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大杉, 高司
本論文の目的は,シックスト・ガストン= アグエロの著書『唯物論が解きあかす心霊主義とサンテリーア』(1961)が提出した視野から,20 世紀キューバにおける知の編成を逆照射し,革命がその実現をめざしてきた「近代化」プロジェクトの輪郭を浮かび上げようとすることにある。ガストン= アグエロは,その生い立ちや知的遍歴を記録や証言からうかがい知ることのできない,いわば無名の思想家―山口昌男にならえば「敗者」―にすぎない。また,エンゲルスやレーニンの「科学的唯物論」と,サンテリーアとよばれる「物神崇拝」の整合性を論証しようとする著書の内容も,キューバ人研究者のみならず私たちもまた自明視する「ノーマル・サイエンス」の視野から眺めるならば,はなはだ荒唐無稽にうつる。しかし,かえってそのことによってガストン= アグエロの著書は,1959 年の革命勝利を挟んで展開されてきた「近代化」プロジェクトを異化し,それが他にありえたどのような可能性を排除しながら自己成型してきたのかを教えている。補助線となるのは,「近代化」を,自然と社会を分離する「純化」作業の積み重ねのうちにみる,科学人類学者ブルーノ・ラトゥールの見解である。本論文では,このラトゥールの見立てを,ガストン=アグエロの「エソテリック唯物論」,エンゲルスとレーニン,そしてレーニンの論敵であったボグダーノフらの物質観と相対させ,その上で,ガストン= アグエロを歴史から「消去」するに至ったキューバ「近代」知の特質の把握を試みる。
Taira, Katsuaki 平良, 勝明
この論文ではLukacs,Jameson,そしてFoucaultのsubjectに対する姿勢に関する考察を試みてみた。LukncsはThe Theory of the Novelにおいて,その自叙伝的背景もあり,自己とそれを巻き込む文化的歴史の昇華的(sublimation/making sublime/Sublation)表出の過程でsubjectの絶対的連続性を確認する。Jamesonは弁証法的唯物論の立場から仮定したHistoryとsingle unified narrativeとの相似関係からbourgeois subjectの連続性を想定し,それに基づいた理論を彼のThe Political Unconsciousで展開する。Foucaultはこの両者とは異なり,彼のgenealogyにより必然的,因果的要素で構築された歴史観を偶発的,断片的要素で構築(=非構築)された歴史観で覆すと同時に,subjectの連続性を否定する姿勢を明らかにする。
鈴木, 貞美
本稿は、西田哲学を二〇世紀前半の日本に擡頭した「生命」を原理におく思潮、すなわち生命主義のひとつとして読み直し、その歴史的な相対化をはかる一連の試みのひとつであり、”NISHIDA Kitaro as Vitalist, Part 1―The Ideology of the Imperial Way in NISHIDA’s “Problem of Japanese Culture” and the Symposia on “The World-Historical Standpoint and Japan” (“Japan Review” No. 9, 1997)の続稿にあたる。 『善の研究』が成立するまでの西田幾多郎の思想を、同時代の思想状況のなかにおいて読み直し、その骨格をなす考えが、どのようにかたちづくられ、また、時代思潮に対してどのような特徴をもつか、そして時代思潮に対してどのような役割を果たしたか、を明らかにすることを目的とする。『善の研究』は明治二〇年代の「国粋保存主義」の擡頭期に思想基盤の形成がなされていること、いわゆる近代的自我の煩悶が知的青年層に広がってゆく時代に応えるための哲学であったこと、とりわけ近代自然科学の展開によって一般化した主客対立の観念を人間疎外ととらえ、二〇世紀初頭の西ヨーロッパおよびアメリカの哲学の関心が「意識」に向かっていることを敏感に受け止め、その疎外を克服するために「純粋経験」を哲学の始原にすえることによって機械的唯物論を超える哲学の体系を企てたこと、「『我』の思想」、「愛の理念」、「宗教の本質」などをめぐる西田の考察の内容は、陽明学や禅を中核にしつつ、浄土真宗、キリスト教神秘主義、トルストイの宗教思想、カントに発するドイツ観念論の流れに属する諸思想、遺伝学・進化論などの生物学の知識とを一挙に自分流に統合して、「純粋経験」から「神との瞑合」に至る概念の体系化を試みたものであることなどを明らかにする。最後に、その体系が観念によって保持されていることを明らかにして、『善の研究』の核心部に生命主義があると結論づける。
寺石, 悦章 Teraish, Yoshiaki
シュタイナーとフランクルは中心的な活動分野こそ異なるものの、その思想には多くの類似点が見出される。本稿では不死と再生、中でも再生に注目して、両者の思想を比較考察する。両者はいずれも、自我または人格(あるいは精神)が死によっては崩壊せず、死後も存続すると考えている。またそのような存在が再び身体を備えて生まれてくることを認めている。このような意味において、両者は不死と再生を認めていると言って差し支えない。とはいえ19 世紀後半から20 世紀前半にかけて流行した心霊研究に対してはきわめて批判的であり、自らの立場をそれとは明確に区別している。その最大の根拠は、心霊研究の手法が唯物論的であって、精神を研究する手法として適切でないという点にある。人間は経験を重ねることで向上・進歩・進化するというのが、両者に共通する基本的な態度である。一度の人生はそのための期間としてあまりに短いが、再生によってそのためのさらなるチャンスが与えられる。フランクルの再生の思想はこの点に集約されている。彼らよりも前の時代に、理論的に再生思想にたどり着いたレッシングがいる。彼のそれも向上・進歩・進化の思想であり、再生に積極的な意義を認める。一方で輪廻といえば仏教思想がその代表とされてきた。しかしそれは解脱、すなわち再生しないことを目標とするもので、再生に積極的な意義を認めていない。シュタイナーは自らの考えに適うものとして、仏教ではなくレッシングの思想を高く評価する。
輪倉, 一広
岩下壮一(一八八九~一九四〇)はカトリック司祭であり、一九三〇年から一九四〇年までの晩年の一〇年間「神山復生病院」の第六代院長として救癩事業に従事した社会事業家であった。また、岩下は昭和戦前期における中心的なカトリック思想家でもあった。 本論における問題意識は、一九三〇年代という天皇制が社会に浸潤し君臨した時代にあって、時代の要請としての国民統合に求められる二段階の要件である「権威性」と「民衆性」に対して、現実の思想がどのように応答しようとしたのか、あるいはどのような応答の可能性をもっていたのか、という問いを契機としている。それゆえ、本稿では岩下の時代思潮への応答に加え、具体的な実践としての救癩事業の検証から実証的に問い直すことにより、岩下の思想の立場と構造を明らかにしようとするものである。 岩下は、思潮としてのマルクス主義の思想基盤である唯物史観が、権力構造の相対的な体系的把握に寄与しつつも実在論的な観点からとらえられる権威の側面を捨象する思想であるとして退けた。また、天皇制の思想基盤である皇国史観を包括的に承認しつつも、それが未成熟な権威性に留まっているナショナリズムに基づくものであるとして批判した。さらに、皇国史観に関連して、救癩に代表される皇恩についてみれば、岩下にとって救癩派国民道徳の問題であり、それは岩下の認識においてイニシアティヴ(国民発案)様のあるいは公準としての皇恩報謝を意味した。それゆえ、従来、権威の下部構造に投射される民衆性の側面を否定されてきた癩患者に対して、その回復こそが岩下の中心的な救癩思想となった。 こうした岩下の思想を、お召し列車の奉送機会の設定という具体的な救癩実践に照らして検証してみると、そこには概念としてのカトリシズムにおいては容易に見出しにくい、国民的・民族的アイデンティティに基づいた民衆性を主体化させるという実践思想が存在し、強固に機能していたことが明らかになる。
松本, 和也
本稿では、昭和10年代(1935~1944)の国民文学論を再検証した。 先行研究の検証によれば、従来、昭和10年代の国民文学論は、不毛なものだとみなされてきた。昭和10年代の国民文学論は、すぐれた実作や厳密な定義を生みだすことがなかった、と捉えられてきたからだ。それに対して、同時代の視座から国民文学論を捉え直すことを目指し、広範な言説(主には新聞・雑誌上の記事)の調査と分析によって、その歴史的な意義を考察した。 1章で示した問題関心につづき、2章で、1937年の国民文学論(昭和10年代における国民文学論第一のピーク)を検証した。そこでは、国民という概念をめぐって、さまざまな立場からの議論が交錯していた構図を整理しながら、国民文学論についての言説を分析した。 3章では、数年間のブランクを経て後に、再び盛んになった1940~1941年の国民文学論(昭和10年代における国民文学論第2のピーク)を検証した。この時期の国民文学論に、政治の影響力が大きく関わっていることを重視した。その上で、政治と文学との関係に注目しながら、国民文学論の多様な論点について、整理と分析を行った。 これらの作業を通じて、一つの結論へと至ることのなかった国民文学論の論点を、六つに整理した。その上で、国民文学論の多様な論点・立場が、文学の諸問題に関する議論としても重要な議論であったことを明らかにした。 最後に、4章で、昭和10年代後半における、国民文学論の変化を分析した上で、国民文学論が国策文学と重なっていくことを確認した。以上の分析成果をまとめ、国民文学論がインターフェイスとなって昭和10年代の文学のさまざまな問題を浮かび上がらせたことこそが、その歴史的意義であると論じた。
安田, 喜憲
和辻哲郎によって先鞭がつけられた日本文化風土論は、第二次世界大戦の敗戦を契機として、挫折した。形成期から発展期へ至る道が、敗戦で頓挫した。しかし、和辻以来の伝統は、環境論を重視する戦後日本の地理学者の中に、細々としてではあるが受け継がれてきた。戦後四〇年、国際化時代の到来で、再び日本文化風土論は、地球時代の文明論を牽引する有力な文化論として注目を浴びはじめた。とりわけ東洋的自然観・生命観に立脚した風土論の展開が、この混迷した地球環境と文明の未来を救済するために、待望されている。
石黒, 圭
本稿は、日本語研究における文章論の 70 余年の学史を概観し、これからの文章論のあるべき姿を提言するものである。言語過程観を掲げる時枝誠記の提唱から生まれた文章論は連接論・段落論・文章構成論という 3 分野に分かれ、1960~80 年代に大きな成果を上げた。しかし、1990 年代以降、文章論は多様化の様相を見せるものの、言語主体の立場から時間的過程のなかで言語行為を捉えるという創生期の原点を見失い、研究は停滞しているように見える。そうした状況のなか、「文の生成に文章を見る」言語観と「時間の流れの中で文の組み立てを考える」言語観の二つを林四郎の文章論から学ぶ。そのうえで、その卓越した言語観をこれからの文章論に生かす方法として、筆者が実践している「読むこと」における後続文脈の予測、「書くこと」における作文の執筆過程、「話すこと」におけるフィラーの使用、「聞くこと」における講義のノートテイキングという四つの研究を紹介した。
かりまた, しげひさ Karimata, Shigehisa / 狩俣, 繁久
琉球列島全域の言語地理学的な調査の資料を使って、構造的比較言語地理学を基礎にしながら、音韻論、文法論、語彙論等の基礎研究と比較言語学、言語類型論、言語接触論等の応用研究を融合させて、言語系統樹の研究を行なえば、琉球列島に人々が渡来、定着した過程を総合的に解明できる。言語史研究の方法として方言系統地理学を確立することを提案する。
與那原, 建 Yonahara, Tatsuru
競争戦略論の発展については、持続的競争優位の源泉として何に注目しているかという軸と、アプローチの性格という軸で分類・整理することができる。本稿では、これらの軸にしたがって区分された競争戦略論の主要なアプローチを概観するとともに、競争戦略論の統合化に向けた有望なアプローチとされるダイナミック能力論の代表的研究を検討することで、その学問的可能性を探っている。
吉岡, 亮
演劇というジャンルが編成されていく過程を新たな形で見直していくために、本論では、明治一〇年代の演劇と、文明論、社会改良論、自由民権論といった、同時代の様々な領域の議論の交錯の具体的な様相と、それを可能にしていた図式の存在を明らかにした。 演劇論と文明論や社会改良論の交錯を可能にしていたのは、メディアと社会を結びつける共通の図式の存在であった。その図式においては、メディアとしての演劇には社会の現実を投影する機能と構成する機能があり、演劇が関係する社会は中等以下の人々を主要な構成要員とするものとされていた。さらに、文明論や社会改良論では、こうしたメディアの性質は演劇に限定されるものではなく、小説や浄瑠璃などにも妥当するものとみなされていた。 また、演劇論と社会改良論が交錯することで、演劇論の内容に変化がもたらされてもいた。演劇論は勧善懲悪の物語を理想的なものとしていたのに対して、社会改良論はそれを前時代のものとし、演劇は文明社会にふさわしい自由民権の物語を上演すべきであるとしていたのである。 明治一七年に上演された「東叡山農夫願書」という演劇作品は、右のような議論と対応する作品であると同時に、義民という人物表彰を結節点として民権論と交錯する作品でもあった。その上演に際しての作品に対する意味づけ、および、作品の解釈は、メディアと社会を結びつける図式を基盤とするものであった。その場合の解釈には二つの水準が存していた。一つは、義民=民権家とする同時代の民権論を踏まえて、その物語を自由民権運動の寓意として読み解き、「東叡山農夫願書」を文明社会にふさわしい作品として評価するものである。もう一つは、その物語を既存の「義民物」の枠組みの中で解釈し、「東叡山農夫願書」を前時代的な作品として否定的に評価するものである。後者の評価においては、メディアと社会を結びつける図式に見られた、作者に対する批判が前景化してくることとなっていた。
久高, 將晃
超越論的語用論の研究者である嘉目道人氏は、超越論的語用論における「究極的根拠付け」の意味及び「仮想的討議」の承認に関する拙論に対して批判を提起し、代案を提示している。嘉目氏の議論は、独自の新たな解釈を提示し、啓発的なところもあるが、説得力に欠けると思われた。そこで本論では、その議論を検討し、嘉目氏に答えることを目的としたい。
小泉, 友則
現代日本において、子どもの性をよりよい方向に導くために、子どもに「正しい」性知識を教えなければならない・もしくはその他の教育的導きがなされねばならないとする“性教育”論は、なじみ深い存在となっている。そして、このような“性教育論”の起源がどこにあるのかを探求する試みは、すでに多くの研究者が着手しているものでもある。しかしながら、先行研究の歴史記述は浅いものが多く、日本において“性教育”論が誕生したことがいかなる文化的現象だったのかは多くの部分が不明瞭なままである。そこで、本稿では先行研究の視点を引き継ぎつつも“性教育”論の歴史の再構成を試みる。 具体的には、現状最も優れた先行研究である茂木輝順の論稿の批判検討を通じて、歴史記述を行う。取り扱う時期を近世後期~明治後期に設定し、“性教育”論の源流の存在と誕生を追っていく。 日本においては、近世後期にすでに“性教育”論の源流とも言える教育論は存在し、ただ、それはその後の時代の”性教育”論と比すると、不完全なものであった。近代西洋の知の流入は、そうした日本の“性教育”論の源流の知に様々な新規な知識を付け加えていく。そのような過程のなかで、“性教育”論は明確なかたちで誕生していくわけであるが、その誕生の過程では、舶来物の知識と従来の日本における文化との摩擦もあり、その摩擦を解消するためには“性教育”論を学術的なものだと見做す力が必要だった。 その摩擦をひとまず解消し、“性教育”論が日本において確立するのは、明治期が終わりを迎えるころであった。その時期には、「性教育」という名称が出現し、”性教育論”の要素を占める主要な教育論も出そろい、社会的な認知や承認も十分に備わっていた。
岩本, 通弥 Iwamoto, Michiya
本稿は「民俗の地域差と地域性」に関する方法論的考察であり、文化の受容構造という視角から、新たな解釈モデルの構築を目指すものである。この課題を提示していく上で、これまで同じ「地域性」という言葉の下で行われてきた、幾つかの系統の研究を整理し(文化人類学的地域性論、地理学的地域性論、歴史学的地域性論)、この「地域性」概念の混乱が研究を阻害してきたことを明らかにし、解釈に混乱の余地のない「地域差」から研究をはじめるべきだとした。この地域差とは何か、何故地域差が生ずるのかという命題に関し、それまでの「地域差は時代差を示す」とした柳田民俗学に対する反動として、一九七〇年代以降、その全面否定の下で機能主義的な研究が展開してきたこと(個別分析法や地域民俗学)、しかしそれは全面否定には当たらないことを明らかにし、柳田民俗学の伝播論的成果も含めた、新たな解釈モデルとして、文化の受容構造論を提示した。その際、伝播論を地域性論に組み替えるために、かつての歴史地理学的な民俗学研究や文化領域論の諸理論を再検討するほか、言語地理学や文化地理学などの研究動向や研究方法(資料操作法)も参考にした結果、必然的に自然・社会・文化環境に対する適応という多系進化(特殊進化)論的な傾向をとるに至った。すなわち地域性論としての文化の受容構造論的モデルとは、文化移入を地域社会の受容・適応・変形・収斂・全体的再統合の過程と把握して、その過程と作用の構造を分析するもので、さらに社会文化的統合のレベルという操作概念を用いることによって、近代化・都市化の進行も視野に含めた、一種の文化変化の解釈モデルであるともいえよう。
長田, 俊樹
小論の目的はこれまでのムンダ語族の比較言語学研究を概観することである。まず、ムンダ語族の分布と話者人口、およびそれぞれの言語についてのこれまでの研究を紹介する。そして比較言語学研究のうち、さいしょに音韻論について述べる。とくに、母音についてはいろいろと議論されてきたので、母音を中心にみる。次に形態論、統語論、語彙論について述べる。その際、インドの他の語族との関連を中心に論ずる。さいごに、オーストロアジア語族とムンダ諸語について、ドネガンらの研究を中心に述べる。
稲村, 務 Inamura, Tsutomu
世界中でみられる自文化研究への対応として、比較民俗学を提唱する。本稿においては、比較民俗学が民衆側から見た比較近代(化)論であるとして、これまでの系統論や文化圏論とは異なる「翻訳モデル」への転換が必要とされているのである。
岩本, 通弥 Iwamoto, Michiya
本稿は柳田國男「葬制の沿革について」に対して示された,いわゆる両墓制の解釈をめぐって,戦後の民俗学が陥った「誤読」の構造を分析し,戦後民俗学の認識論的変質とその問題点を明らかにし,現在の民俗学に支配的な,いわゆる民俗を見る視線を規定している根底的文化論の再構築を目的とする。柳田の議論は,この論考に限らず,変化こそ「文化」の常態とみた認識に立っており,その論題にもあるように,葬制の全体的な変遷を扱うものであった。ところが戦後,民俗を変化しにくい存在として捉える認識が優勢になると,論題に「沿革」とあるにも拘らず,変遷過程=「変化」の議論と捉えずに,文化の「型」の議論と読み違える傾向が生まれ,それが通説化する。柳田の元の議論も霊肉分離と死穢忌避の観念が超歴史的に貫徹する,あたかも伝統論のように解釈されはじめる。南島の洗骨改葬習俗と,本土に周圏論的に分布する両墓制を,関連のある事象として,これを連続的に捉える議論や解釈・思考法は,1960年代に登場するが,一つの誤読を定説化させた学史的背景には,民俗を変化しにくい地域的伝統と見做す,こうした根底的文化論が混入したことに尽きている。このような理解を生み出す民俗あるいは文化を,伝統論的構造論的に把捉する文化認識は,いわゆる京都学派の文化論を介して,大政翼賛会の地方文化運動において初めて生成された認識であるが,加えて戦後のいわゆる基層文化論の誤謬的受容によって,より強固に民俗学内部に浸透,定着化する。基層文化論は柳田の文化認識に近似していたナウマンの二層化説を,正反対に読解して受容したものであり,その結果,方法的な資料操作法のレベルにおいても,観察できる現象としての形(form)を,型(type)と混同して,民俗資料の類型化論として捉えられていく。
藤原, 幸男 Fujiwara, Yukio
90年代において、授業をめぐる諸状況に大きな変化が生じてきている。とくに教授主体と学習主体の身体に問題が生じてきている。心身を一元的にとらえる身体論の立場から、身体が生き、世界が広がる場として授業をとらえ、その観点から授業指導のあり方を見直す必要がある。また、教授主体と学習主体、学習主体同士の関係のあり方が変化してきている。学習権の主体として子どもをとらえ、子どもが学習権の主体として授業に参加し、世界を創造する場として授業をとらえ、関係論の立場から授業指導のあり方を見直す必要がある。本稿では、身体論・関係論の観点から、教授・学習関係の構築、教育内容の指導過程の構想、主体同士の学習共同と対話・討論の創造、授業における学習集団の形成について、論じた。本稿は一つの試論であり、今後さらに検討し、発展させていきたい。
成田, 龍一
戦後における日本文化の歴史的な研究のいくつかの局面に着目し、その推移を考察する。まずは、1980年代以降の特徴として、A「文化」に力点を置くものと、B「歴史」に比重を多く日本文化研究の二つが併存していることを入り口とする。Aは「日本文化論」、Bは「日本文化史」として提供されてきた。 A(日本文化論)は、対象に着目し、叙述はしばしばテーマ別の編成となるのに対し、B(日本文化史)は通時的に論を立てることに主眼を置く。このとき、本稿で扱う1980年ごろまでは、双方ともに素朴な実在論に立つ。1980年ころまでは、AもBも、「日本」と「日本文化」の実在をもとに、それぞれ「論」と「歴史」を切り口としていった。 AとBとの相違は、前者が日本、日本文化に肯定的であるのに対し、後者が批判的であるという点にとどまる。ことばを換えれば、日本、日本文化を論ずるにあたり、双方ともにアイデンティティとして、日本、日本文化をみていたということである。そのため、AとBとが近接する動向も見られる。 だが、1980年代以降は、双方は文化と歴史への向きあい方が大きく異なってくる。言語論的転回が日本文化研究にも波及し、素朴な実在論が成立しなくなるなか、Aはあえて日本、日本文化を自明のものとし、それをテーマへと分節するのに対し、Bは日本、日本文化が自明とみえてしまうカラクリを問題化していくのである。そしてBは構成的な日本、日本文化の概念が、どのような画期をもち、どのようにそれぞれの時期で「日本なるもの」「日本文化なるもの」を創りあげたかに関心を寄せる。 本稿は、こうして日本文化研究の推移を、文化論と文化史、実体論と構成論を軸として考察することにする。このとき、それぞれが日本文化を礼賛する見解と、「批判」的な議論と、日本文化を礼賛し「肯定」する議論として論及されることにも目を配る。
武藤, 秀太郎
本稿は、戦後日本のマルクス主義経済学の第一人者であった宇野弘蔵(一八九七―一九七七)の東アジア認識を、主に戦時中に彼が執筆した二つの広域経済論を手掛かりに検討する。「大東亜共栄圏」は、「広域経済を具体的に実現すべき任務を有するものと考えることが出来る」。――このように結論づけられた宇野の広域経済論に関しては、これまでいくつかの解釈が試みられてきた。だが、先行研究では、宇野が転向したか否か、あるいは、かかる発言をした社会的責任はあるかどうか、といった点に議論がいささか限定されているきらいがあり、戦後の宇野の発言等を含めた総合的な分析はなされていない。私見では、宇野の広域経済論は、戦前戦後を通じて一貫した経済学方法論に基づいて展開されており、彼の東アジア認識を問う上で非常に貴重な資料である。大東亜共栄圏樹立を目指す日本は、東アジア諸国と「密接不可分の共同関係」を築いていかねばならないという、広域経済論で打ち出されたヴィジョンは戦後も基本的に継承されている。このことを明らかにするために、広域経済論を戦後初期に宇野が発表している日本経済論との対比から考察する。
鈴木, 貞美
文芸作品を研究の対象とし、また他の分野の研究の素材として用いるに際して、不可欠なのは、作品を作品として対象化する態度の確立である。 かかる態度の端緒は、時枝誠記『国語学原論』によって開かれているが、その基本は、言語を人間の活動性において把握しようとする立場にある。 この活動論的契機を芸術一般論に導入し、作品を作家の主観へ還元する近代人格主義的芸術観を批判しつつ、芸術活動の本質をなすものは、虚構を美的鑑賞の対象として扱う鑑賞的態度であると仮定する。 次に、時枝言語論を芸術論へと拡張し、表現を認識の逆過程とする三浦つとむ「表現過程論」を批判的媒介とすることで、芸術活動の目的が鑑賞者の美的規範に働きかけるものであること、作品制作過程に「作者と鑑賞者の相互転換」の運動が成立していること、及びその運動の成立する”表現の場所”における転換構造の分析を行う。 さらには時枝言語論、吉本隆明『言語において美とは何か』の根本概念について活動論的な検討を加えて、文芸表現活動の特質が、芸術活動と言語活動の二重性をもつ以上、作品を作品として対象化する態度の基本は、その虚構性と文体性を結合する表現主体の「方法」の把握にあると主張する。
上野, 和男 Ueno, Kazuo
本稿は最近における日本の社会文化の地域性研究の学史的考察である。日本の地域性研究を時期的に区分して,1950年代から1960年代にかけて各分野で地域性研究が活発に行われた時期を第1期とすれば,最近の地域性研究は第2期を形成しているといえる。第2期における地域性研究の特徴は,第1期に展開された地域性論の精緻化にくわえて,新たな地域性論としての「文化領域論」の登場と,考古学,歴史学などにおける地域性研究の活発化である。1980年以降の地域性研究の展開にあらわれた変化は次の3点に要約することができる。まず第一は,従来の地域性研究が家族・村落などの社会組織を中心としていたのに対して,幅広い文化項目を視野にいれて地域性研究がおこなわれるようになったことである。地域性研究は「日本社会の地域性」の研究から「日本文化の地域性」の研究へと展開したのである。第二は,これまでの地域性研究が現代日本の社会構造の理解に中心があったのに対して,日本文化の起源や動態を理解するための地域性研究が登場したことである。とくに文化人類学や歴史学・考古学のあらたな地域性論は,このことがとりわけ強調されているものが多い。第三は,これまでの地域性研究が社会組織のさまざまな類型をまず設定し,その地帯的構造を明らかにしてきたのに対して,1980年以降の地域性論では,文化要素の分布状況から東と西,南と北,沿岸と内陸などの地域区分を設定することに関心が集中するようになったことである。つまり「類型論」にくわえて「領域論」があらたな地域性論として登場したことである。本稿では地域性研究における類型論と領域論の差異に注目しながら,これまでの地域性研究を整理し,その問題点と今後の課題,とくに学際的な地域性研究の必要性と可能性について考察した。
ホイットマン, ジョン WHITMAN, John
本プロジェクト(日本列島と周辺諸言語の類型論的・比較歴史的研究)の目的は,日本語とその周辺の言語を主な対象とし,その統語形態論的・音韻的特徴とその変遷を,言語類型論・統語理論・比較歴史言語学の観点から解明することによって,東北アジアを1つの「言語地域」として位置付けることである。統語形態論の観点からは「名詞化と名詞修飾」に焦点を当て,日本語においても見られる名詞修飾形(連体形)の多様な機能を周辺の言語と比較しながら,その機能と形と歴史的変化を究明する。歴史音韻論の観点からは,日本語周辺諸言語の歴史的再建を試み,東北アジア記述言語学における通時言語学研究を推進する。本稿では,この共同研究プロジェクトを紹介しながら,日本語,厳密にいうと日琉語族がどの言語地域に属するかについて検討する。
吉岡, 亮
『人物管見』は同時代において新しい人物論として受容されていた。それは、内容的な面で従来の人物論と異なるものであったことと共に、人物論をめぐる言説を蘇峰が提示し、その影響圏において『人物管見』が読まれたためでもあった。また、山路愛山は蘇峰の人物評論の方法を文学史に援用していた。さらに、民友社の言説においては、史論や人物評論と文学・小説を差異づける複数の分割線が形作られていた。
與那原, 建 Yonahara, Tatsuru
「スタック・イン・ザ・ミドル」とは、複数のタイプの競争戦略を同時に追求す\nることにより、虻蜂取らずになって失敗してしまうことをいう。この考え方は、競\n争戦略の研究にきわめて大きな影響をおよぼしたポーターの競争戦略論の中心的位\n置を占めている。\n 競争優位を獲得するには、競争の基本戦略のうち1つだけを選択し、それを一貫\nして追求しなければならないというのがスタック・イン・ザ・ミドル論の基本的主\n張であるが、それについては賛否両論あり、論争は現在も継続中である。われわれ\nは、このように議論が継続し、なかなか結論に到達できずにいるのは、ポーターに\nよるスタック・イン・ザ・ミドルの捉え方そのものに問題があるからではないかと\n考えている。\n 本稿では、ポーターのスタック・イン・ザ・ミドル論を再考し、その論拠を確認\nしたうえで、それに対する主要な批判的研究をレビューしていく。取り上げるのは、\n基本戦略のコンテインジェンシー理論、ハイブリッド戦略優位論、ハイブリッド戦\n略併存論であるが、その検討を通じて、競争優位の獲得につながる有効な競争戦略\nが、ポーターのいうように、低コスト戦略と差別化戦略だけではないこと、すなわ\nち、ピュア戦略のみならず、ハイブリッド戦略も有効であることを論証する.ポー\nターのスタック・イン・ザ・ミドル論については、ハイブリッドを否定し、ピュア\nを肯定するという二者択一論ではなく、両者をともに有効とみなす併存論として捉\nえ直す必要があろう。
益田, 理広
本稿は天地なる概念の東洋に於ける空間の典型たることを議す。古今の諸書より天地の空間と定義せられたる事例を徴し、以て之を証するのである。且つは各々の天地概念の定義と異同とを論じ、其の内実の解明に努むる。何となれば則ち、未だ知られざる東洋地理学理論の中枢に坐す東洋独特の空間概念を求むるがためである。是の故に本稿は自づから一篇の天地論史を為す。されど字数の限りも有れば、本篇の録するは周代より隋唐に至る間の所説に止まる。先づⅡ章では先秦の天地即空間の論の淵源を求め、『周易』『管子』『老子』を参照した。殊に『周易』は天地に空間の義を認むる最古の例として注意を惹く。同書は天地を以て無際限の規模を有する万物共在の処と為すが、此れは空間の定義として過不足なき者として大なる意義を有し、既に『管子』も其の類例の一と為すべき所がある。或は『老子』の天地論も後代の議論の先蹤と目せらるるが、其の文章の玄妙は注釈に依らずしては解するに難い。是に於てⅢ章では『老子』を能く説ける漢魏晋の玄学を検め、其の天地論を分析した。同章に例示せるは漢の河上公、魏の阮籍、晋の葛洪の所説である。此の内、河上公は『老子』の天地に『周易』の論を合して明瞭な定義を与うるに於て画期を為す。阮籍、葛洪の両氏も亦た『周易』『老子』を併せ論を為すが、天地を以て非空虚の空間と為すに於て河上公と論を違える。されば此の新説はいづこより生ずるか。之を知るべくⅣ章では漢儒の天地論を参観する。ここでは董仲舒、揚雄、王充の所説を確認し、其の天地論が『老子』を介さず空虚としての定義を欠くこと、更に、天地を以て万物の所在にして其の根源と見ることを論じた。是を以て、魏晋の玄学の非空虚の説も蓋し漢儒より生ぜりとの知見を得るに至る。Ⅴ章では隋唐の天地論を概括した。当代は諸教の共に興隆する所であれば儒道仏の三教の全てを考慮したが、外来の仏教は固より天地論を説く所僅かであった。然るに本稿の論ずるは道教に連ぬる王玄覧、王冰、玄宗、並びに儒学に通じ訓詁を能くする孔頴達、李善らの所説である。此の二教は共に天地を以て空間と為す所有ると雖も、其の定義に於ては対立を見る。即ち道教の諸家は天地を有限と為すこと屡々であるに対し、儒家は往々にして之を無際限と説くのである。就中、孔頴達の所論は詳密を極め、天地を以て時空間と為し、一なる無より万物を生成する局限と固定との要件と論ずる者であった。又た李善らによる『文選』の注釈が詩歌を介して天地即空間の論を経学の外に知らしむるも均しく見るべき変化である。以上の論議に由り、本稿は先秦より唐代に亙る期間に於て、天地が常に空間の義を内包することを証明するに至った。無論、天地の定義は各人各代一様ならざる所もあるが、それは一貫して空間と解するに不足無き概念である。
吉海, 直人 YOSHIKAI, Naoto
乳母論の一環として、本稿では『栄花物語』・『落窪物語』・『堤中納言物語』の三作品を取り上げ、乳母の視点からの読みを示すとともに、乳母の存在の重要性を具体的に論じていく。姫君でもない、母親でもない、侍女でもない乳母。その主体性を認めることによって、作品の読みがどのように変化(深化)するのか、早速『栄花物語』から論を進めていこう。
李, 原榛
近代日本という国民国家の発展とその中における「臣民」の形成を理解するには、国体思想と「民主主義」との関係性を、二元対立的な図式でではなく、相互に影響し吸収し合うという視点で捉える必要がある。本稿では「大正デモクラシー」期における、井上哲次郎(1856-1944)の神道論の展開を中心に、国体思想と「民主主義」との複雑な関係を考察する。 日露戦争での勝利をきっかけに、井上は神道についての研究を始めた。この段階において、井上は神道における「祖先崇拝」の論理を抽出し、日露戦争で勝利した原因を説明しようとした。しかしこの段階の神道研究は、まだ「国民道徳論」の一部分として扱われており、独立した理論まで発展していなかった。 1912年の三教会同の頃、井上は神道の「徳教」としての重要性を意識するようになり、体系的な神道論を創ろうとした。この理論化の過程には、国体思想の改造と民主的思想の改造という二つの方面が存在していた。一方は、井上が神道における「祖先崇拝」の論理を、国民が神々の人格的優越性を承認する論理へと改造した過程である。国民の内面まで浸透できるようになった神道論は、「国民道徳論」の中核であった「家族制度」論をもその一部分として吸収し、体系的なものへと発展した。もう一方は、井上が第一次世界大戦後の世界的な「民主的傾向」に直面し、「民主主義」に発見した「人民の意思」を「シラス」論に取り入れ、民主的思想を改造することによって神道論を更に展開した過程である。この過程で、井上は臣民の主体性を国家と「国家の恩人」たる神々に回収する論理を創出した。 二つの改造を経た井上の神道論は、主体性を発揮できる「臣民」を創出する、新しい段階の国体思想となった。井上の神道論についての考察を通じて、近代における国体思想と「民主主義」との関係、そして国民国家のあり方を捉え直す新しい視点が獲得できよう。
並木, 美砂子 Namiki, Misako
博物館教育の理論構築には,利用者主体の学習論が役立つが,とりわけ歴史展示を中心に考える上で,以下の3つの学習論の採用を提案した。第1は,「自由選択学習」の考え方,第2は,「正統的参加論」,そして第3に「ナラティヴ」の概念である。いずれの学習論においても,博物館利用者を中心におき,その視点から動的な学習プロセスを重視している。学習を個人の閉じられた世界で起きることとしてとらえるのではなく,社会的交流や博物館組織の変容を視野にいれた学習論はいずれも博物館教育の実践に有効である。なかでも,第3のナラティヴ概念の積極的採用は,利用者のより主体的な博物館利用のありかたを考えるうえで,歴史系の博物館では参考になると思われる。とくに,歴史が異文化相互の交わりや軋轢の経緯として描かれる際,自らの所属する文化と社会について熟考が求められることになり,個人の「生」の意味を社会や歴史との関係において深く考える体験を促すという,このナラティヴ的解釈の勧めが役立つと考えられる。
西村, 大志
本稿は、落語を比較文化論的視座とコミュニケーション論的視座から研究するものである。落語には江戸落語と上方落語という二つのスタイルがある。本稿では特に上方落語の『無いもの買い』という作品を中心に研究する。その際に速記本などの文字化された資料ではなく、録音されたものを用い分析する。純粋芸術化してしまった怪談噺・人情噺のような落語ではなく、大衆芸術として笑いの作品を対象とする。 『無いもの買い』は、なぜか江戸落語の評論家の間では評判が悪く、また江戸落語ではほとんど演じられなくなっている。江戸ではこれに類似した噺として『万病円』という作品がある。江戸落語の評論家たちは、『無いもの買い』も『万病円』も人をからかう噺であると位置づけ、『万病円』では浪人が町人をからかうが、最後に浪人が町人にやり返されるところを反権力というような視点から評価する。これに対し、『無いもの買い』は町人が町人をからかうだけのつまらない噺だと低く評価されている。しかし上方落語では『無いもの買い』は今もよく演じられ、人気のある演目である。 まず、このような二つの落語の評価のされ方を、東西の比較文化論的視座にもとづき、「タテ社会論」「ヨコ社会論」を背景とした井上宏の「攻撃としての笑い」と「協調としての笑い」という概念から分析した。このような東西比較文化論的視点からもそれなりに好まれる落語の演目や評価の違いについての説明はつく。しかし、それでは上方落語で『無いもの買い』がいまだに好まれ続けている理由を完全に説明するには十分ではない。 そこでG・ペイトソンのコミュニケーション論、なかでもダブル・バインド論のような病理的コミュニケーションと遊びをめぐるコミュニケーションの議論を用いた。そして、それらを用い笑福亭仁鶴の音源をもとにストーリーを詳細に分析していくことで、上方落語『無いもの買い』には高度なコミュニケーション論的視座が盛り込まれていることがあきらかとなり、その現代性・普遍性が笑いと結びついていることが見いだされる。 本稿は、社会学の視点を生かした落語論であり、また、記述資料を重視する分野の研究者が十分に研究対象としてこなかった、現代の上方落語の大衆芸術的演目など、口承芸能の研究方法を模索するものでもある。
福田, 景道
歴史物語の性格と本質に関して、「歴史を内包する物語」と見なして文芸性を重視する立場と、「物語を内包する史書」と見なして歴史性を重視する立場が並立している。この観点から『増鏡』と『梅松論』の基軸をなす皇位継承史構想を考察すると、『増鏡』の「横さま」皇統と『梅松論』の「横シマ」皇統に類似性と対極性が見いだせ、皇位継承を文芸的に享受する『増鏡』と歴史的観点により評価する『梅松論』との本質的相違と、歴史を内包する物語としての共通性が認められる。
益田, 理広
本稿は北宋の天地論を議す。唐以前の天地なる概念が東洋に於ける空間の一典型を為すことは既に前篇の証する所である。故に本篇は次代たる宋代にも此の概念が空間の義を内包せることを示すべく、諸家の述作を閲する者である。但し紙数の限界により本稿は北宋の諸家のみを論ずるに止まる。是に於て筆者は先づ北宋初期の議論を参照した(Ⅲ章)。宋の諸家中、初めて天地を以て空間と為すは胡瑗である。胡瑗は唐の『周易正義』への反感、就中、其の虚無を尊ぶ所を駁するに於て天地論を撰す。為めに胡瑗は天地の空間にして且つ形而下の元素たることを論じ、以て『正義』の虚無に近しき天地を斥くるのである。而れども宋初に於て斯様なる天地即空間の論の示さるるは稀であった。然るに、之をして主流の学説に坐せしむるは北宋五子である(Ⅳ章)。此の五子は宋学の本流として独自の学説を呈すれば後世への影響深甚なりしことで知らるるが、しかのみならず、五子中天地論を伝えぬ周敦頤を除く四名が悉く天地即空間の論を唱うるに於て、同説を宋代天地論の主流と変ずる者でもあった。然りと雖も、斯説を掲げる四子、即ち邵雍、張載、及び二程子即ち程顥並びに程頤は、唯だ天地を以て空間と為すことのみ一致するの他は各々に独自の所説を述べて居る。即ち、天地とは何ぞやと問わるるに対し、邵雍は規模に於ては無限にして本質に於ては有限なる空間なりと答え、張載は空間を本質と為し且つ之に事物及び其の元素をも統合せる形而下者の全体なりと答え、二程子は寧ろ形而上の時空間にして規模や形状の類を決して具えぬ絶対無限の理なりと答うるのである。斯くなる四子の見解は天地論の伝統に新知見をもたらすと共に、空間に関する深慮をも促す者であった。而して、北宋に天地論を唱うる一派として五子とは別に蘇軾に代表せらるる蘇門が有った(Ⅴ章)。同門は略ぼ一貫する天地論を共有し、いづれもが天地を以て空間と為すが、其の所説の諸家に長ずるは、何よりも事物の所在たる空間の性質に関する緻密なる考究に於てである。乃ち蘇門の諸子は、惟だ天地のみを純一なる実体と為すも、其の一部を分析して認識するに由りて事物が成立ことを以て、常に事物は天地より離れ得ず其の内部に所在すると説くのである。殊に事物の生成を以て概念の成立と解する蘇轍の論は明晰であった。本稿の論ずる所は以上であるが、是に於て北宋の天地も亦た空間と為さるることは明瞭に証せられた。且つ本稿の述に拠れば、北宋の諸家の唐代以前に比しても天地の空間たることを疑わず、其の関心も空間の性質そのものの何如を問うに遷れることが察せらるるであろう。
葉山, 茂 Hayama, Shigeru
本稿は被災地でおこなわれる文化財レスキュー活動を地域開発の視点からとらえ,課題を検討することを目的とする。事例として国立歴史民俗博物館が携わった宮城県気仙沼市小々汐の個人住宅,尾形家住宅における生活用具・民具・文書・建材の救援活動を取り上げた。課題の検討にあたり,建物や生活の痕跡が失われた被災地で現在,地域を見つめる地域開発の視点が必要であることを論じた。そして民俗学における地域開発の問題を整理し,地域開発の議論が観光に偏重している現状と,民俗学における地域開発の視点を遡ると,宮本常一の「郷土教育」に至ることを論じた。また宮本常一の「郷土教育」が人びとの論理を起点に検討されていたことを論じ,被災地でも地域開発の文脈で人びとがいかに生きてきたのか,そして現在ある問題をどう解決するのかという視点で文化財レスキューの結果を活かす必要性があることを論じた。以上の点を踏まえ,地域社会の人びとの生き方を検討するとき,人びとが自然や他者との間で築く関係性に注目し,その関係性の具体的な中身を検討する必要性を論じた。その上で尾形家の歴史を概観し,尾形家から救ったものからみえる社会関係を御札,オシラサマ,薬箱などの事例から紹介した。また物質の背景にある人びとの記憶が生起する過程を,尾形家のワラ打ち石捜索過程を例に論じた。そして物質を前にして語られる物語が,単なる個人の内部的な記憶ではなく,物質や場所と密接に結びついており,条件が揃ったときに生起してくることをギブソンのアフォーダンスの議論を援用して論じた。以上のことから,記憶は状況依存的に生じることと,その状況を生み出すツールとして文化財レスキューで救われた物質が機能する可能性を論じ,インフラストラクチャーが整備されたあとのそれらの運用という地域開発の課題に対して,物質の背景にある生活や文化を救う試みが役立つ可能性があることを論じた。
増田, 友哉
本稿は本居宣長(1730~1801)の天文知識の受容とその活用方法を主題とした。宣長の著述における天文に関する言及を検討することで、宣長が天文知識を必要とした理由とその限界を明らかにした。その際、蘭学由来の西洋天文学が社会に流布した時代状況を視野に入れ、宣長がそれらの知識をどのように吸収し、自らの言説を補強するため如何に用いたのかを、時系列を追って考察した。 安永期の宣長は『古事記』の解釈に基づき、世界の成り立ちや日本の優越を喧伝し、その解釈をめぐって論争を盛んに行っていた。宣長は古伝と世界のありさまの一致を説く一方で、儒仏の宇宙論を否定する。一方で、宣長には明確な宇宙像は存在しなかった。そのため、宣長の批判対象である儒者が、天地やそのあり方をめぐって、宣長に反論することは必定であった。宣長は不可知論で儒者からの批判をかわそうとし、その際に参照されたのが現実の天地のあり方の不可思議さであった。 しかし、天明期以降の宣長は西洋由来の天文や暦に関する知識を積極的に受容する。宣長は『沙門文雄が九山八海解嘲論の弁』において、西洋からもたらされたとする地球(球体)説の正しさを積極的に主張することで、仏教的宇宙像への批判を展開する。宣長の『解嘲論の弁』執筆動機は、仏教的宇宙像への論難であった。弟子である服部中庸の『天地初発考』が創造したような、『古事記伝』と西洋天文学の宇宙像に基づく宇宙論が正しいという前提が宣長にあって、それを確固たるものとするために展開した批判だったのである。宣長は、中庸が国学的宇宙像を創造する際に多くの助言を与えている。しかし、自身の言葉で『古事記』の解釈から宇宙論を創造することはできなかった。そこには、宣長が用いた漢意批判と不可知論によっては『古事記』を逸脱出来ないという事態が存在したのだと考えられる。 一方で、中庸の『三大考』は、『古事記伝』から発想を得ており、『三大考』以降、叢生する国学的宇宙論は宣長が引いたレール上に存在している。国学における西洋天文学の活用や宇宙論の創造は、宣長に端を発するといえるのではないだろうか。
Kobayashi, Masaomi
全ては他の全てと関連している――それが一般的なエコロジーの第一原則である。本稿は、そのように全てを関連性の総体とする全体論を広義のエコロジーとして捉え、様々なエコロジーの外部を探求する。その際に文学作品に言及することで、フィクションが提示する外部性の可能性も見出す。第一に扱う全体論は、カント以来とされる相関主義――現実は意識と事物の相関による現象であると主張することで人間の思考の外部性を排除する主義――である。この哲学論に対して、意識に先立つ事物の存在から意識の外部を考えるのが思弁的実在論である。主唱者の一人であるカンタン・メイヤスーは、偶然性の必然性を説くことで思考に基づく相関性の外部性を指摘する。そして相関性を前面にした作品がアーネスト・ヘミングウェイの「何を見ても何かを思い出す」であり、対照的に偶然性を前面にした作品がポール・オースターの『最後の物たちの国で』である。つづく全体論は、人間中心主義としてのヒューマニズムである。この全体論は、IoTやAIの登場によって、その完全性を維持できなくなりつつある。そしてP・K・ディックの代表作『電気羊はアンドロイドの夢を見るか?』におけるモノの世界は、まさに外部性を体現している。最後に扱う全体論は、歴史哲学者ユヴァル・ノア・ハラリが考察するデータ主義である。ビッグデータなどの膨大なデータにおいては、ヒトもモノも解析データとして一様に存在する。そして絶え間ないデータの流通を生命体として描いているのがドン・デリーロの『コズモポリス』である。データ主義を体現する主人公の死をもって終わる本作は、データ主義の外部性を象徴的に描く。かくして本稿は、「外部性の可能性」(outside possibilities)を発見することで、エコロジーとしての全体論を批判的に思考するための本来的な意味における「わずかな可能性」(outside possibilities)を提示する。
尾野, 治彦 ONO, Haruhiko
久野(1973)以来,補文標識としての,「の」「こと」についての研究は,主にコンテクストが考慮されない文を対象にして,「の」「こと」がそれぞれ何を表すのかということについて論じられ,実際のコンテクストにおいて,「の」「こと」どちらも可能な場合における使い分けの要因についての考察はあまりなされてこなかったように思われる。本稿では,この問題に対して,認識論的・語用論的観点から考察を試み,「の」「こと」の使い分けには,語り手の心的態度が関与しており,認識対象に心的態度が関与しているときは「こと」が用いられ,そうでないときは,「の」が用いられることを小説の用例を基に論じた。また,いくつかの「こと」の用法(強調構文の主節に表れる「こと」,「の」感嘆文と「こと」感嘆文,命令を表す「のだ」と「ことだ」等)についても論じ,これらの「こと」の用法は心的態度の表れとして捉えることが可能であり,補文標識「こと」との関連性が示された。
Ishihara, Masahide 石原, 昌英
Kiparsky(1982)による「語彙音韻論」の提唱以来、“ungrammaticality”のような複雑な構造をした語の文法性は1980年代の音韻論の中心テーマの一つとして多くの研究がなされた。その理由は、語彙音韻論の観点から、この例のように実際に存在する語が非文法的とされるので、いわゆる、プラケティング・パラドクスの問題を解決し、このような語の文法性を明確にする必要が生じたからである。しかしながら、本稿に示されるように、先行研究の多くが何らかの問題を含んでいる。本稿では、先行研究にみられる問題を克服し、プラケティング・パラドクスの問題の解決を試みる。\nInkelas(1989)が「語彙音韻論」から発展させて確立した「韻律語彙音韻論」によると形態表示と音韻表示はそれぞれ独立した構成素を持つ。言い換えると、形態規則が適用される領域と音韻規則が適用される領域はそれぞれ独立していて、重なり合うものではない。この形態表示と音韻表示の分離は、接辞の形態的下位範疇指定と音韻的下位範疇指定を可能にする。本稿では接辞の二重範疇指定を利用してブラケティング・パラドクスの問題の解決を提唱する。この解決法に基づくと、“ungrammaticality”のような語はブラケティング・パラドクスを含まない文法的な語として分析される。また、韻律音韻論にもとづいた解決法では、先行研究の解決法で生成することができた非文法的な語(例えば“inantireligious”)も確実に排除できる。
Taira, Katsuaki 平良, 勝明
Joyce の Ulysses においてその内面、そして外面事象というのは絶えず変化し続けている、といっていいほど極度な disjunctivity(断続性・非連続性)に支配されている。すべてが意識の流れを中心に構築されている世界なので突然の統語論的、ないしは叙述意味論的断続性というのは予想される現象ではあるが、この論文では特に Ulysses の narrative 全体と個々の事象との間に見られる意味論的整合性・非整合性という観点から登場人物、特に Bloom、を介した意識世界に迫ってみた。
池上, 良正 Ikegami, Yoshimasa
本稿では,多くの日本人には自明な言葉として受け取られている「死者供養」という実践群をとりあげ,これを理解するためには,生者と死者との間に交わされる身体的実践や,人格表象の関係性に注目した動態的な視座が必要であることを論じた。言い換えれば,西洋近代を特徴づけてきた,霊肉二元論的な人間モデルや,自律的で完結した統一体としての個人といった前提では,十分な理解が難しいのではないか,ということである。プロテスタント的な「宗教」観から強い影響を受けた近代の宗教研究では,つねに存在論的な根拠をもつ「信仰」を明らかにしようとする傾向が強く,「死者供養」と総称される実践も,「死者信仰」「祖先崇拝」などの枠組みによって説明され,実践がもつ積極的な意義を単独に論じるといった発想は乏しかった。具体的な考察としては,まず,沖縄における「死者供養的」な実践を事例として,「実証性」を標榜した従来の研究が,実は「原信仰」「霊魂観」「他界観」といった近代の学問体系の思考方法に強く拘束されていたのではないか,という疑問を提示した。むしろ多くの人々にとって大事なのは,死者の人格と関わるための実践の作法や様式である。さらに,身近な死者を「供養する」という具体的な行為と,近年の精神医学などで注目されている「喪の仕事 mourning work」との類似性に注目し,フロイトにはじまる精神分析学によって論じられてきたmourning論が,近代西欧的な人間観を前提としていたのに対して,東アジア社会に展開した「死者供養」を理解するためには,人格の関係性に焦点を合わせた動態的な枠組みが必要であることを論じた。そこでは,「存在論的な信仰」から,「縁起論的な実践」への視座の転換が重要になる。
小柳, 正弘 Koyanagi, Masahiro
自由とはなにか。この問は、一般にはしばしば、自由がいかなるものであるべきかを問うものとみなされており、それゆえ、自由論もまた、自由の本質をあきらかにするものとされてきたのではなかろうか。しかし、ある場合にある自由が自由であることが、別の場合に別の自由が自由であることをかならずしも否定するわけではないように、実際のところ、さまざまな自由はそれぞれなりに自由としてうけいれられている。小論は、現代自由論の古典ともいうべきI.バーリンの自由論の解釈を中心に考察して、自由の概念は、コンテクストとのかかわりで、そのような多様性と自明性の事実にすぐれてみあったものとなることをあきらかにした。
堀, まどか
野口米二郎(一八七四―一九四七)は、一九一四年一月、ロンドンのJapan Societyにて “Japanese Poetry”、オックスフォード大学Magdalen Collegeのホールにて “The Japanese Hokku Poetry”と題して、日本詩歌についての講演を行った。それらの講演がまとめられ、同年三月にはThe Spirit of Japanese Poetry としてジョン・マレー社から刊行され、翌一九一五年一〇月に日本語版『日本詩歌論』(白日社)として出版された。本稿は、野口がこれらにおいて何を語り、そこにいかなる意義があったのかについて論じたものである。 この講演において、野口は、日本詩歌の最も優れた詩は《書かれない(Unwritten)》詩、《沈黙の中に歌われる(sung in silence)》詩であると述べた。野口はすでに欧米で関心がもたれていた俳句(野口はhokkuと呼ぶ)を中心に日本詩歌の精神を論じ、松尾芭蕉をその最高峰として語った。野口が、当時欧米において評価の高かった「落花枝に」を批判して、芭蕉の「古池や」を秀句として示したことは、英国聴衆に対して衝撃を与えたといえる。また芭蕉と比較して、マラルメを挙げ、ペーターを挙げて、俳句を象徴主義(野口は表象主義と呼ぶ)や同時代的な英国詩壇の潮流の中で論じたことは、たいへん重要である。野口の、芭蕉と西洋詩人たちとの対比、そして欧米の文学論にはめ込んだ日本詩歌論は、欧米人には勿論、日本人にとっても刺激的な興味深いものであったに違いない。 野口は、日本詩歌の伝統とその美のありようを、日本の詩人としては初めて欧米に紹介した。アストンやチェンバレン、天心によって既に知られていた例や概念を用いながらも、自らの翻訳をもって、従来の解釈に批判を加え、あるいは深化させた。詩人としての独自の見解を示しつつ、幅広い観点と優れた感性をもって日本文化の精神を論じようとしたといえる。彼の日本詩歌論は、欧米文壇の時代の潮流にのり、また日本に逆輸入されるような形でも影響し、インタラクティブに同時代に作用したといえる。
范, 帥帥
本稿は、安藤礼二と蓮沼直應が鈴木大拙の思想全体像を描く際に直面した、大拙の明治期の思想とその後の思想発展との非連続性の問題に対し、より広いコスモロジーの転換の視座から大拙の思想全体を捉えることを提案したい。筆者は渡辺和靖と安丸良夫から研究視座を援用し、鈴木大拙の各時期の核心的な思想を分析し、彼の思想発展史における天地―自己型の近世コスモロジーから近代認識論へ次第に転換する様態を解明し、その過程で大拙が一貫して近世コスモロジーの再生を追求したことを指摘した。さらに、この大拙の転換方法を近世から近代への転換期の知識人世代の観点から説明した。 最初の文章「安心立命の地」において、大拙は円覚寺を通じて継承した近世コスモロジーを基盤に、近代認識論を吸収していく姿勢を見せた。1898年の「妄想録」では、大拙は自由論で万物の内面と外面を分け、物理学的な外面世界で近代認識論の効力を認めながら、存在論的な内面世界で天地―自己型の近世コスモロジーを復活した。つまり、二つのコスモロジーを両立させながら相即させた。 大正期、大拙はウィリアム・ジェイムズの思想に影響され、禅体験を一種の神秘主義と見なした。コスモロジーにおいて、大拙もジェイムズの手法を継承し、宗教研究の対象認識の領域で、即ち近代認識論の客体認識の領域で人間と世界が結合・一体化する近世コスモロジーを再生した。 昭和期、大拙は禅体験の社会性を求め、『無心ということ』で「無分別の分別」という禅意識を唱えた。コスモロジーにおいて、大拙はこの思想を通じて近世コスモロジーを近代認識論の枠組みの主体側に取り入れ、一元的な禅が主体と客体の連続性を維持しながら二元的な世界へ働きかけることを主張した。 このコスモロジーの転換の過程で、大拙は始終、近世コスモロジーを捨てておらず、常に近代認識論の中でそれを再生しようとした。この姿勢は大拙が属する1868年の知識人世代の特質、いわば近世的伝統文化と西洋流の近代知識を両方とも自己形成の源泉とすることに起因する。
野島, 永 Nojima, Hisashi
1930年代には言論統制が強まるなかでも,民族論を超克し,金石併用時代に鉄製農具(鉄刃農耕具)が階級発生の原動力となる余剰を作り出す農業生産に決定的な役割を演じたとされ始めた。戦後,弥生時代は共同体を代表する首長が余剰労働を利用して分業と交易を推進し,共同体への支配力を強めていく過程として認識されるようになった。後期には石庖丁など磨製石器類が消滅することが確実視され,これを鉄製農具が普及した実態を示すものとして解釈されていった。しかし,高度経済成長期の発掘調査を通して,鉄製農具が普及したのは弥生時代後期後葉の九州北半域に限定されていたことがわかってきた。稲作農耕の開始とともに鍛造鉄器が使用されたとする定説にも疑義が唱えられ,階級社会の発生を説明するために,農業生産を増大させる鉄製農具の生産と使用を想定する演繹論的立論は次第に衰退した。2000年前後には日本海沿岸域における大規模な発掘調査が相次ぎ,玉作りや高級木器生産に利用された鉄製工具の様相が明らかとなった。余剰労働を精巧な特殊工芸品の加工生産に投入し,それを元手にして長距離交易を主導する首長の姿がみえてきたといえる。また,考古学の国際化の進展とともに新たな歴史認識の枠組みとして新進化主義人類学など西欧人類学を援用した(初期)国家形成論が新たな展開をみせることとなった。鉄製農具使用による農業生産の増大よりも必需物資としての鉄・鉄器の流通管理の重要性が説かれた。しかし,帰納論的立場からの批判もあり,威信財の贈与連鎖によって首長間の不均衡な依存関係が作り出され,物資流通が活発化する経済基盤の成立に鉄・鉄器の流通が密接に関わっていたと考えられるようにもなってきた。上記の研究史は演繹論的立論,つまり階級社会や初期国家の形成論における鉄器文化の役割を,帰納論的立論に基づく鉄器文化論が検証する過程とみることもできるのである。
光平, 有希
人間が治療や健康促進・維持の手段として音楽を用いてきたことの歴史は古く、東西で古代まで遡ることができる。各時代を経て発展してきたそれらの歴史を辿り、思想を解明することは、現代音楽療法の思想形成の過程を辿る意味でも大きな意義を孕んでいるが、その歴史研究は、国内外でさかんになされてこなかった。 この音楽と治療や健康促進・維持との関係については、日本においても伝統芸能や儀礼の中で古くから自国の文化的土壌に根付いた相互の関連性が言及されてきた。しかしこのような伝統芸能や儀礼だけでなく、近世に刊行された養生書の中には健康促進・維持に音楽を用いることについていくつかの記述があることが明らかとなった。その中から本論では、養生論に音楽を適用した貝原益軒に焦点を当て、(1)貝原益軒における音楽思想の基盤、(2)貝原益軒の養生観、(3)貝原益軒の養生論における音楽の役割、(4)貝原益軒の養生論における音楽の効果と同時代イギリスの「非自然的事物」における音楽の効果との比較検討、と稿をすすめながら、益軒の考える養生論における音楽効果の特徴を解明することを研究目的とした。 その結果、『養生訓』『頤生輯要』『音楽紀聞』を中心とした益軒の著作の分析を通じて、益軒の養生論における音楽の適用の基盤には、『礼記』「楽記篇」を中心とした礼楽思想と、『千金方』や『黄帝内経』など中国医学古典に起源を持つ養生観があるということがわかった。そして、その基盤上で論じられた音楽効果に関しては、特に能動的に行う詠歌舞踏に焦点を当て、詠歌舞踏の持つ心身双方への働きかけが「気血」を養い、それが養生につながるという考えを『養生訓』から読み解くことができた。また、同時代イギリスにおいて書かれた養生論における音楽療法思想と益軒の思想とを比較してみたところ、益軒の音楽効果論には音楽の「楽」の要素を重視し、音楽が心に働きかける効果を特に重んじているという特徴が見られた。 このように益軒の養生論における音楽効果は、古代中国古典の思想を基盤としながらも、その引照に終始するのではなく、益軒の生きた近世日本の土壌に根付いた独自の観点から音楽の持つ心理的・生理的な効果を応用して、心身の健康維持・促進を図ることを目的として書かれているという点で、重要な示唆を含んでいると考えられる。
林, 正子
本稿は、早稲田派の文芸思想家=金子筑水(一八七〇―一九三七)が、総合雑誌『太陽』の文芸時評欄を担当した明治四三(一九一九)年七月から大正二(一九一三)年一二月までの三年半のうち、特に明治期に発表した論説を考察対象として、時代精神の洞察者・提言者である筑水の再評価を試みたもの。 筑水の業績としては、ルドルフ・オイケン(Rudolf Eucken 1846-1926)らドイツ哲学についての先駆的な紹介、ドイツ自然主義文学理念をもとにしての日本自然主義文学論の展開、明治・大正期の哲学に関する鳥瞰的な見取り図の提示、時代精神を読み解く両性問題論、生命哲学論、文化主義論の展開などの項目が挙げられる。 そして、このドイツ思想・文化受容を通しての筑水の近代日本精神論を貫くのが、オイケン哲学の受容をひとつの契機として提唱された〈新理想主義〉。これは、現代文明・自然主義の超克を訴え、新しい精神生活の建設を唱える思想であり、この〈新理想主義〉をバックボーンにして展開された〈自然主義的論調の時代〉の『太陽』において、時代の思潮を映し出す鏡としての意義を発揮していると言えるだろう。
藤尾, 慎一郎 Fujio, Shinichiro
弥生集落論は,同じ土器型式に属する弥生土器が床面直上から出土する住居を,同時併存,すなわち同時に存在したとみなしてきた。土器一型式の存続幅が30~50年ぐらいで,一世代と同じ時間幅をもつと考えられてきたこともあり,とくにその傾向が強かった。縄文集落論では,縄文土器の大別型式一型式の存続幅が百年程度だったので,1970年代から,同時併存の遺構の認定法をめぐって盛んに議論がおこなわれてきた。現在では,小林謙一の較正年代にもとづいた一段階20年以内での同時併存を認定するまで研究が進んでいる。しかし弥生集落論においても,較正年代を用いれば,板付Ⅱa式や板付Ⅱb式のように,存続幅が百年以上にわたる可能性のある型式の存在がわかってきたため,縄文集落論に遅れること40年にして,同時併存の認定に関する議論をおこなわなければならない段階に至ったといえよう。検討の結果,同時併存住居の認定は,存続幅が短い前期末や中期初頭においてはかろうじて可能なことがわかった。一方,存続幅が長く現状では同時併存住居の認定が難しい板付Ⅱa式や板付Ⅱb式も,もともと存在した住居の累積軒数が土器型式ごとに表されたものと考えれば,存続幅が短い板付Ⅱc式段階の累積棟数と比較するなどして,各段階の特徴を相対的に評価できることがわかった。土器一型式の存続幅を考慮した集落論は,同時併存住居5棟を一単位とする集団構造論の前提を再考しなければならなくなった一方で,これまでの弥生研究では解決の糸口が得られなかった時間的側面を前面に押し出した,弾力的な人口増加率などの研究テーマに新たな可能性の扉を開き始めたといえよう。
富田, 正弘 Tomita, Masahiro
早川庄八『宣旨試論』の概要を章毎に紹介しながら少し立ち入って検討を加え,その結果に基づいて,主として早川が論じている宣旨の体系論と奉書論に対して,いくつかの感想めいた批判をおこなってみた。早川の宣旨論は,9・10世紀における諸々の宣旨を掘り起こし,その全体を誰から誰に伝えられたかという機能に即して整理をおこない,その体系化を図ろうとしたものである。上宣については,「下外記宣旨」・「下弁官宣旨」・「下諸司宣旨」に及び,上宣でないものについては,「検非違使の奉ずる宣旨」,「一司内宣旨」,「蔵人方宣旨」まで視野に入れて,漏れなく説明し尽くしている。ここに漏れているものは,11世紀以降にあらわれる地方官司における国司庁宣や大府宣,官司以外の家組織ともいうべき機関における院宣・令旨・教旨・長者宣などであり,9・10世紀を守備範囲とする『宣旨試論』にこれらを欠く非を咎めだてをすることはできない。強いて早川の宣旨体系論の綻びの糸を探し出そうとするならば,唯一天皇の勅宣を職事が奉じて書く口宣と呼ばれる宣旨について論及していない点である。それほどに,早川の宣旨論は完璧に近い。つぎに早川は,宣旨とその施行文書との関係を論じ,奈良時代に遡って宣旨を受けて奉宣・承宣する施行文書に奉書・御教書の機能を発見する。そのうえで,従来の古文書学が,宣旨や奉書・御教書を公家様文書として平安時代に誕生したと説く点を厳しく批判する。早川が説くように宣旨の起源も,奉書・御教書の機能をもつ文書の起源も,8世紀に遡るという指摘は傾聴に値する。しかし,宣旨を施行する公式様文書が全て奉書・御教書の機能をもつという点には疑問がある。上宣を受けて出される官宣旨は奉書としての機能をもつとしても,上宣を受けて出される官符は差出所である太政官に上卿自身が含まれているわけであるから,奉書的な機能はないというべきである。また,従来の古文書学で奉書・御教書が平安時代に多く用いられる意義を強調するのは,奉書的機能に関わって論じられているのではなく,奉書・御教書が書札様文書・私文書であることに意義を見出して論じられているのである。したがって,早川の批判にも拘わらず,従来の古文書学における公家様文書という分類はなお有効性をもっている。もちろん,これによっても,早川の宣旨論は,古代古文書学におけてその重要性がいささかも色褪せるものではない。
佐々木, 高明
本稿は岡正雄・柳田国男の所説に始まり,民博の「日本民族文化の源流の比較研究」をへて,日文研を中心とした「日本人及び日本文化の起源の研究」に至る,戦後の日本民族文化起源論の展開の大要とその間にみられた諸学説の変遷を大観し,あわせてこの種の起源論の直面するいくつかの問題点を指摘したものである。結論として次の4 点を摘記することができる。 1.日本文化を単一・同質の稲作文化だとするのではなく,それは起源を異にするいくつかの文化化が複合した多元的で多重な構造をもつものだという認識が一連の研究を通じて共有されるようになった。 2.考古学・人類学・遺伝学その他の隣諸科学の発達とそれらとの協業の成果が起源論の研究に格段の発展をもたらした。その傾向は今後も一層顕著になると思われるが,この種の学際的総合的研究を推進するには,すぐれた研究プロデューサーとそれを支える大型の研究組織が必要である。 3.日本民族文化起源論の展開は,わが国では日本人のアイデンティティを問うという問題意識に支えられて展開してきたが,最近の国際化の進展などの状況のもとで,この種の問題意識とその理解を求める社会的要請は一層拡大してきている。それに応じることが学界としても必要である。 4.だが,現下の最大の問題は,組織の問題ではなく人の問題である。大林太良が指摘した如く「最近の若い世代の民族学者に日本民族文化形成論の研究が低調なこと」が今日の難問である。日本民族文化起源論を含め,歴史民族学的課題の克服に,日本の民族学界は,今後どのように対応するのだろうか。
久高, 將晃 Kudaka, Masaaki
ハーバーマスは、『コミュニケーション行為の理論』において、三つの妥当要求に三つの世界を対応させている。すなわち、真理性要求に対して客観的世界、正当性要求に対して社会的世界、誠実性要求に対して主観的世界を対応させている。これらの世界の中で、どの世界が実在しそして実在しないのか。これが本稿を導く問いである。三つの世界の中で主観的世界は実在論の問題とはならない。そこで、客観的世界に関わる真理の合意説と社会的世界に関わる討議倫理学について論じ、『真理と正当化』の諸論考を参照して、先の問いに答えることが本稿の目的である。
落合, 恵美子
昨年、「近代家族」に関する本が三冊、社会学者(山田昌弘氏、上野千鶴子氏及び落合)により出版されたのを受けて、本稿ではこれらの本、及び立命館大学と京都橘女子大学にて行われたシンポジウムによい近代家族論の現状をめぐって交わされた議論を振りかえる。今号の(1)では「近代家族」の定義論を扱い、次号に掲載予定の(2)では「日本の家は『近代家族』であった/ある」という仮説の当否を論じる。
賈, 玉龍
従来の人類学的中国研究では,「宗族(組織)」論と「関係(ネットワーク)」論が漢族社会論の 2 つのパラダイムとして注目されてきた。しかしこれらの研究は,儀礼的・非日常的な場面に注目するあまり,日常生活での人的集合を看過する傾向がある。そこで,本論文では個々人の村民の日常的な活動に注目し,隣人関係が生産と閑暇の場面でどのようにつながる/つながらないのかを明らかにした。具体的には,農繁期の作業現場と農閑期の「玩(wan)」(遊び)の場面をめぐる民族誌的資料を提示し,隣人間の日常的な「集まり」は不特定の相手との時間と空間の偶発的な重なりによって成立するものであることを明らかにした。そして現地語の「碰(peng)」(試しに当たる)がそのような「集まり」を生成する原理と見なせることを指摘し,この概念に着目することで新たな漢族社会論を発見できる可能性があると展望した。
糸数, 剛
文学読解観点論」とは筆者が構築した読解の理論で、文学読解の定義を「文学を対象として醸成される知的概念を言語化すること」とし、文学を対象として醸成された知的概念はすべて文学読解の材料とする。文学を対象として醸成された知的概念は、文学についての観点である。この観点をとらえ、とらえた観点を言語化することを文学読解の作業とする。ここで言語化する際の特徴として術語を用いることがこの論の独自性である。ここで用いる術語は、既存の術語も用いるが、ネーミングによって柔軟につくり出していくこともよしとする。このような文学読解に関する理論と方法を「文学読観点論」とよぶことにする。この活動で用いる術語を「読みの術語」とよぶ。「読みの術語」のうち、ネーミングによって新たにつくりだす術語のことを「ネーミング術語」とよぶ。
長田, 俊樹
筆者はこの『日本研究』に「ムンダ民族誌ノート」を連載しているが、今回は日本における稲作文化と畑作文化の区別について論じる。なぜなら、稲作文化論や畑作文化論のなかで、ムンダ人のケースが言及されることがあるからだ。 われわれの疑問点はふたつある。ひとつは共時的な問題で、もうひとつは通時的な問題である。さいしょの質問は、この稲作文化と畑作文化の区別は普遍的なものなのか。二番目の質問は、雑穀作焼き畑から稲作水田へという進化図式は例外なくおこるのか。このふたつである。いずれも、ムンダのケースなどでは否といわざるをえない。では、どのようにかんがえるべきか。 そのこたえとして、共時的にいえば、安室が提唱する理論をあげることができる。安室は日本民俗学を専門とするが、この理論は複合生業論とよばれている。複合生業論によれば、生業は単一ではなく、複合的であるとされる。つまり、稲作文化と畑作文化が対立するのではなく、相補的にある場合を想定する。この解釈はムンダ人のケースにもあてはまるのである。ただ、この理論は共時的な視点としては有効であるが、通時的な問題はこれから解決されなければならない。
吉田, 安規良 山口, 剛史 村田, 義幸 原田, 純治 橋本, 健夫 八田, 明夫 河原, 尚武 立石, 庸一 會澤, 卓司 Yoshida, Akira Yamaguchi, Takeshi Murata, Yoshiyuki Harada, Junji Hashimoto, Tateo Hatta, Akio Kawahara, Naotake Tateishi, Yoichi Aizawa Takuji
長崎大学教育学部で開講された「複式教育論」の講義に琉球大学教育学部の「複式学級授業論」担当者が出張し,沖縄県のへき地・複式教育を概説し,長崎県で実際に行われた複式学級での授業実践を追体験しながらその内容を分析するという2つの取り組みを行った。受講学生の講義内容に対する評価は有意に肯定的であった。とりわけ模擬授業分析については「もっと学びたい」という意見が多かった。
吉田, 安規良 山口, 剛史 村田, 義幸 原田, 純治 橋本, 健夫 八田, 明夫 河原, 尚武 立石, 庸一 會澤, 卓司 Yoshida, Akira Yamaguchi, Takeshi Murata, Yoshiyuki Harada, Junji Hashimoto, Tateo Hatta, Akio Kawahara, Naotake Tateishi, Yoichi Aizawa, Takuji
長崎大学教育学部で開講された「複式教育論」の講義に琉球大学教育学部の「複式学級授業論」担当者が出張し,沖縄県のへき地・複式教育を概説し,長崎県で実際に行われた複式学級での授業実践を追体験しながらその内容を分析するという2つの取り組みを行った。受講学生の講義内容に対する評価は有意に肯定的であった。とりわけ模擬授業分析については「もっと学びたい」という意見が多かった。
影山, 太郎 KAGEYAMA, Taro
基幹型共同研究「日本語レキシコンの文法的・意味的・形態的特性」における研究テーマの中から「事象叙述」と「属性叙述」の言語学的な区別に関する成果の一部を略述する。事象叙述とは,「いつどこで誰が何をした」のように時間の流れに沿って展開するデキゴト(動作,変化,状態など)を述べること,属性叙述とは「地球は丸い」のように主語あるいは主題となるモノの恒常的な特性を述べることである。従来は,両者の違いは単に意味解釈あるいは語用論の問題と見なされてきたのに対して,本稿では,属性叙述という意味の現象が実は,統語論・形態論という形の問題と深く関わる文法現象であることを様々な事例で実証的に示す。
阿部, 好臣 ABE, Yoshitomi
中世の堂上貴族の手になったと思しい『うたたねの草紙』、ではあったが、その地盤には多くの先行の作品が秘められていた。それの主題を拒否し無化することで、この作品がなったことを、主に論じた。そして、中世物語が何故、物語研究に重要であるかにも言及したが、この部分は心細い。また十分な注解を持つことの少ない中世物語の現状にてらし、基礎作業としての注解を添え、かつ、本文の検討も十分ではないと思われたので、校本をも作製し、付載した。注解の部分は、論と不可分の部分もあるので、併読いただきたい。
日野, 資成
動詞「出す」は「ある領域にあるものをその領域外へ移す動作」を表す。この動詞「出す」が複合動詞中に現れるとき、その意味・用法は、動詞「出す」に比べてどのように変化するのであろうか。 日野(二〇〇一)では、まず「動詞・形容詞問題語用例集」(西尾・宮島編、一九七一)より、複合動詞を作る生産性の高い順に動詞一九語を抜き出した。その中の一つである「出す」については全部で六二語の複合動詞が挙げられている。それらの複合動詞から、寺村(一九八四:一六七)の公式によって九語の複合動詞を抜き出し、その後項要素を補助動詞とした。補助動詞は、「外へ」の方向性のみを抽出するもの(「浮き出す」「思い出す」「突き出す」「飛び出す」「乗り出す」「噴き出す」「踏み出す」)と、意味が空間から時間に抽象化し「―し始める」の意味になるもの(「泣き出す」「降り出す」)に分類した。 今回は、補助動詞だけに限らず、すべての複合動詞を検討の対象とし、(1)複合動詞「―出す」を統語論的、意味論的に分類すること、(2)動詞「出す」と複合動詞中の補助動詞「―出す」との統語論的、意味論的関係を明らかにすることを主眼とする。 まず、『逆引き広辞苑』(一九九二)より、「―出す」を含む複合動詞を一二四語取り出した。それらを、「V1(連用形)て出す」と言えるかどうかという統語論的テストによって二つに分類した。つぎに、「V1て出す」と言える語については「目的語がV1の動作主の領域外から領域内へ移動するか」によって意味的にさらに下位分類し、「V1て出す」と言えない語については「V1出る」と言えるかどうかという統語論的テストによってさらに下位分類した。 動詞「出す」が補助動詞「―出す」になるとき、統語論的には他動詞が自動詞になると言える。「V1出す」が「V1出る」によって置き換えられる語があるからである。(「飛び出す」が「飛び出る」、「吹き出す」「吹き出る」など)。意味論的には、「V1出る」と言える語(「飛び出す」など)については、「出す」という動詞の持つ「外へ」の方向性が抽出され、「V1出る」と言えない語については、「出す」という動詞が持つ「突発性」が抽出されると同時に、空間的動作を表す動詞「出す」が「時間」に抽象化して、「―し始める」という「開始」のアスペクトを表したり(「泣き出す」「降り出す」など)、「―てしまう」という「完了」のアスペクトを表したりする(「生み出す」「作り出す」など)と考える。
保立, 道久
日本文化論を検討する場合には、神話研究の刷新が必要であろう。そう考えた場合、梅原猛が、論文「日本文化論への批判的考察」において鈴木大拙、和辻哲郎などの日本文化論者の仕事について厳しい批判を展開した上に立って、論文「神々の流竄」において神話研究に踏み入った軌跡はふり返るに値するものである。 本稿では、まず論文「神々の流竄」が奈良王朝の打ち出した神祇宗教は豪族の神々を威嚇し、追放する「ミソギとハライ」の神道であり、その中心はオオクニヌシ神話の作り直しであり、その背後には藤原不比等がいたと想定したことは、細部や論証の仕方は別として、その趣旨において重要であることを確認した。梅原が、この論文において8世紀の「神道」が前代のそれから大きな歴史的変化を遂げたことものであることを強調したことの意味は大きいと思う。それは論文「日本文化論への批判的考察」における、鈴木の日本文化論が「日本的なるもの」についての歴史的変化の具体的な分析に欠けた非論理的な話となっているという厳しい批判の延長にある。それはまた、鈴木は無前提に禅と真宗を日本仏教の中心に捉えているという、梅原の批判にも通ずるものである。 残念であったのは、このような梅原の主張が歴史学の分野における一級の仕事と共通する側面をもちながら必要な議論が行われなかったことであるが、しかし、その上で、本稿の後半において、私は梅原の仕事も、また歴史学の分野における石母田正などの仕事も、神祇や神道を頭から「固有信仰」として捉えるという論理の呪縛を共通にしていたのではないかと論じた。私見では、これは、結局、「神道」なるものと「道教」「老荘思想」の歴史的な関連を、古くは「神話」の理解の刷新、新しくはたとえば親鸞の思想への『老子』の影響如何などという通時的な見通しのなかで検討することの必要性を示していると思う。梅原の仕事が、今後、歴史学の側の広やかな内省と響きあうことを望んでいる。
桜井, 宏徳 SAKURAI, Hironori
大石千引『栄花物語考難註』は、安藤為章『栄花物語考』に逐条ごとに批判を加えつつ、千引自身の所説をも述べたものである。従来、『栄花物語考難註』は、『栄花物語考』の赤染衛門非作者説・全巻同一作者説を否定して、中世以来の赤染衛門作者説を再び肯定し、正編三十巻と続編十巻とは作者及び成立時期を異にしていることを説くなど、作者論・構成論において今日の通説の水準にほぼ達している点がもっぱら評価されてきた。しかし、千引の関心は、作者論・構成論よりもむしろ、物語とはいかなるものかを文章のありようを通じて考えることに向けられている。千引は、現存しないものの『栄花物語』の初の全注釈であったと目される『栄花物語抄』の著者でもあり、『栄花物語考難註』は千引の『栄花物語』観、ひいては歴史物語観・物語観を知る上でも貴重である。本稿は、現在知られる『栄花物語考難註』の唯一の伝本であるノートルダム清心女子大学附属図書館特殊文庫(黒川文庫)蔵本の翻刻に解題を付して紹介し、近世『栄花物語』研究史及び大石千引の研究に資せんとするものである。
堀地, 明 HORICHI, Akira
1801(嘉慶6)年6月、清朝の首都北京城とその周辺地域は連雨に見舞われ、北京城の西側を流れる永定河の堤防が決壊し、水害が発生した。水害から逃れようとして、多くの農民が北京城に向かい、城門周辺と城内の寺廟に避難した。清朝は1801年6月より1802年8月まで、被災民に食糧を無償で配給し、決壊した堤防の公共工事に被災民を雇用する等の水害対策を実行した。嘉慶帝は『欽定辛酉工賑紀事』の編纂を命じ、水害と救済・治水工事について記録を集大成させた。小稿では、最初に『欽定辛酉工賑紀事』の版本が4種類あることを明らかにする。『欽定辛酉工賑紀事』は、水害対策を指揮した嘉慶帝が水害と自らの政治的責任を論じた言説を収録している。嘉慶帝の言説は皇帝自身が水害と執政を論じた貴重なものであり、伝統中国の天譴論の実例である。小稿では、1801年の水害時における嘉慶帝の天譴と執政への言説を考察し、伝統中国における為政者の災害認識を考察する。
秋沢, 美枝子 山田, 奨治
オイゲン・ヘリゲルが戦時中に出版したもののうち、その存在がほとんど知られていない未翻訳エッセイを研究資料として訳出する。ヘリゲルのエッセイは、日本文化の伝統性、精神性、花見の美学、輪廻、天皇崇拝、犠牲死の賛美について論じたものである。その最大の特徴は、彼の信念であったはずの日本文化=禅仏教論には触れずに、そのかわりに国家神道を日本文化の精神的な支柱に位置づけた点にある。
片平, 幸
本稿では、欧米諸国における日本庭園像の形成を歴史的に捉える上で重要と思われる原田治郎(一八七八~一九六三)という人物を紹介する。一九二八(昭和三)年にイギリスで刊行された原田治郎のThe Gardens of Japan (Edited by Geoffrey Holme, The Studio Limited. )は、日本人による英語で著された日本庭園論としては最もはやい単行本として位置づけられる。一九三〇年代に入ると、原田以外の日本人による英語の日本庭園論の著作は増加するが、それらはいずれも日本国内での出版であった。そうした事情によって、原田の著作は日本人による文献としては突出した頻度でその後の英語圏の日本庭園論に参照されていく。 原田治郎のThe Gardens of Japanに着目する意義は二点に要約できる。まず一つめは、原田を介して、新しい解釈が英語圏へと広まったことがある。しかしそれは、原田がまったく独自の日本庭園論を展開したことを意味するのではない。むしろ原田の貢献とは、岡倉天心の芸術観や禅の思想などを日本庭園の理解に必要な背景として英文で紹介したことにある。原田はさらにそうした理解のあり方を視覚的に補完する画像資料を用いて、それまでにない日本庭園像を英語圏の読者たちへと伝えた媒介者としての役割を果たした。 こうした原田治郎の功績については、その後、欧米諸国と日本国内では対照的な評価をみせる。この評価の二分化が、原田に着目する意義の二点目である。一九三〇年以降、欧米人が著した日本庭園論に原田が頻繁に挙げられるのに対して、日本国内の庭園研究者たちは、その存在を認識しつつも、The Gardens of Japanの内容とその影響力について積極的に評価したり取り上げることはなかった。こうした事情には、原田の根ざした文脈と当時の日本庭園研究の文脈との距離が集約されているといえる。そこで、本稿では原田の庭園論の前史について概観し、原田のThe Gardens of Japanの内容、そしてその後反応について紹介したい。
服部, 伊久男 Hattori, Ikuo
古代荘園図と総称される史料群の一例である「額田寺伽藍並条里図」の分析を通じて,8世紀後半の額田寺の構造と寺辺の景観を明らかにすると同時に,寺院景観論の深化を図ることを目的とする。官寺や国分寺については多くの先行研究があるが,史料の少ない氏寺などの私寺の構造と景観については,古代寺院の大部分を占めるものの十分な研究がなされてこなかった。氏寺の寺院景観の一端を明らかにし,多様な寺院研究の方法を提起するために額田寺図を検討する。近年の古代荘園図研究の動向を受けて,考古学的に検討する場合の分析視角を提示し,寺院空間論などの領域論的,空間論的視点を軸として,寺院組織や寺院経済をめぐる文献史学上の論点を援用しつつ,額田寺の構造と景観に言及する。額田寺伽藍並条里図は多様な情報を有する史料体であり,寺領図という性格に拘泥せず様々な課題設定が可能である。本稿では,社会経済史的視点を援用し,本図を一枚の経済地図として読むことも試みる。額田寺をめぐる寺院景観の中では,とりわけ,院地,寺領,墓(古墳),条里をめぐる諸問題について検討する。さらに,近年の考古学的成果を受けて,古代寺院の周辺で検出されている掘立柱建物群について,畿内外の諸例(池田寺遺跡,海会寺遺跡,市道遺跡など)を中心に検討を行う。小規模な氏寺をめぐる景観をこれほどまでに豊富に描き出している史料はなく,その分析結果が今後の古代寺院研究に与える影響は大きい。考古学的に検討するには方法論的にも,また,現地の調査の進捗状況からも限られたものとなるが,考古資料の解釈や理解に演繹的に活用するべきである。とりわけ,これまであまり重要視されてこなかった院地の分析に有効に作用することが確認された。また,近年の末端官衙論とも関係することが明らかとなった。今後,寺領をめぐる課題についても考古学から取り組む必要も強調したい。
糸数, 剛
小説読解指導において主題主義ではなく,言葉の力をつけるための指導法として,筆者は「小説読解観点論」(中学生向けには「読みの要素」)による手法を推し進めてきた。「小説読解観点論」とは,それぞれの小説の本質に迫るために多様な観点(既存の観点も用いるが,既存の観点にふさわしいのがなければ創造的に観点を開発していく)の中からふさわしい観点によって説明し,その観点を術語のレベルまで抽象化する(その際,既存の術語も用いるが,ふさわしいものがない場合は新たにネーミングをしていく)ことを通して読解を定着させていく手法である。
淺尾, 仁彦
本研究では,形態素解析辞書『UniDic』への語構成情報の付与について紹介する。語構成情報とは,例えば名詞「招き猫」は,動詞「招く」と名詞「猫」の複合語であるといった情報を指す。日本語について語構成の情報が付与された公開データベースは,複合動詞など特定のカテゴリに限定されたものを別とすれば,管見のかぎり存在しない。このデータベースでは,『UniDic』に対して語構成情報をできるだけ網羅的に付与し,品詞・語種・アクセントなど『UniDic』に元々含まれている情報と組み合わせることにより,「名詞+動詞の複合名詞」,「アクセントが無核の動詞の名詞化で,アクセントが有核のもの」といった複雑な条件での検索を行うことができ,語彙論・音韻論・形態論などの多様な分野で言語資源として活用可能である。合わせて,開発中の検索インタフェースの紹介を行う。
青木, 博史 AOKI, Hirofumi
文法史研究は,体系(文法)と部分(語彙),歴史的変化と通時的変遷など,その概念と用語にも注意を払いながら進められてきた。近年における文法化研究の隆盛を受け,矮小化させることなく発展的に進めていかなければならない。このとき,文法論は,位相論・文体論,さらには方言研究とも連携しながら,複線的・重層的な"ストーリー"としての文法史を描くことを心がけなければならない。
嘉数, 朝子 Kakazu, Tomoko
本研究は、児童の道徳判断について次の2つの仮説を検討することを目的とした。\n1)動機論的判断は、年齢のみだけでなく、知能水準によっても規定される。\n2)道徳的成熟度の規定因としての知能変数の関与度は発達段階によって異なる。\n上記の検討を行なうために、道徳判断において結果論的判断から動機論的判断への移行期と考えられる7、8歳を中心に、小学1年生、3年生、5年生を被験者とした。\n道徳判断テストとして、Gutkin(1972)の例話型6対と略画を提示し、その反応から道徳的成熟度を査定した。知能段階は、田研式小学校低学年用田中B式知能検査第1形式(C1)と、新制田中B式知能検査第1形式(B1)を用い、IQ70~9、IQ95~105、IQ110以上の3段階に分類した。結果は、以下の通りであった。\n1)第1の仮説は支持され、動機論的判断は年齢の上昇だけでなく、知能水準の上昇によって増加することが明らかになった。\n2)第2の仮説は全面的には支持されなかったが、高学年になるにつれて知能水準の道徳的成熟度に及ぼす影響度は小さくなる傾向が示唆された。
関沢, まゆみ Sekizawa, Mayumi
本稿は,近年の戦後民俗学の認識論批判を受けて,柳田國男が構想していた民俗学の基本であっ た民俗の変遷論への再注目から,柳田の提唱した比較研究法の活用の実践例を提出するものであ る。第一に,戦後の民俗学が民俗の変遷論を無視した点で柳田が構想した民俗学とは別の硬直化し たものとなったという岩本通弥の指摘の要点を再確認するとともに,第二に,岩本と福田アジオと の論争点の一つでもあった両墓制の分布をめぐる問題を明確化した。第三に,岩本が柳田の民俗の 変遷論への論及にとどまり,肝心の比較研究法の実践例を示すまでには至っていなかったのに対し て,本稿ではその柳田の比較研究法の実践例を,盆行事を例として具体的に提示し柳田の視点と方 法の有効性について論じた。その要点は以下のとおりである。(1)日本列島の広がりの上からみる と,先祖・新仏・餓鬼仏の三種類の霊魂の性格とそれらをまつる場所とを屋内外に明確に区別して まつるタイプ(第3 類型)が列島中央部の近畿地方に顕著にみられる,それらを区別しないで屋外 の棚などでまつるタイプ(第2 類型)が中国,四国,それに東海,関東などの中間地帯に多い,また, 区別せずにしかも墓地に行ってそこに棚を設けたり飲食するなどして死者や先祖の霊魂との交流を 行なうことを特徴とするタイプ(第1 類型)が東北,九州などの外縁部にみられる,という傾向性 を指摘できる。(2)第1 類型の習俗は,現代の民俗の分布の上からも古代の文献記録の情報からも, 古代の8 世紀から9 世紀の日本では各地に広くみられたことが推定できる。(3)第3 類型の習俗は, その後の京都を中心とする摂関貴族の觸穢思想の影響など霊魂観念の変遷と展開の結果生まれてき た新たな習俗と考えられる。(4)第3 類型と第2 類型の分布上の事実から,第3 類型の習俗に先行 して生じていたのが第2 類型の習俗であったと推定できる。(5)このように民俗情報を歴史情報と して読み解くための方法論の研磨によって,文献だけでは明らかにできない微細な生活文化の立体 的な変遷史を明らかにしていける可能性がある。
辻本, 裕成 TSUJIMOTO, Hiroshige
『とはずがたり』の従来の主題論は、余りに近代的すぎる視点から行われてきたのではないかという疑問がある。小稿では、なるべく『石清水物語』をはじめとする同時代の例によりながら、『とはずがたり』の主題を検証し直したい。有明の月が柏木と重ねて造形されている宗教的な意味・有明の月の妄執と重ね合わせて描かれる二条の妄執の実態・その如き妄執から二条を救う八幡大菩薩の加護の論理、などを論ずる。
與那原, 建 Yonahara, Tatsuru
企業の競争優位の持続可能性についての捉え方は2つある。ひとつは、企業組織には慣性があるため、大きな環境変化には対応できず、そうした変化にうまく適応できたところに取って代わられてしまうという見方に立つ。もうひとつの立場では、環境変化の中でも新たな組織能力を創出する能力(ダイナミック能力)を備えておれば、企業は競争優位を持続させることができるととらえ、そのような能力こそが企業の持続的競争優位の源泉になるとみなしている。後者は「ダイナミック能力論」とよばれる分析視角であるが、それは新たに「両利き」というコンセプトを導入することで、競争優位の持続可能性の議論を進化させている。そうした観点で企業の持続的競争優位を論じている代表的研究者にオライリー&タッシュマンがいる。本稿では、かれらのダイナミック能力論と両利きの実現可能性についての諸命題を検討していくが、こうした議論は企業の持続的競争優位の源泉の解明を進めていく上で有望な方向のひとつと考えられる。
長沢, 利明 Nagawawa, Toshiaki
共同研究の課題にもとづき,いわゆる霊肉二元論の再検討のための基礎的な作業として,その周辺問題をさまざまに考察した。二元論の一方を構成するところの肉体存在のあり方を,葬送習俗との関わりの中からとらえ直してみると,いろいろな課題が浮かびあがってくる。たとえば,従来いわれてきた遺体の不浄性ということは,沖縄地方の実態を見るかぎり,あまりあてはまらず,死者の遺体はもっと生者に身近な存在であったと思われる。また,沖縄地方の葬送儀礼には死霊への顕著な怖れの要素が見られるが,それは死穢の忌避という感情の生じる以前の原型的なものだと思われる。葬地の聖地への転化は,かつての本土でも広く見られたことであったろう。農地に遺体を埋葬する習俗も各地に見られ,部分的・限定的なものとはいえ,カンニバリズムの事例すら一部で見られたことを考えれば,日本人の肉体観は決して単純なものではなかったことがわかる。特殊葬法としての鍋かぶり葬の存在は,生者がいかに死者の肉体を死霊から守って保護しようとしてきたかを示しており,それは死者の封じ込めのための葬法ではなかった。さらに肉体は分割されることもありうる存在で,髪・爪・胞衣・臍の緒などの処理方法の中から,きわめて多様な習俗の実態を知ることができる。このように見てくると,従来の二元論の立場をもってしては,あまりうまく説明できないことも多く,肉体とはもっと複雑な存在で,硬直した機械論ではとらえることができない。私たちは二元論のその基本的な枠組みは承認しつつも,もっとそれを柔軟にとらえていく必要があることであろう。
朝日, 祥之 ASAHI, Yoshiyuki
本稿では,独創・発展型共同研究プロジェクト「接触方言学による『言語変容類型論』の構築」で企画・実施された調査研究の成果を紹介した。最初に,研究目的と実施された調査の設計を述べた。その後,研究期間中に実施された様々な調査のうち,北海道札幌市と釧路市で実施された実時間調査と愛知県岡崎市で実施された敬語と敬語意識調査で取り扱われた「道教え」場面調査の調査結果,ならびに国内4地点における空間参照枠に関する調査結果を取り上げた。また「言語変容類型論」構築の試案を提示し,その提示の方法,試案の有用性,反省点,今後の当該分野に関する展望を行った。
竹村, 民郎
近代日本の国家形成および経済構造の問題を考えようとするものにとって、日清戦争を契機とする海洋帝国構想の解明がいかに重要であるかは言うまでもないだろう。十九世紀中葉における環太平洋経済圏においては、アメリカ、イギリス、ロシア、ドイツ、日本等が同地域の覇権をめぐって、それぞれ帝国間の争いを展開していた。確かに日清戦争の勝利は日本帝国の環太平洋経済圏における地位と役割を増大させた。そしてこのことは本論文で触れようとする海洋帝国構想の多様な展開を飛躍的におし進めていった。一八九五年に創刊された日本の代表的総合雑誌『太陽』に現れた海洋国家論、南進論、植民論、そして経済改革と結びついた貿易立国論等を分析するならば、海洋帝国に関する多様な構想がそのまま日本帝国の環太平洋経済圏における政治、経済、軍事戦略の方向の決定に連なるという重大な事実が浮かび上がってくるのである。 従来の通説は日本と朝鮮半島および中国に対する関係を基本とみて、こうした諸問題にあまり注意を払ってこなかった。しかし再びくり返すと、近代日本の重大な転換期であった日清戦争後における帝国形成および経済構造の十分な解明は、環太平洋経済圏に対する日本帝国のレスポンスを十分に考慮することなしには発展しないのである。
寺村, 裕史
本論文では,人文社会科学の研究で重視される文化資源(資料)情報というものを,方法論や技術論の視座から整理し,実例をふまえつつ検討する。特に,考古学や文化財科学分野における文化資源に焦点を当て,それらの分野で情報がどのように扱われているかを概観し,考古資料情報の多様なデジタル化手法について整理する。 文化資源としての文化財・文化遺産は,人類の様々な文化的活動による有形・無形の痕跡と捉えることができる。しかし,現状では,そこから取得したデータの共有化の問題や,それらを用いた領域横断的な研究の難しさが存在する。そのため,文化財の情報化の方法論や,デジタル化の意義を再検討する必要があると考える。そこで特に,資料の3 次元モデル化に焦点を当て,デジタルによるモデル化の有効性や課題を検討しながら,その応用事例を通じて文化資源情報の活用方法を考察する。
井上, 優 生越, 直樹 INOUE, Masaru OGOSHI, Naoki
本稿では,日本語と朝鮮語の過去形「-タ」「-ess-」に見られるある種の用法のずれが「どの段階で当該の状況を発話時以前(過去)の状況として扱えるか」という語用論的な制約の違いに由来することを論ずる。具体的には次の二つのことを示す。1)日本語では,発話時において直接知覚されている状況が知覚された(あるいは開始された)瞬間だけをきりはなして独立の過去の状況として扱うことができる。2)朝鮮語では,当該の状況が直接知覚されている間は過去の状況として扱うことはできず,日本語のような「状況の最初の瞬間のきりはなし」はできない。
一ノ瀬, 俊也 Ichinose, Toshiya
本稿では、日露戦後の民間において活発化した軍事救護―国家主体論、兵役税導入論の論理、意図の検証を行う。あえてそのような作業を試みるのは、そこに徴兵制とは国家救護という手段によって不断に「補完」し維持していくべきもの、という認識の枠組みを読みとることができるからである。この点は、当該期の民間に存在した徴兵観の諸相を解明していくうえで、きわめて興味深い問題であるように思われる。当該期の民間における軍事救護拡充論、兵役税導入論の多くは、独自の国防観を有する非現役軍人によって提起された。それらはいずれも廃兵遺族、現役兵士家族の困窮に対する単純な同情論ではなく、彼らに対する経済的待遇の悪さが兵士の「士気」すなわち国防に対する意欲の低下を引き起こしており、しかもそれは日露戦中のような地域・民間団体の救護では解決困難(=「世人の同情」の低下)とする認識に基づいていた。軍事救護の拡充を法案化した武藤山治(鐘紡重役)にしても、その主張の要点は、廃兵遺族、そして戦時の応召兵家族にのしかかる重い経済的負担が、それを見た現在の兵士、そして将来兵士となる者の「士気」を削ぎかねない、という点にあった。「資本家階級」としてのアイデンティティを持っていた武藤は、徴兵制軍隊の動揺を、自らの経済的活動の基盤に関わる問題として意識した。そこで彼は、具体的な統計も掲げつつ、その解決を繰り返し政治の場で主張した。武藤と同時に兵役税法案を議会提出した衆院議員矢島八郎についてみても、彼らの運動はもともとは現役兵家族、そして廃兵遺族の悲惨な生活に対する同情に起因していた。しかし実際の議会の場でそれは、陸軍向けの正当化策的な面もあったかもしれないにせよ、武藤と同様に現在の兵士、そして将来兵士となるであろう者の「士気」に悪影響を与えるものとして問題化されていたのである。
髙橋, 圭子 東泉, 裕子
現代日本語における「ゼヒ」の用例の多くは副詞用法であるが、「ゼヒ」単独で1つの発話単位を構成する用法もある。本研究ではこのような用法を「ゼヒ」の単独用法と呼び、「日本語日常会話コーパス(CEJC)」における用例を中心に、「ゼヒ」の単独用法の談話的・語用論的機能を観察した。そして、(i)「ゼヒ」の単独用法は、相手の発話に対する応答/反応として、同意・共感・賛同を示し、相手の提案した行為を促し勧める機能を果たしているものが多いこと、(ii) 話題の転換という談話標識(discourse marker)としての機能や、配慮を示す語用論的標識(pragmatic marker)としての機能を果たすこともあることを指摘する。
小木曽, 智信 尹, 熙洙 王, 竣磊 岡田, 純子
本データは、2021年10月時点の「関西弁コーパス」をもとに、UniDic短単位の形態論情報を付与して整備したものです。
江戸, 英雄 EDO, Hideo
細井貞雄の『うつほ物語玉琴』の「総論」を読み、『うつほ物語』論の始発点としての彼の位置を再考する。また、師、本居宣長の『源氏物語玉の小櫛』から受けた影響と方法的な進展を明らかにし、曲亭馬琴の小説批評との比較も行い、『玉琴』の限界と到達点を確かめた。
中嶋, 英介 島田, 雄一郎 NAKAJIMA, Eisuke|SHIMADA Yūichirō
本稿は国文学研究資料館特別コレクション山鹿文庫蔵『武教本論鵜飼註 上中』を翻刻し、解題を附したものである。『武教本論』の原著者山鹿素行は、数々の兵学書を著した思想家として知られるが、素行以降の資料については弟子が編纂した『武教小学』の注釈書紹介にとどまり、山鹿流兵学が後世の大名にも評価された背景を知るには至らない。『武教本論』は、内容の簡略さ故か素行の著書の中ではさして知られていないが、晩年の素行が弟子との兵学談義に『武教本論』を用いた記録が残されるだけでなく、『武教本論』が『武教要録』の巻末に組み込まれた点からみても、決して看過できるものではない。また、本資料には素行の思想が兵学とともに、日用道徳を重視した「素行学」も継承されていた事実をうかがい知ることができる。兵法論に終始せず、文武兼備の「武教」を説いた『武教本論』がいかに解釈されたのか、『武教本論鵜飼註上中』の翻刻は『武教本論』自体の見直しのみならず、素行が生涯唱え続けた「武教」の展開を検討する契機ともなるだろう。
江戸, 英雄 EDO, Hideo
表題の「嵯峨院の六十の賀」ほか、うつほ物語とその年立を考えるうえで重要な事柄を論じ、物語の方法の一端も明らかにしてみた。
下郡, 剛
院=上皇・法王の意志を奉者一名が奉って作成される院宣について、古文書学は、現存文書を元に様式論を生み出し、院宣は院司が院の意向を奉じて発給する文書とされてきた。しかし、日記の中には、意志伝達が果たされた時点で、文書としての機能を喪失してしまう、一回性の高い連絡に使用された文書が多く記載されている。それでは、現存文書に基づき成立した院宣様式論は、本共同研究の対象たる日記からとらえなおすと、いかなる姿を見いだせるのか、を本稿で検討した。 院と貴族の連絡は、基本的には案件の担当者が貴族の邸宅を訪れてなされるべきものである。しかしながら、日々発生する多種多様な案件の連絡全てを口頭のみで果たすことは不可能であり、担当者が必要に応じて、書面にて伝達する場合もまた普通に存在する。そのような場合、多くは「担当者の書状」と日記に記されるものの、全文が日記に転記されている事例から、古文書学の様式論に基づき分類すれば、院宣となることをまず指摘した。 院宣を奉じる者が院司に限定されなければならなくなると、院司を兼任しない担当者は、院の仰せを書状にして伝達できなくなり、院による国政運営は事実上不可能となる。そこで次に、日記には「担当者の書状」と記されていても、古文書学様式論上の院宣になる文書をも加え、院宣の奉者を再検討し、その中には、院司ではありえない出家者が奉じた院宣も存在することを指摘した。 天皇経験者たる院は主君であり、主君の意を受けて臣かが書札用文書を書することに何の問題もない。院の仰せをうけて、院宣を発給する人物は院司と限定することはできず、誰であっても問題なかったと論じた。
道田, 泰司 Michita, Yasushi
批判的思考を行うためには,「共感」や「相手の尊重」のような,soft heartが必要になることが論じられた。それは第一に,批判を行う前提として「理解」が重要だからであり,相手のことをきちんと理解するためには「好意の原則」に支えられた共感的理解が必要だからである。このことは,-聴して容易に意味が取れると思われる場合でも,論理主義的な批判的思考を想定している場合でも同じである。共感的理解には,自分の理解の前提や枠組みをこそ批判的に検討する必要がある。そのことが,臨床心理学における共感のとらえられ方を元に考察された。また,批判を行うためには理解の足場が必要であること,それを自分と相手に繰り返し行うことによって理解が深まっていくことが論じられた。最後に,このような「批判」を伴うコミュニケーションにおいては,「相手の尊重」というもう1つのsoft heartも重要であることが,アサーティプネスの概念を引用しながら論じられた。
日比野, 愛子
本稿では,労働生産の文脈で手作業と機械がどのような関係性を取り持つのかを技術論・組織論の観点から明らかにすることを目的とする。技術史家の中岡哲郎の理論的枠組みに沿うならば,手作業と機械の関係性のあり方は,工場が一つの組織として成り立つ過程の中で定まっていく。日本の青森県に立地する食品加工工場と機械加工工場でのフィールド調査をもとに,機械化が進む際の手作業と機械の新たな役割,ならびに分業を検討した。そこでは,“手作業の復権” とも呼べるような手作業の役割の強化が見出される一方,機械にシンボルとしての役割が付されていた。加えて,工程を制御するための知的熟練にも限界があることを事例の中から提起した。こうした手作業と機械の関係性は,生産の流動化と高付加価値化といった外部環境に対応する過程の中で形成されてきたと考えられる。総合考察では,以上の身体-機械関係性の議論が現代の自動化問題に対して持つ含意について論じた。
高橋, 圭子 東泉, 裕子
現代語の「もちろん」は「論ずる(こと)勿(なか)れ」という禁止表現から発生したと説明されることがある。近代以前のデータベースを検索すると、古代の六国史に代表される漢文体の文献では、「勿論」の用例は「論ずる(こと)勿れ/勿(な)し」という意味であり、否定辞「勿」と動詞「論」から構成される句であった。現代語とほぼ同様の意味の「勿論」の語の用例は、中世の古記録や『愚管抄』『沙石集』など和漢混交文体による仏教関連の文献から見られるようになる。用法は文末における名詞述語が主であった。近世には、ジャンルも文体も多様な文献に用いられ、文中や文頭における副詞用法や応答詞的用法も出現する。古代の禁止表現と中世以降の「勿論」の関連は不明だが、日本語のみならず中国語・韓国語においても漢字語「勿論」の研究が進められ、さまざまな知見が見出されている。通言語的な議論の深化が期待される。
向井, 洋子 Mukai, Yoko
冷戦期を通して、占領期沖縄の琉米関係は、主として支配―被支配の関係で論じられてきた。しかし、沖縄のカトリック教会はアメリカ人神父が政治的独立性を堅持し、沖縄戦で荒廃した地でカトリックの布教と社会福祉事業を行ってきた。本稿は、ここでアメリカ人神父が構築した慈善レベルの琉米関係の形成過程を歴史的にたどり、占領期沖縄に支配―被支配の関係ではない、「トモダチ」としての琉米関係が存在したことを明らかにする。そのうえで、沖縄におけるアメリカ観の多様性の必要性を論じていく。
大滝, 靖司 OTAKI, Yasushi
本研究では,子音の長さが音韻論的に区別される6つの言語(日本語・イタリア語北米変種・フィンランド語・ハンガリー語・アラビア語エジプト方言・タイ語)における英語からの借用語を収集してデータベースを作成・分析し,各言語における借用語の重子音化パタンを明らかにする。その結果から,語末子音の重子音化は,原語の語末子音を借用語で音節末子音として保持するための現象であり,語中子音の重子音化は原語の重子音つづり字の影響による現象であることを指摘し,純粋に音韻論的な現象は語末子音の重子音化のみであることを主張する。
早川, 聞多
本研究ノートは多種多様な画風や流派を生み出した江戸時代の絵画世界を、統一的に考察するための覚書である。 はじめに江戸時代の絵画世界が単に多様なだけでなく、錯綜して見える原因を指摘する。すなはち、従来の流派の呼称における観点の相違、諸流派の時間的・空間的並存性、享受者における好みの多様性、画家における画風の多様性の四点である。 次に江戸絵画の多様性とその錯綜した展開を統一的に捉へるためのタイプ論を提示する。そのタイプ論は、従来の江戸絵画史における流派分類から離れ、絵画に対する人間の興味の持ち方の「心理傾向」に基づいてゐる。すなはち、「遵法」「即興」「現実」「虚構」の四つのタイプを想定し、次に各タイプのうちに「一般化タイプ」と「特殊化タイプ」を想定する。
影山, 太郎 KAGEYAMA, Taro
日本語の語形成の中でも言語類型論の観点から注目される2種類の複合動詞-名詞+動詞型と動詞+動詞型-の性質を述べた。名詞+動詞型の複合動詞については,時制付きの定形文では生産性が低いが,動詞が時制のない非定形になると生産性が増すことを指摘した。これは,複統合型言語の名詞抱合には見られない制約である。他方,動詞+動詞型複合動詞の特異性は,前項動詞が後項動詞を意味的に修飾する「主題関係複合動詞」ではなく,前項動詞が複合動詞全体の項関係を支配し,後項動詞は前項動詞が表す事象に対して何らかの語彙的アスペクトの意味を添加するという特殊なタイプの「アスペクト複合動詞」に求められることを様々な考察から論じた。
與那原, 建 Yonahara, Tatsuru
本稿では、ダイナミック能力によって破壊的イノベーションを実現するための打ち手に関する2つの対立する見解についての比較を試みている。具体的には、クリステンセンの隔離論の主張をレビューしてその問題点を抽出したうえで、これとは逆に、知の活用と探索の両立は既存組織の中でも可能だと捉えるオライリーやタッシュマンたちの両利きのマネジメントの有効性について確認していく。すなわち、組織内部における分化と統合をともに重視する両利きのマネジメントを実践することができれば、隔離論の問題点をカバーして、ダイナミック能力により破壊的イノベーションを実現すると同時に、持続的イノベーションも可能になると考えられる。
清松, 大
高山樗牛の唱えた「美的生活論」は、登張竹風による解説を一つの契機として、その「本能主義」的側面がニーチェの個人主義思想と強固に結びつきながら理解された。樗牛の美的生活論は文壇内外で多くの批判や論争を呼ぶとともに、同時代の文学空間を熱狂的なニーチェ論議へと駆り立てていった。 なかでも、坪内逍遙が「馬骨人言」において創出した「滑稽」な戯画的ニーチェ像は、『中央公論』や『新声』、『文庫』、『饒舌』といった、文学志向の青年たちを主たる読者層としていた雑誌において、その姿形を変えながら増殖していくことになる。そこでは、美的生活論の思想や樗牛という存在自体が「滑稽」化され、時には「滑稽」的なニーチェ像をつくりだした張本人たる逍遙をも組み込みながら、ニーチェ思想や美的生活論をめぐる論争そのものが戯画化された。 こうした現象は、「文閥打破」を掲げて既成文壇の批判者を自任し樗牛とも敵対関係にあった青年雑誌の特質を反映したものとみなすことができる。そして、中央文壇や論壇への対抗意識を燃やす青年たちの武器として選び取られた「滑稽」や「諷刺」への問いと実践は、美的生活論争以前にほかならぬ樗牛・逍遙によってたたかわされていた「滑稽文学(の不在)」をめぐる論争以降の文学空間に伏在していた要求であった。「馬骨人言」以後の「滑稽」的なニーチェ像の再生産や美的生活論の戯画化は、そうした時代の要求が表出したものとしても意味づけられる。 従来、高山樗牛という存在は明治期の青年層から敬慕された対象として語られることが多かったが、本稿では、中央文壇に対する明確な敵対意識を有していた青年雑誌と樗牛との間に緊張関係を見出し、「青年」と樗牛との関係性をとらえ直す契機を提示する。また同時に、明治期の文学空間において「滑稽」や「諷刺」といった問題がどのような意義を有していたかを問い直す視座を開こうとするものである。
市川, 秀之 Ichikawa, Hideyuki
肥後和男は『近江に於ける宮座の研究』『宮座の研究』の二書において宮座研究の基礎を築いた人物として知られる。同時に水戸学や古代史・古代神話などの研究者でもあり、肥後の宮座論はその研究全体のなかで位置づける必要があるが、これまでそのような視点から肥後の宮座論を評価した研究はない。肥後が宮座論を開始したのは、宮座の儀礼のなかに古代神話に通じるものを感じたからであり、昭和一〇年前後に大規模な宮座研究を開始したのちも肥後のそのような関心は衰えることはなかった。肥後の宮座に対する定義は数年におよぶ調査のなかで揺れ動いていく。調査には学生を動員したため彼らに宮座とはなにかを理解させる必要があったし、また被調査者である神官や地方役人にとっても宮座はいまだ未知の言葉であったため、その明確化が求められたのである。肥後の宮座論の最大の特徴は、村落のすべての家が加入するいわゆる村座を宮座の範疇に含めたことにあるが、この点が宮座の概念をあいまいにする一方で、いわば宮座イコールムラ、あるいは宮座はムラを象徴する存在とされるなど、後の研究にも大きな影響を与えてきた。現在の宮座研究もなおその桎梏から逃れているとは言い難い。肥後が宮座研究に熱中した昭和一〇年前後は、彼が幼少期から親しんできた水戸学に由来する祭政一致がその時代を主導する政治的イデオロギーとしてもてはやされており、神話研究において官憲の圧力を受けていた肥後の宮座論もやはりその制約のなかにあった。すなわち祭政一致の国家を下支える存在としての村落の組織としての宮座は、全戸参加すべきものであり、それゆえ村座は宮座の範疇に含まれなければならなかったのである。肥後の宮座研究は昭和一〇年代という時代のなかで生産されたものであり、時代の制約を受けたものとして読まれなければならない。宮座の定義についてもそのような視点で再検討が是非必要であろう。
岩城, 卓二 Iwaki, Takuji
近年、筆者は近世農民支配は武士、農民、「御用」請負人の三者によって成り立っていたという立場から、請負人を必要とする近世国家と社会の性格について論じてきたが、いまだ課題は山積している。そこで本稿では請負人の経営実態と請負人の位置付けをめぐる武士、農民、請負人三者の関係を明らかにすることによって、請負人の具体像を豊かにすることを目指した。検討の素材にしたのは幕領石見国大森代官所で活躍した郷宿である。第一章では代官所中間支配機構に介在した郡中惣代、惣代庄屋の役割を概観し、第二章では幕領支配に「御用」の請負人が登場する時期と請負人の役割を整理したが、本稿の検討の中心は続く第三章以下である。請負人の研究は史料的制約のため機能論が中心であり、その家業の内容についてはほとんど論じられていない。第三章ではその研究上の課題に取り組むため、郷宿の収入の内訳と利用状況を検討し、その収入が賄い代、利銀、人足賃によって成り立っていたこと、私的な「御用」の利用が多かったことを明らかにした。この検討をふまえ、請負人が宿である必要があったこと、請負人が私的な利害関係に左右されやすかったことなどを論じた。第四章では、請負人は「御用」に関わる下級官更と考える武士、請負人は雇用人であるという農民、意識的には下級官吏=治者と自己認識しながら、実際の行動は農民の雇用人として振る舞わざるをえない郷宿、それぞれの立場を明らかにした。そして武士と農民の立場の違いは「御用」自体の認識の違いであり、その志向する国家や公共性は異なることを論じた。おわりにでは、近世社会における公職の担い手に対する認識、「御用」請負人の登場によって成立していった地域社会や公共性が、明治国家の地方自治制改革の課題と密接に関わっているのではないかという展望を示した。
並木, 誠士 Namiki, Seiji
本稿の目的は,まず,「食」の多様な在り方がわが国の絵画,特に絵巻物の中でいかに描かれてきたのかを概観することである。そして,食風俗の絵画化の歴史の中で,室町時代の前半の《慕帰絵詞》と後半の《酒飯論絵巻》とを二つの転換点にある作品として位置付けることが本稿の第二の目的である。絵巻物においては,詞書に直接記されていないものの,主題・ストーリーを肉付け,また,画面を豊かに膨らませていくものとして食風俗の描写が多く取り入れられている。このように点景が多様になる傾向は,十三世紀末の《一遍聖絵》あたりから見られ,十四世紀になると《春日権現霊験記》《慕帰絵詞》などをはじめとして多くの作例に見られる。このような「絵巻物の饒舌化」ともいえる大きな流れの中で,特に食風俗に関して大きな転換点となる作品が《慕帰絵詞》であり,《酒飯論絵巻》である。《慕帰絵詞》における食風俗表現の大きな特徴のひとつは,食事の情景とその舞台裏にあたる厨房の情景を均等な眼で扱っている点であり,それをさらに徹底させて画家と同時代の食風俗を積極的に絵画化した作品が《酒飯論絵巻》である。そして,《酒飯論絵巻》の風俗表現の特色であった当世風俗の積極的描出と物事の表と裏とへ均等に向ける眼差しは,室町時代後期から桃山時代にかけての風俗画全盛の傾向に大きく拍車をかけることとなった。つまり,食風俗描写の流れにおいて,先行作品からの飛躍という点で《慕帰絵詞》を第一の転換点とし,それをさらに徹底させて後続作品へ大きな影響を与えたという点で《酒飯論絵巻》を第二の転換点とすることができるのである。そして,このような近世の風俗画の先駆をなす点景風俗の充実が,食風俗の描写を契機としていたという点に,「食」が人間の生活にとって欠くことのできない営みであり,関心の対象であったことが伺えるのである。
小関, 素明 Ozeki, Motoaki
本稿は日本政党政治史の特質を理論的に再構成するための序論的作業である。今日,日本政党政治史研究においては「地方利益論」とでもいうべき見解が通説をなしている。だがこの「地方利益論」は,究極的に「政党政治」のメリットを権力の均衡の維持という機能に一面化してしまいがちなきらいがある。本稿では,この陥穽を突破しトータルな「政党政治」史論を構築するためには,「政党政治」に対する最大の要請根拠を地方利益要求の導入と行政の統合という2点の権力調停機能に見出すだけにとどまらず,そうした権力の発動目標に着目するという政策論的観点を導入することが不可欠であるとの立場に立ち,その視角から「政党政治」に対する権力論的要請をその手段性において相対化していくことの必要性を提唱した。第1章ではこの問題意識から原内閣期~田中内閣期の政友会の政策転換を分析した。第2章では,政策目標の達成とそのために必要な権力編成の手段との間に生ずる矛盾への対応にいかに政党が苦慮し,またその矛盾が「政党政治」の崩壊をもたらす圧力にどのようにリンクするのかという点を,田中内閣期の地方分権構想,浜口内閣期の選挙制度革正構想に着目することによって分析し,地方利益要求が「政党政治」の存在に必ずしも肯定的に作用するものではないという見通しを提起した。そして最後に,そうした「政党政治」革正構想が失敗し,「政党政治」が崩壊して以後近衛新体制に至るまでの論理的見通しを提示した。
道田, 泰司 Michita, Yasushi
本研究では、今日の大学教育に必要とされている「思考力」の育成に、大学経験がどのように貢献しているかについて、米国における批判的思考研究を概観し、これまで明らかになっていることを整理し、今後の研究を展望することを目的とした。これまでの研究から、以下のことが明らかになっている。少なくとも1年以上の大学経験によって学生の批判的思考が向上していること。それは単なる成熟や年齢のせいではないこと。4年生の批判的思考のレベルはあまり高くないこと。最後に、方法論を中心に、今後の展望が論じられた。
山中, 光一 YAMANAKA, Mitsuichi
「明治期における文学基盤の変化の指標について」(国文学研究資料館紀要第6号,1980年)に続いて,20世紀前半における文学に影響する社会的「場」の変化を論ずるものである。すなわち,教育段階によるアプローチから中間層の急激な拡大と,近代化の一つのサイクルを完了した知識層の量的定常化を明らかにし,また文学を支えるメディアの面でも,大衆的な音声と映像技術の進歩によるマスメディアの面での発達と,これと反対に文字のメディアがこの時期相対的に安定していたことを論じ,大衆文学と,知識層の文壇的文学との二重構造の基盤を明確にする。
金, 英周 五十嵐, 陽介 宇都木, 昭 酒井, 弘
統語論、音韻論、意味論など言語学の各分野においては、それぞれの現象を検討するために、細分化されたそれぞれの分野内のデータが証拠とされることが多い。しかし有効な証拠は分野内に限らず、分野外のデータから得られることもある。本発表では、現代韓国語の属格主語構造を一例として、統語構造に関する仮説の検証に韻律パターンを証拠として使用することの有効性を示す。現代日本語では、「母親が焼いたチジミ/母親の焼いたチジミ」のように連体修飾節中の主格と属格が交替することが可能であるが、現代韓国語/朝鮮語では方言によって可能性が異なることが指摘されている(Sohn, 2004; 金銀姫 2014)。ここで「母親の」のような名詞句が連体修飾節の主語であるという証拠を示すために、従来の研究では修飾語を加えた複雑な文の意味判断を行わせることが多かった。本発表では、例文を各方言の母語話者に音読させた韻律パターンを分析することで、名詞句が連体修飾節の主語であることの明瞭な証拠が得られることを示す。
吉満, 昭宏
関連論理とは、演鐸的関連性を持った論理のことだが、その諸体系(付録1を参照)の中にDWという割と弱いものがある。本論文では、「関連論理全体にEる包括的な応用意味論」という観点からして、DWが特異な位置を占めていることを論じる。また付録2では、DWのタブローを見ることで、その特異性を再確認する。
田村, 公子 Tamura, Kimiko
本稿では,宮沢賢治が「法華経」に帰依するきっかけとなったものは,島地大等著『漢和對照妙法蓮華經』であることを主張する。具体的には,以下のことを指摘する。(1)大等の「大乗起信論」講義と『漢和對照妙法蓮華經』の解説が,賢治を「法華経」に開眼させた。(2~6節)(2)『漢和對照妙法蓮華經』の解説中の日蓮への言及が,賢治に日蓮への関心を抱かしめた。(8節)(3)その結果,「浄土門」への懐疑が生じ,日蓮の「唱題」を選ぶようになった。(7節)(4)大等と賢治の「大乗起信論」の理解の仕方に相違がある。
山中, 光一 YAMANAKA, Mitsuichi
時代状況というものが、作家や作品と相互作用をもつ実体としての「場」として把えられることを、近代文学の出発点における二葉亭四迷の例について論じ、そのマクロの時代状況を記述する方法として、読者層、出版メディア、言葉と文体の要素について、時代的変化の指標を分離して論ずることについて述べる。次いで明治期のデータについて、それらの指標の変化を調べ、全体として文学と相互作用をもつ場が、明治20年までの近世レベルの延長、明治40年の近代レベルへの飽和、およびその間の遷移として特徴づけられ、二葉亭四迷における場合とも矛盾しないことを示す。
根津, 朝彦 Nezu, Tomohiko
荒瀬豊(1930年生まれ)の思想をジャーナリズム概念とジャーナリズム史の観点から考察する。そこにはジャーナリズム・ジャーナリズム史を研究する意味はどこにあるのかという問いが含まれる。本研究は,初めてジャーナリズム史研究者である荒瀬豊の思想に焦点をあてたものである。具体的には荒瀬の思想形成,ジャーナリズム論,ジャーナリズム批判を通して検討する。「❶思想形成」では,荒瀬が東京大学新聞研究所において研究者生活を過ごす前史にあたる学生時代と新潟支局の朝日新聞記者時代に彼が「現実と学問をつなぐ」意識をいかに培ってきたのかをたどる。新潟の民謡を論じた「おけさ哲学」の分析とともに荒瀬の問題意識の所在を位置づけた。「❷ジャーナリズム論」では,主に戸坂潤と林香里のジャーナリズム論を参照しながら,荒瀬がジャーナリズムを単にマス・メディアの下位概念として理解するのではなく,両者にある緊張関係を考察したことを重視した。荒瀬がとらえたジャーナリズム概念とは,現実の状況に批判的に向き合う思想性を意味し,ジャーナリズムに固有の批評的役割を掘り下げたことを明らかにした。「❸ジャーナリズム批判」では,荒瀬の歴史上におけるジャーナリズム批判を具体的に検討した。米騒動において「解放のための運動」と新聞人の求める「言論の自由」が切り離さる過程を荒瀬は読み込み,新聞の戦争責任と絡めて「一貫性ある言論の放棄」を見出した。荒瀬の敗戦直後の新聞言説の分析をとらえ返すことで彼のジャーナリズム批判の方法が論理の徹底性にあることを明示した。最後に課題を挙げた上で,民衆思想を潜り抜け,知識人との距離感と諷刺・頓智への感度を有する荒瀬の実践的な批判性が,自己の知識人像とジャーナリズム思想を結びつける原理であったことを提起した。
小澤, 佳憲 Ozawa, Yoshinori
これまでの弥生時代社会構造論は,渡部義通に始まるマルクス主義社会発展段階論の日本古代史学界的解釈に大きく規定されてきた。これに対し,新進化主義的社会発展段階論を基礎に新たな弥生時代社会構造論を導入することが本稿の目的である。北部九州における集落動態を検討すると,前期末~中期初頭,中期末~後期初頭,後期中葉に大きな画期が認められる。この画期の前後における社会構造を比較した結果,弥生時代前期には入れ替わり立ち替わり現れる環濠集落を集団結節点とした平等的な部族社会が形成されていた。これに対し,弥生時代中期には丘陵上に一斉に進出した集落同士が前期的な集団関係をベースとして新たな集団関係を構築し,区画墓・大型列状墓・大型建物などの場において行う祖先祭祀をその強化手段として新たに導入した。これらは不動産であったことから,前期とは異なり拠点集落が固定化され,その結果潜在的な優位集団が成長することとなった。中期末~後期初頭の画期は,中期における潜在的な優位性が表面に表れる画期であり,それに伴い,集住現象と,集落内に潜在していた分子集団の顕在化,そして集団の各位相においてその境界を明瞭化する動きが現れる。これは,優位集団の存在が社会的に顕在化したことに伴う自集団の範囲の明確化と集団の大型化の動きと理解できる。その後,集団間の優劣関係が明瞭化したことにともない劣位集団が優位集団の系列下に取り込まれる動きが後期を通じて進行するのである。以上の社会構造の変遷をふまえると,弥生時代前~中期を部族社会,後期を首長制社会として位置づけることができよう。
酒井, 直樹
アジア太平洋戦争後の東アジアで、日本はアジアの近代化の寵児とみなされ、アジアで唯一の先進国と呼ばれてきた。冷戦秩序下のパックス・アメリカーナ(アメリカの支配下の平和の意味)で日本は、東アジアにおけるアメリカ合州国の反共政策の中枢の役割を担い、「下請けの帝国」の地位を与えられ、経済的・政治的な特別待遇を享受してきた。日本研究は、この状況下で、欧米研究者による地域研究と日本人研究者の日本文学・日本史の間の共犯構造の下で、育成されてきたと言ってよい。「失われた二十年」の後、地域研究としての日本研究も日本文化論としての日本研究も根本的な変身を迫られている。それは、東アジアの研究者の眼差しを無視した日本研究が最早成り立つことができないからで、これまでの日本文化論に典型的にみられる欧米と日本の間の文明論的な転移構造にもとづく日本研究を維持することができなくなってきたからである。これからの日本研究には、合州国と日本の植民地意識を同時に俎上にあげるような理論的な視点が重要になってきている。
村上, 学 MURAKAMI, Manabu
仮名本曽我物語の本文は各巻ごとに諸本の関係を異にし、全貌は未だ明らかでない。仮名本の生成論の前段階作業として校本を作成し、その関係を明らかにしようとする作業の、これは巻四の分である。
由谷, 裕哉
本稿は、柳田國男(1875-1962)が主に戦時下で主張していた氏神合同論(本稿での仮称)を、彼の戦時言説として考察する。ここでの氏神合同論とは、柳田が『日本の祭』(1942年)や『神道と民俗学』(1943年)をはじめ、敗戦後しばらくまで主張していた氏神に関する議論で、異姓の家が共同して一つの氏神を祀ることを意味づけようとする理論である。柳田は氏神を氏の神と考え、それらが合同した(合併した、統合された)ことを複数の理由から説明したが、合同したとされる氏神の例は参照されず、各々の理由も帰納的に導かれたものではなかった。また、柳田のテキストを具体的な民俗事象との対応を気にせずに思想として読もうとする、いわゆる柳田研究においては、柳田のこの議論はほぼ等閑視されてきた。こうした柳田研究は柳田の戦争への関わりについても、彼が積極的に戦争協力をしなかったと捉えようとしていた。 それに対して本稿は、柳田の氏神合同論が提唱されるのを彼の戦時体制への協力姿勢が明確になる1942年と捉え、それ以前の彼の氏神論の検討から始める。柳田が氏神を祖霊と解釈しようとした始まりを1932年の「食物と心臓」であると捉え、2年後の1934年から3年間にわたり柳田の門下生を主な調査者として全国的に行われた通称・山村調査が、この仮説の検証を課題の一つとしたと考えられるとする。しかし、この検証は成功せず、さらに1936年頃から宗教学者の原田敏明が実証的な調査に基づき、氏神は地域的な性格を持ち、土地に即した存在であると主張した。 本稿は以上の1930年代における動向を踏まえ、1942年の『日本の祭』を端緒としたと考えられる氏神合同論を、個々のテキストの文脈に即して抽出し、柳田の戦時体制への対応とどう関わるかと併せて考察する。とくに氏神合同論と戦時体制への対応とが密接に結びつけられた言説として、『神道と民俗学』および長野県東筑摩郡での氏神調査に関わる1943年7月の講演に注目する。この講演以降の柳田の言説をも考慮し、氏神は戦時に軍神に続いて死ぬ人々の信仰を支える存在であるので、それが氏の神ではなく合同して産土(うぶすな)のようにローカルな神となったところに意味がある、と柳田が考えていたと導くことを結論とする。
桑山, 敬己
本論は,アメリカ人類学の研究および教育動向を,教科書の記述の変化を通して検討する。ケーススタディとして,Serena Nanda著Cultural anthropologyの旧版と新版を取り上げる。新版の新たな特徴として,インターネットの使用,グローバリゼーションおよびジェンダーの議論がある。ポストモダニズムの影響も強く,特に認識論,民族誌の書き方,文化の概念,政治権力,芸術の章に著しい。但し旧版の進化論的アプローチも残されており,従来の「大きな物語」とポストモダニズムが共存するという理論的矛盾が見られる。またアメリカの人類学を全世界の人類学と同一視するのも問題である。こうした欠点は他の教科書にも見られる。今後はより体系的な教科書分析を行ない,異文化としてのアメリカ人類学に迫る試みが望まれる。
手代木, 俊一
明治期盲人教育におけるキリスト教と音楽について「宣教」、および「宣教師」という観点から論をすすめた。 ここで論じたのは明治九年フォールズ他が設立した東京築地の楽善会訓盲院、宣教師ゴーブルの点字聖書、宣教師によって創設された学校(横浜訓盲院、函館訓盲院、岐阜聖公会訓盲院、同愛訓盲院)である。 一方盲人教育は明治政府も推し進めようとしていた事業でもあった。目賀田種太郎の論文、官立の東京盲啞学校、岩倉使節団の報告『米欧回覧実記』を紹介した。 そして宣教と音楽と盲人教育の関係を京都府立盲学校を訪問した人達(ルーサー・ホワイティング・メーソン、グラハム・ベルや、アン・サリバンとの関係で知られるヘレン・ケラー、伊沢修二)との関係から明らかにした。
笠谷, 和比古
本稿は、拙著『士(サムライ)の思想』において論述した日本型組織の源流と、同組織の機能特性をめぐる諸問題について、平山朝治氏から提示された再批判に対する再度の応答である。今回の論争の争点は、一、日本型組織を分析、研究するに際しての方法論上の問題。ここでは平山氏の解釈学的方法に対して実証主義歴史学の立場から、学の認識における「客観性」の性格を論じている。二、イエなる社会単位の発生の経緯とその組織的成長の特質をめぐる問題。ここではイエの擬制的拡大という、本来のイエの組織的成長の意味内容が争点をなしている。三、拙著で論述した近世の大名家(藩)なる組織と、イエモト型組織との組織原理をめぐる問題。ここでは西山松之助氏のイエモト観が取り上げられ、家元が流派の全体に対して絶大な権威をもって臨むイエモト型組織と、藩主が組織の末端の足軽・小者にいたるまで直接的支配を行う大名家(藩)の組織との、組織原理上の移動をめぐる問題が論じられる。そして付論として、日本の在地領主制と西欧の封建領主制との比較検討、特に日本の家と西欧の「全く家」との異同をめぐるやや専門的な問題を取り上げている。
丘, 培培
江戸時代の俳諧と『荘子』との深い関わりは早くから研究者たちの関心をよんだが、その理由解明について、まだ解けていない謎が残っている。なぜ十七世紀の日本の俳人たちは千年以上も前に他の国で作られた、文学作品でもない『荘子』という本に、俳諧の本意を見つけようとしたのか。本稿は、その謎を日本詩歌の古典重要視の伝統に探る。 日本詩歌の古典趣味は詩歌の理論付けにのみならず、作詩の方法と表現体系にもはっきり現れている。本研究は、『古今和歌集』の序から季吟の俳論までのほとんどの歌論俳論が中国の『詩経』から六義を借りて論をはじめるという現象の意義を探究し、典故、本歌、本説の発達に見られた日本詩歌表現の古典への依存を分析して、その古典重視の伝統の末端に生まれた、短詩形と座の文学を特徴とする俳諧がどうして因習を超えようとしていながら、それでもなお古典にたよらなければならなかったかを明らかにする。そして、江戸時代の三大流派、貞門、談林、蕉門の作品から例を引いて、現代記号論の概念を分析の参照系に入れて、十七世紀の俳人たちはどのように『荘子』という古典を基にして、「下位的なもの」と思われる俳諧の文学的地位を確立し、その表現体系を更新させ、俳諧の表現力を豊かにしたかを解明する。江戸俳諧における『荘子』の成功は日本詩歌の古典重要視の伝統に深く関わった。貞門の実用的『荘子』寓言論から、談林の形式的『荘子』本位論を経て、『荘子』という異文化の古典は芭蕉の世界に創造的に生かされ、言葉の遊びに源を発した俳諧を芸術性のたかい、表現力の極めて豊富な詩に昇華させる過程に重要な役割を果たしたと結論づける。
小川, 佳世子
世阿弥(一三六三?~一四四三?)作の能や能楽論に連歌の影響が強いことについては、二条良基(一三二〇~八八)との関係を中心に多くの研究がなされている。しかし、世阿弥と連歌との関係は二条良基との間のみで完結しているとは思えない。 そこで、世阿弥と世代の近い梵灯庵(一三四九~一四二七?)との関係について、『梵灯庵主返答書』を中心に考察を試みた。世阿弥が多くの能と能楽論を作った応永期(一三九四~一四二八)は、連歌は不振であったとされるが、『梵灯庵主返答書』を記した梵灯庵と世阿弥の能には看過できない関係がある。また世阿弥と梵灯庵の関わりについて、二人を結ぶ西行(一一一八~九〇)の存在も思われるのである。
Delbarre, Frank
70年代において執筆されたベタン村のフランコプロヴァンス語方言を対象とした論文と20世紀の初めに執筆されたビュジェー地方のフランコプロヴァンス語(アルピタン語)方言についての様々な研究論文は主に当該諸方言の形態論について述べるものが多い。それに対し、戦前まで幅広く東フランスで話されていたフランコプロヴァンス語のシンタクスに関する研究はとても少ない。最新と言えるスティーヒによって苫かれたParlons francoprovenral (1998) でもシンタクスより形態論と語疵論の方に焦点を当て、フランス語とその他の現代のロマンス形の諸言語と比べると、フランコプロヴァンス語の特徴の一つである分詞形容詞の用法についてはほとんど何もit-いてない。この文法項旧については2o lit紀において害かれた諸論文でもデータの分析より著者の感想の方に基づいたコメントの形をとっており、納得力の足りないものになっている。本論は2015年に発行されたL'accorddu participe passe dans Jes dialectesfrancoproven~aux du Bugey (ビュジェー地方のフランコプロヴァンス語方言における過去分詞の~)に続き、Patoisdu Valromey (2001) の文苫コーパスの分析をもとに、現代ヴァルロメ方言における分詞形容詞の用法を定義することを目的とする。本論のメリットはその他の現在までのビュジェー地方のフランコプロヴァンス語の論文と比べると、例文を多く与え、ヴァルロメ一方言のコーパスの分析から作成した言語的統計の提供である。
菊田, 悠
近代化が各地でいかに進んできたかを考察する近代化論は1960 年代頃から盛んになったが,旧ソヴィエト連邦ではイデオロギーや調査上の制約から,そのミクロ・レベルでの近代化の実態を検討することが難しく,近代化論における社会主義体制の意義も十分に論じられてきたとはいえない。 それに対して本稿は,旧ソ連を構成していたウズベキスタンのリシトン陶業が,ソ連時代に経験した変化を,先行研究および人類学的フィールドワークに基づいて仔細に検討する。そしてそれがどのような近代化といえるものだったのかを考察する。具体的には,20 世紀初頭,1920 年代から1960 年代,1970 年代から1991 年という3 つの時代区分を設定し,これに沿って生産体制,陶工の内部構造,技能の伝承という3 点からリシトン陶業の変遷を追う。 その結果,まず組織の面で社会主義的生産のための大改編がなされ,1970 年代になってからは技術面の近代化が進み,それに合わせて陶工間関係もゆるやかに変化してきたことが明らかになった。一方で,近代化の枠にはそぐわない技能や組織,観念も国営陶器工場内の工房を中心とした場で見られ,このような工房でのインフォーマルな活動はフォーマルな工場制度と相互補完的に支えあっていた。以上のように社会主義体制下での近代化の実態は複雑な様相を持ち,今後のさらなる人類学的調査を待っている。
秋沢, 美枝子 山田, 奨治
ドイツ人哲学者オイゲン・ヘリゲル(一八八四~一九五五)がナチ時代に書いた、「国家社会主義と哲学」(一九三五)、「サムライのエトス」(一九四四)の全訳と改題である。 「国家社会主義と哲学」は、ヒトラーの第三帝国下で、哲学がいかなる任務を担いうるかを論じた講演録である。ヘリゲルは、精神生活の前提条件に「血統」と「人種」を置き、新しい反実証主義の哲学者としてニーチェ(一八四四~一九〇〇)を称揚した。ニーチェの著作には「主人の精神と奴隷の精神」があるといい、その支配―被支配の関係をドイツ人とユダヤ人に移し、差別を正当化しようとした。 「サムライのエトス」は、ドイツの敗色が濃くなった戦況のなかで、日本のサムライ精神を讃えた講演録である。同盟国・日本の特攻精神の背後にある武道や武士道を、知日派学者として語ったものと思われる。ここでヘリゲルが一貫して語っているのは玉砕の美学であり、『弓と禅』で彼が論じた高尚な日本文化論とは、あざやかな対照をなしている。 これらの講演録の存在は、ドイツ国内でも忘れられていた。無論、これらははじめての邦訳であり、戦時下ドイツにおける日本学の研究にとって貴重な資料となるだろう。
鈴木, 博之
本稿では、中国雲南省徳欽県燕門郷拖拉行政村で話されるカムチベット語斯嘎[Sakar]方言(sDerong-nJol方言群雲嶺山脈西部下位方言群)の音声・音韻および形態統語論の簡便な記述を行う。後者については、特に格体系と動詞句周辺の接辞を中心に述べる。
鈴木, 博之
本稿では、中国雲南省維西県攀天閣郷で話されるカムチベット語嘎嘎塘・勺洛[Zhollam]方言(Sems-kyi-nyila方言群Melung下位方言群)の音声・音韻および形態統語論の簡便な記述を行う。後者については、特に格体系と動詞句周辺の接辞を中心に述べる。
大滝, 靖司 OTAKI, Yasushi
本研究は,日本語における英語からの借用語で起こる促音化の辞書データを分析し,生起要因を考察する。その結果から,借用語の促音化には「語末の促音化」と「語中の促音化」の2タイプがあることを指摘する。前者は原語の語末子音を借用語でも音節末子音として保持するための現象である一方,後者は原語の音配列および重子音つづり字の影響を受けた現象であることから,借用語音韻論で扱うべき音韻論的な借用語の促音化は,語末の促音化であることを主張する。また,両者の中間的な環境における促音化パタンを細かく観察し,それらが語末の促音化が起こる「語末」の環境であるのか,あるいは,語中の促音化を引き起こす「語中」とみなされているのかを論じることで,借用語の促音化の全体像を捉える。
Kase, Yasuko
英語文化専攻の必修科目『異文化理解』を担当する中で、どのようにダイバーシティ教育に取り組んできたのかをレポートする。教材の選定と使用例、学生に提示したディスカッションのトピック、授業の展開方法、学生の反応を紹介し、琉球大学でダイバーシティに関する授業を提供する意義について論ずる。
鈴木, 貞美
福沢諭吉ら明治啓蒙思想家たちは、明治維新を「四民平等」を実現した革命のように論じたが、黒船ショックが引き起こした倒幕運動は、開国か、尊皇攘夷かが争われ、紆余曲折を経て、尊皇開国に落ち着いたもので、その過程で政治の自由や四民平等がスローガンにあがったことはない。すでに、江戸時代のうちに、いのちの自由・平等思想がひろがり、身分制度も金の力でグズグズになっていたため、デモクラシーは至極当然のことのように受けとめられたのだった。明治新政府は、一八三七年一月に徴兵令の告諭を発し、国民の自由・平等を認め、それと引きかえに「国家の災害を防ぐ」ために、西洋でいう「血税」として、二十歳に達した男子に三年の兵役義務を課した。「国民皆兵」制度は、国民各自が自分の権力の一部を国家に提供し、秩序を維持し、各人の安全の保証を得るという自然権思想に立つものだが、明治啓蒙家たちの思想においては、自由、平等が未分化で、自然権思想や社会契約説の定着が見られないことが、すでに指摘されている。しかし、その理由については、これまで恣意的な分析しか行われてこなかった。 その理由は、ヨーロッパやアメリカにおけり各種の「自由・平等」思想をひとくくりにして、天賦人権論として受けとめたこと、それらのリセプターとして、江戸時代に公認されていた朱子学の「天理」や、ひろく流布していた天道思想が働いたことに求められる。そして、江戸時代の通念では、いのちの自由と平等とがセットになっていたため、天賦人権論者たちは、あらためて自由と平等の関係について、それぞれを社会や国家と関係づけながら考えようとしなかったのである。それゆえ、個々人の諸権利についても、いのちにおける、社会における、国家におけるそれが切り分けられないまま、個人、社会、 国家の相互の関係についての考え方が、時どきの状況により、また論者の立場によって、たえず変化することになった。ここでは、まず「自由」「平等」が、どのように受け止められたのかについて検討し、そのうえで個々人の社会論、国家論を考えてみたい。外来の概念とその「リセプター」となった伝統概念とをあわせて考察すること、また、「自由と平等」のように、複数の概念を組み合わせて、個々人の概念形成を解明することは、社会的に流通する概念組織(conceptural system or network)の形成を解明するために有効かつ不可欠な方法である。
辛島, 理人
本稿は、アメリカの反共リベラル知識人と民間財団による、一九五〇・六〇年代の日本の社会科学への介入とその反応・成果に焦点をあて、戦後における日本とアメリカの文化交流を議論するものである。その事例として、経済学者・板垣與一がロックフェラー財団の支援を受けて行ったアジア、ヨーロッパ、アメリカ訪問(一九五七~五八)を取り上げる。ロックフェラー財団は、第二次対戦終了直後に日本での活動を再開し、日本の文化政治の「方向付け」を試みた。その一つが、日本の大学や学術をドイツ式の「象牙の塔」からアメリカのような政策志向の実践的なものへと転換させることであった。そのような方針を持つロックフェラー財団にとって、官庁エコノミストと協働していわゆる「近代経済学」を押し進めていた一橋大学は好ましい機関であった。板垣與一は、同財団が支援する「アングロサクソン・スカンジナビア」型の経済学を推進する研究者ではなかったが、日本の反共リベラルを支援しようとしたアメリカの近代化論者の推薦をうけて、同財団の助成金を得ることとなる。そして、一九五七~五八年に板垣は、「民族主義と経済発展」を主題としてアジア、ヨーロッパ、アメリカを巡検する。アメリカでは、近代化論者の多かったMITなどの機関ではなく、ナショナリズムへ関心を払うコーネル大学の東南アジア研究者との交流を楽しんだ。板垣は日本における近代化論の導入に大きな役割を果たすものの、必ずしもロストウら主唱者の議論に同調したわけではなかった。戦時期に学んだ植民地社会の二重性・複合性に関する議論を、戦後も展開して近代化論を批判したのである。ロックフェラー財団野援助による海外渡航後、板垣は民主社会主義者の政治文化活動に積極的に参加した。しかし、ケネディ・ジョンソン政権と近しい関係にあったアメリカの反共リベラル知識人・財団の期待に反し、反共社会民主主義が議会においても論壇においても大きな影響力を持つことはなかった。
井上, 麻依子 INOUE, Maiko
市民間における文書館の知名度は、多少の広がりを見せてはいるものの、いまだに極めて低いというのが現状である。それは、文書館が史料保存のために設立された施設であったため、長い間史料の劣化を促進する市民の利用を敬遠しがちだったからである。しかし、1996(平成8)年に発表された森本祥子氏の「アーキビストの専門性-普及活動の視点から-」が契機となり、こうした傾向に対して疑問視する声が大きくなった。現在、文書館の普及は利用論、展示論など様々な視点から活発に議論されている。だが、最初に述べたように市民間での文書館の認知度は、多少の広がりを見せてはいるものの、いまだに極めて低いのが現状である。文書館が市民に開かれてからまだ間がないことに加えて、文書館普及活動に関する議論が不充分であるということもその原因の一つと考えられる。そして、文書館の認知度が低いことは、今まで説かれてきた方法論と実践されている普及活動に何らかの差異があるか、もしくはその方法論自体が未成熟な証拠でもある。本稿ではこの問題に着眼し、実際に行われている文書館の普及活動について検証したい。文書館の普及活動は歴史研究者など、専門職の人を対象としたものもあるが、ここでは一般市民に向けて実施されている普及活動に限定して言及し、検証の対象を埼玉県立文書館一館に絞った。埼玉県立文書館は、比較的早い時期から教育普及事業に力を入れており、現段階の文書館普及活動の模範として捉えられるからである。その上、埼玉県は早い時期から県立文書館や埼玉県地域史料保存活用連絡協議会の設立が実現した先進県でもある。このような特徴を持つ埼玉県立文書館の普及活動を検証することで、文書館普及活動の現状について考察してみたい。
塩月, 亮子 Shiotsuki, Ryoko
本稿では,従来の静態的社会人類学とは異なる,動態的な観点から災因論を研究することが重要であるという立場から,沖縄における災因論の歴史的変遷を明らかにすることを試みた。その結果,沖縄においてユタ(シャーマン)の唱える災因は,近年,生霊や死霊から祖先霊へと次第に変化・収束していることが明らかとなった。その要因のひとつには,近代的「個(自己)」の確立との関連性があげられる。すなわち,災因は,死霊や生霊という自己とは関係のない外在的要因から,徐々に自己と関連する内在的要因に集約されていきつつあるのである。それは,いわゆる「新・新宗教」が,病気や不幸の原因を自己の責任に還元することと類似しており,沖縄だけに限られないグローバルな動きとみなすことができる。だが,完全に自己の行為に災因を還元するのではなく,自分とは繋がってはいるが,やはり先祖という他者の知らせ(あるいは崇り)のせいとする災因論が人々の支持を得るのは,人々がかつての琉球王朝時代における士族のイデオロギーを取り入れ,シジ(系譜)の正統性を自らのアイデンティティの拠り所として探求し始めたことと関連する。このような「系譜によるアイデンティティ確立」への指向性は,例えば女性が始祖であるなど,系譜が士族のイデオロギーに反していていれば不幸になるという観念を生じさせることとなった。以上のことを踏まえ,災因論の変化を担うユタが,今も昔も変わらず人々の支持を集めていることの理由を考察した結果,死霊にせよ祖先霊にせよ,ユタはいつの時代にも人々に死の領域を含む幅広い宗教的世界観を提示してきたのであり,そのような世界観は,絶えずグショー(後生)という死後の世界を意識し,祖先崇拝を熱心におこなうといった,「生と死の連続性」をもつ沖縄文化と親和性をもつものであるからという結論に達した。
村野, 正景
学校博物館は学校内に存在する施設で,一般の博物館と同様に資料の収集,保管,展示,公開などの役割を果たしうる。しかしその歴史や実態の理解は,研究者や学芸員の間で進んでいるとは言えず,そこに所在する学校資料と同じく学校博物館はいまや亡失の危機にある。一方で,学校現場ではいまも学校博物館は活用され,設立もなされている。そんな中,ごく近年になって,学校資料や学校博物館にかかる活動をおこなう研究者や学芸員の存在が多数顕在化しており,学校博物館は新たな局面を迎えている。そこで本稿では,改めて学校博物館の基礎データを収集し,学校博物館の歴史と特徴を社会的状況や学校現場,博物館関係者などの諸点から明らかにすることを試み,あわせて学校博物館への今後の関わり方を検討した。結果として,学校博物館は近代的学校制度導入の頃から現在にいたるまで多数設立され続け,またその時々の社会状況や学校の特色などに応じて,すべての学校種で設立がみられたことを確認した。そして学校博物館の歴史を9期に区分し,第1期:学校博物館の萌第,第2期:学校博物館論の出現,第3期:通俗教育と郷土教育の学校博物館増加,第4期:郷土教育による学校博物館と学校博物館論の発展,第5期:理工系学校博物館の新設,第6期:人文系学校博物館の発展,第7期:人文系博物館の増加と学校博物館論の停滞,第8期:学校博物館論の停滞と記録されなくなる学校博物館,第9期:学校博物館の新たな展開とまとめた。これら各期の学校博物館の動向を踏まえた上で,本稿では,学校博物館の特徴を「継続性と即応性」という観点から捉え直すことを提案し,学校だけではなく,一般の博物館そして地域社会との連携の仕組みを構築することが今後重要なあり方であると指摘した。
横井, 孝 YOKOI, Takashi
『源氏物語』受容史の一側面として、その図像化がある。国宝徳川本・五島本『源氏物語絵巻』は代表的な作品として、学術的にも一般向けにもさまざまに論じられてきた。しかし、それらは当該物語の図像を包括的に検討してなされる機会が意外にすくなく、個々別々に論じられ、恣意的なイメージ解釈が先行してきたばかりでなく、検証されることもなく放置されてきたのではないか。これまでの物語絵の分析は「意味」を読み取るのに急で、図像の形成過程というものに無知でありすぎたのではないか。『源氏物語絵巻』を鑑賞者の立場から離れて、制作する絵師の立場から見れば、それは「芸術」である以前に「型」を駆使した「技術」でしかないことに気づかされる。鑑賞者のイメージで恣意的に「読まれ」てきた図柄も、制作者の技術の前には相対化されざるを得ない。そうした「技術」面を検証する方法を示唆するのが「図像データベース」であろう。『源氏物語』の図像はこれまでにも集積されてはいるが、それらを整理し、検索可能な状態にすることが、いま求められているのではないかと考えられるのである。本稿では『源氏物語』の図像を論ずる手がかりとして、江戸期版本の挿絵の意義を取り上げることとした。
村上, 忠喜 Murakami, Tadayoshi
日本民俗学の資料である伝承そのものは,資料として批判することが困難である。それというのも,伝承資料自体の持つ性格と,伝承を取り出す際の調査者の意図や,調査者と伝承保持者との人間関係など,さまざまな因子に影響を受けるからである。フィールドワークを土台とする学問でありながら,資料論や調査論の深化が阻まれていたことは不幸であり,その改善に向けての具体策を模索していくべきである。伝承資料を批判することは,伝承資料の取り扱い方と,それを得る調査の現場を検証することに他ならない。本稿では,まず,「調査地被害考」を手がかりとして,その考え方の背景にある民俗調査観を批判し,その調査観に基づく調査を「黒子調査」と規定する。そして,「黒子調査」の功罪を,伝承資料の今後の民俗調査・研究にいかに活かすかについて,以下の2点を提言した。 ①伝承を(歴史)事実ではなく解釈とする見方を徹底することで,これまで集められた膨大な資料ストックを再検討し,伝承の成立やプロセスの意味を考察し,現在につながる生活文化の再構成を目指す。 ②調査地や被調査者と積極的に関与していくフィールドワークとそれに基づく事業を進める過程で,発生する地域からの様々なリアクションを分析対象に取り込むことにより,フィールドワークの方法論的蓄積と伝承資料批判についての用意を図る。
神園, 幸郎 Kamizono, Sachiro
自閉症の中には、発達初期に定型もしくは定型に近い発達を遂げていたものが、それまでに獲得していた言語や社会的スキルを喪失し、自閉症の症状が前景に出てくる発症パタンを示す一群がある。このタイプは自閉症全体の約三分のーを占め、従来から「折れ線型」 (knick type) や「後戻り現象」 (setback phcnomenon) などと呼ばれ、その特殊性が注目されてきた。発達初期の発話喪失や社会的な興味、関心の喪失を中心とするこの退行現象は、現在では「自閉的退行」 (autistic regression) と呼ばれている。自閉的退行は自閉症の病因論や発症メカニズム、類型化、短期もしくは長期予後、処遇など様々な論点をめぐって議論されてきた。本論文は自閉的退行に関する研究の経緯と現在における到達点を概観し、今後の研究の方向性を論じた。
高橋, 一樹 Takahashi, Kazuki
王家や摂関家の中世荘園は、それぞれの家政機関(院・女院庁や摂関家政所)や御願寺に付属するかたちで立荘・伝領される。本稿はこのうち王家の御願寺領荘園群の編成原理と展開過程の分析を通じて、個別研究とは異なる角度から中世荘園の成立と変質の実態について論じた。具体的な素材は、関連文書と公家日記等の記録類とを組み合わせて検討しうる、十二世紀後葉に建立された最勝光院(建春門院御願)の付属荘園群をとりあげた。最勝光院領の編成と立荘については、落慶直後から寺用の調達を目的に六荘園がまとめて立荘され、その後も願主の国忌(法華八講)などの国家的仏事の増加に対応して新たに立荘が積み重ねられた。その前提には、願主やその姻族(平氏)と関係の深い中央貴族から免田や国衙領が寄進されたが、実際に立荘された荘園は国衙領や他領をも包摂した複合的な荘域構成をとっており、知行国主・国守との連携にもとづく国衙側と協調した収取関係(加納・余田の設定)をもつ中世荘園の形成であった。また、最勝光院領に典型的にみられる立荘と仏事体系のリンクが、御願寺および付属荘園群の伝領を結びつけており、御願寺の継承者が仏事を主催し付属荘園から用途を徴収する現象の原理をここに見いだしうる。鎌倉幕府の成立した十三世紀以降の最勝光院は、各荘園の預所職を知行する領家(中央貴族)たちの寺用未進に対処するべく、同院政所を構成する別当・公文の主導のもと寺用にみあう下地を荘園内で分割して、その特定領域における領家の所務を排除する事例が多くみられた。下地を分割しない場合も含めて、これらの寺用確保の下支えになったのは地頭請所であり、その背景には幕府との政策連携があったことが推測される。これは領主制研究の枠組みのみで論じられてきた従来の下地中分論や地頭請所論とは大きく異なる評価であり、荘園制支配の変質と鎌倉幕府権力との関係を問う視角も含めて問題提起を行った。
津波, 一秋
本稿では火葬後の洗骨改葬という問題を,沖縄の葬墓制研究の中で再定位することを目的とする。戦後の急激な風葬から火葬への移行は,洗骨改葬を伴う複葬制という沖縄の葬制に大きな影響を与えた。この火葬化と洗骨改葬の関係について,従来の捉え方には①消滅論,②形骸化・簡略化論,③継続論があった。①は沖縄においては火葬の導入とともに洗骨改葬は消滅したとする見方であり,今日最も一般的だと考えられる捉え方である。②は,一部の地域では火葬後も洗骨改葬が形骸化,簡略化しつつ行われているとするものである。③では一部の地域では心意や観念も含め,火葬後の洗骨改葬が行われているとする。先行研究の整理と評価を通じて,本稿では次のような課題を設定した。①消滅論の相対化と火葬後の洗骨改葬という問題の再可視化,②形骸化や簡略化にとどまらない変化の問題の提示,③火葬後の洗骨改葬を墓制や社会組織との関連で捉えること,④標準語としての「洗骨」から生じうる調査研究上の問題の認識である。本稿では以上の課題に取り組むため,沖縄本島那覇市小禄地区のK門中における火葬後の洗骨改葬の事例を取り上げた。まず,課題①への応答については,一次資料の提示を含め,論旨全体を以ってそれを試みた。課題②については頭骨がかつての頭蓋骨同様に重視される一方,洗骨の担い手に関する役割の期待が,女性から喪主としての長男へと変化していることを示した。課題③については複葬制に対応した墓制が維持されていることが,火葬後の洗骨改葬が存在する条件として重要であることを指摘した。課題④についてはインフォーマントとのやり取りから,標準語としての「洗骨」が現地調査において生じさせうる問題を議論した。以上の課題への取り組みを通じ,火葬後の洗骨改葬という問題を改めて可視化しつつ,沖縄の葬墓制研究において再定位した。
道田, 泰司 Michita, Yasushi
本稿では,主に学校における学びの中で,批判的思考がどのように位置づきうるかを探索的に検討した。まず,批判的思考のない無批判的な学びとは,教育の無謬性という信念に基づく,ある意味で適応的な学びであることを論じ,その信念を支える信念には,権威者の特権性(その対概念としての学習者の未熟性),貼り付け型学習観,固定的知識観があることを指摘した。一方,批判的思考とは,対話的思考としての性質を持っており,そのような対話のある学びが,無批判的ではない本来の学びと考えられるが,それは「観」の転換を伴うものであることを論じた。「観」を変える第一歩としては,学習観の転換が有力候補であることを指摘し,最後に若干のまとめと補足を行った。
奥出, 健 OKUDE, Ken
<文学非力説>の中心的評論「文学非力説」は文学強力個性説、私小説(精神)擁護という二つの要素を内包した当時では出色の評論であるがしかし、ここにはかつて辻橋三郎が指摘したような国家権力への抵抗という側面は全くない。高見が<文学非力説>で意図したのはあくまで文壇内時流に対する抵抗で、これは時局便乗型文学論の跋巵という外的事情と、昭和十三年頃から温めてきた私小説精神による自己の文学精神の確立という内的事情とが時期的に丁度絡みあい出てきたもので、単に海外旅行帰りのヒステリーから偶発したものではない。しかし、この<文学非力説>成立の裏には昭和十二年の『文学界』解消論以後一貫して高見の胸の底を流れていた、文壇改革という文壇政治的意識があったことも見のがしてはならない。
Kyan, Seiki 喜屋武, 盛基
いわゆる万能デイジタル計算機(general purpose digital computer)は文字通り万能でありあらゆる種類の演算から言語の翻訳などに至るまで適当なプログラミングにより行なうことができる。しかしこの型の計算機はある種の計算にはまったく不向きで,その驚くべき早さの演算能力をもってしても相当長い時間を必要とすることが知られている。整数論の二次不定方程式やその他の平方剰余の問題を解くのに使はれる連立合同式の解法がその一つである。この種の計算を万能計算機に行なわせるには経済的に不可能なことなので,この計算だけを行なわせる特殊目的のデジタル計算機の開発が数年前から試みられている。この論文では“数ふるい”と称する連立合同式を解くことのみを目的とする電子計算機の論理設計と回路試作について論じている。この計算機の記憶装置(メモリ)としてはLC遅延線路を主体として20.5μsの長さの遅延線路に21ビットのパルスをたくわえまた1ビットの記憶にはフリップフロップを用いて行なった。演算をコントロールする主要部分である計数回路には遅延線路を用いた特殊な設計のビート計数回路を用いて信頼度を高めることができた。このため高価な電子管式計数器の使用をはぶくことができた。試作機の全記憶容量は240ビットである。この容量の範囲で可能な種々の連立合同式の計算を行なわせて正しい結果を得ることができた。最後に誤動作自動検出装置について論じ,その論理設計も行なった。
長谷川, 裕 Hasegawa, Yutaka
本稿の課題は、中内敏夫の教育理論が「能力主義」をどう捉えそれとどう向き合おうとしてきたのかを検討することである。中内は、能力主義は、教育領域にそれが浸透すると、教育による人間の発達の可能性の追求を断ち切ってしまうものとして捉えこれを批判し、一定水準の能力獲得をすべての者に確実に保障するための教育の実践と制度の構築をこれに対置して提起した。1990年頃中内は、近代になり〈教育〉という特殊な「人づくり」の様式が誕生・普及したが、そこには能力主義的・競争的性格が根源的に抜き難く刻み込まれているという論を押し出すようになるが、しかしその後も、上記のようないわば〈教育〉の徹底による能力主義への対峙という主張を基本的に変えていない。すなわち、〈教育〉は能力主義社会・競争社会に生きる人間の自立を助成する営みであらざるを得ないとの前提に立ち、その上で、「義務教育」としての「普通教育」においては、その社会を渡っていけるだけの「最低必要量」の能力獲得の保障を徹底させる、そのことが可能になるように〈教育〉の効力を向上させる―これが中内の能力主義に向き合う際の基本的スタンスである。本稿はこのように論じた上で最後に、中内の教育論とビースタのそれとを比較対照し、それを踏まえて〈教育〉がどのように能力主義と対峙すべきかについての筆者自身の見解を述べた。
木村, 汎
本論文は、厳密にいえば、「研究ノート」に分類されるべき内容を含んでいる。というのは、「交渉(negotiation)」の研究は、わが国ではなぜか学問的市民権を十分獲得するにいたっていないからである。交渉というと、なにか商店の軒先きで大根やみかんを値引きしたり、労使の間で相手側を罵倒せんばかりにして賃金交渉を己れに有利に導こうとする胡散臭い行為と見なされている。ところが、欧米諸国では、事情は異なる。交渉は、極端にいえば、権力関係と同じく、人間が二人いるところに必ず発生するといってよい紛争や対立を、平和的に解決しようとする重要な人間行為の一つとして、学術的な研究対象とされてきている。その意味において、交渉研究において先輩である欧米の学説をまずなるべく公平かつ忠実に紹介することに意を用いた点において、本論文は「研究ノート」と見なされるべきである。 しかし、他方、欧米学界における諸説を紹介するといっても、その問題点の選択の方法や整理の仕方において、筆者の主観的な好みが混入してくるのは不可避である。そればかりではなく、種々の学説に対する最終的評価等において、筆者は自己の価値判断を示した。その意味においては、本論文は、良くも悪しくもたんなる「研究ノート」の域を超える内容となっている。 ともあれ、筆者は、序論において、冷戦終了後の今日、紛争の平和的な解決を目指す交渉の意義と出番が増大したとの基本認識を示し、その理由をさらに具体的に説明した。 「交渉とは何か?」と題する第一章においては、まず「交渉」とその類似概念である「外交」や「取引」との差異を検討した後、次いで真正面から交渉の定義そのものを下した。引続いて、交渉の構成要因を説明し、さらに様々な角度から交渉の種類を記した。 第二章「交渉をどう見るか」においては、交渉に対する二大アプローチの紹介を試みた。一は、「芸術(アート)」、二は「科学(サイエンス)」と見る見方である。両アプローチの特徴及び夫々の長短を論じた後、筆者は両アプローチを併用する第三のアプローチ、すなわち「芸術プラス科学」と見る見解を提唱した。 第三章では、文化と交渉との関連に真正面から取組んでいる。まず「文化」の定義、機能、種類について論じた後、いよいよ文化が交渉に及ぼす影響の検討に移った。この問題にかんしては、対立する二説がある。一は文化「懐疑論」、二は同「重視論」である。筆者は、その各々とその根拠を紹介した後、自らは第三説としての「折衷論」の立場に立つとの立場を明らかにして、その理由を述べた。交渉に対する文化の影響を過大にも過小にも評価しない立場にたつとともに、類似あるいは異なる文化に属する人々の間の交渉において文化が果たす役割ないし影響の程度や仕方についても、論じている。本論文は、最後に異文化交渉を成功裡に進める方法についても一言して、終了している。
Nagano, Yasuhiko
ギャロン語はチベ ッ ト・ビルマ語族の歴史を考える上で重要な言語であるが,こ の言語に関する記述資料は少ない。小稿はその状況を少しでも改善するための試みであり,構想しているレファランスグラマーを著すための第一歩である。特に,動詞句とそこに働く形態統辞論的メカニズムに記述の重点をおいた。
中渡瀬, 秀一 加藤, 文彦 大向, 一輝
言語資源データの引用情報調査に基づいて、そのデータを活用した研究文献の発見可能性について論じる。このために言語処理学会年次大会発表論文集を対象として「現代日本語書き言葉均衡コーパス」などの引用情報を調査した。本稿ではその結果と今後の課題について報告する。
小林, 青樹 Kobayashi, Seiji
本論は,弥生文化における青銅器文化の起源と系譜の検討を,紀元前2千年紀以降のユーラシア東部における諸文化圏のなかで検討したものである。具体的には,この形成過程のなかで,弥生青銅器における細形銅剣と細形銅矛の起源と系譜について論じた。
徐, 蘇斌
明治末期、日本では国民意識の形成と共に、日本文化への関心が高まりを見せた。日本の文化のルーツを探すため、多くの日本人研究者は朝鮮、中国、蒙古などの地域へ調査に向かった。関野貞(一八六八―一九三五)は東アジアの建築史、美術史、考古学の領域の研究において注目すべき業績を残した研究者である。彼の研究経歴はそのまま近代日本の東洋研究の縮図といえる。本稿では、関野の六〇〇余枚に上る調査帖を中心にして、一九〇六年から一九三五年にいたる前後十回にわたる中国におけるフィールドワークを考察した。さらに、論者は関野の調査活動を通して、日本研究者のナショナル・アイデンティティー、学術研究と植民地政治の関連性、植民地と文化遺産の保存などの問題を論じた。また、満州事変以前の日中における学術交流、ならびに中国に及ぼせる日本建築史学研究の影響などの問題にも言及した。
窪田, 悠介 KUBOTA, Yusuke
国語研NPCMJコーパスは,(ゼロ代名詞や関係節空所などを含む) きめ細かな統語構造を付与したツリーバンクとして日本初のものであり,特に統語論や意味論など,今までコーパス利用があまりなされてこなかった分野でのコーパス活用を活性化させることが期待できる。一方で,木構造を検索し,そこから必要な情報を取り出す作業の (一見したところの) 複雑さのため,言語研究への活用は未だ模索段階を出ていない。本発表では,UNIX系OSでの基本スキルである単純なコマンドを数珠つなぎにしてデータを加工する手法と,ツリー検索・加工に特化されたスクリプト言語の合わせ技によって,NPCMJを用いて実際の言語研究に役立つ情報抽出が可能になることを示す。「(ガ/ノ交替の) ノ格でマークされた主語と共起する述語の頻度表を作る」というタスクを例に,コーパスからの情報抽出の具体的な手順を説明する。
金, 有珍 KIM, Youjin
『秋夜長物語』は石山観音の済度方便による瞻西上人(?~一一二七年)の発心遁世の由来を説く作品である。従来、本 物語は稚児物語の代表作とされ、稚児を中心に論じられてきたが、本稿では本物語が仏菩薩と稚児の方便一般ではなく、具体的に石山観音の霊験を説こうとしている事に注目した。『秋夜長物語』は一四世紀半ばに成立しており、同時代の石山寺の信仰状況やその周辺の文芸とも無関係ではない。書き手や読み手の属性が異なると見られる『うたたねの草子』との類似は、石山寺という共通の舞台・信仰対象に由来するものと推定される。少なくとも両作品に共通の享受層がいた事は、同じく石山観音の方便を説き、本物語と『うたたねの草子』の両方を踏まえてなるとされる『はにふの物語』の存在から確認できる。本物語と『はにふの物語』とは、細部の内容の流れや表現が一致し、直接的な影響関係があったと考えられる。稚児物語の枠組みの中で論じられてきた『秋夜長物語』であるが、これらの物語との交渉は成立圏の問題として注意される。
姜, 海守
本稿は、日本を代表する李退渓研究者であった阿部吉雄が、京城帝国大学助教授時代に刊行した〈日本教育先哲叢書〉の第23 巻(最終巻)『李退渓』(1944 年)を執筆するに至るまでの、近代日本における李退渓研究の歩みを思想史的側面から考察したものである。そのための分析対象としたのは明治時代以後の「崎門(山崎闇斎学派)および「熊本実学派」の李退渓をめぐる議論である。『李退渓』には、学問の系統が異なる「崎門」の李退渓論と「熊本実学派」のそれが全体的に結びつけられたような語りがみられる。そうした両学派が統合された李退渓論は、すでに1940 年、肥前平戸藩の儒者楠本碩水の門人岡直養(なおかい)が訂補・刊行した『崎門学脈系譜』の岡直養編録「崎門学脈系譜付録一」にみられる。まさにここに、山崎闇斎および元田永孚(ながざねの両者がともに李退渓から影響を受けたという李退渓研究の端緒が見えてくるのである。 本論文は、1940 年代の李退渓言説を、主に「道義」という鍵概念から捉える試みである。本研究によって明らかになったことは、明治時代の李退渓言説を「道義」という観点から捉えることは難しく、また、それが1940 年代以降の李退渓言説とも連続しないということである。明確なかたちで「道義」という視点から李退渓を論じる阿部の『李退渓』の登場は、必ずしも李退渓言説に限らず、その前後の帝国日本および植民地朝鮮における多様な言説空間の変化に繫がりをもつものであった。阿部は『李退渓』において、李退渓を「半島に於ける道学の教祖、道義哲学の創唱者」と捉えながらも、山崎闇斎および元田永孚の「道義思想」を李退渓のそれとの関わりで論じているが、特に山崎闇斎の思想を「道義」的な観点から照明しようとする阿部の立場は、すでに1939 年の論考に表れている。 本稿では、このように、明治期以降の「崎門」における李退渓論、および主に「教育勅語」の文脈において語り始められた「熊本実学派」と李退渓との関係をめぐる議論について考察している。
道田, 泰司 Michita, Yasushi
批判的,論理的,合理的に考えることとは異なる思考について,主に文化という観点から検討された。\n検討は,主に「声の文化」との関連からなされた。最後に,声の文化的な思考と文字の文化的な思考との関連や,どのような教育的アプローチが考えられるかについて論じられた。
林, 由華
本稿では、琉球語宮古諸方言(以下池間方言とする)に含まれる池間方言の談話資料及び簡易文法を提示する。談話資料については、筆者自身が収録した談話の書起しにグロスと訳を付している。簡易文法は談話資料解釈のための補助的資料として、形態論記述および機能語のリストを中心としている。
伊藤, 一男 ITO, Kazuo
『源氏物語』に登場する近江の君は、その特異さゆえ、さまざまに論じられてきたが、近江の君という人物そのものを考察するという点では、まだ充分に行われたとはいえない。本稿では、呪性という側面を中心に、双六や詠歌という点から、近江の君という人物を考察した。
齋藤, 真麻理 SAITO, Maori
慈円詠と西行詠との近似性はさまざまに論じられてきたところであるが、字余りという観点から作風の類似を指摘したのは、本居宣長であったと思われる。その説を検証し、両者の作風の相違点についても考察する。また、慈円に傾倒した一人の天台僧を取り上げ、その学芸の一端を考える。
金子, 克美 Kaneko, Katsumi
古墳出土鉄器の腐食生成物には主としてα-FeOOHとγ-FeOOHとが含まれる。古墳出土鉄器の保存にはFeOOH微結晶の構造と表面化学性が重要な働きをするとみられる。鉄器の腐食に関連する,SO₂,H₂OおよびSO₄²⁻,Cl⁻とFeOOH結晶との相互作用,更にFeOOH結晶の不活性化について論ずる。
小杉, 亮子
本稿では,1960年代に拡大・多発した学生運動(1960年代学生運動)について,先行研究が大規模社会変動にたいする反応や挑戦としてのみ位置づける傾向にあったのにたいし,より多面的かつ立体的な1960年代学生運動像を提示することをめざし,新たな視角として,社会運動論の戦略・戦術分析を導入する。具体的には,本稿では,1968~1969年に東京大学で発生した東大闘争における戦略・戦術を検討する。その結果,次のことが明らかになった。第一に,東大闘争では直接行動戦略がとられ,さらに,それが非暴力よりも対抗暴力を志向していったために,腕力・体力の有無と闘争での優劣や闘争参加資格とが連関するようになっていた。第二に,東大闘争終盤においては,対抗暴力が軍事的な実力闘争へと傾斜し,闘争の軍事化が見られた。第三に,1960年代学生運動の直接行動戦略が対抗暴力を志向するものとなった要因には,新旧左翼運動が持っていた実力闘争志向や武装主義と,アジア,アフリカ,ラテンアメリカにおける脱植民地・独立運動に影響を受けた第三世界主義とがあった。また本稿では,今後の展開可能性として,軍事的男性性概念の導入によって,ジェンダー的観点からなされてきた1960年代学生運動論と本稿の知見が接続しうることを示す。ジェンダー的1960年代学生運動論では,1960年代学生運動における性別役割分業や女性性の周辺化が1970年代以降の女性解放運動に与えた影響にかんする知見が蓄積されてきた。軍事的男性性という観点から,1960年代学生運動における女性参加者の動機や経験にアプローチすることによって,1960年代学生運動の軍事化とそれが運動の展開過程にもたらした影響について,さらに新たな光を当てることが可能になるだろう。
小川, 剛生 OGAWA, Takeo
南北朝時代の文芸・学問に、四書の一つである『孟子』が与えた影響について探った。『孟子』受容史は他の経書に比し著しく浅かったため、鎌倉時代後期にはなお刺激に満ちた警世の書として受け止められていたが、この時代、次第にその内容への理解が進み、経書としての地位を安定させるに至った。この時代を代表する文化人、二条良基の著作は、そうした風潮を形成し体現していたように見える。良基の連歌論には『孟子』の引用がかなりあり、これを子細に分析することで、良基の『孟子』傾倒が、宋儒の示した尊孟の姿勢にほぼ沿うものであったことを推定し、もって良基の文学論に与えた経学の影響を明らかにした。ついで四辻善成の『河海抄』から、良基の周辺もまた尊孟の潮流に敏感に反応していたことを確認し、『孟子』受容から窺える、この時代の古典学の性質についても考察した。
小木曽, 智信 岡, 照晃 中村, 壮範 八木, 豊 NAKAMURA, Takenori YAGI, Yutaka
日本語史研究の基礎資料は,残された文献に見られる用例である。用例の原文は今日一般に用いられる表記とは大幅に異なる形である場合が少なくない。例えば,『万葉集』は万葉仮名で,キリシタン資料は当時のポルトガル語のローマ字で表記されている。こうした資料をコーパスとして形態論情報を付与し,現代人に読みやすいものとするためには,原文を校訂して漢字平仮名交じりにした読み下し本文を用意する必要がある。一方で,読み下し本文では失われてしまう情報も少なくないため,用例には原文を併せて表示することが求められる。『日本語歴史コーパス』では従来,原文情報を保持しつつ必要な修正を行った上で形態論情報を付与して公開してきたが,原文情報の提供は限定的だった。今回新たに,コーパス検索アプリケーション「中納言」上で,原文の前後文脈付きで検索結果を表示できる機能を実装した。本発表ではこの原文KWIC表示機能について述べる。
滕, 越 TENG, Yue
異文化間の「断り」に関しては,中間言語語用論などの分野で,「言語や社会的規範の違いにより衝突が起きやすい」と論じられることが多い。本研究では,個人差に焦点を当て,評価 の視点から研究を進めた。『BTSJコーパス』から5つの「友人の依頼への断り」の音声データを選択し,日本語母語話者3名と中国人日本語話者3名に,断られる側の視点に立って,5つの音声の好ましさをプロトコル分析とインタビューを通して評価してもらった。その結果,録音ごとに評価が比較的一致しているものとばらけているものがあり,特に評価のばらつきが大きかった2つの録音は,評価者の「友人への断り」における基本的態度が,「合理性・効率性重視」か,「心情・気遣い重視」かで評価が分かれていた。また,今回のデータからは,評価のばらつきと評価者の母語との関連性は見いだせなかった。
コムリー, バーナード Comrie, Bernard
言語類型論は日本語等の個別言語を通言語的変異に照らして位置づけるための1つの方法を提供してくれる。本論では個々の特徴の生起頻度と複数の特徴の相関関係の強さの両方を検証するために,WALS(『言語構造の世界地図』)を研究手段に用いて言語間変動の問題を考察する。日本語と英語は言語類型論的に非常に異なるものの,通言語的変異を総合的に見ると,どちらの言語も同じ程度に典型的であることが明らかになる。また,日本語が一貫して主要部後続型の語順を取ることは,異なる構成素の語順に見られる強い普遍的相関性の反映であるというよりむしろ,日本語の偶発的な性質であると主張できる。最後に,WALSの守備範囲を超えた現象として,多様な意味関係を一様に表す日本語の名詞修飾構造,および類例がないほど豊かな日本語授与動詞の体系に触れ,それらを世界の他の言語との関係で位置づけることで本稿を締めくくる。
浅井, 玲子 Asai, Reiko
1)教員養成課程の大学生80人の高等学校における家庭に関する科目の履修内容と学習方法すべてについて明らかにした。「食生活について」「衣生活について」は9割,「家族と家庭生活」「乳幼児の保育と親の役割」は8割,「住生活」については7割,「家庭経営・消費生活」6割を超える学生が学んでいた。しかし「ホームプロジェクト」「学校家庭クラブ」については3割にも満たない履修であった。\n学習方法は,衣生活と食生活を除けば講義形式がほとんどであり,問題解決学習の経験者は,延べ人数でも1割にも達していない。\n2)教員養成課程家政教育の専門科目「生活環境論」に問題解決の手法を取り入れ,互いに学びあう場として発表,メタ認知ツールとして認知地図を書かせた。予想以上の認知的広がりが見られた。\n認知地図を書くことによって,「物事の関連性に気づいた」「頭の中が整理できた」「振り返り再考できた」「楽しかった。今後活用したい」などの評価があった。認知地図作成は,良い方法として,受け入れられた。\n3)問題解決学習についての評価は,自由記述の文章を分析すると,約72%が「楽しかった」「充実していた」「実感できた」等と記述し,約78%が「自分の学習過程で学んだ」「他の人の発表から多くを学んだ」と答え,約56%は「授業に取り入れたい」「意欲が湧いた」と記述している。「授業に取り入れたいかどうか」を問うての記述ではないので,過半数は大きな成果と捉えたい。\n4)「生活環境論」受講前後の学生の行動は,①ごみに関すること②リサイクルに関すること③省資源,省エネルギーに関すること④水質保全に関すること⑤有害物質に関することのすべての面でポジティブな変化が見られた。\nこれらの事より,家庭科教員養成課程において「生活環境論」を問題解決学習で学ばせ,お互いに発表,意見交換しあい,認知地図によって自分の学びを確認することは,情意面,知識面,意欲面更には行動変化の面でも有効であった。\n上記のことより家庭科教員養成課程において「生活環境論」を問題解決学習の手法で学ばせ,認知地図を書かせ,メタ認知を促することは,有効な方法であり,問題解決学習の良さを学ばせる事ができる方法であると考えることができた。
明治日本の朝鮮との関係を論ずる場合、明治初年の征韓論はともかく明治九年の江華島条約を日本の朝鮮への侵略の第一歩として叙述する場合が多い。しかし、実際にその当時の新聞論調を読むと、むしろこの朝鮮との条約の締結を、ペリー来航時の状況に譬えて考えているものが多いことがわかる。 従って、朝鮮の頑固な排外的態度も、これを日本蔑視として糾弾する意見と同時に、かつての日本もまた同様であったではないかとして、寛容な態度でこれに臨むべきとする論調もまた少なくないのである。特に明治十五年の壬午軍乱では、多くの出版物が多種多様な論調を張った。この当時の論説では相反する意見を併記することがよく行われたが、これは対話体で、アジアに対する積極進出論者と穏健な同盟論者の意見の双方を平等に描き出した手法に対して先駆的な位置にあるものというべきである。 しかし、明治十八年の甲申政変に際しては、厳しい言論統制が行われ、日本側が、積極的にクーデターの後押しをしたという事実は全く国民には知らされなかった。以後、朝鮮に対しての情報が制限された中で、日本人の朝鮮への意見が自由に集約されるということは、国会開設という事態があったにもかかわらず、起こりえなかった。 日清戦争に際しては、戦争に熱中して日本勝利に酔い、朝鮮に対しては後進国という蔑視が目だつなかで、改革勢力としての東学党に対する評価は、自由党がわのみならず、政治的立場としては国家主義的なアジア進出を目指す東邦協会の論調においても、真摯な改革団体としての東学党を高く評価するものがある。 その東学党が日本軍、政府軍によって壊滅させられ、さらに国王のロシア公使館への避難によって、親露政権が誕生すると、これまで朝鮮の改革に深い関心をもって様々な論調を張ってきた福沢諭吉は、一切の同情心を捨てて朝鮮に対せよと説く。三国干渉において日本の憎悪の的となったロシアとの提携は、明治初年から十年代には豊かに見られた朝鮮に対する日本人の同情心に最後の打撃を与えたのである。
藤井, 隆至 Fujii, Takashi
本稿は,雑誌『郷土研究』がどのような主題をもち,どのような方法でその主題を分析していったかを解明する。この雑誌は1913年から1917年にかけて発行された月刊誌で,柳田国男はここを拠点にして民間伝承を収集したり自分の論文を発表したりする場としていた。南方熊楠からの質問に対して,この雑誌を「農村生活誌」の雑誌と自己規定していたが,それでは「農村生活誌」とは何を意味するのであろうか。彼によれば,論文「巫女考」はその「農村生活誌」の具体例であるという。筆者の見解では,「巫女考」の主題は農村各地にみられる差別問題を考究する点に存していた。死者の口寄せをおこなうミコは村人から低くみられていたけれども,柳田はミコの歴史的系譜をさかのぼることによって,「固有信仰」にあってミコは神の子であり,村人から尊敬されていた宗教家で,その「固有信仰」が「零落」するとともに差別されるようになっていったという説を提出している。差別の原因は差別する側にあり,したがって差別を消滅させるためには,すべての国民が「固有信仰」を「自己認識」する必要があるのであった。その説を彼は「比較研究法」という方法論で導きだしていた。その方法論となったものは,認識法としては「実験」(実際の経験の意)と「同情」(共感の意)であり,少年期から学んでいた和歌や学生時代から本格的に勉強していた西欧文学をもとにして彼が組み立ててきた認識の方法である。もう一つの方法論は論理構成の方法で,帰納法がそれであるが,数多くの民間伝承を「比較」することで「法則」を発見しようとする方法である。こうした方法論を駆使することによって彼は差別問題が生起する原因を探究していったが,彼の意見では,差別問題を消滅させることは国民すべての課題でなければならなかった。換言すれば,ミコの口寄せを警察の力で禁止しても差別が消滅するわけではなく,差別する側がミコの歴史を十分に理解することが必要なのであった。
外川, 昌彦
本稿は、近代日本を代表する美術家・岡倉天心のアジア美術史に関する認識の転換を、1902 年のインド滞在中のベンガル知識人との多様な思想的交流の経緯を通して検証する。岡倉にとってインド美術史の探求は、ハーバート・スペンサーの社会進化論やヘーゲルの発展段階論に基づく芸術の単系的な発展モデルを克服し、アジア諸美術の「自然な成長」やその相互交渉を捉える視点を与えるものとなっていた。 本稿では、岡倉がギリシア美術の影響を離れたインド美術の内発的発展という新たな視点を獲得する鍵となる人物が、近代インドを代表するヒンドゥー教改革運動家ヴィヴェーカーナンダであると考え、ヴィヴェーカーナンダとの交流を通して岡倉が、インドの美術や歴史に関わる新たな認識を深めてゆく経緯を、日本とインドに残された当時の資料を対比して検証する。 本稿の構成は、以下の通りである。第一章は、日本の仏教美術とギリシア美術の類似性という美術史上の争点についての岡倉の視点の変遷を検証し、本稿の課題を位置づける。第二章は、岡倉天心の生涯を検証するこれまでの伝記的研究を整理し、本稿の課題の背景を明らかにする。第三章は、岡倉のアジア美術史観の変遷を、社会進化論やヘーゲル美学の影響を通して検証し、インド訪問後のその視点の変化を検証する。第四章は、岡倉とヴィヴェーカーナンダの相互の影響関係を検証する手掛かりとして、両者の著作に見られる共鳴関係を検証する。第五章は、インド美術に関心を深めたヴィヴェーカーナンダの、当時のインド美術のギリシア起源説への批判的なまなざしを検証する。第六章は、両者の思想的な影響関係を、仏教の伝播や社会変革の思想としての仏教などの論点を対比して検証する。第七章は、インド美術の独自の発展を捉えようとする両者の問題関心の共有を検証し、その影響関係の広がりを跡付けて、まとめとする。
田原, 美和 Tahara, Miwa
この論文は「琉球大学教育学部紀要」(第72集,2008.3,p207-215)に掲載された論文を査読により論文タイトルを修正し、「研究論文集-教育系・文系の九州地区国立大学間連携論文集-」(第2巻第1号(通巻第2号),2008年9月)に採択されたものである。
藤原, 幸男 Fujiwara, Yukio
1992年以降において、思考力・判断力、関心・意欲・態度を重視しこれを学力の核と位置づける「新学力観」が全面的に展開され、教育現場のなかに下ろされてきている。さらに学校週5日制が月一回導入され、学校のカリキュラム編成が変わらざるを得なくなった。また「子どもの権利条約」が推准され、「子どもの権利条約」を視野にいれて、「授業と学習集団」の指導を考えなければならなくなった。こうした状況のもとで、「授業と学習集団」の研究と指導は新しい局面を迎えている。本論文では、1992年から94年までの「授業と学習集団」研究の動向として、教科内容と学習集団の関連のとらえ直し、吉本均の「授業と学習集団」論の再評価と展開、相互主体的・共同探求的授業と学習集団、現代的・地球的課題にとりくみ地域にとびだす自主的学習活動と学習集団、学習・参加・自治と学習集団、「授業と学習集団」への身体論的アプローチについて述べた。
星野, 靖子 Hoshino, Yasuko
本稿では、Twitterにみられる一種の慣用表現「名前をつけたい」のコミュニケーション論的特徴を明らかにすることを目的とする。従来は「子供には季節を感じる名前をつけたい」「ファイルに別の名前をつけたい」等の人やモノを対象とする命名表現だが、Twitterでは「試験前に部屋を片付けたくなる現象に名前をつけたい」などの個人的な出来事や感情を述べる特徴がみられ、抽象的な名詞とは対照的に名詞修飾節の内容が個別具体的である点から、「名前」から想起される一般性の高さに反して認知意味論的なミスマッチが生じている。そこで、Twitterの用例を収集・分類し、国語研現代日本語書き言葉均衡コーパスの用例を比較した結果、①当該表現は2007年以来Twitterで頻出し、その大半は命名を意図しないこと、②後続の抽象名詞に通時的変化がみられ、共起語「現象」とあわせて慣用表現化していることが明らかになり、③「名前をつけたい人生だった」等のメディア特有の変異形が確認された。
Miyahira, Katsuyuki 宮平, 勝行
普遍的な発話行為のひとつとして唱えられた依頼行為(directive)については、多くの言語共同体における比較談話研究から、その表現上の多様性が明らかにされてきた。言語共同体に特有な依頼行為から推察される、文化的に規定された自己、対人関係、そして権力構造などについても多くの論考が存在する。異文化コミュニケーションにおいては、このような文化的特色を持つ総体が複数存在することから、談話を通して依頼行為の表現と意味の違いに関する相互調整が必要となる。そこで本稿では、従来の比較談話研究の結果を考察することによって、異文化コミュニケーションにおける依頼行為の研究の理論的立脚点をまとめてみた。考察の結果は四つの論点にまとめられる。(1)異文化コミュニケーションの研究では、発話者と聞き手の能力や態度、権利、義務などに関する語用論上の条件を当然のものとして受け止めず、意識的に分析することによってまず依頼に関する異文化間の類似点と相違点が明らかになる。(2)依頼行為の最も基本的な誤用論的特徴はその直接性と間接性にある。(3)依頼表現を直接-間接という連続体の上で捉えることによって、顕著な依頼表現の特徴を見出すことができる。このようにして明らかにされた依頼表現の誤用論的特徴は、背景にある文化特有の意味を発見し、それを的確に解釈する手がかりとなる。(4)異文化コミュニケーションで必要な依頼行為の相互調整の方法とそこから推察できる自己や対人関係の文化的な解釈には、直接-間接という連続体での駆け引きを考察することがひとつの有効な方法である。
スタインバーグ, マーク エルネスト・ディ・アルバン, エドモン 須川, 亜紀子 松井, 広志 エルナンデス・エルナンデス, アルバロ・ダビド
現代日本の大衆文化の一種であるアニメやマンガが益々注目を集める中、同人誌やコスプレなどのように、このメディア文化を中心にして行われる活動にも注目が集まっている。アニメやマンガといったメディア表現とファン文化を考える際、「商品と消費者」という単純な構造を超え、メディアの性質とその発展、メディア表現の特徴や我々がどのようにメディアと付き合うのかを、考える必要がある。この公開ワークショップにおいては、最先端のメディア論を踏まえ、3名の講師から現代日本の大衆文化におけるメディア表現とメディア使用の接点について学ぶ。
バスキンド, ジェームス
ラフカディオ・ハーン、小泉八雲(一八五〇-一九〇四)が、広範囲に亘って、日本の紹介と理解に大いに貢献した人であることは誰もが認めるだろう。しかし、ハーンの影響は民俗学や昔話に限られているわけではない。ハーンには日本の宗教や信仰、精神生活についての深みのある分析も非常に多くあり、宗教関係のテーマが、ハーンの全集の大半を占めているといってよい。それゆえ、今日、ハーンは西洋人に日本文化や仏教を紹介した解釈者としても知られている。そして同時にハーバート・スペンサーの解釈者でもあり、多くの仏教についての論述中にはスペンサーの思想と十九世紀の科学思想と仏教思想とを比較しながら、共通点を引き出している。ハーンにとっては、仏教と科学(進化論思想)は相互排他的なものではなかった。むしろ、科学的な枠組を通じて仏教が解釈できると同時に、仏教的な枠組で進化論の基本的な思想がより簡単に理解できると信じていた。この二つの思想形を結びつけるのが、業、因果応報、そして輪廻思想である。ハーンが作り上げた科学哲学と宗教心との融合は、ただハーン自身の精神的安心のためだけではなく、東西文明の衝突による傷を癒すためにもあった。
Goya, Hideki 呉屋, 英樹
語彙知識は外国語学習の中でも特に必要不可欠な知識の一つであり、近年その効果的な学習方法や教授方法が盛んに研究されている。本論文は、母語や第二言語習得論の様々な理論的枠組みを検討し、「外国語教師が語彙を効果的に教える為には、何をどのように教えるべきか?」という問いへの提言を行った。本調査で対象とした理論的枠組みは、主に語彙知識、母語の影響を示す意味転移、Word-sense に焦点を当てた意味的知識の処理、そして第2言語習論の内、近年多くの研究者の注目を集めているコネクショニズムの4つであった。調査の結果、外国語学習者の母語話者程度の語彙知識獲得の困難さの理論的な説明と、その説明を元に外国語教師が実際に教室で意識すべき事項や具体的指導方法が、これまでの指導方法と相互補完的に示唆された。また現行の理論的枠組みの限界が示され、学習者コーパスを利用しての学習者の語彙知識の学習研究分野への新たな手法の可能性が示された。
徳田, 和夫 TOKUDA, Kazuo
室町期物語の判官物「天狗の内裏」中の大日如来が語る未来記に照射し、義経伝説の生成・流布の諸相と、諸本の特性とを、他関連諸作品と比較し論じたものである。まず、第一に、未来を語るという趣向についてを中世的文藝の一面と捉え、その文藝的意味を論じ、第二に、未来記中に網羅された義経伝説と、それらの伝説を素材とした各物語との関連を見、第三に、「天狗の内裏」の諸本の該当記述を引用比較し、その差異から、各本の性質と伝説の古態的様相を追ってみた。この作業は、「天狗の内裏」の成立の考察に通じていくものである。結果、未来記中の諸伝説は、古本系統の語り口から推察されるように、単に既成文献からの抜書引用であるとは断じがたく、多くは独自に語られていたものであり、その集成であったと考えられる。そして、そうした伝説の原初的形態からも、各関連諸作品の成立も類推せしめるのであった。
加藤, 美紀 KATO, Miki
本研究は,日本語の数詞(特に基数詞)における文法的用法について論じたものである。結果としては,これまでにも指摘されている副詞的用法に関する新たな解釈と,従来の研究では論じられてこなかった用法を提示できた。具体的にいうと,前者については,確かに従来述べられているように,数詞が連用することは特色の一つとなっているが,さらに重要なことは,その数詞が,先行する名詞と組み合わさっているという点である。後者については,主に二つの用法を指摘できる。一つは,「子供が三人で遊んでいる」のような文における数詞についてである。この構文において,数詞は必ず主語(主体)のかずを示し,同時にその主語のあらわすものがグループであることを示す機能がある。もう一つは,「二人は黙って歩きつづけました」のような文における数詞である。これは,数詞の三人称代名詞的用法として提示した。
簡, 中昊
日本人作家大鹿卓は、その出世作である短編小説『野蛮人』において、植民地時代の台湾原住民を題材に、いわゆる「野蛮性」を描写することによって独自の原住民像を作り、それに憧れる主人公を描いた。具体的には原住民女性の原動と旧習としての「馘首」の背後にある社会の仕組みを取り上げ、原住民の「野蛮」の精神を知らせた。「野蛮」を賛美することによって、日本を優位に置き台湾を劣位に据えるという当時の社会通念ないし「野蛮/文明」の二元対立の図式を反転させようとした。小論はテキスト分析を通して「野蛮」の意味を分析し、植民地期の台湾文学における原住民と漢族の女性像を比較して、大鹿の創作意図を検討する。大鹿の「蕃婦」像は、「野蛮/文明」という二元対立論とは異なり、福沢諭吉の文明論や一九三〇年代に流行したドイツの文化論の影響も見られない。作中では、「野蛮」の相対概念としての「文明」「文化」には言及されない。おそらく大鹿は最初から二元対立的な構造に陥ることを避け、植民地統治の現場の深層を探求するために書いたのではないかと考えられる。大鹿の創作の主眼は、近代日本が植民地台湾で作った優劣順位を覆すことにあっただろうが、台湾原住民の旧習であった馘首などがすでに帝国の視野に入っていたため、当時、彼の意図は結局理解されなかった。しかし、彼の試みは当時の植民地文学においては先鋭的なものであった。以上のように、小論は、大鹿の作品の歴史的意味を明らかにすることを目的とする。
河合, 隼雄
『風土記』には、昔話の主題となる話が多く語られている。それより時代の下る中世の説話集にも多くの昔話の主題が認められる。ところが、『風土記』には認められても中世の説話集に認められぬもの、あるいはその逆のものなどがあり、それらを比較してみると、日本人の心の在り方が時代によって変化してゆく様相の一面が把えられ、また、日本の昔話の成立過程などを考える上で興味深い。 本論文は、以上の観点から、『風土記』のなかに認められる昔話の主題となるものを、丹念にひろいあげ、それらをある程度、項目に分けて論じたものである。多くの主題のなかで、変身、特に白鳥と蛇が人間に変身するもの、および、夢についてはまとめて論じ、後は個々の主題を取りあげて論じている。 白鳥が乙女になる話は全世界に分布していると言っていいほどである。それが『風土記』には認められるが、中世の説話集のなかでは姿を消しているのが特徴的である。また、動物が変身して人間と結婚する話において、後世になると、動物が何らかの意味で報恩のために行為することが多くなるが、『風土記』には動物の報恩という主題がまったく認められない。以上のことは、『風土記』には仏教の影響がほとんど認められないためではないかと思われる。また、継子いじめの主題が『風土記』にあらわれないのは、母系的な家族構成のためではないかと推察される。 その他、個々の主題に関しても取りあげておいたので、昔話研究者が比較研究を行なう上での便宜となろうと思われる。
クリステヴァ, ツベタナ
この論文が中心に扱うのは、平安時代と鎌倉時代の仮名日記文学である。その考察にはいろいろなアプローチを応用し、自伝形式としての日記文学の特徴と同時に、研究方法の問題も取り扱っている。 先ず、人称的言説に非人称的言説という問題を取り上げて、自伝文学が一人称の文学形式であるにも係わらず、物語言説の「一人称」が必ずしも文法的な一人称とは一致していないということを論じた。それに基づいて、自伝形式を特徴づける三つの審級―書き手、語り手、主人公―の関係を考え直したものである。 次に西洋の代表的な文学批評を紹介した上で、いわゆる「期待の範囲」(horizon of expectations)の問題を考慮し、同じく自伝文学と呼ばれていても、異なった文化伝統に根を降ろしているので、形式の基準がずれていることを指摘して、その主な違いの一つとして自我概念の問題を取り上げた。 以上のような前提に基づいて、日本と西洋との二つの自伝文学の伝統を比較した結果、共通点よりも、差異が多く出てくるので、直接的な比較研究の限定の問題を提起した。そして、その限定を乗り越えるには、どちらの「言葉」でもなく、「第三者」の理論的な言葉の応用が有益であると訴えた。 最後に、ジェラール・ジュネットの『物語のディスクール――方法論の試み』という本を「第三者」の言葉として使用しながら、日記文学と西洋の自伝文学における「時間」の問題を考察し、ジュネットの「方法論の試み」の延長の試みとして、日記文学のディスクールを特徴づける「待つ」の場面に適応する、もう一つの時間形式を提起したものである。
工藤, 雄一郎
本論文では,縄文時代の漆文化の起源をめぐる研究史について,1926年から2010年代まで歴史を整理した。縄文時代の編年的な位置づけが定まらない1930年代には,是川遺跡に代表される縄文時代晩期の東北地方の漆文化は,平泉文化の影響を受けて成立したものという考えがあった。1940年代に唐古遺跡で弥生時代の漆文化の存在が確認されて以降,中国の漢文化の影響を受けた弥生文化から伝わったという意見もあった。1960年代以降,照葉樹林文化論の提唱を受け,縄文時代の漆文化は大陸から各種の栽培植物とともに伝わったという見方も広がった。1980年代には,中国新石器文化と縄文文化との共通の起源を想定する共通起源説も登場した。これらはいずれも縄文時代の漆文化を列島外から来たとする伝播論である。一方,加茂遺跡の縄文時代前期の漆器の出土を考慮して,1960年代には縄文時代の漆文化自生説も登場する。その後,1990年代には縄文文化の独自性や縄文時代の漆文化の成熟度を重視する研究者から,自生説が主張されるようになる。2000年の垣ノ島B遺跡の発見,2007年の鳥浜貝塚の最古のウルシ材の存在の確認によって,縄文時代の漆文化自生説は力を増した。しかし,垣ノ島B遺跡の年代は信頼性が担保されていないこと,また垣ノ島B遺跡の事例を除外すると,中国の河姆渡文化の漆製品は日本列島の縄文時代早期末の漆器と同等かそれ以上の古さを持っていることを年代学的に検証し,改めて縄文時代の漆文化の起源が大陸からの伝来であった可能性を考慮する必要性があることを論じた。
小椋, 秀樹 山口, 昌也 西川, 賢哉 石塚, 京子 木村, 睦子
『日本語話し言葉コーパス』では,形態論的な単位として,品詞の分布などの計量研究によって資料の特徴を明らかにするための長単位と,用例を採集し,話し言葉の語彙・語法の研究を行うための短単位の2種類の単位を採用した。本稿では,この2種類の単位の設計方針及び認定基準の概略について述べることとする。
森岡, 正博
本論文は、パソコン通信のフリーチャットに典型的に見られる、匿名性のコミュニケーションを分析し、電子架空空間で成立する匿名性のコミュニティの諸性質について論じる。その際に、都市社会学の観点からの分析を試みる。 パソコン通信を都市社会学の観点から議論する試みにはほとんど前例がない。本論文で提起されるいくつかの仮説は、今後のメディア論に一定の影響を与えると思われる。
Iida, Taku
本稿では,人類学の分野で別個に扱われることの多かったアフォーダンス理論(生態心理学,道具技法論)と関連性理論(記号論,コミュニケーション理論)を統合するための基礎的作業として,ふたつの理論の共通性を考察する。まず,両理論は互いに排除しあうものではない。アフォーダンス理論は記号現象を対象としにくいという制約があるが,関連性理論をはじめとするコミュニケーション理論は物理的環境のなかでの行為も記号現象も等しく対象としうる。そのいっぽう,いずれの理論も,主体をとりまく環境に散在するさまざまな情報を探索しながら選びだし,それをもとにして状況を認知する点で共通する。これは,脳内に精密な表象を構成することで状況を認知するという考えかたとは大きく隔たる。ふたつの理論は,その適用対象を違えながらも同じ立場に立っており,統合することも不可能ではないのである。このことを意識していれば,心理学者ならぬ門外漢の民族誌家でも,他者の「心理」にもとづきつつ,フィールドで直面することがらを記述できる可能性がある。本稿は,そうした「限界心理学」を始めるための準備作業である。
稲賀, 繁美
本稿は、平川祐弘の英文による著作『日本の西欧との愛憎関係』(グロウバル・オリエンタル、二〇〇四)への書評である。本書は著者がこの三十余年に亘って、主として海外の国際学会で発表してきた二十九本の論文をまとめる。唐代の詩人李白から、日本海軍大将・山梨勝之進や、俳諧の学匠R・H・ブライスといった現代人にいたるまでの登場人物を扱った本書は、題名に掲げた主題に関して、高密度にして批判的な鳥瞰を展開する。ダンテの『神曲』の日本語訳から夏目漱石の『こころ』の英訳までが、議論に取り上げられる。この大著は熱狂的な賞賛に迎えられるとともに、また方法論や学術作法に関して、論争も巻き起こしている。「黄色人種の偏見」を自称する著者の見解が英米圏の読者層から、「徳ある敵」として末永く遇されるが期待されよう。本書評は平川の広大にして緻密な知的勉励に評定を加え、その比較文学あるいは国際文化関係論としての有効性を、昨今の脱植民地・脱理論の知的状況の中で検証しようとするものである。
金, 銀珠 KIM, Eunju
本稿では,「髪の長い人」のような主格助詞「の」が用いられる連体節の用例を分析し,次のような傾向を観察した。「の」は連体節の述語連体形が語彙概念として無行為・無変化・無時間の性質(状態性)をもち,その形態が脱テンス・アスペクト化するにつれ使用頻度が高くなる。また,連体形特有の用法を表す形態と親和する傾向を示す。連体節内の主語と述語の間の介在要素がほとんど見られず,主語・述語から成る非対格構造との親和性を見せる。文としての自立性をもつ連体節には表れにくく,被修飾名詞の意味実質性が強い構造で用いられる。このようなことから「の」は,述語が「状態性述語」であることを示し,連体修飾部と被修飾名詞が状態・属性とその帰属対象の関係にあることを示すものと論じた。さらに,状態性述語の特徴は名詞述語の性質と捉えられ,その意味において「の」は述語連体形の名詞性に係るものであると論じた。「の」は述定の構造で表れるが,その内実は述語連体形と装定の関係を成している。
杉戸, 清樹 塚田, 実知代 SUGITO, Seiju TSUKADA, Michiyo
そのつどの言語行動の種類について明示的に言及するメタ言語的な言語表現類型について,杉戸・塚田1991で書きことばの専門的文章を検討したのに引き続き,話しことば,とくに公的なあいさつを対象とした記述分析を行なった。公的あいさつには,表現のあらたまりを目指したと解釈されるレトリカルな言い回し(動詞そのものも文末形式も)によって,くりかえされる場合も含めて一つのあいさつに平均して3~4回,相当のバラエティの言語行動を説明するメタ言語表現が現れる。書きことば資料で優勢であった意志や希望を明示する文末形式は公的あいさつでは少数である一方,文末の敬語要素はあいさつのメタ言語表現には相当豊富である。また,当該の言語行動を直接的に表現する直接表現は,メタ言語表現に比べて少ない。これらの事実は,あいさつのあらたまり性を目指して表現の直接性を避けた結果と解釈される。発話行為論で言う発語内行為が明示的に言語化される実態を記述し,それが語用論で言う言語表現における対人的なあらたまり(丁寧さの一種)と深く関連しているという解釈を,本稿では言語行動研究の観点から指摘した。
Uehara, Kozue 上原, こずえ
本論文は,1970年代の沖縄における金武湾闘争,そしてハワイにおけるカホオラヴェの運動に着目し,抵抗運動における「伝統」文化の実践に関する新たな視点を提示する。金武湾闘争は沖縄の復帰後の1973年に始まり,金武湾の宮城島―平安座島間の埋立て,石油備蓄基地・石油精製工場の建設に反対した。一方のカホオラヴェの運動は1976年に起こり,1941年の日本軍による真珠湾攻撃から始まった,米軍によるカホオラヴェ島での軍事射撃・爆撃訓練に反対した。両運動は,太平洋で隔たれた沖縄とハワイで組織され,異なる問題を扱っていたが,そこで表出した思想や実践には連続性が見られる。金武湾闘争とカホオラヴェの運動における「伝統」文化の実践は,「伝統の創造」論に重要な問題を提起する。1980年代以降,太平洋諸島の民族主義運動における「伝統」文化の語りや実践が集団内の権力構造を確立し維持する,という批判が「伝統の創造」論をもってなされた。この主張に対し,さまざまな立場からの批判がなされた。本論文では,「伝統の創造」論による民族主義運動への批判が,抵抗運動における「伝統」文化の意義を認識できていないことを指摘し,その意義を金武湾闘争とカホオラヴェの運動における「伝統」文化の実践を分析することで提示する。本研究は,筆者の移動者としての個人的な経験から生まれた問いや,比較の視点に基づき議論を進める。沖縄からハワイに移動し,そこで知りえたカホオラヴェの運動と,筆者のホームである沖縄の金武湾闘争との間にはどのような接点があるのか。本論文では第一に,「伝統の創造」論による太平洋諸島の民族主義運動に対する批判と,それに対する反論を概観する。第二に,金武湾闘争とカホオラヴェの運動の歴史的な背景をふまえ,機関誌,その他の未出版資料,聞き取り調査の記録から,両運動における「伝統」文化の実践とその意義を検証する。研究結果として,次の三点を明らかにした。金武湾闘争とカホオラヴェの運動では,「住民」や「オハナ」という運動参加者個々人の行為者としての役割が強調された。また両運動では海や土地の重要性が「伝統」文化の実践を通じて主張され,開発や軍事訓練への抵抗とされた。さらに両運動では,「伝統」文化の実践が,運動参加者間の結びつきを強め,援農活動や共同体の自治を模索する動きにつながり,他の島々における抵抗運動との連帯を生んだ。
福田, アジオ Fukuta, Azio
日本の農業生産の場である耕地片は小さく、しかもその小さい耕地片がそれぞれ異なる農民によって所有され、あるいは耕作されているということは古くから知られていたことである。一九五〇年代を中心にした日本の社会経済史では、この分散零細耕地形状を封建制の表現、あるいは封建社会の基礎にあった共同体の存立基盤として把握し、その形成過程を明らかにする論が展開したことは知られている。それらの論が提出されて以降、近世の百姓が経営する耕地の存在形態は「零細錯圃制」であったと言うことが、必ずしも実証されることはないまま、一つの決まり文句として近世史研究では常識化したといえよう。しかし、耕地形状の研究が共同体論と深く結び付き過ぎていたために、共同体研究が下火になると共に関心が薄れ、研究は深まることがなかった。重要な研究課題が放置されたままになっているのである。本論文はあらためてこの問題を取り上げて、南関東地方の一村落における錯圃制耕地の形成過程を実証的に明らかにし、その結果から錯圃制耕地論の意義を考えようとするものである。この研究は地図上に具体的な水田の配置を描き、それをだれが所有しているかを記入することを一六世紀末から一九世紀にかけてのいくつかの年次について行い、その変化から考察するという方法を採用した。この村のもっとも古い水田の配置状況を知ることができる一六世紀末において村落は三軒の家で構成され、各家は屋敷と耕地を一括して所有するという一種の農場形式のあり方を示していた。その三軒から一七世紀中期には九軒の家に増加するが、その過程で屋敷と耕地の完全な一括性は崩れ、屋敷近くに田を確保しつつも、その他の離れた場所にもいくつかに分けて所有するという姿が一般化した。この結果として、近世の村落秩序の基礎に耕地の錯圃制があったことは明らかであるが、その形成過程にはそれまでの屋敷の放棄と新たな屋敷の設定による集落形成があったことに注目しなければならないであろう。そして、一七世紀後半は、各家が均等分割を繰り返しながら家数を増加させた時期であり、その均等分割が耕地の散在性を強め、いわゆる零細錯圃制をもたらした。それは屋敷が互いに隣接して設定することによるひと続きの集落景観の出現と対応している。家々の分立に際して生産条件を等しくしようとする判断が、田を交互に持つような形で徹底した均等分割を行わせており、ここに零細錯圃制が確定した。
江戸, 英雄 EDO, Hideo
『うつほ物語』は俊蔭の波斯国漂流、異郷訪問譚で始まる。異郷への想像力が琴の物語の根底に働いていることは疑えない。本稿は、折口信夫の異郷論から出発した。琴の伝授と恩愛の惑いが物語のなかで繰り返される主題であり、未生の犬宮物語を前にした緊張のもとでもまた、恩愛の惑いを生む異郷が秘琴波斯風の音の起源たりえていることを明らかにした。
佐藤, 智照 SATO, Tomoaki
本稿では,第二言語としての日本語の文章読解を語用論的観点から捉え,日本語学習者は,どのようにして書き手の意図に沿ったコンテクストを選び,書き手の意図した意味を理解しているのか,その際,どのような困難点があるのかについて検討を行った。具体的には,11名の中上級日本語学習者を対象に語用論的推論課題及びインタビュー調査を実施した。その結果,日本語学習者が推論を行う際に用いるコンテクストは,文章の主題や言語的コンテクストだけでなく,コンテクスト的含意や文章の構成,言語的知識,背景知識など幅広いことが確認された。また,推論を行う際,複数のコンテクストを想定して複数の解釈を得たり,それらの解釈を当該の文章に当てはめて妥当性を判断することや,初めに得た解釈に対して意味的なつながりが保てないような新たな情報が与えられた場合,解釈の修正を行うことが確認された。一方,誤った解釈を行った日本語学習者は,複数のコンテクストを想定することが困難であり,特定のコンテクストのみを想定した解釈を行うことや,初めに得た解釈を修正したり,再解釈を行うことが困難であることが確認された。また,推論の方向性が明示的に示されない自由拡充では,推論の必要性に気づくことが困難であり,誤った解釈を行う可能性が高いことが確認された。
平田, 光彦
本研究は、仮名の「散らし書き」の二次元的構成を構図によって把握し、分析する方法を提示するものである。散らし書きは平安時代に生起した表現であり、各行の文字の書き出し(行頭)と書き終わり(行脚)の位置、行の長さ、行と行との間隔(行間)等に変化がつけられた書き振りのことである。 仮名の空間は、線や字形、線や文字の連続による流れ、墨量の変化、散らし書きなどの目に見える造形に加えて、流れの切断や行と行との関係などから生じる「間」や響きといった感覚的な所与などが、時間の推移を伴いながら相互に関連して構成されている。本研究の対象とする散らし書きは、仮名の美を構成するこれら諸要素のうち、空間の意匠性にもっとも関与するものである。 散らし書きによる空間の二次元的構成については鎌倉以降の書論や今日の解説書などに論じられてきた。それらの視点は、自然の景観を型によって教示したものや、散らし書きによって形成される行頭行脚のアウトラインを用いた形式的な分類、あるいは書写空間を図形によって提示する等の方法で実践の工夫へと結びつけようとするものであった。 本研究では、まずこれら従来の散らし書き論について、各論の要点を抽出して捉え直し、理論的な流れを把握した。続けて新しい散らし書きの理論として補助線を用いた構図法を提案し、実際の古筆を用いた分析をおこなった。研究の題材には、平安古筆を代表する散らし書きの名品である「寸松庵色紙」と「継色紙」、そして『古今和歌集』の完本として伝存し、冊子本の展開から意匠性に富んだ散らし書きが観察できる「元永本古今集」を選定した。補助線を用いた分析によって、紙面に潜在する行と行との関係や視線の流れが可視化され、空間の変化と統一を形成する具体的要因や、書き手が散らし書きにあたって感覚的に見定めていたものを客観的に推察することができた。従来の理論とは異なる視点から散らし書きの構成を読み解くこの構図法は、仮名表現の研究や創作、およびその教育や指導場面において有効に活用できるものであり、仮名の構図論に新たな地平をもたらすことが期待される。
井原, 今朝男 Ihara, Kesao
本稿は、これまで開発領主による荒野開発として論じられてきた中世開発史の諸問題を、税制史の視点から再検討し、災害と開発が日常化した中世社会において、荒廃した耕地の土地利用をどのように再生させ、徴税しながら課税対象地を拡大し、農業生産を復興させていったのか土地利用再生システムの問題として再検討したものである。第一に、院政期から治承内乱期に、課税対象地の本田数は荒廃化・減少し、権力による上からの再開発が組織されないかぎり下から公田再開発が無かったことを論証した。第二に、中世における荒野は、通説のような未開地や原野とはいえず、土地利用が行き詰まった耕地を指す政治的地目であった。院政期には知行国主・国司と開発主体との間で立券文により、地目に応じた斗代、別納などの収納方法、雑公事免除の特典という契約がなされ、開発所当・荒野所当は負担しなければならなかった。平安期国司が三カ年の年貢公事免除を条件に開発を奨励したとする網野・戸田説は再検討が必要である。鎌倉時代になると幕府が三年間荒野に立てることを公認し、雑公事・開発所当とも免除され、南北朝期に四年、戦国期には五年、七年、十年と免税期間が長期化して開発者に有利な免税特権が慣習化した。旧本主権が残存しながら土地利用が行き詰まった土地は「荒野に成す」ことによって地目変更して旧本主権を消滅させ、「新開」により新しい開発主体を決め、「開発文立券」や「宛状」により新本主権を社会的に公認し、納税させるという土地利用再生のための社会的システムが機能していた。第三に、中世では、知行国主・国衙や荘園領主等と開発主体との契約によって「古作」「年荒」「古新」「当新」という四つの地目に応じて古作・年荒は段別五斗代、古新は三斗五升代、当新は段別二斗五升代という複数斗代制が実施された。これまで開発領主制論として論じられてきた災害と開発の諸問題を中世の土地利用再生システムとして論じるべきことを提起した。
Takada, Akira
本論文では,言語の自然化は可能かという問いの一環として,他者と同じように行為することの社会的意義について考える。私はこれまで,模倣の社会科学と模倣を可能にする認知過程についての研究,いいかえれば,ルーマンらが議論している社会システムと心理システムを媒介する次元としての相互行為システム(e.g. ルーマン 1993; 1995)について論じてきた(高田 2019)。本論文では,ナミビア北中部に暮らすクン・サンにおける乳幼児を含む相互行為(CCIと略す)に着目し,模倣に関わる行為間の関連性について論じる。さらに,こうした相互行為システムにおいて創造的な模倣が可能になる条件を探っていく。私たちが他者と同じように行為することによって,どのように行為の意味を生み出し,理解し,それに応答しているのかを分析していくことは,言語の自然化を経験論的に推進する。それは心と物の二世界物語の脱構築(ライル 1987)をともなうとともに,自然の入念な観察から世界の仕組みを学ぼうとするという自然誌の伝統に沿った学問的アプローチである。
廖, 育群
脚気はかつて日本人の風土病であり、江戸時代において、「脚気」を論ずる著作が多く現われた。従来の歴史研究はこの「脚気」を現代医学でいうベリベリと見なし、その原因も日本人の食生活――つまり米を主食とするダイエット――に求めてきた。 この論文は、江戸時代の「脚気」は概念的にも、また臨床所見においてもベリベリと異なることを指摘して、江戸時代の脚気の内容と時代背景を再考する。
Tsukada, Shigeyuki
本稿では,宋朝,11 世紀半に大規模な蜂起を起こし,チワン(壮)族の「民族英雄」とされている歴史的人物儂智高(1025–1055 ?)に関する,現代中国における研究動向を検討した。あわせて,従来研究されてこなかった諸問題をも検討した。 1950 年代後半から1960 年代に,マルクス主義的発展段階論にそった論争が展開された。ついで1979 年の中越戦争以降,儂智高の国籍問題が論じられ,儂智高中国人説が有力となった。1990 年代後半,「民族英雄」としての評価が出現し,2000 年以降定着した。愛国主義思想の普及にともない儂智高の「愛国者」としての位置付けが定着した。また,雲南や東南アジア大陸部に研究の地域的な広がりが見られるようになった。さらに,メディアが論争に参入した。2000 年代,ウエブサイトの普及により一般の市民を巻き込んだ,新たな論争が展開されるようになった。地方からの論評が続々と出現し研究の裾野が広がった。 儂智高に関する再解釈が現代中国では絶えず行われ続けてきた。儂智高をめぐる研究には時代の風潮が映し出されてきたのである。
ポッペ, クレメンス POPPE, Clemens
日本語と韓国・朝鮮語は共に高低アクセント方言が存在し,その中には類型論的に見てよく似たアクセント体系がある。しかし,両言語の諸方言における形態構造とアクセントの関係の類似点と相違点についてはまだ詳細に解明されていない。本稿では,その解明の第一歩として,日本語の東京方言,京阪方言,韓国・朝鮮語の慶尚道方言,咸鏡道方言を取り上げ,複合語と接辞・助動詞・助詞などの付属形式のアクセント上のふるまいを中心に形態構造とアクセントの関係を比較し,それぞれのアクセント体系に見られる共通点と相違点について考察する。主な相違点として,次の点が挙げられる。まず,韓国・朝鮮語の方言に比べて,日本語の方言においてアクセント・トーンに関わる形態音韻過程の種類が多い。また,これに関連して,韓国・朝鮮語の二方言ではアクセント型の決定において句と語の区別がほとんどされていないのに対し,日本語の二方言では句と語の区別がはっきりとされており,形態構造や接辞の種類等によって様々な過程が見られる。この相違点を説明するにあたり,類型・機能論的観点の議論を進める。
河瀬, 彰宏 KAWASE, Akihiro
本論文では,(1)日本民謡の音楽的特徴--旋律に内在する法則--を科学的に捉え,(2)抽出した特徴に基づき日本民謡の地域性を客観的に判断する指標を示す。はじめに『日本民謡大観』(1944-1993)に収録されている種目のうち全国的に網羅的に存在する日本民謡1,794曲と,Web上に公開されている大規模音楽データベースに収録されている中国民謡1,984曲から,それぞれ音楽コーパスを構築する。日本民謡の比較対象として,中国民謡を用いる理由は,中国音楽が日本音楽の形成に多大な影響を与えてきたにもかかわらず,音楽文化や旋律のもつ雰囲気などの点で違いが見受けられるためである。分析の手順としては,各コーパスに対してVLMCモデルを用い,旋律中に繰り返し出現する音程推移パターンを抽出する。そして地域・種目などの背景要因に応じて日本民謡の楽曲データをグループに分割し,計量的な手法を用いてその特徴を比較検討する。その結果,日本音楽の特徴は,民俗学や歴史学において提唱されている日本列島の東西二分論(社会組織論)のほか,方言研究やアクセントの分布図とも一致することがわかった。
西原, 大輔
一八六七年の高橋由一による上海渡航以来、近代日本の画家たちは、アジアを描き続けてきた。本稿は、エドワード・W・サイードのオリエンタリズム論を利用して、近代日本絵画におけるアジア表象を分析したものである。 『オリエンタリズム』でサイードは、一九世紀フランスにおけるオリエンタリズム絵画の流行については、ほとんど論じていない。しかしサイードの議論を引き継いだリンダ・ノックリンは、そこに西欧中心主義が見られると主張している。では、アジアの植民地を描いた近代日本絵画にも、サイード的意味でのオリエンタリズムは存在するのだろうか。 画家藤島武二は、一九一三年に朝鮮半島を旅行したが、その紀行文のなかでフランスのオリエンタリズム絵画に言及している。藤島は、フランス絵画に植民地アルジェリアをテーマとした作品が多いと述べた上で、日本人画家も新植民地朝鮮を美術の題材として積極的に開拓すべきであると言う。また、アジア女性を描いた近代日本の肖像画には、フランス絵画のオダリスクの主題から影響を受けたと考えられる作品もある。さらに梅原龍三郎は、アジアの植民地にこそ鮮やかな色彩があり、日本にはそのようなものはないと語っている。これらは、日本絵画がオリエンタリズムの影響を受けたことを物語っている。 しかし、アジアを描いた近代日本絵画を、サイードのオリエンタリズム論で説明しつくすことはできない。和田三造らによる多数の作品が、日本とアジアの共通性を強調している。児島虎次郎の絵にみられるように、非西洋である日本は、「自己オリエンタリズム」によって、「東洋人」としてのアイデンティティを形成してきた。従って、宗主国日本もアジアの植民地も同じ「東洋」と見なされる。大日本帝国は、植民地も日本も等しく「東洋」であるという言説によって、支配の正当性を確保しようとしてきた。アジアを描いた近代日本美術にも、同質性の強調という特徴を見出すことが可能である。
武井, 弘一 Takei, Koichi
近世に生きた村老たちの治水論に迫ることで、洪水・水害と村社会との関係のありようを問う。これが小稿の課題である。村老として注目したのは、加賀藩の篤農家・土屋又三郎と享保改革の地方巧者・田中丘隅の二人である。新田開発が進む17世紀には、河川流域にまで耕地が広がっていなかった。したがって、川の氾濫は、ヒトへ与える危害が少ない洪水だった。一方、耕地の開発がピークに達していた18世紀前半には、河川の流域にまで村々は広がり、人々は水害に悩まされ続けた。すなわち、新田開発は、近世日本を「水田リスク(人為型危険)社会」に巻き込んだといえよう。
山崎, 誠 YAMAZAKI, Makoto
本稿では,萌芽・発掘型共同研究プロジェクト「テキストにおける語彙の分布と文章構造」の成果の一部をとりあげて報告する。具体的には,段落間の共起語率を利用した語彙的結束性の分析とその可視化,テキスト中の共起語率の変化が文章構造の把握に利用できること,「ている」の持つ談話構成機能の分析,学術論文におけるメタ言語表現の出現傾向について論じた。
廣田, 龍平
本稿は、キツネをめぐる世間話を題材として、アニミズムおよびパースペクティヴィズム理論を参照することにより、日本におけるヒトと動物の関係性の根底にある諸存在論を明らかにすることを目的とする。キツネが人間に変身したり(「化ける」)、ヒトの知覚を操作したりする(「化かす」)妖狐譚は、日本における非西洋近代的な存在論を明らかにするにあたって重要な資料になると考えられる。しかしこれまでは、ほとんど総合的な議論がなされてこなかった。それに対して本稿では、「変身」概念を中核に据えるアニミズムおよびパースペクティヴィズム理論を採用することにより、それらの理論が依拠する北アジア・南北アメリカの狩猟アニミズム世界とキツネの妖力を構造的に比較できることを示す。アニミズムにおいては、ヒトも動物も同じような霊魂を持ち、同じような文化を持つが、身体が異なる。そのため身体を変えることにより、ヒトが動物に、動物がヒトに変身することが可能になる。またパースペクティヴィズムは、身体に由来する観点の差異化により、種によって知覚される世界が異なってくることを前提とする。これらの枠組みを採用することにより、妖狐譚がうまく理解できるようになる。 本稿の中心的関心は、妖狐譚に見られるヒトと動物の関係性が、狩猟アニミズムと比較すると、構造的に反転しているという点である。狩猟アニミズムにおいてはヒトが「衣服」を身に着けて動物に変身するのに対し、妖狐譚においてはキツネが髑髏や藻などを身に着けて人間に変身する。また、狩猟アニミズムにおいてはヒトのシャーマンや精霊が、それぞれ動物や通常のヒトの観点を操作するのに対して、妖狐譚においては、キツネがヒトの観点を操作する。こうしたことから、日本のキツネは狩猟アニミズム世界におけるヒトのシャーマンや狩人の対称的反転であり、それが日本的な存在論の特徴であることが結論付けられる。
葉山, 茂
本稿の目的は民俗映像の制作を手段とする継続的で相互交渉的なフィールド調査の可能性を考察することである。事例として,東北地方太平洋沖地震による津波で被災した宮城県気仙沼市小々汐の民家の家財を収集し保全する文化財レスキューとその映像制作を取り上げた。この活動には筆者を含む国立歴史民俗博物館の職員と気仙沼の地域住民が参加し,協働してきた。そこで本稿では研究者と地域住民が協働する理論的枠組み,博物館における双方向性のコミュニケーションの意義を検討した。そして博物館の研究者と地域住民が協働して地域文化に関わる資料保全と映像制作をする過程を論じた。まず,研究者と地域住民が協働して資料保全や映像制作を通じて研究をする枠組みとしてのフィールドワークの問題点を論じた。従来の調査では研究者が一方的に文化を記述してきた。その問題を解決する手段として,本稿はパブリック・ヒストリーとアクション・リサーチを取り上げた。これらの手法は,地域研究や問題解決に研究者と地域住民がコンセンサスを構築し協働することを重視する。そしてこれらの方法は地域の問題解決に対して積極的な役割を期待されている現代の博物館でも,有効であることを確認した。その上で,気仙沼市での文化財レスキューを通じて筆者が映像を撮影するに至った経緯と撮影した映像の活用,映像機器を前にした研究者と地域住民とのやり取りを紹介し,映像を通じて地域住民が地域の文化を共有し,自らの経験を語るパブリック・ヒストリーの過程とそれを継続的に行うアクション・リサーチのプロセスを紹介した。以上を踏まえ,映像制作で双方向性のコミュニケーションを実現する上でパブリック・ヒストリーやアクション・リサーチの手法が有効性であることを論じた。一方,双方向性のコミュニケーションは映像という手法のもつ特性自体が可能にするのではなく,研究者による調査の設計が重要であることを指摘した。
小林, 忠雄 Kobayashi, Tadao
江戸を中心とした近代科学のはじまりとしての合理的思考の脈絡について,近年は前近代論としてさまざまなかたちで論じられている。加賀の絡繰師大野弁吉については,これまでその実像は充分に分かってはいない。本論文はこの弁吉にまつわる伝承的世界の全貌とその構造について,弁吉が著した『一東視窮録』を通して検証し,幕末の都市伝説の解明を試みたものである。弁吉は江戸後期に京都に生まれ長崎に遊学し,あるオランダ人について西洋の医術や理化学を学んだという。その後加賀国に移り住み,絡繰の茶運人形やピストル,ライター,望遠鏡,懐中磁石や測量器具,歩度計などを製作した。『一東視窮録』の表紙にはシーボルトらしい西洋人の肖像画とアルファベットのAに似た不思議な記号が描かれている。しかし,この西洋人は不明であり,またA形記号は,18世紀のイギリスで始まったフリーメーソンリーの象徴的記号に似ている。この書物には舎密術(化学)・科学器具・医術・薬学・伝統技術等々が記録され,特に写真術についてはダゲレオタイプと呼ばれた銀板写真法の技術を示したものであった。こうしてみると,『一東視窮録』の記載はメモランダムであり,整合性のある記述ではない。いずれにしろ弁吉の伝説のように,その実態が茫洋としていること自体が,本格的な西洋窮理学の本道をいくものではなかった。そして,幕末期の金沢には蘭学や舎密学・窮理学あるいは開国論を議論しあう藩士たちの科学者サロンがあり,弁吉もその中の一員であったと考えられる。そして弁吉の所業は,小江戸と称された城下町金沢の近世都市から機械産業を基軸とした近代都市へと,その都市的性格を変貌するなかで,まったく都市伝説と化していった。それは柳田國男が表現した「都市は輸入文化の窓口である」という都市民俗の主要なテーマに沿ったものとして理解できる。
Karimata, Shigehisa かりまた, しげひさ 狩俣, 繁久
宮古語の動詞代表形の起源をめぐっては、旧平良市市街地(西里、下里、東仲宗根、西仲宗根)の方言(以下、平良方言)の当該形式が日本語のシ中止形と同音であることから、かりまた1990 は、シ中止形由来形式が代表形も連体形も担っていたとする考えを論じた。しかし、その考えは、旧平良市市街地、旧城辺町などの宮古島南部と西部の方言の強変化動詞を対象に限定してなされたものであった。宮古語のそれ以外の動詞についてもあまり論じてられていない。本報告では宮古島北部の島尻、狩俣、西部の久貝、南東部の保良、北部離島の池間島の5つの方言の規則変化動詞と不規則変化動詞の代表形(スル)、否定形(シナイ)、過去形(シタ)、アリ中止形、シテ中止形のいつつの文法的な形を検討する。対象とする動詞は、語幹末子音に* b、* m、* k、* g、*s、* t、* n、* r、* w 等をふくむ強変化動詞と弱変化動詞の規則変化動詞と、「有る」「居る」「来る」「する」「ない」の不規則変化動詞である。琉球諸語の下位方言動詞活用のタイプ、および古代日本語との対応を知るうえで必要な動詞がふくまれる。
緒方, 茂樹 相川, 直幸 Ogata, Shigeki Aikawa, Naoyuki
精神生理学的なアプローチの方法を、学校教育現場などのような実践場面すなわち、実験室以外のフィールド場面に応用していくことは、今後の教育分野の科学的な理論構築を考えていく中で新たな可能性をもつと考えられる。本報告では将来的にこのようなフィールドワークを行う際に必要な方法論的な工夫のひとつとして、特に子どもや発達障害児を対象にした場合を想定しながら、artifactsの除去という面から重点的に検討を加えた。その結果、従来的な各種フィルタリング(アナログフィルタと移動平均)の手法によるartifacts除去に関わる課題を指摘し、特に障害児を対象とした記録で混入が予想される「体動および筋活動電位によるartifacts」については、直線位相FIRデジタルフィルタを当てはめることで、視察的な面からみて十分に除去することが可能であることを明らかにした。さらにこのFIRデジタルフィルタについて、脳波波形認識法に関わる前処理としての有効性についても検証し、今後のアルゴリズム簡略化の可能性を示した。将来的なフィールドワーク、特に障害児教育への精神生理学的研究の応用に当たっては、この方法論はきわめて有効な手段のひとつとなりうると考えられる。
岡, 照晃
『国語研日本語ウェブコーパス(NWJC)』は、国立国語研究所がこれまで公開してきた『現代日本語書き言葉均衡コーパス(BCCWJ)』や『日本語話し言葉コーパス(CSJ)』と異なり、形態論情報をすべて形態素解析器『MeCab』と『解析用UniDic』を使って自動付与している。『BCCWJ』や『CSJ』といった既存のコーパスの整備の際には、コーパスアノテーションと同時に、形態論情報のデータベースである『UniDic DB』に新規短単位語彙素を追加していた。そのためコーパス整備と同時に『UniDic DB』も拡張されてきたが、『NWJC』は全自動で構築されたため、新規短単位語彙素の検出とDBへの登録が行われておらず、その箇所で自動解析誤りのままとなっている。そこで本研究では、形態素解析を介さず、文字N-gramの出現頻度と連接頻度の情報から文字N-gramの分散表現を作成し、『NWJC』から『UniDic DB』に未登録の新規短単位語彙素の候補を列挙する方法について述べる。これによりDBのさらなる拡張が望めるだけでなく、『UniDic DB』のエクスポートデータで作成される『解析用UniDic』も拡張されるため、それを用いた再解析によって『NWJC』中の誤解析箇所を減らすことにもつながる。
フォキル, レザウル・カリム FAQUIRE, Razaul Karim
本研究の目的は,四つのパラメータ,即ちi)関係節における名詞化の作用,ii)主節と関係節の連携性,iii)参照的一貫性,iv)名詞句の接近可能性階層,に沿って,関係節における日本語対ベンガル語の対照分析を行い,日本語の関係節に見られる言語固有の特性を明らかにすることである。関係節における日本語固有の特性は,名詞句形成に必要な二つの条件:i)過程的条件として行われる名詞化の処理基準と,ii)実質的条件として満たし得る形態統語論的基準に基づくものである。そのためこの二つの条件は,名詞句の関係節としての解釈を導くものである。また,この条件を軸にした分析から,定形節から二段階の過程を経て名詞化され,定形節の何れかの項からなる名詞句が形成される,そのような名詞句のみが,関係節としての形態統語論的基準を満たすことを示す。つまり,このプロセスを経て形成された名詞句は,関係節としての解釈を受ける。なぜなら関係節の述語動詞が示すギャップの位置に生じ得る要素と主要部名詞が参照的一貫性を共有するからである。
李, 済滄
京都学派の東洋史学者として、谷川道雄(1925~2013)は内藤湖南からの学統を受け継いでいる。中国の歴史を時代区分論という方法で捉えた内藤は、紀元3~9 世紀の魏晋南北朝隋唐史を中世貴族制の時代と位置付け、世界の中国史研究に計り知れない影響を与えた「唐宋変革論」の礎としている。そして、この学説を深化させ、さらに発展させたのが谷川である。 谷川は、政治中心の正史記録の底に私欲の抑制や災害時の救済など、周辺の自営農民との連携を重視する地方豪族の動きを分析し、このような主体的に行動する豪族の道徳・人格の発揚が中核となる魏晋南北朝時代の地域社会を一種の共同体としてとらえ、その力がやがて隋唐帝国形成の原動力となっていくと主張する。谷川「豪族共同体論」の独創性とは、「共同体」の中に階級関係もたえず存在する「階級共同体」としての特徴を明らかにしたことである。「階級」を「共同体」存続の基軸として、両者の相互関係を新たに構築しており、両者を分断してとらえる従来の考え方に対して全く逆の構想である。 大正・昭和・平成を生き、敗戦から戦後の高度成長を経験していた谷川は、研究者の生きる現実の世界と、研究対象となる歴史の世界との結合により、いかなる歴史像が作り上げられ、その歴史像の持つ現代的意味とは何かを常に追い続けていた。そのまなざしは、個人としての等身大の世界が得られない戦後日本民主主義の限界にも向けられ、それを結局のところ「人間主体」の未完結という問題に集約させたのである。このような「人間存在の内部」に関わる深刻な問題に対して、解決の糸口をつかむために、人間の根元的な存在形態であった「共同体」に注目したわけである。本稿では、谷川の中国史研究に見られる現代日本への思いも詳しく検証した。 中国から日本へ、東アジアから世界へ、歴史から未来へという壮大な思惟構造を持った谷川史学の本質は、人と人との連帯を重視する人間存在の様式を中国史上に再発見して、そこに一種の普遍性を賦与しようとした点にある。本稿は、このような戦後日本の社会思想史の分野に生まれ、そして日中両国の未来を照らした谷川史学の醍醐味を吟味しつつ分析を加えてみた。
コズィラ, アグネシカ
この論文の目的は、西田幾多郎の哲学における「絶対無」とハイデッガーの哲学における「本来的無」とが、同じ「パラドックス論理のニヒリズム」という思潮に分類できることを証明することである。「パラドックス論理の無」は、無矛盾原則に従う「形式論理の無」と違って、「有に対立する無」ではなく、「有即無」というパラドックスを意味している。西田の「無」とハイデッガーの「無」とは、すべての対立を超えると同時にすべての対立を超えない、すなわち「否定即肯定」の「パラドックス論理の無」であることを本稿にて明らかにしたいと思う。 「パラドックス」という概念は、ここでは哲学の課題として論じられ、「二次元的矛盾的判断」として定義されている。西田の絶対矛盾的自己同一の論理、すなわち「背理の理」(パラドックス論理)を、何の法則・原則にも従わない「非合理的無分別」と同一視してはいけない。 この論文の第一章では、まず「肯定即否定」という「矛盾原則」に従う「パラドックス論理のニヒリズム」の特殊タイプの特徴を論じ、西田の「絶対無」とヘーゲルの「弁証法的無」との差異を明らかにしている。また、西洋哲学におけるプラトンの「コーラ」、キリスト教の神秘主義の代表になるエックハルトの「神性」(Gotheit)、ヘーゲルの「弁証法的無」、キルケゴ-ルのパラドックス、サルトルの「無」、ポストモダニズムにおける形式論理的「理性」への批判などを考慮にいれれば、「東洋的無」は、「パラドックス論理のニヒリズム」の重要な特殊タイプになることが確かであるが、パラドックス論理(背理の理)は世界の哲学史における普遍的な課題として看過できない、と述べている。 続いて晩年の西田の論文におけるパラドックス論理の自己矛盾原則とその具体的使用の例を挙げ、晩年の西田の哲学のパラドックス論理枠内の解釈と形式論理枠内の解釈(田辺元の立場)の相違が明確にされるようにする。田辺は西田の「絶対無」の哲学が非合理的であると指摘しているが、西田は、ものの相対性を証明し、絶対矛盾的自己同一の論理と現代物理学(アインシュタインの相対性原理と量子力学など)との関係を論じていた。 第二章では西田哲学とハイデッガー哲学は、異なる点が多いにもかかわらず、同じ「パラドックス論理のニヒリズム」の思潮に属していることを論証する。ハイデッガーの「本来的無」と西田の「絶対無」とを比較するにあたっては、形式論理の枠内の解釈(例えば、溝口宏平氏の解釈)があるが、両者の無の哲学はパラドックス論理の観点から解釈すべきであると考える。 西田は、「パラドックス論理の無」という概念は禅をはじめ仏教哲学を理解するための重要な鍵であることを主張したのである。本稿では、禅師の教義・西田哲学・ハイデッガー哲学におけるパラドックス的判断の分類も挙げている。西田哲学における「東洋的無の哲学化」という問題を「パラドックス論理」の立場から論じ、なぜ西田が、仏教の教義は汎神論でもないし神秘主義でもないと主張したかを、説明している。 「パラドックス論理のニヒリズム」という概念はこれまでに使われたことはない。しかし、西田哲学における絶対矛盾的自己同一としての「絶対無」のパラドックス論理の構造を認識しないと、晩年の西田の哲学の画期的な意義を見逃すおそれがある。「絶対矛盾的自己同一」の論理には「背理の理」すなわちパラドックスの論理として重要な形而上学的意義がある。
山下, 悦子
この論文では、日本の知識人の間で大反響をもたらした、結婚制度にとらわれない男女の自由な性愛関係を理想とするコロンタイの恋愛観を基軸に、一九二〇年代後半から三〇年代前半にかけての知の変容(転向の問題)を探る。 ソヴィエトのコロンタイ女史の小説、『赤い恋』『三代の恋―恋愛の道』『姉妹』は、世界的なベスト・セラーとなった作品で、恋愛三部作といわれるが、一九二〇年代後半に日本でも話題となり、女性解放論者や文壇の知識人たちに取り上げられた。特に『三代の恋』の主人公ゲニアの、複数の男性と同時平行的に性愛関係を結び、けっして結婚を求めようとはしない、キャリア・ガールの恋愛遊戯が「新しい時代の新しい女の新しい恋」として話題となり、賛否両論が飛びかい、大反響をもたらした。当時の女性解放論者の山川菊栄、平塚らいてう、平林たい子、高群逸枝は、ゲニアの行為に対し、批判的であったのに対し、転向作家として著名な林房雄や武田麟太郎は、コロンタイの恋愛観を絶賛した。とくに当時、マルクス・ボーイだった林房雄は、『三代の恋』「姉妹」の翻訳までも手がけるほどの熱のあげかたであった。ゲニアを新しい女と絶賛し、それを批判する女性史研究家の高群逸枝との間にコロンタイ論争を引き起こした。 だが、一九三〇年代になると、マルクス・ボーイたちが次々に転向していく中で、林房雄や武田麟太郎も転向、新しい女とは対照的な貞節で、伝統的な日本の母親像=女性像を求めるようになる。
山田, 奨治
本論文では認知科学、美術史、文学史、芸道論、知的財産法などをてがかりに、類似性の科学への糸口と社会的要請・意義、情報伝達と創造性の観点からみた模倣の情報文化論の可能性について述べる。類似は人間の学習・認識過程の根底に深くかかわるものであり、模倣は人と人の間あるいは文化と文化の間の情報伝達、さらには創造性の問題に直結する課題を内包している。一九八〇年以降急速に発達した認知科学は、類似とは何かについての基礎を与えてくれるだろう。絵画・陶芸・産業技術史を振り返れば、模倣が円滑な情報伝達と文化のダイナミズムを生み出してきたことがわかる。また模倣と創造性は密接に関連している。日本の芸道では集団的共同体的なものを基盤としながら、その上に繊細で微妙な個性を追加して内面を引き出す感性がみいだされる。その個性は「風」とよばれる。現代のわれわれは、形の模倣の下にある「風」の創造性を感じ取る能力を退化させてしまったように思う。類似性と模倣をめぐる今日的な課題は、知的財産法とりわけ著作権法の諸問題である。著作権法は文化的創作活動の結果を経済財に転換し、経済原理のなかで文化的活動をして富を生み出さしめる効果をもっている。また著作権法ではオリジナリティという近代の幻想を前提としている。類似性と模倣をめぐる考察は、現代の情報文化が取り残しつつある何かを思い起こさせてくれるだろう。
小島, 摩文 KOJIMA, Mabumi
本報告は、本プロジェクト「モノと情報」班におけるデータベース構築に向けた作業のうち、検索に関わるシソーラス部分について、個人的な提言をおこなうものである。特に博物館資料、すなわち物資文化資料に関するシソーラスについて、具体的に" 棒締頭絡" という馬具を例にとりながら提言をおこなう。また、データベース、シソーラスともにその理論的な面には言及せず、もっぱら利用者からみた便宜性と整合性について論じたい。
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