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菅, 豊 Suga, Yutaka
日本においてサケは,最も複雑な民俗を形成した魚類の1つであり,その民俗は北方文化を基盤として新たに何かを付加されたり,あるいはまったく新しいものへ形を変えられたりしながら日本特有の展開がなされてきた。本稿では北方文化から連なる文化背景を基盤として,その上に覆い被さっている日本的なサケの民俗の要素について検討し,こういった日本特有の展開,表出の問題を考えていく。具体的には,日本のサケ儀礼へ民間宗教者が如何に介在し,どのような特殊性を生成したかということが眼目に据えられている。本稿の構成はまず4つの調査対象地域を設定し,それぞれでサケ儀礼への宗教者の関与の質,度合いを探り,その後比較検証を行う。それ故比較の叩き台とするために,第2章から第5章にわたり,1つの地域のインテンシブなケーススタディーを行う。そして,そこで導かれた問題を以て,残りの3地域を検証していくという手法をとる。このような比較検証の中で明らかにしたい課題として,第1に漁撈儀礼としてのサケ儀礼と,宗教儀礼としてのサケ儀礼の関係性の問題,第2にこの2つの儀礼に類似点,共通性を生み出した要因,第3にそれらを支えた宗教者の問題を設定している。どのような状況のもとで漁撈儀礼は宗教儀礼と成りうるのか,すなわち漁撈儀礼が宗教儀礼へと昇華する場面の問題は,儀礼の統合化と洗練化,体系化の過程といっても良く,ここにはまさに日本的な展開が現れてくるのである。独自の展開が日本内部ではどのように浸透していったかという問題もここでは問われてくるのであり,この浸透に寄与した人物が日本のサケ儀礼を日本的たらしめる大きな要因と筆者は考えている。この人物こそ,他ならぬ修験系統の宗教論理を背景とする宗教者であった。彼らは,本来的に保持してきたフレキシビリティー溢れる呪術体系にサケ儀礼を吸収していったのである。
呉, 佩遥
近年の宗教概念研究によってもたらされた「宗教」の脱自明化から、近代日本における宗教学の成立と展開を考察することは、宗教学なる領域に対する理解を反省的に把握するために重要である。しかし、アカデミックな場に成立した「宗教学」において、「宗教」に隣接した概念であり、「宗教」の中核的な要素とされる「信仰」と、「宗教」の身体的実践の一つである「儀礼」がいかに語られたかについては、まだあまり考察されていない。 本稿では、東京帝国大学に設立された宗教学講座の初代教授であり、近代日本における儀礼研究の先駆者としても知られる姉崎正治(1873-1949)を中心として、彼の『宗教学概論』(1900年)における「信仰」と「儀礼」の語り方を考察した。そして世紀転換期における姉崎の宗教学を同時代の社会的・思想的なコンテキストの中に位置付け、姉崎が同時代の「修養」に関する議論を意識しつつ、新たな学問領域である宗教学の立場から自らの修養法を提示したということを指摘した。かかる時代状況で、「信仰」と「儀礼」の結び付きは「修養」との関わりの中で主張されたのである。 具体的にはまず、姉崎があらゆる宗教に共通している固有のものを探る宗教学の立場を強調した1900年代前後は、人格の向上を目的とする自己研鑽を求める「修養」という概念がブーム化していた時代であるということを指摘した。この時期の修養論には、「自発的実践の重視」とその半面としての「特殊的・形式的な教義や儀礼の軽視」という傾向がある(栗田 2015)。こうした時代状況に身を置いた姉崎は、「信仰」と「儀礼」を再解釈することにより、「修養」を「主我主義」・「他律主義」・「自律主義」と段階的に説き、「信仰」と「儀礼」の結び付きによる「自律主義」を理想とした。このように、1900年代前後における「修養」というあいまいなカテゴリーは、宗教学の鍵概念である「信仰」や「儀礼」が再解釈される方向に導いていったといえる。かかる姉崎の学問的営為は、近代日本における「宗教」の展開を考える上で重要な意義を持っている。
飯國, 有佳子
これまで女性と宗教のかかわりは,女性に対する不当な価値観や不平等な社会構造の形成に加担するものとして宗教を批判するフェミニズムからも,フェミニズムに抵抗を示す保守的な宗教学からも,研究対象として等閑視されてきた。そこで本論文では,上ビルマ村落において上座仏教を信仰する女性の視点から宗教をみなおすことで,両者の相克を克服し,宗教の男性中心主義性に対峙する方策を探る。事例からは,男女の宗教的位階の差は仏教儀礼において顕在化するが,村の宗教組織や世帯単位の仏教的責務では男女間に明確な優劣は見られず,むしろ女性の経験と参加が必要不可欠なことが明らかとなった。しかも女性は,仏教儀礼において女性に顕著な跪拝行為を,仏教の男性中心主義性の証左とせず,自らの宗教的劣位を相対化させるものと捉えていた。こうした女性の見方は,教義を軸に女性の劣位を本質化してきた宗教研究からも,宗教を切り捨てるフェミニズムの立場からも注目されてこなかったものである。ここから,両者の陥穽を乗り越えるには当事者たる女性の声や内発的な変化の可能性を丹念に拾うことが重要といえる。
Sugimoto, Yoshio
「儀礼」の概念は,ヨーロッパ・キリスト教世界とくにプロテスタントからは否定的なイメージをもたれている。そこには,カトリックとプロテスタントとの対立関係が潜在しているが,とくに19世紀イギリスにおける「儀礼主義」は,福音主義者からのはげしい非難にさらされた。1830年代をさかいにイギリス植民地政策そして宗教政策は,現地主義から文明化路線へと大きく転換をとげた。それは,福音主義的なイデオロギーに基づく変革であり,そのことが,当然ながら植民地スリランカにおける宗教儀礼のあり方にも大きな変化を与えた。小稿では,ポルトガルに始まり,オランダを経てイギリスの植民地支配を経験したスリランカにおいて,「儀礼」がどのような視線にさらされ,またその視線をどのように受け止め,さらにその結果,現在どのような存在形態を示しているのかについて,系譜学的に跡づけたものである。
原, 英子 Hara, Eiko
日本統治時代,台湾先住民族に対する宗教政策において,彼らが「祖先崇拝」をするという点が日本人との共通性として強調された時期があった。しかし当時は一部の人類学的な調査を除いて,台湾先住民族の祖先崇拝に注目しても,具体的に個々の民族の祖先がどの範囲を指すのかという点について,詳細な調査はほとんどなされなかった。本稿では台湾先住民族のひとつ,アミ族の宗教儀礼をとおして,祖先の範囲を明らかにすることを目的とする。アミ族の親族論では,その氏族制と母系制が注目されてきた。特にアミ族は母系制かという点が論議の対象となってきた。そうした中,本稿で取り上げる南勢アミは,その両点が明確にみられないという点から,戦後の一時期を除いて人類学的調査があまりおこなわれなかった地域である。また,かつてアミ族村落に広く存在していたが,現在ほとんどいなくなってしまったシカワサイと呼ばれる宗教的職能者が,一部の村落ではあるが,現在も活動がみられる地域でもある。本稿ではこうした地域的,対象的に収集資料が少ない宗教的な側面からアミ族の祖先の範囲を提示し,アミ族の祖先について考えていく。具体的には,まず個性ある死者と祖先との時間的な推移について取り上げ,次に儀礼依頼者と儀礼で呼ばれる祖先の関係について明らかにする。またアミ族では現在,漢人式の祭壇や位牌を設定する者が増えているが,その際,漢人的な位牌の受容とアミ族的な祖先の関係にも注目する。以上のことをとおして,アミ族の祖先に関する資料提示することで,今後のアミ族親族論の発展のための基礎的な作業をおこなう。
神田, より子 Kanda, Yoriko
本論は、山伏神楽・番楽と結びつけて考えられることの多かった権現舞と獅子舞を、その主な担い手であった修験者との関わりの中で考察した。東北地方では、中世期以降、修験者が地域の人々の依頼に応じて数多くの宗教儀礼を担ってきた。中でも南北朝以降の青森県、秋田県、岩手県、山形県の特定地域では、修験者が自分たちの霞場や旦那場において獅子頭を廻し、祈祷を行うことが宗教活動の大きな分野を占めていた。近世期に修験者が地域に定着すると、宗教活動をさらに広く理解し、受け入れてもらうために、獅子を廻す傍ら芸能が演じられた。これらの地域に広がる芸能の中でも旧南部藩領に属していた岩手県地域で修験者が中心となって演じてきた神楽がある。これを本田安次は山伏神楽と名付けたが、これらの地域でそれに相当する集合名称が存在しなかったことから、これは便利な名称として一人歩きした。しかし秋田県、山形県地域では修験者が主に担ってきた芸能は、地元で比較的古くから使われてきた番楽の名称がそのまま用いられた。また本田の著作に取り上げられなかったが、旧南部藩領の青森県下北半島地域に伝わる能舞も修験の手によって伝えられた芸能であった。一方、個々の修験者によって担われ、演じられてきた獅子舞だけではなく、一山を構え修験集落を形成してきた地域でも、獅子舞は重要な儀礼と宗教活動の一翼を担っていた。それは一山を形成してきた修験集落が、他の仏教寺院と同じように、法会の後や、任位・任官など僧侶や長官の昇進や就任儀礼の場に、賓客の来臨を得て行われる延年、それに連なる舞楽や田楽ともつながる総合芸能の姿を伝えていた(1)からでもある。すなわち獅子舞は山伏神楽・番楽だけではなく、延年や舞楽とも関わりがあったことが見えてきた。このことは修験者が関わる場の広がりをも示していることになる。そうした場を想定して、今後は修験者が関わってきた儀礼や芸能を再考する必要が見えてきた。
中田, 友子
本論文は,南ラオスの少数民族が低地に移住し,ラオなど異なる集団と接触を密にするなかで経験するようになった宗教変化を理論化する試みである。モン・クメール系諸集団は伝統的に精霊祭祀を実践し,仏教徒のラオとは異なることで知られる。しかし,前者が草分けの村で共住するなかで,両者の間には通婚が頻繁に行われるようになり,さらには宗教の変更も珍しくない。しかも,それは一般に考えられるような精霊祭祀から仏教への一方向的な変更ではない。精霊祭祀の実践者が仏教儀礼に参加する,あるいは仏教徒が動物供犠を行うなど,その間の境界は極めて曖昧となっている。このような宗教的複合状況における実践を本論は,アカルチュレーションやシンクレティズムではなく,ウィトゲンシュタインの言語ゲームの概念,特に家族的類似性をキーワードとして読み解くことにより,東南アジアに広くみられる現象,さらには宗教変化一般の包括的理解に寄与することを目指す。
徐, 銘 Xu, Ming
9、10世紀の敦煌資料には、宗教儀礼に関連する文書が多数見られるが、その中には、仏教信仰にもとづく、仏像や塔形を刻んだ印を砂の上に押印し、数珠で数を数える「印沙仏」と称される儀礼が存する。従来の研究では、この儀礼は敦煌仏教における重要な行事として認められ、正月に行われた仏事「燃燈会」との繋がりなどが注目され、研究されてきたが、ほかに、内容上、同時代に敦煌で行われた仏誕会などの儀礼との関わりも見落とすことができない。「印沙仏」儀礼を執行する主体として注目されるのは「社」という組織である。「社」はそれ以前の土地神の崇拝によって形成された地縁的集団と異なり、仏教信仰で結ばれた組織である。庶民の集いとしての「社」と僧侶の組織である教団は、このような儀礼の催行を通じて密接な関係を築き上げていた。「印沙仏」儀礼の目的としては、祓病除災、来世幸福などの個人の願いから、国家太平や五穀豊穣に代表される祈りまで、さまざまな民衆の生活に結びついた祈願が多く見られ、当時の敦煌仏教の実践の一端を明確に見ることができる。こうした点に注目して、これまでの日本・中国のいずれの研究においても充分ではなかった敦煌仏教の社会的側面、及び地域の信仰との関わりを明らかにする考察として、本稿では「印沙仏」儀礼の実態を解明し、その特質を検討する。「社」は、唐代中期から斎会などを扶助し、二月八日の仏祖誕生を祝う儀礼や民俗的行事にも関わったが、こうした検討を通じて、民衆の仏教の受容の実態を明らかにし、従来、充分な研究が行われてこなかった敦煌仏教の儀礼とその社会的側面を考察することが、本稿の目的である。
亀山, 光明
2000年代以降の近代日本宗教史研究において、「宗教 religion」なる概念が新たに西洋からもたらされることで、この列島土着の信念体系が再編成されていったことはもはや共通理解となっている。とくにこの方面の学説を日本に紹介し、リードしてきたのが宗教学者の磯前順一である。人類学者のタラル・アサドの議論を踏まえた磯前によると、近代日本の宗教概念では、「ビリーフ(教義等の言語化した信念体系)」と「プラクティス(儀礼的実践等の非言語的慣習行為)」の分断が生じ、前者がその中核となることで、後者は排除されていったという。そして近代日本仏教研究でも、いわゆるプロテスタント仏教概念と親和性を有するものとして磯前説は広く取り入れられてきたが、近年ではその見直しが唱えられている。 こうした研究史の動向を踏まえ、本稿は明治期を代表する持戒僧・釈雲照(1827 ~ 1909)の十善戒論を考察する。歴代の戒律復興運動の「残照」とも称される雲照は近代日本社会において戒律の定着を目指した幅広い活動を展開し、その営為は明治中期に全盛期を迎える。さらに本論では従来の「持戒―破戒」という従来の二元的構図に対し、在家教化のために戒律実践がいかに語られたのかに着目する。ここで雲照は儀礼や日々の勤行などの枠組みで「心」や「信」などの内面的領域を強調しながら、その実践の体系化に努めている。さらにその語りは、伝統的に非僧非俗を貫き易行としての「念仏」を唱えてきた浄土系教団に対抗しながら、十善戒こそが真の「易行」であり、文明の道徳社会に相応しい実践とするものであった。本稿はこの雲照の戒律言説の意義を近代日本宗教史に位置付けることを試みるものである。
山田, 慎也 Yamada, Shin'ya
本稿は、近代以降、葬儀において告別式が中心的な儀礼として成立し、次第に地方に普及して行く様相を、作法書と葬儀記録などの関連資料を通して分析し、民俗儀礼の平準化とそれを取り巻く言説を考察することを目的としている。近代の葬制は、葬列を行い自宅と寺院、墓地などでそれぞれ儀礼を行うなど、いくつもの儀礼の連続であった。しかし、葬列が無駄なものとして認識され、都市構造の発達によって実施が困難になる中で、誕生したのが告別式であった。ただし告別式の濫觴とされる中江兆民の儀礼は、宗教儀礼を否定し葬儀の代替として行われたが、その後の告別式は焼香などの葬儀の会葬部分を分離したものに変化していった。当時は基本的に葬儀式と会葬部分の告別式は分離されていたが、昭和期の作法書では、総体として新たな形式としており、またかならずしもその認識は一様ではなかった。戦後になると、この分離形式が正統な方式として認識される一方で、次第に一体化して行われるようになった。そして葬儀を含めて告別式を中心として捉えるようになる。一方で、都道府県別の作法書が一九八〇年代以降登場すると、告別式の記述はほぼ同一であるとととに、東京を正統な方式とし、現地では一体化したものが実施されているという、地方差として認識されるようになり、結果としてほぼ全国的に均質化した状況が呈されるようになる。ただし、地域によってはもっと多様な状況を示しているが、作法書という支配的言説によって儀礼のありようが収斂化していることが明らかになった。
関沢, まゆみ Sekizawa, Mayumi
兵士の手紙については、書き手の兵士本人の声を聞くことが重視され、一方の受取り手の声についてはあまり注目されてこなかった傾向がある。本稿では民俗学の立場から、戦死、戦病死という異常なる兵士の大量の死をそれぞれの家族がどのように受けとめ受け入れていったのかについて考えていく一つの試みとして、岩手県北上市の二人の農民兵士の手紙を手がかりに、記録(手紙)、記憶と語り(聞き取り情報)、物(位牌や墓石などの死者の表象物)という三つの資料的側面から整理を行った。そして以下の四点を指摘することができた。第一に、二人の農民兵士の家族への手紙の特徴は、戦闘状況にはあまりふれずに家のことばかり心配して書いており、身体は戦地にいても心は常に故郷の家族の元にあったと考えられる。兵士にとっては手紙を出すことが、家族にとっては手紙がくることが、生存の知らせに他ならなかった。第二に、戦死、戦病死は伝統的な日本の農村社会においてはかつて経験したことのない死に方であった。公報による死の知らせ、村葬、家の葬儀などが慌だしく流れても家族は死をすぐには受け入れられず、妻は夫の死を自分で何とか確めようとする衝動に突き動かされていた。第三に、戦死、戦病死した夫の墓を作ることが夫の死の受容の方法の一つであり、老境においても墓とは生者と死者との関係性の「切断と接合の装置」に他ならぬと解読できた。第四に、戦死、戦病死者の位置づけの具体相において死者の表象物および「供養・慰霊・追悼」という宗教儀礼の重層性、重複性が注目された。死者に対する民俗儀礼としては、普通死の場合には伝統的に「供養」であり、異常死の場合には「慰霊」である。そして宗教色を排しながらその人物の死を悼む場合には「追悼」である。これら三種類は当然その意味も異なり、「供養」の場合には成仏を、「慰霊」の場合には神格化へ、と人格の喪失と異化が現象化するのに対して、「追悼」の場合には人格が維持され、悼まれつづける死として定位する、というそれぞれの死者の位置づけの方向力が作用する。戦死、戦病死の表象物および儀礼は、空間的重層性とともに宗教儀礼的重層性をも有している点にその特徴がある。
朴, 晋熯 田中, 俊光 PARK, JIN-HAN TANAKA, Toshimitsu
本稿では、玉尾家によって作成されて保管された年代記を通して、労働と余暇がまだ分離されなかった江戸時代の農村における庶民の余暇と旅についてその実態と意義を調べようとした。中山道に面する鏡村に住む玉尾家は近隣の神社や寺で開催される祭りや娯楽行事に積極的に参加した。労働と余暇、宗教と世俗を二分法的に分ける現代社会と異なって江戸時代の神社や寺の宗教活動は庶民の余暇活動と密接な係わりを持っていた。江戸幕府は奢侈禁止令などを通して庶民の娯楽や余暇を規制しようとしたので、庶民たちは祭礼の名目を借りてその正当性を獲得しようとした。一般の人々は寺院で開催される秘仏行事や神社の儀礼として行われ始めた歌舞伎や能、相撲などの行事を楽しんでから日常生活に戻ったのである。一方、玉尾家は子供を含む家族旅行の形態で最も人気の高い旅行地である伊勢神宮へ行ってきた。そして当主の地位を相続する男性は30歳を前後にした時期になると故郷を離れて長距離旅行に行ってきた。こうした長距離旅行は彼にとって故郷を離れて新たな人間関係に接しながら、見聞を広める絶好の機会になったと思われる。このように江戸時代の長距離旅行は個人の人生において通るべき一種の通過儀礼として、重要な意義を持っていたといえる。
北野, 博司 Kitano, Hiroshi
小論では律令国家転換期(八世紀後半〜九世紀前葉)における須恵器生産の変容過程を検討し、その背景を経済、社会、宗教の観点から考察することを目的とした。ここでは各窯場の盛衰、窯業技術(窯構造・窯詰め・窯焚き)、生産器種の三点を主な検討対象とした。列島の大規模窯業地では都城周辺にあった陶邑窯の衰退が顕著で、代わって生駒西麓窯など都市近郊窯の生産が活発化した。理由の一つは流通経済の発達を背景に、交易に有利な近郊窯の利点が生かされたためと考えた。流通状況の検証は十分ではないが、播磨や讃岐、備前の須恵器が入り込むのも瀬戸内海運の発展と関係が深いとみられる。もう一つは宗教面から、服属儀礼的な意味あいがあった陶器調納システムや、大甕等を用いた王権儀礼そのものが、国家仏教興隆期の八世紀中葉から変質していき、その主力を担ってきた陶邑の須恵器供給地としての役割が相対的に低くなった可能性を想定した。一方、各地の窯場では転換期に共通した生産戦略がとられた。それはコストと品質のバランスにおいて経済性を優先する方向への変化であった。須恵器窯業の六世紀末、七世紀後半の二度の画期では、各地で生産戦略だけでなく導入される技術の共通点も多かったが、八世紀後半の特徴は技術の選択に多様性が生まれ、その後、地域色が明瞭になっていったことである。大きく四つの地域類型を設定した。第一は集約的な須恵器生産からいち早く離脱した陶邑窯や牛頸窯である。相対的に自立度の高い周辺在地社会が共同体祭祀や儀礼的飲食の衰退によって須恵器需要の低下を招いたことが一因と考えられた。第二は技術力を生かして産地のブランド的地位を築いていった東海の猿投窯である。周辺は瓷器系陶器の一大生産地となった。第三は流通経済と都市に近い利点を生かし、器種別分業を取り入れるなど新しい須恵器産地に発展していった播磨や讃岐である。第四は伝統的な須恵器生産を継承する面の強かった北陸や関東、東北の諸窯である。畿内とは逆に、須恵器需要を担う在地社会の支配関係や経済、宗教に保守的な性格がみられた。転換期窯業にみられたこれらの地域色は古代末〜中世初の焼物世界への端緒ともなった。
津曲, 真一
本稿は,中国青海省のポン教寺院,ポンギャ寺で実施された調査を通じて収集された51 枚の宗教画(タンカ)のうち,ポン教の聖者トンパ・シェンラプ・ミボチェ〔ston pa gshen rab(s) mi bo che〕の生涯の後半部分を描いた6 枚のタンカについて,ポン教の代表的な聖典の一つである『セルミク』を所依とし,その図像の記述・解説を試みるものである。ポン教は嘗て西チベットを支配したとされるシャンシュン〔zhang zhung〕王国で興隆したとされる宗教伝統であり,同国が7 世紀中葉に古代チベット王国(吐蕃)によって併合された後は,多数派である仏教勢力の背後に隠れながらも,チベット古来の精神伝統を脈々と伝え,独自の発展を遂げた。現在,ポン教を信奉する人々は,チベット自治区全域,四川省,甘粛省,青海省,雲南省,ヒマラヤ南麓などの広範囲に分布しており,トンパ・シェンラプ・ミボチェは今なお,彼らの篤い信仰を集めている。 ポンギャ寺で蒐集されたトンパ・シェンラプ・ミボチェの生涯を描いたタンカは12 枚存在し,そのうち,前半部分の6 枚については,既に拙稿「聖伝の素描―ポン教の聖者シェンラプ・ミボの降臨から子息の誕生まで」(『国立民族学博物館研究報告』33 巻4 号,2009 年,pp. 661–739)において,その記述・解説を行った。本稿で取り扱う後半部分の6 枚のタンカには,トンパ・シェンラプ・ミボチェの生涯譚が描かれているだけでなく,ポン教の神々や儀礼の所作等に関する描写も見られることから,本研究はポン教のタンカに関する図像学上の意義を有するばかりでなく,パンテノンや儀礼の基礎を知る上でも有意義なものになると思われる。
西村, 明 Nishimura, Akira
本稿は、アジア・太平洋戦争期の宗教学・宗教研究の動向、とくに戦時下の日本宗教学会の状況と、当時の学会誌に表れた戦争にかんする研究の二つに焦点をあて、当時の宗教学・宗教研究のおかれた社会的ポジションの理解を試みるものである。戦時期の一九三〇年・四〇年代前半は、日本宗教学会の草創期にあたり、宗教をとりまく大きな状況の変化が起った時期でもあった。学術大会における会長挨拶では、同時代の状況にたいする当事者的参加が要請され、諸宗教の理解という学問的関心の社会的意義が強調されたが、それは同時に本国や占領地等における政府の宗教統制・宗教政策と奇妙な同調を見せる結果となっている。一九四〇年前後に『宗教研究』誌に登場した、戦時下の宗教現象にかんする論考は、千人針などの当時の前線・銃後の日本人たちの宗教的・民俗的営みを視野に入れたものであったが、あくまで戦争遂行や天皇にたいする尊崇を第一義とするような体制的な価値判断に基づくものであったと言える。
ラドゥレスク, アリーナ Radulescu, Alina
本稿は、ウムトゥ山とかかわる祭犯と説話で浮上するウムトゥ山の神には異なった二つの側面があることに注目する。八重山の宗教的な支配によって加えられたと思われるウムトゥ山の神と関わる三姉妹神話の要素は、「オヤケアカハチの乱」という政治的な出来事との関わりが見られ、首里王府の支配を正当化する為に利用されたことについて考察を行う。また、首里王府の支配以前のウムトウ山とかかわる土着の信仰について八重山の雨乞い儀礼を通して検討を行う。ウムトゥ山のこの二つの側面を論じることによって、首里王府による八重山併合以前と以後の八重山の民間信仰に関して示唆を得ることができると思われる。
関沢, まゆみ Sekizawa, Mayumi
本論は信仰と宗教の関係論への一つの試みである。フランスのブルターニュ地方にはパルドン(pardon)祭りと呼ばれるキリスト教的色彩の強い伝統行事が伝えられている。それらの中には聖泉信仰や聖石信仰など多様な民俗信仰(croyances populaires)との結びつきをその特徴とするいくつかのタイプが存在するが,なかでもtantadと呼ばれる火を焚く行事を含むタイプが注目される。フィニステール北部に位置するSaint-Jean-du-Doigtのパルドン祭りはその典型例であるが,聖なる十字架がtantadの紅炎の中で焼かれる光景は衝撃的である。ブルターニュ各地のパルドン祭りにおけるtantadの火の由来を考える上で参考になるのは,夏至の夜の「サン・ジャンの火」(feu de la saint Jean)の習俗である。この両者の比較により,以下のことが明らかとなった。伝統的な習俗としては夏至の火の伝承が基盤的であり,そこにパルドン祭りという教会の儀礼が季節的にも重なってきて,パルドン祭りの中にtantadの火として位置づけられたものと考えられる。伝統的な「夏至の火」には,先祖の霊が暖まる,眼病を治す,病気や悪いことを焼却する,という信仰的な側面が確認されるが,それは火の有する暖熱,光明,焼却という3つの基本的属性に対応するものである。また,tantadの火を含まない諸事例をも含めての各地のパルドン祭りの調査分析の結果,明らかになったのは以下の点である。パルドン祭りの構成要素として不可欠なのは,シャペルの存在と聖人信仰(reliques信仰),そしてプロセシオン(procession)である。パルドン祭りはカトリックの教義にのみ基づく宗教行事ではなく,ブルターニュの伝統的な民俗信仰の存在を前提としながら,それらの諸要素を取り込みつつ,カトリック教会中心の宗教行事として構成され伝承されてきた。したがって,パルドン祭りの伝承の多様性の中にこそ伝統的な民俗信仰の主要な要素を抽出することができる。火をめぐる信仰もその一つであり,キリスト教カトリックの宗教行事が逆に伝統的な民俗信仰の保存伝承装置としての機能をも果してきているということができるのである。
森田, 登代子
近世、京都の庶民階層は大嘗会、新嘗祭、即位儀礼の情報を町触れから逐一得ていた。天皇家祖先への神祭りである大嘗会では忌避されたが、公的な就任儀礼である天皇即位儀礼では庶民の拝見が許可された。入場券代わりの切手が男性一〇〇人女性二〇〇人に配られ、禁裏内、日華門近くで拝見した。即位儀礼を感涙にむせびながら厳粛に拝見する民衆もいれば、遊楽と見紛う行為も見られた。大嘗会や新嘗祭、譲位、即位儀礼、入内が布告されるたび、火の始末、鐘撞や芝居上演禁止など日常生活への拘束がともなったが、天皇に関する行事が庶民の関心を呼んだことは間違いがない。
Mio, Minoru
この論文では,インド西部メーワール地方にあるスーフィー聖者のヒンドゥーの弟子たちを葬った2つの墓廟への信仰に関する民族誌的調査に基づき,同地方の生活宗教的な宗教実践の動態の把握を試みた。 コミュナリズムが政治的言説として支配的となりつつある南アジアにおいては,日常生活に根差した宗教実践もコミュナルな言説と無関係ではなくなり,宗教空間や信仰に関おる行為を特定の宗教イデオロギーと関連づけ,それらのアイデンティティーを純化しようとする動きが顕著になっている。 この論文が対象とする墓廟に眠る2人の宗教者は,高カーストのヒンドゥーでありつつ,スーフィズムの聖者を師とするという,コミュナルなアイデンティティーの分断線の狭間を生き抜いた。その墓廟はコミュナリズムが高揚する1980年代末から90年代にかけて造営されたが,その空間の構成やそこでの宗教的実践はスーフィズム的要素とヒンドゥー的要素が巧みに融合された形となっている。 論文では墓廟に眠る聖者やその弟子たちが,コミェナルな言説と交渉しながら,自分たちの宗教的実践をいかに維持してきたかを,墓廟の意味空間の分析や弟子たちとのインタビューによって把握する。その結果,ヒンドゥーとイスラームの境界にあって独自の宗教的実践を強固な意志で維持しつつコミュナリズムが要請する近代的主体への自己の回収をも回避するという,メーワール地方の聖者廟信仰の特質が明らかとなる。
Sugimoto, Yoshio
小論は,スリランカの仏教改革者でかつ闘う民族主義者としてのアナガーリカ・ダルマパーラの流転の生涯,およびそれ以後のシンハラ仏教ナショナリズムの展開に関する人類学的系譜学的研究である。小論ではダルマパーラの改革理念のもつ曖昧性や不協和にこだわり,あらたに再編されたシンハラ仏教を,近代西欧的,キリスト教的モデルを否定しながらその影響を強くうけたものとして,その理想と現実との食い違いを明らかにする。こうした改革仏教はオベーセーカラによって2 つの意味を持つ「プロテスタント仏教」と名づけられた。ひとつには英国植民地支配に「プロテスト」するためのシンハラ仏教ナショナリズムと深く関わっている。ふたつには,マックス・ウェーバーのいう在家信者を主体とするプロテスタント的な現世内禁欲主義を仏教に応用しようとしたものである。しかしながら,ダルマパーラの急進的なナショナリスト的改革はいったん頓挫し,1950 年代半ばのバーダーラナーヤカ政権の「シンハラ唯一」政策などによって実質化されることになった。そのさい仏陀一仏信仰を旨とするプロテスタント的仏教は,宗教的に儀礼主義と偶像崇拝を排除し,また政治的にはタミル・ヒンドゥー教徒などの少数派を排除する論理を提供した。もともとナショナリズムと親和的なプロテスタンティズムの論理が貫徹したシンハラ仏教ナショナリズムはそれまであいまいであった民族間,宗教間の対立を実体化し深刻化する結果を招いた。ダルマパーラの改革仏教はそうした紛争の一因を提供した意味においても評価されなければならない。
大藤, 修 Otou, Osamu
本稿は、秋田藩佐竹家子女の近世前半期における誕生・成育・成人儀礼と名前について検討し、併せて徳川将軍家との比較を試みるもので、次の二点を課題とする。第一は、幕藩制のシステムに組み込まれ、国家公権を将軍から委任されて領域の統治に当たる「公儀」の家として位置づけられた近世大名家の男子は、どのような通過儀礼を経て社会化され政治的存在となったか、そこにどのような特徴が見出せるか、この点を嫡子=嗣子と庶子の別を踏まえ、名前の問題と関連づけて考察すること。その際、徳川将軍家男子の儀礼・名前と比較検討する。第二は、女子の人生儀礼と名前についても検討し、男子のそれとの比較を通じて近世のジェンダー性に迫ること。従来、人生儀礼を構成する諸儀礼が個別に分析されてきたが、本稿では一連のものとして系統的に分析して、個々の儀礼の位置づけ、相互連関と意味を考察し、併せて名前も検討することによって、次の点を明らかにした。①幕藩制国家の「公儀」の家として国家公権を担う将軍家と大名家の男子の成育・成人儀礼は、政治的な日程から執行時期が決められるケースがあったが、女子にはそうした事例はみられないこと。②男子の「成人」は、政治的・社会的な成人範疇と肉体的な成人範疇に分化し、とりわけ嫡子は政治的・社会的な「成人」化が急がれたものの、肉体的にも精神的にも大人になってから江戸藩邸において「奥」から「表」へと生活空間を移し、そのうえで初入部していたこと。幼少の藩主も同様であったこと。これは君主の身体性と関わる。③女子の成人儀礼は身体的儀礼のみで、改名儀礼や政治的な儀礼はしていないこと。④男子の名前は帰属する家・一族のメンバー・シップや系譜関係、ライフサイクルと家・社会・国家における位置づけ=身分を表示しているのに対し、女子の名前にはそうした機能はないこと。
白川, 琢磨 Shirakawa, Takuma
福岡県豊前市を中心とする旧上毛郡一帯に展開する豊前神楽の特徴の一つは,勇壮な駈仙(ミサキ)舞であり,毛頭鬼面で鬼杖を手にした駈仙と幣役との迫力ある「争闘」が見所となっており,また幼児を駈仙に抱かせる事で無病息災を祈る民間信仰も付随している。ところが,現地の神楽講には,この争闘を天孫降臨に際して猿田彦が天鈿女を「道案内」している場面だという伝承が存在し,観衆の実感との乖離を生み,実感との余りの落差から笑いまでもたらしている。これまで,豊前神楽は民俗芸能の枠組で里神楽と位置づけられ,岩戸の演目が最後に行われることから出雲系とされ,湯立は伊勢系,駈仙の装束や振舞には豊前六峰の修験道の影響も一部見られるという解釈が一般的であったが,本論ではこの神楽を宗教儀礼として捉え直し,その観点から上述の乖離を儀礼行為と説明伝承とのズレとして解釈することを主題としている。まず,儀礼主体として社家に注目し,彼らが近世期に吉田神道の裁許を得る以前には押し並べて両部習合神道の神人であり,豊前六峰の一つである松尾山という寺社勢力の山外の周縁部末端に位置づけられていたと類推した。湯立・火渡など現行の演目やその祭文には,神楽が本来,そうした寺社勢力の末端として行なった「加持祈祷」であったことを示す証拠がかなり残されている。さらに,駈仙と幣役との争闘に関しては,現在残されている近世期の祭文を,中国地方の中世末期の「荒平」の祭文と比較することを通じて,例えば「神迎」の演目などに典型的に表象されているように,現在伝えられる記紀神話の天孫降臨(道案内)ではなく,中世神話の天地開闢譚(天照もしくは伊弉諾と第六天魔王との争闘)に基くかもしれないことを指摘した。つまり,儀礼行為はほぼ原型を伝えるのに説明言説が変更されてしまったことが乖離を派生したと捉えたのである。この変更は近世期の神楽改変の一環であり,その背景には思潮動向としての反密教的な廃仏運動があり,やがて明治初期の神仏分離,神楽については神職演舞禁止令で頂点を極め,神楽は皮肉な事ではあるが史上初めて民間に伝えられるのである。
佐藤, 孝雄 Satō, Takao
アイヌ文化の「クマ送り」について系統を論じる時,考古学ではこれまで,オホーツク文化期のヒグマ儀礼との関係のみが重視される傾向にあった。なぜならば,「アイヌ文化期」と直接的な連続性をもつ擦文文化期には,従来,ヒグマ儀礼の存在を明確に示し,かつその内容を検討するに足る資料が得られていなかったからである。ところが,最近,知床半島南岸の羅臼町オタフク岩洞窟において,擦文文化終末期におけるヒグマ儀礼の存在を明確に裏付ける資料が出土した。本稿では,まずこの資料を観察・分析することにより,当洞窟を利用した擦文文化の人々がヒグマ儀礼を行うに際し慣習としていたと考えられる6つの行為を指摘し,次いで,各行為について,オホーツク文化の考古学的事例とアイヌの民俗事例に照らして順次検討を行った。その結果,指摘し得た諸行為は,オホーツク文化のヒグマ儀礼よりも,むしろ北海道アイヌの「クマ送り」,特に狩猟先で行う「狩猟グマ送り」に共通するものであることが明らかとなった。このことは,擦文文化のヒグマ儀礼が,系統上,オホーツク文化のヒグマ儀礼に比べ,アイヌの「クマ送り」により近い関係にあったことを示唆する。発生に際し,オホーツク文化のヒグマ儀礼からいくらかの影響を受けたにせよ,今日民族誌に知られる北海道アイヌの「クマ送り」は,あくまでも北海道在地文化の担い手である擦文文化の人々によってその基本形態が形成されたと考えるべきである。
西尾, 拓海 NISHIO, Takumi
本稿では、現代の宗教団体の活動から生じる記録の維持管理や、そのための保管施設の在り方について追究することを目的とし、既に具体的な支援策として「宗教関係アーカイブズ支援計画」が実施されているイギリスの事例を、英国国教会と記録保管の歴史、現代の支援計画という二つの側面から検討する。イギリスでは16世紀以来、英国国教会信徒の洗礼・婚姻・埋葬の際に残した記録を各教会が保管をする制度が整えられてきたため、教会が公的な記録管理に関わる伝統が存在する。これは公的な法律によって非宗教的な登録が行われている現在でも、教区記録保管所という形で存続している。この伝統を背景として、現在のイギリスでは宗教団体における記録保管の意義が重要視されており、英国国教会に限らずあらゆる宗教団体がアーカイブズを保有することが奨励され、支援が進められている。その内容は、宗教関係アーカイブズの存在意義を明確化すること、記録管理の現状を調査すること、宗教団体への助言やアーキビストの養成、資金確保への協力など、全面的なバックアップを図ることである。イギリスの宗教関係アーカイブズは、現状として保存環境や人的リソースに多くの問題を抱えているが、公的にそれに対する意義付けがなされ、具体的な支援が行われていることは、肯定的な成果を生み出すものと推察される。将来の日本への応用のため、検討材料として今後も注視しておく必要がある。
井上, 宗一郎 Inoue, Soichiro
昨今、日本の相撲、特に大相撲やアマチュア相撲の動態は、相撲に付与された「国技」という呼称、およびそれに付随して共有されているイメージを揺るがしつつある。大相撲における外国人力士の台頭、アマチュア相撲によるオリンピック正式種目登録への動きなど、選手構成、組織の運営方針や競技の形態などの多様な展開がその大きな要因のひとつである。その一方、力士の人間性や所作などについては、宗教的な言説を基盤とした一種の様式美とされ、「品格」、「品位」といった言説と絡み合いながら、「日本の伝統的競技」の代表的なもの、つまり「国技」として位置付けられる要因となっている。これまでの民俗学における相撲研究では、相撲の「国技」たる「品格」を保証するような、相撲の宗教儀礼としての側面のみを照射し、それ以外の側面についてあまり語られてきていない。そこには、民俗学固有ともいえる事例の選別や、言及の指向が存在しており、さらに言うならば、民俗学は相撲のみならず、競技を競技として対象化してこなかったのではないかと考える。本稿ではまず、民俗学における競技についての言及を振り返り、その固有ともいえる指向を検討する。次いで北陸地方で行なわれている神事相撲の事例を通して、対象とする事例を拡大して検討することで、民俗学での競技に対する、より開かれたアプローチの構築に寄与したい。
宮平, 盛晃 Miyahira, Moriaki
琉球諸島に広く分布するシマクサラシ儀礼は、定まった実施月に定期的に行われるものと、疫病の流行を機に臨時に行われるものの2つに分けることができる。本稿は、先行研究で提示された、シマクサラシ儀礼は臨時のものが古く、後に定期化したという仮説の検証を試みるものである。これまでに確認できた事例群の分布形態や内容の分析の結果、シマクサラシ儀礼は定期より臨時のものが古く、臨時からの定期化という変遷の形があったと考えられる。しかし、臨時とは別に定期的なシマクサラシ儀礼が新しく現れ、行われるようになっていったという可能性も明らかになった。
川野, 和昭 KAWANO, Kazuaki
この儀礼は、稲の病気を事前に防ぐ儀礼と、病気になった稲を治療する儀礼とに大別できる。鶏、犬、豚、牛などの動物が供犠され、黒白の色別、雌雄の別が強調される。稲に悪さを行う霊や直接害を与えている鼠を、供犠した動物の生血や調理した肉でもてなし、遠方へ立去らせ、再侵入を防ぐことで、稲の順調な生育を促し、豊作を願うところに目的がある。
山田, 慎也 Yamada, Shinya
死者儀礼においては,人の存在様態の変化により,その身体の状況と取扱い方に大きな変化がおきてくる。身体を超えて死者が表象される一方,身体性を帯びた物質が儀礼などの場でたびたび登場するなど,身体と人格の関係を考える上でも死はさまざまな課題を抱えている。葬儀では身体性を帯びた遺骨だけでなく,遺影もまた重要な表象として,現在ではなくてはならないものとなっている。なかでもいわゆる無宗教葬においては,遺影のみの儀礼も多く,そこでは最も重要な死者表象となって亡き人を偲び,死者を礼拝するための存在となっている。ところで遺影として使用された写真は,生前のある時点の一断面でありながら,一方で死者の存在そのものを想起させるものである。しかしこうしたまなざしは,写真が人々の間で使用されるようになった当初からあったのであろうか。本稿では追悼のための葬儀記録として作られた葬儀写真集の肖像写真の取り扱われ方の変化を通して,遺影に対するまなざしの変化を検討した。そこでは写真集が作られ始めた明治期から,巻頭に故人の肖像が用いられるが,撮影時に関するキャプションが入れられている。しかし明治末期から大正期にになると次第に撮影時に関する情報がキャプションに入らなくなり,さらに黒枠等を利用して葬儀写真との連続性が見られなくなっていく。つまり当初,撮影時のキャプションを入れることで,生から死への過程を表現するものとして,肖像は位置付けられていた。これはプロセスを意識する葬列絵巻とも相通じるものであった。しかし後になると,撮影時に関する情報を入れないことで時間性を取り除いたかたちで使用され,肖像は死者を総体的に表象するものとして位置付けられるようになったのである。こうして写真が生の一断面でありながら死者として見なす視線が次第に醸成されていったことがわかる。
小池, 淳一
本稿は『新編会津風土記』を素材に、十九世紀初めの会津地方における歴史および文化が継承される姿とその内容について考察するものである。ここでは古代以来の地域において蓄積されてきた宗教的な歴史意識が、社寺や堂舎、古蹟、とりわけ寺院をよりどころとして受け継がれ、また記録される際に編集、再認識されていることが明らかになった。会津という地域における歴史文化はこうした宗教的な拠点にむすびつくかたちで記憶され、認識が更新されてきたのである。具体的には、伝説を日光山縁起の受容や地域的展開、回国の宗教者の定着とその痕跡として捉え直すことで、会津という一定の地域における広義の宗教史を構築する可能性が確認できた。また空海の伝承や真言宗寺院の中興の記録を広く確認し、検討することで、地域の支配権力との関わりや宗教活動の内実にも迫ることができた。以上の検討と分析により、近世の官撰地誌における歴史文化研究拠点の記事を糸口に地域宗教史を構築していく可能性と有効性とを確認することができた。
近藤, 好和
室町時代には将軍が朝廷儀礼に参加するようになったために、公家と武家との身分に対する意識や儀礼体系の相違に基づく矛盾が表面化し、武家側の圧力で武家側の論理が優先されて、公家の先例・故実が改変されることがあった。本報告では、そのことを端的に示す事例として、『建内記』応永二十四年八月十五日条を取り上げた。その日は石清水八幡宮寺最大の祭礼で、公祭として朝廷儀礼に準じられる放生会当日であり、その放生会に、室町幕府四代将軍足利義持が朝廷儀礼の責任者である上卿として、『建内記』記主である万里小路時房が上卿の補佐役である参議として参加した。そのために、武家側の論理が優先されて、時房は不本意ながらもいくつかの先例・故実の改変を余儀なくされた。それが時房の心情とともに上記『建内記に具体的に記されており、その各事例を紹介・分析することで、公家と武家との儀礼に対する意識の相違やその背景を探った。同時に今回の先例・故実の改変は、のちにはそれが先例として踏襲されており、かかる先例・故実に対する態度の柔軟性も公家の儀礼の特徴である点を指摘した。
津波, 高志 Tsuha, Takashi
本論文では、奄美・沖縄において火葬の導入に伴って葬祭業者が関与し、葬送儀礼の外部化が起きたとする説を奄美で検証するために1村落の事例を記述した。また、近代初頭あたりまで遡って見れば、奄美における葬送儀礼の外部化は2度あったことを明らかにした。その2度の外部化を1村落の事例に読み取りつつ、琉球弧の文化の研究において、こと奄美に関しては薩摩・鹿児島の影響を十分に考慮する必要があり、葬送儀礼の外部化もその例外ではないことを指摘した。
西村, 明 Nishimura, Akira
葬送儀礼では,故人をはじめ,遺族,地域住民,宗教者などが関わり,近年には医療関係者,葬儀業者,火葬場職員といった専門業者の関わりも増えている。本論文は,「高度経済成長とその前後における葬送墓制の習俗の変化に関する研究」という共同研究のテーマに対して,第三者の関わり方の諸相に焦点を当てることで,変化の質をとらえようとするものである。その際,新参者が習俗の知識を獲得し,伝統の担い手となるプロセスに「参入」する局面と,反対に第三者の関与が習俗のあり方に影響を及ぼし変化へと舵を切らせる要因となる「介入」の局面に注目することで,第三者の関与の度合いを測る指標とする。ここで言う第三者とは,そうした従来の葬送習俗の担い手であった人々から見て外部者を指すが,そうした外部者は葬送儀礼の一部の機能を代替的に担うものとして関与する場合が多く,そうした関わりが葬送習俗に変容をもたらす場合もある際には,それを「介入」ととらえることで,持続と変化の様態の輪郭を描くことが本論文の基本的な問題設定となる。まず「参入」に関するエピソードを取り上げた上で,歴博の『死・葬送・墓制資料集成』に基づいて,1960年代(広く昭和30~40年代前後も含まれる)から1990年代(あるいは平成初年代)にかけての変化と介入の諸相をとらえる。その上で,2000年代以降のさらなる変化をとらえるために,長崎県雲仙市における筆者の調査成果に基づいて,会館葬化の動きのなかの「輿型霊柩車」という新たな葬列の形を紹介する。そこには,葬儀業者の「介入」の局面が見られるばかりではなく,条件に応じて試みられる「参入」の局面もとらえられる事態について考察を行っている。
松尾, 恒一 Matsuo, Koichi
本稿は、職能者の技術と呪術の考究を目的として、高知県東部の物部村における杣職を主たる事例として論じるものである。杣とは伐木に従事する職能者であるが、その職にともなう民俗的な慣行は木に宿るとされる木魂や、山の神やその眷属に対する信仰に基づくものが多い。伐木の際に木魂を奥山の山の神のもとへ送り返す〝木魂送り〟の法や、神木を切った際に切り株を鎮める”株木鎮め“の法がこれで、これら杣によって実践された呪的な作法は「杣法」と呼ばれた。これらの作法は、職の道具である手釿等を祭具として行われた点に特色を認めることができるが、特に形状・形態に特殊条件を備えた道具が呪術的な力を発揮するものと信仰された。当村は、「いざなぎ流」と呼ばれる民間宗教が伝承される地域としても知られるが、本宗教に取り込まれた杣法があった。本来杣職によって行われていた杣法を核として、さらに呪術的な性格の強い式法として実践された。杣法などの民俗的慣行は、斧と鋸で作業を行っていた昭和三十年代まで行われていたものであるが、チェーンソーや集材機などの機械の導入や、営林署・労働組合の利益追求のための皆伐・密植など林業の大変革の中で急速に衰退していった。なお筆者はすでに、当地域における職能者の木魂の信仰について、大工の建築儀礼を中心に論じた「物部村の職人と建築儀礼」を公にしているが、本稿はこの続考となるものでもある。
澤井, 真代 Sawai, Mayo
琉球諸島において集落単位の儀礼を中心的に担うノロやツカサといった女性神役は従来、神に祈り儀礼に奉仕するのみの存在と見なされる傾向があったが、一九八〇年代以降、神と交感する能力を豊かに有する女性神役の事例が報告され、従来の女性神役像が拡大された。ただ、琉球諸島の女性神役をめぐる問題は、神との交感に収斂する事柄にとどまらないことも次第に明らかにされつつある。一九八〇年代以降にとられるようになった、個々の神役の生活史や神観念に接近する方法により、神役の職能をめぐる様々な問題を明らかにし、琉球諸島の女性神役の多様なあり方を提示することを目指しつつ、本稿では石垣島川平における女性神役「ツカサ(司)」の就任過程と、ツカサの祈願方法の中核にあると言い得る唱え言「カンフツ(神口)」について報告する。川平では、集落の四つの拝所「オン(御嶽)」のそれぞれに一人ずつ、全部で四人のツカサが儀礼における祈願を担っている。ツカサは各オンの由来に深く関わる家に父系でつながる女性から選ばれるのが基本で、候補者が複数の場合、近年は神籤により一人のツカサが選ばれる。神役選出の籤については従来、近年に導入された合理的方法という見方がされてきたが、籤に参加する女性たちは、神籤の場で経験した不可思議な出来事をしばしば語り、籤の場を神の力のはたらく場と捉えている点が着目される。選出された女性は、就任儀礼「ヤマダキ」を経て、年間の儀礼に携わる。日頃から各オンの管理の任にあたる「カンムトゥヤー(神元家)」と呼ばれる家があるが、ヤマダキにおいて新任のツカサは、このカンムトゥヤーの一室に三日三晩籠り、その間、通ってくる前任のツカサや他のツカサから年間の儀礼の意味合いや各儀礼で唱えるカンフツについて教えられ続ける。ツカサの唱え言カンフツは、その習得が四人のツカサのみに厳しく限られており、儀礼の場で唱えられる時もツカサ以外の人には聞き知られないようになっているが、ツカサ四人の間では「カンフツツラシ」という唱え合わせの機会が定期的にもたれ、把握する文言や内容の統一がはかられている。カンフツは、変えてはならないとされるその形式が重視される一方で、儀礼目的や祈願内容といった意味を具体的に神に伝えるというはたらきがより重視されている。そうしたカンフツの意味には、ツカサ四人での間で教授される意味のほかに、ツカサ一人一人が考えながら習得していく意味もある。新任のツカサは儀礼での実践を積みながら何年もかけてカンフツの形式と意味を身につけていくが、その習得過程については今後さらに調査と考察を行なう必要がある。
松尾, 恒一 Matsuo, Koichi
高知県物部地域の太夫と呼ばれる宗教者によって現在も伝承される〝いざなぎ流〟について、昭和後期まで行われていた託宣の神楽を中心として、神霊の示現を得る諸儀礼・作法の実態とその特質について考察する。家の守護神たるオンザキや祖霊たるミコ神を祭る屋祈禱は、現在でも十一〜二月頃に行われているが、その大祭としての十〜数十年に一度の宅神祭においては、かつて神の託宣を得るための託宣の神楽が行われていた。これは、家族を中心とする共同体の人々へ、災害を予言し、会合和合を教え諭すためのものであるが、神霊が身体へ依り憑いた際には激しく回転する「くるくる舞い」の状態となった。この際、悪鬼、邪霊を身に受け、狂った状態になる恐れもあり、これを防ぐための「隔ての紙」を、懐や背中に入れる作法もあった。物部においては、祖霊を家で祀るミコ神へと転成させるための取り上げ神楽が行われる家が少なくないが、取り上げた先祖が生前山伏であったことが判明した際には、家で祀らずに大峰山へと送る儀礼へと切り替えられ、その際にはその山伏が家族へ別れを告げる託宣が行われる場合もあった。なお、物部では、日光院を拠点とする修験系の民間宗教である天台流が伝承されるが、この天台流の取り上げでは、祖霊を家で祀らずに大峰山へと奉送する。あわせて託宣のほかに、取り上げ神楽において行われる「向う神楽」や、「シキ上げ」の作法について考察した。取り上げ神楽では、墓より家に迎えた祖霊に、守護神たるにふさわしい位を得させるために「行文行体」と呼ばれる修行をさせるが、その際、その修行の程度、段階を判断するのが向う神楽で、へぎの上に山のように盛った米(フマ)の変化によってこれを判断する。取り上げた祖霊が、また生前、呪誼・調伏等を行っていたような太夫であった場合には、その恨み・憎しみが「大呪誼(おおずそ)」となり、これが妨げとなってミコ神となることができず、その際には、この大呪誼を天上世界へと送るための「シキ上げ」を行った。このシキ上げには、他の神霊に働きかけ統括、管理し得る力を有すると信仰された神霊「敷王子(しきおうじ)」の力が必要とされ、その際、祭儀の一環としてこの敷王子の由来の物語が語られた。
春成, 秀爾 Harunari, Hideji
近畿地方の弥生V期(2世紀)の壺形土器には,円形,直線形,三叉形,弧形などの記号を,箆描き沈線や竹管紋・浮紋で表現した例が知られている。これらの記号の大部分は,当初から抽象化された記号として出発したとする説が有力である。その一方,先行するIV期(1世紀)の土器や銅鐸には,鹿を筆頭に建物,鳥,人物,船などの具象的な絵画が描かれている。画題の出現頻度によると,鹿と建物または鹿と鳥を主題とする神話・儀礼が存在したことを推定しうる。円形にせよ,直線形にせよ,個々の記号には多くの変異が存在する。IV期の絵画も同様に画題ごとに変異があり,鹿・建物や船は,写実的なものからそうでないものへと順を追っていくことができる。そして,記号もまた複雑なものから単純なものへと辿っていくことが可能である。そこで,表現の省略が進んでいるが画題を特定できるものと,個々の記号のうち複雑な形状をもつものとを比較すると,鹿から円形記号へ,建物から直線形記号へ,船から弧形記号へ,というように,絵画と記号が連続する関係にあり,絵画の大幅な省略によって記号が成立したことが判明する。こうして,V期においても,鹿と建物または鳥を対合関係とする神話・儀礼が存続したことを推定できる。記号はVI期(3世紀)になると消滅する。絵画から記号へ,そしてその消滅は,農耕儀礼のために手間をかけて土器を作り,儀礼そのものも時間をかけて念入りにおこなう段階から,農耕儀礼の実修にあれこれ省略を加えて時間をかけなくなる段階への移行,すなわち集団祭祀の衰退を意味している。絵画をもち農耕儀礼の場で用いる「聞く銅鐸」が政治的儀礼に用いる「見る銅鐸」へと変質するのも,その一環である。それは,特定の親族あるいは首長の顕在化を表す墳丘墓の発達に示される政治的儀礼の比重の増大に起因するものであった。
孫, 江
一九三二年三月一日、関東軍によって作られた傀儡国家「満州国」が中華民国の東北地域に現れた。本稿で取り上げる満州の宗教結社在家裡(青幇)と紅卍字会は、いずれも満州社会に深く根を下ろし、「満州国」の政治統合のプロセスにおいて重要な位置を占めていた。 今までの中国社会史および「満州国」の歴史に関する研究において、これらの宗教結社は見逃されており、それに関する数少ない記述も偏見に満ちたものである。在家裡と紅卍字会の実態を問わず、在家裡を「秘密結社」、紅卍字会を政治的もしくは「邪教的」存在とみなす見解は今でも依然主流的である。本稿において、このような見解に疑問を投げかけ、一時的資料に基づいて実証的考察を行った。それを通じて明らかになったように、二十世紀に入ってから満州移民社会の形成に伴って、在家裡・紅卍字会のような宗教結社や「秘密結社」が満州社会において発展し、一定の社会的影響力を持つようになった。在家裡と紅卍字会のほとんどの組織は自らの組織的優勢を獲得するために、関東軍および「満州国」に協力する道を選んだ。 「満州国」側の一部の資料では、「類似宗教結社」とされる在家裡・紅卍字会などが「満州国」の政治統合の支障となったという記録が残されている。しかし、実際には、満州地域の数多くの宗教結社の活動を全体的に見ると、宗教結社の反満抗日に関与するケースは非常に少なく、しかも特定の時期(満州事変初期)、特定の地域(熱河・北満など)に限られていた。反満抗日運動に参加した在家裡と紅卍字会のメンバーは確かに存在していたが、それは在家裡と紅卍字会の組織的性質を反映するものではない。 総じていえば、「満州国」支配における宗教結社の統合は、単なる「植民地」という支配空間に生じた問題ではなく、実は日本近代国家の形成と関連して、日本国内=「内地」が抱える「類似宗教」や「邪教」「迷信」といった諸問題の延長上にあるのである。
小池, 淳一 Koike, Jun'ichi
本稿は、民俗儀礼を起源とする俳句の季語を文芸資源と捉え、その形成の過程を論じようとするものである。七五三という儀礼は実は新しく、都市的な環境のなかで成立したものである。そして特に現代では古い状況から新しい状況へと変化することを示す儀礼というよりも、人生の階梯を晴れ着などで示す表層的な儀式という性格が顕著である。そうした七五三が文芸資源として俳句作品に用いられる際には、子どもの成長や晴れ着の着こなし、儀式のなかでの動きを切り取るものとして機能している。社会的な儀礼よりも一時的な儀式としての意味合いが強調される。一方、岡見は「堀川百首」の源俊頼の和歌における「をかみ」の語釈として胚胎し、近世の季寄せや歳時記の類にこの語に関する関心が引き継がれてきた。記録上は、多少のバリエーションがあり、担い手や方法に差異があるが、実際の民俗儀礼として明確に確認はできない。この語は俳句作品のなかでは年の暮の情景を示すものとして、さらには時間感覚を表出させるものとして働く場合が多い。それは幻想的であり、年中行事というよりも特殊な境界の時空をとらえるものとなっている。
Hirose, Kojiro
大本教の出口王仁三郎は,日本の新宗教の源に位置する思想家である。彼の人類愛善主義を芸術・武道・農業・エスペラントなどへの取り組みを中心に,「文化史」の立場から分析するのが本稿の課題である。王仁三郎の主著『霊界物語』は従来の学問的な研究では注目されてこなかったが,その中から現代社会にも通用する「脱近代」性,宗教の枠を超えた人間解放論の意義を明らかにしたい。併せて,大本教弾圧の意味や新宗教運動と近代日本史の関係についても多角的に考える。
水林, 彪 Mizubayashi, Takeshi
本稿は,『続日本紀』の記事に散見され,『貞観儀式』や『延喜式』にも見えるところの,出雲国造が天皇に対して賀詞などを奉上する儀式の意義について考察したものである。この儀式に関する諸研究は,二つの問題軸に即して,分岐が認められる。すなわち,Aこの儀式の挙行時点に関して,(1)この儀式が,出雲国造新任に際しての儀式であるのか,それとも,(2)天皇即位に際しての儀式であるのかという問題軸と,Bこの儀式の意義について,①天皇に対する国造の服属儀礼か,②天皇即位を出雲国造が寿ぐ儀礼か,③出雲国造祖神による諸神平定のことの天神に対する神話上の報告儀礼の現実における再現儀礼か,④天皇に対して出雲国造が行うタマフリ儀礼か,という問題軸である。通説は圧倒的に(1)①説であるが,大浦元彦氏は(2)②説,関和彦・森田喜久男両氏は(1)③説,菊地照夫氏は(1)④説を唱えられた。本稿は,以上のいずれにも批判的であり,独自の説を主張する。すなわち,(a)この儀礼の初見である716年や,これに次ぐ724年の儀式すなわち出雲関連諸儀式の原型(律令天皇制成立期における出雲関連儀式)においては,天皇即位儀礼の一環としての,大国主神の高天原=天皇王権への国譲り儀礼であったが,(b)8世紀中葉以降に変質が始まり,『延喜式』(10世紀初頭)には,(1)③の儀式として調え直された,とする見解である。以上のうち,(a)については,天皇即位・出雲国造就任・出雲関連儀式の時間的関係,および,儀式の祭儀神話としての『古事記』神話論の観点から,(b)については,『延喜式』収載の「出雲国造神賀詞」の分析を通じて,論証する。
小松, 和彦 Komatsu, Kazuhiko
死はさまざまなイメージで語られる。生者にとって,死の体験を語ることができない限り,死は外在的なものであり,他人の死を眺め,その死の体験を想像し,そのイメージを作り上げることによってしか死を表現することができない。物部の葬送儀礼では,まずそのイメージは「生」のカテゴリーの象徴的逆転として語り示される。日常における「右」の強調に対して「左」の強調,日常の作法に対するその逆転の作法,等々。そうした葬式の作法によって「死」のカテゴリーが形成され,そして,そうした「死」の記号は死の記号であるがために,死という出来事の回りに配置され,日常生活のなかに持ち込むことがタブーとされることになる。日本では,葬式にこうした「死」の記号が用いられるのは一般的なことに属するが,物部の葬式ではそれがかなり徹底しているといっていいだろう。物部の葬式は,死者の霊の「あの世」への追放と「あの世」での再生を期待したモチーフを強調した儀礼となっている。その典型的儀礼行為が,山伏の宿借りを拒絶する奇妙な儀礼的問答(山伏問答)であろう。死出の旅に発ったはずの死者の霊が立ち戻ってくるということを演劇化したこの儀礼は,亡くなったばかりの死者とは,あの世に行くのを好まずに現世に戻ってくるものなのだ,という観念を前提にしており,物部の人々の死を迎える気持ちや死後観を如実に伝えているといえる。物部の葬送儀礼では,西方浄土観が強調されている。しかし,それは葬送儀礼が仏教の影響を強く受けているためであって,それ以前は,古代の地下の冥界にもつながるような他界観を持っていたことが「みこ神」儀礼などからうかがうことができる。しかし,西方浄土観にせよ,地下他界観にせよ,そのイメージはきわめて素朴で,現世こそ楽園であるということを強調している。一種の異装習俗である「師走男に,正月女」の埋葬習俗は,調査資料も乏しく,まだほとんど解明されていない習俗である。ここでの「異装」は,怨霊の一種である「七人みさき」に引かれるのを避けるために,「女」ならば「七人みさき」の災いが発現するので「女」を「男」とみせかけて埋葬する,いわば「トリック」である。「異装」して埋葬するという奇妙な埋葬法に関心が向かいがちであるが,むしろ問題の核心は,なぜ正月という「時」に「女」が死ぬと「七人みさき」が発現するのか,という点にある。物部村に限ったことではないが,葬送儀礼に参加した人たちは儀礼的ケガレ,いいかえれば一種の日常生活からの隔離の状態に入る。物部では,これを「ブクがかかる」と称している。物部では,ブクと呼ばれるケガレは死,出産,婚礼の際に生じるという。いわゆる誕生・結婚・死の人生における大きな節目に当たり時にブクが生じるのである。この人生の節目に当たる儀礼で共食するとブクがかかるという。したがって,物部では,ブクは儀礼に参加した人々のカテゴリーを浮き上がらせる機能も帯びている。
浜崎, 盛康 Hamasaki, Moriyasu
本稿は、緩和ケア(palliative care)(ターミナル・ケア(terminal care)、ホスピス・ケア(hospice care))におけるスピリチュアル・ペイン(spiritual pain)を主な手がかりとして、「スピリチュアル」および「スピリチュアリティ」について考察し、それらの主要な意味(の一つ)が「存在すること・生きること、存在する意味・生きる意味に関する」ものであるということを確認する。そして、次に、そのような生きる意味という視点から、スピリチュアル・スピリチュアリティと「宗教・宗教的」との関係を検討し、スピリチュアル・スピリチュアリティは宗教よりも広く、① 組織化された宗教におけるスピリチュアル・スピリチュアリティ、② 個人的なあり方として、ある種の超自然的なものとの関係におけるスピリチュアル・スピリチュアリティ、③ ①②と区別される個人的なあり方におけるスピリチュアル・スピリチュアリティ、という3つに分けて捉えることができるということを論じる。そうすることによって、スピリチュアル・スピリチュアリティをめぐる様々な議論を、その全てではないにせよ、大凡のところ統一的に捉えることが出来るように思われる。
山田, 慎也 Yamada, Shinya
本稿は葬儀祭壇の形態から現代の死の位置づけ方についての考察を試みるものである。かつて葬儀は自宅で通夜,出棺の儀礼を行ったあと,葬列を組んで寺院や墓地などに向かい,そこで改めて儀礼を行い埋葬や火葬となった。それは喪家の儀礼,葬列,寺院・墓地での儀礼と空間を移動して,段階的に儀礼を行っていたのである。こうした儀礼で使用される葬具は,喪家や寺院・墓地などの儀礼よりも,葬列に対応するための形態であった。東京などの都市部を中心に大正期以降葬列が廃されるようになると,自宅における告別式が普及し,祭壇が使用されるようになった。当時は白布を掛けた祭壇が使用され,昭和30年代まで白布,金欄などの布掛け祭壇が使用されていた。布掛け祭壇は五具足や灯籠,位牌堂,ケソクなど個々の道具の並べただけであり,祭壇全体として何らかのモティーフを喚起するものではなかった。だが祭壇が彫刻幕板祭壇になると,祭壇の段自体に意匠を込めるようになった。さらに最上段の棺かくしが宮殿化することにより,祭壇は総体として仏浄土を想起するデザインとなり,柩を祭壇前に安置することで他界にたどり着いた死者を喚起するような儀礼空間を演出するようになる。一方,おもに大型葬では生花祭壇が多用され,なかでも会社や非営利団体などの団体葬は団体のシンボルや団体への死者の功績を祭壇中に表象することが多い。個人葬の場合,故人の功績だけでなく趣味や嗜好までも表象するモティーフをとるものもみられる。従来,葬儀祭壇はモティーフを持つものではなかったが,近年の生花祭壇のように積極的に意味を見いだそうとしているものもある。それは死にゆく人を生前とは異なる別個の存在に転換して扱うよりも,生前の足跡や個性を表象する傾向が強く見られる。つまり葬儀において,死を生前の記憶に位置づけるようになったのである。
林, 淳 Hayashi, Makoto
神子の歴史社会的な存在形態を考えようとした場合、神田より子、西田かほるの先駆的な仕事を踏まえ、さらなる議論を展開する必要がある。西田は、近世において神子の本所がなぜできなかったのかという根本的な問いを発している。この問いは、九〇年代以降に盛んになった近世の民間宗教者の家職をめぐる研究史の虚をついたものである。西田は、「本所を持たない神子は、みずからの宗教活動を幕府から保証されるために、みずからの夫や父、よりいえば男性の所属する宗教各派の編成を受けてゆくことになるのである」、「イエによって職が継承されるという近世社会のあり方」と指摘した。これに対して、東北地方において神子の重厚なフィールド調査を重ねてきた神田は、修験系の神子の儀礼を論述する中で、西田説をとりあげて「神子は元来本所がないから、修験ともイエの論理で結びしていたとする西田かほるの論はあたらない」と批判している。この問題は、同じ神子と呼ばれたものの社会的存在形態が、地域的にも時代的にも多様で振幅をふくむものであり、一般化の危険を示唆している。本稿は、神事舞太夫と梓神子の教団形成をたどり、神子の分類を試みるものである。彼らの頭役であった田村家は、配下が夫婦で活動することを義務付けていた。梓神子が他の系列の男性と婚姻を結ぶことは禁じた。東北の神子や田村家配下の梓神子は、師匠の家に住み込み、作法を叩き込まれて、一人前になるため訓練された点で共通していた。その意味ではプロフェショナルであり、より高度な技法を身につけていた専門職といえる。それに対して土御門家配下、吉田家配下の神子は、本所に対して貢納料を支払って、自らが行っている活動を継続させようとした。そこでは本所は、神子が何をやっているのかに関して関知しなかったと思われる。神田が紹介した東北の神子が、自らの檀那場を保有して、経済的にも自立した存在であったが、田村家配下の梓神子は、男性(神事舞太夫)のもとで統率されて、キャラバンを組んで共同で営業を行っていた。両者の間には、大きな違いは歴然とあった。近世以降の神子を研究する場合、再生産の仕組みや檀那場の所有に注目しつつ、地域性の違いを繰り込む作業が必要となる。
Ueba, Yoko
本稿は,インド西部グジャラート州アーメダバード市で製作される女神儀礼用染色布の染色技術に焦点をあて,既往研究では触れられてこなかった化学染料を含む染色技術の現状を明らかにし,1960 ~ 1980 年代の製作技術との比較検討をおこない,製作者がどのように伝統的技術を継承しているかについて考察することを目的としている。 現在,同市における女神儀礼用染色布は,名称や形態,製作技術,使用目的が異なる,儀礼用,観賞用,実演説明用の三つに大別することができる。1960 ~1980 年代との製作技術を比較してみると,下染め技術やアリザリン染色などは,現在の観賞用染色布に引き継がれ,木版を使用した図像表現は現在の儀礼用染色布に,そして,実演用染色布はこの二つを併用したものというように,製作技術が絡み合った状態となって継承されていることが明らかになった。現代の選択肢の多い染材環境において,職人たちによるこのような継承は,製作工程の省力化を図る一方で,一見すると非合理的な製作技術も併合しながら多様に対応してきた結果であると考えられる。
小峯, 和明 Komine, Kazuaki
十二世紀(院政期)における天皇の生と死をめぐる儀礼とその記録や仏事儀礼に供された唱導資料(願文・表白)を中心に検証する。死に関しては堀河院をめぐって、関白忠実の日記や女官の日記、大江匡房の願文などから取り出し、とりわけ追善法会における願文表現の意義を追究した。生に関しては安徳天皇の誕生を例に、中山忠親の日記、『平家物語』諸本、安居院澄憲の表白、密教の事相書、御産記録等々から検討した。
藤井, 弘章
筆者は20年以上にわたり和歌山県北部において調査をおこなってきたなかで,雨乞いの民俗事例を多数確認してきた。この地域では雨乞いに関する民俗的な報告,歴史史料も存在する。本稿では,これらの民俗事例,歴史史料などを統合することで雨乞い習俗の地域的な広がり,歴史的な変遷について検討した。この地域の民俗事例を概観すると,①神社・寺院・小祠での祈祷,②神仏・宝物を持ち出して祈祷,③川・滝での祈祷,④水にまつわる山での祈祷,⑤火振り・火焚き,⑥芸能(相撲)に分類できる。雨乞いをおこなう場合,①だけで雨が降らなければ,複数の雨乞いをおこなった。地域によって実施する内容や順序は異なっていた。実施主体は,近世には支配者などもあったが,近現代では村落共同体で実施する場合が多く,なかには村単位,郡単位で実施することもあった。近世には雨乞い儀礼には修験者などの宗教者が関与することがあったが,近現代では村人自身の手で実施する傾向が強まった。江戸時代から明治時代までは火振りがおこなわれることも多かったが,しだいに大掛かりな火焚きが広まっていったようである。火焚きには修験者が実施してきた柴燈護摩の影響が強く認められる。高野山の灯明から火をもらい火振り・火焚きをする習俗は,江戸中期に広まった可能性が高い。地域的な傾向としては,高野山・天野社に関係する修験者が関与した伊都地方,生石山周辺の宗教者・芸能者が関与した有田・海草地方,および和歌山市周辺,という3つのグループに大別できる。②,③のような呪術的と思われる雨乞いは昭和初期には衰退したが,火焚きなどは昭和中期まで盛んにおこなわれた。その後は用水の整備や稲作から果樹などへの栽培作物の転換などにより雨乞いがおこなわれることがほとんどなくなった。
坂井, 隆 Sakai, Takashi
世界史的な陶磁貿易の構造解明に向けて,本論では東南アジア群島部における陶磁器消費者の実態像について,各地の考古資料より接近を試みた。具体的な使用者を探る手掛かりとして食膳具・調度具・貯蔵具に区分することで各遺跡出土品の内容を検討し,またこの地域の特徴を示す重要な製品であるクンディ型水注とアンピン壺のあり方を考えた。前期(9~16世紀前半)16例と後期(16世紀後半~18世紀)6例について分析を行った。これらは港市・政治拠点・寺院群・墓地及び航路要衝・沈没船に区分できるが,陶磁器使用者は支配層・祭祀神官・富裕階層・中間層住民・下層住民に分けて考えられる。港市や政治拠点の陶磁器の少なからぬ部分は,遠距離地へ再輸出や近距離地へ搬出される。また港市ごとの陶磁器のあり方は,政治的な支配関係よりも主要貿易ルートとの関係に依存している。寺院群では,クンディ型水注のような儀礼器種や特注タイルのような荘厳財が多く見られる。だがそれらは特定宗教の個有品ではなく,群島部に在来する信仰観念から生まれたものである。また東部では大量の陶磁器を埋納した集団墓が発見されているが,これは葬送儀礼に関るものと考えられる。これらの墓地の被葬者社会は,主要貿易が生み出す二次貿易に関係している可能性がある。群島部はアジア海上貿易の重要な結節点に位置するため,さまざな流通業の発達が早くからあった。そのため,陶磁器使用者として大きな役割を持っていたのが流通業を主な生業とする中間層住民である。彼らは流通商品以外に,一定度の自己消費分も所有していた。群島部では彼らの役割が大きく,王権も流通業と深く関っていた。そのため貯蔵具の転用も含め陶磁器の使用は多量多岐にわたり,また二次貿易の発達もあって流通価値が高まったと思われる。
大橋, 幸泰 OHASHI, YUKIHIRO
本稿では、日本へキリシタンが伝来した16世紀中期から、キリスト教の再布教が行われた19世紀中期までを対象に、日本におけるキリシタンの受容・禁制・潜伏の過程を概観する。そのうえで、どのようにしたら異文化の共生は可能か、という問いについて考えるためのヒントを得たい。キリシタンをめぐる当時の日本の動向は、異文化交流の一つと見ることができるから、異文化共生の条件について考える恰好の材料となるであろう。 16世紀中期に日本に伝来したキリシタンは、当時の日本人に幅広く受容されたが、既存秩序を維持しようとする勢力から反発も受けた。キリシタンは、戦国時代を統一した豊臣秀吉・徳川家康が目指す国家秩序とは相容れないものとみなされ、徹底的に排除された。そして、17世紀中後期までにキリシタン禁制を維持するための諸制度が整備されるとともに、江戸時代の宗教秩序が形成されていった。こうして成立した宗教秩序はもちろん、江戸時代の人びとの宗教活動を制約するものであったが、そうした秩序に制約されながらも、潜伏キリシタンは19世紀中期まで存続することができた。その制約された状況のなかでキリシタンを含む諸宗教は共生していたといえる。ただし、それには条件が必要であった。その条件とは、表向き諸宗教の境界の曖昧性が保たれていたことと、人びとの共通の属性が優先されたことである。
榊, 佳子 Sakaki, Keiko
日本古代の喪葬儀礼は七世紀から八世紀にかけて大きく変化した。そして喪葬儀礼に供奉する役割も、持統大葬以降は四等官制に基づく装束司・山作司などの葬司が臨時に任命されるようになった。葬司の任命に関しては、特定の氏族に任命が集中する傾向があり、諸王・藤原朝臣・石川朝臣・大伴宿祢・石上朝臣・紀朝臣・多治比真人・佐伯宿祢・阿倍朝臣が葬司に頻繁に任命されていた。これらの氏族が何故頻繁に葬司に任命されていたか、その理由を検討すると、諸王や真人姓などの皇親氏族の場合、天皇の親族であることが任命される理由であり、藤原氏も当初は葬司への任命はあまりなかったものの、天皇外戚になったことから重用されるようになったと考えられる。その他の氏族は、もともと食膳奉仕や宮城守衛などの職掌を担っていた氏族であり、さらに天皇の殯宮にても同様に食膳奉仕や殯宮守衛を行っていたことが、葬司任命につながったものと思われる。つまり葬司は喪葬儀礼の変化の中で新たに設けられたものであったものの、その任命に当たっては実際には以前からの喪葬儀礼の影響を強く受けたものであった。なお喪葬儀礼専掌氏族として有名な土師氏は、葬司にはほとんど任命されていなかったが、実際には六世紀後半以降、天皇の殯を管掌する役割を担っており、八世紀を通じて遺体に食膳を献上するなどの奉仕を行っていた。
永岡, 崇
本稿は、異なる立場の人びとが「知の協働制作者」(Johannes Fabian)として直接的に接触・交渉しあいながら宗教の歴史を描いていく営みを協働表象と名づけ、具体的な事例を検討しながらその意義を明らかにしようとするものである。その事例は、一九六〇年代に行われた『大本七十年史』編纂事業である。近代日本の代表的な新宗教として知られる大本が、歴史学者・宗教学者らとともに作りあげた『七十年史』は、協働表象の困難さと可能性を際立った形で提示している。 大本という宗教団体の七〇年にわたる歴史を描くというこの事業は、大本に集った人びとの過去だけでなく、現在と未来のありように密接にかかわるものであった。新宗教の矛盾や葛藤に満ちた歴史のなかに研究者が介入し、多様な信仰、多様な経験に秩序を与え、そのざわめきを鎮めていくことは、来るべき信仰や実践のありように規範を提示していくことでもある。大本内部で平和運動を推進する出口栄二や事業に参加した歴史学者は、近代日本の支配体制に対抗する異端として、また一貫した平和主義的宗教としての大本の「本質」を創造していた。 彼らによって構築される「本質」は、そこに回収されきらない多様な歴史的経験を排除するか、副次的なものとして劣位に置くことになる。だが、古参の信徒が抱えるそうした歴史的経験や、史料の読解よりも「本質」を優先させる物語の過剰にたいする若手研究者の反発は、首尾一貫した滑らかな歴史が内包する暴力性を浮き彫りにするのである。 協働表現の意義は、おそらく成果として出来上がった歴史叙述そのもののなかにではなく、その過程で生起する自己変容の経験、越えがたい差異の経験、そして他者を前にして自分の行使する暴力に気付かされる経験のなかにこそある。もっともこうした経験は、当事者によってはうまく分節化できないこともある。協働の場に介入する分析者の役割は、そこに沈殿した経験の意味を開示し、さらにそれを公共的議論へと接続することなのだ。
佐野, 真由子
本稿は、幕末期に欧米諸国から来日しはじめた外交官らによる、登城および将軍拝謁という儀礼の場面を取り上げ、そのために幕府が準備した様式が、全例を連鎖的に踏襲しながら整備されていく過程を検証する。それを通じて、この時期の徳川幕府における実践的な対外認識の定着過程を把握するとともに、その過程の、幕末外交史における意義を考察することが本稿の目的である。 欧米外交官による江戸城中での外交儀礼は、安政四(一八五七)年十月二十一日におけるアメリカ総領事ハリスの登城・将軍拝謁を初発の事例とするが、その際の様式は、徳川幕府が長い経験を持つ朝鮮通信使迎接儀礼を土台に考案されたのであった。筆者がすでに別稿で詳細を論じたそのハリス迎接を起点として、本稿では、以降数年の動きを追跡する。具体的には、安政五年にオランダ領事館ドンケル=クルティウス、続いてロシア使節プチャーチンを江戸城に迎えるにあたり、幕府内で外交儀礼の定式化をめざして進められた検討の実態、その後、安政六年に再びハリス(アメリカ公使に昇格)が登城した際、日米間に発生した問題と、その解決のため翌万延元(一八六〇)年に実行された同じハリスによる「謁見仕直し」の経緯、さらに、ここまでに検討された式次第が同年、イギリス公使オールコック、フランス代理公使ド=ベルクールの登城・将軍拝謁に準用され、当面の通例として定着に向かう様を、史料から明らかにする。 ここから浮き彫りになるのは、「幕末前期」とも言うべきこの時期の徳川幕府が、従来国交のなかった欧米諸国から次々と外交官が到着する事態に向き合うなかで、その迎接をできるかぎり特別視せず、もとより長きにわたって政権を支えてきた各種殿中儀礼の枠組みの中に取り込み、平常の準備の範囲で彼らに対しうる態勢をつくろうとした努力の過程である。儀礼を窓口に、より広義の解釈を試みるなら、対外関係業務そのものを幕府の一所掌領域として安定させ、持続可能なものにしていこうとする意思が、ここに表れていると言うことができる。
岩本, 通弥 Iwamoto, Michiya
本稿は日本近代の産育儀礼の通史的展開として、その一大転機と位置付けられるであろう民力涵養運動期における「国民儀礼」の創出について、民俗学的観点から分析する。第一次大戦の戦後経営ともいえる民力涵養運動は、日露戦後の地方改良運動の延長と見做されたためか、近代史でも地方改良運動や後続の郷土教育運動・翼賛文化運動に比べ、研究蓄積はさほど厚くないが、民俗学的にみると、その史料には矯正すべき弊習として従前の暮らしぶりも描写されるなど、実に興味深い記述が多い。この運動は形式上、内務省の示した「五大要綱」に応じた、各県・各郡・各町村の自己変革であるため、その対応は地方毎であるが、列島周縁部では、例えば岩手県では敬神崇祖の強調で伊勢大麻を奉祭する「神棚」設置が推進され、鹿児島県では大島郡に対し、「神社ナキ地方ハ我カ皇国ノ不基ヲ定メ賜ヒタル…先賢偉人ノ神霊ヲ奉祀スヘキ神社ヲ建立スルコト」と命じるなど、一九四〇年代の神祇院体制への土台として地域的平準化が図られており、従前の竈神や納戸神・便所神などへの素朴で個別的な民間信仰は、天照の下に統合され、家内安全も豊作・安産祈願も「天照のお蔭」と思わせるような換骨奪胎過程が見てとれる。そのほか各地の記事を通覧すると、門松や注連縄、初詣や七五三、神前結婚式の普及を推奨したり、礼服規定で喪服を黒に統一するなど、今日日本で「伝統」と見做される「国民儀礼」の多くは、この期の運動によって成立するが、それまで地方毎に多様だった民俗文化を平準化し、「文化的ならし」を図る一方、自治奉告祭や出征兵士の送迎、三大節など、地域共同体に何かしらの出来事があれば、「氏神」に参集させ、新たな形式の「集団参拝」を強要するなど、私的で人的であった習俗を、公的で外部からも見える可視的な社会的儀礼へと変換させた。それは地域内階層差や初生児優遇の儀礼を平等化する一方、忠君愛国へ向けた儀礼の全国的画一化の端緒ともなった。
高橋, 照彦 Takahashi, Teruhiko
本稿は,日本古代の鉛釉陶器を題材に,造形の背後に潜む諸側面について歴史的な位置づけを行った。まず,意匠については,奈良三彩が三彩釉という表層のみの中国化であるのに対して,平安緑釉陶では形態や文様も含めて全面的に中国指向に傾斜したということができる。また,日本における焼物生産史全体でみると,模倣対象としての朝鮮半島指向から中国指向への大きな比重の移動は,この奈良三彩や平安緑釉陶が生産された8世紀から9世紀に求められるとした。次に,用途・機能については,奈良三彩が祭祀具あるいは仏具など宗教祭器としての性格を持つのに対して,平安緑釉陶は宗教的機能が続くものの,基本的に実用食器としての用途が中軸となる点に大きな変質を認めることができる。その変容の契機は,弘仁期における宮廷儀礼の整備の中で,鉛釉陶器が国家的饗宴を彩る舞台装置として組み込まれたことが考えられる。生産体制については,奈良三彩が中央官営工房生産とみられるのに対して,平安緑釉陶では各地の在地生産を基盤にしつつ,中央からの品質規定のもと国衙が生産に関与する体制であったと判断できる。それは,中央から地方への技術委譲であり,窯業生産技術において奈良時代まで続いてきた畿内優越状況が終焉を迎え,畿外卓越化へと向かう転換点になったものといえる。最後に,技術導入過程については,白鳳期の緑釉技術が朝鮮半島系であり,特にその故地として百済が最も妥当と推測した。そして,百済滅亡前後の混乱の中で日本への亡命者が伝えた可能性を挙げた。続く奈良三彩は,前代からの鉛ガラス・鉛釉の技術を持っていた工人(玉生)が遣唐使として派遣されて,唐三彩の部分的技術を移入したものと想定した。奈良三彩は,日本在来の素地成形技術の上に,朝鮮半島系の施釉基礎技術と中国系の三彩技術が重なって成立したものといえる。
フラッヘ, ウルズラ Flache, Ursula
本論文ではドイツ語圏の神仏分離研究の三つの側面を扱う。序論として「神仏分離」の独訳に関する問題点を述べる。第1ポイントとして,ドイツおよび欧米の日本研究におけるこれまでの神仏分離の扱いについて概略を記す。神仏分離が一般の歴史著作や参考図書で取り上げられるようになったのは最近の動きである。明治時代における神道研究では二つの傾向が見られる。一つは客観的批評する研究者(シュピナー,チェンバレン),もう一つは国家神道の視点を引き取る研究者(アストン,フロレンツ)。第二次大戦前の指導的な神道研究者(グンデルト,ボーネル,ハミッチュ)がナチスのイデオロギーに近い視点から研究結果を発表したため,戦後には神道についての研究がタブー視され,当分の間完全に中止となった。1970年代に出版されたロコバントの研究に続いて,1980・90年代にいくつかの神仏分離に関する研究文献(グラパード,ハーディカ,ケテラー,アントーニ)が発行された。最近の研究(ブリーン,サール,アンブロス,関守)ではケーススタディーや地方史が注目される傾向にある。ドイツには宗教改革時代の偶像破壊という,明治時代の日本の神仏分離と非常によく似た出来事があったために,ドイツの研究者は神仏分離に特別な関心を寄せている。そこで,第2のポイントとして,ヨーロッパにおける宗教改革と絡めて偶像破壊運動を詳しく取り上げ,ヨーロッパの宗教改革と日本の廃仏毀釈の比較を行う。共通点として両者が宗教的美術に大きな障害をもたらした改革運動であることが挙げられる。相違点としてヨーロッパにおける宗教改革が宗教的な動機をもった運動で,神仏分離が政治的な動機をもった政策であった。終わりに第3ポイントとして,簡単に筆者の個人的な意見をまとめ,神仏分離が実際どの程度「成功」したのか,そして神仏分離の今日の日本における意味を考察する。
小林, 青樹 Kobayashi, Seiji
弥生集落の景観形成にあたって重要であるのは,絵画の分析から,第1に集落の中枢に位置する祭殿と考える建物(A2・A3)の存在であり,この祭殿を中心として同心円状に景観を形成している。そして,第2に重要であるのは,祭場をもつ内部と外部を区別化する環濠である。本論では後者を中心に検討した。平野部の環濠集落のなかには,環濠が河川と接続するものがあり,水をたたえた環濠はむしろ河川を象徴化したものであると考えた。環濠は,境界・結界を現す区別化の象徴である。このあり方と連動して,絵画の中には,それぞれの空間における儀式・儀礼に,景観形成で確認した「辟邪」を意図した図像や身体技法をも表現している。弥生集落の景観は,こうした各々の儀式や儀礼に一貫した約束事である「儀礼的実践」を根底におき形成されていたと考える。環濠の境界・結界としての象徴的意味は,銅鐸の埋納・絵画・文様の意味とも相同関係にある。いずれも辟邪としての機能をもち,銅鐸は境界・結界に埋納され,鋸歯文のような文様自体も辟邪の象徴であり,それは祭殿の飾り文様としても機能した。その後鋸歯文は,古墳時代の柵形埴輪の飾りにも引き継がれ,祭場を区別化する境界・結界の象徴として機能した。弥生集落で確認した祭場を中心とした景観形成は,古墳時代に一般集落からの祭場の分離独立という変化を経るが,その根底の儀礼的意味と儀礼的実践は形を変えながらも継承されたと考える。
楊, 海英
アメリカの社会学者ポーリン・ボスPauline Boss はベトナム戦争やカンボジア戦争で行方不明と宣告された兵士らの家族を対象に研究した結果,「曖昧な喪失」Ambiguous Loss という概念を打ち出した。いわゆる「曖昧な喪失」には二つのパターンがあり,第一のタイプは死んでいるかそれとも生きているか不明瞭な為,人々が家族成員によって身体的には不在であるが,心理的には存在していると認知される場合である。第二のタイプは人が身体的に存在しているが,心理的には不在であると認められたケースで,アルツハイマー病などがその例証とされている。 私は本論文において,中国内モンゴル自治区のモンゴル人たちを「曖昧な喪失」感に陥った集団だと定義している。彼らは人口の面では少数派でありながら,政策的には「主体民族」とされている。文化大革命など過酷な政治運動を経験してきた彼らは,同胞の国たるモンゴル国への憧れも政治的には危険な行動とされている。本論文はこのような「曖昧な喪失」感に包まれている内モンゴル人を対象とした際に,どのような民族誌が作成可能かを探ろうとするものである。具体的な事例として「ラクダの火をまつる儀礼」をとりあげている。この儀礼には「牧畜儀礼」的な側面と,「拝火信仰」的な側面,という二つの性質がある。儀礼に使用される供物と儀礼の流れを詳細に検討し,またモンゴル人が「ラクダの火」を「生命の火」と呼んでいることなどから,古い「原初の火」崇拝の要素が確認できた。 「曖昧な喪失」に陥った個々のクライエントたちに対し,共同体や国家レベルでの癒しが必要不可欠であるとされている。同様に,「曖昧な喪失」感に包まれた集団や民族の場合だと,民族文化の復興が有効な「癒し」の一つとなる。「ラクダの火をまつる儀礼」を近年から復活させたモンゴル人たちにもそのような強い意識が確認できる。こうした中,現地出身の私,つまりネイティブ人類学者の私は,復活された民族文化に積極的に関わっていくことになった。
近藤, 好和
本稿は、これまで研究のなかった天皇装束から上皇装束へ移行する転換点となる布衣始(ほういはじめ)という儀礼の実態を考察したものである。 第一章では、布衣始考察の前提となる天皇装束と上皇装束の相違をまとめた。公家男子装束は必ず冠か烏帽子を被り、冠対応装束と烏帽子対応装束に分類できる。天皇は冠しか被らず、冠対応装束のうち束帯と引直衣という特殊な冠直衣だけを着用した。一方、上皇は臣下と同様に烏帽子対応装束も着用した。かかる烏帽子対応装束の代表が布衣(狩衣)であり、布衣始とは、天皇譲位後初めて烏帽子狩衣を着用する儀礼である。 ついで宇多から正親町まで(一部近世を含む)のうち上皇だけを対象として、古記録を中心とする諸文献から布衣始やそれに関連する記事を抜き出し、第二章平安時代(宇多~安徳)、第三章鎌倉時代(後鳥羽~光厳)、第四章南北朝時代以降(後醍醐~正親町)の各時代順・各上皇順に整理して、布衣始の実態を追った。 天皇装束と上皇装束の相違は摂関期から認識されていたが、上皇が布衣を着用するという行為が意識されるようになるのは高倉・後白河からであり、それが布衣始という儀礼として完成し、天皇退位儀礼の一環として位置づけられるようになるのは鎌倉時代、特に後嵯峨以降である。さらに南北朝時代には北朝に継承され、室町時代には異例が多くなり、上皇のいない戦国時代を経て、江戸時代で復活するという流れがわかった。 最後に、布衣始が院伝奏や院評定制といった院政を運営する制度と同じく後嵯峨朝で完成した点に注目し、布衣始の成立と定着もかかる流れの一環として理解することができ、布衣始が伝奏や評定が行われた院政の中心的場である仙洞弘御所で行われたことから、布衣始は院政開始儀礼であり、布衣という装束を媒介として天皇の王権から上皇(「治天の君」)という新たな王権への移行を可視的に提示する儀礼であったという見通しを述べた。
山里, 純一 Yamazato, Junichi
旱魃は人間の生存を脅かす最たるものの一つである。気象学や科学技術が発達した現代においてさえ、降雨は自然に委ねる他はないが、これを人間の力を越えたものに頼って雨を得ようとする行為が雨乞いである。雨乞いは地域共同体や行政レベルで行われ、一定の儀礼を伴うが、本稿は宮古・八重山を中心に、沖縄本島の中北部および久米島の事例も参照しながら沖縄における地方の雨乞い儀礼について、概観したものである。
Gushiken, Gabriela Tamy グシケン, ガブリエラタミー
祖先崇拝は,沖縄の移民家族によって海外でも行われている沖縄の伝統的な宗教の一部です。移民のプロセスは宗教の活動に影響を与え,受入社会の要素が組み込まれました。ブラジル・サンパウロ市に住んでいる沖縄からの移民家族が実践する祖先崇拝の儀式を観察し,参加することで民族誌的研究を行いました。本論は,祖先崇拝の実践における移民のプロセスの影響と,家族およびコミュニティのダイナミックスにおける実践の役割を調査することです。
上野, 和男 Ueno, Kazuo
この小論は,会津農村のトリアゲジイサン・トリアゲバアサン,茨城県のインキョムスコ・インキョムスメ,および五島の名取り慣行をとおして,日本の隔世代関係,すなわち祖父母と孫の関係の構造とその社会的意義を明らかにし,さらに隔世代関係をつうじて日本の直系型家族や隠居制家族の構造を考察しようとするひとつの試論である。日本の隔世代関係についての社会人類学,社会学などの研究は,親子関係,夫婦関係に関する圧倒的な質量の研究に比較してきわめて少なく,この分野の研究は大幅にたちおくれているのが現状である。会津農村のトリアゲジイサン・トリアゲバアサンとトリアゲッコの間の儀礼的隔世代関係は,儀礼的孫の出生にあたって儀礼的祖父母が立ち会い,逆に儀礼的祖父母の死にあたって儀礼的孫が重要な役割を果たすことに示されているように,祖父母の世代と孫の世代の交代をもっともよく象徴する慣行である。茨城県の隠居制家族における隠居孫は,隠居制家族内部における家族的統合に祖父母と孫の関係が,きわめて重要な役割を果たしていることを示す慣行である。さらに長崎県五島の名取り慣行は祖父母の世代の個人名を孫の世代が継承することによって,祖父母の世代と孫の世代との間に親密な関係を設定する慣行である。またこの親密な関係をとおしてヤウチとよばれる双性的親族関係の維持とスムーズな運営が確保されているのである。隔世代関係をめぐるこれらの慣行の分析からあきらかなことは,親子関係と隔世代関係の明確な構造的差異である。親子関係は上下関係を特質とし,基本的に対立を内包する関係であるが,隔世代関係は世代的に交代する者の間の親密な関係がより強調され,家族統合においても重要な役割を果たしている。したがって日本人は親子関係と隔世代関係に異なった意味づけを与えていることは明らかである。
門田, 岳久 Kadota, Takehisa
本論の目的は,第一に,「文化資源化」「宗教の商品化」といった概念を用いて,現代日本における巡礼ツーリズム(半ば産業化された巡礼)の成立と地域的展開の民族誌的記述を行うことであり,第二に,市場経済や消費社会の文脈上に生成される「宗教的なるもの」を記述していく作業が,日常生活の全体を描こうとする現代民俗学的な宗教研究において,いかなる理論的貢献をなすものなのか明らかにすることである。本論はマクロからミクロへとスコープを絞っていく記述方式を採る。まず,20世紀初頭以降の日本において,「観光」という行為形式が人々に広まっていくマクロな状況を背景に,巡礼が生活世界における慣習的習俗から脱埋め込みをなされ,文化産業によって,人々が自由選択可能な「商品」としての巡礼ツーリズムへと転化するプロセスを描く。次に,宗教的習俗の商品化が,よりローカルな社会空間において具体化していく姿を示すために,新潟佐渡地方における調査事例から,地元巡礼産業の営業活動と,そこに参与する巡礼者たちの日常的実践を記述していく。ここに観察されるのは,資源化=脱埋め込みによってもとの文脈を離れた諸要素が,巡礼産業の地域活動と巡礼経験者の諸実践を媒介することで,再び日常の文脈に再埋め込みされていくプロセスである。一見「信仰」が盛んであるように見える佐渡の巡礼ではあるが,人々の宗教的経験を可能としているのは地域的伝統であるというよりも,このように巡礼諸産業に下支えされた市場経済的構造である。従って生活論としての現代民俗学は,空間的に境界付けられた小地域(村)を記述の外延として設定し,その内部の出来事をただ描くだけでは不十分である。「文化資源化」は,観察対象が「全体」においていかなる布置を見せているのかという,ミクロとマクロの相互反照性を常に考慮すべきことを,我々に要求する概念なのである。
小松, 和彦
高知県香美市の山間地域、旧物部村(この村の南半分が近世の槇山郷である)には、いざなぎ流と呼ばれる民俗宗教が伝承されている。いざなぎ流は、神道、陰陽道、修験道、シャーマニズム、民間信仰などが混淆した宗教で、その宗教的専門家はいざなぎ流太夫と呼ばれている。本稿は、このいざなぎ流太夫たちの先祖たちが関与していたと思われる「天の神」の祭り、特に岡内村の名本家の天の神祭りを詳細に記述し若干の考察をすることを目的としている。 本稿は八つの部分から構成されている。一章では、現在の「天の神」祭祀のラフ・スケッチを試みている。二章では、物部村の風土を紹介している。三章と四章では、いざなぎ流の伝承形態と各種の祭祀の概略を紹介している。五章では、江戸時代の終わり、文化十二(一八一五)年に、岡内村の岡内幸盛が著した「柀山風土記」によりながら、岡内村の天の神祭りがどのように行われていたのかを記述している。六章では、この祭りを執行した宗教者たちが誰であったかを考察している。七章では、この岡内の天の神祭りがいつ頃までさかのぼることができるか、その祭りの知識を管理し執行する宗教者の系譜はどこまで遡ることができるかといった歴史的な考察をおこなっている。八章は結論で、この祭りが太陽と月を神格化した「天の神」を祭るものであるとともに、「大将軍」とよばれる「戦さ」の神としての性格を併せ持っていることから、その起源を戦国時代(長宗我部時代)にまで遡ることができるのではないかと推測している。
梅原, 猛
アニミズムはふつう原始社会の宗教であり、高等宗教の出現とともに克服された思想であると考えられている。タイラーの「原始文化」がそういう意見であり、日本の仏教はもちろん、神道もアニミズムと言われることを恥じている。しかし私は、日本の神道はもちろん、日本の仏教もアニミズムの色彩が強いと思う。それに、アニミズムこそはまさに、人間の自然支配が環境の破壊を生み、人間の傲慢が根本的に反省さるべき現代という時代において、再考さるべき重要な思想であると思う。
鈴木, 正崇 Suzuki, Masataka
長野県飯田市の遠山霜月祭を事例として、湯立神楽の意味と機能、変容と展開について考察を加え、コスモロジーの動態を明らかにした。湯立神楽は密教・陰陽道・修験道の影響を受けて、修験や巫覡を担い手として、神仏への祈願から死者供養、祖先祭祀を含む地元の祭と習合して定着する歴史的経緯を辿った。五大尊の修法には、湯釜を護摩壇に見立てたり、火と水を統御する禰宜が不動明王と一体になるなど、修験道儀礼や民間の禁忌意識の影響がある。また、大地や土を重視し竈に宿る土公神を祀り、「山」をコスモロジーの中核に据え、死霊供養を保持しつつ、「法」概念を読み替えるなど地域的特色がある。その特徴は、年中行事と通過儀礼と共に、個人の立願や共同体の危機に対応する臨時の危機儀礼を兼ねることである。中核には湯への信仰があり、神意の兆候を様々に読み取り、湯に託して生命力を更新し蘇りを願う。火を介して水をたぎらす湯立は、人間の自然への過剰な働きかけであり、世界に亀裂を入れて、人間と自然の狭間に生じる動態的な現象を読み解く儀礼で、湯の動き、湯の気配、湯の音や匂いに多様な意味を籠めて、独自の世界を幻視した。そこには「信頼」に満ちた人々と神霊と自然の微妙な均衡と動態があった。
古瀬, 奈津子 Furuse, Natsuko
日本古代における儀式の成立は,律令国家の他の諸制度と同様に,唐の影響なしには考える事はできない。しかし,律令の研究に比べると,唐礼の継受のあり方や唐礼との比較研究は遅れている状況にある。そこで,本稿においては,地方における儀礼・儀式について取り上げ,規定・実態の両面から唐礼との関係を考察し,唐礼継受の一側面を明らかにしたい。まず,平安時代初期に編纂された日本の儀式書には,唐礼とは異なり,地方の儀礼・儀式に関する規定がないことについて,その背景として,唐と比較すると日本の支配構造が中央集権的ではなく,官僚制が地方の末端まで徹底せず国司に委任された部分が多いことを指摘し,そのため中央で地方の儀礼・儀式の細則まで規定しなかったことを述べた。特に,平安初期以降は地方政治の国司請負体制が成立するので,この傾向はより顕著になる。地方における儀礼・儀式の細則については,平安初期以降,国ごとに国例が作成されたと考えられるが,日本の場合,諸国の例にあわせて国例が作られるため,中央で一律に統制しなくとも実際には大きな違いはなかったと推測される。次に,地方における儀礼・儀式の実態をみていくと,『大唐開元礼』の将来や,遺唐使の実地の見聞が蓄積されたことなどによって,中央においては奈良時代末から平安時代初期にかけて儀式と儀式の場の唐風化が進み,唐礼継受の第2期を迎えるが,地方においても同様な状況を指摘できる。「下野国府跡出土木簡」にみえる「政始」の儀式が,『大唐開元礼』巻126の地方官初上儀の「判三條事」を継承したものであること,9世紀には国庁の前殿が消滅し,前庭が拡大したことなどをあげ,国司が儀式の唐風化を地方へ持ち込んだことを指摘した。
村井, 康彦
日本人の宗教意識を探る試みは、近時における宗教ブームのなかでいよいよ盛んだが、日本人の宗教的な精神風土の原郷を平安時代に求めることは、決して間違っていないし、重要な仕事であろう。なかでも仏教界の方からはじまった、いわゆる神仏習合がこの時代にひろがり、社会的な影響を及ぼしはじめたことの意味は大きい。興味深いのは、そうした神仏習合の進むなかで神祇側が覚醒し、さまざまなリアクションを起こし、神祇の世界に波紋を投じている事実である。本稿はそのことを、中央の神祇氏族であった中臣・忌部両氏の動向と、地方神祇の主体となった国守(都から下った地方長官)の動向とを、その結節点となった国庁(各国におかれた地方政庁、その長官が国守)の神祇施設である「国庁神社」の歴史を辿るなかでとらえ、九―十世紀における、中央・地方にわたる神祇界の変動の実態とその背景を探ったものである。
長崎, 広子
インドの聖地バナーラスの対岸にある町ラームナガルでは,毎年ラーマ物語の野外劇ラーム・リーラーが藩王によって開催され,これは北インドで最も壮麗な宗教劇として知られている。熱狂的な祭は1 ヶ月間続き,期間中ラーマ神をはじめとするヒンドゥー教の神々が町に滞在し,華麗な遊戯を繰り広げると考えられている。町全体が神々の世界をうつす劇場となり,ヴィシュヌ神の5人の化身を演じる少年は文字通り神として扱われる。本稿は,ラームナガルのラーム・リーラーの祭をとりあげ,そこにみられる演出,演技,劇空間,時空の特色,さらには祭の背景にある宗教的な教化の意味や藩王の支配力に関する研究資料として提供しようとするものである。
仁藤, 敦史
殯とは本来、死者の復活を願いながらも、遺体の変化を確認することで最終的な死を確認するという両義的な儀礼であった。六世紀以降、モガリは特権的な儀礼として神聖化され、この期間中に合意形成により後継者を決定するということが一般化し、皇位継承と深い関係を有するようになった。本稿の目的は、古代における殯宮儀礼の主宰者と考えられるオオキサキ(大后)の役割を解明し、女帝即位への道筋を考えることにある。殯宮の儀礼については、和田萃氏が一九六九年に発表された「殯の基礎的考察」という論考が通説的位置を占める。巫女的な「中継ぎ」女帝即位に連続する「忌み籠もる女性のイメージ」を前提に、女(内)の挽歌と男(外)の誄のように内外に二分された殯宮のあり方を提起している。しかしながら、殯宮における「忌み籠もる女性」の存在については批判も多く、和田氏のモガリ論はそのままでは成り立ちにくくなっている。モガリに奉仕するのは女性に限らなかったが、多くの場合元キサキのうちで相対的に上位なキサキが政治的モガリを主宰するとともに、大王空位の期間においては権力的な命令(詔勅)が可能であり、後に「大后」の尊称が与えられたと考えられる。大王空位時における、権力的編成のあり方として、推古や持統に典型的なように、政治的な長期にわたるモガリの主宰・次期大王の指名・大王代行というステップを昇り、その連続性のうえに女帝の即位を位置付けることは、非常時の安全弁としての役割として重要である。
Akamine, Kenji 赤嶺, 健治
The Leatherwood God (1916) はHowells 晩年の労作であり、宗教に関する彼の最後の重要ステートメントと目されている。この小説で Howells は、1820年代に 0hio 州の辺境 Leatherwood で、自らを神と名乗る詐欺師 Dylks に生活の平和を乱される住民の苦境を描き、より良い人間の育成とより良い社会の建設に貢献しない宗教に対する手きびしい批判を展開している。従来この村のキリスト教徒達は宗派を超えて協力一致し、同じ教会を共用してきたが、勢力を増した新 Dylks 教の信者達に教会から締め出され、内部抗争と分裂に追いやられる。聖書の数えを守り愛の絆で結ばれていた隣人達や親子兄弟も、Dylks 教の教義のことで口論し、多数が反目しあい、離散するようになる。Howells は啓示宗数が Dylks 教のように、当事者達の自己欺瞞・自己妄想および集団妄想から生まれる可能性があることを示唆し、制度化し組織化された宗教の独善的教義、宗派対立や分裂、道徳的義務の等閑視に批判の矛先を向け、きびしく糾弾している。
永渕, 康之
1980年代,インドネシアにおけるヒンドゥーはバリ島からの脱領域化を経験している。すなわち,バリ島以外のヒンドゥーがバリ島のヒンドゥーよりも多数をしめるという認識がヒンドゥー内部で広まり,バリ島以外のヒンドゥーの組織化がすすみ,発言力を増しているのである。従来,ヒンドゥーはバリ島のバリ人が多数をしめることを前提として,宗教行政におけるヒンドゥーに関する制度は整備されてきた。ヒンドゥーのバリからの脱領域化はその歴史を塗り替えるとともに,バリ中心主義批判をともなうものであった。すなわち,バリの共同体をあらかじめ前提として形成されたヒンドゥーをめぐる制度の限界が指摘されはじめたのである。2001年,バリにおけるヒンドゥー代表機関の分裂という劇的なかたちで批判は表面化した。本論の第一の目的は,ヒンドゥーの脱領域化がどのようにして起こり,批判の内実はいかなるものであり,何をもたらしたかを明らかにすることである。脱領域化が生み出した最大の変革はヒンドゥー内部における価値の多元化である。市民社会の実現や多様な声に開かれた民主的立場の強調といった従来なかった宗教の公共的役割をヒンドゥーの団体は意識しはじめた。こうした傾向は,スハルト体制の崩壊過程において顕在化した「改革」と並行するものであるとともに,公共宗教という枠組みにおいて論じられている近年の宗教運動の高まりをめぐる議論と呼応するものである。しかし,民主的ヒンドゥーという主張のもとに結集した多様な声のあり方を見た場合,市民社会や民主主義といった課題を参加主体が共有しているわけでは必ずしもない。むしろ,個々の主体は個別の要求を掲げており,しかも互いの主張において各主体は時には対立している。ヒンドゥーは決して同じ価値を共有する単一の閉じられた領域ではなく,むしろきわめて不連続な主体によって構成されているのである。不連続な主体による異なる主張がヒンドゥーという枠組みにおいて接合されている現実に焦点をあて,そのなかで宗教をめぐる諸価値がどのように問われているのかを明らかにすることが本論の第二の目的である。
立石, 謙次 TATEISHI, Kenji
本報告では、今回、中国雲南省大理州巍山県での碑刻資料から収集した拓本資料の中から特に数点を紹介する。そして、これら資料の、従来不明な点の多かった16‐18世紀巍山周辺での仏教・道教などの中国系宗教研究における有用性について述べていく。
杉本, 秀太郎
「植物的なもの」とは、私の美的経験および宗教的経験を分析するにさいして私の用いた方法である。この一文は、私の方法への自註として書かれた。
津曲, 真一
シェンラプ・ミボは,古代チベットの精神伝統を現在に伝えるポン教の最も重要な聖者とみなされている。ポン教徒にとってシェンラプ・ミボは,人々を輪廻から解脱へと導く慈悲深い導師であり,その生涯を描いた聖伝や宗教画は,彼らの崇拝対象であると同時に,信仰生活の規範ともなっている。 本稿は,中国青海省のポン教寺院,ポンギャ寺で実施された調査を通じて蒐集された51 枚の宗教画のうち,トンパ・シェンラプ・ミボチェの生涯を描いた6 枚の宗教画(タンカ)について,ポン教の代表的な聖典の一つである『セルミク』を所依とし,その図像の記述・解説を試みるものである。シェンラプの生涯を描いた伝記,及び,彼の生涯を描いたタンカに関する研究は未だ僅少であり,ポンギャ寺に所蔵されるシェンラプ伝のタンカが紹介されるのも今回が初めてとなる。そのため,本研究はポン教のタンカに関する図像学上の意義を有するとともに,今後のシェンラプ伝研究にも着実な基礎を与えるものになると思われる。
磯前, 順一 Isomae, Jun'ichi
亀ケ岡文化は,主な規定要素である材質・身体性・文様表現の共有性と排他性を操ることによって,各形式相互の関連性を考慮しながら各宗教遺物の形式属性を決定していた。このことは,当時の社会が各宗教遺物をつらぬく統一的な意図をもっていたこと,さらにはそこに何らかの構造が存在していたであろうことを暗示している。そして,亀ケ岡文化は東北地方全域に共通するような基本構造を前提としながらも,さらにその内部の各地域がそれぞれその基本構造の構成要素の改変をおこない,自地域特有の独自性をだそうとしていた。それに対して,関東地方はその宗教遺物の構成が,亀ケ岡文化との共通性を強くもちながらも東北地方内の各地域と間の差異とは同列に扱えない地域といえる。現在,6遺跡8点を数える関東地方以西の屈折像土偶は,後・晩期の立像土偶との関係において東北地方に類似した傾向を示すが,最終的な評価は関東地方あるいは近畿地方での文化構造のなかに占める位置によって論じられるべきだろう。
白石, 太一郎 Shiraishi, Taichiro
古墳時代前期から中期初めにかけての4世紀前後の古墳の埋葬例のうちには,特に多量の腕輪形石製品をともなうものがある。鍬形石・石釧・車輪石の三種の腕輪形石製品は,いづれも弥生時代に南海産の貝で作られていた貝輪に起源するもので,神をまつる職能を持った司祭者を象徴する遺物と捉えられている。したがって,こうした特に多量の腕輪形石製品を持った被葬者は,呪術的・宗教的な性格の首長と考えられる。小論は,古墳の一つの埋葬施設から多量の腕輪形石製品が出土した例を取り上げて検討するとともに,一つの古墳の中でそうした埋葬施設の占める位置を検証し,一代の首長権のなかでの政治的・軍事的首長権と呪術的・宗教的首長権の関係を考察したものである。まず,一つの埋葬施設で多量の腕輪形石製品を持つ例を検討すると,武器・武具をほとんど伴わないもの(A類)と,多量の武器・武具を伴うもの(B類)の二者に明確に分離できる。前者が呪術的・宗教的首長であり,後者が呪術的・宗教的性格をも併せもつ政治的・軍事的首長であることはいうまでもなかろう。前者の中には,奈良県川西町島の山古墳前方部粘土槨のように,その被葬者が女性である可能性がきわめて高いものもある。次に両者が一つの古墳のなかで占める位置関係をみると,古墳の中心的な埋葬施設が1基でそれがB類であるもの,一つの古墳にA類とB類の埋葬施設があり,両者がほぼ同格のもの,明らかにB類が優位に立つものなどがある。それらを総合すると,この時期には政治的・軍事的首長権と呪術的・宗教的首長権の組合せで一代の首長権が成り立つ聖俗二重首長制が決して特殊なものではなかったことは明らかである。また一人の人物が首長権を掌握している場合でも,その首長は大量の武器・武具とともに多量の腕輪形石製品をもち,司祭者的権能をも兼ね備えていたことが知られるのである。
坂江, 渉 Sakae, Wataru
小稿は,石母田正氏の研究を踏まえながら,『播磨国風土記』の地名起源説話にみえる「国占め」神話に光りをあて,その前提にある祭祀儀礼の中身と,古代の地域社会の実像解明に迫ることにした。その考察結果は,つぎの通りである。まず「国占め」神話は,『出雲国風土記』の「国引き」神話のような広大な領域の支配に関わる神話ではなく,事実上,村の「土地占め」神話と理解される。それは古代の族長層が,その土地(クニ)内部に住まう人(農民)たちを支配するためおこなっていた定期的な祭祀儀礼の中身を反映したものであった。史料から読み取れる具体的儀礼の中身としては,1つに,春先の稲作の予祝行事の一環として族長がその土地に杖を衝き立て,支配権と勧農権の可視的確認をおこなうセレモニーがあった。また5月の初夏の頃,「クニ」内部の農民たちを祭場に集め,彼らに対して,シカの血を付した「斎種」を分与,下行する勧農行事があった。さらに3つ目として,前2者の行事を前提として,秋の収穫期になると,見晴らしのよい高台などにおいて,神がかりした族長がその「クニ」の農民たちが作り,差し出した「飯」を食し,それを通じて人々に対する支配権を社会的に誇示・確認する行事があった。旧来の古代村落論では,村ごとの祭りのあり方をめぐり,儀制令春時祭田条などの史料にもとづき,「村首(むらのおびと)」や「社首(やしろのおびと)」などの族長層の祭り(季節的には春の祭り)の準備過程における経済的収取活動,あるいは祭礼の共同飲食の場への参加などの問題に関心が寄せられてきた。しかし風土記の「国占め」神話に眼を向けてみると,支配や領有関係を可視的に確認・強化させる目的の農耕祭祀儀礼そのもの,しかもそれが複数存在していたことが浮かび上がってきた。
門田, 岳久 Kadota, Takehisa
本論文は消費の民俗学的研究の観点から、沖縄県南部に位置する斎場御嶽の観光地化、「聖性」の商品化の動態を民族誌的に論じたものである。二〇〇〇(平成一二)年に世界遺産登録されたこの御嶽は、近年急激な訪問者の増加と域内の荒廃が指摘されており、入場制限や管理強化が進んでいるが、関係主体の増加によって御嶽への意味づけや関わり方もまた錯綜している。例えば現場管理者側は琉球王国に繋がる沖縄の信仰上の中心性をこの御嶽に象徴させようとする一方、訪問者は従来の門中や地域住民、民間宗教者に加え、国内外の観光客、修学旅行客、現場管理者の言うところの「スピリチュアルな人」など、極めて多様化しており、それぞれがそれぞれの仕方で「聖」を消費する多元的な状況になっている。メディアにおける聖地表象の影響を多分に受け、非伝統的な文脈で「聖」を体験しようとする「スピリチュアルな人」という、いわゆるポスト世俗化社会を象徴するような新たなカテゴリーの出現は、従来のように「観光か信仰か」という単純な二分法では解釈できない様々な状況を引き起こす。例えばある時期以来斎場御嶽に入るには二〇〇円を支払うことが必要となり、「拝みの人」は申請に基づいて半額にする策が採られたが、新たなカテゴリーの人々をどう識別するかは現場管理者の難題であるとともに、この二〇〇円という金額が何に対する対価なのかという問いを突きつける。古典的な枠組みにおいて消費の民俗学的研究は、伝統社会における生活必需品の交易と日常での使い方に関してもっぱら議論されてきたため、情報と産業によって欲求を喚起されるような高度消費社会的な消費実践にはほとんど未対応の分野であったと言える。しかし斎場御嶽に明らかなように、信仰・儀礼を含む既存の民俗学的対象のあらゆる領域が「商品」という形式を介して人々に経験される時代において、伝統社会から「離床」した経済現象としてこれを扱うことは、現代民俗学の重要な課題となっている。
小澤, 輝見子 Kozawa, Kimiko
滋賀県東近江市妹町の春日神社のユキカキ祭は、その儀礼から、密接に水利慣行に繋がるとされ、中世期に一つの庄園であった四町で組織される、いわゆる宮座の祭という歴史性にも注目されている。これまで、近江湖東地方における「郷祭」は、用水で繋がる「井郷」によるものとの見解が多くの研究者に提出され、さらに実証されてきたが、土地整理の結果、水利関係が消滅した地域の祭の現在の状況には触れられてこなかった。当報告では、水利権は祭の儀礼と実際に適応するのか、そして灌漑施設の発達により水という枠組を失った祭は、何を紐帯に結合しているのかを追った。結果、実際の水利権に適応していなかったこの祭は、現在においては「水」という語りさえ消滅していることが理解できた。しかし代わりに中世期の当地の歴史が注目され、様々な改変が儀礼に組み込まれ続けている。現在の郷祭は、過去から現在にわたる変革が混じりあった非常に重層的な形となって連続し、変遷する中、伝承もその時代に必要で的確な「意味」が何度も組み変わっていくのである。
高久, 健二
本論文は韓国慶尚北道慶州市に位置する皇南大塚の築造工程と古墳で執り行われた埋葬・儀礼行為を検討することによって,5世紀代の新羅の大型積石木槨墓における埋葬プロセスを総合的に復元し,その特徴と意義について考察したものである。皇南大塚を検討した結果,大型積石木槨墓の埋葬プロセスは大きく3段階にわたって進行したことが明らかとなった。まず,第1段階は1次墳丘と埋葬主体部の構築,および被葬者の埋葬,副葬品の埋納行為が行われる段階であり,木槨の構築,木槨側部積石部の構築,1次墳丘の構築が同時併行で行われたものと推定した。また,この第1段階には被葬者の埋葬行為にともなう古墳築造の中断面が存在し,大型積石木槨墓は被葬者の埋葬行為が築造工程の過程で行われる「同時進行型」古墳であることを示している。第2段階は1次墳丘の密封行為が行われる段階であるが,その最後に儀礼が行われた古墳築造の休止面が存在しており,1次墳丘上面が埋葬プロセスにおける重要な儀礼の場であったことを示している。第3段階には2次墳丘の構築が行われており,古墳構築の最終段階の工程と儀礼が行われる段階である。積石木槨墓は埋葬行為が行われる段階には,すでに1次墳丘が築かれており,地下式木槨墓のような典型的な「墳丘後行型」古墳とは,埋葬・儀礼行為が行われる場が異なっていた。また,皇南大塚南墳と北墳は相互に継承関係があることは明らかであるが,南墳と北墳の被葬者が夫婦である可能性は低く,5世紀代の新羅では夫婦合葬が普及していなかったと推定される。大型積石木槨墓は原三国時代後期から続く木槨墓の最終形態であるとともに,厚葬墓の頂点に位置づけられる墓制である。皇南大塚南墳は古墳規模や副葬品の質・量だけでなく,埋葬プロセスの複雑性においても大きく飛躍しており,皇南大塚南墳が新羅王陵の出現を,北墳がその確立を示している。
田中, 稔
墓地空間には,大きく2種類の近世石造物が存在する。1 つ目は,墓地設備である。村落単位などで行われる葬送儀礼のうち埋葬前の最後の儀礼に使用するために製作された公的なものである。2つ目は,墓標である。墓標は墓地の大部分を占めており,個人または家単位で造立されるものである。 本稿では,同時期に造立されつつも性格を異にする墓地設備と墓標の使用石材に着目し,近世石造物の石材利用について検討を行う。墓地設備については,先行調査地域である奈良市北東部・三重県名張市で墓地設備の使用石材に関する調査を実施し,その結果,在地または近接地域で採れる凝灰岩・花崗岩の使用がみられた。一方,墓標には,搬入石材である和泉砂岩の使用が指摘されており(朽木,2004;佐藤,2009),同時期に造立され大量生産が必要な墓標と墓地に1 つ単位で造られる墓地設備では異なる石材を使用することが分かった。 これは,墓地設備を伴う葬送儀礼が地域に根付くものであるため搬入石材ではなく,地域で採れる石材を使用することに意味を見出したのではないかと考えられる。
朱, 捷
見立ては、つきつめて言えば、異なる事象たる甲と乙との間に共通した要素を見つけることである。それは、身ぶりしぐさなどの生活の知恵としての見立てから、芸術表現の様式としての見立てまで、幅が広い。美学的価値から言えば、それは大きく二つのレベルに分けることができる。一つは、おもに甲と乙との間の外面的、知的な共通要素を媒介とする見立てである。いま一つは、甲と乙との間の内面的、情趣的な共通要素を媒介とする見立てである。前者は、一般に言う譬喩に近く、比較的素朴で、日常的であるのに対して、後者は、芭蕉の配合に近く、より奥深くて芸術的である。従って、日常生活から芸術表現まで幅広く認められる見立ての究極的な境地は、内面的、情趣的な要素による異質な事象観の配合にあると言える。配合は、内面的、情趣的な要素を媒介にしている上に、素材感に連鎖を与えずに並列させるため、素材間の飛躍が大きくなり、飛躍が大きければ大きいほど、思いがけない新鮮なイメージが躍動してくる。 見立てと配合は、単に芸術の領域にとどまらず、日本の思想や宗教の一般的な特徴にもつながるように思われる。例えば、日本の宗教に悪魔を神に転化するメカニズムが特に顕著にみられるが、これも悪魔のような異質な物に、人間の利益に合致する要素を見つける、一種の見立てである。また、日本にはさまざまな宗教が錯綜しており、一般の日本人でいくつもの異なる宗教をかけもちで関係していることは珍しくない。こうしたことを可能にしているのは、日本人の深層に、異質な物に共通した因子を認め、異質のままに共存させる柔軟な配合の精神が潜んでいるからだと考えられる。
松村, 和歌子 Matsumura, Wakako
春日社の宗教的分野での研究は、祭礼に集中しがちだが、祈祷や祓といった日常的な宗教活動こそ、宗教者と社会との関わりを考える上でむしろ重要だと考えられる。近年、春日社の下級祀官である神人が中世後期から灯籠奉納や祈祷などを通じ、日常から御師として崇敬者と深い関係を築いたことが明らかにされているが、こういった師壇関係の形成は、上級祀官である社司を嚆矢とし、その開始は、少なくとも平安時代末に遡る。本論考は、社司を中心に中世の春日社祀官の私的な祈祷への関わりなど、日常的な宗教者としての営みを出来るだけ具体的に論述しようとしたものである。❶章社司における御師活動の萌芽、❷章社司の御師活動の展開では、平安末から貴族の参拝・奉幣の際、社司が中執持ちとして祝詞奏上を行うようになり、日常から師檀関係を結ぶこと、同時期に宗教者として個性的な役割を果たす社司が現れ、その活躍は霊験譚にも描かれることを示した。また霊験譚自体が社司によって創り出され、記録や社記の注進等を通じて広められた場合があったことを述べた。鎌倉時代以降には、貴族の御師として重要度が更に増し、社司の任官を左右する場合もあったこと、貴族の邸内社の祭祀等その活動は、社外にも及んだことを示した。またこの動向は、他の有力神社にも共通する傾向であることにも触れた。❸章御師活動と奉幣の近世への展開では、社司の御師としての活動が近世に継続される一方、神人の御師としての活躍が中世初期に遡るであろうことを示した。さらに奉幣が、御幣またおはけ戴きとして、近世にもつながる信仰のあり方であった可能性を述べた。❹章宮廻と度数詣、❺章南円堂勤仕から南円堂講へでは、中世末に春日社で度数祓が祈祷として定着する以前、春日社諸社を廻る宮廻と本社・若宮を往還する度数詣がポピュラーかつ重要な信仰のあり方で、代勤という形で祈祷ともなり、近世にも継続したことを示した。また、春日社祀官により行なわれた南円堂勤仕は、南円堂・春日社を往還する度数詣、興福寺境内を含む宮廻、奉幣祝詞などを内容とするもので、春日講に先行する春日祀官の講的結縁として重要であること、また願主を得て行なわれ、祈祷ともなったことなどを紹介した。
バスキンド, ジェームス
ラフカディオ・ハーン、小泉八雲(一八五〇-一九〇四)が、広範囲に亘って、日本の紹介と理解に大いに貢献した人であることは誰もが認めるだろう。しかし、ハーンの影響は民俗学や昔話に限られているわけではない。ハーンには日本の宗教や信仰、精神生活についての深みのある分析も非常に多くあり、宗教関係のテーマが、ハーンの全集の大半を占めているといってよい。それゆえ、今日、ハーンは西洋人に日本文化や仏教を紹介した解釈者としても知られている。そして同時にハーバート・スペンサーの解釈者でもあり、多くの仏教についての論述中にはスペンサーの思想と十九世紀の科学思想と仏教思想とを比較しながら、共通点を引き出している。ハーンにとっては、仏教と科学(進化論思想)は相互排他的なものではなかった。むしろ、科学的な枠組を通じて仏教が解釈できると同時に、仏教的な枠組で進化論の基本的な思想がより簡単に理解できると信じていた。この二つの思想形を結びつけるのが、業、因果応報、そして輪廻思想である。ハーンが作り上げた科学哲学と宗教心との融合は、ただハーン自身の精神的安心のためだけではなく、東西文明の衝突による傷を癒すためにもあった。
石野, 浩司
泉涌寺「霊明殿」とは、歴代天皇の位牌(尊牌)を安置する施設である。天皇即位儀礼および宮中祭祀と関連して、宮内庁の月輪陵墓祭祀との関係性を維持している。 1. 泉涌寺が天皇家喪葬に関与し始めるのは、通説の仁治3年(1242)四条天皇喪葬からではない。『四条院御葬礼記』に見える御前僧は顕密僧であって、いまだ古代の天皇喪葬制の範疇に留まり、禅律僧らが「一向沙汰する」中世喪葬儀礼には移行していない。 2. 後光厳上皇の応安7年(1374)以降、泉涌寺創建伽藍を儀礼空間として完備された天皇喪葬儀礼(泉涌寺と安楽光院との共同運営)は、後円融・称光・後小松天皇と北朝四代の常例となる。この後光厳院流に対して、崇光院流の般舟三昧院が対抗する。 3. 応安例を画期として、泉涌寺「法堂」における龕前堂儀礼、「十六観堂院」中庭での火葬(山頭儀礼)と拾骨(『称光天皇御葬礼記』)、そして持明院統の離宮「伏見御所」域内に嘉元2年(1304)に建立された後深草上皇の葬堂「深草法華堂(安楽行院)」への納骨という、この三部構成が北朝皇室の喪葬伝統を形成する。 4. 応仁2年(1468)に泉涌寺伽藍「法堂」「十六観堂院」以下が全焼すると、明応9年(1500)の後土御門天皇「明応例」を画期として、仮設建物(仮法堂を含む)で代用された「龕前堂・山頭儀礼」が後柏原・後奈良・正親町・後陽成天皇まで式微五代の慣例を形成する。 5. 承応3年(1654)後光明天皇喪葬が、寛文8年(1668)仏殿再建以前であったこともあり仮設建物で執行された。この「承応例」(火葬儀「明応例」を土葬儀へと入句を改編したもの)が幕政下の規範とされたために、敢えて復興伽藍を使用しない仮設式「龕前堂・山頭儀礼」(これに実質的な埋葬「廟所」儀礼が加わる三部構成)が定着する。近代大喪儀「葬場殿」の雛型は、かかる泉涌寺の宋風儀礼であった。 6. 後陽成灰塚以下に模倣されるためには、四条天皇陵の九重石塔が同域内で規範性の高い建造物として認識されていたことが前提となる。般舟三昧院との争論を背景として四条陵石塔が移築再建、北朝皇室の荼毘所「十六観堂院」旧跡に月輪陵墓が形成される。 7. 十六観堂院旧跡に対して、江戸初期三代の天皇陵の慣例が回避的である。一方で後水尾院統の先祖二代と後宮は十六観堂院旧跡に「家族墓」の特異態を形成する。 8. 四条院御影堂の再興を発端とする泉涌寺復興は、寛文6年(1666)「御位牌堂(霊明殿)」創建に結実する。「承応例」以降の天皇家喪葬の典拠が『朱子家礼』である以上、位牌祭祀の空間「霊明殿」も礼制上は朱子「祠堂」と見做される。先祖祭祀を前四代に限定する朱子学礼制は、かくて明治41年『皇室祭祀令』「先帝以前の三代」に継受された。 9. 月輪陵成立過程における後水尾院統「家族墓」構図は、そのまま後水尾院統「家廟」としての創建霊明殿の位牌の配置に反映される。 10. 東山天皇陵を画期とする江戸中期100年間、月輪陵墓は天皇・嫡后だけに占有された埋葬空間「皇室の嫡流陵墓域」を成立させる。一方で嫡出皇子への特殊配慮が見られ、光格天皇以降を後月輪陵と区別する。 11. その「皇室の嫡流陵墓域」構図は、嫡出皇子への特殊配慮も含めて、そのまま弘化再建霊明殿の尊牌配置に反映されている。 12. 元来、後水尾院統「家廟」として成立した寛文創建「霊明殿」は、「嫡流陵墓域」月輪陵に対応して、祭祀する位牌は限定的であった。その限定を解除して「皇室の宗廟」を企図したのが明治9年「尊牌合併令」である。ここに後光厳院流「安楽光院+泉涌寺(北京律)」と崇光院流「安楽行院+般舟三昧院(天台兼学)」という中世後期以降二系統に分裂してしまった天皇家の先祖祭祀が一元化される。かかる位牌祭祀の泉涌寺一元化とは、明治11年(1878)制定「春秋二季皇霊祭」への階梯であった。 13. 明治15年(1882)焼失を好機として、明治16年(1883)の勅命により、明治17年(1884)に宮内省造営で近代霊明殿が成立する。古代の山陵祭祀とは異なる要素として、中世後期以降の宋礼継受により導入された祭祀主体「位牌(朱子学の神主)」形式が、皇霊祭祀の成立要件に組み込まれたことを意味する。かかる近代霊明殿を雛型として、明治22年(1889)に宮中三殿「皇霊殿」が完成した。 14. 近代成立の皇霊殿祭祀に包含される皇統意識とは、復古された山陵祭祀(律令制「近陵」)ではなく、むしろ中世・近世天皇家の「イエ」的な先祖祭祀(廟所としての「月輪陵墓」・家廟としての泉涌寺「霊明殿」)を内実として継承したものである。朝廷内の意思疎通と朝幕間の儀礼的交渉をへて治定された泉涌寺「月輪陵墓」の格式(規模と形式)には、近世皇統意識が可視化されている。
設楽, 博己 Shitara, Hiromi
縄文中期終末から後期へ、縄文晩期から弥生時代の始まりへ、それらはいずれも列島規模で、文化や社会が大きく転換した時代であり、時期であった。その歴史の節目に、地域や時代を超えて再葬墓が営まれることは何を意味するのだろうか。再葬が発達した地域におけるそれぞれの転換点で共通するのは、集落の衰退すなわち人口の減少である。環境変動に目を向けると、その転換期に共通した要素として気候の寒冷化をあげることができる。まさに、環境の悪化が再葬を誘発したといっても過言ではない。歴史の中で再葬が出現する理由はさまざまであったろうが、死者を基軸に集落あるいは地域の結束を固めるための祖先祭祀として発生したことが、理由の一つにあげられる。自然環境の悪化によって小規模になり分散化した集落を統合する原点として再葬墓が機能したのであり、その象徴が再葬された祖先でありあるいは墓自体であった。再葬が発達した縄文後期前葉の京葉地方は、気候の再温暖化によって大貝塚を形成したように、再葬がすべて悪い環境のときに発達したとばかりはいえない。自然環境の回復あるいは集落の発展を迎えても、ひとたび制度として定着した再葬は、なおも集落結集の装置として機能したのであろう。琉球・奄美諸島の洗骨葬は、祖先祭祀の意味があり、縄文・弥生時代の再葬を考える手がかりになる。そこで再葬は一種の通過儀礼として行われていた。縄文晩期〜弥生時代前半は、抜歯をはじめとする儀礼を発達させた時期である。再葬制もこの時期に儀礼的要素を強めるのであり、祖先祭祀と通過儀礼の強化と言い換えることができる。それは厳しい自然環境に立ち向かうための生活技術であり、再葬の背景であった。
伊藤, 幹治
本稿は,1957 年から1972 年にかけて,南西諸島でおこなったフィールド・ワークの回想記である。その当時の日本における民俗学と民族学の関係,日本本土と沖縄の比較研究の視点と方法,宗教と社会の構造的関連,エスニック・アイデンティティについて述べる。
大江, 満
ベルリン会議のアフリカ分割から一〇年後の一九世紀後半、欧米列強から不平等条約を強いられてきた明治日本が、念願の改正条約を五年後に実施することに成功した一八九四年、英米聖公会の在日ミッションは、彼らの日本伝道地をアフリカのように分割した。日本が対米列強劣勢の外交を挽回したとき、欧米由来の外来宗教は日本領土を宗教的に植民地化したのである。同年、日本はアジアの覇者中国に戦勝し、台湾を植民地化する。日本聖公会における日本人による国内自主伝道の権限は、日本聖公会の諸地方部管轄権を所有する外国人主教が掌握したことで、日本人の自主伝道は「新領土」台湾に弾き出された。それ以来、一九二三年に設立された東京・大阪の日本人主教管轄区をのぞく日本聖公会諸地方部は、各英米ミッションに管轄され、戦後もそれは、傘下の日本人によって旧ミッション帰属の教区制度として踏襲されて、現代に及ぶ負の遺産を抱えることになったのである。
福間, 真央
ヤキはメキシコとアメリカに国境を跨いで居住する先住民族である。近代国家の成立,国境の画定によって 2 つの国家に分断されながらも,ヤキは民族的同胞意識を維持し,1990 年代以降,越境的な交換を活発化させている。中でも文化的領域で行われるトランスナショナルな交換は贈与交換のシステムとして確立されてきた。そして主に儀礼から発展したネットワークは交換の活発化とともに多様化し,多元的なネットワークへと変化している。しかし,同時に,国籍,出身コミュニティなどの社会的,文化的背景が異なる個人や集団が参加するトランスナショナルな贈与交換は,しばしば当事者の間で齟齬を生んでいる。本稿ではトランスナショナルに展開する交換を 4 つのタイプ,儀礼における贈与交換,文化的贈与交換,文化アイテムの交換,贈与に分類し,考察することを通じて,ヤキのトランスナショナル化の様相を明らかにする。
岩城, 卓二 Iwaki, Takuji
本稿は隅田荘を対象に、神社祭祀を結合契機とする地域社会が、在地領主連合という中世的世界を解体させ、村役人を運営主体とする村連合へと移行し、さらにその内部秩序を変容させていくまでの過程を明らかにしたものである。内容は次のとおり。中世において隅田八幡宮は在地領主連合をとる隅田一族の精神的紐帯であり、彼らはその管理と奉仕を独占することによって隅田荘荘民に対するイデオロギー支配を実現していた。この段階では「隅田名乗中」という隅田一族の同族結合集団が唯一の隅田八幡宮の運営主体であった。ところが戦国期になると、中小農民と宗教者が隅田一族に拮抗する勢力に成長し、隅田荘地域には隅田一族の同族結合集団、中小農民が村を単位に結集した「庄中」、宗教者の「座中」という三つの社会集団が併存し、これを統括するような権力や秩序は存在しなかった。一七世紀とはこのうち「庄中」が地域社会を統括していくようになる時代であり、それは農民の論理で一元的に地域社会が編成されていくことでもあった。この「庄中」は氏子村一六ヵ村の庄屋による合議によって諸事が決していたが、一七世紀には庄屋の専断的な運営が行なわれるような段階であった。この在り方に変化がみえはじめるのが一八世紀後半である。「庄中惣代」が登場し、彼らが藩や他集団との交渉にあたるようになった。庄屋は村の代表として惣百姓の意志に拘束されるようになったのである。一方、一七世紀において「庄中」に包摂されていた宗教者も、一八世紀後半になると「仲間」を形成し、地域社会のなかで正当な位置付けを獲得するため自己主張をするようになっていった。そしてこうした宗教者の動きによって隅田荘地域社会は、農民だけの論理で運営されるのではなく、異なる身分集団にも正当な位置付けを与える地域社会へと成熟していったのである。
伊從, 勉
沖縄本島東方海上の久高島は、琉球王国国家祭祀上の聖なる島であった。時代の変化を蒙りながらも、現在でも王国時代以来の巫の司祭により、沖縄地方でももっとも頻繁な年中祭祀を実行している。「七マッティ」と呼ばれる主要祭祀と他のいくつかの地方祭祀の時に、集落内の主要祭場のひとつ外間拝殿の内部に、「アカヤミョーブ」という赤い天蓋が張られる。ミョーブとは、その実態に反して、実は「屏風」の意味がある。 本稿は、屏風の天蓋による置き換えであるこの事例を、久高島における王府儀礼の祭場舗設の伝統の名残と解釈する。それは、次のような考察の過程を経て行われる。 即ち、久高島の年中祭祀における祭場舗設を概観し、祭祀歌謡に歌われる舗設と実態の対象やずれを観察する。他の地方の祭祀舗設の事例を祭祀歌謡のなかに探る。王府儀礼の祭場舗設を現存する祭祀記録のなかに探索する。王府祭祀に深く関わった久高島の巫職が、王府儀礼の祭場舗設を伝えた可能性、さらには、一六七七年まで大君が島の祭祀に直接関わった歴史的事実は、王府儀礼の様式が島に直接的に伝播した可能性を示唆している。 他の地方の祭場舗設の様子(祭庭での天幕の使用など)と比較することによって、十八世紀以降の公儀祭祀の標準化の傾向とは異なった文脈の中に、アカヤミョーブは位置づけられる。それ以前から王府祭祀の影響が島に及んでいたことは、旧公儀祭祀のなかにではなく、島のローカルな祭祀の中にその影響の痕跡が観察できることが示している。 仮説的な舗設に関する沖縄の祭場の特徴は、久高島の外間祭庭(殿)と御殿庭神アサギという常設祭場の使用状況を比較することにより、常設の神アサギという祭祀小屋が、むしろ仮設天幕の常設化であると解釈する道を開く。その点で、筆者が行ってきた沖縄地方の祭場における現象的側面の一連の考察の一部をなす。
仁藤, 敦史 Nito, Atsushi
難波は古代都城の歴史において外交・交通・交易などの拠点となり,副都として機能していた。外交路線の対立(韓政)により蘇我氏滅亡が滅亡し,難波長柄豊碕宮(前期難波宮)が大郡などを改造して造られた。先進的な大規模朝堂院空間を有しながら,孝徳期の難波遷都から半世紀の間は同様な施設が飛鳥や近江に確認されない点がこれまで大きな疑問とされてきた。藤原宮の朝堂院までは,こうした施設は飛鳥に造られず,この間に外交使節の飛鳥への入京が途絶える。これに対して,藤原宮の大極殿・朝堂の完成とともに外国使者が飛鳥へ入京するようになったことは表裏の関係にあると考えられる。こうした問題関心から,筑紫の小郡・大郡とともに,難波の施設は,唐・新羅に対する外交的な拠点として重視されたことを論じた。前提として,古人大兄「謀反」事件の処理や東国国司の再審査などの分析により,孝徳期の外交路線が隋帝国の出現により分裂的であり,中大兄・斉明(親百済)と孝徳・蘇我石川麻呂(親唐・新羅)という対立関係にあることを論証した。律令制下の都城中枢が前代的要素の止揚と総合であるとすれば,日常政務・節会・即位・外交・服属などの施設が統合されて大極殿・朝堂区画が藤原京段階で一応の完成を果たしたとの見通しができる。難波宮の巨大朝堂区画は通説のように日常の政務・儀礼空間というよりは,外交儀礼の場に特化して早熟的に発達したため,エビノコ郭や飛鳥寺西の広場などと相互補完的に機能し,大津宮や浄御原宮には朝堂空間としては直接継承されなかったと考えられる。藤原宮の朝堂・大極殿は,7世紀において飛鳥寺西の広場や難波宮朝堂(難波大郡・小郡・難波館)さらには筑紫大郡・小郡・筑紫館などで分節的に果たしていた服属儀礼・外交儀礼・饗宴・即位などの役割を集約したものであると結論した。
新谷, 尚紀 Shintani, Takanori
本論文は柳田國男を中心として折口信夫の参加によって創始された日本民俗学を継承する立場から提出する伊勢神宮の創祀をめぐる試論である。結論として得ることができたのは以下の諸点である。伊勢神宮の創祀の歴史的過程については、推古朝における日神祭祀、斉明朝における出雲の祭祀世界の吸収、持統朝の社殿造営と行幸、という三つの画期があった。確実な伊勢神宮の造営は天武二年(六七三)四月の大来皇女の泊瀬の斎宮への籠もりから翌三年(六七四)一〇月の伊勢への出発の段階である。そして、持統六年(六九二)の伊勢行幸に際して社殿の造営が完了していたことは確実である。それは律令制的な税制度のもとでの伊勢神宮の造営であり、新益京(藤原京)という新たな都城の造営と対をなす国家的事業であった。政治権力の基盤としての律令制と都城制、に対応する宗教権威の基盤としての神祇制と官寺制、という律令国家の体系のもとで、その神祇制の中核としての意義をもつ伊勢神宮の造営と祭祀がそこに完備されたのである。そして、天照大神のモデルとなったのは高天原広野姫天皇をその謚号とする持統天皇であった。ただし、伊勢神宮の創祀の意味はこのような歴史的な事実関係の追跡からだけでは重要な点が見えてこない。『記紀』になぜ出雲神話が存在するのかという問題も含めて、出雲大社の祭祀と対をなすものととらえるとき、はじめて大和王権の祭祀世界が見えてくる。〈外部〉としての出雲、という概念設定が有効なのである。そして、以下の点が指摘できる。天武と持統の大和王権を守る装置として位置づけられたのが、伊勢と出雲という東西の海に面した両端の象徴的霊威的存在であった。王権神話で政治は皇孫に、神事は大己貴神にとの分業を語るとともに、それは同時に、朝日(日昇)―夕陽(日没)、東方(対外的安全領域たる太平洋の海辺)―西方(対外緊張の日本海の海辺)、太陽―龍蛇、陽―陰、陸(新嘗祭)―海(神在祭)、現世(顕世)―他界(幽世)、という対照性のコスモロジーの中に位置づけられる関係性であった。七世紀末から八世紀初頭にかけて成立した天武・持統の大和の超越神聖王権とは、〈外部〉としての出雲、の存在を必要不可欠とした王権だったのである。出雲の祭祀王にとって龍蛇祭祀とは毎年繰り返される外来魂の吸収儀礼であり、一方、大和の祭祀王が新嘗祭と大嘗祭に先立って執行する鎮魂の祭儀も外来魂の吸収儀礼である。そのような外来魂の吸収という呪術的霊威力の更新の儀礼と信仰を大和の王権が獲得しそれを内部化できたのは、出雲の祭祀王権との接触によってであり、〈外部〉としての出雲、の設定によるものである。天皇の鎮魂の祭儀とは、外来魂を集めるむすび(結び)とむすひ(産霊)、その外来魂を天皇の身体に定着させるたまふり(鎮魂)、そうして内在魂となった天皇の霊魂を増殖し活性化させるたましずめ(鎮魂)、そしてその天皇の創造力豊かな増殖する内在魂を臣民へと分与するみたまのふゆ(皇霊之威・恩頼)までを含むものであり、天皇という存在と機能の基本がその霊魂力(生命力)の不断の更新とその分与にあるということを示す。この王権論を普遍化する視点からいえば、カール・ポランニー Karl Polanyi のいうところの、中心性centricityと再分配redistributionの構造とみることもできる。
高橋, 敏 Takahashi, Satoshi
人々は生命の危機に曝らされ、生活共同体の存亡の局面に立たされたときどのような行動に走るのであろうか。もとより、本来生命を保護し、共同体を行政の一環として支配する体制が人々の不安を解消し得ない非日常の時空においてである。本稿は安政五年(一八五八)突如人々を襲ったコレラの脅威に人々がどのように立ち向かったのか、いやいかにしてこの災厄から逃れようとしたのかを、克明に実証しようとしたものである。安政五年は黒船という「異」の襲来と嘉永末年から安政初年にかけて連続して天地を揺がし、地を震わせた大地震・大津波の恐怖の未だ覚めやらぬ時であった。そこにコレラが襲いかかった。即死病といわれ次々と感染しては大量死に至る惨状は医療行為によって対応することは困難となり、ありとあらゆる神・仏、流行神、呪術を動員して、これに当たることとなった。本稿は、人々の動向を駿河国駿東郡下香貫村(現沼津市下香貫)と深良村(現裾野市深良)で検証する。この二つの事例を取り上げたのはもちろん動向を記録した史料に恵まれたこともあるが、共通して京都吉田大元宮の勧請によってコレラの災厄を除こうしたことに注目したからである。何故に吉田神社の勧請に走ったのか。村共同体の意志決定の過程、吉田神社の神道支配の流れに着目しつつ、コレラの非日常の時空に置かれた人々の不安とそれに立ち向かう人々のエネルギーを掘り起こしたい。吉田神社の勧請は京都往復の路銀はもちろん祈祷料、鎮札などの宗教儀礼に金がかかる。下香貫村、深良村両村とも莫大な金銭の喜捨を村人に求め、最高級の七両二分の祈祷(小箱)をお願いし、帰村後は吉田宮まで造営し、コレラはじめ災厄除けの宮を勧請している。
池谷, 和信 Ikeya, Kazunobu
本報告では、タイ北部の山地に暮らす農民の狩猟活動の実態を、とくに野鶏猟とイノシシ猟に注目して、生態 人類学の視点から把握することを目的とする。現地調査は、2005 年11 月上旬、2006 年3月下旬および5月上旬におこなわれた。その結果、タイ北部の山地農民にとって、イノシシ猟は、農地に隣接する地域での害獣駆除を目的とした側面のみならず、村人の多くが参加するという社会的側面、捕獲後に必ず儀礼がともなうという信仰的側面という役割を無視できないことがわかった。その一方で野鶏猟の場合には、単独でおこなわれており、儀礼がともなうことはない。両者とも、その多くの活動は集落や農地に近接した地域で行なわれているものであり、現在においても村社会のなかに深く根付いた生業活動であることが明らかになった。
霍, 巍
奈良県黒塚古墳の発掘によって、大量の三角縁神獣鏡が出土した。しかし、三角縁神獣鏡のルーツを考える上で、これまで全く見過ごされてきた重要な銅鏡が存在する。それは三段式神仙鏡である。本稿はこの三段式神仙鏡のルーツを考察することによって、紀元三世紀の日中の文化交流史に新たな解釈を加えるものである。 三段式神仙鏡は、中国後漢・六朝時代と日本の古墳時代の副葬品に埋蔵されている。それは鏡の中央の紐を挟む平行な日本の線によって、鏡の内区を三段に分け、上・中・下各段に神仙図を配するものである。一般に神獣鏡の一種類として認識されている。 従来の研究者たちは、紀元三世紀頃の中国大陸と日本との交流を議論する場合、三角縁神獣鏡を重視し、それを倭女王卑弥呼が魏王朝と通交していたことを示す動かぬ物証であると指摘してきた。だが、本稿では三段式神仙鏡の出土地の、図像的な比定や、鏡銘文字の解釈などから、この三段式神仙鏡は中原地域の魏鏡ではなく、また長江中・下流域の呉鏡でもなく、実は長江上流域川西平原の「西蜀広漢」で鋳造した「蜀鏡」であると断定した。また、三段式神仙鏡を含む、この時代の神獣鏡、画像鏡の中に描かれている、「西王母」を中心とする「神」と竜虎を中心にする「獣」の宗教的意味を追究することによって、道教的・呪術的な性格が著しく強い鏡であることが指摘できる。さらに日本列島の倭国の女王卑弥呼は「鬼道」という新たな宗教祭祀を導入してきたと同時に、道教もその新宗教祭祀の道具として中国から導入したと考えることが可能である。長江流域から道教の生産技術、その宗教的意味、図文模様などが日本に伝来し、その中に長江上流域の文化要因が含まれていたと考えることができる。 三世紀以来、東アジア国際関係を全面的に観察すれば、むしろ黄河流域、長江流域と古代日本の相互関係を「大三角関係」と認識する方が適当であり、特に長江上流域からの影響を軽視すべきでないといえる。
Sugase, Akiko
イスラーム世界にあって,少数派のシーア派や,非ムスリムのキリスト教徒やドルーズが多数派を占めるシャーム地方では,ムスリムと非ムスリムが混住し,宗教・教派間の共存が保たれてきた。その状況を象徴するのが聖者崇敬の共有であり,なかでも聖者アル・ハディル(レバノンではアル・ホドル)は,歴史的パレスチナを中心に病の治癒や降雨,豊穣をもたらす聖者として,さかんに崇敬されてきた。ことに歴史的パレスチナでは,地元出身の英雄という点が強調されている。 歴史的パレスチナと隣接するレバノン南部でも,アル・ハディルはアル・ホドルと呼ばれ,複数宗教・教派信徒によって崇敬が共有されてきた。シーア派の村サラファンドにあるアル・ホドル・モスクには,周辺の町村からも非シーア派の人びとが参詣に訪れる姿がみられた。しかしながら現在,村外からの参詣はみられず,共有がそこなわれつつある。モスクも聖者崇敬の聖所というよりもシーア派色が強くなり,アル・ホドルをシーア派の正統性を保証する聖者と定義づけ,占有しようとする語りも出現している。このような現象の背景には,レバノン南部と歴史的パレスチナにおけるアル・ハディル/アル・ホドルの役割の相違や,双方の自然環境と農業形態の相違が挙げられるが,ヒズブッラーの勢力拡大に象徴されるシーア派ナショナリズムの高揚も大きく影響をおよぼしている。レバノン南部における聖者の占有は,すでに非シーア派の周辺住民から警戒されており,シャーム地方で培われてきた宗教・教派間の共存を損なうおそれがある。
藤尾, 慎一郎 Fujio, Shinichiro
本稿は,ブリテン新石器時代の葬制研究を紹介したものである。ブリテン新石器研究は,近代考古学がはじまって以来,巨石建造物(メガリス)を研究対象にしてきた。巨石建造物が新石器時代の編年をおこなう際の指標として位置づけられてきたこともあるが,何よりもそこからみつかる大量のバラバラになった人骨が人々の関心をひきつけてきたからである。人骨がみつかるために,巨石建造物はしごく当然に墓と考えられ,なぜ,このような状況で大量の骨がみつかるのか,を考えた葬制研究が,ブリテン新石器研究の中心だったのである。1950年代までは,大量の人骨が,バラバラになった状態で建造物内につくられた石室内におかれるようになった原因をめぐり研究がすすんだが,'60年代のいわゆるプロセス期になると,このような行為には生の世界の社会組織や構成原理が反映しており,巨石建造物はモニュメント(巨石記念物)と認識されるようになる。'80年代のポスト・プロセス期になると,一転してそのような行為に,生の世界の社会組織や構成原理は反映されないとしてプロセス学派は批判され,行為自身や石室構造にこめられた象徴性の解明をめぐる研究がおこなわれる。そして現在,新石器前期は儀礼を再優先していた時代との認識と,儀礼行為自身が人々の表現戦略であったと考えられるにいたっている。縄文時代の葬墓制研究は,ここ20年ほど,親族研究・社会組織の解明を中心に進展してきた。最近わかってきたモニュメントでおこなわれていた祭りと,墓でおこなわれた死者儀礼とはどのような関係にあるのか。今後,どういう方向に向かおうとしているのか。再葬・合葬主体のブリテン前期新石期時代と一次葬・個人墓主体の縄文時代という枠組みをこえて考える。
若曽根, 了太
仏教的王権観念の地域への浸透は,中心から周縁への不可逆的な力の作用の結果として議論されることが多い。本稿では 19 世紀後半から 20 世紀初頭シャム東北地方ラオ社会(周縁)における仏教的王権観念の展開を,ラオス山地社会(外縁)を含む地域の視点で見直し,史料に依拠して描く。明示されたのはラオの聖者が,山地の先住民カーに支えられる神話的王権の力を宗教運動で取り込み,仏教的王権の神聖性を支える力へ転換させた点である。これは頭陀行僧による仏法をピーの上位におく信仰の序列化と並行し,結果シャム王権の仏教国教化を担うタンマユット派の地域進出を支えた。つまり仏教的王権観念の地域への浸透は,周縁と外縁のカリスマ宗教者の活動に依拠したと考えるのが妥当である。中心―周縁―外縁の枠組みは,中心を受容しうる周縁の動態性やロジックを可視化させ,中心史観の相対化をはかる点で有効である。
福原, 敏男 Fukuhara, Toshio
嘉永五年(一八五二)六月三日夜より三夜連続して、兵庫津の二七の町々(現在の神戸市兵庫区の二六町と中央区の相生町に相当する)が雨乞を目的として、西国街道を舞台に一大灯火行列を繰り広げた。本稿では、その光と色彩と音のページェントともいうべき造り物風流を取り上げて、その風流史的意義について考察する。雨乞というと連想されるのは修験者の祈禱など、すぐれて宗教的な行為である。しかし、本稿で取り上げる雨乞は、危機儀礼というにはあまりに華美であり、新出の『嘉永五子年六月 福原雨乞記』(神戸市立博物館蔵)の挿絵を見ると、あたかもテーマパークにおけるイベント・パレードを見るような、心うきうきする楽しさがある。それはまた、観客の視線を意識した祭礼行列のようでもある。同書巻末によると、惣人数一万三百人あまり、ほかに北浜と南浜の町より加勢人足約五〇〇〇人、松明一二〇〇、半鐘四〇七、太鼓三〇四、大釣鐘四、八丁鉦三〇、法螺貝六三、弓張提灯七一二〇が参加したと記される。一般的に、村落の雨乞いの方法として、村中の人々が鉦・太鼓・法螺貝などを鳴らしながら、松明を持って行列を作って氏神などを出発して村を一周し、近くの霊山に登り、河原に降りてきて松明を積んで燃やす千本松明行事が知られる。兵庫津の事例はその都市版と想定できるが、兵庫津の内でも、農民が集住する「地方十八町」のうち一六町が参加しており、日照りは農業にとって深刻であったことをうかがわせる。稲の生育期の旧暦六月初旬における降雨の多寡は、稲作にとって死活問題だからである。毎年繰り返される年中行事と異なり、雨乞のような一回性の臨時の行事においては、殊に、各町の創意工夫が発揮され、まさに風流の精神が溢れ出る行事ともいえよう。
高, 茜
中国雲南省の納西族は古くから漢文化を受容してきたことで知られている。文化的および経済的に漢民族から大きな影響を受け,中央からみて周辺民族より進んだいわゆる現代文明を享受してきた少数民族とされている。東巴教は,この納西族に古くから伝わる民族宗教であり,その宗教祭司が用いてきたのが東巴文字である。しかし納西族にとって東巴教および東巴文字に対する思いは,時代とともに変わってきた。とくに1990 年代以降における観光業の発展は,納西族と東巴文字の間にもっとも大きな変革をもたらすこととなった。本稿は,麗江納西族と東巴文字の関係について,とくに東巴文字の伝承活動に注目しながら,その変遷を叙述するとともに,変化の要因となる社会的背景を明らかにしようとするものである。 この民族文化としての東巴文化の伝承活動は,中国のほかの少数民族と同様に,中国の少数民族政策と大きく関わっていることは言うまでもない。しかし,東巴文字およびそれを用いる納西族がおかれている言語的状況は,他の多くの少数民族と比較しても特異なものである。例えば,東巴文字の伝承活動を考察する上で,その宗教的性格や改革開放以後におけるこの地域の観光業の発展などとの深い関係は,中国の少数民族一般に対する言語政策とは同列にして論じる事はできないと考えられる。 そこで本論文では,文化大革命以前における東巴文字の歴史的盛衰,改革開放以降における東巴文字の研究および保護の進展,1990 年代以降における東巴文化に対する政策転換,などを時代背景に即して概観し,現在の東巴文字の伝承活動の状況や課題についても論じたい。本来,宗教祭司だけのものであった東巴文字は,現在,観光業を通して麗江納西族の日常生活と深く結びつき,多様な社会的需要に応じて麗江各地で伝承活動が行われている。このような伝承活動は,伝統的な目的や方法とは大きく異なるものであり,今では学校教育にまで導入されつつある。いまだ十分に定着してはいないものの,伝承活動が推進されるなかで,東巴文字が納西族の新たなアイデンティティー形成に影響を与えつつあるといえよう。
長田, 俊樹
『播磨国風土記』の一節に、動物の血、とりわけ鹿の血を稲作儀礼としてもちいる記述がある。この一節は、折口信夫など、おおくの学者が引用している。そこで、この引用がだれによって、どのようにおこなわれてきたのか、検証するのがこの小論の目的である。 引用した例をみると、おおきく三つの分野がある。それは民俗・民族学、日本史・考古学、そして比較神話学である。民俗・民族学者はこの一節と現代にのこる日本の民俗やアジア諸国の民俗とむすびつけてきた。一方、日本史・考古学分野では、日本の歴史にそって、同様な民俗をみつけだそうとしてきた。さらに、神話学者はハイヌウェレ型神話との関連を指摘した。それぞれの見解には納得できるものがふくまれているが、欠点もあった。(以上、『日本研究』第20集掲載) 結論として、筆者はこれを稲作儀礼として、アジア諸国の稲作文化域を想定しながら、コンセンサスのえられる見解を今後とも模索したい。そのさいには、あらかじめ想定された演繹法ではなく、帰納法で結論をみちびく所存である。また、試論として東南アジアでおこなわれる水牛供犠との関連性についてその可能性を指摘した。
長田, 俊樹
『播磨国風土記』の一節に、動物の血、とりわけ鹿の血を稲作儀礼としてもちいる記述がある。この一節は、折口信夫など、おおくの学者が引用している。そこで、この引用がだれによって、どのようにおこなわれてきたのか、検証するのがこの小論の目的である。 引用した例をみると、おおきく三つの分野がある。それは民俗・民族学、日本史・考古学、そして比較神話学である。民俗・民族学者はこの一節と現代にのこる日本の民俗やアジア諸国の民俗とむすびつけてきた。一方、日本史・考古学分野では、日本の歴史にそって、同様な民俗をみつけだそうとしてきた。さらに、神話学者はハイヌウェレ型神話との関連を指摘した。それぞれの見解には納得できるものがふくまれているが、欠点もあった。(以上、『日本研究』第20集掲載) 結論として、筆者はこれを稲作儀礼として、アジア諸国の稲作文化域を想定しながら、コンセンサスのえられる見解を今後とも模索したい。そのさいには、あらかじめ想定された演繹法ではなく、帰納法で結論をみちびく所存である。また、試論として東南アジアでおこなわれる水牛供犠との関連性についてその可能性を指摘した。
山田, 慎也 Yamada, Shinya
本稿は、葬儀用品問屋を営んできたある人物のライフヒストリーから、問屋業が成立し、葬儀に関わる業務が次第に産業化していく過程について検討することを目的とする。この人物は問屋として、戦後の葬儀産業形成においてその一翼を担い、今でも関連するさまざまな場で活躍しており、その生涯はそのまま戦後の葬儀産業史の展開と密接に関わっている。特に葬儀が産業化していく過程で、文化の流用が行われ、必要な専門的知識が形成されていき、新たな流通形態を作り出している状況を把握することは、現代の葬送儀礼の理解のためにも必要なことと考える。その際、方法的にはライフヒストリーの手法を取り上げるが、その理由として、都市に住みながら地域を越えて活動をし、また問屋業として葬送儀礼のあり方に大いに影響を及ぼしていることから、地域に必ずしもとらわれない個人的主体性の強い存在の動態を把握するためには、有効なアプローチ法と考えるからである。
Yamanaka, Yuriko
西アジアに伝わるアレクサンドロス大王に関する言説は,イスラームという信仰と不可分な関係にある。アラブ・ペルシア文学におけるアレクサンドロスは,宗教書においてのみならず,歴史書や叙事詩においても敬虔な信徒,神に特別な権威を与えられた真の教えの布教者,聖戦の闘士,そして預言者として描かれている。 本論文ではまず,アレクサンドロスが中世イスラーム世界においてこのように神聖視されるにいたった背景を明らかにするため,『コーラン』第18章「洞窟」に登場する二本角とアレクサンドロス伝説との関連を指摘し,また,イスラームに先行する一神教であるユダヤ・キリスト教がその宗教説話の中にアレクサンドロスを取り入れた経緯を辿る。 さらに,コーラン注釈書,預言者伝集,歴史書,韻文アレクサンドロス物語など,様々な分野のアラビア語・ペルシア語作品から具体的なテキストを採り上げ,それらを分析し,より象徴的・寓意的な存在である二本角と歴史的コンテキストの中のアレクサンドロスの微妙で密接な相関関係について考察する。 最後に,中国や日本の文献にまで伝わった二本角伝承にも触れる。
小池, 淳一 Koike, Junichi
本論文は高知県の山間部に伝わった本川神楽を取り上げて、「宗教者の身体と社会」について考える端緒としたい。具体的には、本川神楽の担い手である太夫(たゆう)が伝承してきた知識について検討する。また近隣の類似の神楽において用いられる祭文についても比較分析する。それらを通して民俗芸能における宗教性を再検討することへとつなげたい。本川神楽は、芸能だけではなく、これを担う太夫はホウやシキを知っているとされ、何らかの呪術を駆使することが可能だと信じられてきた。また太夫は暦や行事に関する高度な知識を持ち、死者の祭祀にも関わっていた。祭りにおける芸能の演じ手にとどまらない民俗信仰形成の核となる存在なのである。またこうした太夫たちが伝えていた祭文類の中には中世に遡るものがあり、そうでないものも、中世的な発想によって構成されている。「五龍王祭文」と総称される宇宙を五人の王子が時間で区切って支配する物語は西日本各地に残され、四国山間部の神楽にも継承されている。これは、この神楽が広い地域において、高度な宗教的な知識を下敷きに形成されたことを示唆している。ただし、現在では実際の祭儀においてはその位相は不安定である。今後もこうした検討を続けることで、本川神楽の特質を解明することが可能になろう。またこの芸能の系譜についても祭文と現在の芸態との差異を意識しての検討が求められる。さらに四国各地、日本列島各地の「神楽」と呼ばれる芸能とそれに携わる人びとの伝承を比較し分析することが必要である。
青木, 隆浩 Aoki, Takahiro
本研究では、近代日本の禁酒運動において、酒を用いる儀礼が案外大きな障壁となっていたことを明らかにし、その理由について考察していった。もともと飲酒のような道徳や生活習慣、教育に関わるようなことを法律で規制する機運が高まっていったのは、アメリカの影響による。だが、道徳や生活習慣を法律で規制しようとした場合には、その範囲や取り締まりの可否が問題となる。そして、未成年者飲酒禁止法案が一九〇一年に初めて提出されてから二一年間にわたって何度も否決され続けたのも、基本的にはその点が問題になっていたからである。議員や官僚たちには、法律にする以上はそれで社会を取り締まれなければならないという前提条件があったため、範囲や基準が曖昧にならざるを得ない道徳や生活習慣に関わることを具体的にどの程度まで取り締まるのかといったことが議論の中心になっていった。その中で、儀礼に用いる酒まで取り締まるか否かという点については、本音では日本を酒のない国にしたい禁酒派と、伝統的な慣習にまで法律で介入することや、儀礼に用いるようなアルコール度数の低い酒まで禁酒の対象にすることへ抵抗感を抱く反禁酒派の意見が常に衝突するところであった。結果的に禁酒派が議会でそこまで厳密に取り締まるつもりはないと発言し、そこに反禁酒派の失言が重なって、未成年者飲酒禁止法は制定された。しかし、一方で禁酒派は日本をさらに無酒国へと近づけたいという意思を、禁酒の対象を二五歳にまで引き上げる改正法案を国会に提出することで示した。こうした禁酒派の道徳や生活習慣に対する介入の拡大と規制の強化は、議会で強い抵抗を受けることになった。そして、禁酒派は改正法案提出後にかえって発言力を失っていったのである。
李, 均洋
雷神の文字学の考察、納西族や壮族などの口頭の神話と近古(宋代)および現在に残っている雷神を祭祀する民俗の考察により、原始民の神という観念は、雷神を「世界と万物を創った」最高の天神として祭祀することと共に出現した、と考えることができる。つまり、雷神の起源は神即ち宗教の起源と共に発生したのである。原始民の雷神信仰は自然崇拝に属するのであるが、その後に出現してきたトーテム崇拝や祖先崇拝などは、雷神崇拝と切っても切れないつながりを持っている。
上野, 和男 Ueno, Kazuo
最近とくに一九七〇年代以降、社会人類学・日本民俗学・社会学・宗教学などにおいて祖先祭祀研究が極めて活発に行われるようになってきた。一九七〇年以前の研究はフォーテス・Mのアフリカ研究がそうであったように、単系出自集団と祖先祭祀との関係であった。日本においてもこの時期の研究は、単系出自集団である同族組織や家と祖先祭祀の研究が中心であったが、一九七〇年以降の研究は、単系出自集団以外の親族組織と祖先祭祀との関係に関心があつまってきた。こうした活発な祖先祭祀研究を促進させてきた条件の第一は、「仏壇ブーム」や「墓ブーム」に象徴されるように、日本社会が今日祖先祭祀をどのように遂行するかについて一種の社会問題的状況が見られることである。第二は、戦後の日本の家族の変化をどう評価するかが家族研究者への課題になってきたことであり、この問題への接近にあたって祖先祭祀研究が大きな意味を持ち得ると考えられることである。第三は昭和初期に本格的に開始された日本の家族・親族の実証的研究において、長い間家族は労働組織すなわち経済的な単位として研究されてきたのに対して、いま儀礼的祭祀的側面からの家族研究によって、あらたな家族研究の展開が求められていることである。現在の祖先祭祀研究、とりわけこの共同研究「家族・親族と先祖祭祀」にはつぎのような課題が課せられていると考えられる。第一は日本の祖先祭祀の地域的な変差がまず明らかにされるべきである。第二は日本の祖先祭祀の長期的・短期的変化が明らかにされるべきである。第三は祖先祭祀の諸形態が日本人の死者観、他界観とどうかかわっているかが明らかにされるべきである。第四は東アジアにおける日本の祖先祭祀の位置が明らかにされるべきである。これらを通して日本人の基層信仰のひとつとしての祖先祭祀を、現段階において、社会構造と祖先観の両面から総合的に明らかにするのが本共同研究の課題である。
西谷, 大 Nishitani, Masaru
豚便所とは畜舎に便所を併設し,人糞を餌として豚を飼養する施設である。豚便所形明器の分析からその分布には偏りがあり,成立の要因も地域によって異なることを明らかにした。豚便所は黄河中下流域で,戦国期の農耕進展による家畜飼養と農耕を両立させるため,家屋内便所で豚の舎飼いをおこない,飼料のコスト削減を目的として成立したと考えられる。一方豚便所のもう一つの重要な機能である廏肥の生産と耕作地への施肥との積極的な結びつきは,後漢中期以降に本格化する可能性が高いと推定した。黄河中下流域で成立した豚便所は,周辺地域へと広がるが,各地の受容要因は地域性が認められる。長江流域の水田地域の豚便所普及は,華北的農耕の広がりに伴う農耕地への施肥が,水田地にも応用されたことが契機になっている。一方,華南の広州市地域における豚便所の受容は,華北の豚便所文化を担った集団の移住による強制的な受容形態である。中国における豚飼養は,人糞飼料・畜糞・施肥を媒体とし,農耕と有機的に結合したシステムを形成しただけでなく,さらに祭祀儀礼などと複雑に結びつく多目的多利用型豚文化を展開した点に特質がある。一方日本列島で,中国的豚文化を受容しなかった一つの要因として,糞尿利用に対する拒否的な文化的態度の存在が指摘できよう。弥生時代には,豚は大陸からもちこまれ,食料としてだけでなくまつりにも重要な役割をはたした。しかし弥生時代以降の豚利用は,食料の生産だけにその飼養目的を特化した可能性が高い。その後奈良時代になると,宗教上の肉食禁忌の影響・国家の米重視の政策など,豚飼養を維持する上で不利な歴史的状況に直面する。食料の生産以外に,農耕・祭祀など多目的な結びつきが希薄だった日本列島の豚文化は,マイナスの要因を排除するだけの,積極的な動機づけを見いだせず,その結果豚飼養は衰退への道をたどっていったのではと考えられる。
Sugase, Akiko
歴史的にパレスチナと呼ばれてきた地域に建国されたユダヤ人国家イスラエルには,2 割程度のアラブ人市民が居住し,そのうち約8%をキリスト教徒が占めている。ユダヤ教徒やムスリムとは異なり,食の禁忌を持たない彼らは豚肉を食し,この地における豚肉生産・消費・流通をほぼ独占している。そのいっぽうで,豚肉食に嫌悪感を示すキリスト教徒もすくなくはない。聞き取り調査の内容からは,彼らの豚肉食嫌悪は比較的最近生じた傾向であることがわかる。そこにはムスリムやユダヤ教徒の価値観の影響もみられるが,もっとも大きな影響をおよぼしたのはイスラエルによるアラブ人市民に対する政策である。本来豚肉食は,キリスト教徒の主たる生業である農業と密接にかかわっていたが,軍政による農業の衰退や,豚肉食と密接にかかわっていた野豚猟の事実上の非合法化により,キリスト教徒の豚肉食観は大きく変化した。宗教的アイデンティティの根幹に深いかかわりを持っていた豚肉食への嫌悪感の増大は,キリスト教徒としての宗教的アイデンティティの損失をあらわしているといえる。
西本, 豊弘 Nishimoto, Toyohiro
縄文時代は狩猟・漁撈・採集活動を生業とし,弥生時代は狩猟・漁撈・採集活動も行うが,稲作農耕が生業活動のかなり大きな割合を占めていた。その生業活動の違いを反映して,それぞれの時代の人々の動物に対する価値観も異なっていたはずである。その違いについて,動物骨の研究を通して考えた。まず第1に,縄文時代の家畜はイヌだけであり,そのイヌは狩猟用であった。弥生時代では,イヌの他にブタとニワトリを飼育していた。イヌは,狩猟用だけではなく,食用にされた。そのため,縄文時代のイヌは埋葬されたが,弥生時代のイヌは埋葬されなかった。第2に,動物儀礼に関しては,縄文時代では動物を儀礼的に取り扱った例が少ないことである。それに対して弥生時代は,農耕儀礼の一部にブタを用いており,ブタを食べるだけではなく,犠牲獣として利用したことである。ブタは,すべて儀礼的に取り扱われたわけではないが,下顎骨の枝部に穴を開けられたものが多く出土しており,その穴に木の棒が通された状態で出土した例もある。縄文時代のイノシシでは,下顎骨に穴を開けられたものは全くなく,この骨の取り扱い方法は弥生時代に新たに始まったものである。第3に,縄文時代では,イノシシの土偶が数十例出土しているのに対して,シカの土偶はない。シカとイノシシは,縄文時代の主要な狩猟獣であり,ほぼ同程度に捕獲されている。それにも関わらず,土偶の出土状況には大きな差異が見られる。弥生時代になると,土偶そのものもなくなるためかもしれないが,イノシシ土偶はなくなる。土器や銅鐸に描かれる図では,シカが多くなりイノシシは少ない。このように,造形品や図柄に関しても,縄文時代と弥生時代はかなり異なっている。以上,3つの点で縄文時代と弥生時代の動物に対する扱い方の違いを見てきた。これらの違いを見ると,縄文時代と弥生時代は動物観だけではなく,考え方全体の価値観が違うのではないかと推測される。これは,狩猟・漁撈・採集から農耕へという変化だけではなく,社会全体の大きな変化を示していると言える。弥生時代は,縄文時代とは全く異なった価値観をもった農耕民が,朝鮮半島から多量に渡来した結果成立した社会であったと言える。
山田, 慎也 Yamada, Shin'ya
現代の葬送儀礼は,告別式の成立と葬儀産業の成長が基底にあって構築されている。告別式は人口の流動性の高い都市に合致した葬儀形態であり,葬儀産業は,流動化によって弱体化した地域コミュニティーを補完することで成長していった。これらの変容は,近世以来継続した葬儀の中心的儀礼である葬列が肥大化した結果,近代化の中で流動化する都市住民の葬儀としては適合しなくなることで次第に廃され,告別式に代替していったことは,近代の葬制研究のなかで明らかにされている。よって当時の葬列の肥大化の解明は,その後の葬儀の変容を考える上で重要な要素であり,より詳細な検討が必要とされる。しかし,葬列の展開に関する研究は基本的に文献に基づくものが多く,スペクタクル化として外部からの視線に関する言説の考察が中心であり,その視線の対象となる葬列の具体的な形態やその肥大状況についてはいまだ十分に解明されたわけではない。そのため,その後の衰退への過程や告別式における儀礼要素の流用の状況も明らかになっているわけではない。本館所蔵の『明譽眞月大姉葬儀写真帖』は,明治末期の葬儀過程を写真帖にしたものであるが,自宅から葬列をして寺院までの写真記録は希有であり,極めて貴重な資料である。この資料によると,当時の葬列の具体的な形象が明らかになるだけでなく,葬列の肥大状況を見て取ることで,その後の告別式において見せる葬儀としての祭壇の成立を促す様も把握できる。さらに供花としての蓮華や生花などの多様な形態の供物が祭壇脇に安置されつつも,スペクタクル化を担う葬具は大きく転換しつつ,現代の葬儀を形作るようになっていったことがわかる。
岡田, 浩樹 Okada, Hiroki
この論文の目的は,近年盛んになりつつあるかのように見える「老人の民俗学」という問題設定に対する一つの疑問を提示することにある。はたして「老人の民俗(文化)」という対象化が有効なのかを,比較民俗学(人類学)の立場から検討する。その際に韓国の事例を取り上げることにより,老人の民俗学の問題点を明らかにする方法をとる。今日においても韓国社会では,儒教的な規範が人々の行動を強く規定し,敬親の意識や儀礼的な孝の実践が強調されている。いわば老人が明確な社会的カテゴリーとして意味をもち,加齢や老いが価値をもちうる社会である。今日でも盛んに行われる還暦(還甲)儀礼は,いわば個人が老人という社会的カテゴリーに移行する通過儀礼となっており,明確な「老人」というカテゴリーを可視化する装置となっている。にもかかわらず,韓国においても「老人の民俗学」という問題領域は成立していない。同時に韓国においても「老人」が相対的なカテゴリーであることを示した。日本における「老人の民俗学」の展開を検討すると,その問題提起自体にある種の戦略的言説が込められている。つまり民俗学が近代以降における否定的な「老人」のイメージを覆すことで,高齢化を迎えつつある現代日本社会になにがしかの寄与をおこなうことができるという言説である。しかし人口統計学的に見ると,近代以前にはイメージとしての老人は存在しても,「民俗」を共有するような実体的な老人のカテゴリーが成立していないことが明らかである。したがって,近代以前の老人を今日まで連続するような実体的なカテゴリーとし,そこに「民俗」を見いだす「老人の民俗学」に対する疑問を提起した。
宇野, 隆夫 Uno, Takao
中世的食器様式は,焼物・木・漆・鉄のように多様な素材を使用し,東アジア規模から1国規模以下までの様々な生産流通システムを経た製品から成り立っている。本稿は中世の人々がこの多様な種類・器種の食器にどのような意味を込めて使用したかを考えようとするものである。そのために食器を型式と計量という二つの方法によって分析し,その結果と出土遺跡の性質との関わりに着目した。型式については,貯蔵・調理・食膳の各用途を通じて,写しの体系の中にあるものと,ないものとに二大別した。写しの頂点にあるものは中国製陶磁器が代表的なものであり,日本製施釉陶器の多くと無釉陶器・土器・瓦器・木漆器の一部に写しの現象が存在する。これに対して基本的に写しの体系に加わらないか脱却傾向にあるものは,日本製土器・瓦器・無釉陶器・木漆器の多くである。これら写すか写さないかについては,種類・器種毎に明確な決まりがあったと考え得る。また年代的には,中世前期には写さない在り方が主流であり,中世後期には種類を越えた写しの現象が増加する。この大別を基礎とした計量と遺跡の性格との対比の結果から,他を写さず釉薬や漆をかけない土器・瓦器・陶器・木器類は宗教・儀礼的な意味を込めて使用したものであると考えた。その源流は王朝国家期の平安京中枢部における食器使用法にある。これに対して写しの体系にあるものは,品質の上下を問題とする身分制的な使用であると評価した。この使用法の源流も古代にあるが,武家が主導して復活させたと考えた。漆器は,この両分野にまたがり,かつ日常の食器の主役である。土器・瓦器の鍋・釜の多くは鉄製鍋・釜を写すが,構成比率が著しく低い場合が多く,土器食膳具と一連の使用法であったと推察した。中世的食器様式の多様性は,雑多な品々の寄せ集めの結果ではなく,様々な意味を与えて使い分けた結果であり,その様式構造の変化は社会構造の変化を的確に反映するものであったと考える。
中牧, 弘允 Nakamaki, Hirochica
日本の会社は社葬や物故社員の追悼儀礼をおこなうだけでなく、会社自体の墓をもっているところがある。このような墓は会社墓とか企業墓とよばれ、高野山と比叡山におおくみられる。本稿は高野山の会社墓一〇三、比叡山の会社墓二三をとりあげ、その基礎的なデータを提出するとともに、今後の課題を提示することを主な目的としている。会社墓には創業者の墓や物故従業員の供養塔がたてられている。本稿では、とくに物故従業員の供養塔に焦点をあて、その歴史をあとづけるとともに、名称や形態の分析をこころみている。さらに、関西に集中する会社や組合の地域的ひろがりや、その業種にも言及している。会社供養塔には建立誌が付随することがおおい。そうした建立誌を対象に、その趣旨を七項目に分類し、分析をおこなっている。その項目とは、①建立の契機、②会社発展(先人)に対する感謝、③先人の霊供養、④会社発展に対する祈願、⑤安全祈願、⑥顧客への感謝、⑦高野山や比叡山の賛美である。会社供養塔にかかわる物故者追悼儀礼については、コクヨと千代田生命の事例をとりあげ、若干の比較をこころみている。
新谷, 尚紀 Shintani, Takanori
トロメニtroménieはブルターニュ地方の聖人信仰と結びついた伝統行事である。アイルランドやウエールズからやってきた聖人が,領主から一日に歩くことができた範囲の土地を与えようと言われて歩いた順路を,毎年あるいは6年に1回,聖遺骨reliquesを担いで行列を組み,十字架croixやバニエールbannièresとともに行進processionして一巡する。トロメニの語源は,ブルトン語のtro minihi,もしくはtro mene,つまり,minihi(修道院の囲い地)もしくはmene(山)のtro(一巡)と考えられ,tro(一巡),tour(一周)がterritoire(領域)の設定に通じるところから,troménieとterritoireとの緊密性が浮かび上がる。そして,聖人の行跡の追体験としての儀礼的繰り返しが,領域設定の再現を演出しており,儀礼による「原初回帰」の機能が発動し,歴史の硬い時間から民俗の柔らかい時間への移行が参加者の信仰衝動を刺激する。とくに,順路途中のスタシオンstationsの設営や人々の信仰儀礼的所作には,キリスト教カトリックの教義とは異なる聖樹・聖石・聖泉への伝統的なブルターニュの民俗信仰croyances populairesがその姿を現しており,両者の関係は決して習合や融合ではなく黙認許容と混在併存の関係にあるというべきである。また,参加者たちとその役割において特徴的なのは,プレジドン,ファブリシァン,アソシアシオン,ファミーユ,その他のボランティア,など多様かつ自由意志による奉仕的参加が主流でありながら,逆にそれこそが柔軟で強靭な参加形式となっているという点である。そして,伝統行事に作用する,維持継続の推進力,創造変更への揚力,休止廃止への引力,という三つの作用力の相互関係の上に存在しつつ,参加者たち相互の無限の内と外という2種類の関係性が入れ子細工のように連なった集団実践であると同時に,個々の参加者の数だけ意味をもつ個人的実践でもあるという形式にこそ,伝統維持を支える基本力が潜在しているといえる。
久保木, 秀夫 KUBOKI, Hideo
大僧正明尊(九七一―一○六三)は、生涯を通じて関白藤原頼通に親近し、摂関家の宗教的側面を支え続けた高僧である。本稿ではその明尊の伝記と、周辺の文学・史実について若干の考察を行う。特に長暦二年(一○三八)以降に捲き起こった天台座主問題、及び康平三年(一○六○)に頼通が主催した明尊九十賀を中心に論じることで、明尊が生きた頼通の時代の一側面を明らかにしたい。
Zulueta, Johanna ズルエタ, ジョハンナ
本研究は、沖縄人「戦争花嫁」の帰還移動に注目する。また、ジェンダー、アイデンティティ、宗教的帰属意識の交差点に注目しながら、「home(故郷)」の形成も考察する。これらの沖縄人女性にとって、「home」は、必ずしも単に戻るべき場所としての「故郷」を意味するとは限らなかった。むしろ、「home」は帰属意識や家族との関係である。聞き取り調査により、ライフ・ストーリーを使用しながら分析を行う。
川森, 博司 Kawamori, Hiroshi
来訪者を歓待したり冷遇したりすることによって,幸運を得たり不幸を招いたりするという形の説話は,世界各地で広く語られているが,本稿はその中で,日本と韓国の事例について比較研究をおこなうことを目的とする。韓国では,やってきた僧を虐待したために長者の家が陥没して池になった,という内容を骨子とする「長者池伝説」が幅広く伝承されており,日本では,「大歳の客」とよばれる類型の昔話が多い。このタイプの説話の基本的な登場人物は,〈来訪者〉,〈来訪者を歓待する者〉,〈来訪者を冷遇する者〉の三者である。まず,来訪者を歓待する者と冷遇する者としてどのような人間関係が設定されているか,を検討すると,韓国の「長者池伝説」では〈舅:嫁〉の対立関係が圧倒的に多く,日本の「大歳の客」型の昔話では〈隣同士〉の対立関係が多い。このことは,それぞれの文化における人間関係への関心のあり方が反映されているものと考えられる。次に,来訪者のヴァリエーションを見ると,韓国では仏教の僧を中心とするが,それに道士というイメージが重なっていることも多い。日本では旅の宗教者や盲目の宗教者が多く登場している。これは,それぞれの宗教的背景や説話の管理者の違いを反映したものである。第三に,「長者池伝説」で来訪者が冷遇された後の過程の変異型を見ると,来訪者が「風水」の知識にもとづいて長者を滅ぼすという形で語られるものが多い。このように来訪者をめぐる説話に風水の思想が結びついた形は日本では見られず,韓国の場合のひとつの大きな特徴と考えられる。説話のように国際的に共通した類型が多い分野では,日本国内の伝承の意味づけをおこなう上でも,国外の類似した伝承と比較して,類似点と差異点を検討することが必要とされるのである。
有富, 純也 Aritomi, Junya
本稿は、神社社殿の成立時期について、律令国家との関係に注目しながら検討し、また、摂関期の国家と神社の関係についても論及するものである。神社社殿がいつ、どうして成立したかについては、多く研究があるものの、これまでの研究成果を充分に消化しつつ、論じたものはあまり存在しないと思う。そこで❶章では、あらためて研究史整理を行い、神社社殿成立の時期について詳細に検討した。その結果、①律令国家の成立と神社社殿の成立はほぼ同時期であること、②律令国家成立以前の宗教施設には、大きく分類して、建築物を有しないモリと、建築物が付随するホクラがあること、以上二つの仮説を得た。❷章では、ホクラと神社社殿の関係について、中国の「社」のあり方や平安時代の記録を用いて検証した。中国の宗教施設である「社」は建築物を伴わないことから、神社建築は中国の影響を受けない日本固有のものであると推測した。とすれば、七世紀以前に存在したホクラが神社建築に深く関係すると考えることもできよう。律令国家成立期、祈年祭を中心とした班幣制度を創始するにあたり、地方に幣帛を納める宗教施設として、建築物を伴う「神社」も創出されたのではないか。❸章では、❶章の仮説①を検討するべく、律令国家が転換した十世紀以降における神社社殿と摂関期の国家・受領の関係について考えた。受領の神拝や神社修理について検討した結果、十世紀以降の神社社殿は、受領が社殿の繁栄や退転に大きく関係していることが判明した。律令期との相違は若干あるものの、摂関期の受領や国家などの支配者が神社社殿の維持に大きな役割を果たしたことは間違いないようである。律令国家は、神社社殿成立に深く関与しており、また、摂関期においても受領が中心となって社殿を維持していたと結論づけた。
井上, 智勝 Inoue, Tomokatsu
本稿は、近世における神社の歴史的展開に関する通史的叙述の試みである。それは、兵農分離・検地・村切り・農業生産力の向上と商品経済の進展など中世的在り方の断絶面、領主による「神事」遂行の責務認識・神仏習合など中世からの継承面の総和として展開する。一七世紀前半期には、近世統一権力による社領の没収と再付与、東照宮の創設による新たな宗教秩序の構築などが進められ、神社・神職の統制機構が設置され始めた。兵農分離による在地領主の離脱は、在地の氏子・宗教者による神社運営を余儀なくさせ、山伏など巡国の宗教者の定着傾向は神職の職分を明確化し、神職としての自意識を涵養する起点となった。一七世紀後半期には、旧社復興・「淫祠」破却を伴う神社および神職の整理・序列化が進行し、神祇管領長上を名乗る公家吉田家が本所として江戸幕府から公認された。また、平和で安定した時代の自己正当化を図る江戸幕府は、国家祭祀対象社や源氏祖先神の崇敬を誇示した。一八世紀前半期には、商品経済が全国を巻き込んで展開し、神社境内や附属の山林の価値が上昇、神社支配権の争奪が激化し始める。村切りによって、荘郷を解体して析出された村ではそれぞれ氏神社が成長した。また、財政難を顕在化させた江戸幕府は、御免勧化によって「神事」遂行の責務を形骸化させた。一八世紀後半期には、百姓身分でありながら神社の管理に当たる百姓神主が顕在化した。彼らを配下に取り込むことで神職本所として勢力を伸ばした神祇官長官白川家が、吉田家と対抗しながら配下獲得競争を展開し、復古反正の動向が高まる中、各地の神社は朝廷権威と結節されていった。また、神社は様々な行動文化や在村文化の拠点となっていた。明治維新に至るまでの一九世紀、これらの動向は質的・量的・空間的に深化・増大・拡大してゆく。近代国家は、近世までの神社の在り方を否定してゆくが、それは近世が準備した前提の上に展開したものであった。
橋本, 裕之 Hashimoto, Hiroyuki
本稿は奈良県天理市荒蒔の秋祭を対象にした調査報告である。この儀礼はかなり安定した形式を維持しているかのようであるが、じつのところ社会的かつ経済的な環境の変動にともなって少なからず変化してきた。それじたいはけっして異彩を放つものではないものの、随所に歴史が刻印されていることには、やはり大きな注意をはらっておかなければならない。本稿ではこうした認識にもとづきながら、一九九一年におこなわれた荒蒔の秋祭についてくわしく報告している。そのばあい、主要な関心は現在の秋祭を記録するところにむけられる。すなわち、一九九一年という「調査時現在」における調査報告を提示することによって、幾多の変遷を経てきたにちがいない秋祭の現在を変化の相に照らして微視的に記述しようというのがねらいである。その結果として、近代化の過程にさらされてある荒蒔という集落の現在が浮かびあがってくるのではないだろうか。ところで、秋祭は荒蒔に数多く伝承されている儀礼のうちでも最もよく保存されており、住民の意識を顕在化させる重要な媒体であるように思われる。そこで本稿では、秋祭にかかわる人々の、意識における変化についていささか論述している。具体的には、秋祭に組みこまれている奇妙な笑いの作法とそれにまつわっておこなわれる(おこなわれない)説明にそくしながら、本来的に言語化されない、つまり意味に回収されることをこばむものとしてある笑いを説明するためにさまざまな知識が動員される可能性を強調するとともに、笑いにまつわる説明が急速に世俗化しつつある現状を指摘したのであった。いずれにしても、儀礼という形式的行動に対する説明の所在は、今日でも微妙に揺れ続けている。したがって、眼前にある荒蒔の秋祭がかなり安定した形式を維持していたとしても、やはり黙してとおりすぎてしまうわけにはいかなかったのである。
松山, 由布子
本稿は、近世南都の暦師兼陰陽師であった吉川家について、その陰陽師としての活動の実態を、祭文をもとに明らかにするものである。吉川家は、大和国添上郡奈良町内の陰陽町を拠点に、南都暦を製作・頒布していた暦師のうちの一軒であり、また土御門家の配下の陰陽師として、檀那場にて陰陽道の祭祀に従事した。本稿では、吉川家の地鎮祭や宅鎮祭の祭文について取り上げる。地鎮祭は、家屋敷の造営などに際して犯土の祟りを受けないように行われる儀礼であり、古代より陰陽道の代表的な祭祀の一つであった。本稿では、国立歴史民俗博物館所蔵「奈良暦師吉川家旧蔵資料」より、二種類・八点の祭文を取り上げ、その内容や写本同士の書承関係について検証した。この二種類の祭文を、本稿では便宜上「地鎮安宅祭文」「地鎮祭祝詞」と称する。「地鎮安宅祭文」は、「宅鎮祭用物」の標題を持つ儀礼次第書の祭文部分である。「宅鎮祭用物」は、吉川家文書(H679―8―135)のほか、土御門家旧蔵資料(宮内庁書陵部所蔵)と若杉家文書(京都府立京都学・歴彩館所蔵)に写本が現存しており、吉川家本は書陵部本の写しと考えられる。陰陽町の藤村家を介して同町の陰陽師達に共有され、吉川家では「地鎮安宅祭文」として相伝された。安倍(土御門)家の祭文として伝えられる天正十一年(一五八三)書写『地鎮之祭文』と内容上の繋がりを持つ。一方「地鎮祭祝詞」は、現在のところ他家資料との繋がりは見いだせず、吉川家にのみ用いられた地鎮祭の詞章と推察される。これら二種類の祭文は、吉川家では十八世紀から十九世紀にかけて、歴代の吉川家当主により繰り返し書写されていた。本稿では、そうした書承により相伝された知識の中に土御門家伝来の儀礼詞章が見出せること、また地方陰陽師の側ではそうした〈正統〉的な知識を重要視しつつも、家独自の知識大系を確立していたことを明らかにした。
関沢, まゆみ
葬送儀礼についての研究関心は,社会の動向を背景に,Ⅰ.1980年代頃までの,葬送儀礼における個々の儀礼の意味と霊魂への対応とそれらの歴史への関心の段階,Ⅱ.1980年代,90年代以降の,葬祭業者委託の割合の増加と葬儀の変化の動向,それに伴う遺体処理の変化への関心という段階,Ⅲ.2000年以降の葬儀の簡略化に伴うさらなる変化の中にある現在,というふうに大きく変化してきているといえる。本稿は,このうちⅡの段階からⅢの段階への変化について,まずこれまでの調査から地域ごとの対応の差を概観し,そのうえで,農村部においては葬儀の変化だけが独立して起こっているのか,という問題について,近畿地方村落の宮座祭祀の伝承と変遷との関係において調査事例をもとに分析を試みたものである。調査事例としたのは,比較的遅くまで土葬が行なわれていて,2000年代に入ってようやく公営火葬場の利用に変わった近畿地方の両墓制と宮座を伝承してきた滋賀県蒲生郡竜王町綾戸と奈良市大柳生町の事例である。竜王町綾戸では,公営火葬場の利用によって,2005年に新たな石塔墓地の造成がなされ,それまでのサンマイ利用が消滅していった。綾戸では村の中に葬式の時だけ親類としての役割を果たすソーレンシンルイのしきたりが続けられてきていたがそれも2016年には解消された。さらに氏神の苗村神社の祭礼をつとめる当屋の負担の軽減がはかられることになり,葬儀の相互扶助の消滅への動きが祭りの改革も引き起こすことになったことが観察された。大柳生町では,2000年から2010年の半ばに土葬から火葬へ,そして自宅葬からホール葬へという変化がおこり,ほぼ同じ頃,2006年に宮座の明神の当屋に奉納される太鼓踊りの中止という事態が起こっていた。このようにこの2事例からは,村人の相互扶助による葬儀が変質し喪失していくなかで,村落の人びとの結集の弛緩が葬儀以外の場面でも起こっていることがわかる。
張, 平星
2022 年6 月12 日(日),日文研共同研究「日本文化の地質学的特質」の初めての巡検を,京都の名石・白川石をテーマに,その産出と加工,産地の北白川地域の土地変遷と石の景観,日本庭園の中の白川砂の造形・意匠・維持管理に焦点を当てて実施した。地質学,考古学,歴史学,宗教学,哲学,文学など多分野の視点から活発な現地検討が行われ,比叡花崗岩の地質から生まれた白川石の石材文化の全体像を確認できた。
設楽, 博己 Shitara, Hiromi
縄文時代の代表的な呪具である土偶は,基本的に女性の産む能力とそれにからむ役割といった,成熟した女性原理にもとつく象徴性をほぼ一貫して保持していた。多くの土偶は割れた状態で,何ら施設を伴わずに出土する。これらは故意に割って捨てたものだという説があるが,賛否両論ある。縄文時代後・晩期に発達した呪具である石棒や土版,岩版,岩偶などには火にかけたり叩いたりして故意に破壊したものがみられる。したがって,これらの呪具と関連する儀礼の際に用いたと考えられる土偶にも,故意に壊したものがあった蓋然性は高い。壊したり壊れた呪具を再利用することも,しばしばおこなわれた。土偶のもうひとつの大きな特徴は,ヒトの埋葬に伴わないことである。しかし,他界観の明確化にともなって副葬行為が発達した北海道において,縄文後期後葉に土偶の副葬が始まる。この死者儀礼は晩期終末に南東北地方から東海地方にかけての中部日本に広まった。縄文晩期終末から弥生時代前半のこの地方では,遺骨を再埋葬した再葬が発達するが,再葬墓に土偶が副葬されるようになったり,土偶自体が再葬用の蔵骨器へと変化した。中部日本の弥生時代の再葬には,縄文晩期の葬法を受け継いだ,多数の人骨を焼いて埋納したり処理する焼人骨葬がみられる。こうした集団的な葬送儀礼としての再葬の目的の一つは,呪具の取り扱いと同様,遺体を解体したり遺骨を焼いたり破壊して再生を願うものと考えられる。つまり,ヒトの多産を含む自然の豊饒に対する思いが背後にあり,それが土偶の本来的意味と結びついて土偶を副葬するようになったのだろう。そもそも土偶が埋葬に伴わないのは,男性の象徴である石棒が埋葬に伴うことと対照的なありかたを示すが,それは縄文時代の生業活動などに根ざした,社会における性別の原理によって規定されたものであった。土偶の副葬,すなわち埋葬への関与はこうした縄文社会の原理に弛緩をもたらすもので,縄文時代から弥生時代へと移り変わる社会状況を反映した現象だといえる。
辻本, 裕成 TSUJIMOTO, Hiroshige
『とはずがたり』の従来の主題論は、余りに近代的すぎる視点から行われてきたのではないかという疑問がある。小稿では、なるべく『石清水物語』をはじめとする同時代の例によりながら、『とはずがたり』の主題を検証し直したい。有明の月が柏木と重ねて造形されている宗教的な意味・有明の月の妄執と重ね合わせて描かれる二条の妄執の実態・その如き妄執から二条を救う八幡大菩薩の加護の論理、などを論ずる。
稲村, 務 Inamura, Tsutomu
中国の環境政策についてタイと比較することにより、棚田と焼畑の二つの農法が作り出す生態系にどのように作用しているのかを考察し、そうした環境の変化に対応してきたハニ=アカ族は単に変化のない社会を生きてきた非歴史的存在などではなく、移動してきたことを「歴史」の中に反復しながらそれを儀礼のなかに織り込んでいる人々である。本稿は中国西南西双版納州の消えた「村落」を主たる事例としてこれらを論じた。
春成, 秀爾 Harunari, Hideji
熊祭りは,20世紀にはヨーロッパからアジア,アメリカの極北から亜極北の森林地帯の狩猟民族の間に分布していた。それは,「森の主」,「森の王」としての熊を歓待して殺し,その霊を神の国に送り返すことによって,自然の恵みが豊かにもたらされるというモチーフをもち,広く分布しているにもかかわらず,その形式は著しい類似を示す。そこで人類学の研究者は,熊祭りは世界のどこかで一元的に発生し,そこから世界各地に伝播したという仮説を提出している。しかし,熊祭りの起源については,それぞれの地域の熊儀礼の痕跡を歴史的にたどることによって,はじめて追究可能となる。熊儀礼の考古学的証拠は,熊をかたどった製品と,特別扱いした熊の骨である。熊を,石,粘土,骨でかたどった製品は,新石器時代から存在する。現在知られている資料は,シベリア西部のオビ川・イェニセイ川中流域,沿海州のアムール川下流域,日本の北海道・東北地方の3地域に集中している。それぞれの地域の造形品の年代は,西シベリアでは4,5千年前,沿海州でも4,5千年前,北日本では7,8千年前までさかのぼる。その形状は,3地域間では類似よりも差異が目につく。熊に対する信仰・儀礼が多元的に始まったことを示唆しているのであろう。その一方,北海道のオホーツク海沿岸部で展開したオホーツク文化(4~9世紀)には,住居の奥に熊を主に,鹿,狸,アザラシ,オットセイなどの頭骨を積み上げて呪物とする習俗があった。それらの動物のうち熊については,仔熊を飼育し,熊儀礼をしたあと,その骨を保存したことがわかっている。これは,中国の遼寧,黄河中流域で始まり,北はアムール川流域からサハリン,南は東南アジア,オセアニアまで広まった豚を飼い,その頭骨や下顎骨を住居の内外に保存する習俗が,北海道のオホーツク文化において熊などの頭骨におきかわったものである。豚の頭骨や下顎骨を保存するのは,中国の古文献によると,生者を死霊から護るためである。オホーツク文化ではまた,サメの骨や鹿の角を用いて熊の小像を作っている。熊の飼育,熊の骨の保存,熊の小像は,後世のアイヌ族の熊送り(イヨマンテ)の構成要素と共通する。熊の造形品は,オホーツク文化に先行する北海道の続縄文文化(前2~7世紀)で盛んに作っていた。続縄文文化につづく擦文文化(7~11世紀)の担い手がアイヌ族の直系祖先である。彼らは,飼った熊を送るというオホーツク文化の特徴ある熊祭りの形式を採り入れ,自らの発展により,サハリンそしてアムール川下流域まで普及させたことになろう。それに対して,西シベリアでは,狩った熊を送るという熊祭りの形式を発展させていた。そして,長期にわたる諸民族間の交流の間に,熊祭りはその分布範囲を広げる一方,そのモチーフは類似度を次第に増すにいたったのであろう。
山里, 純一 Yamazato, Junichi
八重山諸島には雨乞い儀礼に関するニガイフチィや雨乞い歌が数多く残っている(1)。その内容も豊富で、往時の人々が降雨を何にどのように祈願していたかがわかる貴重な資料である。雨乞い歌の基本的な構造は変わらないが、雨に対する観念は村によって若干相違が見られる。ニガイフチィや雨乞い歌に見える祈願内容には、雨をどのように認識していたか、また雨が降らない理由や降雨に至るプロセスなども織り込まれていて、往時の人々の雨に対する考えを知ることができる。
関沢, まゆみ Sekizawa, Mayumi
本論文ではまず国立歴史民俗博物館『戦争体験の記録と語りに関する資料調査』(全四冊、二〇〇三・二〇〇四年)のデータから、戦没兵士に対して、生還した帰還兵士の場合と、戦没兵士の遺族の場合との両者において、それぞれどのように彼らの死が受け止められているのか、その対応についての分析を行った。両者共に「体験した人にしかわからない」という語りの閉鎖性が特徴的であった。そこで、戦争と死の記憶と語りの特徴をより広い視点から捉えなおす試みとして、日本における戦没兵士や広島の原爆被災者に関する語りを含めて、さらにフランスの、ナチスによる住民虐殺が行われた二つの町の追悼儀礼の事例調査を行い、日本とフランスとの差異についての考察を試みた。論点は以下の三点にまとめられる。第一に、戦争体験の記憶には大別して、「死者の記憶」と「事件の記憶」の二つのタイプがある。死者の記憶の場合には、戦闘員個々人に対して追悼、慰霊の儀礼が行われる。それに対して事件の記憶の場合には、一つは非戦闘員の大量死である悲惨な虐殺、もう一つは戦闘員の激戦と勝利または敗北、があるが、前者の悲惨な虐殺の場合、たとえばそれはフランスのグエヌゥの虐殺やオラドゥール・スール・グラヌの虐殺から日本のヒロシマ、ナガサキの原爆まで多様な事実があるが、その悲惨は戦争という「愚行」へと読み替えられる。そして、死者の記憶はいわば「個人化される」記憶であり、事件の記憶は「社会化される」記憶であるといえる。個人化される死者の記憶と表象は「死者」への追悼、慰霊の諸儀礼としてあらわれ、社会化される「事件」の記憶は、戦争と殺戮という「愚行」への反省と懺悔の意識化へ、また一方では戦勝の記念と顕彰の行事としてあらわれる。その個人化される記憶の場合には時間の経過とともに体験世代や関係者世代がいなくなれば、記憶の風化と喪失へと向かい、一方、社会化される事件の記憶の場合には世代交代を経ても記憶はさまざまな作用力が介在しながらも維持継承される。第二に、フランスのグエヌゥやオラドゥール・スール・グラヌの虐殺の場合には、死者への追悼とともに彼らのことを決して忘れないという「事実の記憶」を重視する儀礼的再現と追体験とが中心となっているのに対して、日本の場合は、「安らかに眠ってください」という集団的な「死者の記憶」が重視され、その冥福が祈られている。そこには、日本とフランスの自我観・霊魂観の相違が反映していると考えられる。第三に、フランスにおいても日本においても「戦争と死」の記憶の場として民俗的な伝統行事が有効に機能していることが指摘できる。フランス、グエヌゥでは、五月に行われるトロメニにおいてペングェレックという新しいスタシオンを組みこんでおり、広島と長崎の場合、八月の盆の月に原爆記念日が、そして一五日には終戦記念日が重なって、死者をまつる日となっている。
阿満, 利麿
死後の世界や生まれる以前の世界など<他界>に関心を払わず、もっぱら現世の人事に関心を集中する<現世主義>は、日本の場合、一六世紀後半から顕著となってくる。その背景には、新田開発による生産力の増強といった経済的要因があげられることがおおいが、この論文では、いくつかの思想史的要因が重要な役割を果たしていることを強調する。 第一は、儒教の排仏論が進むにつれてはっきりしてくる宗教的世界観にたいする無関心の増大である。儒教は、現世における倫理を強調し、仏教の脱社会倫理を攻撃した。そして、儒教が幕府の正統イデオロギーとなってからは、宗教に対して無関心であることが、知識人である条件となるにいたった。 第二の要因は、楽観的な人間観の浸透である。その典型は、伊藤仁斎(一六二七―一七〇五)である。仁斎は、正統朱子学を批判して孔子にかえれと主張したことで知られている。彼は、青年時代、禅の修行をしたことがあったが、その時、異常な心理状態に陥り、以後、仏教を捨てることになった。彼にとっては、真理はいつも日常卑近の世界に存在しているべきであり、内容の如何を問わず、異常なことは、真理とはほど遠い、と信じられていたのである。また、鎌倉仏教の祖師たちが、ひとしく抱いた「凡夫」という人間認識は、仁斎にとっては遠い考えでもあった。 第三は、国学者たちが主張した、現世は「神の国」という見解である。その代表は、本居宣長(一七三〇―一八〇一)だが、現世の生活を完全なものとして保障するのは、天皇支配であった。なぜなら天皇は、万物を生み出した神の子孫であったから。天皇支配のもとでは、いかなる超越的宗教の救済も不必要であった。天皇が生きているかぎり、その支配下にある現世は「神の国」なのである。 しかしながら、ここに興味ある現象がある。儒教や国学による激しい排仏論が進行していた時代はまた、葬式仏教が全国に広がっていた時期でもある。民衆は、死んでも「ホトケ」になるという葬式仏教の教えに支えられて、現世を謳歌していたのである。葬式仏教と<現世主義>は、楯の両面なのであった。
花部, 英雄 Hanabe, Hideo
四五〇〇もの俗信を集めた「北安曇郡郷土誌稿」は、日本の俗信研究の先駆けとなる資料集である。その中の「夢合せ」の項に二〇〇ほどの夢にかかわる俗信がある。まずはこの俗信のうち「夢の予兆」にあたる内容を分析し、民俗としての夢の一般的傾向を明らかにする。次に、「夢の呪い」について、夢を見る以前、以後とに分けてその内容を検討し、夢をどのように受けとめ、それに対応しているかを確認する。さらに呪いのうち韻文形式をとる三首の歌を話題にして、全国的事例からその内容、意味を分析する。そして、この呪い歌の流通の背景に専門の呪術者の関与があることを例証し、呪術儀礼の場で行なわれ、やがて民間に降下してきたことを跡づける。続いて、呪文の「悪夢着草木好夢滅珠玉」を話題にする。福島県の山都町史に悪夢を見た朝、北に向かい「悪夢ジャク、ソラムク、コウムジョウ」と三回唱えればよいという。前述の呪文を耳に聞いた形で伝えてきたものと思われる。この呪文が求菩提山修験の符呪集にあり、修験山伏がこの祈祷にかかわってきたことがわかる。同じ呪文が、陰陽道系の呪術を記した南北朝時代の『二中歴』にあり、ここでは人形に悪夢を付着させて水に流したり、焼却したりする作法が記されている。宮廷の陰陽道儀礼の中で、「悪夢は草木に着け」の呪文が唱えられてきたのであろう。平安時代の『簾中抄』や『口遊』では、桑の木に悪夢を語るとある。なぜ桑の木に悪夢を語るのが悪夢祓いになるのか。現行の民俗を見ていくと、奄美のクチタヴェ(呪文)に好い夢は残り悪い夢は草の葉に止まれというのがある。また、南天に夢を語り、揺するという例もある。南天は「難転」の語呂合せであり、さまざまな呪術儀礼に用いられるが、古くは桑が悪夢消滅の草木であった。桑は蚕の食物であり、悪夢を桑の葉に付着させ、蚕に食べてもらうことで悪夢を消滅させるというのがその原義にあったのではないか、というのが本稿の結論となる。
上野, 和男 Ueno, Kazuo
本稿は、一九九七年以降の現地調査もとづいて、奈良県東北部に位置する室生村東里地区の宮座組織と祭祀儀礼の構造について、多田と染田の二つの集落を中心に考察する調査報告である。本稿の主要な課題は次の二点である。第一は、宮座の家族レベルの構造原理である当屋制と、個人レベルの構造原理としての年齢序列がどのようにかかわっているかを、事例に即して考察することである。ここで対象とする地域においては、年齢順に着座したり祭祀の執行にあたるなど、年齢序列が一定の重要性を保持してきたことは事実である。したがってこの問題はこの地域の宮座が、宮座一般論に提起する問題のひとつである。と考えられる。第二は、宮座儀礼の構造の問題のひとつとして、宮座が実際にさまざまな祭祀を行う場合、その方法の問題がある。これはすなわち、特定の当屋に祭祀的役割や経済的負担を集中させるか否かの問題である。これまでの宮座研究ではこれに二つの型がみとめられることが明らかにされてきたが、対象とする地域でどのような傾向がみとめられるか考察するのが第二の課題である。これらの課題について、考察の結果、次の結論を得た。ひとつは、この地域の宮座の基本的原理は家を単位とする当屋制原理であり、年齢序列はそのなかで個人の地位関係を設定する補助的な役割を果たしていると考えられる。いまひとつは、この地域の宮座は、特定の家に極端に集中させることを避け、複数の当屋が役割を分担したり、費用を負担する傾向が強いと考えることができる。
川森, 博司 Kawamori, Hiroshi
一般に何かの異常が生じたとき,死んだ者が生きている者の世界に何らかの影響を及ぼしていると考えられることが多くあるが,その説明の仕方は文化によって異なる。本稿では,墓地をめぐる「風水」の考え方を中心にして,東アジアの各地域における生者と死者の関係の設定の仕方を考察する。まず,韓国の農村における民族誌的データにもとついて,風水の原理の特定の地域への定着の仕方を検討する。次に,韓国における風水と儒教祭祀,巫俗信仰の三者の相互関係についての崔吉城のモデルを比較のための導入し,日本本土における遺体・遺骨へのこだわりはどのように位置づけられるか,を検討する。その結果,韓国や中国,台湾の場合にみられるような葬送儀礼終了後,長期にわたって死者の遺体や遺骨と生き残った者との影響関係を設定する考え方は,日本本土においては非常に稀薄であることが示される。このことを比較の視点からみると,日本本土には墓地の風水の思想が受け入れられなかったことが,葬送儀礼終了後の遺体・遺骨へのこだわりのなさと対応している,と考えることができる。この場合,問題となるのは,沖縄・奄美地域にみられる洗骨の習俗である。これについても,墓地風水思想の受容との関わりでその位置づけを考察していく可能性がある。中国や韓国における研究を内在的に理解して,そこから分析のモデルを設定し,東アジアの地域的な広がりのなかで考察を進めることによって,日本の事例の特殊性と普遍性について新たな理解が得られるのではないだろうか。
菊池, 勇夫 Kikuchi, Isao
『松前屏風』は、地元の絵師小玉貞良が蝦夷地の場所を請け負う商人の依頼によって、18世紀半ば頃の松前藩の城下町(福山)の景観を描いたものである。この屏風の読解の1つの試みとして、唯一アイヌの人々が描き込まれている松前来訪の部分に焦点をあててみた。彼等は毎年5月前後に艤装した船で蝦夷地各場所から貢物を持ってきて、沖の口番所近くの浜辺に、円錐状の丸小屋と呼ばれる持ち運び可能な仮設の住まいを作り、そこに滞在した。屏風にはアイヌの乙名(オトナ、村の長)らが松前藩主に謁見するために、藩士(通詞)に案内されて丸小屋から松前城に向かうところが描かれている。近世初期、松前城下はアイヌの人々が蝦夷地から盛んにやってきて交易(=ウイマム)する場であった。1640年代頃より商場知行制が展開してくると、松前の船が蝦夷地に派遣されるようになり、アイヌの城下交易は衰退を余儀なくされた。1669年のシャクシャインの戦い以後、このウイマム交易は松前藩によって御目見儀礼に変質させられ、松前藩の政治的支配の浸透として理解されている。しかし、見方を変えてアイヌ側からこの18世紀の御目見儀礼を捉えるならば、アイヌ側の主体的な意思もまた汲み取ることができるのではないか、というのが本稿の主眼である。18世紀末になると、松前城下からアイヌの丸小屋の風景が消えていく。それはどのように評価すべきことなのか。おそらくはシャクシャインの戦い以後の近世中期的な松前藩とアイヌの関係の終焉を意味していたに違いない。
中島, 俊郎
本稿は、サー・ジェームズ・ブルックがサラワクを統括した時、ミッショナリー活動を通じて先住部族民イバン(ダヤク族)に文化変容を強いながら、統治し、かつ宣撫工作としてキリスト教を援用した事例を検証する。次に大英帝国は重商主義政策でもって、サラワクを統治したが、どのように宗教活動が有効な施策となりえたのか、を考察する。三代にわたるラジャ・ブルックは植民地主義を遂行するうえで、ミッショナリー活動と不即不離の関係を保持していく。だが三代目ヴァイナー・ブルックはミッショナリー活動を日沙商会との経済活動に転化させつつ共存の道を模索していく。
Akamine, Kenji 赤嶺, 健治
A Foregone Conclusion (1875) は Howells の第三作目の小説であるが、執筆に8年をかけ初めて本格的に取り組んだ作品で、作者はこれを“My first novel”と呼んでいる。出版当時の書評で Henry James は、この小説は「真の想像力で劇的な状況」を描く Howells の力量を証明しており、芸術性が高いと述べている。作者は、カトリック教会の神父という地位にありながら、その教義と伝統への懐疑に悩む Don Ippolito の不運な境遇を通して、種々の宗教問題を提示し、それらに対する批判を織り込みながら物語を展開している。視点人物として据えた自らの分身であるベニス駐在アメリカ領事 Henry Ferris の口を借りて作者が提示する問題の中でも最も深刻なのは、30歳になる Don Ippolito 神父自身の不可知論と聖職離脱へのあがきである。同神父は聖職を放棄して発明の才能が生かせるアメリカへ渡ることを望んでいるが、教会の圧力と自らの優柔不断のため決行の時機を逸し続け、懐疑的な神父と反抗的な発明家志望者の偽善的二重生活を送っており、このままではアイデンティティ喪失のみならず背教者として教会や世間から疎外されるのは明白である。Howells は一人の神父の窮状を17歳のアメリカ娘 Florida への思慕の念をからめて描きながら、カトリック教会の人、組織、教義、伝統等の諸問題とりわけ聖職者の本分逸脱を指摘し、それらを厳しく批判する中で、自らの宗教観を明らかにするという効果をあげている。
西本, 豊弘 Nishimoto, Toyohiro
弥生時代の遣跡から出土する「イノシシ」について,家畜化されたブタかどうか,再検討を行った。その結果,「イノシシ」が多く出土している九州から関東までの8遺跡では,すべての遺跡でブタがかなり多く含まれていることが明らかとなった。それらのブタは,イノシシに比べて後頭部が丸く吻部が広くなっていることが特徴である。また,大小3タイプ以上は区別できるので,複数の品種があると思われる。その形質的特徴から,筆者は弥生時代のブタは日本でイノシシを家畜化したものではなく,中国大陸からの渡来人によって日本にもたらされたものと考えている。また,ブタの頭部の骨は,頭頂部から縦に割られているものが多いが,これは縄文時代には見られなかった解体方法である。さらに,下顎骨の一部に穴があけられたものが多く出土しており,そこに棒を通して儀礼的に取り扱われた例も知られている。縄文時代のイノシシの下顎骨には,穴があけられたものはまったくなく,この取り扱い方は弥生時代に特有のものである。このことから,弥生時代のブタは,食用とされただけではなく農耕儀礼にも用いられたと思われる。すなわち,稲作とその道具のみが伝わって弥生時代が始まったのではなく,ブタなどの農耕家畜を伴なう文化の全生活体系が渡来人と共に日本に伝わり,弥生時代が始まったと考えられるのである。
川並, 宏子
当論文はビルマ尼僧院学校における財産所有と経済生活の調査研究を通じて,親族の影響から完全に離脱できず,「不完全な」出家生活を余儀なくされている尼僧の宗教的立場を明らかにする。ピルtは上座部仏教圏のなかでも際立って仏典の学習が盛んで,僧侶だけではなく数多くの尼僧学者が輩出されてきた。その成功を支える「オー」という生活共同体と尼僧間にみられるパートナーシヅプにとくに注目する。一方,尼僧院学校では継承問題が絡むと血縁の影響が濃くなり,次第に教育機関としての学業効率化に向けた役割を失っていく。
Saito, Akira
ボリビア・アマゾンのモホス地方の先住民族トリニタリオのあいだには,近年まで,専門の霊媒師が死者の親族の依頼を受けて,故人の霊を呼び出すという降霊術が存在していた。降霊術にやってくる死者はすべて先住民だが,白人で唯一,ビルトゥチという大昔の殺人者がたびたび現れ,失踪者の居所や紛失物のありかを告げることで,魂の救済に不可欠なキリスト教の祈りを受け取っていた。本論は,なにゆえ先住民の降霊術に白人の殺人者の霊が呼び出されるのかという疑問に答える試みである。 歴史資料によれば,ビルトゥチは20世紀初め,殺人の餐で公開の銃殺刑に処せられた。彼の処刑は,成立後間もないモホス地方の司法機関が執行した最初の処刑であり,共和国政府がその権力を誇示する最初の機会だった。他方,処刑という国家儀礼を初めて目にした先住民にとって,それは衝撃的な出来事であり,その衝撃が後にビルトゥチにまつわる特異な信仰と伝承として具体化したのだと推定される。 筆者の考えでは,先住民にとってビルトゥチの処刑は,それ以後国家が神になりかわって罪を裁くのだということを宣言する儀礼的演出にほかならなかった。こうした国家司法の概念は,罪を裁く権利を神にのみ認める先住民の司法概念と真っ向から衝突するものだった。本論は,ビルトゥチにまわつるトリニタリオの信仰と伝承を,国家による司法的正義の独占に対する彼らの批判,およびその転覆の試みとして読み解こうとするものである。
西田, 彰一
戦前の日本において、神道の思想を日本から世界に拡大しようと試みた筧克彦の思想については、現在批判と肯定の両面から研究がなされている。しかし、批判するにせよ評価するにせよ、筧の思想についてはほとんどの場合「神ながらの道」の思想にのみ注目が集まっており、法学者であったはずの筧がなぜ宗教を語るようになったのか、どのような問題意識を持って研究を始めたのかについての研究は殆どない。そこで、本稿では一九〇〇年代における筧の思想を明らかにすることで、その学問の形成過程を明らかにしたい。 そこで、筆者は筧が自由と主体の自覚的な活動(=筧の言葉でいえば「活働」)を重視していたことに注目した。筧克彦の議論の骨子は個人の自由と国家の自由というは互いに対立するものではなく、むしろ個人の自由を認めれば認めるほど、国家への寄与を深めていくようになるというものである。そのため筧の議論を批判するにしても評価するにしても、この論理を解き明かした上でなければならないであろう。 こうして、筆者は主に初期の論文の分析を通して、筧の初発の問題意識と方法論について述べた。そしてこの当時の筧の議論の主張が、①自我の自由の希求への強いこだわり、②自我を拡大していくことによる社会や国家への貢献、③天皇制国家の下での「自由」の実現、④意識の統一体としての宗教に注目したことを明らかにした。
ジョージ, プラット アブラハム
宮沢賢治は、詩人・童話作家として世界中に知られるようになった。岩手県出身の賢治の作品に岩手県もなければ、日本もなく、「宇宙」だけがあるとよく言われる。まさにその通りである。彼のどの作品の中にも、彼独自の人生観、世界観及び宗教観が貫いていて、一種の普遍性が顕現していることは、一目瞭然である。彼の優れた想像力、超人的な能力、そして一般常識の領域を超えた彼の感受性は、日本文学史上、前例のない一連の文学作品を生み出した。賢治の文学作品に顕現されている「インド・仏教的思想」、つまり生き物への慈悲賢治の思想と彼の人格を形成した主な外力として、彼の生まれ育った家の環境、宗教とりわけ、法華経から受けた霊感、教育と自然の観察によって取得した啓蒙的知識、貧しい県民への同情などが取り上げられる。本稿の前半で賢治の思想と人格を形成したこれらの外力についてふれ、その次に「よだかの星」という作品を中心に賢治作品に顕在している「非暴力」「慈悲」及び「自己犠牲の精神」の思想を考察した。最後に、「ビヂテリアン大祭」という作品を基に、賢治の菜食主義の思想の裏に潜む仏教的観念とインドにおける菜食主義との関連性を論じ、賢治作品の顕現しているインド・仏教的思想を究明した。と同情、不殺生と非暴力主義、輪廻転生、自己犠牲の精神及び菜食主義などの観念はどんなものか、インド人の観点から調べ、解釈するとともの賢治思想の東洋的特性を強調することが、本稿のねらいである。
広瀬, 和雄 Hirose, Kazuo
中海の航行へのビジュアル性を意識した塩津丘陵遺跡群からは,弥生時代後期末の一大建物群が見つかっている。そこでは首長居宅と思われる布掘建物,各種製品を保管した高床倉庫群,手工業生産の「工房」,住まいである竪穴住居など,性格の異なった建物群が計画的に配置されていた。とくに,丘陵頂部の布掘建物を囲んで建設された30棟以上の高床倉庫群(一時期には10数棟)や,ひな壇状につくられた70以上の加工段群―17ヶ所から工具・未製品や炉壁・鍛造剥片などが出土―は,通常の農耕集落ではとうてい見られない。ここでは,少なくとも鉄器の鍛造や碧玉製品の製作があったが,予測される生産量の多さから,製品が広域に供給されたのはまず間違いない。そして,それらが交換された手工業製品の一大生産・交易センターだったのも動かない。周囲には水田稲作に適した平野はないし,隣接した丘陵には同時期の一大首長墓群―出雲東部~伯耆西部地域の集団的帰属意識を象徴する観念的・宗教的センター―が築造されている。加えて,短期間の開始と廃絶などからすれば,この非農耕集落の成立には荒島墳墓群に結集した広域首長層の政治意志が働いたとみたほうが理解しやすい。私は<政治的・経済的・宗教的センター機能が一ヶ所に集められ,それらを担った人びとが集住した場>を都市と概念づけるが,ほかの弥生都市にくらべると存続期間は短いものの,塩津丘陵遺跡群はまさにそれに該当する。
柳沢, 英輔
本稿は,ベトナム中部高原に居住する山岳少数民族の伝統的な高床式集会施設「ニャーロン」を対象とする。ニャーロンのデザインは中部高原の各少数民族の伝統的な建築様式に基づいている。ニャーロンは古くより中部高原山岳少数民族の社会生活に重要な役割を果たしてきたが,近年,一部の地域では,森林資源の枯渇,キリスト教の普及,市場経済化以後の村人の生活スタイルの変化などを背景に,ニャーロンの役割や建築様式,落成式の儀礼内容に変化が見られる。本稿では,フィールド調査で得た民族誌的資料と文献資料に基づき,コントゥム省,ジャライ省におけるニャーロンの現状について考察する。
小林, 健二 KOBAYASHI, KENJI
能《源氏供養》は『源氏供養草子』を典拠としていることが指摘されていたが、《源氏供養》は石山寺を供養の舞台とし、また供養の依頼者である紫式部が実は石山の観音であったという大きな相違を有する。本稿では、石山寺という紫式部伝承の磁場に注目し、紫式部が観音の化身であったとする言説や、源氏の間という特殊な宗教空間、崇拝の対象となったであろう紫式部画像、そして歌人達の紫式部を尊崇する文芸行為を通して、石山寺において源氏供養がなされていた可能性を追究し、《源氏供養》が制作された背景の一斑について考察した。
平川, 南 Hirakawa, Minami
さきに拙稿「墨書土器とその字形」において、古代の集落遺跡から出土する墨書土器は、一定の祭祀や儀礼行為等の際に土器になかば記号として意識された文字を記載したのではないかと指摘し、今後、古代村落内の信仰形態の実態を究明しなければならないと課題を提示した。本稿では、特に千葉県の印旛から香取地方にかけて、近年、著しく資料の増加をみている文章化された墨書土器を素材として、その祭祀や儀礼の具体的内容を明らかにすることを目的とした。まず、第一には、房総地区を中心として、東日本各地における文章化された墨書土器について、出土遺跡・遺構そして墨書内容等に関する情報を整理してみた。第二には、これらの墨書内容からは概観するならば、古代の人々が、自らの罪におののき、死を恐れ、必死に延命を願う姿を読みとることができる。さらに、古代の人々が恐れた冥界は、いうまでもなく、古代中国において形成されたものであるが、我が国にどのような形で受容されていったか、全体的動向をみてみることとした。その結果、古代中国においては、死後の世界に関する中国人の古来の俗説の刺戟によって触発され、仏教とも道教とも一般信仰ともつかぬ混合した相で現れたものとみられる。このようにして形成された冥界信仰は、おそらくそのままの形で我が国に受容されたと推測される。『日本霊異記』には、その具体的説話が多数収載されている。結局のところ、現状でみるかぎり、東日本各地における集落遺跡出土の多文字の墨書土器は、古代の人々が、自らの罪によって冥界に召されることを免れるために、必死で土器に御馳走を盛って供えるいわゆる賄賂(まいない)行為を実施していた姿を伝えたものと理解できるのである。
上野, 和男 Ueno, Kazuo
この報告は、沖縄八重山波照間島の盆行事についての記述と分析である。波照間島の盆行事はムシャーマを中心とする村落レベルの行事と家族単位の盆行事の二つに区分される。ムシャーマは来訪神ミルクを先頭とする仮装行列と棒術、太鼓、獅子舞、ニンブチャー(念仏踊り)を内容とする行事であり、村落レベルでの盆行事にはこのほかに来訪神アンガマの行事とイタシキバラとよばれる行事がある。これに対して家族単位の盆行事は、先祖を迎えて供物を供えて供養し、そして先祖を送るという、構造的にはごく一般的な内容の盆行事である。本稿では波照間島の盆行事をつぎの三点を中心に考察を試みた。第一は、村落レベルの行事と家族単位の盆行事の儀礼過程の記述と両者の意味の差異、および両者の関係についての検討である。第二は、ムシャーマ行事のもつ祖先祭祀的性格と農耕儀礼、特に豊年祭的性格についての考察である。そして第三は、盆行事に登場するミルク、フサマラー、アンガマの三つの来訪神についての検討である。これらの諸問題について分析の結果、つぎのような結論に達した。第一に、波照間島の盆行事のうち、村落レベルの行事は主として無縁の先祖に対する供養がその中心であり、家族レベルの盆行事は各家族の正当な先祖に対する祖先祭祀であって、両者は意味が異なる。第二に、村落レベルの盆行事は、豊年祭的要素と祖先祭祀的要素の双方を含んでおり、これはもともと無縁先祖に対する祭祀として行われていたムシャーマ行事に豊年祭アミジワーの行事が移行し両者が合体した結果である。第三に、八重山地域で活発に行われている来訪神信仰のなかでも波照間島のミルク、フサマラー、アンガマは、たとえばミルクがブーブザーとよばれる夫やミルクンタマとよばれる子供たちとセットになって登場するなど、いくつかの独自の特徴をもつことが明らかになった。
目野, 由希
明治時代半ばまでの初等教育では、各地の郷土史と郷土の地理、土地の出身者などを教えるため、「史談」と呼ばれるテキストが使用されていた。また、蘭学者大槻盤渓が幕末に書いた、短い数多の随筆からなる日本中世・近世史『近古史談』が、明治期以降、世代を問わず、広い範囲の読者に愛好された。この『近古史談』は、美しく明快な漢文で書かれていたため、歴史や漢文を児童に教えるための教材としても採用された。他にも明治期には、宗教講話や名士の談話速記、歴史を論ずる随筆等が「史談」のジャンルとして意識されていた。 初等教育教材としての「史談」は、明治三三年以降はほとんど使われなくなる。その後、大正期以降、「史談」で郷土史教育を受けた児童達は、各地で「史談会」を結成し始める。アマチュア歴史家達が、公共の図書館や博物館を利用して郷土史研究を行う「史談会」活動は、現在に至るまで重要な日本の郷土史研究形成の基礎である。 大正期以降の「史談」は史談会刊行物が中心となり、宗教講話や談話速記を「史談」ジャンルに含めるケースはなくなってゆく。昭和期以降は、伝記や回顧録が「史談」の主要な用例に加わる。 以上、明治期の「史談」は、歴史・文学・修身等を含む広義の「文学」概念の一部であったのだが、初等教育の方針変更、また郷土史研究における用例での特化が進み、二〇世紀初頭から、「歴史」「文学」といったメジャーなジャンル概念から外れてしまう。ちょうどその頃が、広義の「文学」概念が全体的に変容する時期である。
上垣外, 憲一
雨森芳州(一六六八~一七五五)は長いこと対馬藩にあって、朝鮮関係の外交を担当していた。彼はまた朝鮮語、中国語に堪能だったことでも知られている。 当時の日本の儒学者たちは中国文明を中華と見なすかどうかをめぐって議論を繰り広げたのだった。荻生徂徠は、中国文化、それも古代の中国こそが最もすぐれているとした。言語においても中国語は日本語よりも優れ、その中国でも古代の言語が最高であるとした。なぜなら聖人は、日本でもなく西域でもなくまさに中国古代にのみ生まれたからである。 芳州はこのような中国文明の崇拝、中国中心主義を否定した。中国と周辺の「夷狄」の国々は貿易を通じて相互依存の関係にある。また言語についても芳州は中国語と日本語が、コミュニケーションの手段としては、等しい価値を持つと考えていた。ある国、ある民族の価値は、「君子と小人」の数の多い、少ないによってきまる、と芳州はいう。一民族の価値は歴史の中でその道徳水準、教育水準によって可変なのである。 このような相対主義的な思考法は、同じ十八世紀のヨーロッパにも見て取れる。ヴォルテールはその「寛容論」(一七六三)の中で一つの決まった宗教の優越を否定した。ドイツの劇作家レッシングは「賢人ナータン」の中でキリスト教、ユダヤ教、イスラム教の平等を主張している。宗教は人間性の基準によって評価されるのである。このようなヨーロッパの人道思想と興味深い類似点を持つ芳州の著作は、一人の徳川知識人がいかに相互依存的で平等主義的な世界像を形成していったかを、われわれに示してくれる。
真鍋, 祐子 Manabe, Yuko
本稿の目的は,政治的事件を発端としたある〈巡礼〉の誕生と生成過程を追うなかで,民俗文化研究の一領域をなしてきた巡礼という現象がかならずしもア・プリオリな宗教的事象ではないことを示し,その政治性を指摘することにある。ここではそうした同時代性をあらわす好例として,韓国の光州事件(1980年)とそれにともなう巡礼現象を取り上げる。すでに80年代初頭から学生や労働者などの運動家たちは光州を「民主聖地」に見立てた参拝を開始しており,それは機動隊との弔い合戦に明け暮れた80年代を通じて,次第に〈巡礼〉(sunrae)として制度化されていった。しかし,この文字どおり宗教現象そのものとしての巡礼の生成とともに,他方ではメタファーとしての巡礼が語られるようになっていく。光州事件の戦跡をめぐるなかでは犠牲となった人びとの生き死にが頻繁に物語られるが,それは〈冤魂〉〈暴徒〉〈アカ〉など,いずれも儒教祭祀の対象から逸脱した死者たちである。光州巡礼における死の物語りは,こうしたネガティヴな死を対抗的に逆転評価するなんらかのイデオロギーをもって,「五月光州」のポジティヴな意味を創出してきた。すなわち光州事件にまつわる殺戮の記憶の物語りに見出されるのは,自明視された国民国家ナショナリズムを超え,それに対抗する代替物としての民族ナショナリズムを指向する政治的脈絡である。光州をめぐるメタファーとしての巡礼は,それゆえ,具体的には「統一祖国」の実現過程として表象される。そこでは統一の共時的イメージとして中朝国境に位置する白頭山が描出されるとともに,統一の通時的イメージとして全羅道の「抵抗の伝統」が語られる。
山里, 純一 Yamazato, Junichi
沖縄は日本本土とは風に対する考えが異なる。たとえば日本各地にある「風穴」という言葉は沖縄では全く聞かない。むしろ琉球国時代から今日まで、王府役人から庶民に至るまでよく用いられた言葉は「風根」であった。また沖縄は、毎年数個の台風が襲来するが、日本本土に見られる風切り鎌のような風除けを目的とした習俗や、辟邪物はない。航海の時や作物の生長期に風を鎮める祈願は行われるが、それは本土の風神や風鎮祭とは必ずしも同じではない。沖縄にはそもそも風に対する祭祀儀礼が存在しないのである。沖縄の地理的環境は、風についても独自の概念と民俗を生み出した。
郑, 晓云
中国に居住しているタイ族の人ロは、110万人あまりである。紅河(中国では元江と呼ばれる)地域は、タイ族が比較的集中し、独特の文化を持っている地域である。中国の紅河流域に居住しているタイ族の人口は、およそ15万人であり、中国のタイ族全人口の13パーセントを占めている。そのうち、紅河上流の新平県と元江県の両地域のタイ族の人口が最も多く、紅河流域のタイ族全人口の半分以上を占めている。 花腰タイは、そもそも紅河流域に住んでいる一部のタイ族に対して他の民族が与えた称呼である。この地域の女性がいつも長くてカラフルな布帯を腰にしめていたことから、このような名前が付けられたのである。花腰タイは、いくつかの自称の異なるサブエスニックグループに分けられている0主なものとして、新平県のタイ洒、タイf、タイ雅、そして元江県のタイ仲、タイ未、タイ雅、タイ得とタイ濾がある。 花腰タイ独特の文化的特徴は、主に4つの側面に現れている。1)服飾様式:女性は長くてカラフルな帯を腰にしめる慣習がある。この慣習は、さらに腰帯の織り、腰帯の使用及び腰帯の意味合いを含む関連文化を生み出している。2)居住様式:紅河上流の花腰タイは、自分たちの建物を「土掌房」と呼んでいる。それは他の地域のタイ族の建築様式とはかなり異なっている。3)祝日:花腰タイには「赴花街」のような独特の祝日がある。4)信仰:花腰タイは、他のタイ族と同じようにアニミズム的な原始宗教を持っているが、独自の宗教観念と祭祀活動も持っている。 本論文の目的は、現代の社会環境における花腰タイの文化的変化を考察するところにある。花腰タイの文化的変化の特徴は、伝統を維持しながら変化するところにある。伝統的服飾、「土掌房」のような伝統的民居、お歯黒や入れ墨などの慣習がまだ残っている。いまでも、多くの若者の間に、お歯黒や入れ墨がみられる。タイ語は依然として日常生活の中で重要な言語になっている。伝統的な祝日もまだ残っている。一方では、最も典型的で、花腰タイの特色がよく出ている「赴花街」が復活し、活性化している。原始的宗教の主要な儀式は、他の地域のタイ族のそれと比べより完全な形で残されている。 現在,花腰タイの社会生活には大きな変化が起きている。彼らの経済活動は、自給自足の伝統的様式から市場経済の様式に変わっている。花腰タイの文化も、ますます注目され、その知名度が高くなりつつある。観光産業はこの地域において、迅速な発展を成し遂げてきた。人口の流動も激しくなってきて、地元の人々が出稼ぎやビジネスのために外に出ることが以前より頻繁になっている。
鈴木, 寿志
令和4年度に国際日本文化研究センターにおいて共同研究「日本文化の地質学的特質」が行われた。地質学者に加えて宗教学・哲学・歴史学・考古学・文学などの研究者が集い,地質に関する文化事象を学際的に議論した。石材としての地質の利用,生きる場としての大地,信仰対象としての岩石・山,文学素材としての地質を検討した結果,日本列島の地質や大地が日本人の精神面と強く結びつき,文化の基層をなしていることが示唆された。変動帯に位置する日本列島では地震動や火山噴火による災害が度々発生して人々を苦しめてきたが,逆に変動帯ゆえの多様な地質が日本文化のあらゆる事象へと浸透していったとみられる。
張, 鈴
小論は大正初期の第一高等学校における「読書による自己形成」、すなわち教養の成立を、修養、煩悶青年および個人主義の受容との関係を見直した上で再考してみた。具体的には教養主義者と呼ばれる谷川徹三(一八九五~一九八九年)の修養に勉めた中学校時代、自殺危機と煩悶を抱く旧制第一高等学校入学前後、転機となった一高在学中という三つの内面的成長の断片を中心に、谷川の一高の先輩である藤村操、阿部次郎、安倍能成、折蘆魚住影雄、藤原正などによる言説を補助線にして考察した。 小論は、まず谷川徹三が中学三年生(一九一〇年)の夏休みに書いた作文集『五十の日子』という一次資料を利用し、彼にとっての修養のメカニズムを検討した。そして、第一高等学校入学(一九一三年)前後に、性の悩みをきっかけに煩悶青年になった経緯を見ることを通して、第一高等学校という場が青年に苦悩の自由および煩悶まで発酵するゆとりを与えたことを解明した。さらに、個人主義の受容という点において、大正初期の谷川の煩悶と、明治末期の藤村操の遺書、個人主義をめぐる阿部次郎、安倍能成、折蘆魚住影雄、藤原正などの発言、および操の自死に対する彼らの思考を考察することによって、一九一〇年前後の一高の煩悶青年に通底した内面的な悩みが個人主義、個の覚醒の結果であることを明らかにした。藤村操は宗教的救いを拒否して自死し、煩悶の段階に留まった。谷川、阿部、安倍のような青年と、折蘆、藤原正のような青年は、それぞれ幅広い読書と宗教思想運動によって煩悶解説・個人形成を遂げた。これらの青年は個人主義の受容という一つの〈系譜〉の中に捉えることができる。修養と当時形成されつつあった教養は異なる煩悶脱出・主体形成の方法である。
Mio, Minoru
インド西部の都市ウダイプルでは,かつての支配者であるラージプートの貴族が不遇の死を遂げた後に霊となった存在サガスジーを神として崇拝する信仰が近年人気となっている。この信仰においては,聖典やそれに関する言説は重視されず,神霊の像としての現れに働きかけ,五感を通じて神格と交流するという実践こそが最重要とされる。神像は「ラージプートらしさ」を信者たちが意思を働かせあう形でこの世に具現させたものだが,像を現出させる究極的な行為主体はサガスジー本体であることが強調され,人間の意思の主体性は否定されるところにこの信仰の特性があった。しかし,中間層の信者が中心となるある社では,神像の現れに関わる信者側の個性や主体性が強調される傾向がある。この傾向はサイバー空間に現れたサガスジーにおいては一層顕著となっている。 本論文は図像優位的な神霊信仰に関わる宗教実践の特性を,神像と人,人と人の社会関係を総体的に捉える視点から解明し,その特性の変化の要因を現代インドの社会変化と関連づけて考察する。
大東, 敬明 Dait, Takaaki
本稿は、東大寺二月堂修二会(以下、東大寺修二会)「中臣祓(なかとみのはらえ)」の典拠や構造を、その詞章から、分析しようとするものである。東大寺修二会に参籠する僧は練行衆(れんぎょうしゅう)と呼ばれ、法会を支障なく執行する為に、穢れを取り去って心身を清浄に保つ事が求められる。そのため、現在では三月一日から十五日未明にかけて行われる「本行(ほんぎょう)」に先立って「別火(べっか)」行が行われ、その最終日にあたる二月末日に「咒師(しゅし)」によって「大中臣祓(おおなかとみのはらえ)」が行われる。また、「別火」行・「本行」期間中、様々な場面で「中臣祓」が行なわれる。祓は、罪や穢を除去することを目的とする儀礼である。この「中臣祓」は、「別火」行に入る際、「別火」行中の朝夕の勤行の際、洗面・入浴・便所の後、「本行」において、日々、二月堂に上堂する前等に行われる。「中臣祓」で用いられる御幣には、本稿で分析対象とする詞章が書かれた紙が巻きつけられている。練行衆は、それぞれ持っている守本尊に向かい、拍掌の後に、詞章を黙誦し、この御幣で身を祓うなどの所作を行なう。本稿において「中臣祓」の詞章は、① 東大寺八幡宮(手向山八幡宮)への法楽。② 真言神道や修験道で用いられた「拍手祓大事(かしわではらえのだいじ)」「伊勢拍手秡(いせかしわではらえ)」と共通する作法。③ 陰陽道流の祓で用いられた自力祓形式の略祓。④ 吉田神道の影響を受けた略祓で、息災延命祈願に用いられた祓。の四つの部分より構成される、と考察した。それぞれの具体的な典拠について、②以外は見出すことは出来なかったが、「中臣祓」の詞章が複数の系統の祓に関わる作法を集めて、独自の形式を作り上げている事は言える。すなわち、「中臣祓」は東大寺八幡宮へ法楽を捧げた後に、真言神道、陰陽道、吉田神道など、典拠を変えながら三重に祓を行う構造(②③④)を持つ。東大寺修二会が、諸儀礼の要素を取り込んで独自の形式としてゆくことは、法会の様々な部分から見出すことが出来る。「中臣祓」は東大寺修二会全体から見れば小さな作法であるが、同様の性格を見出すことが出来た。
鈴木, 貞美
本稿では、第二次大戦後の日本で主流になっていた「自然主義」対「反自然主義」という日本近代文学史の分析スキームを完全に解体し、文藝表現観と文藝表現の様式(style)を指標に、広い意味での象徴主義を主流においた文藝史を新たに構想する。そのために、文藝(literar art)をめぐる近代的概念体系(conceptual system)とその組み換えの過程を明らかにし、宗教や自然科学との関連を示しながら、藝術観と藝術全般の様式の変化のなかで文藝表現の変化を跡づけるために、絵画における印象主義から「モダニズム」と呼ぶ用法を採用する。印象主義は、外界を受けとる人間の感覚や意識に根ざそうとする姿勢を藝術表現上に示したものであり、その意味で、のちの現象学と共通の根をもち、今日につながる現代的な表現の態度のはじまりを意味するからである。 従来用いられてきた一九二〇年代後半から顕著になる新傾向には、「狭義のモダニズム」という規定を行い、ここにいう広義のモダニズムの流れに、どのような変化が起こったことによって、それが生じたのかを明らかにする。従来の狭義のモダニズムを基準にするなら、ここにいうのはモダニズム前史ないし"early modernism"からの流れということになる。 本稿は、次の三章で構成する。第一章「文藝という概念」では、日本および東アジアにおける文藝(狭義の「文学」、文字で記された言語藝術)という概念について、広義の「文学」の日本的特殊性――ヨーロッパ語の"humanities"の翻訳語として成立したものだが、ヨーロッパと異なり、宗教の叙述、「漢文」と呼ばれる中国語による記述、また民衆文藝を内包する――と関連させつつ、ごく簡単に示す。その上で、それがヨーロッパの一九世紀後期に台頭した象徴主義が帯びていた神秘的宗教性を受容し、藝術の普遍性、永遠性の観念とアジア主義や文化相対主義をともなって展開する様子を概括する。日本の象徴主義は、イギリス、フランス、ドイツの、それぞれに異なる傾向の象徴主義を受容しつつ、東洋的伝統を織り込みながら、多彩に展開したものだったが、その核心に「普遍的な生命の表現」という表現観をもっていた。これは国際的な前衛美術にも認められるものである。 第二章「美術におけるモダニズム」では、印象主義、象徴主義、アーリイ・モダニズムの流れを一連のものとしてとらえ、その刺戟を受けながら、二〇世紀前期の日本の美術がたどった歩みを概観する。 第三章「文藝におけるモダニズム」では、二〇世紀前期の日本美術と平行する文藝表現の動向を概観する。そして、それと狭義のモダニズムの顕著な傾向である表現の形式と構成法への強い関心との連続性と断絶を示す。ただし、広義のモダニズムの中には、もうひとつ、表現の即興性にかける流れも生まれていた。小説においては「しゃべるように書く」饒舌体で、それが一九三五年前後に、狭義のモダニズムに対して、ポスト・モダニズムともいうべき「この小説の小説」形式を生んでいたことをも指摘する。
鈴木, 貞美
本稿は、西田哲学を二〇世紀前半の日本に擡頭した「生命」を原理におく思潮、すなわち生命主義のひとつとして読み直し、その歴史的な相対化をはかる一連の試みのひとつであり、”NISHIDA Kitaro as Vitalist, Part 1―The Ideology of the Imperial Way in NISHIDA’s “Problem of Japanese Culture” and the Symposia on “The World-Historical Standpoint and Japan” (“Japan Review” No. 9, 1997)の続稿にあたる。 『善の研究』が成立するまでの西田幾多郎の思想を、同時代の思想状況のなかにおいて読み直し、その骨格をなす考えが、どのようにかたちづくられ、また、時代思潮に対してどのような特徴をもつか、そして時代思潮に対してどのような役割を果たしたか、を明らかにすることを目的とする。『善の研究』は明治二〇年代の「国粋保存主義」の擡頭期に思想基盤の形成がなされていること、いわゆる近代的自我の煩悶が知的青年層に広がってゆく時代に応えるための哲学であったこと、とりわけ近代自然科学の展開によって一般化した主客対立の観念を人間疎外ととらえ、二〇世紀初頭の西ヨーロッパおよびアメリカの哲学の関心が「意識」に向かっていることを敏感に受け止め、その疎外を克服するために「純粋経験」を哲学の始原にすえることによって機械的唯物論を超える哲学の体系を企てたこと、「『我』の思想」、「愛の理念」、「宗教の本質」などをめぐる西田の考察の内容は、陽明学や禅を中核にしつつ、浄土真宗、キリスト教神秘主義、トルストイの宗教思想、カントに発するドイツ観念論の流れに属する諸思想、遺伝学・進化論などの生物学の知識とを一挙に自分流に統合して、「純粋経験」から「神との瞑合」に至る概念の体系化を試みたものであることなどを明らかにする。最後に、その体系が観念によって保持されていることを明らかにして、『善の研究』の核心部に生命主義があると結論づける。
栗田, 英彦
大正期に一世を風靡した心身修養法に岡田式静坐法がある。創始者の名は岡田虎二朗(一八七二―一九二〇)という。彼は、静坐実践を通じて内的霊性を発達させることができると述べ、日本の伝統も明治以降の西洋文明輸入政策も否定しつつ、個人の霊性からまったく新たな文化や教育を生み出そうとした。こうした主張が、近代化の矛盾と伝統の桎梏のなかでもがいていた知識人や学生を含む多くの人々を惹きつけることになったようである。これまで、岡田の急逝をきっかけに、このムーブメントは急速に消えていったように記述されることが多かった。しかしながら、実際にはその後もいくつか静坐会は存続しおり、その中の一つに京都の静坐社があった。静坐社は、岡田式静坐法を治療に応用した医師・小林参三郎(一八六三―一九二六)の死後に、妻の信子(一八八六―一九七三)によって設立された。雑誌『静坐』の刊行を主な活動として、全国の静坐会ネットワークを繋ぐセンター的な役割を果たしていた。 今回、静坐社の蔵書の一部が国際日本文化研究センター図書館に寄贈されることになった。本稿ではその資料目録とともに、静坐社の活動や人脈について紹介する。そこからは、仏教系知識人や文学者を中心とした一種のサロンとしての静坐社の姿が浮かび上がるだろう。その人脈は海外にも広がっており、その中には海外へ禅や身体技法(呼吸法や坐法)を紹介した外国人も含まれる。既成の宗教や国境を超えて宗教的探究を進める人々と交流する一方、静坐社は岡田虎二郎によって定められた形式を墨守し、十五年戦争が佳境に向かう中では静坐を国家主義と結び付けていくことにもなった。静坐社の資料は、昭和期初期の日本における国際的な潮流とローカルな歴史の交渉について興味深い事例を提供している。
リュッターマン, マルクス
小論では先行研究を伝授史料と合わせて、非言語的な記号群に限定して日本書札礼の一特徴となる傾向を考察している。一五九四年に布教者ザビエルと日本人パウルスとがインドで出会い、文面を譬喩に、文化の相違点を巡って懇談した。その会話に触発されて、二人がそれぞれ教授された西洋と東洋の伝承を遡って、書簡や文通における非言語的なコミュニケーションの作法史分析を試みる。この分析によって、文化の「面」や型がどのように形成し、とりわけ「行」の縦と横の譬喩はいかなる意味を秘めているか解明してみる。ひいては形式的な場において日本書札礼の非言語的な記号はどのように、且つどれほど人と人との位置の「差」を儀礼的に表現しているか示したい。
塩月, 亮子 Shiotsuki, Ryoko
本稿では,従来の静態的社会人類学とは異なる,動態的な観点から災因論を研究することが重要であるという立場から,沖縄における災因論の歴史的変遷を明らかにすることを試みた。その結果,沖縄においてユタ(シャーマン)の唱える災因は,近年,生霊や死霊から祖先霊へと次第に変化・収束していることが明らかとなった。その要因のひとつには,近代的「個(自己)」の確立との関連性があげられる。すなわち,災因は,死霊や生霊という自己とは関係のない外在的要因から,徐々に自己と関連する内在的要因に集約されていきつつあるのである。それは,いわゆる「新・新宗教」が,病気や不幸の原因を自己の責任に還元することと類似しており,沖縄だけに限られないグローバルな動きとみなすことができる。だが,完全に自己の行為に災因を還元するのではなく,自分とは繋がってはいるが,やはり先祖という他者の知らせ(あるいは崇り)のせいとする災因論が人々の支持を得るのは,人々がかつての琉球王朝時代における士族のイデオロギーを取り入れ,シジ(系譜)の正統性を自らのアイデンティティの拠り所として探求し始めたことと関連する。このような「系譜によるアイデンティティ確立」への指向性は,例えば女性が始祖であるなど,系譜が士族のイデオロギーに反していていれば不幸になるという観念を生じさせることとなった。以上のことを踏まえ,災因論の変化を担うユタが,今も昔も変わらず人々の支持を集めていることの理由を考察した結果,死霊にせよ祖先霊にせよ,ユタはいつの時代にも人々に死の領域を含む幅広い宗教的世界観を提示してきたのであり,そのような世界観は,絶えずグショー(後生)という死後の世界を意識し,祖先崇拝を熱心におこなうといった,「生と死の連続性」をもつ沖縄文化と親和性をもつものであるからという結論に達した。
池上, 良正 Ikegami, Yoshimasa
本稿では,多くの日本人には自明な言葉として受け取られている「死者供養」という実践群をとりあげ,これを理解するためには,生者と死者との間に交わされる身体的実践や,人格表象の関係性に注目した動態的な視座が必要であることを論じた。言い換えれば,西洋近代を特徴づけてきた,霊肉二元論的な人間モデルや,自律的で完結した統一体としての個人といった前提では,十分な理解が難しいのではないか,ということである。プロテスタント的な「宗教」観から強い影響を受けた近代の宗教研究では,つねに存在論的な根拠をもつ「信仰」を明らかにしようとする傾向が強く,「死者供養」と総称される実践も,「死者信仰」「祖先崇拝」などの枠組みによって説明され,実践がもつ積極的な意義を単独に論じるといった発想は乏しかった。具体的な考察としては,まず,沖縄における「死者供養的」な実践を事例として,「実証性」を標榜した従来の研究が,実は「原信仰」「霊魂観」「他界観」といった近代の学問体系の思考方法に強く拘束されていたのではないか,という疑問を提示した。むしろ多くの人々にとって大事なのは,死者の人格と関わるための実践の作法や様式である。さらに,身近な死者を「供養する」という具体的な行為と,近年の精神医学などで注目されている「喪の仕事 mourning work」との類似性に注目し,フロイトにはじまる精神分析学によって論じられてきたmourning論が,近代西欧的な人間観を前提としていたのに対して,東アジア社会に展開した「死者供養」を理解するためには,人格の関係性に焦点を合わせた動態的な枠組みが必要であることを論じた。そこでは,「存在論的な信仰」から,「縁起論的な実践」への視座の転換が重要になる。
鈴木, 貞美
日本の「大衆文学」を代表する『大菩薩峠』の著者、中里介山の独自の仏教思想を検討する。まず、彼の「文学」概念が明治初・中期の洋学者や啓蒙主義者たちが主張した広義の「文学」の枠内で、感情の表現をも重んじる北村透谷や木下尚江のそれを受け継ぐものであることを指摘し、それゆえに仏教思想を根幹におく文芸が展開されたとする。次に、介山の青年期の宗教観について、ある意味では同時代の青年たちの一般的風潮を実践したものであること、それがなぜ法然に傾倒したかを問い、そして、介山の代表作の一つと目される『夢殿』について、明治から昭和戦前期までの聖徳太子像の変遷と関連させつつ、二十世紀前半の力の政治に対して、仏教の教えによる政治という理想を主張したものと結論する。
森本, 一彦 Morimoto, Kazuhiko
本稿では座講の開放性・閉鎖性がどのような要因によって生じているのかを検討している。具体的には和歌山県橋本市の隣接する二集落の座講を検討の対象とした。賢堂の座講は開放的であるのに対して、向副の座講は閉鎖的である。賢堂の座講は明治時代から開放化を図っており、二つの座講は明治の時点で違いがあった。向副では江戸時代に座講をめぐる争論があり、「座入帳」が作成され、メンバーシップの強化につながったと考えられる。このことが向副の座講の閉鎖性につながったのではないかと考えられる。座講の開放性・閉鎖性は、立地条件、都市化の度合、宗教的な状況だけではなく、歴史的経緯も一つの要因であったと考えられる。
神戸, 航介
本稿では、大嘗祭の経費調達制度と、大嘗祭事務を取り仕切った機関である行事所について、平安時代を中心に考察した。まず『延喜式』践祚大嘗祭式における大嘗祭経費の調達方法を整理し、律令官衙財政に則った中央保管庫からの支出がある一方で、部民制的収取など律令制以前の国制に由来する制度が見いだされると整理した。特に斎国の財政的負担は両国の天皇に対する服属儀礼としての性格に由来し、節会における歌舞等も含め成立期の大嘗祭は畿外豪族の服属儀礼を集約したものであったと想定した。これに対し、平安時代には新たに大嘗祭を運営するための臨時の機関として行事所が成立する。行事所は律令官司の枠を超えて実務に長けた者を柔軟に編成しつつ、実務を簡略化する合理性を有していた。本稿では行事所における政務の具体像を明らかにしたが、特に行事所は斎国の正税・調庸雑物を財源として有し、行事所の諸儀における饗宴に斎国が奉仕した点が注意される。斎国国司が直接準備過程に奉仕する体制から、行事所を介した奉仕に転換したのであり、ここに大嘗祭運営の性格上の転換が見られる。行事所の特徴として、斎国以外の諸国に対しても雑物の賦課を九世紀段階から行なっていたことは重視すべきである。これを前提に十世紀後半以降、行事所召物が成立し、正税を前提としない受領への賦課を行なう機能を持つようになる。氏族制的収取は社会の変化に応じて性格を変え、受領の負担と認識されるようになった。大嘗祭以外の行事所も十世紀後半以降成立していくが、人員編成など初期の行事所との相違が見られ、行事所召物の徴収や造営行事所の国宛など、十世紀後半の新たな財政制度の成立に対応して、受領と対峙して料物を徴収することを主たる目的としておかれたものと言える。
原田, 信男 Harada, Nobuo
基本的に人々が共同で飲食する場合には,それぞれの構成員の身分や社会関係などが,席次や食事内容などに反映されることが多い。さまざまな身分の人間を抱えて催される祭礼や儀式などでは,特に複雑な人的構成を持つことになるが,同一な身分集団の場合には,比較的単純に同じものを同時に体内に取り込んで,誓約などを行い集団としての精神的な一体化が図られることになる。前者の場合には,同じような食物でも内容を変え,同じ場所であっても主席からの遠近を違え,または時間を微妙にずらすことによって,全体としての共同性を保ちながらも,内部でそれぞれの差異を強調して,参加者の身分関係が表現されていた。また後者の場合には,一致団結して強硬な行動に出る一揆などの際に,一味神水などと称して神聖な神の水を一同が一気に飲む,という一種の誓約行為が採られたのである。小稿では,こうした共同飲食の在り方のうち,特に前者について,①神と天皇,②天皇と貴族,③貴族と武士,④将軍と大名,⑤在地領主と農民,⑥有力農民と一般農民,といったレベルで検討する。すなわち,それぞれのケースについて,古代から中世にかけての身分秩序の在り方が,祭礼や儀礼の際における共同飲食の場に,どのように反映するのかを見ていくこととしたい。さらに儀式などの際に,身分の高い者から低い者への食物贈与である〝下し物〟を中心に分析すると同時に,さまざまな贈答儀礼の中に,武力の誇示や衣食住などの保障を象徴するような構造があることに注目する。しかも,上記のような儀式が,それぞれ単独に完結しながらも,実際には重心円的な構造を持って関連し合い,古代もしくは中世社会の身分秩序が,全体として維持されていたことが重要である。
松尾, 恒一 Matsuo, Koichi
伝統的な木造船には一般に「船霊」と呼ばれる、船の航海安全や豊漁を祈願する神霊が祀られているが、琉球地域の木造船(刳り舟・サバニ・板付け舟、等)の船霊信仰には、姉妹を守護神として信仰するヲナリ神信仰の影響を受けている例が少なくない。このことは、すでに知られているが、本稿では、船の用材となる樹木に対する信仰に注目して、船の守護神としての女性神の信仰とのかかわりを考察する。船大工によって行われてきた伝統的な造船は、山中における樹木の伐採から始まり進水式をもって完成するが、その間、樹霊やこれとかかわる山の神に対する祭祀が重要な作法として行われる。これは奄美大島の事例であるが、八重山地域にまで目を広げれば、船の用材となる樹木を女性と認識しているものと認められる口頭伝承(歌謡)もあり、樹木に宿る樹霊と女性神との結びつきの強さが推測されてくる。ところで、船大工による伐木の際の、樹霊や山の神への断りの際には、斧のほか、墨壺・墨差し・曲尺などが重要な役割を果たす。これは、屋普請を行う大工も同様で、建築儀礼の際には山の神や樹霊に対する祭祀が重要視された。船大工や大工は、その職と関わる祭儀において職道具を祭具として用いたのであるが、ときにこれらの道具を用いて呪詛をおこなうなど、シャーマン的な呪力を発揮したりした。結びとして、こうした琉球地方の航海や船体にかかわる女性神や、造船の際の樹霊に対する信仰を、当地域との長い時代にわたる交流のあった大陸や台湾との習俗と比較した。台湾の龍船競争における媽祖信仰や、貴州省の苗族や台湾少数民族の造船儀礼など、松尾の調査した事例を中心にあげたが、今後の比較民俗に向けての視座を定めるための試論である。
山折, 哲雄 Yamaori, Tetsuo
近松門左衛門の「曽根崎心中」は、元禄十六年(一七〇三)の四月七日に、大阪梅田の曽根崎天神で実際におこった事件をモデルにしている。ところがそれ以後、心中事件が多発するようになり、二十年後の享保八年(一七二三)になって心中取締令がだされた。そのうえ心中者の死骸は心中現場に近い墓所に取り捨てるべきことが申しわたされていた。なかでも道頓堀墓所には多くの心中者の遺骸がかつぎこまれ、その方面での筆頭格であった。そのためこの地域には大勢の乞食女郎非人たちが入りこみ、そこで餓死したり行き倒れたりする者があとを絶たなかった。この近世の道頓堀墓所をめぐる死体処理・死者儀礼の景観は、ある点でインド・ベナレスにおけるそれを想わせる。死者の処理をめぐって都市がどのような変貌を示すのかという点でも、その両者のあいだには不思議な照応がみられるのである。なぜなら肉体の焼尽と魂の昇天という転換の位相が、そこでは墓地を仲立ちとする半ば様式化した空間構成を通してあらわされているからである。そしてその空間構成の輪郭を明らかにするために、小論では近松の「曽根崎心中」の冒頭に掲げられている「観音廻り」の場面と、その終結部分に登場する「道行」の場面に分析を加えている。この近松の「観音廻り」と「道行」の場面が、二種の巡礼のパターンを象徴しているということに注目しよう。第一のパターンが、いわゆる霊地霊場廻りを中心とする巡礼である。この場合は「観音廻り」がそれにあたるだろう。これにたいして第二のパターンが、永遠の再生(昇天)を願う死出の旅という最後の巡礼行である。ここではそれが「道行」の場面にあたる。そしてこのような二種の巡礼のパターンがそのままベナレスにおける死者儀礼のなかにもみられることに私は着目したのである。小論はその両者を結び合せる比較研究の試みである。
岩本, 通弥 Iwamoto, Michiya
本稿は、特定研究「民俗の地域差と地域性」の共同研究会が設定した基本調査項目にしたがった、定点調査地、新潟県佐渡郡相川町南片辺のモノグラフである。南片辺は一九八五年現在、戸数三十九、人口一四七人の日本海に面した「海村」であり、生業は磯ネギ(海藻・貝類の採取漁と見突き漁)も若干行われているが、平均反別約六反の水田と広大な共有林を背景とした半農半林業のムラである。本稿では研究会指定の調査項目を含めながらも、それをイエとムラの空間の構成のあり方に焦点を絞り直して記述した。第一章の調査対象地の概況では、南片辺の地理的歴史的概況と生業形態の全体的な特性を紹介し、第二章のイエの空間構成では、屋敷どり・間取りの使用法とその特徴、および家屋敷のなかの神々について扱った。それに続く第三章の家族生活の諸相では、家族構成の構造的特徴から、家族員の役割と分担、婚姻儀礼とヨメの長期里帰り慣行との相関、および世代階層制と家内地位との関係を論じた。第三章のムラの空間構成では、その生産領域を耕作地・山林・牧草地・磯浜に分けて記述し、また内部の村落空間を神仏の祭祀を含めながら象徴論的に捉えた。これを受けた第五章の村落生活の諸相では、村落運営のシステムと、南片辺の村落構造を特徴付ける年齢集団のあり方、および葬送儀礼と供養の様相を論述した。本稿は現地調査に基づく単なる報告であって、これといって結論めいたものはないが、ただ一つ、村落生活の実態とその編成のあり方を、かなり詳しく、かつ構造的に記述できたものと考える。今後の課題としては、本稿を踏まえ、南片辺住民のエミックで民俗的な観念や意識・心情・論理を描き出すことであり、その一つの視点として、ヂガミやヂワケノシンルイなど、「ヂ(土地)」という観念に注意すべきことを指摘した。
箭内, 匡
この論文は,チリ南部に居住する先住民マプーチェの社会において,口頭的コミュニケーションの問題が,口頭伝承,夢,儀礼といった彼らの伝統的な社会文化的実践の中心部分を縦断して,マプーチェ的な「考え方」,「生き方」そのものの問題と重なり合っていることを,一次データをもとに示そうとするものである。その中で,E・A・ハヴロックの『プラトン序説』を一つの土台に,こうした思考と存在の様式の独自性を,プラトン主義や近代的主体性との対照の中で浮き彫りにする試みもなされる。後者の作業は,近代国家チリの中で少数民族として暮らすマプーチェの人々が,口頭的なものと近代的・チリ的なものとの問で揺れ動く今日的状況を存在論的なレベルから把握する上で有益な作業と考えられる。
小林, 忠雄 Kobayashi, Tadao
本稿は都市空間の広場に関する共同研究の一つとして、山岳寺院都市を対象に、日本の都市空間の原初形態を抽出したものである。その基本的な山岳寺院都市とは高野山であり、この山中における不思議な空間構成を分析してみると、いわゆる伽藍などが集中する宗教施設ゾーン、院や坊舎など宗教者が居住し、その生活を支える庶民によってつくられたマチ域の日常生活ゾーン、そして高野山が霊山である所以ともなっている墓所の霊園ゾーンの三つの空間(ゾーニング)があることを指摘した。盛時には約二万人を擁した、この密教寺院の都市には、今日で言うところの都市性の要因がいくつも見られる。まず、僧侶とその生活を支える商人や職人と、常時、多くの参詣者を集めていることによって、旅行者を絶えず抱えており、滞留人口がかなりの数にのぼること。次に、密教というか修験道文化がもつところの技術ストックがあり、古代中世の先端技術を推進してきた場であること。それは社会的施設である上下水道設備などにも反映している。さらに参詣者のための名所、旧跡などの見学施設やその他の遊興施設、仕掛けが充実しており、そこには非日常的な色彩表現があって刺激的であること。そして、出入りが激しいことから情報集積の場としても、この山地都市が機能していることなどの都市性を見出すことができる。このような高野山の空間構造と類似の山地都市として、能登の石動山をはじめ、北九州の英彦山や越前の平泉寺などがあげられる。そして、ここでいう山地都市構造は、近世初頭の城下町にも、ゾーニングを踏襲した形跡が見られる。柳田國男は「魂の行くへ」のなかで、江戸の人々が盆に高灯篭をかかげて祖霊を呼び寄せた習俗にちなみ、そこには山を出自とする都市民の精神構造、すなわち山中他界観について触れている。従って、山地都市は近世以降の各地の都市構造の原点として位置づけることができるのではなかろうか。
千田, 嘉博 Senda, Yoshihiro
日本の近世城郭は各地の地域性を払拭した統一的な織豊系城郭として成立した。これは安土城,大坂城などを規範として全国に展開したことが確認されてきた。しかし徳川幕府の中心であった江戸城は,城郭としての構造が充分検討されておらず,織豊系城郭の最終的な到達点を確認することができなかった。また江戸城を通じて近世城郭を体系的に理解することもむつかしかった。そこで近世初頭の江戸城プランと,その後の変化を分析した。その結果,慶長期江戸城は,本丸の内部に天守曲輪をもち,外枡形や馬出しを随所に備えた実戦的な構成であったことが判明した。こうした姿はまさに織豊系城郭技術の集大成とするにふさわしいものであった。また本丸の他に西の丸も独立した城郭要素をもち,並立的構造となったのは,将軍と大御所の権力の分有状況を反映したものと評価された。寛永期江戸城は,堀や石塁を単純化するなど軍事施設が簡略化され,殿舎が拡張される傾向が現れた。万治2年以降の万治期江戸城ではさらにこの傾向が明確となった。本来最も高い軍事機能を発揮する虎口として採用されていた外枡形は場を限定して用いられ,その門の内に存在する空間やそこに居住する人の身分を表象するものとして,新たな意味を発揮するに至った。実戦での軍事機能の卓越さが転じて,外枡形は空間や身分の格式を示す記号に変容したのであった。さらに江戸城では城内に東照社をはじめとする先祖の神霊が祭られた,神聖な空間が整備されていった。これらの結果,江戸城は実戦的な城郭から幕府権力を象徴的に示す城郭へと変化した。江戸幕府が軍事力を背景としながら実際の戦争ではなく,儀礼等によって権威を示したことと対応した構造変化といえる。江戸城に見られた近世における城館の戦う場から儀礼の場へという変容は,日本の城郭が行き着いたひとつの姿であった。
粟津, 賢太 Awazu, Kenta
戦没者の記念追悼施設やその分析には大まかにいって二つの流れがある。ひとつは歴史学的研究であり、もうひとつは社会学的研究である。もちろん、これらの基礎をなす、死者の追悼や時間に関する哲学的研究や、それらが公共の場において問題化される政治学的な研究も存在するが、こうした研究のすべてを網羅するのは本稿の目的ではない。歴史学的研究においては、これらの施設の形成過程の研究と社会的位置づけをめぐる議論があった。歴史において、欧米社会がいかに死を扱ってきたのかという社会史的な問題設定の中に位置づけられてきた。一方、社会学的研究では、これまで国家儀礼に関する研究が主流であった。そこには、機能主義の前提があった。また、死の社会学という観点から、社会的に死がいかに扱われているのかという社会心理学的あるいは死生学的関心による研究も行われてきた。歴史研究と社会学的研究というこれら二つの動向は、ナショナリズム研究や慣習的実践論、また「場」の理論を取り込みつつ、次第に記憶の社会学という現代社会学へ収斂しつつある。本稿の目的は、その理論的形成や問題領域を整理し、現代社会学理論の中に集合的記憶研究を戦略的に位置づけることにある。集合的記憶の社会学は、物質的な基礎に着目することによって時間と空間を社会分析に取り入れるという点で、戦略的な高地を確保できる。また、そうした時間と空間における行為者としてエージェンシーを考える。ここでいうエージェンシーはある特定の記憶の場を目指した様々な社会的相互作用を行う主体である。それは儀礼を執行する主体であり参加者であり、言説を産出する主体でもある。エージェンシーが、ある特定の空間において(あるいはある空間に対して)、ある特定の時間の幅の中で、いかなる動きを示していったのかを考えることができる。
倉石, 忠彦 Kuraishi, Tadahiko
地域とは何らかの同質性をもった地表に画された空間である。それは多様な性格に基づくものであって、単一なものによるのではない。しかもそれは往々にして主観によって左右される側面をもっている。しかしそうした地域のなかで人々は生活し、自己を認識している。一体日本人はどのような文化を育み、生活を営んできたのかということは、こうした地域を設定することによっても見出すことができるのではないかと思われる。それは生活している人々が必ずしも認識はしていないかもしれない。しかし、そうした地域を見出すことができるならば、日本の伝承文化のあり方を明らかにする上に、一定の価値を見出すことができるであろう。そうした観点からタナバタ伝承の一つである、タナバタの日(七月七日或は八月七日)に畑に立ち入ることを禁忌とする伝承を取り上げることにする。これはもしこの日に畑に立ち入ると何か災難が及ぶと伝えるもので、その理由はタナバタ様などと呼ぶ神霊的な存在がそこにいるからであるとするのである。これは従来物忌み的性格を示す伝承とされてきたが、それが何故に畑を対象とするかという点は明確ではなかった。しかし、その習俗が行われている地域が、タナバタに初物を供える地域と、この日にまこも等で馬を作って供える地域の接点であることからすると、畑作の収穫儀礼と、来訪神の信仰儀礼とにかかわっていることが推測される。また、この伝承は独特の分布状態を示し、対象となる豆畑と瓜畑との組み合わせにより、共通の地域性を持つものと考えることもできる。半夏生(夏至から数えて十一日目)の日にねぎ畑に立ち入ることを禁忌とする地域も同じ地域であり、民俗文化の上で独自の地域性をもっている。ここには特有な文化の存在が考えられる。こうした地域は他にも想定することができる。
蒲池, 勢至 Gamaike, Seishi
これまで民俗学における墓制研究は、「両墓制」を中心にして進展してきた。「両墓制」は「単墓制」に対しての用語であるが、近年、これに加えて「無墓制」ということがいわれている。「無墓制」については、研究者の捉え方や概念規定が一様でなく混乱も生じているので、本稿ではこの墓制が投げかけた問題を指摘してみたい。さらに、「無墓制」が真宗門徒地帯に多くみられることから、真宗における「墓」のあり方を通して「石塔」や「納骨」といった問題を考えようとするものである。まず、全国各地の事例を整理してみると、これまでの報告には火葬と土葬の場合が区別されずにいたり、あるいは「墓がない」というとき「墓とは何か」が曖昧であった。それはまた、両墓制における「詣り墓」(石塔)とは何かが曖昧であったことを示している。「無墓制」の実態は、火葬したあとに遺骨を放置してしまい、石塔を建立しないものであるが、この墓制は両墓制研究の中で、いま一度、遺体埋葬地や石塔の問題、土葬だけでなく火葬の問題を検討しなければならないことを教えている。真宗門徒になぜ「無墓制」が多いのかについては、真宗信仰が墓をどのように考えていたのか歴史的に考察する。現在の真宗墓地にみられる石塔の形態や本山納骨の成立過程をみて、真宗の墓制観や教団による規制との関係を論じる。そこには、遺体や遺骨を祭祀することは教義的に問題があった。中世においても、真宗は卒塔婆や石塔に否定的であって、このような墓や石塔に対する軽視観は近世を通じて今日まで至り、火葬のあとに遣骨を放置したまま石塔も建立しない習俗が残存したのである。また、真宗は墓としての石塔は否定したが、納骨儀礼は認めて、近世教団体制の確立する段階で中世的納骨儀礼を近世的な形で継承したのであった。
真野, 純子 Shinno, Junko
滋賀県野洲市三上のずいき祭りは宮座として知られるが、本稿では、公文と座を訴訟文書や伝承記録などから検証するとともに、現在の芝原式の儀礼のなかに何がこめられているのかをあきらかにした。ずいき祭りでは、長之家・東・西の三組から頭人が上座・下座の二人ずつでて(一九五一年からは長之家は一人)、ずいき神輿・花びら餅の神饌を準備し、東と西の頭人は芝原式での相撲役を身内からだして奉仕する。それら頭人を選出するのは、各組に一人ずついる公文の役目である。公文は家筋で固定し、各組(座)でおこなう頭渡しだけでなく、芝原式にたちあい、実質上、それらを差配している。芝原式の儀礼には、公文から総公文への頭人差定状の提出、花びら籠(犂耕での牛の口輪)という直截な勧農姿勢、猿田彦をとおして授けられる神の息吹といった中世の世界観がこめられていたことがわかった。また、公文・政所という用語の使われ方が時代とともに変化していくことを指摘したうえで、中近世移行期での公文・政所を特定した。彼らが訴訟や年貢の収納事務にたずさわり、文書を保管する職務についていたこと、在地の地主層で下人を抱える殿衆であったことなどをあきらかにした。長之家は庁屋を、東と西は神前の芝原に座る方角をさしているものの、公文の考察から、相撲神事の編成が荘園の収納機構と深くかかわっており、長之家は御上神社社領、東は三上庄、西は三上庄内の散所を原点に出発していると考えられる。神事再興の一五六一年(永禄四)以来、頭人には下人、入りびとをも含むため、開放的な宮座として知られるが、それは屋敷を基準に頭人を選定していく公事のやり方であり、神事には相当な負担が強いられた。三上庄の実質的管理責任者である公文が頭人を差定して、その頭人に神饌やら相撲奉仕の役をあてがい、神饌を地主神に供えることで在所の豊饒と安泰を願うという祭りであったことを実証した。
平川, 南 Hirakawa, Minami
古代の集落遺跡から出土する墨書土器は,古代の村落社会を解明する有力な資料である。また,これまで墨書土器は文字の普及の指標としてとらえてきた。その検討も含めて,これからは集落遺跡における墨書土器の意義は何かという大きな課題について新たな視点から考察する必要があるであろう。そこで,前稿(「古代集落と墨書土器」)では,特定した集落遺跡の分析を試みたが,本稿では,墨書土器の字形を中心に,より広域的見地から分析した。その検討結果は,要約するとつぎのとおりである。1)墨書土器の文字は,その種類がきわめて限定され,かつ東日本各地の遺跡で共通して記されている。2)共通文字の使用のみならず,墨書土器の字形も,各地で類似している。しかも,本来の文字が変形したままの字形が広く分布している。3)中国で考案された特殊文字―則天文字(そくてんもじ)―さらには篆書体(てんしょたい)などが日本各地に広く普及し,しかもそれに類するような我が国独自と思われる特殊な字形の文字を生みだしている。限定された共通文字は,東国各地の農民が会得した文字を取捨選択して記したものでないことを示している。また変形した字形や則天文字(そくてんもじ)・篆書体(てんしょたいなどの影響を受けた我が国独自に作成した特殊文字が広範囲で確認されている。以上の点からは,当時の東日本各地の村落において,土器の所有をそうした文字―記号で表示した可能性もあるが,むしろ一定の祭祀や儀礼行為等の際に土器になかば記号として意識された文字を記す,いいかえれば,祭祀形態に付随し,一定の字形なかば記号化した文字が記載されたのではないだろうか。このように,字形を中心とした検討結果からは,集落遺跡の墨書土器は,古代の村落内の神仏に対する祭祀・儀礼形態を表わし,必ずしも墨書土器が文字の普及のバロメーターとは直接的にはなりえないのではないだろうか。
深尾, 葉子
漢族社会における廟の持つ社会機能については多くの研究蓄積があるが,本稿では1980年代以降中国西北部黄土高原で復活の著しい廟と廟の祭り(廟会)について,その社会的,歴史的意味を問う。廟は宗教的存在理由の他に,社会的公益的な意味を持つが,それを支える人々の奉仕労働を個々の行為者と神との社会的交換の結果として解釈し,同時にそうした個別の行為が集積される際に,同地域の冠婚葬祭などの挙行とも共通する一定の互助モデルが働いていることを指摘する。廟や廟の祭りは小さなものから数万人規模のものまでさまざまであるが,それは「会長」の威信や神の評判によって常に変動する。こうした活発で流動的な社会の凝集は同地域社会に1980年代以降出現した「渦」のうねりのようなものとして捉え得る。
馬, 建釗
中国の南端にある海南島三亜市羊欄鎮回輝村,回新村は,海南省内で唯一の回族集居地である。2002 年には,1218 戸,6,400 人の回族人口を有していた。1983 年12 月から2003 年3 月までの間に,筆者は合計8 回にわたって回輝,回新両村でのフィールドワークを行った。本稿は,このフィールドワーク資料を基に,歴史学,人類学,考古学,言語学の関連資料をも参照しながら,海南回族の歴史来源および羊欄回族コミュニティーの社会変化の過程について論じようとするものである。 海南島の回族には,2 つの主要な来源がある。一つは唐宋時代に中国に来住したアラビア人商人であり,もう一つは宋元二代に占城(チャンパ)から移住してきたイスラム教徒である。 唐宋時代には,イスラム教を信仰するアラビア人商人が,「海上のシルクロード」沿いに広州,泉州など中国の沿海都市に来住し,貿易活動に従事した。海南島はアラビア商船の通り道であった。それらアラビア人商人の一部分は,台風や海賊の被害によって,海南島東南部の陵水,万寧,崖県(現在の三亜市)など沿海地区に居留することになった。 明末清初から1943 年までの間は,三亜里という地点が羊欄回族の唯一の集居地であった。1943 年には,日本軍がこの地点に飛行場を建設したために,当地の回族は現在の回輝村に移転させられた。1945 年の終戦の後,回族の一部はもとの村に戻り,地名を回新と改め,こうして現在の回輝・回新両村落からなる回族コミュニティーができあがった。羊欄の回族社会では,1980 年代になって経済,文化等の方面で非常に大きな変化が生じた。80 年代後半には,三亜市の発展にともなってコミュニティー全体に衆人の注目を集める一大変化が生じたが,その主要なものは以下の四方面の変化である。1.産業構造の変革 回輝,回新両村は海辺に位置していたので,回族の人々は代々魚を捕ることを主要な生活手段としてきた。漁船は小型で性能の低いものだったので,沖合い漁業には適さず,収入は少なかったので,回族の人々の生活は極めて貧しかった。1987 年の両村住民の平均年収は200 元強であり,羊欄鎮の中でも最も低収入の村であった。 1987 年に三亜が県レベルから地区レベルの市に昇格した後,省政府は「三亜を現代的国際ビーチリゾート都市に」という全体目標を掲げ,これによって不動産開発ブームと観光産業の隆盛が引き起こされた。羊欄の回族はこの機を捉え,一連の経済活動に取り組み,わずか十数年のうちには運送業,観光販売・サービス業,青果の卸し・小売業を筆頭に,多様な経営活動を含む新たな経済発展の局面が到来して,この村は鎮の中でも最も裕福な村へと変身したのである。2.生活様式の変化 経済的収入の増加は,生活様式の変化を生み出した。まず,住居の様態が変わり,低層の草葺き屋根はスレート葺き家屋やビルになった。また,交通手段が改善され,徒歩や自転車に代わってモータリゼーションが生じた。さらに,生活用品が多様化,高級化した。3.価値観および行動パターンの革新 1980 年代以前には,回族コミュニティーの住民は,中国農村一般と同じく「靠山吃山,靠海吃海」(山にあれば山の幸を食べ,海にあれば海の幸を食べる)の伝統的な自然経済観念を墨守していた。80 年代に中国が改革開放を実行して以降,回族の人々は「法律・道徳に触れない限り,金の稼げることならなんでもする」という価値観をもつようになった。そして,回族コミュニティーの経済状況は,量的変化と,質的飛躍を成し遂げたのである。 伝統的観念と,行動パターンの変化にともない,羊欄の回族女性は,家庭の外に出て各種の経済活動に携わるようになり,家計の担い手の主力となった。4.伝統文化の継承と発揚 回族は,イスラム教を信仰する民族であり,回族の伝統文化は,至る部分において,イスラム文化の刻印を受けている。伝統文化の継承と発揚のため,羊欄の回族は以下のいくつかの措置を採用している。 まず,モスクの再建・新設を,伝統文化の発揚上の最重要事項とし,1990 年代には,6 個のモスクが次々と再建・新設された。 また,地元での宗教的人材の養成を重視し,80 年代以来,十数名の優秀な青年を,サウジアラビア,イランなどの国家のイスラム学校へ留学させ,帰国後は各モスクで,教長や,アホンを担当したり,宗教教育活動に従事したりしている。さらに,青少年に対する宗教文化知識の普及に努め,各モスクではコーラン学校を開いている。 そして,宗教生活並びに日常生活上,イスラム教の教義としきたりを遵守している。
小川, 仁
本論文では、慶長遣欧使節にマドリッドからローマまで通訳兼折衝役として同行し、後にその体験を基に『伊達政宗遣欧使節記』(1615年)Historia del Regno di Voxu del Giapponeを著したイタリア人シピオーネ・アマーティ(Scipione Amati 1583~1653)の手稿「日本略記」Breve Ristretto delli tré Stati Naturale, Religioso, e Politico del Giaponeを取り上げ、多くの引用が認められるルイス・デ・グスマン(Luis de Guzmán 1543~1605)著『東方伝道史』(1601年)Historia de las Misionesとの比較を試み、「日本略記」第一章、第二章に該当する「博物誌」(stato naturale)、「宗教誌」(stato religioso)における典拠の形態の分析を進めるとともに、そこからアマーティの著述意図の一端を考察していく。 まず第一章では筆者がコロンナ家に関する史料が網羅的に収蔵されているコロンナ文書館で発見したアマーティ関連文書を分析し、これまで経歴不詳としされてきたアマーティの経歴を詳らかにする。次いで彼の執筆した「日本略記」を分析し、十五世紀末の日本の政治状況を紹介しつつキリスト教の道徳観念が統治には必要不可欠であると論じた本著作を、献呈先であったボルゲーゼ家との関わりと結び付けて考察する。 第二章ではアマーティが「日本略記」を執筆する際に引用したグスマンの『東方伝道史』を取り上げる。当該二著作を比較してみると、「日本略記」が半ば抜粋に近い状態で『東方伝道史』を引用していることは明らかである。とりわけ引用において特徴的なのは、グスマンの記述で仏教における「儲け」や「利得」といった文言が見受けられる一方で、アマーティのグスマンからの同一箇所の抜粋では、それらの文言のみが削除や別の記述に言い換えられている点である。 筆者はアマーティの引用におけるこのような傾向を、「意図的隠蔽をテキスト内に巧緻に組みこむことで、日本における宗教のありようから、利得の絡まないキリスト教の理想をボルゲーゼ家に伝えようとした」として捉えた。そして以上の分析から当時の日本情報が来日経験のない著述家らによって書き換えられ、最終的な読者に伝わっていく過程を指摘した。
関沢, まゆみ
本論の目的は,民俗学の食習調査の理念の確認と,食習調査やその後の民俗資料緊急調査等の食習に関する資料から,とくに食制つまり食べ方を中心とした「食習と観念」の変化について分析を行なうことである。柳田國男は,食品,食制,食料,食具の4項目に分けて,なかでも食制研究を重視していた。民間伝承の会による「食習調査」(昭和16,17年)もこの枠組みを背景に項目立てがなされていたといえる。従来,この食習調査は大政翼賛会の委託によるものであることが強調されて,その内容の分析は十分行なわれてこなかった。その後,全国調査としては,高度経済成長期の昭和37年以降,文化財保護部(現文化庁文化財部)による民俗資料緊急調査が行なわれ,さらに,昭和50~60年代の農山漁村文化協会による『日本の食生活全集』が刊行されている。これらは,食べるものや食べることについては記述がなされており,貴重であるが,食べる意味についての分析はとくになされていない。そこで,前述の民俗学が調査し記録してきた食習に関する資料から,とくに食べ方を中心とした食習と観念の変化について検討を試みた。12月の晦日に家族そろって年神を迎える忌み籠りに際して,年取りの儀礼として白飯を食していたこと,先祖の命日や節日などには家族が精進食をとる精進日が定められていたこと,屋外で弁当を食べたり,川原で煮炊きする時には,自然界の霊的なものたちに対しても少し食べ物を分け与える「ホカイ」の習俗が伝承されてきていたこと,などを述べた。しかし,このような忌み籠りや忌み慎みの観念,自然への畏怖と共食感覚などが,現在では希薄になり喪失してきている。それは高度経済成長期の生活変化の延長線上で加速化してきているといる。しかしさまざまな儀礼食の伝承の希薄化や喪失のなかで,現在でもこのような伝承を大切にしてきている事例も一部に存在することに注目した。そして,そこから民俗伝承というのは変遷をともないながらも消滅のない運動であるということを指摘した。
吉村, 郊子 Yoshimura, Satoko
人が亡くなったときにその遺体をどうするのかについては,さまざまな慣習がみられる。すなわち,遺体を埋葬するのか否か,埋葬する場合にはそれをどのような手順でおこない,そこに墓石や墓碑などを置くのかといった,埋葬方法や墓の装飾様式などは,地域や集団によって,また時代によってもさまざまなかたちをみせる。本稿では,ヒンバなどの事例を参照しつつ,墓と,遺された/生きる者たちの営みとのかかわりについて考察する。ヒンバは南部アフリカにくらす牧畜民であり,他のさまざまな集団とのかかわりや植民地統治(委任統治)の影響を受けつつ,それぞれの時代の状況に応じて大小の範囲を移動し,家畜を連れて遊動生活をおくってきた。そうしたなかで,彼らは遺体を埋葬する習慣をもち,そこに墓石などを置いて埋葬場所を明示する。さらに近年では,死者の年齢や性別によっては氏名や生没年の他,ウシや銃などさまざまなモチーフを刻んだ墓碑を築く事例も少なくない。本稿ではそうした墓の様式の実態と変化を概観し,さらには,どこに墓を築くかという遺体の埋葬場所の選択や,実際の埋葬(式)のようす,墓参りとそれに連動しておこなわれる通過儀礼などに着目して,おもに生きている者の側の観点から墓をめぐる人びとの実践について検討し,考察をおこなった。その結果,第一に,墓の場所の選択は,埋葬された死者のみならず遺された/生きる者にとっても重要な意味をもち,そこには,死者の社会的な地位や権力を誇示しつつ,それらを手がかりとして生きる者たちが土地とのつながりを示し,社会的・政治的な力と権利を表現しうる側面があることを明らかにした。第二に,葬礼や2~3年に一度おこなわれる墓参りは,さまざまな通過儀礼と連動しつつ,墓に埋葬された故人(祖先)と生きている者たちとのつながりを確認し,明示化する機会となっていることを示した。その過程をとおして,親しい者の死を受け入れて,それを個人や集団の成長へとつなげていこうという人びとの実践の様態を明らかにした。
榎村, 寛之 Emura, Hiroyuki
宝亀三年(七七二)、光仁天皇の皇后井上内親王が天皇を呪誼した罪で廃された。この事件は有名ではあるが、これまでは単なる政治闘争の一形態として理解されてきた。先帝で、井上の姉妹の称徳天皇は、女帝であることを除けば、最も律令制的な手続きを踏んで即位した天皇であった。しかも皇后的な権威をも有し、武力で復位しており、さらに出家者であったため仏法主導の元で神々が王権を守護するというイデオロギーで支えられていた。彼女は権力そのものの象徴であり、男女を超え、律令体制下で天皇権力の専制性を究極にまで押し進めたと理解できる。光仁天皇・井上皇后段階の政治課題は、天皇を、どのように律令体制下に位置づけなおすか、ということであった。しかし光仁天皇は、聖武天皇の娘である井上の婿として即位しており、その没後には、井上が皇太后臨朝、または即位する可能性があった。そして井上には、元・斎王という経歴があり、伊勢神宮と深い関係を持っていた。井上の皇后在位期に、斎王が未定のままで称徳朝に途絶していた斎宮が造営されたが、この斎宮の、斎王の住む内院は、一つの区画の中で塀によって区分された生活空間と儀礼空間で構成されており、周辺に未整理の付属施設を伴った宮殿的な施設であった。続く桓武天皇段階の斎宮では、官衙区画を構成する方格地割の設計が優先され、内院は区画の中に組み込まれる。この改造では、長岡京の造営を意識しつつ、儀礼環境の整備、確立と継承など、斎王の権威より斎宮の都市化、定型化を押し進めたもので、「システムとして受け継がれるべき斎宮と斎王」へと転換したと考えられる。このように井上は「元・斎王」の皇后として、伊勢神宮を背景に特殊な権力を有しており、もし即位することがあれば、再び聖俗混交した専制王権が復活する可能性が高かった。井上廃后事件は、こうした「皇后」「女帝」「斎王」の権力を無化するために行われたイデオロギー闘争だったのである。
正木, 晃
日本人が伝統的に聖性をもつとみなしてきた空間――たとえば、あの世あるいは浄土・曼荼羅――において、自然がどのように表現されてきたか、且つそれがどのように変遷してきたか、を図像学および宗教学の手法をもちいて考察したのが、この論文である。Iでは、縄文時代から奈良時代までを対象の範囲としたが、この範囲内では、聖なる空間を代表する「あの世」に関し、日本人はそれが如何なる場所であるのか、子細に論ずる段階には未だ達していない。しかし、縄文時代の図像には、すでに転生の観念が存在した事実を示唆する例があり、その後、大陸文化の影響を受けつつ次々と生み出された聖空間の中に、たとえ象徴的な表現にとどまる場合が多いとはいえ、自然の描写が図像として重要な位置を占める事例も確認でき、日本人の自然観を探る上で絶好の材料となる。
伊藤, 雄志 Ito, Yushi
明治大正時代のジャーナリスト山路愛山は,日本および琉球などの「周辺地域」における女性の社会生活に注目し,戦後に盛んになった社会史研究に先行する史論を発表した。沖縄学の父伊波普猷と同様に山路は日琉同祖論を主張し,明治政府による琉球処分を肯定的に見ていた。しかし山路は,単に「帝国主義的」な琉球観を抱いていたのではなく,琉球を含む日本列島における女性の商業・宗教上の活動に注目し,良妻賢母を支える家父長制が建国以来の日本固有のものだという当時の通説には根拠がないと批判した。本稿では,歴史における女性の社会的役割に注目した新井白石の業績を高く評価した山路が,琉球などの「周辺地域」を日本史研究の中に取り込み,さらに儒教主義に基づく紋切型の日本女性像を是正し,「婦人の解放」の必要性を訴えていたことを明らかにしたい。
早川, 聞多
この論文の主題は、詩人(俳人)でもあり画家でもあった与謝蕪村(一七一六~一七八三)が「俗なるもの」を重視し、かつその中で生きたことを論証し、さうした生き方が彼の宗教的な悟りに由来するのではないか、といふことを論じる。 第一章では、蕪村の俳諧における態度、特に彼が尊敬した松尾芭蕉(一六四四~一六九四)との微妙な距離の取り方を追ひ、第二章では、文人画家と言はれてゐる蕪村が本来の文人画家に反するやうな態度を取り続けたことを追ふ。 最後に、彼の「俗」への傾斜の原因が、伝来の仏教を最も日本化したと言はれる親鸞(一一七三~一二六二)への親近感に由来するのではないかといふことを述べ、日本人の最終的・理想的な生き方として、「親鸞的なるもの」が底流しているのではないか、といふことを提示したい。
福原, 敏男 Fukuhara, Toshio
筆者はこれまでに、祭礼芸能である一つもの・細男について考察し、これを平安末期に成立した田楽・王の舞・獅子舞・十列・巫女神楽・競馬・流鏑馬・神楽・舞楽・神子渡等からなる一連の芸能として位置づけた。京都・奈良の古社の祭礼において、「日使」と称する役が、上記の諸芸能とともに、祭礼に参加する事例がある。従来の日使に関する先行研究は、春日若宮祭礼に限られ、ここに神聖性が指摘された。日使は黒袍表袴に長い裾をひいた姿で、奉幣を主な役割とし、芸能的所作がないからであった。本稿では、春日祭・春日若宮祭礼、東大寺八幡宮転害会、大山崎離宮八幡宮の日使神事、山城宇治田原三社祭に参加する日使を対象にした。史料と絵画に基づく検討の結果、日使の成立を楽人の風流に求めた。日使が伝播した地における宗教性は、その所役を荷った人々の階層の問題である。
Kashinaga, Masao
広義のタイ系諸民族は東南アジア大陸部に広汎に分布し,ムオソ(ムアン)と呼ばれる伝統的な政治体系を形成していたことが知られている。これまでタイ系民族のムオンに関して歴史的,人類学的研究が多く蓄積されてきた一方で,タイ系民族でありながら非仏教徒であるという特徴をもつ黒タイのムオンについては,具体的な研究が少ない。しかし,黒タイの慣習法文書には,黒タイの伝統的政治組織と儀礼祭祀に関して詳しく記述されている。その点で,これらの文書は黒タイの社会文化研究上重要な資料であるのみならず,東南アジアにおける社会史研究にとっても重要な資料である。本稿においては,黒タイ慣習法文書のうち「ムオソ・ムオイにおける慣習法」に焦点を当て,その内容について詳しく紹介し,かつこの文書が持つ東南アジアの社会史研究上の意義について論じる。
申, 昌浩
十九世紀に入り、近代的な西洋の物質と精神文化が拡まると、封建支配階級と民衆とのあいだの矛盾と対立が一層尖鋭化してくる。「親日」仏教は、そういった背景の中で日本の帝国主義と西洋列強の資本主義の接近によって、朝鮮王朝がそれまで進めていた近代国家としての成立の時点を起点としている。一八七六年の開国と日本人の朝鮮進出によって、日本から多くの宗派の伝来が始まった。そして、それより二〇年後の一八九五年に、日蓮宗の僧侶の嘆願によって「都城出入禁止」が解除され、仏教本然の任務である布教活動や社会活動を展開する契機を得るのであった。しかし、この朝鮮僧侶たちの「都出入禁止」の解除というのは、朝鮮仏教史においても近代の始まりを意味する。一方では、近代韓国仏教が「親日」であったことも意味している。 韓国が近代化という外からの力に、扉を開いていく過程に内在した親日の問題は、民族主義形成と宗教情勢の変動が深く関わりをもっている。この論文の目的は、歴史的に認められるいくつかの政治的変動期に韓国仏教が果たしていた役割と、その位置づけを新たに分析し、その深層に流れる韓国的民族主義の意味を究明することである。
高見, 純 TAKAMI, Jun
13世紀以来、イタリア北中部では都市政府による記録文書の保存と管理が本格的に開始された。干潟の大商業都市ヴェネツィアも例外ではなく、15世紀以降に書記局を中心に過去の記録を整理し、文書形成と管理を拡大的に整備・進展させ、現在でも、ヨーロッパで有数の量の記録文書を伝え際だった存在感を示す。 これまで、ヴェネツィアの文書管理については、書記局官僚の形成とともに、主に都市政府による統治・行政の範囲内で解明が進んできた。一方で、都市政府という枠組みの外にある民間実践については、十分な検討が進んでこなかった。 そこで、本稿では、13世紀に成立し、15世紀以降に都市の主要な慈善団体の1つとして近世まで大きな存在感を有し続けた大規模宗教兄弟会を事例にして、同団体による文書管理を検討する。それによって、慣習法の蓄積への対応に追われた都市政府による管理との類似性が指摘されるとともに、15世紀から16世紀前半にかけて多くの遺産管理を担うことになった同団体の事情が文書管理に及ぼした影響も考察される。また、本稿の事例によって、都市ヴェネツィアにおける幅広い<アーカイブズ実践>の社会状況についての一端を明らかにすることも期待される。
福永, 由佳 FUKUNAGA, Yuka
在日パキスタン人は人口規模こそ小さいものの,中古車輸出業をはじめとするエスニック・ビジネスの展開,宗教施設の設立など,自立的な社会活動を展開する活力の高いエスニック集団である。また,彼らは生活のなかで複数の言語を使用する多言語使用者でもある。彼らの多言語使用の実態と言語使用に関わる社会文化的要因をEthnolinguistic Vitality Theoryにもとづき明らかにすることを目指して,本稿では(1)多言語使用に関する諸理論を検討するとともに,(2)参与観察と言語意識調査で得られた定性的データを用いて,Ethnolinguistic Vitality Theoryの適応可能性を検討した。分析の結果,彼らは母国の言語事情や社会構造および日本における社会文化的文脈から形成された言語意識をもとに,複数の言語(日本語,英語,ウルドゥー語,アラビア語,民族語)を使い分けている様相が明らかになった。また,データに見られた言語意識はEthnolinguistic Vitality Theoryの枠組みで説明しうることが示唆された。
Ito, Atsunori
民族学博物館は展示活動以外にも研究成果の社会還元を目的とする催事を開催する。国立民族学博物館での「研究公演」はその一つで,「世界の諸民族の音楽や芸能などの公演をとおして,文化人類学・民族学に関する理解を深め」ることが目的とされる。筆者は通算80 回目の研究公演「ホピの踊りと音楽」(2012 年3 月20 日)の企画と実務と交渉を担当した。本稿ではその経験をもとに,「季節の踊り(ソーシャルダンス)」と称される米国南西部先住民ホピの儀礼の組織化と実施に関する民族誌的知見をちりばめながら,公演にまつわる具体的な実務と交渉の流れをドキュメンテーションするとともに,同時代を生きる招聘者と招聘元の博物館との間で交わされる対話として物語化する。そしてこの物語を素材として,国立民族学博物館において外国人招聘を伴う催事を実施する意義を「フォーラムとしてのミュージアム」という観点から考察する。
深田, 淳太郎
パプアニューギニア,ラバウルに住むトーライ人はタブと呼ばれる貝殻貨幣を,婚資や賠償の支払い,儀礼での展示等のいわゆる慣習的な威信財としてのみならず,商品売買や税金・授業料の支払いなどの交換媒体としてまで広い目的で使用してきた。このタブの原料となるムシロガイの貝殻はラバウルの近辺では採れず,遠方から輸入されてくるものである。その輸入元はヨーロッパ人との接触があった19 世紀以降,何度かの変遷を経て,現在では隣国であるソロモン諸島の西部地域になっている。本稿ではまず,このラバウルへのムシロガイの輸入が現在までどのように行なわれ,またいかにそのかたちを変えてきたのかについての歴史的経緯を19 世紀末から1970 年代まで文献資料をもとに整理する。その上で1980 年代からのソロモン諸島からの輸入がはじまった経緯および,現在の輸入の具体的な状況について,2009–2011 年に実施した現地調査で収集した資料をもとに明らかにする。