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<研究論文>近代日本における「信仰」と「儀礼」の語り方 : 姉崎正治の修養論と宗教学の成立をめぐって
呉, 佩遥
近年の宗教概念研究によってもたらされた「宗教」の脱自明化から、近代日本における宗教学の成立と展開を考察することは、宗教学なる領域に対する理解を反省的に把握するために重要である。しかし、アカデミックな場に成立した「宗教学」において、「宗教」に隣接した概念であり、「宗教」の中核的な要素とされる「信仰」と、「宗教」の身体的実践の一つである「儀礼」がいかに語られたかについては、まだあまり考察されていない。
敦煌における9、10世紀の「印沙仏」儀礼の考察
徐, 銘 Xu, Ming
9、10世紀の敦煌資料には、宗教儀礼に関連する文書が多数見られるが、その中には、仏教信仰にもとづく、仏像や塔形を刻んだ印を砂の上に押印し、数珠で数を数える「印沙仏」と称される儀礼が存する。従来の研究では、この儀礼は敦煌仏教における重要な行事として認められ、正月に行われた仏事「燃燈会」との繋がりなどが注目され、研究されてきたが、ほかに、内容上、同時代に敦煌で行われた仏誕会などの儀礼との関わりも見落とすことができない。
儀礼で呼ばれる祖先たち : 台湾アミ族シカワサイ儀礼の場合(死)
原, 英子 Hara, Eiko
日本統治時代,台湾先住民族に対する宗教政策において,彼らが「祖先崇拝」をするという点が日本人との共通性として強調された時期があった。しかし当時は一部の人類学的な調査を除いて,台湾先住民族の祖先崇拝に注目しても,具体的に個々の民族の祖先がどの範囲を指すのかという点について,詳細な調査はほとんどなされなかった。本稿では台湾先住民族のひとつ,アミ族の宗教儀礼をとおして,祖先の範囲を明らかにすることを目的とする。
告別式の平準化と作法書
山田, 慎也 Yamada, Shin'ya
本稿は、近代以降、葬儀において告別式が中心的な儀礼として成立し、次第に地方に普及して行く様相を、作法書と葬儀記録などの関連資料を通して分析し、民俗儀礼の平準化とそれを取り巻く言説を考察することを目的としている。近代の葬制は、葬列を行い自宅と寺院、墓地などでそれぞれ儀礼を行うなど、いくつもの儀礼の連続であった。しかし、葬列が無駄なものとして認識され、都市構造の発達によって実施が困難になる中で、誕生したのが告別式であった。ただし告別式の濫觴とされる中江兆民の儀礼は、宗教儀礼を否定し葬儀の代替として行われたが、その後の告別式は焼香などの葬儀の会葬部分を分離したものに変化していった。当時は基本的に葬儀式と会葬部分の告別式は分離されていたが、昭和期の作法書では、総体として新たな形式としており、またかならずしもその認識は一様ではなかった。
いざなぎ流、託宣祈禱の諸相 : 神霊と交感する言葉と身体(第Ⅰ部 論考 / 2. 呪術と身体)
松尾, 恒一 Matsuo, Koichi
高知県物部地域の太夫と呼ばれる宗教者によって現在も伝承される〝いざなぎ流〟について、昭和後期まで行われていた託宣の神楽を中心として、神霊の示現を得る諸儀礼・作法の実態とその特質について考察する。
<研究論文>近代日本の戒律言説とプラクティス的なるもの : 明治中期における釈雲照の十善戒実践論に着目して
亀山, 光明
2000年代以降の近代日本宗教史研究において、「宗教 religion」なる概念が新たに西洋からもたらされることで、この列島土着の信念体系が再編成されていったことはもはや共通理解となっている。とくにこの方面の学説を日本に紹介し、リードしてきたのが宗教学者の磯前順一である。人類学者のタラル・アサドの議論を踏まえた磯前によると、近代日本の宗教概念では、「ビリーフ(教義等の言語化した信念体系)」と「プラクティス(儀礼的実践等の非言語的慣習行為)」の分断が生じ、前者がその中核となることで、後者は排除されていったという。そして近代日本仏教研究でも、いわゆるプロテスタント仏教概念と親和性を有するものとして磯前説は広く取り入れられてきたが、近年ではその見直しが唱えられている。
サケをめぐる宗教的世界 : 民間宗教者の儀礼生成に果たした役割についての一考察
菅, 豊 Suga, Yutaka
日本においてサケは,最も複雑な民俗を形成した魚類の1つであり,その民俗は北方文化を基盤として新たに何かを付加されたり,あるいはまったく新しいものへ形を変えられたりしながら日本特有の展開がなされてきた。本稿では北方文化から連なる文化背景を基盤として,その上に覆い被さっている日本的なサケの民俗の要素について検討し,こういった日本特有の展開,表出の問題を考えていく。具体的には,日本のサケ儀礼へ民間宗教者が如何に介在し,どのような特殊性を生成したかということが眼目に据えられている。
アジア・太平洋戦争と日本の宗教研究 : 学史からのアプローチ
西村, 明 Nishimura, Akira
本稿は、アジア・太平洋戦争期の宗教学・宗教研究の動向、とくに戦時下の日本宗教学会の状況と、当時の学会誌に表れた戦争にかんする研究の二つに焦点をあて、当時の宗教学・宗教研究のおかれた社会的ポジションの理解を試みるものである。
梓神子と神事舞太夫(第Ⅰ部 論考 / 1. 民間宗教の中・近世から近代へ)
林, 淳 Hayashi, Makoto
神子の歴史社会的な存在形態を考えようとした場合、神田より子、西田かほるの先駆的な仕事を踏まえ、さらなる議論を展開する必要がある。西田は、近世において神子の本所がなぜできなかったのかという根本的な問いを発している。この問いは、九〇年代以降に盛んになった近世の民間宗教者の家職をめぐる研究史の虚をついたものである。西田は、「本所を持たない神子は、みずからの宗教活動を幕府から保証されるために、みずからの夫や父、よりいえば男性の所属する宗教各派の編成を受けてゆくことになるのである」、「イエによって職が継承されるという近世社会のあり方」と指摘した。これに対して、東北地方において神子の重厚なフィールド調査を重ねてきた神田は、修験系の神子の儀礼を論述する中で、西田説をとりあげて「神子は元来本所がないから、修験ともイエの論理で結びしていたとする西田かほるの論はあたらない」と批判している。この問題は、同じ神子と呼ばれたものの社会的存在形態が、地域的にも時代的にも多様で振幅をふくむものであり、一般化の危険を示唆している。
農民兵士の生と死 : 北上市の二人の手紙より(2. 銃後の村)
関沢, まゆみ Sekizawa, Mayumi
兵士の手紙については、書き手の兵士本人の声を聞くことが重視され、一方の受取り手の声についてはあまり注目されてこなかった傾向がある。本稿では民俗学の立場から、戦死、戦病死という異常なる兵士の大量の死をそれぞれの家族がどのように受けとめ受け入れていったのかについて考えていく一つの試みとして、岩手県北上市の二人の農民兵士の手紙を手がかりに、記録(手紙)、記憶と語り(聞き取り情報)、物(位牌や墓石などの死者の表象物)という三つの資料的側面から整理を行った。そして以下の四点を指摘することができた。第一に、二人の農民兵士の家族への手紙の特徴は、戦闘状況にはあまりふれずに家のことばかり心配して書いており、身体は戦地にいても心は常に故郷の家族の元にあったと考えられる。兵士にとっては手紙を出すことが、家族にとっては手紙がくることが、生存の知らせに他ならなかった。第二に、戦死、戦病死は伝統的な日本の農村社会においてはかつて経験したことのない死に方であった。公報による死の知らせ、村葬、家の葬儀などが慌だしく流れても家族は死をすぐには受け入れられず、妻は夫の死を自分で何とか確めようとする衝動に突き動かされていた。第三に、戦死、戦病死した夫の墓を作ることが夫の死の受容の方法の一つであり、老境においても墓とは生者と死者との関係性の「切断と接合の装置」に他ならぬと解読できた。第四に、戦死、戦病死者の位置づけの具体相において死者の表象物および「供養・慰霊・追悼」という宗教儀礼の重層性、重複性が注目された。死者に対する民俗儀礼としては、普通死の場合には伝統的に「供養」であり、異常死の場合には「慰霊」である。そして宗教色を排しながらその人物の死を悼む場合には「追悼」である。これら三種類は当然その意味も異なり、「供養」の場合には成仏を、「慰霊」の場合には神格化へ、と人格の喪失と異化が現象化するのに対して、「追悼」の場合には人格が維持され、悼まれつづける死として定位する、というそれぞれの死者の位置づけの方向力が作用する。戦死、戦病死の表象物および儀礼は、空間的重層性とともに宗教儀礼的重層性をも有している点にその特徴がある。
死をどう位置づけるのか : 葬儀祭壇の変化に関する一考察(死)
山田, 慎也 Yamada, Shinya
本稿は葬儀祭壇の形態から現代の死の位置づけ方についての考察を試みるものである。かつて葬儀は自宅で通夜,出棺の儀礼を行ったあと,葬列を組んで寺院や墓地などに向かい,そこで改めて儀礼を行い埋葬や火葬となった。それは喪家の儀礼,葬列,寺院・墓地での儀礼と空間を移動して,段階的に儀礼を行っていたのである。こうした儀礼で使用される葬具は,喪家や寺院・墓地などの儀礼よりも,葬列に対応するための形態であった。
中世春日社の社司と祈祷(第Ⅰ部 論考 / 1. 民間宗教の中・近世から近代へ)
松村, 和歌子 Matsumura, Wakako
春日社の宗教的分野での研究は、祭礼に集中しがちだが、祈祷や祓といった日常的な宗教活動こそ、宗教者と社会との関わりを考える上でむしろ重要だと考えられる。
葬送儀礼への第三者の関与 : 参入と介入の視点から
西村, 明 Nishimura, Akira
葬送儀礼では,故人をはじめ,遺族,地域住民,宗教者などが関わり,近年には医療関係者,葬儀業者,火葬場職員といった専門業者の関わりも増えている。本論文は,「高度経済成長とその前後における葬送墓制の習俗の変化に関する研究」という共同研究のテーマに対して,第三者の関わり方の諸相に焦点を当てることで,変化の質をとらえようとするものである。その際,新参者が習俗の知識を獲得し,伝統の担い手となるプロセスに「参入」する局面と,反対に第三者の関与が習俗のあり方に影響を及ぼし変化へと舵を切らせる要因となる「介入」の局面に注目することで,第三者の関与の度合いを測る指標とする。
近世民衆、天皇即位式拝見 : 遊楽としての即位儀礼見物
森田, 登代子
近世、京都の庶民階層は大嘗会、新嘗祭、即位儀礼の情報を町触れから逐一得ていた。天皇家祖先への神祭りである大嘗会では忌避されたが、公的な就任儀礼である天皇即位儀礼では庶民の拝見が許可された。入場券代わりの切手が男性一〇〇人女性二〇〇人に配られ、禁裏内、日華門近くで拝見した。即位儀礼を感涙にむせびながら厳粛に拝見する民衆もいれば、遊楽と見紛う行為も見られた。大嘗会や新嘗祭、譲位、即位儀礼、入内が布告されるたび、火の始末、鐘撞や芝居上演禁止など日常生活への拘束がともなったが、天皇に関する行事が庶民の関心を呼んだことは間違いがない。
八重山の民間信仰にみられる首里王府の影響 : ウムトゥ山の神とかかわる祭祀と神話に焦点をあてて
ラドゥレスク, アリーナ Radulescu, Alina
本稿は、ウムトゥ山とかかわる祭犯と説話で浮上するウムトゥ山の神には異なった二つの側面があることに注目する。八重山の宗教的な支配によって加えられたと思われるウムトゥ山の神と関わる三姉妹神話の要素は、「オヤケアカハチの乱」という政治的な出来事との関わりが見られ、首里王府の支配を正当化する為に利用されたことについて考察を行う。また、首里王府の支配以前のウムトウ山とかかわる土着の信仰について八重山の雨乞い儀礼を通して検討を行う。ウムトゥ山のこの二つの側面を論じることによって、首里王府による八重山併合以前と以後の八重山の民間信仰に関して示唆を得ることができると思われる。
秋田藩佐竹家子女の人生儀礼と名前 : 徳川将軍家と比較して
大藤, 修 Otou, Osamu
本稿は、秋田藩佐竹家子女の近世前半期における誕生・成育・成人儀礼と名前について検討し、併せて徳川将軍家との比較を試みるもので、次の二点を課題とする。第一は、幕藩制のシステムに組み込まれ、国家公権を将軍から委任されて領域の統治に当たる「公儀」の家として位置づけられた近世大名家の男子は、どのような通過儀礼を経て社会化され政治的存在となったか、そこにどのような特徴が見出せるか、この点を嫡子=嗣子と庶子の別を踏まえ、名前の問題と関連づけて考察すること。その際、徳川将軍家男子の儀礼・名前と比較検討する。第二は、女子の人生儀礼と名前についても検討し、男子のそれとの比較を通じて近世のジェンダー性に迫ること。従来、人生儀礼を構成する諸儀礼が個別に分析されてきたが、本稿では一連のものとして系統的に分析して、個々の儀礼の位置づけ、相互連関と意味を考察し、併せて名前も検討することによって、次の点を明らかにした。
「宗教」の資源化・商品化・再日常化 : 巡礼ツーリズム,及びその地域的展開からみた「生活」論としての宗教研究試論
門田, 岳久 Kadota, Takehisa
本論の目的は,第一に,「文化資源化」「宗教の商品化」といった概念を用いて,現代日本における巡礼ツーリズム(半ば産業化された巡礼)の成立と地域的展開の民族誌的記述を行うことであり,第二に,市場経済や消費社会の文脈上に生成される「宗教的なるもの」を記述していく作業が,日常生活の全体を描こうとする現代民俗学的な宗教研究において,いかなる理論的貢献をなすものなのか明らかにすることである。
竹の焼畑と稲作儀礼と神話~竹林文化論への試み~
川野, 和昭 KAWANO, Kazuaki
この儀礼は、稲の病気を事前に防ぐ儀礼と、病気になった稲を治療する儀礼とに大別できる。鶏、犬、豚、牛などの動物が供犠され、黒白の色別、雌雄の別が強調される。稲に悪さを行う霊や直接害を与えている鼠を、供犠した動物の生血や調理した肉でもてなし、遠方へ立去らせ、再侵入を防ぐことで、稲の順調な生育を促し、豊作を願うところに目的がある。
琉球諸島における《シマクサラシ儀礼》の定期化説の検証
宮平, 盛晃 Miyahira, Moriaki
琉球諸島に広く分布するシマクサラシ儀礼は、定まった実施月に定期的に行われるものと、疫病の流行を機に臨時に行われるものの2つに分けることができる。本稿は、先行研究で提示された、シマクサラシ儀礼は臨時のものが古く、後に定期化したという仮説の検証を試みるものである。これまでに確認できた事例群の分布形態や内容の分析の結果、シマクサラシ儀礼は定期より臨時のものが古く、臨時からの定期化という変遷の形があったと考えられる。しかし、臨時とは別に定期的なシマクサラシ儀礼が新しく現れ、行われるようになっていったという可能性も明らかになった。
ブルターニュのパルドン祭り : パルドンの火と夏至の火
関沢, まゆみ Sekizawa, Mayumi
本論は信仰と宗教の関係論への一つの試みである。フランスのブルターニュ地方にはパルドン(pardon)祭りと呼ばれるキリスト教的色彩の強い伝統行事が伝えられている。それらの中には聖泉信仰や聖石信仰など多様な民俗信仰(croyances populaires)との結びつきをその特徴とするいくつかのタイプが存在するが,なかでもtantadと呼ばれる火を焚く行事を含むタイプが注目される。フィニステール北部に位置するSaint-Jean-du-Doigtのパルドン祭りはその典型例であるが,聖なる十字架がtantadの紅炎の中で焼かれる光景は衝撃的である。ブルターニュ各地のパルドン祭りにおけるtantadの火の由来を考える上で参考になるのは,夏至の夜の「サン・ジャンの火」(feu de la saint Jean)の習俗である。この両者の比較により,以下のことが明らかとなった。伝統的な習俗としては夏至の火の伝承が基盤的であり,そこにパルドン祭りという教会の儀礼が季節的にも重なってきて,パルドン祭りの中にtantadの火として位置づけられたものと考えられる。伝統的な「夏至の火」には,先祖の霊が暖まる,眼病を治す,病気や悪いことを焼却する,という信仰的な側面が確認されるが,それは火の有する暖熱,光明,焼却という3つの基本的属性に対応するものである。また,tantadの火を含まない諸事例をも含めての各地のパルドン祭りの調査分析の結果,明らかになったのは以下の点である。パルドン祭りの構成要素として不可欠なのは,シャペルの存在と聖人信仰(reliques信仰),そしてプロセシオン(procession)である。パルドン祭りはカトリックの教義にのみ基づく宗教行事ではなく,ブルターニュの伝統的な民俗信仰の存在を前提としながら,それらの諸要素を取り込みつつ,カトリック教会中心の宗教行事として構成され伝承されてきた。したがって,パルドン祭りの伝承の多様性の中にこそ伝統的な民俗信仰の主要な要素を抽出することができる。火をめぐる信仰もその一つであり,キリスト教カトリックの宗教行事が逆に伝統的な民俗信仰の保存伝承装置としての機能をも果してきているということができるのである。
「クマ送り」の系統 : 羅臼町オタフク岩洞窟におけるヒグマ儀礼の検討
佐藤, 孝雄 Satō, Takao
アイヌ文化の「クマ送り」について系統を論じる時,考古学ではこれまで,オホーツク文化期のヒグマ儀礼との関係のみが重視される傾向にあった。なぜならば,「アイヌ文化期」と直接的な連続性をもつ擦文文化期には,従来,ヒグマ儀礼の存在を明確に示し,かつその内容を検討するに足る資料が得られていなかったからである。ところが,最近,知床半島南岸の羅臼町オタフク岩洞窟において,擦文文化終末期におけるヒグマ儀礼の存在を明確に裏付ける資料が出土した。
宗教文化は誰のものか : 『大本七十年史』編纂事業をめぐって
永岡, 崇
本稿は、異なる立場の人びとが「知の協働制作者」(Johannes Fabian)として直接的に接触・交渉しあいながら宗教の歴史を描いていく営みを協働表象と名づけ、具体的な事例を検討しながらその意義を明らかにしようとするものである。その事例は、一九六〇年代に行われた『大本七十年史』編纂事業である。近代日本の代表的な新宗教として知られる大本が、歴史学者・宗教学者らとともに作りあげた『七十年史』は、協働表象の困難さと可能性を際立った形で提示している。
<共同研究報告>儀礼にみる公家と武家 : 『建内記』応永二十四年八月十五日条から
近藤, 好和
室町時代には将軍が朝廷儀礼に参加するようになったために、公家と武家との身分に対する意識や儀礼体系の相違に基づく矛盾が表面化し、武家側の圧力で武家側の論理が優先されて、公家の先例・故実が改変されることがあった。本報告では、そのことを端的に示す事例として、『建内記』応永二十四年八月十五日条を取り上げた。その日は石清水八幡宮寺最大の祭礼で、公祭として朝廷儀礼に準じられる放生会当日であり、その放生会に、室町幕府四代将軍足利義持が朝廷儀礼の責任者である上卿として、『建内記』記主である万里小路時房が上卿の補佐役である参議として参加した。そのために、武家側の論理が優先されて、時房は不本意ながらもいくつかの先例・故実の改変を余儀なくされた。それが時房の心情とともに上記『建内記に具体的に記されており、その各事例を紹介・分析することで、公家と武家との儀礼に対する意識の相違やその背景を探った。同時に今回の先例・故実の改変は、のちにはそれが先例として踏襲されており、かかる先例・故実に対する態度の柔軟性も公家の儀礼の特徴である点を指摘した。
奄美における葬送儀礼の外部化 -大和村津名久の事例を中心に-
津波, 高志 Tsuha, Takashi
本論文では、奄美・沖縄において火葬の導入に伴って葬祭業者が関与し、葬送儀礼の外部化が起きたとする説を奄美で検証するために1村落の事例を記述した。また、近代初頭あたりまで遡って見れば、奄美における葬送儀礼の外部化は2度あったことを明らかにした。その2度の外部化を1村落の事例に読み取りつつ、琉球弧の文化の研究において、こと奄美に関しては薩摩・鹿児島の影響を十分に考慮する必要があり、葬送儀礼の外部化もその例外ではないことを指摘した。
民俗儀礼の文芸資源化 : 七五三と岡見
小池, 淳一 Koike, Jun'ichi
本稿は、民俗儀礼を起源とする俳句の季語を文芸資源と捉え、その形成の過程を論じようとするものである。
人類愛善運動の史的意義 : 大本教のエスペラント・芸術・武道・農業への取り組み
廣瀬, 浩二郎
大本教の出口王仁三郎は,日本の新宗教の源に位置する思想家である。彼の人類愛善主義を芸術・武道・農業・エスペラントなどへの取り組みを中心に,「文化史」の立場から分析するのが本稿の課題である。王仁三郎の主著『霊界物語』は従来の学問的な研究では注目されてこなかったが,その中から現代社会にも通用する「脱近代」性,宗教の枠を超えた人間解放論の意義を明らかにしたい。併せて,大本教弾圧の意味や新宗教運動と近代日本史の関係についても多角的に考える。
近世土佐の槇山郷における天の神祭祀 : 「いざなぎ流」との関連のなかで
小松, 和彦
高知県香美市の山間地域、旧物部村(この村の南半分が近世の槇山郷である)には、いざなぎ流と呼ばれる民俗宗教が伝承されている。いざなぎ流は、神道、陰陽道、修験道、シャーマニズム、民間信仰などが混淆した宗教で、その宗教的専門家はいざなぎ流太夫と呼ばれている。本稿は、このいざなぎ流太夫たちの先祖たちが関与していたと思われる「天の神」の祭り、特に岡内村の名本家の天の神祭りを詳細に記述し若干の考察をすることを目的としている。
〈落差〉を解く : 豊前神楽をめぐる歴史人類学的一解釈
白川, 琢磨 Shirakawa, Takuma
福岡県豊前市を中心とする旧上毛郡一帯に展開する豊前神楽の特徴の一つは,勇壮な駈仙(ミサキ)舞であり,毛頭鬼面で鬼杖を手にした駈仙と幣役との迫力ある「争闘」が見所となっており,また幼児を駈仙に抱かせる事で無病息災を祈る民間信仰も付随している。ところが,現地の神楽講には,この争闘を天孫降臨に際して猿田彦が天鈿女を「道案内」している場面だという伝承が存在し,観衆の実感との乖離を生み,実感との余りの落差から笑いまでもたらしている。これまで,豊前神楽は民俗芸能の枠組で里神楽と位置づけられ,岩戸の演目が最後に行われることから出雲系とされ,湯立は伊勢系,駈仙の装束や振舞には豊前六峰の修験道の影響も一部見られるという解釈が一般的であったが,本論ではこの神楽を宗教儀礼として捉え直し,その観点から上述の乖離を儀礼行為と説明伝承とのズレとして解釈することを主題としている。まず,儀礼主体として社家に注目し,彼らが近世期に吉田神道の裁許を得る以前には押し並べて両部習合神道の神人であり,豊前六峰の一つである松尾山という寺社勢力の山外の周縁部末端に位置づけられていたと類推した。湯立・火渡など現行の演目やその祭文には,神楽が本来,そうした寺社勢力の末端として行なった「加持祈祷」であったことを示す証拠がかなり残されている。さらに,駈仙と幣役との争闘に関しては,現在残されている近世期の祭文を,中国地方の中世末期の「荒平」の祭文と比較することを通じて,例えば「神迎」の演目などに典型的に表象されているように,現在伝えられる記紀神話の天孫降臨(道案内)ではなく,中世神話の天地開闢譚(天照もしくは伊弉諾と第六天魔王との争闘)に基くかもしれないことを指摘した。つまり,儀礼行為はほぼ原型を伝えるのに説明言説が変更されてしまったことが乖離を派生したと捉えたのである。この変更は近世期の神楽改変の一環であり,その背景には思潮動向としての反密教的な廃仏運動があり,やがて明治初期の神仏分離,神楽については神職演舞禁止令で頂点を極め,神楽は皮肉な事ではあるが史上初めて民間に伝えられるのである。
遺影と死者の人格 : 葬儀写真集における肖像写真の扱いを通して
山田, 慎也 Yamada, Shinya
死者儀礼においては,人の存在様態の変化により,その身体の状況と取扱い方に大きな変化がおきてくる。身体を超えて死者が表象される一方,身体性を帯びた物質が儀礼などの場でたびたび登場するなど,身体と人格の関係を考える上でも死はさまざまな課題を抱えている。
スピリチュアリティと宗教、および生きる意味について
浜崎, 盛康 Hamasaki, Moriyasu
本稿は、緩和ケア(palliative care)(ターミナル・ケア(terminal care)、ホスピス・ケア(hospice care))におけるスピリチュアル・ペイン(spiritual pain)を主な手がかりとして、「スピリチュアル」および「スピリチュアリティ」について考察し、それらの主要な意味(の一つ)が「存在すること・生きること、存在する意味・生きる意味に関する」ものであるということを確認する。そして、次に、そのような生きる意味という視点から、スピリチュアル・スピリチュアリティと「宗教・宗教的」との関係を検討し、スピリチュアル・スピリチュアリティは宗教よりも広く、① 組織化された宗教におけるスピリチュアル・スピリチュアリティ、② 個人的なあり方として、ある種の超自然的なものとの関係におけるスピリチュアル・スピリチュアリティ、③ ①②と区別される個人的なあり方におけるスピリチュアル・スピリチュアリティ、という3つに分けて捉えることができるということを論じる。そうすることによって、スピリチュアル・スピリチュアリティをめぐる様々な議論を、その全てではないにせよ、大凡のところ統一的に捉えることが出来るように思われる。
[論文] 殯宮儀礼の主宰と大后 : 女帝の成立過程を考える
仁藤, 敦史
殯とは本来、死者の復活を願いながらも、遺体の変化を確認することで最終的な死を確認するという両義的な儀礼であった。六世紀以降、モガリは特権的な儀礼として神聖化され、この期間中に合意形成により後継者を決定するということが一般化し、皇位継承と深い関係を有するようになった。本稿の目的は、古代における殯宮儀礼の主宰者と考えられるオオキサキ(大后)の役割を解明し、女帝即位への道筋を考えることにある。殯宮の儀礼については、和田萃氏が一九六九年に発表された「殯の基礎的考察」という論考が通説的位置を占める。巫女的な「中継ぎ」女帝即位に連続する「忌み籠もる女性のイメージ」を前提に、女(内)の挽歌と男(外)の誄のように内外に二分された殯宮のあり方を提起している。しかしながら、殯宮における「忌み籠もる女性」の存在については批判も多く、和田氏のモガリ論はそのままでは成り立ちにくくなっている。
<第1部 石材考古学の最前線>近世における墓標と墓地設備の石材利用について
田中, 稔
墓地空間には,大きく2種類の近世石造物が存在する。1 つ目は,墓地設備である。村落単位などで行われる葬送儀礼のうち埋葬前の最後の儀礼に使用するために製作された公的なものである。2つ目は,墓標である。墓標は墓地の大部分を占めており,個人または家単位で造立されるものである。
王の生と死をめぐる儀礼と法会文芸 : 堀河院の死と安徳帝の生
小峯, 和明 Komine, Kazuaki
十二世紀(院政期)における天皇の生と死をめぐる儀礼とその記録や仏事儀礼に供された唱導資料(願文・表白)を中心に検証する。死に関しては堀河院をめぐって、関白忠実の日記や女官の日記、大江匡房の願文などから取り出し、とりわけ追善法会における願文表現の意義を追究した。生に関しては安徳天皇の誕生を例に、中山忠親の日記、『平家物語』諸本、安居院澄憲の表白、密教の事相書、御産記録等々から検討した。
「国占め」神話の歴史的前提 : 古代の食膳と勧農儀礼(第3部 寺院と儀礼)
坂江, 渉 Sakae, Wataru
小稿は,石母田正氏の研究を踏まえながら,『播磨国風土記』の地名起源説話にみえる「国占め」神話に光りをあて,その前提にある祭祀儀礼の中身と,古代の地域社会の実像解明に迫ることにした。その考察結果は,つぎの通りである。
本川神楽の呪法と系譜(第Ⅰ部 論考 / 2. 呪術と身体)
小池, 淳一 Koike, Junichi
本論文は高知県の山間部に伝わった本川神楽を取り上げて、「宗教者の身体と社会」について考える端緒としたい。具体的には、本川神楽の担い手である太夫(たゆう)が伝承してきた知識について検討する。また近隣の類似の神楽において用いられる祭文についても比較分析する。それらを通して民俗芸能における宗教性を再検討することへとつなげたい。
親鸞思想と解釈
ヒロタ, デニス
文化的宗教的多元性を認めざるを得ない世界となっている。こうした多元性が受け入れられる現代的人間像と世界観を考察するために日本思想を探るならば、日本で展開された浄土教に一つの手掛かりが見いだされるのではないか。というのも日本浄土教、特に親鸞の思想は言葉と真実の関係をめぐる問題、または宗教における教えとの関わり方あるいは理解の仕方に直接取りくもうとするからである。
宗教結社、権力と植民地支配 : 「満州国」における宗教結社の統合
孫, 江
一九三二年三月一日、関東軍によって作られた傀儡国家「満州国」が中華民国の東北地域に現れた。本稿で取り上げる満州の宗教結社在家裡(青幇)と紅卍字会は、いずれも満州社会に深く根を下ろし、「満州国」の政治統合のプロセスにおいて重要な位置を占めていた。
世界遺産登録を契機に生まれた新しい宗教文化 : 春日大社における春日山錬成会の活動から
川合, 泰代 Kawai, Yasuyo
本稿は,世界遺産に登録されたことを契機に,古くからある日本有数の神社の一つである春日大社の内部から,春日大社にとって新しい宗教文化が生まれ,根付いていった過程を明らかにしたものである。
ドイツ語圏の日本研究から見た神仏分離
フラッヘ, ウルズラ Flache, Ursula
本論文ではドイツ語圏の神仏分離研究の三つの側面を扱う。序論として「神仏分離」の独訳に関する問題点を述べる。第1ポイントとして,ドイツおよび欧米の日本研究におけるこれまでの神仏分離の扱いについて概略を記す。神仏分離が一般の歴史著作や参考図書で取り上げられるようになったのは最近の動きである。明治時代における神道研究では二つの傾向が見られる。一つは客観的批評する研究者(シュピナー,チェンバレン),もう一つは国家神道の視点を引き取る研究者(アストン,フロレンツ)。第二次大戦前の指導的な神道研究者(グンデルト,ボーネル,ハミッチュ)がナチスのイデオロギーに近い視点から研究結果を発表したため,戦後には神道についての研究がタブー視され,当分の間完全に中止となった。1970年代に出版されたロコバントの研究に続いて,1980・90年代にいくつかの神仏分離に関する研究文献(グラパード,ハーディカ,ケテラー,アントーニ)が発行された。最近の研究(ブリーン,サール,アンブロス,関守)ではケーススタディーや地方史が注目される傾向にある。ドイツには宗教改革時代の偶像破壊という,明治時代の日本の神仏分離と非常によく似た出来事があったために,ドイツの研究者は神仏分離に特別な関心を寄せている。そこで,第2のポイントとして,ヨーロッパにおける宗教改革と絡めて偶像破壊運動を詳しく取り上げ,ヨーロッパの宗教改革と日本の廃仏毀釈の比較を行う。共通点として両者が宗教的美術に大きな障害をもたらした改革運動であることが挙げられる。相違点としてヨーロッパにおける宗教改革が宗教的な動機をもった運動で,神仏分離が政治的な動機をもった政策であった。終わりに第3ポイントとして,簡単に筆者の個人的な意見をまとめ,神仏分離が実際どの程度「成功」したのか,そして神仏分離の今日の日本における意味を考察する。
布衣始について
近藤, 好和
本稿は、これまで研究のなかった天皇装束から上皇装束へ移行する転換点となる布衣始(ほういはじめ)という儀礼の実態を考察したものである。
Case Study of Rituals of Ancestors' Worship by an Okinawan Family in Sao Paulo, Brazil : Three Missas in One Day
Gushiken, Gabriela Tamy グシケン, ガブリエラタミー
祖先崇拝は,沖縄の移民家族によって海外でも行われている沖縄の伝統的な宗教の一部です。移民のプロセスは宗教の活動に影響を与え,受入社会の要素が組み込まれました。ブラジル・サンパウロ市に住んでいる沖縄からの移民家族が実践する祖先崇拝の儀式を観察し,参加することで民族誌的研究を行いました。本論は,祖先崇拝の実践における移民のプロセスの影響と,家族およびコミュニティのダイナミックスにおける実践の役割を調査することです。
可視化される習俗 : 民力涵養運動期における「国民儀礼」の創出
岩本, 通弥 Iwamoto, Michiya
本稿は日本近代の産育儀礼の通史的展開として、その一大転機と位置付けられるであろう民力涵養運動期における「国民儀礼」の創出について、民俗学的観点から分析する。第一次大戦の戦後経営ともいえる民力涵養運動は、日露戦後の地方改良運動の延長と見做されたためか、近代史でも地方改良運動や後続の郷土教育運動・翼賛文化運動に比べ、研究蓄積はさほど厚くないが、民俗学的にみると、その史料には矯正すべき弊習として従前の暮らしぶりも描写されるなど、実に興味深い記述が多い。この運動は形式上、内務省の示した「五大要綱」に応じた、各県・各郡・各町村の自己変革であるため、その対応は地方毎であるが、列島周縁部では、例えば岩手県では敬神崇祖の強調で伊勢大麻を奉祭する「神棚」設置が推進され、鹿児島県では大島郡に対し、「神社ナキ地方ハ我カ皇国ノ不基ヲ定メ賜ヒタル…先賢偉人ノ神霊ヲ奉祀スヘキ神社ヲ建立スルコト」と命じるなど、一九四〇年代の神祇院体制への土台として地域的平準化が図られており、従前の竈神や納戸神・便所神などへの素朴で個別的な民間信仰は、天照の下に統合され、家内安全も豊作・安産祈願も「天照のお蔭」と思わせるような換骨奪胎過程が見てとれる。そのほか各地の記事を通覧すると、門松や注連縄、初詣や七五三、神前結婚式の普及を推奨したり、礼服規定で喪服を黒に統一するなど、今日日本で「伝統」と見做される「国民儀礼」の多くは、この期の運動によって成立するが、それまで地方毎に多様だった民俗文化を平準化し、「文化的ならし」を図る一方、自治奉告祭や出征兵士の送迎、三大節など、地域共同体に何かしらの出来事があれば、「氏神」に参集させ、新たな形式の「集団参拝」を強要するなど、私的で人的であった習俗を、公的で外部からも見える可視的な社会的儀礼へと変換させた。それは地域内階層差や初生児優遇の儀礼を平等化する一方、忠君愛国へ向けた儀礼の全国的画一化の端緒ともなった。
沖縄における地方の雨乞い
山里, 純一 Yamazato, Junichi
旱魃は人間の生存を脅かす最たるものの一つである。気象学や科学技術が発達した現代においてさえ、降雨は自然に委ねる他はないが、これを人間の力を越えたものに頼って雨を得ようとする行為が雨乞いである。雨乞いは地域共同体や行政レベルで行われ、一定の儀礼を伴うが、本稿は宮古・八重山を中心に、沖縄本島の中北部および久米島の事例も参照しながら沖縄における地方の雨乞い儀礼について、概観したものである。
アニミズム再考
梅原, 猛
アニミズムはふつう原始社会の宗教であり、高等宗教の出現とともに克服された思想であると考えられている。タイラーの「原始文化」がそういう意見であり、日本の仏教はもちろん、神道もアニミズムと言われることを恥じている。しかし私は、日本の神道はもちろん、日本の仏教もアニミズムの色彩が強いと思う。それに、アニミズムこそはまさに、人間の自然支配が環境の破壊を生み、人間の傲慢が根本的に反省さるべき現代という時代において、再考さるべき重要な思想であると思う。
補説・植物的なもの : 私の方法
杉本, 秀太郎
「植物的なもの」とは、私の美的経験および宗教的経験を分析するにさいして私の用いた方法である。この一文は、私の方法への自註として書かれた。
弥生集落の祭祀機能と景観形成(論考編1 弥生時代の集落論)
小林, 青樹 Kobayashi, Seiji
弥生集落の景観形成にあたって重要であるのは,絵画の分析から,第1に集落の中枢に位置する祭殿と考える建物(A2・A3)の存在であり,この祭殿を中心として同心円状に景観を形成している。そして,第2に重要であるのは,祭場をもつ内部と外部を区別化する環濠である。本論では後者を中心に検討した。平野部の環濠集落のなかには,環濠が河川と接続するものがあり,水をたたえた環濠はむしろ河川を象徴化したものであると考えた。環濠は,境界・結界を現す区別化の象徴である。このあり方と連動して,絵画の中には,それぞれの空間における儀式・儀礼に,景観形成で確認した「辟邪」を意図した図像や身体技法をも表現している。弥生集落の景観は,こうした各々の儀式や儀礼に一貫した約束事である「儀礼的実践」を根底におき形成されていたと考える。
関東以西の屈折像土偶 : 地域性への覚書(Ⅰ. 総論)
磯前, 順一 Isomae, Jun'ichi
亀ケ岡文化は,主な規定要素である材質・身体性・文様表現の共有性と排他性を操ることによって,各形式相互の関連性を考慮しながら各宗教遺物の形式属性を決定していた。このことは,当時の社会が各宗教遺物をつらぬく統一的な意図をもっていたこと,さらにはそこに何らかの構造が存在していたであろうことを暗示している。そして,亀ケ岡文化は東北地方全域に共通するような基本構造を前提としながらも,さらにその内部の各地域がそれぞれその基本構造の構成要素の改変をおこない,自地域特有の独自性をだそうとしていた。
湯立神楽の意味と機能 : 遠山霜月祭の考察
鈴木, 正崇 Suzuki, Masataka
長野県飯田市の遠山霜月祭を事例として、湯立神楽の意味と機能、変容と展開について考察を加え、コスモロジーの動態を明らかにした。湯立神楽は密教・陰陽道・修験道の影響を受けて、修験や巫覡を担い手として、神仏への祈願から死者供養、祖先祭祀を含む地元の祭と習合して定着する歴史的経緯を辿った。五大尊の修法には、湯釜を護摩壇に見立てたり、火と水を統御する禰宜が不動明王と一体になるなど、修験道儀礼や民間の禁忌意識の影響がある。また、大地や土を重視し竈に宿る土公神を祀り、「山」をコスモロジーの中核に据え、死霊供養を保持しつつ、「法」概念を読み替えるなど地域的特色がある。その特徴は、年中行事と通過儀礼と共に、個人の立願や共同体の危機に対応する臨時の危機儀礼を兼ねることである。中核には湯への信仰があり、神意の兆候を様々に読み取り、湯に託して生命力を更新し蘇りを願う。火を介して水をたぎらす湯立は、人間の自然への過剰な働きかけであり、世界に亀裂を入れて、人間と自然の狭間に生じる動態的な現象を読み解く儀礼で、湯の動き、湯の気配、湯の音や匂いに多様な意味を籠めて、独自の世界を幻視した。そこには「信頼」に満ちた人々と神霊と自然の微妙な均衡と動態があった。
国庁神社の登場 : 惣社の系譜
村井, 康彦
日本人の宗教意識を探る試みは、近時における宗教ブームのなかでいよいよ盛んだが、日本人の宗教的な精神風土の原郷を平安時代に求めることは、決して間違っていないし、重要な仕事であろう。なかでも仏教界の方からはじまった、いわゆる神仏習合がこの時代にひろがり、社会的な影響を及ぼしはじめたことの意味は大きい。興味深いのは、そうした神仏習合の進むなかで神祇側が覚醒し、さまざまなリアクションを起こし、神祇の世界に波紋を投じている事実である。本稿はそのことを、中央の神祇氏族であった中臣・忌部両氏の動向と、地方神祇の主体となった国守(都から下った地方長官)の動向とを、その結節点となった国庁(各国におかれた地方政庁、その長官が国守)の神祇施設である「国庁神社」の歴史を辿るなかでとらえ、九―十世紀における、中央・地方にわたる神祇界の変動の実態とその背景を探ったものである。
William Dean Howells' Criticism of Religion in The Leatherwood God
Akamine, Kenji 赤嶺, 健治
The Leatherwood God (1916) はHowells 晩年の労作であり、宗教に関する彼の最後の重要ステートメントと目されている。この小説で Howells は、1820年代に 0hio 州の辺境 Leatherwood で、自らを神と名乗る詐欺師 Dylks に生活の平和を乱される住民の苦境を描き、より良い人間の育成とより良い社会の建設に貢献しない宗教に対する手きびしい批判を展開している。従来この村のキリスト教徒達は宗派を超えて協力一致し、同じ教会を共用してきたが、勢力を増した新 Dylks 教の信者達に教会から締め出され、内部抗争と分裂に追いやられる。聖書の数えを守り愛の絆で結ばれていた隣人達や親子兄弟も、Dylks 教の教義のことで口論し、多数が反目しあい、離散するようになる。Howells は啓示宗数が Dylks 教のように、当事者達の自己欺瞞・自己妄想および集団妄想から生まれる可能性があることを示唆し、制度化し組織化された宗教の独善的教義、宗派対立や分裂、道徳的義務の等閑視に批判の矛先を向け、きびしく糾弾している。
碑文から見た巍山地域の中国系宗教について―16‐18世紀を中心として―
立石, 謙次 TATEISHI, Kenji
本報告では、今回、中国雲南省大理州巍山県での碑刻資料から収集した拓本資料の中から特に数点を紹介する。そして、これら資料の、従来不明な点の多かった16‐18世紀巍山周辺での仏教・道教などの中国系宗教研究における有用性について述べていく。
農耕儀礼と動物の血(下) : 『播磨風土記』の記述とその引用をめぐって
長田, 俊樹
『播磨国風土記』の一節に、動物の血、とりわけ鹿の血を稲作儀礼としてもちいる記述がある。この一節は、折口信夫など、おおくの学者が引用している。そこで、この引用がだれによって、どのようにおこなわれてきたのか、検証するのがこの小論の目的である。
農耕儀礼と動物の血(上) : 『播磨国風土記』の記述とその引用をめぐって
長田, 俊樹
『播磨国風土記』の一節に、動物の血、とりわけ鹿の血を稲作儀礼としてもちいる記述がある。この一節は、折口信夫など、おおくの学者が引用している。そこで、この引用がだれによって、どのようにおこなわれてきたのか、検証するのがこの小論の目的である。
近代日本の禁酒運動と禁酒法案からみた儀礼の中の酒
青木, 隆浩 Aoki, Takahiro
本研究では、近代日本の禁酒運動において、酒を用いる儀礼が案外大きな障壁となっていたことを明らかにし、その理由について考察していった。もともと飲酒のような道徳や生活習慣、教育に関わるようなことを法律で規制する機運が高まっていったのは、アメリカの影響による。
女性神役の就任過程と唱え言についての試論 : 石垣島川平の事例(第Ⅰ部 論考 / 3. 南西諸島の宗教者の身体と社会)
澤井, 真代 Sawai, Mayo
琉球諸島において集落単位の儀礼を中心的に担うノロやツカサといった女性神役は従来、神に祈り儀礼に奉仕するのみの存在と見なされる傾向があったが、一九八〇年代以降、神と交感する能力を豊かに有する女性神役の事例が報告され、従来の女性神役像が拡大された。ただ、琉球諸島の女性神役をめぐる問題は、神との交感に収斂する事柄にとどまらないことも次第に明らかにされつつある。一九八〇年代以降にとられるようになった、個々の神役の生活史や神観念に接近する方法により、神役の職能をめぐる様々な問題を明らかにし、琉球諸島の女性神役の多様なあり方を提示することを目指しつつ、本稿では石垣島川平における女性神役「ツカサ(司)」の就任過程と、ツカサの祈願方法の中核にあると言い得る唱え言「カンフツ(神口)」について報告する。
<研究論文>泉涌寺における位牌堂「霊明殿」の創祀と発展 : 泉涌寺へ集約される天皇家の喪葬
石野, 浩司
泉涌寺「霊明殿」とは、歴代天皇の位牌(尊牌)を安置する施設である。天皇即位儀礼および宮中祭祀と関連して、宮内庁の月輪陵墓祭祀との関係性を維持している。
〝古代人の死〟と墨書土器(日本の死者儀礼と死の観念(2))
平川, 南 Hirakawa, Minami
さきに拙稿「墨書土器とその字形」において、古代の集落遺跡から出土する墨書土器は、一定の祭祀や儀礼行為等の際に土器になかば記号として意識された文字を記載したのではないかと指摘し、今後、古代村落内の信仰形態の実態を究明しなければならないと課題を提示した。
「つぎはぎジャケット」と「ふんどし」 : ベンガルのバウルの宗教と宗教儀礼
村瀬, 智
新羅積石木槨墓の埋葬プロセス : 皇南大塚を中心に (第2部 王権の比較)
高久, 健二 Takaku, Kenji
本論文は韓国慶尚北道慶州市に位置する皇南大塚の築造工程と古墳で執り行われた埋葬・儀礼行為を検討することによって,5世紀代の新羅の大型積石木槨墓における埋葬プロセスを総合的に復元し,その特徴と意義について考察したものである。皇南大塚を検討した結果,大型積石木槨墓の埋葬プロセスは大きく3段階にわたって進行したことが明らかとなった。まず,第1段階は1次墳丘と埋葬主体部の構築,および被葬者の埋葬,副葬品の埋納行為が行われる段階であり,木槨の構築,木槨側部積石部の構築,1次墳丘の構築が同時併行で行われたものと推定した。また,この第1段階には被葬者の埋葬行為にともなう古墳築造の中断面が存在し,大型積石木槨墓は被葬者の埋葬行為が築造工程の過程で行われる「同時進行型」古墳であることを示している。第2段階は1次墳丘の密封行為が行われる段階であるが,その最後に儀礼が行われた古墳築造の休止面が存在しており,1次墳丘上面が埋葬プロセスにおける重要な儀礼の場であったことを示している。第3段階には2次墳丘の構築が行われており,古墳構築の最終段階の工程と儀礼が行われる段階である。積石木槨墓は埋葬行為が行われる段階には,すでに1次墳丘が築かれており,地下式木槨墓のような典型的な「墳丘後行型」古墳とは,埋葬・儀礼行為が行われる場が異なっていた。また,皇南大塚南墳と北墳は相互に継承関係があることは明らかであるが,南墳と北墳の被葬者が夫婦である可能性は低く,5世紀代の新羅では夫婦合葬が普及していなかったと推定される。大型積石木槨墓は原三国時代後期から続く木槨墓の最終形態であるとともに,厚葬墓の頂点に位置づけられる墓制である。皇南大塚南墳は古墳規模や副葬品の質・量だけでなく,埋葬プロセスの複雑性においても大きく飛躍しており,皇南大塚南墳が新羅王陵の出現を,北墳がその確立を示している。
近江三上の宮座にみる歴史と伝承 : 公文と座をめぐって
真野, 純子 Shinno, Junko
滋賀県野洲市三上のずいき祭りは宮座として知られるが、本稿では、公文と座を訴訟文書や伝承記録などから検証するとともに、現在の芝原式の儀礼のなかに何がこめられているのかをあきらかにした。
北部少数民族の儀礼・宗教
樫永, 真佐夫
Iraqw族の宗教的観念と儀礼
和田, 正平
ミヘの儀礼 : メキシコの土着宗教とカトリック
Kuroda, Etsuko
蕪村の親鸞
早川, 聞多
この論文の主題は、詩人(俳人)でもあり画家でもあった与謝蕪村(一七一六~一七八三)が「俗なるもの」を重視し、かつその中で生きたことを論証し、さうした生き方が彼の宗教的な悟りに由来するのではないか、といふことを論じる。
『明譽眞月大姉葬儀写真帖』からみた近代の葬列の肥大化
山田, 慎也 Yamada, Shin'ya
現代の葬送儀礼は,告別式の成立と葬儀産業の成長が基底にあって構築されている。告別式は人口の流動性の高い都市に合致した葬儀形態であり,葬儀産業は,流動化によって弱体化した地域コミュニティーを補完することで成長していった。これらの変容は,近世以来継続した葬儀の中心的儀礼である葬列が肥大化した結果,近代化の中で流動化する都市住民の葬儀としては適合しなくなることで次第に廃され,告別式に代替していったことは,近代の葬制研究のなかで明らかにされている。よって当時の葬列の肥大化の解明は,その後の葬儀の変容を考える上で重要な要素であり,より詳細な検討が必要とされる。
中世興福寺における別当就任儀礼 : 「印鎰用意條々」を通して
西, 弥生 Nishi, Yayoi
本稿は興福寺における別当就任儀礼である「印鎰渡」について検討したものである。国立歴史民俗博物館に所蔵される室町前期成立「印鎰用意條々」(水木家資料)は、顕守によって執筆され、興福寺の一院家である東院に伝来したと判断される。その内容は、「印鎰渡」の支度に焦点を当て、大乗院方の記録を抄出したものである。
豚の下顎骨懸架 : 弥生時代における辟邪の習俗
春成, 秀爾 Harunari, Hideji
近年,佐賀県菜畑,奈良県唐古・鍵など西日本の弥生時代遺跡から,豚の下顎骨に穿孔し,そこに棒を通したり,下顎連合部を棒に掛けた例が発掘され,その習俗は中国大陸から伝来した農耕儀礼の一つであるとする見解が有力となっている。
ラフカディオ・ハーンの仏教観 : 十九世紀科学思想との一致論を中心として
バスキンド, ジェームス
ラフカディオ・ハーン、小泉八雲(一八五〇-一九〇四)が、広範囲に亘って、日本の紹介と理解に大いに貢献した人であることは誰もが認めるだろう。しかし、ハーンの影響は民俗学や昔話に限られているわけではない。ハーンには日本の宗教や信仰、精神生活についての深みのある分析も非常に多くあり、宗教関係のテーマが、ハーンの全集の大半を占めているといってよい。それゆえ、今日、ハーンは西洋人に日本文化や仏教を紹介した解釈者としても知られている。そして同時にハーバート・スペンサーの解釈者でもあり、多くの仏教についての論述中にはスペンサーの思想と十九世紀の科学思想と仏教思想とを比較しながら、共通点を引き出している。ハーンにとっては、仏教と科学(進化論思想)は相互排他的なものではなかった。むしろ、科学的な枠組を通じて仏教が解釈できると同時に、仏教的な枠組で進化論の基本的な思想がより簡単に理解できると信じていた。この二つの思想形を結びつけるのが、業、因果応報、そして輪廻思想である。ハーンが作り上げた科学哲学と宗教心との融合は、ただハーン自身の精神的安心のためだけではなく、東西文明の衝突による傷を癒すためにもあった。
考古学からみた聖俗二重首長制
白石, 太一郎 Shiraishi, Taichiro
古墳時代前期から中期初めにかけての4世紀前後の古墳の埋葬例のうちには,特に多量の腕輪形石製品をともなうものがある。鍬形石・石釧・車輪石の三種の腕輪形石製品は,いづれも弥生時代に南海産の貝で作られていた貝輪に起源するもので,神をまつる職能を持った司祭者を象徴する遺物と捉えられている。したがって,こうした特に多量の腕輪形石製品を持った被葬者は,呪術的・宗教的な性格の首長と考えられる。小論は,古墳の一つの埋葬施設から多量の腕輪形石製品が出土した例を取り上げて検討するとともに,一つの古墳の中でそうした埋葬施設の占める位置を検証し,一代の首長権のなかでの政治的・軍事的首長権と呪術的・宗教的首長権の関係を考察したものである。
持続可能な外交をめざして : 幕末期、欧米外交官の将軍拝謁儀礼をめぐる検討から
佐野, 真由子
本稿は、幕末期に欧米諸国から来日しはじめた外交官らによる、登城および将軍拝謁という儀礼の場面を取り上げ、そのために幕府が準備した様式が、全例を連鎖的に踏襲しながら整備されていく過程を検証する。それを通じて、この時期の徳川幕府における実践的な対外認識の定着過程を把握するとともに、その過程の、幕末外交史における意義を考察することが本稿の目的である。
律令国家転換期の須恵器窯業(第Ⅳ部 生産論)
北野, 博司 Kitano, Hiroshi
小論では律令国家転換期(八世紀後半〜九世紀前葉)における須恵器生産の変容過程を検討し、その背景を経済、社会、宗教の観点から考察することを目的とした。ここでは各窯場の盛衰、窯業技術(窯構造・窯詰め・窯焚き)、生産器種の三点を主な検討対象とした。
唐礼継受に関する覚書 : 地方における儀礼・儀式(Ⅲ. 世界のなかの日本歴史)
古瀬, 奈津子 Furuse, Natsuko
日本古代における儀式の成立は,律令国家の他の諸制度と同様に,唐の影響なしには考える事はできない。しかし,律令の研究に比べると,唐礼の継受のあり方や唐礼との比較研究は遅れている状況にある。そこで,本稿においては,地方における儀礼・儀式について取り上げ,規定・実態の両面から唐礼との関係を考察し,唐礼継受の一側面を明らかにしたい。
宗教的植民地化の断章 : 在日英米聖公会主教管轄権問題
大江, 満
ベルリン会議のアフリカ分割から一〇年後の一九世紀後半、欧米列強から不平等条約を強いられてきた明治日本が、念願の改正条約を五年後に実施することに成功した一八九四年、英米聖公会の在日ミッションは、彼らの日本伝道地をアフリカのように分割した。日本が対米列強劣勢の外交を挽回したとき、欧米由来の外来宗教は日本領土を宗教的に植民地化したのである。同年、日本はアジアの覇者中国に戦勝し、台湾を植民地化する。日本聖公会における日本人による国内自主伝道の権限は、日本聖公会の諸地方部管轄権を所有する外国人主教が掌握したことで、日本人の自主伝道は「新領土」台湾に弾き出された。それ以来、一九二三年に設立された東京・大阪の日本人主教管轄区をのぞく日本聖公会諸地方部は、各英米ミッションに管轄され、戦後もそれは、傘下の日本人によって旧ミッション帰属の教区制度として踏襲されて、現代に及ぶ負の遺産を抱えることになったのである。
宴会の料理文化に表出された類型性と個別性(人生)
竹内, 由紀子 Takeuchi, Yukiko
婚礼や葬儀など人生儀礼の宴会が,標準化され規範化された地域社会のマニュアルに沿って挙行されるのか,当事者の個別な社会関係や個性に応じてマニュアルを越えて挙行されるのか。この点に注目して,人生演出の機会における類型性と個別性の位相を検討する。
東アジアの王権と秩序 : 思想・宗教・儀礼を中心として
波照間島の祖先祭祀と農耕儀礼 : ムシャーマ行事を中心とする盆行事の考察
上野, 和男 Ueno, Kazuo
この報告は、沖縄八重山波照間島の盆行事についての記述と分析である。波照間島の盆行事はムシャーマを中心とする村落レベルの行事と家族単位の盆行事の二つに区分される。ムシャーマは来訪神ミルクを先頭とする仮装行列と棒術、太鼓、獅子舞、ニンブチャー(念仏踊り)を内容とする行事であり、村落レベルでの盆行事にはこのほかに来訪神アンガマの行事とイタシキバラとよばれる行事がある。これに対して家族単位の盆行事は、先祖を迎えて供物を供えて供養し、そして先祖を送るという、構造的にはごく一般的な内容の盆行事である。本稿では波照間島の盆行事をつぎの三点を中心に考察を試みた。第一は、村落レベルの行事と家族単位の盆行事の儀礼過程の記述と両者の意味の差異、および両者の関係についての検討である。第二は、ムシャーマ行事のもつ祖先祭祀的性格と農耕儀礼、特に豊年祭的性格についての考察である。そして第三は、盆行事に登場するミルク、フサマラー、アンガマの三つの来訪神についての検討である。
タイ北部の山地農民ミエン(ヤオ)における狩猟活動 -野鶏猟とイノシシ猟の事例-
池谷, 和信 Ikeya, Kazunobu
本報告では、タイ北部の山地に暮らす農民の狩猟活動の実態を、とくに野鶏猟とイノシシ猟に注目して、生態 人類学の視点から把握することを目的とする。現地調査は、2005 年11 月上旬、2006 年3月下旬および5月上旬におこなわれた。その結果、タイ北部の山地農民にとって、イノシシ猟は、農地に隣接する地域での害獣駆除を目的とした側面のみならず、村人の多くが参加するという社会的側面、捕獲後に必ず儀礼がともなうという信仰的側面という役割を無視できないことがわかった。その一方で野鶏猟の場合には、単独でおこなわれており、儀礼がともなうことはない。両者とも、その多くの活動は集落や農地に近接した地域で行なわれているものであり、現在においても村社会のなかに深く根付いた生業活動であることが明らかになった。
身体の実践,人格の関係性としての「死者供養」
池上, 良正 Ikegami, Yoshimasa
本稿では,多くの日本人には自明な言葉として受け取られている「死者供養」という実践群をとりあげ,これを理解するためには,生者と死者との間に交わされる身体的実践や,人格表象の関係性に注目した動態的な視座が必要であることを論じた。言い換えれば,西洋近代を特徴づけてきた,霊肉二元論的な人間モデルや,自律的で完結した統一体としての個人といった前提では,十分な理解が難しいのではないか,ということである。プロテスタント的な「宗教」観から強い影響を受けた近代の宗教研究では,つねに存在論的な根拠をもつ「信仰」を明らかにしようとする傾向が強く,「死者供養」と総称される実践も,「死者信仰」「祖先崇拝」などの枠組みによって説明され,実践がもつ積極的な意義を単独に論じるといった発想は乏しかった。
日本の禅院における中国的要素の摂取 : 十境を中心として
蔡, 敦達
鎌倉時代末から室町時代にかけて、京五山・鎌倉五山をはじめとする禅宗寺院では、中国文化への憧憬・宗教的需要・修行環境の美化などの点から境致、特に十境の選定が盛んに行われた。しかし、十境は日本の禅院に発生したものではなく、南宋以降、五山をはじめとする中国の禅院で行われていたのである。
江戸の墓誌の変遷
谷川, 章雄 Tanigawa, Akio
江戸の墓誌は、一七世紀代の火葬墓である在銘蔵骨器を中心にした様相から、遅くとも一八世紀前葉以降の土葬墓にともなう墓誌を主体とする様相に変化した。これは、一七世紀後葉と一八世紀前葉という江戸の墓制の変遷上の画期と対応していた。こうした墓誌の変遷には、仏教から儒教へという宗教的、思想的な背景の変化を見ることができる。
高野山と比叡山の会社墓
中牧, 弘允 Nakamaki, Hirochica
日本の会社は社葬や物故社員の追悼儀礼をおこなうだけでなく、会社自体の墓をもっているところがある。このような墓は会社墓とか企業墓とよばれ、高野山と比叡山におおくみられる。本稿は高野山の会社墓一〇三、比叡山の会社墓二三をとりあげ、その基礎的なデータを提出するとともに、今後の課題を提示することを主な目的としている。
葬儀用品問屋と葬儀の産業化 : ある問屋さんのライフヒストリーを通して
山田, 慎也 Yamada, Shinya
本稿は、葬儀用品問屋を営んできたある人物のライフヒストリーから、問屋業が成立し、葬儀に関わる業務が次第に産業化していく過程について検討することを目的とする。この人物は問屋として、戦後の葬儀産業形成においてその一翼を担い、今でも関連するさまざまな場で活躍しており、その生涯はそのまま戦後の葬儀産業史の展開と密接に関わっている。特に葬儀が産業化していく過程で、文化の流用が行われ、必要な専門的知識が形成されていき、新たな流通形態を作り出している状況を把握することは、現代の葬送儀礼の理解のためにも必要なことと考える。その際、方法的にはライフヒストリーの手法を取り上げるが、その理由として、都市に住みながら地域を越えて活動をし、また問屋業として葬送儀礼のあり方に大いに影響を及ぼしていることから、地域に必ずしもとらわれない個人的主体性の強い存在の動態を把握するためには、有効なアプローチ法と考えるからである。
<研究ノート>日・中両民族の雷神思想の源流(その二) : 神話史と宗教史の黎明
李, 均洋
雷神の文字学の考察、納西族や壮族などの口頭の神話と近古(宋代)および現在に残っている雷神を祭祀する民俗の考察により、原始民の神という観念は、雷神を「世界と万物を創った」最高の天神として祭祀することと共に出現した、と考えることができる。つまり、雷神の起源は神即ち宗教の起源と共に発生したのである。原始民の雷神信仰は自然崇拝に属するのであるが、その後に出現してきたトーテム崇拝や祖先崇拝などは、雷神崇拝と切っても切れないつながりを持っている。
現代韓国の〈巡礼〉と民族主義 : 光州事件(1980年)以後(死)
真鍋, 祐子 Manabe, Yuko
本稿の目的は,政治的事件を発端としたある〈巡礼〉の誕生と生成過程を追うなかで,民俗文化研究の一領域をなしてきた巡礼という現象がかならずしもア・プリオリな宗教的事象ではないことを示し,その政治性を指摘することにある。ここではそうした同時代性をあらわす好例として,韓国の光州事件(1980年)とそれにともなう巡礼現象を取り上げる。
奈良県東北部村落における宮座の組織と儀礼 : 室生村多田・染田を中心に(第一部 地域社会におけるカミ祭祀と葬墓制)
上野, 和男 Ueno, Kazuo
本稿は、一九九七年以降の現地調査もとづいて、奈良県東北部に位置する室生村東里地区の宮座組織と祭祀儀礼の構造について、多田と染田の二つの集落を中心に考察する調査報告である。本稿の主要な課題は次の二点である。第一は、宮座の家族レベルの構造原理である当屋制と、個人レベルの構造原理としての年齢序列がどのようにかかわっているかを、事例に即して考察することである。ここで対象とする地域においては、年齢順に着座したり祭祀の執行にあたるなど、年齢序列が一定の重要性を保持してきたことは事実である。したがってこの問題はこの地域の宮座が、宮座一般論に提起する問題のひとつである。と考えられる。第二は、宮座儀礼の構造の問題のひとつとして、宮座が実際にさまざまな祭祀を行う場合、その方法の問題がある。これはすなわち、特定の当屋に祭祀的役割や経済的負担を集中させるか否かの問題である。これまでの宮座研究ではこれに二つの型がみとめられることが明らかにされてきたが、対象とする地域でどのような傾向がみとめられるか考察するのが第二の課題である。
伊勢神宮の創祀 : 日本民俗学の古代王権論
新谷, 尚紀 Shintani, Takanori
本論文は柳田國男を中心として折口信夫の参加によって創始された日本民俗学を継承する立場から提出する伊勢神宮の創祀をめぐる試論である。結論として得ることができたのは以下の諸点である。伊勢神宮の創祀の歴史的過程については、推古朝における日神祭祀、斉明朝における出雲の祭祀世界の吸収、持統朝の社殿造営と行幸、という三つの画期があった。確実な伊勢神宮の造営は天武二年(六七三)四月の大来皇女の泊瀬の斎宮への籠もりから翌三年(六七四)一〇月の伊勢への出発の段階である。そして、持統六年(六九二)の伊勢行幸に際して社殿の造営が完了していたことは確実である。それは律令制的な税制度のもとでの伊勢神宮の造営であり、新益京(藤原京)という新たな都城の造営と対をなす国家的事業であった。政治権力の基盤としての律令制と都城制、に対応する宗教権威の基盤としての神祇制と官寺制、という律令国家の体系のもとで、その神祇制の中核としての意義をもつ伊勢神宮の造営と祭祀がそこに完備されたのである。そして、天照大神のモデルとなったのは高天原広野姫天皇をその謚号とする持統天皇であった。ただし、伊勢神宮の創祀の意味はこのような歴史的な事実関係の追跡からだけでは重要な点が見えてこない。『記紀』になぜ出雲神話が存在するのかという問題も含めて、出雲大社の祭祀と対をなすものととらえるとき、はじめて大和王権の祭祀世界が見えてくる。〈外部〉としての出雲、という概念設定が有効なのである。そして、以下の点が指摘できる。天武と持統の大和王権を守る装置として位置づけられたのが、伊勢と出雲という東西の海に面した両端の象徴的霊威的存在であった。王権神話で政治は皇孫に、神事は大己貴神にとの分業を語るとともに、それは同時に、朝日(日昇)―夕陽(日没)、東方(対外的安全領域たる太平洋の海辺)―西方(対外緊張の日本海の海辺)、太陽―龍蛇、陽―陰、陸(新嘗祭)―海(神在祭)、現世(顕世)―他界(幽世)、という対照性のコスモロジーの中に位置づけられる関係性であった。七世紀末から八世紀初頭にかけて成立した天武・持統の大和の超越神聖王権とは、〈外部〉としての出雲、の存在を必要不可欠とした王権だったのである。出雲の祭祀王にとって龍蛇祭祀とは毎年繰り返される外来魂の吸収儀礼であり、一方、大和の祭祀王が新嘗祭と大嘗祭に先立って執行する鎮魂の祭儀も外来魂の吸収儀礼である。そのような外来魂の吸収という呪術的霊威力の更新の儀礼と信仰を大和の王権が獲得しそれを内部化できたのは、出雲の祭祀王権との接触によってであり、〈外部〉としての出雲、の設定によるものである。天皇の鎮魂の祭儀とは、外来魂を集めるむすび(結び)とむすひ(産霊)、その外来魂を天皇の身体に定着させるたまふり(鎮魂)、そうして内在魂となった天皇の霊魂を増殖し活性化させるたましずめ(鎮魂)、そしてその天皇の創造力豊かな増殖する内在魂を臣民へと分与するみたまのふゆ(皇霊之威・恩頼)までを含むものであり、天皇という存在と機能の基本がその霊魂力(生命力)の不断の更新とその分与にあるということを示す。この王権論を普遍化する視点からいえば、カール・ポランニー Karl Polanyi のいうところの、中心性centricityと再分配redistributionの構造とみることもできる。
古代における天皇大葬管掌司について
榊, 佳子 Sakaki, Keiko
日本古代の喪葬儀礼は七世紀から八世紀にかけて大きく変化した。そして喪葬儀礼に供奉する役割も、持統大葬以降は四等官制に基づく装束司・山作司などの葬司が臨時に任命されるようになった。葬司の任命に関しては、特定の氏族に任命が集中する傾向があり、諸王・藤原朝臣・石川朝臣・大伴宿祢・石上朝臣・紀朝臣・多治比真人・佐伯宿祢・阿倍朝臣が葬司に頻繁に任命されていた。
物語草子研究の現在 ――お伽草子の女・変化・異界――
恋田, 知子 KOIDA, Tomoko
14 世紀から17 世紀にかけて制作された短編の物語群であるお伽草子(室町物語)には、前代までの物語とは異なり、貴公子や姫君だけでなく、武士や庶民、芸能者や宗教者、神仏や異類にいたるまで、実にさまざまなモノたちが物語の主人公となって多彩な活躍を見せる。奇想天外な物語は絵とも結びつき、素朴な絵本から豪華な絵巻まで、多種多様な展開を見せ、形成・享受の層を拡げていった。
Kodomotachi no Tame [For the Sake of the Children]: Elderly Okinawan Women's Return Migration to Okinawa
Zulueta, Johanna ズルエタ, ジョハンナ
本研究は、沖縄人「戦争花嫁」の帰還移動に注目する。また、ジェンダー、アイデンティティ、宗教的帰属意識の交差点に注目しながら、「home(故郷)」の形成も考察する。これらの沖縄人女性にとって、「home」は、必ずしも単に戻るべき場所としての「故郷」を意味するとは限らなかった。むしろ、「home」は帰属意識や家族との関係である。聞き取り調査により、ライフ・ストーリーを使用しながら分析を行う。
大僧正明尊とその時代
久保木, 秀夫 KUBOKI, Hideo
大僧正明尊(九七一―一○六三)は、生涯を通じて関白藤原頼通に親近し、摂関家の宗教的側面を支え続けた高僧である。本稿ではその明尊の伝記と、周辺の文学・史実について若干の考察を行う。特に長暦二年(一○三八)以降に捲き起こった天台座主問題、及び康平三年(一○六○)に頼通が主催した明尊九十賀を中心に論じることで、明尊が生きた頼通の時代の一側面を明らかにしたい。
氏神と往生 ―『とはずがたり』試論―
辻本, 裕成 TSUJIMOTO, Hiroshige
『とはずがたり』の従来の主題論は、余りに近代的すぎる視点から行われてきたのではないかという疑問がある。小稿では、なるべく『石清水物語』をはじめとする同時代の例によりながら、『とはずがたり』の主題を検証し直したい。有明の月が柏木と重ねて造形されている宗教的な意味・有明の月の妄執と重ね合わせて描かれる二条の妄執の実態・その如き妄執から二条を救う八幡大菩薩の加護の論理、などを論ずる。
<第2部 地質・資源の文化と思想>白川石からみる産地の人々の営みと石材文化の形成
張, 平星
2022 年6 月12 日(日),日文研共同研究「日本文化の地質学的特質」の初めての巡検を,京都の名石・白川石をテーマに,その産出と加工,産地の北白川地域の土地変遷と石の景観,日本庭園の中の白川砂の造形・意匠・維持管理に焦点を当てて実施した。地質学,考古学,歴史学,宗教学,哲学,文学など多分野の視点から活発な現地検討が行われ,比叡花崗岩の地質から生まれた白川石の石材文化の全体像を確認できた。
ブルターニュのトロメニ : 伝説と現在
新谷, 尚紀 Shintani, Takanori
トロメニtroménieはブルターニュ地方の聖人信仰と結びついた伝統行事である。アイルランドやウエールズからやってきた聖人が,領主から一日に歩くことができた範囲の土地を与えようと言われて歩いた順路を,毎年あるいは6年に1回,聖遺骨reliquesを担いで行列を組み,十字架croixやバニエールbannièresとともに行進processionして一巡する。トロメニの語源は,ブルトン語のtro minihi,もしくはtro mene,つまり,minihi(修道院の囲い地)もしくはmene(山)のtro(一巡)と考えられ,tro(一巡),tour(一周)がterritoire(領域)の設定に通じるところから,troménieとterritoireとの緊密性が浮かび上がる。そして,聖人の行跡の追体験としての儀礼的繰り返しが,領域設定の再現を演出しており,儀礼による「原初回帰」の機能が発動し,歴史の硬い時間から民俗の柔らかい時間への移行が参加者の信仰衝動を刺激する。とくに,順路途中のスタシオンstationsの設営や人々の信仰儀礼的所作には,キリスト教カトリックの教義とは異なる聖樹・聖石・聖泉への伝統的なブルターニュの民俗信仰croyances populairesがその姿を現しており,両者の関係は決して習合や融合ではなく黙認許容と混在併存の関係にあるというべきである。また,参加者たちとその役割において特徴的なのは,プレジドン,ファブリシァン,アソシアシオン,ファミーユ,その他のボランティア,など多様かつ自由意志による奉仕的参加が主流でありながら,逆にそれこそが柔軟で強靭な参加形式となっているという点である。そして,伝統行事に作用する,維持継続の推進力,創造変更への揚力,休止廃止への引力,という三つの作用力の相互関係の上に存在しつつ,参加者たち相互の無限の内と外という2種類の関係性が入れ子細工のように連なった集団実践であると同時に,個々の参加者の数だけ意味をもつ個人的実践でもあるという形式にこそ,伝統維持を支える基本力が潜在しているといえる。
神事・仏事と曲物 : 曲物の民具学的研究の断章(Ⅴ. 生活文化史への視点)
岩井, 宏實 Iwai, Hiromi
曲物は,刳物・挽物・指物(組物)・結物などとともに木製容器の一種類であるが,その用途はきわめて広く,衣・食・住から生業・運搬はもちろんのこと,人生儀礼から信仰生活にまでおよび,生活全般にわたって多用されてきた。そして,円形曲物・楕円形曲物は,飛鳥・藤原の時代にすでに大小さまざまのものが多く用いられ,奈良時代には方形・長方形のものがあらわれ,古代において広くその使用例を見ることができる。
郷祭の現在
小澤, 輝見子 Kozawa, Kimiko
滋賀県東近江市妹町の春日神社のユキカキ祭は、その儀礼から、密接に水利慣行に繋がるとされ、中世期に一つの庄園であった四町で組織される、いわゆる宮座の祭という歴史性にも注目されている。これまで、近江湖東地方における「郷祭」は、用水で繋がる「井郷」によるものとの見解が多くの研究者に提出され、さらに実証されてきたが、土地整理の結果、水利関係が消滅した地域の祭の現在の状況には触れられてこなかった。
祖先祭祀と家族・序論(Ⅰ. 総論)
上野, 和男 Ueno, Kazuo
最近とくに一九七〇年代以降、社会人類学・日本民俗学・社会学・宗教学などにおいて祖先祭祀研究が極めて活発に行われるようになってきた。一九七〇年以前の研究はフォーテス・Mのアフリカ研究がそうであったように、単系出自集団と祖先祭祀との関係であった。日本においてもこの時期の研究は、単系出自集団である同族組織や家と祖先祭祀の研究が中心であったが、一九七〇年以降の研究は、単系出自集団以外の親族組織と祖先祭祀との関係に関心があつまってきた。
来訪者をめぐる説話 : 日韓比較の視点から(Ⅲ. 世界のなかの日本歴史)
川森, 博司 Kawamori, Hiroshi
来訪者を歓待したり冷遇したりすることによって,幸運を得たり不幸を招いたりするという形の説話は,世界各地で広く語られているが,本稿はその中で,日本と韓国の事例について比較研究をおこなうことを目的とする。韓国では,やってきた僧を虐待したために長者の家が陥没して池になった,という内容を骨子とする「長者池伝説」が幅広く伝承されており,日本では,「大歳の客」とよばれる類型の昔話が多い。このタイプの説話の基本的な登場人物は,〈来訪者〉,〈来訪者を歓待する者〉,〈来訪者を冷遇する者〉の三者である。まず,来訪者を歓待する者と冷遇する者としてどのような人間関係が設定されているか,を検討すると,韓国の「長者池伝説」では〈舅:嫁〉の対立関係が圧倒的に多く,日本の「大歳の客」型の昔話では〈隣同士〉の対立関係が多い。このことは,それぞれの文化における人間関係への関心のあり方が反映されているものと考えられる。次に,来訪者のヴァリエーションを見ると,韓国では仏教の僧を中心とするが,それに道士というイメージが重なっていることも多い。日本では旅の宗教者や盲目の宗教者が多く登場している。これは,それぞれの宗教的背景や説話の管理者の違いを反映したものである。第三に,「長者池伝説」で来訪者が冷遇された後の過程の変異型を見ると,来訪者が「風水」の知識にもとづいて長者を滅ぼすという形で語られるものが多い。このように来訪者をめぐる説話に風水の思想が結びついた形は日本では見られず,韓国の場合のひとつの大きな特徴と考えられる。説話のように国際的に共通した類型が多い分野では,日本国内の伝承の意味づけをおこなう上でも,国外の類似した伝承と比較して,類似点と差異点を検討することが必要とされるのである。
村落の移動と環境 : 雲南省を中心とするハニとアカの生態系
稲村, 務 Inamura, Tsutomu
中国の環境政策についてタイと比較することにより、棚田と焼畑の二つの農法が作り出す生態系にどのように作用しているのかを考察し、そうした環境の変化に対応してきたハニ=アカ族は単に変化のない社会を生きてきた非歴史的存在などではなく、移動してきたことを「歴史」の中に反復しながらそれを儀礼のなかに織り込んでいる人々である。本稿は中国西南西双版納州の消えた「村落」を主たる事例としてこれらを論じた。
[論文] 葬儀の変化に対する地域ごとの対応の差
関沢, まゆみ SEKIZAWA, Mayumi
葬送儀礼についての研究関心は,社会の動向を背景に,Ⅰ.1980年代頃までの,葬送儀礼における個々の儀礼の意味と霊魂への対応とそれらの歴史への関心の段階,Ⅱ.1980年代,90年代以降の,葬祭業者委託の割合の増加と葬儀の変化の動向,それに伴う遺体処理の変化への関心という段階,Ⅲ.2000年以降の葬儀の簡略化に伴うさらなる変化の中にある現在,というふうに大きく変化してきているといえる。本稿は,このうちⅡの段階からⅢの段階への変化について,まずこれまでの調査から地域ごとの対応の差を概観し,そのうえで,農村部においては葬儀の変化だけが独立して起こっているのか,という問題について,近畿地方村落の宮座祭祀の伝承と変遷との関係において調査事例をもとに分析を試みたものである。調査事例としたのは,比較的遅くまで土葬が行なわれていて,2000年代に入ってようやく公営火葬場の利用に変わった近畿地方の両墓制と宮座を伝承してきた滋賀県蒲生郡竜王町綾戸と奈良市大柳生町の事例である。竜王町綾戸では,公営火葬場の利用によって,2005年に新たな石塔墓地の造成がなされ,それまでのサンマイ利用が消滅していった。綾戸では村の中に葬式の時だけ親類としての役割を果たすソーレンシンルイのしきたりが続けられてきていたがそれも2016年には解消された。さらに氏神の苗村神社の祭礼をつとめる当屋の負担の軽減がはかられることになり,葬儀の相互扶助の消滅への動きが祭りの改革も引き起こすことになったことが観察された。大柳生町では,2000年から2010年の半ばに土葬から火葬へ,そして自宅葬からホール葬へという変化がおこり,ほぼ同じ頃,2006年に宮座の明神の当屋に奉納される太鼓踊りの中止という事態が起こっていた。このようにこの2事例からは,村人の相互扶助による葬儀が変質し喪失していくなかで,村落の人びとの結集の弛緩が葬儀以外の場面でも起こっていることがわかる。
古代の衢(ちまた)をめぐって
白石, 太一郎 Shiraishi, Taichiro
七世紀から八世紀頃、奈良盆地内の交通の要衝には、衢(ちまた)とよばれ、市が立ち、多くの人びとが集まる場所があった。下ツ道と阿部・山田道の交叉点の「軽衢(かるのちまた)」、同じく下ツ道と横大路の交叉点の「八木衢(やぎのちまた)」、横大路と山辺道、さらに難波との水路として機能を果たした初瀬川などが交わる付近にあった「海石榴市衢(つばいちのちまた)」、横大路の西端で河内に至る大坂越えの大津道と竹内越えの丹比道に分岐する「当麻衢(たいまのちまた)」、上ツ道と竜田道が交叉する「石上衢(いそのかみのちまた)」などが知られる。『日本書記』『霊異記』などによると、これらの衢には交通の要衝として厩などの施設がおかれ、また市が立つほか、葬送儀礼を含むさまざまな儀礼の場でもあった。そこでは相撲などの遊戯もおこなわれ、また歌垣など男女交際の空間としても機能し、さらに刑罰執行の場でもあり、人びとへの情報伝達の場でもあった。まさに多くの人びとの交流空間の広場として重要な役割をはたしていたのである。これらの衢は、遅くとも七世紀の初めには出現していたものと想定され、藤原京以前に成立していたことは疑いない。
荒蒔の秋祭 : 奈良県天理市荒蒔
橋本, 裕之 Hashimoto, Hiroyuki
本稿は奈良県天理市荒蒔の秋祭を対象にした調査報告である。この儀礼はかなり安定した形式を維持しているかのようであるが、じつのところ社会的かつ経済的な環境の変動にともなって少なからず変化してきた。それじたいはけっして異彩を放つものではないものの、随所に歴史が刻印されていることには、やはり大きな注意をはらっておかなければならない。本稿ではこうした認識にもとづきながら、一九九一年におこなわれた荒蒔の秋祭についてくわしく報告している。
豚便所 : 飼養形態からみた豚文化の特質
西谷, 大 Nishitani, Masaru
豚便所とは畜舎に便所を併設し,人糞を餌として豚を飼養する施設である。豚便所形明器の分析からその分布には偏りがあり,成立の要因も地域によって異なることを明らかにした。豚便所は黄河中下流域で,戦国期の農耕進展による家畜飼養と農耕を両立させるため,家屋内便所で豚の舎飼いをおこない,飼料のコスト削減を目的として成立したと考えられる。一方豚便所のもう一つの重要な機能である廏肥の生産と耕作地への施肥との積極的な結びつきは,後漢中期以降に本格化する可能性が高いと推定した。黄河中下流域で成立した豚便所は,周辺地域へと広がるが,各地の受容要因は地域性が認められる。長江流域の水田地域の豚便所普及は,華北的農耕の広がりに伴う農耕地への施肥が,水田地にも応用されたことが契機になっている。一方,華南の広州市地域における豚便所の受容は,華北の豚便所文化を担った集団の移住による強制的な受容形態である。中国における豚飼養は,人糞飼料・畜糞・施肥を媒体とし,農耕と有機的に結合したシステムを形成しただけでなく,さらに祭祀儀礼などと複雑に結びつく多目的多利用型豚文化を展開した点に特質がある。一方日本列島で,中国的豚文化を受容しなかった一つの要因として,糞尿利用に対する拒否的な文化的態度の存在が指摘できよう。弥生時代には,豚は大陸からもちこまれ,食料としてだけでなくまつりにも重要な役割をはたした。しかし弥生時代以降の豚利用は,食料の生産だけにその飼養目的を特化した可能性が高い。その後奈良時代になると,宗教上の肉食禁忌の影響・国家の米重視の政策など,豚飼養を維持する上で不利な歴史的状況に直面する。食料の生産以外に,農耕・祭祀など多目的な結びつきが希薄だった日本列島の豚文化は,マイナスの要因を排除するだけの,積極的な動機づけを見いだせず,その結果豚飼養は衰退への道をたどっていったのではと考えられる。
八重山古謡にみる雨乞い思想
山里, 純一 Yamazato, Junichi
八重山諸島には雨乞い儀礼に関するニガイフチィや雨乞い歌が数多く残っている(1)。その内容も豊富で、往時の人々が降雨を何にどのように祈願していたかがわかる貴重な資料である。雨乞い歌の基本的な構造は変わらないが、雨に対する観念は村によって若干相違が見られる。ニガイフチィや雨乞い歌に見える祈願内容には、雨をどのように認識していたか、また雨が降らない理由や降雨に至るプロセスなども織り込まれていて、往時の人々の雨に対する考えを知ることができる。
ミッショナリーとしてのラジャ・ブルック
中島, 俊郎
本稿は、サー・ジェームズ・ブルックがサラワクを統括した時、ミッショナリー活動を通じて先住部族民イバン(ダヤク族)に文化変容を強いながら、統治し、かつ宣撫工作としてキリスト教を援用した事例を検証する。次に大英帝国は重商主義政策でもって、サラワクを統治したが、どのように宗教活動が有効な施策となりえたのか、を考察する。三代にわたるラジャ・ブルックは植民地主義を遂行するうえで、ミッショナリー活動と不即不離の関係を保持していく。だが三代目ヴァイナー・ブルックはミッショナリー活動を日沙商会との経済活動に転化させつつ共存の道を模索していく。
都市空間の原初形態 : 山岳寺院の構造と広場性
小林, 忠雄 Kobayashi, Tadao
本稿は都市空間の広場に関する共同研究の一つとして、山岳寺院都市を対象に、日本の都市空間の原初形態を抽出したものである。その基本的な山岳寺院都市とは高野山であり、この山中における不思議な空間構成を分析してみると、いわゆる伽藍などが集中する宗教施設ゾーン、院や坊舎など宗教者が居住し、その生活を支える庶民によってつくられたマチ域の日常生活ゾーン、そして高野山が霊山である所以ともなっている墓所の霊園ゾーンの三つの空間(ゾーニング)があることを指摘した。盛時には約二万人を擁した、この密教寺院の都市には、今日で言うところの都市性の要因がいくつも見られる。まず、僧侶とその生活を支える商人や職人と、常時、多くの参詣者を集めていることによって、旅行者を絶えず抱えており、滞留人口がかなりの数にのぼること。次に、密教というか修験道文化がもつところの技術ストックがあり、古代中世の先端技術を推進してきた場であること。それは社会的施設である上下水道設備などにも反映している。さらに参詣者のための名所、旧跡などの見学施設やその他の遊興施設、仕掛けが充実しており、そこには非日常的な色彩表現があって刺激的であること。そして、出入りが激しいことから情報集積の場としても、この山地都市が機能していることなどの都市性を見出すことができる。
The Plight of a Venetian Priest : Howells's Religious Criticism in A Foregone Conclusion
Akamine, Kenji 赤嶺, 健治
A Foregone Conclusion (1875) は Howells の第三作目の小説であるが、執筆に8年をかけ初めて本格的に取り組んだ作品で、作者はこれを“My first novel”と呼んでいる。出版当時の書評で Henry James は、この小説は「真の想像力で劇的な状況」を描く Howells の力量を証明しており、芸術性が高いと述べている。作者は、カトリック教会の神父という地位にありながら、その教義と伝統への懐疑に悩む Don Ippolito の不運な境遇を通して、種々の宗教問題を提示し、それらに対する批判を織り込みながら物語を展開している。視点人物として据えた自らの分身であるベニス駐在アメリカ領事 Henry Ferris の口を借りて作者が提示する問題の中でも最も深刻なのは、30歳になる Don Ippolito 神父自身の不可知論と聖職離脱へのあがきである。同神父は聖職を放棄して発明の才能が生かせるアメリカへ渡ることを望んでいるが、教会の圧力と自らの優柔不断のため決行の時機を逸し続け、懐疑的な神父と反抗的な発明家志望者の偽善的二重生活を送っており、このままではアイデンティティ喪失のみならず背教者として教会や世間から疎外されるのは明白である。Howells は一人の神父の窮状を17歳のアメリカ娘 Florida への思慕の念をからめて描きながら、カトリック教会の人、組織、教義、伝統等の諸問題とりわけ聖職者の本分逸脱を指摘し、それらを厳しく批判する中で、自らの宗教観を明らかにするという効果をあげている。
7世紀における地域社会の変容 : 古墳研究と集落研究の接続をめざして(第1部 7世紀の地域社会)
菱田, 哲郎 Hishida, Tetsuo
7世紀における地域社会の変化については,律令制の浸透とともに,国郡里制の地方支配やそれを支える官衙群,生産工房群,宗教施設群の成立として捉えられている。一方で,古墳時代以来の墓制も残存しており,とりわけ7世紀前半は群集墳が盛んに築造されたこともよく知られてる。古墳時代の政治体制から律令制への転換が,地域社会にどのような影響を及ぼしたのか,あるいは地域社会の変動がどのような政治変革を反映しているのかということを明らかにするため,播磨地域を主たる材料に実地に検討を試みた。
弥生時代のブタについて(Ⅴ. 生活文化史への視点)
西本, 豊弘 Nishimoto, Toyohiro
弥生時代の遣跡から出土する「イノシシ」について,家畜化されたブタかどうか,再検討を行った。その結果,「イノシシ」が多く出土している九州から関東までの8遺跡では,すべての遺跡でブタがかなり多く含まれていることが明らかとなった。それらのブタは,イノシシに比べて後頭部が丸く吻部が広くなっていることが特徴である。また,大小3タイプ以上は区別できるので,複数の品種があると思われる。その形質的特徴から,筆者は弥生時代のブタは日本でイノシシを家畜化したものではなく,中国大陸からの渡来人によって日本にもたらされたものと考えている。また,ブタの頭部の骨は,頭頂部から縦に割られているものが多いが,これは縄文時代には見られなかった解体方法である。さらに,下顎骨の一部に穴があけられたものが多く出土しており,そこに棒を通して儀礼的に取り扱われた例も知られている。縄文時代のイノシシの下顎骨には,穴があけられたものはまったくなく,この取り扱い方は弥生時代に特有のものである。このことから,弥生時代のブタは,食用とされただけではなく農耕儀礼にも用いられたと思われる。すなわち,稲作とその道具のみが伝わって弥生時代が始まったのではなく,ブタなどの農耕家畜を伴なう文化の全生活体系が渡来人と共に日本に伝わり,弥生時代が始まったと考えられるのである。
比較の視点としての「風水」 : 東アジアにおける死者の埋葬をめぐって(近隣諸国の死者儀礼と死の観念)
川森, 博司 Kawamori, Hiroshi
一般に何かの異常が生じたとき,死んだ者が生きている者の世界に何らかの影響を及ぼしていると考えられることが多くあるが,その説明の仕方は文化によって異なる。本稿では,墓地をめぐる「風水」の考え方を中心にして,東アジアの各地域における生者と死者の関係の設定の仕方を考察する。まず,韓国の農村における民族誌的データにもとついて,風水の原理の特定の地域への定着の仕方を検討する。次に,韓国における風水と儒教祭祀,巫俗信仰の三者の相互関係についての崔吉城のモデルを比較のための導入し,日本本土における遺体・遺骨へのこだわりはどのように位置づけられるか,を検討する。その結果,韓国や中国,台湾の場合にみられるような葬送儀礼終了後,長期にわたって死者の遺体や遺骨と生き残った者との影響関係を設定する考え方は,日本本土においては非常に稀薄であることが示される。このことを比較の視点からみると,日本本土には墓地の風水の思想が受け入れられなかったことが,葬送儀礼終了後の遺体・遺骨へのこだわりのなさと対応している,と考えることができる。この場合,問題となるのは,沖縄・奄美地域にみられる洗骨の習俗である。これについても,墓地風水思想の受容との関わりでその位置づけを考察していく可能性がある。中国や韓国における研究を内在的に理解して,そこから分析のモデルを設定し,東アジアの地域的な広がりのなかで考察を進めることによって,日本の事例の特殊性と普遍性について新たな理解が得られるのではないだろうか。
<共同研究報告>明治「史談」、その読者
目野, 由希
明治時代半ばまでの初等教育では、各地の郷土史と郷土の地理、土地の出身者などを教えるため、「史談」と呼ばれるテキストが使用されていた。また、蘭学者大槻盤渓が幕末に書いた、短い数多の随筆からなる日本中世・近世史『近古史談』が、明治期以降、世代を問わず、広い範囲の読者に愛好された。この『近古史談』は、美しく明快な漢文で書かれていたため、歴史や漢文を児童に教えるための教材としても採用された。他にも明治期には、宗教講話や名士の談話速記、歴史を論ずる随筆等が「史談」のジャンルとして意識されていた。
<研究ノート>一九〇〇年代における筧克彦の思想
西田, 彰一
戦前の日本において、神道の思想を日本から世界に拡大しようと試みた筧克彦の思想については、現在批判と肯定の両面から研究がなされている。しかし、批判するにせよ評価するにせよ、筧の思想についてはほとんどの場合「神ながらの道」の思想にのみ注目が集まっており、法学者であったはずの筧がなぜ宗教を語るようになったのか、どのような問題意識を持って研究を始めたのかについての研究は殆どない。そこで、本稿では一九〇〇年代における筧の思想を明らかにすることで、その学問の形成過程を明らかにしたい。
能《源氏供養》制作の背景 ―石山寺における紫式部信仰―
小林, 健二 KOBAYASHI, KENJI
能《源氏供養》は『源氏供養草子』を典拠としていることが指摘されていたが、《源氏供養》は石山寺を供養の舞台とし、また供養の依頼者である紫式部が実は石山の観音であったという大きな相違を有する。本稿では、石山寺という紫式部伝承の磁場に注目し、紫式部が観音の化身であったとする言説や、源氏の間という特殊な宗教空間、崇拝の対象となったであろう紫式部画像、そして歌人達の紫式部を尊崇する文芸行為を通して、石山寺において源氏供養がなされていた可能性を追究し、《源氏供養》が制作された背景の一斑について考察した。
ライフ・ヒストリーに現われた天皇(Ⅳ. 政治史と生活史)
篠原, 徹 Shinohara, Tooru
「聞き書き」は民俗学の資料収集の主要な方法である。そしてどんな「聞き書き」であれ,それは語る人の体験と伝承されてきた口承が多かれ少なかれ弁別できない形で融合している。その「聞き書き」のなかで伝承されてきたものによる程度が大きければ大きいほど,より民俗的な現象として資料化されてきたといえる。つまり個人的な体験は体験そのものが民俗的な現象でなければ(たとえば民俗宗教のようなもの),民俗学は「聞き書き」のなかから体験を排除することによって文字ある世界で「文字なき広大な世界」の歴史資料化を試みてきた。
[論文] 古代出羽国北部における地域支配の特質 : 地域支配拠点としての古代城柵と柵
伊藤, 武士 ITO, Takeshi
出羽国北部においては,8世紀に律令国家により出羽柵(秋田城)や雄勝城などの古代城柵が設置され,9世紀以降も城柵を拠点として広域の地域支配が行われた。古代城柵遺跡である秋田城跡や払田柵跡においては,城柵が行政と軍事,朝貢饗給機能に加え,交易,物資集積管理,生産,居住,宗教,祭祀などの機能を,複合的かつ集約的に有した地域支配拠点であった実態が把握されている。特に,継続的に操業する城柵内生産施設を有して周辺地域開発の拠点として機能した点については,出羽国北部城柵の地域的な特徴として指摘される。
宮沢賢治の作品に見られる「非暴力主義」「自己犠牲の精神」と「菜食主義」の一考察 : インド人の観点から
ジョージ, プラット アブラハム
宮沢賢治は、詩人・童話作家として世界中に知られるようになった。岩手県出身の賢治の作品に岩手県もなければ、日本もなく、「宇宙」だけがあるとよく言われる。まさにその通りである。彼のどの作品の中にも、彼独自の人生観、世界観及び宗教観が貫いていて、一種の普遍性が顕現していることは、一目瞭然である。彼の優れた想像力、超人的な能力、そして一般常識の領域を超えた彼の感受性は、日本文学史上、前例のない一連の文学作品を生み出した。賢治の文学作品に顕現されている「インド・仏教的思想」、つまり生き物への慈悲賢治の思想と彼の人格を形成した主な外力として、彼の生まれ育った家の環境、宗教とりわけ、法華経から受けた霊感、教育と自然の観察によって取得した啓蒙的知識、貧しい県民への同情などが取り上げられる。本稿の前半で賢治の思想と人格を形成したこれらの外力についてふれ、その次に「よだかの星」という作品を中心に賢治作品に顕在している「非暴力」「慈悲」及び「自己犠牲の精神」の思想を考察した。最後に、「ビヂテリアン大祭」という作品を基に、賢治の菜食主義の思想の裏に潜む仏教的観念とインドにおける菜食主義との関連性を論じ、賢治作品の顕現しているインド・仏教的思想を究明した。と同情、不殺生と非暴力主義、輪廻転生、自己犠牲の精神及び菜食主義などの観念はどんなものか、インド人の観点から調べ、解釈するとともの賢治思想の東洋的特性を強調することが、本稿のねらいである。
シピオーネ・アマーティ著「日本略記」(手稿)における考察 : ルイス・デ・グスマン著『東方伝道史』(一六〇一)からの引用について
小川, 仁
本論文では、慶長遣欧使節にマドリッドからローマまで通訳兼折衝役として同行し、後にその体験を基に『伊達政宗遣欧使節記』(1615年)Historia del Regno di Voxu del Giapponeを著したイタリア人シピオーネ・アマーティ(Scipione Amati 1583~1653)の手稿「日本略記」Breve Ristretto delli tré Stati Naturale, Religioso, e Politico del Giaponeを取り上げ、多くの引用が認められるルイス・デ・グスマン(Luis de Guzmán 1543~1605)著『東方伝道史』(1601年)Historia de las Misionesとの比較を試み、「日本略記」第一章、第二章に該当する「博物誌」(stato naturale)、「宗教誌」(stato religioso)における典拠の形態の分析を進めるとともに、そこからアマーティの著述意図の一端を考察していく。
<研究展望>食物忌避現象の自然及び社会的背景
田名部, 雄一
食物忌避現象には、その社会におけるタブー(宗教的タブーも含む)によって表れているものと、その民族の体質(遺伝子による)によってその食物の消化・吸収・利用ができないために表れているものとがある。いずれの場合にも、ある食物に対する忌避現象は偶然に生じたものではなく、その根底に社会的な必要性があったことは無視することはできない。本論文では、この問題を、(1)肉食の完全な忌避、(2)牛肉食の忌避、(3)豚肉食の忌避、(4)犬(狗)肉食の忌避、(5)牛乳の利用に対する忌避、(6)飲酒に対する忌避に分けて記述した。
沖縄の風に関する知識と伝承
山里, 純一 Yamazato, Junichi
沖縄は日本本土とは風に対する考えが異なる。たとえば日本各地にある「風穴」という言葉は沖縄では全く聞かない。むしろ琉球国時代から今日まで、王府役人から庶民に至るまでよく用いられた言葉は「風根」であった。また沖縄は、毎年数個の台風が襲来するが、日本本土に見られる風切り鎌のような風除けを目的とした習俗や、辟邪物はない。航海の時や作物の生長期に風を鎮める祈願は行われるが、それは本土の風神や風鎮祭とは必ずしも同じではない。沖縄にはそもそも風に対する祭祀儀礼が存在しないのである。沖縄の地理的環境は、風についても独自の概念と民俗を生み出した。
民俗学における競技の対象化に関する一考察 : 近世以降の素人相撲をめぐる競技体系の近代化から(第Ⅲ部 術語と概念の地平)
井上, 宗一郎 Inoue, Soichiro
昨今、日本の相撲、特に大相撲やアマチュア相撲の動態は、相撲に付与された「国技」という呼称、およびそれに付随して共有されているイメージを揺るがしつつある。大相撲における外国人力士の台頭、アマチュア相撲によるオリンピック正式種目登録への動きなど、選手構成、組織の運営方針や競技の形態などの多様な展開がその大きな要因のひとつである。その一方、力士の人間性や所作などについては、宗教的な言説を基盤とした一種の様式美とされ、「品格」、「品位」といった言説と絡み合いながら、「日本の伝統的競技」の代表的なもの、つまり「国技」として位置付けられる要因となっている。
<終章>日本文化の地質学的特質
鈴木, 寿志
令和4年度に国際日本文化研究センターにおいて共同研究「日本文化の地質学的特質」が行われた。地質学者に加えて宗教学・哲学・歴史学・考古学・文学などの研究者が集い,地質に関する文化事象を学際的に議論した。石材としての地質の利用,生きる場としての大地,信仰対象としての岩石・山,文学素材としての地質を検討した結果,日本列島の地質や大地が日本人の精神面と強く結びつき,文化の基層をなしていることが示唆された。変動帯に位置する日本列島では地震動や火山噴火による災害が度々発生して人々を苦しめてきたが,逆に変動帯ゆえの多様な地質が日本文化のあらゆる事象へと浸透していったとみられる。
両墓制の空間論
福田, アジオ Fukuta, Azio
日本の墓制の民俗学的研究で従来最も関心が寄せられてきたのは両墓制の問題である。両墓制研究の焦点はそれが古いか新しいかという点にあった。もちろん古いとする考えが民俗学研究者のなかでは多数派であり、日本人の古来の他界観・霊魂観を示すものとしてきた。それらの多くの研究は二つの施設のそれぞれの名称やその間の儀礼的な関係に注目し、両墓への墓参の継続期間や他方への移行時期に注意を払ってきた。またこの墓制を古いとする考えは石塔以前の姿を追究する傾向を生み、墓地・墓石以外の仏堂、位牌堂、あるいは霊山、死者の赴く山などの事象を研究の対象とするようなことが多くなった。
副葬される土偶(日本の死者儀札と死の観念(1))
設楽, 博己 Shitara, Hiromi
縄文時代の代表的な呪具である土偶は,基本的に女性の産む能力とそれにからむ役割といった,成熟した女性原理にもとつく象徴性をほぼ一貫して保持していた。多くの土偶は割れた状態で,何ら施設を伴わずに出土する。これらは故意に割って捨てたものだという説があるが,賛否両論ある。縄文時代後・晩期に発達した呪具である石棒や土版,岩版,岩偶などには火にかけたり叩いたりして故意に破壊したものがみられる。したがって,これらの呪具と関連する儀礼の際に用いたと考えられる土偶にも,故意に壊したものがあった蓋然性は高い。壊したり壊れた呪具を再利用することも,しばしばおこなわれた。
夢とまじない
花部, 英雄 Hanabe, Hideo
四五〇〇もの俗信を集めた「北安曇郡郷土誌稿」は、日本の俗信研究の先駆けとなる資料集である。その中の「夢合せ」の項に二〇〇ほどの夢にかかわる俗信がある。まずはこの俗信のうち「夢の予兆」にあたる内容を分析し、民俗としての夢の一般的傾向を明らかにする。次に、「夢の呪い」について、夢を見る以前、以後とに分けてその内容を検討し、夢をどのように受けとめ、それに対応しているかを確認する。さらに呪いのうち韻文形式をとる三首の歌を話題にして、全国的事例からその内容、意味を分析する。そして、この呪い歌の流通の背景に専門の呪術者の関与があることを例証し、呪術儀礼の場で行なわれ、やがて民間に降下してきたことを跡づける。
日本中近世の書簡文化における「面」と「行」の意味 : 非言語的な記号群による「礼」を中心に
リュッターマン, マルクス
小論では先行研究を伝授史料と合わせて、非言語的な記号群に限定して日本書札礼の一特徴となる傾向を考察している。一五九四年に布教者ザビエルと日本人パウルスとがインドで出会い、文面を譬喩に、文化の相違点を巡って懇談した。その会話に触発されて、二人がそれぞれ教授された西洋と東洋の伝承を遡って、書簡や文通における非言語的なコミュニケーションの作法史分析を試みる。この分析によって、文化の「面」や型がどのように形成し、とりわけ「行」の縦と横の譬喩はいかなる意味を秘めているか解明してみる。ひいては形式的な場において日本書札礼の非言語的な記号はどのように、且つどれほど人と人との位置の「差」を儀礼的に表現しているか示したい。
中里介山における仏教思想
鈴木, 貞美
日本の「大衆文学」を代表する『大菩薩峠』の著者、中里介山の独自の仏教思想を検討する。まず、彼の「文学」概念が明治初・中期の洋学者や啓蒙主義者たちが主張した広義の「文学」の枠内で、感情の表現をも重んじる北村透谷や木下尚江のそれを受け継ぐものであることを指摘し、それゆえに仏教思想を根幹におく文芸が展開されたとする。次に、介山の青年期の宗教観について、ある意味では同時代の青年たちの一般的風潮を実践したものであること、それがなぜ法然に傾倒したかを問い、そして、介山の代表作の一つと目される『夢殿』について、明治から昭和戦前期までの聖徳太子像の変遷と関連させつつ、二十世紀前半の力の政治に対して、仏教の教えによる政治という理想を主張したものと結論する。
<共同研究報告>日本モダニズム文藝史のために : 新たな構想
鈴木, 貞美
本稿では、第二次大戦後の日本で主流になっていた「自然主義」対「反自然主義」という日本近代文学史の分析スキームを完全に解体し、文藝表現観と文藝表現の様式(style)を指標に、広い意味での象徴主義を主流においた文藝史を新たに構想する。そのために、文藝(literar art)をめぐる近代的概念体系(conceptual system)とその組み換えの過程を明らかにし、宗教や自然科学との関連を示しながら、藝術観と藝術全般の様式の変化のなかで文藝表現の変化を跡づけるために、絵画における印象主義から「モダニズム」と呼ぶ用法を採用する。印象主義は、外界を受けとる人間の感覚や意識に根ざそうとする姿勢を藝術表現上に示したものであり、その意味で、のちの現象学と共通の根をもち、今日につながる現代的な表現の態度のはじまりを意味するからである。
座講の開放性と閉鎖性 : 和歌山県橋本市の事例
森本, 一彦 Morimoto, Kazuhiko
本稿では座講の開放性・閉鎖性がどのような要因によって生じているのかを検討している。具体的には和歌山県橋本市の隣接する二集落の座講を検討の対象とした。賢堂の座講は開放的であるのに対して、向副の座講は閉鎖的である。賢堂の座講は明治時代から開放化を図っており、二つの座講は明治の時点で違いがあった。向副では江戸時代に座講をめぐる争論があり、「座入帳」が作成され、メンバーシップの強化につながったと考えられる。このことが向副の座講の閉鎖性につながったのではないかと考えられる。座講の開放性・閉鎖性は、立地条件、都市化の度合、宗教的な状況だけではなく、歴史的経緯も一つの要因であったと考えられる。
聖地と儀礼の「消費」 : 沖縄・斎場御嶽をめぐる宗教/ツーリズムの現代民俗学的研究
門田, 岳久 Kadota, Takehisa
本論文は消費の民俗学的研究の観点から、沖縄県南部に位置する斎場御嶽の観光地化、「聖性」の商品化の動態を民族誌的に論じたものである。二〇〇〇(平成一二)年に世界遺産登録されたこの御嶽は、近年急激な訪問者の増加と域内の荒廃が指摘されており、入場制限や管理強化が進んでいるが、関係主体の増加によって御嶽への意味づけや関わり方もまた錯綜している。例えば現場管理者側は琉球王国に繋がる沖縄の信仰上の中心性をこの御嶽に象徴させようとする一方、訪問者は従来の門中や地域住民、民間宗教者に加え、国内外の観光客、修学旅行客、現場管理者の言うところの「スピリチュアルな人」など、極めて多様化しており、それぞれがそれぞれの仕方で「聖」を消費する多元的な状況になっている。メディアにおける聖地表象の影響を多分に受け、非伝統的な文脈で「聖」を体験しようとする「スピリチュアルな人」という、いわゆるポスト世俗化社会を象徴するような新たなカテゴリーの出現は、従来のように「観光か信仰か」という単純な二分法では解釈できない様々な状況を引き起こす。例えばある時期以来斎場御嶽に入るには二〇〇円を支払うことが必要となり、「拝みの人」は申請に基づいて半額にする策が採られたが、新たなカテゴリーの人々をどう識別するかは現場管理者の難題であるとともに、この二〇〇円という金額が何に対する対価なのかという問いを突きつける。
聖空間の自然 I
正木, 晃
日本人が伝統的に聖性をもつとみなしてきた空間――たとえば、あの世あるいは浄土・曼荼羅――において、自然がどのように表現されてきたか、且つそれがどのように変遷してきたか、を図像学および宗教学の手法をもちいて考察したのが、この論文である。Iでは、縄文時代から奈良時代までを対象の範囲としたが、この範囲内では、聖なる空間を代表する「あの世」に関し、日本人はそれが如何なる場所であるのか、子細に論ずる段階には未だ達していない。しかし、縄文時代の図像には、すでに転生の観念が存在した事実を示唆する例があり、その後、大陸文化の影響を受けつつ次々と生み出された聖空間の中に、たとえ象徴的な表現にとどまる場合が多いとはいえ、自然の描写が図像として重要な位置を占める事例も確認でき、日本人の自然観を探る上で絶好の材料となる。
「戦争と死」の記憶と語り : その個人化と社会化
関沢, まゆみ Sekizawa, Mayumi
本論文ではまず国立歴史民俗博物館『戦争体験の記録と語りに関する資料調査』(全四冊、二〇〇三・二〇〇四年)のデータから、戦没兵士に対して、生還した帰還兵士の場合と、戦没兵士の遺族の場合との両者において、それぞれどのように彼らの死が受け止められているのか、その対応についての分析を行った。両者共に「体験した人にしかわからない」という語りの閉鎖性が特徴的であった。そこで、戦争と死の記憶と語りの特徴をより広い視点から捉えなおす試みとして、日本における戦没兵士や広島の原爆被災者に関する語りを含めて、さらにフランスの、ナチスによる住民虐殺が行われた二つの町の追悼儀礼の事例調査を行い、日本とフランスとの差異についての考察を試みた。論点は以下の三点にまとめられる。第一に、戦争体験の記憶には大別して、「死者の記憶」と「事件の記憶」の二つのタイプがある。死者の記憶の場合には、戦闘員個々人に対して追悼、慰霊の儀礼が行われる。それに対して事件の記憶の場合には、一つは非戦闘員の大量死である悲惨な虐殺、もう一つは戦闘員の激戦と勝利または敗北、があるが、前者の悲惨な虐殺の場合、たとえばそれはフランスのグエヌゥの虐殺やオラドゥール・スール・グラヌの虐殺から日本のヒロシマ、ナガサキの原爆まで多様な事実があるが、その悲惨は戦争という「愚行」へと読み替えられる。そして、死者の記憶はいわば「個人化される」記憶であり、事件の記憶は「社会化される」記憶であるといえる。個人化される死者の記憶と表象は「死者」への追悼、慰霊の諸儀礼としてあらわれ、社会化される「事件」の記憶は、戦争と殺戮という「愚行」への反省と懺悔の意識化へ、また一方では戦勝の記念と顕彰の行事としてあらわれる。その個人化される記憶の場合には時間の経過とともに体験世代や関係者世代がいなくなれば、記憶の風化と喪失へと向かい、一方、社会化される事件の記憶の場合には世代交代を経ても記憶はさまざまな作用力が介在しながらも維持継承される。第二に、フランスのグエヌゥやオラドゥール・スール・グラヌの虐殺の場合には、死者への追悼とともに彼らのことを決して忘れないという「事実の記憶」を重視する儀礼的再現と追体験とが中心となっているのに対して、日本の場合は、「安らかに眠ってください」という集団的な「死者の記憶」が重視され、その冥福が祈られている。そこには、日本とフランスの自我観・霊魂観の相違が反映していると考えられる。第三に、フランスにおいても日本においても「戦争と死」の記憶の場として民俗的な伝統行事が有効に機能していることが指摘できる。フランス、グエヌゥでは、五月に行われるトロメニにおいてペングェレックという新しいスタシオンを組みこんでおり、広島と長崎の場合、八月の盆の月に原爆記念日が、そして一五日には終戦記念日が重なって、死者をまつる日となっている。
日本の「女の歴史」と琉球・沖縄 -山路愛山の社会史研究-
伊藤, 雄志 Ito, Yushi
明治大正時代のジャーナリスト山路愛山は,日本および琉球などの「周辺地域」における女性の社会生活に注目し,戦後に盛んになった社会史研究に先行する史論を発表した。沖縄学の父伊波普猷と同様に山路は日琉同祖論を主張し,明治政府による琉球処分を肯定的に見ていた。しかし山路は,単に「帝国主義的」な琉球観を抱いていたのではなく,琉球を含む日本列島における女性の商業・宗教上の活動に注目し,良妻賢母を支える家父長制が建国以来の日本固有のものだという当時の通説には根拠がないと批判した。本稿では,歴史における女性の社会的役割に注目した新井白石の業績を高く評価した山路が,琉球などの「周辺地域」を日本史研究の中に取り込み,さらに儒教主義に基づく紋切型の日本女性像を是正し,「婦人の解放」の必要性を訴えていたことを明らかにしたい。
在日外国人の多言語使用に対するEthnolinguistic Vitality Theoryの適応可能性 : 在日パキスタン人の事例
福永, 由佳 FUKUNAGA, Yuka
在日パキスタン人は人口規模こそ小さいものの,中古車輸出業をはじめとするエスニック・ビジネスの展開,宗教施設の設立など,自立的な社会活動を展開する活力の高いエスニック集団である。また,彼らは生活のなかで複数の言語を使用する多言語使用者でもある。彼らの多言語使用の実態と言語使用に関わる社会文化的要因をEthnolinguistic Vitality Theoryにもとづき明らかにすることを目指して,本稿では(1)多言語使用に関する諸理論を検討するとともに,(2)参与観察と言語意識調査で得られた定性的データを用いて,Ethnolinguistic Vitality Theoryの適応可能性を検討した。分析の結果,彼らは母国の言語事情や社会構造および日本における社会文化的文脈から形成された言語意識をもとに,複数の言語(日本語,英語,ウルドゥー語,アラビア語,民族語)を使い分けている様相が明らかになった。また,データに見られた言語意識はEthnolinguistic Vitality Theoryの枠組みで説明しうることが示唆された。
<研究論文>「する」と「なる」の無常観 : 『クルアーン』から読み解くイスラーム教における無常の在り方
レザーイ, アリレザー
本稿は『クルアーン』の記述を手掛かりにイスラーム教における「無常」の在り方を、仏教を中心とした日本の無常観との比較を通じて考察したものである。無常についての論究は時間についての論究でもあることから、まずイスラーム教における神による時間の超越の在り方、そして「神の時間」と「人間の時間」の相違を明らかにした上で、人間時間の開始(楽園からの追放等)について述べる。さらに、イスラーム教で強調される神の唯一性という特徴がいかに永遠性という性質を必要としているか、そして神の被造物である人間にあってもこの性質がいかに受け継がれているのかについても考察する。次に、イスラーム教の時間・永遠性に対する考え方を踏まえた上で、この宗教における「創造」の捉え方にも注目し、それはいかに日本で言う自然の「成り行き」と対立しているのかを検証する。
中世における触穢と精進法をめぐる天皇と民衆知(第3部 民衆知とその到達点)
井原, 今朝男 Ihara, Kesao
本稿は、前近代の触穢と精進法のあり方を通じて、前近代の呪術・信仰が生業・技術や権力の動き・さらには民衆生活をどのように規制していたのかについて検討し、これまでの通説であるケガレ観念の国家的管理論や、天皇・禁裏や伊勢神宮は神聖な空間が維持され、穢多・清目・河原者には「服忌によっても禊祓によっても払拭できない穢」が集中したとする見解を実証面から批判したものである。本稿では、室町期の内裏では禁中触穢が繰り返され、天皇は四方拝や毎日拝を神事でないことを理由に穢のときでも公事として実施していた史実を指摘した。系譜上の父母である上皇・国母が死去した際には、倚廬とよぶ粗末な庵をつくり十四日間忌みこもりを行なっており、禊ぎと祓えによって死穢をキヨメる呪術的儀礼であったことをあきらかにした。ここから中世天皇や禁中が穢れと浄の混在する世界であったことを指摘した。
セニャル儀礼の増殖表象 : 中央アンデスの家畜増殖儀礼
友枝, 啓泰
セニャル儀礼の呪物イリャ : 中央アンデスの家畜増殖儀礼
友枝, 啓泰
西洋人宣教師の造った新漢語と造語の限界 : 一九世紀中頃までの漢訳洋書を中心に
孫, 建軍
本論は一九世紀中頃までの漢訳洋書を対象に、その中に現れた社会科学関係の内容を紹介し、中国で活動した西洋人宣教師の翻訳、造語活動について分析を行ない、宣教師の造語における限界を指摘した。一九世紀初頭から中頃までの漢訳洋書は自然科学や宗教関係のものが圧倒的に多いが、西洋国家の政治制度や社会制度を紹介する内容もわずかながら見られた。宣教師の造語は「新造語」と「転用語」の二種類に分けることができる。「新造語」は音訳語のほかに、「上院、下院、議会、国債」のような直訳語もある。そして「国会」のように、短文をさらに短縮した語も見られる。それに対して、中国では古典法律用語が発達したため、「転用語」が比較的数が多いといえる。「選挙、自主、領事、自立、民主」などがその例である。宣教師の造語は積極的に行なわれたものの、様々な限界も存在した。専門知識の欠如、「口述筆録」といった翻訳方法、方言の違い、宣教グループ間の対立などが原因となって、宣教師の造語に限界をもたらしたと考えられる。
グローバル宗教の経営とマーケティング : アジア系宗教を中心に
中牧, 弘允
宗教教育の禁止と日本の宗教学・仏教学
林, 淳
<エッセイ>フランス宗教教育の現在 : ポストモダン時代の宗教教育
渡辺, 雅子
不可視の「チベット」,可視の「チベット」 : 欧米と日本におけるチベット・イメージ
Komoto, Yasuko
エレーナ・ペトローヴナ・ブラヴァツカヤ(1831-1891,以下「ブラヴァツキー」)は、19世紀末から20世紀初頭の欧米において大きな影響力を持った神秘主義の啓蒙団体神智学協会の、協議を確立した人物の一人である。彼女の「宗教的、形而上学的嗜好」がチベットにあったことは、しばしば言及されるところである(オッペンハイム 1992:215)。例えば、彼女のニューヨークの居室は、「ラマ僧院」(lamasery)と呼ばれていた。しかし、その彼女の部屋に置かれた雑多な品々は、「東洋」を連想させるものではあっても、直接チベットにかかわりを持たないものが多かった。そしてそこに集う人間たちも、チベット人でも、チベット仏教の僧侶でもなかった。従ってその場所と、実際のチベットの事物、または現実の「ラマ僧院」との関連は不明瞭であるように見える。では、何がその場を「ラマ僧院」たり得るものとしていたのか。ブラヴァツキーをめぐる状況において、何が「チベット」として表象されるものとなったのか。本稿はそのありようを手がかりに欧米および日本におけるチベット・イメージの特徴を把握しようと試みるものである。
表象としての宗教── 1893年シカゴ万国宗教大会と中国
孫, 江
[論文] 「御城使」としての奥女中 : 選任と役務の検討を中心に
柳谷, 慶子
本稿は、大名家の奥向から江戸城大奥へ派遣された「御城使(おしろづかい)」を取り上げ、その実相を選任と役務の検討を通して明らかにしようとするものである。御城使は「女使(おんなづかい)」「女中使(じょちゅうづかい)」と呼ばれることもあるが、江戸城大奥へ派遣される奥女中を特定する名称は、御城使である。この点を確認したうえで、はじめに御城使の本務である「大奥勤め」の全容を捉える分析を行った。大奥勤めとは、将軍の子女・子息の縁組を契機として、縁組の当人、および縁組先の大名家の当主や正妻が、将軍家への定期・不定期の挨拶・献物を課された儀礼勤めである。基本的に後代の当主と正妻に受け継がれるものとなった。近世中後期には大名家の願い出により、勤めを行う主体の原則が拡大されていたが、幕末に至るまで、大奥勤めを許された大名家は、全体の一割ほどに過ぎなかった。よって、大奥勤めの使者となる御城使は、仕える主人の名誉と家柄を誇示する存在となり、登城の華やかな行列にその様相が顕れていた。
[シンポジウム報告] 国司をめぐる儀礼と場([1]都城の成立と儀礼)
佐藤, 信 Sato, Makoto
スーフィー聖者廟信仰と宗教アイデンティティー (特集 異なる宗教・宗派が織りなす社会 (2))
Mio, Minoru
フェミニズムと宗教の陥穽 : 上ビルマ村落における女性の宗教的実践の事例から
飯國, 有佳子
タイ北部におけるモン族のブタ飼育
中井, 信介 NAKAI, Shinsuke
本研究ではタイ北部におけるモン族のブタ飼育について、飼育頭数、飼育技術、生産と利用の詳細について明らかにすることを目的とした。本研究の結果から次の3 点が明らかとなった。①飼育頭数については各戸別の飼育頭数が明らかとなり、調査村全体において276 頭が飼育されていた。また飼育技術については飼料の詳細が明らかとなった。②生産と利用の詳細については、調査村において2005 年1 年間に113 頭が儀礼および慶事に消費され、他村から19 頭が購入され、他村へ10 頭が販売されていることが明らかとなり、3 年程度で村内のブタは消費され循環していることが推定された。③調査村において2000 年を境に自家において繁殖飼育を行なわなくなり、利用の際には他村から購入するように変化した事例がみられた。このような本研究の結果について、3 つ目の結果の背景には、生業の中心である農耕の変化の影響があり、タイ北部のモン族におけるブタ飼育は、依然として多くの村人が生産と利用に関わりをもち生業として重要であるが、自家での繁殖飼育や飼育技術という生産の面において変化してきている。
古系譜にみる「オヤ―コ」観と祖先祭祀 : 「家」の非血縁原理の原型を求めて(Ⅱ. 祖先祭祀の史的展開)
義江, 明子 Yoshie, Akiko
日本の伝統的「家」は、一筋の継承ラインにそう永続性を第一義とし、血縁のつながりを必ずしも重視しない。また、非血縁の従属者も「家の子」として包摂される。こうした「家」の非血縁原理は、古代の氏、及び氏形成の基盤となった共同体の構成原理にまでその淵源をたどることができる。古代には「祖の子」(OyanoKo)という非血縁の「オヤ―コ」(Oya-Ko)観念が広く存在し、血縁の親子関係はそれと区別して敢えて「生の子」(UminoKo)といわれた。七世紀末までは、両者はそれぞれ異なる類型の系譜に表されている。氏は、本来、「祖の子」の観念を骨格とする非出自集団である。「祖の子」の「祖」(Oya)は集団の統合の象徴である英雄的首長(始祖)、「子」(Ko)は成員(氏人)を意味し、代々の首長(氏上)は血縁関係と関わりなく前首長の「子」とみなされ、儀礼を通じて霊力(集団を統合する力)を始祖と一体化した前首長から更新=継承した。一方の「生の子」は、親子関係の連鎖による双方的親族関係を表すだけで、集団の構成原理とはなっていない。
社会主義をへた宗教復興のゆくえ : 共同研究【若手】 : 内陸アジアの宗教復興―体制移行と越境を経験した多文化社会における宗教実践の展開 (2010-2012)
藤本, 透子
ラージャスターンにおける儀礼演劇の社会的構成 : トライバル・グループ・ビールの舞踊儀礼を中心として
三尾, 稔
宗教が再編していく地域社会 : 共同研究【若手】 : 内陸アジアの宗教復興―体制移行と越境を経験した多文化社会における宗教実践の展開 (2010-2012)
藤本, 透子
精霊憑依儀礼
中村, 亮
ロシアの冬送り儀礼
藤原, 潤子
精霊憑依儀礼1
中村, 亮
精霊憑依儀礼2
中村, 亮
ロシアの冬送り儀礼
藤原, 潤子
モンゴルの葬送儀礼
Кoнaгaя, Юки
縄紋時代竪穴住居跡埋没過程の研究(第Ⅱ部 縄文時代中期における定住の実態)
小林, 謙一 Kobayashi, Kenichi
縄紋時代の居住活動は,竪穴住居と呼ばれる半地下式の住居施設が特徴的である。竪穴住居施設は,考古学的調査によって,主に下部構造(地面に掘り込まれた部分)が把握され,その構造や使用状況が検討されている。竪穴住居のライフサイクルは,a構築地点の選定と設計から構築(掘込みと付属施設の設置)→b使用(居住・調理・飲食などの生活)→c施設のメンテナンス(維持管理と補修・改修・改築)→d廃棄として把握される。住居廃棄後は,そのまま放置される場合もあるが,先史時代人のその地点に対する係わりが続くことが多く,d’廃棄住居跡地を利用した廃棄場・墓地・儀礼場・調理施設・石器製作などに繰り返し使用され,最終的にはe埋没(自然埋没・埋め戻し)する。以上のような,ライフサイクルのそれぞれの分節が,どのくらいの時間経過であったかは,先史時代人の居住システム・生業・社会組織の復元に大きな意味を持つ。住居自体の耐用年数または居住年数,その土地(セツルメント)に対する定着度(数百年の長期にわたる定住から数年程度の短期的な居住,季節的居住地移動を繰り返すなど),背景となっている生業(採集狩猟・管理栽培や焼畑などの半農耕)や社会組織(集落規模,階級など)の復元につながる。
百済・栄山江流域と倭の相互交流とその歴史的役割 (第2部 総論)
中久保, 辰夫 Nakakubo, Tatsuo
本論は,日本列島・古墳時代および韓半島・三国時代の古墳・集落出土土器資料を対象に,5世紀代における栄山江流域を中心とする全羅道地域と日本列島中央部に位置する近畿地域との相互交流の実態を探ろうとするものである。そのために,次に述べる考古資料を対象に分析をおこなった。第一に,5世紀代における東アジア情勢を概観したうえで,????・有孔広口小壺という儀礼用土器に着目して,この土器が5世紀代に日本列島広域と全羅道地域を中核とする韓半島各地に共有される考古学的現象を捉えた。第二点目として,2000年代以降,栄山江流域を中心に資料数が増加した須恵器の時期比定を再検討し,日本列島における須恵器生産の再評価も加味して,須恵器に関しても日本列島と百済・全羅道地域の相互交流を確かめた。以上の土器からみえる相互交流は,近畿地域において有機的な関係をもって展開する集落出土韓半島系土器,手工業生産拠点,初期群集墳の動態と結びつけて捉えることが可能である。そこで第三の論点として,土器,集落,小規模古墳に関する近年の研究動向をふまえた上で,百済・栄山江流域との相互作用が,近畿地域内部における社会資本投資を促したという理解を提示した。
儀礼の受難 : 楞伽島綺談
杉本, 良男
宗教的な話
江口, 一久
企業社会と宗教
中牧, 弘允
<研究論文>昭憲皇太后の最初の国産洋装大礼服 : オットマール・フォン・モールを中心に
柗居, 宏枝
本稿は、文献史料をもとに昭憲皇太后(以下、皇后)の最初の国産洋装大礼服の製作者やその着用について考察を行うものである。1886(明治19)年にドイツ・ベルリンに発注された皇后最初の大礼服については、すでに拙論(柗居宏枝「昭憲皇后の大礼服発注をめぐる対独外交」(お茶の水女子大学『人間文化創成科学論叢』第18号、2015、39-48頁))において明らかにしている。その後、1887(明治20)年にドイツよりプロイセン皇室侍従長のオットマール・フォン・モールと妻のヴァンダが宮内省顧問として日本に招聘され、数々の宮廷儀礼が西洋式に改良された。中でもモール夫妻が国産洋服大礼服の製作に与えた影響は大きく、その指導によって織元の小林綾造が国産洋装大礼服を製作するに至るまでとなった。今回、宮内公文書館所蔵史料に加え、『郵便報知新聞』や『読売新聞』、『東京朝日新聞』における新年拝賀での皇后の大礼服の記述を渉猟したことにより、最初の国産洋装大礼服が、現在京都の尼門跡大聖寺に所蔵されている白繻子地刺繍草花模様大礼服であることが明らかになった。それは、1888(明治21)年1月23日に大島万吉が35万円で宮内省に納品したもの、かつ小林綾造が洋服地を製作していたもので、最初にドイツに発注された大礼服の約2.3倍の価格であった。
琉球王府の雨乞儀礼
山里, 純一 Yamazato, Junichi
ニヴフのアザラシ猟と送り儀礼
大塚, 和義
中国周代の儀礼と王権
郭, 斉勇
宗教に関する質問書
矢内原, 忠雄
インド密教儀礼における水
森, 雅秀
遠藤周作の文学と宗教
河合, 隼雄
表:宗教に関する質問
矢内原, 忠雄
Amish : Leben ohne Zivilisation?
Yoshii, Koichi 吉井, 巧一
主としてアメリカのオハイオ・ペンシルバニア両州を中心に、現在およそ十万人程の「アーミッシュ(Amish)」と呼ばれる人々が集団生活をしている。宗教的迫害を避けるため、遠くスイスあるいはドイツから集団で新天地を求めアメリカ大陸に渡ってきた彼等は、現在も聖書の教義を厳守し、自動車やテレビを所有せず、広大な農場を16世紀さながらに馬で耕しながら、厳格なキリスト教徒として質素な生活を営んでいる。そのライフスタイル・価値観・世界観等は、一見正にアナクロニズムそのものに見えるが、我々現代文明人(?)が失いつつある「人間としての生活に必要不可欠なもの」とは何か、という素朴な疑問へのヒントが彼等の生活から窺える。\n彼等は聖書の言語としてドイツ語を、日常コミュニケーション言語としていわゆるペンシルバニア・ダッチ(Pennsylvania Dutch/German)を、更に自分たちのコミュニティー外の人々(Auslaender)とは英語を話す、3言語併用社会を形成している。いわゆる正書法を持たない、話し言葉としての機能中心言語であるペンシルバニア・ダッチを考慮し、当初は音声面の言語調査を意図していたが、予想通り厳格なOld Order Amishのインフォーマントからは録音機器使用の了解を得ることはできなかった。そこでそれぞれの言語をどのように修得し、使い分けているのか、また互いの言語干渉の度合はどの程度のものかを中心課題に、彼等の独特な文化を探りつつ、聞き取り及び筆記による調査方法でのフィールド調査を行った。
巫俗儀礼の音 : 韓国済州島の事例から
櫻井, 哲男
台湾漢人の宗教祭祀と地域社会
三尾, 裕子
宗教・抗争・政治 : 主権国家の始原と現在
宗教関係「昭和九年度事業報告」
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沖縄における死霊観の歴史的変遷 : 静態的社会人類学へのクリティーク(死)
塩月, 亮子 Shiotsuki, Ryoko
本稿では,従来の静態的社会人類学とは異なる,動態的な観点から災因論を研究することが重要であるという立場から,沖縄における災因論の歴史的変遷を明らかにすることを試みた。その結果,沖縄においてユタ(シャーマン)の唱える災因は,近年,生霊や死霊から祖先霊へと次第に変化・収束していることが明らかとなった。その要因のひとつには,近代的「個(自己)」の確立との関連性があげられる。すなわち,災因は,死霊や生霊という自己とは関係のない外在的要因から,徐々に自己と関連する内在的要因に集約されていきつつあるのである。それは,いわゆる「新・新宗教」が,病気や不幸の原因を自己の責任に還元することと類似しており,沖縄だけに限られないグローバルな動きとみなすことができる。だが,完全に自己の行為に災因を還元するのではなく,自分とは繋がってはいるが,やはり先祖という他者の知らせ(あるいは崇り)のせいとする災因論が人々の支持を得るのは,人々がかつての琉球王朝時代における士族のイデオロギーを取り入れ,シジ(系譜)の正統性を自らのアイデンティティの拠り所として探求し始めたことと関連する。このような「系譜によるアイデンティティ確立」への指向性は,例えば女性が始祖であるなど,系譜が士族のイデオロギーに反していていれば不幸になるという観念を生じさせることとなった。
儀礼のなかのゲル : あるいはゲルのなかの女性
Кoнaгaя, Юки
サタワル社会の人生儀礼 : 贈与・交換の象徴性
須藤, 健一
[論文] 日本列島先史―原史段階の社会変化と「環境」 : 歴史変化の定量的把握とメカニズム解明に向けての試論
松木, 武彦 MATSUGI, Takehiko
紀元前375年頃から紀元後700年頃までの日本列島中央部の社会変化を,「社会規模」「成層的複雑度」「戦いの頻度と文化化の度合」「表象物質化の尖鋭度」という4大別の下に19項目の考古事象を選択し,それぞれの変化を数字で表記することによって定量的に示した。そのことによって,紀元前150—紀元後25年,および紀元後175—250年の2回に,変化が急速に進む時期があったことを明らかにし,それぞれを第1の急進期,第2の急進期とよんだ。次に,高精度古気候復元の成果から,それぞれの急進期にどのような気候変動があったかのかを推定し,それがいかにして急進期をもたらしたのかを考察した。結論として,第1の急進期には,急激な低温化と湿潤化を受けて居住地や耕地を移動させることにより社会の流動化が進み,その中で人びとのアイデンティティを維持するために,加飾された土器や儀礼具など,表象の媒体としての人工物が発達した。第2の急進期は,人間側の対応がもっとも難しい数十年周期の気候変動が繰り返される時期と対応しておりそれが生み出した社会的緊張が,集団よりも個人の意思決定や個人間の関係に比重を置いた行動規範に基づく新たな社会関係を生み出し,それを正当化する世界観の書き換えとして,表象の媒体としての人工物を個人と結びつける新しい傾向が全土的に展開した。
植民地朝鮮と宗教 : 帝国史・国家神道・固有信仰
雲南小涼山彝族による盟誓儀礼の意義
庄, 孔韶
食べることは殺すこと : モンゴルの屠殺儀礼から
Кoнaгaя, Юки
公家と武家Ⅲ : 王権と儀礼の比較文明史的考察
宗教学における比較研究の問題
山中, 弘
宗教関係「コルネリオ通信」第三十九號
矢内原, 忠雄
儀礼と口承伝承 : 宮古群島来間島の事例を中心に
松井, 健
北部ラガの人生儀礼における贈与交換
Yoshioka , Masanori
中部ジャワ農村の儀礼的食物交換 : スラカルタ地方の事例より
関本, 照夫
リオ族における農耕儀礼の記述と解釈
杉島, 敬志
下宅部遺跡の縄文弓 : 狩猟儀礼に用いられた弓
千葉, 敏朗
<特集 日本研究の道しるべ : 必読の一〇〇冊>宗教
小田, 龍哉
<エッセイ>南アフリカで日本の宗教を教える
ポルク, エリザベッタ
質問書:南洋群島島民宗教について
矢内原, 忠雄
竹の焼畑と稲作儀礼-竹林文化論への試み-
川野, 和昭
キリスト教とアボリジニの葬送儀礼 : 変化と持続の文化的タクティクス
窪田, 幸子
儀礼と象徴 : 毛沢東生誕110周年の記念行事を中心に
韓, 敏
東アジアにおける儀礼的饗宴 : その構造の比較研究
金, 尚寶
韓国における仏教と死者儀礼の近年の動き
川上, 新二
ドイツ語圏の日本学における神社に関する研究
フラッヘ, ウルズラ Flache, Ursula
本論文ではドイツ語圏の日本学の中で行われている神社研究の,創成期から現在に至るまでの概観である。ドイツ語圏の日本学では,日本の宗教についての研究は部分的な領域をなすに過ぎない。神社に限定した研究はさらに稀である。したがって研究の成果は非常に限られている。神社はたいてい神道のその他の研究との関連で言及される。歴史的概観は4つの節に区分されている。第1節では日本についての初期の報告(ケンペル,シーボルトなど)を紹介する。第2節では明治時代から第二次大戦までの研究文献を説明する。明治時代における神社研究に関してフローレンツ,シラー,シューアハマーとローゼンクランツを列挙する。続いて,グンデルト,ボーネルとハミッチュという第二次大戦前の指導的な神道研究者について述べる。彼らがナチスのイデオロギーに近い視点から研究結果を発表したため,戦後には神道と関わる研究がタブー視された。第3節は戦後の研究文献を説明する。神道研究はしばらくの間完全に中止されていたが,ウイーン大学における民俗学を迂回することによって,神道はようやく日本学研究の中に復活した。ウイーン大学を卒業したナウマンが戦後の最も影響力のあった神道研究者となった。さらに,国家と神道の関係を研究したロコバントが神社研究に大きな貢献をした。第4節では20世紀の終わりから現在までの研究文献を紹介する。現在の指導的な神道研究者としてアントーニとシャイドの名前を挙げることができる。
第四章 八十一歳の「跨歳節」儀礼と祖先祭祀 : 第一節 「跨歳節」儀礼の起源について : 第二節 八十一歳の象徴的意味 : 第三節 祝福の実態 : 第四節 祖先祭祀としての性格
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