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有富, 純也 Aritomi, Junya
本稿は、神社社殿の成立時期について、律令国家との関係に注目しながら検討し、また、摂関期の国家と神社の関係についても論及するものである。
伊集院, 葉子
政治空間という概念は幅広いが、本稿では、国家意志の決定・執行及び、国家意志が形成される「場」を政治空間と定義し、そのなかでも朝儀に焦点をしぼって国家意志形成過程への女性の参画を考察したい。
広瀬, 和雄 Hirose, Kazuo
西日本各地の首長同盟が急速に東日本各地へも拡大し,やがて大王を中心とした畿内有力首長層は,各地の「反乱」を制圧しながら強大化し,中央集権化への歩みをはじめる。地方首長層はかつての同盟から服属へと隷属の途をたどって,律令国家へと社会は発展していく,というのが古墳時代にたいする一般的な理解である。そこには,古墳時代は律令国家の前史で古代国家の形成過程にすぎない,古墳時代が順調に発展して律令国家が成立した,というような通説が根底に横たわっている。さらには律令国家の時代が文明で,古墳時代は未熟な政治システムの社会である,といった<未開―文明史観>的な歴史観が強力に作用している。
神戸, 航介 Kanbe, Kōsuke
本稿は日本古代国家の租税免除制度について、法制・実例の両面から検討することにより、律令国家の民衆支配の特質とその展開過程を明らかにすることを目指した。
稲村, 務 Inamura, Tsutomu
主として紅河州の土司遺跡の調査資料とラオスの調査資料を示した。中国南部を中心に近代国家以前の政体をこれまでの東南アジアの政体モデルの検討を通じて、特にJ.スコットの所論を基に、「盆地国家連合」「山稜交易国家」という理念型でとらえなおした。これまで静態的に捉えられてきたハニとアカの文化を「切れながら繋がる統治されないための術」と解釈しなおすことを通じて両者を架橋する新しい山地民像を提示した。
三河, 雅弘 Mikawa, Masahiro
本稿は、八世紀以前に成立した寺領の八世紀における実態を解明し、さらに、それと国家による土地把握との関係を検討したものである。
小口, 雅史 Oguchi, Masashi
斉明紀に見える「渡嶋」が具体的にどの地域を指すのかという問題の解明は、日本古代国家における一大転機であった大化改新後の初期律令国家の形成過程や、当時の国際関係を考える上できわめて重要な問題であって、早く江戸時代から学者の注目を集めてきた。
秋沢, 美枝子 山田, 奨治
ドイツ人哲学者オイゲン・ヘリゲル(一八八四~一九五五)がナチ時代に書いた、「国家社会主義と哲学」(一九三五)、「サムライのエトス」(一九四四)の全訳と改題である。
磐下, 徹
本ノートは、年官を古代国家の人事権の一つとして考察することを目的としたものである。
阿部, 義平 Abe, Gihei
日本列島中央部に形成された倭国は日本とよぶ中央集権国家に発展していくが,その過程で同一の国家でありながら10余の京――都城を形成し,変遷を重ねた。その内には条坊式の方格地割をもつ都城が5例ある。これらは中国の都城を制度として継受して造られた。ではそれ以外の都城はどんな実態で,都城全体はどう形成されてきたのか。条坊式都城より非条坊式都城が先行して出現するだけでなく,併行して営まれたものもある。非条坊式都城は副次的に把えられてきたが,かえって国家権力の本質や日本での都市の骨格を示すとみることもできると考える。
吉田, 亮
海外宣教師の伝道活動は、国家や地域の再編や、複数国家や地域間のヒトの移動によって複数国家や地域にまたがることがある。海外移民伝道は典型例である。移民伝道に従事した宣教師の活動は「一国史」研究の枠を取り払った「越境史」的手法でのみ解明できる。一九世紀末期にアメリカン・ボード日本ミッション宣教師が展開したハワイ日本人移民伝道は、まさに「越境」伝道と呼べるものであった。「越境」伝道は日本ミッションの伝道地を「脱領土化」してハワイにまで広げるだけでなく、国家に付随する一元的な政治的、文化的忠誠心に挑戦し、宣教師のアイデンティティを複合化した。また、移民という「越境」行動はハワイと日本間の宣教師ネットワークと、ハワイとカリフォルニア間の日本人ネットワーク形成の要因となり、複数ネットワークが交錯することで双方を補強した。最後に、「越境」伝道はハワイアン・ボード、日本ミッションおよび日本組合基督教会の伝道史や、その背後にあるハワイおよび日本の政治文化史にも関与した。
林部, 均 Hayashibe, Hitoshi
郡山遺跡は宮城県仙台市に位置する飛鳥時代中ごろから奈良時代前半の地方官衙遺跡である。多賀城は宮城県多賀城市に所在する奈良時代から平安時代にかけての地方官衙遺跡である。郡山遺跡は仙台平野の中央,多賀城は仙台平野の北端に位置している。ともにヤマト王権,もしくは律令国家の支配に従わない蝦夷の領域に接する,いわば国家の最前線に置かれた地方官衙であった。
柏岡, 富英
前回の議論(「『言いわけ』の比較文化論(一)―序説」、『日本研究』第4集、一九九一年三月)では、特定の社会状況の中で行為を発動したり思いとどまったりするメカニズムとしての「言いわけ」を、ミクロのレベルで(個人行為者を単位として)考察した。今回は、その図式をマクロ(集団)レベルにも応用できるかを、民族集団ないし民族運動に即して考える。「民族」は「国民国家」という枠組ないしイデオロギーを前提として生じる近代特有の社会・政治現象である。人間社会の「本性」としてもともとそなわっていた「民族性」がついに開花した結果として近代的国民国家が生み出されたのではなく、近代的国民国家が「民族自律」という「言いわけ」に正当性を与えたのである。
武廣, 亮平 Takehiro, Ryohei
八世紀に成立した日本の律令国家は、列島内における未服属集団である「蝦夷」を夷狄身分として位置付け、また現在残されている史料も「蝦夷」をこのような理念的な立場から捉えているものが多い。しかしその一方で「蝦夷」という人間集団に対する認識も一定であったとは考えられず、国家によって実際に行なわれる「蝦夷」政策とその展開の中で、「蝦夷」認識も変化していったと思われる。
片桐, 圭子
ペリー提督が、それまで200年間鎖国を続けていた我々の国、日本を訪れ、そのドアを叩いたとき、『ニューヨーク・タイムズ』はすでに日本を見つめるための窓を大きく開いていた。(同紙は、日本国内のあらゆることに関心を持っており、)今、我々はその記事から、史実を知るのみではなく、わが国にたいする同紙の考え方をも読み取ることができる。当時、近代国家・国際国家へと変わろうとしていた日本にたいする認識を、である。
一ノ瀬, 俊也 Ichinose, Toshiya
本稿では、日露戦後の民間において活発化した軍事救護―国家主体論、兵役税導入論の論理、意図の検証を行う。あえてそのような作業を試みるのは、そこに徴兵制とは国家救護という手段によって不断に「補完」し維持していくべきもの、という認識の枠組みを読みとることができるからである。この点は、当該期の民間に存在した徴兵観の諸相を解明していくうえで、きわめて興味深い問題であるように思われる。
于, 彦 篠原, 武夫 Yu, Yan Shinohara, Takeo
国有林の経営活動は国家の経済改革の影響を強く受け,大きな曲がり角を迎えている。計画経済体制下に作られ肥大化した伊春林業管理局が国家による庇護がなくなりつつある現在と将来においては,市場経済体制への移行に生き残れるか,どのようにしてこの試練を乗り越えるかということは伊春林業管理局だけではなく,国有林の全体が直面している問題であると言えるだろう。これらの問題の解決は国家として,部門として,企業自身として,もう少し時間をかけて検討していく必要がであろう。さらにこうした状況の中で,国有林の新たな展開にとっての大きな目標である地元への経済的貢献と国民への奉仕との両立がどのように達成されるのか,今後とも黒竜江国有林の社会主義市場経済体制の進展に注目していきたい。
北野, 博司 Kitano, Hiroshi
小論では律令国家転換期(八世紀後半〜九世紀前葉)における須恵器生産の変容過程を検討し、その背景を経済、社会、宗教の観点から考察することを目的とした。ここでは各窯場の盛衰、窯業技術(窯構造・窯詰め・窯焚き)、生産器種の三点を主な検討対象とした。
Mulenga, Chileshe L. Mulenga, Chileshe L.
国際金融機関の指導の下に経済政治改革を実施したサブ・サハラアフリカ諸国の農村経済は、「厳しい、障壁がある、難しい、困難である」等と言及されてきた。これら農村経済は、衰退と住民の貧困増大を経験してきた。その結果は、政策改革で期待された結果とは異なり、国家レベルではその改革のせいだと考えられていたものとも異なっていた。国レベルでは、政治改革は国家経済を安定化させ、過去10年の間に平均5%の安定した成長を達成させることに貢献した。
岩淵, 令治 Iwabuchi, Reiji
国民国家としての「日本」成立以降,今日に到るまで,さまざまな立場で共有する物語を形成する際に「参照」され,「発見」される「伝統」の多くは,「基層文化」としての原始・古代と,都市江戸を主な舞台とした「江戸」である。明治20年代から関東大震災前までの時期は,「江戸」が「発見」された嚆矢であり,時間差を生じながら,政治的位相と商品化の位相で進行した。前者は,欧化政策への反撥,国粋保存主義として明治20年代に表出してくるもので,「日本」固有の伝統の創造という日本型国民国家論の中で,「江戸」の国民国家への接合として,注目されてきた。しかし後者の商品化の位相についてはいまだ検討が不十分である。そこで本稿では,明治末より大正期において三越がすすめた「江戸」の商品化,具体的には,日露戦後の元禄模様,および大正期の生活・文化の位相での「江戸趣味」の流行をとりあげ,「江戸」の商品化のしくみと影響を検討した。明らかになったのは以下の点である。
金菱, 清 Kanebishi, Kiyoshi
世界各地に所在する「不法占拠」は,国家の法律の枠組みの外側に位置づけられるのかそれとも包含されているものなのか。通常「不法占拠」地域は,法律の外側で扱われる対象である。そのため,実際に法律を運用する行政当局は,「不法占拠」を仕方なく黙認するかそれを否定すべく強制退去の手続きをとることになる。それに対して,本稿が扱う事例は,日本最大級の「不法占拠」地域に対して,法制度に則って公的補償を実施し「不法占拠」を円満に解消するものである。この点からすると「不法占拠」とは国家の法律に内包された存在でもあると言える。
篠原, 武夫 Shinohara, Takeo
(1)近年わが国の国産材供給危機の情勢により, 東南アジア森林開発に対する関心の高まりは, まことに著しくなってきている。東南アジア森林開発の問題はわが国の林業問題と密接不可分の関係にある。今日の東南アジアの森林は植民地時代の影響を強く受けているので歴史的認識に基づいた東南アジア森林開発の理論的研究は急務である。本論の中心的課題も, 戦前のイギリス帝国主義によって東南アジアの森林がいかに開発されたか, つまり帝国主義の資本の論理が東南アジア植民地の森林にいかに展開して行ったか, という過程を明らかにすることにある。(2)分析方法は植民地森林開発の理論に基づき, 「イギリス帝国主義経済と東南アジア植民地森林開発」の視点に立って接近して行くことにした。一般に帝国主義が植民地開発(資本輸出)を試みる究極の目的は, 超過利潤取得以外の何物でもないが, その目的を達成するために, 独占資本にとって最も要求される課題は植民地原料資源の独占的支配である。この課題を実現するために領土的支配を確立した植民地においては独占資本は国家権力と一体となって原料資源の独占的開発を進めていく。これに対して領土的支配の確立までに至っていない半植民地においては資本侵略によって原料資源の独占的開発を行なうのである。このことは植民地で森林開発が行なわれる場合にも同じように現われる。すなわち(1)領土的支配の確立した植民地の森林開発はなんらかの国家的規模における強権を背景として独占資本の手で開発され, そのために開発対象林は基本的には国有林であり, 資本活動が国家的林野所有を舞台として展開する。すなわち独占資本は森林の所有主体である国家権力と結合して森林資源の独占的開発を可能にするのである。(2)しかし, 同じ植民地で森林の国家的所有が成立しても森林開発が農業開発に重点が置かれて行なわれることがある。そこでの開発資本には農業開発資本のみが存する。この場合の森林資源の意義は農業開発資本の独占的利潤追求と不可分離の関係にある。(3)領土的支配の確立していない半植民地の森林開発では森林の所有主体が民族国家に属しているため, そこでの一資本による森林資源の独占的開発はもっぱら巨大資本力によって生産過程における民族資本および他の帝国主義国資本を圧倒して実現される。以上に述べた植民地森林開発理論の(1)に該当する植民地はビルマ, (2)はマレー, (3)はタイである。
仁藤, 敦史 Nitô, Atsushi
都城は、皇帝(天皇)の専制を実現するための施設であり、国家の権力機構のあり方を、防備的施設のなかに、固有の形をとって表現したものにほかならず、都城の形成と古代国家の成立は相即的な関係にあると考えられる。通説によれば、持統八年(六九四)の藤原京への遷都によりわが国では中国的な都城がはじめて成立したとされ、藤原京の条坊復原については、現在のところ岸俊男氏の見解が通説となっている。京内については、発掘調査によってほぼその妥当性が確かめられつつあるが、宮域内先行条坊道路や京外条坊道路の発見は、新たな問題を提起し、通説よりも大きな条坊京域を想定する「大藤原京」という仮説も提示されている。こうした新たな発掘成果をふまえた都城制成立過程の分析が現段階では求められている。
蓑島, 栄紀 MINOSHIMA, Hideki
最近,知床半島における神功開宝の出土,根室半島での秋田産須恵器の出土などの新たな知見により,8~9世紀の本州・国家と北海道との交流の様相が改めて脚光を浴び,そのなかで出羽国・秋田城の果たした役割も問いなおされている。
山田, 慎也 Yamada, Shinya
本稿の目的は,岩手県中央部における寺院への額の奉納習俗の変遷を取り上げ,死者の絵額や遺影などの表象のあり方について,国民国家形成過程との関連を考慮しつつ近現代における死への意味づけについて考察することである。
猪木, 武徳
本稿は、「公共性」を論ずるためのひとつの試論として、企業の「公共性」の問題を国際比較の視点から考察する手がかりを探る。伝統的な経済学は、大企業や労働組合のような、国家と個人の間に存在する「中間的な組織」の機能や役割に十分な注意を向けず、高度に発達した産業社会を、「独立した合理的な個人」の市場競争と「国家」による統制と介入という二元的な対立図式で特徴付けてきた。しかし中間組織が、民主制と市場経済において果たす役割は今後極めて重要になると考えられる。その最大の理由は、おそらく巨大化し複雑化した現代の経済社会は、その全領域を私(private)と公(public)という二つの局面で区切るだけでは、経済社会が抱える問題に十分に対処できなくなってしまった点にある。
孫, 江
一九三二年三月一日、関東軍によって作られた傀儡国家「満州国」が中華民国の東北地域に現れた。本稿で取り上げる満州の宗教結社在家裡(青幇)と紅卍字会は、いずれも満州社会に深く根を下ろし、「満州国」の政治統合のプロセスにおいて重要な位置を占めていた。
吉良, 芳恵 Kira, Yoshie
本論考は、満州事変・日中戦争、アジア太平洋戦争期をとおして、国家、特に軍が、兵士の見送りと帰還にどのような方針で臨んだのか、また兵士はどのようにして戦場へ送り出され、あるいは帰還したのかという点について、徴兵・兵事史料等を用いて考察したものである。
我部, 大和 Gabu, Hirochika
本稿では、組踊「孝行の巻jについて演戯故事に所収されている内容と組踊台本の詞章、冊封使録3篇との比較を中心に考察を行った。記述内容の比較を通して、組踊「孝行の巻Jについては、演戯故事の物語前段にも見られるように、首里王府が風水害の続く状況を孝行な娘が国の窮状を助けることを主題として設定していることがわかる。また、演戯故事は解説書として写実的に記された内容であり、組踊台本の演出を補完する役割をもっていた。そこには琉球が中国からもたらされた儒教を受容する「恭順」な国家であることを組踊の演出で伝え、さらに冊封使録に組踊の内容を記させることで皇帝に対して、琉球の「恭順」な国家像を見せようとする王府の施策が窺える。
Gallicchio, Marc ガレッキオ, マーク
終戦後70 年の間に、占領政策が成功だったか否かに対する米国の見解は劇的に変化した。1990 年代以前は、占領政策の成果や意義については学問の対象であり、多くの研究者が占領政策における占領地の民主化の努力不足について指摘した。その最たる例は1980 年代における米国経済の競争相手国としての日本の台頭である。 しかし、冷戦終結後、政策立案者は一般の論者やシンクタンクに影響され、占領政策を米国による国家再建の成功例とみなすようになった。特に日本の例は、非西洋諸国を民主化する米国の手腕を疑問視する懐疑派への反証を示すモデルとして引き合いに出された。議論の批判者側は、日本占領下で起こった特異的かつ再度起こりえない教訓に焦点をあてつつ、そもそも国家再建を国家間で比較することはできないと主張し、反論を試みた。しかし、歴史修正主義の研究者たちのこうした主張は、日本の復興におけるマッカーサーおよび天皇の果たした役割といったテーマについて、それまで自らの研究が導き出してきた結論に矛盾する内容であった。 今日においても、新保守主義の評論家は、米国の行動主義的外交政策を正当化する実例として占領が成功したことを引き合いに出すが、オバマ政権当局者は、占領政策を和解の意義を表す一例として引用することを好む。和解という考え方は、政権がアジア地域の情勢に対応する際の施策として訴求力があると考えられる。
栄原, 永遠男 Sakaehara, Towao
六国史に見える銭貨を他者に提供する行為を分析すると、王権や国家などの提供者と銭貨との関係が見えてくる。貞観永宝の新鋳銭が、ハツホとして鋳銭所近くの神に奉納された点に注目して、他の銭貨の場合を検討すると、新鋳銭をハツホとして神に奉納することが重視されていたことがうかがえる。
鍾, 以江 南谷, 覺正
本論は、この二十年間、日本のみならず世界全体に深甚な変化を及ぼしてきたグローバリゼーションという世界史的潮流の中で、それまである意味で政治的、国家的利害に拘束されてきた日本研究が、今後グローバルな知識生産の体系の一つとして脱皮し、新しい意義を持つ可能性を探ったものである。
井原, 今朝男 Ihara, Kesao
これまで南北朝〜室町期の東国荘園は、守護や国人一揆によって侵食され、荘園年貢の京上はとるに足らないものと考えられ、独立性の強い東国国家論の根拠となってきた。本稿は、東国荘園からの領家年貢がどのような京上システムの下にあったかを具体的に解明し、それを国家的に保障していた「武家御沙汰」の内実をあきらかにしようとした。先ず、室町幕府は貞和二年(一三四六)に東国の将軍家御料所を鎌倉府に委任してその三分一を京上させる体制を「条々事書」に定めた。この年、国司領家年貢を地頭らが未済した場合の処理法を定め、年貢未済額の五分一の下地を分付させるとともに当知行人・新領主に弁償させる体制を追加法二五条として制定した。その具体化が東国荘園の中でどのようになされていたかを検討すると、第一に東国荘園の領家年貢は地頭職をもった鎌倉寺社や地頭らが京上し、領家方から返抄・請取状を確保していたことが判明した。第二には、九条家領甲斐国志摩荘に代表されるように南北朝期に代官請負に出し、領家年貢に難渋・不法があった場合には雑掌が武家に提訴して武家によって罪科に処する国家的保障体制が成立していた。第三に、東国公家領が禅宗寺院に寄進された東国禅宗寺院領では、院主や給主による代官や使僧を頻繁に都鄙間を往反させて荘務組織を充実させ、国下行を増やし、守護との契約を締結して領家年貢の京上システムを構築していた。しかも、このいずれにおいても、在地で年貢未済や対捍が起きると、領家側雑掌は幕府や鎌倉府に提訴して将軍家御教書や鎌倉府奉行人連署奉書を獲得し、幕府―鎌倉府・守護―守護代―国人という遵行・打渡ルートによって押領人や対捍人を罪科に処する体制になっており、領家年貢京上システムを国家的に保障する体制ができていたことをあきらかにした。そのため、国人層による領家年貢対捍闘争は、幕府・鎌倉府・守護らによる遵行体制に敵対することを意味しており、それゆえ鎌倉公方との主従関係に依拠して反幕府行動という政治闘争に出ていかざるをえなかったことを論じた。
藤田, 明良 Fujita, Akiyoshi
本稿は、媽祖を中心に航海信仰をめぐる東アジアと日本との歴史的連関について論じるものである。東アジアには古くから、国家祭祀の対象となる四海神、民間で広く信仰された龍王、仏教系の観音など、広域的な航海信仰が存在する一方で、各地で限定的に信仰された地方的航海神が数多くいた。媽祖は宋代に中国福建中部の莆田地方に出現した地方的航海神であったが、当地の海商の活動によって、中国中南部沿岸に信仰が拡がる一方、当地の士大夫層の運動で皇帝から授与される神階が上昇し、中国の有力な航海神になっていった。元代「天妃」に冊封され、明代には鄭和等の海外出使の守護神になるなど国家的航海神としての地位を高める一方で、海域世界の心性に響き渡る「物語」を獲得して、盛衰が激しい信仰の世界で影響力を伸ばし、中国北部やアジア各地の海域に信仰が拡がっていった。
宮里, 正子 Miyazato, Masako
1429年に成立した琉球王国は,1879年の沖縄県設置までの450年間にわたり,独自の国家を保持してきた。14世紀から始まる中国との冊封・朝貢関係に加え,1609年の薩摩・島津氏の侵略以降は,日本の幕藩体制にも組み込まれる日支両属の関係が続いた。琉球王国は,中国や日本,朝鮮そして東南アジア諸国との交易を経済基盤とした国家運営方針を図った。その結果,琉球ではアジア諸国の人・モノ・情報が行き交い,国際色豊かな「琉球文化」を創出した。とりわけ,漆器は中国皇帝や日本の将軍や大名への献上品であり,さらに経済基盤を支える交易品として王国外交を支えた。王府は漆器の生産管理部署として貝摺奉行所を設置し,王国の誇る漆器の品質保持に努めた。琉球では,材料や技術などをアジア各地に求めつつも,その湿潤な風土が螺鈿・沈金・箔絵・堆錦など豊かな加飾技法を育み,特色ある琉球漆器の美を確立した。
山本, 冴里
日本発ポップカルチャー(以下、JPC)に対する評価や位置づけは、親子間から国家レベルまで様々な次元での争点となった。そして、そのような議論には頻繁にJPCは誰のものか/誰のものであるべきかという線引きの要素が入っていた。本研究が目指したのは、そうした境界の一端を明らかにすることだった。
井原, 今朝男 Ihara, Kesao
これまで室町期荘園制は荘園制解体過程として理解されてきた。本稿では、南北朝期から応安年間にかけて中世国家を代表する幕府と天皇権力が荘園制を再編成しようとする政策を推進し、在地からの下地中分の動向とリンクしたことによって再版荘園制が生まれ応永年間を中心に安定性をもって社会的に機能したことを主張した。
長部, 悦弘 Osabe, Yoshihiro
北魏孝文帝代は、北魏史上国家体制の一大転換点とみなすことができよう。476年に始まる文明太后馮氏の臨朝聴政下では、484年に班禄制を立て、485年に均田法を頒布し486年に三長制を敷いた。490年の文明太后馮氏の亡き後、孝文帝親政下で491年に第1次、499年に第2次官制改革を各々遂行し、493年には洛陽遷都を敢行し、496年は姓族詳定を推進した。なかでも493年の平城から洛陽への遷都は、北魏史上領域支配体制の中心たる王都を『農業-遊牧境界地帯』から『農業地域』に移した一大事業であったと言える。孝文帝が国家体制の中核機関の1であった尚書省を最重視して、自身の手により人事を行った。かかる大事業を尚書省を基軸に推進したとみられる。小論では、尚書省に人材を供給する役割を果たしたと想定される母体集団の形成に至る過程を論じた。
長部, 悦弘 Osabe, Yoshihiro
北魏孝文帝代は、北魏史上国家体制の一大転換点とみなすことができよう。476年に始まる文明太后馮氏の臨朝聴政下では、484年に班禄制を立て、485年に均田法を頒布し、486年に三長制を敷いた。490年の文明太后馮氏の亡き後、孝文帝親政下で491年に第1次、499年に第2次官制改革を各々遂行し、493年には洛陽遷都を敢行し、496年は姓族詳定を推進した。なかでも493年の平城から洛陽への遷都は、北魏史上領域支配体制の中心たる王都を『農業-遊牧境界地帯」から『農業地域』に移した一大事業であったと言える。孝文帝が国家体制の中枢機関の1であった尚書省を最重視して、自身の手により人事を行った。かかる大事業を尚書省を基軸に推進したとみられる。小論では、尚書省に人材を供給する役割を果たしたと想定される母体集団の形成に至る過程を論じた。
長部, 悦弘 Osabe, Yoshihiro
北魏孝文帝代は、北魏史上国家体制の一大転換点とみなすことができよう。476年に始まる文明太后馮氏の臨朝聴政下では、484年に班禄制を立て、485年に均田法を頒布し、486年に三長制を敷いた。490年の文明太后馮氏の亡き後、孝文帝親政下で491年に第1次、499年に第2次官制改革を各々遂行し、493年には洛陽遷都を敢行し、496年は姓族詳定を推進した。なかでも493年の平城から洛陽への遷都は、北魏史上領域支配体制の中心たる王都を『農業-遊牧境界地帯』から『農業地域』に移した一大事業であったと言える。孝文帝が国家体制の中枢機関の1であった尚書省を最重視して、自身の手により人事を行った。かかる大事業を尚書省を基軸に推進したとみられる。小論では、洛陽遷都前後の尚書省の人事配置を考察する前提として、同時期に教帝が敢行した行事・親征行を確認した。
長部, 悦弘 Osabe, Yoshihiro
北魏孝文帝代は、北魏史上国家体制の一大転換点とみなすことができよう。476年に始まる文明太后馮氏の臨朝聴政下では、484年に班禄制を立て、485年に均田法を頒布し、486年に三長制を敷いた。490年の文明太后馮氏の亡き後、孝文帝親政下で491年に第1次、499年に第2次官制改革を各々遂行し、493年には洛陽遷都を敢行し、496年は姓族詳定を推進した。なかでも493年の平城から洛陽への遷都は、北魏史上領域支配体制の中心たる王都を『農業-遊牧境界地帯』から『農業地域』に移した一大事業であったと言える。孝文帝が国家体制の中枢機関の1であった尚書省を最重視して、自身の手により人事を行った。かかる大事業を尚書省を基軸に推進したとみられる。小論では、前稿を受けて孝文帝代に行われた尚書省への人材配置を論じた。
大橋, 信弥 Ohashi, Nobuya
西河原木簡をはじめとする近江出土の古代木簡は、量的には多くないが、七世紀後半から八世紀初頭の律令国家成立期の中央と地方の動向を、具体的に検討するうえで、重要な位置を占めている。そして、近江には多くの渡来系氏族と渡来人が、居住しており、近江における文字文化の受容にあたって、渡来人の役割は無視できない。
田中, 史生 Tanaka, Fumio
本稿は,8世紀の日本官印と隋唐官印と比較することによって,日本律令国家の官印導入期における中国の影響と,日本官印の特質について考察するものである。考察の結果,日本律令国家の官印は,隋唐官印のなかでも紙による文書行政とかかわる「官署印」の直接的影響を受けて成立したが,その法量を唐よりも大型化させるとともに,官司のレヴェルに従って印面文字の字体や形式と組み合わせながら法量を細分化し,その区分を遵守させるなどの特徴があることが明らかとなった。また隋唐においては,御璽が一般的な命令伝達文書の作成過程で紙に押印されることはなく,諸州などに下される文書には,裁可された案件の諸司における処理ないし行政手続きが正しく行われることを保証するために六部所属の二十四司の印が押されたが,日本において命令伝達の中核に置かれた印は内印,すなわち天皇御璽で,中央政府の文書発給の全てを天皇が直接統治することに重きを置いた押印制度となっていた。さらに諸国印は,国府とそれが統括する地方の間の文書に印が押されるのではなく,中央政府と国府との関係の中での押印を基本としていた。そこには,日本古代官印の文書行政における実務的機能とのかかわりだけでなく,印の大きさ,押印の仕方,印面文字の字体・形式によって,中華日本を表現するともに,天皇の直接統治と,天皇を中心とした中央集権的なビラミッド型の官司配置という,日本律令制の理念的構造を表象ようとする古代国家の意図が読み取れるであろう。
井上, 寛司 Inoue, Hiroshi
本稿では、筆者がかつて提起した「二十二社・一宮(いちのみや)制(王城鎮守(おうじょうちんじゅ)・国鎮守(くにちんじゅ)制)」に対する批判として提起された諸氏への反批判という観点から、①中世後期長門(ながと)国一宮制の変質・解体過程を史料に基づいて具体的に論じるとともに、②中世諸国一宮制の成立から解体に至る過程の概要を示すことを通して、中世諸国一宮制の歴史的な構造と特質とは何かについて論じた。その結果、およそ次のような点が明らかになったと考える。(1)長門国の場合、守護(しゅご)大内氏による国衙(こくが)権力機構の掌握と再編成にともなって、一宮制のあり方は大きく変化し、一宮中心の祭礼構造から府中二宮(ふちゅうにのみや)を中心とする一・二宮両社合同の祭礼構造への転換、及び国衙権力を代表して祭礼の執行に当たる神事行事武久(しんじぎょうじたけひさ)氏の登場という形で、それは現れることとなった。(2)守護大内氏の戦国大名(せんごくだいみょう)化と戦国大名毛利(もうり)氏の登場にともなって、長門国一宮制は解体期を迎えることとなるが、それは国家的神社制度の一環を構成する国鎮守の解体として評価できるものであり、そこに中世諸国一宮制の歴史的な本質が示されているということができる。(3)これを、他の諸国の事例と合わせ考えるとき、中世諸国一宮制が国家的神社制度としての本質を持つことは疑う余地のないところであり、中世国家論の観点を正しく組み込んだ一宮制分析が今後の重要な課題とされなければならないということになろう。
藤沢, 敦 Fujisawa, Atsushi
日本列島で古代国家が形成されていく過程において,本州島北部から北海道には,独自の歴史が展開する。古墳時代併行期においては,南東北の古墳に対して,北東北・北海道では続縄文系の墓が造られる。7世紀以降は,南東北の終末期の古墳と,北東北の「末期古墳」,そして北海道の続縄文系の墓という,3つに大別される墳墓が展開する。
丸山, 裕美子 Maruyama, Yumiko
日本の古代律令国家の公文書は、中国・唐の文書制度や文書の機能・様式を継受して成立した。日本古代の公文書の成立と展開に関して、本稿では、「位記」を中心に検討した。日本の位記は、唐の「告身」を継受したものである。身分証明書である位記・告身は、原本も残っており、古文書の国際比較や時代による変遷を追うことが可能な素材である。
堀, 裕
日本古代の安居講経は、国家が期待する僧尼像・仏教像を象徴的に示すと考えられる。おもに『類聚三代格』延暦二十五年(八〇六)四月二十五日官符をとりあげ、政治史や制度史、史料学の視点から検討を行った。①この時、大寺と国分寺の安居講経に、新たに『仁王経』が追加されたのは、桓武から平城への皇位継承を契機にしており、早良親王等の祟りなど、新天皇にもたらされる災いを攘うことで、無事な即位や、治世の安穏を願ったことにある。②一代一度仁王会の開始や、宮中年料写経の伝鳩摩羅什訳『仁王経』への転換との関係も推測され、国家制度の重点が、五穀豊穣を祈念する『最勝王経』から、災いを避けるための『仁王経』へと、変化したことを示していると考えられる。③『類聚三代格』の写本研究の成果を踏まえ、従来の研究成果とは異なり、大寺と国分寺において、『仁王経』の安居講経は、延暦二十五年から少なくとも『延喜格』編纂時までは、維持されたとみるのがよいと考える。
長部, 悦弘 Osabe, Yoshihiro
北魏孝文帝代は、北魏史上国家体制の一大転換点とみなすことができよう。476年に始まる文明太后馮氏の臨朝聴政下では、484年に班禄制を立て、485年に均田法を頒布し、486年に三長制を敷いた。490年の文明太后馮氏の亡き後、孝文帝親政下で491年に第1次、499年に第2次官制改革を各々遂行し、493年には洛陽遷都を敢行し、496年は姓族詳定を推進した。なかでも493年の平城から洛陽への遷都は、北魏史上領域支配体制の中心たる王都を『農業―遊牧境界地帯』から『農業地域』に移した一大事業であったと言える。孝文帝が国家体制の中枢機関の1であった尚書省を最重視して、自身の手により人事を行った。かかる大事業を尚書省を基軸に推進したとみられる。小論では、尚書省に人材を供給する役割を果たしたと想定される母体集団を含む北魏支配者層の、493年から495年にかけて敢行した洛陽徒住の経緯を、孝文帝の平城―洛陽行をも含めて検討した。
長部, 悦弘 Osabe, Yoshihiro
北魏孝文帝代は、北親史上国家体制の一大転換点とみなすことができよう。476年に始まる文明太后講氏の臨朝聴政下では、484年に班禄制を立て、485年に均団法を頒布し、486年に三長制を敷いた。490年の文明太后馮氏の亡き後、孝文帝親政下で491年に第1次、499年に第2次官制改革を各々遂行し、493年には洛陽遷都を敢行し、496年は姓族詳定を推進した。なかでも493年の平城から洛陽への遷都は、北魏史上領域支配体制の中心たる王都を『農業一遊牧境界地帯』から『農業地域』に移した一大事業であったと言える。孝文帝が国家体制の中枢機関の1であった尚書省を最重視して、自身の手により人事を行った。かかる大事業を尚書省を基軸に推進したとみられる。孝文帝代後期洛陽遷都事業と平行して、孝文帝は平城洛陽行に加えて、洛陽一環州、卜鄭行、洛陽一平城行・南斉親征行など盛んに移動した。孝文帝は、上記の移動時には、平城・洛陽両地を不在にした。小論では、孝文帝の不在期間中、平城・洛陽両地を留守した主要人物を検討した。
長部, 悦弘 Osabe, Yoshihiro
北魏孝明帝代に勃発した六鎮の乱により混乱に陥った政局の中で、爾朱氏軍閥集団は山西地域(太行山脈以西)の中部に并州(晋陽)及び肆州を中核として覇府地区を建設し、これを根拠地とした上で、孝明帝の没後南下して孝荘帝を擁立した上で河陰の変を引き起こして王都洛陽を占拠し、孝荘帝代には中央政府を支配した。王都洛陽の中央政府を支配した方法は、尚書省・門下省の要職に人員を配置して行政を握るとともに、王都内外の軍事を掌管する、近衛軍をはじめとする高級武官の多くを占めて、洛陽の軍事を牛耳った。そして、首領である爾朱栄が代表する并州(晋陽)設置の覇府と連絡しながら、爾朱氏軍閥集団の下に王都洛陽の中央政府を置く、王都-覇府体制を構築した。北魏国家の領域内部の交通路線でみると、爾朱氏軍閥集団の王都-覇府体制を支えた中軸線は、覇府地区と王都洛陽を結ぶ太行山脈西麓東方線である。同路線を基軸に、太行山脈西麓西方線、太行山脈東麓線をはじめ、各地に構成員を送り、北魏国家の領域支配体制を建てようと試みた。
古瀬, 奈津子 Furuse, Natsuko
日本古代における儀式の成立は,律令国家の他の諸制度と同様に,唐の影響なしには考える事はできない。しかし,律令の研究に比べると,唐礼の継受のあり方や唐礼との比較研究は遅れている状況にある。そこで,本稿においては,地方における儀礼・儀式について取り上げ,規定・実態の両面から唐礼との関係を考察し,唐礼継受の一側面を明らかにしたい。
張, 龍妹
本稿では、中国で行われている「中国日本学研究『カシオ杯』優秀修士論文賞」の受賞作と中国の各大学に提出された博士論文から、大学院における古典文学研究の一斑を紹介する。さらに、中国で唯一の日本研究に関する専門誌『日語学習与研究』に発表された論文と国家社会科学基金の助成を受けた研究プロジェクトの内容を分析する。それらに基づき、中国における日本古典文学研究の現状と動向を把握したい。
ゴ, フォン・ラン
本稿は、ベトナムと日本が外交関係を正式に結んだ1973年以降のベトナムにおける日本研究史について検討したものである。日本研究を専門に行う国家機関として初めて設立された、ベトナム社会科学アカデミー附属東北アジア研究所を事例に挙げ、日本研究の著書・雑誌・論文の内容や分野、研究方法などの考察を行う。ベトナムにおける日本研究分野の拡大と発展の変化を捉えるとともに、今後の課題についても明らかにする。
秋沢, 美枝子 山田, 奨治
オイゲン・ヘリゲルが戦時中に出版したもののうち、その存在がほとんど知られていない未翻訳エッセイを研究資料として訳出する。ヘリゲルのエッセイは、日本文化の伝統性、精神性、花見の美学、輪廻、天皇崇拝、犠牲死の賛美について論じたものである。その最大の特徴は、彼の信念であったはずの日本文化=禅仏教論には触れずに、そのかわりに国家神道を日本文化の精神的な支柱に位置づけた点にある。
中林, 隆之 Nakabayashi, Takayuki
正倉院文書には、天平二十年(七四八)六月十日の日付を有した、全文一筆の更可請章疏等目録と名付けられた典籍目録(帳簿)が残存する。この目録には仏典(論・章疏類)と漢籍(外典)合わせて一七二部の典籍が収録されている。小稿では、本目録の作成過程および記載内容の基礎的な検討を行い、それを前提に八世紀半ばの古代国家による思想・学術編成策の一端を解明した。
島村, 恭則 Shimamura, Takanori
これまでの民俗学において,〈在日朝鮮人〉についての調査研究が行なわれたことは皆無であった。この要因は,民俗学(日本民俗学)が,その研究対象を,少なくとも日本列島上をフィールドとする場合には〈日本国民〉〈日本人〉であるとして,その自明性を疑わなかったところにある。そして,その背景には,日本民俗学が,国民国家イデオロギーと密接な関係を持っていたという経緯が存在していると考えられる。
鈴木, 貞美
福沢諭吉ら明治啓蒙思想家たちは、明治維新を「四民平等」を実現した革命のように論じたが、黒船ショックが引き起こした倒幕運動は、開国か、尊皇攘夷かが争われ、紆余曲折を経て、尊皇開国に落ち着いたもので、その過程で政治の自由や四民平等がスローガンにあがったことはない。すでに、江戸時代のうちに、いのちの自由・平等思想がひろがり、身分制度も金の力でグズグズになっていたため、デモクラシーは至極当然のことのように受けとめられたのだった。明治新政府は、一八三七年一月に徴兵令の告諭を発し、国民の自由・平等を認め、それと引きかえに「国家の災害を防ぐ」ために、西洋でいう「血税」として、二十歳に達した男子に三年の兵役義務を課した。「国民皆兵」制度は、国民各自が自分の権力の一部を国家に提供し、秩序を維持し、各人の安全の保証を得るという自然権思想に立つものだが、明治啓蒙家たちの思想においては、自由、平等が未分化で、自然権思想や社会契約説の定着が見られないことが、すでに指摘されている。しかし、その理由については、これまで恣意的な分析しか行われてこなかった。
岸本, 直文 Kishimoto, Naofumi
1990年代の三角縁神獣鏡研究の飛躍により,箸墓古墳の年代が3世紀中頃に特定され,〈魏志倭人伝〉に見られる倭国と,倭王権とが直結し,連続的発展として理解できるようになった。卑弥呼が倭国王であった3世紀前半には,瀬戸内で結ばれる地域で前方後円形の墳墓の共有と画文帯神獣鏡の分配が始まっており,これが〈魏志倭人伝〉の倭国とみなしうるからである。3世紀初頭と推定される倭国王の共立による倭王権の樹立こそが,弥生時代の地域圏を越える倭国の出発点であり時代の転換点である。古墳時代を「倭における国家形成の時代」として定義し,3世紀前半を早期として古墳時代に編入する。
松薗, 斉
従来、総体的な把握がなされてこなかった中世後期の日記についてその特色を述べたものである。まず室町期について、前代より継続して記される公家の日記は、南北朝期に生じた朝廷の儀式の断絶や以後顕然化したその衰退及び経済的基盤を失って生じた公家たちの疲弊が、その「家」の日記の作成活動に停滞をもたらし、彼らの日記が前代にもっていた国家的な情報装置としての役割を低下させたことを指摘した。
木村, 周平 Kimura, Shuhei
自然災害はあらゆる社会にとって対処を迫られる重要な問題である。防災においては近年,国家・行政によるいわゆる「公助」には限界があり,住民のレベルでの防災・減災が必要であることが主張されている。過去の災害の経験をモノ化し,社会の内部に適切に配置し,過去の記憶を共有し,次の災害に備えるために人々が「利用」できるようにすることは,景観を「資源」として活用する,ひとつのあり方だと考えることができる。
徳丸, 貴尋
近世は諸芸に関する出版文化が盛行した時代であった。茶の湯は武士以外に民衆にも浸透し、茶会で広がる人と人のつながりは、経済や技術の交流とも重なった。そのため民衆は茶会作法を心得ておく必要があり、そこに欠かせないのが茶湯書の出版であった。一方で近世の民衆に流布していた節用集の付録記事には、日本の地理・歴史・礼節など通俗的な教養ともいうべき知識が紹介されており、近世人の歴史認識・国家意識や社会・生活・教育の変化を反映している。
岩城, 卓二 Iwaki, Takuji
近年、筆者は近世農民支配は武士、農民、「御用」請負人の三者によって成り立っていたという立場から、請負人を必要とする近世国家と社会の性格について論じてきたが、いまだ課題は山積している。そこで本稿では請負人の経営実態と請負人の位置付けをめぐる武士、農民、請負人三者の関係を明らかにすることによって、請負人の具体像を豊かにすることを目指した。検討の素材にしたのは幕領石見国大森代官所で活躍した郷宿である。
伊從, 勉
沖縄本島東方海上の久高島は、琉球王国国家祭祀上の聖なる島であった。時代の変化を蒙りながらも、現在でも王国時代以来の巫の司祭により、沖縄地方でももっとも頻繁な年中祭祀を実行している。「七マッティ」と呼ばれる主要祭祀と他のいくつかの地方祭祀の時に、集落内の主要祭場のひとつ外間拝殿の内部に、「アカヤミョーブ」という赤い天蓋が張られる。ミョーブとは、その実態に反して、実は「屏風」の意味がある。
鈴木, 貞美
今日、日本の近現代文芸をめぐって、一部に、「文化研究」を標榜し、新しさを装いつつ、その実、むしろ単純な反権力主義的な姿勢によって、種々の文化現象を「国民国家」や「帝国主義」との関連に還元する議論が流行している。この傾向は、レーニンならば「左翼小児病」というところであり、当の権力とその政策の実態、その変化を分析しえないという致命的な欠陥をもっている。それらは、「新しい歴史教科書」問題に見られるような「日本の威信回復」運動の顕在化や、世界各国におけるナショナリズムの高揚に呼応するような雰囲気が呼び起こしたリアクションのひとつであろう。その両者とは、まったく無縁なところから、第二次大戦後の進歩的文化人が書いてきた日本の近代文学史・文化史を、その根本から――言い換えると、そのストラテジーを明確に転換して――書き換えることを提唱し、試行錯誤を繰り返しつつも、少しずつ、その再編成の作業を進めてきた立場から、今日の議論の混乱の原因になっていると思われる要点について整理し、私自身と私が組織した共同研究が明らかにしてきたことの要点をふくめて、今後の日本近現代文芸・文化史研究が探るべきと思われる方向、すなわち、ガイドラインを示してみたい。整理すべき要点とは、グローバリゼイション、ステイト・ナショナリズム(国民国家主義)、エスノ・ナショナリズム、アジア主義、帝国主義、文化ナショナリズム、文化相対主義、多文化主義、都市大衆社会(文化)などの諸概念であり、それらと日本文芸との関連である。全体を三部に分け、Ⅰ「今日のグローバリゼイションとそれに対するリアクションズ」、Ⅱ「日本における文化ナショナリズムとアジア主義の流れ」、Ⅲ「日本近現代文芸における文化相対主義と多文化主義」について考えてゆく。なお、本稿は、言語とりわけリテラシー、思想などの文化総体にわたる問題を扱い、かつ、これまでの日本近現代文学・文化についての通説を大幅に書き換えるところも多いため、できるだけわかりやすく図式化して議論を進めることにする。言い換えると、ここには、たとえば「国家神道」など、当然ふれるべき問題について捨象や裁断が多々生じており、あくまで方向付けのための議論であることをおことわりしておく。
山田, 奨治
ドイツ人哲学者オイゲン・ヘリゲル(一八八四~一九五五)は、日本の弓道を通して禅を広く海外へと紹介した人物として知られている。しかしながら、彼の生涯の全体像について、とりわけ幼少期と来日前後の活動状況、戦前・戦中のドイツを支配していた国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)との関連については、いまだ明らかではない。本論文では、ドイツ南部にある複数の文書館から見出された未公刊資料をもとに家族歴と来日前後の活動を解明し、へリゲルの生涯の再構成を試みた。
三上, 喜孝 Mikami, Yoshitaka
本稿は、八世紀末から九世紀初頭を律令国家の転換期であるとする本共同研究の立場から、光仁・桓武朝期における国土意識の転換について論ずることを目的とする。ここでいう「国土意識」とは、国土の境界意識、空間認識、山野支配や田地支配の理念、王土思想といった、国土にかかわる意識全般を意味する。むろん、国土意識は、特定の時期にのみあらわれるものではないが、古代日本における国土意識の変化の画期を考える上で、光仁・桓武朝期を検討することは意味があることと考える。
中島, 信親 Nakajima, Nobuchika
本論は、光仁・桓武朝にあたる奈良時代後半から平安時代初期に都城や国家が造営した寺院で用いられた軒瓦を、文様および造瓦技術に着目しつつ概観し、その中で長岡宮式軒瓦がどの様に位置づけられるかを検討した。奈良時代後半に存在した文様および造瓦技術が異なる二系統の造営官司(宮造営官司と造東大寺司)が二度の遷都を通じて再編・融合される中で、その渦中で製作された長岡宮式軒瓦は、文様が稚拙なものも含めてほぼすべてが宮造営官司の造瓦技法が用いられていることを確認した。
吉野, 武 YOSHINO, Takeshi
本稿では、多賀城南面における街並み形成の前提として、宝亀十一年(七八〇)の伊治公呰麻呂の謀反を契機とする多賀城の火災と復興、それらと征討との関連を検討した。まず、多賀城の火災が律令制的な支配や国家の威光を象徴する政庁等の主要施設を中心とした点に注目し、本来は小規模な単位からなる蝦夷の部隊が呰麻呂の謀反で一斉蜂起し、国司の逃走と籠城した百姓の四散で空城となった多賀城に襲来した結果とみた。蝦夷は貴重な物品がありそうな施設に殺到し、略奪を尽くしたうえで放火したと考えられる。
望月, 直人
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、中国および東アジア各国では、国際法は「万国公法」もしくは「公法」という名称で呼ばれることが多かった。international law は直訳すると「国家間の法」となるのに対して、「万国公法」は「あらゆる国に共通する法」あるいは「あらゆる国によって共有される法」という意味であり、原語に対して厳密な訳語とはなっていない。すでに指摘されているように、清末中国読書人は、しばしば「万国公法」の「公」の字にひきつけて議論を展開した。
藤沢, 敦 Fujisawa, Atsushi
古墳時代から飛鳥時代,奈良時代にかけての,東北地方日本海側の考古資料について,全体を俯瞰して検討する。弥生時代後期の様相,南東北での古墳の築造動向,北東北を中心とする続縄文文化の様相,7世紀以降に北東北に展開する「末期古墳」を概観した。さらに,城柵遺跡の概要と,「蝦夷」の領域について文献史学の研究成果を確認した。その上で,日本海側の特質を太平洋側の様相と比較しつつ,考古資料の変移と文献史料に見える「蝦夷」の領域との関係を検討し,律令国家の領域認識について考察した。
渡部, 育子 Watanabe, Ikuko
近年、古代東北史研究は北海道や東北アジア地域との交流を視野に入れたことによって大きな進展をみせた。とくに、それらの地域と直接的な関係をもつ出羽国研究の重要性が増す。ただし、出羽国とはいっても現在の山形・秋田二県にまたがる領域のなかの各地域の特質には異なる部分がある。庄内と秋田は同じ日本海沿岸の一地域であるが、律令制下において異なる位置づけをされる部分があった。本稿は、秋田を中心に、この二つの地域的特質の差異を明瞭にすることによって、律令国家の出羽経営の意義を明らかにするものである。
安藤, 広道 Ando, Hiromichi
「水田中心史観批判」は,過去四半世紀における日本史学のひとつのトレンドであった。それは,文化人類学,日本民俗学の問題提起に始まり日本文献史学,考古学へと拡がった,水田稲作中心の歴史や文化の解釈を批判し,畑作を含む他の生業を視野に入れた多面的な歴史の構築を目指す動きである。その論点は多様であるが,一方で日本文化を複数の文化の複合体とし,水田中心の価値体系の確立を律令期以降の国家権力との関係で理解しようとする傾向が強く認められる。そして考古学の縄文文化,弥生文化の研究成果も,その動向に深く関わってきた。
川村, 清志
東日本大震災から10余年が経過し,復旧・復興の流れのなかで災害の記憶を未来へとつなぎとめる試みが,多くの地域社会で進められている。しかし,新たなモニュメントや施設が発するメッセージは,国家的な制度やシステムに人々を内属させる準拠枠に収斂する傾向にある。個別の経験や記憶は集団的な表象に還元され,無色透明の匿名性の高い事物やメッセージに統合されてしまうことが多い。本論では,組織的な展示や遺構の保存活用においても,個別の経験や記憶を担保しつつ,災害の記憶を分有しうる仕掛けと枠組みの可能性について検証を試みたい。
伊藤, 武士 ITO, Takeshi
出羽国北部においては,8世紀に律令国家により出羽柵(秋田城)や雄勝城などの古代城柵が設置され,9世紀以降も城柵を拠点として広域の地域支配が行われた。古代城柵遺跡である秋田城跡や払田柵跡においては,城柵が行政と軍事,朝貢饗給機能に加え,交易,物資集積管理,生産,居住,宗教,祭祀などの機能を,複合的かつ集約的に有した地域支配拠点であった実態が把握されている。特に,継続的に操業する城柵内生産施設を有して周辺地域開発の拠点として機能した点については,出羽国北部城柵の地域的な特徴として指摘される。
古川, 一明 Furukawa, Kazuaki
東北地方の宮城県地域は,古墳時代後期の前方後円墳や,横穴式石室を内部主体とする群集墳,横穴墓群が造営された日本列島北限の地域として知られている。そしてまた,同地域には7世紀後半代に設置された城柵官衙遺跡が複数発見されている。宮城県仙台市郡山遺跡,同県大崎市名生館官衙遺跡,同県東松島市赤井遺跡などがそれである。本論では,7世紀後半代に成立したこれら城柵官衙遺跡の基盤となった地方行政単位の形成過程を,これまでの律令国家形成期という視点ではなく,中央と地方の関係,とくに古墳時代以来の在地勢力側の視点に立ち返って小地域ごとに観察した。
井原, 今朝男 Ihara, Kesao
近年、神社史研究が活発化しつつあるが、その分析対象となる多くの神社史料がもつ歴史的特徴や問題点について留意されることが少ない。そこで神社史料についての資料学的検討を行った。第一は、現存する神社や現任の神官層の保管下にある神社史料群はむしろ限定された文書群にすぎず、むしろより多くの関係史料群が社家文書として個人所蔵に帰しており散逸の危機に直面し、史料群の全体像はなお不明の状態のものが多いといわなければならない。社家文書の群としての全体的構造を理解することは、神社資料に対する史料批判を厳密にするうえで必要不可欠な作業である。第二に、個別神社史料群は、明治の廃仏毀釈によって仏事関係史料群が流出し、史料群の構成は大改変を受けている。そのため、現存史料群から描く神社史像は歴史実態から乖離してしまうという問題に直面することになる。改めて、廃仏毀釈の実態解明や旧聖教類の所在についての史料調査が重要な課題になっている。第三は、現存する神社史料群は、とくに近世・近代の神官層による神道書や縁起の編纂・改変という諸問題を抱えている。しかし、それらの解明は今後の課題であり、史料学的な問題点として論じられていない。神道史というものが近世国学や近代国家神道によって、「近代日本的な偏見」を受けていることが指摘されてきた。近世・近代の国家神道の下で神道書や神社史料がどのようなイデオロギー的変容を遂げたのかをあきらかにすることは、神社史料研究の一研究分野としなければならない。
清水, 郁郎 SHIMIZU, Ikuro
このレポートは、ブン・ヌア郡(ポンサリー県)のタイ・ルーの村で、昨年行われた調査にもとづく。内容は、主に以下の2 つの点に集中している。ひとつは、現在までの村落の歴史の概略であり、もうひとつは、個人または少数民族社会としての村落が生態学的な環境を含む居住空間をどのように利活用しているかである。複雑な歴史的イベントと個人の経験を対象化する方法として、村人による語りを中心にしてこのレポートは記述されている。さらに、人びとが近年のいわゆる「周縁」的な状況の下で、国家や他の少数民族集団とどのように向き合ったかという問題を、「叛史」という概念でとらえようと試みている。
後藤, 雅彦 Goto, Masahiko
多様な展開をもつ東南中国の先史文化について、これまで各地域文化が保有する土器群の変遷、とくに共通性と地域性に焦点をあててきた。本稿では福建北部~広西壮族自治区南部に至る東南中国の沿海側に多数の貝塚遺跡が分布していることから、貝塚遺跡を共通項にして、地域文化を形成する各遺跡に立ちかえり、遺跡の立地を踏まえた貝塚遺跡の概要と検出遺構について整理する。当該地域の貝塚遺跡は紀元前4000年紀以降に出現し、新石器時代後期(紀元前3000年紀以降)に展開し、紀元前2000年紀以降、黄河中流域\nで初期国家が成立する前後になると貝塚遺跡も変化する様子がうかがえる。その変化の一つとして、環境の変化に応じた居住形態の多様化を明らかにする。
三上, 喜孝 Mikami, Yoshitaka
律令国家により銭貨が発行されると、平城京や平安京などの都城を中心に銭貨が流通すると同時に、銭貨による出挙(利息付き貸付)が広範に行われるようになった。この銭貨出挙については、これまでも古代史の分野で膨大な研究蓄積がある。なかでも正倉院文書に残るいわゆる「月借銭解」」を素材とした研究により、古代の写経生の生活の実態や、各官司・下級官人による出挙運営の実態を明らかになってきた。だが古代の都市生活の中で銭貨出挙が果たした役割についてはなお検討の余地がありそうである。そこで本稿では、正倉院文書、木簡、六国史の記事を再検討し、銭貨出挙が都市民に果たした役割を総体的に検討した。
官, 文娜
日本古代国家の成立から律令制の完成にかけての時期と見なされる六世紀から八世紀半ばにかけては、王位をめぐる争いが頻発した時期であると同時に王位の継承に関してもさまざまな特色を持つ、波乱に富んだ時代である。この時期、王位継承の最大の特徴は兄弟姉妹による継承である。一部の研究者はその姉妹を含んだ兄弟による継承を、直系継承制中の「中継」と考えていた。しかし筆者はその見解には賛成できない。以下、日本のこの時代の王位継承の実態、また中国古代の継承制における「兄終弟及」、直系継承およびそれを実行する条件、日本の女性継承などの問題について検討し、さらに日本古代社会における王位継承の特質を中心に血縁集団構造の分析もあわせて行いたい。
韓, 韡
本論は、従来の研究で注目されてこなかった清末「日本型教育体制」の成立における女子教育と日本モデルという問題を、女子手芸科目という視点から考察した。その結果、清松の女子師範学堂および民国の女子中学校と女子師範学校のカリキュラムに組み込まれた手芸科目「編物・組糸・嚢物・刺繍・造花」が、明治三十四年文部省発布の「高等女学校令施行規則」における随意科目の手芸内容の模倣であることを明らかにした。そして、富国強兵の方策を模索していた清末の教育視察者が、実業技能として教授された明治期の手芸が女性の職業と結びつき、国家の産業発展に貢献しているのを見て、またそれが伝統的な婦徳にも合致するため、中国でもこれを実現しようと意図的に中国の女子教育に組み込んだ結果であることを論証した。
原田, 信男 Harada, Nobuo
律令国家体制の下で出された肉食禁断令は平安時代まで繰り返し発令され,狩猟・漁撈にマイナスのイメージを与える「殺生観」が形成されるようになる。鎌倉時代に入ると,肉食に対する禁忌も定着してくる。しかし,現実には狩猟・漁撈は広範囲に行われており,肉食も一般的に行われていた。そこで,狩猟・漁撈者や肉食に対する精神的な救済が問題となってくる。仏教や神道の世界でも,民衆に基盤を求めようとすれば,殺生や肉食を許容しなければならなくなった。ところが,室町時代になると,狩猟・漁撈活動が衰退し肉食が衰退していくという現象が見られる。室町時代には,殺生や肉食に対する禁忌意識が,次第に社会に浸透していったように思われる。
石原, 嘉人 Ishihara, Yoshihito
小論は,異文化を画一的,固定的なものとして学ぶのではなく,多角的且つ柔軟に理解する方略を身につけられるような講読のあり方を.2002年と2003年の前学期での実践に基づいて追求した「講読を通じての異文化理解(その一)」の続編である。国家や民族という枠組みを前提にしたテキストを多く用いた(その一)と異なり,本論では個人の内面を扱ったテキストが中心となっている。主なトピックは,近代的自我,無意識,歴史認識,贈与と交換,といったものである。近代化された社会において,個人という単位を成立させることが,個々の人間にとってどのような影響を及ぼすのかを読み解くことが全体を通した一つのテーマとなっている。
金, 彦志 韓, 昌完 田中, 敦士 Kim, Eon-Ji Han, chang-wan Tanaka, Atsushi
韓国では、2008年に「障害者等に関する特殊教育法」が全面的に制定され、特殊教育に関する大きな法的整備が行われた。その内容としては、3歳未満の障害のある乳幼児の教育の無償化、満3歳から17歳までの特殊教育対象者の義務教育の権利、特殊教育支援センターの設置・運営の見直し等である。これは、小・中学教育を中心とした今までの制度から、乳幼児および障害成人のための教育支援に対する規定に変化したものであり、国家および地方自治団体の特殊教育支援についての具体的な役割も提示された。本論文では、韓国における特殊教育に関する法的背景を紹介し、2008年行われた「特殊教育実態調査」を参考に韓国特殊教育の現状を概観し、また、障害児教育・保育についての実態と課題を検討した。
申, 昌浩
十九世紀に入り、近代的な西洋の物質と精神文化が拡まると、封建支配階級と民衆とのあいだの矛盾と対立が一層尖鋭化してくる。「親日」仏教は、そういった背景の中で日本の帝国主義と西洋列強の資本主義の接近によって、朝鮮王朝がそれまで進めていた近代国家としての成立の時点を起点としている。一八七六年の開国と日本人の朝鮮進出によって、日本から多くの宗派の伝来が始まった。そして、それより二〇年後の一八九五年に、日蓮宗の僧侶の嘆願によって「都城出入禁止」が解除され、仏教本然の任務である布教活動や社会活動を展開する契機を得るのであった。しかし、この朝鮮僧侶たちの「都出入禁止」の解除というのは、朝鮮仏教史においても近代の始まりを意味する。一方では、近代韓国仏教が「親日」であったことも意味している。
奥出, 健 OKUDE, Ken
<文学非力説>の中心的評論「文学非力説」は文学強力個性説、私小説(精神)擁護という二つの要素を内包した当時では出色の評論であるがしかし、ここにはかつて辻橋三郎が指摘したような国家権力への抵抗という側面は全くない。高見が<文学非力説>で意図したのはあくまで文壇内時流に対する抵抗で、これは時局便乗型文学論の跋巵という外的事情と、昭和十三年頃から温めてきた私小説精神による自己の文学精神の確立という内的事情とが時期的に丁度絡みあい出てきたもので、単に海外旅行帰りのヒステリーから偶発したものではない。しかし、この<文学非力説>成立の裏には昭和十二年の『文学界』解消論以後一貫して高見の胸の底を流れていた、文壇改革という文壇政治的意識があったことも見のがしてはならない。
望月, 直人
劉永福の率いた黒旗軍は、ベトナムでフランス軍相手に善戦したという戦績もあって、とりわけ有名な華人私兵集団である。黒旗軍の拠点ラオカイは、中国・雲南省との境界に位置するベトナムの街であるが、ホン河を通じた貿易ルートの要衝でもあった。黒旗軍はここを通過する商品に通行料を課し、収入源としていた。ラオカイを通過する商品には、ベトナムで算出される海塩が含まれている。もとより、中国では塩は国家の重要な収入源である一方、密売される「私塩」が秘密結社や反乱勢力の資金源となった。本稿は、ベトナム海塩の雲南省へ流入の歴史をたどり、ラオカイにおける通行料収入におけるベトナム海塩の重要性を明らかにし、中国史上の多く現れた「私塩」と深い関係の深い非公然組織の一つとして、黒旗軍を位置づけ直す。
野島, 永 Nojima, Hisashi
1930年代には言論統制が強まるなかでも,民族論を超克し,金石併用時代に鉄製農具(鉄刃農耕具)が階級発生の原動力となる余剰を作り出す農業生産に決定的な役割を演じたとされ始めた。戦後,弥生時代は共同体を代表する首長が余剰労働を利用して分業と交易を推進し,共同体への支配力を強めていく過程として認識されるようになった。後期には石庖丁など磨製石器類が消滅することが確実視され,これを鉄製農具が普及した実態を示すものとして解釈されていった。しかし,高度経済成長期の発掘調査を通して,鉄製農具が普及したのは弥生時代後期後葉の九州北半域に限定されていたことがわかってきた。稲作農耕の開始とともに鍛造鉄器が使用されたとする定説にも疑義が唱えられ,階級社会の発生を説明するために,農業生産を増大させる鉄製農具の生産と使用を想定する演繹論的立論は次第に衰退した。2000年前後には日本海沿岸域における大規模な発掘調査が相次ぎ,玉作りや高級木器生産に利用された鉄製工具の様相が明らかとなった。余剰労働を精巧な特殊工芸品の加工生産に投入し,それを元手にして長距離交易を主導する首長の姿がみえてきたといえる。また,考古学の国際化の進展とともに新たな歴史認識の枠組みとして新進化主義人類学など西欧人類学を援用した(初期)国家形成論が新たな展開をみせることとなった。鉄製農具使用による農業生産の増大よりも必需物資としての鉄・鉄器の流通管理の重要性が説かれた。しかし,帰納論的立場からの批判もあり,威信財の贈与連鎖によって首長間の不均衡な依存関係が作り出され,物資流通が活発化する経済基盤の成立に鉄・鉄器の流通が密接に関わっていたと考えられるようにもなってきた。上記の研究史は演繹論的立論,つまり階級社会や初期国家の形成論における鉄器文化の役割を,帰納論的立論に基づく鉄器文化論が検証する過程とみることもできるのである。
田中, 禎昭
日本古代の戸は父系家族の外観を呈するが,その内部は父母+コ,父+コ,母+コのオヤコ単位の連鎖によって構成されている。国家は,こうした複数のオヤコ単位をいかにして父系的な戸に編成していったのか,その具体的なプロセスは未解明の課題である。そこで本論では,大宝二年(702)御野国半布里戸籍にみえる女性の付貫形態に注目し,この問題の検討を試みた。戸籍を精査すると,「妻」として付貫された女性は婚姻女性の一部に限られ,戸内最年長男性(ほとんど戸主)とそれに次ぐ年長男性2~3人に限定的に「妻」を同籍する原則が確認できる。戸籍上の「妻」は単なる親族名称ではなく,編戸に際して里内年長男性の配偶者に付与された地位呼称と考えられる。一方,女児は出生時に母のもとに片籍され,父の年齢順位が上がり,母が「妻」の呼称を付与された時点で母とともに父の戸に移貫された。つまり,戸籍による女性の把握は原則として母を定点として行われており,母児の父系編成は戸籍を介して女性に「妻」の地位呼称を付与することではじめて可能になったと考えられる。また「妻」の同籍は,父系によって戸を再生産していくために不可欠の操作でもあった。当時の戸主の地位継承は父系的な「世代内継承」,すなわち年長の戸主同世代傍系親(兄弟・同党[イトコ])を優先し,次に子世代「嫡子」に及ぶという継承方式によって行われていた。そこで国家は,戸主と兄弟・同党に「妻」を同籍した上でその複数の長子=「嫡子」たちを次世代戸主継承候補として確保し,同時に「妻」を若年「嫡子」の後見人に位置づけることで,戸のスムースな父系継承を図ったのである。そして「世代内継承」によって析出された同党を越える遠縁の親族集団は寄口とされ,課丁や戸主継承候補の不足する戸に寄せ付けられた。「妻」と「嫡子」を同籍する寄口は戸主の地位継承候補と目されており,寄口と戸口の間に身分の差はなかったと考えられる。
堀, まどか
野口米次郎の『日本少女の米國日記』(一九〇五)(英語版では『The American Diary of a Japanese Girl』(一九〇一)には、国家間を生きた作家としての原点を、また同時代執筆者における野口の視座の特異性を見ることができる。この作品は、少女の視点で渡米までの心境や米国での体験、米国社会の状況などを日記形式の散文で描いたものである。主人公の渡米憧憬は、女性の権利を認める国への強い期待からくるものであり、背景には移民隆盛の風潮の中での、政治的な意図をもつ女子渡米奨励論の実態がある。この作品は、女子の渡米奨励の言説と渡米熱を反映し、それを支えうる作品であったといえるが、それと同時に、米国移民社会の厳しい現実と困難とをあらわしている。また、米国社会における日本文化認識の浅薄さや誤解について描かれており、野口の批判や不満が表出している。
佐喜眞, 望 Sakima, Nozomi
本論文では、いち早く労働組合運動とその指導者に好意的な発言を行い、労働組合運動の指導者とも親密な関係にあったリブ=ラブ派資本家の代弁者トマス=ブラッシー二世の1871年から1873年までの、学会発表及び講演記録を資料として、彼の労働諸問題に関する見解の変化の過程を解明した。その結果、ブラッシー二世は、ストライキの賃金に及ぼす影響を否定する点については、従来の見解を変えなかったが、労使紛争を調停する機構の設置により前向きになり、一日9時間労働についてもこれを明確に支持している。さらに、労働者の下院への進出についても、結局は国家の安定につながると主張するとともに、他の階級の議員が労働者の要求にもっと耳を傾けるように求めている。このような活動の結果、労働組合の指導者の彼に対する信頼はさらに高まり、両者の関係は、これまで以上に親密なものとなる。
竹村, 民郎
近代日本の国家形成および経済構造の問題を考えようとするものにとって、日清戦争を契機とする海洋帝国構想の解明がいかに重要であるかは言うまでもないだろう。十九世紀中葉における環太平洋経済圏においては、アメリカ、イギリス、ロシア、ドイツ、日本等が同地域の覇権をめぐって、それぞれ帝国間の争いを展開していた。確かに日清戦争の勝利は日本帝国の環太平洋経済圏における地位と役割を増大させた。そしてこのことは本論文で触れようとする海洋帝国構想の多様な展開を飛躍的におし進めていった。一八九五年に創刊された日本の代表的総合雑誌『太陽』に現れた海洋国家論、南進論、植民論、そして経済改革と結びついた貿易立国論等を分析するならば、海洋帝国に関する多様な構想がそのまま日本帝国の環太平洋経済圏における政治、経済、軍事戦略の方向の決定に連なるという重大な事実が浮かび上がってくるのである。
今村, 啓爾 Imamura, Keiji
ランヴァク遺跡は,ベトナムのゲアン省に所在するドンソン文化期,紀元前1~2世紀頃の遺跡である。この時代は,ちょうど日本の弥生時代のように,個性的な青銅器が発達し,鉄器の製作,使用も開始され,稲作を基礎とした社会が国家形成に向けて大きな変化を見せた時代である。1990~1991年ベトナム日本共同調査隊が行った発掘調査では,現在水田となっている谷をはさんで,東側の墓地遺跡(ランヴァク地点)と西側の集落址(ソムディン地点)が調査された。青銅器との関連で重要なことは,墓地遺跡で砂岩製の斧の鋳型が出土し,集落址では鋳型片や溶けた青銅の付着した土器から青銅器鋳造に使われたとみられる炉址が発見されたことである。ランヴァク遺跡はドンソン文化の広がりのなかではかなり南に位置し,ベトナム北部,中国南部ばかりでなく,ベトナム中・南部のサフィン文化やタイのバンチェン文化など周辺の広い地域との関連が見られる。
長部, 悦弘 Osabe, Yoshihiro
北魏孝文帝代は、北魏史上国家体制の一大転換点とみなすことができよう。476年に始まる文明太后馮氏の臨朝聴政下では、484年に班禄制を立て、485年に均田法を頒布し、486年に三長制を敷いた。490年の文明太后馮氏の亡き後、孝文帝親政下で491年に第1次、499年に第2次官制改革を各々遂行し、493年には洛陽遷都を敢行し、496年は姓族詳定を推進した。なかでも493年の平城から洛陽への遷都は、北魏史上領域支配体制の中心たる王都を『農業-遊牧境界地帯』から『農業地域』に移した一大事業であったと言える。小論では、493年9月に孝文帝が洛陽において遷都を宣言した後、494年12月~495年8月までの間「平城尚書省・洛陽尚書省並立体制」を支えていた孝文帝集団の構成員が洛陽遷都・領域支配体制の理念を巡り、賛成・反対二派に分かれた原因について論じた。
白幡, 洋三郎
いわゆる近代スポーツのほとんどは明治維新後、日本に入ってきたものである。しかし近代スポーツは、たいていの日本人にたやすく受け入れられなかった。そこで指導層は、あの手この手を使って民衆を身体運動に馴染ませようとしたのである。だが近代スポーツ、身体運動を積極的に受け入れたのは「洋式」をはじめから肯定して設けられた機関だけであった。民衆のスポーツ・身体運動に対する消極性は、儒教的な身体観である養生論と、伝統的な身体運動の軽視、すなわち勤労以外の身体運動を望ましくない活動であり、たんなる戯れ・遊びとみなす考えによるものであった。花見などの伝統的な屋外の民衆レクリエーションにおいても、身体運動の軽視は見られる。国家や指導者層の初等・中等教育段階における運動会や遠足など、民衆を身体運動に馴染ませようとする教育的活動は、民衆の側から花見と同質の屋外レクリエーションとして「曲解」されることにより、ようやく受け入れられていったのである。
何, 鵬挙
本稿は宮崎滔天が近代中国に託した夢を分析する。滔天は共和制に高い規範的価値を付与し、共和制を政治の極則と見ていた。政体の「進化」について、滔天においては、縦軸の適用性が認められる一方、横軸の適用性が否定された。共和政は「道理」としての政治である。彼は文化の多様性や国情の違いを理由に政体の変革を拒否する考え方を認めなかった。いかなる国家もいずれ共和制に到達すると彼は信じていた。孫文からの影響もあり、滔天において「三代の治」の理想と共和制の理念が根本的に一致するとされ、中国に共和制を導入する思想的障害が一掃された。また、彼は孫文が出した、共和制が中国の現実課題の解決にも適するという主張を受け入れた。さらに、実用性の次元において、滔天は共和制を「方便」とも認識した。彼は共和制を用いて中国の割拠の現実を解決し、分権的統合を図るという孫文の方針に同意した。
黄, 海洪 金丸, 敏幸
われわれは、介護分野において社会に馴染みの薄い専門用語を、平易な日本語(Plain Japanese)という考えに基づいて誰もが理解できる言葉へと言い換える語彙リストを構築した。言い換え対象となる語は、次の2段階で選定した。まず、介護福祉士国家試験を元にした介護コーパスを構築し、現代日本語書き言葉均衡コーパスとの比較を行って介護コーパスの特徴語を抽出する。次に、NTT単語親密度データベースとクラウドソーシングを用いて、抽出された特徴語の単語親密度を調査する。調査の結果、一般の方と専門家との間で親密度の差が1以上あった語を対象語とする。これらの結果、言い換えの対象語は73語となった。その後、介護分野における日本語教育に知見のある専門家4名に協力を得て、用途に応じた3種類の言い換えを作成した。本リストは、介護分野への理解の助けとなるほか、今後増加が見込まれる外国人介護人材への日本語教育にも活用できると考えられる。
井原, 今朝男 Ihara, Kesao
本稿は、前近代の触穢と精進法のあり方を通じて、前近代の呪術・信仰が生業・技術や権力の動き・さらには民衆生活をどのように規制していたのかについて検討し、これまでの通説であるケガレ観念の国家的管理論や、天皇・禁裏や伊勢神宮は神聖な空間が維持され、穢多・清目・河原者には「服忌によっても禊祓によっても払拭できない穢」が集中したとする見解を実証面から批判したものである。本稿では、室町期の内裏では禁中触穢が繰り返され、天皇は四方拝や毎日拝を神事でないことを理由に穢のときでも公事として実施していた史実を指摘した。系譜上の父母である上皇・国母が死去した際には、倚廬とよぶ粗末な庵をつくり十四日間忌みこもりを行なっており、禊ぎと祓えによって死穢をキヨメる呪術的儀礼であったことをあきらかにした。ここから中世天皇や禁中が穢れと浄の混在する世界であったことを指摘した。
白石, 太一郎 Shiraishi, Taichirō
『常陸国風土記』には,7世紀中葉における信太,行方,香島,多珂,石城などの諸評(郡)の建評記事がみられ,国造制にもとづく新治,筑波,茨城,那珂,久慈,多珂の6国が12の評に分割される過程がうかがえる。最近の文献史学の研究は,この『常陸国風土記』の建評記事が,その年紀をも含めてほぼ信じられることを明らかにしているようにうかがえる。小論では,常陸地方の後期から終末期の大型古墳という考古学的資料から想定される6~7世紀の有力在地首長層の動向を,文献史料から復元される国造制から評制へという地方支配組織の変遷過程と対比しながら検討した。それは,文献史料と考古学的資料を総合することによって古代国家形成期の東国在地首長層の動向の一端を具体的に追求することを目的とするとともに,依るべき文献史料を欠く他の地域における後期から終末期の大型古墳の被葬者像の解明にも役立つことを期待したものである。
大藤, 修 Otou, Osamu
本稿は、秋田藩佐竹家子女の近世前半期における誕生・成育・成人儀礼と名前について検討し、併せて徳川将軍家との比較を試みるもので、次の二点を課題とする。第一は、幕藩制のシステムに組み込まれ、国家公権を将軍から委任されて領域の統治に当たる「公儀」の家として位置づけられた近世大名家の男子は、どのような通過儀礼を経て社会化され政治的存在となったか、そこにどのような特徴が見出せるか、この点を嫡子=嗣子と庶子の別を踏まえ、名前の問題と関連づけて考察すること。その際、徳川将軍家男子の儀礼・名前と比較検討する。第二は、女子の人生儀礼と名前についても検討し、男子のそれとの比較を通じて近世のジェンダー性に迫ること。従来、人生儀礼を構成する諸儀礼が個別に分析されてきたが、本稿では一連のものとして系統的に分析して、個々の儀礼の位置づけ、相互連関と意味を考察し、併せて名前も検討することによって、次の点を明らかにした。
趙, 廷寧 翁長, 謙良 宜保, 清一 楊, 建英 孫, 保平 Zhao, Tingning Onaga, Kenryo Gibo, Seiichi Yang, Jianying Sun, Baoping
黄土丘陵ガリ区は中国における侵食の激しい地域の一つである。激しい土壌侵食に半乾燥・乾燥気候,峻険な地形と悪化した生態環境に加えて,土地生産力は極めて低く,住民の生活も貧困である。このような自然・経済状況に鑑み適当な侵食防止策と農業開発技術を探討する為に,「黄土丘陵ガリ区における小流域の土壌侵食防止と農業開発技術に関する研究」を国家の指定研究課題とし,北京林業大学が寧夏回族自治区の西吉県の黄家二岔小流域において,1981年から一連の研究を行ってきた。採用された技術は該当地域の資源レベルと一致し,研究成果は類似な小流域にも適用・普及できる。黄家二岔小流域の侵食防止・農業開発の実際により,流域管理事業には連続的な資金・技術投入があれば,土砂流失は98%まで低減でき,食糧生産高と住民の年平均収入がそれぞれ526%と566%まで増加できるとされている。本研究は当該小流域の侵食防止措置と侵食防止事業の効果について検討するものである。
孫, 建軍
本論は一九世紀中頃までの漢訳洋書を対象に、その中に現れた社会科学関係の内容を紹介し、中国で活動した西洋人宣教師の翻訳、造語活動について分析を行ない、宣教師の造語における限界を指摘した。一九世紀初頭から中頃までの漢訳洋書は自然科学や宗教関係のものが圧倒的に多いが、西洋国家の政治制度や社会制度を紹介する内容もわずかながら見られた。宣教師の造語は「新造語」と「転用語」の二種類に分けることができる。「新造語」は音訳語のほかに、「上院、下院、議会、国債」のような直訳語もある。そして「国会」のように、短文をさらに短縮した語も見られる。それに対して、中国では古典法律用語が発達したため、「転用語」が比較的数が多いといえる。「選挙、自主、領事、自立、民主」などがその例である。宣教師の造語は積極的に行なわれたものの、様々な限界も存在した。専門知識の欠如、「口述筆録」といった翻訳方法、方言の違い、宣教グループ間の対立などが原因となって、宣教師の造語に限界をもたらしたと考えられる。
高井ヘラー, 由紀
植民地支配におけるキリスト教の役割は、これまで「教会と国家」という観点から、どちらかというと統治権力に対して妥協的であったその姿勢が、批判的反省的にとらえられる傾向があった。そのような妥協的姿勢は、「キリスト教国」である欧米のみならず、日本による植民地支配の場合においても同様であった。しかしキリスト教は、植民地支配が生み出す多文化的な状況において、しばしば、異文化に属する「支配者」及び「被支配者」間に、文化的政治的障壁を越えた交流をもたらす媒介でもあった。このことを示す具体的な事例として、本稿では、日本による台湾植民地統治が開始した一八九五年、台湾武力制圧の過程において見られた事例に着目し、植民地統治下台湾における日本、台湾(澎湖)、欧米宣教師の三者間のキリスト教を媒介とした「出会い」及び「交流」の事実を描くことによって、植民地支配下における異文化交流の現実とその問題点を探ることを目的とする。
Kina, Ikue 喜納, 育江
400年以上に渡る沖縄の被植民地的状況は、沖縄の人々から土着の言語を奪った。しかし、それは沖縄の物語る力そのものを完全に奪ったわけではない。「沖縄文学」は、沖縄の発する「声」として、時代と共に移り変わる読者の意識や、日本語と沖縄口(ウチナーグチ)の葛藤の中で、ふさわしい表現を模索しながら存続している。1990 年代に世界的な多文化主義の動きによって、日本文学の多様性の一部として位置づけられた沖縄文学は、21世紀的なグローバリゼーションの中では、国家主義的文学観を越え、「沖縄系」という越境的でディアスポリックなアイデンティティへの認識を高めることによって、新たな位置を獲得しようとしている。沖縄文学の受容をめぐるこのような考察にもとづき、本稿では、崎山多美の文学が、どのような論理にもとづいて、多文化主義や沖縄系ディアスポラの視点による沖縄文学観ともまた異なる「越境言語的」な位相を表現し、グローバルな文脈の中に立脚しているのか。本稿では、拙訳による2006年発表の崎山の短編小説「アコウクロウ幻視行」を例として論じていく。
野入, 直美 Noiri, Naomi
本稿は石垣島の台湾人の生活史の事例から、石垣島における台湾人と沖縄人の民族関係の変容過程をとらえようとする試論の前編である。ここでは、戦前から復帰前までの台湾から石垣島への人の移動と、石垣島における台湾人社会の生成と変容の過程をとりあげる。台湾から石垣島への人の移動は、戦前と戦後を通じて、台湾人実業家が石垣島にもちこんだパイン産業によって形成されてきた。戦前期については、パイン産業の萌芽と台湾人移住の始まり、国家総動員体制下での沖縄人による台湾人排斥を中心に記述を行う。そして戦後期については、パイン産業が石垣島の基幹産業となるなかで台湾人が集住部落を形成し、沖縄人との民族関係が変化していく過程と、復帰前の移行期における台湾人の職業の多様化について記述する。本稿の続編では、復帰後の台湾人社会について、大量の帰化、世代の移行と家族生活の変容、職業の多様化を中心にとりあげ、それらの変化にもかかわらず相互扶助のネットワークが維持されてきた過程について検討する。
長部, 悦弘 Osabe, Yoshihiro
北魏孝文帝代は、北魏史上国家体制の一大転換点とみなすことができよう。476年に始まる文明太后馮氏の臨朝聴政下では、484年に班禄制を立て、485年に均田法を頒布し、486年に三長制を敷いた。490年の文明太后馮氏の亡き後、孝文帝親政下で491年に第1次、499年に第2次官制改革を各々遂行し、493年には洛陽遷都を敢行し、496年は姓族詳定を推進した。なかでも493年の平城から洛陽への遷都は、北魏史上領域支配体制の中心たる王都を『農業-遊牧境界地帯』から『農業地域』に移した一大事業であったと言える。小論では、493年9月に孝文帝が洛陽において遷都を宣言した後、494年12月~495年8月までの間存在していた「平城尚書省・洛陽尚書省並立体制」が孝文帝集団の構成員に支えられ、「平城尚書省」が廃止された翌496年に遷都に反対する旧「平城尚書省」高官陸叡らが中心となって平城で反乱を企てて鎮圧され、「洛陽尚書省単立体制」が確立されたことを論じた。
親川, 志奈子 Oyakawa, Shinako
ハワイがルネッサンスに湧く1970年代、琉球では日本を「祖国」と呼ぶ「復帰」運動が起こっていた。「復帰」40年目にあたる2012年現在、琉球諸語はその特徴である豊かな多様性を残しつつも、若い世代への継承が行われておらず、ユネスコの危機言語レッドブックには琉球諸語のうち六つの言語が登録されている。2006年には「しまくとぅばの条例」が制定され、琉球弧各地においてしまくとぅば復興のための草の根の言語復興運動が展開されており、県庁所在地の那覇では「はいさい運動」など行政の取り組みも起こっているが、政府レベルでの言語政策は存在しない。また言語復興の現場には多文化共生というフレームワークが敷かれており、言語とアイデンティティを同時に語らせるが、インディジニティという自己認識に到達させない仕組みが存在する。本稿では日本が国家=民族と定義し教育してきた背景と「復帰」 に至るプロセスとその結果としてディスエンパワメントされた琉球人の民族意識や言語意識に対するトラウマについて、インディジネスの権利回復運動の中で言語復権を強めたハワイと比較し議論する。
篠原, 武夫 Shinohara, Takeo
(1)ビルマ植民地。イギリス帝国主義はビルマ植民地の森林資源(チーク林)を独占的に支配するために,まず森林資源の国家的所有を実現し,民間商社のチーク林伐採は政府発行の特許によって行ない,それは主に自国独占商社に与えられた。その結果,ビルマ人民の自主的経営は禁止され,全ビルマのチーク林資源はイギリス帝国主義の独占的支配下におかれたのである。このようにして経済的価値の高いチーク林資源はイギリス帝国主義に収奪され,それはビルマ人民の経済からまったく遊離することになったのである。(2)マレー植民地。イギリス帝国はマレーの植民地化に際して,全マレーの土地・森林を国有した。イギリス帝国のとったマレーの植民地政策は,国際的ゴム景気の影響によって,独占資本が森林をとらえた時に,そこには木材生産を主目的とする生産形態でなく,栽植農業を中心としたゴム開発に主力がそそがれ,そのため国有林は農業開発資本と結合して独占利潤追求に奉仕するようになった。そのことは栽植農業(主にゴム)に対するイギリス投資が全投資額の約9割近くに達し,森林資源が豊富に存するにもかかわらず,林業開発に対するイギリスの投資がみられないといったことから明らかであろう。それはまた農業開発に伴って成立した林政が林業生産面で消極的であったこと,および木材生産の担い手が主に支那人で,彼らによる木材生産は国内需要を十分にみたし得なかったこと,などからもわかろう。このようにマレー林業の後進性をもたらした最も基本的な原因は,イギリス帝国主義のとった産業政策の偏倚性,すなわち森林開発=農業開発という政策のあり方に起因していたと言えよう。(3)タイ国半植民地。純然たる植民地における独占資本の森林開発は,宗主国の国家的林野所有を舞台にして展開されるので,森林資源の独占的開発はきわめて容易に進行するが,領土的支配までにいたらない半植民地タイ国の森林開発では,森林がイギリス帝国の所有でないので,同帝国はもっぱら強力な資本力をテコに,まずは林政改革の実権を掌握して,自国独占資本による森林の支配の活動を有利に導き,他の資本を圧倒して森林資源(チーク林)の独占的開発を可能にして行ったのである。イギリス独占資本の支配力は森林の生産過程はもとより,流通過程にまでおよんでいるので,チーク林からの独占利潤の享受は大きかったと言えよう。以上のようなメカニズムを通じてタイ国半植民地の森林資源は,ヨーロッパ資本,なかでもイギリス独占資本の開発下におかれたのである。
ロコバント, エルンスト
一ノ瀬, 俊也 Ichinose, Toshiya
各市町村における従軍者記念誌は、日露戦争終結直後、戦死者が忘却されていくことを嘆いて作られた。だが第一次大戦後、主に在郷軍人会市町村分会によって作られた記念誌は、そのような後ろ向きの意図ではなく、ある積極的な政治的意図、すなわち過去の栄光の記録・記憶化を通じて軍人という自己の存在意義を再確認し、反軍平和思想の盛んだった社会に訴えていくために作られていった。そのような記念誌の中で日清・日露の追憶を語った老兵たちは、戦死者の壮絶な死を語って戦争の「記憶」に具体性を与えて、人々の共感を呼び起こす役回りを演じた。そうした語りのあり方は「郷土の英雄」を求める人々の心情にもかなうものだった。老兵たちが自己の従軍体験を語る際、確かに悲惨な体験も語ったものの、基本的には名誉心充足の機会として戦争を描いていた。そのような従軍者たちの「語り」を彼らの〝郷土〟が一書に編む時、彼らが国家の大きな歴史に占めた位置、役割の説明が熱心に行われた。それは戦死者の死の〝意味〟を明らかにし、ひいては戦争自体の持つ価値を地域ぐるみで再確認、受容することに他ならなかった。
江上, 能義 Egami, Takayoshi
馮, 天瑜
古漢語「経済」の元々の意味は、「経世済民」、「経邦済国」であり、「政治」に近い。日本は古代より「経世済民」の意義で「経済」を使ってきた。近世になって、日本では実学が勃興し、その経済論は国家の経済と人民の生活に重点が置かれた。近代になると、さらに「経済」という言葉をもって英語の術語Economyを対訳する。「経済」の意味は国民生産、消費、交換、分配の総和に転じ、倹約の意味も兼ねる。しかし、近代の中国人学者は、「経済」という日本初の訳語に対してあまり賛同しないようで、Economyの訳語として「富国策、富国学、計学、生計学、平準学、理財学」などの漢語を対応させていた。清末民国初期、日本の経済学論著(とりわけ教科書)が広く中国に伝わったことや、孫文の提唱により、「経済」という術語が中国で通用するようになった。しかし、「経済」の新義は「経世済民」の古典義とかけ離れているばかりでなく、語形から推計することもできないから、漢語熟語の構成根拠を失った。にもかかわらず、「経済」が示した概念の変遷は、汎政治的汎道徳的な観念が中国においても日本においても縮小したことを表している。
山崎, 誠
本稿では,実践医療用語を語彙の量的な分布を通して概観するとともに,語構成的な特徴を明らかにする。利用するデータは,2020年5月に公開されたComeJisyoUtf8-2に収録されている114,957語である。これをMeCab0.996とUniDic-cwj-2.2.0で解析し,『分類語彙表増補改訂版』の情報を付与したものを利用した。主な結果は,以下のとおり。(1)1語あたりの短単位数は平均2.67,最大値は13であった。(2)中項目の意味分類では,全体では「量」「身体」「作用」「生命」「心」が上位5カテゴリーであるが,語頭・語中においては,「身体」がもっとも多く,語末では「生命」がいちばん多かった。(3)分類項目では,全体では「病気・体調」がいちばん多かったが,語頭では,「膜・筋・神経・内臓」,語中では「性質」,語末では「病気・体調」が最多であった。(4)国家試験(看護師,助産師,管理栄養士)や看護師及び管理栄養士養成校で使用されている教科書での出現状況においても意味分布に違いが見られた。(5)ComeJisyoを語の専門用語としての汎用性・一般性から類別し,特徴を見た結果,一般性が高くなると語が長くなるなどの違いが見られた。
高橋, 一樹 Takahashi, Kazuki
王家や摂関家の中世荘園は、それぞれの家政機関(院・女院庁や摂関家政所)や御願寺に付属するかたちで立荘・伝領される。本稿はこのうち王家の御願寺領荘園群の編成原理と展開過程の分析を通じて、個別研究とは異なる角度から中世荘園の成立と変質の実態について論じた。具体的な素材は、関連文書と公家日記等の記録類とを組み合わせて検討しうる、十二世紀後葉に建立された最勝光院(建春門院御願)の付属荘園群をとりあげた。最勝光院領の編成と立荘については、落慶直後から寺用の調達を目的に六荘園がまとめて立荘され、その後も願主の国忌(法華八講)などの国家的仏事の増加に対応して新たに立荘が積み重ねられた。その前提には、願主やその姻族(平氏)と関係の深い中央貴族から免田や国衙領が寄進されたが、実際に立荘された荘園は国衙領や他領をも包摂した複合的な荘域構成をとっており、知行国主・国守との連携にもとづく国衙側と協調した収取関係(加納・余田の設定)をもつ中世荘園の形成であった。また、最勝光院領に典型的にみられる立荘と仏事体系のリンクが、御願寺および付属荘園群の伝領を結びつけており、御願寺の継承者が仏事を主催し付属荘園から用途を徴収する現象の原理をここに見いだしうる。
ザロー, ピーター
栄原, 永遠男 Sakaehara, Towao
正倉院文書に関する研究は,写経所文書の研究を中心とすべきである。そのための前提として,接続情報に基づいて,断簡の接続を確認し,奈良時代の帳簿や文書を復原する必要がある。「東大寺写経所解」を例とすると,これは9断簡からなっている。『大日本古文書(編年)』の断簡配列は,その根拠があいまいで,誤りを含んでいる。接続情報に基づいて断簡を配列し直すことにより,これが天平19年12月15日付の文書であることを,かなりの確率で言うことができる。そうすると,この文書は「東大寺」に関する最古の史料であることになる。国家仏教の中心寺院として東大寺が位置付けられた画期を示しており,重要である。個別写経事業研究は,断簡の集合体である写経所文書を写経事業ごとに仕分ける意味を持つが,一方で,独自の意義を有している。その例として注陀羅尼4000巻の写経事業に注目する。これは,天平17年8~9月ごろに始まったと推定される。この推定が妥当であるとすると,この写経事業は,聖武天皇の病気平癒祈願として行われたと推定できることになる。そのころすでに宮中で密教的な修法が行われていたことを示す。個別写経事業研究は,奈良時代の仏教,仏教と政治との関係などの研究に資するところが大きい。
落合, 研一 Ochiai, Ken-ichi
安里, 進 Asato, Susumu
20世紀後半の考古学は,7・8世紀頃の琉球列島社会を,東アジアの国家形成からとり残された,採取経済段階の停滞的な原始社会としてとらえてきた。文献研究からは,1980年代後半から,南島社会を発達した階層社会とみる議論が提起されてきたが,考古学では,階層社会の形成を模索しながらも考古学的確証が得られない状況がつづいてきた。このような状況が,1990年代末~2000年代初期における,「ヤコウガイ大量出土遺跡」の「発見」,初期琉球王陵・浦添ようどれの発掘調査,喜界島城久遺跡群の発掘調査などを契機に大きく変化してきた。7・8世紀の琉球社会像の見直しや,グスク時代の開始と琉球王国の形成をめぐる議論が沸騰している。本稿では,7~12世紀の琉球列島社会像の見直しをめぐる議論のなかから,①「ヤコウガイ大量出土遺跡」概念,②奄美諸島階層社会論,③城久遺跡群とグスク文化・グスク時代人形成の問題をとりあげて検討する。そして,流動的な状況にあるこの時期をめぐる研究の可能性を広げるために,ひとつの仮説を提示する。城久遺跡群を中心とした喜界島で9~12世紀にかけて,グスク時代的な農耕技術やグスク時代人の祖型も含めた「グスク文化の原型」が形成され,そして,グスク時代的農耕の展開による人口増大で島の人口圧が高まり,11~12世紀に琉球列島への移住がはじまることでグスク時代が幕開けしたのではないかという仮説である。
Mwale, Moses Mwale, Moses
食料へのアクセスの不足と食料供給量の不足はアフリカでの主要な問題であり、人間の福祉と経済成長のための基本的な課題である。低農業生産は、低所得、栄養不足、リスクへの脆弱性、エンパワーメントの欠如をもたらす。アフリカ開発のための新パートナーシップ(NEPAD)は、食糧安全保障と持続的国家経済を確保するために年間平均6%の農業生産性の増加が目標である。土地荒廃と土壌肥沃度の枯渇、すなわち土壌養分の枯渇が、半乾燥熱帯(SAT)での食糧安全保障と自然資源保全に対する大きな脅威であるとかんがえられている。アフリカでは、農民に経済力を与えること、効率的で、有効な、手頃な農業技術を用いて持続的な農業集約化を推進することによって、貧困と土地荒廃の間にあるサイクルを壊すことが必要である。そのような手頃な管理システムは貧しく、小規模な生産者にとって利用しやすく、そのアプローチは技術的、制度的な変化を促進するために全体論的でありダイナミックでなければならない。 本論文は、ザンビアでの土壌とその管理に基づく知識を普及することが目標である。土壌保全と保全型農業の問題を含んでいる。主な取り組みは、1.土地荒廃を軽減するのに利用可能な技術を棚卸しすること、そして農民参加型アプローチから農民の事情を踏まえた最善の策をどのように示し、適用するかということ、2.適切なツール、方法、戦略の利用を通じて持続的な土地管理やマーケティングオプションのための最善の策を拡大すること、3.環境変動下で結果として生じる生態レジリアンスを研究することである。
金子, 未希 KANEKO, MIKI
本論文は、シンガポールのアーカイブズ史を編年する。そこでターニングポイントとなるのが、1968 年の公文書館の設立である。植民地、軍政、独立の歴史を歩んできたシンガポール国民の記憶は、シンガポール国立公文書館に記録されている。設立されてからの公文書館が期待された役割は、時代とともに変わっていく。本論文では、公文書館の法的根拠となる以下の3 つの法律に注目した。国立公文書館センター法、国家遺産局法、国立図書館法は、その成立年や公文書館の所属機関によって少しずつ変わっていく法的根拠を表している。比較する際には、公文書の移管・処分破棄・閲覧の3 点に注目した。移管と処分破棄に関する条文の比較では、実行の権限とその処理に伴う責任が、個人から組織へと移動していることを指摘した。特に公文書の処分破棄は、公文書館の最重要な役割ともいえるもので、その権限と責任の所在が変化している点は注目に値する。閲覧に関する条文の比較では、記録媒体の変化に対応する公文書館の姿が見えてくる。メディアの発展により、公文書館で保存すべき資料に音声資料が加わる。このように、記録へのアクセスの仕方が変化することで、閲覧に関する条文に変化がみられる。閲覧の際、発生すると考えられる個人情報の問題への対応など、法的環境のバージョンアップを確認した。年代の異なる3 つの法を比較することにより、時代の変化に対応する公文書館の姿が見えてきた。
フラッヘ, ウルズラ Flache, Ursula
本論文ではドイツ語圏の日本学の中で行われている神社研究の,創成期から現在に至るまでの概観である。ドイツ語圏の日本学では,日本の宗教についての研究は部分的な領域をなすに過ぎない。神社に限定した研究はさらに稀である。したがって研究の成果は非常に限られている。神社はたいてい神道のその他の研究との関連で言及される。歴史的概観は4つの節に区分されている。第1節では日本についての初期の報告(ケンペル,シーボルトなど)を紹介する。第2節では明治時代から第二次大戦までの研究文献を説明する。明治時代における神社研究に関してフローレンツ,シラー,シューアハマーとローゼンクランツを列挙する。続いて,グンデルト,ボーネルとハミッチュという第二次大戦前の指導的な神道研究者について述べる。彼らがナチスのイデオロギーに近い視点から研究結果を発表したため,戦後には神道と関わる研究がタブー視された。第3節は戦後の研究文献を説明する。神道研究はしばらくの間完全に中止されていたが,ウイーン大学における民俗学を迂回することによって,神道はようやく日本学研究の中に復活した。ウイーン大学を卒業したナウマンが戦後の最も影響力のあった神道研究者となった。さらに,国家と神道の関係を研究したロコバントが神社研究に大きな貢献をした。第4節では20世紀の終わりから現在までの研究文献を紹介する。現在の指導的な神道研究者としてアントーニとシャイドの名前を挙げることができる。
新谷, 尚紀 Shintani, Takanori
本論文は柳田國男を中心として折口信夫の参加によって創始された日本民俗学を継承する立場から提出する伊勢神宮の創祀をめぐる試論である。結論として得ることができたのは以下の諸点である。伊勢神宮の創祀の歴史的過程については、推古朝における日神祭祀、斉明朝における出雲の祭祀世界の吸収、持統朝の社殿造営と行幸、という三つの画期があった。確実な伊勢神宮の造営は天武二年(六七三)四月の大来皇女の泊瀬の斎宮への籠もりから翌三年(六七四)一〇月の伊勢への出発の段階である。そして、持統六年(六九二)の伊勢行幸に際して社殿の造営が完了していたことは確実である。それは律令制的な税制度のもとでの伊勢神宮の造営であり、新益京(藤原京)という新たな都城の造営と対をなす国家的事業であった。政治権力の基盤としての律令制と都城制、に対応する宗教権威の基盤としての神祇制と官寺制、という律令国家の体系のもとで、その神祇制の中核としての意義をもつ伊勢神宮の造営と祭祀がそこに完備されたのである。そして、天照大神のモデルとなったのは高天原広野姫天皇をその謚号とする持統天皇であった。ただし、伊勢神宮の創祀の意味はこのような歴史的な事実関係の追跡からだけでは重要な点が見えてこない。『記紀』になぜ出雲神話が存在するのかという問題も含めて、出雲大社の祭祀と対をなすものととらえるとき、はじめて大和王権の祭祀世界が見えてくる。〈外部〉としての出雲、という概念設定が有効なのである。そして、以下の点が指摘できる。天武と持統の大和王権を守る装置として位置づけられたのが、伊勢と出雲という東西の海に面した両端の象徴的霊威的存在であった。王権神話で政治は皇孫に、神事は大己貴神にとの分業を語るとともに、それは同時に、朝日(日昇)―夕陽(日没)、東方(対外的安全領域たる太平洋の海辺)―西方(対外緊張の日本海の海辺)、太陽―龍蛇、陽―陰、陸(新嘗祭)―海(神在祭)、現世(顕世)―他界(幽世)、という対照性のコスモロジーの中に位置づけられる関係性であった。七世紀末から八世紀初頭にかけて成立した天武・持統の大和の超越神聖王権とは、〈外部〉としての出雲、の存在を必要不可欠とした王権だったのである。出雲の祭祀王にとって龍蛇祭祀とは毎年繰り返される外来魂の吸収儀礼であり、一方、大和の祭祀王が新嘗祭と大嘗祭に先立って執行する鎮魂の祭儀も外来魂の吸収儀礼である。そのような外来魂の吸収という呪術的霊威力の更新の儀礼と信仰を大和の王権が獲得しそれを内部化できたのは、出雲の祭祀王権との接触によってであり、〈外部〉としての出雲、の設定によるものである。天皇の鎮魂の祭儀とは、外来魂を集めるむすび(結び)とむすひ(産霊)、その外来魂を天皇の身体に定着させるたまふり(鎮魂)、そうして内在魂となった天皇の霊魂を増殖し活性化させるたましずめ(鎮魂)、そしてその天皇の創造力豊かな増殖する内在魂を臣民へと分与するみたまのふゆ(皇霊之威・恩頼)までを含むものであり、天皇という存在と機能の基本がその霊魂力(生命力)の不断の更新とその分与にあるということを示す。この王権論を普遍化する視点からいえば、カール・ポランニー Karl Polanyi のいうところの、中心性centricityと再分配redistributionの構造とみることもできる。
渡辺, 信一郎 Watanabe, Shinichiro
建中元年(780)に成立した両税・職役収取体系にもとづく財務運営の特質は,収支両面にわたる定額制の存在である。建中元年の両税法の成立に際し,唐朝は,様ざまな制度外の租税徴収によって達成された大暦年間の各州最高実徴額を両税定額として設定しなおし,また収取定額を上供(中央経費)・留使(地方道経費)・留州(地方州府経費)に再分配し,経費においてもその根柢に定額制を設定して財務運営をおこなった。それは,開元二四年(736)以後,建中元年に至る45年間に,過渡的に実施された租庸調制・「長行旨条」・定額制による財務運営にかえて両税・専売制と旨符編成とによる運営に転換したものであり,本格的な「量出制入」による財務運営を開始することになった。「量出制入」にもとづく財務は,単年度ごとに正月に中央政府が発布する旨符(財政指針)と毎年度末十二月に塩鉄転運・度支・戸部の三司が宰相府に提出する会計報告および諸道節度使・観察使が戸部尚書比部司に提出する勾帳(財務監査調書)とによって運営された。それはまた長期的に定額を設定することによって収支基準額を固定し,そのうえで財源不足や収入超過をやりくりすることによって収支均衡をはかる財務運営方式であり,予算制度に基づく財務運営ではない。この定額制にもとづく財務運営は,前提をなす両税・職役収取体系とともに,18世紀初頭の盛世滋生人丁による支配丁数と税額の固定,および18世紀半ばの地丁銀制成立によって事実上廃棄されるにいたるまで,ともに後期専制国家財政の根幹をなした。
篠原, 武夫 Shinohara, Takeo
(1)アメリカ帝国主義は, 米西戦争の勝利によって, スペイン領フィリピンを分割支配することになった。アメリカ帝国主義はフィピンを自国経済にとっての良き資本輸出, 製品販売, 原料供給市場として位置づけたばかりでなく, 該領を中国市場へ進出するための軍事的拠点としても高く評価していた。アメリカの植民地政策は, 産業資本の未成熟なスペイン時代における消極的な植民地政策とは異なり, 産業開発をかなり推進した。植民地主義の枠内ではあるが, 経済開発が必要であったからである。だが, その枠は本国本位を修正したものであった。農民を基盤とする革命軍の革命的性格を除去するためには民族的要求もとりいれざるをえず, また19世紀末から20世紀にかけての国際経済の発展と独占段階における激しい植民地獲得競争が, 完全な本国経済中心を許さなかったからである。したがって帝国主義国家ではあるが, 懐柔策として宗教体制を基盤とするスペイン領有時代の政治を転換し, 民主政治と独立への展望をフィリピン人に与えた。それはアメリカがフィリピン植民地支配に残した大きな特徴の一つである。アメリカは植民地化当初はフィリピン民族主義を弾圧したが, 漸次フィリピンの自治拡大を図っていった。ついに1934年にはコモンウエルス政府ができ, アメリカ統治機構の中枢であった総督制はなくなり, それに代るものとして高等弁務官制が布かれた。しかし, せっかくフィピン人独自の自治政府ができたものの, その自治には限界があり, 重要な政治, 経済権はすべてアメリカが握っていたのである。アメリカがフィリピン植民地に認めた自治体制は, いってみればアメリカ資本の利益に基づくものであり, そこには常に資本の論理が作用していたのである。
Vongxay, Phonemany
本研究は、海外援助を得たミクロレベルの農村開発の3つ事例の分析により、 「Lao Way」の内発的発展という新しい流れをもたらす可能性を論じるものである。研究方法は、海外援助を得たヴィエンチャン近郊の2つの農村(リンサン村とターサン村)と遠隔県の農村(カムペードン村)での比較調査で、質的調査と量的調査を行い、国際社会学の視点から実証的に分析した。これらの調査では、ラオス政府主導のトップダウン型の開発(リンサン村)、ボトムアップ的な特徴をもつ開発(ターサン村)、公衆衛生や栄養問題、教育など基本的ニーズの向上をプライオリティとする開発(カムペードン村)における内発的発展の視点から見た課題を明らかにし、海外援助を得たそれぞれの村が特性に合わせた持続可能な開発にどのように取り組もうとしたのか、その経緯や地域社会における課題解決の方策を量的調査と質的調査で明らかにすることを試みた。結果として、ボトムアップ的な特徴をもつ開発スタイルが内発的発展のために有効であること、そのためには政府や海外援助などの外部からの「サイドサポート」が大きな役割を果たしていること、村における中間レベルのアクターが「Lao Way」をより実践可能な形で叶えるために重要であることが明らかになった。 中間レベルのアクターは国家と地域社会の間で双方の役割やパワーバランスに偏りが出ないような調整役となるだけでなく、村レベルの社会にとっては活動を通して生産力の向上や政府機関と協力体制を築く効果をもたらし、社会主義国のラオスであってもボトムアップ式の開発方法を取り入れることによって、持続可能な内発的発展となる可能性が高いと結論づけた。
與儀, 峰奈子 Yogi, Minako
本研究は小渕フェローシップの支援によって実施された遠隔教育の実践結果に基づき、遠隔通信\n技術がもたらす小学校英語教育の可能性について\n考察することを目的とする。2005年1月28日、琉球大学、米国東西センター、ハワイ大学を結び「テレカンファランス2005-クロスロード・イノベイションに向けて-」と題する遠隔通信会議が実施された。その成功を受け、同年2月19日、琉球大学附属小学校が主催する千原初等教育研究大会の分科会において、この遠隔通信システムの小学校英語教育への導入の可能性を提案し、5月26日実際に琉球大学附属小学校とハワイプナホウ小学校の児童による遠隔交流会を実施した。更に7月22日には、千原初等研究大会において附属小学校とハワイ東西センターを結ぶ遠隔通信を行った。\nこの遠隔地でのやり取りを可能にしているIP通信技術は、“e-Japan''から"u-Japan"へと矢継ぎ早に策定される国家規模の戦略の下、より安価で高速なものへと急成長を続けている。この技術の進歩は刮目に値するもので、特に通信の体感速度には驚嘆させられる。音声に時間的ズレはほとんどなく、映像もスムーズで一頃のテレビ電話が想起させるコマ送り映像の面影はない。このような技術革新に伴ってITもICT(Information Communication Technology)とその名称を変化させている。この付記された"C(コミュニケーション)''は、情報収集等に重きが置かれていた従来の受動型の」情報化社会から自己参与型への移行を示しており、今回の遠隔交流の実践もその潮流の中にある。海外とのリアルタイムの交流は英語教育にとって測り知れないメリットを生む。教室での学習が時空間を超えた生の体験の中で実践されていくのである。本研究では、国際理解教育にも関連付けて議論したい。
シャイヤステ, 榮子 Shayesteh, Yoko
日本で初めて音楽療法に関する文献が出版されたのは1958年精神科医の蜂矢英彦によってであった。1959年、山松質文が自閉症児に対する音楽療法の実践を始め、1966に『ミュージックセラピー』を出版し、1967年の英国人の音楽療法士ジュリエット・アルバン来日によって日本は音楽療法の創成期を迎えることとなる。その年には、山松は障害児教育の加賀屋哲朗とともに日本音楽療法協会設立、1976年には櫻林仁が日本音楽心理学音楽療法懇話会を発足、1977年には赤星建彦が財団法人東京ミュージック・ボランティアを設立することとなる。1980年代には、医師を中心に音楽療法の効果の客観性や科学的な効用が問われるようになり、1986年には日野原重明や篠田知璋らが日本バイオミュージック研究を設立、1987年には村井靖児が東京音楽療法協会を設立した。1990年代に入ってからは、理論と更なる実践の量的・質的研究を求め日野原重明を代表とする日本バイオミュージック学会が1991年に設立、1994年には松井紀和・村井靖児によって臨床音楽療法協会が設立された。音楽療法への興味・関心は首都圏から地方都市へと広がり、時を同じくして、1994年に岐阜県音楽療法研究所が設立、そして奈良市では音楽療法検討委員会が発足し、音楽療法士養成や認定へ向けての養成コース開講や講習会等が始まっていた。1996年には岐阜県音楽療法士、1997年には奈良市音楽療法士の第一期生が認定された。1995年、日本バイオミュージック学会と臨床音楽療法協会は全日本音楽療法連盟へと統合され、音楽療法の啓発と普及活動と同時に会員の資質向上を目指して活動を継続し1996年には100名の音楽療法士の資格認定をした。同連盟は音楽療法士の国家資格を目指し組織を発展させて2001年には日本音楽療法学会を発足させ日本国内では最大の学会員を持つ組織として現在に至っている。
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