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文化位相とは何か : 文化位相学基礎論(一)
森岡, 正博
二十世紀の学問は、専門分化された縦割りの学問であった。二十一世紀には、専門分野横断的な新しいスタイルの学問が誕生しなければならない。そのような横断的学問のひとつとして、「文化位相学」を提案する。文化位相学は、「文化位相」という手法を用いることで、文化を扱うすべての学問を横断する形で形成される。
<特集 日本研究の過去・現在・未来>過去・現在・未来へのプロジェクト : 辞典編纂で知った日本研究の問題点
日地谷=キルシュネライト, イルメラ
世界における日本研究は、当然それぞれの国における学問伝統と深く結びついている。そのため、19世紀末以降のドイツ日本学の発展は、学問的に必須の道具である、辞書、ハンドブック、文献目録などの組織的な編纂と歩みをともにしてきた。そのような歴史の中ではこれまで、和独・独和辞典や語彙集など、1千を超える日独語辞典の存在が確認されている。1998年にその編纂作業が始まった、和英・英和辞典などをも含めた、日本における2か国語辞典編纂史上最大のプロジェクト、包括的な「和独大辞典」全3巻は、今その完成を目前にしている。この辞典編纂の過程は、ここ何十年かの学問に関する技術的・理論的問題にも光を当ててくれると思われるのだが、その問題とは、辞書編纂に関するものだけではなく、例えばディジタル化、メディアの変遷、日本の国際的地位、人文科学と呼ばれる学問に関わる問題でもある。その意味からも、新しいこの「和独大辞典」誕生までの道筋は、「日本研究の過去・現在・未来」について、多くのことを語ってくれるに違いない。
中世東国の鉄文化解明の前提 : 和鉄生産における「常識」の点検を中心に
福田, 豊彦 Fukuda, Toyohiko
中世の東国には、鉄の加工に関する断片的な史料はあっても、鉄の生産(製錬)を示す証拠はなく、そこには学問的な混乱も認められる。
朝鮮の過去をめぐる政治学 : 朝鮮半島における日本植民地考古学の遺産
裵, 炯逸
植民地状況からの解放後の大韓民国において、その「朝鮮(Korea)」という国民的アイデンティティが形成される過程のなかで、学問分野としての考古学と古代史学は、重要な役割を果たしてきた。しかしながら、その学問的遺産は、二〇世紀初頭に朝鮮半島を侵略し、植民地として支配した大日本帝国の植民地行政者と学者によって形成されたものでもあった。本稿は、朝鮮半島での「植民地主義的人種差別」から、その後の民族主義的な反日抵抗運動へと、刻々と移り変わった政治によって、朝鮮の考古学・歴史理論の発展が、いかなる影響を被ったのかについて論じるものである。
[論文] 民俗文化資料のデジタルアーカイブ化の試み : 文化資源化と研究分野の更新に向けて
川村, 清志 Kawamura, Kiyoshi
本論は,日記資料のデジタルアーカイブ化の手続きにおいて生起した課題と,そこで醸成された民俗学の外延の拡張と更新の可能性について論じる。本論の最終的な目的は,大きく二つに分けることができる。一つは,特定の学問分野(ここでは民俗学)が扱う資料を一般化することで共有度を高め,関心を異にする民俗研究者はもちろん,他分野の研究者や一次資料に関心をもつ一般の人びとにも利用可能な形態を構築することである。もう一つは,一次資料の綿密な検証と分析から,既存の学問の外延と内包を再考し,当該研究分野のバージョンアップを図ることを目的としている。
三里塚闘争における主体形成と地域変容
相川, 陽一 Aikawa, Yoichi
成田空港の計画・建設・稼働・拡張をめぐって長期にわたって展開されてきた三里塚闘争は,学問分野を問わず,運動が興隆した時期の研究蓄積が薄く,本格的な学術研究は1980年代に開始され,未開拓の領域を多く残している。
The New Economic Criticism : Preliminary Foundations
Kobayashi, Masaomi 小林, 正臣
本稿はMartha WoodmanseeとMark Osteenが提唱する「新経済批評(The New Economic Criticism)」を検証しながら、文学と経済学の新たな学際性を模索する。社会科学としての経済学は数式を多用した限定的な意味における「科学」を標榜する傾向にあり、人文科学としての文学は経済学-多数の学派に基づく経済学-をマルクス経済学に限定して援用または経済学の専門用語などを誤用する傾向にある。これら問題点を考慮しながら、本稿は両学問の類似性と相違点を認識することの重要性を強調する。例えば、Donald McCloskeyが指摘するように、経済学は数式を用いながらも言語による論証を行うことにおいて修辞的である。またPierre Bourdieuが指摘するように、言語と貨幣は機能的に類似する点が多くあり、それゆえ文学と経済学の「相同関係(homology)」が考えられる。しかし相同関係を発見する一方で、それら学問間の絶えざる緊張関係を維持しながら新たな相互関係を構築する必要があり、その際の媒介を果たすのが新経済批評である。換言すれば、文学は経済学を始めとする諸科学の理論を導入しながら、それら科学に新たな返答をすることが可能な「場」であると認識することで、両学問は相互的な知的活性化を永続できる。かくして本稿は、文学と経済学の学際性の追求は「未知(notknowing)」の探求であると結論する。
ダイナミック能力論の可能性 -競争戦略論の統合化に向けて-
與那原, 建 Yonahara, Tatsuru
競争戦略論の発展については、持続的競争優位の源泉として何に注目しているかという軸と、アプローチの性格という軸で分類・整理することができる。本稿では、これらの軸にしたがって区分された競争戦略論の主要なアプローチを概観するとともに、競争戦略論の統合化に向けた有望なアプローチとされるダイナミック能力論の代表的研究を検討することで、その学問的可能性を探っている。
<共同研究報告>東アジアにおける学芸諸概念とその編成史 : 国際共同研究とその方法の提案
鈴木, 貞美
概念の変化を知らなければ、現在の概念を投影して過去の同じ語を読んでしまう誤りが往々に起こる。現在の概念による分析スキームを過去に投影して、分析を行う時代錯誤も繰り返されてきた。それゆえ、概念史研究は、あらゆる学問の不可欠な基礎である。そして、概念史研究は、これまで分析概念と当代の概念とを混同したまま説かれてきた学説を覆し、全く新しい文化史の研究をひらくこともできる。
いわゆる調査地被害考に問う民俗調査の今後 : 乗り越えるべき「黒子調査」(人生)
村上, 忠喜 Murakami, Tadayoshi
日本民俗学の資料である伝承そのものは,資料として批判することが困難である。それというのも,伝承資料自体の持つ性格と,伝承を取り出す際の調査者の意図や,調査者と伝承保持者との人間関係など,さまざまな因子に影響を受けるからである。フィールドワークを土台とする学問でありながら,資料論や調査論の深化が阻まれていたことは不幸であり,その改善に向けての具体策を模索していくべきである。
江戸時代の経済思想における市場原理の概念についての一考察
シーコラ, ヤン
徳川時代は、ヨーロッパで経済学が独立した学問として登場してきた思想的な激動期に対応している。西洋の思想のある分野――とりわけ自然科学思想――は日本学者に研究され普及してきたが、しかし西洋の政治・経済思想が日本に紹介されることは多かれ少なかれ制約されていた。一方、同時に日本の経済・社会がますます複雑になり、貨幣経済が進展していくにつれて、ヨーロッパの経済学者が考察を深めていったのとよく似た経済現象が形成されていた。
常民と自然(方法と理論)
鳥越, 皓之 Torigoe, Hiroyuki
民俗学において,「常民」という概念は,この学問のキー概念であるにもかかわらず,その概念自体が揺れ動くという奇妙な性格を備えた概念である。しかしながら考え直せば,逆にキー概念であるからこそ,民俗学の動向に合わせてこの概念が変わりつづけてきたのだと解釈できるのかもしれない。もしそうならば,このキー概念の変遷を検討することによって,民俗学の特質と将来のあり方について理解できるよいヒントが得られるかもしれない。
人類愛善運動の史的意義 : 大本教のエスペラント・芸術・武道・農業への取り組み
廣瀬, 浩二郎
大本教の出口王仁三郎は,日本の新宗教の源に位置する思想家である。彼の人類愛善主義を芸術・武道・農業・エスペラントなどへの取り組みを中心に,「文化史」の立場から分析するのが本稿の課題である。王仁三郎の主著『霊界物語』は従来の学問的な研究では注目されてこなかったが,その中から現代社会にも通用する「脱近代」性,宗教の枠を超えた人間解放論の意義を明らかにしたい。併せて,大本教弾圧の意味や新宗教運動と近代日本史の関係についても多角的に考える。
「聖なる性」の再検討
小谷野, 敦
一九八七年頃から、古代中世日本において女性の性は聖なるものだったといった言説が現れるようになった。こうした説は、もともと柳田国男、折口信夫、中山太郎といった民俗学者が、遊女の起源を巫女とみたところから生まれたものだが、「聖なる性」「性は聖なるものだった」という表現自体は、一九八七年の佐伯順子『遊女の文化史』以前には見られなかった。日本民俗学は、柳田・折口の言説を聖典視する傾向があり、この点について十分な学問的検討は加えられなかった憾みがある。
民族学者・柳田国男 : 座談会「民俗学の過去と将来」(1948)を中心に
稲村, 務 Inamura, Tsutomu
柳田国男が自らの学問を民俗学と認めるのは彼が日本民俗学会会長になった1949年の4月1日であり、それ以前は日本文化を研究対象とした民族学(文化人類学)もしくは民間伝承学(民伝学)を目指していた。柳田が確立しようとした民俗学は自分以外の人々に担われるべきものであり、柳田自身を含んでいなかった。本稿ではこのことを検証するために、それ以前のテキストととともに、1948年9月に行われた座談会「民俗学の過去と将来Jを中心に検討する。柳田国男は本質的に民族学者である。
青天の霹靂 : 濡れ手で粟
土岐, 知弘
化学実験は、高校までは知識偏重的であった「化学」という学問を、受験も終えたいま改めて原点に立ち返って、実験をしてみましょう、という、ある意味大学ならではの授業である。現状、新型コロナウイルス感染拡大防止の観点から、対面授業が実施されていないが、テキストだけでは伝わらない実験室の“お作法”の習得が欠如することが懸念される。本受賞の栄誉は、化学実験担当教員全員で分かち合いたい。今後とも、何が評価されるかわからないので、とにかく学生のためを思って教育に邁進したいと思う所存である。
<研究ノート>一九〇〇年代における筧克彦の思想
西田, 彰一
戦前の日本において、神道の思想を日本から世界に拡大しようと試みた筧克彦の思想については、現在批判と肯定の両面から研究がなされている。しかし、批判するにせよ評価するにせよ、筧の思想についてはほとんどの場合「神ながらの道」の思想にのみ注目が集まっており、法学者であったはずの筧がなぜ宗教を語るようになったのか、どのような問題意識を持って研究を始めたのかについての研究は殆どない。そこで、本稿では一九〇〇年代における筧の思想を明らかにすることで、その学問の形成過程を明らかにしたい。
金沢陸軍墓地調査報告(2. 慰霊)
本康, 宏史 Motoyasu, Hiroshi
近年、戦争記念碑に関して、近代社会を特徴づける「モニュメンタリズム」を表象する「非文献資料」ととらえる研究がすすみ、その学問的意義がしだいに理解されるようになってきた。その際、戦争記念碑は「『癒し』の行為を表す象徴であった」だけでなく、「戦争の歴史化と再歴史化にも重要な役割を果たしてきたものである」という指摘がある。つまり、戦争というものがいかに記憶されるべきか、戦争では誰が記憶されるべきなのか、という問題をめぐって、戦争記念碑はまさに論争の的になってきたのである。
「天文学」の語史
梶原, 滉太郎 KAJIWARA, Kōtarō
日本において<天文学>を表わす語は奈良時代から室町時代までは「天文」だけであった。しかし,江戸時代になると同じ<天文学>を表わす語として「天学」・「星学」・「天文学」なども使われるようになった。そのようになった理由は,「天文」という語には①<天体に起こる現象>・②<天文学>の二つの意味があってまぎらわしかったので,それを解消しようとしたためであろう。そして,その時期が江戸時代であるのはなぜかといえば,江戸時代はオランダや中国などを通じて西洋の近代的な学問が日体に伝えられた画期的な時期であったからだと考えられる。
フードスケープ : 「食の景観」をめぐる動向研究
河合, 洋尚
ここ10数年間,英語圏の食研究ではフードスケープという概念が注目を集めるようになっている。フードスケープ研究は当初,食文化研究の新たな関心として,複数の学問領域に跨って展開してきた。だが,フードスケープの研究が多岐に展開しすぎた結果,今この概念を使うことの意義が曖昧となる結果を招いている。こうした状況に鑑みて,本稿は特に物質的側面に着目し,文化人類学とその隣接領域におけるフードスケープ研究の動向を紹介する。それにより,これまで体系的に論じられることが少なかった「食の景観」(または「食景観」)という新たな研究分野を模索することを目的としている。
授業における集団思考の組織化
藤原, 幸男 Fujiwara, Yukio
授業のなかで認識を深化させ、仲間のなかでの人間的育ちを生み出すためには、集団思考が重要であり、多くの教師は集団思考を成立させるために奮闘してきた。集団思考の組織化はその本質理解と組織化の方法・技術の認識と駆使を必要とし、教師に高い指導的力量を要求するが、うまくいけばその成果には大きなものがある。授業の醍醐味は集団思考にある。本論文では、対話の原理をもとに集団思考について考察し、その組織化の上での課題として、主題設定と主題集中、向かい合い・聴き合い・練り合い、「学問の論理」をくぐっての主題探究、指導技術の工夫について論じる。
映像人類学の可能性 : 比嘉政夫先生の撮った1980年代のタイ・雲南・貴州
稲村, 務 Inamura, Tsutomu
2009年に急逝された比嘉政夫先生が撮影した1980年代のタイ、雲南省、貴州省の映像を解説することおよびそこからわかる映像資料の人類学的可能性を考えることを目的とする。まず、比嘉先生の残されたビデオの日時、場所の特定をすることを主眼とする。その上で、比嘉政夫先生のアジアに対する学問を振り返りながら、急激な社会変動のなかにあるアジアにおいて映像を通じて「民俗」を記録することの意義を考える。「民俗」の記録においては「日常性」や「身体性」の問題が重要であることがわかる。また、映像資料の可能性として文字資料に書かれたものを「追体験」することができる点が重要であることがわかる。
学問・研究の成果と社会の変化を反映したノーマライゼーション概念の再定義
韓, 昌完 小原, 愛子 矢野, 夏樹 Han, Changwan Kohara, Aiko Yano, Natsuki
ノーマライゼーションの理念が提唱されてから長い年月が経ち、障害者福祉の領域で使用されていた理念だったものが、現在では医療や教育等様々な領域で用いられている。しかし、領域によってその定義は異なっており、また学者によっても異なった定義で使用される。そこでここでは、これまで曖昧なままであった「ノーマライゼーション」の概念を、1.ノーマライゼーション概念の変遷、2.ノーマライゼーション概念の定義に関する研究、3.ノーマライゼーション概念の定義に関する現状、の3点から整理することによって、今までの学問・研究の成果と社会の変化を反映した概念として、ノーマライゼーションを再定義することを目的とする。ノーマライゼーション概念の変遷と定義に関する研究・現状を考察し、筆者はノーマライゼーション概念を「人種・年齢・性別・障害の有無・身体的な条件に関わらず、地域社会の中で住居・医療・福祉・教育・労働・余暇などに関する権利を保障し、実現しようとする理念」として再定義した。
<研究ノート>売春と臓器移植における交換と贈与
井上, 章一 森岡, 正博
「売春はなぜいけないんですか?」「身体を売るのはよくないんです。」「でも、我々は頭を売って生活していますよ。頭なら売っていいんですか?」「臓器移植って知ってますか。臓器移植は、無償の提供を原則として運営されます。臓器売買は、決して許されません。従って、売春も許されないのです。」「むちゃくちゃな話やなあ。」「いや、これは、現代社会における身体の交換と贈与に関する、重大な問題系なのです。売春と臓器移植というポレミックな問題を、こんなふうに結合させて論じたのは、我々が世界ではじめてでしょう。」「当たり前や。こんなアホな話、学問的に突き詰めるなんて、ふつうやりませんって。
研究報告:国文学研究資料館蔵古活字版悉皆調査目録稿――附、国立国語研究所・研医会図書館蔵本――
高木, 浩明 TAKAGI, Hiroaki
稿者はこれまで、中世末から近世初期の学問・学芸・出版の実態と背景をより明確なものにするため、主に古活字版の総合的かつ網羅的な調査、研究を行ってきた。古活字版として刊行された作品のテキストは、一体どのような環境のもとで生み出されたのか、底本の入手、本文校訂、刊行を可能にした人的環境について、史資料を駆使して考察してきた。古活字版の研究をする上で必読の文献が川瀬一馬氏の『増補古活字版之研究』(ABAJ、一九六七年、初版、安田文庫、一九三七年)であるが、同書が刊行されて既に半世紀になる。調査を進める過程で、川瀬氏の研究の不備や遺漏を少なからず見出す(川瀬氏の研究に未載の古活字版は、すでに90種を超えた)と共に、古活字版全体の調査をやり直す作業がぜひとも必要であると実感し、近年は古活字版を所蔵する機関ごとの悉皆調査という壮大な事業に単身取り組んでいる。六四機関において調査を終えた一〇八〇点の詳細な書誌データについては、「古活字版悉皆調査目録稿(一)~(九)」としてまとめ、鈴木俊幸氏編集の『書籍文化史』、第一一集から第一九集(二〇一〇年一月~二〇一八年一月)に連載し、研究者間での情報共有を図ってきた。本稿はこれに続くもので、国文学研究資料館における国際共同研究「江戸時代初期出版と学問の綜合的研究」(研究代表者:ピーター・コーニツキー・ケンブリッジ大学アジア中東研究学部名誉教授、二〇一五年~二〇一八年)に参加して、国文学研究資料館所蔵の古活字版の悉皆調査(現在整理中の川瀬一馬文庫は除く)をさせていただくことができた。その成果の一部である。附録として、隣接の研究機関である国立国語研究所が所蔵する古活字版四点と、研医会図書館所蔵の古活字版二二点の書誌データも掲載することにした。
会津若松市幕内の民俗
倉石, 忠彦 Kuraishi, Tadahiko
幕内の集落は城下町会津若松の近郊農村である。そのため日常生活においても町と密接にかかわっている。城下町の野菜場と呼ばれ、野菜栽培が盛んであったし、現在でも主要な生産物である。そしてかつては毎朝籠に野菜を入れて城下に売りに行った。明治維新後は町分の田を手に入れ、水田耕作も大いに行うようになった。現在そうした所は住宅地になり、幕内の農家もマンション経営などを行い、生産者としてだけではなく、経営者としての一面をも持つようになった。いずれの時代においても村の外の世界と深くかかわってきたということができる。そのために社会の動きに敏感であり、進取の性格が濃く、学問に対する関心も高かった。そこに『会津農書』などがまとめられる基盤もあった。
<特集 日本研究の過去・現在・未来>人文学としての日本研究をめぐる断想
将基面, 貴巳
現在、欧米のみならず日本でも学会を揺るがせている問題のひとつに「人文学の危機」がある。ネオ・リベラリズムの席巻に伴い、人文学のような、国民経済に直接的に貢献しない学問は「役に立たない」という議論が横行するようになっている。その結果、人文学系学部・学科は各国政府やメディアからの攻撃にさらされつつある。いわゆる「日本研究」の分野に属する研究の多くは人文学的なものである以上、「人文学の危機」という問題を傍観視するわけにはゆかないであろう。実際、日本国内外を問わず、人文学系の研究者たちは、人文学の意義について積極的に発言するようになっている。しかし、そうした発言の多くは、ネオ・リベラル的潮流への批判であり、人文学の自己弁護に終始し、人文学的研究と教育の現状を再検討する視点が総じて欠落している。
淡窓の改号―「淡窓」から「苓陽」へ―
井上, 敏幸 INOUE, Toshiyuki
豊後の日田咸宜園で漢学を教授した廣瀬淡窓(1782 ~ 1856)は、現在「淡窓」号で広く知られているが、生涯に七種の別号を用いていた。年代順に並べて示せば、亀林・淡窓・華陽・蘭窓・南梁・青谿(渓)・苓陽の七種である。前半生はもっぱら「淡窓」号をもちいたといってよいが、後半生、五十七歳以降は主に「苓陽」号を用い、自ら記した墓碑銘にも「苓陽先生。諱建。字子基。一号淡窓」と記している。この晩年になっての「淡窓」から「苓陽」への改号には、淡窓の晩年における生き方の問題が大きくかかわっている。今は亡き恩師亀井昭陽の「寵栄」に感謝して作った「苓陽」号は、その学問と人間性のさらなる探求の指針を示すものであり、「真儒」たらんとした最晩年の淡窓を支えるものであったと考えられる。
<研究論文>近代日本の〈東亜の朱子学〉と李退渓 : 「崎門」および「熊本実学派」における李退渓をめぐる議論と「道義」
姜, 海守
本稿は、日本を代表する李退渓研究者であった阿部吉雄が、京城帝国大学助教授時代に刊行した〈日本教育先哲叢書〉の第23 巻(最終巻)『李退渓』(1944 年)を執筆するに至るまでの、近代日本における李退渓研究の歩みを思想史的側面から考察したものである。そのための分析対象としたのは明治時代以後の「崎門(山崎闇斎学派)および「熊本実学派」の李退渓をめぐる議論である。『李退渓』には、学問の系統が異なる「崎門」の李退渓論と「熊本実学派」のそれが全体的に結びつけられたような語りがみられる。そうした両学派が統合された李退渓論は、すでに1940 年、肥前平戸藩の儒者楠本碩水の門人岡直養(なおかい)が訂補・刊行した『崎門学脈系譜』の岡直養編録「崎門学脈系譜付録一」にみられる。まさにここに、山崎闇斎および元田永孚(ながざねの両者がともに李退渓から影響を受けたという李退渓研究の端緒が見えてくるのである。
南北朝期の『孟子』受容の一様相 ―二条良基とその周辺から―
小川, 剛生 OGAWA, Takeo
南北朝時代の文芸・学問に、四書の一つである『孟子』が与えた影響について探った。『孟子』受容史は他の経書に比し著しく浅かったため、鎌倉時代後期にはなお刺激に満ちた警世の書として受け止められていたが、この時代、次第にその内容への理解が進み、経書としての地位を安定させるに至った。この時代を代表する文化人、二条良基の著作は、そうした風潮を形成し体現していたように見える。良基の連歌論には『孟子』の引用がかなりあり、これを子細に分析することで、良基の『孟子』傾倒が、宋儒の示した尊孟の姿勢にほぼ沿うものであったことを推定し、もって良基の文学論に与えた経学の影響を明らかにした。ついで四辻善成の『河海抄』から、良基の周辺もまた尊孟の潮流に敏感に反応していたことを確認し、『孟子』受容から窺える、この時代の古典学の性質についても考察した。
遣隋使と礼制・仏教 : 推古朝の王権イデオロギー(第2部 古代・中世イデオロギーの研究)
鈴木, 靖民 Suzuki, Yasutami
7世紀,推古朝の王権イデオロギーは外来の仏教と礼の二つの思想を基に複合して成り立っていた。遣隋使は,王権がアジア世界のなかで倭国を隋に倣って仏教を興し,礼儀の国,大国として存立することを目標に置いて遣わされた。さらに,倭国は隋を頂点とする国際秩序,国際環境のなかで,仏教思想に基づく社会秩序はもちろんのこと,中国古来の儒教思想に淵源を有する礼制,礼秩序の整備もまた急務で,不可欠とされることを認識した。仏教と礼秩序の受容は倭国王権の東アジアを見据えた国際戦略であった。そのために使者をはじめ,学問僧,学生を多数派遣し,隋の学芸,思想,制度などを摂取,学修すると同時に,書籍や文物を獲得し将来することに務めた。冠位十二階,憲法十七条の制定をはじめとして実施した政治,政策,制度,それと不可分に行われた外交こそが推古朝の政治改革の内実にほかならない。
交渉研究序説(その一)
木村, 汎
本論文は、厳密にいえば、「研究ノート」に分類されるべき内容を含んでいる。というのは、「交渉(negotiation)」の研究は、わが国ではなぜか学問的市民権を十分獲得するにいたっていないからである。交渉というと、なにか商店の軒先きで大根やみかんを値引きしたり、労使の間で相手側を罵倒せんばかりにして賃金交渉を己れに有利に導こうとする胡散臭い行為と見なされている。ところが、欧米諸国では、事情は異なる。交渉は、極端にいえば、権力関係と同じく、人間が二人いるところに必ず発生するといってよい紛争や対立を、平和的に解決しようとする重要な人間行為の一つとして、学術的な研究対象とされてきている。その意味において、交渉研究において先輩である欧米の学説をまずなるべく公平かつ忠実に紹介することに意を用いた点において、本論文は「研究ノート」と見なされるべきである。
柳田民俗学の形成と考古研究
小池, 淳一 Koike, Jun'ichi
本稿は柳田民俗学の形成過程において考古研究がどのような位置を占めていたのか、柳田の言説と実際の行動に着目して考えてみようとした。明治末年の柳田の知的営為の出発期においては対象へのアプローチの方法として考古研究が、かなり意識されていた。大正末から昭和初期の雑誌『民族』の刊行とその後の柳田民俗学の形成期でも柳田自身は、考古学に強い関心を持ち続けていたが、人脈を形成するまでには至らず、民俗学自体の確立を希求するなかで批判的な言及がくり返された。昭和一〇年代以降の柳田民俗学の完成期では、考古学の長足の進展と民俗学が市民権を得ていく過程がほぼ一致し、そのなかで新たな歴史研究のライバルとしての意識が柳田にはあったらしいことが見通せた。柳田民俗学と考古研究とは、一定の距離を保ちながらも一種の信頼のようなものが最終的には形成されていた。こうした検討を通して近代的な学問における協業や総合化の問題が改めて大きな課題であることが確認できた。
『河海抄』の作られ方 ―『職原抄』引用から見える問題を中心に―
相田, 満 AIDA, Mitsuru
「やまともろこし、儒仏のもろもろの書どもを、ひろく考へいだして、何事もをさをさのこれるくまなく、解あきらめられたり」(本居宣長『源氏物語玉の小櫛』)とまで評された『河海抄』(四辻善成・撰)は、その博引傍証的性格から、中世以前の学問体系をうかがう資料としても貴重だが、そこに遍在する『職原抄』引用部の分析・調査を行ったところ、『職原抄』の一部分がほぼ重複もなく再構成されるという結果を得た。このことは、『河海抄』の編纂者が、『職原抄』を熟知した上で、『河海抄』編集にその知識を反映させていたことを物語る。また、その引用箇所が「職原抄」の一部分に集中していることから、『河海抄』に取込んだ記事の選別・非選別の基準や意図を、そこから読みとることも可能といえよう。そして、同様の分析手法を重ねるならば、『河海抄』の知識源泉の解明に道を開くのみならず、他の注釈書や類聚編募物についても、その応用が可能であると予想する。
附属中学校の生徒を対象にした教育学部教員による理科の特別授業 -総合的な学習の時間での「体験!琉球大学-大学の先生方による講義を受けてみよう-」のとりくみを例に-
吉田, 安規良 柄木, 良友 富永, 篤 YOSHIDA, Akira KARAKI, Yoshitomo TOMINAGA, Atsushi
平成22年度に引き続き、平成23年度も琉球大学教育学部附属中学校は「体験!琉球大学 -大学の先生方による講義を受けてみよう-」と題した特別講義を、総合的な学習の時間の一環として全学年の生徒を対象に実施した。「中学校で学んでいることが、将来どのように発展し社会や生活と関わるのか、また大学における研究の深さ、面白さを体験させる」という附属中学校側の意図を踏まえて、筆者らはそれぞれの専門性に裏打ちされた特別講義を3つ提供した。そのうちの2つは自然科学(物理学・生物学)の専門的な内容に関する講義であり、残りの1つは教師教育(理科教育学)に関するものである。今回の3つの実践は、「科学や学問の世界への興味、関心を高める」と「総合キャリア教育」という観点で成果が見られ、特に事後アンケートの結果から参加した生徒達の興味を喚起できたと評価できる。しかし、内容が理解できたかどうかという点では、全員が肯定的な評価をしたものから、評価が二分されたものまで様々であった。
文化財概念の変遷と史料(Ⅱ. 歴史研究と博物館)
塚本, 學 Tsukamoto, Manabu
文化財ということばは,文化財保護法の制定(1950)以前にもあったが,その普及は,法の制定後であった。はじめその内容は,芸術的価値を中心に理解され,狭義の文化史への歴史研究者の関心の低さも一因となって,歴史研究者の文化財への関心は,一般的には弱かった。だが,考古・民俗資料を中心に,芸術的価値を離れて,過去の人生の痕跡を保存すべき財とみなす感覚が成長し,一方では,経済成長の過程での開発の進行によって失われるものの大きさに対して,その保存を求める運動も伸びてきた。また,文化を,学問・芸術等の狭義の領域のものとだけみるのではなく,生業や衣食住等をふくめた概念として理解する機運も高まった。このなかで,文献以外の史料への重視の姿勢を強めた歴史学の分野でも,民衆の日常生活の歴史への関心とあいまって,文化財保存運動に大きな努力を傾けるうごきが出ている。文化財保護法での文化財定義も,芸術的価値からだけでなく,こうした広義の文化遺産の方向に動いていっている。
学問をしばるもの
石川榮吉 (人と学問)
須藤, 健一
研究報告:江戸時代初期出版年表 海外版
ピーター, コー二ツキー Peter, KORNICKI
本年表は、国文学研究資料館の国際共同研究「江戸時代初期出版と学問の綜合的研究」(二〇一五年度~二〇一七年度、代表者・ピーター・コーニツキー)の三年間にわたる研究の成果である。研究班発足の際、岡雅彦・市古夏生・大橋正叔・岡本勝・落合博志・雲英末雄・鈴木俊幸・堀川貴司・柳沢昌紀・和田恭幸編『江戸時代初期出版年表天正十九年~明暦四年』(勉誠出版、二〇一一年)に海外所蔵の書籍がほとんど含まれていないので、天正十九年~明暦四年期間中に刊行された海外所蔵の書籍のデータを収集し、その補訂を作成することを目標の一つとした。班の海外在住のメンバーたちが個別に調査したデータを合わせたものなので、不十分という批判を免れない。ヨーロッパ諸国はほとんどカバーしてはいるが、韓国、台湾、北米、カナダは完全にはカバーしてはおらず、豪州、中国、北朝鮮などは全然カバーしていない。完全ではないのであるが、少しでも江戸時代初期出版の研究に貢献ができれば幸いである。なお、記号や項目順番は、なるべく『江戸時代初期出版年表天正十九年~明暦四年』に従ったが、『江戸時代初期出版年表』未載の書籍名には✥印を付した。また、『江戸時代初期出版年表』所収の場合、書誌データを省略した。
博物館から始まる「手学問のすゝめ」
Hirose, Kojiro
はじめに――検証可能な学問に向けて――
山本, 和明
The Pursuit of Interdisciplinarities: A Critique of Cultural Studies
Kobayashi, Masaomi 小林, 正臣
本稿は、これまで人文科学において広範に実践されてきた「文化的研究(Cultural Studies)」の在り方について検証している。自然科学における実証と異なり、人文科学における論証は、なるほど厳密な客観性を要求されない場合が往々にしてある。したがって、ある社会における文化と別の社会における文化に、あるいは一つの社会における複数の文化の相違に個別性と連続性を見出しつつ、それらの問題を文化の問題として論じることには、それなりの学問的価値はあるだろう。しかし、Bill Readingsが指摘するように、個々の集団間の差異性と連続性の問題を「文化」という観点から総括してしまうことには議論の余地がある。なぜなら、それは否定的な意味における還元主義的な論法となる危険性があるからである。一方、社会科学においても還元主義的な論法は存在する。たとえば、新古典派経済学は、社会における人間の活動を利益の追求または最大化という観点のみから説明する傾向がある。かくして本稿は、人文科学(例えば文学)と社会科学(例えば経済学)の学際性を図る際には、それら学際的研究の個々が「特殊(specific)」であるべきであり、学際性を総括的な概念としてではなく、永続的に追求されるべき概念として捉えることを提唱している。
<研究論文>『日本山海名産図会』(一七九九)の成立事情と系譜を辿って
堀内, アニック
寛政11年(1799)刊の『日本山海名産図会』は、近世後期の日本各地の生産の現場を多数の風俗画と細部にわたる説明を通して紹介する貴重な資料として注目されてきた。しかし、同時期に出版されていた「名所図会」類と異なり、研究は必ずしも十分だとはいい難い。その編纂をめぐる複雑な経緯がその理由の一つである。平瀬徹斎によるほぼ同名の『日本山海名物図会』(1754)の続編として企画され、挿画がほぼすべて画工蔀関月(1747–1797)の作であることはわかっていても、その本文の成立事情に関しては多くの疑問が残っている。とりわけ、序文を寄せた木村蒹葭堂(1736–1802)の役割が常に問題にされてきた。本稿では、この問題を解決するまでには至らないにしても、その編纂の理解を深める上でいくつかの示唆を与える。まず、『日本山海名産図会』の序文、跋文、『日本山海名物図会』とのつながり、画工蔀関月の活動等を手がかりに、その編纂の背景に迫る。跋文の著者であり、本書の完成に寄与したと思われる秦(村上)石田なる人物に注目する。次に、「伊丹酒造」「平戸鮪」「伊万里陶器」等の項目を例にとり、その内容が、『本草綱目』(1596)をはじめとする和漢の本草書の系譜に位置すると同時に、明末の『天工開物』(1637)からも多くの示唆を得ているといった学問的系譜を提示する。
人文情報学から中琉関係史資料へのアプローチ デジタル化資料の長期維持に向けた取り組みの一つとして
冨田, 千夏
収集した古文献資料の長期的な維持管理のなかで、資料を電子化することは資料保存の目的や利用者の利便性を高める意義もあり、近年多くの資料保存機関がデジタルアーカイブ事業を展開している。デジタルアーカイブを構築・運営していく上で多くの機関が直面している問題は「如何にして長期的に維持するか」であり、その難しさは現在利用ができない「沖縄の歴史情報研究会」の事例が物語っている。本稿では、デジタル化された資料の長期維持に向けた取り組みとして、「人文学に情報学の技法や技術を応用する」学問である人文情報学(Digital Humanities)の手法を取り入れ琉球大学附属図書館の「琉球・沖縄関係貴重資料デジタルアーカイブ」をIIIF (International Image Interoperability Framework)へ対応した事例や「沖縄の歴史情報研究会」にて作成された「琉球家譜」のデータを再利用する試みを紹介する。現在利用ができない状況である「沖縄の歴史情報研究会」テキストデータのうち、CD-ROM版に収録されていた「琉球家譜」のデータについては現在の環境に適したデータの形へ変換することで再度利活用が可能である。「琉球家譜」のデータファイルを現在の環境で利用可能なデータに変換した上でデファクトスタンダードであるTEI(Text Encoding Initiative)に適用する試行的な取組みを通して、デジタル化された資料の長期的な維持について機関側と研究者が出来る事とは何かを検討し、今後のデジタルコンテンツのあり方について課題を共有したい。
The Search for a Usable Past: The U.S. and the Lessons of the Occupation of Japan
Gallicchio, Marc ガレッキオ, マーク
終戦後70 年の間に、占領政策が成功だったか否かに対する米国の見解は劇的に変化した。1990 年代以前は、占領政策の成果や意義については学問の対象であり、多くの研究者が占領政策における占領地の民主化の努力不足について指摘した。その最たる例は1980 年代における米国経済の競争相手国としての日本の台頭である。 しかし、冷戦終結後、政策立案者は一般の論者やシンクタンクに影響され、占領政策を米国による国家再建の成功例とみなすようになった。特に日本の例は、非西洋諸国を民主化する米国の手腕を疑問視する懐疑派への反証を示すモデルとして引き合いに出された。議論の批判者側は、日本占領下で起こった特異的かつ再度起こりえない教訓に焦点をあてつつ、そもそも国家再建を国家間で比較することはできないと主張し、反論を試みた。しかし、歴史修正主義の研究者たちのこうした主張は、日本の復興におけるマッカーサーおよび天皇の果たした役割といったテーマについて、それまで自らの研究が導き出してきた結論に矛盾する内容であった。 今日においても、新保守主義の評論家は、米国の行動主義的外交政策を正当化する実例として占領が成功したことを引き合いに出すが、オバマ政権当局者は、占領政策を和解の意義を表す一例として引用することを好む。和解という考え方は、政権がアジア地域の情勢に対応する際の施策として訴求力があると考えられる。
「梅棹忠夫著作集」全22巻解題 : 第12巻 人生と学問
八杉, 佳穂
<埴原和郎教授退官記念>埴原和郎氏の学問的業績
尾本, 恵市
マンガ・アニメで論文・レポートを書く : 「好き」を学問にする方法
学問の思い出ー中根千枝先生を囲んで
横山, 廣子 中根, 千枝 関本, 照夫 伊藤, 亜人 清水, 展
引用書目から見る中世末から近世初期にかけての学問体系
入口, 敦志
大学教員による小学校理科「振り子の運動」の授業 : 宮古島市での実践報告と今後の琉球大学での理科の教師教育に向けて
吉田, 安規良 Yoshida, Akira
宮古地区理科教育研究会からの要請を受け,宮古島市立下地小学校第5学年児童を対象に,採択されている理科検定教科書の授業展開・内容に沿った形で「振り子の運動」単元での示範授業を実施した。授業実践は45分の1単位時間分とし,振り子の性質を見いだす実験を主体として展開した。児童の実態をよく把握できないままの実践であったが,数分の時間延長をしたものの授業は予定していた内容を全て実施できた。児童は緊張していたものの概ね高い満足度を得たと授業実践を評価し参観した宮古島市内の教職員の期待にも概ね応えたものとなった。示範受業後の講話での質疑から学習内容を理解させるために必要な振り子の振幅の条例とその理由について,教壇に立つ側が深く理解していないことがわかった。教材研究を下支えする研究の行為そのものを学ぶ機会とその土台になる基礎知識の習得,研究内容を実践し省察する機会をバランス良く編成した教師教育カリキュラムと教科専門としての学問・諸科学・芸術・技術等の内容を学校教育の教育実践の立場から構成した「教科内容学」な部分からも授業研究できる能力の必要性が示唆された。小学校理科専科≒教務主任という沖縄県の実情を踏まえると今後琉球大学に設置される教職大学院の中でも,とりわけ高度な学校マネジメント能力の育成を主体とする専攻では,理科に関する「教科内容学」的なものや特定個別科学の専門性を養う科目を設定し,教材研究を下支えする研究の行為そのものを学ぶ機会の必修化が求められる。
<エッセイ>学問を見つめる視線 : 研究の経験をどのように生かすのか
楊, 春華
筆談としての学問論、詩論――1748年の朝鮮通信使来訪――
徳盛, 誠
博物学的関心の深化と人生の転機 : 採集遺物三点と柳田國男の一九〇〇年代
和田, 健 Wada, Ken
本稿では、柳田國男旧蔵考古資料のうち国内で採集したと推測される三点を対象とし、それらを採集するにいたった背景を推認し、柳田の学問的関心と相関させることを目的としたい。この三点の採集時期は一九〇〇年代(以後一九〇〇〜一〇年の範囲を示すために「〇〇年代」と記す)と思われる。〇〇年代は、『遠野物語』『石神問答』『後狩詞記』といったいわゆる柳田初期三部作をめぐる博物学的関心を深化させていった時期と位置づけられる。またあわせて大学卒業、農商務省任官、養嗣子、婚約といった人生のさまざまな転機を経験した時期でもある。対象とした採集遺物三点それぞれに貼られた注記ラベルからは、産業組合関係の全国をめぐる講演旅行の過程や早稲田大学で農政学の講義を持っていた時期での採集と読みとれる。〇〇年代は農政官僚としての仕事と同時に、『石神問答』に見られる山中共古達との三四通の書簡のやりとり、十三塚への興味関心そして樺太旅行での考古遺物の採集を行った時代の中で、この考古資料三点は捉えることができる。〇〇年代は日露戦争、日韓協約と韓国併合への道筋をたどる、日本が外交上大きなうねりの中にあった時期ではあるが、この時期柳田自身は官僚として国外、つまり日本の外側に向けた活動よりも、日本の国内、日本列島に住まう人々とその歴史を考える内側への関心を深めていったともいえる。柳田國男旧蔵考古資料は、〇〇年代当時、青壮年期の柳田が深化させていった博物学的関心の一端を垣間見ることができると評価できるのである。
「学問と大学生活への誘い : 法学専攻「甚礎演習1・2」での実践」
安次富, 哲雄 宮里, 節子 徳田, 博人 徳本, 穣
論文に引用する古典籍にDOIを明示しましょう――検証可能な学問に向けて――
山本, 和明 YAMAMOTO, Kazuaki
写経所文書研究の展開と課題
山下, 有美 Yamashita, Yumi
正倉院文書研究の新しい潮流は,1983年開始の東大の皆川完一ゼミ,それを継承した88年開始の大阪市大の栄原永遠男ゼミ,この2つの大学ゼミの形で始まった。その手法は,正倉院文書の現状を,穂井田忠友以来の「整理」によってできた「断簡」ととらえ,その接続関係を確認・推測して,奈良時代の東大寺写経所にあった時の姿に復原する作業を不可欠とする。その作業によって,正倉院文書は各写経事業ごとの群と,複数の写経事業をまたがる「長大帳簿」に大きく整理されていった。よって,個別写経事業研究は写経所文書の基礎的研究として進められ,その成果は大阪市大の正倉院文書データベースとして結実した。一方,写経事業研究を通して,帳簿論や写経所の内部構造,布施支給方法,そして写経生の生活実態といった多様なテーマに挑んだ研究が次々と発表された。これらの新たに「発見」されたテーマと同時並行的に,古くからの正倉院文書研究を引き継ぐ研究も深化し,写経機構の変遷,東大寺・石山寺・法華寺の造営,写経所の財政,写経生や下級官人の実態,表裏関係からみた写経所文書の伝来,正倉院文書の「整理」などの研究もさかんになった。さらに,古代古文書学に正倉院文書の視点を組み込んだ試みや,仏教史の視点から写経所文書を分析した研究も成果をあげてきた。2000年ごろから,他の学問分野が正倉院文書に注目し,研究環境の整備とともに,特に国語・国文学で研究が進められた。ほかにも考古学,美術史,建築学等の研究者も注目しはじめ,学際的な共同研究が進展しつつある。いまや海外からも注目をあびる正倉院文書は人類の文化遺産であり,今後も多彩な研究成果が大いに期待される。
先住民から学び、変容する学問をめざして : 共同研究 : 政治的分類 : 被支配者の視点からエスニシティ・人種を再考する
太田, 好信
講義ノート:国際経済論 [第一章序論・学問と大学]
矢内原, 忠雄
記述は29頁まで、表紙の一部が破れている。
<特集 日本研究の過去・現在・未来>日本ポピュラー・カルチャー研究の「昨日・今日・明日」
谷川, 建司
1990年代に東アジアや東南アジアにおいて日本のポピュラー・カルチャーが極めて高い人気を獲得し、パリで第一回「ジャパン・エキスポ」が開催された2000年頃には世の中全体の日本のポピュラー・カルチャーへの視線が熱くなり始めた。一方、1990年代後半からこれを研究対象とする動きが始まり、2000年代に入ってから本格的論考が発表されるようになった。「ポピュラー・カルチャー研究」に含まれるべきジャンルについての捉え方は様々であり、厳密な意味での定義は共有されていないが、様々な学問分野の研究者が集まって一定期間の共同研究を行う形や、単発のワークショップやシンポジウムを開催して議論していく形での日本のポピュラー・カルチャー研究の枠組みも、2000年代に入ってから活発に行われるようになった。個別の研究成果に関しては、トピックによりその研究の蓄積の多寡にはかなり差がある。日文研で2003年から2006年にかけて開催された共同研究会「コマーシャル映像にみる物質文化と情報文化」(代表:山田奨治)は、終了から10年目の2016年にシンポジウムを開催し、自己検証した点で重要な試みだった。2014年度の日文研の共同研究は、全部で16の研究課題のうち実に5つが「ポピュラー・カルチャー」に関するものであり、この分野の研究への関心の高まりと同時に、日文研がその中心地として機能し始めていることを示していると言える。今後の日本のポピュラー・カルチャー研究に必要な点を挙げるならば、(1)作品が生み出され、世の中に流通して受容されていくプロセス全体に目配せし、その様々な場面で関わっている人たちにフォーカスした論考を積み重ねていく必要性、(2)産業論的なアプローチ、表現の自由と規制の問題、国家戦略との関わり、など違った角度からポピュラー・カルチャーをとらえる必要性、そして、(3)個々の領域のポピュラー・カルチャー研究を志向する研究者が共通して利用できる一次資料のデータベース化の促進、が指摘できる。
近代日本民俗学史の構築について/覚書(第Ⅰ部 学史研究の可能性~方法と射程)
佐藤, 健二 Sato, Kenji
本稿は近代日本における「民俗学史」を構築するための基礎作業である。学史の構築は、それ自体が「比較」の実践であり、その学問の現在のありようを相対化して再考し、いわば「総体化」ともいうべき立場を模索する契機となる。先行するいくつかの学史記述の歴史認識を対象に、雑誌を含む「刊行物・著作物」や、研究団体への注目が、理念的・実証的にどのように押さえられてきたかを批判的に検討し、「柳田国男中心主義」からの脱却を掲げる試みにおいてもまた、地方雑誌の果たした固有の役割がじつは軽視され、抽象的な「日本民俗学史」に止められてきた事実を明らかにする。そこから、近代日本のそれぞれの地域における、いわゆる「民俗学」「郷土研究」「郷土教育」の受容や成長のしかたの違いという主題を取り出す。糸魚川の郷土研究の歴史は、相馬御風のような文学者の関与を改めて考察すべき論点として加え、また『青木重孝著作集』(現在一五冊刊行)のような、地方で活躍した民俗学者のテクスト共有の地道で貴重な試みがもつ可能性を浮かびあがらせる。また、澤田四郎作を中心とした「大阪民俗談話会」の活動記録は、「場としての民俗学」の分析が、近代日本の民俗学史の研究において必要であることを暗示する。民俗学に対する複数の興味関心が交錯し、多様な特質をもつ研究主体が交流した「場」の分析はまた、理論史としての学史とは異なる、方法史・実践史としての学史認識の重要性という理論的課題をも開くだろう。最後に、歴史記述の一般的な技術としての「年表」の功罪の自覚から、柳田と同時代の歴史家でもあったマルク・ブロックの「起源の問題」をとりあげて、安易な「比較民俗学」への同調のもつ危うさとともに、探索・博捜・蓄積につとめる「博物学」的なアプローチと相補いあう、変数としてのカテゴリーの構成を追究する「代数学」的なアプローチが、民俗学史の研究において求められているという現状認識を掲げる。
言語の普遍性のもとで日本語のしくみをとらえる (その4) ——知る権利としての日本語 (学問の進歩にそむく入試問題) ——
村上, 三寿
伝承を持続させるものとは何か : 比婆荒神神楽の場合
鈴木, 正崇 Suzuki, Masataka
伝承という概念は日本民俗学の中核にあって,学問の成立の根拠になってきた。本論文は,広島県の比婆荒神神楽を事例として伝承の在り方を考察し,「伝承を持続させるものとは何か」について検討する。この神楽は,荒神を主神として,数戸から数十戸の「名」を単位として行われ,13年や33年に1度,「大神楽」を奉納する。「大神楽」は古くは4日にわたって行われ,最後に神がかりがあった。外部者を排除して地元の人々の願いを叶えることを目的とする神楽で秘儀性が強かった。本論文は,筆者が1977年から現在に至るまで,断続的に関わってきた東城町と西城町(現在は庄原市)での大神楽の変遷を考察し,長いサイクルの神楽の伝承の持続がなぜ可能になったのかを,連続性と非連続性,変化の過程を追いつつ,伝承の実態に迫る。神楽が大きく変化する契機となったのは,1960年代に始まった文化財指定であった。今まで何気なく演じていた神楽が,外部の評価を受けることで,次第に「見られる」ことを意識し始めるようになり,民俗学者の調査や研究の成果が地域に還元されるようになった。荒神神楽は秘儀性の高いものであったが,ひとたび外部からの拝観を許すと,記念行事,記録作成,保存事業などの外部の介入を容易にさせ,行政や公益財団の主催による記録化や現地公開の動きが加速する。かくして口頭伝承や身体技法が,文字で記録されてテクスト化され,映像にとられて固定化される。資料は「資源」として流用されて新たな解釈を生み出し,映像では新たな作品に変貌し,誤解を生じる事態も起こってきた。特に神楽の場合は,文字記録と写真と映像が意味づけと加工を加えていく傾向が強く,文脈から離れて舞台化され,行政や教育などに利用される頻度も高い。しかし,そのことが伝承を持続させる原動力になる場合もある。伝承をめぐる複雑な動きを,民俗学者の介在と文化財指定,映像の流用に関連付けて検討し理論化を目指す。
「さわる展示」の深化と応用① : 高等教育のユニバーサル化をめざして : 共同研究 : 触文化に関する人類学的研究―博物館を活用した"手学問"理論の構築 (2012-2014)
廣瀬, 浩二郎
岡西惟中と林家の学問
陳, 可冉 CHEN, KERAN
南源性派への手札(『白水郎子紀行』所収)の中で、惟中は自分のことを「假儒」と称している。彼のいうところによれば、若い時江戸で菊池耕斎と檜川半融軒(経歴未詳)に従って儒を学んだことがあるという。その遊学の詳細については、定かなことは分らないが、耕斎は羅山門の儒者であり、惟中は羅山の孫弟子にも数えられることになる。
関連キーワード
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近代日本
琉球大学
国文学
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1980年代
東アジア
自然科学
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機関
発行年
分野
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