103 件中 1 〜 20 件
Nobuta, Toshihiro
本稿のキーワードである「市民社会」という概念は,東西冷戦終結後,グローバル化の波と共に地球規模に展開している。このようなグローバルに展開する「市民社会」,すなわち「グローバル市民社会」は,近年,人類学が伝統的にフィールドとしてきた周辺地域にまで拡がってきている。21 世紀に入ると,人類学的フィールドにおける「市民社会」的な空間が拡大し,人類学者はしばしばフィールドで「市民社会」的な現象に遭遇するようになってきている。それと同時に,人類学者は,フィールドに現れた「市民社会」の諸アクターが提示する同時代的なテーマに目を奪われるようになっている。本稿では,フィールドでしばしば遭遇する「市民社会」的な現象に対して人類学者がどのようにアプローチしているのかを,マレーシアの先住民運動を対象としたフィールドワークの事例をもとに明らかにする。さらに,わたし自身が経験したマレーシアのローカルNGO との遭遇の事例を手がかりにして,マクロな視点というよりもむしろミクロな視点から「市民社会」のグローバルな展開が人類学的フィールドに与えるインパクトについて考察を試みる。
長島, 祐基 NAGASHIMA, YUKI
本稿では、1972(昭和47)年から2002(平成14)年まで東京都の社会教育事業として都立多摩社会教育会館(立川市)に設置されていた、市民活動サービスコーナーに関する資料を分析する。その上で、当該資料をアーカイブズとして記述・編成、保存・公開していく方法、意義、諸問題について考察する。市民活動サービスコーナーは社会教育を通じた市民活動の支援や、市民活動資料の収集、保存を行ってきた事業である。この事業の関連資料が紆余曲折を経て現在市民アーカイブ多摩(立川市)を初めとするいくつかの民間の場所で残されており、アーカイブズとして残していく試みが始まっている。この資料は元公文書であること、現保管場所の環境や整理に必要な人員の問題などを考えると、アーカイブズとして残していくことには様々な困難が伴うことが予想される。他方で、一部の試行調査を通じて市民活動サービスコーナーの詳細な活動記録が残っていること、紙資料については既にファイルで綴じてあるものもあり、整理自体は難しくないことが明らかになった。市民活動サービスコーナーの資料は、多摩地域の多様な市民活動が緩やかにつながりながら歩んできたことを示す市民の活動記録であり、市民活動の灯を守ってきた人々の記録でもある。この重要性、将来の研究価値を踏まえるならば、資料の性質等難しい問題を踏まえてもなお、歴史資料として残すことの意義があると考える。
加藤, 貴 Kato, Takashi
江戸市民にとっての名所は、自然との交流と神仏との交感によって、「延気」を約束してくれる場所であった。江戸市民は、一八世紀以降になると、名所をめぐる広範な行楽行動を展開するようになっていき、江戸の近郊では、新たに多彩な名所が成立していった。その多くは、日本橋からほぼ半径二里半(約一〇キロメートル)の範囲におさまっている。ところが、本稿でとりあげた半田稲荷社は、江戸から四里の距離にある葛飾郡東葛西領金町村に所在しており、日帰りが不可能ではないが、江戸市民にいわば小旅行をさせたのは、それだけの利益を半田稲荷社が約束してくれたからである。当時の医学では対症療法しかなく、しかも罹患すると死亡率の高い疱瘡除の利益である。こうした半田稲荷社と江戸市民との関係を、信仰主体・願人坊主・江戸出開帳などからみていった。半田稲荷社の疱瘡除の利益を江戸で宣伝して回ったのが願人であり、板東三津五郎が歌舞伎の舞台で踊ってみせたことで、さらにその存在が江戸市民に周知されていった。しかし、江戸市民からの信仰を集め、多くの参詣者があったものの、それほどの潤いを半田稲荷社や金町村にもたらさなかったようである。ここに同じく江戸市民から信仰を集めた王子稲荷社や王子村との大きな違いがみられる。江戸からの距離が、王子稲荷社は二里半、半田稲荷社は四里と、それほどの違いにはみえないが、江戸市民にとってはこの一里半の違いが大きかったようである。また、王子が四季を通じた行楽地として、多くの江戸市民を集めたのに対して、半田稲荷社が疱瘡除の強力な利益を与えても、それだけで江戸市民を常時魅きつけることはできなかったようである。王子稲荷社と半田稲荷社の違いは、江戸市民の名所をめぐる日帰り行楽行動の範囲が、日本橋を中心に一〇キロメートルの範囲にとどまったことを再確認させてくれる。それでもなおかつ江戸市民が半田稲荷社に参詣したのは、疱瘡除の強力な利益を約束してくれたからである。
鈴木, 規之
本研究の目的は、タイの開発・発展のあり方をその主体や方向性の議論の中でタイの学界で大きく注目されている市民社会概念に着目し、市民社会の基盤となるプラチャーコム1(住民組織、住民による小グループ)を調査・研究することにより市民社会形成のプロセスを実証的に明らかにすることである。2006 年のクーデター、2010 年の赤シャツ派と黄シャツ派の対立による流血事件は、開発と市民社会形成のあり方に再考をうながし、2014 年の赤シャツ派と黄シャツ派がもたらした混乱の中でのクーデターは、さらにタイにおいてマクロレベルの変動とミクロレベル(プラチャーコム)のリンクを改めて問うこととなった。本稿では、グローバル化の影響を受けた東北タイの農村について「社会開発」と社会学的な「市民社会論」の視点から、いわゆる市民社会形成の基盤となるようなプラチャーコム内の人々の意識がどのように形成されるのかを明らかにする。
鈴木, 規之
本研究の目的は、タイの開発・発展のあり方をその主体や方向性の議論の中でタイの学界で大きく注目されている市民社会概念に着目し、市民社会の基盤となるプラチャーコム(住民組織、住民による小グループ)を調査・研究することにより市民社会形成のプロセスを実証的に明らかにすることである。これまでミクロレベルでハーバマス型の市民社会を農村で構築しつつあるコンケン県ウボンラット郡トゥンポーン行政村(以下T 行政村)と出稼ぎに依存し政府の援助に頼ってきたウドンタニ県クワパワピー郡パンドーン村(以下P 行政村)の比較研究を2000 年から行ってきた。 本稿では2006 年のクーデター以降の市民社会形成のダイナミズムを下敷きに分析する(前号(1)、[鈴木:2022])。そして2019 年- 2023 年のダイナミズムをコロナ禍での影響も考慮に入れて分析する(本号)。
髙橋, 絵里香
市民社会論において,アソシエーションや相互扶助の派生する場となる共同体は,市民社会の土台としての位置づけを与えられている。そうした地域社会を重視する市民社会論の議論を反映しているのが,地域中心主義と呼ぶべき理念に支えられたローカルガバナンスを推進する動きである。その一例が,社会福祉制度における地方自治体への分権と地域福祉の進展である。 本稿は,こうしたローカルガバナンスの実践において,地域の地理的特長がどのように制度を規定しているのか,住民参加型システムにおける住民の参加がどのような規範と自発性に基づいているのか,という問題について考察する。具体的には,在宅の高齢者を対象とした地域福祉のシステムが稼動するフィンランドの一地方自治体を事例としている。 この事例から,市民と行政が社会サービスの提供において協働し,市民社会が国家や市場の原理に寧ろ寄り添う形で機能していることが導き出された。特に高齢者福祉は,行政と民間,高齢者自身の互酬的協働によって成立するために,その傾向は顕著である。それ自体は批判に値する事象ではないが,共同体に根拠を置く地域福祉に特徴的な構造的な制約の源でもあることを理解しておくべきである。
上杉, 妙子
本稿は,2000 年代後半の西欧社会における移民の市民権と軍務との結びつきについて明らかにするために,香港返還より前に英国陸軍を退役したネパール人兵士(1997 年以前グルカ兵)による英国定住権獲得の事例を取り上げ,その要因と意義について検討した。材料として用いた電子版新聞紙上では,グルカ兵についての国民的記憶が喚起され,英国社会の構成と道徳性,財政支出や移民政策の是非が論じられた。また,総選挙を約1 年以内に控えていたことから政局とも連動し,政治家たちは論争を利用して労働党政府を攻撃した。その結果,政府は定住権を認めざるを得なくなった。軍務と市民権の結びつきを規定するのは,武力衝突に至るような対外的な安全保障リスクや徴兵制の有無ばかりではない。本稿は,国内の政治的状況や移民の大量流入に対する市民の懸念,市民権概念の変容といった対内的な要因についても注目する必要があると指摘した。
阮, 雲星
浙江省杭州市に位置する西湖は、古代より多くの詩人や文人などが愛した風光明媚な地として知られ、現在は観光名勝地として注目されている。「杭州西湖の文化的景観」はその美しさから世界的に高く評価され、2011年6 月24日にパリで開かれた第35回の世界遺産委員会で『世界遺産名簿』に登録された。本稿は、この「杭州西湖の文化的景観」を研究対象に、現代における文化遺産保護の登録と保護活動をめぐる市民の参与について考察する。まず、ユネスコの世界遺産となった「杭州西湖の文化的景観」を紹介し、次に市民の文化的自覚、都市の文化遺産保護、および世界遺産の申請登録との関係性について論じる。最後に、世界遺産登録後に生じた杭州の地方政府と市民による遺産保護活動、並びに彼らが直面している課題を提示する。
奈倉, 哲三 Nagura, Tetsuzo
戊辰戦争期に江戸で生活していた多くの市民・民衆は、東征軍による江戸駐留に対して拒否的な反応を示していた。「新政府」は江戸民衆のそうした政治意識を圧殺・再編せざるを得ず、両者の間で激しい抗争が展開される。この抗争は、新旧両権力間で展開している戊辰戦争とは異なる、もう一つの戊辰戦争である。本稿は、このもう一つの戊辰戦争を、民衆思想史の視点から解明したものである。ただし、本稿は正月十二日慶喜東帰から四月二十一日大総督宮入城までに限定し、その間に江戸民衆の眼前で生起した事象を分析し、江戸民衆の意識・思想をめぐる抗争の特質を解明した。旧幕府諸勢力の動きは多様であったが、小諸藩主牧野康済(やすまさ)の歎願書は際だっていた。ひたすら、臣子として徳川家に仕えることで朝廷に仕えるのだ、との論理一つを主張、朝命だからとて慶喜追討の兵は出せないと突っ張り、出兵拒否で「朝廷の闕失を補う」とまで直言した。この論理が大総督宮入城当日に、江戸市民の眼前に示されていた。一方、東征軍の江戸入り総過程を通じ、江戸市民の負担は急激に膨張する。それにより「万民塗炭之苦」を朝廷が救うとの論理は破綻し、「天子之御民」は空語となる。江戸町民は、東征軍入城によって下層民にまで負担が及ぶ状況の改善を町奉行所に提出、入用が嵩んだ四月五日には町人惣代九十余名が歎願書を先鋒隊宿所に提出した。他方、柳河春三(しゅんさん)は二月下旬以来、「新政府」嫌悪を根底に据えつつも軍事的抵抗は無益とし、外国交際と言論を重視する市民派新聞『中外新聞』を発行し続けていた。この市民派新聞が背景の力となって、四月二日、江戸町奉行佐久間鐇五郎(ばんごろう)は市中困窮人への御救米支給を決定した。統治権の委譲を目前にして、新権力へのギリギリの抵抗として、市民・民衆の側に寄り添う政策を打ち出したのであった。以上が、この時期江戸市民・民衆の意識をめぐる抗争の特質である。
春木, 良且 田中, 弥生 田村, 寛之 HARUKI, Yoshikatsu TANAKA, Yayoi TAMURA, Hiroyuki
報告者は,神奈川ニュース映画協会が作成し公開していた神奈川県ニュース映画のうち,川崎市に関するものについて,昭和27年から平成19年までの全716本を,川崎市市民文化局市民文化振興室,川崎市市民ミュージアムの協力のもとでアーカイブズ化するプロジェクトを実施している。現在,戦後の高度成長期にフォーカスを当て,川崎市を中心とした都市化,工業化の姿を明らかにするために,昭和40年までの高度成長期前期までの分析を行っている。映像そのものは,画質が低いのに加え,被写対象である地域の変化が激しいため,それだけでは分析,理解が困難である。そこで,そこに挿入されている,ナレーションやテロップなどの言語情報が重要な分析資料となっている。本発表では特に,そのナレーションに着目し,マルチメディアコーパスの構築とそれらを用いた映像解析に関して,現況を報告する。
春木, 良且 田中, 弥生
筆者は先行研究として、神奈川県政ニュースのうち川崎市政ニュース映画を題材に、特にナレーション表現に着目して、戦後昭和2,30 年代の都市部の市民生活などについて考察してきた。本研究では、同様に自治体による行政映画である、茨城県と静岡県の県政ニュースを題材に、高度成長期を挟んだ、地方都市における市民生活の変化を、都市部川崎と比較する。茨城、静岡共、昭和20 年代から、広域自治体レベルでの記録映画が残されている。それら行政によるニュース映画を、政策ニュース映画と総称する。政策ニュース映画は、1 篇が短く、映像自体が、通常の映画に比べて、シンボリックに表現されているという傾向がある。本研究は、昭和30 年代以降に生まれて行った、地方と都市という対比構造の中で、その地の市民生活の小さな差異が、高度成長期に急激に顕在化していく記録として、政策ニュース映画を捉えるものである。
相澤, 正夫 AIZAWA, Masao
無作為に抽出された富良野市民287名について,ガ行鼻音がどのような傾向性をもって保持されているのかを明らかにし,そこに関与している諸要因を指摘する。次に,相澤(1994a)で報告した札幌市民321名の事例と同様に,この傾向性を説明するための原理として,含意尺度の考え方が有効であることを示す。さらに,年齢差と世代差の観点からガ行鼻音の衰退動向を分析し,年齢差が特に関与的であることを示す。
Fukurai, Hiroshi 福来, 寛
2009 年の裁判員裁判の導入は米兵犯罪を市民が参加する司法制度で裁くことを可能にした。沖縄総領事のKevin Maher は導入以前に、沖縄の検事正、法学者、学生そして市民のインタビューを通して、裁判員制度の米兵犯罪に対する影響を詳細なレポートにまとめ、2008 年にワシントンの国務省に報告した。その内容は2010 年にウィキリークスによる米国国務省ケーブルの内部告発を通して、一般に知られることになった。本論文は、国務省ケーブル内容と米国の裁判員裁判の潜在的な影響の評価を検討したい。そして地元市民の「反米感情」が裁判評決に反映を防ぐための職業裁判官への信頼と穏便な対処を示唆するレポートの内容と結論を分析する。次に2010 年と2011年に行った全国調査(N=800)と沖縄住民の調査(N=800)を通して軍属の犯罪の裁判評決への、日本人と沖縄住民の両見地からの意見をそれぞれ分析する。最後に2010 年と2011 年に行われた三つの裁判員裁判での米兵と自衛隊員への有罪判決を通して、日本そして米国の両政府の植民地政策からの沖縄の政治的独立と司法主権確立の可能性を模索したい。
Han, Min
本研究ノートは,ある中国人キリスト教徒が1940 年代中国内戦の間に綴った,1946 年1 月8 日から1948 年5 月31 日までの149 日分の中国語日記及びその日本語訳全文を紹介し,日記資料に基づいて,一人の市民,キリスト教徒の目から見た当時のアメリカ北長老会所属の安徽省宿州キリスト教会およびその教会直轄の「農業科学試験部」の活動,戦時下の国民党軍隊と市民及び教会との関わりを整理し,資料の人類学的な背景について若干の考察を与えたものである。 日記は2008 年に筆者が安徽省宿州市において収集し,現在,国立民族学博物館に研究資料として収蔵されている。日記は中国人キリスト教徒の目から当時のアメリカ北長老会所属の安徽省宿州キリスト教会の活動,戦時下の国民党軍隊と市民及び教会との関わり方などの貴重な情報を詳細に記述したので,そこから当時の公式な文書や新聞,書籍等の出版物とは異なる情報を得ることができる。こうした種類の資料を今後,人類学的な歴史研究にどのように活用していく可能性があるかということも含めた試論を提示する。
加藤, 貴 Kato, Takashi
江戸が巨大過密都市となり、身近な自然を喪失していくなかで、日常的には自然との交流が困難となっていったため、江戸市民は近郊の景勝地を遊覧することにより、その代償としていった。その一方で、都市民は個として存在し、生活の順調な進行を阻害する要因、つまり病気・火災・盗賊などの厄を除くことと商売繁昌を祈願するため寺社に参詣していった。このように江戸市民にとって名所は、自然との交流と神仏との交感によって、延気(気晴し)を約束してくれたのである。そのきざしは、一七世紀中期ごろからみられはじめるが、特に、一八世紀以降、江戸の近郊に多彩な名所が成立していき、江戸市民は名所をめぐる広範な行楽行動を展開していった。こうした点について、江戸名所の一つとして知られた王子を例にみていった。王子は、江戸日本橋から北へ約二里半ほどの日帰りが可能な場所で、荒川沿岸の低地部と武蔵野台地、あるいは荒川に流れ込む石神井川が生み出した渓谷など、変化に富んだ自然に恵まれていた。一方では、王子権現社・王子稲荷社・金輪(きんりん)寺という、強力な利益を保障してくれる寺社も存在した。こうしたことから、王子は、春には王子稲荷の初午や飛鳥山の花見、夏には王子権現の祭礼や石神井川沿岸の滝浴み、秋には石神井川沿岸の滝野川の紅葉狩りや虫聞き、冬には雪見というように、四季を通じた行楽地として、多くの江戸市民を集めていった。そして、王子権現の祭礼時に交換された厄除けのお守りとしての槍形、金輪寺で頒布された万能薬の五香湯(ごこうとう)、王子稲荷の参道で売られた土産物であるカラクリ仕掛の狐人形や、落語の王子の狐について、その成立、習俗の変遷などから、一八世紀中期以降に、王子が江戸の名所として有名となり、多くの江戸市民が訪れるようになると、それらの人々を目当てに、あるいは、さらに多くの人々が訪れるように、名所の側でもさまざまな装置を創出していったことが確認できた。
井上, 麻依子 INOUE, Maiko
市民間における文書館の知名度は、多少の広がりを見せてはいるものの、いまだに極めて低いというのが現状である。それは、文書館が史料保存のために設立された施設であったため、長い間史料の劣化を促進する市民の利用を敬遠しがちだったからである。しかし、1996(平成8)年に発表された森本祥子氏の「アーキビストの専門性-普及活動の視点から-」が契機となり、こうした傾向に対して疑問視する声が大きくなった。現在、文書館の普及は利用論、展示論など様々な視点から活発に議論されている。だが、最初に述べたように市民間での文書館の認知度は、多少の広がりを見せてはいるものの、いまだに極めて低いのが現状である。文書館が市民に開かれてからまだ間がないことに加えて、文書館普及活動に関する議論が不充分であるということもその原因の一つと考えられる。そして、文書館の認知度が低いことは、今まで説かれてきた方法論と実践されている普及活動に何らかの差異があるか、もしくはその方法論自体が未成熟な証拠でもある。本稿ではこの問題に着眼し、実際に行われている文書館の普及活動について検証したい。文書館の普及活動は歴史研究者など、専門職の人を対象としたものもあるが、ここでは一般市民に向けて実施されている普及活動に限定して言及し、検証の対象を埼玉県立文書館一館に絞った。埼玉県立文書館は、比較的早い時期から教育普及事業に力を入れており、現段階の文書館普及活動の模範として捉えられるからである。その上、埼玉県は早い時期から県立文書館や埼玉県地域史料保存活用連絡協議会の設立が実現した先進県でもある。このような特徴を持つ埼玉県立文書館の普及活動を検証することで、文書館普及活動の現状について考察してみたい。
井川, 浩輔 Igawa, Kosuke
本稿の目的は、ナレッジワーカーが働く職場において、ソーシャル・サポートが肯定的な感情を介して組織や個人のパフォーマンスに対してどのようなメカニズムで影響するかについて明らかにすることである。具体的には、ナレッジワーカーに対して行った質問票調査において収集されたデータの統計分析を行い、ソーシャル・サポートとパフォーマンスとの関係における肯定的感情のメディエーター効果を測定する。本研究における発見事実は次の2点に要約される。第1に、ソーシャル・サポートと離職の関係は、職務満足によってメディエーティング(調整)されることである。すなわち、ソーシャル・サポート(感情的サポート)は、ナレッジワーカーの職務満足という肯定的感情を高めることを通じて、離職の低減に結びつくと解釈できるのである。ただし、組織市民行動に対しては、職務満足のメディエーター効果は見出されなかった。第2に、ソーシャル・サポートと組織市民行動、および離職との関係は、組織コミットメントによってメデイエーテイング(調整)されることである。すなわち、1.ソーシャル・サポート(感情的サポート)は、ナレッジワーカーの組織コミットメントという肯定的態度を高めることを通じて組織市民行動を促進する、2.ソーシャル・サポート(成長的サポート)は、ナレッジワーカーの組織コミットメントという肯定的態度を高めることを通じて離職を低減する、と解釈できるのである。
Sugase, Akiko
歴史的にパレスチナと呼ばれてきた地域に建国されたユダヤ人国家イスラエルには,2 割程度のアラブ人市民が居住し,そのうち約8%をキリスト教徒が占めている。ユダヤ教徒やムスリムとは異なり,食の禁忌を持たない彼らは豚肉を食し,この地における豚肉生産・消費・流通をほぼ独占している。そのいっぽうで,豚肉食に嫌悪感を示すキリスト教徒もすくなくはない。聞き取り調査の内容からは,彼らの豚肉食嫌悪は比較的最近生じた傾向であることがわかる。そこにはムスリムやユダヤ教徒の価値観の影響もみられるが,もっとも大きな影響をおよぼしたのはイスラエルによるアラブ人市民に対する政策である。本来豚肉食は,キリスト教徒の主たる生業である農業と密接にかかわっていたが,軍政による農業の衰退や,豚肉食と密接にかかわっていた野豚猟の事実上の非合法化により,キリスト教徒の豚肉食観は大きく変化した。宗教的アイデンティティの根幹に深いかかわりを持っていた豚肉食への嫌悪感の増大は,キリスト教徒としての宗教的アイデンティティの損失をあらわしているといえる。
加藤, 聖文 KATO, KIYOFUMI
個人情報保護法施行後、各地の現場では個人情報の明確な定義もなされないまま過剰反応ともいえる非開示が行われている。本稿では、岩手県・佐賀県などでの事例を挙げつつ、国の法と地方の条例との大きな相違点とその問題点を検証し、個人情報に対する過剰反応が通常業務に支障を与えることを明らかにする。また、国民に対する説明責任と健全な市民社会育成の観点から個人情報公開の必要性を論じ、最後にアーキビストとして個人情報といかに向き合うべきかについて問題提起を行う。
比嘉, 俊 Higa, Takashi
本研究は,持続社会に向けた市民育成のために外来生物を教材化し,その実践を生徒アンケートから考察した報告である。外来生物を教材化するにあたって,外来魚と在来魚の混合飼育,地域フィールドにおける外来生物の確認調査を行った。これらの調査結果をまとめ,外来生物に関する教材を作成し,試行授業を行った。授業後の生徒のアンケートから,生徒は外来生物の知識が身についたこと,外来生物の授業を肯定的に評価していることが確認できた。また,外来生物への対応策として生徒は,個人でできることと社会でやることの両面から対応策を提案していた。対応策についてはよく行われいる殺処分を良しとせず,外来生物の立場になって考え,生き物の命を大切にする生徒コメントもみられた。外来生物を通して市民として今の環境をどのように保全するかについての話し合いを生徒は行っていた。外来生物を教材とした理科授業実践はまだ少なく,今後の実践の蓄積が期待される。
森栗, 茂一 Morikuri, Shigekazu
日本の都市研究は,高度経済成長のひずみ,社会問題の反省として発展した側面がある。しかし,十分な議論のないまま,現実の日本の都市の生活は個別分断の消費に突入し,市民の連帯を発見できないでいる。国立大学共同利用機関の都市の共同研究としては,こうした都市の今日状況を視野にいれて,研究の志を立てねばならぬ。子供の自殺や暴力にみられる今日の状況は絶望的である。都市民俗学としては、こうした状況の都市をどう把握するのか,新たな都市の再構築にむけて展望を示す必要がある。本論では,阪神大震災を契機として,都市の連帯のあり方を問いなおした三人の映画監督・映像作家との会話のなかで発見したことを記述した。震災のなかで活動する人々を撮影するなかで,ふれあう町の可能性をみつけた熊谷(くまがい)博子監督。焼け落ちた町が復興する過程を定点観測しつづける青池憲司監督は,魅力的な個人ではなく町の連帯,人間の町がつくられていく動態を記録しようとしている。また,篠田(しのだ)正浩監督は,災害や戦災にいっても生きつづけようとする人々の力,独立市民の登場に期待してカメラをまわしたという。これらの動きは,本当の意味での都市の誕生である。都市民俗学としては,こうした人々の動き・新たな市民連帯の芽吹きを発見し,観察・記録し,新たなまちづくりに貢献せねばならない。都市史研究も,研究テーマがあるから研究するのではなく,何故その研究をせねばならぬのか,問われている。そうした,社会に志を問う共同の研究をせねば、研究の意味はない。何のための共同研究か。何のための共同利用機関なのか。誰のための研究なのか。誰に訴えたいのか。
合庭, 惇
幕末から明治初年にかけての時期は、欧米の科学技術が積極的に導入されて明治政府によって強力に推進された産業革命の礎を築いた時代であった。近代市民社会の成立と印刷技術による大量の出版物の発行との密接な関連が指摘されているが、近代日本の黎明期もまた同様であった。本稿は幕末から明治初年の日本における近代印刷技術発展の一断面に注目し、活版印刷史を彩るいくつかのエピソードを検証する。
平井, 一臣
1965年4月に発足したベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)は,戦後日本における市民運動としての反戦平和運動の展開のなかで大きな役割を果たした。このベ平連の運動を牽引した知識人が,ベ平連の「代表」となった小田実だった。これまでのベ平連研究のなかでも小田の思想と行動はしばしばとり上げられてきたものの,彼がベ平連に参入した経緯や,難死の思想や加害の論理という小田の思想の形成のプロセスについては,依然として未検討の部分が残されている。本稿では,企画展「『1968年』無数の問いの噴出の時代」に提供された資料のなかのいくつかも利用して,ベ平連に参入するまでの小田の行動の軌跡,ベ平連発足時の小田起用の背景,難死の思想と加害の論理の形成のプロセスや両者の関係といった問題を検討する。このような問題意識の下に,本稿ではまず小田の世代的な特徴(「満州事変の頃」に生まれた世代)に着目したうえで,この世代特有の経験と結びつきながら難死の思想がどのように形成されたのか,その軌跡を明らかにする。次に,ベ平連発足に際しての小田の起用について,小熊英二や竹内洋に代表される従来の説明を検討し,ベ平連の代表として「小田実か石原慎太郎か」という選択肢は存在しなかったこと,60年代前半の小田の言論活動の軌跡は戦闘的リベラルに近づく軌跡であり,ベ平連に結集した知識人のなかでの小田に対する一定の評価が存在していたこと,などを明らかにする。さらに,これまで1966年の日米市民会議と結びつけて説明されてきた小田の加害の論理について検討する。実は,加害の論理はベ平連参加以前の段階で小田の問題意識のなかに存在していたが,むしろ回答困難な課題と小田は捉えていたこと,この問題に小田が積極的に向き合うきっかけとなったのが沖縄訪問での経験であったこと,そして加害の論理は当時の小田特有の考え方というよりも,当時の運動のなかで練り上げられていったものであったこと,などを明らかにする。
廣内, 大助 Hirouchi, Daisuke
災害の被災地域では,災害の痕跡を保存することがよく行われている。これは災害の教訓を後世に伝え,再び同じ被害を繰り返さないためのものである。しかしこのことが地域の防災力をどのくらい向上させているのか考えると,非常に効果があると単純には言い難い。濃尾平野の輪中地域に代表されるように,本来災害にあわないために地域ぐるみでの工夫や仕組みが災害文化として存在した。これを受け継ぐことで,地域の防災力を維持してきたのである。水害リスクの低下と,コミュニティの崩壊によって,災害文化が受け継がれなくなった都市住民が災害に遭わないためには,現代の生活に合った新たな災害文化を創出し,受け継いでいく必要がある。河川流域を舞台に活動する市民団体の取り組みをヒントに,新たな災害文化の可能性について考えてみる。
向井, 洋子 Mukai, Yoko
占領期沖縄におけるアメリカの文化政策は、アメリカ統治を円滑にすすめるための働きかけを市民に行っていくことだと考えられてきた。そして、アメリカ軍政府が設立した琉球大学や琉米文化会館は、その文化政策を実行する場とみなされてきた。しかし、なかには政府や大学という公的な枠組みを超えて、独自の関係を築いた人物がいた。琉球大学家政学科の翁長君代である。本稿は、元来、「人好きのする、親しみやすい」性格であった翁長が、アメリカ人と接するなかで、公共性をもつ慈善活動に目覚め、アメリカ軍政府の本音とは異なる方向で活動の輪を広げていった過程を論じる。
Kobayashi, Masaomi 小林, 正臣
本稿はアメリカ諸文学における作品(具体的には、John Steinbeck、Bernard Malamud、Leslie Marmon Silko、Kurt Vonnegutの作品)を批評しながら、様々な環境における存在の在り方を議論している。たとえば、自然環境における人間は、その環境の一員であり、この意味において他の生物―「生」きる「物」としての「生物(living things)」―とは「共者(another)」の関係と捉えることが出来る。とすれば、生物学において人間は「ヒト」と呼称されるように、それら生物をヒトと類比した存在と捉えることは、あながち人間中心主義的ではなく、互いを共者として再定義することを可能にする。この「ヒト」という概念は、社会という環境においても適用できる。たとえば「法人(legal person)」という人物は、主体としての「人」であり、客体としての「物」でもある「人物(person)」であり、少なくとも法律における扱いは「自然人(natural person)」と類比的な存在である。この認識を基盤とすれば、アメリカ資本主義社会における人間と法人の関係は、必ずしも対立関係ではなく、共者同士の関係として再解釈できる。そして法人の活動は、いまや環境に対する責任能力を求められている。すなわち「企業の社気的責任(corporate social responsibility)」という問題は、「企業の市民性(corporate citizenship)」という問題と不可分である。法人が「市民(citizen)」としての地位を獲得することの是非は、環境における存在の在り方を問ううえで重要である。かくして本稿は、以上のような人文科学としての文学研究における発想および課題を提示する。
与那嶺, 匠 Yonamine, Sho
本研究の目的は、シティズンシップ教育のプログラムには教育を受ける側のみならず教育を行う側にも有益な学びが存在し、その学びは市民的資質を生涯にわたって向上させることに有効であることを明らかにするものである。中学生を対象としたシティズンシップ教育に教育支援で参加した大学生たちからは、ファシリテーターとして権利と責務を擁護する存在へと変容し、反省的実践を行いながら自律的に公的な活動へと参加するためのスキルを身につけようとする様子が観察された。ただしそれらの学びは課題解決を目指すカリキュラムや異質な者同士による対話を重視したグループ活動、授業検討の場や裁量性を確保することが条件となる。
越智, 正樹 Ochi, Masaki
事業の費用対効果への説明要求が厳しさを増し、また機械的ガイド等の技術革新も盛んな今日において、まち歩き観光はその継続発展のために、他の観光形態との弁別性と成果(特に社会的効果)の説明可能性を高めることが求められている。だが、そのいずれを説明するにおいても、十分に論理的な基準は構築されてこなかった。本論の目的はこのうち、まち歩き観光の弁別性について、ツアー内容の分析基準を掲示することにある。まち歩き観光およびツアーガイドに関する諸論考に依拠して本論は①市民参画、②ツアーリーダー性の先行、③語りの特有性、⑤まなざしの革新と回収、⑥歩くことの意識、の6つの分析基準を算出した。
比嘉, 俊 Higa, Takashi
小学校理科の教科書に「自然の池や川にメダカを放したり,水草をすてたりしない。」と記載されている。この文言を主発問とした授業実践を行った。この主発問を解答するためには外来生物の知識が必要となる。そのために,本実践では沖縄での外来魚グッピーと在来魚メダカを教材とした外来生物を児童に学習させた。学習前後の児童の解答を見ると,生物放逐禁止を視点とした解答は学習後に有意に増えていた。本実践から小学生に外来生物の教育は有効と考える。また,外来生物教育は,持続可能社会を形成する市民の育成にもつながる。今後,学習者の発達段階に応じた外来生物教育の体系化が望まれる。
島村, 恭則 Shimamura, Takanori
本論文では、都市民俗学の立場から、喫茶店、とりわけそこで行なわれるモーニング(朝食を、自宅ではなく、喫茶店のモーニングセット〈モーニングサービス〉でとる習慣)という事象に注目し、記述と問題点の整理を行なった。本論中で行ないえた指摘は、およそ次のとおりである。(1)モーニングが行なわれる理由は、①労力の軽減、②単身者の便宜、③コミュニケーション、のうちのどれか、あるいはそれらの複合に求められる。(2)日本におけるモーニングは、豊橋以西の、中京圏、阪神圏、中四国のそれぞれ都市部、とりわけ工業地帯の下町的な地域に分布しているものと見ることができる。(3)モーニングは、一九六〇年代後半から行なわれるようになっていると見られる。その場合、喫茶店経営者側は、出勤前のサラリーマンへのサービスを意図してモーニングセット/サービスを開始したのであったが、これが地域で受容される際には、地の生活者、とりわけ女性たちの井戸端会議の場としての機能を果たすようになっている。(4)アジア的視野で眺めた場合、都市社会においては、朝食を外食するほうが一般的だといってよいくらいの状況が展開されており、日本のモーニングには、アジア都市社会に共通する生活文化としての性格が存在するといっても過言ではない。(5)モーニングの場は、他者と他者とが場を共有しながら、そこでさまざまな言葉を交わす公共圏であるが、そこで語られるのは、決して論理的に整理された明晰な言葉ではない。むしろ、モーニングの場は、そうした論理的な言葉で形成される「市民的公共圏」からは排除される言説あるいは人々が交流する場として存在するのであり、この空間は市民的公共圏に対する「もう一つの公共圏」として位置づけることができる。
春藤, 献一
本論文は「動物の保護及び管理に関する法律」(1973年成立)の下で行われた動物保護管理行政における、飼い猫の登録制度や、野良猫用の捕獲器貸出制度、駆除目的に捕獲された猫の引取りといった施策を論じたものである。 同法により行政は、猫の虐待防止や適正な取扱い等の保護と、猫による被害から人を守る管理を行うようになった。飼い猫の登録制度や野良猫の捕獲は、猫の保護管理に関する実験的施策であった。 1976年11月、静岡県島田市は「ねこの保護管理要綱」を定め、施行した。要綱は前例のない、飼い猫の登録制度と野良猫の捕獲制度を定めた。要綱は県内で相次いだ猫による咬傷事故の防止と、飼い猫や野良猫に関する苦情への対応を目的としていた。市は市民に飼い猫の登録を指導する一方で、野良猫の捕獲を希望する市民には捕獲器を貸出し、捕獲された猫を引取った。この施策により市では猫に関する苦情が大きく減少した。 野良猫を捕獲し殺処分する施策が実施されたことからは、猫による危害防止と苦情への対応が、行政として重要度の高い課題として理解されていたことが示唆された。 この施策は1982年以降、政府発行物により全国の自治体へ類似事例と共に共有され、政府が飼い猫の登録や野良猫の捕獲を実質的に追認していたことも明らかとなった。また政府は1982年に、飼い猫の登録と野良猫の捕獲の是非を問う世論調査を実施し、過半数の賛成を得てもいた。この調査が実施されたこと自体からも、政府が猫の登録や捕獲を、実行性の高い施策として検討していたことが示唆された。 また一部の自治体では要綱等を定めず、行政サービスとして捕獲器の貸出しが行われていたことも明らかとなった。 これらの議論から「動物の保護及び管理に関する法律」の下では、捕獲と殺処分という「排除」の方法による施策が一部の自治体で行われ、猫の管理が行われていたことが明らかとなった。
永渕, 康之
1980年代,インドネシアにおけるヒンドゥーはバリ島からの脱領域化を経験している。すなわち,バリ島以外のヒンドゥーがバリ島のヒンドゥーよりも多数をしめるという認識がヒンドゥー内部で広まり,バリ島以外のヒンドゥーの組織化がすすみ,発言力を増しているのである。従来,ヒンドゥーはバリ島のバリ人が多数をしめることを前提として,宗教行政におけるヒンドゥーに関する制度は整備されてきた。ヒンドゥーのバリからの脱領域化はその歴史を塗り替えるとともに,バリ中心主義批判をともなうものであった。すなわち,バリの共同体をあらかじめ前提として形成されたヒンドゥーをめぐる制度の限界が指摘されはじめたのである。2001年,バリにおけるヒンドゥー代表機関の分裂という劇的なかたちで批判は表面化した。本論の第一の目的は,ヒンドゥーの脱領域化がどのようにして起こり,批判の内実はいかなるものであり,何をもたらしたかを明らかにすることである。脱領域化が生み出した最大の変革はヒンドゥー内部における価値の多元化である。市民社会の実現や多様な声に開かれた民主的立場の強調といった従来なかった宗教の公共的役割をヒンドゥーの団体は意識しはじめた。こうした傾向は,スハルト体制の崩壊過程において顕在化した「改革」と並行するものであるとともに,公共宗教という枠組みにおいて論じられている近年の宗教運動の高まりをめぐる議論と呼応するものである。しかし,民主的ヒンドゥーという主張のもとに結集した多様な声のあり方を見た場合,市民社会や民主主義といった課題を参加主体が共有しているわけでは必ずしもない。むしろ,個々の主体は個別の要求を掲げており,しかも互いの主張において各主体は時には対立している。ヒンドゥーは決して同じ価値を共有する単一の閉じられた領域ではなく,むしろきわめて不連続な主体によって構成されているのである。不連続な主体による異なる主張がヒンドゥーという枠組みにおいて接合されている現実に焦点をあて,そのなかで宗教をめぐる諸価値がどのように問われているのかを明らかにすることが本論の第二の目的である。
石井, 由香
本論文は,カンボジア出身の華人系移民の第2 世代で,弁護士,作家として活動するアリス・プンの自叙伝および編著書の内容とオーストラリア社会における反響,およびプンの文化・社会活動の分析を通じて,2000 年代以降のアジア系専門職移民の文化・社会参加の状況を考察することを目的とする。アジア系専門職移民は,経済重視の多文化主義において「好まれる」移民である。しかし,「オーストラリア市民」であるアジア系専門職移民の中には,経済的のみならず,政治的,社会的にも主流社会に深く関わり,単純なマジョリティ,マイノリティの二分法を越えようとしている人々がある。本論文は,アジア系専門職移民にとっての多文化主義,またホスト社会へのアジア系オーストラリア人としての主体的な参加戦略の一つのあり方を,アジア系(カンボジア出身の華人系)というエスニシティ,ミドルクラス,若い世代という特質をもつ作家の事例から検証する。
尾崎, 喜光 OZAKI, Yoshimitsu
国立国語研究所では,山形県鶴岡市において,方言の共通語化を主たる研究課題とする調査を,1950年(昭和25年),1972年(昭和47年),1991年(平成3年)と約20年間隔で多数の市民を対象に継続し,その間の共通語化の進行状況をとらえてきた。しかし,方言/共通語を用いると判定された回答者も,いつも方言/共通語を用いるわけではなく,会話の相手や場の改まりの度合いなど広い意味での「場面」の違いにより,方言と共通語を使い分けていることが予想される。そこで,第3回調査の翌年の1992年(平成4年)に,場面による使い分けの状況を見るとともに,「ふつう何と言うか」と問うことにより日常的な場面を想定させて求め続けてきた過去3回の調査結果が言語生活全体のどの側面をとらえてきたかを検証するために「場面差調査」を実施した。分析の結果,さまざまな言語要素において使い分けがなされていることが確認された。
小池, 淳一 Koike, Jun'ichi
本稿は柳田民俗学の形成過程において考古研究がどのような位置を占めていたのか、柳田の言説と実際の行動に着目して考えてみようとした。明治末年の柳田の知的営為の出発期においては対象へのアプローチの方法として考古研究が、かなり意識されていた。大正末から昭和初期の雑誌『民族』の刊行とその後の柳田民俗学の形成期でも柳田自身は、考古学に強い関心を持ち続けていたが、人脈を形成するまでには至らず、民俗学自体の確立を希求するなかで批判的な言及がくり返された。昭和一〇年代以降の柳田民俗学の完成期では、考古学の長足の進展と民俗学が市民権を得ていく過程がほぼ一致し、そのなかで新たな歴史研究のライバルとしての意識が柳田にはあったらしいことが見通せた。柳田民俗学と考古研究とは、一定の距離を保ちながらも一種の信頼のようなものが最終的には形成されていた。こうした検討を通して近代的な学問における協業や総合化の問題が改めて大きな課題であることが確認できた。
イーサン・D, スクールマン アレクサンダー, ホー
アメリカ合衆国における地産食品の需要が増加し続ける中,合衆国の農家や食品業界にとって最大の課題は,ローカルフードを指向する社会運動の本来の価値にこだわりながら,この需要を満たすことである。同時に,地元の食べ物への関心は,米国や産業化された欧米にのみ見られるというもの。市民団体や地域の食材を宣伝する取り組みは,日本において長い歴史がある。中国,台湾,インドネシア,ベトナム,韓国では,健全な地域の食システムが食の安全とグローバル化への懸念を解決するのに役立つという考え方が最近,足場を得ている。おそらく驚くべきことに,「ローカルな」食は「グローバルな」現象になっている。したがって,この論文には2 つの目標がある。まず,本論では,アメリカのローカルフード運動の歴史と現状を探り,重要な課題が満たされる方法を提案する。第二に,日本と東南アジア諸国におけるローカルフード運動が直面する課題に,アメリカの事例にて提案された解決策と類似したもしくは異なる解決策が必要な場合があることについて議論する。
徳田, 和夫 TOKUDA, Kazuo
衆庶に神仏への結縁を促し、亡者の供養や生者の滅罪・往生達成のために作善を勧める。そして、堂舎・本尊の建立修造のために喜捨を仰ぎ、募る。以上の唱導と経済の両面が、勧進聖の定義を充足する。数多の勧進聖の巷間径徊は中つ世に見逃しえない顕著な文化事象であった。文学史の側もはやくからこれに注目し、その定義に文芸営為を付加せんとの動きがある。だが、この主張は充分に市民権を勝ちえもし、生活圏は確保されているだろうか。筆者はかねてから右の主張の証明を胸中にしていた。結縁させるために、秘事とすべき社寺の縁起譚と霊験譚を語り、作善の功徳を教える譬喩譚を語ることは大概に予想されよう。その事実の確認にあたって、第一章では勧進聖が説話の管理者としてある面を捉え、第二章では享禄本当麻寺縁起の作製過程を辿って、勧進聖の活動をなぞってみた。結果、説話や物語の形成や流布享受に、勧進聖が参画していた事実をここにあらためて強調したいと思う。
Tsukada, Shigeyuki
本稿では,宋朝,11 世紀半に大規模な蜂起を起こし,チワン(壮)族の「民族英雄」とされている歴史的人物儂智高(1025–1055 ?)に関する,現代中国における研究動向を検討した。あわせて,従来研究されてこなかった諸問題をも検討した。 1950 年代後半から1960 年代に,マルクス主義的発展段階論にそった論争が展開された。ついで1979 年の中越戦争以降,儂智高の国籍問題が論じられ,儂智高中国人説が有力となった。1990 年代後半,「民族英雄」としての評価が出現し,2000 年以降定着した。愛国主義思想の普及にともない儂智高の「愛国者」としての位置付けが定着した。また,雲南や東南アジア大陸部に研究の地域的な広がりが見られるようになった。さらに,メディアが論争に参入した。2000 年代,ウエブサイトの普及により一般の市民を巻き込んだ,新たな論争が展開されるようになった。地方からの論評が続々と出現し研究の裾野が広がった。 儂智高に関する再解釈が現代中国では絶えず行われ続けてきた。儂智高をめぐる研究には時代の風潮が映し出されてきたのである。
篠原, 武夫 パレル, ジオスダド ア 安里, 練雄 Shinohara, Takeo Paler, Diosdado A. Asato, Isao
この研究はフィリピン公有林(国有林)の森林資源, 木材生産過程及び木材生産の社会経済開発に与える影響や意味を調べて木材生産構造の特質を明らかにする。公有林では木材生産が行われ, とくにフタバガキ科林がルソンやミンダナオ地域に豊富に生育している。長期木材伐採権(TLA)は木材生産のために発行され, 伐採方法は択伐である。ミンダナオ地域は最も多い長期木材伐採権保有者を有し, またルソン地域よりも多い丸太を生産している。ヴィサヤ地域では木材生産の要因は乏しい。長期木材伐採権保有者は木材生産の主な担い手であり, 産業経済開発に重要な役割を果たしている。彼らは雇用や輸出収入をもたらしてきた。しかしながら, 現在行われている木材生産は年々速い速度で森林を減少させている。このことのために政府は丸太の全面輸出禁止をせざるをえなくなった。丸太輸出の制限は伐出部門における従業員数ばかりでなく長期木材伐採権保有者数及び丸太生産も減少させることになったのである。これらの問題はすべての林業家, 関係市民, 政府, 伐出業によって真剣に解決されるべきである。国の森林資源の持続的収穫及び多目的利用の原理に基づく管理方法で, その問題に対するダイナミックで進歩的な解決方法が常に求められ, 検討されるべきである。
上里, 健次 安谷屋, 信一 米盛, 重保 Uesato, Kenji Adaniya, Shinichi YoneMori, Sigeyasu
石垣を含めた沖縄における2000年開花のヒカンザクラについて,開花と出葉の早晩性を地域間差,個体間差を含めて比較検討した。調査地域は石垣市,八重瀬公園与儀公園,琉球大府附属農場,敷数公園,八重岳の高,中,低位所,国頭村奥で開花の安定したそれぞれ50本前後を対象とした。3月2日に石垣市,3日に他の地域に出かけ開花度,出葉度を10レベルに分けて調査した。得られた調査結果の概要は次ぎの通りである。1.地域間では石垣では最も遅く,与儀貢献もかなり遅く,八重岳の3区と八重瀬公園は最も早く,他の3区は同様で,4グループ間に有意性のある地域差が見られた。2.八重岳における標高差については高位所と低位所で早く,中位所は遅れる傾向があり,開花に対する350m程度の標高差は明確ではなかった。3.各調査区区における個体間差はかなりの幅で見られ,これは実生系による栽植で異なった遺伝性を持つことによる当然の結果といえる。4.12月,1月の名護,那覇,石垣における日最低気温の推移にかなりの差が見られ,石垣における開花の遅れは冬季の温度の低下が遅れることによるが,与儀公園の遅れも同様に,市民生活に起因する要素を加わった温度上昇が主要因と間がえられる。
千田, 嘉博 Senda, Yoshihiro
日本における城郭研究は,ようやく基本的な所在や遺跡概要の情報を集積する段階を終え,そうした成果をもとに新しい歴史研究を立ち上げていく新段階に入ったと評価できる。従来の城郭研究は市民研究者によって担われた民間学として,おもに地表面観察をもとにした研究と,行政の研究者による考古学的な研究のそれぞれによって推進された。しかしさまざまな努力にもかかわらず地表面観察と発掘成果を合わせて充分に歴史資料として活かしてきたとはいい難い。城郭跡を資料とした研究を推進するためには,地表面観察から城郭の軍事性を歴史資料化することと,発掘成果から城郭の内部構造を歴史資料化することを一貫して行い,分析することが必要である。そして発掘成果によって改めて中世城郭の実像をとらえ直すことが大切である。そこで本稿では,発掘で内部構造が判明した中・小規模の城郭遺構を軸に,地表面観察,文字史料をも合わせた学融合的検討を行った。検討の対象は,築城祭祀,塁線構築技法,陣城,包囲陣,中小規模の山城の内部構成,兵舎など多岐におよぶ。いずれも城郭跡から歴史を読み取っていくのに基本になる視点といえる。地表面観察でわかる情報から発掘成果まで学融合的に一貫して検討することで,城郭跡のもつ資料性をさらに高めることができる。本稿はそうした新しい研究方向を指向した試みである。
Chinen, Joyce N. チネン, ジョイス・N
21世紀を生きるハワイの住民は概して他のアメリカ国民よりも優れた市民権と労働権を享受している。これらの権利がどのように獲得されたかということについて、社会的には二つの説明の仕方が定着している。一つは多民族的労働組合主義を基盤とした組織化に成功した労働運動によるものとしての説明である。二つ目は、以前の民主党支持者、労働組合、そして特に第二次世界大戦に従軍し多大な犠牲を払った日系退役軍人たちが共闘しながら社会で政策決定過程における平等を要求し、半世紀にもわたる共和党支配をひっくり返した「民主党革命」によるものとしての説明である。いずれにおいても、沖縄人と沖縄アイデンティティは一般的日本人の括りの中に埋没し、評価されることはなかった。また、一方では、一般的沖縄人は、経済的、社会的成功を勝ち取るべく起業家精神にあふれ、民族的連携を図り、ハワイ農業で苦役に従事する一世として説明される。公文資料と口述史料を基に、本稿では沖縄人が起業家としてではなく社会の活動家として果たした役割を強調したい。特に人口統計学的要素や社会史的要素がどのように活動家としての役割を後押ししたのかを明らかにする。結論として、言祝がれ流布するハワイにおける沖縄人の「立身出世話」とハワイ社会における沖縄人共同体の将来の方向性について再検討を促す。
佐藤, 正三郎 SATOU, Shouzaburou
本稿では山形県における文書館設置計画が挫折に至る過程を検討し、その要因と今後の課題を考察する。現在までに三分の二の都道府県では文書館が設置されており、関係者によって設置までの事例報告が行われている。一方で文書館未設置の県においても、これまでになんらかの計画進展がみられた。しかし設置に至らなかった経緯や理由、現状といった課題についてはほとんど明らかにされていない。本稿では主に情報公開制度を利用し、部外者の視点からこの課題を検討する。山形では、1970年代の県庁移転を契機に研究者を中心とした文書館設置運動が始まる。1980年代には行政内部でも設置計画が進展し、1990年代前半には50億円規模の設置計画が完成した。しかし1990年代後半以降、県財政悪化とともに計画は縮小され、現在では白紙状態にある。また2000年以降、「歴史的文書」として保存されてきた史料の大量廃棄、「歴史的文書」保存冊数の激減などが問題化している。この過程を検証することで、1評価選別体制の再構築、2文書館の多面的な有用性のアピール、3現状に合わせた設置計画の再考、4研究者と市民レベルでの意識向上、の4つの課題が明らかになった。今後文書館制度を全国に広げるためには、他の文書館未設置県においても従来の計画や推移を外部から再検討し、課題を抽出していくことが重要である。
関根, 豊 SEKINE, Yutaka
「専門職員」規定が設けられた公文書館法が施行されてから約20年が経過したが、我が国のアーカイブズ界において、いまだ専門職制度は確立していない。しかし、文書管理・史料保存への関心の高まりから、公文書館法施行以来20年の間にアーキビストの養成を行う機関や制度は徐々に整備され、また「公文書管理法」の成立を背景として専門職問題は近年再び活発に議論されるようになった。では、アーカイブズの現場職員はどのような状況に置かれているのだろうか。専門職問題を議論する前提として、アーカイブズに勤務する職員を取り巻く実態をきちんと把握しておく必要がある。そこで本稿では、都道府県アーカイブズを対象に、議論や制度の経過などを踏まえつつ、過去の調査や筆者独自の取材結果をもとに、アーカイブズにおける人的問題の現状分析を行った。分析の結果、アーカイブズの現場は人員の確保・養成などの側面において、多くの問題を抱えていることが明らかとなった。そうした問題の解決に向けて、アーカイブズ界は、あるべき専門職制度の共通認識を早急に形成し、既に専門的な知識・技能を有している職員に対して人事上の配慮がなされるよう行政当局へ訴え、制度設計の提案などを行っていく必要がある。しかし何よりも重要なことは、アーカイブズ・アーキビストの役割を市民や行政に知ってもらい、その存在の重要性を認識してもらうことだろう。
山口, 剛史 友利, 良子 Yamaguchi, Takeshi Tomori, Ryoko
本研究は、教員のライフヒストリーから教員の学びや成長のプロセスを描き出すことで、教員の成長を自身がどうとらえているのか、教員の専門性(ここでは、子ども理解や授業力)の獲得のきっかけは何なのかを明らかにすることにある。とりわけ沖縄県は多くの離島があり、多くの教員にとって離島勤務は必須であるが、離島勤務を積極的にとらえているとは言い難い状況がある。本稿では、長年、八重山地区で養護教諭として勤務した友利良子氏のライフヒストリーから、離島へき地教育の可能性、そこでの教員の専門性を探ることで、これらの状況に応えたい。友利良子氏の教育実践から、何より「離島にも子どもがいる」という言葉に示される通り、島に生きる子どもの存在を正面から見つめ、逃げないこと、そこに生きる営みや文化に敬意をもってあたることの重要性が示された。そして、自身の経験から語られた「教師として島に生きる」とは、「島に生きる大人」として、子どもから逃げず正面から向き合い、大人になった教え子たちとも島を支える大人として付き合っていく覚悟をもって子どもたちと接していくことであった。大人(市民)として全人格的に関わることで、「忘れられない教員」「つながりつづけたい大人」になっていく、これが離島へき地教育の豊かさを示していることが明らかになった。
金城, 光子 Kinjo, Mitsuko
舞踊の記録,表記はむずかしい多くの課題を含んでいるようである。これまで,老人踊り「かぎやで風」と女踊り「諸屯」の2つの作品の踊り像を描き,踊りの展開がある程度わかるように図示してきた。今回は,同じく男踊り「高平良万歳」の舞踊の踊り像を描写したものを図示することにしたい。この踊りに関する解説および,分析検討は本紀要『沖縄の踊りの表現特質に関する研究[3]~古典舞踊「高平良万歳」(男踊り)について』に記したので本稿では割愛することにした。研究の方法は,(1) 8ミリ,16ミリ,35ミリフィルムに踊りの全形を収録したのち,(2) 1~10コマ毎の踊り像をプロフィールプロジェクターで拡大し,舞踊の全体像を描いた。(3) 作品の総コマ数をかぞえ,踊り動作のまとまりに区切りをつけてコマ数を記し時間を概算した。(4) 図を踊り順にならべ,図の下にコマ数を数字で記入したのち約3cmの高さに像を縮少した。(5) 踊り順序にならベた図に動作や一連の踊りの区切りがわかるように番号を付した。この踊り番号は,踊りのコマ数と時間の表に書いた番号と同一である。(6) (5)と対応するようにコマ数と時間,歌詞を示す表を作成。(7) (5)と(6)と対応させつつ"踊り方"の概説を記した。(8) 踊り手は,琉球舞踊家の島袋光裕。(9) 撮影は昭和50~51年まで,那覇市民会館大ホールで行なった。
阿南, 透
本稿は,高度成長期における都市祭礼の変化を,地域社会との関係に注目しながら比較し,変化の特徴を明らかにするものである。具体的には,青森ねぶた祭(青森県青森市),野田七夕まつり(千葉県野田市),となみ夜高まつり(富山県砺波市)を例とする。青森ねぶた祭では,1960年代に地域ねぶたが減少するが,1970年代には公共団体や全国企業が加わって台数が増加し,観光化が進んだ。そして各地への遠征や文化財指定へとつながった。野田七夕まつりなどの都市部の七夕まつりは,1951〜1955年に各地の商店街に普及するが,1965〜1970年頃に中止が目立った。野田でも1972年にパレードを導入し,市民祭に近づけることで存続を図った。となみ夜高まつりなど富山県の「喧嘩祭」は,1960年頃に警察やPTAなどから批判されて中断し,60年代後半に復活した。このように,高度成長期前期には,どの祭礼にも衰退や中断,重要な変更がみられた。一方,後期には,祭礼が復興し発展したことが明らかになった。変化の要因として,前期の衰退には,経済効率第一の風潮のほか,新生活運動も関与していた可能性がある。後期の復興には,石油ショック以後の安定成長期の「文化の時代」に,祭礼が文化として扱われ,文化財指定を受ける「文化化」,祭礼が観光資源になる「観光化」,行政などが予算を立案し,業務として運営する「組織化」,さらに事故のない祭礼を目指す「健全化」などの特徴が見られる。
福田, アジオ Fukuta, Azio
広場は都市特有の装置であろうか。広場論は基本的に都市を対象に行われてきた。都市の市民の存在が広場を必要とし、広場を作りだしてきたとする。しかし、都市形成の前提としての農村の存在を無視することはできない。都市が農村から完全に断絶して形成されたのではない。本稿は、日本の村落社会における広場の存在形態を考察することで、都市の広場の前提を明らかにしようとするものである。広場という言葉は近世からのものであるが、日常的に使用されるようになったのは古いことではない。広場に相当する民俗語彙としてはニワとツジがあるが、後者の方がより人々の集合空間としての意味が強い。そのツジが東日本よりも西日本において頻繁に使用される傾向があることが注目される。そして、それに対応するかのように、村落景観や村落内部秩序において東西の相違は大きく、それらと密接に関連しているのが人々の集合空間である。東の村落では家々の存在が強調され、会合も個別の家が会場になることが多く、西では人々が集合する施設が設けられてきた。野天における集会のための空地も西において発達している。それは集落の物理的なあり方によっても大きく規定されている。東の集落は屋敷と屋敷の間に田畑があり、そこが臨時的に集合空間となったが、西の集落は家々が壁を連ね、軒を接しているので、人々の集合空間を集落内に計画的に設定する必要があったのである。
小山, 隆秀 Oyama, Takahide
青森県津軽地方のネブタ(「ねぷた」および「ねぶた」を総称する)とは、毎年8月初旬に、木竹や紙で山車を新造して、毎夜、囃子を付けて集団で練り歩く習俗である。現在では海外でも有名な観光行事となった。そのルーツには七夕や眠り流し、盆行事があるとされてきたが、その一方で近世から近現代まで喧嘩や口論、騒動が発生する行事でもあった。本論ではこれをケンカネプタ(喧嘩ねぷた)として分析する。ケンカネプタは、各町の青少壮年達によるネブタ運行が、他町と遭遇して乱闘へ発展するものであるが、無軌道にみえる行為のなかには、一定の様式や儀礼的要素が伝承されてきたことが判明した。しかし近代以降、都市部ではネブタの統制が強化され、ケンカネプタの習俗は消滅したが、村落ではその一部が、投石や喧嘩囃子等で近年まで伝承されていた。さらに都市部では、近世以来行われてきた子供たちの自主的なネブタ運行が禁止されるとともに、喧嘩防止のため、目抜き通りでの合同運行方式を導入することによって、各ネブタ組は、隊列を整えて大型化した山車を運行し、合同審査での受賞を競うことへ価値観を転換していった。近年は、山車の構造や参加者の習俗形態が急速に多様化しており、それにともなう事故が発生したため、市民からは、ネブタが「伝統」または「本来の姿」へ回帰することを訴える動きがある。しかし本論の分析によれば、現在推奨されている審査基準や「伝統」とされる山車の形態や習俗は、近世以降の違反や騒乱から形成され、後世に定着したものであることがわかる。よって、現在の諸問題を解決するための拠り所、または行事全体の紐帯として現代の人々が希求している「本来の姿」に定型はなく、各時代ごとに変容し続けてきた存在であるといえよう。
山中, 章 Yamanaka, Akira
古代王権の「陵墓」と宮都の関係についての研究は限られており、わずかに岸俊男氏の論じた「藤原京」と天武・持統合葬陵、今尾文昭氏の藤原宮と四条古墳群、山田邦和氏の平安京と桓武・嵯峨・淳和天皇陵との関係がある程度である。そこで今一度、飛鳥諸京以後平安京に至るまでの王宮・宮都が「陵墓」・葬地をどのような意図の下に、いつから、どこに配置したのかについて分析した。六世紀に入り王権の所在地に近い飛鳥の南西部に「王陵空間」が創出された。推古王権の「陵墓」はその伝統的「墓域」に設定され、王宮との関係性は明瞭ではなかった。ところが、天武・持統王権は初めて、両空間に明確な思想を持ち込み、南を現王権の「陵墓」空間、西を始祖墓空間とした。平城京建設に伴い、唐・長安に習うかの如く宮城中枢部を中国的な空間構造とし、北側に「陵墓」空間を設置した。ところが、長岡京から平安京にかけて中国的な「陵墓」空間が変更され、独自の空間としての東が固定化される。桓武天皇が深草に埋葬されたことが、その後、深草の地を葬地とする考えを導き出し、元号寺院・嘉祥寺、貞観寺、極楽寺を建立させ、東の特殊空間が確立する。相次ぐ天皇や貴族の埋葬は平安京における東の位置づけを決定づけ、葬地空間が固定化する。さらに平安京都市民の埋葬地として、佐比川や鴨川が着目され、鳥部野に葬地が固定化することになる。平安京(或いは京都)では都市の東が貴賤を問わず葬地と化していくのである。それは唐・長安における貴族・官僚層の葬地としての東の位置づけと重なり合う。宮都と陵墓との関係は日本の宮都の変遷と期を一にするかの如く、中国の構造を参照しながら独自の変遷を複雑に経たのであった。
藤尾, 慎一郎 Fujio, Shinichiro
考古学からみた江戸は市中を中心に進んだ発掘調査によって全貌が徐々に明らかにされつつある。特に焼物をつかって江戸市民の暮しの復原や武家と町民の比較研究も盛んである。江戸時代の焼物には広域にわたって流通する陶磁器と各地で生産された素焼・瓦質の土器があるが,何を解きあかそうとするかによって資料として選ぶ焼物の種類は変わってくる。今回は江戸時代最大の消費都市である江戸とその周辺に位置する譜代大名の城下町の違いを日常生活のレベルからおさえるために,ゴマやマメを妙る土器である焙烙(ほうろく)を用いて迫ってみたものである。焙烙は底部がきわめて薄くつくられているため,長距離の運搬には向かず,広域流通には不適な土器と考えられるところから,各地でつくられその商圏は非常に狭かったといわれている。したがって焙烙にみられる地域色を追求すれば,その商圏の範囲をおさえることができるし,各地の生活レベルや囲炉裏や竈といった火力施設にあった焙烙がつくられていたと予想されるため,当時の各地の生活の実態を探るうえでも有効な遺物であるといえよう。分析の結果,江戸市中に比べて佐倉では囲炉裏から竈への転換がかなり遅れたことや,江戸とその周辺に中世からつながる工人集団と17世紀に関西から招聘されたとされる関西系工人が存在し,両者が消費のニーズにあわせてしのぎを削っていた状況があきらかとなった。しかし絶対数が多い在地系工人主体の生産がここ佐倉では大勢を占めていたのである。また彼らと歴史上の下総土器作り集団との関連も注目される。江戸時代の煮沸具にみられる地域差が当時の生活状態を反映していたことは,筆者の専門である縄文・弥生時代の生活実態にもつながるものとして大いに期待できる分野である。
小林, 邦彦 Kobayashi, Kunihiko
以下、著者の発表記録・メモ【記録】SBSTTA-22におけるポスト愛知目標に向けた議論2018年7月19日(木)午前10時~11時半発表者 実践プログラム2 研究員 小林邦彦発表後、以下のような質疑応答が行われた。なお、本記録は、小林が簡易的にまとめたものであり、間違いなどの責任は全て小林にあります。【自発的な生物多様性コミットメントに関連して】・小さな団体の取り組みに大きな後ろ盾ができるのであれば意義があるのでは。・小さな個々の団体の提案をすくい上げることが地球規模の問題解決につながるのか。・コミットだけでは意味がない。パートナーシップ国際機関が評価してあげる仕組みにしないと効果がでないのでは。・生物多様性コミットメントは、EU内の発言力のある国の意見のようにも見えるが、どうか?(発表者からの回答)⇒ 従来、COPではEUが加盟国を代表して、発言をすることになっているが、今回のSBSTTAではEU加盟国も発言していたので、発言力のある国の意見というわけではないと考えられる。ただし、正確には、EUではなく、欧州委員会(EC)の意見かと思います。【愛知目標に関連して】・愛知ターゲットを達成できていない反省に対する議論は?日本政府は次に向けた検討は具体的にどのようなことをしているか?(発表者からの回答)⇒SBSTTAでは、達成できていないという報告に対して、Take noteするにとどまっている。各国の受け止めはまちまち。・消費と生産がでてきたのが面白いと思った。・参加型のプロセスとは国の政府以外も含むのか?(発表者からの回答)⇒リードするのは、政府という書かれているが、先住民族及び地域社会、市民社会、女性団体、青年団体、研究機関、国際機関、民間セクター、その他のセクターなど、政府以外も含まれる。【その他】・IPBESで土地劣化という言葉を使った意図は何か。中国は新興国なのか先進国なのか。(発表者からの回答)⇒使った意図はわからない。中国は新興国だと考えられる。
尹, 芷汐
本論は、1950年代の「内幕もの」との相関性において松本清張のノン・フィクション作品集『日本の黒い霧』を考察したものである。松本清張は当作品集の中で、下山事件や松川事件など、占領期に起きた一連の「怪奇事件」を推理し、それらの事件がすべてGHQの「謀略」に関わっていると説明したが、この「謀略論」は1960年に発表されると大きな反響を呼び、「黒い霧」も流行語となった。実は、『日本の黒い霧』の事件の表象は同時代において決して孤立した存在ではなかった。1950年代、様々な社会的事件の「内側」を知りたいという時代の気運があり、その中で「内幕もの」というジャンルのルポルタージュが総合雑誌、週刊誌の中で急速に増加していった。「内幕もの」は、権力層の「内側」の人間が語り手となり、歴史や政治上の秘密を暴露するのが常套である。しかし、そうした「内幕もの」は、「真実の暴露」に見せかけながら、権力側の世論操作の道具として利用されることも多い。例えば「内幕もの」の第一人者で、GHQの「内部」に潜り込んだジョン・ガンサーは、『マッカーサーの謎』を執筆してGHQの秘密を「暴露」している。しかし、その「暴露」は明らかにGHQとマッカーシズムを讃えるために意図されたものである。 松本清張の『日本の黒い霧』は、直接ガンサーの「内幕もの」に反論しながら、「内側」から発された「秘密」の虚偽性を明らかにした。松本清張は、「内側」に入り込んで新たな秘密情報を探るのではなく、「外側」に立つ「一市民」として新聞報道や既存の資料の読み込みを通して真実を見出そうとする手法で、『日本の黒い霧』を書いた。『日本の黒い霧』は、歴史がいかに「作り物」であるかを教え、「公式的見解」の精読、いわゆる「真実」の不自然さの発見を示唆する書物として読まれるべきである。
大出, 春江 Ohde, Harue
本論の目的は、性と出産の社会統制が大正初期にどのように進められたのかを明らかにすることである。そのための方法としては一九一一年から一九一四年までの間に、雑誌『助産之栞』(一八九六年〜一九四四年まで刊行された月刊誌)に採録された当時の社会的事件の内容分析を行う。この時期の内容分析から重要な点を四つにまとめることができる。一つは親による子殺しという残酷な事件や不義密通といった性的逸脱の出来事を掲載しつつ、同じページに〈聖なる出産〉ともいうべき皇室の出産記事が囲みで同時に報道されていること。二つめに、陰惨で汚穢に満ちた事件の状況がリアリティをもって具体的に数多く記述されること。三つめには畸形児に対する露骨なまなざしが存在すること。四つめはこれらの記事が一九一四年末から忽然と消え、それらの陰惨な事件にかわって多胎児の誕生に対する注目、産児調節、そして人口統計が繰り返し登場するテーマとなっていくことである。これら四つの特徴は特に一九三〇年代の性と生殖の統制に関する一連の動向を考えれば十分納得できることばかりかもしれない。しかし、より具体的にどのようなメディアがどのような形で機能し、結果としてよい性と悪い性、好ましい出産と好ましくない出産、優性な子どもと劣性な子どもの振り分けが人々の意識に埋め込まれていくのか、そのプロセスと回路とを知ることができるだろう。その一翼を担ったメディアとして、この助産雑誌自体も重要であったが、衛生博覧会や児童展覧会といった装置は模型や現物を提示することで、都市の一般市民を対象に好奇や驚き、不気味さの感覚と共に正常なるものの価値を教育し、性や生殖そして健康の社会統制を進める重要な機能を担ったといえる。こうしたメディアを通じて都市から村落へ伝搬する形で、性と生殖の統制が進行し、人々の性と出産をめぐる日常生活意識が変容していったのではないだろうか。
高橋, 晋一 Takahashi, Shinichi
本稿の目的は,阿波踊りにおける「企業連」の誕生の経緯を阿波踊りの観光化の過程と関連づけながら検討することにある。とくに,阿波踊りの観光化が進み,現代の阿波踊りの基盤が作られるに至る大正期~戦後(昭和20年代)に注目して分析を行う。大正時代には,すでに工場などの職縁団体による連が存在していた。またこの頃から阿波踊りの観光化が始まり,阿波踊りを会社,商品等の宣伝に利用する動きが出てきた。昭和(戦前)に入ると阿波踊りの観光化が進み,観光客の増加,審査場の整備などを通して「見せる」祭りとしての性格が定着してくる。小規模な個人商店・工場などが踊りを通じて積極的に自店・自社PRを行うケースも出てきた。戦後になるとさらに阿波踊りの観光化・商品化が進み,祭りの規模も拡大。大規模な競演場の建設と踊り子の競演場への集中は,阿波踊りの「ステージ芸」化を促進した。祭りの肥大化にともない小規模商店・工場などの連が激減,その一方で地元の大会社(企業)・事業所の連が急激に勃興・増加し,競演場を主な舞台として「見せる」連(PR連)としての性格を強めていった。こうした連の多くは,企業PRを目的とした大規模連という点で基本的に現在の企業連につながる性格を有しており,この時期(昭和20年代)を企業連の誕生・萌芽期とみてよいと思われる。なお,阿波踊りの観光化がさらに進む高度経済成長期には,職縁連(職縁で結びついた連)の中心は地元有名企業から全国的な大企業へと移っていく。阿波踊りの観光化の進展とともに,職縁連は,個人商店や中小の会社,工場中心→県内の有力企業中心→県内外の大企業中心というように変化していく。こうした過程は,阿波踊りが市民主体のローカルな祭り(コミュニティ・イベント)から,県内,関西圏,さらには全国の観光客に「見せる」マス・イベントへと変容(肥大化)していくプロセスに対応していると言える。
平良, 勉 金城, 昇 Taira, Tsutomu Kinjo, Noboru
原山, 浩介 Harayama, Kosuke
20世紀のツーリズムの高揚は,まず1930年代にひとつのピークを迎えた。その後,日中戦争に突入後も,1942年までは戦時ツーリズムというべき状態が続いたとされる。こうした現象は,都市部に住む人びとの旅行熱を説明するものであるが,そうした人びとを受け入れる観光地からこの時代を眺めたとき,違った説明が必要になる。観光地の中でも,伊勢,日光,白浜といった著名な観光地は,確かに戦時下においても,多くの観光客が来訪した。しかしながら,1930年代までは観光開発が十分に進まず,アクセス手段の整備も限定的であった周縁的な観光地は,日中戦争の開戦により,集客が困難になっていく。この戦時の観光地としての休眠期間が当該地域にどのような影響を及ぼしたのかは,戦禍に巻き込まれたか否か,どのような観光資源があるのか,といったさまざまなファクターが絡んでくるうえ,戦後の観光地としての大衆化をも視野に入れて考える必要があるため,一義的なイメージによって説明することは困難である。本稿では,ひとまず長野県戸隠の観光地としての展開を,戦時を挟む形で取り上げた。この地域は,古くから,霊山として,あるいは鬼女紅葉伝説などで,その名を知られていた。さらに1930年代の乗合自動車の開通と,この時期の観光ブームにより,その知名度は飛躍的に向上した。しかしながら,燃料統制による乗合自動車の減便ないし運行休止により,戦時の戸隠は観光地としては凋落する。そのことにより,文人にとってはむしろ静かな逗留先として好まれるようになり,戦時下に多くの文学作品や随筆の中で,この地が叙情的に取り上げられることにつながった。戦後になると,ひとまずは長野市民の観光地として戸隠は再スタートする。そして国立公園への編入や道路の開通により,高度経済成長期には観光地として成長を遂げることになる。戦後の観光地としての戸隠とは,戦時に文人たちによって描かれた叙情的なイメージを湛えつつも,その一方で華々しい観光地としての大衆化によってかえってその魅力を減じていくという,両義的な経過を辿った。
石田, 哲也 関, 洋平 欅, 惇志 柏野, 和佳子 神門, 典子
馬, 建釗 陈, 晓毅
珠江デルタは中国南部の広東省にあり,13 の市・県(区)を包含する。急速な経済発展にともない,同地域は広州を中心として,活力に満ちた都市群を形成している。農村労働力がこうした都市部に流入し就業しているが,そのうち常住少数民族は約67 万人である。本研究で用いた資料は,文末の参考文献を除いて,すべてフィールドワークによる参与観察とインタビュー,及びアンケート調査に基づくものである。本稿はそうした資料をもとに,珠江デルタ都市の外来少数民族の流動と文化的な適応の問題を論ずるものである。 本研究では,珠江デルタ都市の外来少数民族には次の四つの特徴があることが分かった。1)人口増加の驚くべき速さ,2)集団性,3)チュワン族が最多で,土家族,ミャオ族,トン族,ヤオ族の順で続く民族分布状況,4)「大雑居」,「小集住」の空間的分布状況構造である。 珠江デルタの外来少数民族の流動には,客観的要因と主観的要因がある。客観的要因には,政治的要因と経済的要因がある。政治的には1980 年代以降,都市と農村とを二分化する統治モデルが徐々に解消され,農村や牧畜地域から都市へと流入した少数民族のために,政策と保障を提供している。経済的には,計画経済が市場経済へと軌道変更し,労働力の自由な転職が見込まれるようになった。珠江デルタ都市の経済は,少数民族が居住している広大な「少・辺・貧」地域から見れば,巨大な経済格差を有している。主観的側面での主な要因は金儲けであるが,それ以外にも様々な要因がある。すなわち,珠江デルタ都市の繁栄へのあこがれ,故郷での発展機会の欠如,大勢に従おうとする心理,父母の世代のように一生田畑に縛られたくないという気持ちなどである。 本研究で明らかになったのは,都市外来少数民族には物質面,制度面,精神面での適応問題が存在し,ある種の特徴や傾向があるということである。 物質面での適応は,従業員が珠江デルタ地域でうまく生存していくことができるかどうかに関係しており,極めて重要なものである。気候面から言えば,珠江デルタの近隣地域から来ている従業員にはとくに不適応の問題は存在しないが,雲南・貴州の両省から来ている従業員は,珠江デルタ地域の夏の暑さに強い不適応反応を示す。飲食面では,それぞれの意見はばらばらである。衣服に関しては,民族的な特徴を強調する必要があるときに,少数民族の従業員が民族的特色のある服装を身につける以外には,職場内で民族的特色を明らかにしようとはせず,少数民族従業員の服装も漢族従業員の服装と変わらない。生活条件の良い従業員は,故郷の習慣に合わせて住居を改装するが,生活条件のよくないものは自らを積極的に適応させるしかない。既婚労働者の多くは企業主の提供する部屋にそれぞれ居住し,夫婦が一つの部屋に住むことは少ない。交通面では,中小都市からの従業員のほうが,農村から来ている従業員よりもはるかに適応力が高い。 制度面での適応状況は,外来少数民族従業員の珠江デルタにおける生活の質を反映している。珠江デルタ都市に居住するモソ人のなかには,伝統的な妻訪婚(走婚)にアイデンティティを見出す人もいるが,一方で主流の婚姻制度に順応するものもいる。都市制度や企業ルールに徐々に適応するにつれて,珠江デルタの不満は徐々に解消されており,指導的な地位に就くと同様なルールやシステムの制定を提唱する。社会関係の面では,外来少数民族従業員は,中国郷土社会の「差序格局(格差と序列によるモデル)」から,「『都市型』差序格局」への構造転換を経験している。珠江デルタ都市の少数民族は現地の戸籍を有せず,そのため国の教育や医療などの福祉を現地の人々と同様には享受することができない。よって,実質的に彼らは,この制度外の二等市民として生活することになる。 精神面について言えば,外来少数民族の思想観念と宗教信仰とは,レベルの異なる適応の問題が存在する。珠江デルタ都市少数民族の生育観念,時間観念,規律観念などは大きな変化を受けている。自我意識が徐々に覚醒され,現代の社会的市民が有すべき自由で自覚的な生存状況へと変化しつつある。多くの民族が共存し繁栄している環境において,他者と平和裏に共存するために必要な寛容性と他者を理解する態度を獲得している。珠江デルタ都市の外来少数民族の中には,元来の宗教的タブーを守り抜こうとするものもいるが,一方で生存はタブーよりもずっと重要であるため,宗教的タブーを克服しマジョリティの文化に進んで適応しようとしているものもいる。また,現世利益が来世への誓いよりも現実的であるので,信者の中には宗教信仰が希薄化してマジョリティの生活様式に適応している人たちもいる。 物質,制度,精神という三つの側面からの適応状況を総合的に考えると,珠江デルタの外来少数民族には,都市暫定居住者,将来の都市居住者,都市農村両棲者という三つの異なる分化が見られる。
伊藤, 謙 宇都宮, 聡 小原, 正顕 塚腰, 実 渡辺, 克典 福田, 舞子 廣川, 和花 髙橋, 京子 上田, 貴洋 橋爪, 節也 江口, 太郎
日本では江戸時代、「奇石」趣味が、本草学者だけでなく民間にも広く浸透した。これは、特徴的な形態や性質を有する石についての興味の総称といえ、地質・鉱物・古生物学的な側面だけでなく、医薬・芸術の側面をも含む、多岐にわたる分野が融合したものであった。また木内石亭、木村蒹葭堂および平賀源内に代表される民間の蒐集家を中心に、奇石について活発に研究が行われた。しかし、明治期の西洋地質学導入以降、和田維四郎に代表される職業研究者たちによって奇石趣味は前近代的なものとして否定され、石の有する地質・古生物・鉱物学的な側面のみが、研究対象にされるようになった。職業研究者としての古生物学者たちにより、国内で産出する化石の研究が開始されて以降、現在にいたるまで、日本の地質学・古生物学史については、比較的多くの資料が編纂されているが、一般市民への地質学や古生物学的知識の普及度合いや民間研究者の活動についての史学的考察はほぼ皆無であり、検討の余地は大きい。さらに、地質学・古生物学的資料は、耐久性が他の歴史資料と比べてきわめて高く、蒐集当時の標本を現在においても直接再検討することができる貴重な手がかりとなり得る。本研究では、適塾の卒業生をも輩出した医家の家系であり、医業の傍ら、在野の知識人としても活躍した梅谷亨が青年期に蒐集した地質標本に着目した。これらの標本は、化石および岩石で構成されているが、今回は化石について検討を行った。古生物学の専門家による詳細な鑑定の結果、各化石標本が同定され、産地が推定された。その中には古生物学史上重要な産地として知られる地域由来のものが見出された。特に、pravitoceras sigmoidale Yabe, 1902(プラビトセラス)は、矢部長克によって記載された、本邦のみから産出する異常巻きアンモナイトであり、本種である可能性が高い化石標本が梅谷亨標本群に含まれていること、また記録されていた採集年が、本種の記載年の僅か3年後であることは注目に値する。これは、当時の日本の民間人に近代古生物学の知識が普及していた可能性を強く示唆するものといえよう。
人間文化研究機構国文学研究資料館 有限会社えくてびあん National, Institute of Japanese Literature ECOUTEZBIEN, Lmd.
国文学研究資料館(以下、「国文研」)は、今なお日本各地に残されている国文学に関連する古典籍(明治以前に著作、出版された本)の調査とマイクロフィルムによる収集・保存を行い、それを活用して全国の大学の研究者と共同で日本古典文学研究を推進することを目的とする、大学共同利用機関です。 その業務・成果の一端は、展示室における「和書のさまざま」と「日本古典文学史」という二種類の通常展示や、「くずし字で読む百人一首」のような公開講座によって、研究者だけでなく広く学生、一般市民に公開されています。 しかし、実際にそこで研究を行っている教員が、どのようなことをしているのか、は館外の方々にはほとんど分からないと思います。もちろん私たちは「概要」や「年報」という公的刊行物を毎年制作し、その中で各教員の専門分野や業績の紹介をしていますが、たとえば誰かが「○○の研究」で「△△△△について」という論文を書いているといったことが分かっても、専門家以外には研究ならびに研究者のイメージは湧いてきません。 そのような思いを抱いていたところに、立川の情報フリーペーパー「えくてびあん」の編集部から、国文研の教員のインタビューを毎号連続で掲載したいという、願ってもない申し出をいただきました。そして、本年三月までに、見開き二頁を基本とする合計二十三回の詳細なインタビューを掲載していただきました。 清水恵美子編集担当の真摯にして巧みな問いかけと五来孝平カメラマンの精彩な写真で、インタビューは国文研の研究者たちの研究内容と素顔とをあますところなく伝えることに成功しています。 幸にこのインタビューは好評で、バックナンバーをお求めになる読者もおられたと聞いています。しかし、私たちは編集部肝いりの充実したインタビュー記事が、フリーペーパーの宿命とはいえ、多くは読み捨てられていくことを残念に思い、それを一冊にまとめることはできないかと、編集部にご相談したところ、快諾をいただき、また出版に際しては地元立川の文化振興に多大な貢献をしておられる立飛ホールディングスのご支援をいただくことができました。 御高配を賜ったえくてびあんならびに立飛ホールディングス御両社に心より御礼申し上げます。
小笠原, 輝 後藤, 厳寛 本郷, 哲郎 Ogasawara, Akira Goto, Takehiro Hongo, Tetsuro
伝統的な第一次産業からの産業構造の変化の異なる山梨県内の2つの地方都市近郊農村を対象に,集落周辺の自然環境の変化がその利用のされ方とどのように関連しているのか野生獣の出現という視点から明らかにした。上大幡地区では1960年代におこった養蚕衰退後,第二次,第三次産業へと転換した。それに伴い,耕作放棄地が増大し,同じ時期に自然資源利用を行う世帯も減少した。現在は,農業は自家消費用の田畑の耕作に限られ,自然資源利用を生活の中の楽しみとして続けている世帯がみられる。一方,中畑・心経寺地区では1980年頃から養蚕が衰退し,第二次,第三次産業へ転換すると同時に,農業は果樹や野菜類の栽培へと転換した。採草や落葉採取の利用の減少時期は上大幡地区と同じ時期の1960年頃であったが,果樹栽培には農閑期がないため,薪採取は果樹栽培転換期に行われなくなった。養蚕衰退に伴い,桑畑の多くは果樹園や畑に転換されたが,一部耕作放棄された。現在,自然資源利用は上大幡地区と比べほとんど行われておらず,また,果樹転換後も人手不足などが原因で耕作放棄地が増えている。野生獣の出現の原因として,養蚕衰退に伴う耕作放棄地の増大と自然資源の利用の減少,範囲の狭小化が考えられた。中畑・心経寺地区における野生獣の出現を認識する世帯は,上大幡地区と比較しても少なくまた増加する時期も遅いが,地形的条件に加え養蚕衰退の時期が遅いことも一因と考えられた。このように二次的自然との関わり方が変化した地域において野生獣の出現を防ぐためには新たな二次的自然の管理方法を考えなくてはならない。都市近郊集落という地理的特性から,都市住民を取り込んだ「森林ボランティア」活動が重要となると考えられる。継続性のある活動を行うために両地区とも各世代が参画する活動を整備する必要がある。上大幡地区では既存の環境教育施設を中心に,市民農園などへ開放して耕作放棄地を減少させるとともに,地域住民の楽しみとしての自然資源利用を拡大した形で活動を行うことが必要である。中畑・心経寺地区では果樹栽培の手伝いなどと周囲の自然環境管理とを連携させた組織や活動を作り出すことが重要であると考えられた。
金城, ふじの 岩谷, 千晴 Kinjo, Fujino Iwaya, Chiharu
野村, 育世
有田焼の創始者の一人百婆仙は、豊臣秀吉の朝鮮侵略の際に、武雄の領主後藤家信配下の廣福寺別宗和尚に連れられ、被虜人として、夫の宗傳と共に渡来した。夫婦は内田に土地を与えられて陶器を焼いた。夫の死後、百婆仙は一族を率いて有田に移住し、磁器生産に励んだ。96歳まで生き、1656年に死去した。百婆仙は有田焼の創始者の一人であるにもかかわらず、これまでほとんど知られてこなかった。本稿は、百婆仙についての研究史を整理し、史料の紹介、校訂、読解を試みたものである。 百婆仙研究の嚆矢は久米邦武の仕事である。久米は百婆仙の碑文を校訂して紹介した。1930年代後半になると、日本史の人名辞典に百婆仙が立項されたが、その背景には当該期の政策の中で植民地朝鮮の人物を国史に包摂していく方向性があった。戦後の辞典では韓国史上の人名は除かれたが、日本の伝統工芸の祖である百婆仙たちまでが削除された。1970年代になると、小説家が書いた『肥前おんな風土記』が百婆仙を取り上げたが、その虚実入り混じった内容は今もなお強い影響を残す。21世紀の現在、日韓の市民の間で百婆仙に対する関心が高まっているが、学術研究においては出遅れている。 百婆仙の史料は、没後50年に曾孫が建立した法塔が唯一のものである。原本は磨滅しているが、久米による写しが存在する。『後藤家御戦功記』新写本にも掲載されている。それらの写しと、碑文に残るわずかな文字を元に校訂を試みた。 碑文からわかる百婆仙の容貌は、眉を抜かず、耳にピアスの穴の跡があった。夫の宗傳(法名。日本名深海新太郎)の名について、近年「金泰道」とする説が出されたが、これは百婆仙の戒名を誤読したことによる謬説である。 最後に、百婆仙夫妻の渡来事情について、『後藤家御戦功記』新写本の解説と、碑文そのものの内容を比較すると、彼らが朝鮮において陶工であったのかなかったのか、後藤家信は彼らが陶工だから連れて来たのか、はたまた無差別な拉致であったのか、という議論を喚起しうる。 以上、現段階で可能な基礎的考察を試み、今後は科学技術を応用した碑文の読解が望まれること、国際的な学術交流が必要であることを展望した。さらに、韓国と日本のジェンダー史の流れを比較しつつ、2つの社会を生きた百婆仙のジェンダー史上での立ち位置を考察することを、提唱した。
大島, 結生
歌川国芳画「源頼光公館土蜘作妖怪図」(天保13~14[1842~1843]年、以降「妖怪図」と略記)と、英国の絵入り風刺雑誌『パンチ』に掲載されたA Drop of London Water(1850)の比較を通して、江戸後期の人々の風刺精神について検討する。「妖怪図」は、その寓意についてさまざまな浮説が立ち、模倣絵が出回るほどの評判となったことが知られている。国芳の意図は判然としないものの、この絵は風刺錦絵の嚆矢的作品とみなされてきた。一方で、版元の商業的な側面も指摘されており、これを天保の改革批判の作品であると断定することは難しい。本論では、すでに風刺画が政策批判や世論形成の有効的手段であったロンドンで出されたA Drop of London Waterを比較対象として、「妖怪図」を再検討する。江戸期の出版物に見られる風刺性は、それが風刺か穿ちか、あるいは寓意の拡大解釈による一人歩きか、その見解が分かれるところだが、政治的批判性が明らかな英国の風刺画との比較を通して、天保期における江戸の人々が有した風刺の眼差しについて、その一端を捉えたい。 両作品は、[1]どちらも当時よく知られた画題を用いたパロディーである、[2]江戸とロンドンという都市生活に関わる問題が扱われている、[3]人間社会の中でイレギュラーな存在である妖怪やモンスターに擬えて集団を描いている、といった共通点を有しながら、[4]寓意の明瞭さに明らかな差がある、[5]妖怪またはモンスターに擬えられた人々への眼差しに温度差がある、といった相違点が見られる。これらの点に着目し、比較検討を行った。その結果、明瞭かつ辛辣な風刺で既得権益者を攻撃すると同時に、市民への問題提起をも行ったA Drop of London Waterに対し、「妖怪図」の寓意の曖昧さが浮き彫りになった。多くの模倣絵を生んだこの絵は、その後、幕末維新期の風刺画にも影響を与え、合戦絵や子供絵などと並んで一つのスタイルを形成してゆく。このことは、鑑賞者の問題への当事者意識や政治的批判性の希薄さ、そして判官贔屓とも言える鑑賞態度へと結びついた。 結論として、「妖怪図」及びその受容からは、その後の戊辰戦争、明治維新、そして自由民権運動へと繋がってゆく風刺精神の大衆的萌芽が見られる。本図は、テキスト読解を要さない錦絵を媒体としたことで、政権批判に繋がるような風刺が大衆化したと考えられる。その一方で、判じ物による風刺の裾野拡大は、風刺画の体裁を持ちながら、その実、主体的かつ長期的な目線での批判精神が希薄であるという問題点を孕んでいたといえよう。
平良, 勉 金城, 文雄 濱元, 盛正 大城, 喜一郎 伊野波, 盛一 古堅, 瑛子 Taira, Tsutomu Kinjo, Fumio Hamamoto, Morimasa Oshiro, Kiichiro Inoha, Seiichi Furugen, Eiko
川島, 淳
沖縄戦によって、首里・那覇の都市などは壊滅した。また地域住民も北部や南部などで米軍に収容され、他地域での生活を余儀なくされたが、1945年10月に米軍は壺屋と牧志を開放して居住を認め、漸次米軍の軍用地の一部を開放した。他方、那覇市は、1954年に首里市・小禄村と合併し、1957年に真和志市と合併した。こうした軍用地の開放と市町村合併によって都市計画事業が遂行されて、「大那覇市」が形成されて、現在に至っている。また、那覇市内には、安里川や久茂地川、ガーブ川などが流れている。この三河川の沿岸地域では、1950年代から1960年代にかけて、豪雨や台風のたびに河川が氾濫し、水害被害が相次いだ。そのため、水害対策のための河川改修工事を実施することが、「大那覇市」形成にとって重要な政策の一つともなったのである。そこで、本稿では、那覇市の政策構想に焦点をあてつつ、那覇の都市計画における水害対策計画の変遷と、1957年の瀬長亀次郎那覇市長時代における水害対策関連事業をめぐる政治的駆け引きについて、次のように論述する。1950年8月1日制定の「那覇市都市計画条例」に基づいて、同年「那覇市都市計画案に就いて」が策定され、また1952年8月に那覇市建設部都市計画課は「那覇市都市計画概要」を作成し、さらには那覇市が招聘した石川栄耀は1953年7月に『那覇市都市計画の考察』を提出した。同年に「都市計画法」が制定されると、那覇市は、石川構想に基づいた「那覇市都市計画決定書案」を作成した。さらに、「首都建設法」の制定に伴って首都建設委員会が設置され、1959年12月16日に同委員長の瀬長浩は「首都建設基本計画」を公告した。これらの都市計画では、豪雨や台風による河川の氾濫を防ぐために河川改修工事が提示された。いずれの計画においても、那覇市内を流れる河川は雨期になると氾濫するので、安里川や久茂地川、ガーブ川の改修とともに、与儀農業試験場(現在の与儀公園)から漫湖までの排水路を設置するとの計画が提示された。したがって、1950年代の都市計画は一貫したものであり、基本的には大きな変更はなかったのである。1956年12月に瀬長亀次郎が那覇市長に当選するや、かかる事業計画の遂行に必要不可欠な民政府特別補助金や琉球銀行の復興資金が打ち切られ、また那覇市の資産が凍結された結果、那覇市は都市計画事業の遂行を中止せざるを得なかったのである。この措置は、瀬長亀次郎を辞職に追い込むためのものであった。このように、河川改修工事を含む都市計画事業は政治的駆け引きに利用されたのである。こうした状況のなかで、市民組織による期成会が結成され、久茂地川の浚渫工事を行った。しかし、この浚渫工事だけでは充分ではなかった。瀬長が市議会の不信任によって辞職した後のことだが、1958年2月5日から降り続いた雨による安里川やガーブ川の氾濫は、「戦前戦後最大の水害」と言われるほどの水害被害となったのである。その結果、1965年までの間に、安里川とガーブ川の河川改修工事が進んだのである。
木村, 汎
本論文は、厳密にいえば、「研究ノート」に分類されるべき内容を含んでいる。というのは、「交渉(negotiation)」の研究は、わが国ではなぜか学問的市民権を十分獲得するにいたっていないからである。交渉というと、なにか商店の軒先きで大根やみかんを値引きしたり、労使の間で相手側を罵倒せんばかりにして賃金交渉を己れに有利に導こうとする胡散臭い行為と見なされている。ところが、欧米諸国では、事情は異なる。交渉は、極端にいえば、権力関係と同じく、人間が二人いるところに必ず発生するといってよい紛争や対立を、平和的に解決しようとする重要な人間行為の一つとして、学術的な研究対象とされてきている。その意味において、交渉研究において先輩である欧米の学説をまずなるべく公平かつ忠実に紹介することに意を用いた点において、本論文は「研究ノート」と見なされるべきである。 しかし、他方、欧米学界における諸説を紹介するといっても、その問題点の選択の方法や整理の仕方において、筆者の主観的な好みが混入してくるのは不可避である。そればかりではなく、種々の学説に対する最終的評価等において、筆者は自己の価値判断を示した。その意味においては、本論文は、良くも悪しくもたんなる「研究ノート」の域を超える内容となっている。 ともあれ、筆者は、序論において、冷戦終了後の今日、紛争の平和的な解決を目指す交渉の意義と出番が増大したとの基本認識を示し、その理由をさらに具体的に説明した。 「交渉とは何か?」と題する第一章においては、まず「交渉」とその類似概念である「外交」や「取引」との差異を検討した後、次いで真正面から交渉の定義そのものを下した。引続いて、交渉の構成要因を説明し、さらに様々な角度から交渉の種類を記した。 第二章「交渉をどう見るか」においては、交渉に対する二大アプローチの紹介を試みた。一は、「芸術(アート)」、二は「科学(サイエンス)」と見る見方である。両アプローチの特徴及び夫々の長短を論じた後、筆者は両アプローチを併用する第三のアプローチ、すなわち「芸術プラス科学」と見る見解を提唱した。 第三章では、文化と交渉との関連に真正面から取組んでいる。まず「文化」の定義、機能、種類について論じた後、いよいよ文化が交渉に及ぼす影響の検討に移った。この問題にかんしては、対立する二説がある。一は文化「懐疑論」、二は同「重視論」である。筆者は、その各々とその根拠を紹介した後、自らは第三説としての「折衷論」の立場に立つとの立場を明らかにして、その理由を述べた。交渉に対する文化の影響を過大にも過小にも評価しない立場にたつとともに、類似あるいは異なる文化に属する人々の間の交渉において文化が果たす役割ないし影響の程度や仕方についても、論じている。本論文は、最後に異文化交渉を成功裡に進める方法についても一言して、終了している。
リュッターマン, マルクス
「畏まりました」「恐れ入ります」の類の言葉を日本列島ではよく耳にする。拝して曲腰をして恐縮する姿を型としている作法に合わせて「恐れ」の感を言い表わす礼儀は依然として根強く育まれている。「型」である。拙論では、仮にそれを「恐怖の修辞」と呼び、観察の焦点を挨拶の言葉に限定し、その普及と徹底的な定着の所以を問う。要するに「恐怖の修辞」形成過程の復元と、その由来の歴史的考察とを五段階を経て行いたい。 一説では「恐れ」を言い表す主な古語である「恐る」や「畏む」や「憚る」を収集して、その意味を整理し、その変化を追求する。それらの本来の語義は平安時代以降から挨拶詞として定着したように見えるのである。したがって、これらの大和詞には共通した総括的な変容が著しく生じて、新たな意味(感謝、呼び掛けなど)が追加された。そういった「恐れ」の表現の性質を検討するに当たって、手掛かりを仮に書簡の修辞法(文書形式や書札・書札礼)に求める。それに二つの方面から光を照らし合せてみたい。 一つには二節において文化歴史上の比較でもってその世界的普遍性の有無を確認したい。果たして古代地中海のレトリックを組む欧州弁術法にも「恐怖」が型となっているのだろうか。 二つには斯かる言葉遣いの独特な由来の検討を三節の旨とする。即ち中国の漢・唐時代の修辞法に溯って、『獨斷』を始め、書儀類などを検討し、その結果、「恐怖の修辞」は古代地中海都市広場でもなく、都市裁判の場でもなく、漢国家体制或いはそれ以前の帝・天使の朝廷と中国士族の祖先崇拝へ溯る特徴が判明する。いわゆる「啓」と「状」とが唐に広く書簡として使用されるようになり、士身分以外にも、つまり庶民に浸透すると同時に「恐怖の修辞」も多くの人の身についたことは想像に難くない。礼儀作法書且つ書礼規範書として流行った書儀にも同様な傾向が反映している。書儀伝承と木簡出土などが雄弁にかたるように、文書主義の一面として「恐怖の修辞」も渡日した。 日本における書札礼儀の展開における「恐怖の修辞」の変遷・推移を四節で具体的に分析する。『正倉院文書』を始め書簡手跡の実例に配慮する一方、中心的に『雲州消息』『高山寺本古往来』『弘安禮節』『庭訓往来』『書札調法記』『不斷重寶記大全』『書禮口訣』等々の主な礼書を分析する。儀礼に溯る思想もしくは表現が礼学の文脈で多く日本に伝わっており、「恐れ」を意味する仕種や語彙が少なからず含まれている。「恐々」「恐惶」等々の漢語を規範書から検出して、其の使用法や機能・連想に光を当てて、またそれらが中国よりも徹底的に市民の間に普及した様子を描く。 最後にかかる漢語の訳語として大和詞の「かしこ」を例に、中国の修辞法に由来する使用法の転換を明らかにする。「めでたくかしこ・かしこ」はそれなりに世俗化や日常化や大衆化と滑稽化ともいうべき変遷を遂げた、現代まで日本で影響力を保っている「恐怖の修辞」を代表するといってよい。延いては礼儀の一系統への理解を深めるのに好適なこの一例をもって、拙論を結ぶ。
青木, 睦 加藤, 聖文 西村, 慎太郎 渡辺, 浩一 荒木, 仁朗 高科, 真紀 早川, 和宏 マシュー, デービス 澤井, 一彰 堀地, 明 菅原, 未宇 AOKI, Mutsumi KATO, Kiyofumi NISHIMURA, Shintaro WATANABE, Koichi ARAKI, Jiro TAKASHINA, Maki HAYAKAWA, Kazuhiro DAVIES, Matthew SAWAI, Kazuhiro HORICHI, Akira SUGAWARA, Miu
人間文化研究機構広領域連携型基幹研究「日本列島における地域社会変貌・災害からの地域文化の再構築」のなかの国文学研究資料館ユニット「人命環境アーカイブズの過去・現在・未来に関する双方向的研究」は、国文学研究資料館基幹研究「アーカイブズと地域持続に関する研究」と緊密な連携をはかりつつ、調査・研究活動を進めている。今年度の活動を、①民間資料、②公文書、③災害資料・災害史の対比、の三つに分けて、ここで簡単に紹介しておきたい。詳しくは本文を参照されたい。なお本書の編集は堀内暢行(本研究プロジェクト研究員)が担当した。記して感謝したい。①民間資料を対象とした活動は、おおきく、1)自然災害・原発災害による被災資料保全活動、2)国文研館蔵史料に関連する地域の史料調査・普及活動、に分けられる。1)は、福島原発事故被災地域、および東日本大震災・関東東北豪雨による茨城県の被災地域において行われた。前者の特徴は、帰還困難区域に入ったために極めて理不尽な形で所蔵者と離れてしまった資料に対する活動である、という点である。後者の特徴は、茨城大学との緊密な連携のもとに活動を行なっていることである。2)は、具体的には松代と伊豆であり、そのなかでも特に当館所蔵の真田家文書(大名)・八田家文書(御用商人)等がもともと存在していた松代では市民向けのシンポジウムを行なった。将来的に津波被害が予想される伊豆地域でも、当館所蔵内浦史料などの出所地域でもあるため、調査・普及活動を開始した。この項目の活動の全ては、それぞれの地域の歴史と文化の継続に貢献しようとしている点も特徴的である。②公文書を対象とした活動は、東日本大震災により津波被害を受けた釜石市役所公文書、関東東北豪雨により洪水被害を受けた常総市公文書の保全である。前者では、被災してから5年を経た後の文書がどのようになっているのかという研究を、水濡れの度合いや焼け焦げなどといった被災症例ごとに開始した。また、釜石市役所との協議会「文書管理と震災アーカイブズ」を開催し、これからの公文書管理に関する具体的な連携の模索を開始した。後者では、常総市役所と当研究メンバーとの間で情報共有を行なった。さらに、遠野市役所が保管する被災図書の保全活動にも従事した。③災害資料・災害史研究の対比では、まず、昨年度の準備研究のなかで開催されたプレ国際研究会「近世巨大都市災害研究の現状と課題」の内容を収録しておいた。今年度は国内研究会を2回開催したほか、ロンドン大学歴史学研究所が主催するシンポジウム「都市と災害―歴史における都市の適応力とレジリエンス」において、セッション7「近世首都における災害対応」を主宰し、外国史の研究協力者2名とともに報告したことが最大の成果であった。なお、この第7セッションはプログラムに人間文化研究機構の英文名称が明記され、シンポジウム全体の趣旨説明文でも冒頭に言及された。なお、掲載許可が必要そうな画像を全て削除したため、不体裁な箇所がいくつか生じているなど不備も多いが、その点はお許しいただきたい。
呂, 理政 黄, 貞燕 日髙, 真吾 西村, 慎太郎 呂, 怡屏 邱, 君妮 原田, 走一郎 葉山, 茂 麻生, 玲子 lu, li zheng Haung, Jan-Yen Lu, Yi-ping Chiu, Chun-ni
相澤, 正夫 AIZAWA, Masao
無作為に抽出された札幌市民332名について,ガ行鼻音がどのような傾向性をもって保持されているのかを明らかにし,そこに関与している諸要因を指摘する。さらに,ガ行鼻音を保持する個人を,真性保持者と疑似性保持者とに分け,疑似性保持者によるガ行鼻音の保持が,語の性質の違いによる一定の傾向性,すなわち一種の含意尺度(implicational scale)に従っているという仮説を提示する。
関連キーワード