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杉井, 健 Sugii, Takeshi
熊本県地域における弥生時代後期から古墳時代前期の集落動向,および古墳時代前期の有力首長墓(前方後円墳)築造動向を検討した結果,弥生時代後期にきわめて優位な地域であった菊池川中流域などには有力な前期古墳は築造されず,一方,相対的に劣位であった宇土半島基部地域にきわめて有力な前期の首長墓系譜が形成されたことが明確となった。河川や平地部のありかたをみれば,宇土半島基部地域に比べて菊池川中流域は水田稲作をはじめとする農耕の生産力が圧倒的に高いと考えられるが,そうした生産性の高さが古墳時代前期における古墳の築造や集落の維持には直結していない。すなわち,少なくとも熊本県地域では,弥生時代後期の拠点的大規模集落の領有圏がそのまま古墳時代前期の有力首長墓築造の基盤にはなっていないのである。
田中, 晋作 Tanaka, Shinsaku
今回のシンポジュウムで与えられた課題は,古墳時代の軍事組織についてである。小論の目的は,この課題について,今までに提示してきた拙稿をもとに,とくに,古墳時代前期後半から中期を対象にして,①古墳時代前期後半以降にみられる軍事目的の変化,②中期前半に百舌鳥・古市古墳群の被葬者集団による常備軍編成の可能性,③中期における軍事組織の編成目的について検討し,つぎの私見を示すことである。
上野, 祥史 Ueno, Yoshifumi
中国鏡は,弥生時代中期後半から古墳時代前期前半を通じて,継続して日本列島に流入した舶載文物である。北部九州を中心とした弥生時代の鏡分配システムから,近畿地方を中心とした古墳時代の鏡分配システムへの転換は,汎日本列島規模の政体が出現した古墳時代社会の成立過程を考える上で重要な視点を提供する。日本列島内における中国鏡の分配システムの変革という視点で評価を試みた。
広瀬, 和雄 Hirose, Kazuo
西日本各地の首長同盟が急速に東日本各地へも拡大し,やがて大王を中心とした畿内有力首長層は,各地の「反乱」を制圧しながら強大化し,中央集権化への歩みをはじめる。地方首長層はかつての同盟から服属へと隷属の途をたどって,律令国家へと社会は発展していく,というのが古墳時代にたいする一般的な理解である。そこには,古墳時代は律令国家の前史で古代国家の形成過程にすぎない,古墳時代が順調に発展して律令国家が成立した,というような通説が根底に横たわっている。さらには律令国家の時代が文明で,古墳時代は未熟な政治システムの社会である,といった<未開―文明史観>的な歴史観が強力に作用している。
小沢, 洋 Ozawa, Hiroshi
古墳時代の上総南西部には2つの強大な政治領域が存在していた。一つは小櫃川流域の馬来田国であり,もう一つは小糸川流域の須恵国である。この両地域では古墳時代のほとんどの期間を通じて継起的に大形古墳の築造が認められ,房総の諸首長層の中でも,とりわけ安定した勢力を維持していたことが窺われる。
藤沢, 敦 Fujisawa, Atsushi
古墳時代から飛鳥時代,奈良時代にかけての,東北地方日本海側の考古資料について,全体を俯瞰して検討する。弥生時代後期の様相,南東北での古墳の築造動向,北東北を中心とする続縄文文化の様相,7世紀以降に北東北に展開する「末期古墳」を概観した。さらに,城柵遺跡の概要と,「蝦夷」の領域について文献史学の研究成果を確認した。その上で,日本海側の特質を太平洋側の様相と比較しつつ,考古資料の変移と文献史料に見える「蝦夷」の領域との関係を検討し,律令国家の領域認識について考察した。
上野, 祥史 Ueno, Yoshifumi
古墳出土の副葬品には,王権からの配布と地域での副葬という二つの異なる側面がある。配布と副葬は,王権と地域という異なる視点で古墳時代社会を評価したものともいえよう。本論では甲冑と鏡が共伴する現象に注目し,帯金式甲冑を副葬した古墳時代中期の地域の動きを評価した。
杉崎, 茂樹 Sugisaki, Shigeki
まず最初に,古墳時代後期の北武蔵各地域での前方後円墳の築造状況を概観する。
岸本, 直文 Kishimoto, Naofumi
1990年代の三角縁神獣鏡研究の飛躍により,箸墓古墳の年代が3世紀中頃に特定され,〈魏志倭人伝〉に見られる倭国と,倭王権とが直結し,連続的発展として理解できるようになった。卑弥呼が倭国王であった3世紀前半には,瀬戸内で結ばれる地域で前方後円形の墳墓の共有と画文帯神獣鏡の分配が始まっており,これが〈魏志倭人伝〉の倭国とみなしうるからである。3世紀初頭と推定される倭国王の共立による倭王権の樹立こそが,弥生時代の地域圏を越える倭国の出発点であり時代の転換点である。古墳時代を「倭における国家形成の時代」として定義し,3世紀前半を早期として古墳時代に編入する。
加部, 二生 Kabe, Nitaka
群馬県内の終末期古墳では普遍的に存在する,横穴式石室の前面に広がる前庭構造について,従来は,古墳時代後期に群馬県地域で独自に土着した構造であると解釈されていた。しかし,近年の研究では,全国各地に所在することが明らかとなり,その起源については,古墳時代前期に高句麗地域で成立していることが明確に解ってきた。
若林, 邦彦 Wakabayashi, Kunihiko
大阪平野の弥生時代遺跡については,弥生時代中期末の洪水頻発の時期に大規模集落が廃絶し,集団関係に大きな変化が生じたといわれてきた。また,水害を克服する過程として,地域社会統合が確立し古墳時代社会への移行が進行するとも言われた。本稿では,大阪平野中部と淀川流域の弥生時代~古墳時代遺跡動態を検証して,社会変化・水害・集団と耕作地の関係について論じた。大阪平野中部では,弥生時代の流水堆積による地形変化は数百m規模でしか発生せず,集落と水田のセットが低湿地に展開する様相に変化はない。淀川流域で弥生~古墳時代の集落分布変化を検証すると,徐々に扇状地中部・段丘上・丘陵上集落の比率が増え,古墳時代中期には特にその傾向は顕在化する。これは,4世紀後半・5世紀に集落が耕作地から分離していく整理された集団関係への変化と読み取れる。また,この時期は降水量が100年周期変動で進行する水害ダメージを受けにくい時代でもある。地域社会統合は洪水の影響をうけにくい時期にこそ,その環境を利用してそれへの対応の可能な社会へと変貌するのである。社会構造変化の方向性と環境要因の複合要因により,地域社会の実態は変質していくと考えられる。
宮城, 弘樹 MIYAGI, Hiroki
本論は,弥生時代から古墳時代に並行する沖縄貝塚時代の貝殻集積遺構のゴホウラやイモガイの炭素14年代測定結果を受け,沖縄諸島の在地土器編年に絶対年代を付与することを目的に整理・分析を行った。
藤沢, 敦 Fujisawa, Atsushi
日本列島で古代国家が形成されていく過程において,本州島北部から北海道には,独自の歴史が展開する。古墳時代併行期においては,南東北の古墳に対して,北東北・北海道では続縄文系の墓が造られる。7世紀以降は,南東北の終末期の古墳と,北東北の「末期古墳」,そして北海道の続縄文系の墓という,3つに大別される墳墓が展開する。
西嶋, 剛広 Nishijima, Takahiro
古墳時代中期において鉄製甲冑は,古墳副葬品中で主要な位置を占める文物の一つである。その生産と配布にはヤマト政権と地域勢力との社会的,政治的関係が反映されていると考えられている。
上野, 祥史 Ueno, Yoshifumi
古墳時代に副葬した鏡は,古墳時代社会の政治構造を究明する重要な資料の一つである。製作・入手時期と副葬時期を隔てた保有鏡が少なくないため,長期保有鏡の解釈は政治関係や社会体制の議論に大きな影響を与える。ことに,製作時期と副葬時期が隔たる中国鏡ではそれが顕著である。本論では,鏡の分配時期を認識するプロセスを整理し,中国鏡にも倭鏡にも適応が可能な,生産現象にも副葬現象とも整合する理解の構築を目指した。
岸本, 道昭 Kishimoto, Michiaki
400年間も続いた古墳築造社会から律令体制への時代転換にあたって,新たに導入された地方支配方式の史的画期を追究する。『播磨国風土記』をひも解き,郡里領域を比定しながら,古墳や寺院の地域的実態と比較する。検討の俎上に載せた地域とは,播磨国揖保郡18里である。
白石, 太一郎 Shiraishi, Taichiro
古墳時代前期から中期初めにかけての4世紀前後の古墳の埋葬例のうちには,特に多量の腕輪形石製品をともなうものがある。鍬形石・石釧・車輪石の三種の腕輪形石製品は,いづれも弥生時代に南海産の貝で作られていた貝輪に起源するもので,神をまつる職能を持った司祭者を象徴する遺物と捉えられている。したがって,こうした特に多量の腕輪形石製品を持った被葬者は,呪術的・宗教的な性格の首長と考えられる。小論は,古墳の一つの埋葬施設から多量の腕輪形石製品が出土した例を取り上げて検討するとともに,一つの古墳の中でそうした埋葬施設の占める位置を検証し,一代の首長権のなかでの政治的・軍事的首長権と呪術的・宗教的首長権の関係を考察したものである。
春成, 秀爾 小林, 謙一 坂本, 稔 今村, 峯雄 尾嵜, 大真 藤尾, 慎一郎 西本, 豊弘 Harunari, Hideji Kobayashi, Kenichi Sakamoto, Minoru Imamura, Mineo Ozaki, Hiromasa Fujio, Shinichiro Nishimoto, Toyohiro
奈良県桜井市箸墓古墳・東田大塚・矢塚・纏向石塚および纏向遺跡群・大福遺跡・上ノ庄遺跡で出土した木材・種実・土器付着物を対象に,加速器質量分析法による炭素14年代測定を行い,それらを年輪年代が判明している日本産樹木の炭素14年代にもとづいて較正して得た古墳出現期の年代について考察した結果について報告する。その目的は,最古古墳,弥生墳丘墓および集落跡ならびに併行する時期の出土試料の炭素14年代に基づいて,これらの遺跡の年代を調べ,統合することで弥生後期から古墳時代にかけての年代を推定することである。
福島, 雅儀 Fukushima, Masayoshi
ここでいう陸奥南部とは,現在の行政区分でいう福島県を中心とする範囲である。この地域は東北地方南部にあたり,古代日本の中では周辺地域とみなされる地方のひとつであった。また対象とする年代は,7世紀とその前後である。この時期は古墳時代から律令時代への転換期であり,日本史のなかでも最も大きな変革期のひとつであった。小論ではこのような地域と時代を対象として,古墳築造の終末過程と律令官衙の成立状況の分析をとおして,当時における周辺地域の社会的・政治的様相の一端を明らかにすることを目的としている。そこでこの論文では,主題にそって以下の課題を設定して考察を加えた。
藤尾, 慎一郎 Fujio, Shinichiro
古墳時代の倭と加耶の交流を語る上でもっとも重要な問題の一つである鉄が,弥生時代の両地域間においても重要であったことは,この地が倭で用いられる鉄資源の供給地であったことからも明らかである。本稿は,鉄を媒介とした交流を考えるうえで弥生時代にさかのぼる重要な四つの問題を取り上げた。
鈴木, 一有 Suzuki, Kazunao
分析対象として東海地方を取り上げ,有力古墳の推移からみた古墳時代の首長系譜と,7世紀後半に建立された古代寺院,および,国,評,五十戸・里といった古代地方行政区分との関係の整理を通じて,地域拠点の推移を概観した。古墳や古代寺院の造営から描き出せる有力階層の影響範囲と,令制下の古代地方行政区分については,概ね一致する場合が多いとみてよいが,部分的に不整合をみせる地域もあり,7世紀における地域再編の経緯がうかがえた。
菱田, 哲郎 Hishida, Tetsuo
7世紀における地域社会の変化については,律令制の浸透とともに,国郡里制の地方支配やそれを支える官衙群,生産工房群,宗教施設群の成立として捉えられている。一方で,古墳時代以来の墓制も残存しており,とりわけ7世紀前半は群集墳が盛んに築造されたこともよく知られてる。古墳時代の政治体制から律令制への転換が,地域社会にどのような影響を及ぼしたのか,あるいは地域社会の変動がどのような政治変革を反映しているのかということを明らかにするため,播磨地域を主たる材料に実地に検討を試みた。
古川, 一明 Furukawa, Kazuaki
東北地方の宮城県地域は,古墳時代後期の前方後円墳や,横穴式石室を内部主体とする群集墳,横穴墓群が造営された日本列島北限の地域として知られている。そしてまた,同地域には7世紀後半代に設置された城柵官衙遺跡が複数発見されている。宮城県仙台市郡山遺跡,同県大崎市名生館官衙遺跡,同県東松島市赤井遺跡などがそれである。本論では,7世紀後半代に成立したこれら城柵官衙遺跡の基盤となった地方行政単位の形成過程を,これまでの律令国家形成期という視点ではなく,中央と地方の関係,とくに古墳時代以来の在地勢力側の視点に立ち返って小地域ごとに観察した。
鈴木, 一有 Suzuki, Kazunao
マロ塚古墳から出土した線刻を施した鉄鏃(線刻鉄鏃)の製作地と線刻鉄鏃が副葬品に含まれる意義を探るため,古墳時代の線刻鉄鏃を集成し,その分布と変遷の傾向を整理した。鉄鏃に施された線刻は,大きく,1本の直線のみがみられる直線文と,中央の点とその周りの円形模様で構成される円文に分けられる。これらの線刻を施す鉄鏃は,儀仗性が強い点で互いに関連がみられるものの,それぞれ祖形とする鉄鏃が異なり,製作時期や分布にも差がみられる。
若狭, 徹 Wakasa, Toru
東国の上毛野地域を軸に据えて,古墳時代の地域開発と社会変容の諸段階について考察した。前期前半は東海西部からの大規模な集団移動によって,東国の低湿地開発が大規模に推し進められるとともに,畿内から関東内陸部まで連続する水上交通ネットワークが構築された。在来弥生集団は再編され,農業生産力の向上を達成した首長層が,大型前方後方墳・前方後円墳を築造した。
髙木, 恭二 Takaki, Kyouji
現段階ではマロ塚古墳の場所を特定することは不可能であるが,筆者は少なくとも菊池川中流域付近で,その支流である合志川の左岸付近にこの古墳は存在したであろうと考えている。小論では,このマロ塚古墳を含む菊池川中流域の古墳や横穴墓等の変遷,首長墓の系譜,それに流域一帯の古墳文化の特性について整理を行った。
永沼, 律朗 Naganuma, Ritsuo
本稿の目的は,成東町駄ノ塚古墳に関連して,印旛沼周辺の終末期古墳の様相を明らかにすることにある。そのため,基本的に印旛沼周辺の終末期古墳の紹介に主眼を置いた。
阿久津, 久 片平, 雅俊 Akutsu, Hisashi Katahira, Masatoshi
茨城県は6世紀前半頃になると霞ケ浦を中心にした地域と,県西,県北の地域にそれぞれの特色が現れる。霞ケ浦沿岸では,三昧塚古墳にみられるような箱式石棺を埋葬施設に使い始めてから,この地域は,箱式石棺が主流となり,後期前方後円墳,円墳に設置されている。このような系譜をもつ地域の中に,僅かであるが,前方後円墳では出島村風返稲荷山古墳,大師の唐櫃古墳(彩色壁画),三昧塚古墳に近く沖洲古墳群に入る大日塚古墳,円墳では桜川村前山古墳には横穴式石室が設けられており,この地域での特殊性を示している。
池上, 悟 Ikegami, Satoru
南武蔵地域に於ける古墳文化の特色は,三角縁神獣鏡を有する前期古墳,あるいは甲冑を有する中期古墳の所在も若干知られているものの,最大の特色は後期の群集墳の存在であり,就中横穴墓の集中的な造営である。
橋本, 裕之 Hashimoto, Hiroyuki
本稿は後世の人々が古墳をいかなるものとして解釈してきたのかという関心に立脚しながら,装飾古墳にまつわる各種の伝承をとりあげることによって,装飾古墳における民俗的想像力の性質に接近するものである。そもそも古墳は築造年代をすぎても,その存在理由を更新しながら生き続けるものであると考えられる。古墳は多くのばあい,今日でも地域社会における多種多様な信仰の対象として存在しているのである。といっても,こうした位相に対する関心は考古学の領域にとって,あくまでも周辺的かつ副次的なものであった。
中久保, 辰夫 Nakakubo, Tatsuo
本論は,日本列島・古墳時代および韓半島・三国時代の古墳・集落出土土器資料を対象に,5世紀代における栄山江流域を中心とする全羅道地域と日本列島中央部に位置する近畿地域との相互交流の実態を探ろうとするものである。そのために,次に述べる考古資料を対象に分析をおこなった。第一に,5世紀代における東アジア情勢を概観したうえで,????・有孔広口小壺という儀礼用土器に着目して,この土器が5世紀代に日本列島広域と全羅道地域を中核とする韓半島各地に共有される考古学的現象を捉えた。第二点目として,2000年代以降,栄山江流域を中心に資料数が増加した須恵器の時期比定を再検討し,日本列島における須恵器生産の再評価も加味して,須恵器に関しても日本列島と百済・全羅道地域の相互交流を確かめた。以上の土器からみえる相互交流は,近畿地域において有機的な関係をもって展開する集落出土韓半島系土器,手工業生産拠点,初期群集墳の動態と結びつけて捉えることが可能である。そこで第三の論点として,土器,集落,小規模古墳に関する近年の研究動向をふまえた上で,百済・栄山江流域との相互作用が,近畿地域内部における社会資本投資を促したという理解を提示した。
高久, 健二 Takaku, Kenji
本論文は韓国慶尚北道慶州市に位置する皇南大塚の築造工程と古墳で執り行われた埋葬・儀礼行為を検討することによって,5世紀代の新羅の大型積石木槨墓における埋葬プロセスを総合的に復元し,その特徴と意義について考察したものである。皇南大塚を検討した結果,大型積石木槨墓の埋葬プロセスは大きく3段階にわたって進行したことが明らかとなった。まず,第1段階は1次墳丘と埋葬主体部の構築,および被葬者の埋葬,副葬品の埋納行為が行われる段階であり,木槨の構築,木槨側部積石部の構築,1次墳丘の構築が同時併行で行われたものと推定した。また,この第1段階には被葬者の埋葬行為にともなう古墳築造の中断面が存在し,大型積石木槨墓は被葬者の埋葬行為が築造工程の過程で行われる「同時進行型」古墳であることを示している。第2段階は1次墳丘の密封行為が行われる段階であるが,その最後に儀礼が行われた古墳築造の休止面が存在しており,1次墳丘上面が埋葬プロセスにおける重要な儀礼の場であったことを示している。第3段階には2次墳丘の構築が行われており,古墳構築の最終段階の工程と儀礼が行われる段階である。積石木槨墓は埋葬行為が行われる段階には,すでに1次墳丘が築かれており,地下式木槨墓のような典型的な「墳丘後行型」古墳とは,埋葬・儀礼行為が行われる場が異なっていた。また,皇南大塚南墳と北墳は相互に継承関係があることは明らかであるが,南墳と北墳の被葬者が夫婦である可能性は低く,5世紀代の新羅では夫婦合葬が普及していなかったと推定される。大型積石木槨墓は原三国時代後期から続く木槨墓の最終形態であるとともに,厚葬墓の頂点に位置づけられる墓制である。皇南大塚南墳は古墳規模や副葬品の質・量だけでなく,埋葬プロセスの複雑性においても大きく飛躍しており,皇南大塚南墳が新羅王陵の出現を,北墳がその確立を示している。
和田, 晴吾 Wada, Seigo
古墳での人の行為を復元し,遺構や遺物を検討することで,前・中期の古墳を,遺体を密封する墓としての性格と,「他界の擬えもの」としての性格の,二つの面から捉えようと試みた。
八木, 光則 YAGI, Mitsunori
6世紀末から10世紀にかけて,東北北部から北海道央ではいわゆる末期古墳が造られていた。90年近い末期古墳の研究史の中で,近年特に注目されている三つのテーマについて再検討を行った。
柴田, 昌児 Shibata, Shoji
西部瀬戸内の松山平野で展開した弥生社会の復元に向けて,本稿では弥生集落の動態を検討したうえでその様相と特質を抽出する。そして密集型大規模拠点集落である文京遺跡や首長居館を擁する樽味四反地遺跡を中心とした久米遺跡群の形成過程を検討することで,松山平野における弥生社会の集団関係,そして古墳時代社会に移ろう首長層の動態について検討する。
松木, 武彦 Matsugi, Takehiko
本論の目的は,古墳時代の倭王権を支える地域の構造とその変化を,これまで注目されてきた前方後円(方)墳を主体とする「首長墓」だけではなく,小墳群も含む墓制の全体的構造,それを営んだ居住域の展開,および両者の相互関係とその推移を明らかにする作業を通じて,政治のみならず,人口や生産も含んだ社会全体の歴史過程として復元することである。
春成, 秀爾 Harunari, Hideji
小林行雄は,1955年に「古墳の発生の歴史的意義」を発表した。伝世鏡と同笵鏡を使い,司祭的首長から政治的首長への発展の図式を提示し,畿内で成立した古墳を各地の首長が自分たちの墓に採用していった意義を追究したのである。この論文は,古墳を大和政権の構造と結びつけた画期的な研究として,考古学史にのこるものと今日,評価をうけている。
春成, 秀爾 Harunari, Hideji
3~6世紀の古墳に立てた埴輪のうち,4~6世紀のとくに円筒埴輪に,数は少ないけれども絵を描いた例がある。鹿と船がもっとも多く,鹿狩りをあらわした絵もある。それ以外の絵はとるにたらないほどであるけれども,そのほかに記号風の表現がある。鹿と船の絵は弥生時代,前1世紀の土器にしばしば描かれた。しかし,それらは1~2世紀になると記号化し,3世紀になると消滅していた。
久保, 純子 Kubo, Sumiko
東京低地における歴史時代の地形や水域の変遷を,平野の微地形を手がかりとした面的アプローチにより復元するとともに,これらの環境変化と人類の活動とのかかわりを考察した。本研究では東京低地の微地形分布図を作成し,これをべースに,旧版地形図,歴史資料などから近世の人工改変(海岸部の干拓・埋立,河川の改変,湿地帯の開発など)がすすむ前の中世頃の地形を復元した。中世の東京低地は,東部に利根川デルタが広がる一方,中部には奥東京湾の名残が残り,おそらく広大な干潟をともなっていたのであろう。さらに,歴史・考古資料を利用して古代の海岸線の位置を推定した結果,古代の海岸線については,東部では「万葉集」に詠われた「真間の浦」ラグーンや市川砂州,西部は浅草砂州付近に推定されるが,中央部では微地形や遺跡の分布が貧弱なため,中世よりさらに内陸まで海が入っていたものと思われた。以上にもとづき,1)古墳~奈良時代,2)中世,3)江戸時代後期,4)明治時代以降各時期の水域・地形変化の復元をおこなった。
小林, 謙一 Kobayashi, Kenichi
縄紋時代・弥生時代・古墳時代・古代(北海道では続縄紋・擦文文化期)における居住活動は,主に竪穴住居と呼ばれる半地下式の住居施設が用いられている。竪穴住居施設は,考古学的調査によって,主に下部構造(地面に掘り込まれた部分)が把握され,その構造や使用状況が検討されている。竪穴住居は,a構築地点の選定と設計から構築(掘込みと付属施設の設置)→b使用(居住・調理・飲食などの生活)→c施設のメンテナンス(維持管理と補修・改修・改築)→d廃棄→e埋没(自然埋没・埋め戻し)の順をたどる。それぞれの行為に伴う痕跡が遺構として残されており,その時間的変遷はライフサイクルと整理される。ライフサイクルのそれぞれの分節が,どのくらいの時間経過であったかは,先史時代人の居住システム・生業・社会組織の復元に大きな意味を持つ。その一端として,ライフサイクル分節ごとにその程度の時間経過があったかを,出土試料の年代測定から推定したい。
濵田, 竜彦 Hamada, Tatsuhiko
大山山麓では,弥生時代前期後葉頃から丘陵部において遺跡が増えはじめ,さらに中期から後期にかけて緩やかに顕在化する状況を認めることができる。後期には,妻木晩田遺跡に代表される大規模集落跡が丘陵部に形成されるが,前方後円墳が造られはじめる頃から丘陵上の集落は一斉に姿を消し,その後,丘陵部に生活の主体が積極的におかれることは少ない。したがって,弥生時代以降の大山山麓は,古墳群造営,小規模な集落の形成,畑地造成など,多少の削平や攪乱を受けることはあっても,大規模に改変されていない。また,近年は広範囲が調査されている事例が増えており,弥生時代集落の内実を分析するための好条件を備えた遺跡が多い。そこで,本稿では,集落跡を構成する諸要素のうち,居住施設と考えられる竪穴住居跡の分析を中心に,山陰地方の弥生時代後半期を代表する大規模集落跡として知られる妻木晩田遺跡を検討して,集落変遷,集落像の復元を試みた。
土生田, 純之 Habuta, Yoshiyuki
西毛地域の古墳出土品を鉛同位体比分析した。分析した古墳は一部に5世紀後半(井出二子山古墳・原材料は朝鮮半島産)や6世紀前半のものも含むが大半は6世紀後半~7世紀初頭に属する。さらにその中で角閃石安山岩削り石積み石室を内蔵する古墳が多い。この石室は綿貫観音山古墳や総社二子山古墳を代表とする西毛首長連合を象徴する墓制と考えられている。特に観音山古墳からは中国北朝の北斉製と考えられている銅製水瓶や中国系の鉄冑などをはじめ,新羅製品も多い。新羅製品は他の角閃石安山岩削り石積み石室出土品にも認められている。かつて倭は百済と良好な関係を結ぶ一方,新羅とは常に敵対関係にあったと考えられてきたため,学界ではこの一見矛盾する事実の解釈に苦しんできたが,筆者は「新羅調」「任那調」に由来するものと考えた。特に今回分析に供した小泉長塚1号墳の出土品中に中国華北産原料を用いた金銅製冠があったが,新羅は当該期の倭同様,銅の原料が少なく何度も遣使した北朝から何らかの形で入手した原材料を用いて制作したものを「新羅調」等として倭にもたらしたものと考えた。もちろん直接西毛の豪族連合にもたらしたのではなく,倭王権にもたらされたものが再分配されて西毛の地にもたらされたものと考えている。西毛は朝鮮半島での活動や対「蝦夷」戦に重要な役割を演じ,そのことを倭王権が高く評価していたことは『日本書紀』の記事からも窺える。こうして6世紀後半~7世紀初頭における西毛の角閃石安山岩削り石積み石室出土品から,当該期の国際情勢を窺うことができるのである。
高田, 貫太 Takata, Kanta
近年,朝鮮半島西南部で5,6世紀に倭の墓制を総体的に採用した「倭系古墳」が築かれた状況が明らかになりつつある。本稿では,大きく5世紀前半に朝鮮半島の西・南海岸地域に造営された「倭系古墳」,5世紀後葉から6世紀前半頃に造営された栄山江流域の前方後円墳の造営背景について検討した。
廣瀬, 覚 Hirose, Satoru
本稿では,朝鮮半島南西部の栄山江流域で出土する円筒埴輪の展開過程について,近年の新出資料を踏まえて再検討し,現段階での私見を述べた。具体的には,霊巌・チャラボン古墳,咸平・金山里方台形古墳およびそれと密接な関係にある老迪遺跡から出土した埴輪について,観察所見を踏まえて形態・製作技術の特徴を詳細に検討した。その結果,チャラボン古墳の埴輪は,この地域において一般的である倒立成形技法を用いる円筒埴輪の一群に属すものであることが確認できた。その一方で,金山里古墳・老迪遺跡の埴輪は,日本列島の埴輪と同様に正立成形技法で形作られ,かつ突帯製作に割付技法や押圧技法を用いており,従来,栄山江流域では知られていなかった技術系譜に属すことが明らかとなった。
金, 洛中 Kim, Nakjung
本稿では,栄山江流域勢力および百済と倭の関係について,倭系文物や古墳を主な分析対象として検討を行った。
中塚, 武 NAKATSUKA, Takeshi
樹木年輪セルロースの酸素同位体比は,夏の降水量や気温の鋭敏な指標として,過去の水稲生産量の経年変動の推定に利用できる。実際,近世の中部日本の年輪酸素同位体比は,近江や甲斐の水稲生産量の文書記録と高い相関を示し,前近代の水稲生産が夏の気候によって大きく支配されていたことが分かる。この関係性を紀元前500年以降の弥生時代と古墳時代の年輪酸素同位体比に当てはめ,本州南部の水稲生産量の経年変動ポテンシャルを推定し,さらに生産―備蓄―消費―人口の4要素からなる差分方程式を使って,同時期の人口の変動を計算した。ここでは農業技術や農地面積の変化が考慮されていないので,人口の長期変動は議論できないが,紀元前1世紀の冷湿化に伴う人口の急減や,紀元前3—4世紀,紀元2世紀,6世紀の気候の数十年周期変動の振幅拡大に伴って飢饉や難民が頻発した可能性などが指摘でき,集落遺跡データや文献史料と対比することが可能である。
金子, 克美 Kaneko, Katsumi
古墳出土鉄器の腐食生成物には主としてα-FeOOHとγ-FeOOHとが含まれる。古墳出土鉄器の保存にはFeOOH微結晶の構造と表面化学性が重要な働きをするとみられる。鉄器の腐食に関連する,SO₂,H₂OおよびSO₄²⁻,Cl⁻とFeOOH結晶との相互作用,更にFeOOH結晶の不活性化について論ずる。
設楽, 博己 Shitara, Hiromi
独立棟持柱建物は,Ⅰ類)居住域に伴う場合と,Ⅱ類)墓域に伴う場合がある。Ⅰ類にはA類)竪穴住居と混在する,B類)特定の場所を占める,C類)区画に伴う,という三つのパターンがある。A類からC類への流れは,共同体的施設から首長居館の施設への変貌を示すもので,古墳時代へと溝や塀で囲まれ秘儀的性格を強めて首長に独占されていった。弥生土器などの絵画に描かれた独立棟持柱建物の特殊な装飾,柱穴などから出土した遺物からすると,この種の建物に祭殿としての役割があったことは間違いない。問題は祭儀の内容だが,Ⅱ類にそれを解く手がかりがある。
高木, 正文 Takaki, Masafumi
装飾古墳の研究は,多くの人が手がけ,多くの論考が発表されているが,年代観が研究者により大きく異なり,あまり進展がみられない。それは編年的研究の遅滞に起因しているとみられる。
植田, 弥生 Ueda, Yayoi
若狭湾沿岸には著明な鳥浜貝塚をはじめ多くの低湿地遺跡が分布しており,縄文時代以降の自然木や木製品が多数出土し,これらの樹種同定調査がなされてきた。小論では今までに調査された木材化石群の資料をもとに,各時期の古植生と木材利用の関係を検討した。当地域ではスギ材が豊富に利用されているが,縄文時代の全時期ではそれほど多くなく,弥生時代以降に急速に増加した。縄文時代草創期以前から前期は,トネリコ属が優占する冷温帯性の落葉広葉樹林が復元されており,加工木にもトネリコ属が最も多く利用されていた。しかしこの時期のトネリコ属の利用率は10%前後であり,スギを含め多種多様な樹種が利用されており,加工木の使用樹種と復元植生の構成種とは関連性が高かった。縄文時代中期~後期および晩期になると,埋没林の調査から低地にスギが分布拡大し大径木からなるスギ林が成立し,山地斜面にはアカガシ亜属やシイノキ属などの照葉樹林要素が拡大し,暖温帯性の森林に変化した。しかしスギが増加してもこの時期の加工木にスギが占める割合は前時期と同様に低く,多種多様な樹種が利用されていた。但し,丸木舟はスギに限られている。そして弥生時代中期以降になると加工木に占めるスギの割合はそれ以前は30%以下であったのが一気に85%を占めるようになる。ところがこの時期の堆積層は草本質泥炭に急変しており,それ以前に低地一帯に成立していたスギ林は消滅し低地縁辺に縮小していた。そして古墳時代以降もスギ材利用が圧倒的に多い点では弥生時代と同様であるが,徐々にヒノキ材の割合が増加する傾向が見られる。縄文時代前期以前までは植生変化がすぐに木材利用に現れていたが,縄文時代中期から後期・晩期と弥生時代を境に,植生と木材利用には時間的差が見られ,大きな地史的事件や加工技術や樹種利用の嗜好などの要素が関わっているようであり,この点の解明は今後の課題である。
白石, 太一郎 Shiraishi, Taichiro
墓室の内部の壁画や彫刻などが,何らかの意味でその墓を造営した人びとの他界観・来世観を反映していることはいうまでもない。この小論は,九州の装飾古墳を取り上げ,そこに表現されている絵画や彫刻の意味を追究し,その背景にある人びとの他界観を追究したものである。北・中九州の装飾古墳は,石棺系,石障系,壁画系の順に展開する。このうち5世紀代に盛行する石棺系や石障系の装飾古墳の中心となる図文は,魂を封じ込めたりまた悪しきものから被葬者を護る辟邪の機能をもつと考えられた直弧文と鏡を表わす同心円文である。やがてこれに武器・武具の図文が加わるが,これも辟邪の意味をもつものであった。また直弧文はその弧線の部分を省略した斜交線文となり,その後の装飾古墳で多用される連続三角文へと変化して行く。6世紀になると墓室内部に彩色壁画を描いた壁画系の装飾古墳が出現する。そこでも基本的なモチーフは5世紀以来の辟邪の図文であるが,新しく船や馬の絵が加わる。船のなかには大洋を航海する大船もみられ,舳先に鳥をとまらせたり,馬を乗せたものもみられる。この船と馬は死者ないしその霊魂を来世に運ぶ乗り物として描かれたものであり,海上他界の思想がこの地域の人びとの間に存在したことを物語る。6世紀後半には,一部に四神の図や月の象徴としてのヒキガエルの絵など高句麗など東アジアの古墳壁画の影響もみられるが,それは部分的なものにとどまった。一方,南九州の地下式横穴には,この地下の墓室を家屋にみたてた装飾が多用される。これはこの地域の人びとの間に地下に他界を求める思想があったことを示すものであろう。同じ九州でも北・中部と南部では,人びとの来世観に大きな相違があっことが知られるのであり,北・中九州の海上他界の考えは,海に開かれ,また東アジア諸地域との海上交易に活躍したこの地域の人びとの間で形成されたものと理解できよう。
設楽, 博己 Shitara, Hiromi
弥生時代には,イレズミと考えられる線刻のある顔を表現した黥面絵画が知られている。いくつかの様式があるが,目を取り巻く線を描いた黥面絵画A,目の下の線が頰を斜めに横切るように下がった黥面絵画B,額から頰に弧状の線の束を描いた黥面絵画Cがおもなものである。それぞれの年代は弥生中期,中~後期,後期~古墳前期であり,型式学的な連続性から,A→B→Cという変遷が考えられる。Aは弥生前期の土偶にも表現されており,それは縄文時代の東日本の土偶の表現にさかのぼる。つまり,弥生時代の黥面絵画は縄文時代の土偶に起源をもつことが推測される。黥面絵画には鳥装の戦士を表現したものがある。民族学的知見を参考にすると,イレズミには戦士の仲間入りをするための通過儀礼としての役割りがあったり,種族の認識票としての意味をもつ場合もある。弥生時代のイレズミには祖先への仲間入りの印という意味が考えられ,戦士が鳥に扮するのは祖先との交信をはかるための変身ではなかろうか。畿内地方では,弥生中期末~後期にイレズミの習俗を捨てるが,そこには漢文化の影響が考えられる。その後,イレズミはこの習俗本来の持ち主である非農耕民に収斂する。社会の中にイレズミの習俗をもつものともたないものという二重構造が生まれたのであり,そうした視点でイレズミの消長を分析することは,権力による異民支配のあり方を探る手掛かりをも提示するであろう。
太田, 博之 Ota, Hiroyuki
前方後円墳集成畿内編年10期の東日本の古墳から出土する朝鮮半島系遺物には,日本列島内での模倣対象とはならない特殊な遺物が多いが,この種の遺物はむしろ近畿周辺に少なく,九州や東海など地方に多く分布することから,これらは中央政権を介さずに,各地方の首長が朝鮮半島首長層との直接的接触を介して,入手の機会をもったものと考えられる。
杉井, 健 Sugii, Takeshi
きわめて良好な遺存状態を保つ甲冑や鉄鏃などが出土したマロ塚古墳であるが,その正確な所在地はいぜん不明のままである。しかし,熊本県北部を流れる菊池川の支流,合志川の中流域西半部左岸をそのもっとも有力な候補地域とすることまでは可能である。
坂, 靖 Ban, Yasushi
本稿の目的は,奈良盆地を中心とした近畿地方中央部の古墳や集落・生産・祭祀遺跡の動態や各遺跡の遺跡間関係から,その地域構造を解明する(=遺跡構造の解明)ことによって,ヤマト王権の生産基盤・支配拠点と,その勢力の伸張過程を明らかにすることにある。
吉井, 秀夫 Yoshii, Hideo
本稿では,加耶地域が,倭や朝鮮半島の周辺諸地域とどのような交渉関係を結んだかを明らかにするための一つの試みとして,竪穴式石槨と横穴式石室が主たる埋葬施設として用いられた段階の加耶地域の墓制における,外来系考古資料の様相について検討をおこなった。まず竪穴式石槨が埋葬施設として用いられた段階では,加耶地域内やその隣接地域から土器の搬入がみられる他,倭・百済・新羅系の考古資料が存在する。ただし,それらが墓制全体に占める割合は限られている。また,池山洞古墳群と玉田古墳群では,影響を受けた地域と,墓制に対する影響の大きさに違いが見出された。次に,横穴式石室が主たる埋葬施設として採用される段階では,埋葬施設の構造が変化しただけではなく,葬送観念にも大きな変化が認められる。また副葬品において外来系考古資料が占める割合も増加する。こうした変化については,百済からの影響が指摘されてきたが,新羅・倭からの影響も少なからず見出される。中でも倭系考古資料が目立つ墳墓については,栄山江流域の前方後円形墳の様相との対比から,被葬者を大加耶支配下の倭系集団とみる説が提出されている。しかし,それ以前から古墳が築造されてきた古墳群や日本列島でも,同様の変化がみられることを念頭において,墓制の変化の類型化とそれに対する解釈がおこなわれる必要があると考えられる。
鈴木, 一有 Suzuki, Kazunao
マロ塚古墳から出土した小札鋲留衝角付冑の製作時期を探るため,小札鋲留衝角付冑を衝角底板の連結手法と伏板先端の処理技法によって型式設定し,諸属性の分析によって各型式の製作段階を検証した。革綴衝角付冑との連続性を考慮して,小札鋲留衝角付冑を,Ⅲ式,Ⅳa式,Ⅴa式,Ⅴb式の合計4型式に分離した。さらに,①鋲頭形状,②地板枚数,③竪矧板使用の有無,④後頭部幅広小札使用の有無,⑤錣構成枚数,⑥袖錣もしくは最下段錣後頭部抉りの有無,⑦錣前端覆輪の有無,といった項目ごとに諸属性を比較した。これらの分析作業に,古墳の共伴遺物の検討を加え,小札鋲留衝角付冑の製作段階を,三つの段階に分けて理解した。第1段階はⅢ式の古相段階,第2段階はⅢ式の新相段階,第3段階は,Ⅲ式の最新相に加え,Ⅳa式,Ⅴa式,Ⅴb式の各型式がそろう段階である。このうち,マロ塚古墳から出土した小札鋲留衝角付冑は,第2段階から第3段階への移行期にあたると捉えられ,中期中葉から後葉(5世紀中葉から後葉)の所産と推定した。
臼居, 直之 Usui, Naoyuki
千曲川流域の沖積低地には,弥生時代から近世にわたる数多くの集落跡と水田跡が発見されている。洪水堆積層に覆われた遺跡からは,畦畔や溝で区切られた各時代の水田区画が検出され,多量の木製農耕具が出土している。これらの水田区画と農耕具には時代ごとに特長があり,いくつかの画期を見いだすことができる。またその変化の背景には自然条件を克服した技術や政治・社会的な要因が推察される。
白石, 太一郎 Shiraishi, Taichirô
古墳時代後期の6世紀に日本列島の各地で造営された墳丘長60メートル以上の大型前方後円墳の数を比軟すると,他の諸地域に比べ関東地方にきわめて多いことが知られる。律令体制下の国を単位にみてみると,関東では上野97,下野16,常陸38,下総11,上総28,安房0,武蔵26,相模0で,合わせて216基となる。うちに大王墓をも含む畿内地方でも大和20,河内12,和泉0,摂津2,山城5の計39基にすぎず,さらに吉備地方では,備前2,備中1,備後1,美作0の計4基にすぎない。また東海地方の尾張では12,美濃では7基を数えるが,尾張に多いのは継体大王の擁立にこの地の勢力が重要な役割をはたしたという特別の政治的理由によるものと思われ,東日本の中でも関東地方だけが後期前方後円墳の造営において特殊な地域であったことは明らかである。
高瀬, 克範 Takase, Katsunori
続縄文概念の有効性の評価にあたり,隣接諸文化との比較からその異同性をさぐることは重要な手段となりえる。本稿では,資源・土地利用を中心とした経済の観点から縄文・弥生および一部古墳文化との比較をおこない,以下の点を指摘した。
白石, 太一郎 Shiraishi, Taichirō
『常陸国風土記』には,7世紀中葉における信太,行方,香島,多珂,石城などの諸評(郡)の建評記事がみられ,国造制にもとづく新治,筑波,茨城,那珂,久慈,多珂の6国が12の評に分割される過程がうかがえる。最近の文献史学の研究は,この『常陸国風土記』の建評記事が,その年紀をも含めてほぼ信じられることを明らかにしているようにうかがえる。小論では,常陸地方の後期から終末期の大型古墳という考古学的資料から想定される6~7世紀の有力在地首長層の動向を,文献史料から復元される国造制から評制へという地方支配組織の変遷過程と対比しながら検討した。それは,文献史料と考古学的資料を総合することによって古代国家形成期の東国在地首長層の動向の一端を具体的に追求することを目的とするとともに,依るべき文献史料を欠く他の地域における後期から終末期の大型古墳の被葬者像の解明にも役立つことを期待したものである。
右島, 和夫 Migishima, Kazuo
群馬県高崎市の綿貫観音山古墳は,6世紀後半の関東地方を代表する前方後円墳であり,全国的にも著名である。昭和43年からの一連の発掘調査で,後円部の横穴式石室から手つかず状態の豪華で豊富な副葬品が出土した。その内容は,朝鮮半島(取り分け南部の百済・新羅・加耶地域)との深い関係性が窺われ,極めて高い制作技術による優品群である。本墳の被葬者,関係者の人物像として朝鮮半島との深いつながりが想起される。
梅, 定娥
古丁は生涯日本語作品の翻訳を行った。その翻訳は北平(北京)時代、「満州国」時代、中華人民共和国時代の三つの時期に分けることができる。本論文は主に「満州国」時代の翻訳を対象とし、翻訳態度の変化を考察するために北平時代には触れるが、中華人民共和国時代については省略する。
霍, 巍
奈良県黒塚古墳の発掘によって、大量の三角縁神獣鏡が出土した。しかし、三角縁神獣鏡のルーツを考える上で、これまで全く見過ごされてきた重要な銅鏡が存在する。それは三段式神仙鏡である。本稿はこの三段式神仙鏡のルーツを考察することによって、紀元三世紀の日中の文化交流史に新たな解釈を加えるものである。
山本, 孝文 Yamamoto, Takafumi
本稿では,横穴式石室を素材として,韓半島三国時代の百済と湖南地方(栄山江流域を中心とした全羅道地方)の諸集団との関係の一端を提示する。特に両地域の横穴式石室の築造技術に観察される共通点と相違点(技術系譜の差)をもとに,造墓行為の系統や工人の動向について推論することを目指した。5世紀後半から6世紀前半までの湖南地方の古墳は多様化の様相を見せ,方台形,円形,前方後円形など様々な形態の墳丘内に甕棺や竪穴式石槨,横穴式石室など多様な埋葬施設が造られた。この時期は馬韓系の墓制(周溝墓)の展開期と,泗沘期百済の規格化された横穴式石室の拡散期の間の過渡期的時期にあたっており,土着系の墓制が百済系墓制に変わっていく段階に多様な地域の文化的影響が当地に及んだことがうかがえる。この時期の墓制の一つに,百済の影響を受けたとされる横穴式石室が含まれる。この時期の百済地域の中心勢力に関わると考えられる横穴式石室の構築技法を観察すると,石材の加工・使用法,構築の工程,空間設定と石材の使用数の間に相関性が見られ,異なる古墳群間で構築技術およびそれを保有していた集団の系譜を割り出すことができる。この共通的技術を保有する造墓集団を仮に「王畿系集団」とし,同様の技法で造られた石室の分布からその活動範囲を想定した。この王畿系集団の技術で築造された横穴式石室と湖南地方の石室を比較すると,形態やおおよその構造が類似するものでも,構築技法や石材使用の方法において直接の関連は見られないことがわかる。従って,これまで「百済系」「熊津系」とされていた湖南地方の横穴式石室は百済の中心勢力との関係で造られたものとはいえない。一方で,百済の西海岸地域に湖南地方の石室と構造・技術的に類似したものがあり,百済の特定地域集団との関係を想定することができる。
加部, 二生 Kabe, Nitaka
幕末から明治期にかけて長く日本に滞在し,多くの日本研究の著書をもつ,英国人外交官アーネスト・サトウは,考古学に関する探究も行っている。その調査のために,サトウは実際に,1880年3月6日から10日までの間に,現在の群馬県前橋市にある大室古墳群を訪れている。その報告は,翌月の日本アジア協会の例会において早くも発表され,紀要としてまとめられている。本著は全編英文による論文で,その後,多くの研究者に引用されているものの,いままでに完全な翻訳は存在しなかった。
白石, 太一郎 Shiraishi, Taichiro
奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳からは,金銅製や金銅装の馬具,銅鏡,玉飾り,金銅製装身具,飾り大刀などの豪華な副葬品とともに,斧・鉇・刀子・のみ・鎌・鋤などの鉄製農工具の雛型品が合わせて100点近く出土している。それらの鉄製農工具類はいずれも,横穴式石室内に石室の主軸と直交する方向に置かれた家形石棺と石室奥壁の間の狭い空間に,馬具や挂甲などとともに置かれていた。いずれも雛型品であるが,木柄の痕跡をとどめており,本来は柄を装着した状態で副葬されていたものと想定される。
正木, 晃
縄文時代から奈良時代までを概観した前回をうけて、平安時代の「聖空間の自然」を取り上げる。ひとくちに平安時代といっても、古代から中世までつらなる四百年はあまりに長い。そこでまずは、この時代の人々の心に最も大きな影響をあたえた密教世界を、今回の主題としたい。より具体的にいえば、俎上にのぼるのは、密教と月の関係である。
山中, 章 Yamanaka, Akira
古代王権の「陵墓」と宮都の関係についての研究は限られており、わずかに岸俊男氏の論じた「藤原京」と天武・持統合葬陵、今尾文昭氏の藤原宮と四条古墳群、山田邦和氏の平安京と桓武・嵯峨・淳和天皇陵との関係がある程度である。そこで今一度、飛鳥諸京以後平安京に至るまでの王宮・宮都が「陵墓」・葬地をどのような意図の下に、いつから、どこに配置したのかについて分析した。
齋藤, 努 Saito, Tsutomu
日本と韓国で出土した青銅資料について,鉛同位体比からみた原料の産地推定を行った結果をまとめた。韓国研究機関の研究者によって,韓国産鉛鉱石のデータが新たに報告されたことにより,これまで困難であった日本の古墳出土資料の原料の産地を推定できる可能性がきわめて高くなった。また一方で,韓国出土資料であっても,朝鮮半島産のほかに中国産の原料が使用されたと推定される場合があることもわかった。
林部, 均 Hayashibe, Hitoshi
郡山遺跡は宮城県仙台市に位置する飛鳥時代中ごろから奈良時代前半の地方官衙遺跡である。多賀城は宮城県多賀城市に所在する奈良時代から平安時代にかけての地方官衙遺跡である。郡山遺跡は仙台平野の中央,多賀城は仙台平野の北端に位置している。ともにヤマト王権,もしくは律令国家の支配に従わない蝦夷の領域に接する,いわば国家の最前線に置かれた地方官衙であった。
工藤, 雄一郎 Kudo, Yuichiro
本論文では,縄文時代の漆文化の起源をめぐる研究史について,1926年から2010年代まで歴史を整理した。縄文時代の編年的な位置づけが定まらない1930年代には,是川遺跡に代表される縄文時代晩期の東北地方の漆文化は,平泉文化の影響を受けて成立したものという考えがあった。1940年代に唐古遺跡で弥生時代の漆文化の存在が確認されて以降,中国の漢文化の影響を受けた弥生文化から伝わったという意見もあった。1960年代以降,照葉樹林文化論の提唱を受け,縄文時代の漆文化は大陸から各種の栽培植物とともに伝わったという見方も広がった。1980年代には,中国新石器文化と縄文文化との共通の起源を想定する共通起源説も登場した。これらはいずれも縄文時代の漆文化を列島外から来たとする伝播論である。一方,加茂遺跡の縄文時代前期の漆器の出土を考慮して,1960年代には縄文時代の漆文化自生説も登場する。その後,1990年代には縄文文化の独自性や縄文時代の漆文化の成熟度を重視する研究者から,自生説が主張されるようになる。2000年の垣ノ島B遺跡の発見,2007年の鳥浜貝塚の最古のウルシ材の存在の確認によって,縄文時代の漆文化自生説は力を増した。しかし,垣ノ島B遺跡の年代は信頼性が担保されていないこと,また垣ノ島B遺跡の事例を除外すると,中国の河姆渡文化の漆製品は日本列島の縄文時代早期末の漆器と同等かそれ以上の古さを持っていることを年代学的に検証し,改めて縄文時代の漆文化の起源が大陸からの伝来であった可能性を考慮する必要性があることを論じた。
福島, 雅儀 Fukushima, Masayoshi
装飾古墳の彩色原色を多用した特異な図文は,それが墓室に施されたこともあって強烈な衝撃を与えている。この図文は,呪術や鎮魂・僻邪という目的で施されたと理解されてきた。しかし図文を解釈する方法や根拠は,不明確な場合が少なくなかった。また装飾内容を文字資料から説明する資料が発見されない現状では,具体的な装飾の意味や意義を明らかにすることはむつかしい。したがって装飾内容の追究は,状況証拠を積み重ねるしか方法はない。
阿部, 義平 Abe, Gihei
日本列島に展開した各時代史において,村落や都市などを守る拠点,あるいは全体を囲む防備施設が存在した。弥生時代の環濠集落を嚆矢(こうし)として,各時代に各々特色ある防禦施設あるいは軍事施設の様相が展開したことが知られてきた。中世や近世の城郭がその代表例であるが,各時代を通じた施設の実態や変遷,多様性などはまだ十分に把握されておらず,解明を要する。
川瀬, 久美子 Kawase, Kumiko
中部日本の矢作川下流低地において,縄文海進のおよんだ地域を対象として,ボーリング資料の整理,加速器質量分析計による堆積物の¹⁴C年代値の測定,珪藻分析を行い,完新世後半の低地の地形環境の変化を明らかにした。表層地質の整理から,沖積層上部砂層の上位に腐植物混じりの後背湿地堆積物が堆積し,洪水氾濫堆積物と考えられる砂層によって覆われていることが明らかとなった。後背湿地堆積物を覆う砂層は,支流沿いでは自然堤防を構成している。堆積物の珪藻分析結果は,後背湿地堆積物が安定した止水環境で堆積し,その上位は流水の影響が強まったことを示唆しており,堆積物からみた堆積環境の変遷を支持している。静穏な環境から河成作用が卓越する環境への変化は,約2,000年前におこった。本研究で推定された上記の環境変化が,対象地域の上流部においてもみられたことが従来の研究で指摘されている。それらによれば,約2,000年前頃から洪水氾濫の影響が強くなり,古墳時代には顕著な自然堤防が形成されるようになった。この一連の堆積環境の変化には,気候の湿潤化による洪水氾濫の激化と,人為的な森林破壊による土砂供給量の増大が関与している可能性がある。
岩淵, 令治 IWABUCHI, Reiji
前近代の日本において、最も都市が発達したのは江戸時代であり、人々は大規模な火災を頻繁に体験した時代だった。
澤田, 和人 Sawada, Kazuto
帷子は今日よく知られた服飾のひとつであろう。しかしながら、その基礎的な研究は充分にはなされていない。本稿では、そうした状況を打開すべく、基礎的研究の一環として、室町時代から江戸時代初期にかけての材質の変遷を解明する。
梶原, 滉太郎 KAJIWARA, Kōtarō
日本において<天文学>を表わす語は奈良時代から室町時代までは「天文」だけであった。しかし,江戸時代になると同じ<天文学>を表わす語として「天学」・「星学」・「天文学」なども使われるようになった。そのようになった理由は,「天文」という語には①<天体に起こる現象>・②<天文学>の二つの意味があってまぎらわしかったので,それを解消しようとしたためであろう。そして,その時期が江戸時代であるのはなぜかといえば,江戸時代はオランダや中国などを通じて西洋の近代的な学問が日体に伝えられた画期的な時期であったからだと考えられる。
高田, 貫太 Takata, Kanta
古墳出土の龍文透彫製品は,透彫文様における肢構成の崩れ,蹴り彫りによる細部表現などの諸 属性から,龍文の退化の様相を読み取ることができる。よって,先行研究を参考としつつ,肢構成 を主たる基準としⅠ~Ⅲ式の型式系列を提示した。龍文の変遷を単系的に把握することのみでは不 十分であるので,次に,龍文の多様性から前肢平行系,前肢相反系,蛇行状尾系という3 つの小系 列を設定し,Ⅰ~Ⅲ期の相対編年案を提示した。そして,すでに相対編年がある程度確立している 馬具や鉄鏃,土器など共伴する副葬品の検討を通して,龍文透彫製品の相対編年の妥当性を検証し た。さらに,小系列の祖形を中国遼寧省を中心とした三燕地域に求めた。
白石, 太一郎 設楽, 博己 Shiraishi, Taichiro Shitara, Hiromi
西本, 豊弘 Nishimoto, Toyohiro
縄文時代は狩猟・漁撈・採集活動を生業とし,弥生時代は狩猟・漁撈・採集活動も行うが,稲作農耕が生業活動のかなり大きな割合を占めていた。その生業活動の違いを反映して,それぞれの時代の人々の動物に対する価値観も異なっていたはずである。その違いについて,動物骨の研究を通して考えた。
相田, 満
時代の画期やその時代の盛期が自覚された時、記念となるべきモニュメントを作り上げる営みは史上何度も繰り返されたことである。
王, 秀文
植物にまつわる民間伝承において、桃ほど古く、広く伝えられているものはあるまい。中国の『詩経』に収められている遠い周の時代の民謡、春秋戦国の時代から行われた諸儀式と年中行事、漢の時代に急に浮上してきた度朔山伝説、六朝時代から盛んに伝えられるようになってきた西王母の伝説や神仙説、さらに晋の陶淵明の「桃花源記」や明代に集大成された『西遊記』物語、および今もお正月に、門戸の両側に貼り付ける赤い紙切れの「春聯」など、至るところに、桃の伝承が浸透している。いっぽう、日本においても、記紀神話から平安時代の宮中の儀式まで、鬼門信仰から「桃太郎」の民話まで、桃の伝承は数多くみられる。
西本, 豊弘 Nishimoto, Toyohiro
これまで,一般的に縄文時代の家畜はイヌのみであり,ブタなどの家畜はいないと言われてきた。しかし,イノシシ形土製品やイノシシの埋葬,離島でのイノシシ出土例から縄文時代のイノシシ飼育が議論されてきた。イノシシ飼育の主張でもっとも大きな問題点は,縄文時代のイノシシ骨に家畜化現象が見られなかったことである。ところが縄文時代のイノシシ骨の中にも家畜化現象と疑われる例があることが分かった。また,イノシシがヒトやイヌと共に埋葬されている例が知られるようになり,改めてイノシシについてヒトやイヌとの共通性を議論する必要が出てきた。
中塚, 武 NAKATSUKA, Takeshi
気候変動は人間社会の歴史的変遷を規定する原因の一つであるとされてきたが,古代日本の気候変動を文献史学の時間解像度に合わせて詳細に解析できる古気候データは,これまで存在しなかった。近年,樹木年輪に含まれるセルロースの酸素同位体比が夏の降水量や気温の鋭敏な指標になることが分かり,現生木や自然の埋没木に加えて,遺跡出土材や建築古材の年輪セルロース酸素同位体比を測定することにより,先史・古代を含む過去数百~数千年間の夏季気候の変動を年単位で復元する研究が進められている。その中では,セルロースの酸素同位体比と水素同位体比を組み合わせることで,従来の年輪による古気候復元では難しかった数百~数千年スケールの気候の長期変動の復元もできるようになってきた。得られたデータは,近現代の気象観測データや国内外の既存の低時間解像度の古気候記録と良く合致するだけでなく,日本史の各時代から得られたさまざまな日記の天候記録や古文書の気象災害記録とも整合しており,日本史と気候変動の対応関係を年単位から千年単位までのあらゆる周期で議論することが可能になってきている。まず数百年以上の周期性に着目すると,日本の夏の気候には,紀元前3,2世紀と紀元10世紀に乾燥・温暖,紀元5,6世紀と紀元17,18世紀に湿潤・寒冷の極を迎える約1200年の周期での大きな変動があり,大規模な湿潤(寒冷)化と乾燥(温暖)化が古墳時代の到来と古代の終焉期にそれぞれ対応していた。また人間社会に大きな困難をもたらすと考えられる数十年周期の顕著な気候変動が6世紀と9世紀に認められ,それぞれ律令制の形成期と衰退期に当たっていることなども分かった。年単位の気候データは,文献史料はもとより,酸素同位体比年輪年代法によって明らかとなる年単位の遺跡動態とも直接の対比が可能であり,今後,文献史学,考古学,古気候学が一体となった古代史研究の進展が期待される。
小澤, 佳憲 Ozawa, Yoshinori
これまでの弥生時代社会構造論は,渡部義通に始まるマルクス主義社会発展段階論の日本古代史学界的解釈に大きく規定されてきた。これに対し,新進化主義的社会発展段階論を基礎に新たな弥生時代社会構造論を導入することが本稿の目的である。
モスタファ, アハマド M. F.
「戦争」というテーマは安岡章太郎の少年時代及び青年時代そして父親がなくなるまでの壮年時代を題材にした作品の多くに、背景として取り上げられている。その中から、この論文では『愛玩』(一九五二年発表)を取り上げ、安岡章太郎はいかにこの作品をもってシンボリックに自分の中の「戦後」を表現したのか、という点を探ろうとする。
山中, 光一 YAMANAKA, Mitsuichi
時代状況というものが、作家や作品と相互作用をもつ実体としての「場」として把えられることを、近代文学の出発点における二葉亭四迷の例について論じ、そのマクロの時代状況を記述する方法として、読者層、出版メディア、言葉と文体の要素について、時代的変化の指標を分離して論ずることについて述べる。
西本, 豊弘 Nishimoto, Toyohiro
弥生時代の遣跡から出土する「イノシシ」について,家畜化されたブタかどうか,再検討を行った。その結果,「イノシシ」が多く出土している九州から関東までの8遺跡では,すべての遺跡でブタがかなり多く含まれていることが明らかとなった。それらのブタは,イノシシに比べて後頭部が丸く吻部が広くなっていることが特徴である。また,大小3タイプ以上は区別できるので,複数の品種があると思われる。その形質的特徴から,筆者は弥生時代のブタは日本でイノシシを家畜化したものではなく,中国大陸からの渡来人によって日本にもたらされたものと考えている。また,ブタの頭部の骨は,頭頂部から縦に割られているものが多いが,これは縄文時代には見られなかった解体方法である。さらに,下顎骨の一部に穴があけられたものが多く出土しており,そこに棒を通して儀礼的に取り扱われた例も知られている。縄文時代のイノシシの下顎骨には,穴があけられたものはまったくなく,この取り扱い方は弥生時代に特有のものである。このことから,弥生時代のブタは,食用とされただけではなく農耕儀礼にも用いられたと思われる。すなわち,稲作とその道具のみが伝わって弥生時代が始まったのではなく,ブタなどの農耕家畜を伴なう文化の全生活体系が渡来人と共に日本に伝わり,弥生時代が始まったと考えられるのである。
吉川, 真司 Yoshikawa, Shinji
本稿は、大極殿で行なわれた儀式を素材として、日本古代史の時期区分を論じ、とりわけ四字年号時代(七四九〜七七〇)の時代相を明らかにしようとするものである。
千賀, 久 Chiga, Hisashi
日本の古墳から出土する飾り馬用の馬装具は,その系統の違いによって「新羅系」と「非新羅系」とに大きく分けられるが,その主流となるのは後者の特徴をもつ馬具である。この分類基準は,朝鮮半島の5世紀後半以降の馬具の製作地の違いを示す要素として,金斗喆氏が提示したものであり,「新羅系」馬具は主に高句麗と新羅,そして加耶の一部の馬具に見られ,「非新羅系」馬具は主に百済と加耶に集中するという傾向があるので,日本の馬装具の系譜を知る際にも有効な分類といえる。
西本, 豊弘 Nishimoto, Toyohiro
弥生時代の生活は,農耕をどの程度受け入れるかによって,その地域毎に大きな差異があったと思われる。ここでは,稲作農耕が積極的に受け入れられたと推定される北九州から濃尾平野までの西日本の弥生遺跡を取り上げ,弥生時代における動物質食料について検討する。
長田, 友也 Osada, Tomonari
近年の縄文時代研究では,様々な分野で縄文時代観の見直しが指摘されている。社会についても縄文時代の後半期において,一定程度の複雑化が指摘されることが多い。しかしそうした議論は関東以東の東日本で盛んな一方で,中部日本以西の地域ではあまり見られない傾向にある。それには社会複雑化を示す指標が必要であるが,本稿では中部日本にみられる特産品の流通・消費から,中部日本の社会動態と社会複雑化を検討した。
クリステヴァ, ツベタナ
この論文が中心に扱うのは、平安時代と鎌倉時代の仮名日記文学である。その考察にはいろいろなアプローチを応用し、自伝形式としての日記文学の特徴と同時に、研究方法の問題も取り扱っている。
二又, 淳 藤島, 綾 谷川, ゆき
江戸時代はパロディの時代であった。その中でも、古典類が出版文化の上で花開いた十七世紀は、『枕草子』をもじった『犬枕』『尤之 双紙 』、『徒然草』をもじった『犬つれづれ』などが出て、そして日本文学史の上でも最も優れたパロディ文学『仁勢 物語』が登場する。パロディ文学の流行は、散文の小説類(仮名 草子 )に限った現象ではなく、とくにこの十七世紀には、俳諧・狂歌・漢詩文にも及び、ジャンルを超えた流行を見せていた。まさに「パロディの世紀」といってもよい時代であった(今栄蔵「パロディの世紀」『初期俳諧から芭蕉時代へ』笠間書院、二〇〇二年)。
工藤, 雄一郎 Kudo, Yuichiro
宮崎県王子山遺跡から出土した縄文時代草創期の炭化植物遺体の¹⁴C年代測定,鹿児島県西多羅ヶ迫遺跡および上床城跡遺跡から出土した縄文時代草創期から早期初頭の土器付着炭化物の¹⁴C年代測定,炭素・窒素安定同位体分析を行ってその年代的位置づけを検討し,土器付着物については煮炊きの内容物の検討を行った。王子山遺跡の炭化コナラ属子葉と炭化鱗茎類は縄文時代草創期のものであることを確かめた。これらは縄文時代草創期の南九州において,コナラ亜属のドングリやユリ科ネギ属の鱗茎が食料として利用されていたことを示す重要な例である。一方,西多羅ヶ迫遺跡の無文土器は,隆帯文土器の直後の時期に位置づけられると推定され,鹿児島県建昌城跡から出土した無文土器の年代とも比較的近いものであった。ただし,炭素・窒素安定同位体分析の結果から,煮炊きの内容物に海産物が含まれている可能性も考えられるため,正確な年代的位置づけについては課題を残した。これらの無文土器は縄文時代早期初頭岩本式よりも,隆帯文土器の年代により近いことが分かったことは大きな成果である。上床城跡遺跡の水迫式~岩本式の土器は,これまでの縄文時代早期初頭の土器群の年代と良く一致している。縄文時代草創期から早期初頭の土器群や関連する遺構群,植物質遺物の¹⁴C年代測定例,土器付着炭化物の安定同位体分析例を蓄積していくなかで,隆帯文期の生業活動の解明,その後の消滅,縄文時代早期初頭の貝殻文系土器群の登場に至るプロセスとその実態を明らかにしていくことが重要である。
山本, 登朗 YAMAMOTO, Tokuro
鉄心斎文庫の伝二条為氏筆伊勢物語は、鎌倉時代の筆と考えられる現存最古の伊勢物語写本の一つであり、定家本勘物の存在や奥書から定家本の一つとされて重要視されてきたが、勘物以外に数多く見られる注記は、これまでまったく注目されてこなかった。実はそれらの注記は、同じく鎌倉時代の写本である天理図書館蔵伝為家筆本にも、ほぼ同じように付されているものであり、本文と同じく鎌倉時代にまでさかのぼるものと考えられる。勘物も含め百九十箇所にも及ぶ多量の注記は、注釈資料がほとんど知られていない鎌倉時代中・後期の伊勢物語の享受や研究の姿を垣間見せてくれる、貴重な資料である。
中山, 真治 Nakayama, Shinji
南関東の縄文時代中期の廃絶竪穴には土器をはじめ多量の遺物が遺棄されている。日常生活で生じる生活残滓の処理に廃絶した竪穴を好んで廃棄場所として有効に利用していた。縄文時代中期の廃棄について,主として東京多摩地域の中期遺跡での土器の接合関係から読み取れる遺物の廃棄について時期的な特徴と変遷を捉えた。
千葉, 敏朗 Chiba, Toshiro
本論は下宅部遺跡から出土した様々な漆工関連資料から,縄文時代の漆工技術を復元したものである。
高瀬, 克範 Takase, Katsunori
東北地方における縄文時代終末期の土器編年は,とくに大洞A´式土器の理解をめぐって混乱が続いている。大洞諸型式の認識は,東日本の縄文時代晩期・初期弥生時代土器研究に大きな影響力をもつことから,この問題の整理が肝要である。ここでは,東北最後の縄文土器とされる大洞A´式の範囲を規定し,その後の土器群の変遷を小地域ごとにあとづけることで,この問題の再検討を試みた。
春成, 秀爾 Harunari, Hideji
弥生時代前期から鉄器時代であった,ともっともつよく主張したのは杉原荘介である。杉原は,1943年,アジア・太平洋戦争中に,弥生文化は農耕と金属をもつ文化であることを強調した。しかし,金属については具体的な資料をほとんど挙げていない。戦争中の米は戦地での食糧,鉄は軍艦・大砲の材料であった。戦いに勝つためには鉄が必要という当時の日本がおかれていた状況を,杉原は自らの意見に無意識のうちに反映させていた。杉原の説はその後1960年代に近藤義郎が継承した。こうして根拠は不十分ながら,弥生前期以来鉄器時代であったとする説は一般化した。そして,1980年代に福岡県曲り田遺跡で鉄器が見つかると,弥生早期から鉄器時代とする考えが広まった。
那須, 浩郎 Nasu, Hiroo
縄文時代晩期から弥生時代移行期におけるイネと雑穀(アワ・キビ)の栽培形態を,随伴する雑草の種類組成から検討した。最古の水田は,中国の長江中・下流域で,約6400年前頃から見つかっているが,湖南省城頭山遺跡では,この時期に既に黄河流域で発展した雑穀のアワ栽培も取り入れており,小規模な水田や氾濫原湿地を利用した稲作と微高地上での雑穀の畑作が営まれていた。この稲作と雑穀作のセットは,韓半島を経由して日本に到達したが,その年代にはまだ議論があり,プラント・オパール分析の証拠を重視した縄文時代の中期~後期頃とする意見と,信頼できる圧痕や種子の証拠を重視して縄文時代晩期終末(弥生時代早期)の突帯文土器期以降とする意見がある。縄文時代晩期終末(弥生時代早期)には,九州を中心に初期水田が見つかっているが,最近,京都大学構内の北白川追分町遺跡で,湿地を利用した初期稲作の様子が復元されている。この湿地では,明確な畦畔区画や水利施設は認められていないが,イネとアワが見つかっており,イネは湿地で,アワは微高地上で栽培されていたと考えられる。この湿地を構成する雑草や野草,木本植物の種類組成を,九州の初期水田遺構である佐賀県菜畑遺跡と比較した結果,典型的な水田雑草であるコナギやオモダカ科が見られず,山野草が多いという特徴が抽出できた。この結果から,初期の稲作は,湿地林を切り開いて明るく開けた環境を供出し,明確な区画を作らなくても自然地形を利用して営まれていた可能性を示した。
ピーター, コー二ツキー Peter, KORNICKI
本年表は、国文学研究資料館の国際共同研究「江戸時代初期出版と学問の綜合的研究」(二〇一五年度~二〇一七年度、代表者・ピーター・コーニツキー)の三年間にわたる研究の成果である。研究班発足の際、岡雅彦・市古夏生・大橋正叔・岡本勝・落合博志・雲英末雄・鈴木俊幸・堀川貴司・柳沢昌紀・和田恭幸編『江戸時代初期出版年表天正十九年~明暦四年』(勉誠出版、二〇一一年)に海外所蔵の書籍がほとんど含まれていないので、天正十九年~明暦四年期間中に刊行された海外所蔵の書籍のデータを収集し、その補訂を作成することを目標の一つとした。班の海外在住のメンバーたちが個別に調査したデータを合わせたものなので、不十分という批判を免れない。ヨーロッパ諸国はほとんどカバーしてはいるが、韓国、台湾、北米、カナダは完全にはカバーしてはおらず、豪州、中国、北朝鮮などは全然カバーしていない。完全ではないのであるが、少しでも江戸時代初期出版の研究に貢献ができれば幸いである。なお、記号や項目順番は、なるべく『江戸時代初期出版年表天正十九年~明暦四年』に従ったが、『江戸時代初期出版年表』未載の書籍名には✥印を付した。また、『江戸時代初期出版年表』所収の場合、書誌データを省略した。
設楽, 博己 Shitara, Hiromi
縄文中期終末から後期へ、縄文晩期から弥生時代の始まりへ、それらはいずれも列島規模で、文化や社会が大きく転換した時代であり、時期であった。その歴史の節目に、地域や時代を超えて再葬墓が営まれることは何を意味するのだろうか。再葬が発達した地域におけるそれぞれの転換点で共通するのは、集落の衰退すなわち人口の減少である。環境変動に目を向けると、その転換期に共通した要素として気候の寒冷化をあげることができる。まさに、環境の悪化が再葬を誘発したといっても過言ではない。
浅井, 良夫 Asai, Yoshio
日本の高度成長において,1960年前後は大きな転換点であった。本論文では,1960年以前を「開発の時代」,60年以降を「成長の時代」と名づけ,2つの時期を比較しながら,60年頃に起きた変化の歴史的意味を考察する。
小川, 剛生 OGAWA, Takeo
南北朝時代の文芸・学問に、四書の一つである『孟子』が与えた影響について探った。『孟子』受容史は他の経書に比し著しく浅かったため、鎌倉時代後期にはなお刺激に満ちた警世の書として受け止められていたが、この時代、次第にその内容への理解が進み、経書としての地位を安定させるに至った。この時代を代表する文化人、二条良基の著作は、そうした風潮を形成し体現していたように見える。良基の連歌論には『孟子』の引用がかなりあり、これを子細に分析することで、良基の『孟子』傾倒が、宋儒の示した尊孟の姿勢にほぼ沿うものであったことを推定し、もって良基の文学論に与えた経学の影響を明らかにした。ついで四辻善成の『河海抄』から、良基の周辺もまた尊孟の潮流に敏感に反応していたことを確認し、『孟子』受容から窺える、この時代の古典学の性質についても考察した。
土肥 直美 平田 幸男 瑞慶覧 朝盛 泉水 奏 Doi Naomi Hirata Yukio Zukeran Chosei Sensui Noburu
平成6-8年度科学研究費補助金(基盤研究C)研究成果報告書 / 成果概要:港川人の形質が琉球列島においてどのように保持され変化したか、また琉球列島内において形質の地域変異があるかどうかを明らかにするために、沖縄県内に保管されている古人骨資料および各地の風葬墓人骨の調査を行った。\nその結果、風葬墓人骨の形質には大きな地域差は認められなかったが、沖縄先史時代と中・近世の間に明瞭な形質の時代差が存在することが明らかになった。すなわち、沖縄先史時代人は、縄文人の特徴を極端にしてサイズを小さくしたような独特の風貌を有しており、種子島の広田弥生人によく似ている。ところが、中世から近世に属すると考えられている人骨は、頭型が中頭から長頭で、全体にサイズが大きく、頑丈になる傾向が認められた。\nさらに、沖縄先史時代人である大当原の頭蓋計測値9項目(1、8、17、45、48、51、52、54、55)を、多変量解析法によって他の日本人集団および周辺地域集団と比較した結果は、大当原貝塚人が種子島弥生人や港川人とともに、縄文人とは少し離れて一つの集団を形成しており、南西諸島の先史時代人を特徴づける共通の形質の存在を示唆した。一方、沖縄の中・近世人は、縄文人や沖縄先史時代人とは大きく離れて本土の近・現代人に近いところに位置していた。沖縄の中・近世人には南西諸島先史時代人にみられた独特の形質がみられなくなっている。\nこのような先史時代と中世以降の人々の形質の変化がどのようにして生じたのかは、今のところ不明である。今後は、これらの問題を明らかにするために、さらに資料の充実を図っていきたい。
小林, 謙一 Kobayashi, Kenichi
本稿では,縄紋時代像を再構成する上で不可欠な年代測定と考古学の関係を構築するための研究史的な整理を行った。
矢作, 健二 Yahagi, Kenji
縄文時代草創期・早期の遺跡である愛媛県上黒岩遺跡は,これまで岩陰遺跡として発掘調査がなされ,最近では,その成果の再調査と再評価により,縄文時代草創期には狩猟活動に伴うキャンプサイト,早期には一定の集団が通年的な居住をしていたと考えられている。しかし,岩陰からの明確な遺構の検出記録はない。上黒岩遺跡の岩陰を構成している石灰岩体の分布や山地を構成している泥質片岩の分布に,縄文時代草創期から早期に至る時期の気候変動を合わせて考えると,遺構を遺すような生活空間は,山地斜面と久万川との間に形成された狭小な段丘上の地形にあったと推定される。
稲賀, 繁美
20世紀前半の日本の近代美術史は、同時代の世界美術史の枠組みのなかで再考される必要がある。この課題に対処するうえで、橋本関雪(1883~1945)の事例は見過ごすことができない。関雪は明治末年から大正時代にかけ、文部省美術展覧会、ついで帝国美術展覧会で続けざまに最高賞を獲得したが、その画題は中国古典から題材を取りつつも、日本画の技法を駆使しており、さらに、清朝皇帝に仕えた郎世寧の画風を取り込むばかりか、洋行に前後して、同時代の西欧の最新流行にも目配せしていた。加えて筆者の仮説によれば、関雪は旧石器時代に遡る原初の美術やペルシア細密画をも自分の画業に取り込もうとしたことが推測される。こうした視点は先行研究からは見落とされてきた。
木下, 尚子 Kinoshita, Naoko
本論は,科研費共同研究の一環としておこなった貝殻の炭素14年代測定結果(較正年代)にもとづく考古学的考察である。沖縄諸島の先史時代遺跡に残る大型巻貝(ゴホウラ・イモガイ)の集積を対象に,16遺跡で検出された弥生時代併行期の貝殻集積27基のうちから,ゴホウラとイモガイの貝殻合計51個を選んで測定し,結果を整理してその歴史的意味を示した。
春成, 秀爾 Harunari, Hideji
ユーラシアの後期旧石器時代前半,オーリニャック期の約40,000年前に出現し,グラヴェット期の約33,000~28,000年前に発達した立体女性像は,出産時の妊婦の姿をあらわし,妊娠・安産を祈願する護符の意味をもっていた。しかし,グラヴェット期後半の約24,000年前に女性像は消滅する。そして,後期末~晩期旧石器時代マドレーヌ期の約19,000年前に線刻女性像や立体女性像が現れ,その時期の終わり頃の約14,000年前に姿を消す。
小田嶋, 恭二 Odajima, Kyoji
藤根村という東北の貧しい農村に生まれた高橋峯次郎という一教師をとおして、彼が生きた明治・大正・昭和の三時代とはどういう時代であったのか、また村の指導者として日露戦争、満州事変そして太平洋戦争に、どのように関与し行動したかを考察する。
工藤, 雄一郎 Kudo, Yuichiro
「縄文時代の始まり」あるいは「最古段階の土器」の研究は1950年代以降,¹⁴C年代測定と古環境研究の進展と常に密接に絡みながら進んできた。そこで本論では,これらが更新世/完新世(洪積世/沖積世),氷期/後氷期の境界,あるいは晩氷期と,どのように対比されてきたのかに注目して,戦前から現在までの研究の流れを整理した。縄文時代の始まりは沖積世の海進のピーク以後というのが戦前の一般的な地質時代観であったが,それが大きく変わる画期となったのが撚糸文土器の発見と夏島貝塚の¹⁴C年代測定であった。9,000年前を遡る土器と後氷期の開始が結び付けられ,考古学界には「後氷期適応論」が普及した。1963・1966年に公表された福井洞窟や上黒岩岩陰の¹⁴C年代は12,000年代まで遡り,氷期/後氷期の境界として認識されていた1万年前を超え,最古の土器を縄文時代から切り離す時代区分が提案されるきっかけとなるとともに,土器の出現と晩氷期との対比も始まった。1990年代になると,グリーンランド氷床コアなどの高精度の古環境研究が公開され,較正曲線IntCal93によって土器の出現が15,000年前まで遡る可能性が示されたが,決定的な画期となったのは1999年に公表された大平山元Ⅰ遺跡の較正年代であった。土器の出現が16,000年代まで遡るとともに,晩氷期を突き抜けて最終氷期の寒冷な環境下で土器が使用され始めたことが判明し,「土器出現の歴史的意義」と時代区分の画期としての土器の出現についても再検討が行われはじめた。2000年「佐倉宣言」以降は較正年代の理解とその使用が普及し縄文時代の始まりの年代と古環境との詳細な対比が行われるようになり,時代区分の再検討も進みつつある。
藤尾, 慎一郎 FUJIO, Shin’ichiro
本稿は,二次利用された青銅器片が石器にわずかに伴う九州北部の弥生早期〜弥生前期後半段階が,森岡秀人のいう「新石器弥生時代」に相当するのかどうかについて考えたものである。
田﨑 聡 Tasaki Satoshi
現在、沖縄県をはじめ伝統的食文化と課題に対して、保存、普及、継承、連携という推進計画が取り組まれているが、基本的に琉球料理とは、琉球王国料理を中心に食文化を展開しており、王朝以前の食文化や農漁村の食文化、商人や町民の食文化はどういうものだったかという文献があまり残されていない。そこで、日本の和食文化との時代的背景、中国、東アジアと時代的背景を探りながら、失われた長寿食文化の源流を探り、考察する。
原田, 信男 Harada, Nobuo
律令国家体制の下で出された肉食禁断令は平安時代まで繰り返し発令され,狩猟・漁撈にマイナスのイメージを与える「殺生観」が形成されるようになる。鎌倉時代に入ると,肉食に対する禁忌も定着してくる。しかし,現実には狩猟・漁撈は広範囲に行われており,肉食も一般的に行われていた。そこで,狩猟・漁撈者や肉食に対する精神的な救済が問題となってくる。仏教や神道の世界でも,民衆に基盤を求めようとすれば,殺生や肉食を許容しなければならなくなった。ところが,室町時代になると,狩猟・漁撈活動が衰退し肉食が衰退していくという現象が見られる。室町時代には,殺生や肉食に対する禁忌意識が,次第に社会に浸透していったように思われる。
中島, 経夫 Nakajima, Tsuneo
コイ科魚類の咽頭歯がもつ生物学的特性から,遺跡から出土する咽頭歯遺存体を分析することによって先史時代の人々の漁撈活動の様子を知ることができる。日本列島では,縄文時代からイネの栽培が始まり,弥生時代には灌漑水田での稲作が始まる。淡水漁撈の場と稲作の場が重なりあってきた。西日本の縄文・弥生時代の遺跡から出土する咽頭歯遺存体についての情報がある程度蓄積し,淡水漁撈と稲作の関係について述べることができるようになった。西日本の縄文・弥生時代における漁撈の発展は,稲作との関係から,0期:水辺エコトーンでの漁撈が未発達の段階,Ⅰ期:水辺エコトーンでの漁撈が発達する段階(Ia期:原始的稲作が行われていない段階,Ib期:漁撈の場での原始的稲作が行われる段階),II期:稲作の場(水田)での漁撈が発達する段階,に分けることができる。長江流域では,Ia期に漁撈の場(水辺エコトーン)でのイネの種子の採集が加わる。長江流域の漁撈と稲作の関係については,咽頭歯遺存体から多くを述べることができない。というのは,これまで,中国での咽頭歯遺存体についての詳しい研究は,河姆渡文化期の田螺山遺跡の例をのぞいてまったくない。今後,新石器時代の遺跡から出土する咽頭歯遺存体の研究が進むことによって,漁撈と稲作の関係や稲作の歴史について言及できるはずである。
シルヴィオ, ヴィータ VITA, silvio
マリオ・マレガ神父の研究成果には、キリシタン時代の歴史研究と日本文化研究の二つがある。それは時代の流れに答えたものであり、三つの文脈の中に位置づけることができる。まず一つは、バチカンとの繋がりにおいて、当時の布教論と関係する。あとの二つは日本国内におけるローカルなもので、大分地元社会の郷土研究及び昭和時代のキリシタン研究だが、本論では主として、マレガの時代におけるカトリック教界の布教者像の再構築に焦点を合わせる。彼の活動がサレジオ会内でどのように捉えられたかを考察し、マレガが作り上げた「知」の体系の全体像を整理したい。さらに、1925年のバチカン布教博覧会にみる布教者像に着目しながら、マレガの歴史研究のあり方をその枠組みの中で問い直す。
岡, 雅彦 OKA, Masahiko
世に一休和尚作と伝えられる著作及び一休を主要登場人物とする作品等で、江戸時代に出版された版本を初版再版にかかわらず年代順に並べた年表である。
中島, 信親 Nakajima, Nobuchika
本論は、光仁・桓武朝にあたる奈良時代後半から平安時代初期に都城や国家が造営した寺院で用いられた軒瓦を、文様および造瓦技術に着目しつつ概観し、その中で長岡宮式軒瓦がどの様に位置づけられるかを検討した。奈良時代後半に存在した文様および造瓦技術が異なる二系統の造営官司(宮造営官司と造東大寺司)が二度の遷都を通じて再編・融合される中で、その渦中で製作された長岡宮式軒瓦は、文様が稚拙なものも含めてほぼすべてが宮造営官司の造瓦技法が用いられていることを確認した。
小田, 寛貴 安, 裕明 池田, 和臣 坂本, 稔 Oda, Hirotaka Yasu, Hiroaki Ikeda, Kazuomi Sakamoto, Minoru
三井寺切は,料紙両面に異なる筆跡の書をもつ古筆切である。片面には草書で仏書が書かれており,もう片面には『李善注文選』の一部分が楷書で書かれている。草書の仏書は,円珍(智証大師)の手になるものとされており,平安時代の書風を持っている。料紙表面の状態と書跡とから判断すると,『李善注文選』側のほうが仏書よりも先に書かれたものであると判断できる。本研究では,この『李善注文選』が書写された年代を明らかにするべく加速器質量分析法による¹⁴C年代測定を行った。その結果,2σで666~776[cal AD]という較正年代が得られ,この古筆切が奈良時代以前に書写された『李善注文選』写本の断簡であることが示された。現存する最古の『文選』写本は,平安鎌倉時代の残欠本であり,奈良時代では正倉院文書と平城宮跡出土木簡に一部分が書写されたものが残されているにすぎない。それゆえ,奈良時代以前の書写年代をもつ本古筆切は最古級の『文選』写本の断簡であることになる。
小川, 順子
本論は、チャンバラ時代劇映画における「殺陣」に焦点を当てて、殺陣のもつ歴史的な展開を新たに構成し、「殺陣史」の類型化を試みたものである。
岩井, 洋
本稿は、明治時代をおもな対象とし、<近代>を新しい<記憶装置>が誕生した時代として描いた、「記憶の歴史社会学」の試みである。ここでいう<記憶装置>とは、人々の記憶や想起の様式を方向づけるような社会的装置であり、それはハードウェア、ソフトウェアと実践からなる。ハードウェアは物質一般であり、ソフトウェアは思想、ルールやハードウェアの操作法などを意味し、実践はハードウェアとソフトウェアを結びつける身体的な実践を意味する。いうまでもなく、それぞれの時代には、それぞれの記憶装置があったはずであり、ここで問題となるのは、その記憶装置の<近代>性である。
翁長 謙良 米須 竜子 新垣 あかね Onaga Kenryo Komesu Ryuko Arakaki Akane
本研究では、沖縄県におけるこれまでの赤土等流出防止に対する研究を踏まえ、土砂流出が及ぼす影響や年間流出量等を考察し、これまでの赤土等流出の歴史的経緯を概観し、対策の提言を行った。その結果、次のように要約できる。赤土流出の影響としては、道路や田畑等の損傷の物理的面、沿岸の景観の悪化という精神的面、川や海の底生生物への影響と云った生物的面等がある。土壌侵食と土壌保全の歴史的経緯の概略についてこれまでは、次の四つの時代、即ち(1)17世紀以前の焼畑農耕時代、(2)18世紀半ばの蔡温時代、(3)1920&amp;acd;1930年の杣山(官有林)開墾時代、(4)1950年代後期&amp;acd;現在までの時代に区分したが、昭和18年代の我謝栄彦の提言を考慮し、時代区分を六つの時代とした。急激な畑地造成の結果、土砂流出が著しいものとなり、現在では赤土等流出防止条例(1994)の施行によって、具体的な対応策が講ぜられている。赤土等流出防止条例の施行後、歴史的に侵食の最大原因とされていた開発事業に関してはかなりの改善策が取られ、流出量は大幅な減少を見ている。また対策としては、土木的対策として、圃場の区画の形態をUSLE(Universal Soil Loss Equation : 汎用土壌流亡予測式)を基に検討し、排水路、承水路の配置については耕区単位ごとに承水路を設けることや畑面の傾斜を緩やかにすること、また沈砂池等の砂防施設のあり方等についてはその大きさ、真水と濁水の分離排水を提言した。営農的防止対策としては、マルチングの効果やミニマムティレッジによる土壌保全の効用等を提言した。
設楽, 博己 Shitara, Hiromi
いったん遺体を骨にしてから再び埋葬する葬法を、複葬と呼ぶ。考古学的な事象からは、死の確認や一次葬など、複葬制全体を明らかにすることは困難で、最終的な埋葬遺跡で複葬制の存在を確認する場合が多い。そうした墓を再葬墓、その複葬の過程を再葬と呼んでいる。東日本の初期弥生時代に、大形壺を蔵骨器に用いた壺棺再葬墓が発達する。その起源の追究は、縄文時代の再葬にさかのぼって検討する必要がある。
李, 秀鴻 Lee, Soo‒hong
本稿では,これまで調査された韓半島南部地域の青銅器~三韓時代の環濠遺跡48ヶ所を集成し,環濠の時期ごとの特徴や性格,変化の傾向を検討した。
安里, 進 Asato, Susumu
20世紀後半の考古学は,7・8世紀頃の琉球列島社会を,東アジアの国家形成からとり残された,採取経済段階の停滞的な原始社会としてとらえてきた。文献研究からは,1980年代後半から,南島社会を発達した階層社会とみる議論が提起されてきたが,考古学では,階層社会の形成を模索しながらも考古学的確証が得られない状況がつづいてきた。このような状況が,1990年代末~2000年代初期における,「ヤコウガイ大量出土遺跡」の「発見」,初期琉球王陵・浦添ようどれの発掘調査,喜界島城久遺跡群の発掘調査などを契機に大きく変化してきた。7・8世紀の琉球社会像の見直しや,グスク時代の開始と琉球王国の形成をめぐる議論が沸騰している。本稿では,7~12世紀の琉球列島社会像の見直しをめぐる議論のなかから,①「ヤコウガイ大量出土遺跡」概念,②奄美諸島階層社会論,③城久遺跡群とグスク文化・グスク時代人形成の問題をとりあげて検討する。そして,流動的な状況にあるこの時期をめぐる研究の可能性を広げるために,ひとつの仮説を提示する。城久遺跡群を中心とした喜界島で9~12世紀にかけて,グスク時代的な農耕技術やグスク時代人の祖型も含めた「グスク文化の原型」が形成され,そして,グスク時代的農耕の展開による人口増大で島の人口圧が高まり,11~12世紀に琉球列島への移住がはじまることでグスク時代が幕開けしたのではないかという仮説である。
大口, 裕子 田村, 隆 藤島, 綾 恋田, 知子 神作, 研一 谷川, ゆき
例えば、思いのたけを和歌に託す登場人物や、主人公が旅する見たこともない遠い場所。『伊勢物語』の読者はどれほど興味をかきたてられたことだろうか。十一世紀初めに成立した『源氏物語』に伊勢物語絵巻の記述があり、『伊勢物語』は成立後まもなく絵画化され鑑賞されたと考えられる。しかし現存最古の遺品は鎌倉時代のもので、墨の繊細な線描を生かした白描絵巻断簡や、濃彩で描かれた装飾的な絵巻が伝わる。続く室町時代から桃山時代にかけては、場面選択や構図が共通する二つの系統の伊勢物語絵などが知られる。
蔡, 敦達
鎌倉時代末から室町時代にかけて、京五山・鎌倉五山をはじめとする禅宗寺院では、中国文化への憧憬・宗教的需要・修行環境の美化などの点から境致、特に十境の選定が盛んに行われた。しかし、十境は日本の禅院に発生したものではなく、南宋以降、五山をはじめとする中国の禅院で行われていたのである。
岡田, 貴憲 OKADA, Takanori
平安時代日記文学の一作品として著名な『和泉式部日記』は、かつて『和泉式部物語』の名で享受され、江戸時代の一時期には同題の絵入り板本が刊行されていた。この絵入り板本は、和文叢書『扶桑拾葉集』に本文を利用されるなど同作品の近世期受容に重要な役割を果たしているが、その特徴や残存状況には明らかでない部分が多い。
大澤, 正己 Osawa, Masami
列島内の縄文時代晩期から弥生時代へかけての初期鉄文化は,中国東北部方面で生産された可能性の高い高温還元間接製鋼法にもとづく可鍛鋳鉄,鋳鉄脱炭鋼,炒鋼の各製品の導入から始まる。また,遺存度の悪い低温還元直接製鋼法の塊錬鉄も希れには発見されるが,点数は少ないのと銹化のためか,その検出度は至って低い。
宇野, 隆夫
日本列島には、海辺・里(平野)・山の多様な環境があり、かつそれらは川によって結ばれることが多い。そして列島各時代の特質は、その住まいの選び方に現れることが多かった。本稿は、このことの一端を明らかにするために、富山県域の縄紋時代遺跡をとりあげ、GISによる密度分布分析・立地地形分析・眺望範囲分析・移動コスト分析をおこなった。
鋤柄, 俊夫 Sukigara, Toshio
大阪府南河内郡美原町とその周辺の地域は,特に平安時代後期から南北朝期にかけて活躍した「河内鋳物師」の本貫地として知られている。これまでその研究は主に金石文と文献史料を中心にすすめられてきたが,この地域の発掘調査が進む中で,鋳造遺跡および同時代の集落跡などが発見され,考古学の面からもその実態に近づきつつある。
樹下, 文隆 KINOSHITA, FUMITAKA
国文学研究資料館蔵『元禄十一年能役者分限帳之控』を影印で紹介する。本書は、現在知り得るもっとも古い能役者の分限帳であり、今までに紹介された分限帳の中で最も古い『天明三年御役者分限帳』を約一世紀遡って、江戸時代前期の幕府御抱え能役者の実態を知る貴重な資料である。元禄期は、度外れた能楽愛好家だった将軍綱吉によって能界が翻弄された時代であり、能役者の追放、座替え、士分取り立て等が頻繁に行われた。本書はその只中の記録である点でも、貴重な資料であり、江戸時代の能楽研究に必須の資料である。影印紹介するにあたり、若干の解題と内容の一覧表を添える。
梁, 暁弈
養老4年(720)の撰進以降、奈良・平安時代にわたって、『日本書紀』を講読する行為、いわゆる「日本紀講書」は、合計7回行われた。初回の養老講書を除き、平安時代における6回の講書は、ほぼ三十年間隔で行われた。従って、これまでの研究史がこの6回の講書を均質的・連続的なものとして捉える傾向が強い。
早川, 聞多
本研究ノートは多種多様な画風や流派を生み出した江戸時代の絵画世界を、統一的に考察するための覚書である。
岸上, 伸啓
人類とクジラの関係には地域や時代によって多様性が認められる。
李, 済滄
京都学派の東洋史学者として、谷川道雄(1925~2013)は内藤湖南からの学統を受け継いでいる。中国の歴史を時代区分論という方法で捉えた内藤は、紀元3~9 世紀の魏晋南北朝隋唐史を中世貴族制の時代と位置付け、世界の中国史研究に計り知れない影響を与えた「唐宋変革論」の礎としている。そして、この学説を深化させ、さらに発展させたのが谷川である。
山本, 登朗
古くから多くの人に愛され、楽しんで読まれてきた『伊勢物語』だが、平安時代の写本は、娯楽の対象と見なされ保存されなかったためか、残っていない。鎌倉時代になると、『伊勢物語』は、和歌をよむための典拠、つまり研究の対象となる古典文学へと姿を変えていった。そのため、重要な写本は大切に残されるようになった。
青木, 隆浩 Aoki, Takahiro
本稿では,明治時代から1980年代までの長期にわたり,日本における美容観の変遷とその原因をおもに化粧品産業の動向から明らかにしたものである。そのおもな論点は,明治時代以降の美容観が欧米化の影響を受けながらも,実際に変化するには長い時間がかかっており,欧米化が進んだ後でも揺り戻しがあって,日本独自の美容観が形成されたということであった。
辻, 誠一郎 Tsuji, Seiichiro
台地・丘陵を開析する谷および低地から得られた弥生時代以降の植生史の資料を再検討し,以下のような知見を得た。縄文時代後期から古代にかけて,木本泥炭か泥炭質堆積物の形成,削剥作用による侵食谷の形成,運搬・堆積作用および草本泥炭の生成による侵食谷の埋積,という一連の地形環境の変遷が認められた。気候の寒冷化,湿潤化,および海水準の低下という諸要因の組み合わせが木本泥炭か泥炭質堆積物の形成を,そのいっそうの進行が侵食谷の形成をもたらし,さらに,河川による粗粒砕屑物の供給と谷底での水位上昇が草本泥炭による侵食谷の埋積をもたらしたと考えられた。この時代を通して,関東平野では照葉樹林の要素,スギ・ヒノキ類・モミ属など針葉樹が拡大したが,これは気候の寒冷化と湿潤化,および地形環境の不安定化によると考えられた。弥生時代以降の人間活動と深いかかわりをもつ植生変化には少なくとも3つの段階が認められた。第1の変化は弥生時代から古代にかけてで,居住域周辺の森林資源の利用と農耕によってもたらされた。第2の変化は中世の13世紀に起こり,主にスギと照葉樹林要素のおびただしい資源利用および畑作農耕の拡大によってもたらされ,マツ二次林の形成が促進された。中世都市である鎌倉ではその典型をみることができる。第3の変化は近世の18世紀初頭において起こり,拡大しつつあったマツ二次林にマツとスギの植林が加わり,森林資源量が増大したと考えられた。
工藤, 雄一郎 佐々木, 由香 Kudo, Yuichiro Sasaki, Yuka
東京都東村山市下宅部遺跡では,縄文時代中期から後・晩期の土器の内面に付着した炭化植物遺体(土器付着植物遺体)が40点見つかっている。これは,土器の内部に炭化して付着した鱗茎,繊維,種実,編組製品などの植物起源の遺物を総称したものである。いずれも二次的に付着したものではなく,調理や植物を加工する際に付着した植物であり,当時の人々が利用していた食材と土器を用いた調理方法を解明する大きな手がかりとなる資料である。本研究では,そのうちの26点の土器について¹⁴C年代測定,炭素・窒素安定同位体比分析,C/N比の分析を実施し,これらの土器付着植物遺体の年代的位置づけ,および内容物についての検討を行った。また,単独で出土し,所属時期が不明であった種実遺体5点の¹⁴C年代測定を行い,年代的位置づけについて検討した。その結果,分析した土器付着植物遺体は縄文時代中期中葉の1点を除き縄文時代後・晩期に属する年代であり,特に3,300~2,700 cal BPの間に集中し,そのほとんどが縄文時代晩期前葉~中葉であることが判明した。種実遺体のうち,縄文時代中期中葉の約4,900 cal BPの年代を示したダイズ属炭化種子は,直接年代測定されたものとしては最も古い資料となった。土器付着植物遺体の炭素・窒素安定同位体比とC/N比を下宅部遺跡出土の精製土器付着物の分析結果や,石川県御経塚遺跡,大阪府三宅西遺跡出土の縄文時代後・晩期の土器付着炭化物の分析結果と比較してみると,下宅部遺跡の土器付着植物遺体は,陸上動物起源の有機物や海洋起源の有機物の混入の可能性が指摘されている土器付着炭化物とは分布傾向が明らかに異なり,C₃植物に特徴的な傾向を示した。特に,編組製品や繊維付着土器では,編組製品や繊維そのものと,それらと一緒に煮炊きした内容物の同位体比が異なることが明らかになった。今後,土器付着植物遺体の分析事例を増やし,縄文時代の植物利用や土器を用いた調理についての研究を展開していくことが必要である。
李, 杰玲
本稿は、中国学術界における江戸時代の怪異小説に関する研究の現状と、その展望を述べたものである。怪異小説の研究は「迷信を排除し、科学を提唱する」という国のモットーにそぐわず、研究に必要な資料も十分ではない。まして、中国人の研究者にとって、江戸時代のくずし字は読みづらい。ゆえに、中国では大学院生の学位論文以外の江戸怪異小説の研究が少なく、大学院生が研究の主力になっている。彼らの研究の多くは、江戸怪異小説を日中比較文学論上に載せて考察している。
朴, 晋熯 田中, 俊光 PARK, JIN-HAN TANAKA, Toshimitsu
本稿では、玉尾家によって作成されて保管された年代記を通して、労働と余暇がまだ分離されなかった江戸時代の農村における庶民の余暇と旅についてその実態と意義を調べようとした。
清家, 章 篠田, 謙一 神澤, 秀明 角田, 恒雄 安達, 登 SEIKE, Akira SHINODA, Ken-ichi KANZAWA, Hideaki KAKUDA, Tsuneo ADACHI, Noboru
クレインス, フレデリック 宮田, 昌明
江戸時代に日本に対するヨーロッパのイメージをめぐる研究はこれまで、先行する16世紀のイエズス会士による書簡や、18世紀初頭のケンペル『日本誌』以降のプロテスタントの著作を主たる対象として行われてきた。17世紀に関しては、カロンのようなオランダ東インド会社員による報告を除き、ヨーロッパに新たな情報がほとんどもたらされなかった時代として捉えられていたのである。
堀, まどか
野口米次郎が「戦争詩」を書いた事実は、野口自身や彼の日本語詩歌に対する否定的評価を決定づけてきた。「戦争詩」に、犯罪性や「声の暴力性」の所在、政治プロパガンダの有効性をみる方法は、長く頻繁に行われてきたことである。「戦争詩」が量産された時代は、戦争の時代と重なり、ラジオ普及の時代と重なっている。確かに新メディアと戦時期詩歌の相関関係といった視点から考えれば、「声の暴力性」や政治性が濃厚に表出し、決まり切った語句の羅列に過ぎない「屑詩」しか拾えないのは事実だが、それらがその時代の、その詩人の表現の、総体ではない。現在使われている「戦争詩」という用語には、当時「愛国詩」「国民詩」「戦争詩」と使い分けられていたものを一括している問題があり、また、当時の詩人たちが戦時期詩歌に担わせようとしていたいくつかの役割やその諸議論、そして検閲の表現規制の中で「抵抗」を示そうとした詩人たちの姿を無視してきた事実がある。
吉田, 広 Yoshida, Hiroshi
水稲農耕開始後,長時間に及んだ金属器不在の間にも,武器形石器と転用小型青銅利器という前段を経て,中期初頭に武器形青銅器が登場する。一方,前段のないまま,中期前葉に北部九州で小銅鐸が,近畿で銅鐸が登場する。近畿を中心とした地域は自らの意図で,武器形青銅器とは異なる銅鐸を選択したのである。銅鐸が音響器故に儀礼的性格を具備し祭器として一貫していくのに対し,武器形青銅器は武器の実用性と武威の威儀性の二相が混交する。しかし,北部九州周縁から外部で各種の模倣品が展開し,青銅器自体も銅剣に関部双孔が付加されるなど祭器化が進行し,北部九州でも実用性に基づく佩用が個人の威儀発揚に機能し,祭器化が受容される前提となる。各地域社会が入手した青銅器の種類と数量に基づく選択により,模倣品が多様に展開するなど,祭器化が地域毎に進行した。その到達点として中期末葉には,多様な青銅器を保有する北部九州では役割分担とも言える青銅器の分節化を図り,中広形銅矛を中心とした青銅器体系を作り上げる。対して中四国地方以東の各地は,特定の器種に特化を図り,まさに地域型と言える青銅器を成立させた。ただし,本来の機能喪失,見た目の大型化という点で武器形青銅器と銅鐸が同じ変化を辿りながら,武器形青銅器は金属光沢を放つ武威の強調,銅鐸は音響効果や金属光沢よりも文様造形性の重視と,青銅という素材に求めた祭器の性格は異なっていた。その相違を後期に継承しつつ,一方で青銅器祭祀を停止する地域が広がり,祭器素材に特化していた青銅が小型青銅器へと解放されていく。そして,新たな古墳祭祀に交替していく中で弥生青銅祭器の終焉を迎えるが,金属光沢と文様造形性が統合され,かつ中国王朝の威信をも帯びた銅鏡が,古墳祭祀に新たな「祭器」として継承されていくのである。
若狭, 徹 WAKASA, Toru
利根川の上流域に位置する北西関東地方では,弥生時代中期中葉以降,利根川沿岸低地に規模の大きい農耕集落が展開した。しかし,それらは弥生時代後期前半に一斉に解体し,集団は台地上で分散的に暮らすようになる。これは,弥生中期末に発生した多雨化による低湿地環境の悪化にあったと推定される。集団の分散や大規模水田経営の途絶により,首長層の成長も遅れたと考えられる。
青木, 賜鶴子 松本, 大 加藤, 洋介 藤島, 綾 海野, 圭介 小林, 健二 小山, 順子 田村, 隆 本廣, 陽子 神作, 研一 一戸, 渉
『伊勢物語』の注釈はすでに平安時代末から歌学の一部としておこなわれていたが、注釈書として成るのは鎌倉時代である。「古注」と呼ばれるそれは、『伊勢物語』を在原業平の一代記として、ときに強引に物語を読み解く。すなわち物語の出来事はすべて現実の事件の反映であるとし、主人公業平は色好みの末に何千人もの女性と契りを結んだとされる。
山田, 康弘 Yamada, Yasuhiro
これまで,山陰地方における縄文時代から弥生時代への移行は,比較的スムーズではあったものの,その一方でダイナミックなものであると想定されてきた[山田2009:178-179]。しかしながら,弥生時代前期の墓地遺跡における墓群構造を細かく検討してみると,一見渡来的な状況を呈しながらも,実は在来(縄文)的な要素が複雑な形で内在していることが明らかとなった。例えば,堀部第1遺跡の墓地は列状配置構造という縄文時代の墓制にはみることができなかった渡来的な構造を採りつつも,墓地内には埋葬群が存在し,各埋葬群は小家族単位で占取・用益されるという在来的要素を残している。また,古浦遺跡における墓地の状況は,沿岸部に位置し渡来系弥生人骨を出土するにもかかわらず塊状配置構造を呈し,年齢・性別による区分が存在するという縄文時代の墓制を踏襲した在来的な要素を備えている。同時期にしかも至近距離に存在する堀部第1遺跡と古浦遺跡の二遺跡を比較するだけでも,その墓地構造には大きな差が存在しており,当時の状況の複雑さが理解できる。その一方で,山間部に位置する沖丈遺跡の墓地は塊状構造配置を呈しており,一見縄文時代以来の墓制の延長上に営まれていたように思われるが,不可視属性である下部構造には木棺が用いられ,管玉が墓内部より出土する事例があるなど,渡来的な要素も併せ持っていたことも明らかとなった。これらの点を踏まえて本稿では,山陰地方における弥生化のプロセスに対して補正を行い,長期的にはスムーズかつダイナミックな状況を呈するものの,個々の遺跡における墓地においては一時的に在来的・渡来的両方の要素が混在し,その状況は在地の縄文人と渡来文化を携えて移動してきた人々との接触のあり方を表していることを指摘した。
廖, 育群
脚気はかつて日本人の風土病であり、江戸時代において、「脚気」を論ずる著作が多く現われた。従来の歴史研究はこの「脚気」を現代医学でいうベリベリと見なし、その原因も日本人の食生活――つまり米を主食とするダイエット――に求めてきた。
寺内, 隆夫 Terauchi, Takao
本稿は,北関東地域の縄文時代中期中葉土器の生産と流通を考えるにあたり,西側に隣接する長野県・千曲川流域の資料を軸とし,型式論による土器の比較検討を試みたものである。
藤尾, 慎一郎 Fujio, Shinichiro
本稿は,ブリテン新石器時代の葬制研究を紹介したものである。ブリテン新石器研究は,近代考古学がはじまって以来,巨石建造物(メガリス)を研究対象にしてきた。巨石建造物が新石器時代の編年をおこなう際の指標として位置づけられてきたこともあるが,何よりもそこからみつかる大量のバラバラになった人骨が人々の関心をひきつけてきたからである。人骨がみつかるために,巨石建造物はしごく当然に墓と考えられ,なぜ,このような状況で大量の骨がみつかるのか,を考えた葬制研究が,ブリテン新石器研究の中心だったのである。
河合, 隼雄
『風土記』には、昔話の主題となる話が多く語られている。それより時代の下る中世の説話集にも多くの昔話の主題が認められる。ところが、『風土記』には認められても中世の説話集に認められぬもの、あるいはその逆のものなどがあり、それらを比較してみると、日本人の心の在り方が時代によって変化してゆく様相の一面が把えられ、また、日本の昔話の成立過程などを考える上で興味深い。
土肥 直美 石田 肇 泉水 奏 瑞慶覧 朝盛 高宮 広士 米田 穣 柴田 康行 加藤 祐三 Doi Naomi Ishida Hajime Sensui Noburu Zukeran Chosei Takamiya Hiroto Yoneda Minoru Shibata Yasuyuki Kato Yuzo
研究概要:土肥は沖縄県内各地で人骨調査を行い、骨形態から琉球列島人の歴史と生活の復元を試みた。その結果、これまで出土例が少なく課題の多かったグスク時代人の好資料を得ることが出来、それらの分析から、グスク時代から琉球王国の成立過程においては周辺地域との活発な交流があったことが示唆された。特に、「浦添ようどれ」から出土した初期琉球王族の特徴に典型的な中世日本人の特徴がみられたことは、琉球王国の成立を解明する上で貴重な知見を与えるものと考えられる。石田他は沖縄県住民の歯の形態変異を調査し、近隣諸集団との関係や集団内変異を考察した。結果は、近年遺伝学的研究において示唆されているように、同列島への複雑な遺伝子流入を反映していると考えられる。高宮は植物遺体の回収・同定および動物遺体の再分析により沖縄諸島先史・原史時代のヒトの適応過程を理解することを試みた。その結果、グスク時代において農耕は集約的に行われていたこを支持するデータを得た。さらに、沖縄諸島中南部と北部・奄美地域においては異なる農耕システムが存在した可能性が示唆された。米田等は沖縄県の遺跡から出土した古人骨の化学成分に基づいて、その個体の食生態を明らかにすることを試みた。特に古人骨に残存するタンパク質(コラーゲン)で、炭素と窒素の安定同位体比を測定し、その値に基づいてタンパク質の摂取源を推定した。その結果、琉球列島の食習慣では、本土では見られない大きな集団間の変動と時代変化があったことが認められた。また、先島諸島ではグスク時代からC_4植物である雑穀(アワ、ヒエ、キビ等)が利用されていた可能性が示された。研究協力者の宮城・西銘は考古学の立場から人骨グループのサポートを行うと同時に、遺跡と出土人骨の情報を整理しデータベースを作成した。また、遺跡の立地や葬墓制変遷に関する分析を行った。加藤は遺跡に漂着した軽石の分析から、軽石による遺跡年代推定の可能性を考察した。
中三川, 昇 Nakamikawa, Noboru
中世都市鎌倉に隣接する三浦半島最大の沖積低地である平作川低地の中世遺跡を中心に,出土遺物や遺跡を取巻く環境変化,自然災害の痕跡などから,地域開発の様相の一端とその背景について考察した。平作川低地には縄文海進期に形成された古平作湾内の砂堆や沖積低地の発達に対応し,現平作川河口近くに形成された砂堆上に,概ね5世紀代から遺跡が形成され始める。6世紀代までは古墳などの墓域としての利用が主で,7世紀~8世紀中頃には貝塚を伴う小規模集落が出現するが比較的短期間で消滅し,遺構・遺物は希薄となる。12世紀後半に再び砂堆上に八幡神社遺跡や蓼原東遺跡などが出現し,概ね15世紀代まで継続する。両遺跡とも港湾的要素を持った三浦半島中部の東京湾岸における拠点的地域の一部分で,相互補完的な関連を持った遺跡群であったと考えられるが,八幡神社遺跡の出土遺物は日常的な生活要素が希薄であるのに対し,蓼原東遺跡では多様な土器・陶磁器類とともに釣針や土錘などの漁具が出土し,15世紀には貝塚が形成され,近隣地に水田や畑の存在が想定されるなど生産活動の痕跡が顕著で,同一砂堆における場の利用形態の相違が窺われた。蓼原東遺跡では獲得された魚介類の一部が遺跡外に搬出されたと推察され,鎌倉市内で出土する海産物遺存体供給地の様相の一端が窺われた。蓼原東遺跡周辺地域の林相は縄文海進期の照葉樹林主体の林相から,平安時代にはスギ・アカガシ亜属主体の林相が出現し,中世にはニヨウマツ類主体の林相に変化しており,海産物同様中世都市鎌倉を支える用材や薪炭材などとして周辺地域の樹木が伐採された可能性が推察された。蓼原東遺跡は15世紀に地震災害を受けた後,短期間のうちに廃絶し,八幡神社遺跡でも遺構・遺物は希薄となるが,その要因の一つに周辺地域の樹木伐採などに起因する環境変化の影響が想定された。
平田 永哲 Hirata Eitetsu
21世紀のわが国の特殊教育の在り方が変革しようとしている。一つは子どもの就学権保障の時代からより適切な教育保障の時代への変革であり、他の一つは障害児教育という用語が特殊教育という用語に変わろうとしている。本稿では、このような変革の動きを養護学校義務制以降の特殊教育界の出来事の中から探ることにより、21世紀の特殊教育を展望し、希望を託すことにする。
深澤, 芳樹 浅井, 猛宏 荒木, 幸治 石井, 智大 杉山, 真由美 田中, 元浩 中居, 和志 三好, 玄 山本, 亮 渡邊, 誠 FUKASAWA, Yoshiki ASAI, Takehiro ARAKI, Koji ISHII, Tomohiro SUGIYAMA, Mayumi TANAKA, Motohiro NAKAI, Kazushi MIYOSHI, Gen YAMAMOTO, Ryo WATANABE, Makoto
弥生時代中期から後期への社会的・文化的変化は,弥生時代における最大の画期と目され,その主因を巡って,政治・経済・環境などさまざまな観点に基づく仮説が提示されてきたが,諸説の総合にはいまだ至っていない。そこで,近畿地方南部地域を中心とした広域的範囲において,共通する基準に基づく基礎的検討を加えて当該期の社会変化の鮮明化を図るとともに,その内容や背景について,地域間交流や近年急速に進展した古気候研究の成果を含む環境変化等の広域的視野を加えて総合的に考察することを試みた。
春成, 秀爾 Harunari, Hideji
近年,佐賀県菜畑,奈良県唐古・鍵など西日本の弥生時代遺跡から,豚の下顎骨に穿孔し,そこに棒を通したり,下顎連合部を棒に掛けた例が発掘され,その習俗は中国大陸から伝来した農耕儀礼の一つであるとする見解が有力となっている。
綿貫, 俊一 Watanuki, Shunichi
旧石器時代後期の遊動生活から,半定住生活,定住生活へと生活・居住の形が次第に変化したのが縄文時代であるといわれている。その一方で遺物量,岩陰の狭小性などから四国山地の高原にある上黒岩岩陰のように定住的な生活の場所としての利用が考えられない遺跡もある。そこで上黒岩岩陰で具体的にどのような生活が行われ,半定住集落や定住集落が形成されていくなかで上黒岩岩陰の性格とはなにかを詳らかとするために,出土した石器と石器石材の組成について観察した。これまで定住集落を認定する際,磨石・敲石類の増加と竪穴住居・土坑などの存在に注意が払われてきた。住居・集落が固定しない旧石器時代の遊動社会・集落と違って,定住的な社会においては塩・翡翠・磨製石斧・黒曜石などで代表されるように遠隔地間の物流が活発化・安定化している。このような視点から上黒岩岩陰や周辺遺跡での遠隔地石材の比重を観察した。
笠谷, 和比古
本稿は徳川時代中期の一七三〇年代に、宮古路豊後掾によって創始された豊後節をめぐる浄瑠璃音曲と政治権力との葛藤を主題とする。
岩井, 宏實 Iwai, Hiromi
曲物は,刳物・挽物・指物(組物)・結物などとともに木製容器の一種類であるが,その用途はきわめて広く,衣・食・住から生業・運搬はもちろんのこと,人生儀礼から信仰生活にまでおよび,生活全般にわたって多用されてきた。そして,円形曲物・楕円形曲物は,飛鳥・藤原の時代にすでに大小さまざまのものが多く用いられ,奈良時代には方形・長方形のものがあらわれ,古代において広くその使用例を見ることができる。
西谷, 大 Nishitani, Masaru
日本列島において,ブタは大陸からもたらされた可能性が高い。しかしブタを農耕に取り込むといった特異な循環システムをもつ中国的集約農耕は,弥生時代およびそれ以降の日本の歴史においても,琉球列島を除いた日本列島には存在しなかった。またブタ自体も奈良時代以降は飼養しなくなるという歴史をもつ。本稿ではこの問題を,海南島のブタ飼養の歴史と,黎族のブタを重要視しない生業システムと比較しながら論じた。
東 清二 Azuma Seizi
7.カンシャコバネナガカメムシの生活史及び各時代の発生消長について調査した結果を要約すると次のとおりである。(1)従来の各種資料と新たに得られた調査結果によると、 読谷山時代には発生密度が高く、 POJ時代には減少し、 NCo時代には再び発生が多くなった。(2)品種比較試験圃場及び品種保存園において発生密度を調査した結果、 NCo310で個体数が最も多く、 次に読谷山に多く、 POJ2725では少なかった。またNCo376ではNCo310に比べ発生密度が少なかった。(3)品種により発生密度が異なるのは、 産卵数、 幼虫死亡率、 幼虫発育日数、 57群毛茸による若令幼虫の保護、 品種によって生息空間に差があるためで、 サトウキビ品種が産卵誘引性を有しないこと、 発育阻害因子を有すること、 57群毛茸を有しないこと、 葉鞘開度が小さいことは抵抗性であると考えられ、 それらの形質は抵抗性因子としてあげることができよう。(4)サトウキビ栽培管理作業では剥葉、 植付時期(作型)、 更新作型、 収穫後の残渣焼却が発生密度に影響する。(5)天敵は9種類確認された。そのうちでEumicrosoma blissae(Maki)カンシャコバネカメムシタマゴバチの寄生率が高い。この寄生蜂の生活史、 発生消長、 寄生率について明らかにした。また、 品種により寄生率に差のあることが認められ、 品種の形質が天敵の活動にも影響することを明らかにした。(6)読谷山とNCo310はPOJ2725に比較して抵抗性因子の保有が少ない。また、 NCo時代にはカンシャコバネナガカメムシの個体数を減少させる管理作業が少なく、 発生密度を高くする株出栽培の面積が広くなった。これらのことは各時代における本虫の発生に影響したものと考えられる。8.イワサキクサゼミの生活史とサトウキビ圃場における発生密度増加の原因について調査した結果次のことが判明した。(1)25℃、 30℃における卵期間は、 平均それぞれ42日、 32日であった。
笹本, 正治 Sasamoto, Shôji
戦国時代を境にして、いくつかの消えていった習俗がある。その事例を長野県の諏訪上社の場合で確認し、背後にあるものを考える。
小田, 寛貴 Oda, Hirotaka
14C年代測定というと,縄文時代・弥生時代の資料が対象という印象が強いが,加速器質量分析法(AMS)の登場と較正曲線の整備とにより,古文書や古経典など歴史時代の和紙資料についても,14C年代測定を行うことが原理的に可能なものとなるに至った。しかしながら,古文書に限らず,考古学資料や歴史学資料について14C年代測定を行う本来の目的は,その資料が何らかの役割を持った道具として歴史の中に登場した年代を探究するところにあるはずである。14C年代測定によって得られる結果は,歴史学的に意味のある年代そのものではない。この自然科学的年代が,歴史学的年代を明らかにするための情報となりうるかが問題なのである。そこで本研究においては,まずは,書風や奥書・記述内容などから書写年代が判明している古文書・古経典・版本などについて14C年代測定を行った。奈良時代から江戸時代にかけての年代既知資料の測定結果から,和紙はいわゆるold wood effectによる年代のずれが小さく,古文書・古経典の書写年代を判定する上でAMS14C年代が有益な情報の一つとなることが示された。その上で,書写年代の明らかにされていない和紙資料についても14C年代測定を行った。特に古筆切とよばれる古写本の断簡についての測定である。平安・鎌倉時代に書写された物語や家集の写本で,完本の形で現存しているものは極めて稀であるが,こうした断簡の形ではかなりの量が現在まで伝わっている。古筆切は,稀少な写本の内容や筆跡を一部分ながらも伝えるものであり,大変高い史料的価値を有するものである。しかし,古筆切の中には,その美しい筆跡を手本とした後世の臨書や,掛け軸などにするために作製された偽物なども多く含まれている。それゆえ,こうした問題を有する古筆切に焦点をあて,書風・字形・筆勢など書跡史学的な視点に,AMS14C年代測定法という自然科学的視点を加え,書写年代の吟味を行った。
篠田, 謙一 神澤, 秀明 角田, 恒雄 安達, 登 竹中, 正巳 Shinoda, Ken-ichi Kanzawa, Hideaki Kakuda, Tsuneo Adachi, Noboru Takenaka, Masami
後藤 雅彦 Goto Masahiko
東南中国において、新石器時代後期以降、紡錘車が普遍的に出土するようになる。しかし、これらの遺物は紡錘車としての事実報告がなされていても、それ以上、その時間的な変遷や分布について、あまり研究の俎上にあがることがなかったのが現状である。しかし、各遺跡に共通する要素として、また時間的にも継続する要素として重要な考古資料であると考えられる。そこで本稿では、紡錘車の集成的研究の前提として、出土状況の明らかな閩江下流域の紡錘車をとりあげ、紡錘車研究にあたっての問題点を整理する。同地域では、新石器時代後期に紡錘車は普遍的な遺物となり、新石器時代後期から殷代併行期にかけて、土器破片利用品が減少、定形的な断面台形紡錘車が出現し、器形の定形化の一方で紋様を施し、個体の識別が強化されるという時間的変遷を辿る。
正木, 晃
日本人が伝統的に聖性をもつとみなしてきた空間――たとえば、あの世あるいは浄土・曼荼羅――において、自然がどのように表現されてきたか、且つそれがどのように変遷してきたか、を図像学および宗教学の手法をもちいて考察したのが、この論文である。Iでは、縄文時代から奈良時代までを対象の範囲としたが、この範囲内では、聖なる空間を代表する「あの世」に関し、日本人はそれが如何なる場所であるのか、子細に論ずる段階には未だ達していない。しかし、縄文時代の図像には、すでに転生の観念が存在した事実を示唆する例があり、その後、大陸文化の影響を受けつつ次々と生み出された聖空間の中に、たとえ象徴的な表現にとどまる場合が多いとはいえ、自然の描写が図像として重要な位置を占める事例も確認でき、日本人の自然観を探る上で絶好の材料となる。
山本, 芳美
本論は、19世紀後半から20世紀初頭における外国旅行者による日本でのイレズミ施術について取り上げる。この時代は、日本においてイレズミに対する法的規制が強化され、警察により取り締まられた時代でもある。しかし、法的規制が課せられた時代においても、日本人対象の施術がひそかに続けられていた。一方、同時期は欧米を中心にイレズミが流行した時期でもある。日本人彫師たちは、長崎、神戸、横浜ばかりでなく、香港、アジア各地の国際港に集まって仕事をしていた。状況を総合すると、日本国内の施術では、外国人客にとっては「受け皿」、彫師にとっては「抜け道」が形成されていたことが強く示唆される。つまりは、日本ならではの観光体験メニューとして、イレズミ体験が存在していたと考えられるのである。
市古, 貞次 ICHIKO, Teiji
一 本稿は室町時代から江戸初期(慶長末年)までの間に舞(幸若・大頭等)、曲舞を演じたところを主として、年代順に排列したものである。
高橋, 照彦 Takahashi, Teruhiko
本稿は,考古資料から食文化の諸相をより豊かに復元していくための基礎的作業として,平安時代の文献史料にみえるいくつかの食膳具と考古資料との対応関係を追究することにした。検討結果の主な内容は,以下の通りである。
姜, 鶯燕
江戸時代といえば、固定化された身分制社会としてのイメージが強い。しかし、身分移動の可能性が完全に閉ざされているわけではなかった。武士身分の売買が行われていたことから、個人レベルの身分上昇や身分移動は事実として存在した。
濱島, 正士 Hamashima, Masashi
日本の寺院・神社の建築には,装飾の一環として各種の塗装・彩色がされている。何色のどんな顔料がどのような組合わせで塗られているのか,それは建築の種類によって,あるいは時代によってどう違うのか,また,建築群全体としてはどのように構成され配置されているのだろうか。これらの点について,古代・中世はおもに絵画資料により,近世は建築遺例により時代を追って概観し,あわせて日本人の建築に対する色彩感覚にもふれてみたい。
横山, 泰子 Yokoyama, Yasuko
江戸時代に日本で作られた手品の解説本の中には、手品のみならずまじないの情報が掲載されている。こうした記事は手品史の観点からはあまり注目されないが、奇術と呪術が渾然一体となっていた当時の人々の感覚を知るうえで面白い研究対象といえる。
設楽, 博己 Shitara, Hiromi
弥生時代の定義に関しては,水田稲作など本格的な農耕のはじまった時代とする経済的側面を重視する立場と,イデオロギーの質的転換などの社会的側面を重視する立場がある。時代区分の指標は時代性を反映していると同時に単純でわかりやすいことが求められるから,弥生文化の指標として,水田稲作という同じ現象に「目的」や「目指すもの」の違いという思惟的な分野での価値判断を要求する後者の立場は,客観的でだれにでもわかる基準とはいいがたい。本稿は前者の立場に立ち,その場合に問題とされてきた「本格的な」という判断の基準を,縄文農耕との違いである「農耕文化複合」の形成に求める。これまでの東日本の弥生文化研究の歴史に,近年のレプリカ法による初期農耕の様態解明の研究成果を踏まえたうえで,東日本の初期弥生文化を農耕文化複合ととらえ,関東地方の中期中葉以前あるいは東北地方北部などの農耕文化を弥生文化と認めない後者の立場との異同を論じる。弥生文化は,大陸で長い期間をかけて形成された多様な農耕の形態を受容して,土地条件などの自然環境や集団編成の違いに応じて地域ごとに多様に展開した農耕文化複合ととらえたうえで,真の農耕社会や政治的社会の形成はその後半期に,限られた地域で進行したものとみなした。
鈴木, 三男 能城, 修一 田中, 孝尚 小林, 和貴 王, 勇 劉, 建全 鄭, 雲飛 Suzuki, Mitsuo Noshiro, Shuichi Tanaka, Takahisa Kobayashi, Kazutaka Wang, Yong Liu, Jianquan Zheng, Yunfei
ウルシToxicodendron vernicifluum(ウルシ科)は東アジアに固有の落葉高木で,幹からとれる漆液は古くから接着材及び塗料として利用されてきた。日本及び中国の新石器時代遺跡から様々な漆製品が出土しており,新石器時代における植物利用文化を明らかにする上で重要な植物の一つであるとともに日本の縄文文化を特徴づけるものの一つでもある。本研究では現在におけるウルシの分布を明らかにし,ウルシ種内の遺伝的変異を解析した。そして化石証拠に基づいてウルシの最終氷期以降の時空分布について検討した。その結果,ウルシは日本,韓国,中国に分布するが,日本及び韓国のウルシは栽培されているものかあるいはそれが野生化したものであり,中国には野生のものと栽培のものの両方があることが明らかとなった。それらの葉緑体DNAには遺伝的変異があり,中国黄河~揚子江の中流域の湖北型(V),浙江省と山東省に見られる浙江型(VII),日本,韓国,中国遼寧省と山東省に見られる日本型(VI)の3つのハプロタイプ(遺伝子型)が検出された。中国大陸に日本と同じハプロタイプの野生のウルシが存在することは,日本のウルシが中国大陸から渡来したものだとすれば山東省がその由来地として可能性があることを示唆していると考えられた。一方,化石証拠からは日本列島には縄文時代早期末以降,東日本を中心にウルシが生育していたことが明らかとなった。さらに福井県鳥浜貝塚遺跡からは縄文時代草創期(約12600年前)にウルシがあったことが確かめられた。このような日本列島に縄文時代草創期に既にウルシが存在していたことは,ウルシが大陸からの渡来なのか,元々日本列島に自生していたものなのかについての再検討を促していると考えられた。
岡, 惠介 Oka, Keisuke
本稿は,北上山地の山村における藩政時代以来の森林利用を,商品生産や生活のための利用などに分類しながらその実態を洗い出したものである。
伊從, 勉
沖縄本島東方海上の久高島は、琉球王国国家祭祀上の聖なる島であった。時代の変化を蒙りながらも、現在でも王国時代以来の巫の司祭により、沖縄地方でももっとも頻繁な年中祭祀を実行している。「七マッティ」と呼ばれる主要祭祀と他のいくつかの地方祭祀の時に、集落内の主要祭場のひとつ外間拝殿の内部に、「アカヤミョーブ」という赤い天蓋が張られる。ミョーブとは、その実態に反して、実は「屏風」の意味がある。
小林, 雄一郎 岡﨑, 友子 KOBAYASHI, Yuichiro OKAZAKI, Tomoko
本研究の目的は,中古資料における接続表現の使用の違いを明らかにすることである。具体的には,「日本語歴史コーパス(平安時代編)」と統計手法を活用することで,時代,ジャンル,書き手等の要因による接続表現の頻度の変異を分析した。その結果,(a)紀貫之の筆による『土左日記』と『古今和歌集』(仮名序)の類似性,(b)サテの使用による歌物語の類似性,(c)カカリ系とサテ系の使用法に対する執筆年代の影響,等が見られた。
彭, 丹
日本には八点の国宝茶碗がある。八点のうち、南宋時代に焼造された天目が五点を占める。曜変天目三点、油滴天目一点、玳皮天目一点である。
春成, 秀爾 Harunari, Hideji
東日本の弥生時代前半期には、人の遺体をなんらかの方法で骨化したあと、その一部を壺に納めて埋める再葬制が普遍的に存在した。再葬関係と考えられている諸遺跡の様相は、変化に富んでいる。それは、再葬の諸過程が別々の場所に遺跡となってのこされているからである。
能城, 修一 吉川, 昌伸 佐々木, 由香 Noshiro, Shuichi Yoshikawa, Masanobu Sasaki, Yuka
この30年間に行われた植物考古学の研究から,約7000年前にはじまる縄文時代前期以降,本州の中央部から東北部では,人々は集落周辺の植物資源を管理して利用していたことが示されている。この植物資源管理は日本列島に在来のクリと中国大陸から移入されたウルシを中心として行われ,縄文時代の人々は植物資源を管理するとともに,クリの果実と木材を,またウルシの漆液と木材,果実を集落周辺で活用していた。しかしこの2種の植物遺体の出土状況は大きく異なっている。縄文時代の遺跡出土木材では,クリは本州中部から東北部および北海道西南部の406遺跡から出土しているのに対し,ウルシは本州中部から東北部の35遺跡から出土しているにすぎない。また両種が出土している遺跡で,花粉と木材の出土量を比較すると,クリの植物遺体はウルシの植物遺体の10~100倍ほど出土している。縄文時代の漆器の出土状況から考えると,本州の中央部から東北部では普通にウルシ林が維持されていたと考えられるのに,なぜウルシとクリに出土状況の違いが生じるのかを下記の三つの仮説をもとに検討した。第一の仮説は,クリに比べてウルシが植栽される集落が限定的なので,ウルシの植物遺体の検出例が少ないという考えである。第二の仮説は,クリに比べてウルシの植栽地が内陸側に位置していて,植物遺体が埋積する低地から遠いために,植物遺体として残りにくいという考えである。第三の仮説は,縄文時代の集落周辺にはウルシ資源よりもクリ資源のほうが多く維持されていたために,クリの植物遺体に比べてウルシの植物遺体の検出率が低いという考えである。検討の結果,第二の仮説がもっとも支持されたが,集落を地域規模で比較する場合には,第一の仮説も意味を持つことが明らかになった。
- 2021/9/8 16:10
書道御家流の一つである大橋流。王府時代公用書体として採用。書体は流麗。寛永四年(1627年)の大橋流の刊本で,八重山の頭職を務めた宮良家に伝来したもの。
- 2009/6/5 16:40
書道御家流の一つである大橋流。王府時代公用書体として採用。書体は流麗。寛永四年(1627年)の大橋流の刊本で,八重山の頭職を務めた宮良家に伝来したもの。
青木, 隆浩 Aoki, Takahiro
本研究では,明治・大正時代の軽犯罪をおもな対象にして,法的規制や警察による社会管理の変化と犯罪件数の関係について分析をおこなった。
小林, 謙一 Kobayashi, Kenichi
縄紋時代の居住活動は,竪穴住居と呼ばれる半地下式の住居施設が特徴的である。竪穴住居施設は,考古学的調査によって,主に下部構造(地面に掘り込まれた部分)が把握され,その構造や使用状況が検討されている。竪穴住居のライフサイクルは,a構築地点の選定と設計から構築(掘込みと付属施設の設置)→b使用(居住・調理・飲食などの生活)→c施設のメンテナンス(維持管理と補修・改修・改築)→d廃棄として把握される。住居廃棄後は,そのまま放置される場合もあるが,先史時代人のその地点に対する係わりが続くことが多く,d’廃棄住居跡地を利用した廃棄場・墓地・儀礼場・調理施設・石器製作などに繰り返し使用され,最終的にはe埋没(自然埋没・埋め戻し)する。以上のような,ライフサイクルのそれぞれの分節が,どのくらいの時間経過であったかは,先史時代人の居住システム・生業・社会組織の復元に大きな意味を持つ。住居自体の耐用年数または居住年数,その土地(セツルメント)に対する定着度(数百年の長期にわたる定住から数年程度の短期的な居住,季節的居住地移動を繰り返すなど),背景となっている生業(採集狩猟・管理栽培や焼畑などの半農耕)や社会組織(集落規模,階級など)の復元につながる。
和田, 恭幸 WADA, Yasuyuki
浅井了意の仏書に盛り込まれた内容は、了意とほぼ同時代に生存した学僧恵空の雑著類と多くの面で一致する。恵空の雑著とは、漢籍『竹窓随筆』に倣う『梨窓随筆』・『閑窓和筆』であった。当時、「随筆」なる書名は、故事集に対しても付けられた。了意が、あえて件の書名と時代の風潮を無視したのは、商品としての書物を著作する姿勢にほかならない。しかし、その工夫と学識は功罪半ばして、了意の怪異小説を「作品」から再び唱導話「材」へ解体させる結果をも生んだ。
腮尾, 尚子 Agio, Naoko
十二支・十二支獣に関する俗信の一種に、江戸時代後期に盛んに行われた「七ツ目信仰」がある。これは、自己の生まれ年の十二支から七ツ目の十二支――子歳生まれなら午――の動物を絵像にしてまつると、幸運を授かる、という俗信である。この七ツ目信仰は、現在すっかり廃れ、そればかりか、かつて存在していたという事すら忘れられている状態である。このため、七ツ目信仰を題材とした江戸時代の文学・美術作品の解釈をするのに、支障が生じている程である。
藤尾, 慎一郎 Fujio, Shin'ichiro
本稿は西日本における縄文時代後・晩期から弥生時代前期にかけて,植物質食糧獲得の手段がどのように変化するか検討したものである。後・晩期には雑穀・穀物を対象とした栽培の存在が主張されてきたが,考古学的にも自然科学的にも決め手にかける状況が続いている。原因はこの時期にみられる考古学的な変化が,水稲栽培が始まるときにみられる変化ほど直接的でないことにあるので,後・晩期における考古学的な変化が縄文文化の枠内だけで説明できるのか,説明できないのか調べる必要がある。
今村, 啓爾 Imamura, Keiji
ランヴァク遺跡は,ベトナムのゲアン省に所在するドンソン文化期,紀元前1~2世紀頃の遺跡である。この時代は,ちょうど日本の弥生時代のように,個性的な青銅器が発達し,鉄器の製作,使用も開始され,稲作を基礎とした社会が国家形成に向けて大きな変化を見せた時代である。1990~1991年ベトナム日本共同調査隊が行った発掘調査では,現在水田となっている谷をはさんで,東側の墓地遺跡(ランヴァク地点)と西側の集落址(ソムディン地点)が調査された。青銅器との関連で重要なことは,墓地遺跡で砂岩製の斧の鋳型が出土し,集落址では鋳型片や溶けた青銅の付着した土器から青銅器鋳造に使われたとみられる炉址が発見されたことである。ランヴァク遺跡はドンソン文化の広がりのなかではかなり南に位置し,ベトナム北部,中国南部ばかりでなく,ベトナム中・南部のサフィン文化やタイのバンチェン文化など周辺の広い地域との関連が見られる。
北條, 勝貴 Hojo, Katsutaka
古代日本における神社の源流は、古墳後期頃より列島の多くの地域で確認される。天空や地下、奥山や海の彼方に設定された他界との境界付近に、後の神社に直結するような祭祀遺構が見出され始めるのである。とくに、耕地を潤す水源で行われた湧水点祭祀は、地域の鎮守や産土社に姿を変えてゆく。五世紀後半~六世紀初においてこれらに生じる祭祀具の一般化は、ヤマト王権内部に何らかの神祭り関係機関が成立したことを示していよう。文献史学でいう欽明朝の祭官制成立だが、〈官制〉として完成していたかどうかはともかく、中臣氏や忌部氏といった祭祀氏族が編成され、中央と地方を繋ぐ一元的な祭祀のあり方、神話的世界観が構想されていったことは確かだろう。この際、中国や朝鮮の神観念、卜占・祭祀の方法が将来され、列島的神祇信仰の構築に大きな影響を与えたことは注意される。
秋沢, 美枝子 山田, 奨治
ドイツ人哲学者オイゲン・ヘリゲル(一八八四~一九五五)がナチ時代に書いた、「国家社会主義と哲学」(一九三五)、「サムライのエトス」(一九四四)の全訳と改題である。
濵田, 竜彦 瀧上, 舞 坂本, 稔 HAMADA, Tatsuhiko TAKIGAMI, Mai SAKAMOTO, Minoru
池田 榮史 Ikeda Yoshifumi
沖縄諸島のグスク時代遺跡には「吹出原型掘立柱建物」と名付けられた遺構の組み合わせが見られるが、その出現の「由来、背景」については詳らかになっていない。これを含めて沖縄のグスク時代社会の開始には喜界島城久遺跡群をはじめとする奄美諸島を経由した古代末〜中世初期の日本からの影響が大きいと考えられる。そこで、「吹出原型掘立柱建物」の「由来、背景」を探るために奄美諸島喜界島城久遺跡群で検出された建物遺構および建物遺構の中に見られる「吹出原型掘立柱建物」類似遺構の検討を行なった。その結果、「吹出原型掘立柱建物」の直接的祖型を城久遺跡群に求めることはできないが、建物の構造や配置などについては間接的な影響があったと考えられる。
工藤, 雄一郎 Kudo, Yuichiro
縄文時代の開始期の植物利用については,これまで土器の出現と関連づけて様々な議論が行われてきた。出現当初の縄文時代草創期の土器は「なにをどのように煮炊きするための道具だったのか」という点をより具体化し,列島内での土器利用の地域差などを検討していくことは極めて重要な研究課題である。2012年に発掘された宮崎県王子山遺跡からは,縄文時代草創期の炭化植物遺体(コナラ属子葉,ネギ属鱗茎)が出土した。筆者らは,これらの試料の炭素・窒素安定同位体分析を行い,また,王子山遺跡および鹿児島県三角山Ⅰ遺跡から出土した隆帯文土器の内面付着炭化物の炭素・窒素安定同位体分析を実施し,土器で煮炊きされた内容物について検討した。この結果,王子山遺跡では動物質食料と植物質の食料が煮炊きされていた可能性が高いことがわかった。王子山遺跡から出土した炭化ドングリ類は,土器による煮沸の行程を経てアク抜きをした後に食料として利用されていたというよりも,動物質の食料,特に肉や脂と一緒に煮炊きすることで,アク抜くのではなく,渋みを軽減して食料として利用していた可能性を提示した。一方,三角山Ⅰ遺跡では,隆帯文土器で海産資源が煮炊きされた可能性があることを指摘した。これらの土器の用途は,「堅果類を含む植物質食料のアク抜き」に関連づけるよりも,「堅果類を含む植物質食料および動物質食料の調理」と関連づけたほうが,縄文時代草創期の植物利用と土器利用の関係の実態により近いと推定した。
岡, 雅彦 OKA, Masahiko
禅僧一休宗純に関する説話は江戸時代初期の諸書に断片的に散見されるが、寛文期に一休説話集が三書成立し、やがて芝居や多くの読み物と絡みあって一休伝説が受け継がれ成長していく。その展開過程を捉えるその第一歩として、多くの一休物の内の説話集的作品に限定し、典拠報告を中心に、その展望を述べる。
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