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辻, 誠一郎 Tsuji, Seiichiro
長野盆地南部に位置する更埴条里遺跡・屋代遺跡群の古代の植物遺体群のうち,日本では最大の資料数であるヒョウタン遺体,およびアサ,ササゲ,モモ遺体の産出と利用を再検討した。その結果,古代の植物利用と農業経営に関して新しい知見を得た。
平川, 南 Hirakawa, Minami
古代の集落遺跡から出土する墨書土器は,古代の村落社会を解明する有力な資料である。また,これまで墨書土器は文字の普及の指標としてとらえてきた。その検討も含めて,これからは集落遺跡における墨書土器の意義は何かという大きな課題について新たな視点から考察する必要があるであろう。そこで,前稿(「古代集落と墨書土器」)では,特定した集落遺跡の分析を試みたが,本稿では,墨書土器の字形を中心に,より広域的見地から分析した。
市川, 隆之 Ichikawa, Takayuki
長野県北部にある善光寺平には条里型地割が認められる地点がいくつかある。そのひとつ更埴条里遺跡において初めて埋没条里型水田が確認されたが,その後,石川条里遺跡や川田条里遺跡でも同時期の埋没条里型水田跡や古代の水田跡の存在が明らかにされた。何れも千曲川沿岸の後背低地に立地する遺跡であるが,近年,これらの遺跡が高速道路・新幹線建設に伴って大規模に発掘調査されたことから新たな知見がもたらされた。本稿ではこれらの発掘調査成果を中心に善光寺平南部の古代水田の様相を紹介するものである。
平川, 南 Hirakawa, Minami
さきに拙稿「墨書土器とその字形」において、古代の集落遺跡から出土する墨書土器は、一定の祭祀や儀礼行為等の際に土器になかば記号として意識された文字を記載したのではないかと指摘し、今後、古代村落内の信仰形態の実態を究明しなければならないと課題を提示した。
永山, 修一 NAGAYAMA, Shuichi
不動寺遺跡は、鹿児島市の南部、谷山地区の下福元町に所在する縄文時代~近世の複合遺跡である。谷山地区は、古代の薩摩国谿山郡に淵源し、「建久八年薩摩国図田帳」では、島津庄寄郡の谷山郡と見え、近世には谷山郷とされた。古代の谿山郡は隼人が居住する「隼人郡」の一つで、『和名類聚抄』によれば、谷山・久佐の二郷からなり、両郷は、永田川の中流・上流域と下流域すなわち西側と東側に存在した。不動寺遺跡では、奈良時代の明確な遺構は確認されておらず、奈良時代の遺構は、不動寺遺跡の範囲外、埋没河川の上流側にあると考えられる。平安時代のものとして緑釉陶器・初期貿易陶磁(越州窯系青磁など)・硯(風字硯・転用硯)などの遺物が出土し、遺構としては館跡・遣水状遺構・池状遺構・火葬墓・円形周溝墓・土師甕埋納遺構が検出されている。九世紀以降は郡家遺構そのものが確認されているわけではないが、谷山郡家が置かれていた可能性が高く、その後、園池を伴う有力者の居館として機能するようになった。不動寺遺跡の南南西約五〇〇メートルの谷山弓場城跡でも一〇世紀後半の蔵骨器の火葬墓が出土しており、蔵骨器の形式から、被葬者は不動寺遺跡の関係者と考えられる。また、一〇世紀後半~一一世紀前半には、北西九州と関連の深い円形周溝墓が営まれており、その被葬者は北部九州との関係を持っていた可能性が高い。一二世紀になると、不動寺遺跡では遺構が確認されなくなる。
佐々木, 蘭貞 Sasaki, Randy
水中遺跡、特に沈没船は、当時の様子をそのまま残していることがあり、交易のメカニズムを伝えるタイムカプセルに例えられる。諸外国では一九世紀から水中遺跡を研究対象として捉え、古代から近現代の沈没船の研究が進み、すでに数万件の調査事例がある。一方、これまで日本で確認された水中遺跡は数百件と決して多くない。四方を海で囲まれたわが国において海を介した交易無くして日本の歴史や文化を語ることはできないが、その確固たる証拠が眠る水中遺跡を保護し研究する体制は整っていない。水中遺跡の多くは、滋賀県(琵琶湖)、沖縄県、長崎県の三県に集中しており、中世の交易に関する遺跡はほとんど発見されていない。また、沈没船の発見を念頭に海難記録を調べているが、まだ多くの課題が残される。近年、一三世紀の蒙古襲来に関連した沈没船が長崎県松浦市の鷹島海底遺跡で発見され、わが国でも水中遺跡への注目が急速に集まりつつある。
李, 暎澈 Lee, Youngcheol
本稿は,栄山江流域の古代集落の景観と構造の分析を目的としたものである。具体的には,栄山江流域(馬韓)が徐々に百済化していく段階において,集落景観がどのような変貌を遂げたのか,という点について,文献資料といくつかの集落遺跡を取り上げながら検討を行った。
池田, 榮史 Ikeda, Yoshifumi
沖縄諸島のグスク時代遺跡には「吹出原型掘立柱建物」と名付けられた遺構の組み合わせが見られるが、その出現の「由来、背景」については詳らかになっていない。これを含めて沖縄のグスク時代社会の開始には喜界島城久遺跡群をはじめとする奄美諸島を経由した古代末〜中世初期の日本からの影響が大きいと考えられる。そこで、「吹出原型掘立柱建物」の「由来、背景」を探るために奄美諸島喜界島城久遺跡群で検出された建物遺構および建物遺構の中に見られる「吹出原型掘立柱建物」類似遺構の検討を行なった。その結果、「吹出原型掘立柱建物」の直接的祖型を城久遺跡群に求めることはできないが、建物の構造や配置などについては間接的な影響があったと考えられる。
千田, 嘉博 Senda, Yoshihiro
従来,遺構に即した踏み込んだ検討が行われてこなかった東北北部の山域について,墳館・唐川城・柴崎城・尻八館を事例に検討を行った。この結果,墳館は10世紀末~11世紀にかけての古代末の防御集落と中世の館が重複した遺跡であったことを示し,東北地域で数多くみられるこうした重複現象が,中世段階ですでに古代末に地域の城が構えられた場が,特別な意味をもち,そこに改めて城を築くことが,中世の築城主体にとって権力の権威や正当性を示す意義をもったとした。
服部, 伊久男 Hattori, Ikuo
古代荘園図と総称される史料群の一例である「額田寺伽藍並条里図」の分析を通じて,8世紀後半の額田寺の構造と寺辺の景観を明らかにすると同時に,寺院景観論の深化を図ることを目的とする。官寺や国分寺については多くの先行研究があるが,史料の少ない氏寺などの私寺の構造と景観については,古代寺院の大部分を占めるものの十分な研究がなされてこなかった。氏寺の寺院景観の一端を明らかにし,多様な寺院研究の方法を提起するために額田寺図を検討する。近年の古代荘園図研究の動向を受けて,考古学的に検討する場合の分析視角を提示し,寺院空間論などの領域論的,空間論的視点を軸として,寺院組織や寺院経済をめぐる文献史学上の論点を援用しつつ,額田寺の構造と景観に言及する。額田寺伽藍並条里図は多様な情報を有する史料体であり,寺領図という性格に拘泥せず様々な課題設定が可能である。本稿では,社会経済史的視点を援用し,本図を一枚の経済地図として読むことも試みる。額田寺をめぐる寺院景観の中では,とりわけ,院地,寺領,墓(古墳),条里をめぐる諸問題について検討する。さらに,近年の考古学的成果を受けて,古代寺院の周辺で検出されている掘立柱建物群について,畿内外の諸例(池田寺遺跡,海会寺遺跡,市道遺跡など)を中心に検討を行う。小規模な氏寺をめぐる景観をこれほどまでに豊富に描き出している史料はなく,その分析結果が今後の古代寺院研究に与える影響は大きい。考古学的に検討するには方法論的にも,また,現地の調査の進捗状況からも限られたものとなるが,考古資料の解釈や理解に演繹的に活用するべきである。とりわけ,これまであまり重要視されてこなかった院地の分析に有効に作用することが確認された。また,近年の末端官衙論とも関係することが明らかとなった。今後,寺領をめぐる課題についても考古学から取り組む必要も強調したい。
伊藤, 武士 ITO, Takeshi
出羽国北部においては,8世紀に律令国家により出羽柵(秋田城)や雄勝城などの古代城柵が設置され,9世紀以降も城柵を拠点として広域の地域支配が行われた。古代城柵遺跡である秋田城跡や払田柵跡においては,城柵が行政と軍事,朝貢饗給機能に加え,交易,物資集積管理,生産,居住,宗教,祭祀などの機能を,複合的かつ集約的に有した地域支配拠点であった実態が把握されている。特に,継続的に操業する城柵内生産施設を有して周辺地域開発の拠点として機能した点については,出羽国北部城柵の地域的な特徴として指摘される。
林部, 均 Hayashibe, Hitoshi
郡山遺跡は宮城県仙台市に位置する飛鳥時代中ごろから奈良時代前半の地方官衙遺跡である。多賀城は宮城県多賀城市に所在する奈良時代から平安時代にかけての地方官衙遺跡である。郡山遺跡は仙台平野の中央,多賀城は仙台平野の北端に位置している。ともにヤマト王権,もしくは律令国家の支配に従わない蝦夷の領域に接する,いわば国家の最前線に置かれた地方官衙であった。
五十川, 伸矢 Isogawa, Shinya
鋳鉄鋳物は,こわれると地金として再利用されるため,資料数は少ないが,古代・中世の鍋釜について消費遺跡出土品・生産遺跡出土鋳型・社寺所蔵伝世品の資料を集成した。これらは,羽釜・鍋A・鍋B・鍋C・鍋I・鉄鉢などに大別でき,9世紀~16世紀の間の各器種の形態変化を検討した。また,古代には羽釜と鍋Iが存在し,中世を通じて羽釜・鍋A・鍋Cが生産・消費されたが,鍋Bは14世紀に出現し,次第に鍋の主体を占めるにいたるという,器種構成上の変化がある。また,地域によって異なった器種が用いられた。まず,畿内を中心とする地方では,羽釜・鍋A・鍋Bが併用されたが,その他の西日本の各地では,鍋A・鍋Bが主要な器種であった。一方,東日本では中世を通じて鍋Cが主要な煮沸形態であり,西日本では青銅で作る仏具も,ここでは鉄仏や鉄鉢のように鋳鉄で製作されることもあった。また,近畿地方の湯立て神事に使われた伝世品の湯釜を,装飾・形態・銘文などによって型式分類すると,河内・大和・山城などの各国の鋳造工人の製品として峻別できた。その流通圏は中世の後半では,一国単位程度の範囲である。
中塚, 武 NAKATSUKA, Takeshi
気候変動は人間社会の歴史的変遷を規定する原因の一つであるとされてきたが,古代日本の気候変動を文献史学の時間解像度に合わせて詳細に解析できる古気候データは,これまで存在しなかった。近年,樹木年輪に含まれるセルロースの酸素同位体比が夏の降水量や気温の鋭敏な指標になることが分かり,現生木や自然の埋没木に加えて,遺跡出土材や建築古材の年輪セルロース酸素同位体比を測定することにより,先史・古代を含む過去数百~数千年間の夏季気候の変動を年単位で復元する研究が進められている。その中では,セルロースの酸素同位体比と水素同位体比を組み合わせることで,従来の年輪による古気候復元では難しかった数百~数千年スケールの気候の長期変動の復元もできるようになってきた。得られたデータは,近現代の気象観測データや国内外の既存の低時間解像度の古気候記録と良く合致するだけでなく,日本史の各時代から得られたさまざまな日記の天候記録や古文書の気象災害記録とも整合しており,日本史と気候変動の対応関係を年単位から千年単位までのあらゆる周期で議論することが可能になってきている。まず数百年以上の周期性に着目すると,日本の夏の気候には,紀元前3,2世紀と紀元10世紀に乾燥・温暖,紀元5,6世紀と紀元17,18世紀に湿潤・寒冷の極を迎える約1200年の周期での大きな変動があり,大規模な湿潤(寒冷)化と乾燥(温暖)化が古墳時代の到来と古代の終焉期にそれぞれ対応していた。また人間社会に大きな困難をもたらすと考えられる数十年周期の顕著な気候変動が6世紀と9世紀に認められ,それぞれ律令制の形成期と衰退期に当たっていることなども分かった。年単位の気候データは,文献史料はもとより,酸素同位体比年輪年代法によって明らかとなる年単位の遺跡動態とも直接の対比が可能であり,今後,文献史学,考古学,古気候学が一体となった古代史研究の進展が期待される。
小林, 謙一 福海, 貴子 坂本, 稔 工藤, 雄一郎 山本, 直人 Kobayashi, Kenichi Fukuumi, Takako Sakamoto, Minoru Kudo, Yuichiro Yamamoto, Naoto
北陸地方石川県の遺跡では,縄文晩期中屋サワ遺跡,縄文後期~晩期御経塚遺跡,弥生の八日市地方遺跡,弥生中期大長野A遺跡,弥生後期月影Ⅱ式期の大友西遺跡のSE14井戸出土土器付着物の炭素14年代を測定した。
坂上, 康俊 SAKAUE, Yasutoshi
畿内,東国,北部九州の古代集落は,8世紀の安定期を終えた後に,それぞれ異なった展開をたどる。すなわち,畿内では9世紀に入ると不安定化し,東国では10世紀に入って衰退するのに対し,北部九州では9世紀初頭に衰退してしまうのである。しかし,衰退したり不安定化したりする原因については,あまりはっきりとしていない。集落の衰退・消滅の背景を探るには,まずは個々の遺跡の景観を復原していくことから始めるしかあるまい。
小畑, 弘己 真邉, 彩 百原, 新 那須, 浩郎 佐々木, 由香 Obata, Hiroki Manabe, Aya Momohara, Arata Nasu, Hiroo Sasaki, Yuka
近年,圧痕法の進展により,水洗選別によって得られた植物資料と,土器圧痕として検出された資料の組成には差異があることが指摘され始め,遺跡本来の植物利用や周辺の植物相を把握するためには,植物遺体のみでなく圧痕資料も加味する必要性があると意識され始めた。本稿は,下宅部遺跡出土の縄文土器の圧痕調査を行ない,本遺跡で利用された植物を土器圧痕から検討したものである。また,下宅部遺跡に近接し,同時期の遺跡と評価されている日向北遺跡についても土器圧痕調査を行ない,低湿地遺跡と低湿地から離れた台地上の遺跡という立地の異なる遺跡間での圧痕資料の組成を比較した。
古川, 一明 Furukawa, Kazuaki
東北地方の宮城県地域は,古墳時代後期の前方後円墳や,横穴式石室を内部主体とする群集墳,横穴墓群が造営された日本列島北限の地域として知られている。そしてまた,同地域には7世紀後半代に設置された城柵官衙遺跡が複数発見されている。宮城県仙台市郡山遺跡,同県大崎市名生館官衙遺跡,同県東松島市赤井遺跡などがそれである。本論では,7世紀後半代に成立したこれら城柵官衙遺跡の基盤となった地方行政単位の形成過程を,これまでの律令国家形成期という視点ではなく,中央と地方の関係,とくに古墳時代以来の在地勢力側の視点に立ち返って小地域ごとに観察した。
羽柴, 直人 Hashiba, Naoto
柳之御所遺跡は12世紀奥州藤原氏の拠点平泉の一部分を占める遺跡である。柳之御所遺跡の変遷は6時期に分けられる。1,2期は初代清衡,3,4期は二代基衡,5,6期は三代秀衡の時代に相当する。
髙田, 宗平 Takada, Sohei
日本古代の『論語』注釈書の受容について、日本史学では『論語集解』のそれに関しては研究が見られるものの、『論語義疏』については等閑に付されてきた。このことに鑑み、『論語義疏』を引用する日本古代典籍の性格、成立時期、撰者周辺の人的関係を追究すること、古代の蔵書目録から『論語義疏』を捜索すること、古代の古記録から『論語義疏』受容の事跡を渉猟すること、等から、日本古代の『論語義疏』受容の諸相とその変遷を検討した。
坂, 靖 Ban, Yasushi
本稿の目的は,奈良盆地を中心とした近畿地方中央部の古墳や集落・生産・祭祀遺跡の動態や各遺跡の遺跡間関係から,その地域構造を解明する(=遺跡構造の解明)ことによって,ヤマト王権の生産基盤・支配拠点と,その勢力の伸張過程を明らかにすることにある。
後藤, 雅彦 Goto, Masahiko
多様な展開をもつ東南中国の先史文化について、これまで各地域文化が保有する土器群の変遷、とくに共通性と地域性に焦点をあててきた。本稿では福建北部~広西壮族自治区南部に至る東南中国の沿海側に多数の貝塚遺跡が分布していることから、貝塚遺跡を共通項にして、地域文化を形成する各遺跡に立ちかえり、遺跡の立地を踏まえた貝塚遺跡の概要と検出遺構について整理する。当該地域の貝塚遺跡は紀元前4000年紀以降に出現し、新石器時代後期(紀元前3000年紀以降)に展開し、紀元前2000年紀以降、黄河中流域\nで初期国家が成立する前後になると貝塚遺跡も変化する様子がうかがえる。その変化の一つとして、環境の変化に応じた居住形態の多様化を明らかにする。
桒畑, 光博 KUWAHATA, Mitsuhiro
都城盆地の古代の集落様相と動態に関する3つの課題を提示して,横市川流域の遺跡群の集落遺跡の類型化とその性格を推定した上で,同盆地内のその他の遺跡との比較も行ってその背景を考察した。①都城盆地内において,8世紀前半に明確ではなかった集落が8世紀後半に忽然と現れる現象については,8世紀後半以降の律令政府による対隼人政策の解消に伴って南九州各地にも律令諸原則が適用されるようになる中で,いわゆる開墾集落が形成されはじめた可能性を指摘した。②遺跡数が増大する9世紀中頃から10世紀前半には,複数の集落類型が併存しており,中にはいわゆる官衙関連遺跡や地方有力者の居宅跡も存在する。郡衙が置かれた場所ではないが,広大な諸県郡の中の中心域を占め,開発可能な沖積地を随所に擁する都城盆地において,国司・大宰府官人・院宮王臣家などとのつながりが想定される富豪層による開発が進展するとともに,物資の流通ルートを担う動きが活発化して,集落形成が顕著となり,各集落が出現と消滅,変転を繰り返しながらも見かけ上は継続的に集落形成が行われていたと推察される。貿易陶磁器や国産施釉陶器などの希少陶磁器類の存在から看取される都城盆地の特質としては,南九州内陸部における交通の結節点をなす場所として重要な位置を占めていたことに加え,一大消費地でもあったことも指摘できる。③10世紀前半まで継続した集落が10世紀後半になると衰退・廃絶し,全体的に遺跡数が減少するという現象については,10世紀から11世紀にかけて進行した乾燥化と温暖化,変動幅の大きい夏季降水量など不安定な気候の可能性に加え,当該期における集落形成の流動性と定着性の薄弱さを考慮すべきである。当時,開発の余地が大きい都城盆地に進出していた各集団の多くは,自立的・安定的な経営を貫徹するには至らなかったと思われ,当時の農業技術水準の問題もあり,激化する洪水などの自然環境の変化に対しては十分な対応がとれなかった社会状況があったことも想定できる。
橋本, 真紀夫 Hashimoto, Makio
本稿は,遺跡の発掘調査により設定された遺跡層序に,縄文時代草創期に相当する層準を見出し,その層相や遺存状況などから,最終氷期の晩氷期における環境変動が遺跡の層序や地形に影響を与えている可能性のあることを述べる。古環境変遷や古環境復元といえば,これまでは大型化石も微化石も良好に保存された低湿地遺跡などで議論されることが多かった。しかし,最近の発掘調査では,詳細な自然科学分析やその測定精度の向上により,台地上の遺跡からも環境変動や変遷を窺わせる情報が検出されている。ここでは,武蔵野台地の遺跡調査において継続的に行ってきた立川ローム層の遺跡層序を対象として,重鉱物組成と火山ガラスの産状を分析することにより草創期の層準を特定し,地形環境を解析する。とくに台地から低地への斜面地や台地縁辺部での遺跡層序から推定された地形の変化や土壌の特性は,縄文時代草創期の環境変動の影響を受けやすい地形環境下であった可能性が考えられる。
久保, 純子 Kubo, Sumiko
東京低地における歴史時代の地形や水域の変遷を,平野の微地形を手がかりとした面的アプローチにより復元するとともに,これらの環境変化と人類の活動とのかかわりを考察した。本研究では東京低地の微地形分布図を作成し,これをべースに,旧版地形図,歴史資料などから近世の人工改変(海岸部の干拓・埋立,河川の改変,湿地帯の開発など)がすすむ前の中世頃の地形を復元した。中世の東京低地は,東部に利根川デルタが広がる一方,中部には奥東京湾の名残が残り,おそらく広大な干潟をともなっていたのであろう。さらに,歴史・考古資料を利用して古代の海岸線の位置を推定した結果,古代の海岸線については,東部では「万葉集」に詠われた「真間の浦」ラグーンや市川砂州,西部は浅草砂州付近に推定されるが,中央部では微地形や遺跡の分布が貧弱なため,中世よりさらに内陸まで海が入っていたものと思われた。以上にもとづき,1)古墳~奈良時代,2)中世,3)江戸時代後期,4)明治時代以降各時期の水域・地形変化の復元をおこなった。
中三川, 昇 Nakamikawa, Noboru
中世都市鎌倉に隣接する三浦半島最大の沖積低地である平作川低地の中世遺跡を中心に,出土遺物や遺跡を取巻く環境変化,自然災害の痕跡などから,地域開発の様相の一端とその背景について考察した。平作川低地には縄文海進期に形成された古平作湾内の砂堆や沖積低地の発達に対応し,現平作川河口近くに形成された砂堆上に,概ね5世紀代から遺跡が形成され始める。6世紀代までは古墳などの墓域としての利用が主で,7世紀~8世紀中頃には貝塚を伴う小規模集落が出現するが比較的短期間で消滅し,遺構・遺物は希薄となる。12世紀後半に再び砂堆上に八幡神社遺跡や蓼原東遺跡などが出現し,概ね15世紀代まで継続する。両遺跡とも港湾的要素を持った三浦半島中部の東京湾岸における拠点的地域の一部分で,相互補完的な関連を持った遺跡群であったと考えられるが,八幡神社遺跡の出土遺物は日常的な生活要素が希薄であるのに対し,蓼原東遺跡では多様な土器・陶磁器類とともに釣針や土錘などの漁具が出土し,15世紀には貝塚が形成され,近隣地に水田や畑の存在が想定されるなど生産活動の痕跡が顕著で,同一砂堆における場の利用形態の相違が窺われた。蓼原東遺跡では獲得された魚介類の一部が遺跡外に搬出されたと推察され,鎌倉市内で出土する海産物遺存体供給地の様相の一端が窺われた。蓼原東遺跡周辺地域の林相は縄文海進期の照葉樹林主体の林相から,平安時代にはスギ・アカガシ亜属主体の林相が出現し,中世にはニヨウマツ類主体の林相に変化しており,海産物同様中世都市鎌倉を支える用材や薪炭材などとして周辺地域の樹木が伐採された可能性が推察された。蓼原東遺跡は15世紀に地震災害を受けた後,短期間のうちに廃絶し,八幡神社遺跡でも遺構・遺物は希薄となるが,その要因の一つに周辺地域の樹木伐採などに起因する環境変化の影響が想定された。
真邉, 彩 Manabe, Aya
本論は,下宅部遺跡出土の縄文土器に残る敷物圧痕,中でも編物底について,編組技法および素材形状の分析をおこなったものである。下宅部遺跡は,関東地方で最も多く編組製品が出土し,同時期の編組製品と編物底が出土した稀有な遺跡である。編物底の研究は1890年代からおこなわれているが,同一遺跡での編物底と編組製品を比較した例はほとんどない。そのため,本遺跡での分析は,編物底から読み取れる資料が編組製品資料の中でどのように位置づけられるのかという点において,重要なケーススタディといえる。本論は,下宅部遺跡から出土した編物底の復元に圧痕レプリカ法を採用し,編物底と出土編組製品との編組技法・パターン,素材幅,素材形状の比較を通して,土器製作に用いられた編組製品の特徴を概観したものである。
村木, 二郎 Muraki, Jiro
八重山・宮古といった先島諸島には,沖縄本島では見られない石積みで囲われた集落遺跡がある。発掘調査によってそこから出土する中国産陶磁器は膨大で,それらの遺跡は13世紀後半から14世紀前半に出現し,15世紀代を最盛期とする。しかし16世紀代の遺物は激減し,この時期に集落が廃絶したことがわかる。竹富島の花城村跡遺跡に代表される細胞状集落遺跡は,不整形な石囲いが数十区画にわたって連結したもので,その外郭線は崖際にさらに石を積み上げた防御性をもったものである。このような遺跡が先島の密林に埋もれており,その多くは聖地として現在も祀られている。
鈴木, 一有 Suzuki, Kazunao
分析対象として東海地方を取り上げ,有力古墳の推移からみた古墳時代の首長系譜と,7世紀後半に建立された古代寺院,および,国,評,五十戸・里といった古代地方行政区分との関係の整理を通じて,地域拠点の推移を概観した。古墳や古代寺院の造営から描き出せる有力階層の影響範囲と,令制下の古代地方行政区分については,概ね一致する場合が多いとみてよいが,部分的に不整合をみせる地域もあり,7世紀における地域再編の経緯がうかがえた。
吉川, 真司 Yoshikawa, Shinji
奈良県明日香村奥山に所在する奥山廃寺(奥山久米寺)は,620~630年代に創建された古代寺院と考えられ,古代文献に見える小治田寺に比定されている。しかし,小治田寺の創建事情については,いまだ確固たる定説がない。そこで本稿では,古代~中世の関連史料を読み直すことによって,おおむね次のような結論を得た。
菅野, 智則 Kanno, Tomonori
本論は,北上川流域において長方形大型住居跡により構成された前期環状集落に関して,その特徴を明らかにすることを目的とした。このような集落遺跡の最初期となる岩手県綾織新田遺跡の事例では,大木2b式~大木4式期の長方形大型住居跡が,北列と南列に各時期数軒ずつ存在し,それが時期とともに広がり放射状になる様相が見受けられた。三陸沿岸部と北上山地内のほかの同時期の集落遺跡では,長方形大型住居跡は等高線に沿って配置されており環状構成とはならない。北上川流域では,類似する集落遺跡が大木3~4式期の岩手県蟹沢館遺跡において認められる。この遺跡では,長方形大型住居跡が放射状ではなく完全な環状配置となっている。また,この住居跡は,北上山地地域と三陸沿岸部のものとは全く形態が異なっている。
高塚, 秀治 永嶋, 正春 坂本, 稔 齋藤, 努 Takatsuka, Hideharu Nagashima, Masaharu Sakamoto, Minoru Saito, Tsutomu
日本出土の金属鉄資料と,韓国蔚山市の達川遺跡から出土あるいは採取した鉄鉱石および土壌を,自然科学的な方法を用いて分析した。その結果,以下のことがわかった。
中村, 太一 Nakamura, Taichi
本稿は、共同研究「日本における都市生活史の研究」A班「古代・中世の都市をめぐる流通と消費」第二期において構築作業を行った「古代・中世都市生活史データベース(物価表)」、とくに入力用データベースの設計・仕様、および入力作業に関する報告である。
後藤, 雅彦 Goto, Masahiko
南中国における稲作文化の展開を考えると、野生稲の生息域でありながらも、長江水系からの影響によって、とくに紀元前2000年紀以降、沿海地域においても本格的な稲作が導入され定着する様子を捉えることができる。ただし、珠江河口の海浜に位置する宝鏡湾遺跡のように多量な漁網錘を保持するなど漁撈活動が活発になる遺跡もあり、南中国における稲作文化の定着は複雑な様相を呈する。そこで、本稿では、珠江河口に多く分布する砂丘遺跡の様相を明らかにするために、紀元前4000年以降の珠江三角州における環境の変化と遺跡の動態を整理し、居住形態として砂丘遺跡の住居址の特徴を把握した。そして、地形環境と遺跡立地の関係として、紀元前2000年以降、珠江河口において積極的に海浜が選択された状況を検討した。その結果、活発な漁撈活動が示されると同時に玉石器の製作という生産活動の状況を確認し、こうした海と陸が接する海浜に居住する先史集団にとって海上交通による活発な移動も地形選択の要因の一つと考えた。
池谷, 初恵 Ikeya, Hatsue
本論は先島諸島と奄美地域で出土する貿易陶磁の数量分析データに基づき,各遺跡の出土量の消長や種別の変化に言及し,琉球列島の南北における貿易陶磁の動態を論じたものである。別稿の報告において,貿易陶磁の編年に基づきⅠ~Ⅵ期,小期を含め7段階に時期区分を行ったが,それぞれの遺跡をこの時期区分に照らし,先島諸島における以下の4つの画期を想定した。1:貿易陶磁の出土量が増加する13世紀後半,2:貿易陶磁の出土量がさらに増加し,主体が白磁から青磁に変換する14世紀後半,3:遺跡により出土量の増減に特徴がみられる15世紀後半,4:一部の遺跡を除き多くの遺跡において出土量が激減する16世紀初頭~前半である。
宇佐美, 哲也 Usami, Tetsuya
武蔵野台地東辺における縄文時代中期の主要集落遺跡について,土器の細別時期ごとに住居分布を検討した。その結果,いずれの集落遺跡においても,一時的に住居軒数が増加し,住居が環状に分布するような景観を呈する時期が認められるものの,基本的には1~数軒の住居が点在するような一時的景観を基本として,住居数の増減を繰り返したり,途中断絶を挟みつつ,変遷していることが確認できた。大規模集落跡,環状集落跡とされる集落遺跡も,住居が環状に分布するような景観が途切れなく継続する姿は復元できない。また,住居数が増加する時期は,各集落遺跡により違いがあることから,その要因は,各集落遺跡,各地域ごとに異なる可能性が高いと想定した。
春成, 秀爾 小林, 謙一 坂本, 稔 今村, 峯雄 尾嵜, 大真 藤尾, 慎一郎 西本, 豊弘 Harunari, Hideji Kobayashi, Kenichi Sakamoto, Minoru Imamura, Mineo Ozaki, Hiromasa Fujio, Shinichiro Nishimoto, Toyohiro
奈良県桜井市箸墓古墳・東田大塚・矢塚・纏向石塚および纏向遺跡群・大福遺跡・上ノ庄遺跡で出土した木材・種実・土器付着物を対象に,加速器質量分析法による炭素14年代測定を行い,それらを年輪年代が判明している日本産樹木の炭素14年代にもとづいて較正して得た古墳出現期の年代について考察した結果について報告する。その目的は,最古古墳,弥生墳丘墓および集落跡ならびに併行する時期の出土試料の炭素14年代に基づいて,これらの遺跡の年代を調べ,統合することで弥生後期から古墳時代にかけての年代を推定することである。
柴田, 昌児 Shibata, Shoji
西部瀬戸内の松山平野で展開した弥生社会の復元に向けて,本稿では弥生集落の動態を検討したうえでその様相と特質を抽出する。そして密集型大規模拠点集落である文京遺跡や首長居館を擁する樽味四反地遺跡を中心とした久米遺跡群の形成過程を検討することで,松山平野における弥生社会の集団関係,そして古墳時代社会に移ろう首長層の動態について検討する。
坂本, 稔 春成, 秀爾 小林, 謙一 Sakamoto, Minoru Harunari, Hideji Kobayashi, Kenichi
大阪府東大阪市瓜生堂遺跡は,河内平野の中央,かつての河内潟の南岸に位置する弥生時代の拠点集落の遺跡である。2000年の東大阪市教育委員会による第47次調査のさいに,4基の方形墳丘墓が発掘され,それらから木材の遺存する木棺墓11基が検出された。
四柳, 嘉章 Yotsuyanagi, Kasho
本稿では中世的漆器生産へ転換する過程を,主に食漆器(椀皿類)製作技術を中心に,社会文化史的背景をふまえながらとりあげる。平安時代後期以降,塗師や木地師などの工人も自立の道を求めて,各地で新たな漆器生産を開始する。新潟県寺前遺跡(12世紀後半~13世紀)のように,製鉄溶解炉壁や食漆器の荒型,製品,漆刷毛,漆パレットなどが出土し,荘官級在地有力者の屋敷内における,鋳物師と木地・塗師の存在が裏付けられる遺跡もある。いっぽう次第に塗師や木地師などによる分業的生産に転換していく。そうしたなかで11~12世紀にかけて材料や工程を大幅に省略し,下地に柿渋と炭粉を混ぜ,漆塗りも1層程度の簡素な「渋下地漆器」が出現する。これに加えて,蒔絵意匠を簡略化した漆絵(うるしえ)が施されるようになり,需要は急速に拡大していった。やがて15世紀には食漆器の樹種も安価な渋下地に対応して,ブナやトチノキなど多様な樹種が選択されるようになっていく。渋下地漆器の普及は土器埦の激減まねき,漆椀をベースに陶磁器や瓦器埦などの相互補完による新しい食膳様式が形成された。漆桶や漆パレットや漆採取法からも変化の様子を取り上げた。禅宗の影響による汁物・雑炊調理法の普及は,摺鉢の量産と食漆器の普及に拍車をかけた。朱(赤色)漆器は古代では身分を表示したものであったが,中世では元や明の堆朱をはじめとする唐物漆器への強い憧れに変わる。16世紀代はそれが都市の商工業者のみならず農村にまで広く普及して行く。都市の台頭や農村の自立を示す大きな画期であり,近世への躍動を感じさせる「色彩感覚の大転換」が漆器の上塗色と絵巻物からも読み解くことができる。古代後期から中世への転換期,及び中世内の画期において,食漆器製作にも大きな変化が見られ,それは社会的変化に連動することを紹介した。
今村, 啓爾 Imamura, Keiji
ランヴァク遺跡は,ベトナムのゲアン省に所在するドンソン文化期,紀元前1~2世紀頃の遺跡である。この時代は,ちょうど日本の弥生時代のように,個性的な青銅器が発達し,鉄器の製作,使用も開始され,稲作を基礎とした社会が国家形成に向けて大きな変化を見せた時代である。1990~1991年ベトナム日本共同調査隊が行った発掘調査では,現在水田となっている谷をはさんで,東側の墓地遺跡(ランヴァク地点)と西側の集落址(ソムディン地点)が調査された。青銅器との関連で重要なことは,墓地遺跡で砂岩製の斧の鋳型が出土し,集落址では鋳型片や溶けた青銅の付着した土器から青銅器鋳造に使われたとみられる炉址が発見されたことである。ランヴァク遺跡はドンソン文化の広がりのなかではかなり南に位置し,ベトナム北部,中国南部ばかりでなく,ベトナム中・南部のサフィン文化やタイのバンチェン文化など周辺の広い地域との関連が見られる。
矢作, 健二 Yahagi, Kenji
縄文時代草創期・早期の遺跡である愛媛県上黒岩遺跡は,これまで岩陰遺跡として発掘調査がなされ,最近では,その成果の再調査と再評価により,縄文時代草創期には狩猟活動に伴うキャンプサイト,早期には一定の集団が通年的な居住をしていたと考えられている。しかし,岩陰からの明確な遺構の検出記録はない。上黒岩遺跡の岩陰を構成している石灰岩体の分布や山地を構成している泥質片岩の分布に,縄文時代草創期から早期に至る時期の気候変動を合わせて考えると,遺構を遺すような生活空間は,山地斜面と久万川との間に形成された狭小な段丘上の地形にあったと推定される。
千葉, 敏朗 Chiba, Toshiro
本論は下宅部遺跡から出土した様々な漆工関連資料から,縄文時代の漆工技術を復元したものである。
犬飼, 公之
この論文は、古代日本人が、人間の生成をどうとらえたかを考える。
石井, 久雄 ISII, Hisao
現代語のある表現・意味を,古代語ではどのように表現していたか。その問題にかかわる研究領域は,表現史として設定されうるであろう。そうして,その研究の成果の集約として,現代語=古代語辞典の編集を想定しながら,どのような作業がかんがえられるかを,のべる。(1)語彙研究の成果を検討する,(2)古代語作品の現代語訳を検索する,(3)古辞書を利用する,(4)古語辞典の記述を参照する,というような作業である。
高島, 英之 Takashima, Hideyuki
発掘調査によって出土する古代の印章のほとんどは私印であるが,これまで官司・寺社印に比して専論も皆無に等しく,不明な点が少なくなかった。本稿では奈良・平安時代の現存する文書の印影22例,出土品・伝世品など138例,鋳型片2例,印影のある土器・瓦片5例等から,古代の私印の形態・内容・用途・機能について検討を行った。
後藤, 雅彦 Goto, Masahiko
東南中国の地域をめぐる考古学研究として、珠江三角州地域をとりあげ、まず、時間軸の設定を再確認し、周辺地域との関わりを時間的推移の中で見直した。また、近年の新しい研究課題として、地域内における遺跡差及び遺跡間の関係をあげることができる。本稿でも、印紋陶や石錘を例にしながら、東南中国という広い地域単位での位置付け、一地域内での遺跡差の両側面から検討を加えた。そして、商代併行期と言う時代の転換期において、外からの殷系文化の南漸と言う外的要因と共に、内的要因として、特定の素材や製品の広がりにみる地域内部のネットワークが強化されていることに着目し、さらに、中核的な遺跡の存在を考えた。
石井, 久雄 ISII, Hisao
本文批判は基本的には古代語文献に関するものであるが,現代語についても必要であることを示唆し,あわせて,「本文」の概念の規代における成長を指摘する。(1)古代語文献の本文批判は,池田亀鑑の業績によって期を画されている。それ以前の本文は,校訂者の主観的な改訂をともなって提示されるのがつねであったが,それ以後は,文献学の成果にもとづき,良質な翻刻および校訂本文が提示されてきている。(2)現代語文献の本文批判は,古代語のそれとことなるところがある。
田路, 正幸 Toji, Masayuki
古代銅印は,近年発掘調査による出土例が増加している文字資料の一つである。銅印については,これまでさまざまな視点からの集成作業や研究が行われてきたが,考古資料としての位置付けは必ずしも充分に果たされているとはいいがたい。そこで本稿では発掘調査による出土例をもとに,古代銅印の考古資料としての評価の方途を探ることとしたい。
千田, 稔
本論は、日本古代王権の一つの中心地であった磐余(奈良県桜井市西南部)をとりあげ、文芸評論家保田與重郎(一九一〇―一九八一)の思想的立脚点となった鳥見の霊畤の風景を、歴史地理学の視点から検討をする。鳥見の霊畤は『日本書紀』の神武天皇の伝承において語られる「祭の庭」であるが、神武伝承が虚構性が高いために、鳥見の霊畤についても、戦後の古代研究の対象とならなかった。
春成, 秀爾 Harunari, Hideji
東日本の弥生時代前半期には、人の遺体をなんらかの方法で骨化したあと、その一部を壺に納めて埋める再葬制が普遍的に存在した。再葬関係と考えられている諸遺跡の様相は、変化に富んでいる。それは、再葬の諸過程が別々の場所に遺跡となってのこされているからである。
設楽, 博己 Shitara, Hiromi
神奈川県小田原市中里遺跡は弥生中期中葉における,西日本的様相を強くもつ関東地方最初期の大型農耕集落である。近畿地方系の土器や,独立棟持柱をもつ大型掘立柱建物などが西日本的要素を代表する。一方,伝統的な要素も諸所に認められる。中里遺跡の住居跡はいくつかの群に分かれ,そのなかには環状をなすものがある。また再葬の蔵骨器である土偶形容器を有している。それ以前に台地縁辺に散在していた集落が消滅した後,平野に忽然と出現したのも,この遺跡の特徴である。
工藤, 雄一郎 Kudo, Yuichiro
縄文時代の開始期の植物利用については,これまで土器の出現と関連づけて様々な議論が行われてきた。出現当初の縄文時代草創期の土器は「なにをどのように煮炊きするための道具だったのか」という点をより具体化し,列島内での土器利用の地域差などを検討していくことは極めて重要な研究課題である。2012年に発掘された宮崎県王子山遺跡からは,縄文時代草創期の炭化植物遺体(コナラ属子葉,ネギ属鱗茎)が出土した。筆者らは,これらの試料の炭素・窒素安定同位体分析を行い,また,王子山遺跡および鹿児島県三角山Ⅰ遺跡から出土した隆帯文土器の内面付着炭化物の炭素・窒素安定同位体分析を実施し,土器で煮炊きされた内容物について検討した。この結果,王子山遺跡では動物質食料と植物質の食料が煮炊きされていた可能性が高いことがわかった。王子山遺跡から出土した炭化ドングリ類は,土器による煮沸の行程を経てアク抜きをした後に食料として利用されていたというよりも,動物質の食料,特に肉や脂と一緒に煮炊きすることで,アク抜くのではなく,渋みを軽減して食料として利用していた可能性を提示した。一方,三角山Ⅰ遺跡では,隆帯文土器で海産資源が煮炊きされた可能性があることを指摘した。これらの土器の用途は,「堅果類を含む植物質食料のアク抜き」に関連づけるよりも,「堅果類を含む植物質食料および動物質食料の調理」と関連づけたほうが,縄文時代草創期の植物利用と土器利用の関係の実態により近いと推定した。
三上, 喜孝 Mikami, Yoshitaka
律令国家により銭貨が発行されると、平城京や平安京などの都城を中心に銭貨が流通すると同時に、銭貨による出挙(利息付き貸付)が広範に行われるようになった。この銭貨出挙については、これまでも古代史の分野で膨大な研究蓄積がある。なかでも正倉院文書に残るいわゆる「月借銭解」」を素材とした研究により、古代の写経生の生活の実態や、各官司・下級官人による出挙運営の実態を明らかになってきた。だが古代の都市生活の中で銭貨出挙が果たした役割についてはなお検討の余地がありそうである。そこで本稿では、正倉院文書、木簡、六国史の記事を再検討し、銭貨出挙が都市民に果たした役割を総体的に検討した。
山田, 康弘 Yamada, Yasuhiro
これまで,山陰地方における縄文時代から弥生時代への移行は,比較的スムーズではあったものの,その一方でダイナミックなものであると想定されてきた[山田2009:178-179]。しかしながら,弥生時代前期の墓地遺跡における墓群構造を細かく検討してみると,一見渡来的な状況を呈しながらも,実は在来(縄文)的な要素が複雑な形で内在していることが明らかとなった。例えば,堀部第1遺跡の墓地は列状配置構造という縄文時代の墓制にはみることができなかった渡来的な構造を採りつつも,墓地内には埋葬群が存在し,各埋葬群は小家族単位で占取・用益されるという在来的要素を残している。また,古浦遺跡における墓地の状況は,沿岸部に位置し渡来系弥生人骨を出土するにもかかわらず塊状配置構造を呈し,年齢・性別による区分が存在するという縄文時代の墓制を踏襲した在来的な要素を備えている。同時期にしかも至近距離に存在する堀部第1遺跡と古浦遺跡の二遺跡を比較するだけでも,その墓地構造には大きな差が存在しており,当時の状況の複雑さが理解できる。その一方で,山間部に位置する沖丈遺跡の墓地は塊状構造配置を呈しており,一見縄文時代以来の墓制の延長上に営まれていたように思われるが,不可視属性である下部構造には木棺が用いられ,管玉が墓内部より出土する事例があるなど,渡来的な要素も併せ持っていたことも明らかとなった。これらの点を踏まえて本稿では,山陰地方における弥生化のプロセスに対して補正を行い,長期的にはスムーズかつダイナミックな状況を呈するものの,個々の遺跡における墓地においては一時的に在来的・渡来的両方の要素が混在し,その状況は在地の縄文人と渡来文化を携えて移動してきた人々との接触のあり方を表していることを指摘した。
磐下, 徹
本ノートは、年官を古代国家の人事権の一つとして考察することを目的としたものである。
官, 文娜
日本古代国家の成立から律令制の完成にかけての時期と見なされる六世紀から八世紀半ばにかけては、王位をめぐる争いが頻発した時期であると同時に王位の継承に関してもさまざまな特色を持つ、波乱に富んだ時代である。この時期、王位継承の最大の特徴は兄弟姉妹による継承である。一部の研究者はその姉妹を含んだ兄弟による継承を、直系継承制中の「中継」と考えていた。しかし筆者はその見解には賛成できない。以下、日本のこの時代の王位継承の実態、また中国古代の継承制における「兄終弟及」、直系継承およびそれを実行する条件、日本の女性継承などの問題について検討し、さらに日本古代社会における王位継承の特質を中心に血縁集団構造の分析もあわせて行いたい。
工藤, 雄一郎 Kudo, Yuichiro
宮崎県王子山遺跡から出土した縄文時代草創期の炭化植物遺体の¹⁴C年代測定,鹿児島県西多羅ヶ迫遺跡および上床城跡遺跡から出土した縄文時代草創期から早期初頭の土器付着炭化物の¹⁴C年代測定,炭素・窒素安定同位体分析を行ってその年代的位置づけを検討し,土器付着物については煮炊きの内容物の検討を行った。王子山遺跡の炭化コナラ属子葉と炭化鱗茎類は縄文時代草創期のものであることを確かめた。これらは縄文時代草創期の南九州において,コナラ亜属のドングリやユリ科ネギ属の鱗茎が食料として利用されていたことを示す重要な例である。一方,西多羅ヶ迫遺跡の無文土器は,隆帯文土器の直後の時期に位置づけられると推定され,鹿児島県建昌城跡から出土した無文土器の年代とも比較的近いものであった。ただし,炭素・窒素安定同位体分析の結果から,煮炊きの内容物に海産物が含まれている可能性も考えられるため,正確な年代的位置づけについては課題を残した。これらの無文土器は縄文時代早期初頭岩本式よりも,隆帯文土器の年代により近いことが分かったことは大きな成果である。上床城跡遺跡の水迫式~岩本式の土器は,これまでの縄文時代早期初頭の土器群の年代と良く一致している。縄文時代草創期から早期初頭の土器群や関連する遺構群,植物質遺物の¹⁴C年代測定例,土器付着炭化物の安定同位体分析例を蓄積していくなかで,隆帯文期の生業活動の解明,その後の消滅,縄文時代早期初頭の貝殻文系土器群の登場に至るプロセスとその実態を明らかにしていくことが重要である。
平川, 南 Hirakawa, Minami
古代日本における地方行政機構の末端に位置する「里」と「村」との関係は、極めて重要なテーマで、膨大な研究蓄積があるのにもかかわらず、いまだ明確にされていない。
五十川, 伸矢 Isogawa, Shinya
古代平安京や中世京都とその周辺の葬地となった地域の墓の考古学的資料をもとにして,都市とその周辺における墓の歴史的展開について考えてみたい。
李, 明玉 荒木, 和憲 Lee, Myoung ok Araki, Kazunori
高麗は初期から中期まで宋・遼・金との持続的な交流があり,後期には元と交流した。こうした状況によって,その時々の中国の多くの文物が高麗に流入し,とりわけ相当量の中国陶磁器が高麗の全域で消費される傾向がみられる。中国陶磁器は高麗の全時期のなかでも,とくに高麗中期の遺跡から出土する。出土の地域と遺跡の性格を探ると,京畿道・忠清道・全羅道・慶尚道・済州地域で確認されており,宮城・官庁関連遺跡・寺刹(寺址)・建物址・墳墓,全羅・忠清地域の海底などである。器種別の出土の様相を探ると,青磁は越州窯産・龍泉窯産が確認されており,五代末~北宋代の越州窯産から,北宋~元代と編年されるものまで及ぶが,宋代のものが大部分である。白磁は北宋・南宋代の定窯産・景徳鎮窯産が最も多く,このほか磁州窯産や福建・広東の窯の製品が少量確認される。とりわけ高麗中期には12~13世紀代の景徳鎮窯産青白磁の出土量が多く,発見地域も広範囲にわたる。黒釉は福建の建窯・建窯系・吉州窯・磁州窯産のものが確認されており,そのほか磁竈窯・鈞窯産のものもある。高麗時代の陸上遺跡(韓半島本土の遺跡)から出土する中国陶磁器の特徴をいくつかに整理すると,以下のとおりである。
李, 秀鴻 Lee, Soo‒hong
本稿では,これまで調査された韓半島南部地域の青銅器~三韓時代の環濠遺跡48ヶ所を集成し,環濠の時期ごとの特徴や性格,変化の傾向を検討した。
田中, 史生 TANAKA, Fumio
かつて通説的位置を占めた平安期の「荘園内密貿易盛行説」が否定されて以降、文献史学では、平安・鎌倉期における南九州以南の国際交易は、国際交易港たる博多を結節点に国内商人などを介して行われたとする見方が有力となった。考古学も概ねこれを支持するが、その一方で、古代末・中世前期に宋海商が南九州に到達していた可能性をうかがわせる資料もいくつか提示され、これらを薩摩硫黄島産硫黄の交易と関連するものとする見解も示されている。本稿の目的は、こうした考古学などの指摘を踏まえ、あらためて文献史学の立場から、古代末・中世前期において宋海商が九州西海岸伝いに南九州、南島へと向かった可能性について考察するものである。そのために本稿では、南九州における硫黄交易のあり方を記した軍記物語として近年注目されている『平家物語』の諸本の、「鬼界が島」(薩摩硫黄島)と外部との交通に関する記述について検討した。さらに、『平家物語』の成立期と時代的に重なり、中国との関連性も指摘されている九州西部の薩摩塔と、その周辺の遺跡についても検討を加えた。その結果、次の諸点が明らかとなった。(一)古代末・中世前期において、博多に来航した宋海商船のなかに、南九州に寄港し、そこから南島を目指すために九州西岸海域を往還する船があった可能性が高い。(二)彼ら宋海商の中心は日本に拠点を築いた人々であったと考えられる。(三)宋海商の交易活動を支援する日本の権門のなかに、博多や薩摩に寄港し南島へ向う彼らの船を物資や人の運搬船として利用するものもあったとみられる。以上の背景には、薩摩と南島を結ぶ航路が、一般国内航路とは比較にならぬ困難さを伴っており、外洋航海に長けた渡来海商の船が求められていたこと、また宋海商にとっても硫黄を含む南島交易は対日交易の大きな関心事となっていたことがあったと考えられる。
小川, 宏和 Ogawa, Hirokazu
本稿では、『延喜式』にみえる赤幡が古代社会において果たした役割を検討することにより、赤色に対する色彩認識が人々の行動に与えた影響を明らかにすることを目的とした。
小林, 謙一 春成, 秀爾 坂本, 稔 秋山, 浩三 Kobayashi, Kenichi Harunari, Hideji Sakamoto, Minoru Akiyama, Kozo
近畿地方における弥生文化開始期の年代を考える上で,河内地域の弥生前期・中期遺跡群の年代を明らかにする必要性は高い。国立歴史民俗博物館を中心とした年代測定グループでは,大阪府文化財センターおよび東大阪市立埋蔵文化財センターの協力を得て,河内湖(潟)東・南部の遺跡群に関する炭素14年代測定研究を重ねてきた。
仁藤, 敦史 Nito, Atsushi
本稿の目的は、近現代における女帝否認論の主要な根拠とされている「男系主義は日本古来の伝統」あるいは「日本における女帝の即位は特殊」という通説を古代史の立場から再検討することにある。
春成, 秀爾 Harunari, Hideji
中国で,4000~2300年前(二里頭文化~戦国時代)に普及していた骨器に,豚や牛の下顎骨を利用して作った掻器(中国では「骨鏟」つまり土掘り具と考えている)がある。これまで確認したところでは,山西省・陜西省・河北省・河南省・遼寧省の諸遺跡から計約130点が見つかっている。豚の下顎骨を用いた掻器は,佐賀県宇木汲田の2500年前(弥生早期)の遺跡からも出土している。この遺跡にもっとも近い出土地は,遼東半島の羊頭窪と双砣子の例である。朝鮮半島からまだ1例も見つかっていないけれども,この骨器はおそらく遼寧地方から朝鮮半島を経て九州に伝わったのであろう。
濵田, 竜彦 Hamada, Tatsuhiko
大山山麓では,弥生時代前期後葉頃から丘陵部において遺跡が増えはじめ,さらに中期から後期にかけて緩やかに顕在化する状況を認めることができる。後期には,妻木晩田遺跡に代表される大規模集落跡が丘陵部に形成されるが,前方後円墳が造られはじめる頃から丘陵上の集落は一斉に姿を消し,その後,丘陵部に生活の主体が積極的におかれることは少ない。したがって,弥生時代以降の大山山麓は,古墳群造営,小規模な集落の形成,畑地造成など,多少の削平や攪乱を受けることはあっても,大規模に改変されていない。また,近年は広範囲が調査されている事例が増えており,弥生時代集落の内実を分析するための好条件を備えた遺跡が多い。そこで,本稿では,集落跡を構成する諸要素のうち,居住施設と考えられる竪穴住居跡の分析を中心に,山陰地方の弥生時代後半期を代表する大規模集落跡として知られる妻木晩田遺跡を検討して,集落変遷,集落像の復元を試みた。
木下, 尚子 KINOSHITA, Naoko
本論は,ヤポネシア科研共同研究の一環としておこなった貝殻の年代測定結果にもとづく貝交易研究の成果である。沖縄諸島の遺跡に残る貝殻集積を対象に,79個(23遺跡,37基)のゴホウラ・イモガイの炭素14年代を測定し,Marine20による較正暦年代を整理・分析して,沖縄と九州間に継続した弥生時代の貝交易の全体像について以下をのべた。
木下, 尚子 Kinoshita, Naoko
本論は,科研費共同研究の一環としておこなった貝殻の炭素14年代測定結果(較正年代)にもとづく考古学的考察である。沖縄諸島の先史時代遺跡に残る大型巻貝(ゴホウラ・イモガイ)の集積を対象に,16遺跡で検出された弥生時代併行期の貝殻集積27基のうちから,ゴホウラとイモガイの貝殻合計51個を選んで測定し,結果を整理してその歴史的意味を示した。
丸山, 裕美子 Maruyama, Yumiko
日本の古代律令国家の公文書は、中国・唐の文書制度や文書の機能・様式を継受して成立した。日本古代の公文書の成立と展開に関して、本稿では、「位記」を中心に検討した。日本の位記は、唐の「告身」を継受したものである。身分証明書である位記・告身は、原本も残っており、古文書の国際比較や時代による変遷を追うことが可能な素材である。
能城, 修一 佐々木, 由香 Noshiro, Shuichi Sasaki, Yuka
下宅部遺跡から出土した縄文時代中期中葉から晩期中葉の木材を対象として,ウルシとクリの資源管理について検討した。下宅部遺跡出土木材の直径分布と成長輪数の解析により,クリとウルシは,現在の薪炭林やウルシ林とは異なり,多様な太さと年齢の個体が生育する柔軟な管理がなされていたと指摘されていた。本論では,当時のウルシ木材の直径成長を解析し,これを現在植栽されているウルシの成長と比較し,縄文時代のウルシとクリを中心とした森林資源管理を検討した。その結果,ウルシとクリは,直径6~8cmで8年生未満の個体を丸木として主に利用する一方で,それ以上の大きさの個体も適宜割って活用しており,多様に利用されていた。他の樹種は,細く若い木を丸木で使うものと,太く年のいった木を割って使うものに分かれていた。現生のウルシの成長と比較すると,縄文時代のウルシは成長が遅く,ほぼクリと同様で,当時は現在のウルシ畑よりも密に生えていたと推定された。下宅部遺跡のクリとウルシの成長は,新潟県青田遺跡の晩期末葉の柱材に使われているクリよりも遅く,現在の青森県田子町の萌芽によって再生した二次林のクリとほぼ同等であった。下宅部遺跡のごく近くにあったと考えられるクリ林とウルシ林の周辺には二次林と自然林があり,その成長は二次林,自然林の順で遅くなる傾向が確かめられた。
冨井, 眞 Tomii, Makoto
遺跡や竪穴住居等の遺構の少ない近畿・中国地方における縄文時代の集団動態論は,遺跡を列記していく空間軸と,土器型式ないし相対的な時期表現の目盛りからなる時間軸とで構成される,<遺跡の消長>と呼ばれる図表を作成しながら,個別データを解釈する形で進められてきた。50年以上前にその手法によって研究が進められたときには,定着性を帯びた定住的狩猟採集民,という前提的な認識のもとで,①遺物がわずかでも出土していればその時期の人間活動を認め,②その時期を細別型式で示し,③同一型式内でも時間差を設け得ることを認め,④全貌が知られている遺跡(群)を対象にする,といった方法的・論理的な特性がうかがえた。その後は,人間活動の質や量に対する評価基準が定まらないままに,考古資料の増加によって,遺跡の数も遺跡内での活動時期の数も増加してきている。しかし,集団が定着的なことを前提とする以上は,遺跡数が増加すれば集団の領域は狭くなり,遺物や遺構の数の少なさと相まって,必然的に,<小規模集団が狭い領域で拡大を控えて活動していた>という解釈に向かう。あるいは,活動時期が増加すれば,定着性の高い集団による固定的な領域の占有という認識も強化される。また,基礎データ不足のところでは,その前提の適用や典型的地域の成果援用によって,典型地域と同質な状況にあると想定されがちで,画一的な復元像が形成されやすい。このように,検証されることのない前提に縛られ,人間活動の質・量の判断基準や表現が不十分なままに資料が増加していく状況では,推論も資料操作も特定の解釈へ誘導的になり,<小規模集団が小規模空間を固定的に保持しながら,拡大することなく継続的に活動を続けた>という復元像が各地で画一的に生み出されていく。今後は,豊富な資料から縄文社会の多様性を読み解くための,個別事象をたゆまず精査し仮説を前提化せずに検証する方法と論理が期待される。
後藤, 雅彦 Goto, Masahiko
紀元前4千年紀の福建沿岸の殻坵頭遺跡は、閩江下流域における新石器文化の形成を辿る上で重要であるばかりか、出土遺物から同時期の南中国沿岸の人の移動と文化の交流を示す上で重要である。本稿では殻坵頭遺跡と長江下流域の杭州湾南岸の土器文化として多角口縁釜に着目し、紀元前4千年紀の南中国沿岸地域における地域間交流をめぐる問題を明らかにする。
工藤, 雄一郎 Kudo, Yuichiro
本論文では,縄文時代の漆文化の起源をめぐる研究史について,1926年から2010年代まで歴史を整理した。縄文時代の編年的な位置づけが定まらない1930年代には,是川遺跡に代表される縄文時代晩期の東北地方の漆文化は,平泉文化の影響を受けて成立したものという考えがあった。1940年代に唐古遺跡で弥生時代の漆文化の存在が確認されて以降,中国の漢文化の影響を受けた弥生文化から伝わったという意見もあった。1960年代以降,照葉樹林文化論の提唱を受け,縄文時代の漆文化は大陸から各種の栽培植物とともに伝わったという見方も広がった。1980年代には,中国新石器文化と縄文文化との共通の起源を想定する共通起源説も登場した。これらはいずれも縄文時代の漆文化を列島外から来たとする伝播論である。一方,加茂遺跡の縄文時代前期の漆器の出土を考慮して,1960年代には縄文時代の漆文化自生説も登場する。その後,1990年代には縄文文化の独自性や縄文時代の漆文化の成熟度を重視する研究者から,自生説が主張されるようになる。2000年の垣ノ島B遺跡の発見,2007年の鳥浜貝塚の最古のウルシ材の存在の確認によって,縄文時代の漆文化自生説は力を増した。しかし,垣ノ島B遺跡の年代は信頼性が担保されていないこと,また垣ノ島B遺跡の事例を除外すると,中国の河姆渡文化の漆製品は日本列島の縄文時代早期末の漆器と同等かそれ以上の古さを持っていることを年代学的に検証し,改めて縄文時代の漆文化の起源が大陸からの伝来であった可能性を考慮する必要性があることを論じた。
狭川, 真一
古代以来,仏教系の石造物は急増するが,その技術の進展によって加工できる石材の種類も異なっている。長期間にわたってその変遷を追うことができる畿内地域を中心に見ていきたい。
平川, 南 Hirakawa, Minami
古代日本の地方社会を領域支配する行政機構として、国・郡・里(のちに郷)制が 施行された。小論は、近年の各地の発掘調査による出土文字資料を用いた検討を中心 に、郡家と里・郷の運用実態を明らかにすることとした。
坂本, 稔 今村, 峯雄 Sakamoto, Minoru Imamura, Mineo
長野県川原田遺跡から出土した縄文土器43点について,胎土中の微量成分であるベリリウムの同位体(10Be,9Be)を測定し,土器型式および鉱物組成との比較を行った。
岩元, 康成 Iwamoto, Yasunari
本稿では喜界島・奄美大島と薩摩・大隅地方の中世遺跡について両地域で出土した建物跡・土坑墓などの遺構と中国陶磁器などの遺物を比較し,11世紀後半から16世紀を5段階に分けて関連を検討した。
鈴木, 康之
草戸千軒町遺跡は,広島県福山市に所在する13世紀中頃から16世紀初頭にかけて存続した集落の遺跡である。この集落は福山湾岸に位置する港湾集落で,鎌倉時代には「草津」,室町時代には「草土」などと呼ばれていたと考えられる。遺跡は,文字資料では明らかにしがたかった中世における民衆生活の実態を明らかにしたことが評価され,集落の住人は文字資料に記されることのない庶民が主体であったと考える傾向が強かった。しかし,発掘調査の成果にもとづき,集落の変遷過程を地域社会の動向のなかに位置づけていくと,集落の成立・停滞・再開発・終焉といった画期に,武家領主の動向が大きく影響をおよぼしていたことが考えられるようになった。
安里, 進 Asato, Susumu
20世紀後半の考古学は,7・8世紀頃の琉球列島社会を,東アジアの国家形成からとり残された,採取経済段階の停滞的な原始社会としてとらえてきた。文献研究からは,1980年代後半から,南島社会を発達した階層社会とみる議論が提起されてきたが,考古学では,階層社会の形成を模索しながらも考古学的確証が得られない状況がつづいてきた。このような状況が,1990年代末~2000年代初期における,「ヤコウガイ大量出土遺跡」の「発見」,初期琉球王陵・浦添ようどれの発掘調査,喜界島城久遺跡群の発掘調査などを契機に大きく変化してきた。7・8世紀の琉球社会像の見直しや,グスク時代の開始と琉球王国の形成をめぐる議論が沸騰している。本稿では,7~12世紀の琉球列島社会像の見直しをめぐる議論のなかから,①「ヤコウガイ大量出土遺跡」概念,②奄美諸島階層社会論,③城久遺跡群とグスク文化・グスク時代人形成の問題をとりあげて検討する。そして,流動的な状況にあるこの時期をめぐる研究の可能性を広げるために,ひとつの仮説を提示する。城久遺跡群を中心とした喜界島で9~12世紀にかけて,グスク時代的な農耕技術やグスク時代人の祖型も含めた「グスク文化の原型」が形成され,そして,グスク時代的農耕の展開による人口増大で島の人口圧が高まり,11~12世紀に琉球列島への移住がはじまることでグスク時代が幕開けしたのではないかという仮説である。
藤澤, 良祐 Fujisawa, Ryohsuke
宋・元代の中国産を主体とする輸入陶磁と,中世唯一の国産施釉陶器である古瀬戸が,モデルとコピーの関係にあったことは良く知られているところで,古瀬戸は輸入陶磁の補完的役割を担ったにすぎないとされるが,実態は果たしてそうだったのであろうか。中世前半期の最大の消費遺跡である鎌倉遺跡群において,古瀬戸と輸入陶磁の補完関係を検討したのが本稿である。
柴田, 純 Shibata, Jun
柳田国男の〝七つ前は神のうち〟という主張は、後に、幼児の生まれ直り説と結びついて民俗学の通説となり、現在では、さまざまな分野で、古代からそうした観念が存在していたかのように語られている。しかし、右の表現は、近代になってごく一部地域でいわれた俗説にすぎない。本稿では、右のことを実証するため、幼児へのまなざしが古代以降どのように変化したかを、歴史学の立場から社会意識の問題として試論的に考察する。
神戸, 航介 Kanbe, Kōsuke
本稿は日本古代国家の租税免除制度について、法制・実例の両面から検討することにより、律令国家の民衆支配の特質とその展開過程を明らかにすることを目指した。
福島, 正樹 Fukushima, Masaki
善光寺平(長野盆地)は,千曲川・犀川によって形成された最大幅10km,南北30km,面積300k㎡の長野県内で最も広い盆地のひとつである。この地域は,古代においては,更級・水内・高井・埴科の4郡があい接し,『和名抄』に記載された郷の数や式内社の数をみると,信濃国で最も分布の密度が高い地域で,早くから開発が進んでいたところである。本稿はこの地域の条里的遺構について,特に旧長野市街地に存在した条里的遺構について検討を加え,用水体系との関連から古代における開発について検討したものである。
入間田, 宣夫 Irumada, Nobuo
北上川遊水地ならびに国道4号線バイパスの工事にともなう平泉柳之御所跡遺跡の発掘・調査は,「北方の王者」藤原秀衡のくらしぶりを甦らせる遺構・遺物の一端を検出することによって,学界内外に大きな反響を呼び起こした。遺跡の保存・整備をもとめる世論の高まりを作り出した。そればかりではない。保存運動のとりくみのなかで,数多くの研究発表がなされ,シンポジウムがくりかえされるなどのことがあった。そして,研究の飛躍的な発展がもたらされることがあった。
木下, 尚子
「貝文化」とは、法螺や螺鈿、貝杓子などおよそ貝殻の関与する文化の総体をいう。本稿は、日本列島の先史時代から古代を対象に、貝文化のありようを構造的に把握しようと試みた文化試論である。九州以北の本土地域とサンゴ礁の発達する琉球列島を分け、両者を比較しながら論を進めた。
千田, 稔
近年出雲における多数の銅鐸の発見などによって出雲の古代における位置づけが論議されだした。本稿では絵画銅鐸の図像学的な解釈や、銅鐸出土地と『出雲国風土記』及び『播磨国風土記』の地名起源説話などから、銅鐸はオオクニヌシ系の神々を祭祀するための祭器であると想定した。また、『播磨国風土記』にみる、オオクニヌシ系の神々(イワ大神も含む)と新羅の王子の渡来と伝承されるアメノヒボコとの土地争いを倭の大乱を表すものとしてとらえた。通説にいうように、アメノヒボコは西日本の兵主神社にまつられたものとすれば、兵主神社の最も中心的な存在は奈良県桜井市纏向の穴師坐兵神社である。周知のように銅鐸は弥生時代の終末に使用されなくなり、それにとって変わるのが祭器としての鏡であるが、アメノヒボコで象徴される集団は鏡のほかに玉や刀子を日本にもたらしたという。つまり、倭の大乱をおさめ、後の三種の神器の原型をもって、卑弥呼は邪馬台国に君臨することになったと想定できる。したがって、邪馬台国は歴史地理学的に纏向付近に比定でき、これは近年の考古学の年代論から考察される纏向遺跡の状況と矛盾しない。
小川, 靖彦 OGAWA, Yasuhiko
万葉集後期の相聞歌や出典不明の相聞歌に見られる、理性や意志の統御を超えた「心」は、心を人格とは別個のものと見る古代的な「心」観の即自的反映ではなく、万葉集後期(奈良時代)に対自的内省的な歌として発達した女歌の想像力と表現技術が、新たに捉え、形象化したものである。また、古今集以下平安和歌に見える「身」と「心」という二元的な人間把握も、古代の霊魂観(遊離魂)の即自的顕現ではなく、万葉集後期の相聞歌の内省性、あるいは社交的発想に育成された「心」という言葉と、奈良朝の男子官人達によって社会的思想的広がりを持つ言葉として鍛練された「身」という言葉とを、意識的に結合させることによって獲得された新しい、と同時に古代的な霊魂観をも新たに掬い上げる、人間把握であったと考えられる。
田口, 勇 Taguchi, Isamu
人類の鉄使用のスタートは隕鉄から造った鉄器に始まったと現在考えられているが,これまでこの隕鉄製鉄器について自然科学的見地からの総括的な研究調査は行われていなかった。これらの隕鉄製鉄器を総括的に調査し,鉄の歴史のスタート時点を明らかにすることを目的として本研究を実施した。すなわち,隕鉄について隕鉄起源説,隕鉄の成因,隕鉄の分類,南極隕鉄,隕鉄の特徴などを詳細に調査した。さらにこれまでに発見された隕鉄製鉄器を国外と国内に分けて調査した。国外では古代エジプトの鉄環首飾り,古代トルコの黄金装鉄剣,古代中国の鉄刃戈と鉄刃鉞などを,国内では榎本武揚が造った流星刀などを調べた。さらに代表的な隕鉄であるギボン隕鉄(ナミビア出土)から古代でも可能な条件下でナイフを試作した。以上から,人類が鉄鉱石を還元して鉄を得た時期より,はるかに古くから人類は隕鉄から装飾品,武器などを造っていたことがわかった。隕鉄は不純物が少ない場合,低温度(1,100℃以下)でも加熱鍛造性はよいが,不純物が多い場合,加熱鍛造性はわるい。隕鉄の加熱鍛造性を支配している,主な元素としては,硫黄とりんが挙げられる。なお,造ったナイフは隕鉄固有の表面文様(変形したウィドマンステッテン組織による)を有したが,もともとの孔が黒い‘すじ’として残った。
蔡, 鳳書
これまでの中日古代文化交流歴史研究においては、文献記録の資料に主として依拠する場合が多かったが、戦後の五〇年間には中国、日本ともに考古学の研究成果が多い。この情勢により、両国の発掘調査の資料を利用し、中日文化交流史を研究することが必要になる。
福島, 雅儀 Fukushima, Masayoshi
縄文時代中期から後期に移る期間,土器型式で4型式程度である。土器編年の相対的時間からみれば短い時間幅である。ところが炭素年代測定による絶対年代によれば,それは500年以上の時間であるという。これが正しいとすれば,これまでの考古学的解釈は大きく見方を変えなくてはならなくなった。そこで小論では,阿武隈川上流域の柴原A遺跡と越田和遺跡の発掘調査成果をもとに当時の集落変化について考えてみた。
春成, 秀爾 Harunari, Hideji
朝鮮青銅器文化の忠清南道槐亭洞遺跡出土の剣把形銅器は,特異な形態と精巧な鋳造技術によって1967年に発見以来,注目され,その後,類例も加わっている。しかし,その起源と系譜は不明なままであった。このたび筆者は,その直接的な祖型を内蒙古の夏家店上層文化に属する小黒石遺跡出土の当顱に求め,さらにその祖型は西周前期の北京市琉璃河1193号大墓出土の当顱にあることを想定するにいたった。当顱とは,商代に現れる馬の面繋に取りつけて前頭部を飾る青銅製の頭当て(頭飾り)のことである。
東, 潮 Azuma, Ushio
古代東アジア世界において,高句麗・三燕・北朝・隋唐壁画の比較研究を試みる。とくに三燕・北朝・隋唐壁画墳の従来の墓室構造および壁画構成の変遷過程を追究した。
村本, 周三 小林, 謙一 坂本, 稔 松崎, 浩之 Muramoto, Shuzou Kobayashi, Kenichi Sakamoto, Minoru Matsuzaki, Hiroyuki
三輪野山貝塚南西部斜面盛土と浦尻貝塚台ノ前北貝層における14C年代測定の結果を示し,遺跡形成過程推定を通じて問題となる点について論じた。
吉川, 真司 Yoshikawa, Shinji
本稿は、大極殿で行なわれた儀式を素材として、日本古代史の時期区分を論じ、とりわけ四字年号時代(七四九〜七七〇)の時代相を明らかにしようとするものである。
梁, 嶸
中国の古代の正常な舌象に関する認識は二段階に分けられる。第一段階は傷寒病の患者を観察の対象とする段階であり、第二段階は正常な人を対象とする段階である。
高橋, 一樹 Takahashi, Kazuki
日本古代・中世の文書は、その機能ともかかわる高い形式性ゆえに、だれでもが簡単に作成したり、機能させたりすることはできない。この点は文書とかかわりを持つ人々が古代社会に比べて拡大する中世社会を考えるうえではきわめて重要な視点であり、中世の支配階級に含まれながら新興勢力でもある武士と文書との関係を捉えようとする際にも例外にはなりえない。とりわけ、武士が幕府などの上位権力から受給し、その家に伝来した文書だけでなく、武士がより下位の階層にむけて発給したかたちをとる文書の場合、右のような分析視角は不可欠なものとなる。
大隅, 亜希子 Osumi, Akiko
古代社会における布とは,衣服や工芸品の材料のみでなく,貨幣価値をもつ財貨であった。そのため,産地,品質の異なる製品を,一定の規格に統一して,「端」「段」などの単位で管理していた。調布,庸布とよばれた古代の布とは麻布である。調布1端は,長さ4丈2尺,幅2尺4寸に規格され,庸布1段は,長さ2丈8尺,幅2尺4寸であった。「端」と「段」とは,数える品物,規格も異なる単位であるが,10世紀になると,「端」と「段」との書き分けが曖昧になる。11世紀以降には,その区別は消滅し,「端」と「段」とが混用されている。
井上, 史雄 INOUE, Fumio
この論文では,従来分析を進めてきた標準語形使用データについて,二つの単純化を適用した。地理的位置を鉄道距離によって表現したことと,語形の地理的分布を1点の重心で示したことである。本稿では,まず「河西データ」の県別使用率のグラフにより,標準語形の中でも古代初出語の一部が辺境残存分布を示すことを確認した。つぎに「河西データ」の行にあたる各語形について,鉄道距離重心を計算し,各語形の全国使用率,初出年との対応をみた。2要素ずつを組み合わせた2次元のグラフを考察し,また3要素の関係を示す3次元のグラフを考察した。さらに古代・近代2時代への区分と東西2クラスターへの区分を組み合わせて82語を4区分して検討した。古代初出の東部クラスターの語は,初出年との相関を見せない。しかし他の三つの区分では,初出年がかなりの相関を見せ,しかも近似直線の数値が似ていて,1000年につき31~36%の減少を示す。これは普及年速1キロ(弱)という仮説と矛盾しない。文化的中心地から新しく出た語は,最初は全国使用率が低いが,年数が経つと古く出現した語と同じ過程をたどって全国に広がって,全国使用率が高まると考えられる。また古代に出た語は,その後の新形に侵食されて,文化的中心地を明け渡すことがある。
澤田, 淳 SAWADA, Jun
現代共通語の「やる/くれる」は,「方向性」,ないしは,「視点」の制約を有する直示授与動詞である。一方,古代中央語では,「くれる」(古代語では下二「くる」)は,求心的方向への授与,非求心的(遠心的)方向への授与のどちらでも使われる非直示授与動詞であり,「やる」は,授与動詞ではなく,「おこす」と対立をなす非求心的な直示移送動詞であったことが知られている。本稿では,主に,「くれる」が求心的授与の方向に意味領域を縮小させ,受け手寄りの視点制約を成立させた要因・背景について考察を行う。
工藤, 雄一郎 佐々木, 由香 Kudo, Yuichiro Sasaki, Yuka
東京都東村山市下宅部遺跡では,縄文時代中期から後・晩期の土器の内面に付着した炭化植物遺体(土器付着植物遺体)が40点見つかっている。これは,土器の内部に炭化して付着した鱗茎,繊維,種実,編組製品などの植物起源の遺物を総称したものである。いずれも二次的に付着したものではなく,調理や植物を加工する際に付着した植物であり,当時の人々が利用していた食材と土器を用いた調理方法を解明する大きな手がかりとなる資料である。本研究では,そのうちの26点の土器について¹⁴C年代測定,炭素・窒素安定同位体比分析,C/N比の分析を実施し,これらの土器付着植物遺体の年代的位置づけ,および内容物についての検討を行った。また,単独で出土し,所属時期が不明であった種実遺体5点の¹⁴C年代測定を行い,年代的位置づけについて検討した。その結果,分析した土器付着植物遺体は縄文時代中期中葉の1点を除き縄文時代後・晩期に属する年代であり,特に3,300~2,700 cal BPの間に集中し,そのほとんどが縄文時代晩期前葉~中葉であることが判明した。種実遺体のうち,縄文時代中期中葉の約4,900 cal BPの年代を示したダイズ属炭化種子は,直接年代測定されたものとしては最も古い資料となった。土器付着植物遺体の炭素・窒素安定同位体比とC/N比を下宅部遺跡出土の精製土器付着物の分析結果や,石川県御経塚遺跡,大阪府三宅西遺跡出土の縄文時代後・晩期の土器付着炭化物の分析結果と比較してみると,下宅部遺跡の土器付着植物遺体は,陸上動物起源の有機物や海洋起源の有機物の混入の可能性が指摘されている土器付着炭化物とは分布傾向が明らかに異なり,C₃植物に特徴的な傾向を示した。特に,編組製品や繊維付着土器では,編組製品や繊維そのものと,それらと一緒に煮炊きした内容物の同位体比が異なることが明らかになった。今後,土器付着植物遺体の分析事例を増やし,縄文時代の植物利用や土器を用いた調理についての研究を展開していくことが必要である。
中島, 経夫 Nakajima, Tsuneo
コイ科魚類の咽頭歯がもつ生物学的特性から,遺跡から出土する咽頭歯遺存体を分析することによって先史時代の人々の漁撈活動の様子を知ることができる。日本列島では,縄文時代からイネの栽培が始まり,弥生時代には灌漑水田での稲作が始まる。淡水漁撈の場と稲作の場が重なりあってきた。西日本の縄文・弥生時代の遺跡から出土する咽頭歯遺存体についての情報がある程度蓄積し,淡水漁撈と稲作の関係について述べることができるようになった。西日本の縄文・弥生時代における漁撈の発展は,稲作との関係から,0期:水辺エコトーンでの漁撈が未発達の段階,Ⅰ期:水辺エコトーンでの漁撈が発達する段階(Ia期:原始的稲作が行われていない段階,Ib期:漁撈の場での原始的稲作が行われる段階),II期:稲作の場(水田)での漁撈が発達する段階,に分けることができる。長江流域では,Ia期に漁撈の場(水辺エコトーン)でのイネの種子の採集が加わる。長江流域の漁撈と稲作の関係については,咽頭歯遺存体から多くを述べることができない。というのは,これまで,中国での咽頭歯遺存体についての詳しい研究は,河姆渡文化期の田螺山遺跡の例をのぞいてまったくない。今後,新石器時代の遺跡から出土する咽頭歯遺存体の研究が進むことによって,漁撈と稲作の関係や稲作の歴史について言及できるはずである。
米田, 恭子 佐々木, 由香 Yoneda, Kyoko Sasaki, Yuka
東京都東村山市の下宅部遺跡では,縄文時代中期中葉から晩期中葉の河道から編組製品と編組製品の素材を束状にした遺物(以下,素材束)が出土した。下宅部遺跡から出土した編組製品の素材について同定が行われた結果,ほとんどがタケ亜科であることが明らかとなっている。しかし,解剖学的な検討では,タケ亜科以上の詳細な同定は不可能である。そこで,主にイネ科植物の葉身に形成される植物珪酸体の形状から母植物を同定する植物珪酸体分析の手法を用いて,下宅部遺跡出土の編組製品1点と素材束2点を対象として素材の母植物を検討した。その結果,編組製品と素材束からネザサ節型,編組製品からササ属に由来する植物珪酸体が検出され,アズマネザサなどのネザサ節型とスズタケやミヤコザサなどのササ属などのササ類が,素材植物の候補として挙げられた。また,編組製品が出土した河道堆積物について植物珪酸体の抽出を行った結果,素材の母植物の候補としてあげられたササ類の珪酸体が検出され,身近な場所に編組製品の素材となり得るササ類の存在が確認された。植物珪酸体分析は,解剖学的な分析では同定が困難なイネ科の編組製品の素材を同定する上で,有効な手段になると考えた。
藤尾, 慎一郎 Fujio, Shinichiro
西日本の弥生早期は突帯文土器,Ⅰ期は板付・遠賀川系土器を標識土器としている。突帯文土器は,Ⅰ期以降も突帯文系土器として一部の地域で使われ続けるが,出雲ではどのようなあり方を示すのかこれまであまり知られていなかった。今回,出雲市蔵小路西遺跡で見つかった突帯文系土器は遠賀川系土器と伴出しないなど,この問題を考えるうえで貴重な材料を提供することとなった。そこで遺跡から出土する突帯文系土器と遠賀川系土器との出方を手がかりに,この地の弥生文化がどのようにして成立したかという問題について考察した。
熊木, 俊朗 福田, 正宏 國木田, 大 Kumaki, Toshiaki Fukuda, Masahiro Kunikita, Dai
柳田國男が一九〇六年の樺太紀行にて足跡を残した「ソロイヨフカ」の遺跡とは、南貝塚(別名、ソロイヨフカ遺跡)であり、この遺跡はその近隣にある鈴谷貝塚と共に、サハリンの考古学研究史上最も著名な遺跡の一つになっている。これらの遺跡の出土資料を標式として設定された「南貝塚式土器」と「鈴谷式土器」のうち、本論では後者の鈴谷式土器を対象として年代に関する再検討をおこなった。鈴谷式土器は、時代的には続縄文文化とオホーツク文化の、分布や系統の上では北海道とアムール河口域の狭間にあって、これら両者の関係性を解明する上で重要な資料であると考えられてきたが、特にその上限年代が不明確なこともあって年代や系統上の位置づけが定まっていなかった。本論でおこなった放射性炭素年代の測定と既存の測定年代値の再検討の結果、鈴谷式土器の年代はサハリンでは紀元前四世紀〜紀元六世紀頃、北海道では紀元一世紀〜紀元六世紀頃と判断された。この年代に従って解釈すると、鈴谷式土器はサハリンにおいて先に成立し、しばらく継続した後に北海道に影響を及ぼしたことになる。この結論を従来の型式編年案と対比させるならば、以下の点が検討課題として浮上してこよう。すなわち、サハリン北部での最近の調査成果に基づいて提唱されたカシカレバグシ文化、ピリトゥン文化、ナビリ文化といったサハリン北部の諸文化や、アムール河口域と関連の強いバリシャヤブフタ式系統の土器は、古い段階の鈴谷式土器と年代的に近接することになるため、これら北方の諸型式と鈴谷式土器の型式交渉を具体的に検討することが必要となる。また従来の型式編年案では、古い段階の鈴谷式土器は北海道にも分布すると考えられているため、その点の見直しも必要となる。鈴谷式土器を含む続縄文土器や、サハリンの古金属器時代の土器の編年研究においては、今後、これらの問題の解明が急務となろう。
土橋, 誠 Dobashi, Makoto
日本古代の印章は,印影や現存印を含めても相当数にのぼり,大きく官印と私印,寺社印の三つに分類できる。そのうち,官印には法令に規定のある公印とそれ以外に分けられ,私印も家印と個人印に分けられる。
仁藤, 敦史 Nitō, Atsushi
皇子宮とは、古代において大王宮以外に営まれた王族の宮のうち皇子が居住主体である宮を示す。本稿では、この皇子宮の経営主にはどのような王族が、どのような条件でなり得たのかを考察の目的とした。
鋤柄, 俊夫 Sukigara, Toshio
中世における都市遺跡研究のひとつのテーマは、遺構と遺物によって再構成される遺跡の空間構造から、各時代における社会の仕組みとその変化過程を説明するところにある。これまで京都の考古学資料は、その量があまりに膨大であったために、筆者を含めて、ヴァーチャルな総体としての京都の検討はおこなわれてきたものの、遺跡の空間構造を復原するために必要な、調査地点個々の特徴は、ほとんど検討される機会がなかった。そこで小論ではこの点に注目して、中世の京都においてどのような遺構や遺物が、いつの時代に、どの場所から検出され、それらは京都全体の中でどのような意味をもつことになるのかを問題の所在とし、一般に京都系「かわらけ」と呼ばれている京都型の土師器皿に注目し、その伝播の背景を考えるところから、中世都市京都が持っていた強い影響力の一端の復原を第➊章とし、第➋章で中世の京都の中でも、おおむね三条以南に焦点をあて、都市の様々な場が果たした役割の意味を、空間構造の視点から考えてみた。
佐野, 静代 Sano, Shizuyo
古代の御厨における漁撈活動の実態を解明するためには,「湖沼河海」の各々の御厨を取り巻く自然環境の分析が不可欠である。自然環境の分析には,地形・気候的条件とともに,その上に展開する「生態系」,特に魚類を中心とした生物相の考察が含まれる。魚類の生態と行動(生活史・食性・場所利用など)は,古代にも遡及しうるものであり,当時の地形と漁撈技術段階との照合によって,魚種ごとの捕獲原理や漁獲時期が推定可能となる。このようにして各御厨で行われた漁法が明らかになれば,「湖沼河海」の御厨ごとの漁撈活動と,贄人の生活形態の相違が浮かび上がってくるはずである。
中村, 太一 Nakamura, Taichi
日本古代の交易に関する従来の研究は、交易者・市の様相や法的規制、あるいは官司や官人による交易活動の解明に主眼を置いてきた。このため、交易活動の動機や目的などについては、必ずしも追究されてこなかった。そこで本稿では、ポランニーが指摘する交易者の動機や目的に着目し、交易者の実態やその類型を抽出することを目的とした。
大塚, 昌彦 Otsuka, Masahiko
榛名山の東麓周辺は,紀元後における災害の歴史が,文献と遺跡発掘調査から何回もあったことが裏付けられている地域である。ここでいう災害とは,火山災害と地震災害の2種類である。
藤原, 貞朗
一八九八年にサイゴンに組織され、一八九九年、名称を改めて、ハノイに恒久的機関として設立されたフランス極東学院は、二〇世紀前半期、アンコール遺跡の考古学調査と保存活動を独占的に行った。学術的には多大な貢献をしたとはいえ、学院の活動には、当時インドシナを植民地支配していたフランスの政治的な理念が強く反映されていた。
平川, 南 Hirakawa, Minami
百済の都の東北部・扶餘双北里遺跡から出土した木簡は、「那尓波連公」と人名のみを記した物品付札である。本木簡の出土した一九九八年の調査地は、百済の外椋部とよばれる財政を司る役所の南に展開する官衙と考えられる一帯であり、白馬江の水上交通を利用した物資の集積地の一角であったとされている。
大形, 徹
「茅」という漢字は「ちがや・かや」と訓まれる。植物学の分類によれば、カヤ(=ススキ、Micanthus siensis Anderss)とチガヤ(Imperata cylindrical (L.) Beanv)は異なる植物である。しかし古代の日本や中国では、しばしば混同されている。
厳, 紹璗
奈良時代の日本古代文学にきわめて重視すべき作品『浦島子伝』がある。その題材や文体などすべては中国唐代の「伝奇」にたいへん類似している。本稿ではこれを「漢文伝奇」と名付けた。『浦島子伝』と「浦島伝説」は二つの異なる発展段階の作品である。――「浦島伝説」は「伝奇」に先行する段階の作品であり、完全に民間のものであり、それに対して、『浦島子伝』は文人の創作の作品である。日中古代文学が神話や伝説から物語文学へと発展する過程には、「漢文伝奇」の創作を主な内容とした過渡期的段階がある。『浦島子伝』こそ「漢文伝奇」の代表的な作品である。
鋤柄, 俊夫 Sukigara, Toshio
大阪府南河内郡美原町とその周辺の地域は,特に平安時代後期から南北朝期にかけて活躍した「河内鋳物師」の本貫地として知られている。これまでその研究は主に金石文と文献史料を中心にすすめられてきたが,この地域の発掘調査が進む中で,鋳造遺跡および同時代の集落跡などが発見され,考古学の面からもその実態に近づきつつある。
小澤, 佳憲 Ozawa, Yoshinori
これまでの弥生時代社会構造論は,渡部義通に始まるマルクス主義社会発展段階論の日本古代史学界的解釈に大きく規定されてきた。これに対し,新進化主義的社会発展段階論を基礎に新たな弥生時代社会構造論を導入することが本稿の目的である。
坂江, 渉 Sakae, Wataru
小稿は,石母田正氏の研究を踏まえながら,『播磨国風土記』の地名起源説話にみえる「国占め」神話に光りをあて,その前提にある祭祀儀礼の中身と,古代の地域社会の実像解明に迫ることにした。その考察結果は,つぎの通りである。
水澤, 幸一 Mizusawa, Kouichi
本稿では、戦国期城館の実年代を探るための考古学的手段として、貿易陶磁器の中でも最もサイクルの早い食膳具を中心に十五世紀中葉~十六世紀中葉の出土様相を検討し、遺跡ごとの組成を明らかにした。
山田, 康弘 Yamada, Yasuhiro
縄文時代の関東地方の後期初頭には,多数の遺体を再埋葬する多数合葬・複葬例という特殊な墓制が存在する。このような事例は,再埋葬が行われた時期が集落の開設期にあたる,集落や墓域において特別な場所に設けられている,幼い子供は含まれない,男性が多いといったいくつかの特徴が指摘でき,現在までに6遺跡7例が確認されている。このような墓制は祖霊祭祀を行う際に「モニュメント」として機能したと思われるが,同様の意味を持ったと思われる事例は,福島県三貫地貝塚や広島県帝釈寄倉岩陰遺跡などでも確認されており,時期や地域を越えて確認できる墓制だと思われる。
仁藤, 敦史 Nito, Atsushi
本稿では、古代の文書を成り立たせている諸要素について考察を加えた。具体的には、漢字運用に対する習熟、暦の導入・普及、印章制度の導入、文書形式の統一などである。いずれも七世紀後半以降に充実化してくることが確認された。
村石, 眞澄 Muraishi, Masumi
伊興遺跡をはじめとする足立区北部の発掘調査に携わる中で,微地形分類をおこなった。微地形分類は空中写真を判読し,比高差・地表の含水状態・土地利用を基準として分類を行い,発掘調査での土層堆積の観察所見や旧版の地形図を参照した。こうした微地形分類により,埋没していた古地形を明らかにすることができた。そこでこの埋没古地形の変遷を明らかにするため,花粉化石や珪藻化石などの自然科学分析から植生や堆積環境の検討を行った。
藤沢, 敦 Fujisawa, Atsushi
日本列島で古代国家が形成されていく過程において,本州島北部から北海道には,独自の歴史が展開する。古墳時代併行期においては,南東北の古墳に対して,北東北・北海道では続縄文系の墓が造られる。7世紀以降は,南東北の終末期の古墳と,北東北の「末期古墳」,そして北海道の続縄文系の墓という,3つに大別される墳墓が展開する。
小口, 雅史 Oguchi, Masashi
斉明紀に見える「渡嶋」が具体的にどの地域を指すのかという問題の解明は、日本古代国家における一大転機であった大化改新後の初期律令国家の形成過程や、当時の国際関係を考える上できわめて重要な問題であって、早く江戸時代から学者の注目を集めてきた。
木下, 尚子
本論は,弥生時代に沖縄諸島と北部九州を結んで継続した大型巻貝の交易(貝交易)の中継地として知られる高橋貝塚を対象に,遺跡に残された交易品(貝殻)の分析を通してその実態を具体的に描こうとするものである。
千田, 稔
小稿は、空間的属性である道路から、日本古代の王権の一端を探ろうとするものである。ここで対象とする道路は大和から河内に通ずる「南の横大路」―竹内街道と「北の横大路」―長尾街道である。「ミチ」という言葉の原義は、「ミ」+「チ」で、「ミ」は接頭辞で神など聖なるものが領するものにつくという説にしたがえば、「ミチ」は本来神に結び付くものであった。
榊, 佳子 Sakaki, Keiko
日本古代の喪葬儀礼は七世紀から八世紀にかけて大きく変化した。そして喪葬儀礼に供奉する役割も、持統大葬以降は四等官制に基づく装束司・山作司などの葬司が臨時に任命されるようになった。葬司の任命に関しては、特定の氏族に任命が集中する傾向があり、諸王・藤原朝臣・石川朝臣・大伴宿祢・石上朝臣・紀朝臣・多治比真人・佐伯宿祢・阿倍朝臣が葬司に頻繁に任命されていた。
春成, 秀爾 Harunari, Hideji
近年,佐賀県菜畑,奈良県唐古・鍵など西日本の弥生時代遺跡から,豚の下顎骨に穿孔し,そこに棒を通したり,下顎連合部を棒に掛けた例が発掘され,その習俗は中国大陸から伝来した農耕儀礼の一つであるとする見解が有力となっている。
熊谷, 公男 Kumagai, Kimio
最北の城柵秋田城は,古代城柵のなかでも特異な存在であり,また歴史的にも大きく性格が変化する点で興味深い存在である。本稿は,秋田の歴史への登場から元慶の乱まで秋田城の歴史をたどり,秋田城の歴史的特質を明らかにしようとするものである。
齋藤, 努 Saitoh, Tsutomu
米国フリーア美術館所有の古代中国の金銅仏像資料などを走査型電子顕微鏡―画像解析法によって分析した。青銅部分及び鍍金部分の元素マッピング分析を行って青銅中の銅,スズ,鉛の分布,金めっき層中の金,水銀の分布を調べた。得られた結果は次の通りである。
廣瀬, 覚 Hirose, Satoru
本稿では,朝鮮半島南西部の栄山江流域で出土する円筒埴輪の展開過程について,近年の新出資料を踏まえて再検討し,現段階での私見を述べた。具体的には,霊巌・チャラボン古墳,咸平・金山里方台形古墳およびそれと密接な関係にある老迪遺跡から出土した埴輪について,観察所見を踏まえて形態・製作技術の特徴を詳細に検討した。その結果,チャラボン古墳の埴輪は,この地域において一般的である倒立成形技法を用いる円筒埴輪の一群に属すものであることが確認できた。その一方で,金山里古墳・老迪遺跡の埴輪は,日本列島の埴輪と同様に正立成形技法で形作られ,かつ突帯製作に割付技法や押圧技法を用いており,従来,栄山江流域では知られていなかった技術系譜に属すことが明らかとなった。
高瀬, 克範 Takase, Katsunori
本稿の目的は,1)北海道島における縄文文化後期後葉の石錐の機能・用途を明らかにし,2)石錐をもちいた行為と社会の複雑化との関係の有無・内容を解明する点にある。分析対象は,千歳市キウス4遺跡から出土した石錐1315点である。分析方法は,石器使用痕分析のなかの高倍率法を採用した。分析の結果,1)石錐の機能は刺突ではなく穿孔である,2)石錐の主たる用途は皮革製品製作,土器の施文・補修および石製垂飾の製作にあり,副次的な用途として角・骨・貝の加工があげられる,3)平面形がI字形のもの・菱形のもの・不定形のものは黒曜石で製作されるものが多く,これらは土器施文・補修と皮革加工に利用される傾向がある,4)平面形がT字形を呈する一群は頁岩製が多く,これらは皮革加工とつよく結びついている,といった点が明らかになった。比較研究としておこなった千歳市美々4遺跡出土石錐162点の分析でも同様の傾向が確認されたが,くわえてI字形・菱形を呈するチャート製石錐は貝の加工具として利用されていることも明らかになった。キウス4遺跡内においては,石錐の各型式に分布の明確な偏りはなく,皮革製品の製作が特定の場所でおこなわれていたり,皮革資源が特定の分節集団によって制御されていたりする痕跡を見いだすことはできなかった。
鈴木, 康之 Suzuki, Yasuyuki
中世の消費遺跡をめぐる考古学的研究では、近年、資料の計量分析がさかんに行われ、数多くの成果が蓄積されつつある。しかしその一方で、分析結果を解釈し、過去の人間活動を復元するための方法は十分に論じられてはいない。
中林, 隆之 Nakabayashi, Takayuki
正倉院文書には、天平二十年(七四八)六月十日の日付を有した、全文一筆の更可請章疏等目録と名付けられた典籍目録(帳簿)が残存する。この目録には仏典(論・章疏類)と漢籍(外典)合わせて一七二部の典籍が収録されている。小稿では、本目録の作成過程および記載内容の基礎的な検討を行い、それを前提に八世紀半ばの古代国家による思想・学術編成策の一端を解明した。
西本, 豊弘 Nishimoto, Toyohiro
弥生時代の生活は,農耕をどの程度受け入れるかによって,その地域毎に大きな差異があったと思われる。ここでは,稲作農耕が積極的に受け入れられたと推定される北九州から濃尾平野までの西日本の弥生遺跡を取り上げ,弥生時代における動物質食料について検討する。
山中, 章 Yamanaka, Akira
古代王権の「陵墓」と宮都の関係についての研究は限られており、わずかに岸俊男氏の論じた「藤原京」と天武・持統合葬陵、今尾文昭氏の藤原宮と四条古墳群、山田邦和氏の平安京と桓武・嵯峨・淳和天皇陵との関係がある程度である。そこで今一度、飛鳥諸京以後平安京に至るまでの王宮・宮都が「陵墓」・葬地をどのような意図の下に、いつから、どこに配置したのかについて分析した。
齋藤, 努 Saito, Tsutomu
仙台藩における製鉄技術などを明らかにするため,これまでに,岩手県,宮城県に多数分布する製鉄遺跡の現地調査を行ってきた。ここでは,採取された資料のうち,主として仙台藩北部地域の砂鉄,木炭,鉄滓について,自然科学的解析結果を示した。この地域の最大の特徴は非常に良質な砂鉄を使用していたことである。文書によればこの地域では農閑期の副業として製鉄が行われていたとされている。現地調査の結果でも非集約型の小規模な製鉄遺跡が多数存在していたことが認められた。チタン含有率がきわめて少なく,他の不純物も少なくて,鉄分が多い,還元の容易な,室根村などの良質な砂鉄が産出することが,このような比較的未成熟な生産形態でも製鉄を可能にした理由であろうと考えられる。製鉄の技術については,高温,還元的条件下で生成すると考えられているフェロシュードブルッカイトやイルメナイトなどの鉱物が鉄滓中に検出されたことから,小型の炉ではあっても比較的高温度で操業されていたと思われる。今回の調査対象地域では原料の砂鉄はほぼ同質のものと考えられ,また同様な操業方法によって製鉄が行われていたと考えられる。従って,製鉄遺跡ごとに個別的な特徴は認められなかった。
能城, 修一 吉川, 昌伸 佐々木, 由香 Noshiro, Shuichi Yoshikawa, Masanobu Sasaki, Yuka
この30年間に行われた植物考古学の研究から,約7000年前にはじまる縄文時代前期以降,本州の中央部から東北部では,人々は集落周辺の植物資源を管理して利用していたことが示されている。この植物資源管理は日本列島に在来のクリと中国大陸から移入されたウルシを中心として行われ,縄文時代の人々は植物資源を管理するとともに,クリの果実と木材を,またウルシの漆液と木材,果実を集落周辺で活用していた。しかしこの2種の植物遺体の出土状況は大きく異なっている。縄文時代の遺跡出土木材では,クリは本州中部から東北部および北海道西南部の406遺跡から出土しているのに対し,ウルシは本州中部から東北部の35遺跡から出土しているにすぎない。また両種が出土している遺跡で,花粉と木材の出土量を比較すると,クリの植物遺体はウルシの植物遺体の10~100倍ほど出土している。縄文時代の漆器の出土状況から考えると,本州の中央部から東北部では普通にウルシ林が維持されていたと考えられるのに,なぜウルシとクリに出土状況の違いが生じるのかを下記の三つの仮説をもとに検討した。第一の仮説は,クリに比べてウルシが植栽される集落が限定的なので,ウルシの植物遺体の検出例が少ないという考えである。第二の仮説は,クリに比べてウルシの植栽地が内陸側に位置していて,植物遺体が埋積する低地から遠いために,植物遺体として残りにくいという考えである。第三の仮説は,縄文時代の集落周辺にはウルシ資源よりもクリ資源のほうが多く維持されていたために,クリの植物遺体に比べてウルシの植物遺体の検出率が低いという考えである。検討の結果,第二の仮説がもっとも支持されたが,集落を地域規模で比較する場合には,第一の仮説も意味を持つことが明らかになった。
尾野, 善裕 Ono, Yoshihiro
近年、東日本の太平洋海運に関する研究では、明応七年(一四九八)に発生した地震が東海地方の港津に与えた影響の大きさが強調される傾向にある。しかし、その実例とされてきた港津遺跡の年代について、改めて考古資料から検討してみると、廃絶・衰退時期には微妙にずれがあることが判り、一時的な自然災害が港津の廃絶・衰退の決定的な要因であったとは思われない。
伊庭, 功 Iba, Isao
滋賀県大津市域の琵琶湖底に所在する粟津湖底遺跡は,縄文時代早期初頭から中期前葉を中心とする時期に営まれ,琵琶湖においては数少ない大規模な貝塚を伴う遺跡である。1990~1991年に航路浚渫工事に伴って実施された湖底の発掘調査では,中期前葉の第3貝塚が新たに発見された。ここには貝殻や魚類・哺乳類の骨片とともに,イチイガシ・トチノキ・ヒシの殻が良好な状態で保存されていて,当時の動物質食料・植物質食料の両方を同時に明らかにした。これらをもとに,種類ごとの出土量を栄養価に換算して食料として比較を試みたところ,堅果類,特にトチノキが大きな比率を占めていることがわかり,従来から行われてきた推定を具体的に証明することができた。また,同じ調査区で早期初頭の地層からクリの殻の集積層も検出され,中期前葉とは異なる種類の堅果類が利用されていたことがわかった。この相違は早期初頭と中期前葉の気候および植生の相違によるものと推定される。また,第3貝塚から,日本列島において約50万年前に絶滅したと考えられてきたコイ科魚類の咽頭歯が発見され,この魚類が絶滅したのが約4,500年前以降であったことを示し,その絶滅には人の活動が大きく関わっていたことが推測された。このように,粟津湖底遺跡の調査は人の生業について具体的な事実を明らかにしたばかりでなく,それと環境変化との関わりをうかがわせる資料も提供した。
上原, 真人 Uehara, Mahito
額田寺では伽藍中枢に発掘のメスが及んでいないために,古代の堂塔にともなう瓦の実体は,ほとんどわかっていない。そのため,偶然採集された瓦など2次資料を主な材料に,額田寺の歴史と性格を検討せざるを得ない。検討に際しての方法論的な原則なども,あわせて言及した。
西本, 豊弘 Nishimoto, Toyohiro
弥生時代のブタの形質について,家畜化現象を見るポイントを説明した後,第1頚椎と上顎第3後臼歯の計測値を中心に検討した。まず,第1頚椎の形態では,朝日遺跡の資料によって,イノシシとブタを区別できることを示した。第1頚椎の上部は,イノシシでは高くなるのに対してブタでは低くなる。縄文時代や現代のイノシシの計測値を参考にすると,高さが長さの58%よりも高いものはイノシシで,それよりも低いものはブタと推定された。これは,ブタが餌を与えられるために,イノシシよりも首の筋肉を使う程度が低く,そのため首の筋肉の発達が弱くなり,それにしたがって骨の発達も悪くなるのではないかと思われる。この基準に従えば,朝日遺跡ではイノシシ類の15%がイノシシで85%がブタということになった。
河西, 学 Kasai, Manabu
本研究では,栃木県内の4遺跡から出土した縄文早期井草式・夏島式土器を対象として薄片による岩石学的胎土分析を行い,関東地方河川砂との比較により土器の原料産地推定を試み,当時の土器作りと土器の移動について,従来の草創期土器の分析事例と比較検討した。
大橋, 康二 坂井, 隆 Ohashi, Koji Sakai, Takashi
インドネシアのジャワ島西部に位置するバンテン遺跡は16世紀から18世紀にかけて栄えたイスラム教を奉ずるバンテン王国の都であった。1976年以来,インドネシア国立考古学センター(The National Research Center of Archaeology)などにより,この地域の発掘調査が続けられ,膨大な量の陶磁片が出土した。これを整理した結果,25,076個体を産地,年代,種類毎に分類し得た。主に16世紀から18世紀の陶磁器であることは,バンテン王国の栄えた時代と符合する。この間も時期毎で陶磁器の産地,種類の割合・内容が変わる。
小倉, 慈司 Ogura, Shigeji
本稿は,日本古代の史料に押捺された印影を主に収録した摸古印譜(日本古印譜)について,その系譜を明らかにすることを目的とした調査の中間報告である。今回は特に日本古印の研究の基礎を築きその後の日本古印譜作成に大きな影響を与えた藤貞幹が登場する以前の時期に焦点をあてて調査を行なった。
光平, 有希
人間が治療や健康促進・維持の手段として音楽を用いてきたことの歴史は古く、東西で古代まで遡ることができる。各時代を経て発展してきたそれらの歴史を辿り、思想を解明することは、現代音楽療法の思想形成の過程を辿る意味でも大きな意義を孕んでいるが、その歴史研究は、国内外でさかんになされてこなかった。
森, 勇一 Mori, Yuichi
日本各地の先史~歴史時代の地層中より昆虫化石を抽出し,古環境の変遷史について考察した。岩手県大渡Ⅱ・宮城県富沢両遺跡では,姶良―Tn火山灰層直上から,クロヒメゲンゴロウ・マメゲンゴロウ属・エゾオオミズクサハムシなどの亜寒帯性の昆虫化石が多産し,この時期,気候が寒冷であったことが明らかになった。
齋藤, 努 坂本, 稔 高塚, 秀治 Saito, Tsutomu Sakamoto, Minoru Takatsuka, Hideharu
大鍛冶は,前近代の砂鉄を原料とする製鉄法において,銑鉄を脱炭して軟鉄を作る精錬方法として,近世から明治時代まで行われていた技術である。考古学的な遺跡の発掘調査は行われているが,現在は技術の伝承が途絶えているため,作業内容の詳細は二編の論文からしか推測できなかった。
主税, 英德 後藤, 雅彦
本報告は、地域に貢献する人材の育成を目的とした考古学関係授業の取り組みを紹介するものである。また、コロナ禍において、仲間とともに遺跡を実地調査(巡検の意味を含む、以下、「実地調査」と表現する)を行うことで、考古学専攻生が何を学び考えたかについても報告する。
吉川, 昌伸 工藤, 雄一郎 Yoshikawa, Masanobu Kudo, Yuichiro
下宅部遺跡の縄文中期から晩期の植生と植物利用の変遷,アサとウルシの分布を明らかにすることを目的に,主に炭素年代が得られている試料で花粉分析を行った。下宅部遺跡の植生史は,花粉化石群と年代に基づき4つの植生期に区分され,下位よりクリ林が優勢な時期(約5300‒4400 cal BP;縄文中期中葉~後葉),トチノキ林とクリ林期(約4200 cal BP;後期前葉),エノキ属-ムクノキ属とトチノキ林期(約3800‒3400 cal BP;後期中葉),クリ林の拡大期(約3200‒3000 cal BP;晩期前葉~中葉),コナラ亜属とクマシデ属-アサダ属,カエデ属を主とする落葉広葉樹林期(約3000‒2800 cal BP;晩期中葉)が認められた。縄文中期中葉には河川傍にクリ林が形成され活動的な生業があったが,後期前葉~中葉にはクリ材の利用により河川傍のクリ林が段階的に縮小し,その後にトチノキが拡大したことが明らかになった。クリは後期後半には河川傍から少なくなるが,晩期前葉には再びクリ林が拡大した。アサ畑は周辺にあった可能性があり,ウルシの雄株は近くには生えていなかった。
武末, 純一 Takesue, Junichi
弥生時代の農村は,海や山の生業が主体となる村を生み出す。この場合,海村・山村の目安になるのが石庖丁の量である。海村とした福岡県御床松原遺跡での石庖丁の量は通常の農村の1/5程度である。海上活動の比重が高かったとみられる対馬ではこれまで石庖丁は数点しかない。
北條, 勝貴 Hojo, Katsutaka
古代最大の規模を有する氏族の1つである秦氏については,現在,各集団における在地的特徴・個別的性格の解明が要請されている。そのための方法として,氏族の有する歴史性――文化全般の蓄積が顕著に反映される,種々の氏神に対する信仰形態の検討が重要視される。
尾野, 善裕 Ono, Yoshihiro
平安時代の国産緑釉陶器をめぐる過去の研究では、考古資料に対する歴史的評価や、文献資料の解釈が論者によって大きく異なっている。それにもかかわらず、緑釉陶器が多く出土する遺跡は、官衙かそれに準ずるような〈公的施設〉である、となぜか漠然と信じられているように見受けられる。
榎村, 寛之 Emura, Hiroyuki
古代においても,私印は文書に捺されるのが最も普通の用途である。ところがまれに,焼成前の土器に捺した事例が見られる。生産窯や貢納主体の国や郡を表示するために印を土器や瓦に捺す例は少なくないが,私印を捺すという行為には,全く別の目的があったと考えられる。
三上, 喜孝 Mikami, Yoshitaka
本稿は,延暦15年(796)の越前国坂井郡符に捺された「坂井郡印」の印影を検出し,新たな郡印資料を提示すると同時に,古代の「坂井郡印」の変遷を追うことで,古代郡印の編年作業を試みるものである。坂井郡印が捺された文書については,天平宝字2年(758),宝亀11年(780),延暦15年(796)の3時期のものがこれまで知られているが,今回そのすべての印影を確認することができた。それによると,前二者の文書の印影はいずれも楷書体であり,延暦15年の坂井郡符に至ってはじめて篆書体の印影があらわれることがわかる。このことから,坂井郡印が,宝亀11年から延暦15年の16年の間に,楷書体の郡印から篆書体の郡印への改鋳が行われたことが明らかになった。郡印の改鋳時期については従来ほとんど検討されてこなかったが,今回はじめてその具体的な時期がしぼり込めたことになる。
大橋, 信弥 Ohashi, Nobuya
西河原木簡をはじめとする近江出土の古代木簡は、量的には多くないが、七世紀後半から八世紀初頭の律令国家成立期の中央と地方の動向を、具体的に検討するうえで、重要な位置を占めている。そして、近江には多くの渡来系氏族と渡来人が、居住しており、近江における文字文化の受容にあたって、渡来人の役割は無視できない。
西谷, 大 Nishitani, Masaru
本稿は,大汶口文化諸遺跡で発見された仰韶文化の廟底溝類型系彩陶を取り上げ,この彩陶が,渭河流域,黄河中・下流域から山東地区の大汶口文化に伝播していく様態を追求することによって,廟底溝類型期の各地域間にみられる文化交流の中で,彩陶が具体的にどの様な意味をもつのかを考えようとするものである。
正木, 晃
縄文時代から奈良時代までを概観した前回をうけて、平安時代の「聖空間の自然」を取り上げる。ひとくちに平安時代といっても、古代から中世までつらなる四百年はあまりに長い。そこでまずは、この時代の人々の心に最も大きな影響をあたえた密教世界を、今回の主題としたい。より具体的にいえば、俎上にのぼるのは、密教と月の関係である。
高橋, 照彦 Takahashi, Teruhiko
本稿は,日本古代の鉛釉陶器を題材に,造形の背後に潜む諸側面について歴史的な位置づけを行った。まず,意匠については,奈良三彩が三彩釉という表層のみの中国化であるのに対して,平安緑釉陶では形態や文様も含めて全面的に中国指向に傾斜したということができる。また,日本における焼物生産史全体でみると,模倣対象としての朝鮮半島指向から中国指向への大きな比重の移動は,この奈良三彩や平安緑釉陶が生産された8世紀から9世紀に求められるとした。
鈴木, 貞美
「日記」および「日記文学」の概念について、専門家諸姉氏の参考に供するために若干の考察を試みる。第一に、今日のわれわれの考える「日記」の概念は、前近代の中国語には見られず、今日の中国で用いられている「日記」は、二〇世紀に日本の教科書類からひろがったものとされている。中国古代においては、皇帝に差し出す上奏文に対して、いわば私人が、日々、記し、また文章を収集編集する作業がすべて「日記」である。すなわち、そのなかで、ジャンルの区別はなかった。日本古代にも、この用法が伝わっていた可能性は否定できない。業務の記録や備忘録の類とはちがう、われわれが今日、「日記」と考える内面の記録をかねた形態は、日本の二〇世紀前期に入って、イギリスの社会運動家、ウィリアム・モリスの「生活の芸術化、芸術の生活化」というスローガンのもとに、庶民や児童に日記を進めることが行われ、学校教育にも取り入れられて盛んになったものと考えてよい。
幡豆の沿岸を舞台に、遺跡、港、漁業、元素分析、プランクトン、海藻、貝、エビ・カニ、魚、イルカ、環境学習、アクティブラーニングに 地域創生まで、私たちがおこなってきた様々な研究のエッセンスをまとめた一冊です。幡豆に暮らす方、幡豆を訪れた方に、また、幡豆を知らない 方にも、 幡豆の海をとりまく自然環境や文化社会に魅力を感じていただけると思います。
那須, 浩郎 Nasu, Hiroo
縄文時代晩期から弥生時代移行期におけるイネと雑穀(アワ・キビ)の栽培形態を,随伴する雑草の種類組成から検討した。最古の水田は,中国の長江中・下流域で,約6400年前頃から見つかっているが,湖南省城頭山遺跡では,この時期に既に黄河流域で発展した雑穀のアワ栽培も取り入れており,小規模な水田や氾濫原湿地を利用した稲作と微高地上での雑穀の畑作が営まれていた。この稲作と雑穀作のセットは,韓半島を経由して日本に到達したが,その年代にはまだ議論があり,プラント・オパール分析の証拠を重視した縄文時代の中期~後期頃とする意見と,信頼できる圧痕や種子の証拠を重視して縄文時代晩期終末(弥生時代早期)の突帯文土器期以降とする意見がある。縄文時代晩期終末(弥生時代早期)には,九州を中心に初期水田が見つかっているが,最近,京都大学構内の北白川追分町遺跡で,湿地を利用した初期稲作の様子が復元されている。この湿地では,明確な畦畔区画や水利施設は認められていないが,イネとアワが見つかっており,イネは湿地で,アワは微高地上で栽培されていたと考えられる。この湿地を構成する雑草や野草,木本植物の種類組成を,九州の初期水田遺構である佐賀県菜畑遺跡と比較した結果,典型的な水田雑草であるコナギやオモダカ科が見られず,山野草が多いという特徴が抽出できた。この結果から,初期の稲作は,湿地林を切り開いて明るく開けた環境を供出し,明確な区画を作らなくても自然地形を利用して営まれていた可能性を示した。
高橋, 照彦 Takahashi, Teruhiko
『延喜民部省式』に年料雑器として掲げられている「長門国瓷器」については,防長産の緑釉陶器であることが明確化してきたものの,いまだ窯跡が発見されておらず,日本古代の施釉陶器生産において最も研究が遅れている対象の一つとなっている。そこで,本稿ではそれらの実相を明らかにするために,基礎的な検討を試みることにした。
宇野, 隆夫
日本列島には、海辺・里(平野)・山の多様な環境があり、かつそれらは川によって結ばれることが多い。そして列島各時代の特質は、その住まいの選び方に現れることが多かった。本稿は、このことの一端を明らかにするために、富山県域の縄紋時代遺跡をとりあげ、GISによる密度分布分析・立地地形分析・眺望範囲分析・移動コスト分析をおこなった。
坂井, 隆 Sakai, Takashi
世界史的な陶磁貿易の構造解明に向けて,本論では東南アジア群島部における陶磁器消費者の実態像について,各地の考古資料より接近を試みた。具体的な使用者を探る手掛かりとして食膳具・調度具・貯蔵具に区分することで各遺跡出土品の内容を検討し,またこの地域の特徴を示す重要な製品であるクンディ型水注とアンピン壺のあり方を考えた。
綿貫, 俊一 Watanuki, Shunichi
旧石器時代後期の遊動生活から,半定住生活,定住生活へと生活・居住の形が次第に変化したのが縄文時代であるといわれている。その一方で遺物量,岩陰の狭小性などから四国山地の高原にある上黒岩岩陰のように定住的な生活の場所としての利用が考えられない遺跡もある。そこで上黒岩岩陰で具体的にどのような生活が行われ,半定住集落や定住集落が形成されていくなかで上黒岩岩陰の性格とはなにかを詳らかとするために,出土した石器と石器石材の組成について観察した。これまで定住集落を認定する際,磨石・敲石類の増加と竪穴住居・土坑などの存在に注意が払われてきた。住居・集落が固定しない旧石器時代の遊動社会・集落と違って,定住的な社会においては塩・翡翠・磨製石斧・黒曜石などで代表されるように遠隔地間の物流が活発化・安定化している。このような視点から上黒岩岩陰や周辺遺跡での遠隔地石材の比重を観察した。
高橋, 圭子 東泉, 裕子
現代語の「もちろん」は「論ずる(こと)勿(なか)れ」という禁止表現から発生したと説明されることがある。近代以前のデータベースを検索すると、古代の六国史に代表される漢文体の文献では、「勿論」の用例は「論ずる(こと)勿れ/勿(な)し」という意味であり、否定辞「勿」と動詞「論」から構成される句であった。現代語とほぼ同様の意味の「勿論」の語の用例は、中世の古記録や『愚管抄』『沙石集』など和漢混交文体による仏教関連の文献から見られるようになる。用法は文末における名詞述語が主であった。近世には、ジャンルも文体も多様な文献に用いられ、文中や文頭における副詞用法や応答詞的用法も出現する。古代の禁止表現と中世以降の「勿論」の関連は不明だが、日本語のみならず中国語・韓国語においても漢字語「勿論」の研究が進められ、さまざまな知見が見出されている。通言語的な議論の深化が期待される。
張, 莉 ZHANG, Li
非情物が主語になる受身(非情の受身と略す)は古代語においては動作・作用が非情物に働きかけてくるという出来事の意味を表すのは稀であり、状態の意味を表すと言われる。「状態」の意味が現代語においてどの程度の割合を占めるのか。現代語の非情の受身の「状態」の意味をどう捉えるべきか。本稿は、BCCWJを使い、述語動詞の構文形式を手掛かりに考察を行った。現代語の非情の受身の意味は、「状態」に限らず、「出来事」、「反復」など様々である。非情の受身は本質的には非情物主語が動作主の行為によって物理的な影響を受ける意味を表し、「状態」などは「動作主の行為によって物理的な影響を受ける」という意味に「る・ている」などが加わって生じた文全体の意味である。通時的に見ると、状態の意味の占める割合の変化も、現代語の非情の受身が古代、近代に比べて多様であるのも、文体や文章の特徴の変化、すなわち言語生活の変化によるといえよう。
中山, 真治 Nakayama, Shinji
南関東の縄文時代中期の廃絶竪穴には土器をはじめ多量の遺物が遺棄されている。日常生活で生じる生活残滓の処理に廃絶した竪穴を好んで廃棄場所として有効に利用していた。縄文時代中期の廃棄について,主として東京多摩地域の中期遺跡での土器の接合関係から読み取れる遺物の廃棄について時期的な特徴と変遷を捉えた。
吉田, 邦夫 佐藤, 正教 中井, 俊⼀ Yoshida, Kunio Sato, Masanori Nakai, Shunichi
漆製品について,これまでの発掘を見ると,約9000年前とされる垣ノ島B遺跡の装身具を除くと,中国と日本列島の漆製品は,ほぼ同時代か,中国の方がやや古い。東〜東南アジアに分布するウルシ(漆樹)は3種類の系統が知られているが,主成分が異なり,日本・中国ウルシから採取される漆はウルシオールを含み,ベトナム漆はラッコール,ミャンマー漆はチチオールを含んでいるので,主成分を分析すれば識別できる。しかし,日本列島産と中国産は,主成分を分析しても,両者を識別することは出来ない。ストロンチウムSrはカルシウムCaと同様に,生育土壌から吸収され,植物組織に運ばれる。漆塗膜中のSrの同位体比⁸⁷Sr/⁸⁶Srは,ウルシが生育した場所の土壌の性格を反映する。日本列島産,中国産漆液資料について同位体分析をした結果,列島産は⁸⁷Sr/⁸⁶Srの値が,0.705-0.709であるのに対して,中国産は0.712-0.719であり,Sr同位体比により,両者が識別出来ることが示された。⁸⁷Sr/⁸⁶Srの値は,0.711を境にして,二つのグループにきれいに分かれる。日本列島は,起源や年代が異なる岩石が混ざっているが,平均すると,より古い時代にマントルから分化した中国大陸の岩石より若い年代をもち,⁸⁷Sr/⁸⁶Srの値は小さくなる。中国渡来の漆があれば,識別可能である。また,漆液・ウルシに含まれるSr同位体比は,土壌の交換性Srの同位体比を反映している。これまでに,主として縄文時代後期,晩期,弥生時代中期,平安時代などの資料について,¹⁴C年代を決定するとともに,Sr同位体比を測定した。埋蔵中の物理的・化学的作用は,同位体比に大きな影響を与えておらず,縄文時代の発掘資料についても,この手法が適用できることが示された。遺跡から,ウルシ,漆液,漆製品の三点セットが出土しているところも多い。三者の同位体比が一致して初めて,列島のその遺跡で得られた漆原料によって漆製品が製造されたことが実証される。これまでの分析例では,遺跡ごとにまとまった値を示し,漆は地産地消されている可能性を示している。
神谷, 智昭 神谷, 幸太郎 上原, 三空 幸地, 彩
琉球大学国際地域創造学部地域文化科学プログラム社会人類学研究室神谷ゼミは2022年11月25日~27日に「久米島の農と文化」に関する現地調査を久米島でおこなった。久米島では在来農業とは異なる新しい農業に取り組む人びとがおり、その活動は地域貢献にもつながっていた。また学生の視点から久米島の遺跡や史跡について調べることを通じて新しい価値や意味の発見を試みた。
王, 秀梅
古代日本人の地質や地形に対する関わり方,考え方を万葉集の歌に見える「岩」の語と歌句から検討した。万葉集中,「イハ系列語」45 語は,133 首の歌に計140 例が挙げられる。本稿はそれらを語構成・意味属性の観点から分類した上,万葉集の部立分類に合わせて,その分布状況と詠まれた歌句の表現類型について考察し,次の結論を得た。歌句において使用頻度の高い語は,「イハ」,「イハネ」,「イハホ」,「トキハ」等である。部立分類で見れば,「岩」は相聞歌の歌句に最も多く現れるが,各部立内で占める割合と合わせて見れば,「岩」は挽歌に出現する頻度が高い。歌句に見える「岩」は主に,①険しい山道を構成し,恋や前進を阻む象徴,②水流などとの自然作用を心情に譬える際は,堅固の象徴,③現実世界と異なる空間,④風景の一部で永久不変の象徴,として詠まれており,「岩」と古代日本人との様々な繋がりが,日本文化における地質学的特質を反映している。
久野, 昭
日本に吹く主要な季節風は二つある。ひとつは冬季に吹く北ないし西北からの季節風であり、もうひとつは夏季の南ないし東南からの季節風である。不意に激しく吹く西北の季節風は、西日本では「あなし」とよばれてきた。「あな」はこの場合は恐怖をも含む感嘆詞であり、「し」は息であり風である。古代、漁師も農夫もこの「あなし」を怖れた。
千田, 嘉博 Senda, Yoshihiro
中世城館の調査はようやく近年,文献史学,歴史地理学,考古学など,さまざまな方法からおこなわれるようになった。こうした中でも,城館遺跡の概要をすばやく,簡易に把握する方法として縄張り調査は広く進められている。縄張り調査とは地表面観察によって,城館の堀・土塁・虎口などの防御遺構を把握することを主眼とする調査をいう。そしてその成果は「縄張り図」にまとめられる。
後藤, 雅彦 Goto, Masahiko
琉球列島と台湾、そして中国大陸側の福建,広東を中心とした東南中国を含めた沿海地域を「東アジア亜熱帯沿海地域」と呼び、先史時代の漁撈活動を中心に比較研究を行う。とくに、紀元前2000年以降、東南中国沿海地域の稲作定着期に漁撈活動が活発になる貝塚遺跡とその出土遺物(凹石、青銅製釣針)に焦点をあて、東南中国と東アジア亜熱帯沿海地域の先史漁撈文化に関する研究課題をまとめる。
三上, 喜孝 Mikami, Yoshitaka
本稿の目的は、韓国・咸安城山山城出土新羅木簡(以下、城山山城木簡と称す)の性格を、木簡の現状観察や、日本古代の城柵経営との比較を通じて、浮かび上がらせることにある。城山山城木簡は、考古学的な調査成果から、築城時に、城内の排水を円滑に行うための施設を造成するために、他の植物性有機物とともに集中的に廃棄されたことがわかり、つまり築城段階で廃棄されたことが明らかになった。木簡の大半は、各地から城内に運び込まれた食料に付けられた荷札木簡であり、築城にともなう労働の資養物として、慶尚北道を中心とする各地から運ばれた可能性が高い。
古瀬, 奈津子 Furuse, Natsuko
日本古代における儀式の成立は,律令国家の他の諸制度と同様に,唐の影響なしには考える事はできない。しかし,律令の研究に比べると,唐礼の継受のあり方や唐礼との比較研究は遅れている状況にある。そこで,本稿においては,地方における儀礼・儀式について取り上げ,規定・実態の両面から唐礼との関係を考察し,唐礼継受の一側面を明らかにしたい。
堀部, 猛 Horibe, Takeshi
古代の代表的な金属加飾技法である鍍金は、水銀と金を混和して金アマルガムを作り、これを銅製品などの表面に塗り、加熱して水銀を蒸発させ、研磨して仕上げるものである。本稿は、『延喜式』巻十七(内匠寮)の鍍金に関する規定について、近世の文献や金属工学での実験成果、また錺金具製作工房での調査を踏まえ、金と水銀の分量比や工程を中心に考察を行った。
白石, 太一郎 Shiraishi, Taichirō
奈良盆地の東南の山間部に位置する宇陀地方の中世墓地については、最近の発掘調査によってその全容が明らかにされた例がいくつかある。それら中世末に廃絶し、遺跡化した墓地に対して、この地方には中世以来現在までその利用が続いている墓地がある。小論はこの両者を総合して考察することによって、中世の宇陀における葬制と墓制の展開過程を追求しようとしたものである。
鄭, 一 Jung, Il
本稿では,栄山江上流地域において,馬韓初現期に比定できる硬質無文土器段階の集落の編年と意義について検討した。まず,この段階の典型的な複合遺跡である海南郡谷里貝塚出土の土器について,これまでの研究成果に基づきながら,編年案を提示した。次に,近年議論が盛んな原三国時代の住居址の実態について,1~3段階の硬質無文土器の段階ごとに検討を行った。
平川, 南 Hirakawa, Minami
近年、古代史研究の大きな課題の一つは、各地における地方豪族と農民との間の支配関係の実態を明らかにすることである。その末端行政をものがたる史料として、最近注目を集めているのが、郡符木簡である。郡司からその支配下の責任者に宛てて出された命令書である。この郡符木簡はあくまでも律令制下の公式令符式という書式にもとづいているのである。したがって、差出と宛所を明記し、原則として律令地方行政組織〔郡―里(郷)など〕を通じて、人の召喚を内容とする命令伝達が行われるのであろう。これまでに出土した一〇点ほどの郡符木簡はいずれも里(郷)長に宛てたもので、例外の津長(港の管理責任者)の場合は個人名を加えている。
田中, 史生 Tanaka, Fumio
日本古代の文書行政の実態を知る上で極めて重要な史料と位置づけられている正倉院文書には,周知のように実に多種の古代印が押されている。本稿では,その中から,特に東大寺内の組織運営システムと密接にかかわると考えられる「東大寺印」と「造東寺印」を取り上げ,これまで主に個々の文書の接続関係や内容から検討されてきた正倉院文書に,印影の考察から,新たな分析視角を与えることを試みる。
坂本, 俊
本稿は,日本列島の中・近世移行期の採石加工技術について,城郭石垣の歴史的展開を踏まえて検討を行った。特に,技術的に平準化した型式として位置づけられるA タイプ矢穴の地域的な広がりや平準化の実態に焦点を当てた。検討にあたり,城郭遺跡と17 世紀初頭から前半にかけて盛んに鉱物資源を産出した佐渡島の石丁場の様相とを比較し,当該期の採石加工技術の実態を捉えることとした。
宇野, 隆夫 Uno, Takao
中世的食器様式は,焼物・木・漆・鉄のように多様な素材を使用し,東アジア規模から1国規模以下までの様々な生産流通システムを経た製品から成り立っている。本稿は中世の人々がこの多様な種類・器種の食器にどのような意味を込めて使用したかを考えようとするものである。そのために食器を型式と計量という二つの方法によって分析し,その結果と出土遺跡の性質との関わりに着目した。
設楽, 博己 Shitara, Hiromi
いったん遺体を骨にしてから再び埋葬する葬法を、複葬と呼ぶ。考古学的な事象からは、死の確認や一次葬など、複葬制全体を明らかにすることは困難で、最終的な埋葬遺跡で複葬制の存在を確認する場合が多い。そうした墓を再葬墓、その複葬の過程を再葬と呼んでいる。東日本の初期弥生時代に、大形壺を蔵骨器に用いた壺棺再葬墓が発達する。その起源の追究は、縄文時代の再葬にさかのぼって検討する必要がある。
義江, 明子 Yoshie, Akiko
日本の伝統的「家」は、一筋の継承ラインにそう永続性を第一義とし、血縁のつながりを必ずしも重視しない。また、非血縁の従属者も「家の子」として包摂される。こうした「家」の非血縁原理は、古代の氏、及び氏形成の基盤となった共同体の構成原理にまでその淵源をたどることができる。古代には「祖の子」(OyanoKo)という非血縁の「オヤ―コ」(Oya-Ko)観念が広く存在し、血縁の親子関係はそれと区別して敢えて「生の子」(UminoKo)といわれた。七世紀末までは、両者はそれぞれ異なる類型の系譜に表されている。氏は、本来、「祖の子」の観念を骨格とする非出自集団である。「祖の子」の「祖」(Oya)は集団の統合の象徴である英雄的首長(始祖)、「子」(Ko)は成員(氏人)を意味し、代々の首長(氏上)は血縁関係と関わりなく前首長の「子」とみなされ、儀礼を通じて霊力(集団を統合する力)を始祖と一体化した前首長から更新=継承した。一方の「生の子」は、親子関係の連鎖による双方的親族関係を表すだけで、集団の構成原理とはなっていない。
岩井, 宏實 Iwai, Hiromi
曲物は,刳物・挽物・指物(組物)・結物などとともに木製容器の一種類であるが,その用途はきわめて広く,衣・食・住から生業・運搬はもちろんのこと,人生儀礼から信仰生活にまでおよび,生活全般にわたって多用されてきた。そして,円形曲物・楕円形曲物は,飛鳥・藤原の時代にすでに大小さまざまのものが多く用いられ,奈良時代には方形・長方形のものがあらわれ,古代において広くその使用例を見ることができる。
吉岡, 康暢
(1) 銅鋺の型式分類と編年は,毛利光俊彦・桃崎祐輔によって大綱が確立されている。本稿は,古代前期の食器制を特徴づける金属器示向の原点とされてきた銅鋺の器形・加飾による分類・編年の再構成を意図する。そのため,まず全国の事例を悉皆的に収集し,法量分化と各部位の指数化によるデータの客観性を高めようとした。また,銅鋺の初現年代と系譜の検討を通して,銅鋺の史的意義に迫る予備的作業を行った。
臼居, 直之 Usui, Naoyuki
千曲川流域の沖積低地には,弥生時代から近世にわたる数多くの集落跡と水田跡が発見されている。洪水堆積層に覆われた遺跡からは,畦畔や溝で区切られた各時代の水田区画が検出され,多量の木製農耕具が出土している。これらの水田区画と農耕具には時代ごとに特長があり,いくつかの画期を見いだすことができる。またその変化の背景には自然条件を克服した技術や政治・社会的な要因が推察される。
若林, 邦彦 Wakabayashi, Kunihiko
大阪平野の弥生時代遺跡については,弥生時代中期末の洪水頻発の時期に大規模集落が廃絶し,集団関係に大きな変化が生じたといわれてきた。また,水害を克服する過程として,地域社会統合が確立し古墳時代社会への移行が進行するとも言われた。本稿では,大阪平野中部と淀川流域の弥生時代~古墳時代遺跡動態を検証して,社会変化・水害・集団と耕作地の関係について論じた。大阪平野中部では,弥生時代の流水堆積による地形変化は数百m規模でしか発生せず,集落と水田のセットが低湿地に展開する様相に変化はない。淀川流域で弥生~古墳時代の集落分布変化を検証すると,徐々に扇状地中部・段丘上・丘陵上集落の比率が増え,古墳時代中期には特にその傾向は顕在化する。これは,4世紀後半・5世紀に集落が耕作地から分離していく整理された集団関係への変化と読み取れる。また,この時期は降水量が100年周期変動で進行する水害ダメージを受けにくい時代でもある。地域社会統合は洪水の影響をうけにくい時期にこそ,その環境を利用してそれへの対応の可能な社会へと変貌するのである。社会構造変化の方向性と環境要因の複合要因により,地域社会の実態は変質していくと考えられる。
稲村, 務 Inamura, Tsutomu
主として紅河州の土司遺跡の調査資料とラオスの調査資料を示した。中国南部を中心に近代国家以前の政体をこれまでの東南アジアの政体モデルの検討を通じて、特にJ.スコットの所論を基に、「盆地国家連合」「山稜交易国家」という理念型でとらえなおした。これまで静態的に捉えられてきたハニとアカの文化を「切れながら繋がる統治されないための術」と解釈しなおすことを通じて両者を架橋する新しい山地民像を提示した。
市川, 秀之 Ichikawa, Hideyuki
肥後和男は『近江に於ける宮座の研究』『宮座の研究』の二書において宮座研究の基礎を築いた人物として知られる。同時に水戸学や古代史・古代神話などの研究者でもあり、肥後の宮座論はその研究全体のなかで位置づける必要があるが、これまでそのような視点から肥後の宮座論を評価した研究はない。肥後が宮座論を開始したのは、宮座の儀礼のなかに古代神話に通じるものを感じたからであり、昭和一〇年前後に大規模な宮座研究を開始したのちも肥後のそのような関心は衰えることはなかった。肥後の宮座に対する定義は数年におよぶ調査のなかで揺れ動いていく。調査には学生を動員したため彼らに宮座とはなにかを理解させる必要があったし、また被調査者である神官や地方役人にとっても宮座はいまだ未知の言葉であったため、その明確化が求められたのである。肥後の宮座論の最大の特徴は、村落のすべての家が加入するいわゆる村座を宮座の範疇に含めたことにあるが、この点が宮座の概念をあいまいにする一方で、いわば宮座イコールムラ、あるいは宮座はムラを象徴する存在とされるなど、後の研究にも大きな影響を与えてきた。現在の宮座研究もなおその桎梏から逃れているとは言い難い。肥後が宮座研究に熱中した昭和一〇年前後は、彼が幼少期から親しんできた水戸学に由来する祭政一致がその時代を主導する政治的イデオロギーとしてもてはやされており、神話研究において官憲の圧力を受けていた肥後の宮座論もやはりその制約のなかにあった。すなわち祭政一致の国家を下支える存在としての村落の組織としての宮座は、全戸参加すべきものであり、それゆえ村座は宮座の範疇に含まれなければならなかったのである。肥後の宮座研究は昭和一〇年代という時代のなかで生産されたものであり、時代の制約を受けたものとして読まれなければならない。宮座の定義についてもそのような視点で再検討が是非必要であろう。
佐々木, 由香 小林, 和貴 鈴木, 三男 能城, 修一 Sasaki, Yuka Kobayashi, Kazutaka Suzuki, Mitsuo Noshiro, Shuichi
縄文時代の編組(へんそ)製品は,破片で出土する場合が多く,全体像や用途が不明な場合が多い。また脆いため,素材となる植物の種類が同定される事例は出土量と比べて少ない。しかし民具をみる限り,編組技法と素材となる植物は製品の用途(機能)と密接に関わっている。したがって,素材を同定する作業は,編組製品の素材となる植物が明らかになるだけでなく製作技法や用途を検討する上でも重要である。東京都下宅部(しもやけべ)遺跡では,縄文時代中期中葉から晩期中葉までの編組製品50個体と製品の素材植物を束にした素材束2個体が出土しており,残存状況も良かった。本稿では,既報の素材植物の同定結果に加えて,編組製品7個体と素材束1個体についてパラフィン包埋切片法による同定を行い,素材となる植物の種類と加工方法について検討した。この結果,下宅部遺跡出土の22個体の編組製品と1個体の素材束には,タケ亜科が用いられ,その母植物はアズマネザサと推定された。さらにパラフィン包埋切片法による素材の断面形状の観察によって,タケ亜科の稈を割り裂いた後に内側が人為的に削られて,厚さが調整されている様相が植物組織から初めて明らかになった。また製品に使用されている素材は,未成品の割り裂いた素材束と比べると薄く,素材束の素材も現生の稈(かん)の厚さよりも薄く,加工段階によって厚みが調整されていた。
濱島, 正士 Hamashima, Masashi
日本の寺院・神社の建築には,装飾の一環として各種の塗装・彩色がされている。何色のどんな顔料がどのような組合わせで塗られているのか,それは建築の種類によって,あるいは時代によってどう違うのか,また,建築群全体としてはどのように構成され配置されているのだろうか。これらの点について,古代・中世はおもに絵画資料により,近世は建築遺例により時代を追って概観し,あわせて日本人の建築に対する色彩感覚にもふれてみたい。
平川, 南 Hirakawa, Minami
一九八七年に開催された国立歴史民俗博物館の共同研究「古代の国府の研究」の総括シンポジウムでは、国府における都市的機能や地域的広がりいわゆる国府域を設定することに対して否定的見解が目立った。しかし、その後、全国各地で国府跡の発掘調査が実施され、大きな成果をえたが、なかでも陸奥国府が置かれた多賀城跡の前面の大規模な調査によって、都城の都市計画の根本をなすものとされた方格地割が確認されたことは注目すべきである。さらに、都市成立の諸条件とされる方格地割地域における地区構成と各地区の計画的建物配置、交通体系の結節点、都市祭祀空間の設定、生産体制の集中などの点において、発掘調査等で数多くの成果が得られたのである。
坪根, 伸也 Tsubone, Shinya
中世から近世への移行期の対外交易は,南蛮貿易から朱印船貿易へと段階的に変遷し,この間,東洋と西洋の接触と融合を経て,様々な外来技術がもたらされた。当該期の外来技術の受容,定着には複雑で多様な様相が認められる。本稿ではこうした様相の一端の把握,検討にあたり,錠前,真鍮生産に着目した。錠前に関しては,第2次導入期である中世末期から近世の様態について整理し,アジア型錠前主体の段階からヨーロッパ型錠前が参入する段階への変遷を明らかにした。さらにアジア型鍵形態の画一化や,素材のひとつである黄銅(真鍮)の亜鉛含有率の低い製品の存在等から,比較的早い段階での国内生産の可能性を指摘した。真鍮生産については,金属製錬などの際に気体で得られる亜鉛の性質から特殊な道具と技術が必要であり,これに伴うと考えられる把手付坩堝と蓋の集成を行い技術導入時期の検討を行った。その結果,16世紀前半にすでに局所的な導入は認められるが,限定的ながら一般化するのは16世紀末から17世紀初頭であり,金属混合法による本格的な操業は今のところ17世紀中頃を待たなければならない状況を確認した。また,ヨーロッパ型錠前の技術導入について,17世紀以降に国内で生産される和錠や近世遺跡から出土する錠の外観はヨーロッパ錠を模倣するが,内部構造と施錠原理はアジア型錠と同じであり,ヨーロッパ型錠の構造原理が採用されていない点に多様な技術受容のひとつのスタイルを見出した。こうした点を踏まえ,16世紀末における日本文化と西洋文化の融合の象徴ともいえる南蛮様式の輸出用漆器に注目し,付属する真鍮製などのヨーロッパ型の施錠具や隅金具等の生産と遺跡出土の錠前,真鍮生産の状況との関係性を考察した。現状では当該期の大規模かつ広範にわたる生産様相は今のところ認め難く,遺跡資料にみる技術の定着・完成時期と,初期輸出用漆器の生産ピーク時期とは整合していないという課題を提示した。
山崎, 誠 YAMAZAKI, Makoto
源為憲が藤原為光息誠信(松雄君)のために撰述したと云われる口遊は、岡田希雄「口遊は省略本か」(『国語国文』六巻九号)以来、その内容に省略があるとの疑問が提示されたが、書写の際の不注意等による部分的脱落はあるものの、抄略本と認定することはできない。本稿はそのことを骨子として論証するとともに、従来殆ど無視され続けているが、古代貴族必携の百科便覧として、あまたの文化史上の貴重な資料を豊富に含む書物であることを指摘する。
千田, 嘉博 Senda, Yoshihiro
日本における城郭研究は,ようやく基本的な所在や遺跡概要の情報を集積する段階を終え,そうした成果をもとに新しい歴史研究を立ち上げていく新段階に入ったと評価できる。従来の城郭研究は市民研究者によって担われた民間学として,おもに地表面観察をもとにした研究と,行政の研究者による考古学的な研究のそれぞれによって推進された。しかしさまざまな努力にもかかわらず地表面観察と発掘成果を合わせて充分に歴史資料として活かしてきたとはいい難い。
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