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鈴木, 規之
本研究の目的は、タイの開発・発展のあり方をその主体や方向性の議論の中でタイの学界で大きく注目されている市民社会概念に着目し、市民社会の基盤となるプラチャーコム(住民組織、住民による小グループ)を調査・研究することにより市民社会形成のプロセスを実証的に明らかにすることである。これまでミクロレベルでハーバマス型の市民社会を農村で構築しつつあるコンケン県ウボンラット郡トゥンポーン行政村(以下T 行政村)と出稼ぎに依存し政府の援助に頼ってきたウドンタニ県クワパワピー郡パンドーン村(以下P 行政村)の比較研究を2000 年から行ってきた。 本稿では2006 年のクーデター以降の市民社会形成のダイナミズムを下敷きに分析する(前号(1)、[鈴木:2022])。そして2019 年- 2023 年のダイナミズムをコロナ禍での影響も考慮に入れて分析する(本号)。
鈴木, 規之
本研究の目的は、タイの開発・発展のあり方をその主体や方向性の議論の中でタイの学界で大きく注目されている市民社会概念に着目し、市民社会の基盤となるプラチャーコム1(住民組織、住民による小グループ)を調査・研究することにより市民社会形成のプロセスを実証的に明らかにすることである。2006 年のクーデター、2010 年の赤シャツ派と黄シャツ派の対立による流血事件は、開発と市民社会形成のあり方に再考をうながし、2014 年の赤シャツ派と黄シャツ派がもたらした混乱の中でのクーデターは、さらにタイにおいてマクロレベルの変動とミクロレベル(プラチャーコム)のリンクを改めて問うこととなった。
平井, 一臣 Hirai, Kazuomi
1965年4月に発足したベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)は,戦後日本における市民運動としての反戦平和運動の展開のなかで大きな役割を果たした。このベ平連の運動を牽引した知識人が,ベ平連の「代表」となった小田実だった。
加藤, 貴 Kato, Takashi
江戸市民にとっての名所は、自然との交流と神仏との交感によって、「延気」を約束してくれる場所であった。江戸市民は、一八世紀以降になると、名所をめぐる広範な行楽行動を展開するようになっていき、江戸の近郊では、新たに多彩な名所が成立していった。その多くは、日本橋からほぼ半径二里半(約一〇キロメートル)の範囲におさまっている。ところが、本稿でとりあげた半田稲荷社は、江戸から四里の距離にある葛飾郡東葛西領金町村に所在しており、日帰りが不可能ではないが、江戸市民にいわば小旅行をさせたのは、それだけの利益を半田稲荷社が約束してくれたからである。当時の医学では対症療法しかなく、しかも罹患すると死亡率の高い疱瘡除の利益である。
春木, 良且 田中, 弥生
筆者は先行研究として、神奈川県政ニュースのうち川崎市政ニュース映画を題材に、特にナレーション表現に着目して、戦後昭和2,30 年代の都市部の市民生活などについて考察してきた。本研究では、同様に自治体による行政映画である、茨城県と静岡県の県政ニュースを題材に、高度成長期を挟んだ、地方都市における市民生活の変化を、都市部川崎と比較する。茨城、静岡共、昭和20 年代から、広域自治体レベルでの記録映画が残されている。それら行政によるニュース映画を、政策ニュース映画と総称する。
相澤, 正夫 AIZAWA, Masao
無作為に抽出された富良野市民287名について,ガ行鼻音がどのような傾向性をもって保持されているのかを明らかにし,そこに関与している諸要因を指摘する。次に,相澤(1994a)で報告した札幌市民321名の事例と同様に,この傾向性を説明するための原理として,含意尺度の考え方が有効であることを示す。さらに,年齢差と世代差の観点からガ行鼻音の衰退動向を分析し,年齢差が特に関与的であることを示す。
春木, 良且 田中, 弥生 田村, 寛之 HARUKI, Yoshikatsu TANAKA, Yayoi TAMURA, Hiroyuki
報告者は,神奈川ニュース映画協会が作成し公開していた神奈川県ニュース映画のうち,川崎市に関するものについて,昭和27年から平成19年までの全716本を,川崎市市民文化局市民文化振興室,川崎市市民ミュージアムの協力のもとでアーカイブズ化するプロジェクトを実施している。現在,戦後の高度成長期にフォーカスを当て,川崎市を中心とした都市化,工業化の姿を明らかにするために,昭和40年までの高度成長期前期までの分析を行っている。映像そのものは,画質が低いのに加え,被写対象である地域の変化が激しいため,それだけでは分析,理解が困難である。そこで,そこに挿入されている,ナレーションやテロップなどの言語情報が重要な分析資料となっている。本発表では特に,そのナレーションに着目し,マルチメディアコーパスの構築とそれらを用いた映像解析に関して,現況を報告する。
井上, 麻依子 INOUE, Maiko
市民間における文書館の知名度は、多少の広がりを見せてはいるものの、いまだに極めて低いというのが現状である。それは、文書館が史料保存のために設立された施設であったため、長い間史料の劣化を促進する市民の利用を敬遠しがちだったからである。
Fukurai, Hiroshi 福来, 寛
2009 年の裁判員裁判の導入は米兵犯罪を市民が参加する司法制度で裁くことを可能にした。沖縄総領事のKevin Maher は導入以前に、沖縄の検事正、法学者、学生そして市民のインタビューを通して、裁判員制度の米兵犯罪に対する影響を詳細なレポートにまとめ、2008 年にワシントンの国務省に報告した。その内容は2010 年にウィキリークスによる米国国務省ケーブルの内部告発を通して、一般に知られることになった。本論文は、国務省ケーブル内容と米国の裁判員裁判の潜在的な影響の評価を検討したい。そして地元市民の「反米感情」が裁判評決に反映を防ぐための職業裁判官への信頼と穏便な対処を示唆するレポートの内容と結論を分析する。次に2010 年と2011年に行った全国調査(N=800)と沖縄住民の調査(N=800)を通して軍属の犯罪の裁判評決への、日本人と沖縄住民の両見地からの意見をそれぞれ分析する。最後に2010 年と2011 年に行われた三つの裁判員裁判での米兵と自衛隊員への有罪判決を通して、日本そして米国の両政府の植民地政策からの沖縄の政治的独立と司法主権確立の可能性を模索したい。
加藤, 貴 Kato, Takashi
江戸が巨大過密都市となり、身近な自然を喪失していくなかで、日常的には自然との交流が困難となっていったため、江戸市民は近郊の景勝地を遊覧することにより、その代償としていった。その一方で、都市民は個として存在し、生活の順調な進行を阻害する要因、つまり病気・火災・盗賊などの厄を除くことと商売繁昌を祈願するため寺社に参詣していった。このように江戸市民にとって名所は、自然との交流と神仏との交感によって、延気(気晴し)を約束してくれたのである。そのきざしは、一七世紀中期ごろからみられはじめるが、特に、一八世紀以降、江戸の近郊に多彩な名所が成立していき、江戸市民は名所をめぐる広範な行楽行動を展開していった。こうした点について、江戸名所の一つとして知られた王子を例にみていった。王子は、江戸日本橋から北へ約二里半ほどの日帰りが可能な場所で、荒川沿岸の低地部と武蔵野台地、あるいは荒川に流れ込む石神井川が生み出した渓谷など、変化に富んだ自然に恵まれていた。一方では、王子権現社・王子稲荷社・金輪(きんりん)寺という、強力な利益を保障してくれる寺社も存在した。こうしたことから、王子は、春には王子稲荷の初午や飛鳥山の花見、夏には王子権現の祭礼や石神井川沿岸の滝浴み、秋には石神井川沿岸の滝野川の紅葉狩りや虫聞き、冬には雪見というように、四季を通じた行楽地として、多くの江戸市民を集めていった。そして、王子権現の祭礼時に交換された厄除けのお守りとしての槍形、金輪寺で頒布された万能薬の五香湯(ごこうとう)、王子稲荷の参道で売られた土産物であるカラクリ仕掛の狐人形や、落語の王子の狐について、その成立、習俗の変遷などから、一八世紀中期以降に、王子が江戸の名所として有名となり、多くの江戸市民が訪れるようになると、それらの人々を目当てに、あるいは、さらに多くの人々が訪れるように、名所の側でもさまざまな装置を創出していったことが確認できた。
井川, 浩輔 Igawa, Kosuke
本稿の目的は、ナレッジワーカーが働く職場において、ソーシャル・サポートが肯定的な感情を介して組織や個人のパフォーマンスに対してどのようなメカニズムで影響するかについて明らかにすることである。具体的には、ナレッジワーカーに対して行った質問票調査において収集されたデータの統計分析を行い、ソーシャル・サポートとパフォーマンスとの関係における肯定的感情のメディエーター効果を測定する。本研究における発見事実は次の2点に要約される。第1に、ソーシャル・サポートと離職の関係は、職務満足によってメディエーティング(調整)されることである。すなわち、ソーシャル・サポート(感情的サポート)は、ナレッジワーカーの職務満足という肯定的感情を高めることを通じて、離職の低減に結びつくと解釈できるのである。ただし、組織市民行動に対しては、職務満足のメディエーター効果は見出されなかった。第2に、ソーシャル・サポートと組織市民行動、および離職との関係は、組織コミットメントによってメデイエーテイング(調整)されることである。すなわち、1.ソーシャル・サポート(感情的サポート)は、ナレッジワーカーの組織コミットメントという肯定的態度を高めることを通じて組織市民行動を促進する、2.ソーシャル・サポート(成長的サポート)は、ナレッジワーカーの組織コミットメントという肯定的態度を高めることを通じて離職を低減する、と解釈できるのである。
長島, 祐基 NAGASHIMA, YUKI
本稿では、1972(昭和47)年から2002(平成14)年まで東京都の社会教育事業として都立多摩社会教育会館(立川市)に設置されていた、市民活動サービスコーナーに関する資料を分析する。その上で、当該資料をアーカイブズとして記述・編成、保存・公開していく方法、意義、諸問題について考察する。
比嘉, 俊 Higa, Takashi
本研究は,持続社会に向けた市民育成のために外来生物を教材化し,その実践を生徒アンケートから考察した報告である。外来生物を教材化するにあたって,外来魚と在来魚の混合飼育,地域フィールドにおける外来生物の確認調査を行った。これらの調査結果をまとめ,外来生物に関する教材を作成し,試行授業を行った。授業後の生徒のアンケートから,生徒は外来生物の知識が身についたこと,外来生物の授業を肯定的に評価していることが確認できた。また,外来生物への対応策として生徒は,個人でできることと社会でやることの両面から対応策を提案していた。対応策についてはよく行われいる殺処分を良しとせず,外来生物の立場になって考え,生き物の命を大切にする生徒コメントもみられた。外来生物を通して市民として今の環境をどのように保全するかについての話し合いを生徒は行っていた。外来生物を教材とした理科授業実践はまだ少なく,今後の実践の蓄積が期待される。
加藤, 聖文 KATO, KIYOFUMI
個人情報保護法施行後、各地の現場では個人情報の明確な定義もなされないまま過剰反応ともいえる非開示が行われている。本稿では、岩手県・佐賀県などでの事例を挙げつつ、国の法と地方の条例との大きな相違点とその問題点を検証し、個人情報に対する過剰反応が通常業務に支障を与えることを明らかにする。また、国民に対する説明責任と健全な市民社会育成の観点から個人情報公開の必要性を論じ、最後にアーキビストとして個人情報といかに向き合うべきかについて問題提起を行う。
合庭, 惇
幕末から明治初年にかけての時期は、欧米の科学技術が積極的に導入されて明治政府によって強力に推進された産業革命の礎を築いた時代であった。近代市民社会の成立と印刷技術による大量の出版物の発行との密接な関連が指摘されているが、近代日本の黎明期もまた同様であった。本稿は幕末から明治初年の日本における近代印刷技術発展の一断面に注目し、活版印刷史を彩るいくつかのエピソードを検証する。
福田, アジオ Fukuta, Azio
広場は都市特有の装置であろうか。広場論は基本的に都市を対象に行われてきた。都市の市民の存在が広場を必要とし、広場を作りだしてきたとする。しかし、都市形成の前提としての農村の存在を無視することはできない。都市が農村から完全に断絶して形成されたのではない。本稿は、日本の村落社会における広場の存在形態を考察することで、都市の広場の前提を明らかにしようとするものである。
徳田, 和夫 TOKUDA, Kazuo
衆庶に神仏への結縁を促し、亡者の供養や生者の滅罪・往生達成のために作善を勧める。そして、堂舎・本尊の建立修造のために喜捨を仰ぎ、募る。以上の唱導と経済の両面が、勧進聖の定義を充足する。数多の勧進聖の巷間径徊は中つ世に見逃しえない顕著な文化事象であった。文学史の側もはやくからこれに注目し、その定義に文芸営為を付加せんとの動きがある。だが、この主張は充分に市民権を勝ちえもし、生活圏は確保されているだろうか。
千田, 嘉博 Senda, Yoshihiro
日本における城郭研究は,ようやく基本的な所在や遺跡概要の情報を集積する段階を終え,そうした成果をもとに新しい歴史研究を立ち上げていく新段階に入ったと評価できる。従来の城郭研究は市民研究者によって担われた民間学として,おもに地表面観察をもとにした研究と,行政の研究者による考古学的な研究のそれぞれによって推進された。しかしさまざまな努力にもかかわらず地表面観察と発掘成果を合わせて充分に歴史資料として活かしてきたとはいい難い。
森栗, 茂一 Morikuri, Shigekazu
日本の都市研究は,高度経済成長のひずみ,社会問題の反省として発展した側面がある。しかし,十分な議論のないまま,現実の日本の都市の生活は個別分断の消費に突入し,市民の連帯を発見できないでいる。国立大学共同利用機関の都市の共同研究としては,こうした都市の今日状況を視野にいれて,研究の志を立てねばならぬ。子供の自殺や暴力にみられる今日の状況は絶望的である。都市民俗学としては、こうした状況の都市をどう把握するのか,新たな都市の再構築にむけて展望を示す必要がある。
向井, 洋子 Mukai, Yoko
占領期沖縄におけるアメリカの文化政策は、アメリカ統治を円滑にすすめるための働きかけを市民に行っていくことだと考えられてきた。そして、アメリカ軍政府が設立した琉球大学や琉米文化会館は、その文化政策を実行する場とみなされてきた。しかし、なかには政府や大学という公的な枠組みを超えて、独自の関係を築いた人物がいた。琉球大学家政学科の翁長君代である。本稿は、元来、「人好きのする、親しみやすい」性格であった翁長が、アメリカ人と接するなかで、公共性をもつ慈善活動に目覚め、アメリカ軍政府の本音とは異なる方向で活動の輪を広げていった過程を論じる。
廣内, 大助 Hirouchi, Daisuke
災害の被災地域では,災害の痕跡を保存することがよく行われている。これは災害の教訓を後世に伝え,再び同じ被害を繰り返さないためのものである。しかしこのことが地域の防災力をどのくらい向上させているのか考えると,非常に効果があると単純には言い難い。濃尾平野の輪中地域に代表されるように,本来災害にあわないために地域ぐるみでの工夫や仕組みが災害文化として存在した。これを受け継ぐことで,地域の防災力を維持してきたのである。水害リスクの低下と,コミュニティの崩壊によって,災害文化が受け継がれなくなった都市住民が災害に遭わないためには,現代の生活に合った新たな災害文化を創出し,受け継いでいく必要がある。河川流域を舞台に活動する市民団体の取り組みをヒントに,新たな災害文化の可能性について考えてみる。
比嘉, 俊 Higa, Takashi
小学校理科の教科書に「自然の池や川にメダカを放したり,水草をすてたりしない。」と記載されている。この文言を主発問とした授業実践を行った。この主発問を解答するためには外来生物の知識が必要となる。そのために,本実践では沖縄での外来魚グッピーと在来魚メダカを教材とした外来生物を児童に学習させた。学習前後の児童の解答を見ると,生物放逐禁止を視点とした解答は学習後に有意に増えていた。本実践から小学生に外来生物の教育は有効と考える。また,外来生物教育は,持続可能社会を形成する市民の育成にもつながる。今後,学習者の発達段階に応じた外来生物教育の体系化が望まれる。
与那嶺, 匠 Yonamine, Sho
本研究の目的は、シティズンシップ教育のプログラムには教育を受ける側のみならず教育を行う側にも有益な学びが存在し、その学びは市民的資質を生涯にわたって向上させることに有効であることを明らかにするものである。中学生を対象としたシティズンシップ教育に教育支援で参加した大学生たちからは、ファシリテーターとして権利と責務を擁護する存在へと変容し、反省的実践を行いながら自律的に公的な活動へと参加するためのスキルを身につけようとする様子が観察された。ただしそれらの学びは課題解決を目指すカリキュラムや異質な者同士による対話を重視したグループ活動、授業検討の場や裁量性を確保することが条件となる。
越智, 正樹 Ochi, Masaki
事業の費用対効果への説明要求が厳しさを増し、また機械的ガイド等の技術革新も盛んな今日において、まち歩き観光はその継続発展のために、他の観光形態との弁別性と成果(特に社会的効果)の説明可能性を高めることが求められている。だが、そのいずれを説明するにおいても、十分に論理的な基準は構築されてこなかった。本論の目的はこのうち、まち歩き観光の弁別性について、ツアー内容の分析基準を掲示することにある。まち歩き観光およびツアーガイドに関する諸論考に依拠して本論は①市民参画、②ツアーリーダー性の先行、③語りの特有性、⑤まなざしの革新と回収、⑥歩くことの意識、の6つの分析基準を算出した。
Kobayashi, Masaomi 小林, 正臣
本稿はアメリカ諸文学における作品(具体的には、John Steinbeck、Bernard Malamud、Leslie Marmon Silko、Kurt Vonnegutの作品)を批評しながら、様々な環境における存在の在り方を議論している。たとえば、自然環境における人間は、その環境の一員であり、この意味において他の生物―「生」きる「物」としての「生物(living things)」―とは「共者(another)」の関係と捉えることが出来る。とすれば、生物学において人間は「ヒト」と呼称されるように、それら生物をヒトと類比した存在と捉えることは、あながち人間中心主義的ではなく、互いを共者として再定義することを可能にする。この「ヒト」という概念は、社会という環境においても適用できる。たとえば「法人(legal person)」という人物は、主体としての「人」であり、客体としての「物」でもある「人物(person)」であり、少なくとも法律における扱いは「自然人(natural person)」と類比的な存在である。この認識を基盤とすれば、アメリカ資本主義社会における人間と法人の関係は、必ずしも対立関係ではなく、共者同士の関係として再解釈できる。そして法人の活動は、いまや環境に対する責任能力を求められている。すなわち「企業の社気的責任(corporate social responsibility)」という問題は、「企業の市民性(corporate citizenship)」という問題と不可分である。法人が「市民(citizen)」としての地位を獲得することの是非は、環境における存在の在り方を問ううえで重要である。かくして本稿は、以上のような人文科学としての文学研究における発想および課題を提示する。
奈倉, 哲三 Nagura, Tetsuzo
戊辰戦争期に江戸で生活していた多くの市民・民衆は、東征軍による江戸駐留に対して拒否的な反応を示していた。「新政府」は江戸民衆のそうした政治意識を圧殺・再編せざるを得ず、両者の間で激しい抗争が展開される。この抗争は、新旧両権力間で展開している戊辰戦争とは異なる、もう一つの戊辰戦争である。本稿は、このもう一つの戊辰戦争を、民衆思想史の視点から解明したものである。ただし、本稿は正月十二日慶喜東帰から四月二十一日大総督宮入城までに限定し、その間に江戸民衆の眼前で生起した事象を分析し、江戸民衆の意識・思想をめぐる抗争の特質を解明した。
阿南, 透 Anami, Toru
本稿は,高度成長期における都市祭礼の変化を,地域社会との関係に注目しながら比較し,変化の特徴を明らかにするものである。具体的には,青森ねぶた祭(青森県青森市),野田七夕まつり(千葉県野田市),となみ夜高まつり(富山県砺波市)を例とする。青森ねぶた祭では,1960年代に地域ねぶたが減少するが,1970年代には公共団体や全国企業が加わって台数が増加し,観光化が進んだ。そして各地への遠征や文化財指定へとつながった。野田七夕まつりなどの都市部の七夕まつりは,1951〜1955年に各地の商店街に普及するが,1965〜1970年頃に中止が目立った。野田でも1972年にパレードを導入し,市民祭に近づけることで存続を図った。となみ夜高まつりなど富山県の「喧嘩祭」は,1960年頃に警察やPTAなどから批判されて中断し,60年代後半に復活した。
木村, 汎
本論文は、厳密にいえば、「研究ノート」に分類されるべき内容を含んでいる。というのは、「交渉(negotiation)」の研究は、わが国ではなぜか学問的市民権を十分獲得するにいたっていないからである。交渉というと、なにか商店の軒先きで大根やみかんを値引きしたり、労使の間で相手側を罵倒せんばかりにして賃金交渉を己れに有利に導こうとする胡散臭い行為と見なされている。ところが、欧米諸国では、事情は異なる。交渉は、極端にいえば、権力関係と同じく、人間が二人いるところに必ず発生するといってよい紛争や対立を、平和的に解決しようとする重要な人間行為の一つとして、学術的な研究対象とされてきている。その意味において、交渉研究において先輩である欧米の学説をまずなるべく公平かつ忠実に紹介することに意を用いた点において、本論文は「研究ノート」と見なされるべきである。
尾崎, 喜光 OZAKI, Yoshimitsu
国立国語研究所では,山形県鶴岡市において,方言の共通語化を主たる研究課題とする調査を,1950年(昭和25年),1972年(昭和47年),1991年(平成3年)と約20年間隔で多数の市民を対象に継続し,その間の共通語化の進行状況をとらえてきた。しかし,方言/共通語を用いると判定された回答者も,いつも方言/共通語を用いるわけではなく,会話の相手や場の改まりの度合いなど広い意味での「場面」の違いにより,方言と共通語を使い分けていることが予想される。そこで,第3回調査の翌年の1992年(平成4年)に,場面による使い分けの状況を見るとともに,「ふつう何と言うか」と問うことにより日常的な場面を想定させて求め続けてきた過去3回の調査結果が言語生活全体のどの側面をとらえてきたかを検証するために「場面差調査」を実施した。分析の結果,さまざまな言語要素において使い分けがなされていることが確認された。
小池, 淳一 Koike, Jun'ichi
本稿は柳田民俗学の形成過程において考古研究がどのような位置を占めていたのか、柳田の言説と実際の行動に着目して考えてみようとした。明治末年の柳田の知的営為の出発期においては対象へのアプローチの方法として考古研究が、かなり意識されていた。大正末から昭和初期の雑誌『民族』の刊行とその後の柳田民俗学の形成期でも柳田自身は、考古学に強い関心を持ち続けていたが、人脈を形成するまでには至らず、民俗学自体の確立を希求するなかで批判的な言及がくり返された。昭和一〇年代以降の柳田民俗学の完成期では、考古学の長足の進展と民俗学が市民権を得ていく過程がほぼ一致し、そのなかで新たな歴史研究のライバルとしての意識が柳田にはあったらしいことが見通せた。柳田民俗学と考古研究とは、一定の距離を保ちながらも一種の信頼のようなものが最終的には形成されていた。こうした検討を通して近代的な学問における協業や総合化の問題が改めて大きな課題であることが確認できた。
藤尾, 慎一郎 Fujio, Shinichiro
考古学からみた江戸は市中を中心に進んだ発掘調査によって全貌が徐々に明らかにされつつある。特に焼物をつかって江戸市民の暮しの復原や武家と町民の比較研究も盛んである。江戸時代の焼物には広域にわたって流通する陶磁器と各地で生産された素焼・瓦質の土器があるが,何を解きあかそうとするかによって資料として選ぶ焼物の種類は変わってくる。今回は江戸時代最大の消費都市である江戸とその周辺に位置する譜代大名の城下町の違いを日常生活のレベルからおさえるために,ゴマやマメを妙る土器である焙烙(ほうろく)を用いて迫ってみたものである。焙烙は底部がきわめて薄くつくられているため,長距離の運搬には向かず,広域流通には不適な土器と考えられるところから,各地でつくられその商圏は非常に狭かったといわれている。したがって焙烙にみられる地域色を追求すれば,その商圏の範囲をおさえることができるし,各地の生活レベルや囲炉裏や竈といった火力施設にあった焙烙がつくられていたと予想されるため,当時の各地の生活の実態を探るうえでも有効な遺物であるといえよう。
篠原, 武夫 パレル, ジオスダド ア 安里, 練雄 Shinohara, Takeo Paler, Diosdado A. Asato, Isao
この研究はフィリピン公有林(国有林)の森林資源, 木材生産過程及び木材生産の社会経済開発に与える影響や意味を調べて木材生産構造の特質を明らかにする。公有林では木材生産が行われ, とくにフタバガキ科林がルソンやミンダナオ地域に豊富に生育している。長期木材伐採権(TLA)は木材生産のために発行され, 伐採方法は択伐である。ミンダナオ地域は最も多い長期木材伐採権保有者を有し, またルソン地域よりも多い丸太を生産している。ヴィサヤ地域では木材生産の要因は乏しい。長期木材伐採権保有者は木材生産の主な担い手であり, 産業経済開発に重要な役割を果たしている。彼らは雇用や輸出収入をもたらしてきた。しかしながら, 現在行われている木材生産は年々速い速度で森林を減少させている。このことのために政府は丸太の全面輸出禁止をせざるをえなくなった。丸太輸出の制限は伐出部門における従業員数ばかりでなく長期木材伐採権保有者数及び丸太生産も減少させることになったのである。これらの問題はすべての林業家, 関係市民, 政府, 伐出業によって真剣に解決されるべきである。国の森林資源の持続的収穫及び多目的利用の原理に基づく管理方法で, その問題に対するダイナミックで進歩的な解決方法が常に求められ, 検討されるべきである。
上里, 健次 安谷屋, 信一 米盛, 重保 Uesato, Kenji Adaniya, Shinichi YoneMori, Sigeyasu
石垣を含めた沖縄における2000年開花のヒカンザクラについて,開花と出葉の早晩性を地域間差,個体間差を含めて比較検討した。調査地域は石垣市,八重瀬公園与儀公園,琉球大府附属農場,敷数公園,八重岳の高,中,低位所,国頭村奥で開花の安定したそれぞれ50本前後を対象とした。3月2日に石垣市,3日に他の地域に出かけ開花度,出葉度を10レベルに分けて調査した。得られた調査結果の概要は次ぎの通りである。1.地域間では石垣では最も遅く,与儀貢献もかなり遅く,八重岳の3区と八重瀬公園は最も早く,他の3区は同様で,4グループ間に有意性のある地域差が見られた。2.八重岳における標高差については高位所と低位所で早く,中位所は遅れる傾向があり,開花に対する350m程度の標高差は明確ではなかった。3.各調査区区における個体間差はかなりの幅で見られ,これは実生系による栽植で異なった遺伝性を持つことによる当然の結果といえる。4.12月,1月の名護,那覇,石垣における日最低気温の推移にかなりの差が見られ,石垣における開花の遅れは冬季の温度の低下が遅れることによるが,与儀公園の遅れも同様に,市民生活に起因する要素を加わった温度上昇が主要因と間がえられる。
Chinen, Joyce N. チネン, ジョイス・N
21世紀を生きるハワイの住民は概して他のアメリカ国民よりも優れた市民権と労働権を享受している。これらの権利がどのように獲得されたかということについて、社会的には二つの説明の仕方が定着している。一つは多民族的労働組合主義を基盤とした組織化に成功した労働運動によるものとしての説明である。二つ目は、以前の民主党支持者、労働組合、そして特に第二次世界大戦に従軍し多大な犠牲を払った日系退役軍人たちが共闘しながら社会で政策決定過程における平等を要求し、半世紀にもわたる共和党支配をひっくり返した「民主党革命」によるものとしての説明である。いずれにおいても、沖縄人と沖縄アイデンティティは一般的日本人の括りの中に埋没し、評価されることはなかった。また、一方では、一般的沖縄人は、経済的、社会的成功を勝ち取るべく起業家精神にあふれ、民族的連携を図り、ハワイ農業で苦役に従事する一世として説明される。公文資料と口述史料を基に、本稿では沖縄人が起業家としてではなく社会の活動家として果たした役割を強調したい。特に人口統計学的要素や社会史的要素がどのように活動家としての役割を後押ししたのかを明らかにする。結論として、言祝がれ流布するハワイにおける沖縄人の「立身出世話」とハワイ社会における沖縄人共同体の将来の方向性について再検討を促す。
山口, 剛史 友利, 良子 Yamaguchi, Takeshi Tomori, Ryoko
本研究は、教員のライフヒストリーから教員の学びや成長のプロセスを描き出すことで、教員の成長を自身がどうとらえているのか、教員の専門性(ここでは、子ども理解や授業力)の獲得のきっかけは何なのかを明らかにすることにある。とりわけ沖縄県は多くの離島があり、多くの教員にとって離島勤務は必須であるが、離島勤務を積極的にとらえているとは言い難い状況がある。本稿では、長年、八重山地区で養護教諭として勤務した友利良子氏のライフヒストリーから、離島へき地教育の可能性、そこでの教員の専門性を探ることで、これらの状況に応えたい。友利良子氏の教育実践から、何より「離島にも子どもがいる」という言葉に示される通り、島に生きる子どもの存在を正面から見つめ、逃げないこと、そこに生きる営みや文化に敬意をもってあたることの重要性が示された。そして、自身の経験から語られた「教師として島に生きる」とは、「島に生きる大人」として、子どもから逃げず正面から向き合い、大人になった教え子たちとも島を支える大人として付き合っていく覚悟をもって子どもたちと接していくことであった。大人(市民)として全人格的に関わることで、「忘れられない教員」「つながりつづけたい大人」になっていく、これが離島へき地教育の豊かさを示していることが明らかになった。
金城, 光子 Kinjo, Mitsuko
舞踊の記録,表記はむずかしい多くの課題を含んでいるようである。これまで,老人踊り「かぎやで風」と女踊り「諸屯」の2つの作品の踊り像を描き,踊りの展開がある程度わかるように図示してきた。今回は,同じく男踊り「高平良万歳」の舞踊の踊り像を描写したものを図示することにしたい。この踊りに関する解説および,分析検討は本紀要『沖縄の踊りの表現特質に関する研究[3]~古典舞踊「高平良万歳」(男踊り)について』に記したので本稿では割愛することにした。研究の方法は,(1) 8ミリ,16ミリ,35ミリフィルムに踊りの全形を収録したのち,(2) 1~10コマ毎の踊り像をプロフィールプロジェクターで拡大し,舞踊の全体像を描いた。(3) 作品の総コマ数をかぞえ,踊り動作のまとまりに区切りをつけてコマ数を記し時間を概算した。(4) 図を踊り順にならべ,図の下にコマ数を数字で記入したのち約3cmの高さに像を縮少した。(5) 踊り順序にならベた図に動作や一連の踊りの区切りがわかるように番号を付した。この踊り番号は,踊りのコマ数と時間の表に書いた番号と同一である。(6) (5)と対応するようにコマ数と時間,歌詞を示す表を作成。(7) (5)と(6)と対応させつつ"踊り方"の概説を記した。(8) 踊り手は,琉球舞踊家の島袋光裕。(9) 撮影は昭和50~51年まで,那覇市民会館大ホールで行なった。
平良, 勉 金城, 昇 Taira, Tsutomu Kinjo, Noboru
金城, ふじの 岩谷, 千晴 Kinjo, Fujino Iwaya, Chiharu
平良, 勉 金城, 文雄 濱元, 盛正 大城, 喜一郎 伊野波, 盛一 古堅, 瑛子 Taira, Tsutomu Kinjo, Fumio Hamamoto, Morimasa Oshiro, Kiichiro Inoha, Seiichi Furugen, Eiko
高橋, 晋一 Takahashi, Shinichi
本稿の目的は,阿波踊りにおける「企業連」の誕生の経緯を阿波踊りの観光化の過程と関連づけながら検討することにある。とくに,阿波踊りの観光化が進み,現代の阿波踊りの基盤が作られるに至る大正期~戦後(昭和20年代)に注目して分析を行う。大正時代には,すでに工場などの職縁団体による連が存在していた。またこの頃から阿波踊りの観光化が始まり,阿波踊りを会社,商品等の宣伝に利用する動きが出てきた。昭和(戦前)に入ると阿波踊りの観光化が進み,観光客の増加,審査場の整備などを通して「見せる」祭りとしての性格が定着してくる。小規模な個人商店・工場などが踊りを通じて積極的に自店・自社PRを行うケースも出てきた。戦後になるとさらに阿波踊りの観光化・商品化が進み,祭りの規模も拡大。大規模な競演場の建設と踊り子の競演場への集中は,阿波踊りの「ステージ芸」化を促進した。祭りの肥大化にともない小規模商店・工場などの連が激減,その一方で地元の大会社(企業)・事業所の連が急激に勃興・増加し,競演場を主な舞台として「見せる」連(PR連)としての性格を強めていった。こうした連の多くは,企業PRを目的とした大規模連という点で基本的に現在の企業連につながる性格を有しており,この時期(昭和20年代)を企業連の誕生・萌芽期とみてよいと思われる。なお,阿波踊りの観光化がさらに進む高度経済成長期には,職縁連(職縁で結びついた連)の中心は地元有名企業から全国的な大企業へと移っていく。阿波踊りの観光化の進展とともに,職縁連は,個人商店や中小の会社,工場中心→県内の有力企業中心→県内外の大企業中心というように変化していく。こうした過程は,阿波踊りが市民主体のローカルな祭り(コミュニティ・イベント)から,県内,関西圏,さらには全国の観光客に「見せる」マス・イベントへと変容(肥大化)していくプロセスに対応していると言える。
伊藤, 謙 宇都宮, 聡 小原, 正顕 塚腰, 実 渡辺, 克典 福田, 舞子 廣川, 和花 髙橋, 京子 上田, 貴洋 橋爪, 節也 江口, 太郎
日本では江戸時代、「奇石」趣味が、本草学者だけでなく民間にも広く浸透した。これは、特徴的な形態や性質を有する石についての興味の総称といえ、地質・鉱物・古生物学的な側面だけでなく、医薬・芸術の側面をも含む、多岐にわたる分野が融合したものであった。また木内石亭、木村蒹葭堂および平賀源内に代表される民間の蒐集家を中心に、奇石について活発に研究が行われた。しかし、明治期の西洋地質学導入以降、和田維四郎に代表される職業研究者たちによって奇石趣味は前近代的なものとして否定され、石の有する地質・古生物・鉱物学的な側面のみが、研究対象にされるようになった。職業研究者としての古生物学者たちにより、国内で産出する化石の研究が開始されて以降、現在にいたるまで、日本の地質学・古生物学史については、比較的多くの資料が編纂されているが、一般市民への地質学や古生物学的知識の普及度合いや民間研究者の活動についての史学的考察はほぼ皆無であり、検討の余地は大きい。さらに、地質学・古生物学的資料は、耐久性が他の歴史資料と比べてきわめて高く、蒐集当時の標本を現在においても直接再検討することができる貴重な手がかりとなり得る。本研究では、適塾の卒業生をも輩出した医家の家系であり、医業の傍ら、在野の知識人としても活躍した梅谷亨が青年期に蒐集した地質標本に着目した。これらの標本は、化石および岩石で構成されているが、今回は化石について検討を行った。古生物学の専門家による詳細な鑑定の結果、各化石標本が同定され、産地が推定された。その中には古生物学史上重要な産地として知られる地域由来のものが見出された。特に、pravitoceras sigmoidale Yabe, 1902(プラビトセラス)は、矢部長克によって記載された、本邦のみから産出する異常巻きアンモナイトであり、本種である可能性が高い化石標本が梅谷亨標本群に含まれていること、また記録されていた採集年が、本種の記載年の僅か3年後であることは注目に値する。これは、当時の日本の民間人に近代古生物学の知識が普及していた可能性を強く示唆するものといえよう。
川島, 淳
沖縄戦によって、首里・那覇の都市などは壊滅した。また地域住民も北部や南部などで米軍に収容され、他地域での生活を余儀なくされたが、1945年10月に米軍は壺屋と牧志を開放して居住を認め、漸次米軍の軍用地の一部を開放した。他方、那覇市は、1954年に首里市・小禄村と合併し、1957年に真和志市と合併した。こうした軍用地の開放と市町村合併によって都市計画事業が遂行されて、「大那覇市」が形成されて、現在に至っている。また、那覇市内には、安里川や久茂地川、ガーブ川などが流れている。この三河川の沿岸地域では、1950年代から1960年代にかけて、豪雨や台風のたびに河川が氾濫し、水害被害が相次いだ。そのため、水害対策のための河川改修工事を実施することが、「大那覇市」形成にとって重要な政策の一つともなったのである。そこで、本稿では、那覇市の政策構想に焦点をあてつつ、那覇の都市計画における水害対策計画の変遷と、1957年の瀬長亀次郎那覇市長時代における水害対策関連事業をめぐる政治的駆け引きについて、次のように論述する。1950年8月1日制定の「那覇市都市計画条例」に基づいて、同年「那覇市都市計画案に就いて」が策定され、また1952年8月に那覇市建設部都市計画課は「那覇市都市計画概要」を作成し、さらには那覇市が招聘した石川栄耀は1953年7月に『那覇市都市計画の考察』を提出した。同年に「都市計画法」が制定されると、那覇市は、石川構想に基づいた「那覇市都市計画決定書案」を作成した。さらに、「首都建設法」の制定に伴って首都建設委員会が設置され、1959年12月16日に同委員長の瀬長浩は「首都建設基本計画」を公告した。これらの都市計画では、豪雨や台風による河川の氾濫を防ぐために河川改修工事が提示された。いずれの計画においても、那覇市内を流れる河川は雨期になると氾濫するので、安里川や久茂地川、ガーブ川の改修とともに、与儀農業試験場(現在の与儀公園)から漫湖までの排水路を設置するとの計画が提示された。したがって、1950年代の都市計画は一貫したものであり、基本的には大きな変更はなかったのである。1956年12月に瀬長亀次郎が那覇市長に当選するや、かかる事業計画の遂行に必要不可欠な民政府特別補助金や琉球銀行の復興資金が打ち切られ、また那覇市の資産が凍結された結果、那覇市は都市計画事業の遂行を中止せざるを得なかったのである。この措置は、瀬長亀次郎を辞職に追い込むためのものであった。このように、河川改修工事を含む都市計画事業は政治的駆け引きに利用されたのである。こうした状況のなかで、市民組織による期成会が結成され、久茂地川の浚渫工事を行った。しかし、この浚渫工事だけでは充分ではなかった。瀬長が市議会の不信任によって辞職した後のことだが、1958年2月5日から降り続いた雨による安里川やガーブ川の氾濫は、「戦前戦後最大の水害」と言われるほどの水害被害となったのである。その結果、1965年までの間に、安里川とガーブ川の河川改修工事が進んだのである。
相澤, 正夫 AIZAWA, Masao
無作為に抽出された札幌市民332名について,ガ行鼻音がどのような傾向性をもって保持されているのかを明らかにし,そこに関与している諸要因を指摘する。さらに,ガ行鼻音を保持する個人を,真性保持者と疑似性保持者とに分け,疑似性保持者によるガ行鼻音の保持が,語の性質の違いによる一定の傾向性,すなわち一種の含意尺度(implicational scale)に従っているという仮説を提示する。
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