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藤本, 貴子 FUJIMOTO, Takako
本稿では、文化庁国立近現代建築資料館(以下、建築資料館)で収蔵している大髙正人建築設計資料群を事例に、近現代建築資料の編成記述について検討する。大髙正人(1923−2010)は、建築のみならず都市計画の分野でも活躍した建築家である。当該資料群はその活動の幅広さを反映しており、建築設計図面に加えて、大判の都市計画図や大量の報告書等も含まれている。建築資料館は2013年の開館以来、近現代建築資料の収集や展覧会開催を通じての活用とともに、資料整理の方法についても検討を行ってきた。その過程を振り返り、整理方法の再検討を行ったうえで、早期の閲覧公開を実現することを目指す観点から、近現代建築資料の編成記述方法について考察し、今後の課題について述べる。
濱島, 正士 Hamashima, Masashi
日本の寺院・神社の建築には,装飾の一環として各種の塗装・彩色がされている。何色のどんな顔料がどのような組合わせで塗られているのか,それは建築の種類によって,あるいは時代によってどう違うのか,また,建築群全体としてはどのように構成され配置されているのだろうか。これらの点について,古代・中世はおもに絵画資料により,近世は建築遺例により時代を追って概観し,あわせて日本人の建築に対する色彩感覚にもふれてみたい。
濱島, 正士 Hamashima, Masashi
日本建築を詳細に描いた絵画、絵巻・寺社境内図・都市図屏風などの主要な作品について、建築がどのような作図手法で描かれているか、描かれた内容がどの程度史実を伝えているか、を検討して絵画の資料性を探る。あわせて、それらの作品では建築をどうとらえ、どのように描こうとしたのかにもふれる。
井上, 章一
日本に、いわゆる西洋建築がたちだすのは十九世紀の後半からであり、当初は伝統的な日本建築の要素ものこした和洋折衷のものがたくさん建設されている。文明開化期に特徴的なのは、そんな建築のなかに、近世城郭の天守閣を模倣した塔屋をもつデザインのものが、とりわけ金融関係の施設でふえだした点である。じゅうらいは、それを、近代のブルジョワが、封建時代の領主にあこがれてこしらえたのだと、解釈してきたが、拙論では、そこへもうひとつべつの可能性をつけ加えている。十八世紀後半ごろから、織田信長以後の天守閣を、南蛮渡来の建築様式だとみなす見解が普及し、その考え方は、十九世紀末まで維持された。明治維新後、文明開化期につくられた西洋をめざす建築に、天守閣形式の要素がまぎれこんだのも、それがなにほどか南蛮風、西洋的だと思われていたことに一因があるのではないかとする仮説を、ここではたててみたしだいである。
山田, 邦和 Yamada, Kunikazu
桓武天皇の造営した平安宮においては、殿舎や門の左右に翼廊を延ばし、その先端に楼閣を附設するということがしばしば見られた。朝堂院正殿である大極殿、朝堂院南門である応天門、豊楽院正殿である豊楽殿などがその例である。また、最近の調査では、長岡宮においても朝堂院南門が翼廊と楼閣を附設していることが判明した。本稿ではこれらを「楼閣附設建築」と名付け、その意義を考察する。中国では、隋・唐の都城に楼閣附設建築が造られた。洛陽城の宮城の正門である応天門、長安城大明宮の正殿である含元殿がそれであり、また長安城の宮城の正門である承天門も同じ様式の建築であったと推定する。隋・唐の都城では、楼閣附設建築は皇帝が外部の社会と接する場所(「外朝」)に採用されたものであった。桓武天皇はそうした中国都城の要素を取り入れることによって、長岡宮や平安宮に楼閣附設建築を築造したと推定する。
濱島, 正士 Hamashima, Masashi
日本の建築は木造で軸組構造とするのが特徴で、山から木を伐り出して製材し、所定の部材に加工し(木作り)、同時に基壇を築いて礎石を据え、柱を立て梁・桁を組んで棟を上げ、屋根を葺き、造作を取り付け、壁を塗り色を塗り金具を付けるなどして完成する。古代においては、こうした建築工事がどのような工程で進められ、完成までどの位の工期が掛かったのか。工事中には、工事の進捗に合わせてどんな建築儀式が行われたのか。なかでも、工匠の儀式である木作始め、柱立て、棟上げはどのような内容であったのか。それらは中世以降と違ったのか、同じだったのか。以上のような建築生産に係わる問題について、文献史料にもとづき寺院や宮殿の場合を考察する。
清水, 郁郎 SHIMIZU, Ikuro
この報告書では、おもに東南アジア大陸部を含めた諸社会の建築を対象とした研究について、学説史の簡単な整理と現在の到達点を示す。つぎに、「モノと情報」班において近い将来おこなうラオスでの調査に向けて、建築研究の文脈におけるモノ研究の位置づけと可能性について考察する。
青木, 睦 AOKI, Mutsumi
本稿では、アーカイブズの基本的機能を前提としたアーカイブズ建築固有の建築計画の問題や施設のあり方ついて、海外の事例を比較検討し、その結果をもとにアーカイブズ建築・設備の特性について考えてみたい。第1の事例は、アメリカ国立公文書館(カレッジパーク、NATIONAL ARCHIVES AT COLIEGE PARK、通称ArchivesⅡ)、第2として当館・国文学研究資料館の設計・設備および保存環境を報告する。当館の建築設計については、①収蔵資料・アーカイブズの最適な保存環境維持の責務、②利用者と職員の安全と快適性を保証、③地球環境と経済性を考えたランニングコストの軽減、この筆者による3点のポリシーを掲げた事例である。第3例に大韓民国国家記録院Nara、加えてICA/CBQが調査を開始した世界的なアーカイブズの建築設備の報告事例を取り上げる。アーカイブズ建築と設備の特性Iでは、1993年にカレッジパークに設置したArchivesIIについて報告する。この館は、最新鋭技術を投入し、「テクノロジーを活用してアーカイバルレコードを守り」「最良の保管・保存・活用を提供する」機関と自負し、その目的のために、建物および設備がどのように作られているかを『アメリカ国立公文書館技術情報報告書』第13号(1997年)において報告している。保管環境(温度、湿度、空気浄化)、アーカイブズ施設の使用材料と採用不可の材料の質にまでおよぶ詳細な仕様である。また移動棚・書架の仕様、スプリンクラー等の防火設備、電子技術を駆使したセキュリティ・システムにも言及している。この報告書を第1の素材として検討し、その結果を次回の事例と比較検討し、アーカイブズ建築の設備の特性を考察する。
黒田, 龍二 Kuroda, Ryuji
日本各地の祭礼の研究は民俗学を中心に膨大な蓄積がある。一方、建築史学においては、寺社建築の歴史的研究また文化財調査や発掘調査による即物的研究が積み重ねられてきている。近年にいたり、寺院建築に関してはその機能たる法会あるいは寺院社会との関わりに関する研究が深まりつつある。その反面、多くの場合は神社がその場となる祭礼と建築の関係に関する研究は、いまだ緒についていない。その原因は、祭礼が多様な側面をもつ複合的な存在であって、建築との関連を見据える視座が定まらないためである。本稿は、そのような視座の確立を目指して、滋賀県湖北地方のオコナイとその場となる建築との関係について考察した。湖北のオコナイの場となる寺社は、形態的に二種類ある。ひとつは切妻型の大規模な堂で木之本町、余呉町の山間部に十棟、もうひとつは方三間以下の規模の入母屋型のもので、こちらは仏堂・神社本殿の区別がなく、高月町、湖北町を中心とする平野部に約七十棟を数える。これらの建築形態の相違に関係するのは宮座行事であり、儀礼的な飲食を中心とするシュウシ=座の行事が、切妻型では堂で行われ、入母屋型では頭屋宅で行われる。シュウシを堂で行う場合は村人の人数に限りがあるが、頭屋宅で行うなら村内を組分けしてそれぞれに頭屋をおけばよいから、村の発展と人口の増加に対応できる。切妻型のオコナイはモロト=村の有力者主導の形跡があり、中世的な組織に起源をもつ。入母屋型のオコナイでは村人の平等原理、座敷をもつ民家の広範な成立が社会条件であり、それは近世後半以後近代へかけての村落社会の発展に対応したものである。祭礼と建築の関係を見るには、祭祀、芸能風流、人的組織などのどの事項が場の形態に関わるのかを検討することが有効である。オコナイを宮座行事としてみるなら、比較対象となる事例の範囲は一挙にひろがることになるのである。
飛田, ちづる
本論は、国立近現代建築資料館に筆者が在籍していた当時、担当した村田豊建築設計資料を主に、資料館全体の保存管理について整理し、建築資料の保存管理について、資料館の運営を含めて考察したものである。 建築資料は、多様な形態であり、一つの資料群に含まれる量も様々である。資料館に収蔵されている資料は、特定の建築家が設計事務所で用いた資料、作成した資料、或いは大規模プロジェクトの資料が大半を占めている。 資料館の開館当初は、資料館自体の広報が中心事業であり、展覧会もその目的を果たすために開催された。従って資料の体系的な整理、保存管理、利用に供するためのデータベースの作成のための目録作成は、すぐに行われていなかったと思われる。 村田豊建築設計資料は、アイテムレベルの目録を作成し、半分は公開できた。残りは、精査を終えた後、公開できる。高精細画像も、一部を除いて作成済みである。保存管理については、収蔵場所の観点から大きさと材質を主軸に整理したが、改良の余地がある。 筆者在籍中に進捗の見られる点もあったが、担当者が複数の資料群を担当し、資料群のアイテム数が数千点から一万点以上に及ぶことを考えると、資料館全体の保存管理を含めて再検討の余地がある。 業務の進捗管理を担う人材の配置、作業計画の定期的な見直しと、計画に沿った業務実施など、不測の事態も含めて対応の可能なように体制を整えていくことが求められる。
中尾, 七重 渡辺, 洋子 坂本, 稔 今村, 峯雄 Nakao, Nanae Watanabe, Yoko Sakamoto, Minoru Imamura, Mineo
放射性炭素年代測定を文化財建築遺構に適用し,その有効性を明らかにした。事例として,国宝大善寺本堂,旧土肥家本家住宅,旧土肥家隠居屋住宅,重要文化財三木家住宅の年代調査結果を報告する。文化財建造物を測定する場合の部材選択や試料採取の方法を示した。部材最外層年代から建築の年代情報を得るために,部材の年代測定から建物の年代判定へ研究発展の必要性を指摘した。
山田, 岳晴 Yamada, Takeharu
安芸国における神社玉殿の祖型は厳島神社玉殿である。その厳島神社の玉殿は、奈良時代に遡る神座の形式である御帳台に、本殿の形式の一部を取り入れて、すなわち、御帳台という調度を建築化させて成立したものである。その初源的な玉殿の形式は、大型で桁行一間または三間、梁間一間、切妻造、檜皮葺で、著しく床高は低く、見世棚造とせず、面取角柱、舟肘木、豕扠首とし、軒は正面二軒、背面一軒であった。また、その玉殿は本殿内陣の床に直に安置されていた。厳島神社の玉殿は、奈良時代まで遡る御帳台の形式を受け継ぎつつ、独自の形式を持つ神座として分化発展したものである。安芸国に広く分布している中世の玉殿は、祖型である厳島神社玉殿からさらに進化すなわち建築化していったものであり、いわば御帳台から分化した神座の一系統である。他国と比べて安芸国において玉殿が広く分布し、中世の玉殿が大量に残っているのは、一宮である厳島神社が玉殿を安置する形態を採ったためである。厳島神社から始まった玉殿は、中世後期において安芸国の村落の中心的神社、いわゆる村の鎮守社級の規模の神社まで広く普及していった。その普及過程における神社の格式や経済的規模の差を反映して、見世棚造や高床や長柿葺の採用などがおこる。そうした変化はさらなる本殿の形式の取り入れという建築化であり、同時に低廉化も進行していった。近世においては、さらなる玉殿の普及が進み、安芸国の神社は小祠まで、ほとんどすべてが玉殿を安置するに至った。それらの玉殿の形式の変化は、単なる神体の容れ物となる箱形化と、微細な部品を膠で接着し組立てる工芸品化への分化であり、いずれも非建築化であった。これら玉殿の変化は、すべて神社建築の流れに帰結するものであり、寺院建築様式が関係したものではない。玉殿という建築形式は神社において独自に形成されたものであった。
横山, 操 伊東, 隆夫 川井, 秀一 尾嵜, 大真 坂本, 稔 今村, 峯雄 光谷, 拓実 窪寺, 茂 濵島, 正士 Yokoyama, Misao Itoh, Takao Kawai, Shuichi Ozaki, Hiromasa Sakamoto, Minoru Imamura, Mineo Mitsutani, Takumi Kubodera, Shigeru Hamashima, Masaji
我が国に多数現存する歴史的木造建築群は,それ自体が実証編年を示しており,歴史文化的価値が非常に高い。このことから,著者らは,歴史的建造物由来古材が単なる建築史資料として重要であるばかりでなく,出自の明確な歴史的木質材料としての価値を有することに着目した。そして,それらを材料工学的試料として捉える上で必要となる古材の年代を得るための試みとして,飛鳥期から現代までの歴史的建造物由来試料9点を選定し,年輪年代と¹⁴Cウィグルマッチ法による年代,ならびに古材に関する建築史的情報とを複合的に比較検討し,それぞれの古材試料に関する基本情報を抽出した。
有富, 純也 Aritomi, Junya
本稿は、神社社殿の成立時期について、律令国家との関係に注目しながら検討し、また、摂関期の国家と神社の関係についても論及するものである。神社社殿がいつ、どうして成立したかについては、多く研究があるものの、これまでの研究成果を充分に消化しつつ、論じたものはあまり存在しないと思う。そこで❶章では、あらためて研究史整理を行い、神社社殿成立の時期について詳細に検討した。その結果、①律令国家の成立と神社社殿の成立はほぼ同時期であること、②律令国家成立以前の宗教施設には、大きく分類して、建築物を有しないモリと、建築物が付随するホクラがあること、以上二つの仮説を得た。❷章では、ホクラと神社社殿の関係について、中国の「社」のあり方や平安時代の記録を用いて検証した。中国の宗教施設である「社」は建築物を伴わないことから、神社建築は中国の影響を受けない日本固有のものであると推測した。とすれば、七世紀以前に存在したホクラが神社建築に深く関係すると考えることもできよう。律令国家成立期、祈年祭を中心とした班幣制度を創始するにあたり、地方に幣帛を納める宗教施設として、建築物を伴う「神社」も創出されたのではないか。❸章では、❶章の仮説①を検討するべく、律令国家が転換した十世紀以降における神社社殿と摂関期の国家・受領の関係について考えた。受領の神拝や神社修理について検討した結果、十世紀以降の神社社殿は、受領が社殿の繁栄や退転に大きく関係していることが判明した。律令期との相違は若干あるものの、摂関期の受領や国家などの支配者が神社社殿の維持に大きな役割を果たしたことは間違いないようである。律令国家は、神社社殿成立に深く関与しており、また、摂関期においても受領が中心となって社殿を維持していたと結論づけた。
横山, 操 杉山, 淳司 川井, 秀一 坂本, 稔 Yokoyama, Misao Sugiyama, Junji Kawai, Shuichi Sakamoto, Minoru
著者らは,歴史的建造物由来古材が単なる建築史資料として重要であるばかりではなく,出自の明確な歴史的木質材料としての価値を有することに着目し,材料工学的資料として捉える上で必要となる材料の履歴を得るための試みとして,古材の年代評価に取り組んでいる。ここでは,本願寺(通称・西本願寺)御影堂門の建築部材を対象としてAMSによる¹⁴C年代測定を行った結果について,本願寺の沿革から御影堂門の成立についての史資料,ならびに解体修理の際に発見された記銘瓦に刻印された年号などの情報と矛盾の無い結果が得られたことを報告する。
徐, 蘇斌
明治末期、日本では国民意識の形成と共に、日本文化への関心が高まりを見せた。日本の文化のルーツを探すため、多くの日本人研究者は朝鮮、中国、蒙古などの地域へ調査に向かった。関野貞(一八六八―一九三五)は東アジアの建築史、美術史、考古学の領域の研究において注目すべき業績を残した研究者である。彼の研究経歴はそのまま近代日本の東洋研究の縮図といえる。本稿では、関野の六〇〇余枚に上る調査帖を中心にして、一九〇六年から一九三五年にいたる前後十回にわたる中国におけるフィールドワークを考察した。さらに、論者は関野の調査活動を通して、日本研究者のナショナル・アイデンティティー、学術研究と植民地政治の関連性、植民地と文化遺産の保存などの問題を論じた。また、満州事変以前の日中における学術交流、ならびに中国に及ぼせる日本建築史学研究の影響などの問題にも言及した。
柳沢, 英輔
本稿は,ベトナム中部高原に居住する山岳少数民族の伝統的な高床式集会施設「ニャーロン」を対象とする。ニャーロンのデザインは中部高原の各少数民族の伝統的な建築様式に基づいている。ニャーロンは古くより中部高原山岳少数民族の社会生活に重要な役割を果たしてきたが,近年,一部の地域では,森林資源の枯渇,キリスト教の普及,市場経済化以後の村人の生活スタイルの変化などを背景に,ニャーロンの役割や建築様式,落成式の儀礼内容に変化が見られる。本稿では,フィールド調査で得た民族誌的資料と文献資料に基づき,コントゥム省,ジャライ省におけるニャーロンの現状について考察する。
高橋, 敏 Takahashi, Satoshi
大原幽学の東総地域における活動の結晶ともいうべきは、性学教団のシンボル、改心楼であった。改心楼をめぐっては幽学弾圧の端緒となった関東取締出役の手先と博徒の乱入事件がここで引き起こされたことでも著名である。関東取締出役が幽学に疑いを持ったきっかけは改心楼の大造な建築であった。幽学はじめ関係者は江戸訴訟のなかで、質素を趣旨とした道友の寄進にもとづく簡素な建築物であると弁明している。改心楼建築に関しては、その普請の過程の中で作成された第一次史料が多数のこされている。嘉永二年(一八四九)四月十五日の「絵図面定幷材木見立」から翌三年正月十九日の「開校」まで道友寄進の「土普請」から大工方、屋根、畳、石工、左官の職人を雇い入れての建物本体の建造、つづいて家具、食器、蒲団、蚊帳等の生活用具の購入までを実証する。また同時に動員された道友の労働力を克明に追求した。道友の寄進行為こそ、大原幽学の性学教団の力量をはかるバロメーターであるからである。江戸訴訟の際、評定所に提出された幽学側の改心楼建築の費用は金九九両余、これを九名の有力な道友が立て替えたと申告している。ところが普請関係の諸帳面を精査したところ、実際は金四四九両余も費しており、申告の四・五倍にのぼる。しかも、幽学は江戸まで出かけ主要な木材を買い付け、ぜいたく品と思しき道具類まで著名な大店から購入している。これだけでも金七二両余に及んでいる。改心楼造営に動員した道友は一八〇日間で四四三二人に達し、二四カ村を包括している。幽学の改心楼造営がこの地域に与えた影響を、決して過小評価することは出来ない。規模といい、建築費用といい、動員された道友の数と広がりといい、関東取締出役が疑いを抱くのは一面当然であったともいえる。改心楼は江戸訴訟の敗北とともに取り毀され、廃墟と化した。今その偉容はのこされた二幅の絵画で偲ぶのみである。
中尾, 七重 Nakao, Nanae
これまで現存遺構のうち社寺建築の年代測定については年輪年代学が大きな成果をあげているが,民家の多くは樹種が適合せず,高精度年代測定は行われていない。庶民住居である民家は記録が少なく,重要文化財などの指定を受けた民家でも,建築年代が判明していないものが多い。これらの民家の建築年代が特定できるならば,民家の歴史的価値を高め,民家研究,生活史,地域史など,多くの研究分野に有用である。本研究では民家研究の立場から,放射性炭素年代測定の可能性,有効性について検討した。民家の建築年代が判明すると,文化財基礎データが充実し,民家の復原編年がより実証的になる。すなわち,民家研究における建築年代推定や民家形式変遷研究は痕跡復原と編年に基づくが,この型式編年の重要な点での年代が明らかになることで,編年はより実証的となる。さらに,民家研究と文献史等歴史研究との連繋研究や広域研究について,縦割り型民家を事例として,放射性炭素年代測定がもたらす研究の可能性を述べた。研究報告事例として,2004年度に,国立歴史民俗博物館基盤研究「高精度年代測定法の活用による歴史資料の総合的研究」で行った重要文化財関家住宅の事例と,2005年度に,基盤研究「高精度年代測定法の活用による歴史資料の総合的研究」と財団法人福武学術文化振興財団研究助成「AMS分析による成立期近世民家の年代判定」の共同研究によって行った,重要文化財箱木家住宅および重要文化財吉原家住宅の事例を報告する。また,箱木家住宅・吉原家住宅のほか,吉村家住宅,三木家住宅,滝沢本陣横山家住宅,旧泉家住宅の試料採取の経験から,これら古民家の試料採取の方法を述べた。古民家を対象とした放射性炭素年代測定研究が,民家研究者や文化財建造物の保存維持に努力される多くの方々に信頼される成果をあげてゆくために,事例研究を豊富に進めてゆくこと,試料情報を明らかにし,製材時除去年輪数についての研究を進めてゆくこと,年輪年代学など他の高精度年代測定との連携を深めることが必要である。
後藤, 治 Goto, Osamu
本論は、絵画史料をもとに、平安時代末から江戸時代初頭にかけての店舗の建築とその変遷について検討したものである。中世前半までの初期の店舗は、通りを意識した建築として、おもに既存の町家を改造する形で生まれたと推定される。商品としては、食物・履物等の日用品を扱う店舗で、専門品を扱うものではなかった。店舗は、時代とともに棚を常設化した専用建築へと変化したが、中世前半までは通りとの関係はそれほど強いものではなかった。このため、鎌倉時代末には各地の都市で店舗がみられるようにはなっていたが、店舗が通りに面して軒を連ねる風景はみられなかったと考えられる。それが最初に確認されるのは、一六世紀前半に描かれた『洛中洛外図屏風』歴博甲本においてである。歴博甲本にみられる店舗は、専門品を扱うものが多数を占めており、商品を並べる棚は大きく、棚の構造は仮設的である。この歴博甲本にみられる店舗や棚には、中世に市が通りにおいて行われるようになったことからの影響をみることができる。ただし、歴博甲本にみられる店舗や棚は、通りの市を常設化したものというよりもむしろ、商家が、往来との取引を意識して、契約の場の前にサインとして設けたものと考えられる。一六世紀前半から近世にかけては、商品を陳列する棚と契約の場を、通りに面した部屋で兼ねる商家が多くなる。これによって、店舗の建築と通りとの密接な関係が確立し、近世の町家にみられる通りに面した部屋「ミセ」「ミセノマ」が生まれたものと考えられる。この変化によって、店という語そのものが、商品を置く棚を意味する語から、建物の内部を指す語へと変化した。同時に、商人が契約に使う家屋であった商家は、店舗を併用する商店へと変貌した。
三浦, 正幸 Miura, Masayuki
寺院の仏堂に比べて、神社本殿は規模が小さく、内部を使用することも多くない。しかし、本殿の平面形式や外観の意匠はかえって多種多様であって、それが神社本殿の特色の一つと言える。建築史の分野ではその多様な形式を分類し、その起源が論じられてきた。その一方で、文化財に指定されている本殿の規模形式の表記は、寺院建築と同様に屋根形式の差異による機械的分類を主体として、それに神社特有の一部の本殿形式を混入したもので、不統一であるし、不適切でもある。本論文では、現行の形式分類を再考し、その一部を、とくに両流造について是正することを提案した。本殿形式の起源については、稲垣榮三によって、土台をもつ本殿・心御柱をもつ本殿・二室からなる本殿に分類されており、学際的に広い支持を受けている。しかし、土台をもつ春日造と流造が神輿のように移動する仮設の本殿から常設の本殿へ変化したものとすること、心御柱をもつ点で神明造と大社造とを同系統に扱うことを認めることができず、それについて批判を行った。土台は小規模建築の安定のために必要な構造部材であり、その成立は仮設の本殿の時期を経ず、神明造と同系統の常設本殿として創始されたものとした。また、神明造も大社造も仏教建築の影響を受けて、それに対抗するものとして創始されたという稲垣の意見を踏まえ、七世紀後半において神明造を朝廷による創始、大社造を在地首長による創始とした。また、「常在する神の専有空間をもつ建築」を本殿の定義とし、神明造はその内部全域が神の専有空間であること、大社造はその内部に安置された内殿のみが神の専有空間であることから、両者を全く別の系統のものとし、後者は祭殿を祖型とする可能性があることなどを示した。入母屋造本殿は神体山を崇敬した拝殿から転化したものとする太田博太郎の説にも批判を加え、平安時代後期における諸国一宮など特に有力な神社において成立した、他社を圧倒する大型の本殿で、調献された多くの神宝を収める神庫を神の専有空間に付加したものとした。そして、本殿形式の分類や起源を論じる際には、神の専有空間と人の参入する空間との関わりに注目する必要があると結論づけた。
中尾, 七重 坂本, 稔 今村, 峯雄 永井, 規男 西島, 眞理子 モリス, マーティン 丸山, 俊明 Nakao, Nanae Sakamoto, Minoru Imamura, Mineo Nagai, Norio Nishijima, Mariko Morris, Martin Maruyama, Toshiaki
放射性炭素年代測定を用いた住まいの建築年代調査において,庶民住居である民家と上層住宅の¹⁴C年代調査法の比較研究を行った。民家3棟と住宅4棟の事例報告を行い,年代調査の目的と,¹⁴C年代調査に適した部材選択の条件について検討した。¹⁴C年代調査は,民家では建築年代に30年程度の幅を持っていても民家研究に有効である。一方住宅では,由緒につながる建築年の是非を明らかにすることが要求される。このように,民家と住宅では目的や意義が違うため,要求される年代の性質が異なることが分かった。そして目的に沿った部材選択をすることで,民家に対しても,住宅に対しても効果的な結果の得られることが判明した。民家の辺材や皮付きの用材や,芯持ちで年輪幅の大きい用材は¹⁴C年代調査に適しており,古材や前身建物の再利用材を見分けて部材選択を行うことが重要である。住宅の年輪幅の狭い四方柾の用材は¹⁴C年代調査に不適であり,小屋材など辺材や皮付きの用材を選択するのが良い。また数寄屋で用いられる面皮や白太の部材は¹⁴C年代調査に適している。このように,民家と住宅で,調査目的に対応した部材選択や年代考察の方法を明らかにした。
仲間, 勇栄 篠原, 武夫 Nakama, Yuei Shinohara, Takeo
以上みてきたように, 戦後の島産材市場の特徴は, 前半は薪炭材, 後半は輸出パルプ, チップ材中心であったことがわかる。島内だけに限ってみると, 軍工事や一般建築の動向に規定されたものであった。これらのことは, 島内に建築用材として適当な大径木がなく, 小径木しか生産できないために, 量的にも質的にも外材によって規定され, 島産材市場は外材市場の中にあって, 付随的なかたちでしか展開することができなかった。このように, 島産材市場が衰退していった直接的な要因は, (1)戦前戦後の乱伐によって, 木材需要の増大に対応できる森林資源が枯渇していったこと, (2)既存の森林資源の利用・開発が遅れていること, などの生産基盤の脆弱性を指摘することができるが, 間接的には, 米軍支配下における, 本県林業施策の貧困化が, 大きな要因であろう。
藤田, 盟児 Fujita, Meiji
宮島にある厳島神社の門前町には,オウエという吹き抜けになった部屋をもつ町家群があり,中部・北陸地方の町家形式に酷似する。平成17年度から18年度にかけて実施した伝統的建造物群保存対策調査で,それらの建造年代を形式や技法の新旧関係から推定する編年を行ったが,18世紀後期と推定した田中家住宅と飯田家作業所について¹⁴C年代調査を行ったところ,両方とも17世紀後期の建築である可能性が高まった。このことから,厳島神社門前町の町家建築の編年を見直して,¹⁴C年代調査が民家調査の編年に及ぼす影響について述べた。さらに,両遺構はこれまで実在しないと思われていた17世紀の平屋の町家建築である可能性が高まったので,従来は洛中洛外図屏風など中世末期から近世にかけての絵画史料や文献史料で行われてきた中近世移行期の民家史と都市史に新たな知見をもたらす非常に重要な町家遺構であることを述べた。そして最後に,伝建調査では吹き抜けになったオウエをもつ町家形式が中近世移行期の町家の形状を残す古い形式である可能性があることを示したが,厳島神社門前町の町家遺構の年代観の変化と,関連する史料と類例の追加によって,それについても修正し,町家形式の変遷過程に対する展望として提示した。厳島神社門前町の町家は,そうした全国の類例の中でも間口が狭く,中世の町家の特色をよく残していると推測されるが,それは厳島が中世の住民と都市環境を近世まで継承した希有な宗教都市であったという歴史の反映であると考えられる。
服部, 洋一 Hattori, Yoichi
要旨:19世紀中頃のスペインのカタルーニャ地方において, 主に文学をその起点として始まったくカタルーニャ・ルネサンス〉(Renaixencaレナシェンサ) は, その後国民的文化・社会運動へと拡大した。カタルーニャは, すでに中世において, 商業を中心にその勢力を地中海に拡大し, 海洋帝国を築いたが, ルネサンス期以後は, 再征服運動の中心的役割を果たしたカスティーリャの中央集権的政治政策に, その政治的主導権を奪われ, カタルーニャはその後幾度も, その地方主義的自主独立性に対する弾圧を受け続けてきた。このような歴史的背景が強く影響して, カタルーニャ・ルネサンスは, カタルーニャの独自性の回復を強く主張するカタルーニャ・ナショナリズムへと発展した。諸芸術(文学・絵画・建築)においても, カタルーニャの歴史的・地理的アイデンティティーを全面に押し出した作品や, あるいはそれを内包する作品が数多く生み出された。絵画や建築の分野では, これまでは, レナシェンサの精神と作品との関連を究明したものも発表されたが, その影響を必ず受けたに違いないカタルーニャ歌曲に関しては, 皆無といってよいほどである。
濱島, 正士 Hamashima, Masaji
中国の福建省地方は、中世初頭の東大寺再建に際して取り入れられ、以後の日本建築に大きな影響を与えた大仏様ときわめて関係が深い地域とされている。その福建省に残る十世紀から十七世紀にかけて建立された古塔について、構造形式、様式手法を通観し、その時代的変遷を考察するとともに、十二世紀以前の仏堂遺構も加えて大仏様との関連を探ってみる。
宮内, 久光 大朝, 礼子 Miyauchi, Hisamitsu Ootomo, Reiko
本研究は,那覇市首里地区を対象とし,主要街路沿いの建築物の外壁や屋根,シーサーという景観要素の色彩について現地調査を行った。その結果,大きく二つの「地域の色」が確認できた。第1の「地域の色」は,白系無彩色を基調色とするもので,コンクリート造の個人住宅が卓越する街路沿いでみられる。1960年代以降,沖縄では台風の被害を防ぎ,かつ,米軍施設や外人住宅の建築技術が転用できるコンクリート建造物が盛んに造られた。この色は戦後の沖縄の歴史的,社会的な文脈が埋め込まれ,一般住民により造られた「戦後沖縄の地域の色」である。第2の「地域の色」は,琉球石灰岩をモチーフとした赤~黄の暖色系を基調色とするもので,店舗や事務所,集合住宅が多く立地する幹線道路沿いでみられる。この色は戦前期まで存在した首里地区本来の「伝統的な地域の色」といえる。そして,この「伝統的な地域の色」は,景観行政により復活した創られた色である。このように,首里地区には造られた「戦後沖縄の地域の色」と,創られた「伝統的な地域の色」という二つの「地域の色」が併存していることが明らかになった。
屋我, 嗣良 Yaga, Shiryo
建築用木材, 18樹種(本土産材7個, 南方産材5個, 沖縄産材6個)について, 屋外試験と実験室的な試験方法を耐蟻性の立場から比較検討し, 併せて, 比重, 抽出量についても調べた。なお各供試材はイエシロアリに食害させた, その結果, つぎのようなことがわかった1)屋外試験と実験室的な試験方法は抗蟻の傾向はよく似ている。しかし再現性, 信頼性の点で, 実験室的な試験方法は有効と思われる。2)輸入材では一般的に本土産材が抗蟻値が大きい, 本土産材でもモミ, アカガシ, モツコクの順で強く, また南方産材でアピトン, ラーミン, タイワンヒノキの順で強いことが示された。スギで沖縄産のミシヨウスギ, ジスギは本土産のそれより抗蟻性が大きいことがわかった。3)比重と抽出量とは抗蟻値と相関関係はみられなかった。
赤澤, 真理 AKAZAWA, Mari
本論文は、国文学研究資料館蔵「うつほ物語絵巻」全五巻の絵画表現について、住宅の表現を手がかりに、九州大学図書館蔵「うつほ物語絵巻」全五巻との比較検討を通して、その特質を抽出する。資料館本は、うつほ物語の冒頭の俊蔭を絵画化したもので、全二十八図からなる。源氏物語絵等と比較し、近世においてうつほ物語を絵巻化した作例は少なく貴重である。資料館本及び九州大学本の相違を以下のようにまとめる。第一に、画面構成について、九州大学本は統一された画面に固定的な視点を採るが、資料館本は横長の画面に時間と空間の流れを示した連続的な表現である。第二に、場面選択について、九州大学本は絵巻としての華やかさを重要視したのに対して、資料館本は、臨終の場面や困窮した暮らしの様子、女と若小君の感動的な再会を繰り返し描くなど、物語内容を説明的に描くことを重視している。第三に、住宅の表現について、九州大学本は比較的古式の上流住宅の表現に絞られるのに対し、資料館本は上流から庶民までの階層の住宅を描いており、また同時代の別荘建築で使用された近世的な数寄屋風書院造など、多様な住宅表現が選択されている。九州大学本は、絵画表現において、虚構としての王朝世界を保とうとしたのに対して、資料館本は、近世における新しい、また多様な建築的要素を反映することで、当時の人々が理解のしやすい王朝世界を具体化したといえる。
松尾, 恒一 Matsuo, Koichi
本稿は、職能者の技術と呪術の考究を目的として、高知県東部の物部村における杣職を主たる事例として論じるものである。杣とは伐木に従事する職能者であるが、その職にともなう民俗的な慣行は木に宿るとされる木魂や、山の神やその眷属に対する信仰に基づくものが多い。伐木の際に木魂を奥山の山の神のもとへ送り返す〝木魂送り〟の法や、神木を切った際に切り株を鎮める”株木鎮め“の法がこれで、これら杣によって実践された呪的な作法は「杣法」と呼ばれた。これらの作法は、職の道具である手釿等を祭具として行われた点に特色を認めることができるが、特に形状・形態に特殊条件を備えた道具が呪術的な力を発揮するものと信仰された。当村は、「いざなぎ流」と呼ばれる民間宗教が伝承される地域としても知られるが、本宗教に取り込まれた杣法があった。本来杣職によって行われていた杣法を核として、さらに呪術的な性格の強い式法として実践された。杣法などの民俗的慣行は、斧と鋸で作業を行っていた昭和三十年代まで行われていたものであるが、チェーンソーや集材機などの機械の導入や、営林署・労働組合の利益追求のための皆伐・密植など林業の大変革の中で急速に衰退していった。なお筆者はすでに、当地域における職能者の木魂の信仰について、大工の建築儀礼を中心に論じた「物部村の職人と建築儀礼」を公にしているが、本稿はこの続考となるものでもある。
山田, 岳晴 Yamada, Takeharu
安芸国の一宮である厳島神社(内宮および外宮)は,それぞれの大宮本殿内に六基,客人宮本殿内に五基の玉殿(神体を奉安する小建築)を安置している。その安置は全国的にも極めて早い仁安三年(1168)にまで遡る。また安芸国の主要な神社本殿内を調査した結果,中世玉殿が多く残っており,厳島神社の玉殿は,安芸国の神社本殿における玉殿安置に大きな影響を与えたものと考えられる。本稿では,まず,厳島神社本殿内のものでは現存最古となる宝暦十年(1760)再造の外宮である地御前神社(広島県廿日市市地御前)の玉殿について詳細な実地調査を行って,外宮玉殿についてその特色について考察し,その内宮である厳島神社(広島県廿日市市宮島町)の玉殿の形式を忠実に継承してきたことを示す。次に,厳島神社の玉殿の規模形式および各部材の細部意匠や寸法などについて,永禄十二年(1569)の「造営材木注文」および嘉禎三年(1237)の「造伊都岐島社内宮御玉殿荘厳調度用途等注進状案」等に古図二葉を加えた,厳島神社の文献史料に基づいて詳細に検討を行い,外宮玉殿についての学術実地調査の成果を踏まえた上で,仁治二年(1241)本殿再建時の内宮玉殿の復元案を提示する。また,切妻造で見世棚としないことや角柱の使用および床高の低さなど,復元した玉殿に見られる建築的特質について述べ,厳島神社の玉殿は,安芸国の玉殿の普及,発展,変化に大きく関わりがあったことを明らかとし,安芸国における玉殿の起源であったことを示す。
Snyder, Gary スナイダー, ゲーリー
本稿では那覇の中心部を歩きながら、風景をエコシステムとして考える視点から都市を見る。つまり、戦前からの伝統的な建築物や戦後のコンクリートの建造物まで、都市の「遷移」を、自然観察者の立場から分析してみたい。本稿で描写されているのは1988年の那覇であり、それゆえ本稿は凍結された瞬間を記録したものでもある。あの時点から那覇はだいぶ変容したであろう。しかし、人間だけでなく、地球という惑星も含めて、すべては流動している。ナチュラリストとして、そして詩人として、都市と郊外を健全にすることに貢献したいと思う。ウィルダネスについて書くこともすばらしいことであるが、次に必要なステップは都市のエコロジーを観察し、それについて書くことである。
菅, 豊 Suga, Yutaka
本稿で取り扱う小屋は,主屋近接型と主屋遠隔型の中間にあたるものである。それは漁撈(特にサケの内水面漁撈)にともなうもので,主屋との距離は比較的近いにもかかわらず,その居住性は高く,特定時期のベースキャンプとなっている。しかし,定住し小屋を主屋化することはない。本稿ではこの伝統的サケ小屋の基本形態,そして,その生成,維持,利用形態に関して,サケ漁という特殊な技術,漁場使用などの実際の活動が,いかなる影響を与えているか考察する。サケは冬の寒期に限定して捕れる魚種なので,サケ小屋には竪穴形式や,小屋脇に土盛する技術など保温,防寒の工夫が施されている。また,いずれも簡便で仮設性に富んでいる。これはサケの漁法や漁場使用慣行と密接に関わっており,おおむね漁法が小型で,固定的であり,個人的な漁撈活動を営む形式――「待つ」漁業――に,このような小屋が付随する。ヤナなど固定的な漁法であっても,多くの人数で行う集団漁の場合は,小型のサケ小屋では間に合わなくなり,常設的な大型の構造物を持たざるをえない。また漁場的には漁区割り制度などでもって,各漁撈従事者が個別的なテリトリーを1シーズン中占有するが,翌シーズンには必ずしも同じテリトリーを占有できるとは限らないような漁場使用の場合に,一般的にサケ小屋が構築されるといえよう。「待つ」漁業の持つ,シーズン中の固定性と,シーズンごとの移動性という性質が,小型の非恒久的構築物を必要とするのである。サケ小屋は「出作り小屋」や,マタギの「狩り小屋」のように,居住する集落からの遠隔性により成立した建築物ではなく,漁撈活動に関わっている時間の間欠的連続性により,希求された建築物であるといえる。寒気の中,長時間の待機が要求される状況がこの小屋を発生させたともいえる。
山口, 佳巳 Yamaguchi, Yoshimi
厳島神社の廻廊は、海上に建つ社殿群を繋ぐ渡廊下であり、平清盛により造営が行われた仁安度以来存在する重要な建築である。仁安度社殿は、建永二年(一二〇七)と貞応二年(一二二三)の二度の火災で全焼したが、仁治二年(一二四一)に本社の正遷宮が行われた仁治度再建は、仁安度社殿を踏襲したものとされている。厳島神社に関する研究は少なくないが、仁治度廻廊の状況については福山敏男博士の研究に限られる。しかし、福山博士は大凡の各部形式の指摘をするのみで、復元図を作成するには至っていない。本稿は、仁治度再建に当たって必要な材木を記した、暦仁二年(一二三九)の「伊都岐島社未造分屋材木等注進状」を主たる史料として仁治度廻廊を細部に至るまで詳しく復元考察するものである。復元考察の結果、仁治度廻廊は、現在の廻廊の規模及び構造形式と概ね同じとしてよいが、細部において僅かながら異なる点が見られる。そのうち特筆すべき点は、従来指摘されてきたように雁字板を付すことや大棟を木製の瓦木とすることに加えて、組物の内側を舟肘木とし外側を大斗としていたことである。また、現状の非常識とも言える薄さの扠首竿とその上に載る斗は、仁治度まで遡るものであったことを立証した。なお、福山博士は仁治度廻廊が掘立柱であったと主張しているが、柱材の長さから礎石建であった可能性が高いと言える。したがって、現在の廻廊は、永禄から慶長年間(一五五八~一六一五)の再建ではあるが、一部の細部意匠を除けば、仁治度廻廊をよく踏襲するものと評価することができる。加えて、復元の過程で往時の建築部材名称もほぼ明らかとなった。仁治度廻廊を復元できたことは、これまで漠然としていた仁安度の姿を考究する足掛かりともなるであろう。
川崎, 衿子
大正デモクラシーが華やかに進行する時期に、住宅設計・住宅建設に関してプロテスタンティズムの立場から同じような背景をもって活動した三人の人物が存在した。一九〇九(明治四二)年に「あめりか屋」を設立した橋口信助、一九〇七(明治四〇)年に「近江ミッション」を設立したW・M・ヴォーリズ、建築設計を始めた後一九二一(大正一〇)年、「文化学院」を創設した西村伊作らは、共通して伝承的な日本住宅や住まい方を因習と指摘した。そして新時代に相応しい人間形成を望むには住宅の変革を優先課題にすべきであるとして、そのモデルをアメリカの住宅の中に見出した。 本稿では洋風住宅ならびに洋式生活浸透の家庭にみられたプロテスタントの思考・行動や宣教師の活動からその特徴を捉え、同時代に生きた三人の実践を比較考察した。
井口, 欣也
本稿は,中央アンデス地帯形成期のクントゥル・ワシ遺跡において観察される図像表現の変化について考察する。クントゥル・ワシにおけるコパ期の図像表現には,一部にそれ以前のクントゥル・ワシ期の図像と共通するテーマやモチーフを用いながら,同時に新たな表現を付け加えたり,ある図像要素を別のものに置き換えるなど複雑な変容が生じている。過去につくられたものを単に模倣したり保持し続けるだけではなく,過去に対する強い意識をもちながらも,社会的・文化的変化に応じた新しいものを常に創造していくという行為は,図像とともに祭祀建築の建設活動においても認められる。形成期において神殿が社会統合の中心として存続していくためには,このように神殿に対して人々が不断に働きかけ「更新」していくというプロセスが不可欠であったと考えられる。
藤野, 陽平
近年、世界遺産関連の話題はますます盛り上がりを見せているが、台湾には世界遺産が1 ヶ所も登録されていない。これは台湾に後世に残すべき人類の遺産がないというわけではなく、中華民国(台湾)がユネスコに加盟していないということや中台関係が大きな要因である。こうした状況に対して台湾側にも「台湾世界遺産潜力点」として18か所の世界遺産登録候補地を設定し、アピールするという動きが見られている。そこで本稿では台湾世界遺産潜力点について簡述した後、18か所の中の1 つで、これまで9 つの外来文化の影響を強く残している新北市に位置する「淡水紅毛城及び周辺の歴史建築群」を紹介する。最後に台湾世界遺産潜力点がいかなる社会的文脈の上に位置づけられるのかを確認し、その特徴として台湾アイデンティティの強まりや、日本との関係性を分析する。
赤澤, 真理 AKAZAWA, Mari
本稿は、「境界をめぐる文学」の共同研究のなかで、建築空間の境界に着目する。平安時代から江戸時代における上層住宅に存在した境界において、女性の領域を外部に示した打出の装束をとりあげる。打出は、二つの領域を分割させ「覗かせる」作為のある境界とされている。本稿では、宮内庁書陵部蔵『女房装束打出押出事』に導かれながら打出の用法を整理した。打出の用法と領域は、①妻戸に設置する(使者のための明示など)、②儀礼の空間を装飾する、③女性の座を示す機能がある。従来絵巻等では、外部の簀子や庭に向かって装飾された打出が表現されることが多いが、内部空間に出されている事例を確認できる。打出の意匠は、制約のなかでも多種多様な選択がある。特に『兵範記』仁平二年(一一五二)三月七日条 鳥羽天皇五十算賀における女院の女房達の打出は、四色に限定しながらも、一人ひとりがすこしずつ色彩が異なるなどの院政期の趣向がみられる。女房装束の打出は、室町後期以降、王朝主題の絵画にも示されなくなるが、本史料から、江戸末期の学者に関心が復活したことを窺うことができる。現実に江戸後期に復原されなかったのは、あくまでも私的な装束と考えられたことが予見され、今後の課題としたい。
渡部, 森哉
南米アンデス地域に15,16 世紀に台頭したインカ国家は,南北約4000 kmという広大な範囲の約1000 万の住民を征服した。インカ国家においては,地方の民族集団の支配のため,首都クスコと結ぶ道路網が整備され,各地に行政センターが設置された。本論文は,ペルー北部高地カハマルカ地方の事例を基にインカによる征服に伴い地方社会に生じた変化を検討し,インカ国家における地方支配の特徴を考察することを目的とする。 植民地時代初期に残された史料の情報を分析すれば,インカ国家は各地の民族集団を征服し,手を加えず温存する形で支配下に治めたと想定できる。しかし史料に基づくモデルは考古学データと一致せず,インカ国家の一行政単位であるカハマルカ地方の範囲内にはインカ期以前に土器,建築,墓などの特徴に統一性は認められず,むしろ異質性が認められる。そのため,インカ期の行政単位,民族集団のまとまりの祖型を先インカ期に認めることはできず,むしろインカ期に大規模に人間集団が分断,統合され,再編成されたと結論づけることができる。
山本, 睦
本稿では,先史アンデスにおけるペルー北部チョターノ川流域社会の形成と変遷をめぐる社会的背景を論じる。はじめに,議論の基礎となる遺跡分布調査の成果を報告する。そして,調査で確認された諸遺跡の建築特徴と立地,遺跡間相互の関係や各遺跡と周囲の環境との関わり,および周辺地域社会との地域間交流の様態を示す。そのうえで,同流域で繰りひろげられた先史の長期的な人間活動の諸相を,とくに形成期(紀元前3000 年~紀元前後)を中心に論じる。最後に,調査データと周辺地域の先行研究とを比較検討し,より広いコンテクストに位置づけることで,チョターノ川流域の社会動態をアンデス文明の多様な形成過程の一つのあり方として実証的に示すことを試みる。 結果として,チョターノ川流域社会の通時的展開において,地形と高度差に応じた多様な生態環境や鉱物資源などの利用に加えて,周辺地域との地域間交流が重要な役割をはたしたことが明らかとなった。また,チョターノ川流域でみられた社会変化は,周辺地域との共通性をもちながらも,同地域に独自の現象および過程であることが示された。
光谷, 拓実 Mitsutani, Takumi
わが国では,歴史学研究者の多くが長年にわたって待ち望んでいた年輪年代法が1985年に奈良文化財研究所によって実用化された。年輪年代法に適用できる主要樹種はヒノキ,スギ,コウヤマキ,ヒバの4樹種である。年代を割り出す際に準備されている暦年標準パターンは,ヒノキが紀元前912年まで,スギが紀元前1313年までのものが作成されており,各種の木質古文化財の年代測定に威力を発揮している。考古学においては,1996年に,大阪府池上曽根遺跡の大型建物に使われていた柱根の伐採年代が紀元前52年と判明し,従来の年代観より100年古いことから考古学研究者に大きな衝撃を与えた。これ以降も,弥生前期・中期の広島県黄幡1号遺跡や古墳中期の京都府宇治市街遺跡などからの出土木材の年輪年代を明らかにし,弥生~古墳時代にかけての土器編年に貴重な年代情報を提供した。また,古建築については法隆寺金堂,五重塔,中門をはじめ,唐招提寺金堂,正倉院正倉などに応用し,成果を確実なものにしてきた。とくに正倉院正倉部材の年輪年代調査は,長年の論争に終止符を打つ結果となり,その成果は大きい。
佐喜真, 望 Sakima, Nozomi
本論文では、いち早く労働組合運動とその指導者に好意的な発言を行い、労働組合運動の指導者とも親密な関係にあったリブ=ラブ派資本家の代弁者トマス=ブラッシー二世の1876年から1878年までの、論文、学会発表及び講演記録を資料として、彼の労働諸問題に関する見解の変化の過程を解明した。その結果、ブラッシー二世は、ストライキが賃金に及ぼす影響を条件付きで認め、労使紛争を調停する機構の設置により前向きになった。また、この時期は、いわゆる「世界大不況」がイギリスの産業に暗い影を落とし始めた時期である。不況は労働組合のせいだという見解もあった。しかし、ブラッシー二世は、不況の原因は現場を知らない投資家のせいであるとして、労働組合を擁護した。この結果、労働組合の指導者の彼に対する信頼はさらに高まり、ブラッシー二世が1877年のイギリス労働組合会議で講演を行ったり、逆に、1878年にブラッシーが基調報告を行ったロンドンの建築労働者の賃金問題に関するシンポジウムで、リブ=ラブ派のイデオローグであるジョージ=ハウエルがコメンテーターを務めたりしている。こうして、ブラッシー二世とリブ=ラブ派労働者の関係は、これまで以上に親密なものとなるのである。
森田, 直美 MORITA, NAOMI
近世中期から後期には、『源氏物語』を中心とした平安朝文学にあらわれる、装束・調度・建築等を図で示し、注解を施した書が多く著された。本稿では、その中でも特に装束関連の図説書に注目し、江戸後期に成立した『源氏装束図非1式文化考』(国文学研究資料館蔵)、及び『源語図式抄』(大阪府立中之島図書館蔵)を、その一例として取り上げ、紹介する。一条飛良の『花鳥余情』という、『源氏物語』の注釈書でありながら、平安朝装束に関する有職故実書的な性質をもつ書が現われて以降、特に『源氏物語』を素材とし、平安朝の装束・調度に特化した書を再編しようという動きは少なくなかった。その典型的な例の一つとして、江戸中期に著された「源氏男女装束抄」が挙げられる。そして近世後期に至ると、この『源氏男女装束抄』に触発され、これをすすめて『源氏物語』の装束を図説した書が現われてくる。それが『源氏装束図式文化考』であり、「源語図式抄』なのである。また、本稿では更に、近世後期から末期の有職故実家、松岡行義、斎藤彦麿の業績に触れ、この時期が平安朝物語図説の最盛期的様相を示していることについても言及する。
原, 豊二 HARA, Toyoji
まず手錢家(島根県出雲市)所蔵の三十六歌仙絵三点(屏風二点、画帖一点)の概要を報告する。そして、こうした歌仙絵の収集の背景に、神社に奉納され、掲げられた歌仙額を想定する。山陰地域に伝わる歌仙額、具体的には小鴨神社(鳥取県倉吉市)、八幡神社(鳥取県米子市)、出雲大社(島根県出雲市)などに所蔵される額を考察するが、それらが所在の移動、補修・改修など、複雑な伝来過程を経ている点を特に強調したい。つまり、歌仙額の制作直後になされる最初の奉納時に加え、後代の人物による再利用、再加工にも多くの文化情報が詰め込まれているということである。また、歌仙額のルーツを公家ではなく武家等に求める入口敦志氏の仮説に敷衍し、歌仙額と神社建築との関わりやその歌合的な機能などを考察する。さらに、手錢家の人々が歌仙額を実際に見たことを想定しつつ、「歌仙額」というビジュアルな文学素材の果たした役割を、地方においては際立っていると考えられる手錢家の王朝文学志向の淵源として考えることにする。なお、本稿は国文学研究資料館による基幹研究「近世における蔵書形成と文芸享受」のうち、手錢グループの研究成果として発表するものである。
寺田, 匡宏 Terada, Masahiro
本稿の課題は,現代のミュージアムとメモリアルにおける過去想起にともなう感情操作のあり方の特徴を明らかにすることである。過去想起といってもその領域は多岐に渡るが,本稿では,事例として第2次大戦中におけるナチス・ドイツが行ったユダヤ人迫害(ホロコースト,ショアー)に焦点を絞る。その理由は,この問題に関してヨーロッパにおいてさまざまな試みが見られ,標記の課題に多くの論点を提供しているからである。さて,現在,ミュージアムとメモリアルにおけるホロコーストの表現には大まかに言って二つの流れが見られる。一つは,過去想起にともなう感情操作を積極的に行う表現の仕方,もう一つはそれを積極的には行わず,むしろそのことに懐疑的な表現の仕方である。1990年代に建設された事例では,前者の例としてアメリカのワシントンにあるホロコースト記念ミュージアムが,また後者の例としてドイツのベルリンに存在するユダヤ博物館の建築が挙げられる。これらはその後の,ホロコーストの表現のあり方に多大な影響を与えた。本稿で取り上げる二つの施設-ポーランド・ベウジェッツ・メモリアルとベルリン・ホロコースト・メモリアル-はいずれもこれらの存在を意識しながら建設されたものであるといえる。本稿では,ベウジェッツ・メモリアルとベルリン・ホロコースト・メモリアルそれぞれの表現のあり方をまず詳細に記述し,続いてそれぞれの表現のあり方の特徴を分析し,最後に両者の比較から現代のメモリアルとミュージアムにおける過去想起にともなう感情操作の特徴を明らかにする。どちらの施設も,広大な敷地に従来の記念碑の概念とは異なるランドスケープ・アート的なメモリアルを建設し,そこにミュージアムが併設されているという点で,建築物の構成は類似している。さらに,ミュージアムにおける表現は,過度な演出を避け,中立性を強調する表現である点も共通している。ただし,そのような共通点はありながら他方で相違点も見られる。ベウジェッツ・メモリアルではメモリアルにおける表現が強い追悼の感情を喚起するように作られており,ミュージアムにおける中立的な表現はそのような強い感情の喚起を緩和する効果,ないしはそのことに対する弁明として働く効果があると思われる。一方,ベルリン・ホロコースト・メモリアルにおいては,メモリアル部分においては単一の強い感情への収斂が避けられており,またミュージアムにおいても過去の出来事と現在のそれを見ている主体との距離が浮かび上がるような表現がなされており,強い感情の喚起は行われないだけでなく,過去想起にともなう感情そのものについて見学者に自省を迫るものとなっている。過去想起にともなう感情操作に関しては,それを積極的に推進することに関しては慎重な姿勢が共通してみられる。ただしそのような共通点はありながら,一方で慎重な姿勢をとりつつもより高度化した感情操作を行う表現が見られ,また他方でそのような感情の存在そのものを問い直す表現が行われていることが明らかになった。このようなふたつの潮流の存在が,現代のメモリアルとミュージアムにおける過去想起にともなう感情操作の特徴として指摘できるといえる。
澤井, 一彰 SAWAI, Kazuaki
トルコ共和国は、日本と同様に地震多発国として知られる。その最大の都市であり、オスマン朝期(c.1300-1922年)には都として栄えたイスタンブルもまた、巨大なものだけでも1509年、1648年、1719年、1766年そして1894年と5度にわたって地震が発生し、そのたびに甚大な被害を受けてきた。 かつて、オスマン朝の宮廷が置かれていたイスタンブルのトプカプ宮殿に付属する文書館には、ひとつの史料が伝世している。D.9567の分類番号をもつ同史料は、ある巨大地震の後に、被災した多くの建築物を修復、再建するために行われた調査の記録である。 近年、公刊されたイスタンブルの災害史料集において、このD.9567はスレイマン1世時代(1520-1566年)の文書として紹介された。しかしD.9567には、スレイマン1世期以降に建設された複数の建物の罹災記録が残されており、また先行研究では、1648年の大地震による史料とする主張と、1766年の大地震によるものとする見解とが対立している。 本稿は、D.9567の全文を翻訳して紹介するとともに、それが作成された経緯について、先行研究で示されてきた史料的根拠を再検証する。さらに、別系統の史料も用いながら、D.9567が上記のいずれでもない、1719年の大地震によって作成されたものである可能性がきわめて高い、という新たな仮説を提示するものである。
相田, 満
時代の画期やその時代の盛期が自覚された時、記念となるべきモニュメントを作り上げる営みは史上何度も繰り返されたことである。書籍の世界でも同様である。現代でも何かを記念して大きな企画が実行されることが少なくないが、それらの中には、きわめて大規模にかつ長期間にわたって果たされたプロジェクトも少なくない。前代の知識を集成・整理する取り組みを通して、次世代への糧とする歴史的意義をともなうこれらの事業は、時に「老英雄法」などと呼ばれる、有為の才を文化事業に専心させることで、消耗させるという老練な政治手法の一環として採られたこともありはしたが、そうした取り組みにより残された文化遺産の恩恵は、建築などのモニュメントとは違って、後世の知的生活面において根底的な影響力を持つことが多い。そもそも書籍という形に残される記念碑は、膨大な時間と費用と、一見無駄とも思えるばかりの人的資源の用材を必要とするにも関わらず、巨大な構築物の形をとる記念構築物と較べると、その成果物の容量はきわめてコンパクトである。しかし、それを開けばそこに注がれた労力は一目瞭然で了解し得るもので、それをなし得たスポンサー(多くは為政者)の本当の度量と栄華は、実はそうした類の成果物を通してはかり得るものかもしれない。
坂本, 稔 今村, 峯雄 一色, 史彦 若狭, 幸 松崎, 浩之 Sakamoto, Minoru Imamura, Mineo Isshiki, Fumihiko Wakasa, Sachi Matsuzaki, Hiroyuki
茨城県牛久市に所在する観音寺(茨城県牛久市久野町2976)は,嘉禄2年(1226),十一面観音を祀る堂として建立されたと寺伝にあり,その後大永5年(1525)に再興され,現在の本堂は宝永4年(1707)の再建によるものと考えられている。本研究では,観音寺本堂および仁王門の保存修復工事等に伴う旧部材等の保管資料の炭素14年代測定を行った結果について,棟札などの文字資料から推察されてきた建立あるいは修復時期などとの関連を比較検討した。仁王門の保存修復工事で得られた本堂側廻りの旧柱材(ケヤキ)2本の最外層の年代は炭素14-ウィグルマッチ法(¹⁴C-wiggle-matching)によりいずれも13世紀後半か,14世紀初頭に伐採された材と見られた。建立期の嘉禄2年(1226)より新しいが,再興されたとする大永5年(1525)よりはかなり古い年代となっており,「宋風彫刻」とされる十一面観音の鎌倉後期~室町期の年代と整合している。観音寺本堂の細部様式による建築時期の年代認識(鎌倉期)とも矛盾しない。また十一面観音の寄木構造の固定保持のため用いられていた竹釘(昭和の本堂保存修復時に得られ保管),同じく観音像の着衣部分の塗装面の布(麻)の年代は,寛永7年(1630)の十一面観音修理の時期に符合する結果となった。
青木, 睦 西村, 慎太郎 AOKI, Mutumi NISHIMURA, Shintaro
アーカイブズ保存のための物理的コントロールの目的は、アーカイブズの物理的原形をでき得る限り維持し、永続的に歴史的文化的資源として広く利用可能なよう、適切な保存・公開のシステムを構築することにある。アーカイブズのさまざまな保存の課題に取り組む場合、建物と保存環境管理、史料群のロケーション、史料群ごとの保存状態の現状、そして個々の史料の劣化状態・修復状況・記録媒体(記録素材・記録定着媒体・記録形状)調査・利用状況、という順序をたどる。まず、アーカイブズの物理的階層を示し、その階層を基幹として、その段階ごとに保存情報が資源化されていく過程について紹介し、物理的管理に必要となる情報は何であるのか、それはどのように生成し、集約化していくのか、さらにどのように公開していくことが望ましいかを述べる。アーカイブズの物理的階層を5段階に設定し、その段階に沿って国文学研究資料館収蔵アーカイブズの具体的事例を紹介しつつ、実施方法を呈示する。まず、第1章「はじめに」において本稿を概観し、第2章「研究の課題」で、アーカイブズ保存のための物理的コントロールに関する課題を整理した。特に、物理的階層を基幹とした保存管理研究の必要性と、保存情報を資源として活用できるようにする電子化システムの環境整備をあげた。第3章「アーカイブズ保存のための物理的コントロールの流れ」では、物理的階層の1から4段階について、建築・環境管理、史料群の配架と配列、史料群の状態までを具体的事例で紹介する。第4章「史料単位の保存状態」では、物理的コントロールの最終段階である史料劣化調査・修復記録・紙質調査についてその実態を明らかにする。
井上, 章一
井上, 章一
小倉, 暢之 ディヴィッド・レオニデス・T・ヤップ 田上, 健一 Ogura, Nobuyuki David Leonides T. Yap Tanoue, Kenichi
李, 哲権
『こころ』は、高校の教科書に選ばれるほど立派な寓意物語ではない。つまり、そこからある種の立派な人格の師範めいたものを見つけ出そうとしてはならない。そこには最初からそのようなものは存在していない。『こころ』はいってしまえば、玉ねぎのようなもので、一枚ずつその皮を剝いていっても、そこにはアプリコットのような核はないはずだ。なぜなら、遺書とは、血(=死)のインキで書かれた「心」、つまり折り畳まれた「心」のようなものであるから。そして心とは心臓であり、心臓とは命の宿る場だから。私たちが心臓をたち割ったとき、そこに赤い血潮と白い心筋はあっても、そこにあると固く信じられていた命=生命がないのと同様に、遺書には主体による<意味>の痕跡=書き込みは何もなされていないはずである。 したがって、私たちが『こころ』を読むという読書行為は、そのように折り畳まれた遺書を丁寧に展げていって、折り目の痕跡をくまなく踏査することである。『こころ』の至る所に、包まれた洋菓子、包装された椎茸、丸められた卒業証書、丸められた絵巻物、折り畳まれた遺書、そういったものがさりげなく書き込まれているのはそのせいである。『こころ』は<包む>、<畳む>、<丸める>といった求心的な述辞を、<展げる>、<伸す>、<展く>といった遠心的な述辞に置き換えることで、建築物のように組み立てられたテクストである。言い換えれば、「心」という名辞を、<畳む>と<伸す>という述辞が形成する力学圏に挿入することで織り上げたテクストである。
山下, 有美 Yamashita, Yumi
正倉院文書研究の新しい潮流は,1983年開始の東大の皆川完一ゼミ,それを継承した88年開始の大阪市大の栄原永遠男ゼミ,この2つの大学ゼミの形で始まった。その手法は,正倉院文書の現状を,穂井田忠友以来の「整理」によってできた「断簡」ととらえ,その接続関係を確認・推測して,奈良時代の東大寺写経所にあった時の姿に復原する作業を不可欠とする。その作業によって,正倉院文書は各写経事業ごとの群と,複数の写経事業をまたがる「長大帳簿」に大きく整理されていった。よって,個別写経事業研究は写経所文書の基礎的研究として進められ,その成果は大阪市大の正倉院文書データベースとして結実した。一方,写経事業研究を通して,帳簿論や写経所の内部構造,布施支給方法,そして写経生の生活実態といった多様なテーマに挑んだ研究が次々と発表された。これらの新たに「発見」されたテーマと同時並行的に,古くからの正倉院文書研究を引き継ぐ研究も深化し,写経機構の変遷,東大寺・石山寺・法華寺の造営,写経所の財政,写経生や下級官人の実態,表裏関係からみた写経所文書の伝来,正倉院文書の「整理」などの研究もさかんになった。さらに,古代古文書学に正倉院文書の視点を組み込んだ試みや,仏教史の視点から写経所文書を分析した研究も成果をあげてきた。2000年ごろから,他の学問分野が正倉院文書に注目し,研究環境の整備とともに,特に国語・国文学で研究が進められた。ほかにも考古学,美術史,建築学等の研究者も注目しはじめ,学際的な共同研究が進展しつつある。いまや海外からも注目をあびる正倉院文書は人類の文化遺産であり,今後も多彩な研究成果が大いに期待される。
小林, 忠雄 Kobayashi, Tadao
日本人の色彩感覚に基づく文化および制度や技術の歴史に関して,これまで多くの研究が行われてきたが,本稿では主として日本の民俗文化において表徴される色彩に焦点をあて,その民俗社会の心意的機能,あるいは庶民の色彩認識についてのアプローチを試みたものである。特に都市社会において顕著な人為的色彩は,日本の各都市において様々な諸相をみせ,ここでは伝統都市として金沢,松江,熊本の各城下町を対象に,近世からの民俗的な色彩表徴の事例を現地調査および文献を参照しながら考察し,その特徴を引き出してみた。その結果,白色をベースにした表徴機能,赤色,赤と青色,藍色,紫色,黒色,五彩色といった色調の民俗文化に都市的要素を加味した展開のあることが見出された。金沢と熊本の場合は民俗事例と藩政期からの伝承により,松江はラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の『日本瞥見記』の著作を通して,明治初年の事例とハーンの見た印象をてがかりに探ってみたものである。また,都市がなぜ民俗的な色彩表徴の機能を前提としているかについての疑問から,建築物,あるいは染色,郷土玩具といった対象によって,多少,問題アプローチへの入口を見出し得たと思われる。都市は日本の社会構造の変革をもっとも端的に表出する場であるため,モニュメント,ランドマーク,メディアの変化など外側の表徴だけでも,その変容の速度は著しく,従って色彩の記号化も激しく変化するが,しかしそうであっても日本人の基本的な色彩の認識は変わっていないという前提にて,都市のシンボルカラーを捉えねばならないと考える。それはまったく日本の民俗文化の枠を越えてはいないからであろう。
山本, 理佳 Yamamoto, Rika
本論文は,近年の日本で極めて広範な対象を文化資源化している「近代化遺産」をめぐる動きを明らかにすることを目的として,とくに軍事施設までもが文化資源化される現象を取り上げた。すなわち,軍事施設の機密性と文化遺産の公開性との根本的な対立にもかかわらず,いかにして軍事施設の「近代化遺産」化が進んでいるのかをとらえた。対象としたのは,米海軍や海上自衛隊の大規模な「軍港」を抱える長崎県佐世保市である。佐世保市では,それら「軍港」内の施設の多くが戦前期に旧海軍が構築した「歴史的」建造物であることから,それらを「近代化遺産」として活用しようとする動きが1990年代半ばから活発化している。ここで明確にとらえられた点が,まず軍事施設の機密性が民間の開発などからの文化財の「保護」と結びつき,ことに軍を「優れた保存管理主体」として評価することにつながっている状況である。また,軍によって取り壊された煉瓦造建築物の廃材を活用した基地外での景観整備が近代化遺産の活用実践の主要な動きとなっている状況もとらえられた。いずれも軍の機密性に支障のない形での文化遺産化が進行していることが明らかとなったのみならず,「軍」を地域のアイデンティティとしてとらえる見方を醸成し,地域における軍存在の正当化につながっていることも明らかとなった。そして,そのような国家権力側に都合のよい「近代化遺産」化の動きは,地域内実践者の言説に垣間見える,軍事基地内の機密性と文化遺産活用との相容れなさへの実感と,それに伴う「返還」への強い執着との微妙なずれを生じつつも進行していた。総じて「近代化遺産」の貪欲な文化資源化の動きが浮き彫りとなった。
フラッヘ, ウルズラ Flache, Ursula
本論文ではドイツ語圏の日本学の中で行われている神社研究の,創成期から現在に至るまでの概観である。ドイツ語圏の日本学では,日本の宗教についての研究は部分的な領域をなすに過ぎない。神社に限定した研究はさらに稀である。したがって研究の成果は非常に限られている。神社はたいてい神道のその他の研究との関連で言及される。歴史的概観は4つの節に区分されている。第1節では日本についての初期の報告(ケンペル,シーボルトなど)を紹介する。第2節では明治時代から第二次大戦までの研究文献を説明する。明治時代における神社研究に関してフローレンツ,シラー,シューアハマーとローゼンクランツを列挙する。続いて,グンデルト,ボーネルとハミッチュという第二次大戦前の指導的な神道研究者について述べる。彼らがナチスのイデオロギーに近い視点から研究結果を発表したため,戦後には神道と関わる研究がタブー視された。第3節は戦後の研究文献を説明する。神道研究はしばらくの間完全に中止されていたが,ウイーン大学における民俗学を迂回することによって,神道はようやく日本学研究の中に復活した。ウイーン大学を卒業したナウマンが戦後の最も影響力のあった神道研究者となった。さらに,国家と神道の関係を研究したロコバントが神社研究に大きな貢献をした。第4節では20世紀の終わりから現在までの研究文献を紹介する。現在の指導的な神道研究者としてアントーニとシャイドの名前を挙げることができる。戦争の経験を通じてドイツと日本は同様に過去の克服という問題に直面している。そこでドイツ語圏の日本学で靖国神社に関する論争は特に注目されている。本論文では歴史的概観を続けて靖国神社研究の概説を行う。終わりに神社建築研究について手短かに概略を記す。
安田, 喜憲
本研究はスギと日本人のかかわりの歴史を花粉分析の手法にもとづき過去七〇万年について論じたものである。スギは約七三万年前の気候の寒冷化と年較差の増加をきっかけとして発展期に入った。同じ頃、真の人類といわれるホモ・エレクトゥスも誕生している。スギと人類は氷期と間氷期が約一〇万年間隔で交互にくりかえす激動の時代に発展期をむかえている。とりわけスギは氷期の亜間氷期に大発展した。しかし三・三万年以降の著しい気候の寒冷化によって、最終氷期の最寒冷期には、孤立分布をよぎなくされた。新潟平野の海岸部、伊豆半島それに山陰海岸部が主たる生育地であった。約一万年前の気候の温暖化と湿潤化を契機として、スギは再び発展期に入った。福井県鳥浜貝塚からは、すでに一万年以上前からスギの板を使用していたことがあきらかとなった。しかし鳥浜貝塚の例をのぞいて、縄文人は一般にスギとかかわることはまれだった。スギと日本人が密接にかかわりを持つのは弥生時代以降のことである。それはスギの生育適地と稲作の適地が重なったためである。とりわけ日本海側の弥生人はスギと深いかかわりをもった。しかし何よりもスギと日本人のかかわりをより密接にしたのは都市の発達であった。都市生活者の増大とともに、スギは都市の庶民の住宅の建築材や醸造業の樽や桶あるいは様々な日用品にいたるまであらゆる側面において日本人の生活ときってもきりはなせない関係を形成した。しかし高度経済成長期以降、安い熱帯材の輸入によって、スギは日本人に忘れ去られた。間伐のゆきとどかないスギの植林地は荒廃し、スギと日本人のかかわりは大きな断絶期を迎えた。地球環境の壊滅的悪化がさけばれる今日、日本人はもう一度スギとともに過ごした過去を思い起こし、森の文化を再認識する必要がある。
今村, 峯雄 中尾, 七重 Imamura, Mineo Nakao, Nanae
歴史時代の資料研究には精度の高い年代測定が求められるため,特にウィグルマッチ法(wiggle-matching method)による炭素14年代測定が有効である。本研究は,ウィグルマッチ法による炭素14年代測定(14Cウィグルマッチ法)を,具体的に三つの国指定重要文化財の民家,神奈川県関家住宅・兵庫県箱木家住宅・広島県吉原家住宅に適用した事例の報告である。その意義については本課題のその1で述べられている。ここでは,方法論的技術的な観点を中心に記述した。重要文化財関家住宅では,主屋3点および書院1点から得られた旧柱材4点で測定を行った。これらの柱材からそれぞれ年輪5-7試料を採取し,それぞれについて炭素14濃度測定を行い,ウィグルマッチ法で最外層の年代を推定した。これらは加工によって辺材部分を欠いていると考えられるが,この部分の年輪数を仮定することで,主屋の2点が17世紀前半,1点は16世紀,また,書院は17世紀中頃の材と推定された。同様な方法で,重要文化財箱木家住宅の柱材(年輪数11,芯持材で当初材)は13世紀末から14世紀前葉,あるいは14世紀後葉,また板材(現場で微小試料を採取)は14世紀中葉あるいは15世紀前葉と推定された。すなわち箱木家は少くとも14世紀ころの建造と考えるのが妥当である。重要文化財吉原家住宅では,2点の柱材のうち1点は18世紀初頭,別の1点は16世紀あるいは17世紀中葉を示す結果となった。以上みたように14Cウィグルマッチ法は古民家の建築年代を従来にない精度で絞り込める可能性を示す一方で,解体修理などから得られた情報(当初材の識別など)との整合性の把握など,総合的な取り組みの重要性,また,資料群の中に樹皮に近い資料を確保するべきであること,測定データの一層の精度向上を企てるべきであるなどの課題が指摘された。
岩永, てるみ Iwanaga, Terumi
紙や絹といった脆弱な素材の上に描かれた日本絵画は周期的に修理が施されることにより今日に伝えられているが、伝世のなかで、その時の修理で手当てされるだけでなく、加筆されることも多かった。現在の修理において、過去の修理によって加筆された部分の取り扱いは除去する場合と除去しない場合の二様に分かれている。明らかに制作当初のものでは無いと認識出来ても、それを除去することによって作品の印象が大きく変わってしまう場合や、過去の修理も貴重な資料であるという観点といったことより、現状のままに修理を行うこともある。本研究の対象作品である「洛中洛外図屏風歴博甲本右隻第二扇」に広範囲に存在する台形上に欠損部分には、周囲のオリジナル部分とは一見して技法、表現、様式が異なり、鑑賞上に相当の影響を与えてしまうような後世の補筆が施されている。平成九年の修理においてこの後補部分はそのままに残された経緯を持っている。この後補部分を再現することによって、損なわれてしまった芸術性を回復し得ることの可能性を確かめるために再現研究を試みた。再現は、オリジナル部分の調査と現状模写を行うことから始め、同時代に制作された類似作品である東京国立博物館所蔵東博模本、国立歴史博物館所蔵歴博乙本、米沢市上杉博物館所蔵上杉本の三作品を中心に、建築、芸能、服飾、風俗、商業などの点を考証しながら画家としての制作や模写の経験を生かして検討を行い、より客観的になるように努めて行った。この再現図はオリジナル部分の現状模写の中に描き加え彩色を施し、原本と近い手法で制作し作品として完成させた。制作当初の図柄が無い以上、どこまで近づけたかを確かめることは出来ないが、一つの作例として学術的にも誤りの少ない再現図が出来たと考える。
松尾, 恒一 Matsuo, Koichi
伝統的な木造船には一般に「船霊」と呼ばれる、船の航海安全や豊漁を祈願する神霊が祀られているが、琉球地域の木造船(刳り舟・サバニ・板付け舟、等)の船霊信仰には、姉妹を守護神として信仰するヲナリ神信仰の影響を受けている例が少なくない。このことは、すでに知られているが、本稿では、船の用材となる樹木に対する信仰に注目して、船の守護神としての女性神の信仰とのかかわりを考察する。船大工によって行われてきた伝統的な造船は、山中における樹木の伐採から始まり進水式をもって完成するが、その間、樹霊やこれとかかわる山の神に対する祭祀が重要な作法として行われる。これは奄美大島の事例であるが、八重山地域にまで目を広げれば、船の用材となる樹木を女性と認識しているものと認められる口頭伝承(歌謡)もあり、樹木に宿る樹霊と女性神との結びつきの強さが推測されてくる。ところで、船大工による伐木の際の、樹霊や山の神への断りの際には、斧のほか、墨壺・墨差し・曲尺などが重要な役割を果たす。これは、屋普請を行う大工も同様で、建築儀礼の際には山の神や樹霊に対する祭祀が重要視された。船大工や大工は、その職と関わる祭儀において職道具を祭具として用いたのであるが、ときにこれらの道具を用いて呪詛をおこなうなど、シャーマン的な呪力を発揮したりした。結びとして、こうした琉球地方の航海や船体にかかわる女性神や、造船の際の樹霊に対する信仰を、当地域との長い時代にわたる交流のあった大陸や台湾との習俗と比較した。台湾の龍船競争における媽祖信仰や、貴州省の苗族や台湾少数民族の造船儀礼など、松尾の調査した事例を中心にあげたが、今後の比較民俗に向けての視座を定めるための試論である。
千田, 稔
古代日本における政治・軍事権力の頂点に立つ者に対して、天皇という称号が用いられたが、その称号が用いられる以前は大王であった。大王から天皇へと称号が変わったのは、いつ頃かについては、これまで多くの議論があった。現在においても、その時期については、断案がない。 この問題についての、議論は、『日本書紀』推古紀、『隋書』倭国伝、「天寿国繍帳」、「法隆寺金堂薬師如来像光背銘」などの解釈をめぐってなされてきた。 天皇号が初めて使われた時期について、早稲田大学教授津田左右吉の見解がその後の議論の糸口になった。 津田は、法隆寺薬師像光背銘が推古朝に書かれたと見なし、それに「天皇」という文字が刻まれていることと、『日本書紀』推古紀にみる「天皇」と対応させて、天皇号の成立を推古朝とした。それに対して、建築史家の京都大学教授福山敏夫は、法隆寺薬師像の銘文は、推古朝の年号が書かれてはいるが、それは後年に記されたもので、推古朝に天皇号が使われた根拠とすることはできないと論じた。 天皇号が初めて使われた年代をめぐる議論は、津田と福山の見解の相違に集約することができる。だが、この議論は、主として、津田の見解を是認する古代研究者によって展開され、福山説にしたがう説は、近年になって発表されるようになった。 津田の見解を大筋認める研究者たちについてみると、津田から直接影響をうけた、早稲田大学、東京大学に関わる者で占められ、その傾向は、今日まで及ぶ。時に、定説、通説として語られることさえある。しかし、天皇号が推古朝に初めて使用されたとする確実な論拠がない点からみると、一種の不思議な現象として目に映る。それは、あたかも、邪馬台国論争におけるかたくなな九州説の展開との類似性を指摘することができる。
武田, 恵理
明治以前に関してはなかなか取り上げられることの少ない油絵技法の変遷について、文献と実際の作例からたどった。七、八世紀にはシルクロードを通って伝来した仏教とともに乾性油を使用した描画技法の漆工作品がもたらされた。しかし漆工の一種としてであって絵的には発展していない。その後、一六から一七世紀に西洋人が渡来し、宗教画の初期洋風画が描かれた。初期洋風画には油彩画や半油性の技術が見られるが、それはセミナリオにおけるイタリア人指導者の美術教育によるところが大きい。セミナリオで学んだ学生らの作品は、国内の美術工芸作品にも影響を与え、確実に定着しつつあった。イエズス会の会章のある《聖ザビエル像》には狩野派の壺印が捺され、一部に半油性の絵具が使用される。狩野内膳に代表される「南蛮屏風」には、膠画でありながらも胡粉による盛り上げや金箔下の赤色下地など、それまでには見られなかった技法が現れる。しかしその後の禁教、鎖国でそれらの技法は下火になる。いっぽう近年発見された日光東照宮陽明門で羽目板下から発見された壁画では、漆地に乾性油で描画されていることが確認された。空白時期と考えられてきた初期洋風画と幕末洋風画をつなぐ時期に建築や工芸などに油絵と漆技法のつながりが見え隠れする。その後幕末の画家は、西洋の実学的観念を国内で再現するため阿蘭陀通詞や本草学者の力を借り身近な知識を取り入れながら試行錯誤し制作した。そのため源内や秋田蘭画は貿易によってもたらされたプルシアンブルーを使用するなど海外との接点が認められる。いっぽう展色剤の処方には唐辛子や樟脳、樒の葉といったオランダに見られない材料が含まれるほか、膠画に油や樹脂を塗って光沢を出すなどの漆工技法との共通性が多くみられる。本稿では、いったん途絶えたかに見える初期洋風画の技法が漆工分野に伝わり、幕末期の洋風画家らのあいだに逆輸入された可能性を報告した。
中塚, 武
気候変動は人間社会の歴史的変遷を規定する原因の一つであるとされてきたが,古代日本の気候変動を文献史学の時間解像度に合わせて詳細に解析できる古気候データは,これまで存在しなかった。近年,樹木年輪に含まれるセルロースの酸素同位体比が夏の降水量や気温の鋭敏な指標になることが分かり,現生木や自然の埋没木に加えて,遺跡出土材や建築古材の年輪セルロース酸素同位体比を測定することにより,先史・古代を含む過去数百~数千年間の夏季気候の変動を年単位で復元する研究が進められている。その中では,セルロースの酸素同位体比と水素同位体比を組み合わせることで,従来の年輪による古気候復元では難しかった数百~数千年スケールの気候の長期変動の復元もできるようになってきた。得られたデータは,近現代の気象観測データや国内外の既存の低時間解像度の古気候記録と良く合致するだけでなく,日本史の各時代から得られたさまざまな日記の天候記録や古文書の気象災害記録とも整合しており,日本史と気候変動の対応関係を年単位から千年単位までのあらゆる周期で議論することが可能になってきている。まず数百年以上の周期性に着目すると,日本の夏の気候には,紀元前3,2世紀と紀元10世紀に乾燥・温暖,紀元5,6世紀と紀元17,18世紀に湿潤・寒冷の極を迎える約1200年の周期での大きな変動があり,大規模な湿潤(寒冷)化と乾燥(温暖)化が古墳時代の到来と古代の終焉期にそれぞれ対応していた。また人間社会に大きな困難をもたらすと考えられる数十年周期の顕著な気候変動が6世紀と9世紀に認められ,それぞれ律令制の形成期と衰退期に当たっていることなども分かった。年単位の気候データは,文献史料はもとより,酸素同位体比年輪年代法によって明らかとなる年単位の遺跡動態とも直接の対比が可能であり,今後,文献史学,考古学,古気候学が一体となった古代史研究の進展が期待される。
上間, 清 福島, 駿介 Uyema, Kiyoshi Fukushima, Shunsuke
國吉, 真哉 町田, 若夏子 Kuniyoshi, Sanechika Machida, Wakako
北, 政巳
明治日本の近代技術教育の発展において、スコットランド人技術者や教育者が果たした役割がいかに大きかったかについて、わが国では、あまり知られていない。 しかし一九世紀の大英帝国を支えたスコットランド人外交官・科学者・企業家・商人達のネットワークが世界に広がり、その中からアジア・極東へつながり、それを介して最も有名な西洋人商人のT・B・グラバー、明治政府第一号のお雇い外国人技師(測量)のR・H・ブラントン、工部大学校(のちの東京大学)校長のH・ダイアー、日本の造船・海運業界に多大の貢献をなし帰国後グラスゴウ在日本領事となったA・R・ブラウン等が来日した。 他方、日本人青年も工部大学校卒業後に、さらなる高等教育を求めてグラスゴウ大学に留学した。そこには幕末以来、日本と通商関係をもつスコットランド人商人達の支援活動が存在した。 事実、英国の産業革命はスコットランド人技師によって開始され、また完成されたのであり、その成果は、さらに新世界へと運ばれていった。ヴィクトリア盛期に、イギリスが「世界の工場」と讃えられた時代に、グラスゴウを中心とするクライド渓谷地域は「大英帝国の工場」と呼ばれた。またグラスゴウは「第二の都市」(ロンドンに次ぐ)として栄え、別名「鉄道の都」、「造船の都」と賞賛された。 同時にグラスゴウは、文化面でも大変に注目を集める都市となり、特に絵画と建築で有名となった。英国絵画界に新風を送る「グラスゴウ・ボーイズ」と呼ばれるリーダーが登場し、彼らは特に日本の美術に関心をもち、西欧世界に日本伝統の美と価値観を紹介するのに大きく貢献した。 一八八八年と一九〇一年にグラスゴウで開催された国際博覧会は、「グラスゴウ・ボーイズ」や同市のビジネスマン達に支援され日本館も設置され、それを通じて日本の文化や技術的発展が注目を集めた。翌一九〇二年には日英友好同盟が締結され日本は当時のリーダー達が憧れた「東洋のイギリス」と呼ばれるに至るが、その歴史的背景にはスコットランドと日本の親密な関係が役立ったと言えよう。 本稿では、私は日本とスコットランドの文化的交流のなかで「グラスゴウ・ボーイズ」の中からC・R・マッキントッシュ、E・A・ホーネル、G・T・ヘンリー、J・A・ウィッスラーに焦点をあてて考察してみたい。
篠原, 聡子 Shinohara, Satoko
日本住宅公団によって昭和34年から建設がはじまった赤羽台団地(所在地:東京都北区,総戸数:3373戸)は,団地としての様々な試みが実現した記念的な団地ということができる。本稿では,その中に配置された共用空間と居住者ネットワークに着目して,その関係について考察する。その後の団地計画の中で普遍的な位置づけをもつ共用空間として集会所があげられるが,当初,計画者の中にどのように使用されるか確たるイメージはなかった。韓国の集合住宅団地の共用空間との比較から,日本の団地空間に出現した集会所や集会室は,本来,住宅の内側にあった「寄り合い」や「集会」という社会的機能を私的領域から分離する役割を果たし,その空間的な設えも日本の伝統的な続きの構成が採用されていた。また,幼児教室,葬式などにも使用され,集会所は,都市的な機能の補完の役割もはたした。しかし,集会所が既存の建築の代替的,補完的なものであっただけではなく,高齢者の集まりである「欅の会」のような集会所コミュニティともいうべき,中間集団の形成に関与したことも特筆されなければならない。一方で,居住者によって設立された,牛乳の共同購入のための牛乳センターは,極めて小規模ながら,自治会という大規模な住民組織の拠点となった。また,住棟によって,囲われた中庭は,夏祭りなどに毎年使われ,赤羽台団地の居住者の,その場所への愛着を育む特別な場所となり,居住者の間に緩やかな連帯感を形成する役割を果たした。団地という大空間にあっては点のような存在でありながら自治会という大組織の拠点となった象徴的な空間としての「牛乳センター」,一列の線のように配置され,とくに機能もさだめられず,分節されながら多目的につかわれ,多様な中間集団の形成に関与したユニバーサルな空間としての「集会所」,それらを時間的,空間的に繋ぐ基盤面となった包容する空間としての「中庭」は,居住者ネットワーク形成に多面的にかかわり,それらが連携して使われることによって,団地という抽象的な集合空間は,赤羽台団地という生活空間となった。
山川, 哲雄 張, 翠萍 Yamakawa, Tetsuo Chang, Tsui-ping
落合, 里麻
江戸時代後期に編纂された『聆涛閣集古帖(れいとうかくしゅうこちょう)』「乗輿(じょうよ)一」「乗輿二」には,京都・奈良の社寺に伝存していた輿(こし)や牛車(ぎっしゃ)の図が収載される。中には,透視図を使って立体的に描き,寸法を付した図もあり,それらはこれから製作する輿の概要を示すものであったと推測する。「乗輿一」に描かれた四方輿(しほうこし)1基と網代輿(あじろこし)2基は,図と同じ様式の輿が京都に現存することがわかった。これら3基の原物の輿の調査結果を基に,意匠,構造,仕様,製作工程等について,ものづくりの視点を含めて考察する。「乗輿一」内題「菊八葉御輿圖(きくはちようおこしず)」と同じ様式の輿は京都御所の四方輿である。構造部は木製で黒漆塗りである。意匠や形態,仕様が図と共通することから,「菊八葉御輿圖」の原物と考えられる。「乗輿一」内題「當時御車轅圖(おくるまながえず)」と同じ様式の網代輿は聖護院と京都御所に1基ずつ現存する。構造部は木製で黒漆塗り,外装は黄色の網代である。聖護院の網代輿には二重菊の文(もん),京都御所の網代輿には唐八葉(とうはちよう)の文が描かれる。2基の網代輿は上皇の修学院御幸のために造られたと考えられ,関係があることは確かであろう。網代輿の主構造は下部・床下,中央部・屋形(やかた),上部・屋根の3つに大別できる。そして社寺建築に倣ったことが見て取れる。緩やかな曲線・曲面の意匠が特徴的で,美しく仕上げられた形態からは木工技術の高さが窺える。聖護院の網代輿の調査結果を基に,筆者が縮尺5分の1の木部構造模型を制作し,国立歴史民俗博物館の企画展示にて展示した。模型には桜材を使用し,手道具と木工機械を併用して制作した。床下は屋形と屋根の基礎となるため歪みなく作ることが求められる。屋形は曲線故の難しさがあるが,正確な加工と接合によって頑丈な構造になる。屋根の三次曲面は垂木と桟の本数の多くして設計し,精密に加工することで実現可能である。実際に木で木部構造模型を作ることによって,部材の形や接合方法には無駄がなく,理に適っていることがわかった。
金城, 光菜野 木島, 真志 大田, 伊久雄 Kinjo, Hinano Konoshima, Masashi Ota, Ikuo
尾身, 頌吾
本論文は沖縄県の伝統木造住宅に関する既往論文を統括的に分析し、その特徴と変遷を整理するとともに重要文化財に指定されるような伝統木造住宅の現状における部材劣化および振動特性を分析したものである。また、この分析と併せて構造解析を行い、簡便な構造性能調査法の確立に向け基盤となるデータベースを作成することを目的としている。本論文は以下の六章で構成されている。第一章では日本の伝統木造住宅に対する構造評価の変遷および、沖縄県における伝統木造住宅の現状についてまとめ、また、本論文の目的、調査対象建築物について述べた。第二章では沖縄における伝統木造住宅に関する既往論文を統括的にまとめ、その特徴や変遷について述べた。第三章では第一章で述べた重要文化財に指定されるような伝統木造住宅を対象に現況の部材ヤング係数を推定すべく非破壊による応力波伝播速度測定を行った。調査の結果から保存状態の良いイヌマキ部材のヤング係数は新材と同等な値となり、 経年による劣化は見られなかった。第四章では第三章と同様の対象物件で振動特性を把握することを目的に常時微動測定を行った。沖縄における伝統木造住宅の平均的な固有振動数は 2.5Hz~2.8Hz付近に見られ、特に保存状態が悪い住宅では健全なものと比べ 1Hz程振動数が少なくなった。また、建物の固有振動数は降雨による湿気の影響で睛天時と比べ 1Hz程上昇する傾向が確認でき、台風時等の外力が働く際は、接合部が密になり剛性が増すことが示された。第五章では現在普及している耐震マニュアルを参考に第三章および第四章で調査した建物の中から二物件に対し限界耐力計算を用いた構造性能評価を行い耐震性能及び耐風性能を検討するとともに耐久性能を補強する上で必要な耐力要素についてシミュレーションを行い、提案をした。沖縄における伝統木造住宅は外壁が少なく、開口部の多さが弱点となり耐震性能が不十分である物件があることが示唆された。前章で述べた固有振動数の値は、今回構造解析を行った 2物件とその他の物件とで固有振動数に大きな差異は見られなかったことから他の沖縄における伝統木造住宅においても地震に対して十分な耐力を有していないことが考えられる。第六章では前章までの考察を踏まえ本研究の結論および今後の課題をまとめた。
王, 維坤
二〇〇四年四月頃、陜西省のある建築会社が西安市の東郊でショベルカーによる不法工事をしていて、偶然に唐の都・長安で死去した日本留学生・井真成の墓誌を掘り出した。この墓誌は墓誌蓋と墓誌銘からなる。墓誌蓋は覆斗形を呈し、一辺の長さは三八センチ、厚さは八センチであり、四辺とも文様がなく、灰青石質で、表面に篆書で「贈尚衣奉御井府君墓誌之銘」の一二個の文字が、右から縦書き、四行、行ごとに三字で陰刻してある。その墓誌銘はほぼ正方形を呈し、横の長さは三九~三九・三センチ、縦の長さは三九・八~四〇・三センチ、厚さは一〇センチであり、漢白玉質に属する。墓誌文は陰刻する前に方形格をうち、格ごとに一字、楷書で右から縦書き、全一二行、行ごとに一六個の文字があり、併せて一七一個の文字がある。墓誌銘の文章は短いが、人の注目を集めるのは、墓誌銘の二行目にある「公姓井、字真成。國号日本」という文章である。井真成を含む遣唐使墓誌の発見は、中国で初めてであるばかりでなく、日本の国号も墓誌に初めて出てきたものである。だからこそ、この墓誌には、高い文物価値と研究価値があるに違いない。 この墓誌を発見してから、今に至るまで三年以上が経過し、その総合的研究の意義はますます高まっていると言える。私は、二〇〇七年五月一九日の日文研第一回共同研究会(代表:王維坤)では、「在唐の日本留学生井真成墓誌の発見と新研究」というタイトルで、主に1.墓誌の「贈尚衣奉御」の書き方、2.井真成と「贈尚衣奉御」とその性格、3.井真成の名字は中国風の名字のはずだ、4.「日本」国号の確立年代考、5.水の東原墓地について、6.井真成墓誌の空白と九姓突厥墓誌の空白、という六方面から在唐日本留学生・井真成の墓誌に関わる諸問題について発表した。この論文は二〇〇八年に「古代東アジア交流の総合的研究」の報告書を出版する時、新しい資料をもとに加筆して、「在唐の日本留学生・井真成の発見と新研究――井真成墓誌に関する研究全編――」というタイトルで、発表する予定である。 本稿では前回に言及できなかった、1.井真成墓誌発見の経緯、2.井真成墓誌の形状とサイズ、3.井真成葬期の推定、4.井真成墓誌文の配置と考釈、及び5.井真成の入唐時期、などの問題を取り上げ、この墓誌に関する最新の研究を論じたい。
真喜志, 康二 平敷, 兼貴 屋良, 秀夫 Makishi, Yasuji Heshiki, Kenki Yara, Hideo
郑, 晓云
中国に居住しているタイ族の人ロは、110万人あまりである。紅河(中国では元江と呼ばれる)地域は、タイ族が比較的集中し、独特の文化を持っている地域である。中国の紅河流域に居住しているタイ族の人口は、およそ15万人であり、中国のタイ族全人口の13パーセントを占めている。そのうち、紅河上流の新平県と元江県の両地域のタイ族の人口が最も多く、紅河流域のタイ族全人口の半分以上を占めている。 花腰タイは、そもそも紅河流域に住んでいる一部のタイ族に対して他の民族が与えた称呼である。この地域の女性がいつも長くてカラフルな布帯を腰にしめていたことから、このような名前が付けられたのである。花腰タイは、いくつかの自称の異なるサブエスニックグループに分けられている0主なものとして、新平県のタイ洒、タイf、タイ雅、そして元江県のタイ仲、タイ未、タイ雅、タイ得とタイ濾がある。 花腰タイ独特の文化的特徴は、主に4つの側面に現れている。1)服飾様式:女性は長くてカラフルな帯を腰にしめる慣習がある。この慣習は、さらに腰帯の織り、腰帯の使用及び腰帯の意味合いを含む関連文化を生み出している。2)居住様式:紅河上流の花腰タイは、自分たちの建物を「土掌房」と呼んでいる。それは他の地域のタイ族の建築様式とはかなり異なっている。3)祝日:花腰タイには「赴花街」のような独特の祝日がある。4)信仰:花腰タイは、他のタイ族と同じようにアニミズム的な原始宗教を持っているが、独自の宗教観念と祭祀活動も持っている。 本論文の目的は、現代の社会環境における花腰タイの文化的変化を考察するところにある。花腰タイの文化的変化の特徴は、伝統を維持しながら変化するところにある。伝統的服飾、「土掌房」のような伝統的民居、お歯黒や入れ墨などの慣習がまだ残っている。いまでも、多くの若者の間に、お歯黒や入れ墨がみられる。タイ語は依然として日常生活の中で重要な言語になっている。伝統的な祝日もまだ残っている。一方では、最も典型的で、花腰タイの特色がよく出ている「赴花街」が復活し、活性化している。原始的宗教の主要な儀式は、他の地域のタイ族のそれと比べより完全な形で残されている。 現在,花腰タイの社会生活には大きな変化が起きている。彼らの経済活動は、自給自足の伝統的様式から市場経済の様式に変わっている。花腰タイの文化も、ますます注目され、その知名度が高くなりつつある。観光産業はこの地域において、迅速な発展を成し遂げてきた。人口の流動も激しくなってきて、地元の人々が出稼ぎやビジネスのために外に出ることが以前より頻繁になっている。
小林, 善帆
本稿は、「花」(いけばな)の最初の様式である「たて花」について、その成立と深い関わりを持つ連歌会・七夕花合・立阿弥の「花」、さらにその相関関係について検討する。いわば「たて花」を、整合性という視点から概括的に捉えることを目的とするものである。また歴史学の観点に立つものではあるが、連歌・連歌会のありようについては国文学、また建築史ほか関係諸分野の研究を随時取り入れ、論を成すものとした。そして以下のことを明らかにした。 連歌会の「花」は、二条良基のいわば十四世紀後期以降の連歌会で、天神画ないしは「天神名号」の軸を掛け、その前に花瓶や香炉をおくことに始まった。禁裏連歌会の「花」は、連歌会の興盛に伴いおよそ一四八〇年以後、「しん」「下草」のほか「右」「左」などの枝で構成され始め、「たて花」として、天神への供花という存在から独立していく様子をみせる。しかし一方で、天神の存在から独立したものでないことも否めない。また、『殿中規式』および葉阿弥の存在から、将軍家の連歌会の「花」の進展が、禁裏と同様であったことが窺える。古記録を読む限り公武の文化交流は随所に見出され、当然のなりゆきといえよう。 また連歌会の天神への供花としておかれた「花」が造形性を帯び、「豪壮」ともいわれる「たて花」として独立する一方で、花材も一~三種類くらいの簡素な「たて花」も存在し続け、それは今日に至っている。七夕花合の「花」は、この場合の後者の形と捉えられる。 足利義教期には「花」は座敷飾りに添えられる程度であったが、応仁の乱前後以降、足利義正期の立阿弥や台阿弥の「花」は、「花」を立てる技術や花材が問題にされる一方で、花瓶(唐物鑑賞)は問題にされていない。これらのことからは、「花」即ち座敷飾り、即ち立阿弥の「花」ということにはならない。さらに「たて花」の確立した、一六世紀後期に成立したと考えられる絵巻『猿の草子』から、少なくとも「花」は、客などを迎える座敷の座敷飾りの三具足の「花」・押板の「花」・書院の「花」、また連歌会の「天神名号」に対する供花としての「花」、茶の湯の席の「花」があったことが考えられる。 「たて花」という様式は今日存在しないが、「豪壮」な「たて花」は、一六世紀中期、供花から独立し単独で飾られるようになり、さらに一七世紀初期「立花(りっか)」となり、今日存在している。一方、簡素な「たて花」は仏前・神前供花、茶花、投げ入れ花、文人花などと名前を変え、今日存在している。「たて花」とは、さまざまな「花」の型の可能性を秘めた「花」の様式であった。