340 件中 1 〜 20 件
稲村, 務 Inamura, Tsutomu
主として紅河州の土司遺跡の調査資料とラオスの調査資料を示した。中国南部を中心に近代国家以前の政体をこれまでの東南アジアの政体モデルの検討を通じて、特にJ.スコットの所論を基に、「盆地国家連合」「山稜交易国家」という理念型でとらえなおした。これまで静態的に捉えられてきたハニとアカの文化を「切れながら繋がる統治されないための術」と解釈しなおすことを通じて両者を架橋する新しい山地民像を提示した。
渡部, 森哉
南米アンデス地域に15,16 世紀に台頭したインカ国家は,南北約4000 kmという広大な範囲の約1000 万の住民を征服した。インカ国家においては,地方の民族集団の支配のため,首都クスコと結ぶ道路網が整備され,各地に行政センターが設置された。本論文は,ペルー北部高地カハマルカ地方の事例を基にインカによる征服に伴い地方社会に生じた変化を検討し,インカ国家における地方支配の特徴を考察することを目的とする。 植民地時代初期に残された史料の情報を分析すれば,インカ国家は各地の民族集団を征服し,手を加えず温存する形で支配下に治めたと想定できる。しかし史料に基づくモデルは考古学データと一致せず,インカ国家の一行政単位であるカハマルカ地方の範囲内にはインカ期以前に土器,建築,墓などの特徴に統一性は認められず,むしろ異質性が認められる。そのため,インカ期の行政単位,民族集団のまとまりの祖型を先インカ期に認めることはできず,むしろインカ期に大規模に人間集団が分断,統合され,再編成されたと結論づけることができる。
有富, 純也 Aritomi, Junya
本稿は、神社社殿の成立時期について、律令国家との関係に注目しながら検討し、また、摂関期の国家と神社の関係についても論及するものである。神社社殿がいつ、どうして成立したかについては、多く研究があるものの、これまでの研究成果を充分に消化しつつ、論じたものはあまり存在しないと思う。そこで❶章では、あらためて研究史整理を行い、神社社殿成立の時期について詳細に検討した。その結果、①律令国家の成立と神社社殿の成立はほぼ同時期であること、②律令国家成立以前の宗教施設には、大きく分類して、建築物を有しないモリと、建築物が付随するホクラがあること、以上二つの仮説を得た。❷章では、ホクラと神社社殿の関係について、中国の「社」のあり方や平安時代の記録を用いて検証した。中国の宗教施設である「社」は建築物を伴わないことから、神社建築は中国の影響を受けない日本固有のものであると推測した。とすれば、七世紀以前に存在したホクラが神社建築に深く関係すると考えることもできよう。律令国家成立期、祈年祭を中心とした班幣制度を創始するにあたり、地方に幣帛を納める宗教施設として、建築物を伴う「神社」も創出されたのではないか。❸章では、❶章の仮説①を検討するべく、律令国家が転換した十世紀以降における神社社殿と摂関期の国家・受領の関係について考えた。受領の神拝や神社修理について検討した結果、十世紀以降の神社社殿は、受領が社殿の繁栄や退転に大きく関係していることが判明した。律令期との相違は若干あるものの、摂関期の受領や国家などの支配者が神社社殿の維持に大きな役割を果たしたことは間違いないようである。律令国家は、神社社殿成立に深く関与しており、また、摂関期においても受領が中心となって社殿を維持していたと結論づけた。
三河, 雅弘 Mikawa, Masahiro
本稿は、八世紀以前に成立した寺領の八世紀における実態を解明し、さらに、それと国家による土地把握との関係を検討したものである。これまでの研究は、八世紀初頭における寺領の実態や、同時期の国家による土地把握との関係について、主に八世紀中頃以降に作成された史料を軸に検討してきた。あわせて、八世紀の土地把握方法について条里地割の存在を前提に構築してきた。しかし、八世紀中頃以降の史料はあくまでも、その時点における状況を示した史料であることは留意される。また、土地把握方法についても、八世紀の広範な条里地割施工は想定できないことが近年の発掘成果によって示され、修正を求められている。そこで本稿は、八世紀以前に成立した寺領である讃岐国山田郡弘福寺領を検討対象とした。同寺領は八世紀初頭から中頃かけての史料に恵まれており、同時期における寺領の実態や国家による土地把握との関係を理解していく上で、有効な事例である。国家による土地把握については、国家が班田作業時に設定した一町の方格網の存在に注目し、それをもとに検討を進めた。検討の結果、次のことを明らかにした。八世紀の讃岐国山田郡弘福寺領は、田および田以外の地目などから構成されていた。八世紀初頭の国家は田記を作成し、同寺領における田の面積のみを把握していた。その後、国家は、八世紀中頃までに、一町の方格網による班田作業結果を記した班田図をもとに、田の所在確認を含めた把握を行っていった。これは成立が古い他の寺領に対しても同様に行われていたと想定される。さらに、八世紀中頃に入ると、寺院縁起資財帳の整備を通じて、田だけでなく田以外の地目などを含む地、すなわち寺領全体の把握へ向かっていった。このように、八世紀初頭から中頃の国家は、寺領に対して田のみの把握から田だけはなく地の把握を展開していった。そして、国家は、こうした土地把握の展開をもとに、その後、寺院による墾田を含めた新たな土地領有に対する認定や把握をしていった。
広瀬, 和雄 Hirose, Kazuo
西日本各地の首長同盟が急速に東日本各地へも拡大し,やがて大王を中心とした畿内有力首長層は,各地の「反乱」を制圧しながら強大化し,中央集権化への歩みをはじめる。地方首長層はかつての同盟から服属へと隷属の途をたどって,律令国家へと社会は発展していく,というのが古墳時代にたいする一般的な理解である。そこには,古墳時代は律令国家の前史で古代国家の形成過程にすぎない,古墳時代が順調に発展して律令国家が成立した,というような通説が根底に横たわっている。さらには律令国家の時代が文明で,古墳時代は未熟な政治システムの社会である,といった<未開―文明史観>的な歴史観が強力に作用している。北海道・北東北と沖縄諸島を除いた日本列島では,3世紀中ごろから7世紀初めごろに約5200基の前方後円(方)墳が造営された。墳長超200mの前方後円墳32/35基,超100mの前方後円(方)墳140/302基が,畿内地域に集中していた。そこには中央―地方の関係があったが,その政治秩序は首長と首長の人的な結合で維持されていた。いっぽう,『記紀』が表す国造・ミヤケ・部民の地方統治システムも,中央と地方の人的関係にもとづく政治制度だった。つまり,複数の畿内有力首長が,各々中小首長層を統率して中央政権を共同統治した<人的統治システム>の古墳時代と,国家的土地所有にもとづく<領域的統治システム>を理念とした律令国家の統治原理は異質であった。律令国家の正統性を著した『日本書紀』の体系的な叙述と,考古学・古代史研究者を規制してきた発展史観から,みずからの観念を解き放たねばならない。そして,膨大な考古資料をもとに,墳墓に政治が表象された古墳時代の350年間を,一個のまとまった時代として,先見主義に陥らずにその特質を解明していかねばならない。
金谷, 美和
本論では,インド,グジャラート州カッチ県ブジの絞り染め生産者を対象にして,いわゆる「伝統的な」染織品の生産者たちが,グローバルな消費の拡大や市場経済の導入などにどのように対応しているか,特に変化の導入の仲介となった国家との関係において論じる。なかでも特に,個人と国家との関わりに焦点を当て.国家による経済的援助とセットになった「手工芸」や「職人」表象を,各個人がどのように戦略的に取り込んで活用し,現代的変化に対応しているかについて明らかにした。
吉田, 亮
海外宣教師の伝道活動は、国家や地域の再編や、複数国家や地域間のヒトの移動によって複数国家や地域にまたがることがある。海外移民伝道は典型例である。移民伝道に従事した宣教師の活動は「一国史」研究の枠を取り払った「越境史」的手法でのみ解明できる。一九世紀末期にアメリカン・ボード日本ミッション宣教師が展開したハワイ日本人移民伝道は、まさに「越境」伝道と呼べるものであった。「越境」伝道は日本ミッションの伝道地を「脱領土化」してハワイにまで広げるだけでなく、国家に付随する一元的な政治的、文化的忠誠心に挑戦し、宣教師のアイデンティティを複合化した。また、移民という「越境」行動はハワイと日本間の宣教師ネットワークと、ハワイとカリフォルニア間の日本人ネットワーク形成の要因となり、複数ネットワークが交錯することで双方を補強した。最後に、「越境」伝道はハワイアン・ボード、日本ミッションおよび日本組合基督教会の伝道史や、その背後にあるハワイおよび日本の政治文化史にも関与した。
柏岡, 富英
前回の議論(「『言いわけ』の比較文化論(一)―序説」、『日本研究』第4集、一九九一年三月)では、特定の社会状況の中で行為を発動したり思いとどまったりするメカニズムとしての「言いわけ」を、ミクロのレベルで(個人行為者を単位として)考察した。今回は、その図式をマクロ(集団)レベルにも応用できるかを、民族集団ないし民族運動に即して考える。「民族」は「国民国家」という枠組ないしイデオロギーを前提として生じる近代特有の社会・政治現象である。人間社会の「本性」としてもともとそなわっていた「民族性」がついに開花した結果として近代的国民国家が生み出されたのではなく、近代的国民国家が「民族自律」という「言いわけ」に正当性を与えたのである。
于, 彦 篠原, 武夫 Yu, Yan Shinohara, Takeo
国有林の経営活動は国家の経済改革の影響を強く受け,大きな曲がり角を迎えている。計画経済体制下に作られ肥大化した伊春林業管理局が国家による庇護がなくなりつつある現在と将来においては,市場経済体制への移行に生き残れるか,どのようにしてこの試練を乗り越えるかということは伊春林業管理局だけではなく,国有林の全体が直面している問題であると言えるだろう。これらの問題の解決は国家として,部門として,企業自身として,もう少し時間をかけて検討していく必要がであろう。さらにこうした状況の中で,国有林の新たな展開にとっての大きな目標である地元への経済的貢献と国民への奉仕との両立がどのように達成されるのか,今後とも黒竜江国有林の社会主義市場経済体制の進展に注目していきたい。
内藤, 直樹
本稿は,近年のアフリカ諸国における政治的民主化と地方分権化の流れのなかで,これまで「国家の外側」に位置づけられてきた東アフリカ牧畜社会の人びとがどのように国家に包摂され,これまでの集団への重層的な帰属にもとづく柔軟な民族間関係にいかなる変化をもたらしているのか検討する。アフリカ諸国が政治的民主化と地方分権化を達成するためには,選挙運動の過程で構築される利害集団間の対話や和解の可能性を模索することが必要とされている。しかしケニアでは1992 年の複数政党制や2003 年の地方分権制の導入以降,さまざまな地域で再創造された民族への帰属意識にもとづく利害集団間の対立や紛争が深刻化している。ケニア北部に分布する牧畜社会はこれまで,高い移動性と他集団との柔軟な民族間関係を維持することで,家畜喪失のリスクへ対処してきた。これまでは牧畜社会が国家に包摂される過程で,こうした民族間関係の柔軟性は失われてしまうという議論が主流であった。しかしながら東アフリカ牧畜社会はすでに長期にわたって国家との関わりを経験しており,そのなかで利害集団間の敵意を調停する技法を育んできた。こうした牧畜的な「敵」との対処法は,アフリカの政治的民主化を達成するための潜在力を持っていると考えられる。
伊集院, 葉子
政治空間という概念は幅広いが、本稿では、国家意志の決定・執行及び、国家意志が形成される「場」を政治空間と定義し、そのなかでも朝儀に焦点をしぼって国家意志形成過程への女性の参画を考察したい。八世紀に女性が朝儀に参列したことは既に指摘されてきた。それは、男女ともの王権への仕奉を前提にした、朝儀への参会が仕奉の一形態だという観念に起因する。天平宝字四年の藤原仲麻呂の太政大臣任官儀は、仲麻呂を政権の中枢に据えるという王権の構想を、諸司を領導する官人たちに周知するために行われた。女性もここに行立したのは、天皇の意志を官人に周知徹底し国家意志を形成していく過程に組み込まれていたからである。これまでの研究では内侍司が重視されてきたが、王権は、国家意志達成のために他の後宮十二司の女官の動員も必要としたことが、『続日本紀』和銅元年七月乙巳条から明らかとなった。朝儀への列立にあたっては、五位というラインが重要だった。女性への五位直叙の背景には、朝儀に行立し得る資格を彼女たちに与える王権側の動機があったのである。『日本書紀』『古事記』にみえる鏡作氏の上祖イシコリトメは、専門職集団を率いる女性リーダーである。七世紀から八世紀にかけて、専門的な職掌で王権へ仕奉した人々の祖先伝承には、部を率いる女性の姿を想定させるものが含まれる。応神紀の吉備氏伝承中の兄媛は、織部を管掌することで王権に仕えた、伴造というべき女性として読み解かれるべきだろう。『日本書紀』に菟狭国造の祖としての菟狭津媛が記され、『古事記』に荒河刀弁という「木国造」がみえる。八世紀には五人の女性国造任命が確認できるが、その背景には、令制以前の女性国造の存在と記憶があったのではないだろうか。八世紀の女性の朝儀参列は、律令制下で制度化されたのではなく、令制前に遡り得ると判断できる。
磐下, 徹
本ノートは、年官を古代国家の人事権の一つとして考察することを目的としたものである。 年官の考察にあたっては、「公卿給」と呼ばれる文書に注目し、その分析を手がかりとした。「公卿給」は、除目における年官による任官結果をまとめた文書で、直物(除目での任官結果を記した文書である召名を訂正する政務儀礼)の開催には不可欠な文書であった。 本ノートでは、儀式書や古記録(古代貴族の日記)の記述を用いながら、この「公卿給」の作成法・使用法を整理した。 そして、この作成法・使用法を念頭に置きながら直物における年官の在り方を見ていくと、そこからは律令太政官制のみでは捉えきれないという特質が浮かび上がってくる。さらに、律令太政官制的な任官である顕官挙と年官を比較してみると、年官は律令太政官制のみでは包摂しきれない性質を持った任官方法であることが確認できる。 したがって、直物において確認される年官の非律令太政官制的な特質は、除目における任官方法の在り方そのものに由来していると考えられ、この特質は人事権としての年官自身が持つものであることが明らかとなる。 年官が出現し、制度的に整備され、盛期を迎えたのは九世紀後半~十世紀にかけての時期であるが、この時代はちょうど律令太政官制を軸とした古代国家が大きく変化を遂げていく時期である。 年官の出現と展開は、時期的に古代国家の変化の時期と重なっており、人事権を、時代や地域にかかわらず国家の在り方と深く関わるものである、と考えるのであるならば、年官の持つ特質は、このような古代国家の変化を、人事権という側面においてよく表現しているものだと考えられるのである。
林部, 均 Hayashibe, Hitoshi
郡山遺跡は宮城県仙台市に位置する飛鳥時代中ごろから奈良時代前半の地方官衙遺跡である。多賀城は宮城県多賀城市に所在する奈良時代から平安時代にかけての地方官衙遺跡である。郡山遺跡は仙台平野の中央,多賀城は仙台平野の北端に位置している。ともにヤマト王権,もしくは律令国家の支配に従わない蝦夷の領域に接する,いわば国家の最前線に置かれた地方官衙であった。本論では,このような地方官衙の成立・変遷に,古代宮都(王宮・王都)がいかなるかかわりをもったのかを,発掘調査で検出される遺構の比較をもとに具体的に検討を加えた。そして,古代宮都からの影響という視点をもとに,国家がいかにこの地域にかかわりをもち,そして支配したのかを読み取ろうと考えた。古代宮都からみた地方官衙研究の試みである。郡山遺跡・多賀城は,7世紀中ごろ以降の郡山遺跡Ⅰ期官衙,7世紀末から8世紀前半のⅡ期官衙,そして,奈良時代前半以降の多賀城と変遷する。郡山遺跡Ⅰ期官衙は城柵であり,郡山遺跡Ⅱ期官衙と多賀城は陸奥国府であった。これらの遺跡を,①造営方位,②外郭の形態とその変化,③空閑地と外濠,④官衙中枢という視点から分析し,飛鳥宮,藤原宮・京,平城宮といった古代宮都と比較検討した。そして,造営方位や外郭のかたち,官衙周辺の空閑地と外濠という点において,郡山遺跡Ⅱ期官衙に古代宮都,とくに藤原宮の影響が強く表れていることを確認した。さらに,郡山遺跡Ⅱ期官衙と多賀城とは同じ陸奥国府であるにもかかわらず,継承される点が少ないことを指摘した。また,多賀城には確かに平城宮の影響がみてとれるが,郡山遺跡Ⅱ期官衙にみられたような宮都からの強い影響はなく,むしろ,影響は小さくなっていると考えた。そして,郡山遺跡Ⅱ期官衙に古代宮都の影響が強まるのは,この時期に律令国家が,この地域の支配をいかに重要視していたかを示し,また,郡山遺跡Ⅱ期官衙から多賀城に継承される点が少ないのは,その背景に律令国家の地域支配の大きな転換があると考えた。このように地方官衙を古代宮都からみた視点で捉えなおすことは,有効な手法であり,他の地域においても,同様の視点で分析すれば,律令国家の地域支配をより具体的に明らかにすることができるのではないかと考えた。
Saito, Akira
ボリビア・アマゾンのモホス地方の先住民族トリニタリオのあいだには,近年まで,専門の霊媒師が死者の親族の依頼を受けて,故人の霊を呼び出すという降霊術が存在していた。降霊術にやってくる死者はすべて先住民だが,白人で唯一,ビルトゥチという大昔の殺人者がたびたび現れ,失踪者の居所や紛失物のありかを告げることで,魂の救済に不可欠なキリスト教の祈りを受け取っていた。本論は,なにゆえ先住民の降霊術に白人の殺人者の霊が呼び出されるのかという疑問に答える試みである。 歴史資料によれば,ビルトゥチは20世紀初め,殺人の餐で公開の銃殺刑に処せられた。彼の処刑は,成立後間もないモホス地方の司法機関が執行した最初の処刑であり,共和国政府がその権力を誇示する最初の機会だった。他方,処刑という国家儀礼を初めて目にした先住民にとって,それは衝撃的な出来事であり,その衝撃が後にビルトゥチにまつわる特異な信仰と伝承として具体化したのだと推定される。 筆者の考えでは,先住民にとってビルトゥチの処刑は,それ以後国家が神になりかわって罪を裁くのだということを宣言する儀礼的演出にほかならなかった。こうした国家司法の概念は,罪を裁く権利を神にのみ認める先住民の司法概念と真っ向から衝突するものだった。本論は,ビルトゥチにまわつるトリニタリオの信仰と伝承を,国家による司法的正義の独占に対する彼らの批判,およびその転覆の試みとして読み解こうとするものである。
神戸, 航介
本稿は日本古代国家の租税免除制度について、法制・実例の両面から検討することにより、律令国家の民衆支配の特質とその展開過程を明らかにすることを目指した。律令制において租税制度を定めた篇目である賦役令の租税免除規定は、(1)身分的特権、(2)特定役務に任じられた一般人民、(3)儒教思想に基づく免除、(4)民衆の再生産維持のための免除、の四種類に分類することが可能である。こうした構造は唐賦役令のそれを継受したものであるが、(1)は律令制以前の畿内豪族層の系譜を引く五位以上集団の特権という性格を持っていたこと、(2)は主として中央政府の把握のもとに置かれた雑任を対象とし、在地首長層の力役編成に依拠した地方の末端職員は対象とならなかったことなど、唐の制度を日本固有の事情により改変している。一方(3)(4)の免除は中国古来の家父長制的支配理念や祥瑞災異思想を背景とするもので、日本の古代国家はこうした思想を民衆支配に利用するため、租税免除規定もほぼそのまま継受した。六国史等における実際の租税免除記事を見ると、八世紀には(3)(4)の免除は即位や改元など王権側の事情、災異など民衆側の事情を契機とし、現行支配の正当性を主張するために国家主導で実施された。しかし九世紀になると、王権側の事情による租税免除は次第に頻度を減少させていくように、儒教的支配理念が民衆支配の思想としては機能しなくなる。災異の場合も王権主導の免除は減少し国司の申請による一国ごとの免除が主流になっていき、未進調庸の免除も制度的に確立するが、これは国司の部内支配強化に対応し国司を通じた地方支配体制の進展に対応するものであり、十世紀には受領に対する免除として再解釈されていた。ただし天皇による恩典としての租税免除の思想は院政期まで存在しつづけたのであり、ここに古代国家の最終的帰結を見いだすことも可能であろう。
鈴木, 貞美
福沢諭吉ら明治啓蒙思想家たちは、明治維新を「四民平等」を実現した革命のように論じたが、黒船ショックが引き起こした倒幕運動は、開国か、尊皇攘夷かが争われ、紆余曲折を経て、尊皇開国に落ち着いたもので、その過程で政治の自由や四民平等がスローガンにあがったことはない。すでに、江戸時代のうちに、いのちの自由・平等思想がひろがり、身分制度も金の力でグズグズになっていたため、デモクラシーは至極当然のことのように受けとめられたのだった。明治新政府は、一八三七年一月に徴兵令の告諭を発し、国民の自由・平等を認め、それと引きかえに「国家の災害を防ぐ」ために、西洋でいう「血税」として、二十歳に達した男子に三年の兵役義務を課した。「国民皆兵」制度は、国民各自が自分の権力の一部を国家に提供し、秩序を維持し、各人の安全の保証を得るという自然権思想に立つものだが、明治啓蒙家たちの思想においては、自由、平等が未分化で、自然権思想や社会契約説の定着が見られないことが、すでに指摘されている。しかし、その理由については、これまで恣意的な分析しか行われてこなかった。 その理由は、ヨーロッパやアメリカにおけり各種の「自由・平等」思想をひとくくりにして、天賦人権論として受けとめたこと、それらのリセプターとして、江戸時代に公認されていた朱子学の「天理」や、ひろく流布していた天道思想が働いたことに求められる。そして、江戸時代の通念では、いのちの自由と平等とがセットになっていたため、天賦人権論者たちは、あらためて自由と平等の関係について、それぞれを社会や国家と関係づけながら考えようとしなかったのである。それゆえ、個々人の諸権利についても、いのちにおける、社会における、国家におけるそれが切り分けられないまま、個人、社会、 国家の相互の関係についての考え方が、時どきの状況により、また論者の立場によって、たえず変化することになった。ここでは、まず「自由」「平等」が、どのように受け止められたのかについて検討し、そのうえで個々人の社会論、国家論を考えてみたい。外来の概念とその「リセプター」となった伝統概念とをあわせて考察すること、また、「自由と平等」のように、複数の概念を組み合わせて、個々人の概念形成を解明することは、社会的に流通する概念組織(conceptural system or network)の形成を解明するために有効かつ不可欠な方法である。
西田, 彰一
戦前の日本において、神道の思想を日本から世界に拡大しようと試みた筧克彦の思想については、現在批判と肯定の両面から研究がなされている。しかし、批判するにせよ評価するにせよ、筧の思想についてはほとんどの場合「神ながらの道」の思想にのみ注目が集まっており、法学者であったはずの筧がなぜ宗教を語るようになったのか、どのような問題意識を持って研究を始めたのかについての研究は殆どない。そこで、本稿では一九〇〇年代における筧の思想を明らかにすることで、その学問の形成過程を明らかにしたい。 そこで、筆者は筧が自由と主体の自覚的な活動(=筧の言葉でいえば「活働」)を重視していたことに注目した。筧克彦の議論の骨子は個人の自由と国家の自由というは互いに対立するものではなく、むしろ個人の自由を認めれば認めるほど、国家への寄与を深めていくようになるというものである。そのため筧の議論を批判するにしても評価するにしても、この論理を解き明かした上でなければならないであろう。 こうして、筆者は主に初期の論文の分析を通して、筧の初発の問題意識と方法論について述べた。そしてこの当時の筧の議論の主張が、①自我の自由の希求への強いこだわり、②自我を拡大していくことによる社会や国家への貢献、③天皇制国家の下での「自由」の実現、④意識の統一体としての宗教に注目したことを明らかにした。
篠原, 武夫 Shinohara, Takeo
(1)近年わが国の国産材供給危機の情勢により, 東南アジア森林開発に対する関心の高まりは, まことに著しくなってきている。東南アジア森林開発の問題はわが国の林業問題と密接不可分の関係にある。今日の東南アジアの森林は植民地時代の影響を強く受けているので歴史的認識に基づいた東南アジア森林開発の理論的研究は急務である。本論の中心的課題も, 戦前のイギリス帝国主義によって東南アジアの森林がいかに開発されたか, つまり帝国主義の資本の論理が東南アジア植民地の森林にいかに展開して行ったか, という過程を明らかにすることにある。(2)分析方法は植民地森林開発の理論に基づき, 「イギリス帝国主義経済と東南アジア植民地森林開発」の視点に立って接近して行くことにした。一般に帝国主義が植民地開発(資本輸出)を試みる究極の目的は, 超過利潤取得以外の何物でもないが, その目的を達成するために, 独占資本にとって最も要求される課題は植民地原料資源の独占的支配である。この課題を実現するために領土的支配を確立した植民地においては独占資本は国家権力と一体となって原料資源の独占的開発を進めていく。これに対して領土的支配の確立までに至っていない半植民地においては資本侵略によって原料資源の独占的開発を行なうのである。このことは植民地で森林開発が行なわれる場合にも同じように現われる。すなわち(1)領土的支配の確立した植民地の森林開発はなんらかの国家的規模における強権を背景として独占資本の手で開発され, そのために開発対象林は基本的には国有林であり, 資本活動が国家的林野所有を舞台として展開する。すなわち独占資本は森林の所有主体である国家権力と結合して森林資源の独占的開発を可能にするのである。(2)しかし, 同じ植民地で森林の国家的所有が成立しても森林開発が農業開発に重点が置かれて行なわれることがある。そこでの開発資本には農業開発資本のみが存する。この場合の森林資源の意義は農業開発資本の独占的利潤追求と不可分離の関係にある。(3)領土的支配の確立していない半植民地の森林開発では森林の所有主体が民族国家に属しているため, そこでの一資本による森林資源の独占的開発はもっぱら巨大資本力によって生産過程における民族資本および他の帝国主義国資本を圧倒して実現される。以上に述べた植民地森林開発理論の(1)に該当する植民地はビルマ, (2)はマレー, (3)はタイである。
鍾, 以江 南谷, 覺正
本論は、この二十年間、日本のみならず世界全体に深甚な変化を及ぼしてきたグローバリゼーションという世界史的潮流の中で、それまである意味で政治的、国家的利害に拘束されてきた日本研究が、今後グローバルな知識生産の体系の一つとして脱皮し、新しい意義を持つ可能性を探ったものである。 最初に、日本の内外におけるこれまでの日本研究を、十八世紀のヨーロッパに起源を持つ人文学の伝統を汲む近代的知識生産の一部として位置づけ、その人文的伝統の中に、二つのテンション――人文―国家のネクサス(連鎖)と、フマニタス―アントロポスの対立構図――が内在していたことを指摘し、それらを批判的に考察した。両者とも誕生の時から、世界に伝播する歴史的ダイナミズムを持つ人文的知識生産を伴っていた。 第一のテンションは、人間全般についての普遍的な学問としての人文学と、国民国家に仕える性格の人文学の間のものである。普遍的人間性の理想は、世界各地での近代的知識生産を可能にしたが、同時にそれは、固有性を主張する排他的な国民国家の枠組みのなかで遂行されてきた。普遍的な人文学と国民国家は相互依存関係にあった。 第二のテンションにおいても、知る主体、知識生産の主体としての西洋のフマニタス的自己認識と、知られるべき他者としての非西洋のアントロポス的認識は相互依存関係にある。フマニタス―アントロポスの対立構図は、ヨーロッパによる世界の植民地化と手に手を携えて進んだ近代の知識生産の一つの構造的な認識原理となる。 しかしグローバリゼーションが進むにつれ、近代の人文的知識生産の二つのテンションを支えてきた歴史的条件は幾つかの面において変わりつつある。グローバリゼーションが起こってきた一つの理由は非西洋世界の台頭にあるが、それによって西洋―非西洋の認識論的・文化的境界が崩されるようになり、それまで強固に根を張っていた分離と差別の形式が緩み始めている(また違った形の不平等と区別が生まれつつあるのだが……)。このような歴史変化を起こしているグローバリゼーションの諸力を深く認識する上で、世界中の人文学を閉塞させてきたフマニタス―アントロポス、および国民国家の枠組みを問題化できるのではないか。 われわれの思考と想像力の地平を限ってきた二つの枠組みは、おそらくそれを完全に解体することは難しいが、その呪縛を幾分でも解消することができれば、国民国家が相対化される中に新しい人文学研究のヴィジョンが生まれてくるだろう。大学教育・学界が世界的に繫がりを強めつつある今日の潮流の中で、日本研究も同様にトランスナショナルな変貌を遂げつつあり、そこから新しい意識が芽生えてくる可能性がある。それは、世界史的なグローバリゼーションの流れのなかに自己を定位し、その流れをどの方向に向けるべきかを考えながら、自己の限られた力を賢明に使おうとする意識である。日本研究についても、ある種のグローバルな人文学研究を想定し、そのなかで「日本」を主体に、客体に、あるいは背景的知識にしながら研究を遂行し、新しい人文学研究の創成に資するのが望ましい姿ではなかろうか。
菅, 真城
MLA、すなわち、博物館、図書館、公文書館の専門職の非正規化が進んでいる。図書館司書、博物館学芸員は国家資格であるが、アーキビストの国家資格はない。2020年度から国立公文書館長が認証するアーキビスト認証制度が発足したが、これは国家資格ではないものの公的資格といえる。その前提に『アーキビストの職務基準書』がある。1987年制定の公文書館法では、附則2 でアーキビスト配置についての特例規定が置かれた。この特例規定を廃止すべしとの論があるが、それは公務員制度の変遷について理解しておらず、運動論として誤っており、アーキビストの正規職員化・会計年度任用職員の待遇改善を求めなければならないことを指摘する。日本では、アーキビストについての統計調査や専門職団体がない。このことが公文書館やアーキビストの認知の低さに繋がっており、日本においてもアーキビストの専門職団体を結成し、倫理綱領を策定し、統計調査を実施する必要があることについて述べる。正規専門職の賃金も、日本型雇用では一般職公務員と同賃金であり、専門職に見合った待遇がなされていない。この日本型雇用をジョブ型雇用に改める必要がある。最後に、専門職雇用問題についての国際比較が必要なことについて論じる。
福間, 真央
ヤキはメキシコとアメリカに国境を跨いで居住する先住民族である。近代国家の成立,国境の画定によって 2 つの国家に分断されながらも,ヤキは民族的同胞意識を維持し,1990 年代以降,越境的な交換を活発化させている。中でも文化的領域で行われるトランスナショナルな交換は贈与交換のシステムとして確立されてきた。そして主に儀礼から発展したネットワークは交換の活発化とともに多様化し,多元的なネットワークへと変化している。しかし,同時に,国籍,出身コミュニティなどの社会的,文化的背景が異なる個人や集団が参加するトランスナショナルな贈与交換は,しばしば当事者の間で齟齬を生んでいる。本稿ではトランスナショナルに展開する交換を 4 つのタイプ,儀礼における贈与交換,文化的贈与交換,文化アイテムの交換,贈与に分類し,考察することを通じて,ヤキのトランスナショナル化の様相を明らかにする。
大藤, 修 Otou, Osamu
本稿は、秋田藩佐竹家子女の近世前半期における誕生・成育・成人儀礼と名前について検討し、併せて徳川将軍家との比較を試みるもので、次の二点を課題とする。第一は、幕藩制のシステムに組み込まれ、国家公権を将軍から委任されて領域の統治に当たる「公儀」の家として位置づけられた近世大名家の男子は、どのような通過儀礼を経て社会化され政治的存在となったか、そこにどのような特徴が見出せるか、この点を嫡子=嗣子と庶子の別を踏まえ、名前の問題と関連づけて考察すること。その際、徳川将軍家男子の儀礼・名前と比較検討する。第二は、女子の人生儀礼と名前についても検討し、男子のそれとの比較を通じて近世のジェンダー性に迫ること。従来、人生儀礼を構成する諸儀礼が個別に分析されてきたが、本稿では一連のものとして系統的に分析して、個々の儀礼の位置づけ、相互連関と意味を考察し、併せて名前も検討することによって、次の点を明らかにした。①幕藩制国家の「公儀」の家として国家公権を担う将軍家と大名家の男子の成育・成人儀礼は、政治的な日程から執行時期が決められるケースがあったが、女子にはそうした事例はみられないこと。②男子の「成人」は、政治的・社会的な成人範疇と肉体的な成人範疇に分化し、とりわけ嫡子は政治的・社会的な「成人」化が急がれたものの、肉体的にも精神的にも大人になってから江戸藩邸において「奥」から「表」へと生活空間を移し、そのうえで初入部していたこと。幼少の藩主も同様であったこと。これは君主の身体性と関わる。③女子の成人儀礼は身体的儀礼のみで、改名儀礼や政治的な儀礼はしていないこと。④男子の名前は帰属する家・一族のメンバー・シップや系譜関係、ライフサイクルと家・社会・国家における位置づけ=身分を表示しているのに対し、女子の名前にはそうした機能はないこと。
井原, 今朝男 Ihara, Kesao
これまで南北朝〜室町期の東国荘園は、守護や国人一揆によって侵食され、荘園年貢の京上はとるに足らないものと考えられ、独立性の強い東国国家論の根拠となってきた。本稿は、東国荘園からの領家年貢がどのような京上システムの下にあったかを具体的に解明し、それを国家的に保障していた「武家御沙汰」の内実をあきらかにしようとした。先ず、室町幕府は貞和二年(一三四六)に東国の将軍家御料所を鎌倉府に委任してその三分一を京上させる体制を「条々事書」に定めた。この年、国司領家年貢を地頭らが未済した場合の処理法を定め、年貢未済額の五分一の下地を分付させるとともに当知行人・新領主に弁償させる体制を追加法二五条として制定した。その具体化が東国荘園の中でどのようになされていたかを検討すると、第一に東国荘園の領家年貢は地頭職をもった鎌倉寺社や地頭らが京上し、領家方から返抄・請取状を確保していたことが判明した。第二には、九条家領甲斐国志摩荘に代表されるように南北朝期に代官請負に出し、領家年貢に難渋・不法があった場合には雑掌が武家に提訴して武家によって罪科に処する国家的保障体制が成立していた。第三に、東国公家領が禅宗寺院に寄進された東国禅宗寺院領では、院主や給主による代官や使僧を頻繁に都鄙間を往反させて荘務組織を充実させ、国下行を増やし、守護との契約を締結して領家年貢の京上システムを構築していた。しかも、このいずれにおいても、在地で年貢未済や対捍が起きると、領家側雑掌は幕府や鎌倉府に提訴して将軍家御教書や鎌倉府奉行人連署奉書を獲得し、幕府―鎌倉府・守護―守護代―国人という遵行・打渡ルートによって押領人や対捍人を罪科に処する体制になっており、領家年貢京上システムを国家的に保障する体制ができていたことをあきらかにした。そのため、国人層による領家年貢対捍闘争は、幕府・鎌倉府・守護らによる遵行体制に敵対することを意味しており、それゆえ鎌倉公方との主従関係に依拠して反幕府行動という政治闘争に出ていかざるをえなかったことを論じた。
我部, 大和 Gabu, Hirochika
本稿では、組踊「孝行の巻jについて演戯故事に所収されている内容と組踊台本の詞章、冊封使録3篇との比較を中心に考察を行った。記述内容の比較を通して、組踊「孝行の巻Jについては、演戯故事の物語前段にも見られるように、首里王府が風水害の続く状況を孝行な娘が国の窮状を助けることを主題として設定していることがわかる。また、演戯故事は解説書として写実的に記された内容であり、組踊台本の演出を補完する役割をもっていた。そこには琉球が中国からもたらされた儒教を受容する「恭順」な国家であることを組踊の演出で伝え、さらに冊封使録に組踊の内容を記させることで皇帝に対して、琉球の「恭順」な国家像を見せようとする王府の施策が窺える。
李, 原榛
近代日本という国民国家の発展とその中における「臣民」の形成を理解するには、国体思想と「民主主義」との関係性を、二元対立的な図式でではなく、相互に影響し吸収し合うという視点で捉える必要がある。本稿では「大正デモクラシー」期における、井上哲次郎(1856-1944)の神道論の展開を中心に、国体思想と「民主主義」との複雑な関係を考察する。 日露戦争での勝利をきっかけに、井上は神道についての研究を始めた。この段階において、井上は神道における「祖先崇拝」の論理を抽出し、日露戦争で勝利した原因を説明しようとした。しかしこの段階の神道研究は、まだ「国民道徳論」の一部分として扱われており、独立した理論まで発展していなかった。 1912年の三教会同の頃、井上は神道の「徳教」としての重要性を意識するようになり、体系的な神道論を創ろうとした。この理論化の過程には、国体思想の改造と民主的思想の改造という二つの方面が存在していた。一方は、井上が神道における「祖先崇拝」の論理を、国民が神々の人格的優越性を承認する論理へと改造した過程である。国民の内面まで浸透できるようになった神道論は、「国民道徳論」の中核であった「家族制度」論をもその一部分として吸収し、体系的なものへと発展した。もう一方は、井上が第一次世界大戦後の世界的な「民主的傾向」に直面し、「民主主義」に発見した「人民の意思」を「シラス」論に取り入れ、民主的思想を改造することによって神道論を更に展開した過程である。この過程で、井上は臣民の主体性を国家と「国家の恩人」たる神々に回収する論理を創出した。 二つの改造を経た井上の神道論は、主体性を発揮できる「臣民」を創出する、新しい段階の国体思想となった。井上の神道論についての考察を通じて、近代における国体思想と「民主主義」との関係、そして国民国家のあり方を捉え直す新しい視点が獲得できよう。
Gallicchio, Marc ガレッキオ, マーク
終戦後70 年の間に、占領政策が成功だったか否かに対する米国の見解は劇的に変化した。1990 年代以前は、占領政策の成果や意義については学問の対象であり、多くの研究者が占領政策における占領地の民主化の努力不足について指摘した。その最たる例は1980 年代における米国経済の競争相手国としての日本の台頭である。 しかし、冷戦終結後、政策立案者は一般の論者やシンクタンクに影響され、占領政策を米国による国家再建の成功例とみなすようになった。特に日本の例は、非西洋諸国を民主化する米国の手腕を疑問視する懐疑派への反証を示すモデルとして引き合いに出された。議論の批判者側は、日本占領下で起こった特異的かつ再度起こりえない教訓に焦点をあてつつ、そもそも国家再建を国家間で比較することはできないと主張し、反論を試みた。しかし、歴史修正主義の研究者たちのこうした主張は、日本の復興におけるマッカーサーおよび天皇の果たした役割といったテーマについて、それまで自らの研究が導き出してきた結論に矛盾する内容であった。 今日においても、新保守主義の評論家は、米国の行動主義的外交政策を正当化する実例として占領が成功したことを引き合いに出すが、オバマ政権当局者は、占領政策を和解の意義を表す一例として引用することを好む。和解という考え方は、政権がアジア地域の情勢に対応する際の施策として訴求力があると考えられる。
白石, 典之 相馬, 秀廣 加藤, 雄三 エンフトル, A.
モンゴル高原は,そのすべてが遊牧に適した水や草の豊かな地帯ではない。険しい山地や乾燥地が広範囲にみられ,その中に遊牧可能な小地域がパッチ状に点在しているのが実像である。モンゴル高原に成立した歴代の遊牧国家の版図は,一見すると広大だが,じつはこのような小地域の集合体と考えた方がよかろう。遊牧だけでなく,農耕や手工業も,このような限られた生活空間でおこなわれていた。一つ一つの小地域が自立あるいは他地域の欠落点を補完しながら,有機的に結合することによって,遊牧国家の領域が成り立っていたと考える。そうであるならば,それぞれの小地域内の自然環境や生産力,歴史的変遷などを知ることで,遊牧国家の興亡の背景の一端が明らかになるはずだ。 このような視点に立って筆者らは,モンゴル国ウブルハンガイ県フンフレー地区で調査をおこなった。そこはゴビ地帯にあるオアシスで,13 ~ 14 世紀の遺跡があり,文献史料にも登場する。考古学,歴史学,地理学などが協力して学際的にアプローチできる,格好の地域といえる。 その結果,この地域はモンゴル帝国時代には「孔古烈」とよばれ,豊富な湧水を利用して,モンゴル高原の中心地カラコルムへ食糧を供給した農耕地帯であったことがわかった。あわせて,この地はゴビ砂漠の南北縦断路と,アルタイ山脈北麓を通るモンゴル高原の東西横断路の交点で,交通の要衝であるとともに,軍事的攻防の舞台であった。これらのことから,今後モンゴル帝国の興亡史を研究する上で重要な地域になると指摘した。
片桐, 圭子
ペリー提督が、それまで200年間鎖国を続けていた我々の国、日本を訪れ、そのドアを叩いたとき、『ニューヨーク・タイムズ』はすでに日本を見つめるための窓を大きく開いていた。(同紙は、日本国内のあらゆることに関心を持っており、)今、我々はその記事から、史実を知るのみではなく、わが国にたいする同紙の考え方をも読み取ることができる。当時、近代国家・国際国家へと変わろうとしていた日本にたいする認識を、である。 日米両国が外交関係を成立させた当初、『ニューヨーク・タイムズ』は、未知の国民との交渉に際しては、アメリカは彼らの信頼と好意を得るために何らかの努力をするべきだと主張し、武力を行使することを非難した。記事の内容は日本に対して非常に友好的だったが、それは日本側がアメリカの言いなりになっていたためだった。 一八六〇年代前半になると、『ニューヨーク・タイムズ』は日本に対してよい感情を持たなくなる。日本は未だ開国に躊躇しており、その混乱の中で、日本政府はしばしば国際社会のルールを破った。『ニューヨーク・タイムズ』は日本での混乱の理由を理解しようとし、日本固有の制度、とりわけ天皇と大君が並立する二重権力構造と封建制について考察しようとするのである。 一八六〇年代後半になると、日本はついに開国を決意、各国と友好関係を築くための基盤を整えていった。そして戊申戦争後、『ニューヨーク・タイムズ』は、日本が二重の権力構造と、封建制を完全に捨て去り、文明国家の一員にまで成長したことを認めるのである。
長部, 悦弘 Osabe, Yoshihiro
北魏孝文帝代は、北魏史上国家体制の一大転換点とみなすことができよう。476年に始まる文明太后馮氏の臨朝聴政下では、484年に班禄制を立て、485年に均田法を頒布し486年に三長制を敷いた。490年の文明太后馮氏の亡き後、孝文帝親政下で491年に第1次、499年に第2次官制改革を各々遂行し、493年には洛陽遷都を敢行し、496年は姓族詳定を推進した。なかでも493年の平城から洛陽への遷都は、北魏史上領域支配体制の中心たる王都を『農業-遊牧境界地帯』から『農業地域』に移した一大事業であったと言える。孝文帝が国家体制の中核機関の1であった尚書省を最重視して、自身の手により人事を行った。かかる大事業を尚書省を基軸に推進したとみられる。小論では、尚書省に人材を供給する役割を果たしたと想定される母体集団の形成に至る過程を論じた。
長部, 悦弘 Osabe, Yoshihiro
北魏孝文帝代は、北魏史上国家体制の一大転換点とみなすことができよう。476年に始まる文明太后馮氏の臨朝聴政下では、484年に班禄制を立て、485年に均田法を頒布し、486年に三長制を敷いた。490年の文明太后馮氏の亡き後、孝文帝親政下で491年に第1次、499年に第2次官制改革を各々遂行し、493年には洛陽遷都を敢行し、496年は姓族詳定を推進した。なかでも493年の平城から洛陽への遷都は、北魏史上領域支配体制の中心たる王都を『農業-遊牧境界地帯」から『農業地域』に移した一大事業であったと言える。孝文帝が国家体制の中枢機関の1であった尚書省を最重視して、自身の手により人事を行った。かかる大事業を尚書省を基軸に推進したとみられる。小論では、尚書省に人材を供給する役割を果たしたと想定される母体集団の形成に至る過程を論じた。
長部, 悦弘 Osabe, Yoshihiro
北魏孝文帝代は、北魏史上国家体制の一大転換点とみなすことができよう。476年に始まる文明太后馮氏の臨朝聴政下では、484年に班禄制を立て、485年に均田法を頒布し、486年に三長制を敷いた。490年の文明太后馮氏の亡き後、孝文帝親政下で491年に第1次、499年に第2次官制改革を各々遂行し、493年には洛陽遷都を敢行し、496年は姓族詳定を推進した。なかでも493年の平城から洛陽への遷都は、北魏史上領域支配体制の中心たる王都を『農業-遊牧境界地帯』から『農業地域』に移した一大事業であったと言える。孝文帝が国家体制の中枢機関の1であった尚書省を最重視して、自身の手により人事を行った。かかる大事業を尚書省を基軸に推進したとみられる。小論では、前稿を受けて孝文帝代に行われた尚書省への人材配置を論じた。
長部, 悦弘 Osabe, Yoshihiro
北魏孝文帝代は、北魏史上国家体制の一大転換点とみなすことができよう。476年に始まる文明太后馮氏の臨朝聴政下では、484年に班禄制を立て、485年に均田法を頒布し、486年に三長制を敷いた。490年の文明太后馮氏の亡き後、孝文帝親政下で491年に第1次、499年に第2次官制改革を各々遂行し、493年には洛陽遷都を敢行し、496年は姓族詳定を推進した。なかでも493年の平城から洛陽への遷都は、北魏史上領域支配体制の中心たる王都を『農業-遊牧境界地帯』から『農業地域』に移した一大事業であったと言える。孝文帝が国家体制の中枢機関の1であった尚書省を最重視して、自身の手により人事を行った。かかる大事業を尚書省を基軸に推進したとみられる。小論では、洛陽遷都前後の尚書省の人事配置を考察する前提として、同時期に教帝が敢行した行事・親征行を確認した。
武廣, 亮平 Takehiro, Ryohei
八世紀に成立した日本の律令国家は、列島内における未服属集団である「蝦夷」を夷狄身分として位置付け、また現在残されている史料も「蝦夷」をこのような理念的な立場から捉えているものが多い。しかしその一方で「蝦夷」という人間集団に対する認識も一定であったとは考えられず、国家によって実際に行なわれる「蝦夷」政策とその展開の中で、「蝦夷」認識も変化していったと思われる。本論文は八世紀における「蝦夷」認識の変遷を、陸奥国を中心に考察したものである。律令において「蝦夷」は身分的には夷狄・化外人として設定されながらも、最初は百姓身分への上昇も想定された存在であった。大宝令段階では「蝦夷」支配の基本政策は「撫慰」であるが、これは「蝦夷」の百姓化を目的としたものであったと思われる。八世紀の前半はこの「撫慰」(招慰)による百姓化政策が展開されたが、それに対する「蝦夷」社会の抵抗(養老四年・神亀元年)が百姓化の限界を認識させ、それは「蝦夷」=異質な集団という認識として神亀年間に「俘囚」身分の創出と「近夷郡」(黒川以北十郡)の成立という形で具体化する。この二つの認識は九世紀まで続くものであり、その意味では「蝦夷」認識の基本的な成立はこの時期に求められるともいえよう。天平宝字年間から行なわれる新たな「蝦夷」政策は、このような認識を前提として行なわれ、この時期の支配政策として展開されるのが「饗給」であると考えられる。従来撫慰=饗給という理解が一般的であったが、律令国家の「蝦夷」認識とその変化という観点からみても両者は明らかに次元の異なる政策である。さらに「蝦夷」の包摂の論理として「王民」という概念も用いられるようになり、「蝦夷」は理念的には王民化されるべき存在となる。しかしこの政策も「蝦夷」社会を内国化(百姓化)することはできず、逆に境界的地域であった黒川以北十郡において「蝦夷」社会を差別化する動きが「俘囚」の王民化(宝亀元年)という形で現れる。現地における「蝦夷」社会の差別化は、律令国家の「蝦夷」認識も固定化させるのである。
田中, 史生 Tanaka, Fumio
本稿は,8世紀の日本官印と隋唐官印と比較することによって,日本律令国家の官印導入期における中国の影響と,日本官印の特質について考察するものである。考察の結果,日本律令国家の官印は,隋唐官印のなかでも紙による文書行政とかかわる「官署印」の直接的影響を受けて成立したが,その法量を唐よりも大型化させるとともに,官司のレヴェルに従って印面文字の字体や形式と組み合わせながら法量を細分化し,その区分を遵守させるなどの特徴があることが明らかとなった。また隋唐においては,御璽が一般的な命令伝達文書の作成過程で紙に押印されることはなく,諸州などに下される文書には,裁可された案件の諸司における処理ないし行政手続きが正しく行われることを保証するために六部所属の二十四司の印が押されたが,日本において命令伝達の中核に置かれた印は内印,すなわち天皇御璽で,中央政府の文書発給の全てを天皇が直接統治することに重きを置いた押印制度となっていた。さらに諸国印は,国府とそれが統括する地方の間の文書に印が押されるのではなく,中央政府と国府との関係の中での押印を基本としていた。そこには,日本古代官印の文書行政における実務的機能とのかかわりだけでなく,印の大きさ,押印の仕方,印面文字の字体・形式によって,中華日本を表現するともに,天皇の直接統治と,天皇を中心とした中央集権的なビラミッド型の官司配置という,日本律令制の理念的構造を表象ようとする古代国家の意図が読み取れるであろう。
Mishima, Teiko
本稿は2017 年にソニンケ民族が中心となってセネガルで開催された「文化週間」を記録した映像1)を題材に,運営側の活動と地域をとりまく社会経済的な状況を民族誌の観点から記述し,その成立要因や意義,および10 年間にわたって継続してきた背景を考察するものである。開催側が掲げた目的は,( 1)海外への労働移動と世代の交代によって失われつつある民族文化の継承,( 2)宗教対立や政治的な危機によって分断された地域間の連帯,である。諸要因を鑑みれば,「文化週間」は( 3) 国家の介入しない地域主導の文化運動,( 4) 反エスノセントリズムの民族主体の地域運動,と言い換えることができる。他方,筆者の関心は,( 5) 労働移動によって蓄積した富の価値とその利用,にあった。これらを考察の基本におきながら,取材をとおして浮かび上がってきたのは,(6) 国家と交渉する民族,( 7)「 残る」ことを選択した人びとの生活戦略,( 8)伝統的社会の変革である。
山口, えり Yamaguchi, Eri
広瀬大忌祭と龍田風神祭は、神祇令で定められた恒例の祭祀のうち、風雨の順調を祈るものとして、孟夏と孟秋に行われる祭祀である。すでにこの二つの祭祀については、先行研究も多くあるが、両社は大和川を挟み別々の地にあるのに、なぜその二つの地が選ばれたのか、なぜその祭祀が同時一対で行われ続けるのかについては説明されていない。本稿では、まず『日本書紀』にみられる広瀬大忌祭と龍田風神祭の記事を整理し、次の七点を指摘した。①天武四年以降、広瀬・龍田の祭りは基本的に毎年四月と七月に行われ、特に持統四年以後は欠けることない。②天武四年四月癸未条の初見記事にのみ、龍田社と広瀬社の立地が記載される。③初見記事にのみ、派遣された使者が記載される。④龍田では風神、広瀬では大忌神が祭られる。⑤天武八年四月己未条より、記載の順番が「龍田・広瀬」から「広瀬・龍田」になる。⑥持統紀からは「遣使者」という定型の語が入る。⑦持統六年四月より、「祭」が「祀」に変わる。それぞれの点について検討を加えた結果、広瀬・龍田の両社が国家の意図により整備されていった過程が明らかとなった。敏達天皇の広瀬殯宮が置かれた広瀬は、龍田に比べると早く敏達天皇家王族と関わりを持つ地であった。その河川交通の利便性が重視され、六御県神と山口神を合祭する国家祭祀の場となった。一方の龍田は、天武・持統王権の記憶の中ではなかなか制し難い地域であった。龍田は、大和と河内を結ぶ交通上の要所でありながら通過には困難が伴い、延喜祝詞式によれば悪風をなす神が所在する地であった。龍田道の整備や国家主体の祭祀を広瀬と共に行うことは、そのような龍田の異質な性格の克服を意味していた。二つの地域は農耕や地理的要衝という古代国家の基盤に大きく関わる要素を有していた。そのために一つに括ることが重要であり、その組み合わせは存続したのである。この二つの祭祀を同時一対で行うことは、律令制定過程期における飛鳥を中心とした大和盆地から、河内へと続く大和川流域全体の掌握を象徴していたのである。
井上, 寛司 Inoue, Hiroshi
本稿では、筆者がかつて提起した「二十二社・一宮(いちのみや)制(王城鎮守(おうじょうちんじゅ)・国鎮守(くにちんじゅ)制)」に対する批判として提起された諸氏への反批判という観点から、①中世後期長門(ながと)国一宮制の変質・解体過程を史料に基づいて具体的に論じるとともに、②中世諸国一宮制の成立から解体に至る過程の概要を示すことを通して、中世諸国一宮制の歴史的な構造と特質とは何かについて論じた。その結果、およそ次のような点が明らかになったと考える。(1)長門国の場合、守護(しゅご)大内氏による国衙(こくが)権力機構の掌握と再編成にともなって、一宮制のあり方は大きく変化し、一宮中心の祭礼構造から府中二宮(ふちゅうにのみや)を中心とする一・二宮両社合同の祭礼構造への転換、及び国衙権力を代表して祭礼の執行に当たる神事行事武久(しんじぎょうじたけひさ)氏の登場という形で、それは現れることとなった。(2)守護大内氏の戦国大名(せんごくだいみょう)化と戦国大名毛利(もうり)氏の登場にともなって、長門国一宮制は解体期を迎えることとなるが、それは国家的神社制度の一環を構成する国鎮守の解体として評価できるものであり、そこに中世諸国一宮制の歴史的な本質が示されているということができる。(3)これを、他の諸国の事例と合わせ考えるとき、中世諸国一宮制が国家的神社制度としての本質を持つことは疑う余地のないところであり、中世国家論の観点を正しく組み込んだ一宮制分析が今後の重要な課題とされなければならないということになろう。
仁藤, 敦史 Nitô, Atsushi
都城は、皇帝(天皇)の専制を実現するための施設であり、国家の権力機構のあり方を、防備的施設のなかに、固有の形をとって表現したものにほかならず、都城の形成と古代国家の成立は相即的な関係にあると考えられる。通説によれば、持統八年(六九四)の藤原京への遷都によりわが国では中国的な都城がはじめて成立したとされ、藤原京の条坊復原については、現在のところ岸俊男氏の見解が通説となっている。京内については、発掘調査によってほぼその妥当性が確かめられつつあるが、宮域内先行条坊道路や京外条坊道路の発見は、新たな問題を提起し、通説よりも大きな条坊京域を想定する「大藤原京」という仮説も提示されている。こうした新たな発掘成果をふまえた都城制成立過程の分析が現段階では求められている。本稿では、都城制の成立要件である京職・条坊施行・東西市・京内寺院・皇子宮などの視角から分析をおこない、倭京から新城・新益京を経て、藤原京にいたる変遷を、古代国家の成立過程と密接な連関を有するものとして論じた。倭京的な宮都は、大和王権が大王と王族・豪族との人格的な関係を基礎とするのに対応し、大王宮の周辺に皇子宮や豪族の居宅が散在する景観を示す。大王による人格的支配に基礎を置くため、代替わりごとの支配機構の再編に対応して、「遷宮」が必要とされた。これに対して、律令制下の都城制の特徴は、天皇の住居たる内裏が京内の他の邸宅とは隔絶した存在となり、王族・貴族から一般百姓に至る位階制秩序を京という平面空間で実現させたことにある。律令制下の京は、在地との関係から切放された官人が、数詞によって表示された人為的条坊空間内に、位階に応じて位置と規模を定めた宅地を班給され、天皇の支配地という観念を意識的に作り出す場であり、京戸としての一体性・平等性と優越性を感じさせる場であった。
秋沢, 美枝子 山田, 奨治
ドイツ人哲学者オイゲン・ヘリゲル(一八八四~一九五五)がナチ時代に書いた、「国家社会主義と哲学」(一九三五)、「サムライのエトス」(一九四四)の全訳と改題である。 「国家社会主義と哲学」は、ヒトラーの第三帝国下で、哲学がいかなる任務を担いうるかを論じた講演録である。ヘリゲルは、精神生活の前提条件に「血統」と「人種」を置き、新しい反実証主義の哲学者としてニーチェ(一八四四~一九〇〇)を称揚した。ニーチェの著作には「主人の精神と奴隷の精神」があるといい、その支配―被支配の関係をドイツ人とユダヤ人に移し、差別を正当化しようとした。 「サムライのエトス」は、ドイツの敗色が濃くなった戦況のなかで、日本のサムライ精神を讃えた講演録である。同盟国・日本の特攻精神の背後にある武道や武士道を、知日派学者として語ったものと思われる。ここでヘリゲルが一貫して語っているのは玉砕の美学であり、『弓と禅』で彼が論じた高尚な日本文化論とは、あざやかな対照をなしている。 これらの講演録の存在は、ドイツ国内でも忘れられていた。無論、これらははじめての邦訳であり、戦時下ドイツにおける日本学の研究にとって貴重な資料となるだろう。
長部, 悦弘 Osabe, Yoshihiro
北魏孝文帝代は、北魏史上国家体制の一大転換点とみなすことができよう。476年に始まる文明太后馮氏の臨朝聴政下では、484年に班禄制を立て、485年に均田法を頒布し、486年に三長制を敷いた。490年の文明太后馮氏の亡き後、孝文帝親政下で491年に第1次、499年に第2次官制改革を各々遂行し、493年には洛陽遷都を敢行し、496年は姓族詳定を推進した。なかでも493年の平城から洛陽への遷都は、北魏史上領域支配体制の中心たる王都を『農業―遊牧境界地帯』から『農業地域』に移した一大事業であったと言える。孝文帝が国家体制の中枢機関の1であった尚書省を最重視して、自身の手により人事を行った。かかる大事業を尚書省を基軸に推進したとみられる。小論では、尚書省に人材を供給する役割を果たしたと想定される母体集団を含む北魏支配者層の、493年から495年にかけて敢行した洛陽徒住の経緯を、孝文帝の平城―洛陽行をも含めて検討した。
長部, 悦弘 Osabe, Yoshihiro
北魏孝明帝代に勃発した六鎮の乱により混乱に陥った政局の中で、爾朱氏軍閥集団は山西地域(太行山脈以西)の中部に并州(晋陽)及び肆州を中核として覇府地区を建設し、これを根拠地とした上で、孝明帝の没後南下して孝荘帝を擁立した上で河陰の変を引き起こして王都洛陽を占拠し、孝荘帝代には中央政府を支配した。王都洛陽の中央政府を支配した方法は、尚書省・門下省の要職に人員を配置して行政を握るとともに、王都内外の軍事を掌管する、近衛軍をはじめとする高級武官の多くを占めて、洛陽の軍事を牛耳った。そして、首領である爾朱栄が代表する并州(晋陽)設置の覇府と連絡しながら、爾朱氏軍閥集団の下に王都洛陽の中央政府を置く、王都-覇府体制を構築した。北魏国家の領域内部の交通路線でみると、爾朱氏軍閥集団の王都-覇府体制を支えた中軸線は、覇府地区と王都洛陽を結ぶ太行山脈西麓東方線である。同路線を基軸に、太行山脈西麓西方線、太行山脈東麓線をはじめ、各地に構成員を送り、北魏国家の領域支配体制を建てようと試みた。
堀, 裕
日本古代の安居講経は、国家が期待する僧尼像・仏教像を象徴的に示すと考えられる。おもに『類聚三代格』延暦二十五年(八〇六)四月二十五日官符をとりあげ、政治史や制度史、史料学の視点から検討を行った。①この時、大寺と国分寺の安居講経に、新たに『仁王経』が追加されたのは、桓武から平城への皇位継承を契機にしており、早良親王等の祟りなど、新天皇にもたらされる災いを攘うことで、無事な即位や、治世の安穏を願ったことにある。②一代一度仁王会の開始や、宮中年料写経の伝鳩摩羅什訳『仁王経』への転換との関係も推測され、国家制度の重点が、五穀豊穣を祈念する『最勝王経』から、災いを避けるための『仁王経』へと、変化したことを示していると考えられる。③『類聚三代格』の写本研究の成果を踏まえ、従来の研究成果とは異なり、大寺と国分寺において、『仁王経』の安居講経は、延暦二十五年から少なくとも『延喜格』編纂時までは、維持されたとみるのがよいと考える。
是澤, 博昭 Koresawa, Hiroaki
昭和七年三月の満州国建国宣言から同年九月の満州国承認までの、排外熱が一段落した時期に、日本国内で唱えられたのがアジアの融和と平和であった。そこで大きな役割を果たしたのが子供である。子供による日満親善交流を日満両政府や関東軍は、満州侵略の正当性を大衆に宣伝するための効果的なイベントとして認めていた。さらに日本から行状のよくない移民が多数流入した満州国では、反日感情が増幅しており、国民レベルで融和をはかる必要性もあった。そこで日満融和の名のもとに、民間教育団体である全教連と新聞社が共同で主催する日本学童使節に全面的に協力するのである。学童使節は、文相、拓相のメッセージ持参をはじめ、首相など主要閣僚、満州国の執政、国務総理、関東軍司令官等の要人への謁見や満鉄、新聞社、立ち寄り先の国内外の都市の首長や役所、在留邦人団体などの訪問にも重点を置く。そして帰路朝鮮にも立ち寄り内鮮融和をはかるなど、日満融和を唱える日本の宣伝活動の役割を担っていた。さらに派遣日程が、満州事変一周年と満州国承認に重なり、その関連イベントとしての要素を強め、国民的な支持を広げる。それが新聞報道を過熱させ、予想以上の相乗効果を生み出す。日本学童使節は非公式ながら、ある意味では国家的な使命を帯びた使節となり、大衆意識を国家戦略へと誘うイベントにまで成長したといえるだろう。政府や軍は、大人社会の醜さを覆い隠す子供による日満親善交流の政治的な利用価値を認めたのだ。さらに昭和九年初頭、日本学童使節をモデルにした皇太子誕生を祝う二つの学童使節が『大毎』・『東日』と朝鮮総督府の御用新聞『京城日報』の主催で企画実行される。その方法論は、国家への帰属意識を高めるイベントへと応用され、主人公も少女から少年へと交代するのである。
張, 龍妹
本稿では、中国で行われている「中国日本学研究『カシオ杯』優秀修士論文賞」の受賞作と中国の各大学に提出された博士論文から、大学院における古典文学研究の一斑を紹介する。さらに、中国で唯一の日本研究に関する専門誌『日語学習与研究』に発表された論文と国家社会科学基金の助成を受けた研究プロジェクトの内容を分析する。それらに基づき、中国における日本古典文学研究の現状と動向を把握したい。
伊藤, 武士
出羽国北部においては,8世紀に律令国家により出羽柵(秋田城)や雄勝城などの古代城柵が設置され,9世紀以降も城柵を拠点として広域の地域支配が行われた。古代城柵遺跡である秋田城跡や払田柵跡においては,城柵が行政と軍事,朝貢饗給機能に加え,交易,物資集積管理,生産,居住,宗教,祭祀などの機能を,複合的かつ集約的に有した地域支配拠点であった実態が把握されている。特に,継続的に操業する城柵内生産施設を有して周辺地域開発の拠点として機能した点については,出羽国北部城柵の地域的な特徴として指摘される。10世紀後半には,出羽国北部城柵はその地域支配拠点としての実態と機能を失っていく。律令支配が終焉を迎えるなか,地方豪族である清原氏による新たな支配体制が成立し,新たな地域支配拠点として「柵」が出現する。そして大鳥井山遺跡をはじめとする柵の実態的機能には,出羽国北部城柵との共通性が認められる。律令国家体制から王朝国家体制に変わり,11世紀以降には荘園公領制下で土地開発が進むなか,出羽国北部は城柵設置地域であり,かつ荘園未設置地域という特徴的な地域性を有することとなった。在庁官人の出自とされる清原氏は,その地域特性などを背景に,柵を地域支配拠点として,古代城柵の持つ複合的かつ集約的な地域支配のシステムや,開発拠点としての特徴的機能を継承し,直接支配地域である横手盆地などにおいて,独自性を持つ大開発領主となったと考えられる。出羽国北部における大開発領主として成長し,11世紀代において,その軍事力と経済力を誇示した清原氏の地域支配の背景には,出羽国北部の地域特性や,古代城柵から柵へと受け継がれた特徴的な地域支配のシステムがあったと考えられる。
森山, 優 Moriyama, Atsushi
博物館による戦争展示はいかにあるべきか。この困難な課題を考察するため、筆者は各国の戦争展示を対象として、その可能性をさぐることにした。まず、博物館自体が持つイデオロギー的機能(近代国家の象徴体系の創出による国家への「聖性」の付与)に着目し、それが戦争展示においてどのように展開されているかを検証する、これが本稿の第一の課題である。最も明快な戦争展示は、博物館のイデオロギーに忠実なパターンである。そこでは「我々」と「敵」という明確な腑分けが行なわれ、過去から現在・未来に向かう一つの価値観が提示されている。その典型例として、ニューヨークのイントレピッド海洋航空宇宙博物館を扱う。しかし、戦争が戦われた当時と現在との間にイデオロギー的な断絶を余儀なくされるケースは、歴史上世界中に存在する。そのような場合の展示に困難がつきまとうのは、日本に限った話ではない。南北戦争で敗北した側の南部連盟や、アメリカにとってのベトナム戦争の展示がこの問題に対する示唆を与える。また、博物館の機能の一つとしてテクノロジーの脱イデオロギー化があげられる。一九九五年に国立航空宇宙博物館(スミソニアン協会)の原爆展で議論の対象となったエノラ・ゲイは、現在ワシントンD.C.郊外のダラス分館に展示されている。原爆を投下した機体をどのように扱うか。テクノロジーと「愛国正教」との関係を考える有効な題材である。そして、博物館はその性格上、現実の政治的状況と無縁であることは出来ない。しかし、分析・啓蒙というこれも近代的な価値を武器として、近代国家の神話に対抗することも可能である。このようなせめぎ合いの現場として、アメリカ歴史博物館(スミソニアン協会)が二〇〇四年秋から開始した「自由の対価」と題する展示をとりあげる。同館はウェッブサイトでも映像を公開しており、サイトでの展示と比較することで、現実政治との関係を考察する。
中林, 隆之 Nakabayashi, Takayuki
正倉院文書には、天平二十年(七四八)六月十日の日付を有した、全文一筆の更可請章疏等目録と名付けられた典籍目録(帳簿)が残存する。この目録には仏典(論・章疏類)と漢籍(外典)合わせて一七二部の典籍が収録されている。小稿では、本目録の作成過程および記載内容の基礎的な検討を行い、それを前提に八世紀半ばの古代国家による思想・学術編成策の一端を解明した。本目録には、八世紀前半に新羅で留学した審詳所蔵の典籍の一部が掲載されていた。審詳の死後は、彼の所蔵典籍は、弟子で生成期の花厳宗の一員でもあった平摂が管理した。本目録は、僧綱による全容の捕捉・検定を前提として、内裏が審詳の所蔵典籍の貸し出しを平摂の房に求めた原目録をもとに、それを平摂房で忠実に書写し、写経所に渡したものであった。審詳の所蔵典籍には、彼が新羅で入手したものが多かった。仏典は、元暁など新羅人撰述の章疏類が一定の比重をしめた。それらの仏典は、写経所での常疏の書写に先だって長期にわたり内裏に貸し出されていた。内裏に貸し出された中で、とくに華厳系の章疏類は、南都六宗の筆頭たる花厳宗が担当する講読章疏の選定と布施額の調整などに活用された。漢籍も、最新の唐の書籍や南北朝期以来の古本、さらに兵書までをも含むなど、激動の東アジア情勢を反映した多様な内容であったが、これらも内裏に貸し出され、国家による諸学術の拡充政策などに活用されたとみられる。八世紀半ばの日本古代王権は、『華厳経』を頂点とする仏教を主軸においた諸思想・学術の国家的な編成・整備政策を推進したが、その際、唐からの直接的な知的資源の確保の困難性という所与の国際的条件のもと、本目録にみられたものを含む、新羅との交流を通して入手した典籍群が一定の重要な役割を担ったのである。
長部, 悦弘 Osabe, Yoshihiro
北魏孝文帝代は、北親史上国家体制の一大転換点とみなすことができよう。476年に始まる文明太后講氏の臨朝聴政下では、484年に班禄制を立て、485年に均団法を頒布し、486年に三長制を敷いた。490年の文明太后馮氏の亡き後、孝文帝親政下で491年に第1次、499年に第2次官制改革を各々遂行し、493年には洛陽遷都を敢行し、496年は姓族詳定を推進した。なかでも493年の平城から洛陽への遷都は、北魏史上領域支配体制の中心たる王都を『農業一遊牧境界地帯』から『農業地域』に移した一大事業であったと言える。孝文帝が国家体制の中枢機関の1であった尚書省を最重視して、自身の手により人事を行った。かかる大事業を尚書省を基軸に推進したとみられる。孝文帝代後期洛陽遷都事業と平行して、孝文帝は平城洛陽行に加えて、洛陽一環州、卜鄭行、洛陽一平城行・南斉親征行など盛んに移動した。孝文帝は、上記の移動時には、平城・洛陽両地を不在にした。小論では、孝文帝の不在期間中、平城・洛陽両地を留守した主要人物を検討した。
園田, 英弘
華族は、明治の政治と社会が抱え込んだ矛盾の結節点に誕生した。それは、世襲の特権をどのように見なすかという問題と、深くかかわりを持っている。周知のように、明治維新新政府は武士の身分的特権を廃止し、四民平等の社会を作った。その明治政府が、日本の貴族である華族を形成したのである。そこには、特別の理由がなくてはならない。 フランス革命以降、西欧において貴族は社会に深く根を張った自然的生成物ではもうなかった。しかしながら同時に、貴族は過去のたんなる遺物ではまだなかった。それは政治的作為を加えても、貴族を維持したり新たに作り出すような存在であった。ヨーロッパで貴族廃止令が何度も出されているにもかかわらず、貴族が復活するのはなぜなのか。このことは、明治政府の担当者の頭を悩ました。貴族のこのような過渡期的性格を一方で念頭に入れつつ、他方で日本の現実を直視したところに生まれたのが、高度に政治的人工物である華族という政治的身分であった。それは、社会的実力を国家が承認する貴族ではなく、国家権力によって人為的に作り出された社会階級ということを意味していた。
ゴ, フォン・ラン
本稿は、ベトナムと日本が外交関係を正式に結んだ1973年以降のベトナムにおける日本研究史について検討したものである。日本研究を専門に行う国家機関として初めて設立された、ベトナム社会科学アカデミー附属東北アジア研究所を事例に挙げ、日本研究の著書・雑誌・論文の内容や分野、研究方法などの考察を行う。ベトナムにおける日本研究分野の拡大と発展の変化を捉えるとともに、今後の課題についても明らかにする。
阿部, 純
本稿は、1980年代のアメリカで展開した日系人リドレス運動(第二次大戦時の日系人強制転住・収容政策に対する補償要求運動)に関する『読売新聞』の報道内容を分析したものである。日系の活動家たちは「過ちの是正」を意味する「リドレス(redress)」という言葉を掲げて運動を推進した。従来の研究は、リドレス運動の「成功」や、歴史的不正を認め償ったアメリカの「正義」を強調してきた。しかし近年の研究は、アメリカの国家的戦略としての国際的プレゼンスの向上とリドレス運動の連動に注目することで、「リドレス」なる概念がポスト冷戦期の道徳的人権リーダーというアメリカの自画像の確立のために取り込まれていく諸相を明らかにしている。 一方、リドレス言説をめぐる先行研究の議論は、日系人活動家や連邦議会議員などアメリカ国内のアクターを中心に組み立てられてきた。そこで本稿では、リドレス運動に大きな関心を払った『読売新聞』の報道内容を分析し、1980年代の日本におけるリドレス言説の形成過程の一端を解明することでこの議論に加わることを試みた。 リドレス運動に注目した『読売新聞』の記者および読者は、この運動を単なるアメリカでの一出来事として捉えることなく、日本をめぐるグローバルな文脈の中で、教科書問題、米ソ冷戦、日米関係に対する自身の立場や主張をリドレスに投影することで独自の言説を形成した。アメリカにおけるリドレス言説を受動的に受容したわけではなく、1980年代を通して自分たちの関心や利益に沿う形でそれを積極的に利用したのである。ただし、このようにして『読売新聞』が構築したリドレス言説には、共産主義国家とも日本とも異なる模範的民主主義国家としてのアメリカ像が潜在していた。『読売新聞』が正義や民主主義と関連付けながら構築・拡散したリドレス言説は、アメリカの連邦議会議員たちと同様に、世界に比類なき道徳的権威をアメリカに付与するものだった。すなわち、『読売新聞』は1980年代を通してリドレスの受容と再構築を行う中で、道徳的・多文化主義的なアメリカ例外主義を日本国内で強化する役割を果たしたのである。
岩城, 卓二 Iwaki, Takuji
近年、筆者は近世農民支配は武士、農民、「御用」請負人の三者によって成り立っていたという立場から、請負人を必要とする近世国家と社会の性格について論じてきたが、いまだ課題は山積している。そこで本稿では請負人の経営実態と請負人の位置付けをめぐる武士、農民、請負人三者の関係を明らかにすることによって、請負人の具体像を豊かにすることを目指した。検討の素材にしたのは幕領石見国大森代官所で活躍した郷宿である。第一章では代官所中間支配機構に介在した郡中惣代、惣代庄屋の役割を概観し、第二章では幕領支配に「御用」の請負人が登場する時期と請負人の役割を整理したが、本稿の検討の中心は続く第三章以下である。請負人の研究は史料的制約のため機能論が中心であり、その家業の内容についてはほとんど論じられていない。第三章ではその研究上の課題に取り組むため、郷宿の収入の内訳と利用状況を検討し、その収入が賄い代、利銀、人足賃によって成り立っていたこと、私的な「御用」の利用が多かったことを明らかにした。この検討をふまえ、請負人が宿である必要があったこと、請負人が私的な利害関係に左右されやすかったことなどを論じた。第四章では、請負人は「御用」に関わる下級官更と考える武士、請負人は雇用人であるという農民、意識的には下級官吏=治者と自己認識しながら、実際の行動は農民の雇用人として振る舞わざるをえない郷宿、それぞれの立場を明らかにした。そして武士と農民の立場の違いは「御用」自体の認識の違いであり、その志向する国家や公共性は異なることを論じた。おわりにでは、近世社会における公職の担い手に対する認識、「御用」請負人の登場によって成立していった地域社会や公共性が、明治国家の地方自治制改革の課題と密接に関わっているのではないかという展望を示した。
関, 周一
本稿は、中世日本における外来技術の伝来に関して、それを可能にするための条件ないし背景や、伝来技術の移転についての試論である。第一に、国家や地域権力といった公権力が、技術の伝来に果たした役割を考察した。古代においては、律令国家が遣唐使を派遣して、選択的に技術を導入した。中世においては、国家が技術導入を主導することは少なかった。中国人海商が博多に結桶をもたらした事例のように、民間交流によって技術が伝来し、博多という都市の住民の需要に応じて、技術が受容された。一六世紀前半、戦国大名による職人の編成が進んだ。小田原北条氏が奈良や京都の職人を招き、豊後府内の大友館の周辺には職人が居住した。種子島時尭は、配下の刀鍛冶に鉄砲の製造を命じた。第二に、伝来した技術の移転について、鉄砲の事例から考察した。文之玄昌『鉄炮記』では、種子島から畿内への鉄砲伝来の経緯について、(1)鉄砲と火薬の製法・発射方法が、根来寺に伝わった段階、(2)鉄砲の生産技術が、堺に伝わった段階という二段階が描かれていた。「南蛮鉄砲」を将軍に献上した豊後府内の大友義鎮は、将軍足利義輝の所持品である鉄砲を模倣製造することを命じられ、鉄砲の生産を開始した。第三に、種子島に鉄砲生産の技術が伝来した背景となる海上交通や貿易について考察した。一六世紀前半、日向国〜種子島〜琉球との間には、活発な交流があった。種子島と琉球との貿易は、一五一〇年代ころから始まっていた。種子島忠時は、琉球国王尚真から、船一艘の荷物への課税を免除された。日向国では、島津忠朝(島津豊州家)が遣明船の警固や造船を行い、琉球と頻繁に交渉していた。油津にある臨江寺の玄永侍者は、琉球出身であった。遣明使鸞岡省佐は、琉球国の人が明で自分のことを聞いたという話を、日向国で聞いている。
金菱, 清 Kanebishi, Kiyoshi
世界各地に所在する「不法占拠」は,国家の法律の枠組みの外側に位置づけられるのかそれとも包含されているものなのか。通常「不法占拠」地域は,法律の外側で扱われる対象である。そのため,実際に法律を運用する行政当局は,「不法占拠」を仕方なく黙認するかそれを否定すべく強制退去の手続きをとることになる。それに対して,本稿が扱う事例は,日本最大級の「不法占拠」地域に対して,法制度に則って公的補償を実施し「不法占拠」を円満に解消するものである。この点からすると「不法占拠」とは国家の法律に内包された存在でもあると言える。本稿は,前者の「不法占拠」を法制度の外側として切り離していた事象について,「人格崇拝」概念を用いながら,法制度のなかに取り込み「不法占拠」と公的補償とを架橋する論理とは何かということを検討する。「人格崇拝」は,社会が複雑化し,分業が進み,変化しやすい個々の意見のなかで,唯一無二のものとして安定した保証できる概念である。ただし,当該の「不法占拠」地域は,環境(騒音)・国民国家(在日)・土地(法)という本来人格概念を適応される枠組みから外され,剥き出しにされた人々が集住する場所である。ところが,「人格崇拝」の概念が無効だと言っているのではなく,むしろ人格化される過程のなかで,再編成されていく契機が制度上あることを「不法占拠」地域に対する公的補償は示している。具体的には,①行政レベルにおいては,空港施設の人格化によって,②民間レベルにおいては,お地蔵さんの人格化によって,「不法占拠」地域に暮らす人々に対する公的補償が行われ,「不法占拠」地域が解消されたことを明らかにする。本稿の意義は,「人格崇拝」の再配置によって局所的で集積的な貧困を軽減させるための社会政策のヒントを提示することにある。
秋沢, 美枝子 山田, 奨治
オイゲン・ヘリゲルが戦時中に出版したもののうち、その存在がほとんど知られていない未翻訳エッセイを研究資料として訳出する。ヘリゲルのエッセイは、日本文化の伝統性、精神性、花見の美学、輪廻、天皇崇拝、犠牲死の賛美について論じたものである。その最大の特徴は、彼の信念であったはずの日本文化=禅仏教論には触れずに、そのかわりに国家神道を日本文化の精神的な支柱に位置づけた点にある。
阿部, 義平 Abe, Gihei
日本列島中央部に形成された倭国は日本とよぶ中央集権国家に発展していくが,その過程で同一の国家でありながら10余の京――都城を形成し,変遷を重ねた。その内には条坊式の方格地割をもつ都城が5例ある。これらは中国の都城を制度として継受して造られた。ではそれ以外の都城はどんな実態で,都城全体はどう形成されてきたのか。条坊式都城より非条坊式都城が先行して出現するだけでなく,併行して営まれたものもある。非条坊式都城は副次的に把えられてきたが,かえって国家権力の本質や日本での都市の骨格を示すとみることもできると考える。非条坊式都城は,ほぼ7世紀代の100年間,倭の飛鳥に営まれた倭京(やまとのみやこ)から始まる。宮殿や豪族邸宅や寺,饗宴のための苑池,防備施設などが広大な地域を占めていた。650年代からは山城などの防備の中核施設も領域内に営まれたとみられる。このような防備された都市として最も典形的なのが九州の大宰府である。大宰府は朝鮮半島の三国の都城の重要な要素を継受し,亡命百済人の手で造営が指導された。その水城,小水城,山城,政庁,都市部分が発掘されている。しかし羅城は西側に認められるだけで,全貌は明らかでなかった。羅城南辺に当るとうれぎ土塁の発見により東側にも西側と同原則で羅城が復元できることが判った。その羅城内は郭と呼ばれ,正南北方向の地割をもち,左郭・右郭・南郭に分けられていた。南郭には条里が施行された。左・右郭の条坊も朱雀大路などの設けられた奈良時代前半ころには存在し,後に郭の中央部では10世紀に大規模な都市再開発がされたことも判明してきた。大宰府は朝鮮半島の都城よりも雄大な構想をもつもので,宮が遷されたことがないので京とは呼ばれないが,都城の一形態と評価できる。自然地形も最大限に利用した都城の型式は,畿内の都城を点検する上で原点となる。都市城壁をもたないとされてきた日本都市の歴史をも再考させるものである。
娜仁格日勒
モンゴル人はどのような近代化を経験してきたのだろうか。辛亥革命をきっかけにモンゴルは独立を宣言し,艱難辛苦を伴いながらも今日まで存続してきた。20 世紀のモンゴルにとって最大の課題は,中国・ソ連両大国の狭間でいかに自治国家として生き残るかということであった。モンゴルの地理的位置は,とりわけ,第二次世界大戦後の冷戦と,1960 年代から顕著になる中ソ対立という,いわば「二重の冷戦」とも言える時期に,近代国家建設に非常に大きな影響を及ぼした。 中国とソ連の軍事対立を受けて,モンゴルは,ソ連にとって対中国の戦略的要衝となった。第二次世界大戦後,大幅な軍縮を行ったモンゴルでは,ソ連からの援助の下で1964 年から軍拡を本格的に開始したが,軍隊の急増に伴い,様々な問題が生じた。基層部隊内部で発生した問題の詳細は従来の公式文献には現れるはずもない。本稿ではこの「二重の冷戦」期におけるモンゴルの軍隊生活を経験した退役軍人を取材し,彼らの証言に基づき,基層部隊の兵士の生活実態を描き,当時のモンゴル軍隊の実像に迫りたい。国際関係が一般兵士にどのような影響を与えていたかが具体的に把握されることによって,これまで等閑視されていた近代化過程が一層明らかになるだろう。
竹村, 民郎
近代日本の国家形成および経済構造の問題を考えようとするものにとって、日清戦争を契機とする海洋帝国構想の解明がいかに重要であるかは言うまでもないだろう。十九世紀中葉における環太平洋経済圏においては、アメリカ、イギリス、ロシア、ドイツ、日本等が同地域の覇権をめぐって、それぞれ帝国間の争いを展開していた。確かに日清戦争の勝利は日本帝国の環太平洋経済圏における地位と役割を増大させた。そしてこのことは本論文で触れようとする海洋帝国構想の多様な展開を飛躍的におし進めていった。一八九五年に創刊された日本の代表的総合雑誌『太陽』に現れた海洋国家論、南進論、植民論、そして経済改革と結びついた貿易立国論等を分析するならば、海洋帝国に関する多様な構想がそのまま日本帝国の環太平洋経済圏における政治、経済、軍事戦略の方向の決定に連なるという重大な事実が浮かび上がってくるのである。 従来の通説は日本と朝鮮半島および中国に対する関係を基本とみて、こうした諸問題にあまり注意を払ってこなかった。しかし再びくり返すと、近代日本の重大な転換期であった日清戦争後における帝国形成および経済構造の十分な解明は、環太平洋経済圏に対する日本帝国のレスポンスを十分に考慮することなしには発展しないのである。
Takezawa, Shoichiro
2005 年はヨーロッパ各国で,文化の名による問題が噴出した年であった。移民第2 世代が主体となったロンドンの地下鉄テロや,フランス各地の郊外で発生した「都市暴動」,デンマークの日刊紙によるムハンマドの風刺画の掲載など,事例は枚挙にいとまがない。 これらの事件の背後にあったのは,EU の拡大とグローバル化の進展によって国民国家が弱体したという意識であり,そのため内的境界としてのナショナリズムが各国民のあいだで昂進したことであった。その結果,外国人移民およびその子弟や,イスラームに代表される文化的他者に対する排他意識は,これまで以上に高まっている。 従来,文化的他者の統合については2 つのモデルが示されてきた。文化的アイデンティティに沿って共同体を形成することを求めるアングロサクソン系の多文化主義と,公の場で宗教の表出を禁止し,個と国家のあいだに中間団体を認めないフランス式共和主義である。しかし,2005 年に英仏両国で生じた一連の事件は,両国とも文化的他者の統合に成功していないことを示している。多文化主義も共和主義も文化的他者の統合に成功していないとすれば,私たちはどこに統合のモデルを求めればよいのか。 産業革命以降,工業化に成功した諸国ではさまざまな社会問題が生じたが,問題に直面した人びとが団結して社会運動を起こすことでこれらの問題は解決するはずだ,というのが社会学のメタ物語であった。しかし,文化をめぐる問題が多発している今日,文化の諸問題を解決するためのメタ物語はまだ見つかっていない。フランスでは80 年代以降,移民の子弟を中心にさまざまな社会運動や文化運動がつくられてきたが,問題の解決には程遠いのが現状である。本稿では,2005 年のパリとマルセイユでおこなった現地調査にもとづきながら,文化の諸問題に対する効果的なアプローチを構築することを目的とする。国民国家に倣って境界づけられ,内部における等質性と外部に対する排他性を付与された文化の概念を,いまなお使いつづけるべきなのか。あるいは,複数の文化の出会う場としてのローカリティやテリトリー,空間の概念によって代置すべきなのか。それらの問いを具体例に沿って問うことが,本稿の課題とするものである。
鈴木, 貞美
今日、日本の近現代文芸をめぐって、一部に、「文化研究」を標榜し、新しさを装いつつ、その実、むしろ単純な反権力主義的な姿勢によって、種々の文化現象を「国民国家」や「帝国主義」との関連に還元する議論が流行している。この傾向は、レーニンならば「左翼小児病」というところであり、当の権力とその政策の実態、その変化を分析しえないという致命的な欠陥をもっている。それらは、「新しい歴史教科書」問題に見られるような「日本の威信回復」運動の顕在化や、世界各国におけるナショナリズムの高揚に呼応するような雰囲気が呼び起こしたリアクションのひとつであろう。その両者とは、まったく無縁なところから、第二次大戦後の進歩的文化人が書いてきた日本の近代文学史・文化史を、その根本から――言い換えると、そのストラテジーを明確に転換して――書き換えることを提唱し、試行錯誤を繰り返しつつも、少しずつ、その再編成の作業を進めてきた立場から、今日の議論の混乱の原因になっていると思われる要点について整理し、私自身と私が組織した共同研究が明らかにしてきたことの要点をふくめて、今後の日本近現代文芸・文化史研究が探るべきと思われる方向、すなわち、ガイドラインを示してみたい。整理すべき要点とは、グローバリゼイション、ステイト・ナショナリズム(国民国家主義)、エスノ・ナショナリズム、アジア主義、帝国主義、文化ナショナリズム、文化相対主義、多文化主義、都市大衆社会(文化)などの諸概念であり、それらと日本文芸との関連である。全体を三部に分け、Ⅰ「今日のグローバリゼイションとそれに対するリアクションズ」、Ⅱ「日本における文化ナショナリズムとアジア主義の流れ」、Ⅲ「日本近現代文芸における文化相対主義と多文化主義」について考えてゆく。なお、本稿は、言語とりわけリテラシー、思想などの文化総体にわたる問題を扱い、かつ、これまでの日本近現代文学・文化についての通説を大幅に書き換えるところも多いため、できるだけわかりやすく図式化して議論を進めることにする。言い換えると、ここには、たとえば「国家神道」など、当然ふれるべき問題について捨象や裁断が多々生じており、あくまで方向付けのための議論であることをおことわりしておく。
渡部, 育子 Watanabe, Ikuko
近年、古代東北史研究は北海道や東北アジア地域との交流を視野に入れたことによって大きな進展をみせた。とくに、それらの地域と直接的な関係をもつ出羽国研究の重要性が増す。ただし、出羽国とはいっても現在の山形・秋田二県にまたがる領域のなかの各地域の特質には異なる部分がある。庄内と秋田は同じ日本海沿岸の一地域であるが、律令制下において異なる位置づけをされる部分があった。本稿は、秋田を中心に、この二つの地域的特質の差異を明瞭にすることによって、律令国家の出羽経営の意義を明らかにするものである。七世紀後半の段階では、庄内は越後から陸つづきに面を北に拡大したところにあったのに対し、秋田は越後から津軽、ときには北海道までのなかの一拠点として位置づけられていた。このような拠点的支配拡大策は東北辺境のなかでも日本海側の地域に特徴的にみられ、交通手段としては海路の利用が多かった。八世紀になると、越後以北の地域では、拠点的支配と面的支配の二つが組み合わせられる形で国郡設置や城柵造営がおこなわれた。和銅年間に出羽郡・出羽柵そして出羽国が設置され、庄内に律令国家の蝦狄政策の中心となる施設が集中する。ところが、天平五年(七三三)、出羽柵が秋田村高清水岡に遷置されると、東山道陸奥方面から秋田への面的拡大が図られるようになる。天平九年(七三七)に陸奥国多賀城から秋田に至る内陸直路の開拓を計画、天平宝字三年(七五九)に雄勝・平鹿二郡の設置とともに道路も開通すると、秋田は最短の陸上交通路によって陸奥国府と結ばれることになる。これは秋田が北方交流の要衝にあたるためにとられた政策であると考えられる。この段階で秋田は、北方・北陸道(越後)・東山道(陸奥)からのそれぞれルートの結節点に位置することになり、律令国家にとって秋田は庄内とは異なる意味をもつ地域となる。宝亀年間以降、秋田は支配しにくいということが問題になり、九世紀には出羽国の行政の中心は庄内に移ってゆくが、以上のような庄内と秋田の地域的特質の相違とその変遷は、列島内の地理的位置に加えて東北アジアを含む北方交流・政府の東北経営方針の三つの要素がからみあって生じたものであったと考えられる。
北條, 勝貴 Hojo, Katsutaka
古代日本における神社の源流は、古墳後期頃より列島の多くの地域で確認される。天空や地下、奥山や海の彼方に設定された他界との境界付近に、後の神社に直結するような祭祀遺構が見出され始めるのである。とくに、耕地を潤す水源で行われた湧水点祭祀は、地域の鎮守や産土社に姿を変えてゆく。五世紀後半~六世紀初においてこれらに生じる祭祀具の一般化は、ヤマト王権内部に何らかの神祭り関係機関が成立したことを示していよう。文献史学でいう欽明朝の祭官制成立だが、〈官制〉として完成していたかどうかはともかく、中臣氏や忌部氏といった祭祀氏族が編成され、中央と地方を繋ぐ一元的な祭祀のあり方、神話的世界観が構想されていったことは確かだろう。この際、中国や朝鮮の神観念、卜占・祭祀の方法が将来され、列島的神祇信仰の構築に大きな影響を与えたことは注意される。律令国家形成の画期である天武・持統朝には、飛鳥浄御原令の編纂に伴って、祈年祭班幣を典型とする律令制祭祀や、それらを管理・運営する神祇官が整備されてゆく。社殿を備えるいわゆる〈神社〉は、このとき、各地の祭祀スポットから王権と関係の深いものを中心に選び出し、官の幣帛を受けるための荘厳された空間―〈官社〉として構築したものである。したがって各神社は、必然的に、王権/在地の二重の祭祀構造を持つことになった。前者の青写真である大宝神祇令は、列島の伝統的祭祀を唐の祠令、新羅の祭祀制と対比させつつ作成されたが、その〈清浄化イデオロギー〉は後者の実態と少なからず乖離していた。平安期における律令制祭祀の変質、一部官社の衰滅、そして令制以前から存在したと考えられる多様な宗教スポットの展開は、かかる二重構造のジレンマに由来するところが大きい。奈良中期より本格化する神階制、名神大社などの社格の賜与は、両面の矛盾を解消する役割を期待されたものの、その溝を充分に埋めることはできなかった。なお、聖武朝の国家的仏教喧伝は新たな奉祀方法としての仏教を浮かび上がらせ、仏の力で神祇を活性化させる初期神仏習合が流行する。本地垂迹説によってその傾向はさらに強まるが、社殿の普及や神像の創出など、この仏教との相関性が神祇信仰の明確化を生じた点は無視できない。平安期に入ると、律令制祭祀の本質を示す祈年祭班幣は次第に途絶し、各社奉祀の統括は神祇官から国司の手に移行してゆく。国幣の開始を端緒とするこの傾向は、王朝国家の成立に伴う国司権力の肥大化のなかで加速、やがて総社や一宮の成立へと結びつく。一方、令制前より主な奉幣の対象であった畿内の諸社、平安京域やその周辺に位置する神社のなかには、十六社や二十二社と数えられて祈雨/止雨・祈年穀の対象となるもの、個別の奉幣祭祀(公祭)を成立させるものが出現する。式外社を含むこれらの枠組みは、平安期における国家と王権の関係、天皇家及び有力貴族の信仰のあり方を明確に反映しており、従来の官社制を半ば超越するものであった。以降、神社祭祀は内廷的なものと各国個別のものへ二極分化し、中世的神祇信仰へと繋がってゆくことになるのである。
Mulenga, Chileshe L. Mulenga, Chileshe L.
国際金融機関の指導の下に経済政治改革を実施したサブ・サハラアフリカ諸国の農村経済は、「厳しい、障壁がある、難しい、困難である」等と言及されてきた。これら農村経済は、衰退と住民の貧困増大を経験してきた。その結果は、政策改革で期待された結果とは異なり、国家レベルではその改革のせいだと考えられていたものとも異なっていた。国レベルでは、政治改革は国家経済を安定化させ、過去10年の間に平均5%の安定した成長を達成させることに貢献した。東部ザンビアのチパタ市にあるムワニ地区でのフィールド調査と文献調査の結果は、国際金融機関の支援によって経済改革を行ったすべてのサブ・サハラアフリカ諸国で報告されたと同様の経済的衰退、地域世帯とコミュニティの貧困の拡大を明らかにするものであった。ザンビアにおける経済政策改革によって、地域の経済環境は経済後退と貧困の拡大という結果をもたらした。これら予期せぬ結果は、農業と地域開発への公共投資の軽視が原因であった。しかし、この状況は経済改革、HIV/AIDS、環境変化の3重苦へ地域世帯が適応できなかったことによってさらに悪化した。農村世帯が農業自由化に対応できなかったことは、近年の旱ばつとHIV/AIDS の負の影響から派生したショックが経済改革と同時に進行したことによる。2000/2001 年及び2001/2002 年の農作期に起こった旱ばつによって、チパタ市ムワニ地区のほとんどの世帯の食料庫が空になり、家畜は回復の目途が立たないほどに打撃を受けた。ハイブリッド・トウモロコシ種子と肥料などの資材価格の上昇は、さらに状況を悪化させ、ほとんどの世帯は主食と換金作物であるトウモロコシの作付面積を減少させた。またHIV/AIDS 患者が出た世帯では、病気や死亡によって最も生産的な労働力の損失というさらなる経済状況の悪化が起こった。この状況は、貧困のプロセスへ移行し、国家経済の主流から取り残されることを意味しており、失望感をつのらせた。この結果、ムワニ地区のほとんどの世帯は森林資源や野生動物などの天然資源採集へ転換した。これらの採集は、伝統的技術に依存し、生産性も高くなく環境の荒廃を保全・改修するものではなかった。これらの天然資源採集は、温度の上昇や雨季の減少等の環境変動下ではとくに持続的ではない。ムワニ地区のみならずザンビアの農村世帯が自由化した経済環境、環境変動、HIV/AIDS などへ適応するための支援が必要とされる。
熊谷, 公男 Kumagai, Kimio
多賀城碑によれば、多賀城の創建は神亀元年(七二四)のこととされる。一方、これまでの考古学的調査・研究によって、多賀城創建期の瓦の焼成地およびその供給関係などの解明が進み、多賀城の建設は大崎地方を中心とした玉造等の五柵(玉造・新田・色麻・牡鹿の四柵に名称不明の一柵)と一体の造営事業として行われたことが明らかにされている。また近年、平川南氏は、多賀城政庁―外郭南門間の正面道路跡から出土した木簡の記載内容の検討から、多賀城の建設は養老四年(七二〇)の蝦夷の反乱の直後に着手されたと考えられることを指摘し、多賀城碑にみえる神亀元年という創建年次は、完成の時点を示すものであることを明らかにした。そこで、養老四年の蝦夷の反乱と多賀城の創建の関係が改めて問題となってくる。このときの反乱は『続日本紀』の記述が簡略で、按察使が殺されたことが知られる程度であるが、関係史料を改めて検討してみると、実は、陸奥側の蝦夷の反乱としては空前の規模のものであり、辺郡を中心とした在地社会にきわめて深刻な影響を及ぼしたものであることが知られる。この乱の影響の甚大さに驚愕した律令国家は、まもなく陸奥国で調庸制を停止して辺民の動揺を鎮めようとしたばかりでなく、令外の軍制である鎮守府―鎮兵体制を創設して軍事体制の強化をはかり、養老二年(七一八)に陸奥国から分離したばかりの石城・石背両国を、異例の短期間で陸奥国へ再併合するなど、これまでの方針を大きく転換する思い切った政策を矢継ぎばやに打ち出した。さらに、養老四年の反乱の影響をもっとも強く受けたと思われる大崎・牡鹿地方に、移民(柵戸)を主体とした黒川以北十郡を建置するとともに、玉造等の五柵の造営を開始した。これら一連の政策は、律令国家が当初とっていた蝦夷政策が、養老四年の蝦夷の反乱で完全に破綻したことを意味し、乱後、律令国家は改めて蝦夷支配体制の強化と辺郡の動揺の収拾を目的とした一連の政策を組織的に実施するのである。多賀城もまた、このような、乱後の新たな蝦夷支配を構築するための政策の一環として、大崎・牡鹿地方の支配強化のために置かれた黒川以北十郡と玉造等の五柵を背後から統轄する国府兼鎮守府として創建された城柵であった。
山中, 章 Yamanaka, Akira
八世紀後半から九世紀前半にかけて,光仁・桓武王権は東北蝦夷の「反乱」に対し,大規模な軍事行動を起こした。いわゆる三十八年戦争である。王権は軍事的・政治的拠点として胆沢城,志波城,徳丹城を建設した。同じ頃,渡島(北海道)でも列島との関係に大きな変化が生じていた。石狩川流域の千歳市,恵庭市,江別市などの道央部の遺跡から,渡島では生産されなかった須恵器を伴う遺跡が出現するのである。北海道式古墳と呼ばれる墳墓の出現もまた同時期であり,副葬品に須恵器が伴うほか,渡島では例のない隆平永寳や銅碗が埋納されるのである。当該期に道央部にいた勢力の一部が列島の王権と深いつながりを持っていたことを証明する考古資料であった。これらがもたらされた径路として注目されるのが,当時の渡島との交渉の窓口とされた秋田城であった。そこで,秋田城から出土する須恵器と渡島のそれとを比較すると,相当数の須恵器にその可能性を指摘することができた。さらに,ごく少量ではあるが,当時の王権の所在地であった長岡京で使用されていた須恵器が渡島にもたらされていた事実も指摘できた。秋田城を経由してもたらされた可能性が高く,光仁・桓武王権は渡島の特定勢力との間に関係を結び,「威信財」として都の須恵器杯(盃)を与えたと解釈した。同じ時期,南西諸島に所在する喜界島に公的性格の強い施設が建設される。律令国家創設時以来「朝貢」を求めてきた島々を支配するための拠点を設置したものと理解した。近世に至るまで南北の国の境と意識されてきた地域におけるこうした動向こそ,王権による「国境」の確定政策の反映であると考えた。一方,光仁・桓武王権は蕃国との唯一の外交文書である慰労詔書の書式を変更・確立する。律令国家の支配領域を明示することによって,蕃国に君臨する「帝国」の姿を鮮明にしたのであった。これまでの研究によって,光仁・桓武王権は奈良時代から平安時代へと,律令国家の転換点をなした重要な王権であったことが知られてきた。本稿では,当該王権が,外交政策においても,その後の「日本」を規定する支配空間の確定という一大事業をなしたことを明らかにした。
高橋, 照彦 Takahashi, Teruhiko
本稿は,平安時代における緑釉陶器生産の展開と終焉を検討対象とし,生産地の拡散過程・生産体制ならびにその歴史的背景について考察することを目的としている。緑釉陶器生産の盛衰過程は6段階に整理され,巨視的にみれば3度にわたる生産地の拡散が認められる。このうち,本稿は第2次拡散以降について検討を試みることにした。まず,第2次拡散期である9世紀中頃には,山城・尾張において基本的にその生産国内の技術により,国内の範囲で生産地拡散が行われる。この背景には,公的用途に限定されない需要の増大が推測され,9世紀前半からの緩やかな変質を認めることができる。その一方で,長門ではおそらく在地の生産基盤の薄弱さなどのために,他地域のように十分な生産の拡大は達成できなかったとみられる。この時期の緑釉陶器の生産体制としては,在地の生産組織に依拠しながらも中央の介在による共通規範の設定が行われていたものとみられ,国衙による生産過程への一定の関与が推測される。第3次拡散では,旧来の生産国を越えて丹波・美濃・近江・周防・三河などの新たな生産地が成立する。ここに9世紀的な3国による生産が崩れ,より一層の在地的展開が起こったことになる。ただし,生産体制としては従来から指摘のある荘園制的な新たな生産に転化したとは考えられず,それ以前からの延長的側面が残存していたと判断される。特に10世紀前半代には,近江窯の成立を初めとして9世紀代の緑釉陶器生産・供給体制を再現するために国家的に生産の再編が行われた可能性がある。11世紀前半代には,緑釉陶器生産がほぼ終焉を迎えることになる。この段階では緑釉陶器の需要が消滅したとは言えないため,終焉の背景としては生産側の要因がより大きかったと判断した。その一因としては原材料である鉛の不足も確かに重要であるが,規定的な要件はむしろ他の手工業生産にもわたるような国家的な変動の中で旧来的な生産が維持できなくなったという生産体制自体の変質に求められると考えた。平安期緑釉陶器生産は,奈良時代の中央官営工房による独占的な体制から,国衙が関与しつつ在地の窯業生産に依存する生産体制へと変容したことが大きな特質であった。そして,その生産は中世への萌芽的様相を見せながら変質していくが,最終的には国家的な後ろ楯なくしては存立できない古代的な生産体制に留まっていたために,在地に技術が根付かなかったものと結論付けた。
岩淵, 令治 Iwabuchi, Reiji
国民国家としての「日本」成立以降,今日に到るまで,さまざまな立場で共有する物語を形成する際に「参照」され,「発見」される「伝統」の多くは,「基層文化」としての原始・古代と,都市江戸を主な舞台とした「江戸」である。明治20年代から関東大震災前までの時期は,「江戸」が「発見」された嚆矢であり,時間差を生じながら,政治的位相と商品化の位相で進行した。前者は,欧化政策への反撥,国粋保存主義として明治20年代に表出してくるもので,「日本」固有の伝統の創造という日本型国民国家論の中で,「江戸」の国民国家への接合として,注目されてきた。しかし後者の商品化の位相についてはいまだ検討が不十分である。そこで本稿では,明治末より大正期において三越がすすめた「江戸」の商品化,具体的には,日露戦後の元禄模様,および大正期の生活・文化の位相での「江戸趣味」の流行をとりあげ,「江戸」の商品化のしくみと影響を検討した。明らかになったのは以下の点である。①元禄模様,元禄ブームは三越が起こしたもので,これに関係したのが,茶話会と実物の展示という文人的世界を引き継いだ元禄会である。同会では対象を元禄期に限定して,さまざまな事象や,時代の評価をめぐる議論,そして模様の転用の是非が問われた。ただし,元禄会は旧幕臣戸川残花の私的なネットワークで成立したもので,三越が創出したわけではなかった。残花の白木屋顧問就任や,三越直営の流行会が機能したこともあって,残花との関係は疎遠になる。元禄会自体は,最後は文芸協会との聯合研究会で終焉する。また,元禄ブーム自体も凋落した。②大正期の「江戸」の商品化に際しては,三越の諮問会である流行会からの発案で分科会たる江戸趣味研究会が誕生する。彼らは対象を天明期に絞り,資料編纂の上で研究をすすめ,「天明振」の提案を目指した。しかし,研究成果は生かされず,元禄を併存した形で時期・階層の無限定な江戸趣味の展覧会が行われる。そして,イメージとしての「江戸趣味」が江戸を生きたことの無い人々の中に定位することを助長した。「江戸」は商品化の中で,関東大震災を迎える前に,現実逃避の永井荷風の「江戸」ともまた異なった,漠然としたイメージになったのである。その後,「江戸趣味研究会」の研究の方向性は,国文学や,三田村鳶魚の江戸研究へと引き継がれていくことになった。
原, 秀成
一八八六年の文芸作品の保護のためのベルヌ条約により、各国で著作権法制が整備された。領事裁判権撤廃の条件として、日本はベルヌ条約への加入を迫られた。日本はベルヌ条約の基準にあわせるように、一八八七年版権条例、一八九三年版権法、一八九九年著作権法を順次立法し、一八九九年にベルヌ条約に加入した。 そのなかで、とくに雑誌記事の著者の権利が拡張された。本稿では、第二次世界大戦前の日本の最大の出版社だった博文館の創業の雑誌『日本大家論集』の他の雑誌から無断転載の適法性を、各時点において検討した。 第一に、一八八七年版権条例以前に、雑誌の版権は保護されていなかった。それゆえ一八八七年六月の同誌創刊時の無断転載は、適法なものであった。 第二に、一八八七年一二月の版権条例で、学術雑誌について版権取得の道が開かれた。明治政府は学術雑誌の版権だけを保護し、政治や文芸を掲載する雑誌には版権保護を与えなかった。こうして明治政府は、検閲より間接的な経済的かつ私法的な方法によって、メディアの統制に統制する法技術を導入した。一八八九年の大日本帝国憲法の施行前に、これらの法を一方的に制定したのである。 第三に、一八九三年版権法によって、すべての雑誌に版権登録の機会が認められた。「禁転載」規定も導入され、一八八六年ベルヌ条約第七条の基準に、ほぼ準拠するものとされた。 第四に、この一八九三年の版権法によって、無断転載はほぼ不可能になった。博文館は、近衛篤麿(一八六三―一九〇四)の国家学会における講演録を転載したとして、国家学会から訴えられた。一八九四年の近衛事件の背後には、立憲改進党系の活動への弾圧があったと考えられる。博文館主の大橋佐平(一八六三―一九〇一)は、立憲改進党に加担していた。内務省は版権を手段に、博文館の活動に圧力をかけた疑いがある。博文館は実利をとって和解したと考えられる。そのうえで、一八九四年末に雑誌『日本大家論集』をいったん廃刊にした。そして一八九五年一月から、新たに雑誌『太陽』を発刊した。それは日清戦争の勝利を賛美するものであった。 第五に、こうした雑誌についての法制度は、政府と雑誌発行者とのより隠れた形での結びつきを許したと考えられる。雑誌の版権は、発行者がもつとされ、雑誌の筆者個人の権利は副次的なものとされた。それは一九世紀末の条約が、国家どうしの合意であり、個人が個人の権利として、主張しにくいことに根本的な原因があったといえる。それゆえ個人単位としての著者の権利、読者の権利を「人権」の視点から充実させていくことが課題にのぼる。
清水, 郁郎 SHIMIZU, Ikuro
このレポートは、ブン・ヌア郡(ポンサリー県)のタイ・ルーの村で、昨年行われた調査にもとづく。内容は、主に以下の2 つの点に集中している。ひとつは、現在までの村落の歴史の概略であり、もうひとつは、個人または少数民族社会としての村落が生態学的な環境を含む居住空間をどのように利活用しているかである。複雑な歴史的イベントと個人の経験を対象化する方法として、村人による語りを中心にしてこのレポートは記述されている。さらに、人びとが近年のいわゆる「周縁」的な状況の下で、国家や他の少数民族集団とどのように向き合ったかという問題を、「叛史」という概念でとらえようと試みている。
後藤, 雅彦 Goto, Masahiko
多様な展開をもつ東南中国の先史文化について、これまで各地域文化が保有する土器群の変遷、とくに共通性と地域性に焦点をあててきた。本稿では福建北部~広西壮族自治区南部に至る東南中国の沿海側に多数の貝塚遺跡が分布していることから、貝塚遺跡を共通項にして、地域文化を形成する各遺跡に立ちかえり、遺跡の立地を踏まえた貝塚遺跡の概要と検出遺構について整理する。当該地域の貝塚遺跡は紀元前4000年紀以降に出現し、新石器時代後期(紀元前3000年紀以降)に展開し、紀元前2000年紀以降、黄河中流域\nで初期国家が成立する前後になると貝塚遺跡も変化する様子がうかがえる。その変化の一つとして、環境の変化に応じた居住形態の多様化を明らかにする。
宮里, 正子
1429年に成立した琉球王国は,1879年の沖縄県設置までの450年間にわたり,独自の国家を保持してきた。14世紀から始まる中国との冊封・朝貢関係に加え,1609年の薩摩・島津氏の侵略以降は,日本の幕藩体制にも組み込まれる日支両属の関係が続いた。琉球王国は,中国や日本,朝鮮そして東南アジア諸国との交易を経済基盤とした国家運営方針を図った。その結果,琉球ではアジア諸国の人・モノ・情報が行き交い,国際色豊かな「琉球文化」を創出した。とりわけ,漆器は中国皇帝や日本の将軍や大名への献上品であり,さらに経済基盤を支える交易品として王国外交を支えた。王府は漆器の生産管理部署として貝摺奉行所を設置し,王国の誇る漆器の品質保持に努めた。琉球では,材料や技術などをアジア各地に求めつつも,その湿潤な風土が螺鈿・沈金・箔絵・堆錦など豊かな加飾技法を育み,特色ある琉球漆器の美を確立した。1879年(明治12)の沖縄県設置により王国は崩壊し,献上漆器の生産の中核であった王府機構の貝摺奉行所も解体した。以降,沖縄県の漆器は殖産興業として民間工房へと製作が転換していった。「王朝文化の華」と謳われた琉球王国の漆芸であるが,王国の崩壊や今次大戦の戦禍により伝世品や技術などが消滅した。僅少な史資料の琉球漆芸であるが,近年の理学調査による分析研究の成果で,科学的・客観的な情報が共有され,新たな琉球漆芸のすがたが構築されつつある。本稿では,文書記録類や現存作品に管見ながら可能な限りあたることとした。「琉球漆芸史の概略」,「琉球列島の漆樹」,「王家に関わる可能性のしるし」,「琉球国王から中国皇帝へ献上された漆器」などの観点から述べる。
島村, 恭則 Shimamura, Takanori
これまでの民俗学において,〈在日朝鮮人〉についての調査研究が行なわれたことは皆無であった。この要因は,民俗学(日本民俗学)が,その研究対象を,少なくとも日本列島上をフィールドとする場合には〈日本国民〉〈日本人〉であるとして,その自明性を疑わなかったところにある。そして,その背景には,日本民俗学が,国民国家イデオロギーと密接な関係を持っていたという経緯が存在していると考えられる。しかし,近代国民国家形成と関わる日本民俗学のイデオロギー性が明らかにされ,また批判されている今日,民俗学がその対象を〈日本国民〉〈日本人〉に限定し,それ以外の,〈在日朝鮮人〉をはじめとするさまざまな人々を研究対象から除外する論理的な根拠は存在しない。本稿では,このことを前提とした上で,民俗学の立場から,〈在日朝鮮人〉の生活文化について,これまで他の学問分野においても扱われることの少なかった事象を中心に,民俗誌的記述を試みた。ここで検討した生活文化は,いずれも現代日本社会におけるピジン・クレオール文化として展開されてきたものであり,また〈在日朝鮮人〉が日本社会で生活してゆくための工夫が随所に凝らされたものとなっていた。この場合,その工夫とは,マイノリティにおける「生きていく方法」「生存の技法」といいうるものである。さらにまた,ここで記述した生活文化は,マジョリティとしての国民文化との関係性を有しながらも,それに完全に同化しているわけではなく,相対的な自律性をもって展開され,かつ日本列島上に確実に根をおろしたものとなっていた。本稿は,多文化主義による民俗学研究の必要性を,こうした具体的生活文化の記述を通して主張しようとしたものである。
阿部, 義平 Abe, Gihei
日本列島に展開した各時代史において,村落や都市などを守る拠点,あるいは全体を囲む防備施設が存在した。弥生時代の環濠集落を嚆矢(こうし)として,各時代に各々特色ある防禦施設あるいは軍事施設の様相が展開したことが知られてきた。中世や近世の城郭がその代表例であるが,各時代を通じた施設の実態や変遷,多様性などはまだ十分に把握されておらず,解明を要する。西暦7~9世紀頃の古代国家の時代には,西日本に山城,列島中央部に都城や関,東日本に城柵の造営があり,それらと関わる歴史の展開が知られている。文献で知られている遺跡の大半は考古学的調査が及んで居り,文献にみえない遺跡まで知られるに至った。多大な労力と費用をかけて維持された古代の大規模なこれらの施設の歴史は,対外交流を本格化したこの時代の特質と深く関わっている。これまでの定説的理解では,文献史料の限界や考古学的蓄積の不足もあって,その実態が知られないままに,極めて過少に評価されてきた面がある。小論では,日本列島の古代において,必要に応じた十分な施設が,国家統合や防衛,都市や村落の防備において,日本列島各地に展開した事例を指摘することができる。その代表例として,大宰府や平城京,東国の城柵の一例をとりあげてみた。しかし防備施設の普遍的な存在や時期的展開には,まだ十分に明らかになっていない点も多い。村落でも,7~8世紀,10~11世紀などに,一定の地域で必要に応じた防備された村落が展開したことも判明してきている。小論は,古代における防備施設自体の実態,及び城郭と都市との関係について見直し,新しい見解を提案するものである。
井原, 今朝男 Ihara, Kesao
近年、神社史研究が活発化しつつあるが、その分析対象となる多くの神社史料がもつ歴史的特徴や問題点について留意されることが少ない。そこで神社史料についての資料学的検討を行った。第一は、現存する神社や現任の神官層の保管下にある神社史料群はむしろ限定された文書群にすぎず、むしろより多くの関係史料群が社家文書として個人所蔵に帰しており散逸の危機に直面し、史料群の全体像はなお不明の状態のものが多いといわなければならない。社家文書の群としての全体的構造を理解することは、神社資料に対する史料批判を厳密にするうえで必要不可欠な作業である。第二に、個別神社史料群は、明治の廃仏毀釈によって仏事関係史料群が流出し、史料群の構成は大改変を受けている。そのため、現存史料群から描く神社史像は歴史実態から乖離してしまうという問題に直面することになる。改めて、廃仏毀釈の実態解明や旧聖教類の所在についての史料調査が重要な課題になっている。第三は、現存する神社史料群は、とくに近世・近代の神官層による神道書や縁起の編纂・改変という諸問題を抱えている。しかし、それらの解明は今後の課題であり、史料学的な問題点として論じられていない。神道史というものが近世国学や近代国家神道によって、「近代日本的な偏見」を受けていることが指摘されてきた。近世・近代の国家神道の下で神道書や神社史料がどのようなイデオロギー的変容を遂げたのかをあきらかにすることは、神社史料研究の一研究分野としなければならない。こうした神社史料ももつ諸問題や特質をトータルとして論じる多面的な資料学的研究が必要になっている。
中島, 信親 Nakajima, Nobuchika
本論は、光仁・桓武朝にあたる奈良時代後半から平安時代初期に都城や国家が造営した寺院で用いられた軒瓦を、文様および造瓦技術に着目しつつ概観し、その中で長岡宮式軒瓦がどの様に位置づけられるかを検討した。奈良時代後半に存在した文様および造瓦技術が異なる二系統の造営官司(宮造営官司と造東大寺司)が二度の遷都を通じて再編・融合される中で、その渦中で製作された長岡宮式軒瓦は、文様が稚拙なものも含めてほぼすべてが宮造営官司の造瓦技法が用いられていることを確認した。また、文様と分布から長岡宮式軒瓦を区分し、分布の集中域に存在する殿舎や施設とそれが文献に記載される年号から、区分した軒瓦に製作年代の一定点を与えた。
黒田, 智 Kuroda, Satoshi
勝軍地蔵とは、日本中世における神仏の戦争が生み出した軍神(イクサガミ)であった。その信仰は、観音霊場を舞台に諸権門間の対立・内紛といった戦争を契機として誕生した。そして征夷大将軍達の物語とともに、その軍神(イクサガミ)的性格を色濃くしていった。多武峯談山神社所蔵「日輪御影」は、いわば勝軍地蔵誕生の記念碑的絵画であった。「日輪御影」は、応長・正和年間(一三一一〜一二)に、興福寺との合戦に際して戦場となった多武峯冬野における日輪出現と、その周辺の観音勝地で起こった三神影向伝説を絵画化したものである。画面下方に描かれた束帯に甲冑を着した三眼の異人は、良助法親王と推測され、彼が喧伝した勝軍地蔵を想起させる。画面上方の円光中に描かれた藤原鎌足像は、三眼の異人と対をなして勝軍地蔵の化身として配置されている。また画面上部に描かれた三つの円光は太陽・月・星であり、山王三聖信仰を背景とする三光地蔵の表象である。「日輪御影」に表された勝軍地蔵信仰の世界観は、三光の多様な言説を背景として、鎌倉中期から南北朝期にかけて浮上する太陽・日輪の文化の急速な波及と密接に関わっている。太陽・日輪イメージは、勝軍地蔵信仰と結びつくことで、戦う神仏のイデオロギー・武威のシンボルへと収斂していたのである。こうした太陽・日輪イメージは、天空における太陽の月・星に対する優位性が日本という国家・国土の優越性に準えられた思想であった。それは、日本の神仏の優位性を主張し、日本という国土を神聖化し、日本を仏教的コスモロジーの中心に位置付けようとする運動であった。勝軍地蔵信仰は、同時代の中世的国家・国土観念と不可分な結びつきをもちながら、後代に少なからぬ影響を及ぼしていったのである。
三上, 喜孝 Mikami, Yoshitaka
本稿は、八世紀末から九世紀初頭を律令国家の転換期であるとする本共同研究の立場から、光仁・桓武朝期における国土意識の転換について論ずることを目的とする。ここでいう「国土意識」とは、国土の境界意識、空間認識、山野支配や田地支配の理念、王土思想といった、国土にかかわる意識全般を意味する。むろん、国土意識は、特定の時期にのみあらわれるものではないが、古代日本における国土意識の変化の画期を考える上で、光仁・桓武朝期を検討することは意味があることと考える。九世紀における国土意識の変容を考える素材の一つに、日本海側の諸国を中心に広く行われるようになった「四天王法」があげられるが、その端緒となったのが、宝亀五年(七七四)に、新羅調伏を目的として大宰府に建立された四天王寺であった。宝亀年間は、新羅からの来着者のうち、「帰化」でない「流来」の者を送還するという強硬な措置をとったり、山陰道・北陸道などの日本海側諸国に警護を命じたりするなど、新羅との関係が緊張した時期であった。こうした現実的な緊張関係に加えて、疫病が国土の外からもたらされるという観念がこの時期芽生えはじめたことが、四天王寺建立に大きな影響を与えたものとみられる。続く延暦年間は、桓武天皇による王土思想の高まりの影響を受けて、山野支配に大きな画期をみせる時期である。それに加えて、東北の辺境地域においても国土観念が強まり、現実の蝦夷との交易や辺境の田地開発に対して、律令国家が本格的な介入に乗り出すのである。辺境ばかりでなく、都城においても、銭貨流通にみられるように都城を「閉じられた空間」とする認識が生まれはじめる。このように、光仁・桓武朝は、九世紀以降に広がる国土意識の萌芽の時期として位置づけられるのである。
柴田, 博子
『続日本紀』、『万葉集』、『令集解』の古記にみえる肥人は、隼人に近しい存在として登場し、挙げられているが、読み方と語義ともに諸説あり、近年の国語辞典・歴史事典においても一致していない。本稿では、その研究史を整理し、従来の説の問題点を指摘したうえで、肥人史料を検討していくつかの見通しを示した。現在の『万葉集』注釈研究では、読みはクマヒトの転訛としてのコマヒトが、語義は肥後国球磨地方の人が定説となっている。コマヒトの読みは一三世紀の仙覚がそれまでのコエヒトの読みをコマヒトに改めたことに始まるが、語義は吉田東伍・喜田貞吉による熊襲説を受け継いだものである。しかし今日、歴史研究のなかに熊襲説を是とする論はない。いっぽう吉田・喜田説を批判した岩橋小彌太は、語義は肥国人であり読みはヒビトを主張したが、これにも反論がある。球磨人説・肥国人説のいずれも無理があり、「肥」を地名で解釈しようとしてきた従来の見方を考え直す必要がある。七世紀末から八世紀の木簡や正税帳、庸布墨書などに、「肥人」や「肥人部」がウジナとしてみえる。そして肥人には、朝貢記事がみられないこと、分布が九州南部のほか、ウジナでは畿内をはじめ遠江・越後・肥前と広いこと、また百済系渡来人との関係が木簡出土遺跡や『播磨国風土記』の地名起源説話から窺えることなど、隼人とは大きく異なる点を指摘できる。部の設置などからすると肥人はヤマト王権に奉仕する職掌に関わる名称と考えられ、いわゆる人制との関係が推測される。肥人の読みは確定しがたいが、その職掌は律令国家の形成に伴い、そのなかに解消されていったと思われる。肥人への夷人視が進むのはその後のことと思われる。このように肥人は、律令国家の夷人観の始まりと変容に関わっていると考えられる。
仁藤, 敦史 Nito, Atsushi
本稿は、七世紀後半における公民制の整備過程を検討することを課題にした。この 時期は、旧来の国造制度から八世紀初頭に成立する国郡制への転換期に相当する。部民集団を母体とする五十戸は必ずしも部名五十戸と表記するとは限らず、反対に 非部名五十戸のミヤケ系列も国造や渡来系の人間集団を前提に組織していた。非部名 五十戸だから領域的であるという単純な議論は成立しない。また、五十戸には課税単 位の性格が強く、律令制下のように戸口全体の把握はまだ不要であり、評と五十戸の 行政的な重層性は、当初は弱かった。大化期の政策は、豪族が己民(部曲)を置いて駆使しているとの現状認識に対して 「子代」と「部曲」を合わせた「品部」全体を国家民とする理念が宣言されたが、具 体的政策は子代からの仕丁の献上による「国家民」化だけであり、豪族部名を付せら れた「部曲」の王民化は、天智期における民部・家部の設定まで遅れ、その内容も数 量的把握と限定にすぎず、名目的な仕丁や戸別(男身)の調に留まり、王族や豪族の 有する権益はあまり変化せず、天武期以降の部曲廃止において公民制への転換が可能 となった。甲子の宣により、中央氏族の「甲子年諸氏系譜」認定と、大氏・小氏と伴造等の民 部家部=部曲は、氏別にまとめられ、庚午年籍とは補完的に扱われた。中央・地方の 氏別編成を除外したしたところで、課税単位としての五十戸編成がおこなわれるとい う二元的な編成であり、領域的な編戸としては不十分な段階であった。庚午年籍において全国化した旧部民・ミヤケ系人民の五十戸編成の例外なものは、 中央・地方の氏だけでなく、白村江の敗戦以降における戦時体制の構築において同様 な義務的負担を課された王子宮や寺社なども対象であった。
岸本, 道昭 Kishimoto, Michiaki
400年間も続いた古墳築造社会から律令体制への時代転換にあたって,新たに導入された地方支配方式の史的画期を追究する。『播磨国風土記』をひも解き,郡里領域を比定しながら,古墳や寺院の地域的実態と比較する。検討の俎上に載せた地域とは,播磨国揖保郡18里である。郡内において,6世紀半ば以降の後期前方後円墳が11基,後期古墳は1255基を数えた。古墳の造営集団は約400~500家族(戸)を想定するが,分布や墓域は風土記に記す里領域とはほとんど整合しないことがわかった。有力な終末期古墳は数が限定され,これも分布実態は里領域と合致しなかったが,むしろ郡司層を被葬者に考えることができた。いっぽう,7~9世紀に建立された古代寺院は14カ寺を数え,1里1寺に迫る分布を示している。古墳と異なって,寺院は里を意識した建立がなされている。寺院が地域社会の統合を促進し,知識寺院としての役割が想定できる。また,官道である山陽道と美作道が通る里での寺院建立は徹底されていたことから,護国仏教の浸透とあわせ,往来から見せる律令国家の機能を考えた。18里の設定原理を探ったところ,里の総面積に大きな差があっても,開発(生産)面積は小差で均等的であることがわかった。このことから,里は従来からの古墳を媒介とする族制的支配を否定し,均等的かつ網羅的な土地の領域支配の基礎単位と推定する。里は開発面積を前提に土地領域として区分され,地域社会の賦課と徴税単位として設定された。それは律令国家を支える地方社会の基礎的単位であり,現実にそれを統括したのは郡司層であった。人的支配であった古墳に代わる新たな地方支配の原理は,土地の領域支配であった。風土記や里領域の分析,寺院建立の実態から,播磨地域における領域支配の実質的開始は7世紀末の持統朝と考えられる。
石原, 嘉人 Ishihara, Yoshihito
小論は,異文化を画一的,固定的なものとして学ぶのではなく,多角的且つ柔軟に理解する方略を身につけられるような講読のあり方を.2002年と2003年の前学期での実践に基づいて追求した「講読を通じての異文化理解(その一)」の続編である。国家や民族という枠組みを前提にしたテキストを多く用いた(その一)と異なり,本論では個人の内面を扱ったテキストが中心となっている。主なトピックは,近代的自我,無意識,歴史認識,贈与と交換,といったものである。近代化された社会において,個人という単位を成立させることが,個々の人間にとってどのような影響を及ぼすのかを読み解くことが全体を通した一つのテーマとなっている。
高根, 務
本稿では,独立期ガーナのココア部門とンクルマ政権の盛衰との関係を検討し,当時の政治経済状況の問題点を指摘する。注目するのは,政治・経済の両面で脱植民地化を目指した独立期のンクルマ政権が,実際にはその基盤を植民地期の遺産そのものに置いていた事実である。反植民地主義を掲げるンクルマが国家建設を進めるために採用した具体的な方策は,植民地期の遺産であるココアマーケティングボードを中心とした体制を利用し強化することによって,開発のための資金を調達し,また自らの政治基盤を農村部に浸透させることであった。本稿では経済・制度・政治のすべてが複雑に絡まって表出するココア部門とンクルマ政権の関係を明らかにすることにより,現代ガーナの諸問題の根源にある独立期ガーナの政治経済過程を再検討する。
箭内, 匡
この論文は,チリ南部に居住する先住民マプーチェの社会において,口頭的コミュニケーションの問題が,口頭伝承,夢,儀礼といった彼らの伝統的な社会文化的実践の中心部分を縦断して,マプーチェ的な「考え方」,「生き方」そのものの問題と重なり合っていることを,一次データをもとに示そうとするものである。その中で,E・A・ハヴロックの『プラトン序説』を一つの土台に,こうした思考と存在の様式の独自性を,プラトン主義や近代的主体性との対照の中で浮き彫りにする試みもなされる。後者の作業は,近代国家チリの中で少数民族として暮らすマプーチェの人々が,口頭的なものと近代的・チリ的なものとの問で揺れ動く今日的状況を存在論的なレベルから把握する上で有益な作業と考えられる。
金, 彦志 韓, 昌完 田中, 敦士 Kim, Eon-Ji Han, chang-wan Tanaka, Atsushi
韓国では、2008年に「障害者等に関する特殊教育法」が全面的に制定され、特殊教育に関する大きな法的整備が行われた。その内容としては、3歳未満の障害のある乳幼児の教育の無償化、満3歳から17歳までの特殊教育対象者の義務教育の権利、特殊教育支援センターの設置・運営の見直し等である。これは、小・中学教育を中心とした今までの制度から、乳幼児および障害成人のための教育支援に対する規定に変化したものであり、国家および地方自治団体の特殊教育支援についての具体的な役割も提示された。本論文では、韓国における特殊教育に関する法的背景を紹介し、2008年行われた「特殊教育実態調査」を参考に韓国特殊教育の現状を概観し、また、障害児教育・保育についての実態と課題を検討した。
北野, 博司 Kitano, Hiroshi
小論では律令国家転換期(八世紀後半〜九世紀前葉)における須恵器生産の変容過程を検討し、その背景を経済、社会、宗教の観点から考察することを目的とした。ここでは各窯場の盛衰、窯業技術(窯構造・窯詰め・窯焚き)、生産器種の三点を主な検討対象とした。列島の大規模窯業地では都城周辺にあった陶邑窯の衰退が顕著で、代わって生駒西麓窯など都市近郊窯の生産が活発化した。理由の一つは流通経済の発達を背景に、交易に有利な近郊窯の利点が生かされたためと考えた。流通状況の検証は十分ではないが、播磨や讃岐、備前の須恵器が入り込むのも瀬戸内海運の発展と関係が深いとみられる。もう一つは宗教面から、服属儀礼的な意味あいがあった陶器調納システムや、大甕等を用いた王権儀礼そのものが、国家仏教興隆期の八世紀中葉から変質していき、その主力を担ってきた陶邑の須恵器供給地としての役割が相対的に低くなった可能性を想定した。一方、各地の窯場では転換期に共通した生産戦略がとられた。それはコストと品質のバランスにおいて経済性を優先する方向への変化であった。須恵器窯業の六世紀末、七世紀後半の二度の画期では、各地で生産戦略だけでなく導入される技術の共通点も多かったが、八世紀後半の特徴は技術の選択に多様性が生まれ、その後、地域色が明瞭になっていったことである。大きく四つの地域類型を設定した。第一は集約的な須恵器生産からいち早く離脱した陶邑窯や牛頸窯である。相対的に自立度の高い周辺在地社会が共同体祭祀や儀礼的飲食の衰退によって須恵器需要の低下を招いたことが一因と考えられた。第二は技術力を生かして産地のブランド的地位を築いていった東海の猿投窯である。周辺は瓷器系陶器の一大生産地となった。第三は流通経済と都市に近い利点を生かし、器種別分業を取り入れるなど新しい須恵器産地に発展していった播磨や讃岐である。第四は伝統的な須恵器生産を継承する面の強かった北陸や関東、東北の諸窯である。畿内とは逆に、須恵器需要を担う在地社会の支配関係や経済、宗教に保守的な性格がみられた。転換期窯業にみられたこれらの地域色は古代末〜中世初の焼物世界への端緒ともなった。
小口, 雅史 Oguchi, Masashi
斉明紀に見える「渡嶋」が具体的にどの地域を指すのかという問題の解明は、日本古代国家における一大転機であった大化改新後の初期律令国家の形成過程や、当時の国際関係を考える上できわめて重要な問題であって、早く江戸時代から学者の注目を集めてきた。古くは津軽の北は北海道であるという単純な理解から、渡嶋=北海道説が流布していたが、その後、津田左右吉等によって『日本書紀』のいわゆる「比羅夫北征記事」の厳密な読解が試みられるようになり、史料の解釈から渡嶋を本州北部の内におさめる見解が有力となっていき、戦後の通説的位置を永く占めてきた。しかし近年の北海道考古学の急速な進展にともなって本州と北海道との間の豊かな交流が明らかになるにつれて、比羅夫は当然北海道へ渡ったであろうという共通認識が形成され、津軽の北は当然北海道であるという渡嶋=北海道説が復活し、現在ではこれが通説となったと言ってよい。しかし中世以前における「津軽」は、現在の津軽地方の南部のみを指す語であり、半島海岸部はむしろ道南地域と密接な関わりを持つ世界であった。またそうした津軽海峡を挟む世界は、道央部あるいは道東・道北部とはやはり違った世界である。こうしたことを考えるとき、津軽の北に位置するという渡嶋はこの海峡を挟む世界に相当するのではないかと思われる。そのさらに北には「粛慎」の世界が存在したのであるが、それこそ道央部や道東・道北部といった、本州側からはよりいっそう未知の世界であったのではないか。「粛慎」の風俗習慣などについての多様な史料の在り方は、「粛慎」自体のもつ複合的な民族要素によっているものと思われる。この津軽海峡を挟む世界は、一〇世紀頃にいったん消滅し、それが渡嶋という用語の消滅の背景となるが、まもなく復活し、中世においては、津軽海峡を「内海」とする、海峡の南北一体の世界がまた形成されていったと考えられる。
佐藤, 宏之 Sato, Hiroyuki
元和四年(一六一八)四月九日、幕府は大名改易後の居城の収公にさいし、城付武具はそのまま城に残し置くこととの方針を定めた。さらに、軍事目的のために備蓄した城米も引き継ぎの一環として、備蓄の有無と備蓄方針の確認を求めた。本稿は、国立歴史民俗博物館所蔵の石見亀井家文書のなかにある、元和三年の津和野城受け取りに関する史料を素材に、城受け取りのさいに引き継ぎの対象となる財(モノ)に着目する。城受け取りのさいには、城内諸道具の目録が作成され、それに基づいて引き継ぎが行われる。その目録化の過程において、武家の財は公有の財と私財とに峻別される。公有の財とは城付の武具・道具や城米であり、大名自身の私有物ではなく、幕府から与えられたモノといえる。すなわち、その帰属権が最終的に将軍に収斂していくものである。一方、私財とは大名や家臣の武具・家財や雑道具などであり、その処分は個々人の裁量に任せられたモノといえる。こうした動向の契機となったのが、天正一八年四月二九日に真田昌幸宛てに出した豊臣秀吉の朱印状ではないかという仮説を提示する。秀吉は、降伏した城々は兵粮・鉄砲・玉薬・武具を備えたままで受け取るという戦闘力を具備した城郭の接収確保を指示し、接収直後に破城とするのではなく、無抵抗で明け渡す城の力(兵粮・鉄砲・玉薬・武具)を温存した。秀吉は、その後の奥羽仕置を貫徹するなかで、諸国の城々は秀吉の城という実態と観念を形成していったのである。こうした城付の武具や城米を目録化することによって把握することは、城の力を把握することでもあった。したがって、近世の城の構成要素は、城付の武具と城米であったということができよう。このような城付の武具と城米を把握・管理した江戸幕府は、国家権力を各大名に分有させ、それを背景とした統治業務の分業化を行いつつも、幕府の国家的支配の体系のなかに編成していったと考えられる。
一ノ瀬, 俊也 Ichinose, Toshiya
本稿では、日露戦後の民間において活発化した軍事救護―国家主体論、兵役税導入論の論理、意図の検証を行う。あえてそのような作業を試みるのは、そこに徴兵制とは国家救護という手段によって不断に「補完」し維持していくべきもの、という認識の枠組みを読みとることができるからである。この点は、当該期の民間に存在した徴兵観の諸相を解明していくうえで、きわめて興味深い問題であるように思われる。当該期の民間における軍事救護拡充論、兵役税導入論の多くは、独自の国防観を有する非現役軍人によって提起された。それらはいずれも廃兵遺族、現役兵士家族の困窮に対する単純な同情論ではなく、彼らに対する経済的待遇の悪さが兵士の「士気」すなわち国防に対する意欲の低下を引き起こしており、しかもそれは日露戦中のような地域・民間団体の救護では解決困難(=「世人の同情」の低下)とする認識に基づいていた。軍事救護の拡充を法案化した武藤山治(鐘紡重役)にしても、その主張の要点は、廃兵遺族、そして戦時の応召兵家族にのしかかる重い経済的負担が、それを見た現在の兵士、そして将来兵士となる者の「士気」を削ぎかねない、という点にあった。「資本家階級」としてのアイデンティティを持っていた武藤は、徴兵制軍隊の動揺を、自らの経済的活動の基盤に関わる問題として意識した。そこで彼は、具体的な統計も掲げつつ、その解決を繰り返し政治の場で主張した。武藤と同時に兵役税法案を議会提出した衆院議員矢島八郎についてみても、彼らの運動はもともとは現役兵家族、そして廃兵遺族の悲惨な生活に対する同情に起因していた。しかし実際の議会の場でそれは、陸軍向けの正当化策的な面もあったかもしれないにせよ、武藤と同様に現在の兵士、そして将来兵士となるであろう者の「士気」に悪影響を与えるものとして問題化されていたのである。
野島, 永 Nojima, Hisashi
1930年代には言論統制が強まるなかでも,民族論を超克し,金石併用時代に鉄製農具(鉄刃農耕具)が階級発生の原動力となる余剰を作り出す農業生産に決定的な役割を演じたとされ始めた。戦後,弥生時代は共同体を代表する首長が余剰労働を利用して分業と交易を推進し,共同体への支配力を強めていく過程として認識されるようになった。後期には石庖丁など磨製石器類が消滅することが確実視され,これを鉄製農具が普及した実態を示すものとして解釈されていった。しかし,高度経済成長期の発掘調査を通して,鉄製農具が普及したのは弥生時代後期後葉の九州北半域に限定されていたことがわかってきた。稲作農耕の開始とともに鍛造鉄器が使用されたとする定説にも疑義が唱えられ,階級社会の発生を説明するために,農業生産を増大させる鉄製農具の生産と使用を想定する演繹論的立論は次第に衰退した。2000年前後には日本海沿岸域における大規模な発掘調査が相次ぎ,玉作りや高級木器生産に利用された鉄製工具の様相が明らかとなった。余剰労働を精巧な特殊工芸品の加工生産に投入し,それを元手にして長距離交易を主導する首長の姿がみえてきたといえる。また,考古学の国際化の進展とともに新たな歴史認識の枠組みとして新進化主義人類学など西欧人類学を援用した(初期)国家形成論が新たな展開をみせることとなった。鉄製農具使用による農業生産の増大よりも必需物資としての鉄・鉄器の流通管理の重要性が説かれた。しかし,帰納論的立場からの批判もあり,威信財の贈与連鎖によって首長間の不均衡な依存関係が作り出され,物資流通が活発化する経済基盤の成立に鉄・鉄器の流通が密接に関わっていたと考えられるようにもなってきた。上記の研究史は演繹論的立論,つまり階級社会や初期国家の形成論における鉄器文化の役割を,帰納論的立論に基づく鉄器文化論が検証する過程とみることもできるのである。
藤沢, 敦 Fujisawa, Atsushi
日本列島で古代国家が形成されていく過程において,本州島北部から北海道には,独自の歴史が展開する。古墳時代併行期においては,南東北の古墳に対して,北東北・北海道では続縄文系の墓が造られる。7世紀以降は,南東北の終末期の古墳と,北東北の「末期古墳」,そして北海道の続縄文系の墓という,3つに大別される墳墓が展開する。南東北の古墳と,北東北の続縄文系の墓と7世紀以降の「末期古墳」の関係については,資料が豊富な太平洋側で検討した。墳墓を中心とする考古資料に見える文化の違いは,常に漸進的な変移を示しており,明確な境界は存在しない。異なる文化の境界は,明確な境界線ではなく,広い境界領域として現れる。このような中で,大和政権から律令国家へ至る中央政権は,宮城県中部の仙台平野以北の人々を蝦夷として異族視する。各種考古資料の分布から見ると,最も違いが不明確なところに,倭人と蝦夷の境界が置かれている。東北北部と北海道では,7世紀以降,北東北の「末期古墳」と北海道の続縄文系の墓という違いが顕在化する。この両者の関係を考える上で重要なことは,「末期古墳」が,北海道の道央部にも分布する点である。道央部では,北東北の「末期古墳」と強い共通点を持ちつつ,部分的に変容した墓も造られる。しかも,続縄文系の墓と「末期古墳」に類似する墓が,同じ遺跡で造られる事例が存在する。さらに,続縄文系の墓の中には,「末期古墳」の影響を伺わせるものもある。道央部では,「末期古墳」と続縄文系の墓は密接な関係を有し,両者を明確な境界で区分することは困難である。このような墳墓を中心に見た検討から見ると,異なる文化間の境界は,截然としたラインで区分できない。このことは,文化の違いが,人間集団の違いに,簡単に対応するものではないことを示している。
松村, 敏 Matsumura, Satoshi
明治期に賃織業者を主要な生産主体として発展した桐生絹織物業の抱えていた深刻な問題は、賃織業者による原料糸詐取問題であった。すなわち、織元(問屋)が前貸しした原料生糸の一部を窃取して生糸商人に売り渡すことが恒常化していたのである。これは、発注主である織元が賃織業者の生産活動を常時監視しえない問屋制固有の重大問題であり、この問題はまた日本に限らずヨーロッパ経済史研究においても注目され、工業の主要な生産形態が問屋制から工場制に移行していった一要因とみなす研究者さえいるほどである。この問題に関する最近の研究として、近世期に織元がこの不正に対処した方法として株仲間による多角的懲罰戦略(不正を働いた賃織業者に関する情報を織元仲間に周知させ、以後仲間全員がその賃織業者との取引を拒絶するという私的な規約・制度によりこの不正を防止せんとする戦略)を高く評価する見解が現れている。近代(明治期以降)のように公権力による契約履行と所有権の保証が十分でない近世期においては、商人たちが私的に契約履行と所有権を保証する必要があったというわけである。ところが、この多角的懲罰戦略が実際に有効に機能したかという検証はないし、じつは国家権力が法と裁判によってこれらを完全に保証するという建前になった明治期以降においても、桐生の織元たちは繰り返し近世以来の多角的懲罰戦略を試みていたのである。すなわち裁判に訴えるコストなどから近代においても国家権力(近代法)による所有権と契約履行の直接的な保証は、賃織業者のわずかな不正を抑止させるまでには貫徹しない。そこで織元たちは、依然同業組合による多角的懲罰戦略を試行した。しかしそれが手直しされつつ繰り返されることからもわかるように、これもまた有効ではなかったのである。本稿ではその過程を追いつつ、多角的懲罰戦略が有効に機能しなかった要因とその意味を考察した。
井上, 智勝 Inoue, Tomokatsu
本稿は、近世における神社の歴史的展開に関する通史的叙述の試みである。それは、兵農分離・検地・村切り・農業生産力の向上と商品経済の進展など中世的在り方の断絶面、領主による「神事」遂行の責務認識・神仏習合など中世からの継承面の総和として展開する。一七世紀前半期には、近世統一権力による社領の没収と再付与、東照宮の創設による新たな宗教秩序の構築などが進められ、神社・神職の統制機構が設置され始めた。兵農分離による在地領主の離脱は、在地の氏子・宗教者による神社運営を余儀なくさせ、山伏など巡国の宗教者の定着傾向は神職の職分を明確化し、神職としての自意識を涵養する起点となった。一七世紀後半期には、旧社復興・「淫祠」破却を伴う神社および神職の整理・序列化が進行し、神祇管領長上を名乗る公家吉田家が本所として江戸幕府から公認された。また、平和で安定した時代の自己正当化を図る江戸幕府は、国家祭祀対象社や源氏祖先神の崇敬を誇示した。一八世紀前半期には、商品経済が全国を巻き込んで展開し、神社境内や附属の山林の価値が上昇、神社支配権の争奪が激化し始める。村切りによって、荘郷を解体して析出された村ではそれぞれ氏神社が成長した。また、財政難を顕在化させた江戸幕府は、御免勧化によって「神事」遂行の責務を形骸化させた。一八世紀後半期には、百姓身分でありながら神社の管理に当たる百姓神主が顕在化した。彼らを配下に取り込むことで神職本所として勢力を伸ばした神祇官長官白川家が、吉田家と対抗しながら配下獲得競争を展開し、復古反正の動向が高まる中、各地の神社は朝廷権威と結節されていった。また、神社は様々な行動文化や在村文化の拠点となっていた。明治維新に至るまでの一九世紀、これらの動向は質的・量的・空間的に深化・増大・拡大してゆく。近代国家は、近世までの神社の在り方を否定してゆくが、それは近世が準備した前提の上に展開したものであった。
望月, 直人
劉永福の率いた黒旗軍は、ベトナムでフランス軍相手に善戦したという戦績もあって、とりわけ有名な華人私兵集団である。黒旗軍の拠点ラオカイは、中国・雲南省との境界に位置するベトナムの街であるが、ホン河を通じた貿易ルートの要衝でもあった。黒旗軍はここを通過する商品に通行料を課し、収入源としていた。ラオカイを通過する商品には、ベトナムで算出される海塩が含まれている。もとより、中国では塩は国家の重要な収入源である一方、密売される「私塩」が秘密結社や反乱勢力の資金源となった。本稿は、ベトナム海塩の雲南省へ流入の歴史をたどり、ラオカイにおける通行料収入におけるベトナム海塩の重要性を明らかにし、中国史上の多く現れた「私塩」と深い関係の深い非公然組織の一つとして、黒旗軍を位置づけ直す。
苑原, 俊明
先住民族と密接につながる土地において,これらの民族の文化・生活に多大な影響を及ぼす大規模開発事業が世界各地で計画または実施されている。一方で先住民族は,所有または占有する土地と天然資源に対する権利および自決権などの権利の承認と保護とを,国家および国際社会全体に対して主張してきている。そしてその文化と土地に影響するような大規模な開発行為に際して,関係民族がその権利の尊重と保障を求め,その実施のために当該開発行為に関する当該民族による事前の,自由なインフォームド・コンセント(FPIC)原則を関係当事者が履行するよう主張している。 本稿はこのFPIC 原則の意義および具体的な内容に関して,最近までの国連その他の国際的フォーラムでの議論と関係法文書の概要ならびに地域的国際人権保障機構での事例を分析して同原則の法的な展開を追跡することを目的とする。
奥出, 健 OKUDE, Ken
<文学非力説>の中心的評論「文学非力説」は文学強力個性説、私小説(精神)擁護という二つの要素を内包した当時では出色の評論であるがしかし、ここにはかつて辻橋三郎が指摘したような国家権力への抵抗という側面は全くない。高見が<文学非力説>で意図したのはあくまで文壇内時流に対する抵抗で、これは時局便乗型文学論の跋巵という外的事情と、昭和十三年頃から温めてきた私小説精神による自己の文学精神の確立という内的事情とが時期的に丁度絡みあい出てきたもので、単に海外旅行帰りのヒステリーから偶発したものではない。しかし、この<文学非力説>成立の裏には昭和十二年の『文学界』解消論以後一貫して高見の胸の底を流れていた、文壇改革という文壇政治的意識があったことも見のがしてはならない。
Takezawa, Shoichiro
19 世紀なかばのフランスでは,ブロカに率いられた人類学派が発展し,学界を超えて強い社会的影響をもった。それは,人間の頭蓋や身体各部位を計測し,一連の数字にまで還元することで,人びとを絶対的な人種の境界のあいだに分割することをめざした人種主義的性格の強い人類学であった。この人類学が当時のフランスで広く成功した理由は,産業革命が進行し,教会の権威が失墜した19 世紀なかばのフランスで,新しい自己認識と世界理解を求める個が大量に出現したことに求められる。こうした要求に対し,ブロカ派人類学は数字にまで還元/単純化された世界観と,白人を頂点におくナルシスティックな自己像/国民像の提出によって応えたのであった。 1871 年にはじまるフランス第三共和制において,この人類学は,共和派代議士,新興ブルジョワジー,海軍軍人などと結びつくことで,共和主義的帝国主義と呼ぶことのできる新しい制度をつくり出した。この帝国主義は,法と同意によって維持される国民国家の原則に立つ本国と,法と同意の適用を除外された植民地とのあいだの不平等を前提とするものであったが,ブロカ派人類学は植民地の有色人種を劣等人種とみなす理論的枠組みを提供することで,この制度の不可欠の要素となっていた。 1890 年以降,新しい社会学を築きつつあったデュルケームは,ユダヤ人排斥の人種主義を批判し,人種主義と関連しがちな進化論的方法の社会研究への導入を批判した。かれが構築した社会の概念は,社会に独自の実在性と法則性を与えるものであり,当時の支配的潮流としての人種主義とは無縁なところに社会研究・文化研究の領域をつくりだした。しかし,ナショナリスティックに構築されたがゆえに社会の統合を重視するその社会学は,社会と人びとを境界づけ,序列化するものとしての人種主義を乗りこえる言説をつくりだすことはできなかった。 人種,国民国家,民族,文化,共同体,性などの諸境界が,人びとの意識のなかに生み出している諸形象の力学を明らかにし,その布置を描きなおしていく可能性を,文化/社会人類学のなかに認めていきたい。
山村, 奨
本論文は、日本の明治期に陽明学を研究した人物が、同時代や大塩の乱のことを視野に入れつつ、陽明学を変容させたことを明らかにする。そのために、井上哲次郎と教え子の高瀬武次郎の陽明学理解を考察する。 日本における儒学思想は、丸山眞男が説いた反朱子学としての徂徠学などが、近代性を内包していたと理解されてきた。一方で、明治期における陽明学を考察することで、それと異なる視角から、日本近代と儒教思想との関わりを示すことができる。明治期に陽明学は変容した。すなわち、陽明学に近代日本の原型がある訳ではなく、幕末期から近代にかけて、時代にあわせて変わっていった。 井上哲次郎は、陽明学を「国家主義的」に解釈したとされる。井上にとっての国家主義とは、天皇を中心とする体制を護持しようとする立場である。井上は陽明学を、国民道徳の理解に援用できると考えた。その態度は、キリスト教が国民の精神を乱すことに反発していたことに由来する。国内の精神的統一を重視した井上の陽明学理解は、水戸学の問題意識と共通する。しかし井上の陽明学観は水戸学に影響を受けた訳ではなく、幕末期に国事に関心を向けた陽明学者の伝統を受け継ぐ。また井上は、体制の秩序を志向していたために、大塩平八郎の暴挙には否定的であった。 一方で日本での陽明学の展開は、個人の精神修養として受け入れられた面を持つ。その点で、高瀬武次郎の主張は注目に値する。高瀬は陽明学が精神を修養するのに有効であり、同時に精神を陶冶した個人が社会に資するべきことを主張した。また井上の理解を踏襲しつつも、必ずしも井上の見解に与しなかった。高瀬は、大塩の行動に社会福祉的な意義も認めている。高瀬は幕末以来の実践重視の思想の中で、陽明学に新たな意味を付与した。その高瀬は、後に帝国主義に与した。 近代日本の陽明学は、時代状況の中で変容した。井上は国民の精神的な統一を重視したが、高瀬は陽明学による修養の社会的な意義を積極的に説いた。
孫, 江
一九三二年三月一日、関東軍によって作られた傀儡国家「満州国」が中華民国の東北地域に現れた。本稿で取り上げる満州の宗教結社在家裡(青幇)と紅卍字会は、いずれも満州社会に深く根を下ろし、「満州国」の政治統合のプロセスにおいて重要な位置を占めていた。 今までの中国社会史および「満州国」の歴史に関する研究において、これらの宗教結社は見逃されており、それに関する数少ない記述も偏見に満ちたものである。在家裡と紅卍字会の実態を問わず、在家裡を「秘密結社」、紅卍字会を政治的もしくは「邪教的」存在とみなす見解は今でも依然主流的である。本稿において、このような見解に疑問を投げかけ、一時的資料に基づいて実証的考察を行った。それを通じて明らかになったように、二十世紀に入ってから満州移民社会の形成に伴って、在家裡・紅卍字会のような宗教結社や「秘密結社」が満州社会において発展し、一定の社会的影響力を持つようになった。在家裡と紅卍字会のほとんどの組織は自らの組織的優勢を獲得するために、関東軍および「満州国」に協力する道を選んだ。 「満州国」側の一部の資料では、「類似宗教結社」とされる在家裡・紅卍字会などが「満州国」の政治統合の支障となったという記録が残されている。しかし、実際には、満州地域の数多くの宗教結社の活動を全体的に見ると、宗教結社の反満抗日に関与するケースは非常に少なく、しかも特定の時期(満州事変初期)、特定の地域(熱河・北満など)に限られていた。反満抗日運動に参加した在家裡と紅卍字会のメンバーは確かに存在していたが、それは在家裡と紅卍字会の組織的性質を反映するものではない。 総じていえば、「満州国」支配における宗教結社の統合は、単なる「植民地」という支配空間に生じた問題ではなく、実は日本近代国家の形成と関連して、日本国内=「内地」が抱える「類似宗教」や「邪教」「迷信」といった諸問題の延長上にあるのである。
西田, 彰一
本稿では筧克彥の思想がどのように広がったのかについての研究の一環として、「誓の御柱」という記念碑を取り上げる。「誓の御柱」は、一九二一年に当時の滋賀県警察部長であり、筧克彥の教え子であった水上七郎の手によって発案され、一九二六年に滋賀県の琵琶湖内の小島である多景島に最初の一基が建設された。水上が「誓の御柱」を建設したのは、デモクラシーの勃興や、社会主義の台頭など第一次世界大戦後の急激な社会変動に対応し、彼の恩師であった筧克彥の思想を具現化するためであった。 水上の活動は、国民一人一人に国家にふさわしい「自覚」を促すものであった。この水上の提唱によって作り出された記念碑が、国民精神の具現化であり、同時に筧の思想の可視化である「誓の御柱」なのである。この記念碑の建設運動は、滋賀県に建てられたことを皮切りに、水上が病死した後も彼の友人であった二荒芳徳や渡邊八郎、そして筧克彥らが結成した大日本彌榮會に継承され、他の地域でもつくられるようになった。こうした大日本彌榮会の活動は、特に秋田の伊東晃璋の事例に明らかなように、宗教的情熱に基づいて地域を良くしたいという社会教育に取り組む地域の教育者を巻き込む形で発展していったのである。 この「誓の御柱」建設運動の真価は、明治天皇が王政復古の際に神々に誓った五箇条の御誓文を、国民が繰り返し唱えるべき標語として読み替え、それを象徴する国民の記念碑を建てようと運動を展開したことであろう。筧や水上たちは、国民皆が標語としての御誓文の精神に則り、建設に参加することで、一人一人に国家の構成者としての「自覚」を持たせ、秩序に基づいた形で自らの精神を高めることを求めたのである。そしてこの大義名分があったからこそ、「誓の御柱」建設運動は地域の人々の精神的教化の素材として伊東たち地域で社会教育を主導する人々にも受け入れられ、日本各地に建設されるに至ったのである。
三上, 喜孝 Mikami, Yoshitaka
律令国家により銭貨が発行されると、平城京や平安京などの都城を中心に銭貨が流通すると同時に、銭貨による出挙(利息付き貸付)が広範に行われるようになった。この銭貨出挙については、これまでも古代史の分野で膨大な研究蓄積がある。なかでも正倉院文書に残るいわゆる「月借銭解」」を素材とした研究により、古代の写経生の生活の実態や、各官司・下級官人による出挙運営の実態を明らかになってきた。だが古代の都市生活の中で銭貨出挙が果たした役割についてはなお検討の余地がありそうである。そこで本稿では、正倉院文書、木簡、六国史の記事を再検討し、銭貨出挙が都市民に果たした役割を総体的に検討した。正倉院文書の「月借銭解」(借銭文書)といえば宝亀年間の奉写一切経所のものが有名だが、宝亀年間より前の借銭文書からは、短期貸付の場合の無利息借貸、銭の運用のために貸し付けられた「商銭」、天皇の即位等にともなう「恩免」など、出挙銭のさまざまな存在形態をうかがうことができる。出土木簡からも銭貨出挙が平城京や平安京で広範に行われていたことが推定でき、借用状の書式の変遷を知る手がかりを与えてくれる。銭貨出挙の際に作成される借用状は、奈良・平安時代を通じて「手実」「券」などと呼ばれ、不整形な紙が用いられていた。平安時代の借銭文書の実物は残っていないが、書式は奈良時代の借銭文書のそれを踏襲していたとみてよいだろう。康保年間(九六四〜九六七)の「清胤王書状」の記載から、銭貨出挙のような銭貨融通行為が、銭貨発行が途絶える一〇世紀後半に至ってもなお頻繁に行われていたものとみられることは興味深い。銭貨出挙は律令国家による銭貨発行以降、都を中心に恒常的かつ広範に行われており、これを禁ずることは平安京における都市生活にとって支障をきたすことになったのであろう。それはとりもなおさず、平安京の都市生活における大規模な消費と深く関わっていたと考えられる。
田中, 禎昭
日本古代の戸は父系家族の外観を呈するが,その内部は父母+コ,父+コ,母+コのオヤコ単位の連鎖によって構成されている。国家は,こうした複数のオヤコ単位をいかにして父系的な戸に編成していったのか,その具体的なプロセスは未解明の課題である。そこで本論では,大宝二年(702)御野国半布里戸籍にみえる女性の付貫形態に注目し,この問題の検討を試みた。戸籍を精査すると,「妻」として付貫された女性は婚姻女性の一部に限られ,戸内最年長男性(ほとんど戸主)とそれに次ぐ年長男性2~3人に限定的に「妻」を同籍する原則が確認できる。戸籍上の「妻」は単なる親族名称ではなく,編戸に際して里内年長男性の配偶者に付与された地位呼称と考えられる。一方,女児は出生時に母のもとに片籍され,父の年齢順位が上がり,母が「妻」の呼称を付与された時点で母とともに父の戸に移貫された。つまり,戸籍による女性の把握は原則として母を定点として行われており,母児の父系編成は戸籍を介して女性に「妻」の地位呼称を付与することではじめて可能になったと考えられる。また「妻」の同籍は,父系によって戸を再生産していくために不可欠の操作でもあった。当時の戸主の地位継承は父系的な「世代内継承」,すなわち年長の戸主同世代傍系親(兄弟・同党[イトコ])を優先し,次に子世代「嫡子」に及ぶという継承方式によって行われていた。そこで国家は,戸主と兄弟・同党に「妻」を同籍した上でその複数の長子=「嫡子」たちを次世代戸主継承候補として確保し,同時に「妻」を若年「嫡子」の後見人に位置づけることで,戸のスムースな父系継承を図ったのである。そして「世代内継承」によって析出された同党を越える遠縁の親族集団は寄口とされ,課丁や戸主継承候補の不足する戸に寄せ付けられた。「妻」と「嫡子」を同籍する寄口は戸主の地位継承候補と目されており,寄口と戸口の間に身分の差はなかったと考えられる。
清水, 昭俊
2007 年9 月に国際連合(国連)総会は国際連合先住民権利宣言を採択した(国連総会決議61/295)。国連がその公的な意思として採択し表明した初めての先住権に関する包括的な規定である。国連の下部組織である作業部会がこの宣言の最初の草案を起草したのは1993 年だった。総会が決議するまでに14 年もの間隔があるのは,宣言の内容について国連加盟国が合意に達するのに,それだけ長期間を要したからである。その間,国連の外部では,1993 年の起草案は先住権に関する事実上の0 0 0 0 国際標準として機能してきた。国際法の専門家のみならず,先住民運動の活発な諸国では一般の間で,さらに国際機関や各国政府においてさえも,そのように受けとめられてきた。さらに,先住民組織はその運動を通してこの文書の影響力を高めてきた。この文書は事実上,先住民自身が発した一つの宣言―「1993 年宣言」と呼ぶべきもの―と見ることができる。これら状況的条件に加えて,この1993 年宣言は,先住権をその根拠とともに包括的に述べる均整のとれた構成と,よく練られた法的言語の表現によって,それ自体が説得力に富む文書である。1993 年宣言は2007 年決議に対しても,それを評価する標準となりえている。1993 年宣言を参照すれば,2007 年決議が多くの修正を受けたものであること,その修正は加盟国政府の国内先住民に対する利害と懸念を反影したものであることが,判明する。 この論文で私は,2007 年決議ではなく1993 年宣言を取り上げて,宣言が先住権を要求するその構造を分析する。分析の焦点は三つのテーマ,つまり,先住民としての権利,民としての基本的権利,復権のための国際的および国内的な制度的枠組みである。要求する権利の全体は,一つの独自の民に保障されるべき「民の集合的生命権」を構成する。この権利を先住民は拒絶されてきた。1993 年宣言は条文で先住民の権利を網羅している。それが可能だったのは,先住民の歴史経験を総括して「民族絶滅と文化絶滅」と認識するからである。1993 年宣言は国際法規を目指した文書であり,そこに述べる権利要求は,民としての集合的生命権の要求を初めとして,先住民に関わる既存の国際法の体系に変革を要求する。しかし,2007 年決議はこの種の変革を達成してはいない。逆に国連加盟国は,条文の文言を操作することによって,1993 年宣言の権利要求の構造を曖昧にすることに成功している。2007 年決議はもはや先住民の歴史経験「民族絶滅と文化絶滅」に言及してはいない。 論文の第二の課題として,国際法において先住民が彼らの権利を奪われ,彼らの存在が不可視にされた歴史を,歴史を遡る方向で追跡する。とりわけ国連と国際労働機構(ILO)が採択した国際法規が考察の焦点である。その後の歴史で先住民を不可視にした分岐点は,1950 年代初めにベルギー政府の主張した所謂「ベルギー・テーゼ」をめぐる論争だった。このテーゼによってベルギー政府は,国連の脱植民地化の事業について多数の加盟国が選択しつつあった実施形態に,異議を唱えた。「反植民地勢力」に対抗して,ベルギー・テーゼは国連の脱植民地化の事業の基底にある特性を暴いていった。ベルギー政府が全ての「非自治の先住の民0 0 0 0 」に平等の処遇を要求したのに対し,国連は脱植民地化の対象を「非自治の地域0 0 」つまり欧米宗主国の海外植民地に限定した。ベルギー・テーゼによれば,「反植民地勢力」が追求する脱植民地化のモデルはラテンアメリカ諸国の「革命」経験だった。それは,植民地が宗主国支配から解放される一方で,国内に先住民に対する植民地支配を持続させるモデルであり,実際,1950 年代以降に独立したアジア・アフリカの多くの新興国が,このモデルに従って,国内に先住民支配を持続させた。この国連による脱植民地化が再定義した国家像は,国内に先住民支配が埋め込まれた構造の国家だった。 国連の素通りした「非自治の」先住民を対象として,ILO は107 号条約を採択し,「統合」政策を推進しようとした。107 号条約は,「先住0 0 」諸人口に法的定義を与えた最初の国際法である。植民地征服という歴史的起点に言及して「先住0 0 」諸人口を捉えるこの「ILO 定義」は,その後の先住民に関する概念的な思考に影響力を発揮し,先住民自身の先住民に関する思考でさえ拘束した。107 号条約は国家に「後見」役を与え,「被後見」の先住民を「より発達した国民共同体」に統合することによって,国家に先住民「文化絶滅」政策を推進させようとする。ILO の統合政策は植民地主義の第二次世界大戦後における形態である。 1993 年宣言は,国連とILO による脱植民地化の政策を含めて,植民地支配の歴史からの回復を要求する。この論文で行う先住民の権利の歴史的考察は,共通に受け入れられている「先住民」の定義について,見直しが必要であることを示唆する。先住民の決定的な示差的特徴として,植民地征服に言及することは不適切である。1993 年宣言は,国家その他の外的エイジェントによる「先住民」の定義と認定を,拒否している。「先住民」の定義と認定は先住民自身の自己決定権に属すべきである。それと同時に,1993 年宣言は先住民を,「民族絶滅と文化絶滅」を被らされてきた民と描いている。1993 年宣言は先住民に対する呼びかけを含意してもいる。1993 年宣言は先住民運動の用具であるに留まらず,運動自体の容器でもある。
佐喜眞, 望 Sakima, Nozomi
本論文では、いち早く労働組合運動とその指導者に好意的な発言を行い、労働組合運動の指導者とも親密な関係にあったリブ=ラブ派資本家の代弁者トマス=ブラッシー二世の1871年から1873年までの、学会発表及び講演記録を資料として、彼の労働諸問題に関する見解の変化の過程を解明した。その結果、ブラッシー二世は、ストライキの賃金に及ぼす影響を否定する点については、従来の見解を変えなかったが、労使紛争を調停する機構の設置により前向きになり、一日9時間労働についてもこれを明確に支持している。さらに、労働者の下院への進出についても、結局は国家の安定につながると主張するとともに、他の階級の議員が労働者の要求にもっと耳を傾けるように求めている。このような活動の結果、労働組合の指導者の彼に対する信頼はさらに高まり、両者の関係は、これまで以上に親密なものとなる。
長部, 悦弘 Osabe, Yoshihiro
北魏孝文帝代は、北魏史上国家体制の一大転換点とみなすことができよう。476年に始まる文明太后馮氏の臨朝聴政下では、484年に班禄制を立て、485年に均田法を頒布し、486年に三長制を敷いた。490年の文明太后馮氏の亡き後、孝文帝親政下で491年に第1次、499年に第2次官制改革を各々遂行し、493年には洛陽遷都を敢行し、496年は姓族詳定を推進した。なかでも493年の平城から洛陽への遷都は、北魏史上領域支配体制の中心たる王都を『農業-遊牧境界地帯』から『農業地域』に移した一大事業であったと言える。小論では、493年9月に孝文帝が洛陽において遷都を宣言した後、494年12月~495年8月までの間「平城尚書省・洛陽尚書省並立体制」を支えていた孝文帝集団の構成員が洛陽遷都・領域支配体制の理念を巡り、賛成・反対二派に分かれた原因について論じた。
堀, まどか
野口米次郎の『日本少女の米國日記』(一九〇五)(英語版では『The American Diary of a Japanese Girl』(一九〇一)には、国家間を生きた作家としての原点を、また同時代執筆者における野口の視座の特異性を見ることができる。この作品は、少女の視点で渡米までの心境や米国での体験、米国社会の状況などを日記形式の散文で描いたものである。主人公の渡米憧憬は、女性の権利を認める国への強い期待からくるものであり、背景には移民隆盛の風潮の中での、政治的な意図をもつ女子渡米奨励論の実態がある。この作品は、女子の渡米奨励の言説と渡米熱を反映し、それを支えうる作品であったといえるが、それと同時に、米国移民社会の厳しい現実と困難とをあらわしている。また、米国社会における日本文化認識の浅薄さや誤解について描かれており、野口の批判や不満が表出している。
藤田, 明良
本稿は、媽祖を中心に航海信仰をめぐる東アジアと日本との歴史的連関について論じるものである。東アジアには古くから、国家祭祀の対象となる四海神、民間で広く信仰された龍王、仏教系の観音など、広域的な航海信仰が存在する一方で、各地で限定的に信仰された地方的航海神が数多くいた。媽祖は宋代に中国福建中部の莆田地方に出現した地方的航海神であったが、当地の海商の活動によって、中国中南部沿岸に信仰が拡がる一方、当地の士大夫層の運動で皇帝から授与される神階が上昇し、中国の有力な航海神になっていった。元代「天妃」に冊封され、明代には鄭和等の海外出使の守護神になるなど国家的航海神としての地位を高める一方で、海域世界の心性に響き渡る「物語」を獲得して、盛衰が激しい信仰の世界で影響力を伸ばし、中国北部やアジア各地の海域に信仰が拡がっていった。日本列島には中国人の来航・移住に伴って一五世紀に沖縄、一六世紀に九州に伝播した。那覇や鹿児島に天妃宮が建立され、長崎には媽祖堂を備えた唐寺が建立された。海禁体制の整備に伴って海外交流が限定されていくなかで、薩摩の野間権現のように、信仰が中国人から日本人に拡がってくケースも出現した。また、かつて船に安置されていた小媽祖像(船菩薩)は、九州各地の港の守護神、帰化唐人や沖縄や九州の船乗りの家門の守護神など、様々な形で近世を通じて祀られることになった。東日本の媽祖(天妃)信仰は、徳川光圀による港湾整備と寺社再編の中で建立された常陸の天妃社に始まり、内水面航路と太平洋航路によって利根川方面と宮城・下北半島方面に拡がっていく。海運・漁業関係者の船神としてだけでなく、水神や二十三夜講の主神などに媽祖は転生していった。上方や北陸でも長崎から媽祖信仰が伝播し独自の展開を見せていた。その中で、近世的水上交通体系の成立に伴って顕在化する船玉神信仰と融合しながら、廻船の守護神に転生して契約儀礼の場で重要な役割を果たす場面も登場する。国学の発展の中で知識人たちから日本と中国の船玉神を峻別する見解が繰り返し出されるが、海に関わる人々での人気は、明治維新を迎えるまで衰えることはなかった。
藤沢, 敦 Fujisawa, Atsushi
古墳時代から飛鳥時代,奈良時代にかけての,東北地方日本海側の考古資料について,全体を俯瞰して検討する。弥生時代後期の様相,南東北での古墳の築造動向,北東北を中心とする続縄文文化の様相,7世紀以降に北東北に展開する「末期古墳」を概観した。さらに,城柵遺跡の概要と,「蝦夷」の領域について文献史学の研究成果を確認した。その上で,日本海側の特質を太平洋側の様相と比較しつつ,考古資料の変移と文献史料に見える「蝦夷」の領域との関係を検討し,律令国家の領域認識について考察した。日本海側の古墳の築造動向は,後期前半までは太平洋側の動向と基本的に共通した変化を示すことから,倭国域全体での政治的変動と連動した変化と考えられる。ところが後期後半以降,古墳築造が続く地域と途切れる地域に分かれ,地域ごとの差違が顕著となる。終末期には太平洋側以上に地域ごとの差違が顕著となる。時期が下るとともに,地域独自の様相が強まっており,中央政権による地方支配が強化されたと見なすことはできない。続縄文文化系の考古資料は,日本海沿いでは新潟県域まで分布し,きわめて遠距離まで及ぶ。また海上交通の要衝と考えられる場所に,続縄文文化と古墳文化の交流を示す遺跡が存在する。これらの点から,日本海側では海上交通路が重要な位置を占めていた可能性が高く,続縄文文化を担った人々が大きな役割を果たした可能性が指摘できる。文献史料の検討による蝦夷の領域と,考古資料に見られる文化の違いは,ほとんど対応しない。日本海側では,蝦夷の領域と推測される,山形県域のほぼ全て,福島県会津盆地,新潟県域の東半部は,古墳文化が広がっていた地域である。両者には,あきらかな「ずれ」が存在し,それは太平洋側より大きい。この事実は,考古資料の分布に見える文化の違いと人間集団の違いに関する考えを,根本的に見直すことを要求している。排他的な文化的同一性が先に存在するのではなく,ある「違い」をとりあげることで,「彼ら」と「われわれ」の境界が形成されると考えるべきである。これらの検討を踏まえるならば,律令国家による「蝦夷」という名付けは,境界創出のための他者認識であったと考えられる。
Shoji , Hiroshi
社会主義政権樹立以来中国は,少数民族言語の平等な使用と発展を民族政策の一つの柱として,民族言語の文字化,民族言語による教育を掲げてきた。その一方では国家統合および近代化を進める中国にとって,共通語としての漢語,「普通語」の普及も重要な課題であった。文化大革命期をのぞき今日にいたるまで民族言語政策は基本的にこれら二つの理念のせめぎあいの場であったといえる。しかし1980年代以降,民族言語政策は従来の対立の構造とは異なる様相を呈しはじめている。本稿では,少数民族言語擁護と漢語普及との間での対立や矛盾の鮮明化,および双語教育(二言語教育)の枠内で民族語教育の足場を確保しようとする民族言語政策に注目し考察した。さらに近年少数民族言語やその政策に影響をあたえつつある現象として,急速な近代化の要請にともない進展しつつある漢語の実質的国語化政策,民族言語関係者による国際的言語理論の援用,さらに世界的な言語・民族運動への関心を指摘した。
白幡, 洋三郎
いわゆる近代スポーツのほとんどは明治維新後、日本に入ってきたものである。しかし近代スポーツは、たいていの日本人にたやすく受け入れられなかった。そこで指導層は、あの手この手を使って民衆を身体運動に馴染ませようとしたのである。だが近代スポーツ、身体運動を積極的に受け入れたのは「洋式」をはじめから肯定して設けられた機関だけであった。民衆のスポーツ・身体運動に対する消極性は、儒教的な身体観である養生論と、伝統的な身体運動の軽視、すなわち勤労以外の身体運動を望ましくない活動であり、たんなる戯れ・遊びとみなす考えによるものであった。花見などの伝統的な屋外の民衆レクリエーションにおいても、身体運動の軽視は見られる。国家や指導者層の初等・中等教育段階における運動会や遠足など、民衆を身体運動に馴染ませようとする教育的活動は、民衆の側から花見と同質の屋外レクリエーションとして「曲解」されることにより、ようやく受け入れられていったのである。
黄, 海洪 金丸, 敏幸
われわれは、介護分野において社会に馴染みの薄い専門用語を、平易な日本語(Plain Japanese)という考えに基づいて誰もが理解できる言葉へと言い換える語彙リストを構築した。言い換え対象となる語は、次の2段階で選定した。まず、介護福祉士国家試験を元にした介護コーパスを構築し、現代日本語書き言葉均衡コーパスとの比較を行って介護コーパスの特徴語を抽出する。次に、NTT単語親密度データベースとクラウドソーシングを用いて、抽出された特徴語の単語親密度を調査する。調査の結果、一般の方と専門家との間で親密度の差が1以上あった語を対象語とする。これらの結果、言い換えの対象語は73語となった。その後、介護分野における日本語教育に知見のある専門家4名に協力を得て、用途に応じた3種類の言い換えを作成した。本リストは、介護分野への理解の助けとなるほか、今後増加が見込まれる外国人介護人材への日本語教育にも活用できると考えられる。
Hirai, Kyonosuke
熊本県水俣市で水俣病被害者を支援する団体,水俣病センター相思社(以下,相思社)は,1990 年,それまでの加害企業や国家に水俣病被害者への謝罪と補償を求める未認定患者運動から,水俣病に関する歴史と記憶を蓄積し後世に伝える考証館活動へと,活動の中心を移行した。彼らの考証館活動はしばらく停滞した後,1990 年代半ばに大きな発展を遂げていく。本稿の目的は,この考証館活動の成功を可能にした社会的諸条件を明らかにすることである。フランスの社会学者ピエール・ブルデューの「界」概念を参考にしながら,本稿は,考証館活動の発展の歴史を,1990 年代の水俣病運動界の変容によってもたらされた可能性と制約のなかで,相思社が実践を継続的に変化させていく過程として理解することを試みる。その際は,水俣病運動界の変容によって生じた機会と制約が相思社の実践を変容させる過程だけでなく,相思社の考証館活動の実践が水俣病運動界を変容させる過程も考察の対象にする。
長部, 悦弘 Osabe, Yoshihiro
北魏孝文帝代は、北魏史上国家体制の一大転換点とみなすことができよう。476年に始まる文明太后馮氏の臨朝聴政下では、484年に班禄制を立て、485年に均田法を頒布し、486年に三長制を敷いた。490年の文明太后馮氏の亡き後、孝文帝親政下で491年に第1次、499年に第2次官制改革を各々遂行し、493年には洛陽遷都を敢行し、496年は姓族詳定を推進した。なかでも493年の平城から洛陽への遷都は、北魏史上領域支配体制の中心たる王都を『農業-遊牧境界地帯』から『農業地域』に移した一大事業であったと言える。小論では、493年9月に孝文帝が洛陽において遷都を宣言した後、494年12月~495年8月までの間存在していた「平城尚書省・洛陽尚書省並立体制」が孝文帝集団の構成員に支えられ、「平城尚書省」が廃止された翌496年に遷都に反対する旧「平城尚書省」高官陸叡らが中心となって平城で反乱を企てて鎮圧され、「洛陽尚書省単立体制」が確立されたことを論じた。
趙, 廷寧 翁長, 謙良 宜保, 清一 楊, 建英 孫, 保平 Zhao, Tingning Onaga, Kenryo Gibo, Seiichi Yang, Jianying Sun, Baoping
黄土丘陵ガリ区は中国における侵食の激しい地域の一つである。激しい土壌侵食に半乾燥・乾燥気候,峻険な地形と悪化した生態環境に加えて,土地生産力は極めて低く,住民の生活も貧困である。このような自然・経済状況に鑑み適当な侵食防止策と農業開発技術を探討する為に,「黄土丘陵ガリ区における小流域の土壌侵食防止と農業開発技術に関する研究」を国家の指定研究課題とし,北京林業大学が寧夏回族自治区の西吉県の黄家二岔小流域において,1981年から一連の研究を行ってきた。採用された技術は該当地域の資源レベルと一致し,研究成果は類似な小流域にも適用・普及できる。黄家二岔小流域の侵食防止・農業開発の実際により,流域管理事業には連続的な資金・技術投入があれば,土砂流失は98%まで低減でき,食糧生産高と住民の年平均収入がそれぞれ526%と566%まで増加できるとされている。本研究は当該小流域の侵食防止措置と侵食防止事業の効果について検討するものである。
Kina, Ikue 喜納, 育江
400年以上に渡る沖縄の被植民地的状況は、沖縄の人々から土着の言語を奪った。しかし、それは沖縄の物語る力そのものを完全に奪ったわけではない。「沖縄文学」は、沖縄の発する「声」として、時代と共に移り変わる読者の意識や、日本語と沖縄口(ウチナーグチ)の葛藤の中で、ふさわしい表現を模索しながら存続している。1990 年代に世界的な多文化主義の動きによって、日本文学の多様性の一部として位置づけられた沖縄文学は、21世紀的なグローバリゼーションの中では、国家主義的文学観を越え、「沖縄系」という越境的でディアスポリックなアイデンティティへの認識を高めることによって、新たな位置を獲得しようとしている。沖縄文学の受容をめぐるこのような考察にもとづき、本稿では、崎山多美の文学が、どのような論理にもとづいて、多文化主義や沖縄系ディアスポラの視点による沖縄文学観ともまた異なる「越境言語的」な位相を表現し、グローバルな文脈の中に立脚しているのか。本稿では、拙訳による2006年発表の崎山の短編小説「アコウクロウ幻視行」を例として論じていく。
野入, 直美 Noiri, Naomi
本稿は石垣島の台湾人の生活史の事例から、石垣島における台湾人と沖縄人の民族関係の変容過程をとらえようとする試論の前編である。ここでは、戦前から復帰前までの台湾から石垣島への人の移動と、石垣島における台湾人社会の生成と変容の過程をとりあげる。台湾から石垣島への人の移動は、戦前と戦後を通じて、台湾人実業家が石垣島にもちこんだパイン産業によって形成されてきた。戦前期については、パイン産業の萌芽と台湾人移住の始まり、国家総動員体制下での沖縄人による台湾人排斥を中心に記述を行う。そして戦後期については、パイン産業が石垣島の基幹産業となるなかで台湾人が集住部落を形成し、沖縄人との民族関係が変化していく過程と、復帰前の移行期における台湾人の職業の多様化について記述する。本稿の続編では、復帰後の台湾人社会について、大量の帰化、世代の移行と家族生活の変容、職業の多様化を中心にとりあげ、それらの変化にもかかわらず相互扶助のネットワークが維持されてきた過程について検討する。
親川, 志奈子 Oyakawa, Shinako
ハワイがルネッサンスに湧く1970年代、琉球では日本を「祖国」と呼ぶ「復帰」運動が起こっていた。「復帰」40年目にあたる2012年現在、琉球諸語はその特徴である豊かな多様性を残しつつも、若い世代への継承が行われておらず、ユネスコの危機言語レッドブックには琉球諸語のうち六つの言語が登録されている。2006年には「しまくとぅばの条例」が制定され、琉球弧各地においてしまくとぅば復興のための草の根の言語復興運動が展開されており、県庁所在地の那覇では「はいさい運動」など行政の取り組みも起こっているが、政府レベルでの言語政策は存在しない。また言語復興の現場には多文化共生というフレームワークが敷かれており、言語とアイデンティティを同時に語らせるが、インディジニティという自己認識に到達させない仕組みが存在する。本稿では日本が国家=民族と定義し教育してきた背景と「復帰」 に至るプロセスとその結果としてディスエンパワメントされた琉球人の民族意識や言語意識に対するトラウマについて、インディジネスの権利回復運動の中で言語復権を強めたハワイと比較し議論する。
Sugase, Akiko
歴史的にパレスチナと呼ばれてきた地域に建国されたユダヤ人国家イスラエルには,2 割程度のアラブ人市民が居住し,そのうち約8%をキリスト教徒が占めている。ユダヤ教徒やムスリムとは異なり,食の禁忌を持たない彼らは豚肉を食し,この地における豚肉生産・消費・流通をほぼ独占している。そのいっぽうで,豚肉食に嫌悪感を示すキリスト教徒もすくなくはない。聞き取り調査の内容からは,彼らの豚肉食嫌悪は比較的最近生じた傾向であることがわかる。そこにはムスリムやユダヤ教徒の価値観の影響もみられるが,もっとも大きな影響をおよぼしたのはイスラエルによるアラブ人市民に対する政策である。本来豚肉食は,キリスト教徒の主たる生業である農業と密接にかかわっていたが,軍政による農業の衰退や,豚肉食と密接にかかわっていた野豚猟の事実上の非合法化により,キリスト教徒の豚肉食観は大きく変化した。宗教的アイデンティティの根幹に深いかかわりを持っていた豚肉食への嫌悪感の増大は,キリスト教徒としての宗教的アイデンティティの損失をあらわしているといえる。
Hirai, Kyonosuke
近年の博物館人類学的研究は,非西洋の多くの社会において,それぞれの歴史や伝統を反映した土着の博物館モデルや博物館実践が存在することを明らかにしてきた。しかしこれらの研究は,いまだ西洋の博物館モデルを前提としており,土着の博物館モデルを独自の文化的構成物として十分に評価しているとはいえない。本研究は,タイの50 のコミュニティ博物館についての調査結果に基づき,以下の二つの問いに答えることを目的とする。第一に,タイで独自に発展した土着の博物館モデルとはいかなるものであるか。第二に,なぜ1980年代後半以降にタイの各地でコミュニティ博物館が創設されるようになったのか。それはコミュニティにおいてどのような役割を果たしているか。これらの問いに取り組むことを通じ,本稿では,タイのコミュニティ博物館が土着の仏教的伝統のなかに根付くものであるとともに,タイ農村社会の変容や国家主導の開発言説の影響を受けながら,異なる立場の人びとが主体的に独自の目的や意義をみいだして利用しようとする実践の絡まり合いの結果として発展していることを示す。
孫, 建軍
本論は一九世紀中頃までの漢訳洋書を対象に、その中に現れた社会科学関係の内容を紹介し、中国で活動した西洋人宣教師の翻訳、造語活動について分析を行ない、宣教師の造語における限界を指摘した。一九世紀初頭から中頃までの漢訳洋書は自然科学や宗教関係のものが圧倒的に多いが、西洋国家の政治制度や社会制度を紹介する内容もわずかながら見られた。宣教師の造語は「新造語」と「転用語」の二種類に分けることができる。「新造語」は音訳語のほかに、「上院、下院、議会、国債」のような直訳語もある。そして「国会」のように、短文をさらに短縮した語も見られる。それに対して、中国では古典法律用語が発達したため、「転用語」が比較的数が多いといえる。「選挙、自主、領事、自立、民主」などがその例である。宣教師の造語は積極的に行なわれたものの、様々な限界も存在した。専門知識の欠如、「口述筆録」といった翻訳方法、方言の違い、宣教グループ間の対立などが原因となって、宣教師の造語に限界をもたらしたと考えられる。
原田, 信男 Harada, Nobuo
律令国家体制の下で出された肉食禁断令は平安時代まで繰り返し発令され,狩猟・漁撈にマイナスのイメージを与える「殺生観」が形成されるようになる。鎌倉時代に入ると,肉食に対する禁忌も定着してくる。しかし,現実には狩猟・漁撈は広範囲に行われており,肉食も一般的に行われていた。そこで,狩猟・漁撈者や肉食に対する精神的な救済が問題となってくる。仏教や神道の世界でも,民衆に基盤を求めようとすれば,殺生や肉食を許容しなければならなくなった。ところが,室町時代になると,狩猟・漁撈活動が衰退し肉食が衰退していくという現象が見られる。室町時代には,殺生や肉食に対する禁忌意識が,次第に社会に浸透していったように思われる。一方,農耕のための動物供犠は中世・近世・近代まで続けられていた。肉食のための殺生は禁じられるが,農耕のための殺生は大義名分があるということになる。日本の社会には,狩猟・漁撈には厳しく,農耕には寛容な殺生観が無意識のうちに根付いていたのである。
三枝, 令子 稲田, 朋晃 品川, なぎさ 丸山, 岳彦 松下, 達彦 遠藤, 織枝 山元, 一晃 庵, 功雄 吉田, 素文 鈴木, 知子 赤津, 晴子 桜井, 亮太 矢野, 晴美
我々は、日本で医学教育を受け、最終的に日本の医師国家試験合格を目指す日本語を母語としない外国人学習者への支援を目的として「外国人のためのわかりやすい医学用語」と題する教材の開発を行った。教材の形式は、学習者にとって使い勝手の良いWeb教材とした。作成に当たっては、医学語彙を抽出するために「医学書コーパス」を構築することにした。5 冊の医学書を選定し、80 万語超のコーパスを作成した。教材の内容は、大きく辞書を含む医学の用語集と練習に分かれる。医学の用語集である医学用語検索では、英訳に加え日本語の音声情報も付し、読み方や語の切れ目がわからない非母語話者に配慮した。さらに、オノマトペ、専門語と日常語、家族の呼称、サ変動詞、類義語、医療面接で使える表現集など、学習者の希望に応えつつ、非母語話者にとって習得が難しいと思われる内容を盛り込んだ。本教材の作成に当たっては医学出版社からの協力が得られたことも画期的なことであった。
篠原, 武夫 Shinohara, Takeo
(1)ビルマ植民地。イギリス帝国主義はビルマ植民地の森林資源(チーク林)を独占的に支配するために,まず森林資源の国家的所有を実現し,民間商社のチーク林伐採は政府発行の特許によって行ない,それは主に自国独占商社に与えられた。その結果,ビルマ人民の自主的経営は禁止され,全ビルマのチーク林資源はイギリス帝国主義の独占的支配下におかれたのである。このようにして経済的価値の高いチーク林資源はイギリス帝国主義に収奪され,それはビルマ人民の経済からまったく遊離することになったのである。(2)マレー植民地。イギリス帝国はマレーの植民地化に際して,全マレーの土地・森林を国有した。イギリス帝国のとったマレーの植民地政策は,国際的ゴム景気の影響によって,独占資本が森林をとらえた時に,そこには木材生産を主目的とする生産形態でなく,栽植農業を中心としたゴム開発に主力がそそがれ,そのため国有林は農業開発資本と結合して独占利潤追求に奉仕するようになった。そのことは栽植農業(主にゴム)に対するイギリス投資が全投資額の約9割近くに達し,森林資源が豊富に存するにもかかわらず,林業開発に対するイギリスの投資がみられないといったことから明らかであろう。それはまた農業開発に伴って成立した林政が林業生産面で消極的であったこと,および木材生産の担い手が主に支那人で,彼らによる木材生産は国内需要を十分にみたし得なかったこと,などからもわかろう。このようにマレー林業の後進性をもたらした最も基本的な原因は,イギリス帝国主義のとった産業政策の偏倚性,すなわち森林開発=農業開発という政策のあり方に起因していたと言えよう。(3)タイ国半植民地。純然たる植民地における独占資本の森林開発は,宗主国の国家的林野所有を舞台にして展開されるので,森林資源の独占的開発はきわめて容易に進行するが,領土的支配までにいたらない半植民地タイ国の森林開発では,森林がイギリス帝国の所有でないので,同帝国はもっぱら強力な資本力をテコに,まずは林政改革の実権を掌握して,自国独占資本による森林の支配の活動を有利に導き,他の資本を圧倒して森林資源(チーク林)の独占的開発を可能にして行ったのである。イギリス独占資本の支配力は森林の生産過程はもとより,流通過程にまでおよんでいるので,チーク林からの独占利潤の享受は大きかったと言えよう。以上のようなメカニズムを通じてタイ国半植民地の森林資源は,ヨーロッパ資本,なかでもイギリス独占資本の開発下におかれたのである。
山田, 奨治
この論文では、日文研でのCMの共同研究の成果を踏まえて、テレビ・コマーシャル(CM)による文化研究の過去と現状を通覧する。日本のCM研究は、映像のストックがない、コマーシャルを論じる分野や論者が極めて限定されていたという問題がある。CMによる文化研究という面では、ロラン・バルト流の記号分析を応用した研究が八〇年代初頭からみられた。しかし、研究の本格的な進展は、ビデオ・レコーダが普及した八〇年代後半からだった。その後、CMの評価の国際比較、ジェンダー、CM作品の表現傾向と社会の相関を探る研究などが生まれた。 現代のCM研究者は、CMという言葉から通常私たちが想像するような、一定の映像様式が存立する根本を見直しはじめている。名作中心主義による研究の妥当性、CMに芸術性をみいだそうとする力学の解明、CMを独立した単体ではなくテレビ番組との連続性の中に定位しようとする研究、CMと国民国家の関係を問う研究などが進められている。 しかしながら、CM研究をさらに進めるには、映像資料の入手可能性、保存体制などに大きな限界があり、研究環境の早急な改善が必要である。
望月, 直人
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、中国および東アジア各国では、国際法は「万国公法」もしくは「公法」という名称で呼ばれることが多かった。international law は直訳すると「国家間の法」となるのに対して、「万国公法」は「あらゆる国に共通する法」あるいは「あらゆる国によって共有される法」という意味であり、原語に対して厳密な訳語とはなっていない。すでに指摘されているように、清末中国読書人は、しばしば「万国公法」の「公」の字にひきつけて議論を展開した。ところで、清末中国の「万国公法」関連著作には、『万国公法』などの漢訳国際法概説書を基に中国読書人が編輯した「本土化著作」が存在する。ただ、これらの「本土化著作」の内容が上記のような「万国公法」の語義に即して改変されているか否かについては、これまで検討されていない。本稿は、「(万国)公法」の中国初の「本土化著作」となった朱克敬の『公法十一篇』を検討し、「万国公法」ないし「公法」という国際法の漢訳語が持った重みと清末中国における国際法継受(受容)に与えた影響を明らかにする。
米田, 俊彦 Yoneda, Toshihiko
藤根村の在郷軍人分会会報『真友』には青年訓練所・青年学校の教育活動の実態やその教師(指導員)であった高橋峯次郎の考え方などを伝える記事が多数掲載されている。それらを拾い出し、分類整理して青年訓練所・青年学校および峯次郎の実態を再構成してみた。青年訓練所・青年学校での活動としては、やはり軍事訓練ないし演習がその中心であったことが改めて確認された。軍の直接的な関与も強く推測された。峯次郎は、いわば素朴な国家主義者であったが、特に一九三〇年代以降、「村」や「百姓」(農業)を守ることと農業を通じての人間形成に強いこだわりを示すようになる。峯次郎は教練の指導員ではなかったが、青年訓練所・青年学校の生徒たちから慕われたらしく、兵となって村を離れた青年たちは峯次郎に対する感謝の気持ちを表明するとともに、後輩たちを厳しく訓練することを峯次郎に期待した。村を守ろうとする峯次郎の存在が軍隊生活を送る青年たちの心の拠り所になったものと推察される。『真友」の記事全体を通して、青年訓練所・青年学校やその指導員が村の青年たちを兵士に仕立て上げるうえで果たした役割の大きさがうかがえる。
Kajoba, Gear M. Kajoba, Gear M.
植民地前のザンビア農村社会では、農業システム生態系は一般的な環境条件に対し持続的かつレジリアントであり、従来の共同体的な土地保有の下で食料安全が保証された。しかし、植民地政策による労働移動と土地分配により、Bemba 族のチテメネシステムや Lozi 族の氾濫原での耕作等の生産システムは影響を受け、男性不在により農村地域の脆弱性が高まる結果となった。一方、ザンビア南部のトンガ族は、ハイブリッドメイズや牛耕等の近代的耕作技術を積極的に導入し、土地制度も共同体的所有制度から個人所有へと変化させ、レジリアンスの高さを示した。1964年の独立以来、UNIP 政権は強力に地域開発を推し進め、メイズ生産の補助や、植民地政府の土地制度を維持する保守的政策を実施した。しかし、食料安全は保障されず、小規模農民が政府とメイズのみの生産に過度に依存する状態となった。MMD政権により1991年から2001年までに実施された新リベラル政策は、天候の不順も災いし、政策や環境変動に対する食料生産システムの脆弱性を増大させた。しかし、2001年以降現在に至るまで、土地所有のエンパワーメント政策により、男性女性ともに土地所有を保証し、地域社会のレジリアンスを再構築するための政府の介入政策が行われており、国家と世帯の食料安全保障を推進する努力がなされている。
髙橋, 絵里香
市民社会論において,アソシエーションや相互扶助の派生する場となる共同体は,市民社会の土台としての位置づけを与えられている。そうした地域社会を重視する市民社会論の議論を反映しているのが,地域中心主義と呼ぶべき理念に支えられたローカルガバナンスを推進する動きである。その一例が,社会福祉制度における地方自治体への分権と地域福祉の進展である。 本稿は,こうしたローカルガバナンスの実践において,地域の地理的特長がどのように制度を規定しているのか,住民参加型システムにおける住民の参加がどのような規範と自発性に基づいているのか,という問題について考察する。具体的には,在宅の高齢者を対象とした地域福祉のシステムが稼動するフィンランドの一地方自治体を事例としている。 この事例から,市民と行政が社会サービスの提供において協働し,市民社会が国家や市場の原理に寧ろ寄り添う形で機能していることが導き出された。特に高齢者福祉は,行政と民間,高齢者自身の互酬的協働によって成立するために,その傾向は顕著である。それ自体は批判に値する事象ではないが,共同体に根拠を置く地域福祉に特徴的な構造的な制約の源でもあることを理解しておくべきである。
申, 昌浩
十九世紀に入り、近代的な西洋の物質と精神文化が拡まると、封建支配階級と民衆とのあいだの矛盾と対立が一層尖鋭化してくる。「親日」仏教は、そういった背景の中で日本の帝国主義と西洋列強の資本主義の接近によって、朝鮮王朝がそれまで進めていた近代国家としての成立の時点を起点としている。一八七六年の開国と日本人の朝鮮進出によって、日本から多くの宗派の伝来が始まった。そして、それより二〇年後の一八九五年に、日蓮宗の僧侶の嘆願によって「都城出入禁止」が解除され、仏教本然の任務である布教活動や社会活動を展開する契機を得るのであった。しかし、この朝鮮僧侶たちの「都出入禁止」の解除というのは、朝鮮仏教史においても近代の始まりを意味する。一方では、近代韓国仏教が「親日」であったことも意味している。 韓国が近代化という外からの力に、扉を開いていく過程に内在した親日の問題は、民族主義形成と宗教情勢の変動が深く関わりをもっている。この論文の目的は、歴史的に認められるいくつかの政治的変動期に韓国仏教が果たしていた役割と、その位置づけを新たに分析し、その深層に流れる韓国的民族主義の意味を究明することである。
丹羽, 朋子
中国黄土高原に位置する陝北地域には、伝統住居「窰ヤオトン洞」の窓に貼る正月飾りに、女性たちが剪せんし紙(切り紙細工)を作る習慣があり、2008年以降、多くの県の剪紙が国家級・省級の無形文化遺産に登録されている。本稿は、陝北の延えんせん川県に設立した「碾ニエンパン畔黄河原生態民俗文化博物館」と「小シャオチャン程民間芸術村」の活動を取り上げ、人々が民俗文化の保存に動くとき、いかにして無形文化遺産という外来の概念や制度が移植され、また民俗文化という客体視しづらい対象が表象や実践の形式へと〈翻訳〉されるかを考察していく。この活動は、剪紙技術が廃れた僻村における作り手の育成活動と、生活文化の保存活動とを組み合わせて、民俗文化全体0 0 0 0 0 0 を無形文化遺産として登録したユニークな事例である。本稿ではこの試みを、牽引した知識人芸術家や村民らが参与するエコミュージアム活動と捉えて、設立・運営の現場における彼らの相互交渉の諸相を、〈翻訳劇〉になぞらえて描き出す。文化遺産保護という新たな潮流と、建国以来の民俗文化のプロパガンダ利用の歴史との関係性、また製作指揮者らの企図を超えた、村民ら〈演者〉による〈翻訳劇〉の再編等の展開も合わせて論じる。
馮, 天瑜
古漢語「経済」の元々の意味は、「経世済民」、「経邦済国」であり、「政治」に近い。日本は古代より「経世済民」の意義で「経済」を使ってきた。近世になって、日本では実学が勃興し、その経済論は国家の経済と人民の生活に重点が置かれた。近代になると、さらに「経済」という言葉をもって英語の術語Economyを対訳する。「経済」の意味は国民生産、消費、交換、分配の総和に転じ、倹約の意味も兼ねる。しかし、近代の中国人学者は、「経済」という日本初の訳語に対してあまり賛同しないようで、Economyの訳語として「富国策、富国学、計学、生計学、平準学、理財学」などの漢語を対応させていた。清末民国初期、日本の経済学論著(とりわけ教科書)が広く中国に伝わったことや、孫文の提唱により、「経済」という術語が中国で通用するようになった。しかし、「経済」の新義は「経世済民」の古典義とかけ離れているばかりでなく、語形から推計することもできないから、漢語熟語の構成根拠を失った。にもかかわらず、「経済」が示した概念の変遷は、汎政治的汎道徳的な観念が中国においても日本においても縮小したことを表している。
山崎, 誠
本稿では,実践医療用語を語彙の量的な分布を通して概観するとともに,語構成的な特徴を明らかにする。利用するデータは,2020年5月に公開されたComeJisyoUtf8-2に収録されている114,957語である。これをMeCab0.996とUniDic-cwj-2.2.0で解析し,『分類語彙表増補改訂版』の情報を付与したものを利用した。主な結果は,以下のとおり。(1)1語あたりの短単位数は平均2.67,最大値は13であった。(2)中項目の意味分類では,全体では「量」「身体」「作用」「生命」「心」が上位5カテゴリーであるが,語頭・語中においては,「身体」がもっとも多く,語末では「生命」がいちばん多かった。(3)分類項目では,全体では「病気・体調」がいちばん多かったが,語頭では,「膜・筋・神経・内臓」,語中では「性質」,語末では「病気・体調」が最多であった。(4)国家試験(看護師,助産師,管理栄養士)や看護師及び管理栄養士養成校で使用されている教科書での出現状況においても意味分布に違いが見られた。(5)ComeJisyoを語の専門用語としての汎用性・一般性から類別し,特徴を見た結果,一般性が高くなると語が長くなるなどの違いが見られた。
西谷, 大 Nishitani, Masaru
本稿では雲南省の紅河哈尼族彝族自治州の金平苗族瑤族傣族自治県で6日ごとに1回開催される市をとりあげ,市の仕組みを把握しつつ地域社会に与える影響を考察する。調査地である者米谷の市の構造から浮かびあがってくる定期市成立の条件は,村民が売ることのできる余剰生産物を有していること,交通が不便で大消費地である遠距離の都会に自ら足を運べないこと,市に生産物を処理する機能があること,そして市ネットワークと商人の介在による商品の移動の必要性などが挙げられる。定期市は国境や民族という枠組みに関係なく広がることが可能である。そして定期市は,地域社会を市ネットワークに取り込むことによって,地域の生産物や外から入ってくる生活必需品も掌握することが可能なシステムである。中国周辺地域の歴史は,中国の影響をぬきにしては考えられない。それはおよそ2000年前に漢という統一国家が成立して以来連綿と続いてきた。しかし政治的な側面だけでなく,地域に即したミクロな視点でその影響の具体的姿を描こうとするならば,市のもつ特質と影響をも1つの要因として視野にいれることが,結果として中国周辺でおこってきた地域の変容の実態を明らかにすることにつながるのではないかと考えられる。
栄原, 永遠男 Sakaehara, Towao
正倉院文書に関する研究は,写経所文書の研究を中心とすべきである。そのための前提として,接続情報に基づいて,断簡の接続を確認し,奈良時代の帳簿や文書を復原する必要がある。「東大寺写経所解」を例とすると,これは9断簡からなっている。『大日本古文書(編年)』の断簡配列は,その根拠があいまいで,誤りを含んでいる。接続情報に基づいて断簡を配列し直すことにより,これが天平19年12月15日付の文書であることを,かなりの確率で言うことができる。そうすると,この文書は「東大寺」に関する最古の史料であることになる。国家仏教の中心寺院として東大寺が位置付けられた画期を示しており,重要である。個別写経事業研究は,断簡の集合体である写経所文書を写経事業ごとに仕分ける意味を持つが,一方で,独自の意義を有している。その例として注陀羅尼4000巻の写経事業に注目する。これは,天平17年8~9月ごろに始まったと推定される。この推定が妥当であるとすると,この写経事業は,聖武天皇の病気平癒祈願として行われたと推定できることになる。そのころすでに宮中で密教的な修法が行われていたことを示す。個別写経事業研究は,奈良時代の仏教,仏教と政治との関係などの研究に資するところが大きい。
山田, 奨治
ドイツ人哲学者オイゲン・ヘリゲル(一八八四~一九五五)は、日本の弓道を通して禅を広く海外へと紹介した人物として知られている。しかしながら、彼の生涯の全体像について、とりわけ幼少期と来日前後の活動状況、戦前・戦中のドイツを支配していた国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)との関連については、いまだ明らかではない。本論文では、ドイツ南部にある複数の文書館から見出された未公刊資料をもとに家族歴と来日前後の活動を解明し、へリゲルの生涯の再構成を試みた。 その結果、(1)ヘリゲルは来日以前にハイデルベルクで多くの日本人と接触し、禅に関する知識は大峡秀榮と北昤吉から得ていた、(2)へリゲルを知る者のなかには、彼の人間性に疑問を投げかける者もいた、(3)へリゲルは帰国後ナチスに入党し、エルランゲン大学学長として地方政治に関わったことにより、戦後非ナチ化法廷によって罪に問われ、「消極的な同調者」の判決を受けた、の三点を明らかにすることができた。 資料の分析をとおして垣間みえたことは、ヘリゲルとナチスの関わりを消そうとする力の存在である。この力は彼を精神的な人としてイメージするのに必要な、暗黙の共通意志のようなものである。そういった力こそがヘリゲルのいう「それ」ではないだろうか。 本論の付録として、ヘリゲルの非ナチ化裁判に関する弁明文の参考訳を付した。
朴, 雪梅
1907年2月、東京の中国人女子留学生たちによって『中国新女界雑誌』(中文)が創刊された。本稿は、主にこの雑誌の発刊意図とそこに掲載された翻訳記事を中心に分析し、同誌の中国人女子留学生たちが求めた理想的女性のモデルが同時Iの日本人女性ではなく、女性解放の先頭に立って活躍する欧米人女性であったことを論証した。 編輯兼発行人である燕斌をはじめ、当時の中国人女子留学生たちがこの雑誌を創刊した目的は、中国人女性たちを「女国民」へと育成することであった。そのため彼女たちは、政治上においてまだ独立した人格を持たず、女性解放の萌芽的段階にあった日本の女子教育/女性論をモデルとせず、西欧諸国の最新の女子教育/女性論を選び、中国の女性たちに紹介したのである。さらに、清朝政府の女子教育開始に対応して、日本の女子教育に関する数多くの教科科目を翻訳する際にも、彼女たちはその中に顕著であった「女は内」という性役割分業思想、家庭内での奉仕を通じて間接的に国家に貢献する「良妻賢母」思想についての記事をすべて削除した。また、欧米女性の立身伝を翻訳するに当たり、日本の翻訳書から数名を選んで重訳したが、その選択基準も、一定の識字教育を施せば当時の中国でも登場し得るような現実に即したモデルが多かった。
大橋, 幸泰 OHASHI, YUKIHIRO
本稿では、日本へキリシタンが伝来した16世紀中期から、キリスト教の再布教が行われた19世紀中期までを対象に、日本におけるキリシタンの受容・禁制・潜伏の過程を概観する。そのうえで、どのようにしたら異文化の共生は可能か、という問いについて考えるためのヒントを得たい。キリシタンをめぐる当時の日本の動向は、異文化交流の一つと見ることができるから、異文化共生の条件について考える恰好の材料となるであろう。 16世紀中期に日本に伝来したキリシタンは、当時の日本人に幅広く受容されたが、既存秩序を維持しようとする勢力から反発も受けた。キリシタンは、戦国時代を統一した豊臣秀吉・徳川家康が目指す国家秩序とは相容れないものとみなされ、徹底的に排除された。そして、17世紀中後期までにキリシタン禁制を維持するための諸制度が整備されるとともに、江戸時代の宗教秩序が形成されていった。こうして成立した宗教秩序はもちろん、江戸時代の人びとの宗教活動を制約するものであったが、そうした秩序に制約されながらも、潜伏キリシタンは19世紀中期まで存続することができた。その制約された状況のなかでキリシタンを含む諸宗教は共生していたといえる。ただし、それには条件が必要であった。その条件とは、表向き諸宗教の境界の曖昧性が保たれていたことと、人びとの共通の属性が優先されたことである。
安里, 進 Asato, Susumu
20世紀後半の考古学は,7・8世紀頃の琉球列島社会を,東アジアの国家形成からとり残された,採取経済段階の停滞的な原始社会としてとらえてきた。文献研究からは,1980年代後半から,南島社会を発達した階層社会とみる議論が提起されてきたが,考古学では,階層社会の形成を模索しながらも考古学的確証が得られない状況がつづいてきた。このような状況が,1990年代末~2000年代初期における,「ヤコウガイ大量出土遺跡」の「発見」,初期琉球王陵・浦添ようどれの発掘調査,喜界島城久遺跡群の発掘調査などを契機に大きく変化してきた。7・8世紀の琉球社会像の見直しや,グスク時代の開始と琉球王国の形成をめぐる議論が沸騰している。本稿では,7~12世紀の琉球列島社会像の見直しをめぐる議論のなかから,①「ヤコウガイ大量出土遺跡」概念,②奄美諸島階層社会論,③城久遺跡群とグスク文化・グスク時代人形成の問題をとりあげて検討する。そして,流動的な状況にあるこの時期をめぐる研究の可能性を広げるために,ひとつの仮説を提示する。城久遺跡群を中心とした喜界島で9~12世紀にかけて,グスク時代的な農耕技術やグスク時代人の祖型も含めた「グスク文化の原型」が形成され,そして,グスク時代的農耕の展開による人口増大で島の人口圧が高まり,11~12世紀に琉球列島への移住がはじまることでグスク時代が幕開けしたのではないかという仮説である。
山田, 慎也 Yamada, Shinya
本稿の目的は,岩手県中央部における寺院への額の奉納習俗の変遷を取り上げ,死者の絵額や遺影などの表象のあり方について,国民国家形成過程との関連を考慮しつつ近現代における死への意味づけについて考察することである。盛岡市や花巻市など北上川流域と遠野地方にまたがる岩手県中央部では,江戸末期から明治期にかけて,死者の供養のため大型の絵馬状の絵額が盛んに奉納された。絵額は来世の理想の姿を複数の死者とともに描いており,死者を来世に位置づけ安楽を祈るという目的を持ったものであった。しかもその死者は夭折した子供や若者,中年が多く,または一軒の家で連続して死者を出した場合など,不幸な状況ゆえにより供養をし冥福を祈ったものであった。しかし明治後期になると従来の絵額とは異なるモティーフを持つようになり,絵額から肖像画や写真などの遺影に変化していった。こうした変化は特に軍人に関して顕著であり,御真影や元勲の肖像,戦死者の遺影と類似の構図をとるようになる。こうした遺影への変化は,表象のあり方が現世の記憶を基盤にしただけでなく,不幸な死者へのまなざしから顕彰される死者へとその視線は変わることになったのである。一方で,写真それ自体が死者そのものの表象として使われるようになり,人々の遺影への意味づけは多義的になっている。
岸本, 直文 Kishimoto, Naofumi
1990年代の三角縁神獣鏡研究の飛躍により,箸墓古墳の年代が3世紀中頃に特定され,〈魏志倭人伝〉に見られる倭国と,倭王権とが直結し,連続的発展として理解できるようになった。卑弥呼が倭国王であった3世紀前半には,瀬戸内で結ばれる地域で前方後円形の墳墓の共有と画文帯神獣鏡の分配が始まっており,これが〈魏志倭人伝〉の倭国とみなしうるからである。3世紀初頭と推定される倭国王の共立による倭王権の樹立こそが,弥生時代の地域圏を越える倭国の出発点であり時代の転換点である。古墳時代を「倭における国家形成の時代」として定義し,3世紀前半を早期として古墳時代に編入する。今日の課題は,倭国の主導勢力となる弥生後期のヤマト国の実態,倭国乱を経てヤマト国が倭国の盟主となる理由の解明にある。一方で,弥生後期の畿内における鉄器の寡少さと大型墳墓の未発達から,倭王権は畿内ヤマト国の延長にはなく,東部瀬戸内勢力により樹立されたとの見方もあり,倭国の形成主体に関する見解の隔たりが大きい。こうした弥生時代から古墳時代への転換についても,¹⁴C年代データは新たな枠組みを提示しつつある。箸墓古墳が3世紀中頃であることは¹⁴C年代により追認されるが,それ以前の庄内式の年代が2世紀にさかのぼることが重要である。これにより,纒向遺跡の形成は倭国形成以前にさかのぼり,ヤマト国の自律的な本拠建設とみなしうる。本稿では,上記のように古墳時代を定義するとともに,そこに至る弥生時代後期のヤマト国の形成過程,纒向遺跡の新たな理解,楯築墓と纒向石塚古墳の比較を含む前方後円墳の成立問題など,新たな年代観をもとづき,現時点における倭国成立に至る一定の見取り図を描く。
宮田, 昌明
本稿は、一九二四年の加藤高明内閣の成立と幣原外交を、第一次世界大戦後の日本の政治的変化を日本の一等国化と内外の融和に向けた挑戦の過程として再検討することを目的としている。戦後の日本の政策は、日本の国際的地位の向上に対応し、国内政策と対外政策が連動しながら変化し、昭和初期の二大政党政治と協調外交をもたらした。本稿は、以下の三点に注目することで、以上の議論を展開している。 第一に、加藤高明は、外交官および憲政会の総裁として、イギリスを目標とする自由主義的な理想、すなわち、日本は一等国として国民それぞれが自立し、自らの責任を自覚する中で国民的義務を果たしていかなければならないという理想を持ち、そうした視点から加藤は、政府は国民に積極的に権利を付与することで、国民にその責任意識を持たせていく必要があると主張した。と同時に、加藤は第一次世界大戦中に外相として、中国に対し一等国としての日本の優越的地位を示すべく、高圧的な外交を展開していた。しかしこうした外交は、かえって英米や中国との関係を悪化させたとして、元老から批判されていた。 第二に、元老・西園寺公望は、原敬が暗殺された後、分裂に苦しむ政友会の再建を目標とし、高橋是清内閣総辞職後、政友会に首相の地位は与えなかったものの、政友会を与党として政権に参画させることで、その党内の統制と政権担当能力の回復を図ろうとした。加藤友三郎内閣は、そうした政友会を与党として始まったが、その後同内閣は、対外的にはワシントン条約によって規定された国際的義務を履行し、体内的には社会運動に対処し、政府に対する国民の支持を獲得するために、与党政友会以上に普通選挙の導入に積極的な姿勢を示した。対して政友会は、対照的に混乱を深めていった。そうした状況の下で一九二四年に政友会は分裂し、第十五回総選挙で普通選挙を公約に掲げた憲政会に敗北する。その結果、西園寺は加藤高明を後継の首相に指名した。それは西園寺が、当初持っていた政友会の再建という目標を、日本における政党政治の育成を図ろうとする意識に発展させ、政党政治を一等国に相応しい国内政治の在り方として受け入れたことを意味していた。 第三に、加藤高明内閣の幣原喜重郎外相もまた、上述のような国内の政治的変化に対応し、古い日本外交の在り方を一等国に相応しい外交の在り方に変化させようとした。一九二四年九月に第二次奉直戦争が勃発した際、幣原は張作霖への支援を要請する芳沢謙吉駐華公使に対し、内政不干渉の方針を徹底した。幣原は中国の政治的・経済的再建を目標とするワシントン条約の理念を意識し、中国政府に国際的責任意識を喚起させるため、国家主権独立の原則を積極的に適用しようとした。中国における国家意識の形成は、中国の政治的再建と日中関係の安定化の前提条件と考えられたからである。西園寺はこうした幣原外交を評価することで、加藤内閣全体に対する評価をも向上させ、続く昭和初期における二大政党政治の実現をもたらしていくのである。
鈴木, 拓也 Suzuki, Takuya
本稿は、八・九世紀の間に起こった隼人政策の転換を、京・畿内に視点を置いて明らかにし、それを当該時期の蝦夷政策と比較することによって、九世紀の王権に見られる性格の一端を解明しようと試みたものである。そのため本稿では、まず『延喜式』隼人司式の規定について検討し、次にそれに関連するとみられる九世紀初頭の単行法令について検討を加えた。その結果、明らかになったことは、以下の三点である。まず第一に、隼人司式に見られる今来隼人とは、朝貢隼人そのものではなく、延暦二四年(八〇五)に隼人の朝貢を停止する際に、南九州から朝貢に来ていた隼人の一部を畿内に残留させたものと考えられることである。国家は彼らによって、儀式や行幸において必要とされる呪力に満ちた吠声を確保しようとしていたとみられる。第二に、隼人司式には、今来隼人に欠員を生じた場合に畿内隼人によって補充する規定があるが、それは大同三年(八〇八)一二月勅によって成立したとみられることである。これ以後、隼人の吠声は次第に畿内隼人によって代行されるようになり、呪力は弱まっていったとみられるが、九世紀には天皇の行幸があまり行われなくなるので、隼人の呪力に対する期待も次第に低下していったと思われる。第三に、九世紀の王権は、隼人の朝貢を停止し、畿内周辺に移住させた隼人を宮廷儀礼に参加させていたが、同様の現象は蝦夷においてもみられることである。九世紀の王権は、辺境政策を主導しないにもかかわらず、畿内周辺に移配させた蝦夷・隼人を年中行事に参加させ、自らの権威を可視的に表現しようとしていたのであり、きわめて矮小化された中華思想を持っていたと言うことができるであろう。
Mwale, Moses Mwale, Moses
食料へのアクセスの不足と食料供給量の不足はアフリカでの主要な問題であり、人間の福祉と経済成長のための基本的な課題である。低農業生産は、低所得、栄養不足、リスクへの脆弱性、エンパワーメントの欠如をもたらす。アフリカ開発のための新パートナーシップ(NEPAD)は、食糧安全保障と持続的国家経済を確保するために年間平均6%の農業生産性の増加が目標である。土地荒廃と土壌肥沃度の枯渇、すなわち土壌養分の枯渇が、半乾燥熱帯(SAT)での食糧安全保障と自然資源保全に対する大きな脅威であるとかんがえられている。アフリカでは、農民に経済力を与えること、効率的で、有効な、手頃な農業技術を用いて持続的な農業集約化を推進することによって、貧困と土地荒廃の間にあるサイクルを壊すことが必要である。そのような手頃な管理システムは貧しく、小規模な生産者にとって利用しやすく、そのアプローチは技術的、制度的な変化を促進するために全体論的でありダイナミックでなければならない。 本論文は、ザンビアでの土壌とその管理に基づく知識を普及することが目標である。土壌保全と保全型農業の問題を含んでいる。主な取り組みは、1.土地荒廃を軽減するのに利用可能な技術を棚卸しすること、そして農民参加型アプローチから農民の事情を踏まえた最善の策をどのように示し、適用するかということ、2.適切なツール、方法、戦略の利用を通じて持続的な土地管理やマーケティングオプションのための最善の策を拡大すること、3.環境変動下で結果として生じる生態レジリアンスを研究することである。
金子, 未希 KANEKO, MIKI
本論文は、シンガポールのアーカイブズ史を編年する。そこでターニングポイントとなるのが、1968 年の公文書館の設立である。植民地、軍政、独立の歴史を歩んできたシンガポール国民の記憶は、シンガポール国立公文書館に記録されている。設立されてからの公文書館が期待された役割は、時代とともに変わっていく。本論文では、公文書館の法的根拠となる以下の3 つの法律に注目した。国立公文書館センター法、国家遺産局法、国立図書館法は、その成立年や公文書館の所属機関によって少しずつ変わっていく法的根拠を表している。比較する際には、公文書の移管・処分破棄・閲覧の3 点に注目した。移管と処分破棄に関する条文の比較では、実行の権限とその処理に伴う責任が、個人から組織へと移動していることを指摘した。特に公文書の処分破棄は、公文書館の最重要な役割ともいえるもので、その権限と責任の所在が変化している点は注目に値する。閲覧に関する条文の比較では、記録媒体の変化に対応する公文書館の姿が見えてくる。メディアの発展により、公文書館で保存すべき資料に音声資料が加わる。このように、記録へのアクセスの仕方が変化することで、閲覧に関する条文に変化がみられる。閲覧の際、発生すると考えられる個人情報の問題への対応など、法的環境のバージョンアップを確認した。年代の異なる3 つの法を比較することにより、時代の変化に対応する公文書館の姿が見えてきた。
西谷地, 晴美 Nishiyachi, Seibi
『古事記』の語る「豊葦原水穂国」と『日本書紀』の記す「豊葦原瑞穂国」は全くの同義語であり,「水穂」と「瑞穂」はいずれも「イネの豊穣を意味することば」であると理解されている。しかし近年の研究では,『日本書紀』の過去認識は現在とのつながりを重視した過去認識であり,『古事記』のそれは現在につながらないものに視点を据えた過去認識であることが指摘されている。そこで簡便な調査を行い,『古事記』の語る「豊葦原水穂国」は,「葦原の広がる水の豊かな国」という意味であるとする仮説を得た。『日本書紀』は「水穂」を「瑞穂」に書き換えることによって,「水の豊かな国」を「稲穂の豊かに実る国」に変換したことになる。「トヨアシハラノミヅホノクニ」を,『古事記』が稲穂と関係のない「豊葦原水穂国」と表記し,『日本書紀』が稲穂と深く関わる「豊葦原瑞穂国」と表現したのは,天皇の国家統治を語る場面において,『古事記』が農への関心を示さず,『日本書紀』が農に執着することと深く関係している。しかし,農本主義の有無だけが書き換えの理由ではない。『日本書紀』は,天皇による人民支配の正統性の根拠を,天つ神から瓊瓊杵尊への国土授与におく。しかし,生民論を欠く『日本書紀』が,天皇と「民利」との関係を示すためには,天皇統治の場は初めから「豊葦原瑞穂国」である必要があったのである。
ロコバント, エルンスト
青木, 睦 AOKI, Mutsumi
本稿では、アーカイブズの基本的機能を前提としたアーカイブズ建築固有の建築計画の問題や施設のあり方ついて、海外の事例を比較検討し、その結果をもとにアーカイブズ建築・設備の特性について考えてみたい。第1の事例は、アメリカ国立公文書館(カレッジパーク、NATIONAL ARCHIVES AT COLIEGE PARK、通称ArchivesⅡ)、第2として当館・国文学研究資料館の設計・設備および保存環境を報告する。当館の建築設計については、①収蔵資料・アーカイブズの最適な保存環境維持の責務、②利用者と職員の安全と快適性を保証、③地球環境と経済性を考えたランニングコストの軽減、この筆者による3点のポリシーを掲げた事例である。第3例に大韓民国国家記録院Nara、加えてICA/CBQが調査を開始した世界的なアーカイブズの建築設備の報告事例を取り上げる。アーカイブズ建築と設備の特性Iでは、1993年にカレッジパークに設置したArchivesIIについて報告する。この館は、最新鋭技術を投入し、「テクノロジーを活用してアーカイバルレコードを守り」「最良の保管・保存・活用を提供する」機関と自負し、その目的のために、建物および設備がどのように作られているかを『アメリカ国立公文書館技術情報報告書』第13号(1997年)において報告している。保管環境(温度、湿度、空気浄化)、アーカイブズ施設の使用材料と採用不可の材料の質にまでおよぶ詳細な仕様である。また移動棚・書架の仕様、スプリンクラー等の防火設備、電子技術を駆使したセキュリティ・システムにも言及している。この報告書を第1の素材として検討し、その結果を次回の事例と比較検討し、アーカイブズ建築の設備の特性を考察する。
古川, 一明 Furukawa, Kazuaki
東北地方の宮城県地域は,古墳時代後期の前方後円墳や,横穴式石室を内部主体とする群集墳,横穴墓群が造営された日本列島北限の地域として知られている。そしてまた,同地域には7世紀後半代に設置された城柵官衙遺跡が複数発見されている。宮城県仙台市郡山遺跡,同県大崎市名生館官衙遺跡,同県東松島市赤井遺跡などがそれである。本論では,7世紀後半代に成立したこれら城柵官衙遺跡の基盤となった地方行政単位の形成過程を,これまでの律令国家形成期という視点ではなく,中央と地方の関係,とくに古墳時代以来の在地勢力側の視点に立ち返って小地域ごとに観察した。当時の地方支配方式は評里制にもとづく領域的支配とは本質的に異なり,とくに城柵官衙が設置された境界領域においては古墳時代以来の国造制・部民制・屯倉制等の人身支配方式の集団関係が色濃く残されていると考えられた。それが具体的な形として現われたものが7世紀後半代を中心に宮城県地域に爆発的に造営された群集墳・横穴墓群であったと考えられる。宮城県地域での前方後円墳や,群集墳,横穴墓群の分布状況を検討すると,城柵官衙の成立段階では,中央政権側が在地勢力の希薄な地域を選定し,屯倉設置地域から移民を送り込むことで,部民制・屯倉制的な集団関係を辺境地域に導入した状況が読み取れる。そしてこうした,城柵官衙を核とし,周辺地域の在地勢力を巻き込む形で地方行政単位の評里制が整備されていったと考えた。
義江, 明子
上野三碑の一つである金井沢碑文には、戸籍書式、古い系譜様式、新たに流入した仏教的祖先観、供養願文書式等の複合的影響がみられる。金井沢碑および山上碑の建立地は多胡郡(旧片岡郡)山部郷であり、そこが広義(異姓の双系血縁者を含む)の「ミヤケ」一族の本拠地だった。「現在侍家刀自他田君目頬刀自」は、「三家子□」(願主)の「妻」ではなく、「仏説盂蘭盆経」にいう「現在父母」の一人として、「三家子□」の現存する「母」の可能性をも含む母世代の近親老女であり、「ミヤケ」一族長老女性だった、と推定される。「加那刀自」は「目頬刀自」の児ではなく、「三家子□」の「児」であり、「物部午足」キョウダイも「三家子□」の「孫」(加那刀自またはその姉妹の子)である。七世紀末までの豪族層は、伝承的始祖と子孫を直結する氏族の系譜意識と、双系的父母につらなる身近な血縁意識の並存の中で生きていた。仏教用語「七世父母現在父母」はそこに新たな祖先観をもたらしたが、それはまず、旧来の系譜語りと重ね合わせる形で受容された。七世紀後半公定な「三家」姓(父系)の枠組みと、現実の双系的一族結合(異姓者を含む)とのズレに、国家的諸制度と仏教的祖先観の浸透が重なり、地域社会における祖先観は変容していった。七世紀後半から八世紀前半のこうした実相を考える上で、金井沢碑と山上碑は好個の資料である。
仁藤, 敦史
本稿の目的は,古代中国の庭園思想およびその展開を考察し,百済・新羅および倭国への思想的影響を考察することである。「園」は果樹(後には蔬菜を含む)の栽培地で,農園の意味が本義なのに対して,囲む垣がある「囿」から拡大発展した「苑」は,禽獣すなわち,動物を飼育する宮廷的施設と解釈される。都城制と園林との関係は,第一に南北朝期を境に,都城とは断絶した広大な外苑と,都城内に置かれた観賞的な内園へ分離する。以後,外苑は縮小して都城と密接化し内園と同質化していく。第二には都城の南北軸線上に園林が配置されて,太極宮の北に位置する禁苑として内園が確立する。園林は,祥瑞的な動物を集めた観賞用あるいは帝国の広大な領域性を示すものとして発展した。秦の始皇帝も前漢武帝も楼閣を造営して仙人を呼び寄せ長生不老の仙薬を求めようとした。池と山を中心とする洛陽の華林園を継承する意識は,南朝にも強かったが,築山の周辺に楼観・堂閣を配置する形式に変化した。南朝では,小池を海,石を山に見立てる抽象化が進行した。再び大規模な園林が長安と洛陽に再興されるのは統一王朝となった隋唐期となる。隋唐の園林は,統一国家の性格を反映し,明らかに秦漢以来の上林苑と北朝および南朝の諸要素を融合させた。百済・新羅および倭国は,成立期の庭園文化として中国南朝的な庭園文化を取り入れたことが想定された。東アジア諸国における都城の成立とも密接な関係を有する思想の導入といえる。
新谷, 尚紀 Shintani, Takanori
本論文は柳田國男を中心として折口信夫の参加によって創始された日本民俗学を継承する立場から提出する伊勢神宮の創祀をめぐる試論である。結論として得ることができたのは以下の諸点である。伊勢神宮の創祀の歴史的過程については、推古朝における日神祭祀、斉明朝における出雲の祭祀世界の吸収、持統朝の社殿造営と行幸、という三つの画期があった。確実な伊勢神宮の造営は天武二年(六七三)四月の大来皇女の泊瀬の斎宮への籠もりから翌三年(六七四)一〇月の伊勢への出発の段階である。そして、持統六年(六九二)の伊勢行幸に際して社殿の造営が完了していたことは確実である。それは律令制的な税制度のもとでの伊勢神宮の造営であり、新益京(藤原京)という新たな都城の造営と対をなす国家的事業であった。政治権力の基盤としての律令制と都城制、に対応する宗教権威の基盤としての神祇制と官寺制、という律令国家の体系のもとで、その神祇制の中核としての意義をもつ伊勢神宮の造営と祭祀がそこに完備されたのである。そして、天照大神のモデルとなったのは高天原広野姫天皇をその謚号とする持統天皇であった。ただし、伊勢神宮の創祀の意味はこのような歴史的な事実関係の追跡からだけでは重要な点が見えてこない。『記紀』になぜ出雲神話が存在するのかという問題も含めて、出雲大社の祭祀と対をなすものととらえるとき、はじめて大和王権の祭祀世界が見えてくる。〈外部〉としての出雲、という概念設定が有効なのである。そして、以下の点が指摘できる。天武と持統の大和王権を守る装置として位置づけられたのが、伊勢と出雲という東西の海に面した両端の象徴的霊威的存在であった。王権神話で政治は皇孫に、神事は大己貴神にとの分業を語るとともに、それは同時に、朝日(日昇)―夕陽(日没)、東方(対外的安全領域たる太平洋の海辺)―西方(対外緊張の日本海の海辺)、太陽―龍蛇、陽―陰、陸(新嘗祭)―海(神在祭)、現世(顕世)―他界(幽世)、という対照性のコスモロジーの中に位置づけられる関係性であった。七世紀末から八世紀初頭にかけて成立した天武・持統の大和の超越神聖王権とは、〈外部〉としての出雲、の存在を必要不可欠とした王権だったのである。出雲の祭祀王にとって龍蛇祭祀とは毎年繰り返される外来魂の吸収儀礼であり、一方、大和の祭祀王が新嘗祭と大嘗祭に先立って執行する鎮魂の祭儀も外来魂の吸収儀礼である。そのような外来魂の吸収という呪術的霊威力の更新の儀礼と信仰を大和の王権が獲得しそれを内部化できたのは、出雲の祭祀王権との接触によってであり、〈外部〉としての出雲、の設定によるものである。天皇の鎮魂の祭儀とは、外来魂を集めるむすび(結び)とむすひ(産霊)、その外来魂を天皇の身体に定着させるたまふり(鎮魂)、そうして内在魂となった天皇の霊魂を増殖し活性化させるたましずめ(鎮魂)、そしてその天皇の創造力豊かな増殖する内在魂を臣民へと分与するみたまのふゆ(皇霊之威・恩頼)までを含むものであり、天皇という存在と機能の基本がその霊魂力(生命力)の不断の更新とその分与にあるということを示す。この王権論を普遍化する視点からいえば、カール・ポランニー Karl Polanyi のいうところの、中心性centricityと再分配redistributionの構造とみることもできる。
ザロー, ピーター
江上, 能義 Egami, Takayoshi
Vongxay, Phonemany
本研究は、海外援助を得たミクロレベルの農村開発の3つ事例の分析により、 「Lao Way」の内発的発展という新しい流れをもたらす可能性を論じるものである。研究方法は、海外援助を得たヴィエンチャン近郊の2つの農村(リンサン村とターサン村)と遠隔県の農村(カムペードン村)での比較調査で、質的調査と量的調査を行い、国際社会学の視点から実証的に分析した。これらの調査では、ラオス政府主導のトップダウン型の開発(リンサン村)、ボトムアップ的な特徴をもつ開発(ターサン村)、公衆衛生や栄養問題、教育など基本的ニーズの向上をプライオリティとする開発(カムペードン村)における内発的発展の視点から見た課題を明らかにし、海外援助を得たそれぞれの村が特性に合わせた持続可能な開発にどのように取り組もうとしたのか、その経緯や地域社会における課題解決の方策を量的調査と質的調査で明らかにすることを試みた。結果として、ボトムアップ的な特徴をもつ開発スタイルが内発的発展のために有効であること、そのためには政府や海外援助などの外部からの「サイドサポート」が大きな役割を果たしていること、村における中間レベルのアクターが「Lao Way」をより実践可能な形で叶えるために重要であることが明らかになった。 中間レベルのアクターは国家と地域社会の間で双方の役割やパワーバランスに偏りが出ないような調整役となるだけでなく、村レベルの社会にとっては活動を通して生産力の向上や政府機関と協力体制を築く効果をもたらし、社会主義国のラオスであってもボトムアップ式の開発方法を取り入れることによって、持続可能な内発的発展となる可能性が高いと結論づけた。
C. , Сасаки
本稿は中国黒竜江省の松花江(スンガリー川)沿岸にある敖其(アオチ)と呼ばれる赫哲族の村に最近新設された博物館での展示を一つの材料として,赫哲族あるいはナーナイと呼ばれるアムール川流域(主に松花江下流域,ウスリー川流域とウスリー川河口より下流のアムール川流域)に広く居住する人々についての文化表象と歴史表象の統合を図り,さらに文化人類学(以下「人類学」と略称する),民族学による歴史研究の方法と民族誌の内容の通時的相対化という問題を検討することを目的としている。従来多くの民族誌で「未開の漁撈狩猟民族」あるいは「自然と共生する文化を持つ民族」という扱いを受けてきた彼らは,実際には中国,日本,韓国・朝鮮を含む東アジア,北東アジアの歴史の中で重要な役割を果たしたキープレイヤーだった。しかし,近代国家の統治の下で,「未開民族」,「異教徒」などのレッテルと共に最低の社会階層に位置づけられ,彼らが優先的権利を有していた資源からも疎外され,貧困状態に陥り,一見「未開」な状態に見える生活を強いられた。そこを人類学者や民族学者に調査され,それを普遍的な状態として民族誌の中で喧伝されてきた。本稿では,歴史史料に登場する17 世紀以来の彼らの祖先たち,特にゲイケル・ハラと呼ばれる赫哲族=ナーナイの一つの有力な氏族集団の祖先たちの活動を分析することで,民族誌に書かれている内容を無条件で受容してはならないことを指摘すると共に,民族文化の紹介の場として最も普及している博物館施設において,歴史を加味した新しい文化像をいかに展示すればよいかを検討する。
古俣, 達郎
本稿では、明治末のアメリカ人留学生で日本学者であったチャールズ・ジョナサン・アーネル(Charles Jonathan Arnell 1880-1924)の生涯が描かれる。今日、アーネルの名を知るものは皆無に等しいが、彼は一九〇六(明治三十九)年に日本の私立大学(法政大学)に入学した初めての欧米出身者(スウェーデン系アメリカ人)である。その後、外交官として米国大使館で勤務する傍ら、一九一三年に東京帝国大学文科大学国文学科に転じ、芳賀矢一や藤村作のもとで国文学を修めている(専門は能楽・狂言などの日本演劇)。卒業後は大学院に通いながら、東京商科大学(現:一橋大学)の講師に就任し、博士号の取得を目指していたが、「排日移民法」の成立によって精神を病み、一九二四年十一月、アメリカの病院で急逝した。 アーネルは日本の大学を正規の課程で修めた先駆的な日本学者でもあったが、早世したこともあり、その存在はほとんど知られていない。それゆえ、本稿では、アーネルの伝記的事実を明らかにすることに主眼が置かれており、とりわけ、彼の生涯の出発点である、スウェーデンからの移住先タコマの地での日本人移民との出会いに注目している。なぜなら、アーネルの死のきっかけとなった「排日移民法」の成立は、移民同士の出会いによって始まった彼の生そのものを否定するものであったからである。 アーネルの死後、恩師であり、親しい友人でもあった藤村は、英語教育廃止論を展開し、大きな反響を呼ぶ。そこにはアーネルの死を契機として、藤村が抱くに至った国家及び民族間の関係性への諦念と絶望が見られるのである。
渡辺, 信一郎 Watanabe, Shinichiro
建中元年(780)に成立した両税・職役収取体系にもとづく財務運営の特質は,収支両面にわたる定額制の存在である。建中元年の両税法の成立に際し,唐朝は,様ざまな制度外の租税徴収によって達成された大暦年間の各州最高実徴額を両税定額として設定しなおし,また収取定額を上供(中央経費)・留使(地方道経費)・留州(地方州府経費)に再分配し,経費においてもその根柢に定額制を設定して財務運営をおこなった。それは,開元二四年(736)以後,建中元年に至る45年間に,過渡的に実施された租庸調制・「長行旨条」・定額制による財務運営にかえて両税・専売制と旨符編成とによる運営に転換したものであり,本格的な「量出制入」による財務運営を開始することになった。「量出制入」にもとづく財務は,単年度ごとに正月に中央政府が発布する旨符(財政指針)と毎年度末十二月に塩鉄転運・度支・戸部の三司が宰相府に提出する会計報告および諸道節度使・観察使が戸部尚書比部司に提出する勾帳(財務監査調書)とによって運営された。それはまた長期的に定額を設定することによって収支基準額を固定し,そのうえで財源不足や収入超過をやりくりすることによって収支均衡をはかる財務運営方式であり,予算制度に基づく財務運営ではない。この定額制にもとづく財務運営は,前提をなす両税・職役収取体系とともに,18世紀初頭の盛世滋生人丁による支配丁数と税額の固定,および18世紀半ばの地丁銀制成立によって事実上廃棄されるにいたるまで,ともに後期専制国家財政の根幹をなした。
木村, 周平 Kimura, Shuhei
自然災害はあらゆる社会にとって対処を迫られる重要な問題である。防災においては近年,国家・行政によるいわゆる「公助」には限界があり,住民のレベルでの防災・減災が必要であることが主張されている。過去の災害の経験をモノ化し,社会の内部に適切に配置し,過去の記憶を共有し,次の災害に備えるために人々が「利用」できるようにすることは,景観を「資源」として活用する,ひとつのあり方だと考えることができる。以上を背景に,本論文は,1999年にトルコ共和国北西部を襲った大地震をめぐる記憶について,「文化資源」というメタファーを援用しながら,「文化資源」としての災害の記憶がどのように「利用」されているかに注目し,その「持続可能性」について考察する。具体的に検討するのは,記念碑,地震博物館,そして記念式典である。事例検討をつうじ,あるものを「資源」として利用するためには,それを「資源化」する主体と,「利用」する主体の二つ,および「資源」の目的(何のための資源か)の明確化が必要になるということが指摘される。さらに災害の記憶に関しては,「利用する主体」と,「資源」の「利用」によって生み出されるものとが一致する,ということが主張される。つまりそこでは,「資源」は「資源」であると同時に,ひとつのサイクルを開始させる契機としても存在するのである。そして最後に,「資源」としての災害の記憶の「持続的利用」における問題として,「利用する主体」の曖昧さという問題点を指摘する。
平川, 南 Hirakawa, Minami
今,歴史学に対して新たな研究視点として,日本の歴史における自然と人間の交渉史の実像を明確に示すことが求められている。そこで,本稿は,自然環境としての河川との関わりを通して地域支配の実態を明らかにしたい。以下,本稿では,地域支配と河川について,次の四つの視点から究明を試みた。① これまでの地理的関係から内陸部とみられた地域の中に,外洋に面する河口と同様に,直線的に河川が外洋につながり,“第二河口”と位置づけられた地域が存在したのではないか。② 宮都や城柵のような国家施設造営にあたり,それらの施設は水運の便を十分に活用するために宮都や城柵内部に河川を引き込む形で占地している。しかし,それは洪水という災害を同時に抱え込むことを意味している。いいかえれば,これまで長岡京や志波(しわ)城について,その廃都や廃城は水害を直接的理由としてきたが,それは造営当初から十分に予測できたのではないか。③ 律令体制下に,郡の津(つ)(港)として外洋に望む河口部や津を管理する「津司(つのつかさ)」が設置された。その津司では「津長(つのおさ)」が責任者として,津に出入する客などに応じたのであろう。④ 9世紀後半から10世紀にかけて,各地で新たに台頭してきた豪族層の拠点施設は,河川を取り込み,船着場を設け,施設内では手工業的生産や農業経営が活発に行われたことが近年の発掘調査の成果から知ることができる。さらに付け加えて,古代の河川の運行においても,近世同様,曳船(ひきふね)方式が活発に実施された点を強調した。
栄原, 永遠男 Sakaehara, Towao
六国史に見える銭貨を他者に提供する行為を分析すると、王権や国家などの提供者と銭貨との関係が見えてくる。貞観永宝の新鋳銭が、ハツホとして鋳銭所近くの神に奉納された点に注目して、他の銭貨の場合を検討すると、新鋳銭をハツホとして神に奉納することが重視されていたことがうかがえる。和銅顕出の詔、陸奥産金の詔勅、大宝産金の記事によると、貴重な金属は天皇の統治する国土に存在するものであり、その出現は、天神地祇や天皇霊が天皇の国土統治の正当性を保証したことを示すものであった。銭貨は、かかる貴重な金属から作られたものであるために大地が産み出したものと認識され、その故にハツホと意識された。ハツホとしての新鋳銭を、天皇が神々へ奉納することは、自らの国土統治の正当性を神々に確認する意味が込められていることになる。また、皇族・臣下に対する賜与はハツホの分与であり、皇族・臣下に天皇の国土統治を確認させる意味があった。延喜式と六国史における銭貨提供記事を全体的に見ると、銭貨を神祇関係の祭祀料として用いる事例は少なくはない。神祇関係の銭貨奉納については先に述べたが、仏教関係の銭貨の提供では、王権と仏をつなぐ物として銭貨が機能しているが、それは銭貨の呪力が媒介になっていない。日本においては、銭貨が大地の産物と認識されていた点は重要である。日本における銭貨の呪力の根源は、この点から理解すべきである。銭貨は、大地の産み出したものであるが故に呪力があると認識されたのである。
真鍋, 祐子 Manabe, Yuko
本稿の目的は,政治的事件を発端としたある〈巡礼〉の誕生と生成過程を追うなかで,民俗文化研究の一領域をなしてきた巡礼という現象がかならずしもア・プリオリな宗教的事象ではないことを示し,その政治性を指摘することにある。ここではそうした同時代性をあらわす好例として,韓国の光州事件(1980年)とそれにともなう巡礼現象を取り上げる。すでに80年代初頭から学生や労働者などの運動家たちは光州を「民主聖地」に見立てた参拝を開始しており,それは機動隊との弔い合戦に明け暮れた80年代を通じて,次第に〈巡礼〉(sunrae)として制度化されていった。しかし,この文字どおり宗教現象そのものとしての巡礼の生成とともに,他方ではメタファーとしての巡礼が語られるようになっていく。光州事件の戦跡をめぐるなかでは犠牲となった人びとの生き死にが頻繁に物語られるが,それは〈冤魂〉〈暴徒〉〈アカ〉など,いずれも儒教祭祀の対象から逸脱した死者たちである。光州巡礼における死の物語りは,こうしたネガティヴな死を対抗的に逆転評価するなんらかのイデオロギーをもって,「五月光州」のポジティヴな意味を創出してきた。すなわち光州事件にまつわる殺戮の記憶の物語りに見出されるのは,自明視された国民国家ナショナリズムを超え,それに対抗する代替物としての民族ナショナリズムを指向する政治的脈絡である。光州をめぐるメタファーとしての巡礼は,それゆえ,具体的には「統一祖国」の実現過程として表象される。そこでは統一の共時的イメージとして中朝国境に位置する白頭山が描出されるとともに,統一の通時的イメージとして全羅道の「抵抗の伝統」が語られる。
落合, 研一 Ochiai, Ken-ichi
篠原, 武夫 Shinohara, Takeo
(1)アメリカ帝国主義は, 米西戦争の勝利によって, スペイン領フィリピンを分割支配することになった。アメリカ帝国主義はフィピンを自国経済にとっての良き資本輸出, 製品販売, 原料供給市場として位置づけたばかりでなく, 該領を中国市場へ進出するための軍事的拠点としても高く評価していた。アメリカの植民地政策は, 産業資本の未成熟なスペイン時代における消極的な植民地政策とは異なり, 産業開発をかなり推進した。植民地主義の枠内ではあるが, 経済開発が必要であったからである。だが, その枠は本国本位を修正したものであった。農民を基盤とする革命軍の革命的性格を除去するためには民族的要求もとりいれざるをえず, また19世紀末から20世紀にかけての国際経済の発展と独占段階における激しい植民地獲得競争が, 完全な本国経済中心を許さなかったからである。したがって帝国主義国家ではあるが, 懐柔策として宗教体制を基盤とするスペイン領有時代の政治を転換し, 民主政治と独立への展望をフィリピン人に与えた。それはアメリカがフィリピン植民地支配に残した大きな特徴の一つである。アメリカは植民地化当初はフィリピン民族主義を弾圧したが, 漸次フィリピンの自治拡大を図っていった。ついに1934年にはコモンウエルス政府ができ, アメリカ統治機構の中枢であった総督制はなくなり, それに代るものとして高等弁務官制が布かれた。しかし, せっかくフィピン人独自の自治政府ができたものの, その自治には限界があり, 重要な政治, 経済権はすべてアメリカが握っていたのである。アメリカがフィリピン植民地に認めた自治体制は, いってみればアメリカ資本の利益に基づくものであり, そこには常に資本の論理が作用していたのである。
與儀, 峰奈子 Yogi, Minako
本研究は小渕フェローシップの支援によって実施された遠隔教育の実践結果に基づき、遠隔通信\n技術がもたらす小学校英語教育の可能性について\n考察することを目的とする。2005年1月28日、琉球大学、米国東西センター、ハワイ大学を結び「テレカンファランス2005-クロスロード・イノベイションに向けて-」と題する遠隔通信会議が実施された。その成功を受け、同年2月19日、琉球大学附属小学校が主催する千原初等教育研究大会の分科会において、この遠隔通信システムの小学校英語教育への導入の可能性を提案し、5月26日実際に琉球大学附属小学校とハワイプナホウ小学校の児童による遠隔交流会を実施した。更に7月22日には、千原初等研究大会において附属小学校とハワイ東西センターを結ぶ遠隔通信を行った。\nこの遠隔地でのやり取りを可能にしているIP通信技術は、“e-Japan''から"u-Japan"へと矢継ぎ早に策定される国家規模の戦略の下、より安価で高速なものへと急成長を続けている。この技術の進歩は刮目に値するもので、特に通信の体感速度には驚嘆させられる。音声に時間的ズレはほとんどなく、映像もスムーズで一頃のテレビ電話が想起させるコマ送り映像の面影はない。このような技術革新に伴ってITもICT(Information Communication Technology)とその名称を変化させている。この付記された"C(コミュニケーション)''は、情報収集等に重きが置かれていた従来の受動型の」情報化社会から自己参与型への移行を示しており、今回の遠隔交流の実践もその潮流の中にある。海外とのリアルタイムの交流は英語教育にとって測り知れないメリットを生む。教室での学習が時空間を超えた生の体験の中で実践されていくのである。本研究では、国際理解教育にも関連付けて議論したい。
シャイヤステ, 榮子 Shayesteh, Yoko
日本で初めて音楽療法に関する文献が出版されたのは1958年精神科医の蜂矢英彦によってであった。1959年、山松質文が自閉症児に対する音楽療法の実践を始め、1966に『ミュージックセラピー』を出版し、1967年の英国人の音楽療法士ジュリエット・アルバン来日によって日本は音楽療法の創成期を迎えることとなる。その年には、山松は障害児教育の加賀屋哲朗とともに日本音楽療法協会設立、1976年には櫻林仁が日本音楽心理学音楽療法懇話会を発足、1977年には赤星建彦が財団法人東京ミュージック・ボランティアを設立することとなる。1980年代には、医師を中心に音楽療法の効果の客観性や科学的な効用が問われるようになり、1986年には日野原重明や篠田知璋らが日本バイオミュージック研究を設立、1987年には村井靖児が東京音楽療法協会を設立した。1990年代に入ってからは、理論と更なる実践の量的・質的研究を求め日野原重明を代表とする日本バイオミュージック学会が1991年に設立、1994年には松井紀和・村井靖児によって臨床音楽療法協会が設立された。音楽療法への興味・関心は首都圏から地方都市へと広がり、時を同じくして、1994年に岐阜県音楽療法研究所が設立、そして奈良市では音楽療法検討委員会が発足し、音楽療法士養成や認定へ向けての養成コース開講や講習会等が始まっていた。1996年には岐阜県音楽療法士、1997年には奈良市音楽療法士の第一期生が認定された。1995年、日本バイオミュージック学会と臨床音楽療法協会は全日本音楽療法連盟へと統合され、音楽療法の啓発と普及活動と同時に会員の資質向上を目指して活動を継続し1996年には100名の音楽療法士の資格認定をした。同連盟は音楽療法士の国家資格を目指し組織を発展させて2001年には日本音楽療法学会を発足させ日本国内では最大の学会員を持つ組織として現在に至っている。
張, 雅
本論文は林芙美子の「ボルネオ・ダイヤ」(『改造』1946年)、「荒野の虹」(『改造文芸』1948年)、「浮雲」(『風雪』1949年11月-1950年8月、『文学界』1950年9月-1951年4月)などの南洋小説を総合的に取り上げ、彼女の中国大陸での従軍と南洋徴用の体験との相違を検討し、南洋での記憶がいかに戦後に継承されたかを検討する。また、林芙美子の戦後の小説に描かれた復員兵や南洋に逃亡する女性の表象を分析することを通して、戦後に引き揚げてきた主人公たちが体験した虚脱感と無力感が、いかに過去の植民地体験と結合し、それを回想させるのかを解明する。 林芙美子の中国漢口での従軍が危険と紙一重の体験であったのに対し、彼女の南洋旅行は戦場で受けた心の傷を癒す旅となった。戦後、林芙美子が書いた一連の南洋小説においては、「豊饒」な南洋を、「貧弱」な日本を浮き彫りにする他者像とすることで、戦前、アジアの「西洋」に転じた日本が、乱暴な植民地統治によってまた「東洋」に格下げされたことが描かれる。そこでは、日本にとって模範的な指導者であり、見習い追いつくべき対象としての「西洋」の姿が想像される。 また、彼女の戦後小説には娼婦として動員される女性と、男性との間の非対称な関係性が保たれているが、戦後、植民地を失った日本人男性の「男性性」が衰弱する一方なのに対し、「獣」のように生きる女性らは野性的な生のエネルギーを放っている。林芙美子は、底辺に落ちた女性に国家が付与した「娼婦性」という属性に抵抗しようとする女性たちを描くことによって、生き抜くために女性が持つ生の原動力を称えたのである。
徐, 銘 Xu, Ming
9、10世紀の敦煌資料には、宗教儀礼に関連する文書が多数見られるが、その中には、仏教信仰にもとづく、仏像や塔形を刻んだ印を砂の上に押印し、数珠で数を数える「印沙仏」と称される儀礼が存する。従来の研究では、この儀礼は敦煌仏教における重要な行事として認められ、正月に行われた仏事「燃燈会」との繋がりなどが注目され、研究されてきたが、ほかに、内容上、同時代に敦煌で行われた仏誕会などの儀礼との関わりも見落とすことができない。「印沙仏」儀礼を執行する主体として注目されるのは「社」という組織である。「社」はそれ以前の土地神の崇拝によって形成された地縁的集団と異なり、仏教信仰で結ばれた組織である。庶民の集いとしての「社」と僧侶の組織である教団は、このような儀礼の催行を通じて密接な関係を築き上げていた。「印沙仏」儀礼の目的としては、祓病除災、来世幸福などの個人の願いから、国家太平や五穀豊穣に代表される祈りまで、さまざまな民衆の生活に結びついた祈願が多く見られ、当時の敦煌仏教の実践の一端を明確に見ることができる。こうした点に注目して、これまでの日本・中国のいずれの研究においても充分ではなかった敦煌仏教の社会的側面、及び地域の信仰との関わりを明らかにする考察として、本稿では「印沙仏」儀礼の実態を解明し、その特質を検討する。「社」は、唐代中期から斎会などを扶助し、二月八日の仏祖誕生を祝う儀礼や民俗的行事にも関わったが、こうした検討を通じて、民衆の仏教の受容の実態を明らかにし、従来、充分な研究が行われてこなかった敦煌仏教の儀礼とその社会的側面を考察することが、本稿の目的である。
大門, 哲 Daimon, Satoru
民俗学における稲作特化保障論の近年の関心は,内部資源の多面的利用,いいかえれば家の個別生計状況に集中しているが,いうまでもなく,家をとりまく政治力学を看過することはできない。今回とくに注目したいのは,民俗学で旧来等閑視されてきた耕地整理事業の意義である。明治以降の耕地整理事業といえば,国家事業として全国画一的に展開され,事業後,劇的に農法が変質したような印象がある。しかし,河北潟東北域に位置する津幡町川尻を対象に,当該事業の導入経緯をみると,そのような印象は根拠がないことがわかる。まず,空間編成においては,潟縁に位置する地理的環境や,近世期より水運業が稼ぎとして行なわれた関係から,クリークを基軸とする水郷空間への再編が重視された。これによって,農耕用の舟が激増し,河口は舟小屋が並ぶ係留場へと変貌した。つまり,当時の事業は,地域の歴史や環境に適した「現地化」がはかられたわけである。つぎに,作業内容の変化をみると,水郷空間の造成により,舟運輸送が普及し,収穫後の稲の搬送コストが大幅に軽減されたものの,本田準備作業は,畜耕や蓮華草栽培などの乾田農法を導入するに至らず,藩政期の農法を存続せざるを得なかった。劇的な作業変化がおきなかったのは,乾田化がされなかったという土壌環境のほか,地主が圧倒的な権威をもち,技術革新に必要な小作層の組織化が停滞したことや,また地主が肥料問屋を営む関係から肥料市場の変化を望まなかったことなど,社会・経済的な要因が複雑に影響を及ぼしたからである。このことは,稲作が地域の政治・経済的な適切性をめぐって結実する社会的実践であったことを物語る。
山本, 理佳 Yamamoto, Rika
本論文は,近年の日本で極めて広範な対象を文化資源化している「近代化遺産」をめぐる動きを明らかにすることを目的として,とくに軍事施設までもが文化資源化される現象を取り上げた。すなわち,軍事施設の機密性と文化遺産の公開性との根本的な対立にもかかわらず,いかにして軍事施設の「近代化遺産」化が進んでいるのかをとらえた。対象としたのは,米海軍や海上自衛隊の大規模な「軍港」を抱える長崎県佐世保市である。佐世保市では,それら「軍港」内の施設の多くが戦前期に旧海軍が構築した「歴史的」建造物であることから,それらを「近代化遺産」として活用しようとする動きが1990年代半ばから活発化している。ここで明確にとらえられた点が,まず軍事施設の機密性が民間の開発などからの文化財の「保護」と結びつき,ことに軍を「優れた保存管理主体」として評価することにつながっている状況である。また,軍によって取り壊された煉瓦造建築物の廃材を活用した基地外での景観整備が近代化遺産の活用実践の主要な動きとなっている状況もとらえられた。いずれも軍の機密性に支障のない形での文化遺産化が進行していることが明らかとなったのみならず,「軍」を地域のアイデンティティとしてとらえる見方を醸成し,地域における軍存在の正当化につながっていることも明らかとなった。そして,そのような国家権力側に都合のよい「近代化遺産」化の動きは,地域内実践者の言説に垣間見える,軍事基地内の機密性と文化遺産活用との相容れなさへの実感と,それに伴う「返還」への強い執着との微妙なずれを生じつつも進行していた。総じて「近代化遺産」の貪欲な文化資源化の動きが浮き彫りとなった。
藤田, 励夫
本報告で取り扱う十六世紀末から十七世紀にかけての時代、現在のベトナムには大越があり、黎朝の皇帝がハノイにあった。しかし、皇帝には実権がなく、ベトナム北部では鄭氏、中南部では広南阮氏が黎氏を名目上の皇帝にいただきながら実質支配を行っていた。両氏とも対外的には自国を安南国と称し、我が国ともそれぞれ文書を往復し交易を行っていた。これらの文書には、特異な形状の花押印を捺したものも多い。同じ漢字文化圏の文書の中でも、それらの形状は一際目を引くものである。既発表の拙稿では、安南から送られた文書だけを対象として各通を分類してその様式論を述べるにとどまったが、本稿では、このような文書様式が成立した背景を明らかにしていきたいと考えている。そのため、本稿では、外交文書のなかでも国家間のやり取りに用いられた国書三十通を分析対象にして、東アジアを中心とする漢字文化圏の文書体系の中に安南文書を位置づけることを試みてみたい。国書三十通は、発給者により鄭氏と広南阮氏のものに分けられる。さらに差出と充所の関係で整理すると、A国主から国主充、B国主から臣下充、C臣下から国主充、D臣下から臣下充、E国主から国充の五つに分類できる。これらを一通ずつ読み解きながら検討を加えていきたい。結論として、安南の国書は、東アジアで通用している書式外交文書といえるものであり、かつ、その多くが奥上に「書」を大字で表すという様式も、東アジアで多用された文書様式の一類型といえよう。特異な形態の花押印などから、一見すると際だった様式にみえる安南の国書であるが、大枠では東アジア漢字文化圏の常識的な国書の様式の範疇に収まるものと考えられる。
高橋, 敏 Takahashi, Satoshi
「民衆の生活文化史」はどこでも安易に使われる耳慣れた研究テーマである。ところがその中身は,となると,抽象性が前面に出て空疎な民衆・人民概念が横行するのが,残念ながら戦後歴史学の実態ではなかったろうか。生活文化史を主唱するならば,まず「民衆」を抽象性から解放すべきであろう。歴史創造の主体である民衆はもちろん生身の人間であることを確認すべきである。これらは,支配・被支配の国家論を越えて実在するのである。ひとまず,衣食住という狭義の生活史一例をとってみても、文献史学は長くこれを苦手としてきた。また,これを誇りとするような自己欺瞞の中にいた。民衆の衣食住は,何か文化の底流であり,歴史をリードすることと無縁なものと考えられていた。抽象性に満ちた民衆万能の人民観と文化無縁の民衆観に挾撃されて、生活文化史は停滞してきたように思われる。これらを克服するためには,生活文化史概念のゆるやかな検討をくりかえしやらなくてはならない。この作業と同時進行して史料論の一新が図られねばならない。そして,文献史学からの生活文化史へのこだわりのうえに関連諸科学,考古学,民俗学等との学際的研究が行われねばならないであろう。このためには、まず,地域史での生活文化史のフィールドワークが積み重ねられていく必要があるのである。本稿は,上州赤城山麓の村々をフィールドに18世紀後半~19世紀前半にかけて起こった生活文化史上の変革を追求する。赤城型民家というこの地域特有の住居に凝集されてくる民衆の生活文化の実態を文献史料の見直しを通し,またこれに近世考古学,民具学の成果を援用しつつ,具体相をもって明らかにしたいと思う。
フラッヘ, ウルズラ Flache, Ursula
本論文ではドイツ語圏の日本学の中で行われている神社研究の,創成期から現在に至るまでの概観である。ドイツ語圏の日本学では,日本の宗教についての研究は部分的な領域をなすに過ぎない。神社に限定した研究はさらに稀である。したがって研究の成果は非常に限られている。神社はたいてい神道のその他の研究との関連で言及される。歴史的概観は4つの節に区分されている。第1節では日本についての初期の報告(ケンペル,シーボルトなど)を紹介する。第2節では明治時代から第二次大戦までの研究文献を説明する。明治時代における神社研究に関してフローレンツ,シラー,シューアハマーとローゼンクランツを列挙する。続いて,グンデルト,ボーネルとハミッチュという第二次大戦前の指導的な神道研究者について述べる。彼らがナチスのイデオロギーに近い視点から研究結果を発表したため,戦後には神道と関わる研究がタブー視された。第3節は戦後の研究文献を説明する。神道研究はしばらくの間完全に中止されていたが,ウイーン大学における民俗学を迂回することによって,神道はようやく日本学研究の中に復活した。ウイーン大学を卒業したナウマンが戦後の最も影響力のあった神道研究者となった。さらに,国家と神道の関係を研究したロコバントが神社研究に大きな貢献をした。第4節では20世紀の終わりから現在までの研究文献を紹介する。現在の指導的な神道研究者としてアントーニとシャイドの名前を挙げることができる。戦争の経験を通じてドイツと日本は同様に過去の克服という問題に直面している。そこでドイツ語圏の日本学で靖国神社に関する論争は特に注目されている。本論文では歴史的概観を続けて靖国神社研究の概説を行う。終わりに神社建築研究について手短かに概略を記す。