1244 件中 1 〜 20 件
福島, 雅儀 Fukushima, Masayoshi
ここでいう陸奥南部とは,現在の行政区分でいう福島県を中心とする範囲である。この地域は東北地方南部にあたり,古代日本の中では周辺地域とみなされる地方のひとつであった。また対象とする年代は,7世紀とその前後である。この時期は古墳時代から律令時代への転換期であり,日本史のなかでも最も大きな変革期のひとつであった。小論ではこのような地域と時代を対象として,古墳築造の終末過程と律令官衙の成立状況の分析をとおして,当時における周辺地域の社会的・政治的様相の一端を明らかにすることを目的としている。そこでこの論文では,主題にそって以下の課題を設定して考察を加えた。 1.年代的位置付けの基準 2.有力豪族層の古墳 3.群集墳の展開と終末 4.寺院と律令官衙の成立さらにこれらを統合して,陸奥南部における古墳時代の終末過程についてまとめた。その過程は,大きく3段階の画期を経て完了すると考えられる。つまり,7世紀前半には6世紀代における有力豪族層の抑圧を経て群集墳が成立する。つぎに7世紀後半には,群集墳の盛行をうけて律令官衙が成立し,また宮ノ前(みやのまえ)古墳・谷地久保(やちくぼ)古墳という畿内的な有力古墳が築造される。最後は8世紀前半における律令体制の確立を受けて,古墳の造営が終了する。以上の点から,古墳時代終末期の陸奥南部における地政的特徴には,その北部域や近接する関東地方とは大きく異なる様相が指摘される。それはこの地域が,古墳時代前期以来の伝統的な古墳文化を有する社会基盤のうえにあるが,強力な在地勢力は6世紀代に抑圧されてその勢力を失ったことから,7世紀代には中央政権による支配体制の変革が典型的に進められた地域ということである。
西嶋, 剛広 Nishijima, Takahiro
古墳時代中期において鉄製甲冑は,古墳副葬品中で主要な位置を占める文物の一つである。その生産と配布にはヤマト政権と地域勢力との社会的,政治的関係が反映されていると考えられている。マロ塚古墳が所在する熊本地域には,現在23基の甲冑出土古墳が確認されているが,これらの甲冑に関してはこれまで検討がなされることは少なかった。そこで本稿ではまず熊本地域における甲冑出土古墳の中でも数が多く,マロ塚古墳出土品も含まれる鋲留短甲の編年的位置付けを試みた。その結果,熊本地域から出土した鋲留短甲のほとんどが古墳時代中期後葉に位置付けられた。そして,熊本地域における甲冑出土古墳の様相を把握するため,甲冑出土古墳の分布,墳形規模,甲冑の出土数について検討し,甲冑出土古墳は菊池川下流域,合志川流域,緑川流域,天草北部島嶼域などの地域に偏在することや,同時期の九州の中でも甲冑が集積する地域の一つであることが明らかになった。その後,熊本地域における古墳時代中期の甲冑集積の背景を理解するため,大型古墳築造,埴輪,渡来系文物という3つの要素を取り上げ,その様相を検討した。この検討結果と甲冑出土古墳の様相との比較をおこない,熊本地域へ甲冑が多くもたらされたことの背景について考察した。その結果,熊本地域に多くの甲冑が配布された背景には,地域とヤマト政権との多様な関係性を見出すことができた。また,甲冑出土古墳を通してみた古墳時代中期の熊本地域の様相からは,渡来系の新技術を用いた内的発展と朝鮮半島との対外活動という2つのキーワードを見出すことができた。これは熊本地域のみならず,当該時期の日本列島の様相を考える上でも重要なキーワードであると考えられる。
杉井, 健
熊本県地域における弥生時代後期から古墳時代前期の集落動向,および古墳時代前期の有力首長墓(前方後円墳)築造動向を検討した結果,弥生時代後期にきわめて優位な地域であった菊池川中流域などには有力な前期古墳は築造されず,一方,相対的に劣位であった宇土半島基部地域にきわめて有力な前期の首長墓系譜が形成されたことが明確となった。河川や平地部のありかたをみれば,宇土半島基部地域に比べて菊池川中流域は水田稲作をはじめとする農耕の生産力が圧倒的に高いと考えられるが,そうした生産性の高さが古墳時代前期における古墳の築造や集落の維持には直結していない。すなわち,少なくとも熊本県地域では,弥生時代後期の拠点的大規模集落の領有圏がそのまま古墳時代前期の有力首長墓築造の基盤にはなっていないのである。宇土半島基部地域は,甕棺や武器形青銅器などといった北部九州地域を特徴づけるさまざまな弥生文化要素の分布南限域である。近畿地方中央部にあった中央政権は,古墳にさまざまな階層的要素をもちこみ,それによって生み出された秩序にもとづいてみずからの中心的立場を確立していくが,その地理的射程は,前方後円墳分布域を根拠にすれば,弥生時代に水田稲作が主要な生業として定着した範囲であったと考えられる。その場合,北部九州地域の主要な弥生文化がおよぶ南端域であった宇土半島基部地域は,中央政権側からみた内なる世界の最前線の位置にあたる。すなわち,外なる世界に対する内なる世界の共同性を象徴する場所としてとくに重視されたからこそ,宇土半島基部地域に大規模な前方後円墳がいちはやく築造されたと推測した。このように従来の経済基盤を越えたところに前方後円墳の築造がなされる場合があることは,古墳が相当の政治性を帯びた存在であることを如実に示している。
岸本, 直文 Kishimoto, Naofumi
1990年代の三角縁神獣鏡研究の飛躍により,箸墓古墳の年代が3世紀中頃に特定され,〈魏志倭人伝〉に見られる倭国と,倭王権とが直結し,連続的発展として理解できるようになった。卑弥呼が倭国王であった3世紀前半には,瀬戸内で結ばれる地域で前方後円形の墳墓の共有と画文帯神獣鏡の分配が始まっており,これが〈魏志倭人伝〉の倭国とみなしうるからである。3世紀初頭と推定される倭国王の共立による倭王権の樹立こそが,弥生時代の地域圏を越える倭国の出発点であり時代の転換点である。古墳時代を「倭における国家形成の時代」として定義し,3世紀前半を早期として古墳時代に編入する。今日の課題は,倭国の主導勢力となる弥生後期のヤマト国の実態,倭国乱を経てヤマト国が倭国の盟主となる理由の解明にある。一方で,弥生後期の畿内における鉄器の寡少さと大型墳墓の未発達から,倭王権は畿内ヤマト国の延長にはなく,東部瀬戸内勢力により樹立されたとの見方もあり,倭国の形成主体に関する見解の隔たりが大きい。こうした弥生時代から古墳時代への転換についても,¹⁴C年代データは新たな枠組みを提示しつつある。箸墓古墳が3世紀中頃であることは¹⁴C年代により追認されるが,それ以前の庄内式の年代が2世紀にさかのぼることが重要である。これにより,纒向遺跡の形成は倭国形成以前にさかのぼり,ヤマト国の自律的な本拠建設とみなしうる。本稿では,上記のように古墳時代を定義するとともに,そこに至る弥生時代後期のヤマト国の形成過程,纒向遺跡の新たな理解,楯築墓と纒向石塚古墳の比較を含む前方後円墳の成立問題など,新たな年代観をもとづき,現時点における倭国成立に至る一定の見取り図を描く。
田中, 晋作 Tanaka, Shinsaku
今回のシンポジュウムで与えられた課題は,古墳時代の軍事組織についてである。小論の目的は,この課題について,今までに提示してきた拙稿をもとに,とくに,古墳時代前期後半から中期を対象にして,①古墳時代前期後半以降にみられる軍事目的の変化,②中期前半に百舌鳥・古市古墳群の被葬者集団による常備軍編成の可能性,③中期における軍事組織の編成目的について検討し,つぎの私見を示すことである。前期後半,それまでの有力古墳でみられた示威や防御を目的とした武器が,一部の特定古墳で具体的な武装形態を反映した副葬状況へと変化する。この変化は,既存有力古墳群でみられるものはなく,この段階で朝鮮半島東南部地域の勢力とそれまでにない新たな関係を結んだ新興勢力の中に現れるものである。中期に入り,百舌鳥・古市古墳群の被葬者集団によって,形状および機能が統一された武器の供給がはじまり,大規模な動員を可能とする基盤が整えられる。この軍事組織の編成を保障するために,両古墳群の被葬者集団の特定の人物もしくは組織のもとに,人格的忠誠関係に基づいた常備軍が編成される。さらに,武器の副葬が卓越する一部の古墳で,移動や駐留を可能とする農工具を組み込んだ新たな武器組成が生まれる。このような武器組成は,国内に重大な軍事的対峙を示す痕跡が認められないことから,計画的で,遠距離,かつ長期間にわたる軍事活動を視野に入れた対国外的な組織の編成が行われていたことを示すものである。以上の検討結果によって,古墳時代前期後半以降にみられる軍事組織の編成は,政治主体が軍事力の行使によって解決を必要とした課題が,それまでの対国内的な要因から,朝鮮半島を主眼とした対国外的な要因へと変化したことを示していると考える。
杉井, 健 Sugii, Takeshi
きわめて良好な遺存状態を保つ甲冑や鉄鏃などが出土したマロ塚古墳であるが,その正確な所在地はいぜん不明のままである。しかし,熊本県北部を流れる菊池川の支流,合志川の中流域西半部左岸をそのもっとも有力な候補地域とすることまでは可能である。合志川中流域西半部左岸には,いくつかの注目すべき特質が存在する。第1に,当地域にはじめて築かれた前方後円墳(高熊古墳)には窖窯焼成技術導入期の埴輪が樹立され,しかもそれは畿内地域の埴輪と同じ技術体系のなかに位置付けられるきわめて精美なものである点である。第2に,合志川下流域まで含めると帯金式甲冑出土古墳が3基存在し,その基数は熊本県地域では緑川中流域に並ぶ多さである点である。第3に,大規模な円墳が古墳時代中期に集中して築かれる点である。第4に,方形周溝墓あるいは小規模な円墳が古墳時代前期から後期に至るまで連綿と築造され,そのなかに朝鮮半島系渡来文化の一要素とみられる馬埋葬をともなう円墳が存在する点である。こうした特質は,当該地域が,古墳時代中期中葉になって,古市・百舌鳥古墳群を造営した中央政権と密接な関係をもつに至ったことを示している。これと類似の動向を示す地域には,熊本県阿蘇谷や緑川中流域,あるいは福岡県八女地域や筑後川中流域の吉井地域などがあるが,これらは古墳時代中期前葉までには有力な古墳が築かれていなかった地域である。さらに,有明海に直接面しない内陸部である点でも共通する。これらのことから,古墳時代中期中葉の有明海沿岸地域では,海岸沿いのルート以上に河川づたいの内陸ルートが重視されたこと,しかもそれは中央政権側の意図のもとに新たに整備された可能性があることを指摘した。合志川中流域西半部左岸は菊池川中流域の菊鹿盆地と南の熊本平野部を結ぶ内陸ルートの要衝であるが,マロ塚古墳に多くの武器武具類が副葬された要因の一端はまさにここにあるのである。
若林, 邦彦 Wakabayashi, Kunihiko
大阪平野の弥生時代遺跡については,弥生時代中期末の洪水頻発の時期に大規模集落が廃絶し,集団関係に大きな変化が生じたといわれてきた。また,水害を克服する過程として,地域社会統合が確立し古墳時代社会への移行が進行するとも言われた。本稿では,大阪平野中部と淀川流域の弥生時代~古墳時代遺跡動態を検証して,社会変化・水害・集団と耕作地の関係について論じた。大阪平野中部では,弥生時代の流水堆積による地形変化は数百m規模でしか発生せず,集落と水田のセットが低湿地に展開する様相に変化はない。淀川流域で弥生~古墳時代の集落分布変化を検証すると,徐々に扇状地中部・段丘上・丘陵上集落の比率が増え,古墳時代中期には特にその傾向は顕在化する。これは,4世紀後半・5世紀に集落が耕作地から分離していく整理された集団関係への変化と読み取れる。また,この時期は降水量が100年周期変動で進行する水害ダメージを受けにくい時代でもある。地域社会統合は洪水の影響をうけにくい時期にこそ,その環境を利用してそれへの対応の可能な社会へと変貌するのである。社会構造変化の方向性と環境要因の複合要因により,地域社会の実態は変質していくと考えられる。
広瀬, 和雄 Hirose, Kazuo
西日本各地の首長同盟が急速に東日本各地へも拡大し,やがて大王を中心とした畿内有力首長層は,各地の「反乱」を制圧しながら強大化し,中央集権化への歩みをはじめる。地方首長層はかつての同盟から服属へと隷属の途をたどって,律令国家へと社会は発展していく,というのが古墳時代にたいする一般的な理解である。そこには,古墳時代は律令国家の前史で古代国家の形成過程にすぎない,古墳時代が順調に発展して律令国家が成立した,というような通説が根底に横たわっている。さらには律令国家の時代が文明で,古墳時代は未熟な政治システムの社会である,といった<未開―文明史観>的な歴史観が強力に作用している。北海道・北東北と沖縄諸島を除いた日本列島では,3世紀中ごろから7世紀初めごろに約5200基の前方後円(方)墳が造営された。墳長超200mの前方後円墳32/35基,超100mの前方後円(方)墳140/302基が,畿内地域に集中していた。そこには中央―地方の関係があったが,その政治秩序は首長と首長の人的な結合で維持されていた。いっぽう,『記紀』が表す国造・ミヤケ・部民の地方統治システムも,中央と地方の人的関係にもとづく政治制度だった。つまり,複数の畿内有力首長が,各々中小首長層を統率して中央政権を共同統治した<人的統治システム>の古墳時代と,国家的土地所有にもとづく<領域的統治システム>を理念とした律令国家の統治原理は異質であった。律令国家の正統性を著した『日本書紀』の体系的な叙述と,考古学・古代史研究者を規制してきた発展史観から,みずからの観念を解き放たねばならない。そして,膨大な考古資料をもとに,墳墓に政治が表象された古墳時代の350年間を,一個のまとまった時代として,先見主義に陥らずにその特質を解明していかねばならない。
上野, 祥史 Ueno, Yoshifumi
古墳出土の副葬品には,王権からの配布と地域での副葬という二つの異なる側面がある。配布と副葬は,王権と地域という異なる視点で古墳時代社会を評価したものともいえよう。本論では甲冑と鏡が共伴する現象に注目し,帯金式甲冑を副葬した古墳時代中期の地域の動きを評価した。甲冑と鏡の生産段階を整理し,古墳おける組合せ関係に注目することによって,帯金革綴式甲冑を副葬する段階には,保有鏡を副葬する動きが鮮明になることを指摘した。保有鏡の副葬が,比較的普遍性をもっていたことが明らかになったのである。こうした現象の背景について,三角縁神獣鏡との関係や地域の古墳築造という視点から検討を進めた。三角縁神獣鏡は,同笵鏡によって生産段階=配布段階の同時性が保証された器物である。甲冑と三角縁神獣鏡の共伴関係は,帯金革綴式甲冑の副葬を境に大きく変容する。新しい甲冑に古い鏡が組合うこの現象は,帯金革綴式甲冑を副葬する段階で鮮明となった保有鏡副葬の実態をより端的に示していることが明らかになった。地域という視点では,造営形態の異なる古墳群を取り上げ,古墳築造という視点から帯金革綴式甲冑と鏡の共伴関係について検討した。保有から副葬へという動きは,保有鏡の実態や前後に継続する古墳造営の有無など,それぞれの地域の事情を反映して多様な形態があることを示した。こうした帯金革綴式甲冑の副葬を通して鮮明となる保有鏡の実態は,古墳時代中期前半という時代を象徴する一面である。一方,比較的普遍性をもった保有鏡の存在は,副葬品が王権の配布したものであると同時に,地域の保有するものでもあることを改めて強調する。古墳の副葬品を検討する視点として,王権と地域という視点の違いを改めて認識することの重要性を指摘した。
白石, 太一郎 Shiraishi, Taichiro
奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳からは,金銅製や金銅装の馬具,銅鏡,玉飾り,金銅製装身具,飾り大刀などの豪華な副葬品とともに,斧・鉇・刀子・のみ・鎌・鋤などの鉄製農工具の雛型品が合わせて100点近く出土している。それらの鉄製農工具類はいずれも,横穴式石室内に石室の主軸と直交する方向に置かれた家形石棺と石室奥壁の間の狭い空間に,馬具や挂甲などとともに置かれていた。いずれも雛型品であるが,木柄の痕跡をとどめており,本来は柄を装着した状態で副葬されていたものと想定される。こうした鉄製農工具の副葬の風習は,古墳の出現期以来,古墳時代の前期・中期を通じて日本列島の古墳にみられる顕著な特色である。最初は実物の農工具を副葬していたが,前期末葉から中期には,それらを石で模した石製模造品や鉄製の雛型品を納める例が多くなる。こうした農工具副葬の意味については諸説があるが,基本的には,農耕儀礼を実修する司祭者でもあった古墳時代の首長が用いる神まつりの道具であったと思われる。それは神をまつる者の神聖な業である酒造りや機織りの道具が,農工具と同じように中期には石製模造品として副葬されることからもうなづけよう。こうした鉄製農工具の一括副葬の風習は,古墳時代後期になると次第にすたれてくる。とくに藤ノ木古墳のように100点近くもの農工具が棺側に一括して納められるような例はほとんどみられなくなる。後期でも新しい6世紀末葉の藤ノ木古墳に,きわめて本来的なかたちで農工具の副葬がみられることは,藤ノ木古墳の性格を考える上にも示唆的である。それは伊勢神宮の神宝の玉纏太刀の原形とも考えられる豪華な倭風の飾り大刀の副葬とも共通するもので,その被葬者が,国家的な祭祀を執行する職能をになう大王の一族であったと想定されることと無関係ではなかろう。
松木, 武彦 Matsugi, Takehiko
AMSによる放射性炭素年代測定法の高精度化によって,型式学を基礎として把握されたさまざまな考古学的現象の時間幅を精確に把握することができるようになった。それにより有効性が増した作業の一つに,土器型式ごとの遺構・遺物量の算定などからする人口変動の復元がある。本論では,弥生時代から古墳時代に向けてとくに顕著な社会の複雑化を見せた吉備中南部地域を対象に,これまでの発掘成果に基づき,当該時期の竪穴住居数・掘立柱建物その他の遺構数の変化を把握して,人口の増減や分布の変化過程をつかんだ。その結果,弥生時代から古墳出現期にかけてはこれまで想定されていた以上の人口の増加があること,とくに弥生時代中期後葉と後期とにその画期があることが判明した。さらに,その二つの画期にそれぞれ顕在化する考古事象の検討および古環境復元研究の成果などから,中期後葉の人口急増と集落数増加は環境の安定による人口増加率の上昇に起因し,後期の人口増加と特定地域への集住,そこでの階層化・耕地開発・遠距離交易活性化などの現象は,環境の不安定化に対応する社会的再編によるもので,それが古墳時代への移行の歴史的本質であることを展望した。
小沢, 洋 Ozawa, Hiroshi
古墳時代の上総南西部には2つの強大な政治領域が存在していた。一つは小櫃川流域の馬来田国であり,もう一つは小糸川流域の須恵国である。この両地域では古墳時代のほとんどの期間を通じて継起的に大形古墳の築造が認められ,房総の諸首長層の中でも,とりわけ安定した勢力を維持していたことが窺われる。小糸川流域では,前期の段階には中・下流域の丘陵上に前方後方墳が拠点的に存在する状況であるが,中期以降には下流沖積地の内裏塚古墳群を中心に首長墓群が形成される。5世紀中頃に房総最大の前方後円墳・内裏塚古墳が築かれて後,6世紀前半代など一時的に首長墓の存在が不明確な時期もあるが,6世紀後半期には継続的な100m級前方後円墳の築造が見られ,中小規模の前方後円墳・円墳を含めた首長系集団の墓域を形成する。7世紀代に入ると,割見塚古墳を始めとする幾つかの方墳が築造され首長系集団の墓制が一新される。これらの方墳は二重周堀・切石積石室といった強い共通性を有しており,房総諸地域の斉一的な終末期方墳形成の中での階層的な意味付けがあったと考えられる。小櫃川流域では,前期の段階にすでに中流域の小櫃地区を本拠とする首長勢力があり,飯籠塚古墳・白山神社古墳といった大形前方後円墳が築かれている。しかし中期に入ると高柳銚子塚古墳を初現として下流沖積地の祇園・長須賀地区に一貫して首長墓群が形成されるようになり,以後は小糸川流域と非常によく似た展開をたどる。ただし小櫃川流域の首長墓の多くが今日では消滅しているため,編年的関係が不明な部分も多い。また6世紀末葉の金鈴塚古墳を最後に,小櫃川流域では終末期の首長系古墳(方墳)が確認されておらず,上総最古の寺院・大寺の出現と関連してその動向に大きな疑問が残されている。
臼居, 直之 Usui, Naoyuki
千曲川流域の沖積低地には,弥生時代から近世にわたる数多くの集落跡と水田跡が発見されている。洪水堆積層に覆われた遺跡からは,畦畔や溝で区切られた各時代の水田区画が検出され,多量の木製農耕具が出土している。これらの水田区画と農耕具には時代ごとに特長があり,いくつかの画期を見いだすことができる。またその変化の背景には自然条件を克服した技術や政治・社会的な要因が推察される。善光寺平の水田区画は,低地開発が始まり小規模で短期に消滅した縄文時代晩期から弥生時代中期前半までの0段階,自然地形を有効利用して大・小畦畔を配した小区画水田をつくる弥生時代中期から古墳時代前期までのⅠ段階,大畦畔によって企画性を帯びた大区画をつくりその内部を極小区画する古墳時代中期から後期(奈良時代)までのⅡ段階,平安時代以降の条里型地割となるⅢ段階の大きく4期区分の変遷をたどる。農耕具の変化もこれに付随している。Ⅰ段階は,多様な形状の曲柄鍬と直柄鍬が主体で,方形板状鉄刃が着装された鍬もある。この段階には曲柄鍬の形態にナスビ型が加わる古墳前期に小画期を見いだせる(Ⅰ-②段階)。Ⅱ段階は,曲柄鍬にU字形の鉄刃が装着され,直柄の打ち鍬が消滅する。Ⅲ段階は,曲柄鍬が消滅してU字形鉄刃が装着された直柄鍬だけとなる。ⅠからⅡ段階,ⅡからⅢ段階への変化の要因は,地域社会の解体や土地所有,開発主体の変化,畜力を導入した耕作技術の革新,気候の寒冷化などが考えられるが,今後総合的な検討が必要である。
春成, 秀爾 小林, 謙一 坂本, 稔 今村, 峯雄 尾嵜, 大真 藤尾, 慎一郎 西本, 豊弘 Harunari, Hideji Kobayashi, Kenichi Sakamoto, Minoru Imamura, Mineo Ozaki, Hiromasa Fujio, Shinichiro Nishimoto, Toyohiro
奈良県桜井市箸墓古墳・東田大塚・矢塚・纏向石塚および纏向遺跡群・大福遺跡・上ノ庄遺跡で出土した木材・種実・土器付着物を対象に,加速器質量分析法による炭素14年代測定を行い,それらを年輪年代が判明している日本産樹木の炭素14年代にもとづいて較正して得た古墳出現期の年代について考察した結果について報告する。その目的は,最古古墳,弥生墳丘墓および集落跡ならびに併行する時期の出土試料の炭素14年代に基づいて,これらの遺跡の年代を調べ,統合することで弥生後期から古墳時代にかけての年代を推定することである。基本的には桜井市纏向遺跡群などの測定結果を,日本産樹木年輪の炭素14年代に基づいた較正曲線と照合することによって個々の試料の年代を推定したが,その際に出土状況からみた遺構との関係(纏向石塚・東田大塚・箸墓古墳の築造中,直後,後)による先後関係によって検討を行った。そして土器型式および古墳の築造過程の年代を推定した。その結果,古墳出現期の箸墓古墳が築造された直後の年代を西暦240~260年と判断した。
藤沢, 敦 Fujisawa, Atsushi
古墳時代から飛鳥時代,奈良時代にかけての,東北地方日本海側の考古資料について,全体を俯瞰して検討する。弥生時代後期の様相,南東北での古墳の築造動向,北東北を中心とする続縄文文化の様相,7世紀以降に北東北に展開する「末期古墳」を概観した。さらに,城柵遺跡の概要と,「蝦夷」の領域について文献史学の研究成果を確認した。その上で,日本海側の特質を太平洋側の様相と比較しつつ,考古資料の変移と文献史料に見える「蝦夷」の領域との関係を検討し,律令国家の領域認識について考察した。日本海側の古墳の築造動向は,後期前半までは太平洋側の動向と基本的に共通した変化を示すことから,倭国域全体での政治的変動と連動した変化と考えられる。ところが後期後半以降,古墳築造が続く地域と途切れる地域に分かれ,地域ごとの差違が顕著となる。終末期には太平洋側以上に地域ごとの差違が顕著となる。時期が下るとともに,地域独自の様相が強まっており,中央政権による地方支配が強化されたと見なすことはできない。続縄文文化系の考古資料は,日本海沿いでは新潟県域まで分布し,きわめて遠距離まで及ぶ。また海上交通の要衝と考えられる場所に,続縄文文化と古墳文化の交流を示す遺跡が存在する。これらの点から,日本海側では海上交通路が重要な位置を占めていた可能性が高く,続縄文文化を担った人々が大きな役割を果たした可能性が指摘できる。文献史料の検討による蝦夷の領域と,考古資料に見られる文化の違いは,ほとんど対応しない。日本海側では,蝦夷の領域と推測される,山形県域のほぼ全て,福島県会津盆地,新潟県域の東半部は,古墳文化が広がっていた地域である。両者には,あきらかな「ずれ」が存在し,それは太平洋側より大きい。この事実は,考古資料の分布に見える文化の違いと人間集団の違いに関する考えを,根本的に見直すことを要求している。排他的な文化的同一性が先に存在するのではなく,ある「違い」をとりあげることで,「彼ら」と「われわれ」の境界が形成されると考えるべきである。これらの検討を踏まえるならば,律令国家による「蝦夷」という名付けは,境界創出のための他者認識であったと考えられる。
杉崎, 茂樹 Sugisaki, Shigeki
まず最初に,古墳時代後期の北武蔵各地域での前方後円墳の築造状況を概観する。北武蔵の90基ほどの前方後円墳は大半が後期の築造とみられ,後期に前方後円墳の築造が急激に増大する。特に,同時期のわが国全体でも,屈指といえる規模の大形前方後円墳が,前代までさしたる古墳のない埼玉県北部の行田市の埼玉古墳群と周辺地区に突然として出現し,およそ1世紀の間,築造が継続されることが特筆される。墳丘規模の卓越性から,その被葬者は畿内政権を後ろだてに広域を統治した新興の北武蔵の最高首長層だったと推定される。このほか各地域で後期に至り多くの中小規模の前方後円墳が出現しており,これらは大形前方後円墳の下位に位置する小地域首長層の古墳と考えられる。しかし,6世紀末ないし7世紀初頭段階に前方後円墳の築造は規模の大小を問わず停止するに至る。かわって有力首長層が自己の墳墓型式に採用したのは大形の円墳や方墳だった。こうした動きは,当時の畿内首長層の前方後円墳廃絶およびその後の造墓活動と対応した動きであった。次に,北武蔵での小首長層の台頭を物語る後期群集墳の消長は,大形前方後円墳の築造開始と期を一にして生起するものや前方後円墳の廃絶とほぼ同時期に生起するものなど一様でなく,個性がある。そして築造停止の時期もまた各様であるが,8世紀初頭までに築造が停止されている。こうした現象は同時に古墳の築造停止,すなわち古墳時代の終焉を意味し,その背景には古墳という葬制を介した地方勢力の統治がもはや畿内政権にとっても地方勢力にとっても形骸化したことを示す。すなわち,これにかわる律令的身分制度の波及が予想された。
鈴木, 一有 Suzuki, Kazunao
マロ塚古墳から出土した線刻を施した鉄鏃(線刻鉄鏃)の製作地と線刻鉄鏃が副葬品に含まれる意義を探るため,古墳時代の線刻鉄鏃を集成し,その分布と変遷の傾向を整理した。鉄鏃に施された線刻は,大きく,1本の直線のみがみられる直線文と,中央の点とその周りの円形模様で構成される円文に分けられる。これらの線刻を施す鉄鏃は,儀仗性が強い点で互いに関連がみられるものの,それぞれ祖形とする鉄鏃が異なり,製作時期や分布にも差がみられる。直線文をもつ線刻鉄鏃は,弥生時代後期に北部九州において出現した透孔鉄鏃に起源をもち,古墳時代中期の宮崎県域(南九州)において集中的にみられる。1本の線刻は,透孔の退化形態と捉えた。直線文をもつ線刻鉄鏃は圭頭式にほぼ限定でき,広域に流通しない。この線刻鉄鏃は,地下式横穴墓といった特定墓制との関連の中で発達した地域的習俗の一つとみなし,地域内で生産され,地域内で消費されたものと評価した。いっぽう,円文をもつ線刻鉄鏃は,古墳時代中期の事例が多いものの,すでに古墳時代前期初頭に出現している。弥生時代後期の小孔をもつ鉄鏃との関連も考慮されるが,儀仗性が高い鉄鏃に施される傾向が認められることから,円文は特殊性を際立たせる細工と捉えた。円文をもつ線刻鉄鏃は,圭頭式をはじめ,定角式,柳葉式,二段逆刺鉄鏃など,多様性が認められた。分布の中核が見出せず,朝鮮半島を含め広域に分布している。円文は,倭王権中枢と関連が強い鉄鏃に施されているいっぽうで,地域性が顕著な鉄鏃にもみられる。円文を施す技術や意味が,倭王権にとどまらず,多地域に拡散している可能性がうかがえた。マロ塚古墳例の確認によって,直線文をもつ線刻鉄鏃の分布が宮崎県内にとどまらず,熊本県域まで広がることが明らかになった。直線文をもつ線刻鉄鏃を用いることに,地域的な紐帯が読み取れる。熊本県域の有力首長層の副葬品に,宮崎県域との関連を示す儀礼用具が含まれることに,被葬者の性格の一端が示されていると評価した。
菱田, 哲郎 Hishida, Tetsuo
7世紀における地域社会の変化については,律令制の浸透とともに,国郡里制の地方支配やそれを支える官衙群,生産工房群,宗教施設群の成立として捉えられている。一方で,古墳時代以来の墓制も残存しており,とりわけ7世紀前半は群集墳が盛んに築造されたこともよく知られてる。古墳時代の政治体制から律令制への転換が,地域社会にどのような影響を及ぼしたのか,あるいは地域社会の変動がどのような政治変革を反映しているのかということを明らかにするため,播磨地域を主たる材料に実地に検討を試みた。まず多可郡の中心域において東山古墳群を中心に階層構造をもって多くの古墳が妙見山の山麓に営まれることを挙げ,集落ごとに古墳が営まれる他の地域との違いを指摘した。集落消長もふまえると,7世紀前半における大規模な入植,開発が想定でき,屯倉の設置が関わると推測した。隣接する賀茂郡西部において,後期古墳と集落遺跡の消長を比較すると,7世紀に新たに展開する集落が墓を遠隔地の名山のもとに求めたと推測できた。この場合においても屯倉の設置が契機になると想定できた。このように大規模な古墳群が形成される背景として,屯倉型の開発があったと推測した。播磨地域での事例検討から群集墳論についての見直しも可能である。その際には,名山のもとに大規模な群集墳が形成される「山の墓地」と,集落が見える位置に小規模な古墳が営まれる「村の墓地」という対比が有効である。前者は屯倉型の開発に対応し,後者は伝統的な集落に対応すると想定できる。この二つのパターンが入り交じって地域社会が構成されている状況が看取でき,複雑化していく6から7世紀の地域社会の実像を解明する手がかりとなる。
坂, 靖
本稿の目的は,奈良盆地を中心とした近畿地方中央部の古墳や集落・生産・祭祀遺跡の動態や各遺跡の遺跡間関係から,その地域構造を解明する(=遺跡構造の解明)ことによって,ヤマト王権の生産基盤・支配拠点と,その勢力の伸張過程を明らかにすることにある。弥生時代の奈良盆地において最も高い生産力をもっていたのは「おおやまと」地域である。その上流域で,庄内式期の纒向遺跡が成立する。その後,布留式期に纒向遺跡の規模が拡大し,箸墓古墳と「おおやまと」古墳群の大型前方後円墳の造営がつづく。ヤマト王権の成立である。「おおやまと」地域において布留式期に台頭したのが,「おおやまと」地域を生産基盤とした有力地域集団(=「おおやまと」古墳集団)であり,地域一帯に分布する山辺・磯城古墳群をその墓域とした。ヤマト王権は,「おおやまと」古墳集団を出発点とし,その勢力が伸張していくことにより,徐々にその地歩を固め影響力を増大していく。布留式期には,近畿地方各地に跋扈した在地集団に加え,奈良盆地北部を中心とした佐紀古墳集団,「おおやまと」古墳集団と佐紀古墳集団を仲介する役割を担った在地集団などが存在したことが遺跡構造から明らかであり,そのなかで「おおやまと」古墳集団と佐紀古墳集団が主導的立場にあったと考えられる。5世紀には,「おおやまと」古墳集団は河内の在地集団を取り込み,さらにその勢力を伸張し,倭国の外交を展開する。そして,大和川の上・下流域一帯の広い範囲が生産基盤となり,倭国の支配拠点がおかれた。一方,近畿地方各地には,有力地域集団が跋扈しており,ヤマト王権の支配構造は,危ない均衡のうえに成り立っていたと考えられる。そうした状況が一変するのが,太田茶臼山古墳の後裔たる継体政権である。淀川北岸部の有力地域集団は,近畿地方や北陸・東海地方の在地集団や有力地域集団と協調することにより,ヤマト王権の生産基盤は,畿内地方一帯の広範な地域に及んだ。そして,6世紀後半には「おおやまと」古墳集団と一体化することにより,専制的な王権が確立し,奈良盆地の氏族層に強い影響力を及ぼしながら,倭国を統治することになるのである。
大澤, 正己 Osawa, Masami
列島内の縄文時代晩期から弥生時代へかけての初期鉄文化は,中国東北部方面で生産された可能性の高い高温還元間接製鋼法にもとづく可鍛鋳鉄,鋳鉄脱炭鋼,炒鋼の各製品の導入から始まる。また,遺存度の悪い低温還元直接製鋼法の塊錬鉄も希れには発見されるが,点数は少ないのと銹化のためか,その検出度は至って低い。一方,弥生時代の鍛冶技術は,まだ稚拙であって原始鍛冶とも呼ぶべき状況にある。ます廃鉄器(鋳造鉄斧脱炭品破片)の砥石研磨再生から始まり,次に棒(条材),板の半製品を原料とした鏨切り,火炙り成形,砥石研磨による鉄器製作である。鍛冶素材の産地は,弥生時代後期前半頃までは中国側,後期中頃以降は,鉄生産の開始された朝鮮半島側に依存した形跡を残す。本格鍛冶となる羽口使用で,沸し,素延べ,火造りといった工程の開始は古墳時代の前期頃で,鉄鉱石・砂鉄原料の製錬開始は古墳時代中期以降まで待たねばならぬ。朝鮮半島側の製錬の開始は定かでないが,焙焼磁鉄鉱を原料とした石帳里遺跡のA・B区で3~5世紀の操業があり,更に遡るのは確実であろう。これに後続する遺跡として沙村製鉄遺跡が調査された。いずれも円形炉で,列島内の古墳時代後期に属する遺構が広島,岡山の両県でも検出されている。但し,列島内では大口径羽口(送風管)を伴わないので同系とみなすには議論の分かれる事となろう。列島内の円形炉は,砂鉄と鉱石の2通りの原料使用があり,焙焼技術は受継がれている。
白石, 太一郎 Shiraishi, Taichiro
古墳時代前期から中期初めにかけての4世紀前後の古墳の埋葬例のうちには,特に多量の腕輪形石製品をともなうものがある。鍬形石・石釧・車輪石の三種の腕輪形石製品は,いづれも弥生時代に南海産の貝で作られていた貝輪に起源するもので,神をまつる職能を持った司祭者を象徴する遺物と捉えられている。したがって,こうした特に多量の腕輪形石製品を持った被葬者は,呪術的・宗教的な性格の首長と考えられる。小論は,古墳の一つの埋葬施設から多量の腕輪形石製品が出土した例を取り上げて検討するとともに,一つの古墳の中でそうした埋葬施設の占める位置を検証し,一代の首長権のなかでの政治的・軍事的首長権と呪術的・宗教的首長権の関係を考察したものである。まず,一つの埋葬施設で多量の腕輪形石製品を持つ例を検討すると,武器・武具をほとんど伴わないもの(A類)と,多量の武器・武具を伴うもの(B類)の二者に明確に分離できる。前者が呪術的・宗教的首長であり,後者が呪術的・宗教的性格をも併せもつ政治的・軍事的首長であることはいうまでもなかろう。前者の中には,奈良県川西町島の山古墳前方部粘土槨のように,その被葬者が女性である可能性がきわめて高いものもある。次に両者が一つの古墳のなかで占める位置関係をみると,古墳の中心的な埋葬施設が1基でそれがB類であるもの,一つの古墳にA類とB類の埋葬施設があり,両者がほぼ同格のもの,明らかにB類が優位に立つものなどがある。それらを総合すると,この時期には政治的・軍事的首長権と呪術的・宗教的首長権の組合せで一代の首長権が成り立つ聖俗二重首長制が決して特殊なものではなかったことは明らかである。また一人の人物が首長権を掌握している場合でも,その首長は大量の武器・武具とともに多量の腕輪形石製品をもち,司祭者的権能をも兼ね備えていたことが知られるのである。
藤沢, 敦 Fujisawa, Atsushi
日本列島で古代国家が形成されていく過程において,本州島北部から北海道には,独自の歴史が展開する。古墳時代併行期においては,南東北の古墳に対して,北東北・北海道では続縄文系の墓が造られる。7世紀以降は,南東北の終末期の古墳と,北東北の「末期古墳」,そして北海道の続縄文系の墓という,3つに大別される墳墓が展開する。南東北の古墳と,北東北の続縄文系の墓と7世紀以降の「末期古墳」の関係については,資料が豊富な太平洋側で検討した。墳墓を中心とする考古資料に見える文化の違いは,常に漸進的な変移を示しており,明確な境界は存在しない。異なる文化の境界は,明確な境界線ではなく,広い境界領域として現れる。このような中で,大和政権から律令国家へ至る中央政権は,宮城県中部の仙台平野以北の人々を蝦夷として異族視する。各種考古資料の分布から見ると,最も違いが不明確なところに,倭人と蝦夷の境界が置かれている。東北北部と北海道では,7世紀以降,北東北の「末期古墳」と北海道の続縄文系の墓という違いが顕在化する。この両者の関係を考える上で重要なことは,「末期古墳」が,北海道の道央部にも分布する点である。道央部では,北東北の「末期古墳」と強い共通点を持ちつつ,部分的に変容した墓も造られる。しかも,続縄文系の墓と「末期古墳」に類似する墓が,同じ遺跡で造られる事例が存在する。さらに,続縄文系の墓の中には,「末期古墳」の影響を伺わせるものもある。道央部では,「末期古墳」と続縄文系の墓は密接な関係を有し,両者を明確な境界で区分することは困難である。このような墳墓を中心に見た検討から見ると,異なる文化間の境界は,截然としたラインで区分できない。このことは,文化の違いが,人間集団の違いに,簡単に対応するものではないことを示している。
鈴木, 一有 Suzuki, Kazunao
分析対象として東海地方を取り上げ,有力古墳の推移からみた古墳時代の首長系譜と,7世紀後半に建立された古代寺院,および,国,評,五十戸・里といった古代地方行政区分との関係の整理を通じて,地域拠点の推移を概観した。古墳や古代寺院の造営から描き出せる有力階層の影響範囲と,令制下の古代地方行政区分については,概ね一致する場合が多いとみてよいが,部分的に不整合をみせる地域もあり,7世紀における地域再編の経緯がうかがえた。大型前方後円墳など,盟主的首長墓が影響力を発揮した範囲と,7世紀中葉から後葉に構築された中核的な古代寺院の分布は,国造がかかわった領域と比較的良好に対応するものの,令制下の国や郡の領域とは必ずしも一致しない。また,7世紀代に構築された終末期古墳については,地域差や個性が顕著なことから,網羅的に地域秩序を復元する資料として用いることが難しいことを示した。令制下の行政区分への編成は,古代官道の整備や領域設定ともかかわり,7世紀後半の中で段階的に進行した。その大きな画期は,孝徳朝における前期評の成立と,天武12年(683)~14年(685)に断行された国境策定事業と連動した後期評への移行であり,後者によって古墳時代的な地域秩序の多くが否定され,領域にかかわる地域再編が大きく促されたと想定した。
松木, 武彦
古墳の形と要素がしめす意味を具体的に復元するために,本論では「水」の表象に着目して,認知考古学的検討を行った。古墳に埋め込まれた水やその表象の変遷を,(1)リアルな水,(2)ヴァーチャルな水,(3)水と関連する造形,(4)水との空間関係,の4項目に分けて,主として考古学的コンテキストからの類推によってあとづけた。その結果,古墳がしめしていた意味の変化を,次のように明らかにした。まず,紀元後1~2世紀(弥生時代後期)には古墳の前身である周溝墓が「堀をうがち」「田を拓く」表象と行為を抱いた。3世紀前半に周溝墓が纏向型前方後円墳に発達する上で「水をまつる」表象と行為を加えた。3世紀中葉~4世紀中葉に定型化する大型前方後円墳は「山」の表象と化して「水」の表象もまたそこに階段化された。4世紀後半から5世紀には「水」の表象と行為は広域化し,「山」としての墳丘に至る経路を表現した。最後に6世紀には朝鮮半島の古墳と意味が同一化して,それまでの意味の変化プロセスは停止した。
若林, 邦彦 Wakabayashi, Kunihiko
大規模集落が複数の居住域から形成され,首長によって再編成された単一の集団として構成されていないという認識は一般化しつつあるが,それを基盤にした弥生社会像は明確ではない。本稿では,この側面に焦点を当て,近畿地方における居住域分布パターン設定と変遷を分析して,そのモデルを列島各地に適応させて解釈の進展をはかる。分布パターン分析の結果,約10km四方内に複合型集落が複数形成されるA1類,単数形成されるA2類,中小規模集落のみ分布するB類に分類できる。近畿中部においては,弥生前期にはB類パターンが主体となるが,中期には,平野部ではA1類パターンが多くみられるものの,丘陵・段丘地形が発達する領域ではB類が主体となる。また,平野部でもA2類パターンの集落分布となる領域もある。つまり,弥生中期には,地形条件などによる集落分布パターンの差異が大きい。また,河内湖近辺を典型例とする階層化した方形周溝墓群の多数形成はA1類型のような多核的な集落配置構造をもった領域で発達し,複合型集落の多数形成は大規模集落を中心とした単純なヒエラルキー形成には結びついていない。後期には,集落分布上の小地域差が解消され,全体として諸集団の分布形態は平準化されていく。こういった地域性の少ない集落配置は古墳時代には通有の景観であり,弥生時代の中で段階的に古墳時代的集落配置への変化が進行すると考えられる。こういった近畿地方における集落分布形態の多様性を援用すれば,複合型集落の形成の様相や時期が列島内諸平野部において異なることは自然に理解できる。また,中・小規模集団の多核的複合化が顕著な集落配置が弥生中期において明確にみられるのは北部九州と近畿地方中部だけである。つまり,A2類型の単純な分布構造からそのまま古墳時代社会へ移行した地域と,多核的地域社会から古墳時代社会へと移行した地域ではその経緯も大きく異なっていた。
加部, 二生 Kabe, Nitaka
群馬県内の終末期古墳では普遍的に存在する,横穴式石室の前面に広がる前庭構造について,従来は,古墳時代後期に群馬県地域で独自に土着した構造であると解釈されていた。しかし,近年の研究では,全国各地に所在することが明らかとなり,その起源については,古墳時代前期に高句麗地域で成立していることが明確に解ってきた。高句麗では,前庭構造が王陵に採用され,渤海に取って変わった8世紀終末まで連綿と構築されている。一方で,北部九州地方に導入された初期の横穴式石室にも前庭が付されたものがあり,前庭を持つ古墳は,百済,新羅,伽耶地域では認められないことから,これら初期横穴式石室の構築は高句麗の影響化に成立していることが明らかになった。横穴式石室の浸透に伴って前庭が日本各地に拡散していくにもかかわらず,これらを頑なに拒み続けているのが畿内中枢部の大和地域である。おそらく,当時の畿内大和勢力は,外交をはじめとして百済との結び付きを重視しており,こうした状況は,敵対する高句麗との間に一線を画していた結果を反映していると推定される。これに対して,九州で受容された前庭は,その「ハ」の字形に開いた形状が横穴式石室の羨道部の形態に影響を及ぼし,変質を遂げた形で日本各地へと拡散していく。また6世紀代になって美濃,上野周辺地域には九州とは別系譜で導入されると見られ,定着して墓制の主流となっている。埴輪祭祀が終焉した7世紀代の上野地域では,3000基以上の古墳に前庭が構築され,墓前祭祀が営まれていたと考えられる。これらに関与した造墓集団は後に,東国経営に関連して,東北地方へと赴き,任地で古墳が消滅するまで同様の墓造りに勤しんだものと思われる。
岸本, 道昭 Kishimoto, Michiaki
400年間も続いた古墳築造社会から律令体制への時代転換にあたって,新たに導入された地方支配方式の史的画期を追究する。『播磨国風土記』をひも解き,郡里領域を比定しながら,古墳や寺院の地域的実態と比較する。検討の俎上に載せた地域とは,播磨国揖保郡18里である。郡内において,6世紀半ば以降の後期前方後円墳が11基,後期古墳は1255基を数えた。古墳の造営集団は約400~500家族(戸)を想定するが,分布や墓域は風土記に記す里領域とはほとんど整合しないことがわかった。有力な終末期古墳は数が限定され,これも分布実態は里領域と合致しなかったが,むしろ郡司層を被葬者に考えることができた。いっぽう,7~9世紀に建立された古代寺院は14カ寺を数え,1里1寺に迫る分布を示している。古墳と異なって,寺院は里を意識した建立がなされている。寺院が地域社会の統合を促進し,知識寺院としての役割が想定できる。また,官道である山陽道と美作道が通る里での寺院建立は徹底されていたことから,護国仏教の浸透とあわせ,往来から見せる律令国家の機能を考えた。18里の設定原理を探ったところ,里の総面積に大きな差があっても,開発(生産)面積は小差で均等的であることがわかった。このことから,里は従来からの古墳を媒介とする族制的支配を否定し,均等的かつ網羅的な土地の領域支配の基礎単位と推定する。里は開発面積を前提に土地領域として区分され,地域社会の賦課と徴税単位として設定された。それは律令国家を支える地方社会の基礎的単位であり,現実にそれを統括したのは郡司層であった。人的支配であった古墳に代わる新たな地方支配の原理は,土地の領域支配であった。風土記や里領域の分析,寺院建立の実態から,播磨地域における領域支配の実質的開始は7世紀末の持統朝と考えられる。
橋本, 裕之 Hashimoto, Hiroyuki
本稿は後世の人々が古墳をいかなるものとして解釈してきたのかという関心に立脚しながら,装飾古墳にまつわる各種の伝承をとりあげることによって,装飾古墳における民俗的想像力の性質に接近するものである。そもそも古墳は築造年代をすぎても,その存在理由を更新しながら生き続けるものであると考えられる。古墳は多くのばあい,今日でも地域社会における多種多様な信仰の対象として存在しているのである。といっても,こうした位相に対する関心は考古学の領域にとって,あくまでも周辺的かつ副次的なものであった。だが,後世の人々が付与した意味,つまり土着の解釈学を無知蒙昧な妄信にすぎないとして,その存在理由を否定してしまうことはできない。それは古墳にまつわる民俗的想像力の性質に接近する手がかりを隠しており,古墳の民俗学とでもいうべき未発の課題にかかわっている。とりわけ特異な図文や彩色を持つ装飾古墳は,その存在が古くから知られているばあい,民俗的想像力を触発するきわめて有力かつ魅力的な媒体であったらしい。本稿はそのような過程の実際をしのばせる事例として,虎塚古墳・船玉古墳・王塚古墳・重定古墳・珍敷塚古墳・石人山古墳・長岩横穴墓群(108号横穴墓)・チブサン古墳などにまつわる各種の伝承をとりあげ,民俗的想像力における装飾古墳の場所を定位する。こうした事例は考古学における主要な関心に比較して,あまりにも末梢的なものとして映るかもしれないが,現代社会における装飾古墳の場所を再考して,装飾古墳の築造年代以降をも射程に収めた文化財保護の理念と実践を構想するための恰好の手がかりを提供している。地域社会における装飾古墳の受容史を前提した装飾古墳の民俗学は,そのような試みを実現するためにも必要不可欠であると思われるのである。
宮城, 弘樹
本論は,弥生時代から古墳時代に並行する沖縄貝塚時代の貝殻集積遺構のゴホウラやイモガイの炭素14年代測定結果を受け,沖縄諸島の在地土器編年に絶対年代を付与することを目的に整理・分析を行った。沖縄貝塚時代前期末の仲原式から同後期前半の阿波連浦下層式,浜屋原式,大当原式の4型式の土器が貝殻集積遺構とどのような関係で出土するのかについて整理を行った。その結果良好な出土状況を中心に分析し,仲原式が紀元前8世紀~紀元前5世紀,阿波連浦下層式が紀元前5世紀~紀元前2世紀後半,浜屋原式がおよそ紀元前2世紀後半~2世紀頃,そして大当原式がおよそ2世紀頃~6・7世紀に製作消費されたと結論付けた。
若狭, 徹
利根川の上流域に位置する北西関東地方では,弥生時代中期中葉以降,利根川沿岸低地に規模の大きい農耕集落が展開した。しかし,それらは弥生時代後期前半に一斉に解体し,集団は台地上で分散的に暮らすようになる。これは,弥生中期末に発生した多雨化による低湿地環境の悪化にあったと推定される。集団の分散や大規模水田経営の途絶により,首長層の成長も遅れたと考えられる。その後,弥生時代後期終末になると遺跡は再び低湿地に進出し,より広大な水田経営を行うようになった。多雨化の収束による環境改善があったと推定される。この時期に低地に新出したのは,先の環境変動によって流動化した東海地方の集団であり,濃尾平野の低地で培ってきたソフトウェアを投入することにより,利根川沿岸低地の広域的な水田化が進行していった。やがて古墳時代前期になると,首長の墓として前方後方墳が複数築造された。当地域の前方後方墳は東海地方起源の墓制であるが,大型のものは本貫地の東海地方よりも北西関東に多い。このことは,集団移住の規模が大きかったことと,その集団が首長によって組織化されたものであったことを示している。弥生時代末には,北陸地域や房総地域の集団の北進も発生している。こうした広域的な社会再編は,環境変動による土地利用の激変と集団の流動化が原因であり,それが古墳時代の新たなシステムの形成を促したものと考えられる。
古川, 一明 Furukawa, Kazuaki
東北地方の宮城県地域は,古墳時代後期の前方後円墳や,横穴式石室を内部主体とする群集墳,横穴墓群が造営された日本列島北限の地域として知られている。そしてまた,同地域には7世紀後半代に設置された城柵官衙遺跡が複数発見されている。宮城県仙台市郡山遺跡,同県大崎市名生館官衙遺跡,同県東松島市赤井遺跡などがそれである。本論では,7世紀後半代に成立したこれら城柵官衙遺跡の基盤となった地方行政単位の形成過程を,これまでの律令国家形成期という視点ではなく,中央と地方の関係,とくに古墳時代以来の在地勢力側の視点に立ち返って小地域ごとに観察した。当時の地方支配方式は評里制にもとづく領域的支配とは本質的に異なり,とくに城柵官衙が設置された境界領域においては古墳時代以来の国造制・部民制・屯倉制等の人身支配方式の集団関係が色濃く残されていると考えられた。それが具体的な形として現われたものが7世紀後半代を中心に宮城県地域に爆発的に造営された群集墳・横穴墓群であったと考えられる。宮城県地域での前方後円墳や,群集墳,横穴墓群の分布状況を検討すると,城柵官衙の成立段階では,中央政権側が在地勢力の希薄な地域を選定し,屯倉設置地域から移民を送り込むことで,部民制・屯倉制的な集団関係を辺境地域に導入した状況が読み取れる。そしてこうした,城柵官衙を核とし,周辺地域の在地勢力を巻き込む形で地方行政単位の評里制が整備されていったと考えた。
上野, 祥史 Ueno, Yoshifumi
中国鏡は,弥生時代中期後半から古墳時代前期前半を通じて,継続して日本列島に流入した舶載文物である。北部九州を中心とした弥生時代の鏡分配システムから,近畿地方を中心とした古墳時代の鏡分配システムへの転換は,汎日本列島規模の政体が出現した古墳時代社会の成立過程を考える上で重要な視点を提供する。日本列島内における中国鏡の分配システムの変革という視点で評価を試みた。北部九州を中心とする分配システムは,集積と形態という二つの指標から検討した。集積副葬は漢鏡3期鏡が流入する段階から漢鏡5期鏡が流入する段階,すなわち弥生時代中期後半から後期後半まで継続しており,配布主体と想定できる集積副葬墓が実在するこの期間を通じて分配システムは機能したと論じた。なお,漢鏡3期鏡の序列の継続性を検討すべく,各段階の鏡の形態を検討した結果,早くも後期初頭の漢鏡4期鏡が流入する段階に,流入鏡に大きな変化が生じたことを指摘した。ここを起点に,弥生時代中期後半から後期後半までの期間に日本列島に流入した鏡を中国世界の視点で評価した。この期間における漢鏡の流入は安定性を以て形容されることが多いが,紀元前1世紀後葉に停滞期が介在するなど,決して一様ではないことを指摘したのである。近畿地方を中心とする分配システムについては,その成立時期をめぐる議論を整理し,各地域社会における漢鏡6・7期鏡の保有状況を比較検討することが一つの視座を提供するがあることを主張し,瀬戸内海沿岸・日本海沿岸・近畿地方・近畿地方以東に分けて各地域社会の様相を整理した。その結果,漢鏡6・7期鏡が流入する段階には,瀬戸内海沿岸地域の優位性を保ちつつ,北部九州から関東地方に至るネットワークが存在していたことを指摘した。そこに,卓越した配布主体は見出しにくく,後に卑弥呼を「共立」させる状況にも通ずる,「分有」された状況を想定したのである。漢鏡6・7期鏡が流入する段階は,北部九州で分配システムが終焉を迎え,瀬戸内海ネットワークを中心に汎日本列島規模の紐帯が形成された。2世紀の庄内式期に生じた分配システムの変革を,列島内交易ルートの変質とも関連した一つの画期であることを改めて指摘した。
春成, 秀爾 Harunari, Hideji
3~6世紀の古墳に立てた埴輪のうち,4~6世紀のとくに円筒埴輪に,数は少ないけれども絵を描いた例がある。鹿と船がもっとも多く,鹿狩りをあらわした絵もある。それ以外の絵はとるにたらないほどであるけれども,そのほかに記号風の表現がある。鹿と船の絵は弥生時代,前1世紀の土器にしばしば描かれた。しかし,それらは1~2世紀になると記号化し,3世紀になると消滅していた。弥生土器と埴輪の画風とはよく似ている。それは,どちらも原始絵画に共通する多視点画・イメージ画だからである。弥生土器が農耕の祭りに使ったのに対して,埴輪は亡くなった首長など支配者の墓に立てるものである。鹿狩りの絵は弥生土器が神話のなかの狩人を描いているのに対して,埴輪のばあいは被葬者の首長を描いているのであろう。西日本の弥生遺跡から鹿の骨が発掘されることは少ない。稲作を始めた弥生時代には,鹿を土地の精霊とみなし,狩ることを制限していたのであろう。それに対して,埴輪の絵から推定すれば,古墳時代になると,首長だけは鹿を狩る資格をもっており,土地の主を殺すことは,その土地を奪うことを象徴的にあらわしていた,と考える。その一方,奈良県東殿塚古墳(4世紀)の埴輪に描いてある絵の船は,舳先に鶏がとまって水先案内役をつとめている。鶏は朝を告げる神聖な鳥である。被葬者を日つまり生の世界に導くために船にのせているのだとすれば,この時期には被葬者の再生を願う観念があったのかもしれない。九州の6世紀の古墳壁画には,太陽の照る日の世界から,月がでている夜の世界に向かって被葬者をのせた船が航行していく様子を描いている。近畿と九州,4,5世紀と6世紀とのあいだには,違う死生観が存在していたのであろう。
権, 五栄
本稿では,栄山江流域の政治体の性格や,三国時代における倭と栄山江流域の交流についての既存の見解を整理し,今後の研究の進展のための概念の定義,研究方法論の提示を試みた。具体的には,近肖古王の南征,栄山江流域の物質資料,韓日関係史における渡来人や倭系文物などについてのこれまでの解釈について再検討し,課題と展望を整理した。その中で,特に栄山江流域を含む韓半島西南部における倭系古墳について注目し,その被葬者の性格についてA~Fの類型化を試みつつ,その多様性についての考慮がさらに必要なことを指摘した。あえて述べれば,栄山江流域の前方後円形古墳の問題は,古代韓日関係史に関連する様々なテーマのひとつにすぎず,前方後円形古墳または倭系古墳の被葬者像やその出現背景を,単純明快に提示する時期はすでに過ぎたのであろう。倭系古墳に認められる多様性は,そのまま当時の韓半島南部と日本列島の交渉が非常に多元的であったことを示している。すなわち,国籍,血統,身分などが多様な人びとが,多様な目的(政治外交,戦争,商業など)を持って,多様な経路を利用して往来を重ねる,そのような躍動的な活動の結果が反映されたものと把握すべきである。その実態を着実に解明していくためには,栄山江流域や韓半島南海岸などの限定的な地域のみを対象とするよりもむしろ,韓半島南部と日本列島全体を視野に入れた幅広い研究が必要であろう。
若狭, 徹
東国の上毛野地域を軸に据えて,古墳時代の地域開発と社会変容の諸段階について考察した。前期前半は東海西部からの大規模な集団移動によって,東国の低湿地開発が大規模に推し進められるとともに,畿内から関東内陸部まで連続する水上交通ネットワークが構築された。在来弥生集団は再編され,農業生産力の向上を達成した首長層が,大型前方後方墳・前方後円墳を築造した。前期後半から中期初頭は,最大首長墓にヤマトの佐紀古墳群の規格が採用され,佐紀王権との連携が考えられる。一河川水利を超えた広域水利網の構築,広域交通拠点の掌握という2点の理由によって,上毛野半分程度の範囲で首長の共立が推し進められた。また,集団合意形成のための象徴施設である大規模な首長居館が成立している。中期前半には東国最大の前方後円墳の太田天神山古墳が成立したが,河内の古市古墳群を造営した王権との連合の所産とみられる。この頃から東国に朝鮮半島文物が移入されることから,倭王権に呼応して対外進出・対外交流を行うために外交・軍事指揮者を選任したことが巨大前方後円墳の成立背景と考えた。中期後半には渡来人や外来技術が獲得されたため,共立の必要性は解消し,各水系の首長がそれぞれ渡来人を編成して地域経済を活性化させている。後期の継体期には,東国最大の七輿山古墳が成立したが,その成立母体が解消すると,複数の中型前方後円墳が多数併存するようになる。こうした考古学的な遺跡動態や,古代碑・『日本書紀』『万葉集』などの文献の検討を合わせて,屯倉の成立と地域開発の在り方を考えた。武蔵国造の乱にも触れ,緑野屯倉・佐野屯倉の実態ならびに上毛野国造との関係性についても論及した。
阿久津, 久 片平, 雅俊 Akutsu, Hisashi Katahira, Masatoshi
茨城県は6世紀前半頃になると霞ケ浦を中心にした地域と,県西,県北の地域にそれぞれの特色が現れる。霞ケ浦沿岸では,三昧塚古墳にみられるような箱式石棺を埋葬施設に使い始めてから,この地域は,箱式石棺が主流となり,後期前方後円墳,円墳に設置されている。このような系譜をもつ地域の中に,僅かであるが,前方後円墳では出島村風返稲荷山古墳,大師の唐櫃古墳(彩色壁画),三昧塚古墳に近く沖洲古墳群に入る大日塚古墳,円墳では桜川村前山古墳には横穴式石室が設けられており,この地域での特殊性を示している。一方,県西北部から県北にかけては,前方後円墳,円墳とも横穴式石室が主流となり,箱式石棺は少なくこれに横穴墓が加わる。前方後円墳に箱式石棺が使用されているのは久慈川流域にある大子町仲山3号墳にみられるが,この古墳群は,むしろ那須地域の影響を受けたものと考えている。トータル的に分けた2つの地域のうち,後者の地域と筑波には,方墳に横穴式石室をもち,一部に壁画が描かれるものが7世紀前半頃に共通して現れる。新治国内では関城町船玉古墳(彩色壁画),筑波国内ではつくば市佐渡ケ岩屋古墳,那珂国内では水戸市吉田古墳(線刻壁画)がある。これに加えて勝田市虎塚古墳の横穴式石室のように後年に改装して彩色したものや,高国の日立市かんぶり穴横穴墓(彩色壁画)のように特異な性格をもつものがある。この頃,国府がおかれた石岡市の南,千代田村の境に流れる恋瀬川を中心に群集墳が形成される。古墳形状は円墳,変形小型前方後円墳などバリエーションがみられ,箱式石棺が主体となっている。また,佐渡ケ岩屋古墳のある平沢・山口地区には,円墳に横穴式石室と,箱形横穴式石室がみられ,この箱形横穴式石室は,新治村武者塚古墳,土浦市石倉山古墳の地下式箱形横穴式石室に共通するものである。この形状は千代田村粟田栗山群集墳にもみられる。これらはいずれも7世紀後半にみられるもので,常陸国府が石岡の地におかれた素地をこの終末期の群集墳の中に求められるようである。
寺内, 隆夫 Terauchi, Takao
長野盆地南部では,千曲川によって形成された自然堤防と後背湿地を利用して,稲作を主体とする耕地開発が盛んに行われてきた。しかし,各時代に創出された耕地は,千曲川の氾濫による洪水,あるいは寡雨な気候や千曲川の河床低下による旱魃などの被害を受け続けてきた。本稿では,更埴市に所在する更埴条里遺跡・屋代遺跡群の発掘成果にのっとって,縄文時代から近代に至る環境の変化と各時代の開発方法,さらに災害との関係を,時代順に概観する。氾濫と埋積の進む縄文時代においては,中期後葉に低地全域での炭化物量が増え,クリが急増する傾向が認められた。その要因としては,ヒトによる植生への干渉が進んだことが考えられる。縄文時代晩期の堆積によって自然堤防と後背湿地が固定化されると,水田開発の環境が整う。大規模な耕地開発には,①弥生時代中期における低地林の伐採と水路掘削の開始,②森将軍塚古墳築造に近接した時期(古墳時代前期)における水路・小区画水田の展開,③郡司層の主導による古代(7世紀後半~8世紀前半)の河道内低地の水田化と各種産業の育成,④古代(9世紀代)における条里耕地の整備,⑤荘園領主によると見られる中世前半の畠地拡大,⑥屋代氏によると見られる畠地の再整備と旧河道・「島」の開発,⑦近世以降に認められる畠地の再水田化,があげられる。しかし,9世紀後半の大洪水(いわゆる仁和の大洪水)を代表とする洪水被害,あるいは渇水などにより,新たに開発された土地において,長期間安定した水田耕地を確保できた例は存在しない。各時代ともに,有力者層が主導した大規模開発では,多大な投資や労働力の結集に見合っただけの成果を納められなかったのである。大規模な耕地開発が,いずれの時代においても災害や環境の変化に対処仕切れなかったことは,今後の開発のあり方にも再考をうながすものであろう。
島袋, 春美
弥生時代前期から古墳時代にかけて沖縄諸島と九州及び近畿との先史貝交易について,供給地側の有り様を具体的にさぐるため,貝殻集積の分析を行った。加工の施されたゴホウラ類は提示されている素材・粗加工品に分類し,イモガイ類集積は大きさを計測し,大きさの度数分布を類型化した。また,消費地のイモガイ腕輪の大きさをイモガイ類集積の大きさの基準とした。さらに,貝殻集積の集積個数や組成,貝質などを含めて,貝殻集積の残存状態を分類した。貝殻を集めた段階,貝殻を選別した段階,貝殻の選別途中の段階,貝殻の選別後の段階に分類される。前3者は交易前,後者の選別後の段階が交易後の集積と推定される。時代ごとにみると弥生前期前葉~中葉併行期は貝交易の開始期で,ゴホウラの大原型素材の集積で,貝殻を選別した段階,イモガイ腕輪の大きさを満たすイモガイ類集積が確認された。弥生前期後葉~中期中葉併行期は貝交易が北部九州に広がる。ゴホウラの素材・粗加工品の生産が供給地の沖縄に移る。ゴホウラの古座間味型素材の集積が嘉門貝塚で多数確認されている。若貝が主体で,集積個数が少なく,貝殻の選別後の段階である。弥生中期後葉併行期は貝交易のピークとされている。貝殻集積の数は少ないが交易前の集積である。逆に,選別後の段階の集積がなく,貝殻を効率よく交易していたことが窺える。弥生中期末~後期中葉併行期は弥生貝交易が終焉に向かう時期である。イモガイ類集積には集積個数が多く,イモガイ腕輪の大きさを満たすものが複数確認されている。貝殻を集めた段階の集積で,取り引きされなかったことが明らかにされた。古墳前期~中期は古墳貝交易が再開された。ゴホウラの背面貝輪粗加工品の集積は貝殻を選別した段階である。イモガイ類集積は大型のイモガイが抜き取られるが,集積個数が多く,貝殻の選別途中の段階である。古墳後期はイモガイ腕輪より小型のイモガイ類集積が確認された。貝輪以外の製品の可能性が推定され,度数分布の類型から,貝殻を集めた段階と選別後の集積に分かれる。以上,7時期に区分された先史貝交易の変遷を貝殻集積の分析によって,より具体的に示すことができた。
中久保, 辰夫
本論は,日本列島・古墳時代および韓半島・三国時代の古墳・集落出土土器資料を対象に,5世紀代における栄山江流域を中心とする全羅道地域と日本列島中央部に位置する近畿地域との相互交流の実態を探ろうとするものである。そのために,次に述べる考古資料を対象に分析をおこなった。第一に,5世紀代における東アジア情勢を概観したうえで,????・有孔広口小壺という儀礼用土器に着目して,この土器が5世紀代に日本列島広域と全羅道地域を中核とする韓半島各地に共有される考古学的現象を捉えた。第二点目として,2000年代以降,栄山江流域を中心に資料数が増加した須恵器の時期比定を再検討し,日本列島における須恵器生産の再評価も加味して,須恵器に関しても日本列島と百済・全羅道地域の相互交流を確かめた。以上の土器からみえる相互交流は,近畿地域において有機的な関係をもって展開する集落出土韓半島系土器,手工業生産拠点,初期群集墳の動態と結びつけて捉えることが可能である。そこで第三の論点として,土器,集落,小規模古墳に関する近年の研究動向をふまえた上で,百済・栄山江流域との相互作用が,近畿地域内部における社会資本投資を促したという理解を提示した。以上の考古学的検討により,これまで古墳・墳墓出土資料では不鮮明であった5世紀代における全羅道地域における倭との相互交流が明確となり,さらに倭人社会における社会変化に人的交流が果たした役割が少なくないことをあらためて確かめた。6世紀代においては百済と倭のより直接的な相互交流が活性化するが,こうしたあり方は必ずしも5世紀代からの連続的な過程として捉えることは難しく,近畿地域においても中央およぶ地域社会をまき込んだ動的な変化が認められる。
高久, 健二
本論文は韓国慶尚北道慶州市に位置する皇南大塚の築造工程と古墳で執り行われた埋葬・儀礼行為を検討することによって,5世紀代の新羅の大型積石木槨墓における埋葬プロセスを総合的に復元し,その特徴と意義について考察したものである。皇南大塚を検討した結果,大型積石木槨墓の埋葬プロセスは大きく3段階にわたって進行したことが明らかとなった。まず,第1段階は1次墳丘と埋葬主体部の構築,および被葬者の埋葬,副葬品の埋納行為が行われる段階であり,木槨の構築,木槨側部積石部の構築,1次墳丘の構築が同時併行で行われたものと推定した。また,この第1段階には被葬者の埋葬行為にともなう古墳築造の中断面が存在し,大型積石木槨墓は被葬者の埋葬行為が築造工程の過程で行われる「同時進行型」古墳であることを示している。第2段階は1次墳丘の密封行為が行われる段階であるが,その最後に儀礼が行われた古墳築造の休止面が存在しており,1次墳丘上面が埋葬プロセスにおける重要な儀礼の場であったことを示している。第3段階には2次墳丘の構築が行われており,古墳構築の最終段階の工程と儀礼が行われる段階である。積石木槨墓は埋葬行為が行われる段階には,すでに1次墳丘が築かれており,地下式木槨墓のような典型的な「墳丘後行型」古墳とは,埋葬・儀礼行為が行われる場が異なっていた。また,皇南大塚南墳と北墳は相互に継承関係があることは明らかであるが,南墳と北墳の被葬者が夫婦である可能性は低く,5世紀代の新羅では夫婦合葬が普及していなかったと推定される。大型積石木槨墓は原三国時代後期から続く木槨墓の最終形態であるとともに,厚葬墓の頂点に位置づけられる墓制である。皇南大塚南墳は古墳規模や副葬品の質・量だけでなく,埋葬プロセスの複雑性においても大きく飛躍しており,皇南大塚南墳が新羅王陵の出現を,北墳がその確立を示している。
春成, 秀爾 Harunari, Hideji
小林行雄は,1955年に「古墳の発生の歴史的意義」を発表した。伝世鏡と同笵鏡を使い,司祭的首長から政治的首長への発展の図式を提示し,畿内で成立した古墳を各地の首長が自分たちの墓に採用していった意義を追究したのである。この論文は,古墳を大和政権の構造と結びつけた画期的な研究として,考古学史にのこるものと今日,評価をうけている。小林は,この論文で,鏡と司祭者とのかかわりを説明するために,『古事記』・『日本書紀』の神代の巻に出てくる天照大神の詔を引用した。しかし,神の名を意図的に伏せた。この論文以後も,小林は伝世鏡について言及したが,天照大神の言葉を使うことはなかった。1945年の敗戦前には,国民の歴史教育の場では,日本の歴史とは天皇家の祖・天照大神で始まる記紀の記述を歴史的事実とする「皇国史」のことであった。そこには,石器時代に始まる歴史が介在する余地はなく,考古学の研究成果は抹殺されていた。敗戦後,石器時代から始まる日本歴史の教育がおこなわれるようになる。しかし,科学的歴史を否定し,「皇国史」を復活させようとする政治勢力が再び勢いをもりかえしてくる。小林は,敗戦前から,記紀の考古学的研究につよい関心をもち,それに関する論文を書いてきた。けれども,実証を重んじる彼の学問で,実在しなかったはずの天照大神の言葉を引用することは,一つの矛盾である。さらに,神話教育を復活させようとたくらむ勢力に加担することにもなる。小林はそのことに気づいて,伝世鏡の意味づけに天照大神の言葉を用いるのをやめたのではないか。昭和時代前・中期の考古学研究は,皇国史観の重圧下で進められたことを忘れてはならない,と思う。
上野, 祥史
古墳時代に副葬した鏡は,古墳時代社会の政治構造を究明する重要な資料の一つである。製作・入手時期と副葬時期を隔てた保有鏡が少なくないため,長期保有鏡の解釈は政治関係や社会体制の議論に大きな影響を与える。ことに,製作時期と副葬時期が隔たる中国鏡ではそれが顕著である。本論では,鏡の分配時期を認識するプロセスを整理し,中国鏡にも倭鏡にも適応が可能な,生産現象にも副葬現象とも整合する理解の構築を目指した。先ず,古墳に副葬した中国鏡と倭鏡を対象に,鏡にみる4つの時間相を整理し,分配時期の抽出プロセスを比較検討した。分析において副葬時期のもつ意味・意義が大きいことを改めて確認し,鏡の分配は,製作・入手時期に対応した分配を主体としつつ,一部が長期にわたり分配を継続するという理解モデルを提示した。その理解モデルを,倭鏡の創出における中国鏡の保有と,主題を共有する中国鏡と倭鏡の副葬推移の比較という,二つの視点を重ねて検証した。模倣の対象という視点から,中国鏡の入手時期・分配時期の定点が与えられることを示し,同じ主題を共有する中国鏡と倭鏡の相互関係を検討した。盤龍鏡を対象とした分析では,両者が相互に補完しつつ,長期にわたり副葬を継続したことを示した。製作・入手時期と対応する短期分配を中心としつつも一部は保有を継続し分配に供したという,鏡分配の理解モデルを検証し,分配主体による保有の継続は,分配の継続を目的とするだけではなく,分配主体も器物を保有する「分有」の性格を帯びた分配故の,本質的なものであることを指摘した。鏡の長期分配を認めうることから,分配論に基づく政治秩序の変動を,継続性の視点から展望した。
髙木, 恭二 Takaki, Kyouji
現段階ではマロ塚古墳の場所を特定することは不可能であるが,筆者は少なくとも菊池川中流域付近で,その支流である合志川の左岸付近にこの古墳は存在したであろうと考えている。小論では,このマロ塚古墳を含む菊池川中流域の古墳や横穴墓等の変遷,首長墓の系譜,それに流域一帯の古墳文化の特性について整理を行った。菊池川を含む肥後地域における主要古墳は13の地域に集中しており,そのうちの関川と菊池川下流域,それに菊池川中流域の三つの地域が肥後全体の中でも主要古墳の分布する地域として注目され,ここでとり上げることとした。詳細に見ていくと,この3地域は,関川流域ではその一群だけが一つの集中地帯であり,菊池川下流域は6地域に,中流域では11地域に細かく地域設定が可能である。以上の18の各小地域において個性的で特徴的な古墳が築造されており,出土遺物にも注目すべきものがある。その中でもこの地域の古墳文化の特性を①石棺の系譜,②石屋形の系譜,③装飾古墳の分布,④首長墓の分布と地域的まとまり,⑤交通路,の5項目について検討を行い,特にその中でも交通路について詳細にふれた。すなわち,交通路については(ア)埴輪が運ばれた道,(イ)須恵器が運ばれた道,(ウ)塩が運ばれた道,(エ)切石造り複室構造横穴式石室の伝播,(オ)想定されるいくつかの陸路,など5点にしぼって分析を試みたが,これによって,7世紀後半頃に築かれた鞠智城が交通の要衝としての存在意義がいっそう高まってくることを示した。菊池川流域の古墳を概観して気づくのは,朝鮮半島を中心とする外来系遺物が集成編年6期の段階において既に菊池川中流域にあたる合志川流域において流入しており,そのような状況の中から豊富な武器・武具をもつマロ塚古墳が現出したのであろうと見られる。
高木, 正文 Takaki, Masafumi
装飾古墳の研究は,多くの人が手がけ,多くの論考が発表されているが,年代観が研究者により大きく異なり,あまり進展がみられない。それは編年的研究の遅滞に起因しているとみられる。肥後(熊本県)では,全国で最多の190基程の装飾古墳が確認されており,装飾古墳研究上重要な所である。本稿では肥後の装飾古墳について,石室構造と装飾文様の両面から新旧関係を明らかにし,各地域ごとに編年を組み立て,それらの相互比較からその初源地とそこからの波及状況について提言する。概要を述べると,初源地は肥後南部の八代市で,横穴式石室の石障や箱式石棺の内壁に鏡とみられる円文を彫刻したもので,円文以外に弓・靭・短甲・直刀などもあり,5世紀前半に位置づけられる。その後,装飾古墳は天草や宇土半島へと分布域を広げ,5世紀後半にはさらに北上して熊本市の北部まで広がりをみせる。それまで彫刻文に赤の彩色のみであったのが,この段階で青や黄の彩色も加わり華麗な装飾になる。6世紀に入ると,肥後北部の玉名市や山鹿市付近にも装飾古墳が出現する。横穴式石室の奥に設けられた石屋形を中心に装飾が施され,装飾も線刻文を彩色したものや彩色のみで描いたものへと変化する。この肥後で発展した装飾古墳は,肥後独特の石室構造と共に九州北部地域へと広まり,6世紀中頃には新たに大陸の思想の影響を受けた装飾文も付加されるようである。さらに九州の装飾古墳が日本列島各地の装飾古墳造営に影響を与えたものと考える。
右島, 和夫
群馬県高崎市の綿貫観音山古墳は,6世紀後半の関東地方を代表する前方後円墳であり,全国的にも著名である。昭和43年からの一連の発掘調査で,後円部の横穴式石室から手つかず状態の豪華で豊富な副葬品が出土した。その内容は,朝鮮半島(取り分け南部の百済・新羅・加耶地域)との深い関係性が窺われ,極めて高い制作技術による優品群である。本墳の被葬者,関係者の人物像として朝鮮半島との深いつながりが想起される。石室内の副葬品には,大いに関心が寄せられてきたが,一方でそれらが納められていた横穴式石室については,構造的特徴を明らかにするところまでに止まり,系譜的関係や築造背景について検討される機会は少なかった。本稿では,このことを中心的課題とする。観音山古墳の横穴式石室は,上毛野地域で5世紀末葉~6世紀初頭から始まる横穴式石室の変遷過程の中にあって,断絶性・異質性が顕著である。6世紀第2四半期の榛名山噴火で噴出した角閃石安山岩を主要石材としており,「角閃石安山岩削石積石室」と呼称されてきている[尾崎1966,右島1993]。当該石室は,観音山古墳にとどまらず,周辺地域の有力古墳にも数多く確認できる。加えて,それぞれの古墳副葬品にも顕著な半島色が見い出せる。新羅製の出字式金銅冠を出土した前橋市山王金冠塚古墳もその一つである。これらの古墳相互の間に,観音山古墳を中心とした強い結びつきが想定される。上毛野地域と朝鮮半島との直接的関係性は,5世紀までさかのぼる[群馬県立歴史博物館2017]。当地域に渡来人が数多く迎えられ,組織的な馬生産等に関与したことが明らかにされている。その受け入れ先が,当地域中・西部の首長層であった。保渡田古墳群形成の端緒となった井出二子山古墳の副葬品には,加耶・新羅系の最先端の品々が豊富である。一方,当地域初現例の一つである前橋市前二子古墳の横穴式石室は,加耶西部の固城松鶴洞1B号墳1号石室との直接的関係が指摘されている。このような両地域間の関係性は重要である。観音山古墳をめぐる上記のような考古・歴史的状況を踏まえたとき,本墳横穴式石室は,加耶地域南西部の横穴式石室との類縁性が強くうかがわれる。観音山古墳を構成する様々な要素における,半島南部との関係性から,その成立背景にも迫ることが可能である。
永沼, 律朗 Naganuma, Ritsuo
本稿の目的は,成東町駄ノ塚古墳に関連して,印旛沼周辺の終末期古墳の様相を明らかにすることにある。そのため,基本的に印旛沼周辺の終末期古墳の紹介に主眼を置いた。結論としては,この地域の終末期古墳は方墳が多いこと。埋葬施設の石材に,貝化石を含む砂岩が使用されている古墳があることを指摘した。方墳の中でこの種の石材を使用している横穴式石室は,石材を横置きに使用し側壁を持ち送りで構築する点や床に間仕切りを有するといった点にも共通点があり,一つのグループとしてとらえることができると考える。その地域は広く見れば利根川流域から手賀沼・印旛沼周辺,狭く見れば印旛沼周辺の一部と推測する。房総半島全体をみても終末期の方墳は多い。方墳は石室の特徴から印旛沼周辺のグループを含め二つのグループと一つの特殊な地域に分けることが可能であり,その中の大型方墳が盟主墳的な存在であろうと考える。また,それらの古墳被葬者の系譜下で,房総半島では初めて古代寺院の建立が行なわれたであろうとも推測した。
土生田, 純之
西毛地域の古墳出土品を鉛同位体比分析した。分析した古墳は一部に5世紀後半(井出二子山古墳・原材料は朝鮮半島産)や6世紀前半のものも含むが大半は6世紀後半~7世紀初頭に属する。さらにその中で角閃石安山岩削り石積み石室を内蔵する古墳が多い。この石室は綿貫観音山古墳や総社二子山古墳を代表とする西毛首長連合を象徴する墓制と考えられている。特に観音山古墳からは中国北朝の北斉製と考えられている銅製水瓶や中国系の鉄冑などをはじめ,新羅製品も多い。新羅製品は他の角閃石安山岩削り石積み石室出土品にも認められている。かつて倭は百済と良好な関係を結ぶ一方,新羅とは常に敵対関係にあったと考えられてきたため,学界ではこの一見矛盾する事実の解釈に苦しんできたが,筆者は「新羅調」「任那調」に由来するものと考えた。特に今回分析に供した小泉長塚1号墳の出土品中に中国華北産原料を用いた金銅製冠があったが,新羅は当該期の倭同様,銅の原料が少なく何度も遣使した北朝から何らかの形で入手した原材料を用いて制作したものを「新羅調」等として倭にもたらしたものと考えた。もちろん直接西毛の豪族連合にもたらしたのではなく,倭王権にもたらされたものが再分配されて西毛の地にもたらされたものと考えている。西毛は朝鮮半島での活動や対「蝦夷」戦に重要な役割を演じ,そのことを倭王権が高く評価していたことは『日本書紀』の記事からも窺える。こうして6世紀後半~7世紀初頭における西毛の角閃石安山岩削り石積み石室出土品から,当該期の国際情勢を窺うことができるのである。なお,井出二子山古墳出土品に使用された銅が朝鮮半島産である可能性が高いことは,当該期の状況(加耶や百済との交流を中心とする)から見て矛盾しないものである。
久保, 純子 Kubo, Sumiko
東京低地における歴史時代の地形や水域の変遷を,平野の微地形を手がかりとした面的アプローチにより復元するとともに,これらの環境変化と人類の活動とのかかわりを考察した。本研究では東京低地の微地形分布図を作成し,これをべースに,旧版地形図,歴史資料などから近世の人工改変(海岸部の干拓・埋立,河川の改変,湿地帯の開発など)がすすむ前の中世頃の地形を復元した。中世の東京低地は,東部に利根川デルタが広がる一方,中部には奥東京湾の名残が残り,おそらく広大な干潟をともなっていたのであろう。さらに,歴史・考古資料を利用して古代の海岸線の位置を推定した結果,古代の海岸線については,東部では「万葉集」に詠われた「真間の浦」ラグーンや市川砂州,西部は浅草砂州付近に推定されるが,中央部では微地形や遺跡の分布が貧弱なため,中世よりさらに内陸まで海が入っていたものと思われた。以上にもとづき,1)古墳~奈良時代,2)中世,3)江戸時代後期,4)明治時代以降各時期の水域・地形変化の復元をおこなった。
中塚, 武
樹木年輪セルロースの酸素同位体比は,夏の降水量や気温の鋭敏な指標として,過去の水稲生産量の経年変動の推定に利用できる。実際,近世の中部日本の年輪酸素同位体比は,近江や甲斐の水稲生産量の文書記録と高い相関を示し,前近代の水稲生産が夏の気候によって大きく支配されていたことが分かる。この関係性を紀元前500年以降の弥生時代と古墳時代の年輪酸素同位体比に当てはめ,本州南部の水稲生産量の経年変動ポテンシャルを推定し,さらに生産―備蓄―消費―人口の4要素からなる差分方程式を使って,同時期の人口の変動を計算した。ここでは農業技術や農地面積の変化が考慮されていないので,人口の長期変動は議論できないが,紀元前1世紀の冷湿化に伴う人口の急減や,紀元前3—4世紀,紀元2世紀,6世紀の気候の数十年周期変動の振幅拡大に伴って飢饉や難民が頻発した可能性などが指摘でき,集落遺跡データや文献史料と対比することが可能である。
八木, 光則
6世紀末から10世紀にかけて,東北北部から北海道央ではいわゆる末期古墳が造られていた。90年近い末期古墳の研究史の中で,近年特に注目されている三つのテーマについて再検討を行った。一つは末期古墳の系譜を東国に求める動きに対してである。検討の結果,青森県八戸地域と岩手県胆沢地域とでは別系譜であることが認められた。八戸地域では無煙道~短煙道竃の竪穴住居跡と横穴式石室を模したような張り出しをもつ土壙型末期古墳が多くみられ,関東からの影響が強いこと,側壁抉込土坑が分布することから常総地方などに系譜が求められることが考えられた。胆沢地方では,竃焚口に長礫を横架する構造を福島県南部などから受容しているが,土壙型は伸展葬と墳丘という広く古墳文化の影響を受けながら,伝統的な土壙墓が変革されたものと考えられた。川原石積みの礫槨型は関東西部などからの影響の可能性を確認するにとどまった。東北北部以北の蝦夷社会成立にあたっては東国からの影響が大きかったが,一方で移民を示すような関東系土師器は僅かで,多くの人々の移住や移民は想定できないことも明らかになった。二つめは,主体部を残さない形の末期古墳(周湟墓)の位置づけである。8世紀後葉以降に大規模な古墳群が減少し,また中規模の墓域が集落の一画に造られ,さらには数基の家族墓的なあり方に変化する。村落での墓域共有の理念が失われ,集落ごと,家族ごとで墓域を形成するようになった。この背景として8世紀後半の竪穴住居総数の減少があり,地域社会の大きな変革期であったことがあげられる。三つめは,岩手県南端や宮城県北端の地域(栗原等五郡域)の群集墳が北上盆地の礫槨型末期古墳とは異なることを指摘した。群集墳築造は柵戸移民や城柵造営,三十八年戦争などにともなって,在地住民が郡司などの役職に就き,群集墳の葬制を取り入れたことが想定される。以上,末期古墳をとおして,蝦夷社会の成立や変容,陸奥中部北端での内国化の様相を考察した。
新納, 泉
レーザー計測などの新しい技術の採用によって,前方後円墳の立体的な形状をきめ細かく把握することが可能になってきた。本稿では,そうしたデータにもとづいて,大規模な前方後円墳を例に設計原理とその系列の復元を行う。主として取り上げるのは,近年レーザー計測などが実施された,大阪府藤井寺市仲津山古墳(仲姫皇后陵古墳),同堺市上石津ミサンザイ古墳(履中陵古墳),岡山市造山古墳,大阪府羽曳野市誉田御廟山古墳(応神陵古墳)の4基であり,それぞれの古墳の設計原理の解明と相互の関係を検討した。設計原理を読み解くにあたっては,主として,コンピュータのプログラムを用いて描画される復元図を,測量図に重ね合わせるという手法を用いた。設計原理に用いられた長さの単位を知るには,後円部の中心点と,前方部の隅角の各段を結ぶ稜線が主軸と交わる前方部中央交点(P点)との間の距離が最も信頼性の高い手がかりとなる。これらの点は少ない誤差で絞り込めることと,その2点間の距離が後円部の半径の1.5倍となる例が多く,墳端の位置がはっきりしない場合でも,後円部の半径を推定しやすいからである。以上の方法を用いることにより,次のような点を明らかにすることができた。(1)歩を長さの単位とし,直角三角形の底辺と高さの比で角度を決定している,(2)0.5歩の倍数で段築のテラスの幅を決定し,それを長さの基本単位としていたが,基本単位の長さは後円部と前方部前面で異なるのが普通である,(3)設計原理のままでは要請された墳丘長に合わないことが多いため,実施設計において墳丘を引き伸ばすなどの一定の調整がなされていた,(4)それぞれの古墳の築造に際しては,既存の設計原理を適用するのではなく,そのたびに新たに設計原理が構想されていた,(5)設計原理の継承には系統性が存在するが,その内容は複雑なものである。
平川, 南 Hirakawa, Minami
中世の幕府は、なぜ鎌倉の地に設置されたのか。おそらくは、鎌倉の地を経由する海上ルートは、中世以前に長い時間をかけて確立されてきたものと想定されるであろう。小稿の目的は、この歴史的ルートを検証することにある。最近発見された、三浦半島の付け根に位置する長柄・桜山古墳は、三浦半島から房総半島に至る四〜五世紀の前期古墳の分布ルートを鮮やかに証明したといえる。また、八〜九世紀には、道教的色彩の強い墨書人面土器が、伊豆半島の付け根の箱根田遺跡そして相模湾を経て房総半島の〝香取の海〟一帯の遺跡群で最も広範に分布し、さらに北上して陸奥国磐城地方から陸奥国府・多賀城の地に至っている。また古代末期の史料によれば、国司交替に際しても、相模―上総に至る海上ルートが公的に認められていたことがわかる。このルートは『日本書紀』『古事記』にみえるヤマトタケルの〝東征〟伝承コースと符合する。これは古東海道ルートといわれるものである。上記の事例の検討によって、ヤマトから東国への政治・軍事・経済そして文化などの伝来は、古墳時代以来伊豆半島・三浦半島・房総半島の付け根と海上を通る最短距離ルートを活用していたことが明らかになったといえる。この西から東への交流・物流の海上ルートの中継拠点が鎌倉の地である。中世の鎌倉幕府は、そうした海上ルートの中継拠点に設置され、西へ東へ存分に活動したと考えられる。
池上, 悟 Ikegami, Satoru
南武蔵地域に於ける古墳文化の特色は,三角縁神獣鏡を有する前期古墳,あるいは甲冑を有する中期古墳の所在も若干知られているものの,最大の特色は後期の群集墳の存在であり,就中横穴墓の集中的な造営である。この後期の段階でようやく全域的に古墳の造営が可能となったものであり,集落址の調査などの成果を勘案すると,安定した地域発展の結果としての横穴墓の造営というよりも,むしろ唐突に高揚する群集墳の盛行状況を窺うことができる。しかもこの存在状況は個別横穴墓が無秩序に展開するものでなく,地区の首長墓と考えられる横穴式石室を有する高塚古墳との有機的な関連の下で造営されており,その性格を明示するものである。また地区を限り僅かに展開している横穴式石室墳の群集墳は,地区首長を直接的に支える支配的な立場にあった有力な集団を被葬者と想定することができ,横穴墓とは峻別される。一体に地方における群集墳は,地域首長墓の衰退状況との対応でのみ問題にされる例が多い。しかし,これが解釈のみでは単純に過ぎ何等新たな問題の解明には至らない。群集墳は創出の要因により類別が可能であり,大きくは外的要因に基づく例と,地域の内部的要因が考慮される例であり,これは立地・埋葬施設・副葬品などの様相により区分できる。群集墳はまた,一般的に武装した集団の墓とされる例が多い。しかし,南武蔵のみならず,広く東国で群集墳の主体をなす横穴墓の武器の出土状況を見てみると,高塚古墳とは大きく様相を異にする。武器の代表例としての鉄鏃は,勿論高塚古墳例でも出土しない例は僅かに認められるものの,東国の多くの横穴墓からは出土しない例が多い。出土する例においても高塚古墳との格差は極めて大きなものであり,圧倒的な支配的立場の相違を明示するものである。
藤尾, 慎一郎 Fujio, Shinichiro
古墳時代の倭と加耶の交流を語る上でもっとも重要な問題の一つである鉄が,弥生時代の両地域間においても重要であったことは,この地が倭で用いられる鉄資源の供給地であったことからも明らかである。本稿は,鉄を媒介とした交流を考えるうえで弥生時代にさかのぼる重要な四つの問題を取り上げた。まず弥生時代の鉄器の原料であった鉄素材にはどのようなものがあったのかという,鉄素材の種類の問題。第2に鉄素材はどのようにして弥生社会にもたらされたのかという舶載・国産の問題。第3に鉄素材を加工し鉄器を作った施設,すなわち鍛冶炉の問題。第4に鉄器製作技術である。現在,弥生時代の鉄素材にはいくつかの種類があり,鉄素材ごとに由来,処理する鍛冶炉の構造,鉄器製作工程が異なることが明らかにされている。なかでもとくに注目されるのが,後期以降の西日本で類例が増えている板状鉄製品である。その化学成分から,韓半島東南部で作られた可能性が指摘されている板状鉄製品は,のちの加耶地域の鉄素材の前身となりうるものとして注目される。以前より論争のある板状鉄斧鉄素材説をめぐる議論が膠着状態におちいるなかで,これらと板状鉄素材との関係について検討した結果,興味深い事実が判明した。
小林, 青樹 Kobayashi, Seiji
弥生集落の景観形成にあたって重要であるのは,絵画の分析から,第1に集落の中枢に位置する祭殿と考える建物(A2・A3)の存在であり,この祭殿を中心として同心円状に景観を形成している。そして,第2に重要であるのは,祭場をもつ内部と外部を区別化する環濠である。本論では後者を中心に検討した。平野部の環濠集落のなかには,環濠が河川と接続するものがあり,水をたたえた環濠はむしろ河川を象徴化したものであると考えた。環濠は,境界・結界を現す区別化の象徴である。このあり方と連動して,絵画の中には,それぞれの空間における儀式・儀礼に,景観形成で確認した「辟邪」を意図した図像や身体技法をも表現している。弥生集落の景観は,こうした各々の儀式や儀礼に一貫した約束事である「儀礼的実践」を根底におき形成されていたと考える。環濠の境界・結界としての象徴的意味は,銅鐸の埋納・絵画・文様の意味とも相同関係にある。いずれも辟邪としての機能をもち,銅鐸は境界・結界に埋納され,鋸歯文のような文様自体も辟邪の象徴であり,それは祭殿の飾り文様としても機能した。その後鋸歯文は,古墳時代の柵形埴輪の飾りにも引き継がれ,祭場を区別化する境界・結界の象徴として機能した。弥生集落で確認した祭場を中心とした景観形成は,古墳時代に一般集落からの祭場の分離独立という変化を経るが,その根底の儀礼的意味と儀礼的実践は形を変えながらも継承されたと考える。
金子, 克美 Kaneko, Katsumi
古墳出土鉄器の腐食生成物には主としてα-FeOOHとγ-FeOOHとが含まれる。古墳出土鉄器の保存にはFeOOH微結晶の構造と表面化学性が重要な働きをするとみられる。鉄器の腐食に関連する,SO₂,H₂OおよびSO₄²⁻,Cl⁻とFeOOH結晶との相互作用,更にFeOOH結晶の不活性化について論ずる。
高田, 貫太
近年,朝鮮半島西南部で5,6世紀に倭の墓制を総体的に採用した「倭系古墳」が築かれた状況が明らかになりつつある。本稿では,大きく5世紀前半に朝鮮半島の西・南海岸地域に造営された「倭系古墳」,5世紀後葉から6世紀前半頃に造営された栄山江流域の前方後円墳の造営背景について検討した。5世紀前半頃に造営された西・南海岸地域の「倭系古墳」を構成する諸属性を検討すると,臨海性が高く,北部九州地域における中小古墳の墓制を総体的に採用している。よって,その被葬者はあまり在地化はせずに異質な存在として葬られたと考えられ,倭の対百済,栄山江流域の交渉を実質的に担った倭系渡来人として評価できる。そして,西・南海岸地域の在地系の古墳には,多様な系譜の副葬品が認められることから,海上交通を基盤とした地域集団の存在がうかがえる。倭と百済,または栄山江流域との交渉は,このような交渉経路沿いの要衝地に点在する地域集団の深い関与のもとで,積み重ねられていたと考えられる。5世紀後葉から6世紀前半頃,栄山江流域に造営された前方後円墳と,在地系の高塚古墳には,古墳の諸属性において共通性と差異性が認められる。これまで両者の関係は排他的もしくは対立的と把握される場合が多かったが,いずれの造営集団も,様々な交通路を利用した「地域ネットワーク」に参画し,倭や百済からの新来の墓制を受容していたという点において,併存的と評価すべきである。したがって,前方後円墳か在地系の高塚古墳かという違いは,諸地域集団の立場からみれば,新来の墓制に対する主体的な取捨選択の結果,ひいては百済中央や倭系渡来人集団との関わり合い方の違いの結果と評価できる。このような意味合いにおいて,その被葬者は基本的には百済や倭と緊密な関係を有した栄山江流域の諸地域集団の首長層と考えられる。ただし,倭や百済との活発な交渉,そこから渡来した集団の一部が定着した可能性も考慮すれば,その首長層に百済,倭に出自を有する人々が含まれていた可能性もまた,考慮しておく必要はある。
光谷, 拓実 Mitsutani, Takumi
わが国では,歴史学研究者の多くが長年にわたって待ち望んでいた年輪年代法が1985年に奈良文化財研究所によって実用化された。年輪年代法に適用できる主要樹種はヒノキ,スギ,コウヤマキ,ヒバの4樹種である。年代を割り出す際に準備されている暦年標準パターンは,ヒノキが紀元前912年まで,スギが紀元前1313年までのものが作成されており,各種の木質古文化財の年代測定に威力を発揮している。考古学においては,1996年に,大阪府池上曽根遺跡の大型建物に使われていた柱根の伐採年代が紀元前52年と判明し,従来の年代観より100年古いことから考古学研究者に大きな衝撃を与えた。これ以降も,弥生前期・中期の広島県黄幡1号遺跡や古墳中期の京都府宇治市街遺跡などからの出土木材の年輪年代を明らかにし,弥生~古墳時代にかけての土器編年に貴重な年代情報を提供した。また,古建築については法隆寺金堂,五重塔,中門をはじめ,唐招提寺金堂,正倉院正倉などに応用し,成果を確実なものにしてきた。とくに正倉院正倉部材の年輪年代調査は,長年の論争に終止符を打つ結果となり,その成果は大きい。
植田, 弥生 Ueda, Yayoi
若狭湾沿岸には著明な鳥浜貝塚をはじめ多くの低湿地遺跡が分布しており,縄文時代以降の自然木や木製品が多数出土し,これらの樹種同定調査がなされてきた。小論では今までに調査された木材化石群の資料をもとに,各時期の古植生と木材利用の関係を検討した。当地域ではスギ材が豊富に利用されているが,縄文時代の全時期ではそれほど多くなく,弥生時代以降に急速に増加した。縄文時代草創期以前から前期は,トネリコ属が優占する冷温帯性の落葉広葉樹林が復元されており,加工木にもトネリコ属が最も多く利用されていた。しかしこの時期のトネリコ属の利用率は10%前後であり,スギを含め多種多様な樹種が利用されており,加工木の使用樹種と復元植生の構成種とは関連性が高かった。縄文時代中期~後期および晩期になると,埋没林の調査から低地にスギが分布拡大し大径木からなるスギ林が成立し,山地斜面にはアカガシ亜属やシイノキ属などの照葉樹林要素が拡大し,暖温帯性の森林に変化した。しかしスギが増加してもこの時期の加工木にスギが占める割合は前時期と同様に低く,多種多様な樹種が利用されていた。但し,丸木舟はスギに限られている。そして弥生時代中期以降になると加工木に占めるスギの割合はそれ以前は30%以下であったのが一気に85%を占めるようになる。ところがこの時期の堆積層は草本質泥炭に急変しており,それ以前に低地一帯に成立していたスギ林は消滅し低地縁辺に縮小していた。そして古墳時代以降もスギ材利用が圧倒的に多い点では弥生時代と同様であるが,徐々にヒノキ材の割合が増加する傾向が見られる。縄文時代前期以前までは植生変化がすぐに木材利用に現れていたが,縄文時代中期から後期・晩期と弥生時代を境に,植生と木材利用には時間的差が見られ,大きな地史的事件や加工技術や樹種利用の嗜好などの要素が関わっているようであり,この点の解明は今後の課題である。
柴田, 昌児 Shibata, Shoji
西部瀬戸内の松山平野で展開した弥生社会の復元に向けて,本稿では弥生集落の動態を検討したうえでその様相と特質を抽出する。そして密集型大規模拠点集落である文京遺跡や首長居館を擁する樽味四反地遺跡を中心とした久米遺跡群の形成過程を検討することで,松山平野における弥生社会の集団関係,そして古墳時代社会に移ろう首長層の動態について検討する。まず人間が社会生活を営む空間そのものを表している概念として「集落」をとらえたうえで,その一部である弥生時代遺跡を抽出した。そして河川・扇状地などの地形的完結性のなかで遺跡が分布する一定の範囲を「遺跡群」と呼称する。松山平野では8個の遺跡群を設定することができる。弥生集落は,まず前期前葉に海岸部に出現し,前期末から中期前葉にかけて遺跡数が増加,一部に環壕を伴う集落が現れる。そして中期後葉になると全ての遺跡群で集落の展開が認められ,道後城北遺跡群では文京遺跡が出現する。機能分節した居住空間構成を実現した文京遺跡は,出自の異なる集団が共存することで成立した密集型大規模拠点集落である。そして集落内に居住した首長層は,北部九州を主とした西方社会との交渉を実現させ,威信財や生産財を獲得し,集落内部で金属器やガラス製品生産などを行い,そして平形銅剣を中心とした共同体祭祀を共有することで東方の瀬戸内社会との交流・交渉を実現させたと考えられる。後期に入ると文京遺跡は突如,解体し,集団は再編成され,後期後半には独立した首長居館を擁する久米遺跡群が新たに階層分化を遂げた突出した地域共同体として台頭する。こうした解体・再編成された後期弥生社会の弥生集落は,久米遺跡群に代表されるいくつかの地域共同体である「紐帯領域」を生成し,松山平野における特定首長を頂点とした地域社会の基盤を形づくり,古墳時代前半期の首長墓形成に関わる地域集団の単位を形成したのである。
設楽, 博己 Shitara, Hiromi
弥生時代には,イレズミと考えられる線刻のある顔を表現した黥面絵画が知られている。いくつかの様式があるが,目を取り巻く線を描いた黥面絵画A,目の下の線が頰を斜めに横切るように下がった黥面絵画B,額から頰に弧状の線の束を描いた黥面絵画Cがおもなものである。それぞれの年代は弥生中期,中~後期,後期~古墳前期であり,型式学的な連続性から,A→B→Cという変遷が考えられる。Aは弥生前期の土偶にも表現されており,それは縄文時代の東日本の土偶の表現にさかのぼる。つまり,弥生時代の黥面絵画は縄文時代の土偶に起源をもつことが推測される。黥面絵画には鳥装の戦士を表現したものがある。民族学的知見を参考にすると,イレズミには戦士の仲間入りをするための通過儀礼としての役割りがあったり,種族の認識票としての意味をもつ場合もある。弥生時代のイレズミには祖先への仲間入りの印という意味が考えられ,戦士が鳥に扮するのは祖先との交信をはかるための変身ではなかろうか。畿内地方では,弥生中期末~後期にイレズミの習俗を捨てるが,そこには漢文化の影響が考えられる。その後,イレズミはこの習俗本来の持ち主である非農耕民に収斂する。社会の中にイレズミの習俗をもつものともたないものという二重構造が生まれたのであり,そうした視点でイレズミの消長を分析することは,権力による異民支配のあり方を探る手掛かりをも提示するであろう。
白石, 太一郎 Shiraishi, Taichiro
墓室の内部の壁画や彫刻などが,何らかの意味でその墓を造営した人びとの他界観・来世観を反映していることはいうまでもない。この小論は,九州の装飾古墳を取り上げ,そこに表現されている絵画や彫刻の意味を追究し,その背景にある人びとの他界観を追究したものである。北・中九州の装飾古墳は,石棺系,石障系,壁画系の順に展開する。このうち5世紀代に盛行する石棺系や石障系の装飾古墳の中心となる図文は,魂を封じ込めたりまた悪しきものから被葬者を護る辟邪の機能をもつと考えられた直弧文と鏡を表わす同心円文である。やがてこれに武器・武具の図文が加わるが,これも辟邪の意味をもつものであった。また直弧文はその弧線の部分を省略した斜交線文となり,その後の装飾古墳で多用される連続三角文へと変化して行く。6世紀になると墓室内部に彩色壁画を描いた壁画系の装飾古墳が出現する。そこでも基本的なモチーフは5世紀以来の辟邪の図文であるが,新しく船や馬の絵が加わる。船のなかには大洋を航海する大船もみられ,舳先に鳥をとまらせたり,馬を乗せたものもみられる。この船と馬は死者ないしその霊魂を来世に運ぶ乗り物として描かれたものであり,海上他界の思想がこの地域の人びとの間に存在したことを物語る。6世紀後半には,一部に四神の図や月の象徴としてのヒキガエルの絵など高句麗など東アジアの古墳壁画の影響もみられるが,それは部分的なものにとどまった。一方,南九州の地下式横穴には,この地下の墓室を家屋にみたてた装飾が多用される。これはこの地域の人びとの間に地下に他界を求める思想があったことを示すものであろう。同じ九州でも北・中部と南部では,人びとの来世観に大きな相違があっことが知られるのであり,北・中九州の海上他界の考えは,海に開かれ,また東アジア諸地域との海上交易に活躍したこの地域の人びとの間で形成されたものと理解できよう。
村石, 眞澄 Muraishi, Masumi
伊興遺跡をはじめとする足立区北部の発掘調査に携わる中で,微地形分類をおこなった。微地形分類は空中写真を判読し,比高差・地表の含水状態・土地利用を基準として分類を行い,発掘調査での土層堆積の観察所見や旧版の地形図を参照した。こうした微地形分類により,埋没していた古地形を明らかにすることができた。そこでこの埋没古地形の変遷を明らかにするため,花粉化石や珪藻化石などの自然科学分析から植生や堆積環境の検討を行った。そして自然環境を踏まえた上で,発掘調査によって発見された遺構や遺物,中世や近世の文献資料などを総合的に概観し,次のように伊興遺跡を中心とする毛長川周辺の自然環境と人間活動の変遷過程を次の五つの段階に捉え,それぞれの景観印象図を作成した。1 縄文海進のピーク時にはこの地域では大半の土地が海中に没したが,その後徐々に干潟ができ陸化が進んだ時期[縄文時代後期~晩期前半]。一時的な利用で土器を残した。2 毛長川が古利根川・古荒川の本流となり,大きな河道や微高地が形成された時期[縄文時代晩期後半~弥生時代]。人間活動の痕跡は希薄である。3 古利根川・古荒川が東遷し,毛長川は大河でなくなった時期[弥生時代終末期~古墳時代]。本格的に居住が行われるようになる。伊興遺跡は特異な祭祀遺跡として大いに発展する。4 毛長川の旧河道の埋積が進んだ時期[奈良時代~平安時代初期]。伊興遺跡では祭祀場もしくは官衙関連施設は存在するが,遺構・遺物の規模が減少傾向を示す。5 毛長川の旧河道の埋積が進んだ時期[中世]。伊興遺跡ではさらに遺構・遺物は減少し,遺跡の中心が毛長川沿いから離れ水上交通の拠点としての役割を終える。
霍, 巍
奈良県黒塚古墳の発掘によって、大量の三角縁神獣鏡が出土した。しかし、三角縁神獣鏡のルーツを考える上で、これまで全く見過ごされてきた重要な銅鏡が存在する。それは三段式神仙鏡である。本稿はこの三段式神仙鏡のルーツを考察することによって、紀元三世紀の日中の文化交流史に新たな解釈を加えるものである。 三段式神仙鏡は、中国後漢・六朝時代と日本の古墳時代の副葬品に埋蔵されている。それは鏡の中央の紐を挟む平行な日本の線によって、鏡の内区を三段に分け、上・中・下各段に神仙図を配するものである。一般に神獣鏡の一種類として認識されている。 従来の研究者たちは、紀元三世紀頃の中国大陸と日本との交流を議論する場合、三角縁神獣鏡を重視し、それを倭女王卑弥呼が魏王朝と通交していたことを示す動かぬ物証であると指摘してきた。だが、本稿では三段式神仙鏡の出土地の、図像的な比定や、鏡銘文字の解釈などから、この三段式神仙鏡は中原地域の魏鏡ではなく、また長江中・下流域の呉鏡でもなく、実は長江上流域川西平原の「西蜀広漢」で鋳造した「蜀鏡」であると断定した。また、三段式神仙鏡を含む、この時代の神獣鏡、画像鏡の中に描かれている、「西王母」を中心とする「神」と竜虎を中心にする「獣」の宗教的意味を追究することによって、道教的・呪術的な性格が著しく強い鏡であることが指摘できる。さらに日本列島の倭国の女王卑弥呼は「鬼道」という新たな宗教祭祀を導入してきたと同時に、道教もその新宗教祭祀の道具として中国から導入したと考えることが可能である。長江流域から道教の生産技術、その宗教的意味、図文模様などが日本に伝来し、その中に長江上流域の文化要因が含まれていたと考えることができる。 三世紀以来、東アジア国際関係を全面的に観察すれば、むしろ黄河流域、長江流域と古代日本の相互関係を「大三角関係」と認識する方が適当であり、特に長江上流域からの影響を軽視すべきでないといえる。
加部, 二生 Kabe, Nitaka
幕末から明治期にかけて長く日本に滞在し,多くの日本研究の著書をもつ,英国人外交官アーネスト・サトウは,考古学に関する探究も行っている。その調査のために,サトウは実際に,1880年3月6日から10日までの間に,現在の群馬県前橋市にある大室古墳群を訪れている。その報告は,翌月の日本アジア協会の例会において早くも発表され,紀要としてまとめられている。本著は全編英文による論文で,その後,多くの研究者に引用されているものの,いままでに完全な翻訳は存在しなかった。彼が訪れた大室古墳群は,その2年前に石室が開口して,多くの遺物を出土した。地元区長等が迅速に対応したために,遺物類の散逸を防ぎ,出土状況の詳細を後世に伝えることができた。サトウの調査は,これらに携わった人物から直接話を聞いて,現地を見学し,同行させた画家に,出土遺物のスケッチを詳細に行わせ,ガラス製小玉やベンガラのサンプルを持ち帰って,科学的分析を行っている。また,被葬者の考察を行うに当たり,日本書紀等の文献史料を引用して,いわゆる「大化の薄葬令」から古墳の絶対年代の推定を試みている。当時としては,あまりに斬新過ぎる研究に,日本人研究者は驚きの色を隠せなかったようであり,且つ,多大なる影響を及ぼしている。さらに,古墳被葬者の住まいである居館跡について考察しており,結果的にはその位置については間違っていたものの,付近から近年,豪族居館跡である梅木遺跡が発見され,その想定が実証されている。現代の考古学研究者に最も教訓となることは,文献史料を援用しても,あくまで実年代論については,考古学的成果に委ねるべきと警鐘している。大室古墳群は近年,史跡整備のために事前調査されて,墳丘規模と墳丘構造の間に相関関係が認められることが明らかになった。こうした何らかの制限が古墳を築造する際に下され,首長層のみに前方後円墳が構築されていったものと推定される。
金, 洛中
本稿では,栄山江流域勢力および百済と倭の関係について,倭系文物や古墳を主な分析対象として検討を行った。百済地域に遺された倭系文物は,都城よりも栄山江流域など特定地域に偏重している。また,栄山江流域と共通的な墓制や栄山江流域系の文物が副葬された,九州地域の七夕池古墳,梅林古墳,番塚古墳,正籠3号墳などの存在が注目される。このことは,百済―倭の双方交渉の実務的な役割を,地理的に近い栄山江流域と九州地域勢力が主導的に担ったために現出した現象であると考えられる。すなわち,百済と倭の交渉・交流における中心軸はそれぞれの王権であったけれども,地域勢力の参入と百済王権の関与の程度は地域により多様であったと考えられる。栄山江流域における倭系文物には,武装に関連するものが多い。代表的な例は,帯金式甲冑や各種の武器などである。その一方で,日本列島における百済・栄山江流域系の文物は,オンドルなどの住居施設や炊事用土器などをはじめ,渡来集団が移住・定着したことを示すものが多い。このような非対称性は,高句麗との緊張関係にあった百済王権が倭の軍事的支援を必要とした状況や,倭人たちが百済に進出し活動した理由が移住・定着ではなく,比較的短い期間に終えることができる活動(例えば軍事支援)などであったことを示している。
廣瀬, 覚
本稿では,朝鮮半島南西部の栄山江流域で出土する円筒埴輪の展開過程について,近年の新出資料を踏まえて再検討し,現段階での私見を述べた。具体的には,霊巌・チャラボン古墳,咸平・金山里方台形古墳およびそれと密接な関係にある老迪遺跡から出土した埴輪について,観察所見を踏まえて形態・製作技術の特徴を詳細に検討した。その結果,チャラボン古墳の埴輪は,この地域において一般的である倒立成形技法を用いる円筒埴輪の一群に属すものであることが確認できた。その一方で,金山里古墳・老迪遺跡の埴輪は,日本列島の埴輪と同様に正立成形技法で形作られ,かつ突帯製作に割付技法や押圧技法を用いており,従来,栄山江流域では知られていなかった技術系譜に属すことが明らかとなった。以上の成果を踏まえて,栄山江流域における円筒埴輪を倒立成形系列,突帯割付系列,有底穿孔系列の3系列に大別し,その展開過程について予察を示した。とりわけ,栄山江流域において主体をなす倒立成形系列について,反転作業を2回繰り返す倒立成形の工程が日本列島の一部の埴輪でみられる倒立技法とは根本的に異なることを指摘し,同技法が上半部に本来的な土器形状を忠実に表現する徳山里9号墳に代表されるタイプの埴輪の成形技法を継承したものであることを説いた。チャラボン古墳の埴輪は,上半部と下半部の境界付近に屈曲や傾斜変換をもつ点で,徳山里9号墳タイプから通常の円筒形を呈する埴輪への移行期の資料と位置づけられる。そうした過渡期を経て,明花洞古墳例や月桂洞1号墳例にみるより単調な形状へと変遷するものと理解できる。栄山江流域ではこのほかにも,現状では類例が少ないものの,突帯割付系列や有底穿孔系列,さらには日本列島のものに酷似する外面タテハケ調整の埴輪も混在しており,この地域の埴輪の展開過程が決して一元的ではなかった様子が明らかになりつつある。埴輪の導入契機は,複数存在したとみて間違いなく,流域内の各勢力と日本列島との多元的な交流を反映したものと評価される。
大塚, 昌彦 Otsuka, Masahiko
榛名山の東麓周辺は,紀元後における災害の歴史が,文献と遺跡発掘調査から何回もあったことが裏付けられている地域である。ここでいう災害とは,火山災害と地震災害の2種類である。火山災害は,古墳時代以後に榛名山の噴火が2度あり,浅間山の噴火が3度,合計5回の火山災害が認められる。代表的なものとして,古墳時代中期に榛名山の最初の噴火で,マグマ水蒸気爆発後火砕流爆発があり,中筋遺跡のムラが火砕流の熱で建物群が焼失状況で発見された。同後期に榛名山の2度目の噴火で厚さ2mにも及ぶ軽石が,黒井峯遺跡のムラを埋没させた。天明の大飢饉の引き金になった浅間山の天明3年(1783)の噴火では,直接的な降灰ではなく間接的な土石流災害として吾妻川・利根川流域に莫大な被害を及ぼし,中村という村の一部が埋没していたり,甲波宿禰神社という神社が埋没している。地震災害については『類聚国史』に記載されている弘仁9年(818)の大地震と認定できる巨大地震跡が半田中原・南原遺跡でみつかっている。このように,一つの地域が幾度も違う形で大きな自然災害に見舞われており,その地域の荒廃した状況から再開発・復興に至る状況が発掘調査で確認でき,土地利用の変遷が理解できる。さらに火山灰の堆積で災害以前の生活面(地面)が残されており,その詳細な発掘データは今までの考古学の常識をも覆す大発見が多くある。なかでも中筋遺跡・黒井峯遺跡の発見は,集落遺跡の根幹に係わる集落形態の指標,住居の夏・冬住み替えの生活スタイルの提示ができた。火山災害地の遺跡発掘調査は,多くの情報量が内蔵されているため考古学研究の古代社会復元には最高の遺跡調査研究エリアと言える。
松木, 武彦
本論の目的は,古墳時代の倭王権を支える地域の構造とその変化を,これまで注目されてきた前方後円(方)墳を主体とする「首長墓」だけではなく,小墳群も含む墓制の全体的構造,それを営んだ居住域の展開,および両者の相互関係とその推移を明らかにする作業を通じて,政治のみならず,人口や生産も含んだ社会全体の歴史過程として復元することである。この目的を達成するため,岡山平野南部を対象地域として,まず,前方後円(方)墳と小墳群,およびそれらと集落との空間的関係を分析した。その結果,前方後円(方)墳には,小墳群中に営まれる小規模なもの,小墳群に近在する中規模なもの,小墳群から独立した大規模なものからなる段階差があり,それは在地の小有力者から倭王権に直結した大有力者までの序列を示す可能性が高いが,集落との関係から,地域社会の基礎的な単位となるのは前者と考えられた。この基礎的な単位は,古墳時代前期前葉~中葉には岡山平野の各地域で発展・継続するが,前期後葉~中期中葉には多くの地域で衰退・断絶し,少数の限られた地域に巨大な前方後円墳が築かれた。この変動は,集落や住居の数の急速な低落と時期を同じくしていることから,人口が減少して空洞化した地域社会を,倭王権と直結した大有力者がじかに統括するようになった状況を推測した。これをきっかけとして再び集落と住居の数が回復し,小墳群からなる基礎的な単位やそれに根ざした中小の前方後円墳が復活する中期後葉は,人口の回復によって地域社会が再興し,在地の小有力者がまた台頭した可能性が高い。後期前半には集落と住居の数が再び減少し,多くの小墳群が断絶するが,後期後半には集落と住居および小墳群の基礎的な単位は再び増加する。この人口増加を基点として律令国家の確立過程に入った。前方後円(方)墳の築造パターンの変動は,これまで考えられてきたような政治史過程の直接的反映というよりも,根本的には環境変動などを起因とした人口の増減の上に立った社会関係の変化による可能性が高い。
藤尾, 慎一郎 Fujio, Shin'ichiro
本稿では,弥生文化を,「灌漑式水田稲作を選択的な生業構造の中に位置づけて,生産基盤とする農耕社会の形成へと進み,それを維持するための弥生祭祀を行う文化」と定義し,どの地域のどの時期があてはまるのかという,弥生文化の輪郭について考えた。まず,灌漑式水田稲作を行い,環壕集落や方形周溝墓の存在から,弥生祭祀の存在を明確に認められる,宮崎~利根川までを橫の輪郭とした。次に各地で選択的な生業構造の中に位置づけた灌漑式水田稲作が始まり,古墳が成立するまでを縦の輪郭とした。その結果,前10 世紀後半以降の九州北部,前8 ~前6 世紀以降の九州北部を除く西日本,前3 世紀半ば以降の中部・南関東が先の定義にあてはまることがわかった。したがって弥生文化は,地域的にも時期的にもかなり限定されていることや,灌漑式水田稲作だけでは弥生文化と規定できないことは明らかである。古墳文化は,これまで弥生文化に後続すると考えられてきたが,今回の定義によって弥生文化から外れる北関東~東北中部や鹿児島でも,西日本とほぼ同じ時期に前方後円墳が造られることが知られているからである。したがって,利根川以西の地域には,生産力発展の延長線上に社会や祭祀が弥生化して,古墳が造られるという,これまでの理解があてはまるが,利根川から北の地域や鹿児島にはあてはまらない。古墳は,農耕社会化したのちに政治社会化した弥生文化の地域と,政治社会化しなかったが,網羅的な生業構造の中で,灌漑式水田稲作を行っていた地域において,ほぼ同時期に成立する。ここに古墳の成立を理解するためのヒントの1 つが隠されている。
春成, 秀爾 Harunari, Hideji
弥生時代前期から鉄器時代であった,ともっともつよく主張したのは杉原荘介である。杉原は,1943年,アジア・太平洋戦争中に,弥生文化は農耕と金属をもつ文化であることを強調した。しかし,金属については具体的な資料をほとんど挙げていない。戦争中の米は戦地での食糧,鉄は軍艦・大砲の材料であった。戦いに勝つためには鉄が必要という当時の日本がおかれていた状況を,杉原は自らの意見に無意識のうちに反映させていた。杉原の説はその後1960年代に近藤義郎が継承した。こうして根拠は不十分ながら,弥生前期以来鉄器時代であったとする説は一般化した。そして,1980年代に福岡県曲り田遺跡で鉄器が見つかると,弥生早期から鉄器時代とする考えが広まった。2002年以来,弥生早~中期の資料の炭素14年代測定を国立歴史民俗博物館の研究グループが集中的におこなった結果,弥生時代の始まりは前10世紀までさかのぼる可能性がでてきた。そこで,弥生早・前期の鉄器についても対応を迫られることになった。筆者はそれらの鉄器の出土状況を検討した結果,弥生早・前期の鉄器はすべて後の時期の鉄器の混入とみなすほかなくなり,弥生早・前期には鉄器は存在しなかったと考えるにいたった。鉄器は,弥生中期初めないし前葉に鋳造鉄斧またはその破片を再加工した斧,鑿,鉇に始まり,その状態は中期後葉まで存続する。鋳造鉄斧は,2条突帯をもつ中国の戦国時代燕の型式である。燕の文化をよく示す明刀銭が九州・本州にきていないので,鋳造鉄斧の多くは当初から完全品だけでなく破片の形でもたらされたと考えられる。青銅器も同じ時期に普及し始めているので,青銅器あるいはその原材とともに朝鮮半島西南部付近からはいってきたのであろう。鍛造鉄器は弥生時代中期後葉に現れる。鍛冶遺構は中期末の例が,福岡,広島,岡山で見つかっているから,このころから鉄素材を入手し,鍛冶加工して製品化することが始まったのであろう。魏志倭人伝の記載から,弥生・古墳時代前半期の鉄素材は朝鮮半島南部からもたらされたとする説が有力である。弥生後期のうちに,列島全域で石器が消滅し鉄器が普及しているけれども,これをすべて朝鮮半島南部から供給されたと考えてよいのかの問題は,なお未解決である。
吉井, 秀夫 Yoshii, Hideo
本稿では,加耶地域が,倭や朝鮮半島の周辺諸地域とどのような交渉関係を結んだかを明らかにするための一つの試みとして,竪穴式石槨と横穴式石室が主たる埋葬施設として用いられた段階の加耶地域の墓制における,外来系考古資料の様相について検討をおこなった。まず竪穴式石槨が埋葬施設として用いられた段階では,加耶地域内やその隣接地域から土器の搬入がみられる他,倭・百済・新羅系の考古資料が存在する。ただし,それらが墓制全体に占める割合は限られている。また,池山洞古墳群と玉田古墳群では,影響を受けた地域と,墓制に対する影響の大きさに違いが見出された。次に,横穴式石室が主たる埋葬施設として採用される段階では,埋葬施設の構造が変化しただけではなく,葬送観念にも大きな変化が認められる。また副葬品において外来系考古資料が占める割合も増加する。こうした変化については,百済からの影響が指摘されてきたが,新羅・倭からの影響も少なからず見出される。中でも倭系考古資料が目立つ墳墓については,栄山江流域の前方後円形墳の様相との対比から,被葬者を大加耶支配下の倭系集団とみる説が提出されている。しかし,それ以前から古墳が築造されてきた古墳群や日本列島でも,同様の変化がみられることを念頭において,墓制の変化の類型化とそれに対する解釈がおこなわれる必要があると考えられる。
太田, 博之 Ota, Hiroyuki
前方後円墳集成畿内編年10期の東日本の古墳から出土する朝鮮半島系遺物には,日本列島内での模倣対象とはならない特殊な遺物が多いが,この種の遺物はむしろ近畿周辺に少なく,九州や東海など地方に多く分布することから,これらは中央政権を介さずに,各地方の首長が朝鮮半島首長層との直接的接触を介して,入手の機会をもったものと考えられる。しかし,これらの朝鮮半島系遺物が同時多発的に日本列島各地の有力古墳に副葬されている事実や,一古墳で朝鮮半島系遺物とともに,同器種の日本列島製品の共伴が確認されることから,東日本を含む列島各地の首長層と朝鮮半島首長層との直接的接触が,中央政権とは無関係な環境下に成立していたとは考え難い。とくに,東日本への朝鮮半島製遺物の流入は,古墳の築造動向から推理される中央政権による地域首長層再編の動きや,東日本の一部地域に現出する首長間の交通関係の変化とも深く関係すると考えられ,また同時に当該期の中央政権が直面した対朝鮮半島情勢の緊迫化とも関係した現象であったと思われる。当該期においては,中央政権の主導下に,広く日本列島各地の有力首長が対朝鮮半島交渉に関与した可能性が高く,朝鮮半島製遺物の流入状況からみると,東日本の首長層も対朝鮮半島交渉の場面に関与する機会があり,北部九州における恒常的な兵力の駐屯を支える兵站機能を担うとともに,管下の中小首長層の編成・動員を伴う軍事的示威活動にも関与したことが想定される。朝鮮半島系遺物を東日本の首長層が保有するに至る経緯には,中央政権の主導する対外交渉の場で,朝鮮半島首長層との直接的な接触機会を経て入手した場合とともに,対朝鮮半島交渉の過程で,東日本にも朝鮮半島出身の首長層・社会的身分上位者が往来・居留することがあり,それにともなってもたらされた器物が含まれる可能性も考えられる。
春成, 秀爾 Harunari, Hideji
東日本の弥生時代前半期には、人の遺体をなんらかの方法で骨化したあと、その一部を壺に納めて埋める再葬制が普遍的に存在した。再葬関係と考えられている諸遺跡の様相は、変化に富んでいる。それは、再葬の諸過程が別々の場所に遺跡となってのこされているからである。再葬は、土葬―発掘―選骨―壺棺に納骨し墓地に埋める―のこった骨を焼く、または、土葬を省略してただちに遺骸の解体―選骨……の過程をたどることもあったようである。遺体はまず骨と肉に分離し、ついで骨を割ったり焼いたりして細かく破砕している。骨を本来の形をとどめないまでに徹底的に破壊することは、彷徨する死霊や悪霊がとりついて復活することを防ごうとする意図の表れであろう。すなわち、この時期には死霊などを異常に恐れる風潮が存在したのである。この時期にはまた、人の歯や指骨を素材にした装身具が流行した。これは、死者を解体・選骨する時に、それらを抜き取って穿孔したものであるが、一部の人に限られるようである。亡くなった人が生前に占めていた身分や位置などを継承したことを示すシンボルとして、遺族の一部が身につけるのであろう。再葬墓地の分析によれば、十基前後を一単位とする小群がいくつも集まって一つの墓地を形成している。そのあり方は縄文時代の墓地と共通する。したがって、小群の単位は、代々の世帯であると推定する。再葬墓は、縄文時代晩期の信越地方の火葬を伴う再葬を先駆として、弥生時代前半期に発達したのち、弥生中期中ごろに終り、あとは方形墳丘墓にとってかわられる。しかし、再葬例は関東地方では六世紀の古墳でも知られているので、弥生時代後半期には人骨を遺存した墓が稀であるために、その確認が遅れているだけである可能性も考えられる。
岡田, 文男
本稿では,大阪府柏原市安福寺蔵漆棺片について3点の考察を行った。1,安福寺漆棺片より剥落した試料片についてAMS分析法による¹⁴C年代測定を行い,漆棺が6世紀後半から7世紀中頃に制作された可能性が高いことを示した。その結果,同漆棺片を叡福寺北古墳(宮内庁が管理する磯長墓)より出土した棺の一部とする従来の説と矛盾しない年代に納まった。2,漆棺より剥落した塗膜の断面を顕微鏡観察し,漆棺の制作技法を検討した。その結果,安福寺漆棺片の胎が絹布層と火山灰を主材料とする地粉層を交互に塗り重ねた構造からなること,絹布の織りは均一でなく,繊維断面の形状も一定せず,絁の可能性が高いことを明らかにした。3,棺台ならびに漆棺の法量が明らかな阿武山古墳出土漆棺(終末期古墳),法隆寺五重塔初層西面金棺における棺台長と棺身長の比率の比較をもとに,磯長墓棺台に載る漆棺の法量を推定した。その結果,阿武山古墳漆棺における幅/長さ比をもとにすると,磯長墓棺の推定棺蓋長は217.8㎝,同様に棺身長は210㎝,棺身幅は83.2㎝となった。次に,法隆寺五重塔初層西面における金棺の法量比を同様にして当てはめると,棺蓋長は196㎝,棺身長は193.6㎝,棺身幅は60.2㎝となった。最後に,安福寺漆棺片の棺身長を,既知もしくは記録により棺身長と棺幅長を推定できる漆棺の幅/長さ比と比較した。その結果,安福寺漆棺片を仮に短辺と考えると,長辺が3メートル近くに復元され,既知の棺台に載らず,漆棺の長辺の一部と考察するのが妥当であるとの結論に至った。
木下, 尚子
本論は,科研費共同研究の一環としておこなった貝殻の炭素14年代測定結果(較正年代)にもとづく考古学的考察である。沖縄諸島の先史時代遺跡に残る大型巻貝(ゴホウラ・イモガイ)の集積を対象に,16遺跡で検出された弥生時代併行期の貝殻集積27基のうちから,ゴホウラとイモガイの貝殻合計51個を選んで測定し,結果を整理してその歴史的意味を示した。貝殻集積は北部九州と沖縄諸島間の貝殻の交易(貝交易)に伴う諸行為によって,貝殻産地に残されたものである。考察では,上記年代値に,貝殻消費地である北部九州の弥生遺跡に残るゴホウラ・イモガイ腕輪の時期を加えて比較した。この値は,すでに公表されている貝輪着装人骨を含む弥生人骨の炭素14年代を介して確定したものである。こうして導いた較正年代67例をもとに,1200kmの海域をはさんだ産地と消費地間の時間的関係を整理し,弥生時代から古墳時代にわたる貝交易の動向を以下の6群に分けて述べた。以下の( )内は確率分布曲線のピーク位置を示す。・A群(501 cal BC 以前):西北九州沿岸部の支石墓人によって沖縄諸島と九州間の貝交易が始まる時期。弥生早期から前期中葉の時期に対応する。・B群(500~201 cal BC):北部九州平野部の弥生人によるゴホウラ類・イモガイ類の貝殻消費が始まり,複数種類の貝輪に対応した形の貝輪粗加工品が沖縄から輸出される時期。弥生前期後葉から中期中葉に対応する。・C群(200 cal BC ~ 1 cal BC):弥生社会のゴホウラ類・イモガイ類の消費数が最大になり,沖縄でのゴホウラ確保に行き詰まりの兆候が見え始める時期。弥生中期後半に対応する。・D群(1 cal BC/cal AD1 をまたぐ):九州での貝殻需要が衰退し貝交易が収束する時期。弥生中期末から後期初頭に対応する。・E群(cal AD301 ~ cal AD500):消費地が短期間のうちにヤマト王権の畿内から九州へと移り,一方で種子島広田集落において沖縄との交易関係が深まる時期。・F群(cal AD501 以降):貝交易の第二のピークに対応する。貝交易の動向を,絶対年代を対応させて示した点が本論の特徴である。
濵田, 竜彦 Hamada, Tatsuhiko
大山山麓では,弥生時代前期後葉頃から丘陵部において遺跡が増えはじめ,さらに中期から後期にかけて緩やかに顕在化する状況を認めることができる。後期には,妻木晩田遺跡に代表される大規模集落跡が丘陵部に形成されるが,前方後円墳が造られはじめる頃から丘陵上の集落は一斉に姿を消し,その後,丘陵部に生活の主体が積極的におかれることは少ない。したがって,弥生時代以降の大山山麓は,古墳群造営,小規模な集落の形成,畑地造成など,多少の削平や攪乱を受けることはあっても,大規模に改変されていない。また,近年は広範囲が調査されている事例が増えており,弥生時代集落の内実を分析するための好条件を備えた遺跡が多い。そこで,本稿では,集落跡を構成する諸要素のうち,居住施設と考えられる竪穴住居跡の分析を中心に,山陰地方の弥生時代後半期を代表する大規模集落跡として知られる妻木晩田遺跡を検討して,集落変遷,集落像の復元を試みた。妻木晩田遺跡には,複数の小集団の集合体として認識される複合型集落が,長期的に営まれている。今回,後期から終末期の土器を細分し,竪穴住居跡の埋没状況を詳細に検討しながら居住域の変遷を再考したところ,妻木晩田遺跡に営まれていた集落は規模や形が絶えず変化しつづけており,その変遷は一様ではないことがわかった。小集団の集合体であることは間違いではないものの,途中で断絶していた可能性のある居住域が複数認められた。したがって,複数の小集団が密に集住するのではなく,丘陵上に散漫に展開していた時期もあると考えられる。また,最盛期と考えられる後期後葉をへて,終末期前半に居住が断絶していた地点がある。終末期後半には表面上,後期後葉以前とよく似た集落が再生されているが,その後は大規模な墳墓群の造営も行われないことから,終末期前半を介して,集団が質的に変容していたと考えられる。
和田, 晴吾 Wada, Seigo
古墳での人の行為を復元し,遺構や遺物を検討することで,前・中期の古墳を,遺体を密封する墓としての性格と,「他界の擬えもの」としての性格の,二つの面から捉えようと試みた。この段階では,人は死ぬと魂は船に乗って他界へと赴くとされたが,遺体は棺・槨内に密封され,そのなかで生前のような生活を送るとは考えられなかった。奈良県巣山古墳で発見された船は,実際の葬送の折に,魂が他界へと旅立つ様子を現実の世界で再現するためのものだった。他界の内容は,船に乗って他界へと至った死者の魂は,くびれ部の出入口で船を降り(船形埴輪),禊をし(囲形埴輪),斜面を登った岩山の頂上の防御堅固で威儀を正した居館に棲むが,そこは飲食物に満ち,日々新たな食物が供えられるといったものだった。葺石や埴輪や食物形土製品は他界を演出するための舞台装置や道具立てで,中期中・後葉には,これに人物・動物埴輪が加わった。しかし,横穴式石室が採用されると地域差が顕在化する。後期に石室が普及した畿内では,石室は「閉ざされた棺」を納める「閉ざされた石室」で,遺体は,前代同様,棺内に密封され,玄室内は死者の空間とはならなかった。墳丘に人が登らなくなり,舞台装置や道具立ては形骸化しだしたが,古墳は「他界の擬えもの」として存続し,石室は「槨」的な性格を受けついだ。一方,中期に石室が採用されだす九州北・中部では,石室は「開かれた棺」を備える「開かれた石室」で,そこは死者が生前と同じような生活を続ける空間となった。その場合,家形埴輪とは別に死者の棲む家が用意されるが,玄室の天井が天空を表しそのなかに家形の施設を配する場合と,玄室空間そのものを死者の宿る家とする場合とがあった。『古事記』の黄泉国訪問譚の舞台は前者にあたる。ここでは,墳丘上の他界と,石室内部の他界の,二つの性格の異なる他界が入れ子状態で共存した。このような棺や石室の系譜は,中国の北朝や高句麗の一部に求めることができる。
山本, 孝文
本稿では,横穴式石室を素材として,韓半島三国時代の百済と湖南地方(栄山江流域を中心とした全羅道地方)の諸集団との関係の一端を提示する。特に両地域の横穴式石室の築造技術に観察される共通点と相違点(技術系譜の差)をもとに,造墓行為の系統や工人の動向について推論することを目指した。5世紀後半から6世紀前半までの湖南地方の古墳は多様化の様相を見せ,方台形,円形,前方後円形など様々な形態の墳丘内に甕棺や竪穴式石槨,横穴式石室など多様な埋葬施設が造られた。この時期は馬韓系の墓制(周溝墓)の展開期と,泗沘期百済の規格化された横穴式石室の拡散期の間の過渡期的時期にあたっており,土着系の墓制が百済系墓制に変わっていく段階に多様な地域の文化的影響が当地に及んだことがうかがえる。この時期の墓制の一つに,百済の影響を受けたとされる横穴式石室が含まれる。この時期の百済地域の中心勢力に関わると考えられる横穴式石室の構築技法を観察すると,石材の加工・使用法,構築の工程,空間設定と石材の使用数の間に相関性が見られ,異なる古墳群間で構築技術およびそれを保有していた集団の系譜を割り出すことができる。この共通的技術を保有する造墓集団を仮に「王畿系集団」とし,同様の技法で造られた石室の分布からその活動範囲を想定した。この王畿系集団の技術で築造された横穴式石室と湖南地方の石室を比較すると,形態やおおよその構造が類似するものでも,構築技法や石材使用の方法において直接の関連は見られないことがわかる。従って,これまで「百済系」「熊津系」とされていた湖南地方の横穴式石室は百済の中心勢力との関係で造られたものとはいえない。一方で,百済の西海岸地域に湖南地方の石室と構造・技術的に類似したものがあり,百済の特定地域集団との関係を想定することができる。
白石, 太一郎 Shiraishi, Taichirō
伊勢神宮の社殿は20年に一度建て替えられる。この式年遷宮に際しては建物だけではなく,神の衣装である装束や持物である神宝類も作り替えられる。アマテラスを祭る内宮の神宝には「玉纒太刀」と呼ばれる大刀がある。近年調進される玉纒太刀は多くの玉類を散りばめた豪華な唐様式の大刀であるが,これは10世紀後半以降の様式である。『延喜式』によって知ることができるそれ以前の様式は,環のついた逆梯形で板状の柄頭(つかがしら)をもつ柄部に,手の甲を護るための帯をつけ,おそらく斜格子文にガラス玉をあしらった鞘をもったもので,金の魚形装飾がともなっていたらしい。一方,関東地方の6世紀の古墳にみられる大刀形埴輪は,いずれも逆梯形で板状の柄頭の柄に,三輪玉のついた手の甲を護るための帯をもち,鞘尻の太くなる鞘をもつものである。後藤守一は早くからこの大刀形埴輪が,『延喜式』からうかがえる玉纏太刀とも多くの共通点をもつことを指摘していた。ただそうした大刀の拵えのわかる実物資料がほとんど知られていなかったため,こうした大刀形埴輪は頭椎大刀を形式化して表現したものであろうと推定していた。1988年に奈良県藤ノ木古墳の石棺内から発見された5口の大刀のうち,大刀1,大刀5は,大刀形埴輪などから想定していた玉纒太刀の様式を具体的に示すものとして注目される。それは捩り環をつけた逆梯形で板状の柄頭をもち,柄には金銅製三輪玉をつけた手を護るための帯がつく。また太い木製の鞘には細かい斜格子文の透かしのある金銅板を巻き,格子文の交点にはガラス玉がつけられている。さらにそれぞれに金銅製の双魚佩がともなっている。それは基本的な様式を大刀形埴輪とも共通にする倭風の拵えの大刀であり,まさに玉纒太刀の原形と考えてさしつかえないものである。こうした梯形柄頭大刀やそれに近い系統の倭風の大刀には,金銅製の双魚佩をともなうものがいくつかある。6世紀初頭の大王墓に準じるクラスの墓と考えられる大阪府峯ケ塚古墳でも双魚佩をともなう倭風の大刀が3口出土している。6世紀は環頭大刀や円頭大刀など朝鮮半島系の拵えの大刀やその影響をうけた大刀の全盛期であるが,畿内の最高支配者層の古墳では倭風の大刀が重視され,また古墳に立てならべる埴輪につくられるのもすべてこの倭風の大刀であった。大王の祖先神をまつる伊勢神宮の神宝の玉纒太刀がこの伝統的な倭風の様式の大刀にほかならないことは,6・7世紀の倭国の支配者層が,積極的に外来の文化や技術を受入れながらも,なお伝統的な価値観を保持しようとしていたことを示す一つの事例として興味ふかい。
春成, 秀爾 Harunari, Hideji
哀悼傷身の習俗の一つに抜歯がある。この抜歯は18~19世紀のハワイ諸島の例が有名である。抜く歯は上下の中・側切歯であって,首長や親族の死にさいして極度の哀悼の意をあらわすために1回に2本を抜く。文献記録では,16~18世紀の中国の四川省や貴州省に住んでいた佗佬の例がもっとも古い。しかし,考古資料では,徳島県内谷石棺墓の男性人骨に伴った女性の上顎中切歯1本が哀悼抜歯の存在をしめしており,4世紀までさかのぼる。中国新石器時代の抜歯は,7000年前に上顎の側切歯を抜くことから始まる。抜歯の年齢・普及率からすると,成人式とかかわりをもつと考えてよい。中国では4500年前になると,この習俗はいったん衰退する。まもなく今度は上下の中・側切歯を抜くことが安徽・江蘇・山東付近で始まる。抜歯の年齢はあがり,その頻度は低くなる。新たに始まったこの抜歯は死者に対する哀悼のためであった,と私は推定する。上下の中・側切歯を抜いた例は,モンゴル(~19世紀?),シベリア(新石器~19世紀?),アメリカ(15世紀以前~19世紀?),日本(縄文前期~6世紀=古墳時代),琉球(縄文~13世紀),ポリネシア(18~19世紀)で知られている。中国新石器時代に発祥した哀悼抜歯が数千年かけてアジア・アメリカ・太平洋にひろがっていったことを,これらの事実は示唆している。ポリネシア・シベリア・モンゴルでは,髪を切り身体を刀で傷つける哀悼傷身は,首長や親族との特別に親密な関係を表現し更新する役割を果たしている。考古資料にのこされている哀悼抜歯の痕跡は,墓の内容,男女の別などを考慮することによって,抜歯された人物の社会的な位置を探り,さらにはその社会の構造を解明していく手がかりとなる可能性を秘めている。
吉川, 昌伸 Yoshikawa, Masanobu
約12,000万年前以降の関東平野の層序と環境変遷史を検討し,変化期について考察した。完新世の有楽町層は,下部層は主に縄文海進期の海成層から,上部層は河成ないし三角州成堆積物から構成されるが,台地の開析谷内では上部層形成期にはふつう木本泥炭層が形成され,弥生時代以降に主に草本泥炭層に変化した。沖積低地では約4,000年前と約2,000年前には海水準の低下により浅谷が形成された。約12,000年前,冷温帯ないし亜寒帯性の針葉樹と落葉広葉樹からなる森林が,コナラ亜属を主とする落葉広葉樹林に変化した。クリは,約10,500年前以降に自然植生として普通に分布し,縄文中期から晩期(約5,000~2,150年前)には各地で優勢になった。クリ林の拡大が海退と関係することから,環境変化に起因して起こった人為的な変化と推定した。照葉樹林は,房総半島南端では約7,000年前に既に自生し,奥東京湾岸で約7,500年前に,東京湾岸地域の台地で約3,000年前に拡大したが,内陸部では落葉広葉樹林が卓越した。照葉樹林の拡大が関東平野南部から北部,沿岸域から内陸部へと認められたことから,海進による内陸部の湿潤化が関係すると考えた。スギ林は南関東では約3,000年前までに拡大し,その後北部に広がった。照葉樹林やスギ林は,弥生時代以降には内陸部の武蔵野台地や大宮台地,北関東でも拡大が認められたが,これら森林の拡大には生態系への人間の干渉も関係した。また,丘陵を主とするモミ林の拡大は古墳時代頃の湿潤化に起因して,マツ林は特殊な地域を除いては14~15世紀以降に漸増し18世紀初頭以降に卓越した。こうした関東平野の沖積低地の層序や植物化石群に基づき,約12,000年前以降にPE,HE1,HE2,HE3,HE4,HE5各期の6つの変化期を設定した。各変化期は,陸と沖積低地の双方で起こった変化であることを明らかにした。
小林, 謙一 Kobayashi, Kenichi
縄紋時代・弥生時代・古墳時代・古代(北海道では続縄紋・擦文文化期)における居住活動は,主に竪穴住居と呼ばれる半地下式の住居施設が用いられている。竪穴住居施設は,考古学的調査によって,主に下部構造(地面に掘り込まれた部分)が把握され,その構造や使用状況が検討されている。竪穴住居は,a構築地点の選定と設計から構築(掘込みと付属施設の設置)→b使用(居住・調理・飲食などの生活)→c施設のメンテナンス(維持管理と補修・改修・改築)→d廃棄→e埋没(自然埋没・埋め戻し)の順をたどる。それぞれの行為に伴う痕跡が遺構として残されており,その時間的変遷はライフサイクルと整理される。ライフサイクルのそれぞれの分節が,どのくらいの時間経過であったかは,先史時代人の居住システム・生業・社会組織の復元に大きな意味を持つ。その一端として,ライフサイクル分節ごとにその程度の時間経過があったかを,出土試料の年代測定から推定したい。住居のライフサイクルのどの分節を測定するのかを把握していることが肝要であり,そのためには測定する試料に対する,セツルメントとしてのライフサイクルの位置を整理して把握することが重要である。今回はライフサイクルの分節aとした住居構築に関わる測定研究を,主として被熱住居の構築材に関する年代測定を中心に検討した。その結果,縄紋時代の被熱住居と古代の被熱住居の構築材の測定において,前者では5事例中4事例(参考事例を合わせると21事例中17事例)がほぼ同一の伐採年かつ想定される住居の帰属時期に近い年代が得られたのに対し,後者では古代では2事例ともまたは参考事例を加えた弥生から古代では10事例中6事例において一部に古い測定値を示す試料が認められ,古材の再利用例があったと考えられる。対応するライフサイクルの分析を考古学的に検討しつつ,多数の測定結果を蓄積・検討することで,住居自体の耐用年数・居住年数,その土地(セツルメント)に対する定着度(数百年の長期にわたる定住から数年程度の短期的な居住,季節的居住地移動を繰り返すなど),背景となっている生業(採集狩猟・管理栽培や焼畑などの半農耕・灌漑型水田などの農耕)や社会組織(集落規模,階級など)の復元につながる。課題として,試料自体の帰属や性格(後世の混入や攪乱を含む),遺構自体の技術・素材の問題(コールタールや獣油などを塗布する可能性)についても検討する必要があるし,第一に,同一遺構内で出土層位が明確など由来を追跡できるような,考古学的な文脈の明らかな試料を多数測定していく必要がある。
白石, 太一郎 Shiraishi, Taichirō
『常陸国風土記』には,7世紀中葉における信太,行方,香島,多珂,石城などの諸評(郡)の建評記事がみられ,国造制にもとづく新治,筑波,茨城,那珂,久慈,多珂の6国が12の評に分割される過程がうかがえる。最近の文献史学の研究は,この『常陸国風土記』の建評記事が,その年紀をも含めてほぼ信じられることを明らかにしているようにうかがえる。小論では,常陸地方の後期から終末期の大型古墳という考古学的資料から想定される6~7世紀の有力在地首長層の動向を,文献史料から復元される国造制から評制へという地方支配組織の変遷過程と対比しながら検討した。それは,文献史料と考古学的資料を総合することによって古代国家形成期の東国在地首長層の動向の一端を具体的に追求することを目的とするとともに,依るべき文献史料を欠く他の地域における後期から終末期の大型古墳の被葬者像の解明にも役立つことを期待したものである。検討の結果,6世紀の大型前方後円墳を含む古墳群のあり方から復元される有力在地首長層の勢力圏は,国造による地域支配の領域よりはかなり狭いもので,むしろ7世紀中葉に設置される評の領域に整合性をもつことが知られた。また6世紀代の「茨城国」のうち,とくに霞ヶ浦北部沿岸には多数の大型前方後円墳が造営されるが,その被葬者は領域支配者としての「国造」よりも,交通上の重要性からこの地に数多くおかれたと推測される名代,子代などの部の地方管掌者ととらえるほうがふさわしいことがうかがわれた。さらにそのことと関連して,東国における国造制の施行ないしその整備が7世紀初頭に下る可能性が大きいこと,また国造の国を割いて置かれる「新置の評」の設置が,国造制のもとでは必ずしもオーソライズされていなかった国造以外の有力在地首長層の領域支配権とその地位を,制度的に認める性格をもつものであったことが想定された。
上野, 祥史
器物を媒介とした政治関係は,分与者の視点で語られる傾向が強い。器物の価値を自明とする意識を相対化し,分与者および受領者が価値を認識する場やプロセスに注目した検討が求められる。朝鮮半島南部の出土鏡は,その問題をもっとも先鋭化させ鮮明にする資料である。本論では,古墳時代と並行する三国時代において,朝鮮半島南部が保有した鏡をもとに,その入手経緯を整理し,倭王権が鏡分与を通じて企図した秩序とその構造を検討することで,倭韓の交渉の実態を描出しようと試みた。まず,朝鮮半島南部出土鏡の概要を整理し,中国での鏡の保有状況と日本列島での鏡の保有状況を対照して,中国鏡と倭鏡の流入プロセスを検討した。中国鏡の流入は,倭韓が対中国交渉を共有し,相互に関係をもちつつも独立した交渉を進め個別に入手したものとして理解することを提案した。倭鏡では,王権からの直接分与か二次流通を介した間接分与かを,価値の認識という視点で検討した。間接分与でも王権が意図した秩序は機能すること,日本列島内部でも間接分与がみえることから,倭王権が意図した秩序は,直接分与に限定しない柔軟な,拡大の可能性を内包する秩序であることを示した。朝鮮半島南部の倭鏡は,北部九州を介した間接分与(二次流通)が想定できることを指摘した。倭韓の交渉の実態を詳述するとともに,鏡を媒介とした秩序が,絶対基準を強く意識しすぎること,分与者と受領者の相互承認を強調しすぎることを改めて指摘し,第三者の認識を可能にする装置としての意義も考える必要があること,朝鮮半島南部の帯金式甲冑や鏡にはそうした機能が期待されたことを示した。
福島, 雅儀 Fukushima, Masayoshi
装飾古墳の彩色原色を多用した特異な図文は,それが墓室に施されたこともあって強烈な衝撃を与えている。この図文は,呪術や鎮魂・僻邪という目的で施されたと理解されてきた。しかし図文を解釈する方法や根拠は,不明確な場合が少なくなかった。また装飾内容を文字資料から説明する資料が発見されない現状では,具体的な装飾の意味や意義を明らかにすることはむつかしい。したがって装飾内容の追究は,状況証拠を積み重ねるしか方法はない。この場合にも,研究視点は明示する必要があろう。そこで1~4の視点をもとに,福島県装飾横穴を対象として,図文と描かれた絵画の意味について検討を試みた。1.図文と構図には,装飾の意味が反映され,相互に位置関係が関連している。2.描かれた絵画・図文の位置と大きさは,主題や描く人物の関心の軽重関係を示している。3.描かれた絵画・図文を現代的な感覚で解釈しない。4.施された装飾を全体としてとらえる。この結果,従来は呪術的な幾何学文と考えられていた連続三角文は,陣幕が描かれたと考え,中田1号横穴の壁画は配置された副葬品を含めて,戦陣の中心に相当する状況を表現していると考えた。また泉崎4号横穴など渦巻文や動物などが描かれた絵画については,狩猟儀礼として埴輪祭祀の伝統を引き継ぐ内容であると理解した。これと関連して,福島県の装飾古墳が九州地方から伝播したとする説は,個々の構成要素を比較検討すると,その構成要素に多くの相違点があることから成立しない。また被葬者の社会的地位についても,古墳の構造や副葬品の在り方から中田1号横穴以外の装飾横穴では,被葬者は有力豪族層ではなく群集墳を構成する階層に属している点を強調しておきたい。
川瀬, 久美子 Kawase, Kumiko
中部日本の矢作川下流低地において,縄文海進のおよんだ地域を対象として,ボーリング資料の整理,加速器質量分析計による堆積物の¹⁴C年代値の測定,珪藻分析を行い,完新世後半の低地の地形環境の変化を明らかにした。表層地質の整理から,沖積層上部砂層の上位に腐植物混じりの後背湿地堆積物が堆積し,洪水氾濫堆積物と考えられる砂層によって覆われていることが明らかとなった。後背湿地堆積物を覆う砂層は,支流沿いでは自然堤防を構成している。堆積物の珪藻分析結果は,後背湿地堆積物が安定した止水環境で堆積し,その上位は流水の影響が強まったことを示唆しており,堆積物からみた堆積環境の変遷を支持している。静穏な環境から河成作用が卓越する環境への変化は,約2,000年前におこった。本研究で推定された上記の環境変化が,対象地域の上流部においてもみられたことが従来の研究で指摘されている。それらによれば,約2,000年前頃から洪水氾濫の影響が強くなり,古墳時代には顕著な自然堤防が形成されるようになった。この一連の堆積環境の変化には,気候の湿潤化による洪水氾濫の激化と,人為的な森林破壊による土砂供給量の増大が関与している可能性がある。
鈴木, 一有 Suzuki, Kazunao
マロ塚古墳から出土した小札鋲留衝角付冑の製作時期を探るため,小札鋲留衝角付冑を衝角底板の連結手法と伏板先端の処理技法によって型式設定し,諸属性の分析によって各型式の製作段階を検証した。革綴衝角付冑との連続性を考慮して,小札鋲留衝角付冑を,Ⅲ式,Ⅳa式,Ⅴa式,Ⅴb式の合計4型式に分離した。さらに,①鋲頭形状,②地板枚数,③竪矧板使用の有無,④後頭部幅広小札使用の有無,⑤錣構成枚数,⑥袖錣もしくは最下段錣後頭部抉りの有無,⑦錣前端覆輪の有無,といった項目ごとに諸属性を比較した。これらの分析作業に,古墳の共伴遺物の検討を加え,小札鋲留衝角付冑の製作段階を,三つの段階に分けて理解した。第1段階はⅢ式の古相段階,第2段階はⅢ式の新相段階,第3段階は,Ⅲ式の最新相に加え,Ⅳa式,Ⅴa式,Ⅴb式の各型式がそろう段階である。このうち,マロ塚古墳から出土した小札鋲留衝角付冑は,第2段階から第3段階への移行期にあたると捉えられ,中期中葉から後葉(5世紀中葉から後葉)の所産と推定した。小札鋲留衝角付冑の製作段階は,5世紀の前葉から後葉までの時間幅の中で推移している。小札鋲留衝角付冑の分析を通じて,鉄製甲冑における鋲留技法の導入から定着までの変遷過程が明確に整理できた。小札鋲留衝角付冑の型式変遷には,革綴冑の製作技法や形態を引き継ぎつつ,鋲留冑として製作しやすい技法や形態へ変化する様相がうかがえる。形態変化の背後には,眉庇付冑の製作技法との関連も散見でき,今回取り上げた属性分析や,共伴遺物による検証は,横矧板鋲留衝角付冑の検討にも応用できる。本稿の整理により,眉庇付冑や横矧板鋲留衝角付冑の変遷を視野に入れつつ,鋲留技法を用いる冑の変遷を総合的に検討することが可能になった。
東, 潮 Azuma, Ushio
高句麗・百済・新羅・加耶における横穴式石室墳の出現とその発展過程を時間的・地域的に通観するなかで,諸国間の政治的領域関係などの問題の一端を解明した。その基礎的作業として,朝鮮半島全域に分布する横穴式石室の型式学的編年をおこない,高句麗では平壌型石室,百済では宋山里型・陵山里型,新羅では忠孝里型石室を設定した。そして,これらの石室が石室構造・分布関係などの把握を通じて政治的性格をもっていることを明らかにした。平壌型石室は,その構造・規模に規格性があり,その被葬者層に身分差・階層差を想定しえ,平壌型石室の分布地域は,高句麗の王畿と設定され,その階層は支配者層(王族・官人層)と推定した。また古墳の編年を通じて,墳丘構造・規模,葬地のあり方,謚などを加味したうえで,同一時期における石室墳を比較し,王陵の比定をおこなった。とくに長寿王を漢王墓,陽原王の陵を湖南里四神塚に比定した。百済においても,宋山里型・陵山里型石室の構造的特質と分布状況は百済の政治的領域関係を示唆するとともに,支配制度である五部五方制にかかわることを論証した。加耶における横穴式石室については,伝播・系統問題に焦点をあわせ,熊津・泗沘城時代の百済から受容したことを推察した。そして近年の発掘成果によって,洛東江流域での横穴式石室の初現は6世紀初頭で,同地域では加耶滅亡後の6世紀後半以降に横穴式石室の発達することを明らかにしえた。新羅における横穴式石室の成立は,積石木槨墳という伝統的な墓制の終焉であり,その背景に新羅の国家体制の変容がみられた。6世紀中葉の真興王以後の新羅の支配領域内で,忠孝里型のような新羅的横穴式石室墳が発達することを示唆した。統一新羅時代の王陵の石室構造は,穹窿状天井式であったことを推定した。また新羅とのかかわりのなかで,小白山脈一帯や東海岸の横穴式石室についても概観した。
酒井, 清治 Sakai, Kiyoji
倭に須恵器が伝わったのはいつで,どこからか,またその須恵器はなぜ導入されたのか,土器生産を通して倭と朝鮮半島の交流を探ることを目的とした。構造窯を使った土器生産が伝わったのを,時期あるいは地域を考慮して段階設定して1段階,2a段階,2b段階とした。1段階は百済地域から瓦質土器生産技術が,2a段階はおもに加耶地域から陶質土器生産技術が,2b段階はおもに百済・栄山江流域地域から陶質土器生産技術が伝わったと考えた。1段階の出合窯跡の土器は瓦質でそれも日常什器で渡来人のために生産した窯と考え,のちの陶質土器生産と目的が違うと想定した。2a段階の大庭寺窯跡には平底坏が出土し,その系譜が問題であった。これについては百済・栄山江流域に分布する平底坏の系譜を引くと考え,[瓦+泉]も含め,2a段階の加耶系の中にもわずかながらすでに百済系・栄山江流域系が含まれるとした。それは加耶系にない坏と[瓦+泉]を選択して取り入れたからとした。倭の須恵器生産導入の目的は,2a段階の窯の器種構成を見ると大甕が主体でその後も長く作られていくが,器台はすぐに激減し,[瓦+泉],続いて坏が順次増加していく。同時期の古墳の器種構成を見ると大甕が見られない。大甕の生産目的は大型倉庫と関連する貯蔵器種として製作されたとした。器台は供献具であるがすぐに激減する。それに対して[瓦+泉]が取り入れられ早く定型化し,祭祀具等に使用されていった。しかし坏は供膳具としての性格が強く,その点で採用が遅れ定型化も遅れたと考え導入器種の選択があったとした。須恵器の生産開始年代について陶質土器との並行関係や年代の分かる資料,埼玉古墳群等の検討から持ノ木古墳の時期で5世紀初頭とした。その理由として朝鮮半島の高句麗南進に対抗して倭が百済・加耶と同盟関係にあったこととした。
木下, 尚子
本論は,ヤポネシア科研共同研究の一環としておこなった貝殻の年代測定結果にもとづく貝交易研究の成果である。沖縄諸島の遺跡に残る貝殻集積を対象に,79個(23遺跡,37基)のゴホウラ・イモガイの炭素14年代を測定し,Marine20による較正暦年代を整理・分析して,沖縄と九州間に継続した弥生時代の貝交易の全体像について以下をのべた。紀元前12世紀から9世紀,黒潮海域にはサンゴ礁海域を南北に移動する奄美・沖縄の貝塚人と九州の縄文人による,ゆるやかな情報網が形成されていた。両者の関係は,南九州を介した間接的なものであった。紀元前8世紀,この情報網にのって九州の支石墓人・弥生人が南下して沖縄の貝塚人と接触した。ここで貝塚人が弥生文化のいくつかの要素を受け入れたことから両者間に直接的な交流が実現し,間もなく弥生人によるゴホウラとイモガイの交易が始まったと考えられる。沖縄本島の木綿原遺跡は,この間の変化を継続的に示す墓地である。貝交易の開始期は,沖縄の仲原式土器の時期,北部九州では板付Ⅰ式期にあたり,弥生時代の早い段階で沖縄・九州間の経済活動が始まっていたことがわかる。貝交易に伴って沖縄諸島各地には,交易用の貝殻を集めた貝殻集積が残された。これらは輸出用の貝輪粗加工品を作るための貝殻資材及び完成した粗加工品,並びに輸出用の貝殻そのものを対象とした交易用の保管施設であった。集積された貝殻の年代と出土位置の分析を通して,貝交易の拠点的な遺跡の貝殻集積が,古い時期の貝殻を含みながら継続的・断続的に使用されていたこと,一般の集積は短期間の使用であったことが明らかになった。九州弥生人による貝殻消費は紀元2世紀中頃にはほぼ収束し交易は衰退するが,紀元4世紀に近畿地方の古墳人による新たな消費が始まる。一方沖縄諸島では紀元200年前後の年代を示す貝殻集積がみられなくなる。消費地と貝殻提供地の動向が相互に呼応していることがわかる。
中塚, 武
気候変動は人間社会の歴史的変遷を規定する原因の一つであるとされてきたが,古代日本の気候変動を文献史学の時間解像度に合わせて詳細に解析できる古気候データは,これまで存在しなかった。近年,樹木年輪に含まれるセルロースの酸素同位体比が夏の降水量や気温の鋭敏な指標になることが分かり,現生木や自然の埋没木に加えて,遺跡出土材や建築古材の年輪セルロース酸素同位体比を測定することにより,先史・古代を含む過去数百~数千年間の夏季気候の変動を年単位で復元する研究が進められている。その中では,セルロースの酸素同位体比と水素同位体比を組み合わせることで,従来の年輪による古気候復元では難しかった数百~数千年スケールの気候の長期変動の復元もできるようになってきた。得られたデータは,近現代の気象観測データや国内外の既存の低時間解像度の古気候記録と良く合致するだけでなく,日本史の各時代から得られたさまざまな日記の天候記録や古文書の気象災害記録とも整合しており,日本史と気候変動の対応関係を年単位から千年単位までのあらゆる周期で議論することが可能になってきている。まず数百年以上の周期性に着目すると,日本の夏の気候には,紀元前3,2世紀と紀元10世紀に乾燥・温暖,紀元5,6世紀と紀元17,18世紀に湿潤・寒冷の極を迎える約1200年の周期での大きな変動があり,大規模な湿潤(寒冷)化と乾燥(温暖)化が古墳時代の到来と古代の終焉期にそれぞれ対応していた。また人間社会に大きな困難をもたらすと考えられる数十年周期の顕著な気候変動が6世紀と9世紀に認められ,それぞれ律令制の形成期と衰退期に当たっていることなども分かった。年単位の気候データは,文献史料はもとより,酸素同位体比年輪年代法によって明らかとなる年単位の遺跡動態とも直接の対比が可能であり,今後,文献史学,考古学,古気候学が一体となった古代史研究の進展が期待される。
西本, 豊弘 Nishimoto, Toyohiro
縄文時代は狩猟・漁撈・採集活動を生業とし,弥生時代は狩猟・漁撈・採集活動も行うが,稲作農耕が生業活動のかなり大きな割合を占めていた。その生業活動の違いを反映して,それぞれの時代の人々の動物に対する価値観も異なっていたはずである。その違いについて,動物骨の研究を通して考えた。まず第1に,縄文時代の家畜はイヌだけであり,そのイヌは狩猟用であった。弥生時代では,イヌの他にブタとニワトリを飼育していた。イヌは,狩猟用だけではなく,食用にされた。そのため,縄文時代のイヌは埋葬されたが,弥生時代のイヌは埋葬されなかった。第2に,動物儀礼に関しては,縄文時代では動物を儀礼的に取り扱った例が少ないことである。それに対して弥生時代は,農耕儀礼の一部にブタを用いており,ブタを食べるだけではなく,犠牲獣として利用したことである。ブタは,すべて儀礼的に取り扱われたわけではないが,下顎骨の枝部に穴を開けられたものが多く出土しており,その穴に木の棒が通された状態で出土した例もある。縄文時代のイノシシでは,下顎骨に穴を開けられたものは全くなく,この骨の取り扱い方法は弥生時代に新たに始まったものである。第3に,縄文時代では,イノシシの土偶が数十例出土しているのに対して,シカの土偶はない。シカとイノシシは,縄文時代の主要な狩猟獣であり,ほぼ同程度に捕獲されている。それにも関わらず,土偶の出土状況には大きな差異が見られる。弥生時代になると,土偶そのものもなくなるためかもしれないが,イノシシ土偶はなくなる。土器や銅鐸に描かれる図では,シカが多くなりイノシシは少ない。このように,造形品や図柄に関しても,縄文時代と弥生時代はかなり異なっている。以上,3つの点で縄文時代と弥生時代の動物に対する扱い方の違いを見てきた。これらの違いを見ると,縄文時代と弥生時代は動物観だけではなく,考え方全体の価値観が違うのではないかと推測される。これは,狩猟・漁撈・採集から農耕へという変化だけではなく,社会全体の大きな変化を示していると言える。弥生時代は,縄文時代とは全く異なった価値観をもった農耕民が,朝鮮半島から多量に渡来した結果成立した社会であったと言える。
高田, 貫太
5~6世紀前葉の朝鮮半島西南部には,竪穴式石室や竪穴系横口式石室が展開する。これらは,伝統的な木棺や甕棺とは異なる外来系の埋葬施設であり,その受容や展開の背景について検討することは,当時の栄山江流域やその周辺に点在した地域集団の対外的な交渉活動を,微視的な視点から明らかにすることにつながる。そのための基礎的な整理として,それぞれの事例の構造や系譜について,日朝両地域の事例との比較を通して検討を行った。その結果,5世紀前半の西南海岸地域に点在する竪穴式石室については,日本列島の北部九州地域の竪穴式石室に直接的な系譜を求めることが可能であり,基本的には当地へ渡来した倭系集団が主体となって構築した可能性が高いと推定した。その一方で栄山江流域に分布する竪穴系横口式石室については,特定の地域に限定した系譜関係をみいだすことは難しく,むしろ嶺南地域や中西部地域,あるいは北部九州地域の石室構築の技術を多様に受け入れ,それを各部位に選択的に取り入れながら,特色のある墓制を成立させたと把握できる。5世紀後葉~6世紀前葉においても,栄山江流域には竪穴系横口式石室が展開している。それを採用する古墳は,前方後円墳や在地系の高塚古墳などであり,地域社会が主体的に横穴系の埋葬施設(やそれにともなう葬送儀礼)を定着させつつあったことを示している。
澤田, 秀実 齋藤, 努 長柄, 毅一 持田, 大輔
本稿では中国四国地方で出土した6~7世紀の銅鋺の考古学的知見とともに鉛同位体比,金属成分比の分析結果を報告し,あわせてその分析結果から派生する問題として国産銅鉛原材料の産出地と使用開始時期について言及した。すなわち,理化学的分析によってTK209 型式期の須恵器が共伴する無台丸底の銅鋺(津山市殿田1号墳,黒本谷古墳)に朝鮮半島産原材料,TK217 型式期の須恵器が共伴する無台平底の銅鋺(津山市荒神西古墳,竹原市横大道8号墳)に国産原材料の使用が推定され,形態的特徴と原材料との相関性とともに,国産原材料の使用開始時期が7世紀中葉に遡る可能性を示し,特に荒神西銅鋺,横大道銅鋺の鉛同位体比が古和同を含む和同開珎と近似する数値を示しており,近い値を示す長登,香春岳やその周辺の銅鉱山の開発が7世紀中葉に遡る可能性を論じた。さらに亀田修一による渡来人の関与による7世紀中葉以前に遡る国内銅生産を指摘する見解や馬淵久夫によるTK43型式期での出雲市後野産原材料使用を指摘する鉛同位体比分析結果などを踏まえると,国産原材料の使用開始時期が6世紀後葉に遡る可能性すらあることを示した。また銅鉛原材料産出地についても従来考えられてきた長登銅山周辺だけでなく香春岳や出雲市後野など,北部九州から中国山地東部にまで目を向けて探る必要性も説いた。いずれ本稿を端緒にした研究の深化を期待するものである。
廖, 育群
脚気はかつて日本人の風土病であり、江戸時代において、「脚気」を論ずる著作が多く現われた。従来の歴史研究はこの「脚気」を現代医学でいうベリベリと見なし、その原因も日本人の食生活――つまり米を主食とするダイエット――に求めてきた。 この論文は、江戸時代の「脚気」は概念的にも、また臨床所見においてもベリベリと異なることを指摘して、江戸時代の脚気の内容と時代背景を再考する。
東, 清二 Azuma, Seizi
1.本論文は沖縄におけるサトウキビ栽培品種の変遷に伴って品種の形質と栽培管理方法がいかに変化し, これらがサトウキビ害虫の発生にどう影響したかについて検討したものである。2.沖縄において製糖が始って以来, 今日までに栽培されたことのあるサトウキビは10品種以上に及んでいる。しかし, 品種転換の短期間を除いては読谷山, POJ2725及びNCo310が栽培面積の65%以上を占めていた。この理由で, 本論文では1931年以前を読谷山時代, 1932∿1960年をPOJ時代, 1961年∿現在(1976年)をNCo時代と呼ぶことにした。3.沖縄で栽培され, あるいは現在栽培されているサトウキビ品種の特性のうち, 害虫抵抗性と関係があると考えられる主な形質について調査した結果, 株出適応性, 脱葉性, 葉幅, 葉姿, 57群毛茸の多少, 葉鞘開度などの形質が関与していることが判明した。4.栽培品種の転換によって当然サトウキビの栽培管理方法も変化した。読谷山時代には穴植法であった。 POJ時代にはモジョバングン方式となり, NCo時代は農用機械の利用が多くなった。栽植密度も時代の変遷によって10a当り3,300⇾3,600∿ 27,00⇾2,400∿2,700本となった。植付時期は読谷山時代には春植が主で, 株出栽培が僅かにあった。POJ時代になって夏植が圃場の40%を占めていた。NCo時代には株出面積が75%, 夏植が20%, 春植が5%の比率となっている。施肥量は漸次増加した。剥葉作業はPOJ時代以前にはよく行われていたが, NCo時代には圃場面積の約半分しか行われていない。害虫防除はPOJ時代以前には捕殺または石油乳剤の散布に頼っていた。NCo時代になって合成農薬による化学的防除法がその中心となった。5.沖縄におけるサトウキビ害虫の種類は, 読谷山時代には42種, POJ時代には122種, NCo時代には165種記録されている。このように時代の経過に従って害虫の種類が増加した。しかし, これは調査, 研究の積重ねや取扱い方の違いによる影響が大きく, 害虫化した種類や侵入種は限られている。重要害虫は栽培品種の変遷に応じて変化してきたことが明らかである。読谷山時代にはCavelerius saccharivorus (Okajima)カンシャコバネナガカメムシ, Tetramoera schistaceana (Snellen)カンシャシンクイハマキ, Scirpophaga nivella (Fabricius)ツマキオオメイガ, Sesamia inferens Walkerイネヨトウの4種が重要であった。POJ時代には以上の種からツマキオオメイガが脱落し, Ceratovacuna lanigela Zehntnerカンシャワタアブラムシが加わった。NCo時代にはカンシャワタアブラムシの加害が減少し, Aulacaspis takarai TakagiタカラマルカイガラムシとMogannia minuta Matsumuraイワサキクサゼミが登場した。6.現在沖縄で栽培されている主なサトウキビ品種はNCo310とNCo376で, 前者は栽培面積の80%強, 後者は10%強を占めている。重要害虫はカンシャコバネナガカメムシ, イワサキクサゼミ, タカラマルカイガラムシ, カンシャシンクイハマキ, イネヨトウの5種があげられる。
工藤, 雄一郎
本論文では,縄文時代の漆文化の起源をめぐる研究史について,1926年から2010年代まで歴史を整理した。縄文時代の編年的な位置づけが定まらない1930年代には,是川遺跡に代表される縄文時代晩期の東北地方の漆文化は,平泉文化の影響を受けて成立したものという考えがあった。1940年代に唐古遺跡で弥生時代の漆文化の存在が確認されて以降,中国の漢文化の影響を受けた弥生文化から伝わったという意見もあった。1960年代以降,照葉樹林文化論の提唱を受け,縄文時代の漆文化は大陸から各種の栽培植物とともに伝わったという見方も広がった。1980年代には,中国新石器文化と縄文文化との共通の起源を想定する共通起源説も登場した。これらはいずれも縄文時代の漆文化を列島外から来たとする伝播論である。一方,加茂遺跡の縄文時代前期の漆器の出土を考慮して,1960年代には縄文時代の漆文化自生説も登場する。その後,1990年代には縄文文化の独自性や縄文時代の漆文化の成熟度を重視する研究者から,自生説が主張されるようになる。2000年の垣ノ島B遺跡の発見,2007年の鳥浜貝塚の最古のウルシ材の存在の確認によって,縄文時代の漆文化自生説は力を増した。しかし,垣ノ島B遺跡の年代は信頼性が担保されていないこと,また垣ノ島B遺跡の事例を除外すると,中国の河姆渡文化の漆製品は日本列島の縄文時代早期末の漆器と同等かそれ以上の古さを持っていることを年代学的に検証し,改めて縄文時代の漆文化の起源が大陸からの伝来であった可能性を考慮する必要性があることを論じた。
清家, 章 篠田, 謙一 神澤, 秀明 角田, 恒雄 安達, 登
梶原, 滉太郎 KAJIWARA, Kōtarō
日本において<天文学>を表わす語は奈良時代から室町時代までは「天文」だけであった。しかし,江戸時代になると同じ<天文学>を表わす語として「天学」・「星学」・「天文学」なども使われるようになった。そのようになった理由は,「天文」という語には①<天体に起こる現象>・②<天文学>の二つの意味があってまぎらわしかったので,それを解消しようとしたためであろう。そして,その時期が江戸時代であるのはなぜかといえば,江戸時代はオランダや中国などを通じて西洋の近代的な学問が日体に伝えられた画期的な時期であったからだと考えられる。また,「天学」は明治時代の中期に廃れてしまい,「星学」も大正時代の初期に廃れたのである。現代において「天文」は少し使われるけれども,ほとんど「天文学」だけが使われる。
藤尾, 慎一郎
本稿は,二次利用された青銅器片が石器にわずかに伴う九州北部の弥生早期〜弥生前期後半段階が,森岡秀人のいう「新石器弥生時代」に相当するのかどうかについて考えたものである。弥生時代は始まった当初から石器に鉄器が伴う金石併用段階にあり,初期鉄器時代から鉄器時代に相当すると認識されてきた。しかし2004年に,鉄器は水田稲作が始まってから約600年後の弥生前期末になって出現することが明らかになると,森岡秀人は金属器がなく石器だけの弥生早・前期が新石器時代に相当すると考え,弥生早・前期を「新石器弥生時代」と規定した。しかし弥生早・前期の灌漑式水田稲作は選択的生業構造のもとで行われているので,網羅的な生業構造のもとでアワ・キビ栽培が行われた韓半島南部新石器時代と同じ新石器段階にあるとみることは難しい。韓半島南部において弥生早・前期と生業構造が同じ段階にあるのは青銅器時代以降だが,弥生早・前期には遼寧式銅剣の破片を再利用して作った矢じりなどがわずかに存在する程度で,青銅器の副葬も始まっていないので,これまで青銅器時代にはあたらないと考えられてきた。もともと日本の水田稲作は,遼寧式青銅器文化圏にあった韓半島南部に隣接する九州北部玄界灘沿岸地域において始まった。まだ遼寧式銅剣は出土していないが,私たちはこの地域に青銅器を象徴としていた人びとが存在したことを示す複数の考古学的証拠を見ることができる。検討の結果,ヨーロッパでは石器と青銅器を併用する段階を新石器時代末期,あるいはまだ冶金技術が知られていない銅石時代とよんでいるので,弥生早・前期を「初期青銅器」段階と捉えることにした。したがって弥生時代は,遼寧式青銅器文化圏にあった韓半島南部に隣接する九州北部において初期青銅器段階として始まり,前期末に初期鉄器段階,中期後半以降に本格的な鉄器段階へ移行する。
山中, 章 Yamanaka, Akira
八世紀後半から九世紀前半にかけて,光仁・桓武王権は東北蝦夷の「反乱」に対し,大規模な軍事行動を起こした。いわゆる三十八年戦争である。王権は軍事的・政治的拠点として胆沢城,志波城,徳丹城を建設した。同じ頃,渡島(北海道)でも列島との関係に大きな変化が生じていた。石狩川流域の千歳市,恵庭市,江別市などの道央部の遺跡から,渡島では生産されなかった須恵器を伴う遺跡が出現するのである。北海道式古墳と呼ばれる墳墓の出現もまた同時期であり,副葬品に須恵器が伴うほか,渡島では例のない隆平永寳や銅碗が埋納されるのである。当該期に道央部にいた勢力の一部が列島の王権と深いつながりを持っていたことを証明する考古資料であった。これらがもたらされた径路として注目されるのが,当時の渡島との交渉の窓口とされた秋田城であった。そこで,秋田城から出土する須恵器と渡島のそれとを比較すると,相当数の須恵器にその可能性を指摘することができた。さらに,ごく少量ではあるが,当時の王権の所在地であった長岡京で使用されていた須恵器が渡島にもたらされていた事実も指摘できた。秋田城を経由してもたらされた可能性が高く,光仁・桓武王権は渡島の特定勢力との間に関係を結び,「威信財」として都の須恵器杯(盃)を与えたと解釈した。同じ時期,南西諸島に所在する喜界島に公的性格の強い施設が建設される。律令国家創設時以来「朝貢」を求めてきた島々を支配するための拠点を設置したものと理解した。近世に至るまで南北の国の境と意識されてきた地域におけるこうした動向こそ,王権による「国境」の確定政策の反映であると考えた。一方,光仁・桓武王権は蕃国との唯一の外交文書である慰労詔書の書式を変更・確立する。律令国家の支配領域を明示することによって,蕃国に君臨する「帝国」の姿を鮮明にしたのであった。これまでの研究によって,光仁・桓武王権は奈良時代から平安時代へと,律令国家の転換点をなした重要な王権であったことが知られてきた。本稿では,当該王権が,外交政策においても,その後の「日本」を規定する支配空間の確定という一大事業をなしたことを明らかにした。
花上, 和広
白河院の詠じた和歌二八首の一首一首について、歌の集成をしながら詠作年次の特定に重きをおいて考察を試みるとともに、詠まれた場や一緒に和歌を詠んだ人物について考察した結果、以下のことを知り得た。 白河院の天皇時代、上皇・法皇時代、また詠作年次未詳和歌の三つに分けて、詠歌状況をみた。  一、白河天皇時代    在位期間         一三首  二、白河上皇・法皇時代 譲位後から出家・崩御まで  九首  三、詠作年次未詳和歌                六首 「一、白河天皇時代」つまり在位期間に、白河院は二八首中、一三首と最も多くの歌を詠じている。天皇という立場で行事や内裏の歌会など、歌を詠む機会が多かったのであろう。「二、白河上皇・法皇時代」について、上皇時代は法勝寺御幸などの大規模な行事での詠がいくつか指摘できる。また法皇時代を中心に熊野御幸での三首が確認できる。 白河院の一生涯における詠歌状況は、在位期間・上皇時代までは行事や御会等で歌を詠んだが、出家以後の法皇時代は詠作が少ない。なお、『類題鈔』により、今までわからなかった歌の年次が特定できたことから、在位期間に多くの歌が詠まれたことが判明した。 同じ折に歌を詠んだ歌人で、目立つのは、師実、経信、匡房の三人である。師実は、摂関家の代表であり天皇家の歌会等にも顔を頻繁に出した。経信、匡房といった和漢に通じた当時の代表的歌人も歌を詠んでいる。二人は、白河院主催の歌会で序者や題者としても活躍した。
白石, 太一郎 Shiraishi, Taichiro
朝鮮半島の西南部に位置する全羅南道の西よりの地域では,5世紀後半から6世紀前半のごく限られた時期に盛んに前方後円墳が造営される。その中には円筒埴輪や倭系の横穴式石室をもつものが存在することからも,これが日本列島の前方後円墳の影響により出現したものであることは疑いない。それがそれまで倭と密接な関係を持っていた加耶の地域にはまったくみられないことは,この時期になって全羅南道の勢力が倭国ときわめて密接な関係をもつようになったことを示している。これはまた日本列島の須恵器の祖型と考えられる陶質土器が,初期の加耶のものから5世紀前半を境に全羅南道地域のものに変化することとも対応する。これらのことは,5世紀前半を境に倭・韓の交渉・交易の韓側の中心的窓口が加耶から全羅南道地域に変化したことを示唆している。こうした韓側の窓口の変化に対応するかのように,倭国側でも対韓交渉の中心的担い手が,それまでの玄界灘沿岸地域から有明海沿岸地域に変化したらしい。5世紀前半以降,玄界灘沿岸ではそれまでみられた比較的大型の前方後円墳がみられなくなり,替わって筑後や肥前の有明海沿岸に大型の前方後円墳が営まれるようになる。一方,全羅南道地域の前方後円墳にみられる倭系横穴式石室は,北部九州でも有明海沿岸の肥前東南部や筑後地域の横穴式石室の影響により成立したものであることは疑いない。また複数の彩色を施した本格的な装飾古墳が成立したのが有明海沿岸の肥後の地であることも重要である。その成立に,朝鮮半島の古墳壁画からの何らか刺激を受けたことが考えられるからである。熊本県菊水町の江田船山古墳の豪華な金銅製装身具類などの副葬品もまた,5世紀後半から6世紀前半のこの地域の人びとの活発な対朝鮮半島交渉を示すものである。日本書紀の敏達紀にみられる百済の高官日羅を「火葦北国造刑部靫部阿利斯登の子」とする記載もまた,有明海南部の葦北の首長の対百済交渉を示すものである。さらにその交渉を指示したのが大伴金村であったことも,こうした有明海沿岸各地の首長層の外交活動が倭国の外交活動に他ならなかったことを示している。さらに,玄界灘沿岸~加耶ルートの海上交通の安全を祈る沖ノ島の祭祀に有明海沿岸の水沼君が関わるようになるのも,対韓交渉の担い手が玄界灘沿岸から有明海沿岸にかわった歴史的事実を反映するものであろう。こうした検討結果からも,5世紀前半頃を境として,倭・韓の交渉・交易活動の中心的担い手が,朝鮮半島側では加耶から全羅南道地域の勢力に,倭国側では玄界灘沿岸の勢力から有明海沿岸の勢力へと変化したことは疑いなかろう。
白石, 太一郎 設楽, 博己 Shiraishi, Taichiro Shitara, Hiromi
設楽, 博己 Shitara, Hiromi
独立棟持柱建物は,Ⅰ類)居住域に伴う場合と,Ⅱ類)墓域に伴う場合がある。Ⅰ類にはA類)竪穴住居と混在する,B類)特定の場所を占める,C類)区画に伴う,という三つのパターンがある。A類からC類への流れは,共同体的施設から首長居館の施設への変貌を示すもので,古墳時代へと溝や塀で囲まれ秘儀的性格を強めて首長に独占されていった。弥生土器などの絵画に描かれた独立棟持柱建物の特殊な装飾,柱穴などから出土した遺物からすると,この種の建物に祭殿としての役割があったことは間違いない。問題は祭儀の内容だが,Ⅱ類にそれを解く手がかりがある。北部九州地方では,弥生中期初頭から宗廟的性格をもつ大型建物が墓域に伴う。中期後半になると,楽浪郡を通じた漢文化の影響により,大型建物は王権形成に不可欠な祖霊祭祀の役割を強めた。福岡県平原遺跡1号墓は,墓坑上に祖霊祭祀のための独立棟持柱建物がある。建物は本州・四国型であるので,近畿地方から導入されたと考えられる。したがって,近畿地方の独立棟持柱建物には,祖霊祭祀の施設としての役割があったとみなせる。ところが,近畿地方でこの種の建物は墓に伴わない。近畿地方では祖霊を居住域の独立棟持柱建物に招いて祭ったのであり,王権の形成が未熟な弥生中期の近畿地方では,墳墓で祖霊を祭ることはなかった。しかし,弥生後期終末の奈良県ホケノ山墳丘墓の墓坑上には独立棟持柱建物が建っている。畿内地方の王権形成期に,北部九州からいわば逆輸入されたのである。南関東地方のこの種の建物も祖霊祭祀の役割をもつが,それは在地の伝統を引いていた。独立棟持柱建物の役割の一つは祖霊祭祀であるという点で共通している一方,その系譜や展開は縄文文化の伝統,漢文化との関係,王権の位相などに応じて三地域で三様だった。
西本, 豊弘 Nishimoto, Toyohiro
弥生時代の遣跡から出土する「イノシシ」について,家畜化されたブタかどうか,再検討を行った。その結果,「イノシシ」が多く出土している九州から関東までの8遺跡では,すべての遺跡でブタがかなり多く含まれていることが明らかとなった。それらのブタは,イノシシに比べて後頭部が丸く吻部が広くなっていることが特徴である。また,大小3タイプ以上は区別できるので,複数の品種があると思われる。その形質的特徴から,筆者は弥生時代のブタは日本でイノシシを家畜化したものではなく,中国大陸からの渡来人によって日本にもたらされたものと考えている。また,ブタの頭部の骨は,頭頂部から縦に割られているものが多いが,これは縄文時代には見られなかった解体方法である。さらに,下顎骨の一部に穴があけられたものが多く出土しており,そこに棒を通して儀礼的に取り扱われた例も知られている。縄文時代のイノシシの下顎骨には,穴があけられたものはまったくなく,この取り扱い方は弥生時代に特有のものである。このことから,弥生時代のブタは,食用とされただけではなく農耕儀礼にも用いられたと思われる。すなわち,稲作とその道具のみが伝わって弥生時代が始まったのではなく,ブタなどの農耕家畜を伴なう文化の全生活体系が渡来人と共に日本に伝わり,弥生時代が始まったと考えられるのである。
関, 剣平
中国茶史上,陸羽の『茶経』があまりにも重要な文献であるため,宋代以降の茶史は唐代の陸羽をもって茶の始源として叙述する傾向が強く,その前代の魏晋南北朝時代への注目が少なかった。しかし,『茶経』が説くように魏晋南北朝時代は喫茶風習の成立期として非常に重要である。そこで同時代の史料を精査し,「風流」と「倹」の思想を軸に喫茶文化の動向を考え,さらに同時代の各社会階層における喫茶風習の受容の状況を明らかにした。あわせて『茶経』の記事を再検討し,史料批判を行った。
林, 智娜
本稿では,栄山江流域における前方後円墳の築造技術の実態について検討を行った。まず,発掘調査が行われている前方後円墳について,立地と基礎工程(整地)・墳丘の築造企画・墳丘の築造技術・墳丘盛土と埋葬施設構築の相関性・外表施設(葺石・周堤・円筒形土器)という視点から,その築造過程や用いられた技術について基礎的な整理を行った。次に,その内容について相互に比較を行うことで,前方後円墳の築造技術の特質について検討した。その結果,整地の方法は様ざまである一方で,墳丘企画については,墳丘長と後円部径の比7:4を示す事例が大半である点が注目できる。また,前方部や周溝の形態によって,大きくA,B型式に大別できた。墳丘盛土と石室の相関性については,平面的に,墳丘の中心部に石室(玄室)を築造する設計意図が,全ての事例において確認できる。その一方で,立面的には,石室優先型と折衷型という2つの類型の設定が可能である。また,墳丘築造において墳丘外縁に沿って土堤を構築する点(土堤盛土方式)も共通的である。ただし,土堤の断面形態や高さは多様である。実は,このような墳丘築造技術の中には,在地の伝統的な古墳においても認められるものも含まれている。むしろ,前方後円墳の築造の際には,前方後円という墳形(とその企画)のみが新たに導入されただけで,実際の墳丘築造技術は,地域の伝統的な方式を固守していた可能性が高い。そのような意味あいにおいて,前方後円墳を築いた集団は,その周辺において伝統的な古墳を築造していた集団と,同様な歴史的脈絡の中で活動していたと推定できる。
工藤, 雄一郎 Kudo, Yuichiro
宮崎県王子山遺跡から出土した縄文時代草創期の炭化植物遺体の¹⁴C年代測定,鹿児島県西多羅ヶ迫遺跡および上床城跡遺跡から出土した縄文時代草創期から早期初頭の土器付着炭化物の¹⁴C年代測定,炭素・窒素安定同位体分析を行ってその年代的位置づけを検討し,土器付着物については煮炊きの内容物の検討を行った。王子山遺跡の炭化コナラ属子葉と炭化鱗茎類は縄文時代草創期のものであることを確かめた。これらは縄文時代草創期の南九州において,コナラ亜属のドングリやユリ科ネギ属の鱗茎が食料として利用されていたことを示す重要な例である。一方,西多羅ヶ迫遺跡の無文土器は,隆帯文土器の直後の時期に位置づけられると推定され,鹿児島県建昌城跡から出土した無文土器の年代とも比較的近いものであった。ただし,炭素・窒素安定同位体分析の結果から,煮炊きの内容物に海産物が含まれている可能性も考えられるため,正確な年代的位置づけについては課題を残した。これらの無文土器は縄文時代早期初頭岩本式よりも,隆帯文土器の年代により近いことが分かったことは大きな成果である。上床城跡遺跡の水迫式~岩本式の土器は,これまでの縄文時代早期初頭の土器群の年代と良く一致している。縄文時代草創期から早期初頭の土器群や関連する遺構群,植物質遺物の¹⁴C年代測定例,土器付着炭化物の安定同位体分析例を蓄積していくなかで,隆帯文期の生業活動の解明,その後の消滅,縄文時代早期初頭の貝殻文系土器群の登場に至るプロセスとその実態を明らかにしていくことが重要である。
高田, 貫太 Takata, Kanta
古墳出土の龍文透彫製品は,透彫文様における肢構成の崩れ,蹴り彫りによる細部表現などの諸 属性から,龍文の退化の様相を読み取ることができる。よって,先行研究を参考としつつ,肢構成 を主たる基準としⅠ~Ⅲ式の型式系列を提示した。龍文の変遷を単系的に把握することのみでは不 十分であるので,次に,龍文の多様性から前肢平行系,前肢相反系,蛇行状尾系という3 つの小系 列を設定し,Ⅰ~Ⅲ期の相対編年案を提示した。そして,すでに相対編年がある程度確立している 馬具や鉄鏃,土器など共伴する副葬品の検討を通して,龍文透彫製品の相対編年の妥当性を検証し た。さらに,小系列の祖形を中国遼寧省を中心とした三燕地域に求めた。最後に,このような相対編年案の検討を通して, 龍文透彫製品の系譜が三燕地域-高句麗地域- 洛東江以東地域を中心とした朝鮮半島-日本列島という関係の中で追えること,その日本列島への 導入(製品の搬入,製作工人の渡来)には洛東江以東地域を中心とした朝鮮半島との不断の交流が 必要であったことを指摘した。
藤尾, 慎一郎 篠田, 謙一 坂本, 稔 瀧上, 舞
本稿は,弥生時代の人骨と,韓半島新石器時代,三国時代の人骨のDNA分析結果が,弥生時代人の成立と展開に関して与える影響について考古学的に考察したものである。筆者らは,2018年度以来,新学術領域研究,通称「ヤポネシアゲノム」によって,上記の人骨を対象に炭素14年代測定,食性分析,DNA分析を行ってきた。その結果,日本では,前8世紀の支石墓に葬られた在来系の人びと,前6世紀の伊勢湾沿岸で水田稲作を始めた渡来系の人びと,紀元前後の西北九州弥生人のDNAを,韓半島では約6,300年前の前期新石器時代と5~7世紀の三国時代の人びとのDNAを得ることができた。これらのDNAが弥生時代研究に与える5つの問題について考えた。① 縄文人や韓半島の新石器時代人は,後期旧石器時代の古代東アジア沿岸集団に特有なDNAをもっている。しかし6300年ほど前の韓半島の新石器時代人の中には,すでに渡来系弥生人と類似するDNAをもっている人びとがいたことを確認した。② 渡来系弥生人は,縄文人と韓半島南部の人びととの混血によって生まれたと考えてきた。しかし,韓半島南部の新石器時代人の子孫と縄文人が交わっても,弥生前期末以降の渡来系弥生人が成立しない場合もあることが明らかとなった。③ 前6世紀の伊勢湾沿岸地域に,渡来系弥生人のDNAをもつ水田稲作民を確認した。現状でもっとも古い例である。この調査結果は,前6世紀の伊勢湾沿岸地域以西の西日本にはすでに渡来系弥生人が広範囲に存在していたことを予想させる。西日本の渡来系弥生人の出自を検討した。④ 弥生前期には遠賀川系や突帯文土器系など系譜を異にする甕形土器があるが,使用者のDNAが異なっていた可能性が出てきた。土器の系譜とDNAとの関連について考える。⑤ 西北九州弥生人のなかに,縄文人と渡来系弥生人が混血した人と混血していない人の二者がいること,九州中部や南部にも混血した人が存在することがわかった。混血して生まれた西北九州弥生人は,いつごろ,どのような地域で誕生したのか考える。
青木, 賜鶴子 松本, 大 加藤, 洋介 藤島, 綾 海野, 圭介 小林, 健二 小山, 順子 田村, 隆 本廣, 陽子 神作, 研一 一戸, 渉
『伊勢物語』の注釈はすでに平安時代末から歌学の一部としておこなわれていたが、注釈書として成るのは鎌倉時代である。「古注」と呼ばれるそれは、『伊勢物語』を在原業平の一代記として、ときに強引に物語を読み解く。すなわち物語の出来事はすべて現実の事件の反映であるとし、主人公業平は色好みの末に何千人もの女性と契りを結んだとされる。このような古注の方法は、室町時代中期、実証を重んじた一条兼良の『伊勢物語愚見抄』によって批判され、「旧注」の時代を迎える。続いて出た宗祇と三条西実隆・公条・実枝三代の注釈は、おもに講釈の聞書として残るが、色好み否定と教訓的解釈を特色とし、鑑賞にも力を入れた。江戸時代に入り、細川幽斎や北村季吟はこれを集大成した。江戸時代中期以降の「新注」は、契沖の『勢語臆断』が文献資料を駆使して実証的に注釈したのを嚆矢として、中世の師資相承のあり方から離れて、近代の注釈へと繋がってゆく。
那須, 浩郎 Nasu, Hiroo
縄文時代晩期から弥生時代移行期におけるイネと雑穀(アワ・キビ)の栽培形態を,随伴する雑草の種類組成から検討した。最古の水田は,中国の長江中・下流域で,約6400年前頃から見つかっているが,湖南省城頭山遺跡では,この時期に既に黄河流域で発展した雑穀のアワ栽培も取り入れており,小規模な水田や氾濫原湿地を利用した稲作と微高地上での雑穀の畑作が営まれていた。この稲作と雑穀作のセットは,韓半島を経由して日本に到達したが,その年代にはまだ議論があり,プラント・オパール分析の証拠を重視した縄文時代の中期~後期頃とする意見と,信頼できる圧痕や種子の証拠を重視して縄文時代晩期終末(弥生時代早期)の突帯文土器期以降とする意見がある。縄文時代晩期終末(弥生時代早期)には,九州を中心に初期水田が見つかっているが,最近,京都大学構内の北白川追分町遺跡で,湿地を利用した初期稲作の様子が復元されている。この湿地では,明確な畦畔区画や水利施設は認められていないが,イネとアワが見つかっており,イネは湿地で,アワは微高地上で栽培されていたと考えられる。この湿地を構成する雑草や野草,木本植物の種類組成を,九州の初期水田遺構である佐賀県菜畑遺跡と比較した結果,典型的な水田雑草であるコナギやオモダカ科が見られず,山野草が多いという特徴が抽出できた。この結果から,初期の稲作は,湿地林を切り開いて明るく開けた環境を供出し,明確な区画を作らなくても自然地形を利用して営まれていた可能性を示した。
ピーター, コー二ツキー Peter, KORNICKI
本年表は、国文学研究資料館の国際共同研究「江戸時代初期出版と学問の綜合的研究」(二〇一五年度~二〇一七年度、代表者・ピーター・コーニツキー)の三年間にわたる研究の成果である。研究班発足の際、岡雅彦・市古夏生・大橋正叔・岡本勝・落合博志・雲英末雄・鈴木俊幸・堀川貴司・柳沢昌紀・和田恭幸編『江戸時代初期出版年表天正十九年~明暦四年』(勉誠出版、二〇一一年)に海外所蔵の書籍がほとんど含まれていないので、天正十九年~明暦四年期間中に刊行された海外所蔵の書籍のデータを収集し、その補訂を作成することを目標の一つとした。班の海外在住のメンバーたちが個別に調査したデータを合わせたものなので、不十分という批判を免れない。ヨーロッパ諸国はほとんどカバーしてはいるが、韓国、台湾、北米、カナダは完全にはカバーしてはおらず、豪州、中国、北朝鮮などは全然カバーしていない。完全ではないのであるが、少しでも江戸時代初期出版の研究に貢献ができれば幸いである。なお、記号や項目順番は、なるべく『江戸時代初期出版年表天正十九年~明暦四年』に従ったが、『江戸時代初期出版年表』未載の書籍名には✥印を付した。また、『江戸時代初期出版年表』所収の場合、書誌データを省略した。
中三川, 昇 Nakamikawa, Noboru
中世都市鎌倉に隣接する三浦半島最大の沖積低地である平作川低地の中世遺跡を中心に,出土遺物や遺跡を取巻く環境変化,自然災害の痕跡などから,地域開発の様相の一端とその背景について考察した。平作川低地には縄文海進期に形成された古平作湾内の砂堆や沖積低地の発達に対応し,現平作川河口近くに形成された砂堆上に,概ね5世紀代から遺跡が形成され始める。6世紀代までは古墳などの墓域としての利用が主で,7世紀~8世紀中頃には貝塚を伴う小規模集落が出現するが比較的短期間で消滅し,遺構・遺物は希薄となる。12世紀後半に再び砂堆上に八幡神社遺跡や蓼原東遺跡などが出現し,概ね15世紀代まで継続する。両遺跡とも港湾的要素を持った三浦半島中部の東京湾岸における拠点的地域の一部分で,相互補完的な関連を持った遺跡群であったと考えられるが,八幡神社遺跡の出土遺物は日常的な生活要素が希薄であるのに対し,蓼原東遺跡では多様な土器・陶磁器類とともに釣針や土錘などの漁具が出土し,15世紀には貝塚が形成され,近隣地に水田や畑の存在が想定されるなど生産活動の痕跡が顕著で,同一砂堆における場の利用形態の相違が窺われた。蓼原東遺跡では獲得された魚介類の一部が遺跡外に搬出されたと推察され,鎌倉市内で出土する海産物遺存体供給地の様相の一端が窺われた。蓼原東遺跡周辺地域の林相は縄文海進期の照葉樹林主体の林相から,平安時代にはスギ・アカガシ亜属主体の林相が出現し,中世にはニヨウマツ類主体の林相に変化しており,海産物同様中世都市鎌倉を支える用材や薪炭材などとして周辺地域の樹木が伐採された可能性が推察された。蓼原東遺跡は15世紀に地震災害を受けた後,短期間のうちに廃絶し,八幡神社遺跡でも遺構・遺物は希薄となるが,その要因の一つに周辺地域の樹木伐採などに起因する環境変化の影響が想定された。
吉田, 広 Yoshida, Hiroshi
水稲農耕開始後,長時間に及んだ金属器不在の間にも,武器形石器と転用小型青銅利器という前段を経て,中期初頭に武器形青銅器が登場する。一方,前段のないまま,中期前葉に北部九州で小銅鐸が,近畿で銅鐸が登場する。近畿を中心とした地域は自らの意図で,武器形青銅器とは異なる銅鐸を選択したのである。銅鐸が音響器故に儀礼的性格を具備し祭器として一貫していくのに対し,武器形青銅器は武器の実用性と武威の威儀性の二相が混交する。しかし,北部九州周縁から外部で各種の模倣品が展開し,青銅器自体も銅剣に関部双孔が付加されるなど祭器化が進行し,北部九州でも実用性に基づく佩用が個人の威儀発揚に機能し,祭器化が受容される前提となる。各地域社会が入手した青銅器の種類と数量に基づく選択により,模倣品が多様に展開するなど,祭器化が地域毎に進行した。その到達点として中期末葉には,多様な青銅器を保有する北部九州では役割分担とも言える青銅器の分節化を図り,中広形銅矛を中心とした青銅器体系を作り上げる。対して中四国地方以東の各地は,特定の器種に特化を図り,まさに地域型と言える青銅器を成立させた。ただし,本来の機能喪失,見た目の大型化という点で武器形青銅器と銅鐸が同じ変化を辿りながら,武器形青銅器は金属光沢を放つ武威の強調,銅鐸は音響効果や金属光沢よりも文様造形性の重視と,青銅という素材に求めた祭器の性格は異なっていた。その相違を後期に継承しつつ,一方で青銅器祭祀を停止する地域が広がり,祭器素材に特化していた青銅が小型青銅器へと解放されていく。そして,新たな古墳祭祀に交替していく中で弥生青銅祭器の終焉を迎えるが,金属光沢と文様造形性が統合され,かつ中国王朝の威信をも帯びた銅鏡が,古墳祭祀に新たな「祭器」として継承されていくのである。
西本, 豊弘 Nishimoto, Toyohiro
これまで,一般的に縄文時代の家畜はイヌのみであり,ブタなどの家畜はいないと言われてきた。しかし,イノシシ形土製品やイノシシの埋葬,離島でのイノシシ出土例から縄文時代のイノシシ飼育が議論されてきた。イノシシ飼育の主張でもっとも大きな問題点は,縄文時代のイノシシ骨に家畜化現象が見られなかったことである。ところが縄文時代のイノシシ骨の中にも家畜化現象と疑われる例があることが分かった。また,イノシシがヒトやイヌと共に埋葬されている例が知られるようになり,改めてイノシシについてヒトやイヌとの共通性を議論する必要が出てきた。そこで,本論では千葉県茂原市下太田貝塚出土資料を紹介するとともに,イノシシ形土製品・イノシシ埋葬・離島のイノシシ・骨格の家畜化現象の4項目について再検討した。その結果,文化的要素からみれば,縄文時代中期以降にブタが飼育されていたことはほぼ確実である。また,離島への持ち込みという文化的項目と骨格の家畜化現象の点から見ると,縄文前期からすでにブタが飼育されていた可能性が大きいことが分かった。しかし,縄文時代のブタは,骨格的変化が小さいことから,野生イノシシと家畜のブタが交雑可能な程度のかなり粗放的な飼育であったと推測された。ブタの存在がほぼ確実になったことは,縄文時代が単純な狩猟・漁労・採集経済ではなく,イヌとブタを飼育し,ある程度の栽培植物を利用する新石器文化であったことを意味するものである。
森川, 実
奈良時代の正倉院文書には,東大寺写経所(および奉写一切経所)において,経師らの給食で用いられた食器の器名が多数見えている。本論では写経事業ごとに食器の入手過程や食器の組み合わせについて検討をくわえ,経師らに支給された食器が4 ~ 6 種類の土器と,一部の木製食器からなることを明らかにしたうえで,これらの器名と平城宮・京出土の土器とを対比させ,奈良時代における埦・坏・盤がいかなる食器であったかを考証した。その結果,天平宝字年間の東大寺写経所では,陶埦(水埦・麦埦)と羹坏・饗坏・塩坏,陶片盤など,陶器中心の食器が用いられたことを論証し,このうちの水埦と麦埦,および饗坏と塩坏との区別があいまいであることを明らかにした。いっぽう,宝亀年間の奉写一切経所では,奉写一切経司から現物で支給された食器の多くが土師器であったことから,土鋺形・窪坏・片坏(のち枚坏)・土盤と,陶枚坏・陶盤を混用していた。宝亀4 年1 月の告朔解案で土片坏が土枚坏へと突如書き換わるのは,奉写一切経所において,その前年からにわかに多用されるようになった土窪坏の影響と考えられる。このようにして,奈良時代末に成立した窪坏・枚坏セットは土師器に固有の組み合わせで,『延喜式』大膳式ほかに見える平安時代の食器構成に受け継がれる。『延喜式』所載の器名群にかんしては,おもに主計式が書かれた年代について,既往の学説を検討したところ,大方が奈良時代から平安時代初頭にかけての時期を想定している。しかし,正倉院文書の器名群と直接比較し,共通点と相違点を整理した研究事例はほとんどない。そこで正倉院文書の器名群と,『延喜式』の器名群との比較を試みた。その結果,土師器のほうでは,奉写一切経所関連文書(宝亀年間)に頻出する鋺形・窪坏・枚坏・片盤という組み合わせを『延喜式』大膳式・斎宮式の各条文でも確認し,窪坏と枚坏との多用が,奈良時代後半から平安時代にかけて通有の現象であったことを明らかにした。いっぽう,主計式上の器名群には窪坏が見えず,平坏にあたる食器もまだ「片坏」と書かれていることから,窪坏が出現する前(奈良時代初頭から前半)の貢納規定を反映していると考えられる。つまり土師器食器の器名群は,主計式上(奈良時代前半)→奉写一切経所関連文書など(奈良時代後半から末)→大膳式ほか(平安時代初頭)という相対順序で矛盾なく整理できる。これに対し,陶器のほうは正倉院文書と『延喜式』とで,器名群の共通点が少ない。前者の器名は麦埦・水埦,羹坏・饗坏・塩坏と,その用法を暗示する用途名称を含むのに対し,後者の器名には筥坏・深坏・短女坏・脚短坏などと,その器形を思わせる器名が多い。両者に共通するのは水埦や饗坏(虀坏)などの一部にかぎられる。2 つの器名群がいかなる関係にあったかがまだ明らかでないため,『延喜式』所載陶器の器名考証はできなかったが,飛鳥時代後半から奈良時代半ばの須恵器食器を用いて陶筥坏の考定を試みた。
小川, 剛生 OGAWA, Takeo
南北朝時代の文芸・学問に、四書の一つである『孟子』が与えた影響について探った。『孟子』受容史は他の経書に比し著しく浅かったため、鎌倉時代後期にはなお刺激に満ちた警世の書として受け止められていたが、この時代、次第にその内容への理解が進み、経書としての地位を安定させるに至った。この時代を代表する文化人、二条良基の著作は、そうした風潮を形成し体現していたように見える。良基の連歌論には『孟子』の引用がかなりあり、これを子細に分析することで、良基の『孟子』傾倒が、宋儒の示した尊孟の姿勢にほぼ沿うものであったことを推定し、もって良基の文学論に与えた経学の影響を明らかにした。ついで四辻善成の『河海抄』から、良基の周辺もまた尊孟の潮流に敏感に反応していたことを確認し、『孟子』受容から窺える、この時代の古典学の性質についても考察した。
二又, 淳 藤島, 綾 谷川, ゆき
江戸時代はパロディの時代であった。その中でも、古典類が出版文化の上で花開いた十七世紀は、『枕草子』をもじった『犬枕』『尤之 双紙 』、『徒然草』をもじった『犬つれづれ』などが出て、そして日本文学史の上でも最も優れたパロディ文学『仁勢 物語』が登場する。パロディ文学の流行は、散文の小説類(仮名 草子 )に限った現象ではなく、とくにこの十七世紀には、俳諧・狂歌・漢詩文にも及び、ジャンルを超えた流行を見せていた。まさに「パロディの世紀」といってもよい時代であった(今栄蔵「パロディの世紀」『初期俳諧から芭蕉時代へ』笠間書院、二〇〇二年)。そして本テーマで展示している『伊勢物語』のパロディ『にせものがたり』『いくのゝさうし』『戯男伊勢物語』は、それぞれ『仁勢物語』の影響を強く受けつつ、新たなる『仁勢物語』をめざした作品群で、その影響は明治初期まで続き、版本『仁勢物語』自体の需要も明治時代にまで及んだのである。
板倉, 則衣
伊勢神宮は、天皇の即位ごとに天皇の皇女(内親王)または女王が選ばれ、伊勢神宮に奉仕した。こうした斎宮制度は、天武天皇の大来皇女がはじまりとされ、中断される時期はあるが、後醍醐天皇の祥子内親王までの六六一年間続けられた。 斎宮の研究は、従来、斎宮寮の成立といった制度的な側面から進められてきたが、考古学の発掘調査や文献の側面から、斎宮の政庁・居住地・生活様式などが明らかになってきている。 斎宮の本質を検討するためにも斎宮に選定された皇女または女王について検討する必要があるのではないだろうか。斎宮は、卜定という儀式によって選定されたが、卜定という儀式は、人為的に選定されたと考えられている。なぜ斎宮が意図的に選定される必要があったのか。本稿では、平安時代を中心として伊勢斎宮に選定された皇女または女王の特色または傾向を検討する。 第一に、時代別に検討を加えることにより斎宮の選定に政治的な反映があったのか、または、斎宮になる候補者が限定されたために政治的な意図がなかったかといった点を考察する。対象とする時代は、平安時代を中心とする。この時代には斎宮制度の完成が見られる一方、類似する制度である賀茂斎院が開始されて、斎宮の在り方が大きく変化するからである。平安時代以前(天武天皇から光仁天皇まで)、平安時代初期(桓武天皇から文徳天皇まで)、平安時代中期(清和天皇から村上天皇まで)、平安時代後期(冷泉天皇から後冷泉天皇まで)の四つの時期に区分する。 第二に、斎宮に選定された皇女または女王を六点の側面(①天皇と斎宮の血縁関係、②斎宮の出生順、③斎宮の選定時の年齢、④斎宮の母親の族姓と身位、⑤斎宮の同母兄弟、⑥斎宮の外祖父)から相対的に検討する。 以上の点を踏まえ、斎宮に選定された皇女または女王の特色を解明することにより斎宮の新たな一側面を明らかにすることを目的とする。
近藤, 好和
本稿は、これまで研究のなかった天皇装束から上皇装束へ移行する転換点となる布衣始(ほういはじめ)という儀礼の実態を考察したものである。 第一章では、布衣始考察の前提となる天皇装束と上皇装束の相違をまとめた。公家男子装束は必ず冠か烏帽子を被り、冠対応装束と烏帽子対応装束に分類できる。天皇は冠しか被らず、冠対応装束のうち束帯と引直衣という特殊な冠直衣だけを着用した。一方、上皇は臣下と同様に烏帽子対応装束も着用した。かかる烏帽子対応装束の代表が布衣(狩衣)であり、布衣始とは、天皇譲位後初めて烏帽子狩衣を着用する儀礼である。 ついで宇多から正親町まで(一部近世を含む)のうち上皇だけを対象として、古記録を中心とする諸文献から布衣始やそれに関連する記事を抜き出し、第二章平安時代(宇多~安徳)、第三章鎌倉時代(後鳥羽~光厳)、第四章南北朝時代以降(後醍醐~正親町)の各時代順・各上皇順に整理して、布衣始の実態を追った。 天皇装束と上皇装束の相違は摂関期から認識されていたが、上皇が布衣を着用するという行為が意識されるようになるのは高倉・後白河からであり、それが布衣始という儀礼として完成し、天皇退位儀礼の一環として位置づけられるようになるのは鎌倉時代、特に後嵯峨以降である。さらに南北朝時代には北朝に継承され、室町時代には異例が多くなり、上皇のいない戦国時代を経て、江戸時代で復活するという流れがわかった。 最後に、布衣始が院伝奏や院評定制といった院政を運営する制度と同じく後嵯峨朝で完成した点に注目し、布衣始の成立と定着もかかる流れの一環として理解することができ、布衣始が伝奏や評定が行われた院政の中心的場である仙洞弘御所で行われたことから、布衣始は院政開始儀礼であり、布衣という装束を媒介として天皇の王権から上皇(「治天の君」)という新たな王権への移行を可視的に提示する儀礼であったという見通しを述べた。
矢作, 健二 Yahagi, Kenji
縄文時代草創期・早期の遺跡である愛媛県上黒岩遺跡は,これまで岩陰遺跡として発掘調査がなされ,最近では,その成果の再調査と再評価により,縄文時代草創期には狩猟活動に伴うキャンプサイト,早期には一定の集団が通年的な居住をしていたと考えられている。しかし,岩陰からの明確な遺構の検出記録はない。上黒岩遺跡の岩陰を構成している石灰岩体の分布や山地を構成している泥質片岩の分布に,縄文時代草創期から早期に至る時期の気候変動を合わせて考えると,遺構を遺すような生活空間は,山地斜面と久万川との間に形成された狭小な段丘上の地形にあったと推定される。
林, 正之 Hayashi, Masayuki
柳田國男著作中の考古学に関する箇所の集成をもとに、柳田の考古学に対する考え方の変遷を、五つの画期に整理した。画期(一)(一八九五〜):日本社会の歴史への広い関心から考古学・人類学に参与し、山人や塚等、村落とその境界の問題を探求する。土器・石器や古墳の偏重に反発して次第に考古学から離れ、『郷土研究』誌上で独自の歴史研究を行う。画期(二)(一九一七〜):南洋研究や渡欧を通じて人類学の動向を知り、日本での国際水準の人類学創設を図る。出土人骨研究の独走や「有史以前」ブームを批判し、人類学内での人文系・自然科学系の提携、近現代に及ぶ「有史以外」究明の為の考古学との協力を模索する。画期(三)(一九二九〜):人類学の総合を留保し、一国民俗学確立に傾注する中、考古学の発展を認め、考古学との対照によって、現代の文化複合の比較から民族の文化の変遷過程を抽出する方法論を確立する。戦時下、各植民地の民俗学の提携を唱えるも、考古遺物の分布等から民族間の歴史的連続を安易に想起する傾向を排し、各民族単位の内面生活に即した固有文化の究明を説く。画期(四)(一九四六〜):敗戦原因を解明し、批判力のある国民を創るべく、近現代重視の歴史教育構築に尽力する。登呂遺跡ブームが中世以降の地域史への関心を逸らすことを警戒し、身近な物質文化の変遷から社会分析の基礎を養う教育課程を構想するも挫折する。画期(五)(一九五二〜):自身の学問の挽回を賭け、島の社会環境や大陸の貨幣経済を踏まえた移住動機の総合的モデルに基づき、稲作を核とする集団が、琉球経由で海路日本列島へ渡来したとの説を掲げて、弥生時代の朝鮮半島からの稲作伝来という考古学の通説と対決する。しかし考古学側の知見に十分な反証を出せず、議論は閉塞する。柳田は、生涯に亘って考古学を意識し、批判的に参照する中で、研究の方向を模索した。考古学は、柳田の思想の全貌を照射する対立軸といえる。
白石, 太一郎 Shiraishi, Taichirô
古墳時代後期の6世紀に日本列島の各地で造営された墳丘長60メートル以上の大型前方後円墳の数を比軟すると,他の諸地域に比べ関東地方にきわめて多いことが知られる。律令体制下の国を単位にみてみると,関東では上野97,下野16,常陸38,下総11,上総28,安房0,武蔵26,相模0で,合わせて216基となる。うちに大王墓をも含む畿内地方でも大和20,河内12,和泉0,摂津2,山城5の計39基にすぎず,さらに吉備地方では,備前2,備中1,備後1,美作0の計4基にすぎない。また東海地方の尾張では12,美濃では7基を数えるが,尾張に多いのは継体大王の擁立にこの地の勢力が重要な役割をはたしたという特別の政治的理由によるものと思われ,東日本の中でも関東地方だけが後期前方後円墳の造営において特殊な地域であったことは明らかである。一般に前方後円墳は,畿内勢力を中心に構成されていた政治連合に加わった各地の首長たちが,この連合における身分秩序にしたがって営んだものと考えられているが,6世紀の関東地方では前方後円墳の造営に際してそれ以外の地域とは明らかに異なる基準が適用されたことになる。また小地域における大型前方後円墳の密集度からも,その被葬者は単なる領域的支配者としての地域首長であるばかりでなく,畿内王権がこの地方に数多く置いた子代・名代などの部や舎人などの地方管掌者としての性格をも併せもつものであったと考えざるをえない。関東地方に他の地域と異なる基準に基づいて数多くの大型前方後円墳が営まれた理由は,この地域が畿内政権をささえる経済的・軍事的基盤としてきわめて重要な地域であったこと,さらに畿内諸勢力の連合体としての畿内政権を構成する諸豪族がそれぞれにこの地域の在地勢力と結びついて支配の拠点をえようとした結果と考えられ,まさに畿内政権の構造的特質によるものと思われるのである。
工藤, 雄一郎 Kudo, Yuichiro
「縄文時代の始まり」あるいは「最古段階の土器」の研究は1950年代以降,¹⁴C年代測定と古環境研究の進展と常に密接に絡みながら進んできた。そこで本論では,これらが更新世/完新世(洪積世/沖積世),氷期/後氷期の境界,あるいは晩氷期と,どのように対比されてきたのかに注目して,戦前から現在までの研究の流れを整理した。縄文時代の始まりは沖積世の海進のピーク以後というのが戦前の一般的な地質時代観であったが,それが大きく変わる画期となったのが撚糸文土器の発見と夏島貝塚の¹⁴C年代測定であった。9,000年前を遡る土器と後氷期の開始が結び付けられ,考古学界には「後氷期適応論」が普及した。1963・1966年に公表された福井洞窟や上黒岩岩陰の¹⁴C年代は12,000年代まで遡り,氷期/後氷期の境界として認識されていた1万年前を超え,最古の土器を縄文時代から切り離す時代区分が提案されるきっかけとなるとともに,土器の出現と晩氷期との対比も始まった。1990年代になると,グリーンランド氷床コアなどの高精度の古環境研究が公開され,較正曲線IntCal93によって土器の出現が15,000年前まで遡る可能性が示されたが,決定的な画期となったのは1999年に公表された大平山元Ⅰ遺跡の較正年代であった。土器の出現が16,000年代まで遡るとともに,晩氷期を突き抜けて最終氷期の寒冷な環境下で土器が使用され始めたことが判明し,「土器出現の歴史的意義」と時代区分の画期としての土器の出現についても再検討が行われはじめた。2000年「佐倉宣言」以降は較正年代の理解とその使用が普及し縄文時代の始まりの年代と古環境との詳細な対比が行われるようになり,時代区分の再検討も進みつつある。
中島, 経夫 Nakajima, Tsuneo
コイ科魚類の咽頭歯がもつ生物学的特性から,遺跡から出土する咽頭歯遺存体を分析することによって先史時代の人々の漁撈活動の様子を知ることができる。日本列島では,縄文時代からイネの栽培が始まり,弥生時代には灌漑水田での稲作が始まる。淡水漁撈の場と稲作の場が重なりあってきた。西日本の縄文・弥生時代の遺跡から出土する咽頭歯遺存体についての情報がある程度蓄積し,淡水漁撈と稲作の関係について述べることができるようになった。西日本の縄文・弥生時代における漁撈の発展は,稲作との関係から,0期:水辺エコトーンでの漁撈が未発達の段階,Ⅰ期:水辺エコトーンでの漁撈が発達する段階(Ia期:原始的稲作が行われていない段階,Ib期:漁撈の場での原始的稲作が行われる段階),II期:稲作の場(水田)での漁撈が発達する段階,に分けることができる。長江流域では,Ia期に漁撈の場(水辺エコトーン)でのイネの種子の採集が加わる。長江流域の漁撈と稲作の関係については,咽頭歯遺存体から多くを述べることができない。というのは,これまで,中国での咽頭歯遺存体についての詳しい研究は,河姆渡文化期の田螺山遺跡の例をのぞいてまったくない。今後,新石器時代の遺跡から出土する咽頭歯遺存体の研究が進むことによって,漁撈と稲作の関係や稲作の歴史について言及できるはずである。
田﨑, 聡 Tasaki, Satoshi
現在、沖縄県をはじめ伝統的食文化と課題に対して、保存、普及、継承、連携という推進計画が取り組まれているが、基本的に琉球料理とは、琉球王国料理を中心に食文化を展開しており、王朝以前の食文化や農漁村の食文化、商人や町民の食文化はどういうものだったかという文献があまり残されていない。そこで、日本の和食文化との時代的背景、中国、東アジアと時代的背景を探りながら、失われた長寿食文化の源流を探り、考察する。
千賀, 久 Chiga, Hisashi
日本の古墳から出土する飾り馬用の馬装具は,その系統の違いによって「新羅系」と「非新羅系」とに大きく分けられるが,その主流となるのは後者の特徴をもつ馬具である。この分類基準は,朝鮮半島の5世紀後半以降の馬具の製作地の違いを示す要素として,金斗喆氏が提示したものであり,「新羅系」馬具は主に高句麗と新羅,そして加耶の一部の馬具に見られ,「非新羅系」馬具は主に百済と加耶に集中するという傾向があるので,日本の馬装具の系譜を知る際にも有効な分類といえる。本論では,このうち「非新羅系」馬具を取り上げて,まず,日本出土のf字形鏡板付轡と剣菱形杏葉の故地の候補地である大加耶圏の馬装具の変遷のなかで,同地域で馬具の改造が頻繁に行われていたことに注目した。その多くは,「新羅系」・新羅製馬具から「非新羅系」への作り替えであり,その背景には百済地域からの強い影響が考えられ,特に高句麗との戦いで百済が一時的に滅ぼされた5世紀後半には,その難を逃れた工人を受け入れたことによる大加耶圏の工房の変容を想定した。また,剣菱形杏葉が考案された地域については,韓国での百済古墳の実年代観に議論の余地を残しているが,百済の公州地域でf字形鏡板と同時に創作された可能性のほうが強いと考えた。そして,日本列島にもたらされたf字形鏡板・剣菱形杏葉の馬装具は,百済から直接きたものと,百済製品が大加耶圏を経由してきた場合,さらに大加耶圏でそれらが模倣されたものが運ばれた場合とが想定できる。また6世紀前半には,新羅の心葉形鏡板・杏葉の馬装具が大加耶圏で改造されたものが,日本の楕円形の飾り馬具に系譜的につながると考えた。このように,5世紀後半から6世紀前半ごろまでの日本の馬装具の系譜は,まず百済に,その後は大加耶圏に求められた。これは,当時の朝鮮半島情勢のなかで,日本列島の倭と友好関係を維持していた地域を知るうえで有効な資料となる。
シルヴィオ, ヴィータ VITA, silvio
マリオ・マレガ神父の研究成果には、キリシタン時代の歴史研究と日本文化研究の二つがある。それは時代の流れに答えたものであり、三つの文脈の中に位置づけることができる。まず一つは、バチカンとの繋がりにおいて、当時の布教論と関係する。あとの二つは日本国内におけるローカルなもので、大分地元社会の郷土研究及び昭和時代のキリシタン研究だが、本論では主として、マレガの時代におけるカトリック教界の布教者像の再構築に焦点を合わせる。彼の活動がサレジオ会内でどのように捉えられたかを考察し、マレガが作り上げた「知」の体系の全体像を整理したい。さらに、1925年のバチカン布教博覧会にみる布教者像に着目しながら、マレガの歴史研究のあり方をその枠組みの中で問い直す。
澤田, 和人
明治21年(1888)の月岡芳年画「風俗三十二相」を嚆矢として,明治24年(1891)から26年(1893)の水野年方画「三十六佳撰」,明治29年(1896)の小林清親画「花模様」,明治29年から30年(1897)の楊洲周延画「時代かがみ」というように,明治20年代には,歴史的に各時代の風俗を振り返って捉えた,いわゆる「時代風俗」の視点で女性を描く錦絵のシリーズ物の版行が相次いだ。それだけ人気のあったテーマであったことが推し量られるが,興味深いのは,女性の時代風俗を描いたシリーズはあっても,男性のそれは確認できないことである。本稿では,そうしたアンバランスが生じた理由について,まずは考察した。結果,明治20年代の歴史回顧熱と流行に対する関心の高さ,そして,流行が女性の領域とされていたこと,さらには,流行の装いをした女性に美が見出されること,以上の要件が合いまり,男性にはない時代風俗を描く女性のシリーズが創案され,なおかつ人気のあるテーマになったことが導き出された。続いて,既に詳細な解説がなされている「風俗三十二相」を除き,「三十六佳撰」「花模様」「時代かがみ」について,時代考証の在り方を検証し,画家たちが抱えていた課題を指摘した。すなわち,江戸時代の風俗考証に依拠していることが明らかとなった。そして,このような課題を克服しようとしていた風俗史の研究,中でも小袖の研究に関わる動向を追いかけ,その後の美人画制作に研究成果がいかに反映されているのかを確認した。さらには,美人画と現実の着物との関係について見たうえで,従来言われているように,着物姿の「女性」が「日本」の「美」を象徴するのか考察した。すると,着物姿が必ずしも日本的とは言えない事実が浮かびあがってきた。
翁長, 謙良 米須, 竜子 新垣, あかね Onaga, Kenryo Komesu, Ryuko Arakaki, Akane
本研究では,沖縄県におけるこれまでの赤土等流出防止に対する研究を踏まえ,土砂流出が及ぼす影響や年間流出量等を考察し,これまでの赤土等流出の歴史的経緯を概観し,対策の提言を行った。その結果,次のように要約できる。赤土流出の影響としては,道路や田畑等の損傷の物理的面,沿岸の景観の悪化という精神的面,川や海の底生生物への影響と云った生物的面等がある。土壌侵食と土壌保全の歴史的経緯の概略についてこれまでは,次の四つの時代,即ち(1)17世紀以前の焼畑農耕時代,(2)18世紀半ばの蔡温時代,(3)1920∿1930年の杣山(官有林)開墾時代,(4)1950年代後期∿現在までの時代に区分したが,昭和18年代の我謝栄彦の提言を考慮し,時代区分を六つの時代とした。急激な畑地造成の結果,土砂流出が著しいものとなり,現在では赤土等流出防止条例(1994)の施行によって,具体的な対応策が講ぜられている。赤土等流出防止条例の施行後,歴史的に侵食の最大原因とされていた開発事業に関してはかなりの改善策が取られ,流出量は大幅な減少を見ている。また対策としては,土木的対策として,圃場の区画の形態をUSLE(Universal Soil Loss Equation : 汎用土壌流亡予測式)を基に検討し,排水路,承水路の配置については耕区単位ごとに承水路を設けることや畑面の傾斜を緩やかにすること,また沈砂池等の砂防施設のあり方等についてはその大きさ,真水と濁水の分離排水を提言した。営農的防止対策としては,マルチングの効果やミニマムティレッジによる土壌保全の効用等を提言した。
武田, 和哉
中華世界においては,権力者や貴族など有力者の墓に,墓誌と呼ばれる石刻物を埋納する文化が存在した。墓誌が出土すると,被葬者や墓の築造年代の特定が可能となるので,歴史学・考古学分野においては極めて重要な副葬品と認識されてきた。 墓誌は石に文字を刻むという意味で貴重な史料であり,当時の記載情報が直接現在に伝えられる情報媒体としても重要な存在である。 墓誌の起源は漢代とされ,当初は被葬者の姓名や生前の職位を石材に簡略に記していた。時代の経過とともに,墓中に埋納される形態となり,生前の事績を詳細に記し,末尾には故人を哀悼する韻文「銘」も付されるようになった。また,墓誌の形状や文体は北魏時代頃には定型化した。唐時代には墓誌文化は盛行して,大きさも巨大化し,文化的に定着した。契丹(遼)時代には,被葬者の地位と墓誌の大きさには明確な相関関係が見られ,また契丹文字を記した墓誌は,皇帝の親族などのごく一部の被葬者に限られるなどの特徴があった。 墓誌は封印された墓の中に埋納される。そのため,この墓誌の文とはいったい誰に向けて編まれた内容であるのか,という疑問は残る。筆者は,被葬者の哀悼という目的とともに,葬送者自身の自己認識のための目的も想定した。そもそも,墓誌の文化が進展した北魏・唐・契丹(遼)時代は,中華世界においては周辺の諸民族が社会に進出する時代に該当しており,そうした時代的背景と関係がある可能性を考察した。
島津, 美子 岡田, 靖
江戸時代後期になると、それまで京都を中心に行われてきた仏像の造像活動が、地方においても盛んになる。これらの仏像には彩色が施されていることが多いものの、彩色の調査や色材分析の事例はそれほど多くない。この点に着目し、現在、山形県下に安置されている仏像群の彩色調査を行った。調査の対象は、いずれも一九世紀に造られた彩色の木彫像で、京都七条仏師による作から、その流れをくむ地方仏師らによって造られた仏像群である。前回の調査において、一九世紀前半の作例一件と明治時代に入ってからの作例二件の色材分析を実施したところ、明治時代の作例にのみ、一部の色で輸入の合成色材が使われていた。本調査では、一九世紀中頃から末期にかけて造られた彩色仏像群九件に使われた色材を明らかにしつつ、輸入色材の種類や導入期などを検討した。明治時代に入ってから造られた尊像にみられる明るめの緑と青には、それぞれ、岩緑青がエメラルドグリーン(アセト亜ヒ酸銅)に、天然藍が合成ウルトラマリンブルーに置き換わっていることが明らかとなった。一方で、色調の暗めの緑では、江戸時代と変わらずに黄色の石黄と藍色の色材が混合されたものが使われていた。同様に、赤や黄といった暖色系の色材も一九世紀を通してほぼ同じ色材が使われている。日本は、一九世紀の後半に諸外国との交易を正式に再開し、江戸時代から明治時代へと変わっていることを考慮すると、こうした社会的な変化が、彩色材料にも影響を及ぼしていたものと考えられる。一方で、他の色材は江戸時代にも使われていたものであり、すでに輸入されていた色材、たとえばプルシアンブルーが単色で使われた例は認められていない。本稿では、色材分析の結果をもとに、一九世紀の彩色仏像に用いられた色材について、輸入色材のみでなく、在来のものも含めて概観した。
岡, 雅彦 OKA, Masahiko
世に一休和尚作と伝えられる著作及び一休を主要登場人物とする作品等で、江戸時代に出版された版本を初版再版にかかわらず年代順に並べた年表である。
安里, 進 Asato, Susumu
20世紀後半の考古学は,7・8世紀頃の琉球列島社会を,東アジアの国家形成からとり残された,採取経済段階の停滞的な原始社会としてとらえてきた。文献研究からは,1980年代後半から,南島社会を発達した階層社会とみる議論が提起されてきたが,考古学では,階層社会の形成を模索しながらも考古学的確証が得られない状況がつづいてきた。このような状況が,1990年代末~2000年代初期における,「ヤコウガイ大量出土遺跡」の「発見」,初期琉球王陵・浦添ようどれの発掘調査,喜界島城久遺跡群の発掘調査などを契機に大きく変化してきた。7・8世紀の琉球社会像の見直しや,グスク時代の開始と琉球王国の形成をめぐる議論が沸騰している。本稿では,7~12世紀の琉球列島社会像の見直しをめぐる議論のなかから,①「ヤコウガイ大量出土遺跡」概念,②奄美諸島階層社会論,③城久遺跡群とグスク文化・グスク時代人形成の問題をとりあげて検討する。そして,流動的な状況にあるこの時期をめぐる研究の可能性を広げるために,ひとつの仮説を提示する。城久遺跡群を中心とした喜界島で9~12世紀にかけて,グスク時代的な農耕技術やグスク時代人の祖型も含めた「グスク文化の原型」が形成され,そして,グスク時代的農耕の展開による人口増大で島の人口圧が高まり,11~12世紀に琉球列島への移住がはじまることでグスク時代が幕開けしたのではないかという仮説である。
清家, 章 濵田, 竜彦 篠田, 謙一 神澤, 秀明 安達, 登 角田, 恒雄
宇野, 隆夫
日本列島には、海辺・里(平野)・山の多様な環境があり、かつそれらは川によって結ばれることが多い。そして列島各時代の特質は、その住まいの選び方に現れることが多かった。本稿は、このことの一端を明らかにするために、富山県域の縄紋時代遺跡をとりあげ、GISによる密度分布分析・立地地形分析・眺望範囲分析・移動コスト分析をおこなった。 その結果、縄紋時代の盛期(前期~晩期)に遺跡数が増加して遺跡立地が多様化するとともに、海辺・里・山それぞれにおいて、それぞれの資源の開発に適した場所に集落ができたこと、かつそれらが1時間歩行範囲の連鎖からなるネットワークを形成したことを明らかにした。弥生時代には、これらの縄紋遺跡の多くが途絶える一方、山・里・海を一望できる遺跡が多く出現することは、社会の質の大きな転換を示しているであろう。
李, 秀鴻 Lee, Soo‒hong
本稿では,これまで調査された韓半島南部地域の青銅器~三韓時代の環濠遺跡48ヶ所を集成し,環濠の時期ごとの特徴や性格,変化の傾向を検討した。韓半島南部地域において環濠は,青銅器時代前期には登場しており,清原大栗里遺跡で確認できる。幅の狭い3列の溝が等高線方向に曲走する。出土遺物からみて遼寧地域から直接移住した集団が築造したものと判断できる。青銅器時代において環濠の成立および拡散が明瞭に確認できる時期は,青銅器時代後期である。この時期には,大部分の環濠が嶺南地域に集中的に分布し,その中で地域的な差異も看取できる。まず,蔚山圏ではすべて丘陵上に分布し,1列の環濠がムラの周りを取り囲む形態が多い。地形や立地の特徴から,儀礼空間を区画する性格があったと判断できる。本稿では,環濠自体と環濠が眺望できる集落からなる結合体を,拠点集落と把握した。一方で,晋州圏では主に沖積地の大規模な集落に環濠が備わっている。木柵をともなう場合もあり,防御もしくは境界という機能がより強かったようである。ただし,防御といっても必ずしも戦争の際の防御だけではなく,野生動物の脅威にも対応した施設であった可能性もある。環濠が大規模な集落に設置されているため,拠点集落の指標となることは蔚山圏と同様である。環濠の成立は,青銅器時代の前期と後期の画期と評価でき,大規模な土木工事である環濠の築造を可能にした有力な個人の登場を推測することができる。三韓時代の前期には,韓半島の広い範囲に環濠遺跡が分布する。この時期には儀礼遺構としての意味が極大化する。1列の主環濠の外部に同一方向の幅狭の溝が並行するものが一般的な形態である。山頂部に円形に設置する例が多い。三韓時代の後期には環濠遺跡の数が急減する。これらは木柵をともなったり,環濠の幅が広くなったりしており,社会的緊張による防御的性格が強くなるように見受けられる。三韓時代後期に環濠が急減するのは,中国や高句麗から土城が伝来し,各地の国々が統合する過程において,地域の小単位としてあった環濠集落もより大きな単位への統合されていくためと考えられる。
王, 秀文
植物にまつわる民間伝承において、桃ほど古く、広く伝えられているものはあるまい。中国の『詩経』に収められている遠い周の時代の民謡、春秋戦国の時代から行われた諸儀式と年中行事、漢の時代に急に浮上してきた度朔山伝説、六朝時代から盛んに伝えられるようになってきた西王母の伝説や神仙説、さらに晋の陶淵明の「桃花源記」や明代に集大成された『西遊記』物語、および今もお正月に、門戸の両側に貼り付ける赤い紙切れの「春聯」など、至るところに、桃の伝承が浸透している。いっぽう、日本においても、記紀神話から平安時代の宮中の儀式まで、鬼門信仰から「桃太郎」の民話まで、桃の伝承は数多くみられる。 このように、桃に関する伝承は広い分野にわたって日中間に分布しているが、これがいったい何を意味するのだろうか。これまでの研究は、分野別・国別的なものが多く、結論も偏りすぎて一貫性を欠いていた。本研究は、学問的分野や伝承の地域性を越えて、おもに日中に伝わる伝承を通観することにより、桃のシンボリズムと人類の歴史・生活史・精神史との関係をより深く究明しようとするものである。
小田, 寛貴 安, 裕明 池田, 和臣 坂本, 稔 Oda, Hirotaka Yasu, Hiroaki Ikeda, Kazuomi Sakamoto, Minoru
三井寺切は,料紙両面に異なる筆跡の書をもつ古筆切である。片面には草書で仏書が書かれており,もう片面には『李善注文選』の一部分が楷書で書かれている。草書の仏書は,円珍(智証大師)の手になるものとされており,平安時代の書風を持っている。料紙表面の状態と書跡とから判断すると,『李善注文選』側のほうが仏書よりも先に書かれたものであると判断できる。本研究では,この『李善注文選』が書写された年代を明らかにするべく加速器質量分析法による¹⁴C年代測定を行った。その結果,2σで666~776[cal AD]という較正年代が得られ,この古筆切が奈良時代以前に書写された『李善注文選』写本の断簡であることが示された。現存する最古の『文選』写本は,平安鎌倉時代の残欠本であり,奈良時代では正倉院文書と平城宮跡出土木簡に一部分が書写されたものが残されているにすぎない。それゆえ,奈良時代以前の書写年代をもつ本古筆切は最古級の『文選』写本の断簡であることになる。
沢山, 美果子
本稿では,江戸時代,とくに女と子どものいのちを救うための努力がなされていった18 世紀後半以降の民間療法に焦点をあてる。歴史人口学の研究成果によれば,江戸時代,女性が出産でいのちを失う率は高く,また乳児死亡率も高かった。「家」の維持・存続を願う人々にとって,女と子どものいのちを守ることは,重要な課題であった。そのため,江戸時代には,人々の生活経験をもとにした様々な民間療法が生みだされていた。ここでは,仙台藩の上層農民の家に写本として残された民間療法,その支藩である一関藩の在村医が書き残した民間療法を手がかりに,江戸時代の人々は,身体という内なる自然に起きる危機としての妊娠,出産にどのように対処し,母と赤子のいのちを守ろうとしたのか,そこには,どのような自然と人間をめぐる人々の認識や身体観が示されているかを探った。 考察の結果,次のことが明らかとなった。江戸時代後期には,人々が生活の中で経験的に蓄積してきた身体をめぐる民間の知恵を文字化した民間療法が広く流布していくが,そこに記された,妊娠・出産をめぐる処方,とりわけ対処が困難な難産の処方では,自然の生産物である動植物や清浄な身体からの排泄物が用いられる。それは,脅威としての自然を恵としての自然につくりかえ,自然と人間の一体化を図り身体を回復させることで,内なる自然に起きた困難を取り除こうとする試みであった。そこには,江戸時代の人々の,自然と人間を切り離せないものとして捉える捉え方が示されている。
小林, 謙一 Kobayashi, Kenichi
九州,四国,北陸,中部,関東,東北地方の,縄紋時代草創期,早期,前期に属する土器付着物,土器と共伴した炭化材・種実の炭素14年代測定について検討する。特に,歴博が2001年度~2005年度に収集し処理した試料,159測定例を中心に分析する。2000年度以前の測定例については,重要な事例や測定数が不足な時期について,補足的に扱う。それらの事例について,土器型式・出土状況・δ13C値を含む測定結果を検討した上で信頼できる結果を集成する。暦年較正年代を算出して,土器型式との関係を確認し,型式ごとの実年代を推定する。その結果,縄紋時代草創期はおおよそ15,700年前からおおよそ11,600年前まで,縄紋時代早期はおおよそ7,000年前まで,前期は5,470年前までということが推定された。また,大平山元Ⅰ遺跡の測定結果の再検討と,新たな草創期遺跡の測定結果によって,日本列島における土器の発明の実年代がおおよそ16,000~15,500年のあいだには求められることが確認された。縄紋時代の始まりを隆線文土器とすると確実には15,500年前ごろとなり,沖縄を除く日本列島全体に1,500年の可能性もある長期のあいだ,連続して存在し展開していたことが確認された。縄紋時代のはじまりについての年代的な議論の基礎を確認することができた。縄紋時代早期・前期の年代観についてもおおよそ土器大別型式ごとの実年代を推定することができた。ただし,草創期爪形文系土器,早期沈線文系土器,前期前葉花積下層式・関山式土器については測定例が非常に少なく,詳細な年代を検討することはできない。さらに測定例を蓄積し,再検討していく必要がある。
高久, 健二 Takaku, Kenji
本稿は加耶地域出土の倭系遺物を総合的に解釈し,韓国側における対倭交渉の実態およびその変化を明らかにすることを目的とする。具体的には加耶地域出土の倭系遺物を3世紀後半~5世紀前葉と5世紀中葉~6世紀前半の二時期に分けて,その出土様相,分布,時期などについて検討した。その結果,まず3世紀後半~4世紀については,大成洞古墳群の倭系遺物が注目され,とくに大型木槨墓である大成洞13号墳に複数の倭系遺物が副葬されている点から,倭との交渉を主導していたのは金海の上位階層であり,これらを通じて倭系遺物がセットでもたらされたものと推定した。また,南部地域出土の土師器および土師器系土器は,その様相からみて,3世紀後葉~5世紀前葉に倭から渡来した人々が在地の集団とともに一定期間生活していたことを示すものであるが,倭人集団が数世代にわたって長期定住した可能性は低いと考えられる。したがって,その目的は政治的な移住などではなく,南部地域の鉄を入手するための比較的短期間の断続的な渡来ではなかったと推定される。また,倭系遺物の分布が南部海岸地域に集中しており,内陸部ではほとんど出土していないことからみて,当時の対倭交渉の窓口が南部地域に限定されていたものと推定した。5世紀中葉~6世紀前半になると,内陸地域でも倭系遺物が出土するようになり,前時期に比べて分布域が拡大する。とくに,大伽耶の中心地である高霊地域では,池山洞古墳群などで倭系遺物が比較的多く出土している。しかし,倭系遺物の分布の拡大が,そのまま倭人の行動範囲の拡大を意味するものではなく,5世紀後半以後も倭が加耶と直接交渉する地域は,南部海岸地域に集中していた可能性を指摘した。5世紀後半になると内陸の大伽耶地域と,固城などの南部海岸地域とのネットワークが確立し,これに起因して倭系遺物の分布が内陸地域に拡大したものと考えられる。つまり,倭系遺物の拡大はこのようなネットワークを背景にして南部海岸地域から内陸部へ再分配された結果であり,加耶における倭人の活動範囲はかなり限定されていたのではないかと推定した。
佐本, 英規
2013 年 10 月,ソロモン諸島マライタ島南部アレアレの熱帯雨林に即製のレコーディング・スタジオが出現した。本論文は,アレアレの在来楽器である竹製パンパイプと即製のレコーディング・スタジオをめぐる一連の出来事の検討を通じ,グローバル化時代のアレアレの在来楽器が混淆化する様相を論じる。着目するのは,一方で在来の竹製パンパイプを取り込み同時代の音楽を生み出そうとする人びとの制作と,他方でグローバル化時代の音楽を組み入れつつ在来の竹製パンパイプを作り直そうとする人びとの制作との対称的な関係である。民族誌の最後の局面では,それぞれの制作が即製のレコーディング・スタジオで時空間を共有する状況が示される。そこでは,プロデューサーとエンジニア,演奏者といった人びとが,レコーディングという共通の出来事に臨みつつ,それぞれの意図の実現に向けて各々の制作行為に取り組む様相に焦点があてられる。最終的に,グローバル化時代において異なる者同士が出会い,ひとつの出来事を共有することの困難と可能性の一端が,音楽をめぐる媒介の営為に関する考察を通して示唆される。
大口, 裕子 田村, 隆 藤島, 綾 恋田, 知子 神作, 研一 谷川, ゆき
例えば、思いのたけを和歌に託す登場人物や、主人公が旅する見たこともない遠い場所。『伊勢物語』の読者はどれほど興味をかきたてられたことだろうか。十一世紀初めに成立した『源氏物語』に伊勢物語絵巻の記述があり、『伊勢物語』は成立後まもなく絵画化され鑑賞されたと考えられる。しかし現存最古の遺品は鎌倉時代のもので、墨の繊細な線描を生かした白描絵巻断簡や、濃彩で描かれた装飾的な絵巻が伝わる。続く室町時代から桃山時代にかけては、場面選択や構図が共通する二つの系統の伊勢物語絵などが知られる。そして慶長十三年(一六〇八)、四十九図の絵入り豪華本「嵯峨本伊勢物語」が初めて出版という形で世に出た。以後、伊勢物語絵の享受層が大きく広がり、嵯峨本を踏襲した絵が大半を占めるようになってゆく。また、江戸時代には、俵屋宗達、尾形光琳ら琳派の絵師たちも、おおらかで気品ある伊勢物語絵の作品を多く制作した。
樹下, 文隆 KINOSHITA, FUMITAKA
国文学研究資料館蔵『元禄十一年能役者分限帳之控』を影印で紹介する。本書は、現在知り得るもっとも古い能役者の分限帳であり、今までに紹介された分限帳の中で最も古い『天明三年御役者分限帳』を約一世紀遡って、江戸時代前期の幕府御抱え能役者の実態を知る貴重な資料である。元禄期は、度外れた能楽愛好家だった将軍綱吉によって能界が翻弄された時代であり、能役者の追放、座替え、士分取り立て等が頻繁に行われた。本書はその只中の記録である点でも、貴重な資料であり、江戸時代の能楽研究に必須の資料である。影印紹介するにあたり、若干の解題と内容の一覧表を添える。
山中, 光一 YAMANAKA, Mitsuichi
時代状況というものが、作家や作品と相互作用をもつ実体としての「場」として把えられることを、近代文学の出発点における二葉亭四迷の例について論じ、そのマクロの時代状況を記述する方法として、読者層、出版メディア、言葉と文体の要素について、時代的変化の指標を分離して論ずることについて述べる。次いで明治期のデータについて、それらの指標の変化を調べ、全体として文学と相互作用をもつ場が、明治20年までの近世レベルの延長、明治40年の近代レベルへの飽和、およびその間の遷移として特徴づけられ、二葉亭四迷における場合とも矛盾しないことを示す。
藤尾, 慎一郎 Fujio, Shinichiro
本稿は,ブリテン新石器時代の葬制研究を紹介したものである。ブリテン新石器研究は,近代考古学がはじまって以来,巨石建造物(メガリス)を研究対象にしてきた。巨石建造物が新石器時代の編年をおこなう際の指標として位置づけられてきたこともあるが,何よりもそこからみつかる大量のバラバラになった人骨が人々の関心をひきつけてきたからである。人骨がみつかるために,巨石建造物はしごく当然に墓と考えられ,なぜ,このような状況で大量の骨がみつかるのか,を考えた葬制研究が,ブリテン新石器研究の中心だったのである。1950年代までは,大量の人骨が,バラバラになった状態で建造物内につくられた石室内におかれるようになった原因をめぐり研究がすすんだが,'60年代のいわゆるプロセス期になると,このような行為には生の世界の社会組織や構成原理が反映しており,巨石建造物はモニュメント(巨石記念物)と認識されるようになる。'80年代のポスト・プロセス期になると,一転してそのような行為に,生の世界の社会組織や構成原理は反映されないとしてプロセス学派は批判され,行為自身や石室構造にこめられた象徴性の解明をめぐる研究がおこなわれる。そして現在,新石器前期は儀礼を再優先していた時代との認識と,儀礼行為自身が人々の表現戦略であったと考えられるにいたっている。縄文時代の葬墓制研究は,ここ20年ほど,親族研究・社会組織の解明を中心に進展してきた。最近わかってきたモニュメントでおこなわれていた祭りと,墓でおこなわれた死者儀礼とはどのような関係にあるのか。今後,どういう方向に向かおうとしているのか。再葬・合葬主体のブリテン前期新石期時代と一次葬・個人墓主体の縄文時代という枠組みをこえて考える。
辻, 誠一郎 Tsuji, Seiichiro
台地・丘陵を開析する谷および低地から得られた弥生時代以降の植生史の資料を再検討し,以下のような知見を得た。縄文時代後期から古代にかけて,木本泥炭か泥炭質堆積物の形成,削剥作用による侵食谷の形成,運搬・堆積作用および草本泥炭の生成による侵食谷の埋積,という一連の地形環境の変遷が認められた。気候の寒冷化,湿潤化,および海水準の低下という諸要因の組み合わせが木本泥炭か泥炭質堆積物の形成を,そのいっそうの進行が侵食谷の形成をもたらし,さらに,河川による粗粒砕屑物の供給と谷底での水位上昇が草本泥炭による侵食谷の埋積をもたらしたと考えられた。この時代を通して,関東平野では照葉樹林の要素,スギ・ヒノキ類・モミ属など針葉樹が拡大したが,これは気候の寒冷化と湿潤化,および地形環境の不安定化によると考えられた。弥生時代以降の人間活動と深いかかわりをもつ植生変化には少なくとも3つの段階が認められた。第1の変化は弥生時代から古代にかけてで,居住域周辺の森林資源の利用と農耕によってもたらされた。第2の変化は中世の13世紀に起こり,主にスギと照葉樹林要素のおびただしい資源利用および畑作農耕の拡大によってもたらされ,マツ二次林の形成が促進された。中世都市である鎌倉ではその典型をみることができる。第3の変化は近世の18世紀初頭において起こり,拡大しつつあったマツ二次林にマツとスギの植林が加わり,森林資源量が増大したと考えられた。
徳田, 誠志
本稿は『聆濤閣集古帖』に掲載されている考古資料のうち,関西大学博物館に現存している資料を取り上げて,吉田家3代にわたる古物収集過程の意義を考察した。『聆濤閣集古帖』に掲載された馬形埴輪には出土地も所蔵者の情報もないが,『摽有梅』(野里梅園著)には「将門城跡ヨリ出ル古代土馬」「蒹葭堂蔵」との記述がある。このことから馬形埴輪は,常総市にある「向石毛城跡」近くにある「神子埋古墳群」から出土したものと判断した。その根拠は古墳群から出土した埴輪の胎土と,馬形埴輪の胎土の特徴が一致したことによる。すなわちこの埴輪は江戸時代に常陸国で出土したのち大坂に居住した木村蒹葭堂の手に渡り,彼の死後吉田家にもたらされた。そして明治維新を迎え,埴輪は吉田家から兵庫県令神田孝平のもとに移る。神田は好古家でもあり,吉田家とは親しい交際が知られている。その後,神田のコレクションは,昭和初期に本山彦一(大阪毎日新聞社長)に譲渡され,戦後になって関西大学が一括して購入した。次に『聆濤閣集古帖』にある琴柱形石製品は,木内石亭によって著された『雲根志』や,『集古図』(藤貞幹著)にも掲載されている。この資料は大和国長岳寺塔頭普賢院の住職が所蔵したとされるが,『聆濤閣集古帖』には底面の拓本が記録されており,吉田家の近いところに存在したことが窺える。明治維新後は好古家の柏木貨一郎が所蔵し,その後神田と本山の手を経て関西大学博物館に収蔵された。本稿では『聆濤閣集古帖』に掲載された考古資料の,その後を明らかにしてきた。そして18世紀後半に登場してくる好古家が,彼らの知的好奇心によって古物を収集し考索を重ねてきた様子を見てきた。そしてこのことは単に古物が今日まで伝えられてきたというだけではなく,彼らの活動は現在の考古学研究においても有用であることを論じた。さらにこの知的好奇心による収集と研究があったからこそ,明治維新からそれほど時間を経ることなく文化財保護体制の確立や,現在の東京国立博物館の設立につながっていくものとして評価すべきことを論じた。
西本, 豊弘 Nishimoto, Toyohiro
弥生時代のブタの形質について,家畜化現象を見るポイントを説明した後,第1頚椎と上顎第3後臼歯の計測値を中心に検討した。まず,第1頚椎の形態では,朝日遺跡の資料によって,イノシシとブタを区別できることを示した。第1頚椎の上部は,イノシシでは高くなるのに対してブタでは低くなる。縄文時代や現代のイノシシの計測値を参考にすると,高さが長さの58%よりも高いものはイノシシで,それよりも低いものはブタと推定された。これは,ブタが餌を与えられるために,イノシシよりも首の筋肉を使う程度が低く,そのため首の筋肉の発達が弱くなり,それにしたがって骨の発達も悪くなるのではないかと思われる。この基準に従えば,朝日遺跡ではイノシシ類の15%がイノシシで85%がブタということになった。次に上顎第3後臼歯では,縄文時代のイノシシに比べて弥生時代のイノシシ類では小さくなっていることが明らかとなった。この縮小の程度は,縄文時代以降のイノシシの縮小の程度と比べてみても大きい。気候変化や人口増加・狩猟圧などを含む島嶼化現象だけではなく,家畜化の影響が歯を小さくした大きな要因ではないかと推測された。その他の部位では,これまでにも述べているように,ブタでは頭蓋骨が高くなることを,下郡桑苗遺跡出土の資料で説明した。また,下顎骨では連合部と下顎骨底部の延長線の成す角度が,ブタではイノシシに比べて大きくなることを説明した。
李, 杰玲
本稿は、中国学術界における江戸時代の怪異小説に関する研究の現状と、その展望を述べたものである。怪異小説の研究は「迷信を排除し、科学を提唱する」という国のモットーにそぐわず、研究に必要な資料も十分ではない。まして、中国人の研究者にとって、江戸時代のくずし字は読みづらい。ゆえに、中国では大学院生の学位論文以外の江戸怪異小説の研究が少なく、大学院生が研究の主力になっている。彼らの研究の多くは、江戸怪異小説を日中比較文学論上に載せて考察している。
山田, 康弘 Yamada, Yasuhiro
これまで,山陰地方における縄文時代から弥生時代への移行は,比較的スムーズではあったものの,その一方でダイナミックなものであると想定されてきた[山田2009:178-179]。しかしながら,弥生時代前期の墓地遺跡における墓群構造を細かく検討してみると,一見渡来的な状況を呈しながらも,実は在来(縄文)的な要素が複雑な形で内在していることが明らかとなった。例えば,堀部第1遺跡の墓地は列状配置構造という縄文時代の墓制にはみることができなかった渡来的な構造を採りつつも,墓地内には埋葬群が存在し,各埋葬群は小家族単位で占取・用益されるという在来的要素を残している。また,古浦遺跡における墓地の状況は,沿岸部に位置し渡来系弥生人骨を出土するにもかかわらず塊状配置構造を呈し,年齢・性別による区分が存在するという縄文時代の墓制を踏襲した在来的な要素を備えている。同時期にしかも至近距離に存在する堀部第1遺跡と古浦遺跡の二遺跡を比較するだけでも,その墓地構造には大きな差が存在しており,当時の状況の複雑さが理解できる。その一方で,山間部に位置する沖丈遺跡の墓地は塊状構造配置を呈しており,一見縄文時代以来の墓制の延長上に営まれていたように思われるが,不可視属性である下部構造には木棺が用いられ,管玉が墓内部より出土する事例があるなど,渡来的な要素も併せ持っていたことも明らかとなった。これらの点を踏まえて本稿では,山陰地方における弥生化のプロセスに対して補正を行い,長期的にはスムーズかつダイナミックな状況を呈するものの,個々の遺跡における墓地においては一時的に在来的・渡来的両方の要素が混在し,その状況は在地の縄文人と渡来文化を携えて移動してきた人々との接触のあり方を表していることを指摘した。
石井, 香絵 ISHII, Kae
明治二一年、フランス留学から帰国した合田清は、洋画家山本芳翠とともに生巧館を設立し、日本に本格的な木口木版の技術をもたらした。初期の新聞附録から雑誌の表紙、挿絵、口絵、教科書の口絵、挿絵、広告、商標、パッケージなどの多くの複製メディアに登場し、生巧館は出版文化の隆盛とともにその活動が広く知られることとなった。しかしその全貌については不明な点が多く、研究も充分には進められていない。国文学研究資料館には生巧館が残した木口木版による膨大な数の清刷り(印刷にかける前の試し刷り)が所蔵されている。本稿では特定研究「生巧館制作による木口木版の研究―国文学研究資料館所蔵品を中心に」のこれまでの研究成果をふまえ、生巧館設立前後の時代を見直しつつ当館所蔵品の美術および歴史的価値について考察する。初期新聞附録の時代、続く雑誌・教科書の時代、後年の時代それぞれの活動状況と所蔵品がどのように関連づけられるか検討し、併せて所蔵品を手がかりに生巧館の活動の一端を明らかにしていくことを試みる。
原田, 信男 Harada, Nobuo
律令国家体制の下で出された肉食禁断令は平安時代まで繰り返し発令され,狩猟・漁撈にマイナスのイメージを与える「殺生観」が形成されるようになる。鎌倉時代に入ると,肉食に対する禁忌も定着してくる。しかし,現実には狩猟・漁撈は広範囲に行われており,肉食も一般的に行われていた。そこで,狩猟・漁撈者や肉食に対する精神的な救済が問題となってくる。仏教や神道の世界でも,民衆に基盤を求めようとすれば,殺生や肉食を許容しなければならなくなった。ところが,室町時代になると,狩猟・漁撈活動が衰退し肉食が衰退していくという現象が見られる。室町時代には,殺生や肉食に対する禁忌意識が,次第に社会に浸透していったように思われる。一方,農耕のための動物供犠は中世・近世・近代まで続けられていた。肉食のための殺生は禁じられるが,農耕のための殺生は大義名分があるということになる。日本の社会には,狩猟・漁撈には厳しく,農耕には寛容な殺生観が無意識のうちに根付いていたのである。
設楽, 博己 Shitara, Hiromi
縄文時代の代表的な呪具である土偶は,基本的に女性の産む能力とそれにからむ役割といった,成熟した女性原理にもとつく象徴性をほぼ一貫して保持していた。多くの土偶は割れた状態で,何ら施設を伴わずに出土する。これらは故意に割って捨てたものだという説があるが,賛否両論ある。縄文時代後・晩期に発達した呪具である石棒や土版,岩版,岩偶などには火にかけたり叩いたりして故意に破壊したものがみられる。したがって,これらの呪具と関連する儀礼の際に用いたと考えられる土偶にも,故意に壊したものがあった蓋然性は高い。壊したり壊れた呪具を再利用することも,しばしばおこなわれた。土偶のもうひとつの大きな特徴は,ヒトの埋葬に伴わないことである。しかし,他界観の明確化にともなって副葬行為が発達した北海道において,縄文後期後葉に土偶の副葬が始まる。この死者儀礼は晩期終末に南東北地方から東海地方にかけての中部日本に広まった。縄文晩期終末から弥生時代前半のこの地方では,遺骨を再埋葬した再葬が発達するが,再葬墓に土偶が副葬されるようになったり,土偶自体が再葬用の蔵骨器へと変化した。中部日本の弥生時代の再葬には,縄文晩期の葬法を受け継いだ,多数の人骨を焼いて埋納したり処理する焼人骨葬がみられる。こうした集団的な葬送儀礼としての再葬の目的の一つは,呪具の取り扱いと同様,遺体を解体したり遺骨を焼いたり破壊して再生を願うものと考えられる。つまり,ヒトの多産を含む自然の豊饒に対する思いが背後にあり,それが土偶の本来的意味と結びついて土偶を副葬するようになったのだろう。そもそも土偶が埋葬に伴わないのは,男性の象徴である石棒が埋葬に伴うことと対照的なありかたを示すが,それは縄文時代の生業活動などに根ざした,社会における性別の原理によって規定されたものであった。土偶の副葬,すなわち埋葬への関与はこうした縄文社会の原理に弛緩をもたらすもので,縄文時代から弥生時代へと移り変わる社会状況を反映した現象だといえる。
小畑, 弘己 真邉, 彩 Obata, Hiroki Manabe, Aya
縄文時代に植物栽培が行われたことは,すべての人が認めるものではないが,今日的な研究成果をみれば,栽培の規模の大小や形態は別として,ほぼ揺るぎないことと思われる。今日の実証的研究の成果によると,縄文時代に栽培されていた植物は,農学や地理学で提唱された照葉樹林文化論や縄文農耕論で想定されていたような作物ではなく,我が国に起源をもつダイズやアズキなどのマメ類やヒエであった。この意味でも,縄文文化は狩猟採集だけを生業にした文化ではなく,植物栽培も取り込んだ多角的な生業戦略を行っていた文化といえる。この点では,朝鮮半島の新石器文化にも相通じる部分がある。本論は朝鮮半島南部の新石器時代における栽培植物の起源と伝播を圧痕レプリカ法による調査成果から検証することを主たる目的するが,栽培植物の受容の在り方についての朝鮮半島・日本列島両地域の共通性,さらには,海峡を越えた大陸系穀物の伝播が縄文時代にあったのか否かについても検討し,その背景となった海峡を挟んだ両地域の交流形態について考察する。東三洞貝塚をはじめとする朝鮮半島東南部の新石器時代の遺跡から発見された既存資料(炭化穀物)を1000~1500年遡るキビやアワの圧痕は,これまでの華北型雑穀農耕の伝播と受容のシステムに関する仮説を覆した。それは,寒冷化による人の移動を伴う農耕パッケージの伝播ではなく,玉突き的な穀物と技術の伝播拡散によるものと推定される。この地において,雑穀栽培は狩猟採集経済を軸とした生業の一部として,アワ・キビは貯蔵が可能な食糧の一つとして,無理なく受容され,地域的に発達したものと考えられる。この雑穀農耕の日本列島への伝播の痕跡は現在のところ認められない。それは両地域の交流が,漁民を通じた情報の伝達を主たるものとし,土器を保持した人や集団の移動ではなかったことを意味している。そのような農耕の伝播形態は両地域においては青銅器時代(弥生時代)以降にみられるものである。
工藤, 雄一郎 佐々木, 由香 Kudo, Yuichiro Sasaki, Yuka
東京都東村山市下宅部遺跡では,縄文時代中期から後・晩期の土器の内面に付着した炭化植物遺体(土器付着植物遺体)が40点見つかっている。これは,土器の内部に炭化して付着した鱗茎,繊維,種実,編組製品などの植物起源の遺物を総称したものである。いずれも二次的に付着したものではなく,調理や植物を加工する際に付着した植物であり,当時の人々が利用していた食材と土器を用いた調理方法を解明する大きな手がかりとなる資料である。本研究では,そのうちの26点の土器について¹⁴C年代測定,炭素・窒素安定同位体比分析,C/N比の分析を実施し,これらの土器付着植物遺体の年代的位置づけ,および内容物についての検討を行った。また,単独で出土し,所属時期が不明であった種実遺体5点の¹⁴C年代測定を行い,年代的位置づけについて検討した。その結果,分析した土器付着植物遺体は縄文時代中期中葉の1点を除き縄文時代後・晩期に属する年代であり,特に3,300~2,700 cal BPの間に集中し,そのほとんどが縄文時代晩期前葉~中葉であることが判明した。種実遺体のうち,縄文時代中期中葉の約4,900 cal BPの年代を示したダイズ属炭化種子は,直接年代測定されたものとしては最も古い資料となった。土器付着植物遺体の炭素・窒素安定同位体比とC/N比を下宅部遺跡出土の精製土器付着物の分析結果や,石川県御経塚遺跡,大阪府三宅西遺跡出土の縄文時代後・晩期の土器付着炭化物の分析結果と比較してみると,下宅部遺跡の土器付着植物遺体は,陸上動物起源の有機物や海洋起源の有機物の混入の可能性が指摘されている土器付着炭化物とは分布傾向が明らかに異なり,C₃植物に特徴的な傾向を示した。特に,編組製品や繊維付着土器では,編組製品や繊維そのものと,それらと一緒に煮炊きした内容物の同位体比が異なることが明らかになった。今後,土器付着植物遺体の分析事例を増やし,縄文時代の植物利用や土器を用いた調理についての研究を展開していくことが必要である。
岩井, 洋
本稿は、明治時代をおもな対象とし、<近代>を新しい<記憶装置>が誕生した時代として描いた、「記憶の歴史社会学」の試みである。ここでいう<記憶装置>とは、人々の記憶や想起の様式を方向づけるような社会的装置であり、それはハードウェア、ソフトウェアと実践からなる。ハードウェアは物質一般であり、ソフトウェアは思想、ルールやハードウェアの操作法などを意味し、実践はハードウェアとソフトウェアを結びつける身体的な実践を意味する。いうまでもなく、それぞれの時代には、それぞれの記憶装置があったはずであり、ここで問題となるのは、その記憶装置の<近代>性である。 近代の記憶装置を象徴していたのは、明治時代に起こった記憶術の大流行だった。そして、意識的であれ無意識的であれ、さまざまな分野に記憶術の原理が応用され、記憶術の実践を容易にするような道具立ても登場した。たとえば、教育現場では、新しい教授法が導入され、記憶を助けるような、掛け図をはじめとする視覚的な教具が使用された。また、記憶術の基本となる参照系にも変化がみられた。すなわち、五十音配列のリファレンス類の登場や、図書館における新しい分類法の導入、索引システムの開発などである。 <近代>は、文字の配列や分類体系といった参照系の変容と、それと連動したハードウェアの変化、さらには教育を含めた学問体系の変化などがあいまって、大きな<記憶装置>が作りあげられた時代であったといえる。
神作, 研一 KANSAKU, Ken'ichi
本稿は、近世和歌史の全体像を、最新の研究動向を踏まえながら英文で簡潔に綴ったもの。歌壇史や和歌表現の研究を軸として、近年の和歌史研究の進展には目を瞠るものがあるが、中でも近世和歌の研究はこの四半世紀で飛躍的に進捗した。〈堂上から地下へ〉というパラダイムが確立し、研究者相互の共通理解となったことは、和歌史研究においてもまた近世文学研究においても非常に大きな意味がある。江戸時代にあって、和歌は漢学漢詩文と並んで終始〈雅〉の領域に属しており、公家にとっては必須の「道」、武家にとっては抜き差しならない「教養」、そして庶民にとっては上昇志向を満たし得る上々の「趣味」でもあった。江戸前期に堂上が領導していた和歌は、徐々に時代が下るにつれて地下歌人の活躍が目立つようになり、〈俗文学〉とも広く深く交渉するようになっていった。江戸中期には、〈地下から地方へ〉というパラダイムも確立する。本稿では、近世和歌史を前期(幕初から元禄まで)、中期(宝永から天明まで)、後期(寛政から慶応まで)の三期に分かち、それぞれ「堂上の時代」「堂上から地下への過渡期的時代」「国学派全盛の時代」と定義した上で、各時期の特質を可能な限り広い視野をもって概述、末尾には研究案内を兼ねて、近年を中心に主要な研究文献を掲出した。
阿部, 義平 Abe, Gihei
日本列島に展開した各時代史において,村落や都市などを守る拠点,あるいは全体を囲む防備施設が存在した。弥生時代の環濠集落を嚆矢(こうし)として,各時代に各々特色ある防禦施設あるいは軍事施設の様相が展開したことが知られてきた。中世や近世の城郭がその代表例であるが,各時代を通じた施設の実態や変遷,多様性などはまだ十分に把握されておらず,解明を要する。西暦7~9世紀頃の古代国家の時代には,西日本に山城,列島中央部に都城や関,東日本に城柵の造営があり,それらと関わる歴史の展開が知られている。文献で知られている遺跡の大半は考古学的調査が及んで居り,文献にみえない遺跡まで知られるに至った。多大な労力と費用をかけて維持された古代の大規模なこれらの施設の歴史は,対外交流を本格化したこの時代の特質と深く関わっている。これまでの定説的理解では,文献史料の限界や考古学的蓄積の不足もあって,その実態が知られないままに,極めて過少に評価されてきた面がある。小論では,日本列島の古代において,必要に応じた十分な施設が,国家統合や防衛,都市や村落の防備において,日本列島各地に展開した事例を指摘することができる。その代表例として,大宰府や平城京,東国の城柵の一例をとりあげてみた。しかし防備施設の普遍的な存在や時期的展開には,まだ十分に明らかになっていない点も多い。村落でも,7~8世紀,10~11世紀などに,一定の地域で必要に応じた防備された村落が展開したことも判明してきている。小論は,古代における防備施設自体の実態,及び城郭と都市との関係について見直し,新しい見解を提案するものである。
中島, 信親 Nakajima, Nobuchika
本論は、光仁・桓武朝にあたる奈良時代後半から平安時代初期に都城や国家が造営した寺院で用いられた軒瓦を、文様および造瓦技術に着目しつつ概観し、その中で長岡宮式軒瓦がどの様に位置づけられるかを検討した。奈良時代後半に存在した文様および造瓦技術が異なる二系統の造営官司(宮造営官司と造東大寺司)が二度の遷都を通じて再編・融合される中で、その渦中で製作された長岡宮式軒瓦は、文様が稚拙なものも含めてほぼすべてが宮造営官司の造瓦技法が用いられていることを確認した。また、文様と分布から長岡宮式軒瓦を区分し、分布の集中域に存在する殿舎や施設とそれが文献に記載される年号から、区分した軒瓦に製作年代の一定点を与えた。
綿貫, 俊一 Watanuki, Shunichi
旧石器時代後期の遊動生活から,半定住生活,定住生活へと生活・居住の形が次第に変化したのが縄文時代であるといわれている。その一方で遺物量,岩陰の狭小性などから四国山地の高原にある上黒岩岩陰のように定住的な生活の場所としての利用が考えられない遺跡もある。そこで上黒岩岩陰で具体的にどのような生活が行われ,半定住集落や定住集落が形成されていくなかで上黒岩岩陰の性格とはなにかを詳らかとするために,出土した石器と石器石材の組成について観察した。これまで定住集落を認定する際,磨石・敲石類の増加と竪穴住居・土坑などの存在に注意が払われてきた。住居・集落が固定しない旧石器時代の遊動社会・集落と違って,定住的な社会においては塩・翡翠・磨製石斧・黒曜石などで代表されるように遠隔地間の物流が活発化・安定化している。このような視点から上黒岩岩陰や周辺遺跡での遠隔地石材の比重を観察した。石材組成の観察結果,おそくとも上黒岩岩陰6層の頃から遠隔地産石器石材の増加が窺え,以後久万高原地域の遺跡や平野部周辺でも縄文時代を通じた推定遠隔地産石材が安定的に移入されている。したがって上黒岩岩陰6層以降に定住的な社会の到来を推定し,それ以前を半定住的な段階であると考えた。
藤尾, 慎一郎
全羅南道の島嶼部に位置する安島貝塚で出土した新石器時代前期の人の中に,古代東アジア沿岸集団の核ゲノムを含まない人が存在することを2021年11月刊行のNatureで知った。このことは,新石器時代の当初から古代東アジア沿岸集団の核ゲノムを含まない人びとが韓半島の南部にも存在していたことを意味する。したがって,韓半島新石器時代人の核ゲノムは,古代東アジア沿岸集団の核ゲノムを持っている新石器文化人(韓半島系)と,もっていない新石器文化人(西遼河(さいりょうが)系)などを含むなど,前期から多様であったと考えられる。そこで多様な核ゲノムを引き継いだ韓半島青銅器文化人を想定し,渡来人として水田稲作を九州北部に伝えた場合の弥生時代人の成立と展開について作業仮説をたてた。その結果,現状では核ゲノムを異にする4タイプの弥生時代人を想定できることがわかった。① 渡来系弥生人Ⅰ:西遼河系+在来(縄文)系弥生人の核ゲノムをもつ。例:福岡県安徳台遺跡,鳥取県青谷上寺地遺跡など弥生中期~後期の遺跡。② 渡来系弥生人Ⅱ:韓半島系(西遼河系+古代東アジア沿岸集団系)の核ゲノムをもつ。例:愛知県朝日遺跡で弥生前期後半。在来(縄文)系弥生人との混血ほぼ認められない。③ 在来系弥生人:渡来系弥生人ⅠまたはⅡ+在来(縄文)系弥生人の核ゲノムをもつ。例:長崎県下本山遺跡や熊本県大坪貝塚など,弥生後期以降の遺跡。いわゆる西北九州弥生人。④ 在来(縄文)系弥生人:縄文人と同じ核ゲノムをもつ。例:佐賀県大友遺跡や愛知県伊川津貝塚など,弥生早~前期の遺跡。
小澤, 佳憲 Ozawa, Yoshinori
これまでの弥生時代社会構造論は,渡部義通に始まるマルクス主義社会発展段階論の日本古代史学界的解釈に大きく規定されてきた。これに対し,新進化主義的社会発展段階論を基礎に新たな弥生時代社会構造論を導入することが本稿の目的である。北部九州における集落動態を検討すると,前期末~中期初頭,中期末~後期初頭,後期中葉に大きな画期が認められる。この画期の前後における社会構造を比較した結果,弥生時代前期には入れ替わり立ち替わり現れる環濠集落を集団結節点とした平等的な部族社会が形成されていた。これに対し,弥生時代中期には丘陵上に一斉に進出した集落同士が前期的な集団関係をベースとして新たな集団関係を構築し,区画墓・大型列状墓・大型建物などの場において行う祖先祭祀をその強化手段として新たに導入した。これらは不動産であったことから,前期とは異なり拠点集落が固定化され,その結果潜在的な優位集団が成長することとなった。中期末~後期初頭の画期は,中期における潜在的な優位性が表面に表れる画期であり,それに伴い,集住現象と,集落内に潜在していた分子集団の顕在化,そして集団の各位相においてその境界を明瞭化する動きが現れる。これは,優位集団の存在が社会的に顕在化したことに伴う自集団の範囲の明確化と集団の大型化の動きと理解できる。その後,集団間の優劣関係が明瞭化したことにともない劣位集団が優位集団の系列下に取り込まれる動きが後期を通じて進行するのである。以上の社会構造の変遷をふまえると,弥生時代前~中期を部族社会,後期を首長制社会として位置づけることができよう。
森, 勇一 Mori, Yuichi
日本各地の先史~歴史時代の地層中より昆虫化石を抽出し,古環境の変遷史について考察した。岩手県大渡Ⅱ・宮城県富沢両遺跡では,姶良―Tn火山灰層直上から,クロヒメゲンゴロウ・マメゲンゴロウ属・エゾオオミズクサハムシなどの亜寒帯性の昆虫化石が多産し,この時期,気候が寒冷であったことが明らかになった。縄文時代早期では,岐阜県宮ノ前遺跡よりヒメコガネ・ドウガネブイブイなどのコガネムシ科を主体に,水生昆虫を随伴する昆虫群集が確認され,湿地と人の介在した二次林の存在が復元された。縄文時代中期では,愛知県朝日・松河戸両遺跡などから冷温帯~亜寒帯性のコウホネネクイハムシが検出され,気候が冷涼であったと考えられる。弥生時代になると,日本各地の水田層よりイネネクイハムシ・イネノクロカメムシなどの稲作害虫と,ヤマトトックリゴミムシ・セマルガムシなどの水田指標昆虫が多く検出されるようになり,水稲耕作に伴い低地の改変が進み昆虫相が大きく変化したことが明らかになった。この時代の特徴には,もうひとつ人の集中居住に起因する食糞ないし汚物性昆虫の多産遺跡の存在があげられる。同じ地層からは,汚濁性珪藻や富栄養型珪藻・寄生虫卵なども検出され,農耕社会の進展とともに環境汚染が進行したことが考えられる。中近世は,ヒメコガネ・ドウガネブイブイ・サクラコガネ・クワハムシなどの食葉性昆虫の多産によって特徴づけられる。この時期,山林原野の開発が大規模に進められ,人間の居住域付近には有用植物が植栽され,里山はアカマツのみの繁茂する禿山になっていたと推定される。こうして,更新世から完新世に至る間の生物群集は,更新世においては気候変動が,完新世後半においては人間の与えた影響がきわめて大きかったことが明らかになった。
梅, 定娥
古丁は生涯日本語作品の翻訳を行った。その翻訳は北平(北京)時代、「満州国」時代、中華人民共和国時代の三つの時期に分けることができる。本論文は主に「満州国」時代の翻訳を対象とし、翻訳態度の変化を考察するために北平時代には触れるが、中華人民共和国時代については省略する。 満州事変で北平に亡命した古丁は、中国左翼作家聯盟北方部に入り、中国の労働者革命運動を応援するために岩藤幸夫の小説や蔵原惟人の論文等日本プロレタリア作品を翻訳した。しかし、逮捕されて「転向」、故郷の長春へ帰り、「満州国」の官吏となった。 「満州国」での古丁の翻訳については、一九三七年、一九三八年から一九四一年、一九四二年から一九四五年という三つの段階に分けて考察する。第一段階では、石川啄木「悲しき玩具」等現実社会に反抗する作品を翻訳した。これらには、苦悶しながら希望を見出そうとする古丁像がうかがえる。また、その原文の中の左翼的な内容に対する処理の仕方により「満州国」の左翼に対する厳しい取り締まりがうかがえる。第二段階では夏目漱石の『心』など文学作品を翻訳した。その翻訳には、古丁の文学技術を学び、漢語を改革しようとする意欲が読み取れる。 第三段階では、大川周明『米英東亜侵略史』等、主に時局的と思われるものを翻訳した。そこからは複雑な心境を抱えながら「大東亜戦争」の流れに乗る古丁像が浮かび上がる。また、『芸文志』に掲載された吉川英治「宮本武蔵」の部分訳からは、古丁の「満人」の民度に対する批判が続いていることも分かる。また、一九三八年から、古丁は、漢語の注音符号の使用や国立翻訳館の設立を主張していた。そこに、「満州国」の「民族協和」の旗の下で、日本文化への同化を強いる政策に対しては漢語と漢語文化を守ろうとする彼の姿勢がうかがえる。
春成, 秀爾 Harunari, Hideji
近年,佐賀県菜畑,奈良県唐古・鍵など西日本の弥生時代遺跡から,豚の下顎骨に穿孔し,そこに棒を通したり,下顎連合部を棒に掛けた例が発掘され,その習俗は中国大陸から伝来した農耕儀礼の一つであるとする見解が有力となっている。豚の下顎骨に穿孔した例は,中国大陸では稀であるが,豚の下顎骨や頭骨を墓に副葬したり,どこかに掛けておく習俗は,新石器時代以来発達しており,西南部の少数民族の間では,今日にいたるまでその習俗を伝えている。海南島の黎族は,人が亡くなると,牛や豚を殺して死者の霊魂を送る。そのあと,殺した豚の下顎骨を棺の上に置いて埋めるか,または棒に掛けて墓の上に立てる。また,雲南省の納西族は,豚の下顎骨を室内の壁に掛けて家族の安穏の象徴としており,誰かが亡くなると,村の外に捨てる。豚は,中国の古文献によると,恐怖の象徴であって,豚の頭骨や下顎骨をもって,邪悪を退け死者の霊魂を護る,とされる。中国新石器時代には,キバノロや豚の牙を装着した呪具を死者に副葬する習俗が,豚の下顎骨の副葬に併行または先行して存在する。豚の下顎骨が,死者の霊魂を送る,あるいは護ることができたのは,大きく曲がった鋭い牙すなわち鉤をもっていることに求めうる。鉤が辟邪の効果をもつことは,スイジガイの殻を魔除けとして家の入口に掛けておく民族例があり,また,楯に綴じ付ける巴形銅器の存在から弥生時代までさかのぼることが推定されている。豚の下顎骨は,鉤形の牙と,豚の獰猛な性格によって,死霊や邪霊に対抗することができたのであろう。また,時としては羊や鹿の下顎骨をもってそれに代えているのは,下顎骨そのものがV字形の鉤形を呈しているからであろう。弥生時代例は,住居の内部や入口あるいは集落の入口などに掛けてあり,死者がでたり,災厄にあったりすると,鉤部に死霊や邪霊が引っかかっているとみなし,居住区の外に捨てたか,または逆に,死者を護るために墓に副葬したのであろう。豚の下顎骨を辟邪の呪具として用いる習俗は,朝鮮半島ではまだ知られていないが,弥生時代早期に渡来した人々が稲作や農耕儀礼とともに西日本にもたらした,中国新石器時代に起源をもつ辟邪の習俗であったことは確かである。
小田, 寛貴 Oda, Hirotaka
14C年代測定というと,縄文時代・弥生時代の資料が対象という印象が強いが,加速器質量分析法(AMS)の登場と較正曲線の整備とにより,古文書や古経典など歴史時代の和紙資料についても,14C年代測定を行うことが原理的に可能なものとなるに至った。しかしながら,古文書に限らず,考古学資料や歴史学資料について14C年代測定を行う本来の目的は,その資料が何らかの役割を持った道具として歴史の中に登場した年代を探究するところにあるはずである。14C年代測定によって得られる結果は,歴史学的に意味のある年代そのものではない。この自然科学的年代が,歴史学的年代を明らかにするための情報となりうるかが問題なのである。そこで本研究においては,まずは,書風や奥書・記述内容などから書写年代が判明している古文書・古経典・版本などについて14C年代測定を行った。奈良時代から江戸時代にかけての年代既知資料の測定結果から,和紙はいわゆるold wood effectによる年代のずれが小さく,古文書・古経典の書写年代を判定する上でAMS14C年代が有益な情報の一つとなることが示された。その上で,書写年代の明らかにされていない和紙資料についても14C年代測定を行った。特に古筆切とよばれる古写本の断簡についての測定である。平安・鎌倉時代に書写された物語や家集の写本で,完本の形で現存しているものは極めて稀であるが,こうした断簡の形ではかなりの量が現在まで伝わっている。古筆切は,稀少な写本の内容や筆跡を一部分ながらも伝えるものであり,大変高い史料的価値を有するものである。しかし,古筆切の中には,その美しい筆跡を手本とした後世の臨書や,掛け軸などにするために作製された偽物なども多く含まれている。それゆえ,こうした問題を有する古筆切に焦点をあて,書風・字形・筆勢など書跡史学的な視点に,AMS14C年代測定法という自然科学的視点を加え,書写年代の吟味を行った。
名久井, 文明 Nakui, Bunmei
縄紋時代人が繊維状の植物性素材で入れ物その他を製作した技法には「組む」「編む」の2種類があった。しかし一般に「組む」「編む」という用語で現される技法の内容は混乱している。そこで筆者は「組む」「編む」の用語は厳密な技法の違いを反映すべきであるとの考えから,まず両者の差異についての見解を明確にした。縄紋時代の遺物から観察できる「組む」技法には「四つ目組み」「石畳組み」「ござ目(ざる目)組み」「飛びござ目組み」「木目ござ目組み」「六つ目組み」「網代組み」などの種類があること,「編む」技法には「縄目編み」「ねこ編み」があることを明らかにし,それぞれの技法で製作された遺物を例示した。また編組技法で入れ物を作る場合,必ず先に底部を作ってから側壁の形成に移行し,その後に口縁部を形成していることを指摘した。底部を形成する技法には「網代底」「菊底」「縄目編み底」等の種類があり,口縁部を形成する技法には「縦芯材折り込み縁」「縄目返し縁」「巻き縁」「返し巻き縁」があることを明らかにし,それぞれに該当する遺物を例示した。以上の植物性素材を用いた縄紋時代の造形上の諸技法は,ほとんどそのままのかたちで近現代民俗例にも存在していることを述べ,それぞれの技法で製作された民俗例を示した。これらの要素が縄紋時代と民俗例とでよく共通しているのは偶然ではなく,諸技法が幾百世代にもわたって受け継がれてきたからである。その背景としては,縄紋時代から現代まで,それぞれの時代の人々は食料をはじめとする各種の自然物を採集し,運搬し,収納,保存するためにはそのための入れ物その他の用具が必要であったこと,その製作素材として自然素材を使い続けたことにあるとした。
林, 正子
本稿は、早稲田派の文芸思想家=金子筑水(一八七〇―一九三七)が、総合雑誌『太陽』の文芸時評欄を担当した明治四三(一九一九)年七月から大正二(一九一三)年一二月までの三年半のうち、特に明治期に発表した論説を考察対象として、時代精神の洞察者・提言者である筑水の再評価を試みたもの。 筑水の業績としては、ルドルフ・オイケン(Rudolf Eucken 1846-1926)らドイツ哲学についての先駆的な紹介、ドイツ自然主義文学理念をもとにしての日本自然主義文学論の展開、明治・大正期の哲学に関する鳥瞰的な見取り図の提示、時代精神を読み解く両性問題論、生命哲学論、文化主義論の展開などの項目が挙げられる。 そして、このドイツ思想・文化受容を通しての筑水の近代日本精神論を貫くのが、オイケン哲学の受容をひとつの契機として提唱された〈新理想主義〉。これは、現代文明・自然主義の超克を訴え、新しい精神生活の建設を唱える思想であり、この〈新理想主義〉をバックボーンにして展開された〈自然主義的論調の時代〉の『太陽』において、時代の思潮を映し出す鏡としての意義を発揮していると言えるだろう。
平田, 永哲 Hirata, Eitetsu
21世紀のわが国の特殊教育の在り方が変革しようとしている。一つは子どもの就学権保障の時代からより適切な教育保障の時代への変革であり、他の一つは障害児教育という用語が特殊教育という用語に変わろうとしている。本稿では、このような変革の動きを養護学校義務制以降の特殊教育界の出来事の中から探ることにより、21世紀の特殊教育を展望し、希望を託すことにする。
設楽, 博己 Shitara, Hiromi
縄文中期終末から後期へ、縄文晩期から弥生時代の始まりへ、それらはいずれも列島規模で、文化や社会が大きく転換した時代であり、時期であった。その歴史の節目に、地域や時代を超えて再葬墓が営まれることは何を意味するのだろうか。再葬が発達した地域におけるそれぞれの転換点で共通するのは、集落の衰退すなわち人口の減少である。環境変動に目を向けると、その転換期に共通した要素として気候の寒冷化をあげることができる。まさに、環境の悪化が再葬を誘発したといっても過言ではない。歴史の中で再葬が出現する理由はさまざまであったろうが、死者を基軸に集落あるいは地域の結束を固めるための祖先祭祀として発生したことが、理由の一つにあげられる。自然環境の悪化によって小規模になり分散化した集落を統合する原点として再葬墓が機能したのであり、その象徴が再葬された祖先でありあるいは墓自体であった。再葬が発達した縄文後期前葉の京葉地方は、気候の再温暖化によって大貝塚を形成したように、再葬がすべて悪い環境のときに発達したとばかりはいえない。自然環境の回復あるいは集落の発展を迎えても、ひとたび制度として定着した再葬は、なおも集落結集の装置として機能したのであろう。琉球・奄美諸島の洗骨葬は、祖先祭祀の意味があり、縄文・弥生時代の再葬を考える手がかりになる。そこで再葬は一種の通過儀礼として行われていた。縄文晩期〜弥生時代前半は、抜歯をはじめとする儀礼を発達させた時期である。再葬制もこの時期に儀礼的要素を強めるのであり、祖先祭祀と通過儀礼の強化と言い換えることができる。それは厳しい自然環境に立ち向かうための生活技術であり、再葬の背景であった。
鈴木, 三男 能城, 修一 田中, 孝尚 小林, 和貴 王, 勇 劉, 建全 鄭, 雲飛 Suzuki, Mitsuo Noshiro, Shuichi Tanaka, Takahisa Kobayashi, Kazutaka Wang, Yong Liu, Jianquan Zheng, Yunfei
ウルシToxicodendron vernicifluum(ウルシ科)は東アジアに固有の落葉高木で,幹からとれる漆液は古くから接着材及び塗料として利用されてきた。日本及び中国の新石器時代遺跡から様々な漆製品が出土しており,新石器時代における植物利用文化を明らかにする上で重要な植物の一つであるとともに日本の縄文文化を特徴づけるものの一つでもある。本研究では現在におけるウルシの分布を明らかにし,ウルシ種内の遺伝的変異を解析した。そして化石証拠に基づいてウルシの最終氷期以降の時空分布について検討した。その結果,ウルシは日本,韓国,中国に分布するが,日本及び韓国のウルシは栽培されているものかあるいはそれが野生化したものであり,中国には野生のものと栽培のものの両方があることが明らかとなった。それらの葉緑体DNAには遺伝的変異があり,中国黄河~揚子江の中流域の湖北型(V),浙江省と山東省に見られる浙江型(VII),日本,韓国,中国遼寧省と山東省に見られる日本型(VI)の3つのハプロタイプ(遺伝子型)が検出された。中国大陸に日本と同じハプロタイプの野生のウルシが存在することは,日本のウルシが中国大陸から渡来したものだとすれば山東省がその由来地として可能性があることを示唆していると考えられた。一方,化石証拠からは日本列島には縄文時代早期末以降,東日本を中心にウルシが生育していたことが明らかとなった。さらに福井県鳥浜貝塚遺跡からは縄文時代草創期(約12600年前)にウルシがあったことが確かめられた。このような日本列島に縄文時代草創期に既にウルシが存在していたことは,ウルシが大陸からの渡来なのか,元々日本列島に自生していたものなのかについての再検討を促していると考えられた。
後藤, 雅彦 Goto, Masahiko
東南中国において、新石器時代後期以降、紡錘車が普遍的に出土するようになる。しかし、これらの遺物は紡錘車としての事実報告がなされていても、それ以上、その時間的な変遷や分布について、あまり研究の俎上にあがることがなかったのが現状である。しかし、各遺跡に共通する要素として、また時間的にも継続する要素として重要な考古資料であると考えられる。そこで本稿では、紡錘車の集成的研究の前提として、出土状況の明らかな閩江下流域の紡錘車をとりあげ、紡錘車研究にあたっての問題点を整理する。同地域では、新石器時代後期に紡錘車は普遍的な遺物となり、新石器時代後期から殷代併行期にかけて、土器破片利用品が減少、定形的な断面台形紡錘車が出現し、器形の定形化の一方で紋様を施し、個体の識別が強化されるという時間的変遷を辿る。
正木, 晃
縄文時代から奈良時代までを概観した前回をうけて、平安時代の「聖空間の自然」を取り上げる。ひとくちに平安時代といっても、古代から中世までつらなる四百年はあまりに長い。そこでまずは、この時代の人々の心に最も大きな影響をあたえた密教世界を、今回の主題としたい。より具体的にいえば、俎上にのぼるのは、密教と月の関係である。 なぜ、密教と月なのか?と問われるのなら、こう答えよう。密教のある種の行法が月のイメージを大いに用いたがゆえに、爾後、日本人は月に永遠性や宗教生に通ずる何か特別な価値を認め、ひいては月をもって日本的自然の代表とするに至ったのだと。その密教の行法とは「月(がち)輪(りん)観(かん)」、すなわち、おのれの心を清浄なる満月と観ずる瞑想法である。 インドに起源をもつ「月輪観」は、平安劈頭、中国から帰朝した空海により密教の基本修法として導入され、平安末葉、覚鑁らにより浄土往生をも可能にする行法として、僧侶のみならず、理不尽な差別に晒されていた人々の間にも広く流布された。そこでは、自然物としての月=大日如来=阿弥陀如来=自身の心、という密教方程式が成り立っていたのだ。 歌人西行は、高野山などにおいて覚鑁流「月輪観」を修行しており、彼が詠んだ月の歌に「月輪観」が影を落としていることは否み難い。月が日本的自然の代表となるに際し、西行の演じた役割の大きさを考えれば、この密教修法のもつ意味は決して無視しえぬはずである。
山本, 登朗 YAMAMOTO, Tokuro
鉄心斎文庫の伝二条為氏筆伊勢物語は、鎌倉時代の筆と考えられる現存最古の伊勢物語写本の一つであり、定家本勘物の存在や奥書から定家本の一つとされて重要視されてきたが、勘物以外に数多く見られる注記は、これまでまったく注目されてこなかった。実はそれらの注記は、同じく鎌倉時代の写本である天理図書館蔵伝為家筆本にも、ほぼ同じように付されているものであり、本文と同じく鎌倉時代にまでさかのぼるものと考えられる。勘物も含め百九十箇所にも及ぶ多量の注記は、注釈資料がほとんど知られていない鎌倉時代中・後期の伊勢物語の享受や研究の姿を垣間見せてくれる、貴重な資料である。本論文では、まず独自の内容を持つ注記に注目し、その興味深い内容を検討した。さらに、定家勘物などを批判する注記が存在することに注目し、定家勘物の付された本を使いながら勘物を絶対視せず、また注記に対しても時に批判を加えるという、注記筆者の態度に注目した。さらに、無名の登場人物に特定の人物をあてはめる秘注的注記が一例だけ存在することに注目し、『毘沙門堂本古今集注』などの古今秘注の世界との関連を探り、あわせて清輔本『古今集』勘物に由来している注記にも注目して、六条家歌学との関わりも考え、最後に天理図書館蔵伝為家筆本の巻末に増補されている小式部内侍本本文の性格にもふれた。
設楽, 博己 Shitara, Hiromi
弥生時代の定義に関しては,水田稲作など本格的な農耕のはじまった時代とする経済的側面を重視する立場と,イデオロギーの質的転換などの社会的側面を重視する立場がある。時代区分の指標は時代性を反映していると同時に単純でわかりやすいことが求められるから,弥生文化の指標として,水田稲作という同じ現象に「目的」や「目指すもの」の違いという思惟的な分野での価値判断を要求する後者の立場は,客観的でだれにでもわかる基準とはいいがたい。本稿は前者の立場に立ち,その場合に問題とされてきた「本格的な」という判断の基準を,縄文農耕との違いである「農耕文化複合」の形成に求める。これまでの東日本の弥生文化研究の歴史に,近年のレプリカ法による初期農耕の様態解明の研究成果を踏まえたうえで,東日本の初期弥生文化を農耕文化複合ととらえ,関東地方の中期中葉以前あるいは東北地方北部などの農耕文化を弥生文化と認めない後者の立場との異同を論じる。弥生文化は,大陸で長い期間をかけて形成された多様な農耕の形態を受容して,土地条件などの自然環境や集団編成の違いに応じて地域ごとに多様に展開した農耕文化複合ととらえたうえで,真の農耕社会や政治的社会の形成はその後半期に,限られた地域で進行したものとみなした。
正木, 晃
日本人が伝統的に聖性をもつとみなしてきた空間――たとえば、あの世あるいは浄土・曼荼羅――において、自然がどのように表現されてきたか、且つそれがどのように変遷してきたか、を図像学および宗教学の手法をもちいて考察したのが、この論文である。Iでは、縄文時代から奈良時代までを対象の範囲としたが、この範囲内では、聖なる空間を代表する「あの世」に関し、日本人はそれが如何なる場所であるのか、子細に論ずる段階には未だ達していない。しかし、縄文時代の図像には、すでに転生の観念が存在した事実を示唆する例があり、その後、大陸文化の影響を受けつつ次々と生み出された聖空間の中に、たとえ象徴的な表現にとどまる場合が多いとはいえ、自然の描写が図像として重要な位置を占める事例も確認でき、日本人の自然観を探る上で絶好の材料となる。
能城, 修一 吉川, 昌伸 佐々木, 由香
この30年間に行われた植物考古学の研究から,約7000年前にはじまる縄文時代前期以降,本州の中央部から東北部では,人々は集落周辺の植物資源を管理して利用していたことが示されている。この植物資源管理は日本列島に在来のクリと中国大陸から移入されたウルシを中心として行われ,縄文時代の人々は植物資源を管理するとともに,クリの果実と木材を,またウルシの漆液と木材,果実を集落周辺で活用していた。しかしこの2種の植物遺体の出土状況は大きく異なっている。縄文時代の遺跡出土木材では,クリは本州中部から東北部および北海道西南部の406遺跡から出土しているのに対し,ウルシは本州中部から東北部の35遺跡から出土しているにすぎない。また両種が出土している遺跡で,花粉と木材の出土量を比較すると,クリの植物遺体はウルシの植物遺体の10~100倍ほど出土している。縄文時代の漆器の出土状況から考えると,本州の中央部から東北部では普通にウルシ林が維持されていたと考えられるのに,なぜウルシとクリに出土状況の違いが生じるのかを下記の三つの仮説をもとに検討した。第一の仮説は,クリに比べてウルシが植栽される集落が限定的なので,ウルシの植物遺体の検出例が少ないという考えである。第二の仮説は,クリに比べてウルシの植栽地が内陸側に位置していて,植物遺体が埋積する低地から遠いために,植物遺体として残りにくいという考えである。第三の仮説は,縄文時代の集落周辺にはウルシ資源よりもクリ資源のほうが多く維持されていたために,クリの植物遺体に比べてウルシの植物遺体の検出率が低いという考えである。検討の結果,第二の仮説がもっとも支持されたが,集落を地域規模で比較する場合には,第一の仮説も意味を持つことが明らかになった。
尾本, 惠市
本論文は、北海道のアイヌ集団の起源に関する人類学的研究の現況を、とくに最近の分子人類学の発展という見地から検討するもので、次の3章から成る。 (一)古典的人種分類への疑問、(二)日本人起源論、(三)アイヌの遺伝的起源。まず、第一章で筆者は、人種という概念を現代生物学の見地より検討し、それがもはや科学的に有効ではなく、人種分類は無意味であることを示す。第二章では、明治時代以降の様々な日本人起源論を概観し、埴原一雄の「二重構造説」が現在の出発点としてもっとも適当であることを確認する。筆者は、便宜上この仮説を次の二部分に分けて検証しようとしている。第一の部分は、後期旧石器時代および縄紋時代の集団(仮に原日本人と呼ばれる)と、弥生時代以後の渡来系の集団との二重構造が存在するという点、また、第二の部分は、原日本人が東南アジア起源であるという点についてのものである。筆者の行った分子人類学的研究の結果では、第一の仮説は支持されるが、第二の仮説は支持できない。また、アイヌと琉球人との類縁性が遺伝学的に示唆された。第三章で筆者は、混血の問題を考慮しても、アイヌと東南アジアの集団との間の類縁性が低いという事実に基づき、アイヌの起源に関する一つの作業仮説を提起している。それは、アイヌ集団が上洞人を含む東北アジアの後期旧石器時代人の集団に由来するというものである。また、分子人類学の手法は起源や系統の研究には有効であるが、個人や集団の形態や生活を復元するために、人骨資料がないときには先史考古学の資料を用いる学際的な研究が必要であると述べられている。
小林, 雄一郎 岡﨑, 友子 KOBAYASHI, Yuichiro OKAZAKI, Tomoko
本研究の目的は,中古資料における接続表現の使用の違いを明らかにすることである。具体的には,「日本語歴史コーパス(平安時代編)」と統計手法を活用することで,時代,ジャンル,書き手等の要因による接続表現の頻度の変異を分析した。その結果,(a)紀貫之の筆による『土左日記』と『古今和歌集』(仮名序)の類似性,(b)サテの使用による歌物語の類似性,(c)カカリ系とサテ系の使用法に対する執筆年代の影響,等が見られた。
濱島, 正士 Hamashima, Masashi
日本の寺院・神社の建築には,装飾の一環として各種の塗装・彩色がされている。何色のどんな顔料がどのような組合わせで塗られているのか,それは建築の種類によって,あるいは時代によってどう違うのか,また,建築群全体としてはどのように構成され配置されているのだろうか。これらの点について,古代・中世はおもに絵画資料により,近世は建築遺例により時代を追って概観し,あわせて日本人の建築に対する色彩感覚にもふれてみたい。
工藤, 雄一郎 Kudo, Yuichiro
縄文時代の開始期の植物利用については,これまで土器の出現と関連づけて様々な議論が行われてきた。出現当初の縄文時代草創期の土器は「なにをどのように煮炊きするための道具だったのか」という点をより具体化し,列島内での土器利用の地域差などを検討していくことは極めて重要な研究課題である。2012年に発掘された宮崎県王子山遺跡からは,縄文時代草創期の炭化植物遺体(コナラ属子葉,ネギ属鱗茎)が出土した。筆者らは,これらの試料の炭素・窒素安定同位体分析を行い,また,王子山遺跡および鹿児島県三角山Ⅰ遺跡から出土した隆帯文土器の内面付着炭化物の炭素・窒素安定同位体分析を実施し,土器で煮炊きされた内容物について検討した。この結果,王子山遺跡では動物質食料と植物質の食料が煮炊きされていた可能性が高いことがわかった。王子山遺跡から出土した炭化ドングリ類は,土器による煮沸の行程を経てアク抜きをした後に食料として利用されていたというよりも,動物質の食料,特に肉や脂と一緒に煮炊きすることで,アク抜くのではなく,渋みを軽減して食料として利用していた可能性を提示した。一方,三角山Ⅰ遺跡では,隆帯文土器で海産資源が煮炊きされた可能性があることを指摘した。これらの土器の用途は,「堅果類を含む植物質食料のアク抜き」に関連づけるよりも,「堅果類を含む植物質食料および動物質食料の調理」と関連づけたほうが,縄文時代草創期の植物利用と土器利用の関係の実態により近いと推定した。
和田, 恭幸 WADA, Yasuyuki
浅井了意の仏書に盛り込まれた内容は、了意とほぼ同時代に生存した学僧恵空の雑著類と多くの面で一致する。恵空の雑著とは、漢籍『竹窓随筆』に倣う『梨窓随筆』・『閑窓和筆』であった。当時、「随筆」なる書名は、故事集に対しても付けられた。了意が、あえて件の書名と時代の風潮を無視したのは、商品としての書物を著作する姿勢にほかならない。しかし、その工夫と学識は功罪半ばして、了意の怪異小説を「作品」から再び唱導話「材」へ解体させる結果をも生んだ。
稲賀, 繁美
20世紀前半の日本の近代美術史は、同時代の世界美術史の枠組みのなかで再考される必要がある。この課題に対処するうえで、橋本関雪(1883~1945)の事例は見過ごすことができない。関雪は明治末年から大正時代にかけ、文部省美術展覧会、ついで帝国美術展覧会で続けざまに最高賞を獲得したが、その画題は中国古典から題材を取りつつも、日本画の技法を駆使しており、さらに、清朝皇帝に仕えた郎世寧の画風を取り込むばかりか、洋行に前後して、同時代の西欧の最新流行にも目配せしていた。加えて筆者の仮説によれば、関雪は旧石器時代に遡る原初の美術やペルシア細密画をも自分の画業に取り込もうとしたことが推測される。こうした視点は先行研究からは見落とされてきた。 また橋本関雪は、辛亥革命から第一次世界大戦終了の時期を跨いで、従来日本では軽視されてきた明末清初の文人・画人を日本で再評価する機運にも働きかけ、新南画の隆盛に先鞭を着けるとともに、東洋画の美学的優位を主張することから、最新の表現主義の潮流に棹さしつつも、独自の東洋主義を唱道した。本稿は、こうした関雪の東洋画復権を目指す取り組みを、同時代の思想潮流のなか、とりわけ京都支那学の発展との関係において問い直す。 日露戦争から両大戦間期に至る関雪の画業と旺盛な執筆活動を再検討することから、本稿は中・日・欧の活発な交渉のなかに当時の画壇の一潮流を位置づけ直し、ひとり関雪のみならず、当時の東洋画再興の機運を世界史的な視野で見直すことを目的とする。なお本稿は昨年度、兵庫県立美術館で開催された大規模な回顧展での記念講演会、および昨年暮れのベルリン自由大学およびダーレム博物館での招聘講演に基づくものであることを付記する。
吉田, 邦夫 佐藤, 正教 中井, 俊⼀
漆製品について,これまでの発掘を見ると,約9000年前とされる垣ノ島B遺跡の装身具を除くと,中国と日本列島の漆製品は,ほぼ同時代か,中国の方がやや古い。東〜東南アジアに分布するウルシ(漆樹)は3種類の系統が知られているが,主成分が異なり,日本・中国ウルシから採取される漆はウルシオールを含み,ベトナム漆はラッコール,ミャンマー漆はチチオールを含んでいるので,主成分を分析すれば識別できる。しかし,日本列島産と中国産は,主成分を分析しても,両者を識別することは出来ない。ストロンチウムSrはカルシウムCaと同様に,生育土壌から吸収され,植物組織に運ばれる。漆塗膜中のSrの同位体比⁸⁷Sr/⁸⁶Srは,ウルシが生育した場所の土壌の性格を反映する。日本列島産,中国産漆液資料について同位体分析をした結果,列島産は⁸⁷Sr/⁸⁶Srの値が,0.705-0.709であるのに対して,中国産は0.712-0.719であり,Sr同位体比により,両者が識別出来ることが示された。⁸⁷Sr/⁸⁶Srの値は,0.711を境にして,二つのグループにきれいに分かれる。日本列島は,起源や年代が異なる岩石が混ざっているが,平均すると,より古い時代にマントルから分化した中国大陸の岩石より若い年代をもち,⁸⁷Sr/⁸⁶Srの値は小さくなる。中国渡来の漆があれば,識別可能である。また,漆液・ウルシに含まれるSr同位体比は,土壌の交換性Srの同位体比を反映している。これまでに,主として縄文時代後期,晩期,弥生時代中期,平安時代などの資料について,¹⁴C年代を決定するとともに,Sr同位体比を測定した。埋蔵中の物理的・化学的作用は,同位体比に大きな影響を与えておらず,縄文時代の発掘資料についても,この手法が適用できることが示された。遺跡から,ウルシ,漆液,漆製品の三点セットが出土しているところも多い。三者の同位体比が一致して初めて,列島のその遺跡で得られた漆原料によって漆製品が製造されたことが実証される。これまでの分析例では,遺跡ごとにまとまった値を示し,漆は地産地消されている可能性を示している。
山本, 登朗
古くから多くの人に愛され、楽しんで読まれてきた『伊勢物語』だが、平安時代の写本は、娯楽の対象と見なされ保存されなかったためか、残っていない。鎌倉時代になると、『伊勢物語』は、和歌をよむための典拠、つまり研究の対象となる古典文学へと姿を変えていった。そのため、重要な写本は大切に残されるようになった。鎌倉時代の初めにはさまざまな形の『伊勢物語』があったことが知られているが、異なった種類の本の章段を巻末に補ってすべての『伊勢物語』を集成しようとする試みや、諸本の間の本文の違いを見比べて校訂する試みなども行われていた。それらさまざまな本の中で、すぐれた歌人であるとともに優秀な古典研究者でもあった藤原定家が校訂した本、すなわち定家本が次第に広まっていった。現存する『伊勢物語』写本のほとんどは、百二十五の章段を持つ、この定家本に属する本である。
池田, 榮史 Ikeda, Yoshifumi
沖縄諸島のグスク時代遺跡には「吹出原型掘立柱建物」と名付けられた遺構の組み合わせが見られるが、その出現の「由来、背景」については詳らかになっていない。これを含めて沖縄のグスク時代社会の開始には喜界島城久遺跡群をはじめとする奄美諸島を経由した古代末〜中世初期の日本からの影響が大きいと考えられる。そこで、「吹出原型掘立柱建物」の「由来、背景」を探るために奄美諸島喜界島城久遺跡群で検出された建物遺構および建物遺構の中に見られる「吹出原型掘立柱建物」類似遺構の検討を行なった。その結果、「吹出原型掘立柱建物」の直接的祖型を城久遺跡群に求めることはできないが、建物の構造や配置などについては間接的な影響があったと考えられる。
関連キーワード