 本土産材でもモミ, アカガシ, モツコクの順で強く, また南方産材でアピトン, ラーミン, タイワンヒノキの順で強いことが示された。スギで沖縄産のミシヨウスギ, ジスギは本土産のそれより抗蟻性が大きいことがわかった。3)比重と抽出量とは抗蟻値と相関関係はみられなかった。
川崎, 衿子
大正デモクラシーが華やかに進行する時期に、住宅設計・住宅建設に関してプロテスタンティズムの立場から同じような背景をもって活動した三人の人物が存在した。一九〇九(明治四二)年に「あめりか屋」を設立した橋口信助、一九〇七(明治四〇)年に「近江ミッション」を設立したW・M・ヴォーリズ、建築設計を始めた後一九二一(大正一〇)年、「文化学院」を創設した西村伊作らは、共通して伝承的な日本住宅や住まい方を因習と指摘した。そして新時代に相応しい人間形成を望むには住宅の変革を優先課題にすべきであるとして、そのモデルをアメリカの住宅の中に見出した。
赤澤, 真理 AKAZAWA, Mari
本論文は、国文学研究資料館蔵「うつほ物語絵巻」全五巻の絵画表現について、住宅の表現を手がかりに、九州大学図書館蔵「うつほ物語絵巻」全五巻との比較検討を通して、その特質を抽出する。資料館本は、うつほ物語の冒頭の俊蔭を絵画化したもので、全二十八図からなる。源氏物語絵等と比較し、近世においてうつほ物語を絵巻化した作例は少なく貴重である。資料館本及び九州大学本の相違を以下のようにまとめる。第一に、画面構成について、九州大学本は統一された画面に固定的な視点を採るが、資料館本は横長の画面に時間と空間の流れを示した連続的な表現である。第二に、場面選択について、九州大学本は絵巻としての華やかさを重要視したのに対して、資料館本は、臨終の場面や困窮した暮らしの様子、女と若小君の感動的な再会を繰り返し描くなど、物語内容を説明的に描くことを重視している。第三に、住宅の表現について、九州大学本は比較的古式の上流住宅の表現に絞られるのに対し、資料館本は上流から庶民までの階層の住宅を描いており、また同時代の別荘建築で使用された近世的な数寄屋風書院造など、多様な住宅表現が選択されている。九州大学本は、絵画表現において、虚構としての王朝世界を保とうとしたのに対して、資料館本は、近世における新しい、また多様な建築的要素を反映することで、当時の人々が理解のしやすい王朝世界を具体化したといえる。
Snyder, Gary スナイダー, ゲーリー
本稿では那覇の中心部を歩きながら、風景をエコシステムとして考える視点から都市を見る。つまり、戦前からの伝統的な建築物や戦後のコンクリートの建造物まで、都市の「遷移」を、自然観察者の立場から分析してみたい。本稿で描写されているのは1988年の那覇であり、それゆえ本稿は凍結された瞬間を記録したものでもある。あの時点から那覇はだいぶ変容したであろう。しかし、人間だけでなく、地球という惑星も含めて、すべては流動している。ナチュラリストとして、そして詩人として、都市と郊外を健全にすることに貢献したいと思う。ウィルダネスについて書くこともすばらしいことであるが、次に必要なステップは都市のエコロジーを観察し、それについて書くことである。
森田, 直美 MORITA, NAOMI
近世中期から後期には、『源氏物語』を中心とした平安朝文学にあらわれる、装束・調度・建築等を図で示し、注解を施した書が多く著された。本稿では、その中でも特に装束関連の図説書に注目し、江戸後期に成立した『源氏装束図非1式文化考』(国文学研究資料館蔵)、及び『源語図式抄』(大阪府立中之島図書館蔵)を、その一例として取り上げ、紹介する。一条飛良の『花鳥余情』という、『源氏物語』の注釈書でありながら、平安朝装束に関する有職故実書的な性質をもつ書が現われて以降、特に『源氏物語』を素材とし、平安朝の装束・調度に特化した書を再編しようという動きは少なくなかった。その典型的な例の一つとして、江戸中期に著された「源氏男女装束抄」が挙げられる。そして近世後期に至ると、この『源氏男女装束抄』に触発され、これをすすめて『源氏物語』の装束を図説した書が現われてくる。それが『源氏装束図式文化考』であり、「源語図式抄』なのである。
佐喜真, 望 Sakima, Nozomi
本論文では、いち早く労働組合運動とその指導者に好意的な発言を行い、労働組合運動の指導者とも親密な関係にあったリブ=ラブ派資本家の代弁者トマス=ブラッシー二世の1876年から1878年までの、論文、学会発表及び講演記録を資料として、彼の労働諸問題に関する見解の変化の過程を解明した。その結果、ブラッシー二世は、ストライキが賃金に及ぼす影響を条件付きで認め、労使紛争を調停する機構の設置により前向きになった。また、この時期は、いわゆる「世界大不況」がイギリスの産業に暗い影を落とし始めた時期である。不況は労働組合のせいだという見解もあった。しかし、ブラッシー二世は、不況の原因は現場を知らない投資家のせいであるとして、労働組合を擁護した。この結果、労働組合の指導者の彼に対する信頼はさらに高まり、ブラッシー二世が1877年のイギリス労働組合会議で講演を行ったり、逆に、1878年にブラッシーが基調報告を行ったロンドンの建築労働者の賃金問題に関するシンポジウムで、リブ=ラブ派のイデオローグであるジョージ=ハウエルがコメンテーターを務めたりしている。こうして、ブラッシー二世とリブ=ラブ派労働者の関係は、これまで以上に親密なものとなるのである。
井上, 章一
井上, 章一
原, 豊二 HARA, Toyoji
まず手錢家(島根県出雲市)所蔵の三十六歌仙絵三点(屏風二点、画帖一点)の概要を報告する。そして、こうした歌仙絵の収集の背景に、神社に奉納され、掲げられた歌仙額を想定する。山陰地域に伝わる歌仙額、具体的には小鴨神社(鳥取県倉吉市)、八幡神社(鳥取県米子市)、出雲大社(島根県出雲市)などに所蔵される額を考察するが、それらが所在の移動、補修・改修など、複雑な伝来過程を経ている点を特に強調したい。つまり、歌仙額の制作直後になされる最初の奉納時に加え、後代の人物による再利用、再加工にも多くの文化情報が詰め込まれているということである。また、歌仙額のルーツを公家ではなく武家等に求める入口敦志氏の仮説に敷衍し、歌仙額と神社建築との関わりやその歌合的な機能などを考察する。さらに、手錢家の人々が歌仙額を実際に見たことを想定しつつ、「歌仙額」というビジュアルな文学素材の果たした役割を、地方においては際立っていると考えられる手錢家の王朝文学志向の淵源として考えることにする。なお、本稿は国文学研究資料館による基幹研究「近世における蔵書形成と文芸享受」のうち、手錢グループの研究成果として発表するものである。
王, 維坤
二〇〇四年四月頃、陜西省のある建築会社が西安市の東郊でショベルカーによる不法工事をしていて、偶然に唐の都・長安で死去した日本留学生・井真成の墓誌を掘り出した。この墓誌は墓誌蓋と墓誌銘からなる。墓誌蓋は覆斗形を呈し、一辺の長さは三八センチ、厚さは八センチであり、四辺とも文様がなく、灰青石質で、表面に篆書で「贈尚衣奉御井府君墓誌之銘」の一二個の文字が、右から縦書き、四行、行ごとに三字で陰刻してある。その墓誌銘はほぼ正方形を呈し、横の長さは三九~三九・三センチ、縦の長さは三九・八~四〇・三センチ、厚さは一〇センチであり、漢白玉質に属する。墓誌文は陰刻する前に方形格をうち、格ごとに一字、楷書で右から縦書き、全一二行、行ごとに一六個の文字があり、併せて一七一個の文字がある。墓誌銘の文章は短いが、人の注目を集めるのは、墓誌銘の二行目にある「公姓井、字真成。國号日本」という文章である。井真成を含む遣唐使墓誌の発見は、中国で初めてであるばかりでなく、日本の国号も墓誌に初めて出てきたものである。だからこそ、この墓誌には、高い文物価値と研究価値があるに違いない。
小倉, 暢之 ディヴィッド・レオニデス・T・ヤップ 田上, 健一 Ogura, Nobuyuki David Leonides T. Yap Tanoue, Kenichi
上間, 清 福島, 駿介 Uyema, Kiyoshi Fukushima, Shunsuke
國吉, 真哉 町田, 若夏子 Kuniyoshi, Sanechika Machida, Wakako
山川, 哲雄 張, 翠萍 Yamakawa, Tetsuo Chang, Tsui-ping
金城, 光菜野 木島, 真志 大田, 伊久雄 Kinjo, Hinano Konoshima, Masashi Ota, Ikuo
山下, 有美 Yamashita, Yumi
正倉院文書研究の新しい潮流は,1983年開始の東大の皆川完一ゼミ,それを継承した88年開始の大阪市大の栄原永遠男ゼミ,この2つの大学ゼミの形で始まった。その手法は,正倉院文書の現状を,穂井田忠友以来の「整理」によってできた「断簡」ととらえ,その接続関係を確認・推測して,奈良時代の東大寺写経所にあった時の姿に復原する作業を不可欠とする。その作業によって,正倉院文書は各写経事業ごとの群と,複数の写経事業をまたがる「長大帳簿」に大きく整理されていった。よって,個別写経事業研究は写経所文書の基礎的研究として進められ,その成果は大阪市大の正倉院文書データベースとして結実した。一方,写経事業研究を通して,帳簿論や写経所の内部構造,布施支給方法,そして写経生の生活実態といった多様なテーマに挑んだ研究が次々と発表された。これらの新たに「発見」されたテーマと同時並行的に,古くからの正倉院文書研究を引き継ぐ研究も深化し,写経機構の変遷,東大寺・石山寺・法華寺の造営,写経所の財政,写経生や下級官人の実態,表裏関係からみた写経所文書の伝来,正倉院文書の「整理」などの研究もさかんになった。さらに,古代古文書学に正倉院文書の視点を組み込んだ試みや,仏教史の視点から写経所文書を分析した研究も成果をあげてきた。2000年ごろから,他の学問分野が正倉院文書に注目し,研究環境の整備とともに,特に国語・国文学で研究が進められた。ほかにも考古学,美術史,建築学等の研究者も注目しはじめ,学際的な共同研究が進展しつつある。いまや海外からも注目をあびる正倉院文書は人類の文化遺産であり,今後も多彩な研究成果が大いに期待される。
安田, 喜憲
本研究はスギと日本人のかかわりの歴史を花粉分析の手法にもとづき過去七〇万年について論じたものである。スギは約七三万年前の気候の寒冷化と年較差の増加をきっかけとして発展期に入った。同じ頃、真の人類といわれるホモ・エレクトゥスも誕生している。スギと人類は氷期と間氷期が約一〇万年間隔で交互にくりかえす激動の時代に発展期をむかえている。とりわけスギは氷期の亜間氷期に大発展した。しかし三・三万年以降の著しい気候の寒冷化によって、最終氷期の最寒冷期には、孤立分布をよぎなくされた。新潟平野の海岸部、伊豆半島それに山陰海岸部が主たる生育地であった。約一万年前の気候の温暖化と湿潤化を契機として、スギは再び発展期に入った。福井県鳥浜貝塚からは、すでに一万年以上前からスギの板を使用していたことがあきらかとなった。しかし鳥浜貝塚の例をのぞいて、縄文人は一般にスギとかかわることはまれだった。スギと日本人が密接にかかわりを持つのは弥生時代以降のことである。それはスギの生育適地と稲作の適地が重なったためである。とりわけ日本海側の弥生人はスギと深いかかわりをもった。しかし何よりもスギと日本人のかかわりをより密接にしたのは都市の発達であった。都市生活者の増大とともに、スギは都市の庶民の住宅の建築材や醸造業の樽や桶あるいは様々な日用品にいたるまであらゆる側面において日本人の生活ときってもきりはなせない関係を形成した。しかし高度経済成長期以降、安い熱帯材の輸入によって、スギは日本人に忘れ去られた。間伐のゆきとどかないスギの植林地は荒廃し、スギと日本人のかかわりは大きな断絶期を迎えた。地球環境の壊滅的悪化がさけばれる今日、日本人はもう一度スギとともに過ごした過去を思い起こし、森の文化を再認識する必要がある。
中塚, 武 NAKATSUKA, Takeshi
気候変動は人間社会の歴史的変遷を規定する原因の一つであるとされてきたが,古代日本の気候変動を文献史学の時間解像度に合わせて詳細に解析できる古気候データは,これまで存在しなかった。近年,樹木年輪に含まれるセルロースの酸素同位体比が夏の降水量や気温の鋭敏な指標になることが分かり,現生木や自然の埋没木に加えて,遺跡出土材や建築古材の年輪セルロース酸素同位体比を測定することにより,先史・古代を含む過去数百~数千年間の夏季気候の変動を年単位で復元する研究が進められている。その中では,セルロースの酸素同位体比と水素同位体比を組み合わせることで,従来の年輪による古気候復元では難しかった数百~数千年スケールの気候の長期変動の復元もできるようになってきた。得られたデータは,近現代の気象観測データや国内外の既存の低時間解像度の古気候記録と良く合致するだけでなく,日本史の各時代から得られたさまざまな日記の天候記録や古文書の気象災害記録とも整合しており,日本史と気候変動の対応関係を年単位から千年単位までのあらゆる周期で議論することが可能になってきている。まず数百年以上の周期性に着目すると,日本の夏の気候には,紀元前3,2世紀と紀元10世紀に乾燥・温暖,紀元5,6世紀と紀元17,18世紀に湿潤・寒冷の極を迎える約1200年の周期での大きな変動があり,大規模な湿潤(寒冷)化と乾燥(温暖)化が古墳時代の到来と古代の終焉期にそれぞれ対応していた。また人間社会に大きな困難をもたらすと考えられる数十年周期の顕著な気候変動が6世紀と9世紀に認められ,それぞれ律令制の形成期と衰退期に当たっていることなども分かった。年単位の気候データは,文献史料はもとより,酸素同位体比年輪年代法によって明らかとなる年単位の遺跡動態とも直接の対比が可能であり,今後,文献史学,考古学,古気候学が一体となった古代史研究の進展が期待される。
真喜志, 康二 平敷, 兼貴 屋良, 秀夫 Makishi, Yasuji Heshiki, Kenki Yara, Hideo
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