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森岡, 正博
二十世紀の学問は、専門分化された縦割りの学問であった。二十一世紀には、専門分野横断的な新しいスタイルの学問が誕生しなければならない。そのような横断的学問のひとつとして、「文化位相学」を提案する。文化位相学は、「文化位相」という手法を用いることで、文化を扱うすべての学問を横断する形で形成される。 本論文では、まず、学際的方法の限界を克服するための条件を考察し、ついで「文化位相」の手法を解説する。最後に「文化位相」の手法を用いた「文化位相学」のアウトラインを述べる。
石川, 一
岡山県備前市に、正宗敦夫先生が丹精込めて蒐集した古典籍・文書・短冊などを中心として創設された正宗文庫に関する事柄を扱い、そして「正宗文庫を通して正宗家」の学問の系譜を述べてみたい。併せて、本稿は特に正宗家三代に亘って姻族として嫁いだ讃岐多度津藩岡田家周辺に関する調査報告を取り扱い、正宗家の学問の系譜についても考察してみたい。
日地谷=キルシュネライト, イルメラ
世界における日本研究は、当然それぞれの国における学問伝統と深く結びついている。そのため、19世紀末以降のドイツ日本学の発展は、学問的に必須の道具である、辞書、ハンドブック、文献目録などの組織的な編纂と歩みをともにしてきた。そのような歴史の中ではこれまで、和独・独和辞典や語彙集など、1千を超える日独語辞典の存在が確認されている。1998年にその編纂作業が始まった、和英・英和辞典などをも含めた、日本における2か国語辞典編纂史上最大のプロジェクト、包括的な「和独大辞典」全3巻は、今その完成を目前にしている。この辞典編纂の過程は、ここ何十年かの学問に関する技術的・理論的問題にも光を当ててくれると思われるのだが、その問題とは、辞書編纂に関するものだけではなく、例えばディジタル化、メディアの変遷、日本の国際的地位、人文科学と呼ばれる学問に関わる問題でもある。その意味からも、新しいこの「和独大辞典」誕生までの道筋は、「日本研究の過去・現在・未来」について、多くのことを語ってくれるに違いない。
裵, 炯逸
植民地状況からの解放後の大韓民国において、その「朝鮮(Korea)」という国民的アイデンティティが形成される過程のなかで、学問分野としての考古学と古代史学は、重要な役割を果たしてきた。しかしながら、その学問的遺産は、二〇世紀初頭に朝鮮半島を侵略し、植民地として支配した大日本帝国の植民地行政者と学者によって形成されたものでもあった。本稿は、朝鮮半島での「植民地主義的人種差別」から、その後の民族主義的な反日抵抗運動へと、刻々と移り変わった政治によって、朝鮮の考古学・歴史理論の発展が、いかなる影響を被ったのかについて論じるものである。
Kobayashi, Masaomi 小林, 正臣
本稿はMartha WoodmanseeとMark Osteenが提唱する「新経済批評(The New Economic Criticism)」を検証しながら、文学と経済学の新たな学際性を模索する。社会科学としての経済学は数式を多用した限定的な意味における「科学」を標榜する傾向にあり、人文科学としての文学は経済学-多数の学派に基づく経済学-をマルクス経済学に限定して援用または経済学の専門用語などを誤用する傾向にある。これら問題点を考慮しながら、本稿は両学問の類似性と相違点を認識することの重要性を強調する。例えば、Donald McCloskeyが指摘するように、経済学は数式を用いながらも言語による論証を行うことにおいて修辞的である。またPierre Bourdieuが指摘するように、言語と貨幣は機能的に類似する点が多くあり、それゆえ文学と経済学の「相同関係(homology)」が考えられる。しかし相同関係を発見する一方で、それら学問間の絶えざる緊張関係を維持しながら新たな相互関係を構築する必要があり、その際の媒介を果たすのが新経済批評である。換言すれば、文学は経済学を始めとする諸科学の理論を導入しながら、それら科学に新たな返答をすることが可能な「場」であると認識することで、両学問は相互的な知的活性化を永続できる。かくして本稿は、文学と経済学の学際性の追求は「未知(notknowing)」の探求であると結論する。
陳, 可冉 CHEN, KERAN
南源性派への手札(『白水郎子紀行』所収)の中で、惟中は自分のことを「假儒」と称している。彼のいうところによれば、若い時江戸で菊池耕斎と檜川半融軒(経歴未詳)に従って儒を学んだことがあるという。その遊学の詳細については、定かなことは分らないが、耕斎は羅山門の儒者であり、惟中は羅山の孫弟子にも数えられることになる。直門の師承ではないが、惟中は著述の随所において林家の学を受け継ぐ姿勢を示している。彼の著わした『徒然草直解』・『真字徒然草』には、羅山の『野槌』は勿論のこと、『羅山林先生文集』、『本朝神社考』、林鵞峰の『日本国事跡考』、林読耕斎の『本朝遯史』、林梅洞の『史館茗話』など、林家三代の著作が揃って引用されている。これほど林家の学問を信奉した例は、近世文学全般への林家の影響の大きさをさし引いても、やはり突出していると言えよう。一方、惟中作の随筆『続無名抄』・『一時随筆』には和漢にわたる林家の学問、或いは林家経由の中国詩学の知識をそのまま受け売りする箇所が多い。その際出典を明記せずに、全くの剽窃と思われる場合すらある。しかし諸芸に通暁する惟中は、林家の学識をいくぶん敷衍して、それに自分なりの知見を加え、最終的には歌論なり、俳論なり、和漢比較文学論なり、興味深い一家の言に仕上げた条も少なくない。本稿では林家の学問との関係を視座に「記誦詞章の学」に由来する惟中の文業の一面を明らかにしたい。
小谷野, 敦
一九八七年頃から、古代中世日本において女性の性は聖なるものだったといった言説が現れるようになった。こうした説は、もともと柳田国男、折口信夫、中山太郎といった民俗学者が、遊女の起源を巫女とみたところから生まれたものだが、「聖なる性」「性は聖なるものだった」という表現自体は、一九八七年の佐伯順子『遊女の文化史』以前には見られなかった。日本民俗学は、柳田・折口の言説を聖典視する傾向があり、この点について十分な学問的検討は加えられなかった憾みがある。 一方、一九八〇年代には、網野善彦を中心として、歴史学者による、中世の遊女等藝能民の地位についての新説が現れ、これを批判する者もあった。網野は、南北朝期以前に、非農業民が職能民として天皇に直属していたと唱え、遊女についても、後藤紀彦とともに、宮廷に所属していたという説を唱えた。脇田晴子らはこの説を批判したが、豊永聡美の論文によって、後白河・後鳥羽両院政の時期、宮廷が特に高級遊女を優遇したと見るのが正当であろうという妥当な結論が出た。 既に法制史の滝川政次郎は、遊女の巫女起源説を批判したが、同時に遊女の起源を朝鮮に求めたため批判を受けた。だが、そもそも遊女に起源がなければならないという前提が奇妙なのであり、ことさら遊女の起源をいずれかに求めようとすること自体が誤りだったのである。 では「聖なる性」という表現は、どこから現れたのか。宮田登は一九八二年に、遊女の「非日常性」と「霊力」について述べているが、「聖なるもの」という表現は、一九八六、八七年に、阿部泰郎、佐伯順子らが言いはじめたことである。しかしいずれも十分な学問的検討がなされているとは言いがたく、特に佐伯の場合、ユング心理学の「聖なる娼婦」という原型の、エスター・ハーディングによる展開の影響を受けているが、これは新興宗教の類であって学問ではない。 即ち、日本古代中世における「聖なる性」は、学問的に論証されたことはなかったのである。
與那原, 建 Yonahara, Tatsuru
競争戦略論の発展については、持続的競争優位の源泉として何に注目しているかという軸と、アプローチの性格という軸で分類・整理することができる。本稿では、これらの軸にしたがって区分された競争戦略論の主要なアプローチを概観するとともに、競争戦略論の統合化に向けた有望なアプローチとされるダイナミック能力論の代表的研究を検討することで、その学問的可能性を探っている。
Takezawa, Shoichiro
日本民俗学の創始者柳田国男については多くの研究がある。しかしその多くは,柳田が日本民俗学を完成させたという終着点に向けてその経歴を跡づけるという目的論的記述に終わっているために,民俗学も民族学も存在していなかった明治大正の知的環境のなかで,柳田がどのようにして自己の学問を築いていったかを跡づけることに成功していない。 彼の経歴を仔細にたどっていくと,彼が多くの挫折と変化を経験しながらみずからの人生と学問を自分の手で築いていったことが明らかである。青年期には多くの小説家や詩人と交流しながらロマンティックな詩を書いた詩人であり,東京帝国大学で農政学を学んだあとの十年間は,日本農業の改革に専念したリベラリスト農政官僚であった。その後,1911 年に南方熊楠と知り合うことで海外の民族学や民俗学を本格的に学びはじめ,第一次世界大戦後は国際連盟委員をつとめるなかで諸大国のエゴイズムを知らされて失望し,それを辞任して帰国したのちは日本民俗学の確立に邁進する。こうした彼の人生の有為転変が彼の民俗学を独自のものにしたのである。 柳田がようやく彼の民俗学を定義したのは1930 年ごろである。それは,隣接科学(=民族学)との峻別と,民俗学独自の方法(データの採集方法)の確立,社会のなかでのその役割の正当化,研究対象としての日本の特別視という4 重の操作を経ておこなわれたものであった。英米の人類学はとくに1925 年から1935 年のあいだに理論と実践の両面で革新を実現したが,すでに自分の民俗学の定義を完了した柳田はそれを取り入れることをしなかった。彼の民俗学は,隣接科学や海外の学問動向を参照することを必要としない一国民俗学になったのであり,隣接科学との対話や交流という課題は今日まで解決されることなく残っている。
山下, 博司
私の論文(『日本研究』第十三集所収)に対する大野晋氏の反論は、氏の単純な誤解に端を発する問題点を多く含むのみならず、読者が容易にミスリードされ兼ねない書き方が敢えて為されている。 本稿では、大野氏が私への批判の中で言及された箇所を一つ一つ取り上げ、氏の方法そのものが文献学的に如何に問題が多く、しかも学問的な公正さや誠実さを疑わせるものであるかを具体的に検証する。
謝, 蘇杭
本論文は京都本草学の代表者である稲生若水・松岡恕庵・小野蘭山などを中心に、それらの『詩経』に対する「名物学」的研究の内容と発展経緯を解明しようとするものである。近世期本草学者の学問における関心は、主として三つの領域に集中している。すなわち、伝統医学の傍流となる「薬学」と、動植鉱物の名実同定を重視する「名物学」、さらに天産物の有用性に目をつけ、その産業化によって実利を得ることを目的とする「物産学」である。そのなかに、近世期における「名物学」の発展は、『詩経』をめぐる注釈と考証を中心に展開されてきた。それに関する学問は、「『詩経』名物学」と呼ばれている。その根底をなすのは、朱子学における「正名論」や「格物致知」の思想と考えられる。しかし、もともと『詩経』に出てきた動植物に対する名実同定にとどまっていた『詩経』名物学研究は、近世中後期になると、その記述に生態や製法などといった内容が見られ、「物産学」的な色合いがついてきたのである。本論文では、各時期における京都本草学派の『詩経』名物学著作を取り上げ、それらの記述内容を分析しつつ、『詩経』名物学の発展の実態について具体的に検討していこうとする。
Hirose, Kojiro
大本教の出口王仁三郎は,日本の新宗教の源に位置する思想家である。彼の人類愛善主義を芸術・武道・農業・エスペラントなどへの取り組みを中心に,「文化史」の立場から分析するのが本稿の課題である。王仁三郎の主著『霊界物語』は従来の学問的な研究では注目されてこなかったが,その中から現代社会にも通用する「脱近代」性,宗教の枠を超えた人間解放論の意義を明らかにしたい。併せて,大本教弾圧の意味や新宗教運動と近代日本史の関係についても多角的に考える。
稲村, 務 Inamura, Tsutomu
柳田国男が自らの学問を民俗学と認めるのは彼が日本民俗学会会長になった1949年の4月1日であり、それ以前は日本文化を研究対象とした民族学(文化人類学)もしくは民間伝承学(民伝学)を目指していた。柳田が確立しようとした民俗学は自分以外の人々に担われるべきものであり、柳田自身を含んでいなかった。本稿ではこのことを検証するために、それ以前のテキストととともに、1948年9月に行われた座談会「民俗学の過去と将来Jを中心に検討する。柳田国男は本質的に民族学者である。
土岐, 知弘
化学実験は、高校までは知識偏重的であった「化学」という学問を、受験も終えたいま改めて原点に立ち返って、実験をしてみましょう、という、ある意味大学ならではの授業である。現状、新型コロナウイルス感染拡大防止の観点から、対面授業が実施されていないが、テキストだけでは伝わらない実験室の“お作法”の習得が欠如することが懸念される。本受賞の栄誉は、化学実験担当教員全員で分かち合いたい。今後とも、何が評価されるかわからないので、とにかく学生のためを思って教育に邁進したいと思う所存である。
則竹, 理人
学際性を有するアーカイブズ学において、その対象である「記録」には「情報」の要素がある点、さらには情報技術の発展に伴い同要素の重大さが増している点から、同学問領域が一般的に情報学との結びつきを強めていることが指摘されうる。なかでもイベロアメリカと呼ばれる地域では、情報学において情報の記録的、証拠的側面がより重視される特徴があり、またアーカイブズ分野を含めた、情報関連分野の実務の強い連携が一部の国々でみられる事実も相まって、2 つの学問領域の親和性がより高いことが示唆される。そこで本稿では、イベロアメリカにおけるアーカイブズ学と情報学の関連性に着目し、複数の時期を基点に調査した実在のアーカイブズ学教育課程を分析し、傾向の把握を試みた。その結果、経緯や形式、程度は様々なものの、多くの国や地域の事例から情報学とのかかわりが見出された。アーカイブズ学が情報学の構成要素として扱われる課程もあれば、情報学の課程の途中でアーカイブズ学専門コースに分岐する場合もあった。また、学部レベルにアーカイブズ学専門課程、大学院レベルに情報学の課程が置かれ、進学によって補完される事例もみられたが、一方で情報学が先に教育される補完の形態もあった。このような多様性によって、数多の実践的な例を示していることが、同地域以外で、情報学との関連性を強化したアーカイブズ学教育を検討するうえでも有益である可能性を提示した。
韓, 昌完 小原, 愛子 矢野, 夏樹 Han, Changwan Kohara, Aiko Yano, Natsuki
ノーマライゼーションの理念が提唱されてから長い年月が経ち、障害者福祉の領域で使用されていた理念だったものが、現在では医療や教育等様々な領域で用いられている。しかし、領域によってその定義は異なっており、また学者によっても異なった定義で使用される。そこでここでは、これまで曖昧なままであった「ノーマライゼーション」の概念を、1.ノーマライゼーション概念の変遷、2.ノーマライゼーション概念の定義に関する研究、3.ノーマライゼーション概念の定義に関する現状、の3点から整理することによって、今までの学問・研究の成果と社会の変化を反映した概念として、ノーマライゼーションを再定義することを目的とする。ノーマライゼーション概念の変遷と定義に関する研究・現状を考察し、筆者はノーマライゼーション概念を「人種・年齢・性別・障害の有無・身体的な条件に関わらず、地域社会の中で住居・医療・福祉・教育・労働・余暇などに関する権利を保障し、実現しようとする理念」として再定義した。
藤原, 幸男 Fujiwara, Yukio
授業のなかで認識を深化させ、仲間のなかでの人間的育ちを生み出すためには、集団思考が重要であり、多くの教師は集団思考を成立させるために奮闘してきた。集団思考の組織化はその本質理解と組織化の方法・技術の認識と駆使を必要とし、教師に高い指導的力量を要求するが、うまくいけばその成果には大きなものがある。授業の醍醐味は集団思考にある。本論文では、対話の原理をもとに集団思考について考察し、その組織化の上での課題として、主題設定と主題集中、向かい合い・聴き合い・練り合い、「学問の論理」をくぐっての主題探究、指導技術の工夫について論じる。
Kawai, Hironao
ここ10数年間,英語圏の食研究ではフードスケープという概念が注目を集めるようになっている。フードスケープ研究は当初,食文化研究の新たな関心として,複数の学問領域に跨って展開してきた。だが,フードスケープの研究が多岐に展開しすぎた結果,今この概念を使うことの意義が曖昧となる結果を招いている。こうした状況に鑑みて,本稿は特に物質的側面に着目し,文化人類学とその隣接領域におけるフードスケープ研究の動向を紹介する。それにより,これまで体系的に論じられることが少なかった「食の景観」(または「食景観」)という新たな研究分野を模索することを目的としている。
稲村, 務 Inamura, Tsutomu
2009年に急逝された比嘉政夫先生が撮影した1980年代のタイ、雲南省、貴州省の映像を解説することおよびそこからわかる映像資料の人類学的可能性を考えることを目的とする。まず、比嘉先生の残されたビデオの日時、場所の特定をすることを主眼とする。その上で、比嘉政夫先生のアジアに対する学問を振り返りながら、急激な社会変動のなかにあるアジアにおいて映像を通じて「民俗」を記録することの意義を考える。「民俗」の記録においては「日常性」や「身体性」の問題が重要であることがわかる。また、映像資料の可能性として文字資料に書かれたものを「追体験」することができる点が重要であることがわかる。
山下, 博司
国語学者大野晋氏の所謂「日本語=タミル語同系説」は、過去十五年来、日本の言語学会やインド研究者たちの間で、センセーショナルな話題を提供してきた。大野氏の所論は、次第に比較言語学的な領域を踏み越え、民俗学や先史考古学の分野をも動員した大がかりなものになりつつある。特に最近では、紀元前数世紀に船でタミル人が渡来したとする説にまで発展し、新たなる論議を呼んでいる。 本稿では、一タミル研究者の視点に立ち、氏の方法論の不備と対応語彙表が抱える質的問題を指摘し、同系説を学問的に評価する上で障害となる難点のいくつかについて、具体的な事例に即しながら提示することにしたい。
井上, 章一 森岡, 正博
「売春はなぜいけないんですか?」「身体を売るのはよくないんです。」「でも、我々は頭を売って生活していますよ。頭なら売っていいんですか?」「臓器移植って知ってますか。臓器移植は、無償の提供を原則として運営されます。臓器売買は、決して許されません。従って、売春も許されないのです。」「むちゃくちゃな話やなあ。」「いや、これは、現代社会における身体の交換と贈与に関する、重大な問題系なのです。売春と臓器移植というポレミックな問題を、こんなふうに結合させて論じたのは、我々が世界ではじめてでしょう。」「当たり前や。こんなアホな話、学問的に突き詰めるなんて、ふつうやりませんって。
住吉, 朋彦 Sumiyoshi, Tomohiko
国立歴史民俗博物館は、開館当初から日本の印刷文化を重視し、中世以前将来の中国刊本、日本中世の刊本や、朝鮮版など、多くの古版本を蒐集して来た。その中でも、中世の印刷文化を体現する諸版本の収蔵は特に篤く、二十餘種もの五山版を擁することは、新設の機関として極めて異例である。これらの五山版を通覧すると、禅籍を中心として、一般の仏典、漢籍の外典、国書を数点ずつ収め、五山版全体の構成が再現されているのみでなく、南禅寺、臨川寺、天龍寺といった、当時の主要な禅院の出版書を含む他、臨川寺版『禅林類聚』や兪良甫版『唐柳先生文集』等、禅院の出版事業に関与して南北朝後半の展開を担った、来朝刻工の代表的な版本を収めている。さらに外典では、室町期出版の地方的展開にも及ぶ所である。こうした収蔵の副産物として、中世の印刷技術を垣間見ることができる点も意義深く、伝存の殆どない南北朝の五山版の版木について、一面に二、三張を配し、一版の両面に四、六張を列した版木の様式が類推される資料を、いくつか含んでいた。特に来朝刻工関与の版本では、六張一版の様式を確認できる場合があった。これらの五山版が禅院の学問を潤した様子も、その書入や蔵印から明らかな伝本が多い。また地方の禅院や、禅宗以外の寺院への流布を示す等、五山版の流通を基礎とする、中近世の学問の広がりを証言する点は貴重であり、その他、近世、近代の学者、蔵書家に用いられた点も注意される。そして、当時一流の蔵書家の見識により選択された諸伝本には、整った早印の完帙が多く、書物としての五山版の意義をよく発揚している。本稿は、上記の諸点を書誌学的に整理し、目録解題として記述、当館収蔵の五山版コレクションの特色を示したものである。
将基面, 貴巳
現在、欧米のみならず日本でも学会を揺るがせている問題のひとつに「人文学の危機」がある。ネオ・リベラリズムの席巻に伴い、人文学のような、国民経済に直接的に貢献しない学問は「役に立たない」という議論が横行するようになっている。その結果、人文学系学部・学科は各国政府やメディアからの攻撃にさらされつつある。いわゆる「日本研究」の分野に属する研究の多くは人文学的なものである以上、「人文学の危機」という問題を傍観視するわけにはゆかないであろう。実際、日本国内外を問わず、人文学系の研究者たちは、人文学の意義について積極的に発言するようになっている。しかし、そうした発言の多くは、ネオ・リベラル的潮流への批判であり、人文学の自己弁護に終始し、人文学的研究と教育の現状を再検討する視点が総じて欠落している。 本稿は、こうした現状認識に基づき日本研究の今後を考える上で、人文学的な専門研究が陥りがちな「落とし穴」を指摘することにより、人文学としての日本研究が、時代の逆風にもかかわらず、存立していく上での必要条件のひとつを考察するものである。 その「落とし穴」とは、「学問のプライベート化」とでも称すべき事態であろう。すなわち、人文学の専門的研究が、もっぱら研究者の個人的興味・関心に矮小化する結果、現代社会や文化の諸問題との関連性がもはや研究者によって自覚されない事態である。そうした状況の背後にあるのは、19世紀以降における歴史主義の圧倒的な影響力であろう。歴史主義が空気のように当たり前の存在となり、全ての事象が個性的かつ一回的なものと認識され、あらゆる価値が相対化される時、極めて専門化の進んだ歴史的研究が現代において主張しうる意義とは何か。この問いへの答えは必ずしも自明ではなくなっている。本稿は、この難問への手短な回答を試みる。
川村, 清志
本論は,日記資料のデジタルアーカイブ化の手続きにおいて生起した課題と,そこで醸成された民俗学の外延の拡張と更新の可能性について論じる。本論の最終的な目的は,大きく二つに分けることができる。一つは,特定の学問分野(ここでは民俗学)が扱う資料を一般化することで共有度を高め,関心を異にする民俗研究者はもちろん,他分野の研究者や一次資料に関心をもつ一般の人びとにも利用可能な形態を構築することである。もう一つは,一次資料の綿密な検証と分析から,既存の学問の外延と内包を再考し,当該研究分野のバージョンアップを図ることを目的としている。ここで対象とする資料とは,東日本大震災で被災した昭和初期の日記資料である。この資料からは民俗学的な視点では収まりきらない,当時の社会状況や文化的背景を垣間見ることができる。資料が示す多様な情報をできるだけ十全に抽出し,分類し,デジタルアーカイブ化するという非常に地道な作業から,上記で示した研究領域の再編を促す糸口をたどり直したいと考える。そこで,本論では,まず,日記と文字資料を巡る民俗学とその周辺領域での研究成果を概観し,研究上のテーマを設定する。次に本稿の具体的な分析対象となる日記資料の概要について説明する。その上で資料のデジタル化,データベース化の過程で生じた課題とそれらへの対処の過程で明らかになった分類枠の検証を行う。この分類枠は,日記のデジタル化を進めていくなかで累積的に変化していった。具体的な事例との往復作業のなかで,どのような変更が必要になったのかを確認していく。ここで抽出された分類カテゴリーを,既存の民俗学の外延と比較し,両者のズレを検証した。これらの作業を通してこれまでの民俗学の分類枠組みを批判的に相対化する作業を行い,近代化に関わる諸制度の浸透や新たなメディア網,交通網といった人々の生活文化を把握するために必要なカテゴリーを確認していった。
小熊, 誠 Oguma, Makoto
民俗学において文化交流をどのように位置づけるかについて,第1に柳田國男の言説を中心に検討し,第2に,文化交流という概念のもとで,沖縄と中国の比較研究が可能かどうか考察する。柳田國男は,民俗学の対象を民間伝承とし,文字記録に残されてきた文化とは区別した。つまり,文字に代表される学問や技芸などの文化を都市の中央文化とし,文字資料によらない民間の伝承を郷土の地方文化として対立的に捉えた。日本国内における文化の交流は,柳田によれば,流行,つまり新たな中央表層文化が,中心から周囲に時間の経過とともに空間的に広がっていき,それが郷土に定着していく過程と考えられた。都市は,新しい文化の窓口であり,新しい文化を創造する場所であり,それを発信する文化的中心であった。学問や文芸としての外国文化は,表層文化のレベルで,まず都市に伝わる。そこで日本文化のフィルターにかけられて,都市から地方へと伝播する過程で,あるものは民俗として定着していく。柳田の「文化普及の法則」は,海外文化の都市文化への流入と都市から地方への伝播という2段階の文化の流れでとらえることができる。沖縄と中国,あるいは日本本土との文化交流は,先史時代から歴史的事実として繰り返し行われてきた。その中で,比較の回路として儒教的制度について問題を絞ると,沖縄の父系血縁集団である門中の形成に与えた影響は大きい。近世琉球における士族層には,この父系血縁を基本とする家譜の作成,同姓不婚,異姓不養など中国的家族制度が導入されていく。しかし,同時に,一子残留による日本の家的家族制度をも取り込んで沖縄的な家族制度が整備されていったと考えられる。儒教制度を回路とする文化交流の比較研究は,ただ単に中国から儒教的な影響が沖縄に伝播したという事実の指摘で終わるのではなく,それがどのように沖縄の中で展開し,どういう意味をもっているのかを総合的な視点で整理する必要がある。
井上, 敏幸
豊後の日田咸宜園で漢学を教授した廣瀬淡窓(1782 ~ 1856)は、現在「淡窓」号で広く知られているが、生涯に七種の別号を用いていた。年代順に並べて示せば、亀林・淡窓・華陽・蘭窓・南梁・青谿(渓)・苓陽の七種である。前半生はもっぱら「淡窓」号をもちいたといってよいが、後半生、五十七歳以降は主に「苓陽」号を用い、自ら記した墓碑銘にも「苓陽先生。諱建。字子基。一号淡窓」と記している。この晩年になっての「淡窓」から「苓陽」への改号には、淡窓の晩年における生き方の問題が大きくかかわっている。今は亡き恩師亀井昭陽の「寵栄」に感謝して作った「苓陽」号は、その学問と人間性のさらなる探求の指針を示すものであり、「真儒」たらんとした最晩年の淡窓を支えるものであったと考えられる。
梶原, 滉太郎 KAJIWARA, Kōtarō
日本において<天文学>を表わす語は奈良時代から室町時代までは「天文」だけであった。しかし,江戸時代になると同じ<天文学>を表わす語として「天学」・「星学」・「天文学」なども使われるようになった。そのようになった理由は,「天文」という語には①<天体に起こる現象>・②<天文学>の二つの意味があってまぎらわしかったので,それを解消しようとしたためであろう。そして,その時期が江戸時代であるのはなぜかといえば,江戸時代はオランダや中国などを通じて西洋の近代的な学問が日体に伝えられた画期的な時期であったからだと考えられる。また,「天学」は明治時代の中期に廃れてしまい,「星学」も大正時代の初期に廃れたのである。現代において「天文」は少し使われるけれども,ほとんど「天文学」だけが使われる。
小川, 剛生 OGAWA, Takeo
南北朝時代の文芸・学問に、四書の一つである『孟子』が与えた影響について探った。『孟子』受容史は他の経書に比し著しく浅かったため、鎌倉時代後期にはなお刺激に満ちた警世の書として受け止められていたが、この時代、次第にその内容への理解が進み、経書としての地位を安定させるに至った。この時代を代表する文化人、二条良基の著作は、そうした風潮を形成し体現していたように見える。良基の連歌論には『孟子』の引用がかなりあり、これを子細に分析することで、良基の『孟子』傾倒が、宋儒の示した尊孟の姿勢にほぼ沿うものであったことを推定し、もって良基の文学論に与えた経学の影響を明らかにした。ついで四辻善成の『河海抄』から、良基の周辺もまた尊孟の潮流に敏感に反応していたことを確認し、『孟子』受容から窺える、この時代の古典学の性質についても考察した。
鈴木, 靖民 Suzuki, Yasutami
7世紀,推古朝の王権イデオロギーは外来の仏教と礼の二つの思想を基に複合して成り立っていた。遣隋使は,王権がアジア世界のなかで倭国を隋に倣って仏教を興し,礼儀の国,大国として存立することを目標に置いて遣わされた。さらに,倭国は隋を頂点とする国際秩序,国際環境のなかで,仏教思想に基づく社会秩序はもちろんのこと,中国古来の儒教思想に淵源を有する礼制,礼秩序の整備もまた急務で,不可欠とされることを認識した。仏教と礼秩序の受容は倭国王権の東アジアを見据えた国際戦略であった。そのために使者をはじめ,学問僧,学生を多数派遣し,隋の学芸,思想,制度などを摂取,学修すると同時に,書籍や文物を獲得し将来することに務めた。冠位十二階,憲法十七条の制定をはじめとして実施した政治,政策,制度,それと不可分に行われた外交こそが推古朝の政治改革の内実にほかならない。
福田, アジオ Fukuta, Azio
考古学と民俗学は歴史研究の方法として登場してきた。そのため,歴史研究の中心に位置してきたいわゆる文献史学との関係で絶えず自己の存在を考えてきた。したがって,歴史学,考古学,民俗学の三者は歴史研究の方法として対等な存在であることが原理的には主張され,また文献史学との関係が論じられても,考古学と民俗学の相互の関係については必ずしも明確に議論されることがなかった。考古学と民俗学は近い関係にあるかのような印象を与えているが,その具体的な関係は必ずしも明らかではない。本稿は,一般的に主張されることが多い考古学と民俗学の協業関係の形成を目指して,両者の間についてどのように従来は考えられ,主張されてきたのかを整理して,その問題点を提示しようとするものである。柳田國男は民俗学と考古学の関係について大きな期待を抱いていた。しかし,その前提として考古学の問題点を指摘することに厳しかった。考古学の弱点あるいは欠点を指摘し,それを補って新しい研究を展開するのが民俗学であるという論法であった。したがって,柳田の主張は考古学の内容に踏み込んだものであり,彼以降の民俗学研究者の見解が表面的な対等性を言うのに比較して注目される点である。多くの民俗学研究者は,考古学と民俗学の対等な存在を言うばかりで,具体的な協業関係形成の試みはしてこなかった。その点で,柳田を除けば,民俗学研究者は考古学に対して冷淡であったと言える。それに対して,考古学研究者ははやくから考古学の研究にとって民俗学あるいは民俗資料が役に立つことを主張してきた。具体的な研究に裏付けられた民俗学との協業や民俗資料の利用の提言も少なくない。しかし,それは考古学が民俗学や民俗資料を参照することであり,考古学の内容を豊かにするための方策であった。その点で,両者の真の協業は,二つの学問を前提にしつつも,互いに参照する関係ではなく,二つの学問とは異なる第三の方法を形成しなければならない。
Takezawa, Shoichiro
19 世紀後半に欧米諸国であいついで建設された民族学博物館は,新しい学問領域としての民族学・文化人類学の確立に大きく貢献した。植民地拡大の絶頂期であったこの時期,民族学博物館の展示は,器物の展示を通じて近代西欧を頂点におく諸民族・諸人種の進化を跡づけようとする,イデオロギー的性格の強いものであった。 やがて,文化人類学における文化相対主義・機能主義の発展とともに,民族学博物館の展示も,当該社会の文化的コンテキストを重視するものになっていった。そして,西暦2000 年前後に,ヨーロッパの多くの民族学博物館はその展示を大幅に変えたが,その背景にあったのは,「他者」を再現=表象することの政治的・倫理的課題をめぐる民族学内部の議論であった。 本稿は,ヨーロッパの民族学博物館の展示の刷新を概観することを通じて,今日の民族学博物館と民族学が直面している諸課題を浮彫りにすることをめざすものである。
シーコラ, ヤン
徳川時代は、ヨーロッパで経済学が独立した学問として登場してきた思想的な激動期に対応している。西洋の思想のある分野――とりわけ自然科学思想――は日本学者に研究され普及してきたが、しかし西洋の政治・経済思想が日本に紹介されることは多かれ少なかれ制約されていた。一方、同時に日本の経済・社会がますます複雑になり、貨幣経済が進展していくにつれて、ヨーロッパの経済学者が考察を深めていったのとよく似た経済現象が形成されていた。 貨幣経済が展開するとともに、米に依存した自給自足経済という概念は次第に崩壊していき、熊沢蕃山を始めとして海保青陵にいたるまでの日本の思想家は市場原理、その作用を分析し、社会秩序に与える影響を議論するようになっていった。本稿は、当時の代表的な思想家を中心に、江戸時代における市場原理の概念、その意識が変化していった主要な流れを検討しているものである。
堀内, 暢行
本論の目的は、アーカイブズにおける刊行物の取り扱いについて、その問題点を示し、解決にむけたルールを策定する上での骨子を提示することにある。元来、アーカイブズと図書館は社会的な役割はもちろん、所蔵するモノが持つ機能が異なることから個別に存在しており、学問領域も異なる。一方で、現実にはアーカイブズにて刊行物を扱うケースは多く、特に近代以降の個人文書になるとそれは大半となる。そうした状況を踏まえ、二つのフォンドを事例として、どのような問題があるのかを具体的に提示し、整理・出納、そして管理面においても問題があることを指摘した。その上で、今後の取るべき方針を三段階に区分し、アーカイブズにおける業務と掛け合わせ、刊行物の取り扱いにどのような考えやルールが必要なのかを提示した。これはあくまで骨子ではあるものの、これを機に、同様の問題を抱えているアーカイブズ関係者と共通のルール化にむけて議論していくこととしたい。
呉, 佩遥
近年の宗教概念研究によってもたらされた「宗教」の脱自明化から、近代日本における宗教学の成立と展開を考察することは、宗教学なる領域に対する理解を反省的に把握するために重要である。しかし、アカデミックな場に成立した「宗教学」において、「宗教」に隣接した概念であり、「宗教」の中核的な要素とされる「信仰」と、「宗教」の身体的実践の一つである「儀礼」がいかに語られたかについては、まだあまり考察されていない。 本稿では、東京帝国大学に設立された宗教学講座の初代教授であり、近代日本における儀礼研究の先駆者としても知られる姉崎正治(1873-1949)を中心として、彼の『宗教学概論』(1900年)における「信仰」と「儀礼」の語り方を考察した。そして世紀転換期における姉崎の宗教学を同時代の社会的・思想的なコンテキストの中に位置付け、姉崎が同時代の「修養」に関する議論を意識しつつ、新たな学問領域である宗教学の立場から自らの修養法を提示したということを指摘した。かかる時代状況で、「信仰」と「儀礼」の結び付きは「修養」との関わりの中で主張されたのである。 具体的にはまず、姉崎があらゆる宗教に共通している固有のものを探る宗教学の立場を強調した1900年代前後は、人格の向上を目的とする自己研鑽を求める「修養」という概念がブーム化していた時代であるということを指摘した。この時期の修養論には、「自発的実践の重視」とその半面としての「特殊的・形式的な教義や儀礼の軽視」という傾向がある(栗田 2015)。こうした時代状況に身を置いた姉崎は、「信仰」と「儀礼」を再解釈することにより、「修養」を「主我主義」・「他律主義」・「自律主義」と段階的に説き、「信仰」と「儀礼」の結び付きによる「自律主義」を理想とした。このように、1900年代前後における「修養」というあいまいなカテゴリーは、宗教学の鍵概念である「信仰」や「儀礼」が再解釈される方向に導いていったといえる。かかる姉崎の学問的営為は、近代日本における「宗教」の展開を考える上で重要な意義を持っている。
鈴木, 貞美
概念の変化を知らなければ、現在の概念を投影して過去の同じ語を読んでしまう誤りが往々に起こる。現在の概念による分析スキームを過去に投影して、分析を行う時代錯誤も繰り返されてきた。それゆえ、概念史研究は、あらゆる学問の不可欠な基礎である。そして、概念史研究は、これまで分析概念と当代の概念とを混同したまま説かれてきた学説を覆し、全く新しい文化史の研究をひらくこともできる。 ところが、概念史研究は、ともすれば、ひとつの概念の変化の過程を追うことに終始しがちであり、その概念のそれぞれの時代の知の全体における相対的な位置の解明がおろそかになりやすい。 それゆえ、ここに、学芸全体の概念編成についての知の共同作業とその方法を提案する。学芸概念編成史研究は、学問の体系が、どのような力により、どんな価値観の変化をともないながら、編みかえられてきたのか、その様子を明らかにする研究である。これは、全分野に開かれた構造研究と歴史研究との総合である。そして、この運動の中では、各自が自分の作業の意味を知りながら研究を進めることができる。 次に、とりわけ東アジアにおいて、この研究が有効性を発揮し、新たな文化史研究を開拓する理由を示しておこう。東アジアにおける古代から近世にわたる学芸の歴史は、ヨーロッパとはまったく異なる編成をもつ中国のそれを基本にしつつ、朝鮮半島と日本において、それぞれ独自に推移してきた。一九世紀以前にも西洋の宗教や学術が伝えられはしたが、その全体の構成を変化させるにはいたらなかった。しかし、一九世紀の半ば、上海でプロテスタントの宣教師と中国人の若い知識人との協力によって大量の西欧新知識が翻訳され、それが日本にもたらされるやいなや伝統的な概念編成の組み換えがはじまった。儒者、佐久間象山が朱子学の「天理」の概念によって、西洋の科学技術をとりいれ、大砲の製造実験を始めたように、それは伝統的な土台の上に西洋知識を受け入れることによってはじまり、自然科学と人文・社会科学を切り離して土台のしくみを組み替えるにいたった。その組みかえには、日本と中国との文化的土壌や価値観のちがいと歴史的条件が働いた。 たとえば伝統的な「文学」概念の組みかえが日本で起こったことは、魯迅「門外文談」(一九三四)の「『文学は子游、子夏』からきりとってきたものではなく、日本から輸入したもの、彼らの英語literatureに対する訳語なのだ」という一文がよく示している。しかも、日本では、明治以前に、和歌や物語が「文学」と呼ばれたことは一度もなかった。それらは新しい概念編成により、言語芸術として扱われるようになったのである。 ただし、教会の精神世界に対して起こされたルネッサンスを経験しなかった日本の文学や芸術は、いわばギリシアやローマの古典芸術の代わりに、古代からの神話、儒学、仏教などに彩られている。そして、日本の大学で人文学を教育する文学部の哲学科には、ヨーロッパでは神学部に属している宗教学が組み入れられた。このようにして、西洋諸国の学芸の編成とは異なる体系が日本で築かれたのだった。その体系が二〇世紀前半を通じて、日本帝国主義とともに台湾や朝鮮半島にもたらされ、また中国の留学生の手によって、大陸に持ちかえられたのだった。 地球環境が大きな問題となっている今日、二一世紀にふさわしい学問を築くために、近代の知のシステムと同時に東アジア近代の特殊性もよく反省する必要があるだろう。東アジアにおける学芸概念とその編成史の研究を呼びかけるゆえんである。
小池, 淳一 Koike, Jun'ichi
本稿は柳田民俗学の形成過程において考古研究がどのような位置を占めていたのか、柳田の言説と実際の行動に着目して考えてみようとした。明治末年の柳田の知的営為の出発期においては対象へのアプローチの方法として考古研究が、かなり意識されていた。大正末から昭和初期の雑誌『民族』の刊行とその後の柳田民俗学の形成期でも柳田自身は、考古学に強い関心を持ち続けていたが、人脈を形成するまでには至らず、民俗学自体の確立を希求するなかで批判的な言及がくり返された。昭和一〇年代以降の柳田民俗学の完成期では、考古学の長足の進展と民俗学が市民権を得ていく過程がほぼ一致し、そのなかで新たな歴史研究のライバルとしての意識が柳田にはあったらしいことが見通せた。柳田民俗学と考古研究とは、一定の距離を保ちながらも一種の信頼のようなものが最終的には形成されていた。こうした検討を通して近代的な学問における協業や総合化の問題が改めて大きな課題であることが確認できた。
藤田, 義孝
サン= テグジュペリが地球と人間のあり方を新しい視点で捉える上で飛行機が大きな役割を果たしたことはよく知られているが,当時の地質学もまた作家の自然観・人間観の形成に寄与したのである。『夜間飛行』(1931 年)にはウェゲナーの提唱した大陸移動説の知識が見て取れるし,『人間の大地』(1939 年)には地質学的考察が主となるエピソードが存在している。本研究では,これらの作品の記述を分析した後,『星の王子さま』(1943 年)を視野に入れてサン= テグジュペリの自然観と人間観を概観し,地質学の知見が彼の思想と文学に何をもたらしたかを検討する。 検討の結果,サン= テグジュペリが伝統的な自然観を更新し,人新世を寓意的に予告することができたのは,地質学の知見によるところが少なくないと分かった。というのも,地質学は,大地の観察を通じて見えない深層に迫る学問であり,その点で「見えるものを通して見えない本質を見る」という作家の主要テーマと軌を一にするからである。
相田, 満 AIDA, Mitsuru
「やまともろこし、儒仏のもろもろの書どもを、ひろく考へいだして、何事もをさをさのこれるくまなく、解あきらめられたり」(本居宣長『源氏物語玉の小櫛』)とまで評された『河海抄』(四辻善成・撰)は、その博引傍証的性格から、中世以前の学問体系をうかがう資料としても貴重だが、そこに遍在する『職原抄』引用部の分析・調査を行ったところ、『職原抄』の一部分がほぼ重複もなく再構成されるという結果を得た。このことは、『河海抄』の編纂者が、『職原抄』を熟知した上で、『河海抄』編集にその知識を反映させていたことを物語る。また、その引用箇所が「職原抄」の一部分に集中していることから、『河海抄』に取込んだ記事の選別・非選別の基準や意図を、そこから読みとることも可能といえよう。そして、同様の分析手法を重ねるならば、『河海抄』の知識源泉の解明に道を開くのみならず、他の注釈書や類聚編募物についても、その応用が可能であると予想する。
西村, 明 Nishimura, Akira
本稿は、アジア・太平洋戦争期の宗教学・宗教研究の動向、とくに戦時下の日本宗教学会の状況と、当時の学会誌に表れた戦争にかんする研究の二つに焦点をあて、当時の宗教学・宗教研究のおかれた社会的ポジションの理解を試みるものである。戦時期の一九三〇年・四〇年代前半は、日本宗教学会の草創期にあたり、宗教をとりまく大きな状況の変化が起った時期でもあった。学術大会における会長挨拶では、同時代の状況にたいする当事者的参加が要請され、諸宗教の理解という学問的関心の社会的意義が強調されたが、それは同時に本国や占領地等における政府の宗教統制・宗教政策と奇妙な同調を見せる結果となっている。一九四〇年前後に『宗教研究』誌に登場した、戦時下の宗教現象にかんする論考は、千人針などの当時の前線・銃後の日本人たちの宗教的・民俗的営みを視野に入れたものであったが、あくまで戦争遂行や天皇にたいする尊崇を第一義とするような体制的な価値判断に基づくものであったと言える。
小西, 潤子
「山口修写真コレクション」は,山口修(1939–)が 1960 年代半ばから 1990年代にアジア・太平洋各地で収集した 5,000 点以上の写真資料からなる。これらの理解を深めるために,民族音楽学の歴史を遡ることで山口の学問的関心を突き詰める。すなわち,20 世紀前後の欧州における近代科学に基づいた比較音楽学,戦前日本における東洋音楽の歴史と理論を扱った東洋音楽研究,1950年代から米国で文化相対主義の影響によって開花した行動学的民族音楽学である。これらを基盤に,山口は民族音楽学の理論と実践を国内外に発信し,「応用音楽学」として集大成した。その中で楽器学の骨子は,(1)エティック/イーミックスなアプローチ,(2)楽器づくりのわざ,(3)楽器の素材,とされる。次に,これらの観点から 1970 年代沖縄・奄美における楽器の写真について,当該文化の担い手による解釈を交えて論じる。対話の積み重ねによる持続的なデータベースづくりは,まさに山口が目指した未来志向性の応用音楽学的実践だといえる。
Takada, Akira
本論文では,言語の自然化は可能かという問いの一環として,他者と同じように行為することの社会的意義について考える。私はこれまで,模倣の社会科学と模倣を可能にする認知過程についての研究,いいかえれば,ルーマンらが議論している社会システムと心理システムを媒介する次元としての相互行為システム(e.g. ルーマン 1993; 1995)について論じてきた(高田 2019)。本論文では,ナミビア北中部に暮らすクン・サンにおける乳幼児を含む相互行為(CCIと略す)に着目し,模倣に関わる行為間の関連性について論じる。さらに,こうした相互行為システムにおいて創造的な模倣が可能になる条件を探っていく。私たちが他者と同じように行為することによって,どのように行為の意味を生み出し,理解し,それに応答しているのかを分析していくことは,言語の自然化を経験論的に推進する。それは心と物の二世界物語の脱構築(ライル 1987)をともなうとともに,自然の入念な観察から世界の仕組みを学ぼうとするという自然誌の伝統に沿った学問的アプローチである。
高木, 浩明 TAKAGI, Hiroaki
稿者はこれまで、中世末から近世初期の学問・学芸・出版の実態と背景をより明確なものにするため、主に古活字版の総合的かつ網羅的な調査、研究を行ってきた。古活字版として刊行された作品のテキストは、一体どのような環境のもとで生み出されたのか、底本の入手、本文校訂、刊行を可能にした人的環境について、史資料を駆使して考察してきた。古活字版の研究をする上で必読の文献が川瀬一馬氏の『増補古活字版之研究』(ABAJ、一九六七年、初版、安田文庫、一九三七年)であるが、同書が刊行されて既に半世紀になる。調査を進める過程で、川瀬氏の研究の不備や遺漏を少なからず見出す(川瀬氏の研究に未載の古活字版は、すでに90種を超えた)と共に、古活字版全体の調査をやり直す作業がぜひとも必要であると実感し、近年は古活字版を所蔵する機関ごとの悉皆調査という壮大な事業に単身取り組んでいる。六四機関において調査を終えた一〇八〇点の詳細な書誌データについては、「古活字版悉皆調査目録稿(一)~(九)」としてまとめ、鈴木俊幸氏編集の『書籍文化史』、第一一集から第一九集(二〇一〇年一月~二〇一八年一月)に連載し、研究者間での情報共有を図ってきた。本稿はこれに続くもので、国文学研究資料館における国際共同研究「江戸時代初期出版と学問の綜合的研究」(研究代表者:ピーター・コーニツキー・ケンブリッジ大学アジア中東研究学部名誉教授、二〇一五年~二〇一八年)に参加して、国文学研究資料館所蔵の古活字版の悉皆調査(現在整理中の川瀬一馬文庫は除く)をさせていただくことができた。その成果の一部である。附録として、隣接の研究機関である国立国語研究所が所蔵する古活字版四点と、研医会図書館所蔵の古活字版二二点の書誌データも掲載することにした。なお、研医会図書館所蔵の古活字版の調査は、現在継続中の共同研究で176ある、広領域連携型基幹研究プロジェクト・アジアにおける「エコヘルス」研究の新展開「アジアの中の日本古典籍―医学・理学・農学書を中心として」(国文学研究資料館、研究代表者:入口敦志教授)の一環として行ったものである。調査項目は、〔請求番号〕〔体裁〕〔表紙〕〔題簽〕〔内題〕〔尾題〕〔本文〕〔匡郭〕〔版心〕〔丁数〕〔刊記〕〔印記〕〔備考〕の一三項目で、〔備考〕には、川瀬一馬氏の『増補古活字版之研究』の見解を示した。なお、書目の頭に※が付いているものは、『増補古活字版之研究』未載の古活字版である。
吉田, 安規良 柄木, 良友 富永, 篤 YOSHIDA, Akira KARAKI, Yoshitomo TOMINAGA, Atsushi
平成22年度に引き続き、平成23年度も琉球大学教育学部附属中学校は「体験!琉球大学 -大学の先生方による講義を受けてみよう-」と題した特別講義を、総合的な学習の時間の一環として全学年の生徒を対象に実施した。「中学校で学んでいることが、将来どのように発展し社会や生活と関わるのか、また大学における研究の深さ、面白さを体験させる」という附属中学校側の意図を踏まえて、筆者らはそれぞれの専門性に裏打ちされた特別講義を3つ提供した。そのうちの2つは自然科学(物理学・生物学)の専門的な内容に関する講義であり、残りの1つは教師教育(理科教育学)に関するものである。今回の3つの実践は、「科学や学問の世界への興味、関心を高める」と「総合キャリア教育」という観点で成果が見られ、特に事後アンケートの結果から参加した生徒達の興味を喚起できたと評価できる。しかし、内容が理解できたかどうかという点では、全員が肯定的な評価をしたものから、評価が二分されたものまで様々であった。
Niwa, Norio
人類学が学問として制度的に確立する前の移行期にはさまざまな探検という調査プロジェクトが存在していた。本稿では,そうしたなかでも日本人博物学者朝枝利男の参加したアメリカの探検隊に注目したい。朝枝利男は,多様な経歴を経た人物であるが,1923 年の渡米後,アメリカで活躍した博物学者・学芸員とさしあたりまとめられる。彼は,剥製から水彩画と写真撮影までの多才な博物学的技術を身に着けていたことから,1930 年代に企画された半ば私的な調査隊に数多く参加していた。その結果,数多くの博物学的な写真と水彩画を残している。しかしそれらは世界各地の博物館に散在して資料としての整理の段階から進められていないままにおかれている。そこで本稿では,以下3 点を目的としたい。まず,これまで基礎的な資料整備の水準で取り扱われていなかった朝枝利男コレクションの資料が作られた背景を精査することで,資料としての特徴を明確化すること。その際,あわせていまではほぼ忘れられた朝枝利男の活動を傍系的に復元すること。そして最後に,本稿からみえてくるアメリカで行われた史的探検に関わる資料を読み解くに際しての留意点を指摘することである。
王, 秀文
植物にまつわる民間伝承において、桃ほど古く、広く伝えられているものはあるまい。中国の『詩経』に収められている遠い周の時代の民謡、春秋戦国の時代から行われた諸儀式と年中行事、漢の時代に急に浮上してきた度朔山伝説、六朝時代から盛んに伝えられるようになってきた西王母の伝説や神仙説、さらに晋の陶淵明の「桃花源記」や明代に集大成された『西遊記』物語、および今もお正月に、門戸の両側に貼り付ける赤い紙切れの「春聯」など、至るところに、桃の伝承が浸透している。いっぽう、日本においても、記紀神話から平安時代の宮中の儀式まで、鬼門信仰から「桃太郎」の民話まで、桃の伝承は数多くみられる。 このように、桃に関する伝承は広い分野にわたって日中間に分布しているが、これがいったい何を意味するのだろうか。これまでの研究は、分野別・国別的なものが多く、結論も偏りすぎて一貫性を欠いていた。本研究は、学問的分野や伝承の地域性を越えて、おもに日中に伝わる伝承を通観することにより、桃のシンボリズムと人類の歴史・生活史・精神史との関係をより深く究明しようとするものである。
稲賀, 繁美
学術としての「美術史学」は全球化(globalize)できるか。この話題に関して、2005年にアイルランドのコークで国際会議が開かれ、報告書が2007年に刊行された。筆者は日本から唯一この企画への参加を求められ、コメントを提出した。本稿はこれを日本語に翻訳し、必要な増補を加えたものである。すでに原典刊行から8年を経過し、「全球化」は日本にも浸透をみせている話題である。だがなぜか日本での議論は希薄であり、また従来と同じく、一時の流行として処理され、日本美術史などの専門領域からは、問題意識が共有されるには至っていない。そうした状況に鑑み、本稿を研究ノートとして日本語でも読めるかたちで提供する。 本稿は、全球化について、①アカデミックな学問分野としての制度上の問題、②日本美術史、あるいは東洋美術史という対象の枠組の問題、③学術上の手続きの問題、④基本的な鍵術語(key term)の概念規定と、その翻訳可能性、という4点に重点を絞り、日本や東洋の学術に必ずしも通じていない西洋の美術史研究者を対象として、基本的な情報提供をおこなう。
春成, 秀爾 Harunari, Hideji
2000年11月,日本考古学は「前・中期旧石器遺跡」捏造事件の発覚という,未曾有の学問的・精神的打撃をうけた。事件発覚前に一部の研究者から疑いがかけられていたにもかかわらず,奏功せず,新聞社が隠し撮った映像によって初めて捏造を認めなければならなかった。日本考古学には偽造を見抜く鑑識眼,つまり資料批判の精神とそれを議論する諸条件が十分に発達していなかったと認めるほかない。ここでとりあげる日本の偽造例は,研究者による最初の調査と報告がずさんであったために,数十年にわたって,考古資料として通用してきたものである。イギリスのピルトダウン人骨事件をはじめとして,科学の世界,そして人間の社会には捏造は珍しくない。今回の捏造事件について真に反省する,再発を防止しようというのであれば,考古学の諸分野に適用できる鑑識眼を養成すること,偽造の鑑識結果を発表できる場を用意し,反論できなければ,それを素直に受け入れるという勇気と覚悟をもつことが必要である。偽造や誤断を指摘することが憚られるような学界や人間の気持ちをのりこえたところに,捏造事件後の日本考古学の未来は初めて開けてくるだろう。
孫, 傳玲
「中」概念は、『中庸』以来の重要な儒学概念で、従来から各時代の儒学者によって多様な解釈が行われてきた。それは、宋代にいたって程朱によって特に重要視され、朱子学体系を構成する枢要な概念である「性」や「道」「徳」「敬」など、そのすべてと関連する基本概念となった。朱子学の学統を継承した山崎闇斎(一六一八~一六八二)も、この「中」概念を重視し、その真意への理解に組み込んだ。その一方、闇斎は、神道研究を進めるなかで、この「中」が日本本来の「道」である神道にもあると考えるようになり、それを日本の神話、神道思想と結びつけ、神道的な解釈を展開するにいたった。 本稿では、朱子学と比較しながら、闇斎の学問思想の内部から、この概念について闇斎の朱子学的理解と神道的解釈との関連性を考察し、彼の「中」概念の特質・意義を明らかにしてみたい。 ここでは、あえて朱子学概念としての「中」を「チュウ」と訓み、そして、闇斎によって展開された神道的概念としての「中」を「ナカ」と訓む。闇斎における「中」概念は、つまり「チュウ」と「ナカ」という二重の意味を持っているのである。
ピーター, コー二ツキー Peter, KORNICKI
本年表は、国文学研究資料館の国際共同研究「江戸時代初期出版と学問の綜合的研究」(二〇一五年度~二〇一七年度、代表者・ピーター・コーニツキー)の三年間にわたる研究の成果である。研究班発足の際、岡雅彦・市古夏生・大橋正叔・岡本勝・落合博志・雲英末雄・鈴木俊幸・堀川貴司・柳沢昌紀・和田恭幸編『江戸時代初期出版年表天正十九年~明暦四年』(勉誠出版、二〇一一年)に海外所蔵の書籍がほとんど含まれていないので、天正十九年~明暦四年期間中に刊行された海外所蔵の書籍のデータを収集し、その補訂を作成することを目標の一つとした。班の海外在住のメンバーたちが個別に調査したデータを合わせたものなので、不十分という批判を免れない。ヨーロッパ諸国はほとんどカバーしてはいるが、韓国、台湾、北米、カナダは完全にはカバーしてはおらず、豪州、中国、北朝鮮などは全然カバーしていない。完全ではないのであるが、少しでも江戸時代初期出版の研究に貢献ができれば幸いである。なお、記号や項目順番は、なるべく『江戸時代初期出版年表天正十九年~明暦四年』に従ったが、『江戸時代初期出版年表』未載の書籍名には✥印を付した。また、『江戸時代初期出版年表』所収の場合、書誌データを省略した。
寺本, 潔 Teramoto, Kiyoshi
子どもの知覚環境を実際のフィールドにおいて調査するといろいろなことがわかってくる。子どもは、日常の遊びや自然物との関わりあいの中で独特な自然認識や空間の知覚を行っている。本研究では、農村の事例として愛知県小原村を、都市部の事例として名古屋市中川区を選び、子どもの遊び行動と知覚空間の変化を実証的に調べてみた。調査方法として採用したのは、子ども自身に地域の手描き地図を描かせる方法と子どもやその親への聞き取りを採用した。子どもに地図を描かせると知覚空間の構造の一部が把握でき、また聞き取りによって、詳細な行動実態がつかめてくる。調査を行った結果、子どもの知覚空間の範囲は小原村の場合、村内の地形を反映し、浅い谷ごとに閉じられていることがわかった。また、名古屋市の場合、都市化の状況や子どもを取り巻く様々な社会的要因の影響を受けて、変化しつつあり、とりわけ三世代の遊び行動の差異は著しいものがあった。子どもの知覚環境研究の課題は、依然極めて多く、子ども史的観点からの追究も残された課題となっている。本研究は、未だ子どもの内的世界を描いた点では素描にすぎず、今後、地理学のみならず、歴史学や民俗学などの隣接学問からのアプローチも期待される。
Kobayashi, Masaomi 小林, 正臣
本稿は、これまで人文科学において広範に実践されてきた「文化的研究(Cultural Studies)」の在り方について検証している。自然科学における実証と異なり、人文科学における論証は、なるほど厳密な客観性を要求されない場合が往々にしてある。したがって、ある社会における文化と別の社会における文化に、あるいは一つの社会における複数の文化の相違に個別性と連続性を見出しつつ、それらの問題を文化の問題として論じることには、それなりの学問的価値はあるだろう。しかし、Bill Readingsが指摘するように、個々の集団間の差異性と連続性の問題を「文化」という観点から総括してしまうことには議論の余地がある。なぜなら、それは否定的な意味における還元主義的な論法となる危険性があるからである。一方、社会科学においても還元主義的な論法は存在する。たとえば、新古典派経済学は、社会における人間の活動を利益の追求または最大化という観点のみから説明する傾向がある。かくして本稿は、人文科学(例えば文学)と社会科学(例えば経済学)の学際性を図る際には、それら学際的研究の個々が「特殊(specific)」であるべきであり、学際性を総括的な概念としてではなく、永続的に追求されるべき概念として捉えることを提唱している。
村上, 忠喜 Murakami, Tadayoshi
日本民俗学の資料である伝承そのものは,資料として批判することが困難である。それというのも,伝承資料自体の持つ性格と,伝承を取り出す際の調査者の意図や,調査者と伝承保持者との人間関係など,さまざまな因子に影響を受けるからである。フィールドワークを土台とする学問でありながら,資料論や調査論の深化が阻まれていたことは不幸であり,その改善に向けての具体策を模索していくべきである。伝承資料を批判することは,伝承資料の取り扱い方と,それを得る調査の現場を検証することに他ならない。本稿では,まず,「調査地被害考」を手がかりとして,その考え方の背景にある民俗調査観を批判し,その調査観に基づく調査を「黒子調査」と規定する。そして,「黒子調査」の功罪を,伝承資料の今後の民俗調査・研究にいかに活かすかについて,以下の2点を提言した。 ①伝承を(歴史)事実ではなく解釈とする見方を徹底することで,これまで集められた膨大な資料ストックを再検討し,伝承の成立やプロセスの意味を考察し,現在につながる生活文化の再構成を目指す。 ②調査地や被調査者と積極的に関与していくフィールドワークとそれに基づく事業を進める過程で,発生する地域からの様々なリアクションを分析対象に取り込むことにより,フィールドワークの方法論的蓄積と伝承資料批判についての用意を図る。
冨田, 千夏
収集した古文献資料の長期的な維持管理のなかで、資料を電子化することは資料保存の目的や利用者の利便性を高める意義もあり、近年多くの資料保存機関がデジタルアーカイブ事業を展開している。デジタルアーカイブを構築・運営していく上で多くの機関が直面している問題は「如何にして長期的に維持するか」であり、その難しさは現在利用ができない「沖縄の歴史情報研究会」の事例が物語っている。本稿では、デジタル化された資料の長期維持に向けた取り組みとして、「人文学に情報学の技法や技術を応用する」学問である人文情報学(Digital Humanities)の手法を取り入れ琉球大学附属図書館の「琉球・沖縄関係貴重資料デジタルアーカイブ」をIIIF (International Image Interoperability Framework)へ対応した事例や「沖縄の歴史情報研究会」にて作成された「琉球家譜」のデータを再利用する試みを紹介する。現在利用ができない状況である「沖縄の歴史情報研究会」テキストデータのうち、CD-ROM版に収録されていた「琉球家譜」のデータについては現在の環境に適したデータの形へ変換することで再度利活用が可能である。「琉球家譜」のデータファイルを現在の環境で利用可能なデータに変換した上でデファクトスタンダードであるTEI(Text Encoding Initiative)に適用する試行的な取組みを通して、デジタル化された資料の長期的な維持について機関側と研究者が出来る事とは何かを検討し、今後のデジタルコンテンツのあり方について課題を共有したい。
岩井, 洋
本稿は、明治時代をおもな対象とし、<近代>を新しい<記憶装置>が誕生した時代として描いた、「記憶の歴史社会学」の試みである。ここでいう<記憶装置>とは、人々の記憶や想起の様式を方向づけるような社会的装置であり、それはハードウェア、ソフトウェアと実践からなる。ハードウェアは物質一般であり、ソフトウェアは思想、ルールやハードウェアの操作法などを意味し、実践はハードウェアとソフトウェアを結びつける身体的な実践を意味する。いうまでもなく、それぞれの時代には、それぞれの記憶装置があったはずであり、ここで問題となるのは、その記憶装置の<近代>性である。 近代の記憶装置を象徴していたのは、明治時代に起こった記憶術の大流行だった。そして、意識的であれ無意識的であれ、さまざまな分野に記憶術の原理が応用され、記憶術の実践を容易にするような道具立ても登場した。たとえば、教育現場では、新しい教授法が導入され、記憶を助けるような、掛け図をはじめとする視覚的な教具が使用された。また、記憶術の基本となる参照系にも変化がみられた。すなわち、五十音配列のリファレンス類の登場や、図書館における新しい分類法の導入、索引システムの開発などである。 <近代>は、文字の配列や分類体系といった参照系の変容と、それと連動したハードウェアの変化、さらには教育を含めた学問体系の変化などがあいまって、大きな<記憶装置>が作りあげられた時代であったといえる。
Gallicchio, Marc ガレッキオ, マーク
終戦後70 年の間に、占領政策が成功だったか否かに対する米国の見解は劇的に変化した。1990 年代以前は、占領政策の成果や意義については学問の対象であり、多くの研究者が占領政策における占領地の民主化の努力不足について指摘した。その最たる例は1980 年代における米国経済の競争相手国としての日本の台頭である。 しかし、冷戦終結後、政策立案者は一般の論者やシンクタンクに影響され、占領政策を米国による国家再建の成功例とみなすようになった。特に日本の例は、非西洋諸国を民主化する米国の手腕を疑問視する懐疑派への反証を示すモデルとして引き合いに出された。議論の批判者側は、日本占領下で起こった特異的かつ再度起こりえない教訓に焦点をあてつつ、そもそも国家再建を国家間で比較することはできないと主張し、反論を試みた。しかし、歴史修正主義の研究者たちのこうした主張は、日本の復興におけるマッカーサーおよび天皇の果たした役割といったテーマについて、それまで自らの研究が導き出してきた結論に矛盾する内容であった。 今日においても、新保守主義の評論家は、米国の行動主義的外交政策を正当化する実例として占領が成功したことを引き合いに出すが、オバマ政権当局者は、占領政策を和解の意義を表す一例として引用することを好む。和解という考え方は、政権がアジア地域の情勢に対応する際の施策として訴求力があると考えられる。
川﨑, 美穏
本稿は、中世末期に成立した『文鑑』(米沢市上杉博物館所蔵「国宝上杉家文書」)を対象に、その成立過程の分明を目指したものである。該書は、室町末期の臨済宗妙心寺派の僧南化玄興(一五三八〜一六〇四)が、戦国大名直江兼続(一五六〇〜一六二〇)の所望により、慶長四年(一五九九)に書き贈ったとされる一書で、米沢に伝わる善本としてその重要性が認識されてきた。具体的には、南化が禅僧策彦周良(一五〇一〜一五七九)の秘本から抄出した助字の解説及び室町末期の禅僧鉄叟景秀(一四九六〜一五八〇)から聞書した内容、そして室町前期の禅僧江西竜派(一三七五〜一四四六)の四六駢儷文の作法の抄出が記される。しかし、『文鑑』の引用母体に関する明確な比定はされてこなかった。このような現状を踏まえ、本稿ではまず、『文鑑』の書誌・識語・筆跡などの基本情報を整理し、ついで直江と南化の接点を確認した上で、本文の抄出元の再検討を行った。その結果、これまで「策彦和尚秘本」から抄出したと示す識語を根拠に、抄出元は『蠡測集』、『策彦和尚筆記』、『策彦四六図』のいずれかではないか、と推想されてきたが、実際には南化が関与した『巻而懐』(東京大学史料編纂所所蔵)、『四六彙解』、『蒲室集鈔』といった本と引用箇所が重なることを明らかにし、地方武家による五山僧の学問継承の実態を解明する上で重要な資料であると位置づけた。
吉田, 安規良 Yoshida, Akira
宮古地区理科教育研究会からの要請を受け,宮古島市立下地小学校第5学年児童を対象に,採択されている理科検定教科書の授業展開・内容に沿った形で「振り子の運動」単元での示範授業を実施した。授業実践は45分の1単位時間分とし,振り子の性質を見いだす実験を主体として展開した。児童の実態をよく把握できないままの実践であったが,数分の時間延長をしたものの授業は予定していた内容を全て実施できた。児童は緊張していたものの概ね高い満足度を得たと授業実践を評価し参観した宮古島市内の教職員の期待にも概ね応えたものとなった。示範受業後の講話での質疑から学習内容を理解させるために必要な振り子の振幅の条例とその理由について,教壇に立つ側が深く理解していないことがわかった。教材研究を下支えする研究の行為そのものを学ぶ機会とその土台になる基礎知識の習得,研究内容を実践し省察する機会をバランス良く編成した教師教育カリキュラムと教科専門としての学問・諸科学・芸術・技術等の内容を学校教育の教育実践の立場から構成した「教科内容学」な部分からも授業研究できる能力の必要性が示唆された。小学校理科専科≒教務主任という沖縄県の実情を踏まえると今後琉球大学に設置される教職大学院の中でも,とりわけ高度な学校マネジメント能力の育成を主体とする専攻では,理科に関する「教科内容学」的なものや特定個別科学の専門性を養う科目を設定し,教材研究を下支えする研究の行為そのものを学ぶ機会の必修化が求められる。
西田, 彰一
戦前の日本において、神道の思想を日本から世界に拡大しようと試みた筧克彦の思想については、現在批判と肯定の両面から研究がなされている。しかし、批判するにせよ評価するにせよ、筧の思想についてはほとんどの場合「神ながらの道」の思想にのみ注目が集まっており、法学者であったはずの筧がなぜ宗教を語るようになったのか、どのような問題意識を持って研究を始めたのかについての研究は殆どない。そこで、本稿では一九〇〇年代における筧の思想を明らかにすることで、その学問の形成過程を明らかにしたい。 そこで、筆者は筧が自由と主体の自覚的な活動(=筧の言葉でいえば「活働」)を重視していたことに注目した。筧克彦の議論の骨子は個人の自由と国家の自由というは互いに対立するものではなく、むしろ個人の自由を認めれば認めるほど、国家への寄与を深めていくようになるというものである。そのため筧の議論を批判するにしても評価するにしても、この論理を解き明かした上でなければならないであろう。 こうして、筆者は主に初期の論文の分析を通して、筧の初発の問題意識と方法論について述べた。そしてこの当時の筧の議論の主張が、①自我の自由の希求への強いこだわり、②自我を拡大していくことによる社会や国家への貢献、③天皇制国家の下での「自由」の実現、④意識の統一体としての宗教に注目したことを明らかにした。
和田, 健 Wada, Ken
本稿では、柳田國男旧蔵考古資料のうち国内で採集したと推測される三点を対象とし、それらを採集するにいたった背景を推認し、柳田の学問的関心と相関させることを目的としたい。この三点の採集時期は一九〇〇年代(以後一九〇〇〜一〇年の範囲を示すために「〇〇年代」と記す)と思われる。〇〇年代は、『遠野物語』『石神問答』『後狩詞記』といったいわゆる柳田初期三部作をめぐる博物学的関心を深化させていった時期と位置づけられる。またあわせて大学卒業、農商務省任官、養嗣子、婚約といった人生のさまざまな転機を経験した時期でもある。対象とした採集遺物三点それぞれに貼られた注記ラベルからは、産業組合関係の全国をめぐる講演旅行の過程や早稲田大学で農政学の講義を持っていた時期での採集と読みとれる。〇〇年代は農政官僚としての仕事と同時に、『石神問答』に見られる山中共古達との三四通の書簡のやりとり、十三塚への興味関心そして樺太旅行での考古遺物の採集を行った時代の中で、この考古資料三点は捉えることができる。〇〇年代は日露戦争、日韓協約と韓国併合への道筋をたどる、日本が外交上大きなうねりの中にあった時期ではあるが、この時期柳田自身は官僚として国外、つまり日本の外側に向けた活動よりも、日本の国内、日本列島に住まう人々とその歴史を考える内側への関心を深めていったともいえる。柳田國男旧蔵考古資料は、〇〇年代当時、青壮年期の柳田が深化させていった博物学的関心の一端を垣間見ることができると評価できるのである。
西本, 豊弘 Nishimoto, Toyohiro
日本では,動物考古学の方法について,やさしく説明したものはない。そこで,ここでは,これから骨の分類を試みようとする学生や研究者を対象として,動物遺体の分類方法とその注意事項をまとめておくこととした。まず,動物遺体の同定の基本となる現生標本の作り方を紹介した。次に,部位・種名・雌雄・年齢の同定方法および,骨の大きさ・骨の病変・骨の損傷・加工の有無など観察すべき項目をあげた。そして,報告の記載をする時に必要な,骨の左右や存在する部分の記録など,データの表示方法にも触れた。最後に同定の方法や採集方法が,動物遺体の解釈に大きく影響することを指摘した。動物考古学の基礎は,骨の同定である。動物の骨を同定する時に必要な「道具」は,現生標本である。それと同時に,その動物が生まれてから老成するまでの骨の形についての「イメージ」を持つことが重要である。そのイメージがきちんと形成されていないと同定ミスが起こることになる。同定ミスは,自分が気がつかずに起こることが多い。同定ミスを防ぐには,自分が確信を持てないものは同定しないという謙虚さが必要である。その点から言えば,動物考古学にとって,もっとも要求されることは,すべての学問と同様に,事実に対する謙虚さである。そして,動物考古学の遂行には,動物考古学者の中だけではなく,他の考古学者との協力が不可欠である。共同研究の上に成り立っているのが動物考古学であると言える。
本康, 宏史 Motoyasu, Hiroshi
近年、戦争記念碑に関して、近代社会を特徴づける「モニュメンタリズム」を表象する「非文献資料」ととらえる研究がすすみ、その学問的意義がしだいに理解されるようになってきた。その際、戦争記念碑は「『癒し』の行為を表す象徴であった」だけでなく、「戦争の歴史化と再歴史化にも重要な役割を果たしてきたものである」という指摘がある。つまり、戦争というものがいかに記憶されるべきか、戦争では誰が記憶されるべきなのか、という問題をめぐって、戦争記念碑はまさに論争の的になってきたのである。本稿では、こうした観点から、まず、石川県における戦争記念碑(戦前期)の全体像を概観。さらに、金沢兼六園の西南戦争戦没者慰霊碑=日本武尊像の建設事情、並びにこれを支えた地域社会の特色について考察を試みた。これに加え、明治後半頃から、かつて城下町の郊外「卯辰山」の招魂社で行われていた招魂祭が、城下中心部の「兼六公園」、とりわけこの「明治紀念之標」(日本武尊像)前において開催されている点にも注目した。以後、金沢の招魂祭は、兼六園周辺で祝祭的に開催されることが常となり、日清戦争前後からは、「招魂祭維持講」をも組織するに至る。一方、慰霊碑――慰霊標――慰霊塔の系譜を意識しつつ、昭和十年代に展開した「忠霊塔」建設運動について、「銃後」社会の形成過程を背景に、その運動の性格、さらに石川県下での実態を(他県との比較を交え)紹介している。
野網, 摩利子
漱石『門』は、記憶との関係で活性化する知性の運動を捉える。 主人公宗助は、友人の安井から御米を奪った。その出来事は小説の現在持から六年前のことである。従来、『門』に対して、前半部の平板な生活から、後半部の宗助による参禅へと展開する唐突さが言われてきた。しかし私は、安井に関する宗助の記憶を、日中の学問史の観点から読みとき、当然の流れであると解明する。 安井に把握されていたと思われる近世から近代にかけての儒教と仏教との緊張関係は、安井が宗助を連れていった千光寺大悲閣に見てとることができる。当時、その寺は、明治政府から「臨在正宗」と名乗ることを禁じられた黄檗宗であった。安井と宗助は黄檗宗の高僧、即非の額の下に横たわりながら、保津川の流れを聞いている。その寺には、近世初頭、禅僧から身を起こして日本の儒学を創始した藤原惺窩による漢詩があり、また、惺窩が保津川の石の号を付け直したことを記す石碑がある。それは「石門関」「鏡石」など、『門』の鍵語となっている。千光寺はもともと建長寺派であり、宗助が鎌倉の寺へ行こうと思い立つのも、この記憶が働いているのである。 安井によって話題にされた「盗人」、惺窩による石の命名に見える「門」、「鏡」などは禅を二分した五祖の後継問題で使われた語である。 宗助ほどの知性の持ち主ならば、参禅後に調べて辿りつける白熱した知性の歴史が、『門』のなかには投入されている。
Kishigami, Nobuhiro
文化人類学者は,さまざまな時代や地域,文化における人類とクジラの諸関係を研究してきた。捕鯨の文化人類学は,基礎的な調査と応用的な調査からなるが,研究者がいかに現代世界と関わりを持っているかを表明することができるフォーラム(場)である。また,研究者は現代の捕鯨を研究することによってグローバル化する世界システムのいくつかの様相を解明し,理解することができる。本稿において筆者は捕鯨についての主要な文化人類学研究およびそれらに関連する調査動向や特徴,諸問題について紹介し,検討を加える。近年では,各地の先住民生存捕鯨や地域捕鯨を例外とすれば,捕鯨に関する文化人類学的研究はあまり行われていない。先住民生存捕鯨研究や地域捕鯨研究では日本人による調査が多数行われているが,基礎的な研究が多い。一方,欧米人による先住民生存捕鯨研究は実践志向の研究が多い。文化人類学が大きく貢献できる研究課題として,(1)人類とクジラの多様な関係の地域的,歴史的な比較,(2)「先住民生存捕鯨」概念の再検討,(3)反捕鯨NGO と捕鯨推進NGO の研究,(4)反捕鯨運動の根底にある社会倫理と動物福祉,およびクジラ観に関する研究,(5)マスメディアのクジラ観やイルカ観への社会的な諸影響,(6)ホエール・ウォッチング観光の研究,(7)鯨類資源の持続可能な利用と管理に関する応用研究,(8)クジラや捕鯨者,環境NGO,政府,国際捕鯨委員会のような諸アクターによって構成される複雑なネットワークシステムに関するポリティカル・エコロジー研究などを提案する。これらの研究によって,文化人類学は学問的にも実践的にも捕鯨研究に貢献できると主張する。
堀内, アニック
寛政11年(1799)刊の『日本山海名産図会』は、近世後期の日本各地の生産の現場を多数の風俗画と細部にわたる説明を通して紹介する貴重な資料として注目されてきた。しかし、同時期に出版されていた「名所図会」類と異なり、研究は必ずしも十分だとはいい難い。その編纂をめぐる複雑な経緯がその理由の一つである。平瀬徹斎によるほぼ同名の『日本山海名物図会』(1754)の続編として企画され、挿画がほぼすべて画工蔀関月(1747–1797)の作であることはわかっていても、その本文の成立事情に関しては多くの疑問が残っている。とりわけ、序文を寄せた木村蒹葭堂(1736–1802)の役割が常に問題にされてきた。本稿では、この問題を解決するまでには至らないにしても、その編纂の理解を深める上でいくつかの示唆を与える。まず、『日本山海名産図会』の序文、跋文、『日本山海名物図会』とのつながり、画工蔀関月の活動等を手がかりに、その編纂の背景に迫る。跋文の著者であり、本書の完成に寄与したと思われる秦(村上)石田なる人物に注目する。次に、「伊丹酒造」「平戸鮪」「伊万里陶器」等の項目を例にとり、その内容が、『本草綱目』(1596)をはじめとする和漢の本草書の系譜に位置すると同時に、明末の『天工開物』(1637)からも多くの示唆を得ているといった学問的系譜を提示する。 また、その絵図の写実性に注目し、本書の編纂の狙いや手法を明らかにする。最後に、従来ほとんど論じられることのなかった杏雨書屋が蔵する写本『平賀源内物産考』と比較検討し、『日本山海名産図会』の編纂過程に関する新たな仮説を付記する。
根津, 朝彦 Nezu, Tomohiko
荒瀬豊(1930年生まれ)の思想をジャーナリズム概念とジャーナリズム史の観点から考察する。そこにはジャーナリズム・ジャーナリズム史を研究する意味はどこにあるのかという問いが含まれる。本研究は,初めてジャーナリズム史研究者である荒瀬豊の思想に焦点をあてたものである。具体的には荒瀬の思想形成,ジャーナリズム論,ジャーナリズム批判を通して検討する。「❶思想形成」では,荒瀬が東京大学新聞研究所において研究者生活を過ごす前史にあたる学生時代と新潟支局の朝日新聞記者時代に彼が「現実と学問をつなぐ」意識をいかに培ってきたのかをたどる。新潟の民謡を論じた「おけさ哲学」の分析とともに荒瀬の問題意識の所在を位置づけた。「❷ジャーナリズム論」では,主に戸坂潤と林香里のジャーナリズム論を参照しながら,荒瀬がジャーナリズムを単にマス・メディアの下位概念として理解するのではなく,両者にある緊張関係を考察したことを重視した。荒瀬がとらえたジャーナリズム概念とは,現実の状況に批判的に向き合う思想性を意味し,ジャーナリズムに固有の批評的役割を掘り下げたことを明らかにした。「❸ジャーナリズム批判」では,荒瀬の歴史上におけるジャーナリズム批判を具体的に検討した。米騒動において「解放のための運動」と新聞人の求める「言論の自由」が切り離さる過程を荒瀬は読み込み,新聞の戦争責任と絡めて「一貫性ある言論の放棄」を見出した。荒瀬の敗戦直後の新聞言説の分析をとらえ返すことで彼のジャーナリズム批判の方法が論理の徹底性にあることを明示した。最後に課題を挙げた上で,民衆思想を潜り抜け,知識人との距離感と諷刺・頓智への感度を有する荒瀬の実践的な批判性が,自己の知識人像とジャーナリズム思想を結びつける原理であったことを提起した。
山下, 有美 Yamashita, Yumi
正倉院文書研究の新しい潮流は,1983年開始の東大の皆川完一ゼミ,それを継承した88年開始の大阪市大の栄原永遠男ゼミ,この2つの大学ゼミの形で始まった。その手法は,正倉院文書の現状を,穂井田忠友以来の「整理」によってできた「断簡」ととらえ,その接続関係を確認・推測して,奈良時代の東大寺写経所にあった時の姿に復原する作業を不可欠とする。その作業によって,正倉院文書は各写経事業ごとの群と,複数の写経事業をまたがる「長大帳簿」に大きく整理されていった。よって,個別写経事業研究は写経所文書の基礎的研究として進められ,その成果は大阪市大の正倉院文書データベースとして結実した。一方,写経事業研究を通して,帳簿論や写経所の内部構造,布施支給方法,そして写経生の生活実態といった多様なテーマに挑んだ研究が次々と発表された。これらの新たに「発見」されたテーマと同時並行的に,古くからの正倉院文書研究を引き継ぐ研究も深化し,写経機構の変遷,東大寺・石山寺・法華寺の造営,写経所の財政,写経生や下級官人の実態,表裏関係からみた写経所文書の伝来,正倉院文書の「整理」などの研究もさかんになった。さらに,古代古文書学に正倉院文書の視点を組み込んだ試みや,仏教史の視点から写経所文書を分析した研究も成果をあげてきた。2000年ごろから,他の学問分野が正倉院文書に注目し,研究環境の整備とともに,特に国語・国文学で研究が進められた。ほかにも考古学,美術史,建築学等の研究者も注目しはじめ,学際的な共同研究が進展しつつある。いまや海外からも注目をあびる正倉院文書は人類の文化遺産であり,今後も多彩な研究成果が大いに期待される。
王, 成
本稿は漱石文学の読者層を解明するために、当時流行していた<修養>思想をめぐる研究の一環である。先行の漱石研究では、<修養>を無視したために、多くの問題が解明されていないのではなかろうかという疑問から始まって、近代における<修養>という言葉がいつ、どのように現れたか、<修養>という概念がいかに解釈されたか、<修養>をめぐる近代日本の言説空間がどのように形成されたか、という課題について、解明しようとしたものである。 本稿では、明治から大正にかけては、教養という言葉より<修養>という言葉のほうがよく使われていたことを明らかにした。中村正直の『西国立志編』(Self-Help)から始まって、自分自身を修練する「自修」的な教育という理念が浸透していった。<修養>は、翻訳語として現れる以前には、漢語の熟語としてはあまり使われていなかった。したがって、<修養>は、古典的な儒教道徳の意味を担った言葉ではなく、近代的な用語として誕生したのである。 伝統的な道徳が崩壊し、新しい道徳の建設のために、個人を中心とした<修養)が、伝統と近代、東洋と西洋とが衝突する時代に、広まっていった。東西の学問を身につけた知識人が、<修養>を近代的な新しい倫理の理念として取り入れたのである。 <修養>の流行に伴って、修養運動が広まり、ベストセラーになった修養書が修養理念を流行させ、定着させた。本稿ではさらに、<修養>の時代に、<修養>提唱者として活躍した人物やその著作を分析し、また修養団体の活動のひろがりの実態を調査することによって、<修養>の広範な広がりを確認した。
島村, 恭則 Shimamura, Takanori
これまでの民俗学において,〈在日朝鮮人〉についての調査研究が行なわれたことは皆無であった。この要因は,民俗学(日本民俗学)が,その研究対象を,少なくとも日本列島上をフィールドとする場合には〈日本国民〉〈日本人〉であるとして,その自明性を疑わなかったところにある。そして,その背景には,日本民俗学が,国民国家イデオロギーと密接な関係を持っていたという経緯が存在していると考えられる。しかし,近代国民国家形成と関わる日本民俗学のイデオロギー性が明らかにされ,また批判されている今日,民俗学がその対象を〈日本国民〉〈日本人〉に限定し,それ以外の,〈在日朝鮮人〉をはじめとするさまざまな人々を研究対象から除外する論理的な根拠は存在しない。本稿では,このことを前提とした上で,民俗学の立場から,〈在日朝鮮人〉の生活文化について,これまで他の学問分野においても扱われることの少なかった事象を中心に,民俗誌的記述を試みた。ここで検討した生活文化は,いずれも現代日本社会におけるピジン・クレオール文化として展開されてきたものであり,また〈在日朝鮮人〉が日本社会で生活してゆくための工夫が随所に凝らされたものとなっていた。この場合,その工夫とは,マイノリティにおける「生きていく方法」「生存の技法」といいうるものである。さらにまた,ここで記述した生活文化は,マジョリティとしての国民文化との関係性を有しながらも,それに完全に同化しているわけではなく,相対的な自律性をもって展開され,かつ日本列島上に確実に根をおろしたものとなっていた。本稿は,多文化主義による民俗学研究の必要性を,こうした具体的生活文化の記述を通して主張しようとしたものである。
内山, 大介
山口弥一郎は明治35 年に福島県旧新鶴村に生まれ,生涯にわたって東北各地をフィールドに調査研究を行った。その山口が近年注目を浴びるようになったきっかけは,平成23年の東日本大震災であった。山口は昭和8年の三陸津波後から三陸を歩き始め,被災地の暮らしや復興のあり方を調べた。その仕事は東日本大震災後に大きく評価され,著書『津浪と村』が復刊されて大きな反響を呼んだ。そのため山口は津波被災地の研究者としてのイメージが浸透しているが,実際には東北をフィールドに生涯を通じて多様な課題に取り組み,独自の成果を挙げている。例えば昭和戦中から戦後にかけての時期は,農村に暮らしながら生活を記録するという参与観察的な調査実践を進め,それは農村の生活改善のための青年教育へと展開した。また長く学校教員として暮らした山口は,学校の授業や課外活動を通じて,若い教え子たちの地域文化への理解や課題を発見する力を養う取り組みを実践した。さらに同僚や後輩たちとともに地域学会を組織し,研究活動やフィールドワークを通じて多様な地域ネットワークの形成にも寄与している。こうした取り組みのなかで山口が常に重視していたのは,フィールドワークである。なかでも自然災害や戦争,過疎,地域開発などといった暮らしの場の危機的な状況に目を向け,地域に横たわるそうした生活課題を多様な学問的アプローチから解こうとした。本論では山口が生涯にわたって取り組んだ主な仕事をテーマごとに取り上げ,その変遷を追うことでフィールド学としての山口の実践の再評価を行う。それは単に学史研究への新たなデータの提供だけを意味しない。災害が多発する今日において,フィールドワークを基礎とした人文学的な研究のあり方を問い直すための作業でもある。
春成, 秀爾 Harunari, Hideji
小林行雄は,1955年に「古墳の発生の歴史的意義」を発表した。伝世鏡と同笵鏡を使い,司祭的首長から政治的首長への発展の図式を提示し,畿内で成立した古墳を各地の首長が自分たちの墓に採用していった意義を追究したのである。この論文は,古墳を大和政権の構造と結びつけた画期的な研究として,考古学史にのこるものと今日,評価をうけている。小林は,この論文で,鏡と司祭者とのかかわりを説明するために,『古事記』・『日本書紀』の神代の巻に出てくる天照大神の詔を引用した。しかし,神の名を意図的に伏せた。この論文以後も,小林は伝世鏡について言及したが,天照大神の言葉を使うことはなかった。1945年の敗戦前には,国民の歴史教育の場では,日本の歴史とは天皇家の祖・天照大神で始まる記紀の記述を歴史的事実とする「皇国史」のことであった。そこには,石器時代に始まる歴史が介在する余地はなく,考古学の研究成果は抹殺されていた。敗戦後,石器時代から始まる日本歴史の教育がおこなわれるようになる。しかし,科学的歴史を否定し,「皇国史」を復活させようとする政治勢力が再び勢いをもりかえしてくる。小林は,敗戦前から,記紀の考古学的研究につよい関心をもち,それに関する論文を書いてきた。けれども,実証を重んじる彼の学問で,実在しなかったはずの天照大神の言葉を引用することは,一つの矛盾である。さらに,神話教育を復活させようとたくらむ勢力に加担することにもなる。小林はそのことに気づいて,伝世鏡の意味づけに天照大神の言葉を用いるのをやめたのではないか。昭和時代前・中期の考古学研究は,皇国史観の重圧下で進められたことを忘れてはならない,と思う。
谷川, 建司
1990年代に東アジアや東南アジアにおいて日本のポピュラー・カルチャーが極めて高い人気を獲得し、パリで第一回「ジャパン・エキスポ」が開催された2000年頃には世の中全体の日本のポピュラー・カルチャーへの視線が熱くなり始めた。一方、1990年代後半からこれを研究対象とする動きが始まり、2000年代に入ってから本格的論考が発表されるようになった。「ポピュラー・カルチャー研究」に含まれるべきジャンルについての捉え方は様々であり、厳密な意味での定義は共有されていないが、様々な学問分野の研究者が集まって一定期間の共同研究を行う形や、単発のワークショップやシンポジウムを開催して議論していく形での日本のポピュラー・カルチャー研究の枠組みも、2000年代に入ってから活発に行われるようになった。個別の研究成果に関しては、トピックによりその研究の蓄積の多寡にはかなり差がある。日文研で2003年から2006年にかけて開催された共同研究会「コマーシャル映像にみる物質文化と情報文化」(代表:山田奨治)は、終了から10年目の2016年にシンポジウムを開催し、自己検証した点で重要な試みだった。2014年度の日文研の共同研究は、全部で16の研究課題のうち実に5つが「ポピュラー・カルチャー」に関するものであり、この分野の研究への関心の高まりと同時に、日文研がその中心地として機能し始めていることを示していると言える。今後の日本のポピュラー・カルチャー研究に必要な点を挙げるならば、(1)作品が生み出され、世の中に流通して受容されていくプロセス全体に目配せし、その様々な場面で関わっている人たちにフォーカスした論考を積み重ねていく必要性、(2)産業論的なアプローチ、表現の自由と規制の問題、国家戦略との関わり、など違った角度からポピュラー・カルチャーをとらえる必要性、そして、(3)個々の領域のポピュラー・カルチャー研究を志向する研究者が共通して利用できる一次資料のデータベース化の促進、が指摘できる。
若曽根, 了太
海外に所蔵される日本関係史料には貴重なものが多くあると想定されるが、具体的な実態は十分に把握されていない。こうした海外所蔵の一次史料を活用することで、国際的視野から新たな日本研究や歴史研究が可能になると考えられる。 本研究ノートでは、タイ国立公文書館所蔵のラーマ五世王期(1868年~1910年)とラーマ六世王期(1910年~1925年)の外務省史料目録から、日本関係史料タイトルを抽出し(外務省史料タイトル全33,465点のうち、日本関係史料タイトル全343点)、タイ語とその日本語訳、年代、分量などを付してリスト化した。その結果、六世王期の史料タイトル数は五世王期に比べて3割ほど増加し、情報収集の体系化や、軍事・経済面での協力関係の進展、王室・皇室に関わる儀礼記録の増加など、日タイ関係の変化の様子が見出せた。また日本の政治や経済、社会、文化など多岐にわたる事柄を反映する史料タイトルの存在が確認できた。 これらは新たな日タイ関係史研究の展開や、海外の史料を用いた国際的な日本研究に向けて有効活用できる。今後の研究では、日タイの史料を突き合わせる「マルチ・アーカイバル・チェック」と公文書史料を多角的に分析する「史料学的アプローチ」を組み合わせ、様々な学問分野の両国研究者による国際的・学際的な共同研究が必要である。 こうした共同研究を通じて両国の研究者は、相互補完的な関係性を構築するとともに、これまでタイ歴史研究の分野で十分に扱われてこなかった一次史料の分析を進めて、19世紀末から20世紀前半の日タイ関係史に関する新たな研究成果を提出し得るだろう。さらにタイの諸分野の研究者も含めた日本の政治や社会、文化に関する史料分析により、東南アジアの視点から捉えた国際日本研究にもつながると想定される。本研究ノートの日本関係史料リストはその出発点となり得ることが期待される。
松田, 睦彦 Matsuda, Mutsuhiko
小稿は柳田国男の1910年代から1930年代の論考を紐解くことによって,当時の「生業」研究の目的と手法を再確認し,その可能性の一端を示そうとするものである。一般的な柳田の民俗の資料分類の理解では,今日の生業に関わる分野は第一部の有形文化に分類され,第三部の心意現象に比して研究の中心とはならなかったとされる。また,農政学に「挫折」した柳田が,農政学との距離を図るために,故意に「生業」研究を矮小化したという意見も見られる。しかし,民俗学成立期の柳田の論考を検証してみると,その理解が改められなければならないことは明白である。柳田は1910年代から農政学を離れ,民俗学という新たな学問の確立に邁進するが,そこでは農政学時代からの「生業」に対する視点が継承され,より同時代的なものへと深化した。その過程は,『都市と農村』等の論考から読み取ることができる。柳田の「生業」研究の眼目は,農民の抱える同時代的な問題を,彼らの今日までの生活の歴史と,彼らが築き上げてきた生活観念の理解を通して解決に導くと同時に,農民たち自身が自己省察するに至らしめることにあった。この目的を果たすためには,官界や学界の指導を上から押し付ける農政学という手法は適さなかった。そこで柳田自身が新たに興したのが民俗学というフィールドであった。つまり,民俗学の成立の一端に,柳田の「生業」へのまなざしの深化が関わっているのである。今日の生業研究と柳田の「生業」研究とは位相を異にするものである。けれども,あるいは,だからこそ,隣接諸分野との協業のなかで発展し続ける今日の生業研究が,民俗学としての論理と理念とを再確認する上で,柳田の「生業」研究から学び得ることは多いはずである。
樋口, 雄彦 Higuchi, Takehiko
維新後、旧幕臣は、徳川家に従い静岡へ移住するか、新政府に仕え朝臣となるか、帰農・帰商するかという選択を迫られた。一方、脱走・抗戦という第四の選択肢を選んだ者もいた。箱館五稜郭で官軍に降伏するまで戦った彼らの中には、洋学系の人材が豊富に含まれていた。榎本武揚ら幹部数名を除き、大多数の箱館戦争降伏人は明治三年(一八七〇)までには謹慎処分を解かれ、静岡藩に帰参する。一部の有能な降伏人は静岡・沼津の藩校等に採用されたが、「人減らし」を余儀なくされていた藩の内情では、ほとんどの者は一代限りの藩士身分と三人扶持という最低の扶持米を保障されることが精一杯であった。勝海舟は、箱館降伏人のうち優れた人物を選び、明治政府へ出仕させたり、他藩へ派遣したりといった方法で、藩外で活用しようとした。降伏人が他藩の教育・軍事の指導者として派遣された事例として、和歌山・津山・名古屋・福井等の諸藩への「御貸人」が知られる。なお、御貸人には、帰参した降伏人を静岡藩が直接派遣した場合と、諸藩に預けられ謹慎生活を送っていた降伏人がそのまま現地で採用された場合とがあった。一方、剣客・志士的資質を有した降伏人の中には、敵として戦った鹿児島藩に率先遊学し、同藩の質実剛健な士風に感化され、静岡藩で新たな教育機関の設立を発起する動きも現れた。人見寧が静岡に設立した集学所がそれで、士風刷新を目指し、文武両道を教えるとともに、他藩士との交遊も重視した。鹿児島藩遊学とそれがもたらした集学所は、藩内と藩内外での横の交流や自己修養を意図したものであり、洋学を通じ藩や国家に役立つ人材を下から上へ吸い上げるべく創られた静岡学問所・沼津兵学校とは全く違う意義をもつものだった。
池上, 良正 Ikegami, Yoshimasa
本稿では,多くの日本人には自明な言葉として受け取られている「死者供養」という実践群をとりあげ,これを理解するためには,生者と死者との間に交わされる身体的実践や,人格表象の関係性に注目した動態的な視座が必要であることを論じた。言い換えれば,西洋近代を特徴づけてきた,霊肉二元論的な人間モデルや,自律的で完結した統一体としての個人といった前提では,十分な理解が難しいのではないか,ということである。プロテスタント的な「宗教」観から強い影響を受けた近代の宗教研究では,つねに存在論的な根拠をもつ「信仰」を明らかにしようとする傾向が強く,「死者供養」と総称される実践も,「死者信仰」「祖先崇拝」などの枠組みによって説明され,実践がもつ積極的な意義を単独に論じるといった発想は乏しかった。具体的な考察としては,まず,沖縄における「死者供養的」な実践を事例として,「実証性」を標榜した従来の研究が,実は「原信仰」「霊魂観」「他界観」といった近代の学問体系の思考方法に強く拘束されていたのではないか,という疑問を提示した。むしろ多くの人々にとって大事なのは,死者の人格と関わるための実践の作法や様式である。さらに,身近な死者を「供養する」という具体的な行為と,近年の精神医学などで注目されている「喪の仕事 mourning work」との類似性に注目し,フロイトにはじまる精神分析学によって論じられてきたmourning論が,近代西欧的な人間観を前提としていたのに対して,東アジア社会に展開した「死者供養」を理解するためには,人格の関係性に焦点を合わせた動態的な枠組みが必要であることを論じた。そこでは,「存在論的な信仰」から,「縁起論的な実践」への視座の転換が重要になる。
相川, 陽一
成田空港の計画・建設・稼働・拡張をめぐって長期にわたって展開されてきた三里塚闘争は,学問分野を問わず,運動が興隆した時期の研究蓄積が薄く,本格的な学術研究は1980年代に開始され,未開拓の領域を多く残している。先行研究を概観すると,歴史学では近年の日本通史において戦後史の巻等に三里塚闘争に関する言及が複数確認でき,高度成長期における諸社会矛盾に異議を申し立てた住民運動の代表例や住民運動と学生運動の合流事例として位置づけられている。近年は,地域住民と支援者の関係に着眼して運動の歴史的推移を論じた研究も発表されている。だが,運動の盛衰と運動展開地域の政治経済構造の変容を関連づけた研究は手薄であり,地域社会の構造的把握と反対運動の歴史的推移の連接関係を明らかにする研究が必要である。そこで,本稿では,三里塚闘争に関する既存研究や既存の調査データの整理と検討を行った後に,空港反対運動の展開による地域社会構造の変容と空港開発の進行による地域社会構造の変容の2視点から,三里塚闘争の歴史的推移を跡づけた。反対運動が実力闘争化する1960年代末には,空港建設をめぐる衝突が繰り返されたが,同時期の運動展開地の議会において反対派が多くの議席を獲得するなど多様な抗議手段が試みられており,空港反対運動の開始以前から農民運動等の経験をもつ住民層が参画した。しかし,1970年代後半からは空港開発の進行とともに交付金や税収増などによる空港城下町化が進行し,地方議会選挙における多数の候補者擁立といった制度的資源を介した抗議が困難化する傾向も認めることができる。地域社会内の政治経済構造の変容をふまえた運動の歴史的推移をまとめた後には,空港建設にかかる利害を直接に共有しないにもかかわらず多数の支援者が参入した経過や支援者の動員構造を明らかにする課題が残されている。
倉石, 忠彦 Kuraishi, Tadahiko
幕内の集落は城下町会津若松の近郊農村である。そのため日常生活においても町と密接にかかわっている。城下町の野菜場と呼ばれ、野菜栽培が盛んであったし、現在でも主要な生産物である。そしてかつては毎朝籠に野菜を入れて城下に売りに行った。明治維新後は町分の田を手に入れ、水田耕作も大いに行うようになった。現在そうした所は住宅地になり、幕内の農家もマンション経営などを行い、生産者としてだけではなく、経営者としての一面をも持つようになった。いずれの時代においても村の外の世界と深くかかわってきたということができる。そのために社会の動きに敏感であり、進取の性格が濃く、学問に対する関心も高かった。そこに『会津農書』などがまとめられる基盤もあった。村の信仰生活においては、新城寺(浄土宗)の果たす役割は大きく、また稲荷信仰も目立つ。二本木稲荷を祀り、屋敷神として稲荷を祀る家も多い。またかつては金毘羅講・古峯ケ原講も盛んであった。そして男性の伊勢参り仲間・女性の会津めぐり仲間は信仰だけではなく、日常生活におけるつきあいの上でも大きな役割を果たした。新しく来た嫁はこの会律めぐりの仲間に入って新たな村の生活を始めた。嫁の披露としては一月十二日の祭文語りの折に盛装して列席することによってもなされたが、その生活は家事だけではなく、野菜の生産と販売などにも大きくかかわった。生活の展開は畑作物の生産が基盤になり、一年中畑の仕事があった。また十日市・エビス講など、町とのかかわりが生活の展開の大きな目安ともなっていた。会津地方という地理的条件はもとよりその生活を大きく規制していたが、それにもまして都市近郊という条件が、幕内の生活を規制しているように思われる。
樋口, 雄彦 Higuchi, Takehiko
大原幽学は、全国を流浪した後、下総国香取郡長部村(千葉県干潟町)に居を定め、産業組合組織による耕地整理・農業技術改良・農作業の計画化・消費物資の共同購入といった方法で、天保期の荒廃した農村を建て直そうとした人物である。利己心を制し勤勉につとめ禁欲的に生活すべしというその主張は、道徳と経済とを統一した実践哲学であり、多くの農民が門人となり教えを奉じた。幽学の思想は、性理学(性学)と呼ばれたが、村を越え広範に広まったその教えは、やがて幕府の嫌疑を受けることとなり、安政五年(一八五八)、幽学は自害する。明治維新をはさみ、性理学は二代目・三代目の教主に引き継がれていった。門人には、大多数を占める下総農民に混ざって、江戸の幕臣、東京・静岡の旧幕臣が加わった。幽学を恩人と慕い、幕府による弾圧の際も支援を惜しまなかった御家人高松家の存在が端緒といえるが、幽学没後同家が性理学から離れていったのに対し、別の幕臣たちの間で性理学が受容されることになった。特に明治十年代、東京在住の旧幕臣男女の間で急速に普及する。彼らの生活ぶりは、丁髷を切らず、肉食はせず、馬車・鉄道には乗らずといった、文明開化の世相に反するものであり、周囲からは隔絶した一種異様なコロニーを形成したようである。反文明・反西洋の態度を取った明治の旧幕臣性理学徒であるが、そのグループの中には、幕末維新期に横浜語学所・沼津兵学校・静岡学問所といった先端的な洋学機関で学び教えた経歴を持つ人物がいた。洋学から性理学へという転向は、彼のいかなる経歴の中に位置づけられるのか。本稿では、主としてその伊藤隼という人物に関する史料を紹介することを通じて、明治の旧幕臣が残した思想遍歴の跡をたどってみたい。
小林, 善帆
本稿は、明治初中期、いけ花、茶の湯が遊芸として捉えられながらも、礼儀作法とともに女子教育として高等女学校に、条件付きで取り入れることを許容された過程を考察するものである。手順としてまず教育法令の変遷を遊芸との関係から確認し、次に跡見学校、私塾に関する教育・学校史資料の再考、続いて欧米人による記録類や、欧米で開催された万国博覧会における紹介内容をもとにして、検討を加えた。 教育法令の変遷と遊芸との関係を見ると、1872年「学制」頒布においていけ花、茶の湯は遊芸と捉えられ、教育にとって有害なものであり不要とされた。このことから茶の湯研究が、1875年跡見学校で学科目として取り入れた、としていることは考え難い。いっぽう、1878年のパリ万国博覧会、1893年のシカゴ万国博覧会において、いけ花や茶の湯が女子教育として位置づけられた。それは1879年のクララ・ホイットニーの日記や1878年のイザベラ・バードの紀行からも窺えることであった。 また改正教育令が公布された1880年、「女大学」に初めていけ花、茶の湯が、余力があれば学ぶべき「遊芸」として取り上げられた。さらに1882年、官立初の女子中等教育機関の学科目「礼節」のなかに取り入れられたことは、いけ花、茶の湯が富国強兵という国策の女性役割の一端を担うことになったといえ、ここで女子の教育として認められたと考える。 そのいっぽうで1899年、高等女学校令の公布においていけ花、茶の湯は学科目及びその細目にも入れられなかった。しかし同年、福沢諭吉は『新女大学』で、いけ花や茶の湯は遊芸であっても、学問とともに女性が取り入れるものと説いた。 そして1903年、高等女学校においていけ花、茶の湯は必要な場合に限り、正科時間外に教授するのは差し支えない、との通牒が出された。遊芸を学校教育で課外といえども教えてよいかの是非が問われ、「必要な場合に限り」「正科時間外」という条件付きで是となったのであった。
海原, 亮 Umihara, Ryo
本稿は、文政二・三年(一八一九・二〇)に刊行された医師名鑑『江戸今世医家人名録』を素材として、巨大都市=江戸に達成された「医療」環境の実態を、蘭方医学普及の動向に即しつつ明らかにしたものである。❶では、『江戸今世医家人名録』の構成と特徴、刊行の目的について考察した。近世期における医師名鑑とは、第一に、都市民衆が医師を選択する最も簡便な手法であった。同書はまた、医師が販売する家伝薬の宣伝・広告機能をも有した。一七七〇年代頃より学問的な体系の面では蘭方医学の興隆がみられたが、臨床の場にそれが流布するまでにはなお時間が必要であった。蘭方医学を由緒とする売薬・治療方法も掲載されたが、その数はわずかなものに止まっている。続いて❷では、『江戸今世医家人名録』に所載された二〇〇〇名におよぶ医師データをもとに、各種の著名蘭学者の門人帳と対照し、その傾向を考察した。今回は、時期も区々な五つの門人帳(土生玄碩・華岡青洲・大槻玄沢・伊東玄朴・坪井信道)に限定し、その結果を網羅的に紹介した。照合作業に際しては名鑑類の史料的性格を考慮し、複数の材料を用いて慎重に判断した。本稿に紹介したデータは、江戸における「医療」環境の実態を解明する基礎的な作業と言えるものである。すなわち、文政期頃の江戸では、蘭方医学の素養を有する医師が活動の場を持ち得る社会的基盤が醸成されはじめていた。本稿の最大の論点は、当時の江戸が抱えていた特殊な社会事情=「医療」環境の独自性の指摘である。それはまず、藩医層の圧倒的存在であった。彼ら藩医の少なくない部分は、実際には藩邸の外に居所を得て、町内で診療活動を展開した。したがって、巨大都市に独特な社会構造や医師たちの存在形態を精確に踏まえてこそ、「医療」環境の特質・蘭方医学受容の背景は、より鮮明に性格規定される。
佐藤, 健二 Sato, Kenji
本稿は近代日本における「民俗学史」を構築するための基礎作業である。学史の構築は、それ自体が「比較」の実践であり、その学問の現在のありようを相対化して再考し、いわば「総体化」ともいうべき立場を模索する契機となる。先行するいくつかの学史記述の歴史認識を対象に、雑誌を含む「刊行物・著作物」や、研究団体への注目が、理念的・実証的にどのように押さえられてきたかを批判的に検討し、「柳田国男中心主義」からの脱却を掲げる試みにおいてもまた、地方雑誌の果たした固有の役割がじつは軽視され、抽象的な「日本民俗学史」に止められてきた事実を明らかにする。そこから、近代日本のそれぞれの地域における、いわゆる「民俗学」「郷土研究」「郷土教育」の受容や成長のしかたの違いという主題を取り出す。糸魚川の郷土研究の歴史は、相馬御風のような文学者の関与を改めて考察すべき論点として加え、また『青木重孝著作集』(現在一五冊刊行)のような、地方で活躍した民俗学者のテクスト共有の地道で貴重な試みがもつ可能性を浮かびあがらせる。また、澤田四郎作を中心とした「大阪民俗談話会」の活動記録は、「場としての民俗学」の分析が、近代日本の民俗学史の研究において必要であることを暗示する。民俗学に対する複数の興味関心が交錯し、多様な特質をもつ研究主体が交流した「場」の分析はまた、理論史としての学史とは異なる、方法史・実践史としての学史認識の重要性という理論的課題をも開くだろう。最後に、歴史記述の一般的な技術としての「年表」の功罪の自覚から、柳田と同時代の歴史家でもあったマルク・ブロックの「起源の問題」をとりあげて、安易な「比較民俗学」への同調のもつ危うさとともに、探索・博捜・蓄積につとめる「博物学」的なアプローチと相補いあう、変数としてのカテゴリーの構成を追究する「代数学」的なアプローチが、民俗学史の研究において求められているという現状認識を掲げる。
林, 正之 Hayashi, Masayuki
柳田國男著作中の考古学に関する箇所の集成をもとに、柳田の考古学に対する考え方の変遷を、五つの画期に整理した。画期(一)(一八九五〜):日本社会の歴史への広い関心から考古学・人類学に参与し、山人や塚等、村落とその境界の問題を探求する。土器・石器や古墳の偏重に反発して次第に考古学から離れ、『郷土研究』誌上で独自の歴史研究を行う。画期(二)(一九一七〜):南洋研究や渡欧を通じて人類学の動向を知り、日本での国際水準の人類学創設を図る。出土人骨研究の独走や「有史以前」ブームを批判し、人類学内での人文系・自然科学系の提携、近現代に及ぶ「有史以外」究明の為の考古学との協力を模索する。画期(三)(一九二九〜):人類学の総合を留保し、一国民俗学確立に傾注する中、考古学の発展を認め、考古学との対照によって、現代の文化複合の比較から民族の文化の変遷過程を抽出する方法論を確立する。戦時下、各植民地の民俗学の提携を唱えるも、考古遺物の分布等から民族間の歴史的連続を安易に想起する傾向を排し、各民族単位の内面生活に即した固有文化の究明を説く。画期(四)(一九四六〜):敗戦原因を解明し、批判力のある国民を創るべく、近現代重視の歴史教育構築に尽力する。登呂遺跡ブームが中世以降の地域史への関心を逸らすことを警戒し、身近な物質文化の変遷から社会分析の基礎を養う教育課程を構想するも挫折する。画期(五)(一九五二〜):自身の学問の挽回を賭け、島の社会環境や大陸の貨幣経済を踏まえた移住動機の総合的モデルに基づき、稲作を核とする集団が、琉球経由で海路日本列島へ渡来したとの説を掲げて、弥生時代の朝鮮半島からの稲作伝来という考古学の通説と対決する。しかし考古学側の知見に十分な反証を出せず、議論は閉塞する。柳田は、生涯に亘って考古学を意識し、批判的に参照する中で、研究の方向を模索した。考古学は、柳田の思想の全貌を照射する対立軸といえる。
内田, 順子 Uchida, Junko
本稿は,映像を資料として集積し,研究に活用するためにはどのようなことが必要であるのかについて,国立歴史民俗博物館(以下「歴博」と略す)で制作されてきた「民俗研究映像」と「民俗文化財映像資料」を例に,現状と課題について述べたものである。はじめに,欧米の民族学的映像アーカイブの概略を記し,映像を用いた民族学研究においては,撮影された映像の集積方法が,映像をどのように撮影・編集するかという問題とともに重要な問題とされていることを述べた。次に,歴博制作の「民俗研究映像」と「民俗文化財映像資料」について,それらの映像の基本的な性格について述べ,ついで,民俗研究映像をとりあげて,映像制作の過程を示す資料を映像とともに残しておくことの重要性について述べた。「ありのまま」に撮りたいという制作者側の「作為」を通して撮られた映像を,「ありのまま」と見做すことは,本質的に再現的(representative)であるという映像の特質から,不可能であると言える。制作者側の作為については,可能な限り,映像制作過程を示す記録として,映像とともに残し,映像を,もとのコンテクストの中で追検証できるようにしておくことが必要である。最後に,歴博で現在試みられている,「民俗研究映像」のデジタルアーカイブ化について言及した。歴博の民俗研究映像の制作では,撮影や編集については,制作を担当した研究者それぞれが工夫を凝らし,様々な試みを行ってきたが,立ち遅れているのは,撮影された映像を資料としてどのように集積し,どのように研究に活用できるのか,という領域の研究である。残された映像の資料化と,それを再活用(分析・再編集・被撮影者へのフィードバックなど)することでどのような学問的可能性が開かれるのかということについては,歴博においては未着手の領域であり,民俗研究映像のデジタルアーカイブ化は,この領域の研究を進めるためのひとつの実験である。
安藤, 広道 Ando, Hiromichi
「水田中心史観批判」は,過去四半世紀における日本史学のひとつのトレンドであった。それは,文化人類学,日本民俗学の問題提起に始まり日本文献史学,考古学へと拡がった,水田稲作中心の歴史や文化の解釈を批判し,畑作を含む他の生業を視野に入れた多面的な歴史の構築を目指す動きである。その論点は多様であるが,一方で日本文化を複数の文化の複合体とし,水田中心の価値体系の確立を律令期以降の国家権力との関係で理解しようとする傾向が強く認められる。そして考古学の縄文文化,弥生文化の研究成果も,その動向に深く関わってきた。しかし,そこで描かれた複数の文化の対立や複合の歴史は,位相の異なる文化概念の混同のうえに構築されたものであり,その土台としての役割を担ってきた縄文文化や弥生文化の農耕をめぐる研究成果も,必ずしも信頼できる資料に基づくものではなかった。文化概念の整理と,農耕関係資料の徹底した資料批判を進めた結果,「水田中心史観批判」が構築してきた歴史は,抜本的な見直しが必要であることが明らかになった。「水田中心史観批判」は,批判的姿勢と視点の多様化が,多面的で厚みのある歴史の構築を可能とし,併せて研究対象資料と分析方法の幅の拡充につながることを示してきた。一方で,文化の概念から個々の観察事実に至る理論に対する議論が充分でなく,「水田中心史観」に対する批判の意識が強すぎたこともあって,研究成果を批判的・内省的に見直す姿勢が弱くなってしまっていた。そのため,視点の多様化の有効性が生かされず,複数の学問分野のもたれ合いのなかで,問題ある歴史が構築されることになったのである。今後は,こうした「水田中心史観批判」の功罪を踏まえ,相互批判と内省を徹底し,より多くの事象を説明し得る広い視野に基づく理論の構築と表裏一体となった歴史研究を進めていく必要がある。
有坂, 道子 Arisaka, Michiko
地域蘭学の展開を考えるにあたり、これまでの在村蘭学研究において都市域を扱った研究が少なかった点をふまえ、本稿では、江戸時代中・後期に大坂で活躍した町人知識人である木村蒹葭堂を取り上げ、蘭学者との交友内容を明らかにすることを通じて、いわゆる「蘭学者」ではない蒹葭堂の、蘭学との関わり方について考察した。蒹葭堂は、造り酒屋を営む商人であったが、文人、蔵書家、文物収集家、本草・博物学者として著名で、きわめて広い交友関係を持っており、交遊の様子は彼の残した日記や取り交わされた書状から読みとることができる。蒹葭堂は当時の大坂を代表する知識人であるとともに、多方面にわたる活動の中に蘭学知識の影響が見られ、蘭学者や蘭学関係者とも交流している。ここでは、大槻玄沢と宇田川玄随が蒹葭堂に宛てて出した書状を素材に、彼らの間でどのような知識や情報が求められたのか、互いをどのように位置づけていたのかについて検討を加えた。大槻玄沢が蒹葭堂に宛てた書状からは、蒹葭堂が玄沢に西洋物産に関する情報やオランダ語を始めとする外国語の訳述を依頼していたこと、一方の玄沢は蒹葭堂の本草・博物学者としての知識を求めていたことが知られる。また、宇田川玄随の書状では、蒹葭堂の卓論や新説に対する期待が示され、蘭学者である彼らに有益な知識を与えうる人物として蒹葭堂を評価していたことが分かる。蒹葭堂は蘭学者としてではなく、博物学者としての求知心を持って蘭学的知識を積極的に吸収しようとし、蘭学者の側も、蒹葭堂のような蘭学に対する学問的好奇心を持つ人々から影響を受けていたと言える。それぞれが得意とする分野の知識を交換することで、知的刺激を受けていたのである。蒹葭堂と同様に、蘭学知識や情報を求める人々は多く存在しており、彼らを含んで蘭学の広がりを考えていく必要がある。
鳥越, 皓之 Torigoe, Hiroyuki
民俗学において,「常民」という概念は,この学問のキー概念であるにもかかわらず,その概念自体が揺れ動くという奇妙な性格を備えた概念である。しかしながら考え直せば,逆にキー概念であるからこそ,民俗学の動向に合わせてこの概念が変わりつづけてきたのだと解釈できるのかもしれない。もしそうならば,このキー概念の変遷を検討することによって,民俗学の特質と将来のあり方について理解できるよいヒントが得られるかもしれない。そのような関心のもとに,本稿において,次の二つの課題を対象とする。一つが「常民」についての学説史的検討であり,もう一つが学説史をふまえてどのような創造的な常民概念があり得るのかという点である。後者の課題は私自身の小さな試みに過ぎないためにそれ自体は一つの主張以上の評価をもつものではない。だが,機会あるごとにこのような方法論レベルの試みを行うことが,民俗学の可能性を広げるものであると信じている。前者の学説史においては,柳田国男の常民の使用例は三つの段階に区切れること,また,神島二郎,竹田聴洲の常民についての卓越した見解の位置づけを本稿でおこなっている。後者の課題については,学説史をふまえて「自然人としての常民」とはなにかという点を検討している。そして常民概念は,集合主体レベル,文化レベルでのみとらえるのではなくて,個別の生存主体としてのワレからはじまり,それが私的世界を越えて公的世界に開かれたときにはじめて集合主体や文化主体として現象すると理解した方がよいのではないかと提案している。つまり民俗学は,一個一個の人間の個別な生存主体を大切にしてきたし,今後もそれを大切なものとみなしていくことが民俗学の方法論的特性だから,常民概念の基本にそれを設定すべきだと指摘しているのである。
島村, 恭則 Shimamura, Takanori
近年,民俗学をとりまく人文・社会科学の世界において,パラダイムの転換が見られるようになっている。それは,たとえば,個人の主体性に重きを置かない構造主義的な人間・社会認識に対する批判と乗り越え,「民族」「文化」「歴史」といった近代西欧に生まれた諸概念の脱構築,他者表象をめぐる政治性や権力構造についての批判的考察の深まりといった動きである。民俗学も,人間を対象に「民族」「文化」を問題としてきた学問であり,こうした動きとは無関係でいられないはずである。しかしながら現実には,このような動向は民俗学において参照されることがほとんどなく,自己完結的な閉じられた言説空間において,個々の研究者が自らの狭いテーマの研究に明け暮れてきたというのが一般的な状況である。本稿では,こうした現状を打破し,新たな民俗学パラダイムの構築へ向けての試論を展開する。具体的には,「標本」としての「民俗」の形式ばかりを問題にし,また論理的,実証的な反省の手続きを伴わずに「民族文化」や「日本文化」といったイデオロギー的言説の生産に向かってきた従来の民俗学に対して,「生身の人間が,自らをとりまく世界に存在するさまざまなものごとを資源として選択,運用しながら自らの生活を構築してゆく方法」としての〈生きる方法〉に注目した新しい民俗学を提唱し,その大要を提示する。民俗学は,「標本」研究を目的とするのでもなければ,「民族文化」や「日本文化」といったイデオロギーの構築に向かうのでもなく,人々の〈生きる方法〉を,現実に生きている人々のあいだにおいて問う学として再生させられるべきであり,この新しい民俗学では,人々の〈生きる方法〉を明らかにすることによって,人間の生のあり方の多様性や,人間の生と環境や社会との関わりについて,従来の人文・社会科学で行なわれてきたものとは異なる解釈を提供することが可能になるものと予測されるものである。
塚本, 學 Tsukamoto, Manabu
文化財ということばは,文化財保護法の制定(1950)以前にもあったが,その普及は,法の制定後であった。はじめその内容は,芸術的価値を中心に理解され,狭義の文化史への歴史研究者の関心の低さも一因となって,歴史研究者の文化財への関心は,一般的には弱かった。だが,考古・民俗資料を中心に,芸術的価値を離れて,過去の人生の痕跡を保存すべき財とみなす感覚が成長し,一方では,経済成長の過程での開発の進行によって失われるものの大きさに対して,その保存を求める運動も伸びてきた。また,文化を,学問・芸術等の狭義の領域のものとだけみるのではなく,生業や衣食住等をふくめた概念として理解する機運も高まった。このなかで,文献以外の史料への重視の姿勢を強めた歴史学の分野でも,民衆の日常生活の歴史への関心とあいまって,文化財保存運動に大きな努力を傾けるうごきが出ている。文化財保護法での文化財定義も,芸術的価値からだけでなく,こうした広義の文化遺産の方向に動いていっている。文化財の概念と,歴史・考古・民俗等の諸学での研究のための素材,すなわち史料の概念とは次第に接近し,そのことが諸学の共同の場を考える上でも役割を演ずるかにみえる。だが,文化財を,継承さるべき文化の産物とだけみなすなら,反省の学としての歴史学とは両立できない。過去の人生は,現代に,よいものだけを残したわけではない。たとえば戦争の痕跡のように,私たちが継承すべきではないが,忘れるべきでないものは少なくない。すぐれた芸術品と理解される作品のなかにも,ある時代の屈辱の歴史が秘められていたり,新しい芸術創造の試みを抑圧する役割を担った例があること等を思いあわせて,継承さるべきでない文化の所産もまた文化財であるというみかたが必要である。歴史博物館の展示でも,この点が考えられねばならない。
姜, 海守
本稿は、日本を代表する李退渓研究者であった阿部吉雄が、京城帝国大学助教授時代に刊行した〈日本教育先哲叢書〉の第23 巻(最終巻)『李退渓』(1944 年)を執筆するに至るまでの、近代日本における李退渓研究の歩みを思想史的側面から考察したものである。そのための分析対象としたのは明治時代以後の「崎門(山崎闇斎学派)および「熊本実学派」の李退渓をめぐる議論である。『李退渓』には、学問の系統が異なる「崎門」の李退渓論と「熊本実学派」のそれが全体的に結びつけられたような語りがみられる。そうした両学派が統合された李退渓論は、すでに1940 年、肥前平戸藩の儒者楠本碩水の門人岡直養(なおかい)が訂補・刊行した『崎門学脈系譜』の岡直養編録「崎門学脈系譜付録一」にみられる。まさにここに、山崎闇斎および元田永孚(ながざねの両者がともに李退渓から影響を受けたという李退渓研究の端緒が見えてくるのである。 本論文は、1940 年代の李退渓言説を、主に「道義」という鍵概念から捉える試みである。本研究によって明らかになったことは、明治時代の李退渓言説を「道義」という観点から捉えることは難しく、また、それが1940 年代以降の李退渓言説とも連続しないということである。明確なかたちで「道義」という視点から李退渓を論じる阿部の『李退渓』の登場は、必ずしも李退渓言説に限らず、その前後の帝国日本および植民地朝鮮における多様な言説空間の変化に繫がりをもつものであった。阿部は『李退渓』において、李退渓を「半島に於ける道学の教祖、道義哲学の創唱者」と捉えながらも、山崎闇斎および元田永孚の「道義思想」を李退渓のそれとの関わりで論じているが、特に山崎闇斎の思想を「道義」的な観点から照明しようとする阿部の立場は、すでに1939 年の論考に表れている。 本稿では、このように、明治期以降の「崎門」における李退渓論、および主に「教育勅語」の文脈において語り始められた「熊本実学派」と李退渓との関係をめぐる議論について考察している。
佐野, 真由子
本稿は、安永七(一七七八)年から安政六(一八五九)年までを生きた幕臣筒井政憲に光を当て、幕末期の対外政策論争におけるその役割を考察するとともに、とくに後半において、そこに至る筒井の経験の蓄積を検討の対象とする。 今日、筒井の名が知られるのは、嘉永六(一八五三)年から翌年にわたり日露和親条約交渉にかかわったこと、弘化年間(一八四九年代半ば)に老中阿部正弘の対外顧問的な立場に登用されたこと、また、それ以前に江戸町奉行として高い評判を得たという事績程度であろう。本稿では、安政三(一八五六)年に下田に着任した初代米国総領事ハリスの江戸出府要求が、翌年にかけて幕府の一大議案となった経緯、その中で、幕府の最終的な出府許諾に重大な影響を与えたと考えられる筒井の議論に着目する。そこで示された筒井の論理は、日米関係の開始を、徳川幕府がその歴史を通じて維持してきた日朝関係の延長線上に整理する、すぐれて特異なものであった。 これは筒井が満七十八歳から七十九歳を迎える時期のことであり、長い職業生活の集大成と位置づけることができる。この地点からその人生をたどり直すとき、見えてくるのは、若き日からのさまざまな経験が、筒井という一人の人間の中に豊かに蓄積され、上記のハリス出府問題への態度に結実していく様である。具体的には、昌平坂学問所の優秀な卒業生として、文化八(一八一九)年の朝鮮通信使迎接のため対馬に赴く林大学頭の留守を預かった青年期から、日蘭貿易を拡大し、オランダ商館員らとの交流を深めた長崎奉行時代、そして、新たに「外国」として登場した欧米への対応と、幕末まで継続した朝鮮通信使来聘御用との双方にまたがる、幕府の対外政策形成に深く携わった最終的なキャリアまでを順に取り上げ、ハリス来日の時期に戻ることになる。 筒井の歩みは、「近世日朝関係史」「幕末の対欧米外交史」といった後世の研究上の区分を架橋し、徳川政権下において自然に存在したはずの、国際関係の連続性を体現するものと言うことができよう。
鈴木, 正崇 Suzuki, Masataka
伝承という概念は日本民俗学の中核にあって,学問の成立の根拠になってきた。本論文は,広島県の比婆荒神神楽を事例として伝承の在り方を考察し,「伝承を持続させるものとは何か」について検討する。この神楽は,荒神を主神として,数戸から数十戸の「名」を単位として行われ,13年や33年に1度,「大神楽」を奉納する。「大神楽」は古くは4日にわたって行われ,最後に神がかりがあった。外部者を排除して地元の人々の願いを叶えることを目的とする神楽で秘儀性が強かった。本論文は,筆者が1977年から現在に至るまで,断続的に関わってきた東城町と西城町(現在は庄原市)での大神楽の変遷を考察し,長いサイクルの神楽の伝承の持続がなぜ可能になったのかを,連続性と非連続性,変化の過程を追いつつ,伝承の実態に迫る。神楽が大きく変化する契機となったのは,1960年代に始まった文化財指定であった。今まで何気なく演じていた神楽が,外部の評価を受けることで,次第に「見られる」ことを意識し始めるようになり,民俗学者の調査や研究の成果が地域に還元されるようになった。荒神神楽は秘儀性の高いものであったが,ひとたび外部からの拝観を許すと,記念行事,記録作成,保存事業などの外部の介入を容易にさせ,行政や公益財団の主催による記録化や現地公開の動きが加速する。かくして口頭伝承や身体技法が,文字で記録されてテクスト化され,映像にとられて固定化される。資料は「資源」として流用されて新たな解釈を生み出し,映像では新たな作品に変貌し,誤解を生じる事態も起こってきた。特に神楽の場合は,文字記録と写真と映像が意味づけと加工を加えていく傾向が強く,文脈から離れて舞台化され,行政や教育などに利用される頻度も高い。しかし,そのことが伝承を持続させる原動力になる場合もある。伝承をめぐる複雑な動きを,民俗学者の介在と文化財指定,映像の流用に関連付けて検討し理論化を目指す。
Yokoyama, Hiroko 中根, 千枝 関本, 照夫 伊藤, 亜人 清水, 展
矢内原, 忠雄
記述は29頁まで、表紙の一部が破れている。
安次富, 哲雄 宮里, 節子 徳田, 博人 徳本, 穣
福田, 豊彦 Fukuda, Toyohiko
中世の東国には、鉄の加工に関する断片的な史料はあっても、鉄の生産(製錬)を示す証拠はなく、そこには学問的な混乱も認められる。しかし古代に関しては、律令・格式や風土記・和名類聚抄などを始め、鉄の生産と利用に関する文字史料は少なくないし、考古学的な遺跡と出土遺物にも恵まれている。そして何よりも、鉄生産では既に永い歴史をもつ大陸の状況を参考にすることができる。一方、近世になると、中国山地と奥羽山地の鉄山師の記録を始め、直接的な鉄生産の記録も少なくないし、流通・加工の関係史料にも恵まれ、本草家などの辞典的な記述も残されている。中世でも西日本に関しては、断片的ではあるが荘園関係史料によって生産と流通の大要を把握できるし、近年は考古学的に確実な生産遺跡も発掘され、文書史料との関係も推察されるようになってきた。しかし東国に関しては、鉄の生産方法を示す史料もない。また考古学的な発掘遺跡にも確実なものはなく、鉄生産(鉄製錬)の遺跡か鋼精錬の遺跡かについて、その性格評価が分かれているものもある。そこで本稿では、資料的に豊かな近世史料によって、市場に流通していた鉄の名称と種別を調べ、その鉄の生産方法を検討し、それを過去に遡って中世の鉄の生産と加工技術を推定しようとした。その結果、次の諸点をおおよそ明らかにできた。① 市場に流通した鉄の種類に関しては、近世の前期と後期で多少の変化が認められるが、炭素量の多い鋳物用の「銑(せん)」と、炭素量のごく少ない「熟鉄(じゆくてつ)」が基本であった。刃物生産に使われる「釼(はがね)」が、商品として市場に流通するのは江戸時代も後期以降のようで、中世の釼製造技術は、当時の刃物鍛冶の職掌に属していたものと推察される。② 近世後期、宝暦年間と伝えられる大銅(おおどう)の発明以後には、直接製鋼を主とするいわゆる「鉧(けら)押技法」が登場するが、それ以前は銑鉄生産を主とする技法が主流で、わが国でも二段階製鋼法が一般的に行われていた。③ しかし『和漢三才図会』や『箋注倭妙類聚抄』の記述によると、この銑鉄生産の技法では、銑鉄の他に熟鉄が生産され、これが「鉧(けら)」と呼ばれていた。以上のような近世初期の鉄の生産と流通・加工の方式は、中世にもほぼ適用できるであろう。
矢内原, 忠雄
記述は5枚目まで。枚数のカウントには表紙裏表紙も含む。[]内は本ノート最初の記述。
鍾, 以江 南谷, 覺正
本論は、この二十年間、日本のみならず世界全体に深甚な変化を及ぼしてきたグローバリゼーションという世界史的潮流の中で、それまである意味で政治的、国家的利害に拘束されてきた日本研究が、今後グローバルな知識生産の体系の一つとして脱皮し、新しい意義を持つ可能性を探ったものである。 最初に、日本の内外におけるこれまでの日本研究を、十八世紀のヨーロッパに起源を持つ人文学の伝統を汲む近代的知識生産の一部として位置づけ、その人文的伝統の中に、二つのテンション――人文―国家のネクサス(連鎖)と、フマニタス―アントロポスの対立構図――が内在していたことを指摘し、それらを批判的に考察した。両者とも誕生の時から、世界に伝播する歴史的ダイナミズムを持つ人文的知識生産を伴っていた。 第一のテンションは、人間全般についての普遍的な学問としての人文学と、国民国家に仕える性格の人文学の間のものである。普遍的人間性の理想は、世界各地での近代的知識生産を可能にしたが、同時にそれは、固有性を主張する排他的な国民国家の枠組みのなかで遂行されてきた。普遍的な人文学と国民国家は相互依存関係にあった。 第二のテンションにおいても、知る主体、知識生産の主体としての西洋のフマニタス的自己認識と、知られるべき他者としての非西洋のアントロポス的認識は相互依存関係にある。フマニタス―アントロポスの対立構図は、ヨーロッパによる世界の植民地化と手に手を携えて進んだ近代の知識生産の一つの構造的な認識原理となる。 しかしグローバリゼーションが進むにつれ、近代の人文的知識生産の二つのテンションを支えてきた歴史的条件は幾つかの面において変わりつつある。グローバリゼーションが起こってきた一つの理由は非西洋世界の台頭にあるが、それによって西洋―非西洋の認識論的・文化的境界が崩されるようになり、それまで強固に根を張っていた分離と差別の形式が緩み始めている(また違った形の不平等と区別が生まれつつあるのだが……)。このような歴史変化を起こしているグローバリゼーションの諸力を深く認識する上で、世界中の人文学を閉塞させてきたフマニタス―アントロポス、および国民国家の枠組みを問題化できるのではないか。 われわれの思考と想像力の地平を限ってきた二つの枠組みは、おそらくそれを完全に解体することは難しいが、その呪縛を幾分でも解消することができれば、国民国家が相対化される中に新しい人文学研究のヴィジョンが生まれてくるだろう。大学教育・学界が世界的に繫がりを強めつつある今日の潮流の中で、日本研究も同様にトランスナショナルな変貌を遂げつつあり、そこから新しい意識が芽生えてくる可能性がある。それは、世界史的なグローバリゼーションの流れのなかに自己を定位し、その流れをどの方向に向けるべきかを考えながら、自己の限られた力を賢明に使おうとする意識である。日本研究についても、ある種のグローバルな人文学研究を想定し、そのなかで「日本」を主体に、客体に、あるいは背景的知識にしながら研究を遂行し、新しい人文学研究の創成に資するのが望ましい姿ではなかろうか。
木村, 汎
本論文は、厳密にいえば、「研究ノート」に分類されるべき内容を含んでいる。というのは、「交渉(negotiation)」の研究は、わが国ではなぜか学問的市民権を十分獲得するにいたっていないからである。交渉というと、なにか商店の軒先きで大根やみかんを値引きしたり、労使の間で相手側を罵倒せんばかりにして賃金交渉を己れに有利に導こうとする胡散臭い行為と見なされている。ところが、欧米諸国では、事情は異なる。交渉は、極端にいえば、権力関係と同じく、人間が二人いるところに必ず発生するといってよい紛争や対立を、平和的に解決しようとする重要な人間行為の一つとして、学術的な研究対象とされてきている。その意味において、交渉研究において先輩である欧米の学説をまずなるべく公平かつ忠実に紹介することに意を用いた点において、本論文は「研究ノート」と見なされるべきである。 しかし、他方、欧米学界における諸説を紹介するといっても、その問題点の選択の方法や整理の仕方において、筆者の主観的な好みが混入してくるのは不可避である。そればかりではなく、種々の学説に対する最終的評価等において、筆者は自己の価値判断を示した。その意味においては、本論文は、良くも悪しくもたんなる「研究ノート」の域を超える内容となっている。 ともあれ、筆者は、序論において、冷戦終了後の今日、紛争の平和的な解決を目指す交渉の意義と出番が増大したとの基本認識を示し、その理由をさらに具体的に説明した。 「交渉とは何か?」と題する第一章においては、まず「交渉」とその類似概念である「外交」や「取引」との差異を検討した後、次いで真正面から交渉の定義そのものを下した。引続いて、交渉の構成要因を説明し、さらに様々な角度から交渉の種類を記した。 第二章「交渉をどう見るか」においては、交渉に対する二大アプローチの紹介を試みた。一は、「芸術(アート)」、二は「科学(サイエンス)」と見る見方である。両アプローチの特徴及び夫々の長短を論じた後、筆者は両アプローチを併用する第三のアプローチ、すなわち「芸術プラス科学」と見る見解を提唱した。 第三章では、文化と交渉との関連に真正面から取組んでいる。まず「文化」の定義、機能、種類について論じた後、いよいよ文化が交渉に及ぼす影響の検討に移った。この問題にかんしては、対立する二説がある。一は文化「懐疑論」、二は同「重視論」である。筆者は、その各々とその根拠を紹介した後、自らは第三説としての「折衷論」の立場に立つとの立場を明らかにして、その理由を述べた。交渉に対する文化の影響を過大にも過小にも評価しない立場にたつとともに、類似あるいは異なる文化に属する人々の間の交渉において文化が果たす役割ないし影響の程度や仕方についても、論じている。本論文は、最後に異文化交渉を成功裡に進める方法についても一言して、終了している。
樋口, 雄彦 Higuchi, Takehiko
近代化を目指し幕府によって進められた軍制改革は維新により頓挫するが、ある部分については後身である静岡藩に継承された。士官教育のための学校設立という課題が、沼津兵学校として静岡藩で結実したのは、まさに幕府軍制改革の延長上に生まれた成果であった。その一方、軍制のみならず家臣団そのものの大規模な再編を伴った新藩の誕生は、幕府が最後まで解決できなかった大きな矛盾である寄合・小普請という無役の旗本・御家人の整理を前提になされなければならなかった。静岡藩の当初の目論見は、家臣数を五〇〇〇人程度にスリム化し、なおかつ兵士は土着・自活させるというものであった。しかし、必要な人材だけを精選し家臣として残すという、新藩にとってのみ都合のよい改革は不可能であった。実際には無禄覚悟の移住希望者が多く、家臣数を抑えることはできなかった。移住者全員に最低限の扶持米を支給することとし、勤番組という名の新たな無役者集団が編成されたのである。静岡藩の勤番組は幕府時代の寄合・小普請とほぼ同じものと見なすこともできる。しかし、すでに幕末段階において寄合・小普請制度には数次にわたり改革の手が加えられ、変化が生じていた。本稿では、主として一人の旗本が残した史料によったため、彼の履歴に沿って具体的に言えば、小普請支配組→軍艦奉行支配組→海軍奉行並支配組→留守居支配組→御用人支配組といった流れになる。もちろん、彼とは違う小普請のその後のコースには、講武所奉行支配組、陸軍奉行並支配組などがあった。静岡藩勤番組はこのような過程の果てに誕生したのである。小普請改編は、文久期の陸海軍創設から幕府瓦解前までは、軍備拡張の一環として推進された。そのねらいは、無役・非勤者を再教育・再訓練し、その中からできるだけ実戦に役立つ人材を確保しようというものであった。鳥羽・伏見敗戦後から駿河移住までの間は、軍事目的というよりも徳川家の再生に向けた取り組みの一環であった。従来からの小普請に加え、廃止された役職からの膨大な転入者の受け皿になったほか、逆に朝臣になる者や帰農・帰商を希望する者を切り離すための作業もこの部署が行った。このような系譜の上にできあがった静岡藩の勤番組は、決してかつての寄合・小普請制度ではなかった。勤番組には旧高三〇〇〇石以上の一等、御目見以上の二等、以下の三等といった等級が設けられ、支給される扶持米も旧高に対応し多寡が決定されていたが、上に大きく下に小さく削られた結果、全体としては低レベルで平準化されていた。藩の官僚制度は役職とそれに対応した俸金にもとづく序列が基本となっており、幕府時代の身分・格式はほぼ解消された形になっていた。負の遺産たる無役家臣集団は、静岡藩でも温存されたが、在勤(役職者)と非勤(無役者)という二分は、幕府時代に比べるとより流動性の高いものとなっていたはずである。能力さえあれば職務に就くことができる可能性を文武の学校(静岡学問所・沼津兵学校)への進学が保証したからである。勤番組という処遇は、原理上、越えられない壁ではなくなっていた。ただし、藩が存続したわずかな期間ではそれを実証することはできなかったが。
西槇, 偉
本論は中井宗太郎(一八七九―一九八六)著『近代芸術概論』(一九二二)と豊子愷(一八九八―一九七五)による中国語抄訳『近代芸術綱要』(一九三四)を比較検討することにより、民国期の西洋美術受容と日本との関わりや、共通する特徴を明らかにしようとするものである。 中井宗太郎はその『近代芸術概論』において、人格を芸術創作の基準に西洋近代画家を論じた。彼によれば、西洋近代絵画は優れた人格を持った画家達によって発展を遂げてきた。中井は取り上げるすべての画家の人格に言及し、強調している。ドラクロワは想像力に富み、情熱的であり、ドーミエ、ミレー、ギースもそれぞれ突出した人格の持ち主である。クールベは過去の伝統や模倣という技法に反発し、その性格は革命的である。印象派画家のドガは人嫌いで、孤独な人間であった。 さらにセザンヌは近代芸術の分水嶺となる人物だが、彼は自然に霊感を得て作品制作をした。中井は彼を山野に隠棲する東洋的な隠者と見なした。ゴッホに至っては、中井には「東洋的な禅僧」と映った。これらの画家には往々にして商業に対する嫌悪感が見られ、それも人格の高さを強調する働きをした。ドガは商人を嫌い、セザンヌも名誉には無関心であった。 以上のような画家像はむしろ東洋的なものだといえよう。東洋で重んじられた文人画家は、学問や道徳にすぐれ、自然に親しむ宗教者も多かった。彼らは職業画家ではないので、絵を売ることには執着しなかった。 西洋近代画家のイメージが東洋的になったばかりでなく、彼らの芸術理念、美学もまた東洋に近づいた、と中井は主張した。セザンヌやゴッホの芸術には主観的な傾向が見られ、彼らの芸術は主観と客観の融合を通して、宇宙自然に流れる生命のリズムを表出している、と中井は西洋近代表現主義と東洋古来の表現主義精神を同一のものと見なした。自然に憧れ、タヒチに逃れるゴーギャンの作品にも自然と人間の一体感が表現されており、それはある意味では東洋表現主義手法によるものでもある。 なぜ東西の表現主義が同一視されたのだろうか。 東洋と西洋の差異が強く意識されていた当時、東西の価値観はよく対立したものと受け取られた。西洋の衝撃を受け、価値観の取捨選択を迫られた矢先に、西洋近代芸術が日本などの影響を受け、変貌を遂げたことが注目され、西洋画が東洋風になった、と受け取られた。作品からも美学においても東洋に近づいたということは、東洋的価値観の再評価ということであり、西洋に対抗できる価値観を自らの伝統のうちに発見したということである。 同じように西洋に対峙していた中国は日本と同様、対抗する価値観を必要としていた。翻訳者の豊子愷は中国に西洋美術を紹介していた。彼は中井の理論をほぼ完全に受け入れた。そのうえ、西洋が東洋に近づいたことを根拠に、東洋あるいは東洋の代表である中国の優越を主張した。彼の「中国美術優位論」(一九三〇)の根が日本にあった。 原作と抄訳の違いは二つある。一つはルノワールをめぐり、評価が分かれ、豊子愷はルノワールの商業的姿勢を批判し、裸体画を描くことについても高くは評価しなかった。もう一つの違いは、中井が西洋に対する日本の影響を強調するが、抄訳ではそこに中国が付け加えられたことである。それは中国の優位を示すのに必要だったからである。 西洋近代表現主義は、自然を超えようとするもので、かつての東洋表現主義は自然との一体化を目指したものだった。双方はかなり異なる。違いを無視した同一視は性急であった。それは外来文化に対して示された反応の一典型ともいえる。異文化に自らの文化と共通する要素を発見し、それを同一視しようとする意志が働きがちである。中井に見られるように、日本の西洋美術受容には文学者などによる、画家や美術をめぐる文献記述、言説の需要が重視され先行していた、という特徴がある。そうした特徴が豊子愷においてさらに顕著になったといえる。
山本, 和明 YAMAMOTO, Kazuaki
DOI(ディー・オー・アイ)って何:Digital Object Identifier の略。恒久的にデジタル情報を特定できる、国際的な識別子、それがDOIです。対象は、書籍や論文にとどまらず、研究データ、さらに映画やテレビ番組などの情報資産にも、広がり続けています。インターネット上にあるデジタルコンテンツの所在情報は、一般的にURLによって示されています。しかしページやコンテンツの場所などが変わるたびにURLも変更になり、わずか数年で、対象のサイトに行き着けないということがしばしば。そこで、デジタルコンテンツへの永続的なアクセスを実現するため考案されたのが、DOIです。日本では、大学図書館や国立情報学研究所、国立国会図書館が古典籍のデジタル画像へのDOI付与に先進的に取り組んでいます。国立国会図書館では、博士論文(14万件)等への付与に加えて、2015年2月から、約9万件の古典籍画像にもDOIが付与されました。DOIは、いま研究者が知っておくべき識別子なのです。