672 件中 1 〜 20 件
林部, 均 Hayashibe, Hitoshi
郡山遺跡は宮城県仙台市に位置する飛鳥時代中ごろから奈良時代前半の地方官衙遺跡である。多賀城は宮城県多賀城市に所在する奈良時代から平安時代にかけての地方官衙遺跡である。郡山遺跡は仙台平野の中央,多賀城は仙台平野の北端に位置している。ともにヤマト王権,もしくは律令国家の支配に従わない蝦夷の領域に接する,いわば国家の最前線に置かれた地方官衙であった。本論では,このような地方官衙の成立・変遷に,古代宮都(王宮・王都)がいかなるかかわりをもったのかを,発掘調査で検出される遺構の比較をもとに具体的に検討を加えた。そして,古代宮都からの影響という視点をもとに,国家がいかにこの地域にかかわりをもち,そして支配したのかを読み取ろうと考えた。古代宮都からみた地方官衙研究の試みである。郡山遺跡・多賀城は,7世紀中ごろ以降の郡山遺跡Ⅰ期官衙,7世紀末から8世紀前半のⅡ期官衙,そして,奈良時代前半以降の多賀城と変遷する。郡山遺跡Ⅰ期官衙は城柵であり,郡山遺跡Ⅱ期官衙と多賀城は陸奥国府であった。これらの遺跡を,①造営方位,②外郭の形態とその変化,③空閑地と外濠,④官衙中枢という視点から分析し,飛鳥宮,藤原宮・京,平城宮といった古代宮都と比較検討した。そして,造営方位や外郭のかたち,官衙周辺の空閑地と外濠という点において,郡山遺跡Ⅱ期官衙に古代宮都,とくに藤原宮の影響が強く表れていることを確認した。さらに,郡山遺跡Ⅱ期官衙と多賀城とは同じ陸奥国府であるにもかかわらず,継承される点が少ないことを指摘した。また,多賀城には確かに平城宮の影響がみてとれるが,郡山遺跡Ⅱ期官衙にみられたような宮都からの強い影響はなく,むしろ,影響は小さくなっていると考えた。そして,郡山遺跡Ⅱ期官衙に古代宮都の影響が強まるのは,この時期に律令国家が,この地域の支配をいかに重要視していたかを示し,また,郡山遺跡Ⅱ期官衙から多賀城に継承される点が少ないのは,その背景に律令国家の地域支配の大きな転換があると考えた。このように地方官衙を古代宮都からみた視点で捉えなおすことは,有効な手法であり,他の地域においても,同様の視点で分析すれば,律令国家の地域支配をより具体的に明らかにすることができるのではないかと考えた。
藤尾, 慎一郎
全羅南道の島嶼部に位置する安島貝塚で出土した新石器時代前期の人の中に,古代東アジア沿岸集団の核ゲノムを含まない人が存在することを2021年11月刊行のNatureで知った。このことは,新石器時代の当初から古代東アジア沿岸集団の核ゲノムを含まない人びとが韓半島の南部にも存在していたことを意味する。したがって,韓半島新石器時代人の核ゲノムは,古代東アジア沿岸集団の核ゲノムを持っている新石器文化人(韓半島系)と,もっていない新石器文化人(西遼河(さいりょうが)系)などを含むなど,前期から多様であったと考えられる。そこで多様な核ゲノムを引き継いだ韓半島青銅器文化人を想定し,渡来人として水田稲作を九州北部に伝えた場合の弥生時代人の成立と展開について作業仮説をたてた。その結果,現状では核ゲノムを異にする4タイプの弥生時代人を想定できることがわかった。① 渡来系弥生人Ⅰ:西遼河系+在来(縄文)系弥生人の核ゲノムをもつ。例:福岡県安徳台遺跡,鳥取県青谷上寺地遺跡など弥生中期~後期の遺跡。② 渡来系弥生人Ⅱ:韓半島系(西遼河系+古代東アジア沿岸集団系)の核ゲノムをもつ。例:愛知県朝日遺跡で弥生前期後半。在来(縄文)系弥生人との混血ほぼ認められない。③ 在来系弥生人:渡来系弥生人ⅠまたはⅡ+在来(縄文)系弥生人の核ゲノムをもつ。例:長崎県下本山遺跡や熊本県大坪貝塚など,弥生後期以降の遺跡。いわゆる西北九州弥生人。④ 在来(縄文)系弥生人:縄文人と同じ核ゲノムをもつ。例:佐賀県大友遺跡や愛知県伊川津貝塚など,弥生早~前期の遺跡。
市川, 隆之 Ichikawa, Takayuki
長野県北部にある善光寺平には条里型地割が認められる地点がいくつかある。そのひとつ更埴条里遺跡において初めて埋没条里型水田が確認されたが,その後,石川条里遺跡や川田条里遺跡でも同時期の埋没条里型水田跡や古代の水田跡の存在が明らかにされた。何れも千曲川沿岸の後背低地に立地する遺跡であるが,近年,これらの遺跡が高速道路・新幹線建設に伴って大規模に発掘調査されたことから新たな知見がもたらされた。本稿ではこれらの発掘調査成果を中心に善光寺平南部の古代水田の様相を紹介するものである。近年の調査成果で注目される点は,9世紀末の洪水砂で埋没した条里型水田跡が広範囲で調査されたこと,広域での半折区画の採用が知られたこと,さらに先行する古代水田跡が一部で確認されたことがある。また,9世紀末の埋没条里型水田が(8世紀末前後から)9世紀前半ころに成立したと推測されるものの,異区画水田が微妙な時期に存在した可能性が知られるようになり,条里型水田の出現が単一か,段階的なものか微妙な問題を生じている。この問題は所見に不確定なところがあって明確な問題として提起しにくいところもあるが,併せて触れる。
平川, 南 Hirakawa, Minami
さきに拙稿「墨書土器とその字形」において、古代の集落遺跡から出土する墨書土器は、一定の祭祀や儀礼行為等の際に土器になかば記号として意識された文字を記載したのではないかと指摘し、今後、古代村落内の信仰形態の実態を究明しなければならないと課題を提示した。本稿では、特に千葉県の印旛から香取地方にかけて、近年、著しく資料の増加をみている文章化された墨書土器を素材として、その祭祀や儀礼の具体的内容を明らかにすることを目的とした。まず、第一には、房総地区を中心として、東日本各地における文章化された墨書土器について、出土遺跡・遺構そして墨書内容等に関する情報を整理してみた。第二には、これらの墨書内容からは概観するならば、古代の人々が、自らの罪におののき、死を恐れ、必死に延命を願う姿を読みとることができる。さらに、古代の人々が恐れた冥界は、いうまでもなく、古代中国において形成されたものであるが、我が国にどのような形で受容されていったか、全体的動向をみてみることとした。その結果、古代中国においては、死後の世界に関する中国人の古来の俗説の刺戟によって触発され、仏教とも道教とも一般信仰ともつかぬ混合した相で現れたものとみられる。このようにして形成された冥界信仰は、おそらくそのままの形で我が国に受容されたと推測される。『日本霊異記』には、その具体的説話が多数収載されている。結局のところ、現状でみるかぎり、東日本各地における集落遺跡出土の多文字の墨書土器は、古代の人々が、自らの罪によって冥界に召されることを免れるために、必死で土器に御馳走を盛って供えるいわゆる賄賂(まいない)行為を実施していた姿を伝えたものと理解できるのである。
平川, 南 Hirakawa, Minami
古代の集落遺跡から出土する墨書土器は,古代の村落社会を解明する有力な資料である。また,これまで墨書土器は文字の普及の指標としてとらえてきた。その検討も含めて,これからは集落遺跡における墨書土器の意義は何かという大きな課題について新たな視点から考察する必要があるであろう。そこで,前稿(「古代集落と墨書土器」)では,特定した集落遺跡の分析を試みたが,本稿では,墨書土器の字形を中心に,より広域的見地から分析した。その検討結果は,要約するとつぎのとおりである。1)墨書土器の文字は,その種類がきわめて限定され,かつ東日本各地の遺跡で共通して記されている。2)共通文字の使用のみならず,墨書土器の字形も,各地で類似している。しかも,本来の文字が変形したままの字形が広く分布している。3)中国で考案された特殊文字―則天文字(そくてんもじ)―さらには篆書体(てんしょたい)などが日本各地に広く普及し,しかもそれに類するような我が国独自と思われる特殊な字形の文字を生みだしている。限定された共通文字は,東国各地の農民が会得した文字を取捨選択して記したものでないことを示している。また変形した字形や則天文字(そくてんもじ)・篆書体(てんしょたいなどの影響を受けた我が国独自に作成した特殊文字が広範囲で確認されている。以上の点からは,当時の東日本各地の村落において,土器の所有をそうした文字―記号で表示した可能性もあるが,むしろ一定の祭祀や儀礼行為等の際に土器になかば記号として意識された文字を記す,いいかえれば,祭祀形態に付随し,一定の字形なかば記号化した文字が記載されたのではないだろうか。このように,字形を中心とした検討結果からは,集落遺跡の墨書土器は,古代の村落内の神仏に対する祭祀・儀礼形態を表わし,必ずしも墨書土器が文字の普及のバロメーターとは直接的にはなりえないのではないだろうか。
永山, 修一
不動寺遺跡は、鹿児島市の南部、谷山地区の下福元町に所在する縄文時代~近世の複合遺跡である。谷山地区は、古代の薩摩国谿山郡に淵源し、「建久八年薩摩国図田帳」では、島津庄寄郡の谷山郡と見え、近世には谷山郷とされた。古代の谿山郡は隼人が居住する「隼人郡」の一つで、『和名類聚抄』によれば、谷山・久佐の二郷からなり、両郷は、永田川の中流・上流域と下流域すなわち西側と東側に存在した。不動寺遺跡では、奈良時代の明確な遺構は確認されておらず、奈良時代の遺構は、不動寺遺跡の範囲外、埋没河川の上流側にあると考えられる。平安時代のものとして緑釉陶器・初期貿易陶磁(越州窯系青磁など)・硯(風字硯・転用硯)などの遺物が出土し、遺構としては館跡・遣水状遺構・池状遺構・火葬墓・円形周溝墓・土師甕埋納遺構が検出されている。九世紀以降は郡家遺構そのものが確認されているわけではないが、谷山郡家が置かれていた可能性が高く、その後、園池を伴う有力者の居館として機能するようになった。不動寺遺跡の南南西約五〇〇メートルの谷山弓場城跡でも一〇世紀後半の蔵骨器の火葬墓が出土しており、蔵骨器の形式から、被葬者は不動寺遺跡の関係者と考えられる。また、一〇世紀後半~一一世紀前半には、北西九州と関連の深い円形周溝墓が営まれており、その被葬者は北部九州との関係を持っていた可能性が高い。一二世紀になると、不動寺遺跡では遺構が確認されなくなる。一二世紀代になると、谷山郡の中心は、約一キロメートル東方の砂丘状微高地上に立地する北麓遺跡に移った。このような中心地移動の背景には、一二世紀半ばの阿多忠景を代表的存在とする薩南平氏の谷山郡への進出があると考えられる。ここには近世には地頭仮屋がおかれ、谷山麓が置かれた。
池田, 榮史 Ikeda, Yoshifumi
沖縄諸島のグスク時代遺跡には「吹出原型掘立柱建物」と名付けられた遺構の組み合わせが見られるが、その出現の「由来、背景」については詳らかになっていない。これを含めて沖縄のグスク時代社会の開始には喜界島城久遺跡群をはじめとする奄美諸島を経由した古代末〜中世初期の日本からの影響が大きいと考えられる。そこで、「吹出原型掘立柱建物」の「由来、背景」を探るために奄美諸島喜界島城久遺跡群で検出された建物遺構および建物遺構の中に見られる「吹出原型掘立柱建物」類似遺構の検討を行なった。その結果、「吹出原型掘立柱建物」の直接的祖型を城久遺跡群に求めることはできないが、建物の構造や配置などについては間接的な影響があったと考えられる。
田路, 正幸 Toji, Masayuki
古代銅印は,近年発掘調査による出土例が増加している文字資料の一つである。銅印については,これまでさまざまな視点からの集成作業や研究が行われてきたが,考古資料としての位置付けは必ずしも充分に果たされているとはいいがたい。そこで本稿では発掘調査による出土例をもとに,古代銅印の考古資料としての評価の方途を探ることとしたい。古代銅印とは,主として奈良・平安時代に属するものを指すが,その編年的位置付けにはなお多くの課題を残している。出土資料では私印の範疇に属するものが大半を占めているが,考古学的観察を通じていくつかの特徴を指摘することができる。その形態には大別して「弧鈕」と「莟鈕」があるが,鈕孔の有無や基部の装飾の相違などによってさらに細分が可能である。印面には基本的に氏もしくは名の一部が刻まれたものと思われるが,一字印のなかには複数の資料で同一の文字を有する例が認められる。出土遺跡は関東・中部地方を中心としてほぼ全国に及び,遺跡の性格には都城跡・官衙跡・寺院跡・集落跡・祭祀跡など多様なものがある。銅印の出土状況には,竪穴住居跡から検出されたものや,一部には人為的な埋置を想定されるものが認められている。さらに鋳造痕跡をとどめる資料やいくつかの遺跡における鋳型の出土によって,これまで推定の域を出ることがなかった古代銅印製作の技術的過程や鋳造遺跡の実態に迫る手がかりを得ることが可能となった。出土銅印のなかには赤色顔料の付着が認められるものがあり,実際に押捺に供された可能性を持つものの存在を想定させるが,今後は観念的側面を含めた多様な存在形態の可能性を視野に入れつつ,他の文字資料を含めた律令的文字文化全体の展開のなかで評価を推し進める必要があろう。
服部, 伊久男 Hattori, Ikuo
古代荘園図と総称される史料群の一例である「額田寺伽藍並条里図」の分析を通じて,8世紀後半の額田寺の構造と寺辺の景観を明らかにすると同時に,寺院景観論の深化を図ることを目的とする。官寺や国分寺については多くの先行研究があるが,史料の少ない氏寺などの私寺の構造と景観については,古代寺院の大部分を占めるものの十分な研究がなされてこなかった。氏寺の寺院景観の一端を明らかにし,多様な寺院研究の方法を提起するために額田寺図を検討する。近年の古代荘園図研究の動向を受けて,考古学的に検討する場合の分析視角を提示し,寺院空間論などの領域論的,空間論的視点を軸として,寺院組織や寺院経済をめぐる文献史学上の論点を援用しつつ,額田寺の構造と景観に言及する。額田寺伽藍並条里図は多様な情報を有する史料体であり,寺領図という性格に拘泥せず様々な課題設定が可能である。本稿では,社会経済史的視点を援用し,本図を一枚の経済地図として読むことも試みる。額田寺をめぐる寺院景観の中では,とりわけ,院地,寺領,墓(古墳),条里をめぐる諸問題について検討する。さらに,近年の考古学的成果を受けて,古代寺院の周辺で検出されている掘立柱建物群について,畿内外の諸例(池田寺遺跡,海会寺遺跡,市道遺跡など)を中心に検討を行う。小規模な氏寺をめぐる景観をこれほどまでに豊富に描き出している史料はなく,その分析結果が今後の古代寺院研究に与える影響は大きい。考古学的に検討するには方法論的にも,また,現地の調査の進捗状況からも限られたものとなるが,考古資料の解釈や理解に演繹的に活用するべきである。とりわけ,これまであまり重要視されてこなかった院地の分析に有効に作用することが確認された。また,近年の末端官衙論とも関係することが明らかとなった。今後,寺領をめぐる課題についても考古学から取り組む必要も強調したい。
福島, 正樹 Fukushima, Masaki
善光寺平(長野盆地)は,千曲川・犀川によって形成された最大幅10km,南北30km,面積300k㎡の長野県内で最も広い盆地のひとつである。この地域は,古代においては,更級・水内・高井・埴科の4郡があい接し,『和名抄』に記載された郷の数や式内社の数をみると,信濃国で最も分布の密度が高い地域で,早くから開発が進んでいたところである。本稿はこの地域の条里的遺構について,特に旧長野市街地に存在した条里的遺構について検討を加え,用水体系との関連から古代における開発について検討したものである。まず,この条里的遺構が旧長野市街地全体を覆う統一的なプランによっていること,この統一性は,用水体系からも裏付けられ,裾花川から取水された鐘鋳堰(川)・八幡堰(川)の計画的開削と合わせて施行された可能性が高いこと,施行の時期を直接示す考古学的データは今のところないが,更級郡の石川条里遺跡,高井郡の川田条里遺跡,埴科郡の更埴条里遺跡のいずれもが発掘調査の結果,条里地割の施行は8世紀末から9世紀初め頃であることが判明したことから,水内郡においても同様の時期と考えられることなどを論じた。また,近世以前の善光寺東門・西門を結ぶ線(現在の仁王門)が条里的遺構の上に乗り,近世には「中道」と呼ばれていたことから,この線が高井郡へと向かう古代の官道の系譜を引くものである可能性について触れた。最後に,以上の仮説から想定される8世紀から9世紀にかけての善光寺平の開発の諸段階について,現時点での考えを示した。
佐々木, 蘭貞
水中遺跡、特に沈没船は、当時の様子をそのまま残していることがあり、交易のメカニズムを伝えるタイムカプセルに例えられる。諸外国では一九世紀から水中遺跡を研究対象として捉え、古代から近現代の沈没船の研究が進み、すでに数万件の調査事例がある。一方、これまで日本で確認された水中遺跡は数百件と決して多くない。四方を海で囲まれたわが国において海を介した交易無くして日本の歴史や文化を語ることはできないが、その確固たる証拠が眠る水中遺跡を保護し研究する体制は整っていない。水中遺跡の多くは、滋賀県(琵琶湖)、沖縄県、長崎県の三県に集中しており、中世の交易に関する遺跡はほとんど発見されていない。また、沈没船の発見を念頭に海難記録を調べているが、まだ多くの課題が残される。近年、一三世紀の蒙古襲来に関連した沈没船が長崎県松浦市の鷹島海底遺跡で発見され、わが国でも水中遺跡への注目が急速に集まりつつある。このように、日本国内での水中遺跡を対象とした研究事例はまだ少ないが、鷹島海底遺跡においては今後の研究の方向性・可能性を見ることが出来る。鷹島海底遺跡では、科学研究費による研究や護岸整備に伴う緊急発掘などにより、すでに四〇年近く調査が行われている。二〇一一年と二〇一四年の調査で船体が発見される前から、アンカー、陶磁器類、武器など多くの遺物が発掘されてきた。船体だけでなく、これらの遺物は、文献史料や絵画資料などと合わせて利用することにより、より正確な歴史事象の理解に貢献することが出来る。水中から引き揚げられた遺物は、保存処理に時間を要するが、現在、研究は着実に進んでいる。これまで鷹島で発見された船体のパーツや遺物などから判断すると、鷹島で沈没した船団のほとんどは、中国南部、揚子江以南に起源を持つ。本稿では、国内での水中遺跡調査の進展を望み、水中遺跡調査の学史、鷹島海底遺跡で行われた研究事例を紹介したい。
辻, 誠一郎 Tsuji, Seiichiro
長野盆地南部に位置する更埴条里遺跡・屋代遺跡群の古代の植物遺体群のうち,日本では最大の資料数であるヒョウタン遺体,およびアサ,ササゲ,モモ遺体の産出と利用を再検討した。その結果,古代の植物利用と農業経営に関して新しい知見を得た。古代のヒョウタン遺体の資料数は90点におよび,古代から中世まで連続的に時代を追うことができ,また,果実・種子の形態が多様性をもつものであった。果実の形態からは,タイプA~タイプGの7つのタイプが設定され,種子の形態も複数の系統の存在を支持した。このことから,ヒョウタンの多様性とこの地域におけるヒョウタン利用の多様性が確かめられた。多様なヒョウタンの果実は加工して利用されたが,球形に近い果実は杓に利用され,祭祀具として利用されたと考えられた。他のヒョウタンの果実も形に応じた加工が施され,容器として利用されたと考えられた。食用となる大型のユウガオ型の果実が中世以前では初めて遺体で確認された。他の三つの注目すべき植物遺体とその産出状況を記載した。第1は,搾りかす状態のアサの果実についてである。『延喜式』に記載された信濃国の貢納品である麻子を裏付ける事実である。第2は,ササゲに同定されるマメ科の炭化種子についてである。家屋の焼失時に炭化したと考えられるもので,当時の豆の保存の仕方を示す状況証拠である。第3は,加工されたモモの核についてで,刃物によって加工した笛であると考えられた。古代の更埴は,たくさんの畑作物としての栽培植物を育成しており,多産するヒョウタンやモモは多様で,生産母体が大きいことを示唆した。それらが水田稲作を主体とすると考えられてきた農業経営とどのようにかかわっていたのかの検討を促した。
五十川, 伸矢 Isogawa, Shinya
鋳鉄鋳物は,こわれると地金として再利用されるため,資料数は少ないが,古代・中世の鍋釜について消費遺跡出土品・生産遺跡出土鋳型・社寺所蔵伝世品の資料を集成した。これらは,羽釜・鍋A・鍋B・鍋C・鍋I・鉄鉢などに大別でき,9世紀~16世紀の間の各器種の形態変化を検討した。また,古代には羽釜と鍋Iが存在し,中世を通じて羽釜・鍋A・鍋Cが生産・消費されたが,鍋Bは14世紀に出現し,次第に鍋の主体を占めるにいたるという,器種構成上の変化がある。また,地域によって異なった器種が用いられた。まず,畿内を中心とする地方では,羽釜・鍋A・鍋Bが併用されたが,その他の西日本の各地では,鍋A・鍋Bが主要な器種であった。一方,東日本では中世を通じて鍋Cが主要な煮沸形態であり,西日本では青銅で作る仏具も,ここでは鉄仏や鉄鉢のように鋳鉄で製作されることもあった。また,近畿地方の湯立て神事に使われた伝世品の湯釜を,装飾・形態・銘文などによって型式分類すると,河内・大和・山城などの各国の鋳造工人の製品として峻別できた。その流通圏は中世の後半では,一国単位程度の範囲である。こうした鋳鉄鋳物を生産したのは,中世には「鋳物師」と呼ばれる工人であった。鋳造遺跡の調査成果から,銅鉄兼業の生産形態をとるものが多かったことが想定できる。また,生産工房は,古代には製鉄工房に寄生する形態をとるが,中世には鋳物砂の産地周辺に立地する場合が多い。中世後半には都市の周縁に立地するものも現われた。生産に必要な固定資本の大きさから考えて,商業的遍歴はありえても,移動的操業は少なかったものと推定できる。
平川, 南 Hirakawa, Minami
百済の都の東北部・扶餘双北里遺跡から出土した木簡は、「那尓波連公」と人名のみを記した物品付札である。本木簡の出土した一九九八年の調査地は、百済の外椋部とよばれる財政を司る役所の南に展開する官衙と考えられる一帯であり、白馬江の水上交通を利用した物資の集積地の一角であったとされている。「那尓波」は〝難波〟を指し、当時難波は対外交流の玄関口であり、外交にたずさわる人々は、ウジ名または名に難波を好んで用いた。一般的には、「連公」は文字通り「連+公」、「公」は尊称と解されている。しかし、奈良県石神遺跡木簡は「大家臣加□」などの人名とともに、「石上大連公」と連記され、『先代旧事本紀』・『新撰姓氏録』では連にのみ公が付されていることから、「連公」のみが連に対する尊称という解釈を下すことはできない。おそらくは「連公」はのちの天武八姓(六八四年)の「連」の前段階のカバネ表記であったと考えるべきであろう。木簡の年代も、七世紀半ば頃とされる石神遺跡木簡や法隆寺命過幡「山ア名嶋弖古連公(~~)過命時幡」と同様の時期と考えられ、一九九八年の双北里遺跡の発掘調査の所見(七世紀半ば頃)と合致するものであろう。また八~九世紀に作成された史書・説話集・文書および時期は異なるが系譜書などの場合は、例外なく「連公」表記は氏姓・系譜の〝祖〟に限定されている。これらは、各氏族に伝わる旧記のようなものをもとに作成されたと考えられる。本木簡は、七世紀半ば頃の倭国と百済との密接な関係からいえば、百済の都泗沘に滞在した倭系官人が作成した木簡という可能性もありえよう。しかし、本木簡は大きくは次のような三つの特徴を有している。①古代日本に数多く類例のある名のみ記した小型の付札である。②「那尓波」の表記は『日本書紀』に収載された古代歌謡にほぼ同じ「那你婆」とある。③「連公」は、古代日本における七世紀半ば以前のカバネの特徴的表記である。以上から、倭国で作製され、調度物などに付せられた荷札が物品とともに百済の都にもたらされ、札がはずされた可能性の方がより高いであろう。いずれにしても、倭人(日本人)名を記載した木簡がはじめて古代朝鮮の地で発見されたことの意義はきわめて大きい。
大塚, 昌彦 Otsuka, Masahiko
榛名山の東麓周辺は,紀元後における災害の歴史が,文献と遺跡発掘調査から何回もあったことが裏付けられている地域である。ここでいう災害とは,火山災害と地震災害の2種類である。火山災害は,古墳時代以後に榛名山の噴火が2度あり,浅間山の噴火が3度,合計5回の火山災害が認められる。代表的なものとして,古墳時代中期に榛名山の最初の噴火で,マグマ水蒸気爆発後火砕流爆発があり,中筋遺跡のムラが火砕流の熱で建物群が焼失状況で発見された。同後期に榛名山の2度目の噴火で厚さ2mにも及ぶ軽石が,黒井峯遺跡のムラを埋没させた。天明の大飢饉の引き金になった浅間山の天明3年(1783)の噴火では,直接的な降灰ではなく間接的な土石流災害として吾妻川・利根川流域に莫大な被害を及ぼし,中村という村の一部が埋没していたり,甲波宿禰神社という神社が埋没している。地震災害については『類聚国史』に記載されている弘仁9年(818)の大地震と認定できる巨大地震跡が半田中原・南原遺跡でみつかっている。このように,一つの地域が幾度も違う形で大きな自然災害に見舞われており,その地域の荒廃した状況から再開発・復興に至る状況が発掘調査で確認でき,土地利用の変遷が理解できる。さらに火山灰の堆積で災害以前の生活面(地面)が残されており,その詳細な発掘データは今までの考古学の常識をも覆す大発見が多くある。なかでも中筋遺跡・黒井峯遺跡の発見は,集落遺跡の根幹に係わる集落形態の指標,住居の夏・冬住み替えの生活スタイルの提示ができた。火山災害地の遺跡発掘調査は,多くの情報量が内蔵されているため考古学研究の古代社会復元には最高の遺跡調査研究エリアと言える。
阿部, 義平 Abe, Gihei
日本列島に展開した各時代史において,村落や都市などを守る拠点,あるいは全体を囲む防備施設が存在した。弥生時代の環濠集落を嚆矢(こうし)として,各時代に各々特色ある防禦施設あるいは軍事施設の様相が展開したことが知られてきた。中世や近世の城郭がその代表例であるが,各時代を通じた施設の実態や変遷,多様性などはまだ十分に把握されておらず,解明を要する。西暦7~9世紀頃の古代国家の時代には,西日本に山城,列島中央部に都城や関,東日本に城柵の造営があり,それらと関わる歴史の展開が知られている。文献で知られている遺跡の大半は考古学的調査が及んで居り,文献にみえない遺跡まで知られるに至った。多大な労力と費用をかけて維持された古代の大規模なこれらの施設の歴史は,対外交流を本格化したこの時代の特質と深く関わっている。これまでの定説的理解では,文献史料の限界や考古学的蓄積の不足もあって,その実態が知られないままに,極めて過少に評価されてきた面がある。小論では,日本列島の古代において,必要に応じた十分な施設が,国家統合や防衛,都市や村落の防備において,日本列島各地に展開した事例を指摘することができる。その代表例として,大宰府や平城京,東国の城柵の一例をとりあげてみた。しかし防備施設の普遍的な存在や時期的展開には,まだ十分に明らかになっていない点も多い。村落でも,7~8世紀,10~11世紀などに,一定の地域で必要に応じた防備された村落が展開したことも判明してきている。小論は,古代における防備施設自体の実態,及び城郭と都市との関係について見直し,新しい見解を提案するものである。
伊藤, 武士
出羽国北部においては,8世紀に律令国家により出羽柵(秋田城)や雄勝城などの古代城柵が設置され,9世紀以降も城柵を拠点として広域の地域支配が行われた。古代城柵遺跡である秋田城跡や払田柵跡においては,城柵が行政と軍事,朝貢饗給機能に加え,交易,物資集積管理,生産,居住,宗教,祭祀などの機能を,複合的かつ集約的に有した地域支配拠点であった実態が把握されている。特に,継続的に操業する城柵内生産施設を有して周辺地域開発の拠点として機能した点については,出羽国北部城柵の地域的な特徴として指摘される。10世紀後半には,出羽国北部城柵はその地域支配拠点としての実態と機能を失っていく。律令支配が終焉を迎えるなか,地方豪族である清原氏による新たな支配体制が成立し,新たな地域支配拠点として「柵」が出現する。そして大鳥井山遺跡をはじめとする柵の実態的機能には,出羽国北部城柵との共通性が認められる。律令国家体制から王朝国家体制に変わり,11世紀以降には荘園公領制下で土地開発が進むなか,出羽国北部は城柵設置地域であり,かつ荘園未設置地域という特徴的な地域性を有することとなった。在庁官人の出自とされる清原氏は,その地域特性などを背景に,柵を地域支配拠点として,古代城柵の持つ複合的かつ集約的な地域支配のシステムや,開発拠点としての特徴的機能を継承し,直接支配地域である横手盆地などにおいて,独自性を持つ大開発領主となったと考えられる。出羽国北部における大開発領主として成長し,11世紀代において,その軍事力と経済力を誇示した清原氏の地域支配の背景には,出羽国北部の地域特性や,古代城柵から柵へと受け継がれた特徴的な地域支配のシステムがあったと考えられる。
中塚, 武
気候変動は人間社会の歴史的変遷を規定する原因の一つであるとされてきたが,古代日本の気候変動を文献史学の時間解像度に合わせて詳細に解析できる古気候データは,これまで存在しなかった。近年,樹木年輪に含まれるセルロースの酸素同位体比が夏の降水量や気温の鋭敏な指標になることが分かり,現生木や自然の埋没木に加えて,遺跡出土材や建築古材の年輪セルロース酸素同位体比を測定することにより,先史・古代を含む過去数百~数千年間の夏季気候の変動を年単位で復元する研究が進められている。その中では,セルロースの酸素同位体比と水素同位体比を組み合わせることで,従来の年輪による古気候復元では難しかった数百~数千年スケールの気候の長期変動の復元もできるようになってきた。得られたデータは,近現代の気象観測データや国内外の既存の低時間解像度の古気候記録と良く合致するだけでなく,日本史の各時代から得られたさまざまな日記の天候記録や古文書の気象災害記録とも整合しており,日本史と気候変動の対応関係を年単位から千年単位までのあらゆる周期で議論することが可能になってきている。まず数百年以上の周期性に着目すると,日本の夏の気候には,紀元前3,2世紀と紀元10世紀に乾燥・温暖,紀元5,6世紀と紀元17,18世紀に湿潤・寒冷の極を迎える約1200年の周期での大きな変動があり,大規模な湿潤(寒冷)化と乾燥(温暖)化が古墳時代の到来と古代の終焉期にそれぞれ対応していた。また人間社会に大きな困難をもたらすと考えられる数十年周期の顕著な気候変動が6世紀と9世紀に認められ,それぞれ律令制の形成期と衰退期に当たっていることなども分かった。年単位の気候データは,文献史料はもとより,酸素同位体比年輪年代法によって明らかとなる年単位の遺跡動態とも直接の対比が可能であり,今後,文献史学,考古学,古気候学が一体となった古代史研究の進展が期待される。
鋤柄, 俊夫 Sukigara, Toshio
大阪府南河内郡美原町とその周辺の地域は,特に平安時代後期から南北朝期にかけて活躍した「河内鋳物師」の本貫地として知られている。これまでその研究は主に金石文と文献史料を中心にすすめられてきたが,この地域の発掘調査が進む中で,鋳造遺跡および同時代の集落跡などが発見され,考古学の面からもその実態に近づきつつある。ところで従来調査されてきた奈良時代以降の鋳造遺跡は,寺院または官衙に伴う場合が多く,分析の対象は梵鐘鋳造土坑と炉または仏具関係鋳型とスラグなどが中心とされていた。一方河内丹南の鋳造遺跡についてみれば,鍋などの鋳型片および炉壁・スラグ片は一般集落を構成する遺構群の中から出土し,炉基部をはじめとする鋳造関連施設の痕跡もその一部で検出される。これらは鋳造施設をともなった中世集落遺跡の中の問題なのである。そしてこの地域の集落遺跡は,河内丹南の鋳物師の本貫地であったという記録と深く関わっている可能性が強いのである。小論はこの前提に立ち,丹南の中世村落を復原する中で特に職能民の集落に注目し,それが文献史研究の成果により示されている河内鋳物師の特殊な社会的存在とどのように関わってくるのかを考えたものである。考察は中世村落研究と鋳造遺跡研究の2点に分けられる。前者では,灌漑条件を前提とした歴史地理と景観復原の方法から村落の成立環境を,文献記録と遺跡の数量化分析から村落の配置と規模および古代から近世にかけての移動を復原した。後者では,全国の鋳造遺跡の整理から遺構の特徴,日置荘遺跡の検討から遺物の特徴を抽出し,鋳造作業における不定型土坑と倉庫空間の重要性および,鋳造集団がもつ特殊な流通について指摘した。これらの分析から,丹南の村落は成立環境の異なる条件により,少なくとも2つの異なった変化過程を示す可能性があり,それぞれに付属する鋳造集落においても同様な傾向のみられることがわかった。この仮説について,小論では日置荘遺跡をモデルとした鋳物師村落の景観復原を例に提示しておいたが,丹南鋳物師の2つの系統との関連の問題とあわせて,今後社会史的に復原検討されるべき課題とされよう。
桒畑, 光博
都城盆地の古代の集落様相と動態に関する3つの課題を提示して,横市川流域の遺跡群の集落遺跡の類型化とその性格を推定した上で,同盆地内のその他の遺跡との比較も行ってその背景を考察した。①都城盆地内において,8世紀前半に明確ではなかった集落が8世紀後半に忽然と現れる現象については,8世紀後半以降の律令政府による対隼人政策の解消に伴って南九州各地にも律令諸原則が適用されるようになる中で,いわゆる開墾集落が形成されはじめた可能性を指摘した。②遺跡数が増大する9世紀中頃から10世紀前半には,複数の集落類型が併存しており,中にはいわゆる官衙関連遺跡や地方有力者の居宅跡も存在する。郡衙が置かれた場所ではないが,広大な諸県郡の中の中心域を占め,開発可能な沖積地を随所に擁する都城盆地において,国司・大宰府官人・院宮王臣家などとのつながりが想定される富豪層による開発が進展するとともに,物資の流通ルートを担う動きが活発化して,集落形成が顕著となり,各集落が出現と消滅,変転を繰り返しながらも見かけ上は継続的に集落形成が行われていたと推察される。貿易陶磁器や国産施釉陶器などの希少陶磁器類の存在から看取される都城盆地の特質としては,南九州内陸部における交通の結節点をなす場所として重要な位置を占めていたことに加え,一大消費地でもあったことも指摘できる。③10世紀前半まで継続した集落が10世紀後半になると衰退・廃絶し,全体的に遺跡数が減少するという現象については,10世紀から11世紀にかけて進行した乾燥化と温暖化,変動幅の大きい夏季降水量など不安定な気候の可能性に加え,当該期における集落形成の流動性と定着性の薄弱さを考慮すべきである。当時,開発の余地が大きい都城盆地に進出していた各集団の多くは,自立的・安定的な経営を貫徹するには至らなかったと思われ,当時の農業技術水準の問題もあり,激化する洪水などの自然環境の変化に対しては十分な対応がとれなかった社会状況があったことも想定できる。
久保, 純子 Kubo, Sumiko
東京低地における歴史時代の地形や水域の変遷を,平野の微地形を手がかりとした面的アプローチにより復元するとともに,これらの環境変化と人類の活動とのかかわりを考察した。本研究では東京低地の微地形分布図を作成し,これをべースに,旧版地形図,歴史資料などから近世の人工改変(海岸部の干拓・埋立,河川の改変,湿地帯の開発など)がすすむ前の中世頃の地形を復元した。中世の東京低地は,東部に利根川デルタが広がる一方,中部には奥東京湾の名残が残り,おそらく広大な干潟をともなっていたのであろう。さらに,歴史・考古資料を利用して古代の海岸線の位置を推定した結果,古代の海岸線については,東部では「万葉集」に詠われた「真間の浦」ラグーンや市川砂州,西部は浅草砂州付近に推定されるが,中央部では微地形や遺跡の分布が貧弱なため,中世よりさらに内陸まで海が入っていたものと思われた。以上にもとづき,1)古墳~奈良時代,2)中世,3)江戸時代後期,4)明治時代以降各時期の水域・地形変化の復元をおこなった。
五十川, 伸矢 Isogawa, Shinya
古代平安京や中世京都とその周辺の葬地となった地域の墓の考古学的資料をもとにして,都市とその周辺における墓の歴史的展開について考えてみたい。平安京では,その京域内に墓を作らせなかったため,その周辺の山野に葬地が次第に形成されていった。古代には天皇や貴族などの人々の墓がみとめられるが,当初は墓参のないものであった。一般庶民は,その遺体を河原に遺棄されるものであったといわれており,墓が作られたとしても簡単なものであったらしい。12世紀にはいって,都市の外周部の葬地には,集団的な墓地が顕在化し,中世的墓制が確立していったとみられる。木棺に伸展葬される形態が主流であり,古代の墓の伝統が続いていた。13世紀にはいると,都市の内部にも墓が作られて,そのなかには,都市が解体して墓地が形成されるのではなく,都市空間を前提として墓地が営まれるものもあった。ここに京域内に墓を作ることを禁じた古代からの伝統はついえた。墓の形態には,土葬では屈葬の木棺があらわれ,火葬骨は各種の蔵骨器に納入された。15世紀には,さらに墓の遺跡が増加し,墓を作りえた人々が増したことがうかがえ,直葬の形態をもつ土壙墓が,ややめだつようである。その背後には葬式仏教化した寺院があり,庶民のあいだにも累代の墓をもち,墓参をおこなう風が成立しつつあったとみてよい。16世紀には政治的に都市再編がおこなわれ,都市の空間設定に変化が生じると,その墓地や火葬場も運命をともにし,移動をよぎなくされるものもあった。こうして,近世・近代へとつながる墓のありかたが定着していった。
寺内, 隆夫 Terauchi, Takao
長野盆地南部では,千曲川によって形成された自然堤防と後背湿地を利用して,稲作を主体とする耕地開発が盛んに行われてきた。しかし,各時代に創出された耕地は,千曲川の氾濫による洪水,あるいは寡雨な気候や千曲川の河床低下による旱魃などの被害を受け続けてきた。本稿では,更埴市に所在する更埴条里遺跡・屋代遺跡群の発掘成果にのっとって,縄文時代から近代に至る環境の変化と各時代の開発方法,さらに災害との関係を,時代順に概観する。氾濫と埋積の進む縄文時代においては,中期後葉に低地全域での炭化物量が増え,クリが急増する傾向が認められた。その要因としては,ヒトによる植生への干渉が進んだことが考えられる。縄文時代晩期の堆積によって自然堤防と後背湿地が固定化されると,水田開発の環境が整う。大規模な耕地開発には,①弥生時代中期における低地林の伐採と水路掘削の開始,②森将軍塚古墳築造に近接した時期(古墳時代前期)における水路・小区画水田の展開,③郡司層の主導による古代(7世紀後半~8世紀前半)の河道内低地の水田化と各種産業の育成,④古代(9世紀代)における条里耕地の整備,⑤荘園領主によると見られる中世前半の畠地拡大,⑥屋代氏によると見られる畠地の再整備と旧河道・「島」の開発,⑦近世以降に認められる畠地の再水田化,があげられる。しかし,9世紀後半の大洪水(いわゆる仁和の大洪水)を代表とする洪水被害,あるいは渇水などにより,新たに開発された土地において,長期間安定した水田耕地を確保できた例は存在しない。各時代ともに,有力者層が主導した大規模開発では,多大な投資や労働力の結集に見合っただけの成果を納められなかったのである。大規模な耕地開発が,いずれの時代においても災害や環境の変化に対処仕切れなかったことは,今後の開発のあり方にも再考をうながすものであろう。
小林, 謙一 福海, 貴子 坂本, 稔 工藤, 雄一郎 山本, 直人 Kobayashi, Kenichi Fukuumi, Takako Sakamoto, Minoru Kudo, Yuichiro Yamamoto, Naoto
北陸地方石川県の遺跡では,縄文晩期中屋サワ遺跡,縄文後期~晩期御経塚遺跡,弥生の八日市地方遺跡,弥生中期大長野A遺跡,弥生後期月影Ⅱ式期の大友西遺跡のSE14井戸出土土器付着物の炭素14年代を測定した。ここでは,小松市八日市地方遺跡の弥生前期・中期の土器付着物の年代測定研究を中心に較正年代を検討し,時期ごとの実年代を推定して,近畿地方及び東北地方との対比を行う。中屋サワ遺跡では,土器付着物・漆などを測定し,おおよそ土器編年に合致した測定値を得ている。弥生時代の八日市地方遺跡についても遺跡内での土器編年におおよそ合致している。大まかに近畿地方の弥生土器様式編年と対比させるならば,弥生Ⅰ期 八日市地方遺跡1・2期が相当する。前6~前4世紀前半。弥生Ⅱ期 八日市地方遺跡4・5期が相当する。前4世紀後半から前3世紀はじめ。弥生Ⅲ期 八日市地方遺跡6~8期が相当する。前3世紀から前2世紀はじめ。弥生Ⅳ期 八日市地方遺跡9・10期が相当する。前2世紀。となる。大長野A遺跡もおおよそ前3~前1世紀の較正年代が多く,弥生中期後半として矛盾はない。大友西遺跡のSE14井戸は,スギ材を光谷拓実氏が年輪年代測定を行い,伐採年が145年と判明している。共伴した土器付着物の測定では,後1~3世紀が多く,最も多いのは後2世紀末から3世紀前半となっている。
小畑, 弘己 真邉, 彩 百原, 新 那須, 浩郎 佐々木, 由香 Obata, Hiroki Manabe, Aya Momohara, Arata Nasu, Hiroo Sasaki, Yuka
近年,圧痕法の進展により,水洗選別によって得られた植物資料と,土器圧痕として検出された資料の組成には差異があることが指摘され始め,遺跡本来の植物利用や周辺の植物相を把握するためには,植物遺体のみでなく圧痕資料も加味する必要性があると意識され始めた。本稿は,下宅部遺跡出土の縄文土器の圧痕調査を行ない,本遺跡で利用された植物を土器圧痕から検討したものである。また,下宅部遺跡に近接し,同時期の遺跡と評価されている日向北遺跡についても土器圧痕調査を行ない,低湿地遺跡と低湿地から離れた台地上の遺跡という立地の異なる遺跡間での圧痕資料の組成を比較した。その結果,両遺跡においても植物遺体として検出された大型植物種実よりも小型の植物種実を圧痕として検出することができた。また,下宅部遺跡では植物遺体では確認されていない時期のダイズ属圧痕を確認し,縄文時代中期中葉~後期中葉の間は連続的にマメ科植物が利用されていたことを明らかにした。下宅部遺跡と日向北遺跡では一致した資料がなく,両遺跡の有意的な関係性は読み取れなかった。また,下宅部遺跡では注口土器の把手接合部からダイズ属子葉がみつかり,意図的な混入の可能性が示唆された。圧痕混入の意図についてはまだ十分な議論が必要であるが,このような圧痕資料の特殊な傾向が明らかになってきたのは,最近の土器圧痕調査の進展による成果といえよう。今回の検討でも,遺跡全体における利用植物の実態把握には複数の回収法によって得られた資料間の比較が重要であること,それらの資料から総合的に利用植物を判断する作業が必要であることを追認した。
李, 暎澈
本稿は,栄山江流域の古代集落の景観と構造の分析を目的としたものである。具体的には,栄山江流域(馬韓)が徐々に百済化していく段階において,集落景観がどのような変貌を遂げたのか,という点について,文献資料といくつかの集落遺跡を取り上げながら検討を行った。まず,馬韓段階の集落の景観と構造について整理した。馬韓系住居址の特徴としては,平面方形を呈する四柱式や,壁溝施設を備えた無柱式という住居構造がある。そして,集落の規模や内容から,大きく一般集落と拠点集落に区分でき,拠点集落は栄山江本流の主な寄港地(と推定しえる地点)や各支流の終着地に形成されている。そして,拠点集落の典型的な事例として,潭陽台木里・應龍里태암遺跡を取り上げて,その内容を紹介しつつ,馬韓のひとつの小国の中心地としての性格を浮き彫りにした。このような馬韓の集落景観が大きな変貌を遂げる時期が,5世紀中葉以後である。その事例として栄山江上流域の光州東林洞遺跡を取りあげ,集落の充実した規模や内容,交通の要衝という立地,各種の施設,集落中心部にみられる区画などを紹介しつつ,その性格を「百済地方都市」のひとつとして把握した。そして,その都市建設を主導した人物(集団)が,百済王権と直接的な関係を結んでおり,その背景に百済による栄山江流域社会(馬韓)の統合が企図されていたと考えた。最後に,栄山江上流域の拠点的な集落が6世紀初め頃には急速に衰退し,その一方で中流域の羅州潘南面や伏岩里一帯に高塚古墳や集落が盛行する状況を指摘した。そしてこのような変動が,漢城陥落と熊津遷都という歴史的事件と連動している可能性を浮き彫りにした。
後藤, 雅彦 Goto, Masahiko
多様な展開をもつ東南中国の先史文化について、これまで各地域文化が保有する土器群の変遷、とくに共通性と地域性に焦点をあててきた。本稿では福建北部~広西壮族自治区南部に至る東南中国の沿海側に多数の貝塚遺跡が分布していることから、貝塚遺跡を共通項にして、地域文化を形成する各遺跡に立ちかえり、遺跡の立地を踏まえた貝塚遺跡の概要と検出遺構について整理する。当該地域の貝塚遺跡は紀元前4000年紀以降に出現し、新石器時代後期(紀元前3000年紀以降)に展開し、紀元前2000年紀以降、黄河中流域\nで初期国家が成立する前後になると貝塚遺跡も変化する様子がうかがえる。その変化の一つとして、環境の変化に応じた居住形態の多様化を明らかにする。
四柳, 嘉章
本稿では中世的漆器生産へ転換する過程を,主に食漆器(椀皿類)製作技術を中心に,社会文化史的背景をふまえながらとりあげる。平安時代後期以降,塗師や木地師などの工人も自立の道を求めて,各地で新たな漆器生産を開始する。新潟県寺前遺跡(12世紀後半~13世紀)のように,製鉄溶解炉壁や食漆器の荒型,製品,漆刷毛,漆パレットなどが出土し,荘官級在地有力者の屋敷内における,鋳物師と木地・塗師の存在が裏付けられる遺跡もある。いっぽう次第に塗師や木地師などによる分業的生産に転換していく。そうしたなかで11~12世紀にかけて材料や工程を大幅に省略し,下地に柿渋と炭粉を混ぜ,漆塗りも1層程度の簡素な「渋下地漆器」が出現する。これに加えて,蒔絵意匠を簡略化した漆絵(うるしえ)が施されるようになり,需要は急速に拡大していった。やがて15世紀には食漆器の樹種も安価な渋下地に対応して,ブナやトチノキなど多様な樹種が選択されるようになっていく。渋下地漆器の普及は土器埦の激減まねき,漆椀をベースに陶磁器や瓦器埦などの相互補完による新しい食膳様式が形成された。漆桶や漆パレットや漆採取法からも変化の様子を取り上げた。禅宗の影響による汁物・雑炊調理法の普及は,摺鉢の量産と食漆器の普及に拍車をかけた。朱(赤色)漆器は古代では身分を表示したものであったが,中世では元や明の堆朱をはじめとする唐物漆器への強い憧れに変わる。16世紀代はそれが都市の商工業者のみならず農村にまで広く普及して行く。都市の台頭や農村の自立を示す大きな画期であり,近世への躍動を感じさせる「色彩感覚の大転換」が漆器の上塗色と絵巻物からも読み解くことができる。古代後期から中世への転換期,及び中世内の画期において,食漆器製作にも大きな変化が見られ,それは社会的変化に連動することを紹介した。
菅野, 智則
本論は,北上川流域において長方形大型住居跡により構成された前期環状集落に関して,その特徴を明らかにすることを目的とした。このような集落遺跡の最初期となる岩手県綾織新田遺跡の事例では,大木2b式~大木4式期の長方形大型住居跡が,北列と南列に各時期数軒ずつ存在し,それが時期とともに広がり放射状になる様相が見受けられた。三陸沿岸部と北上山地内のほかの同時期の集落遺跡では,長方形大型住居跡は等高線に沿って配置されており環状構成とはならない。北上川流域では,類似する集落遺跡が大木3~4式期の岩手県蟹沢館遺跡において認められる。この遺跡では,長方形大型住居跡が放射状ではなく完全な環状配置となっている。また,この住居跡は,北上山地地域と三陸沿岸部のものとは全く形態が異なっている。大木5a式期では岩手県大清水上遺跡において,多数の長方形大型住居跡による環状配置が認められる。その住居跡の形態には,床面に段を有する長方形大型住居跡が確認された。この形態は,日本海側の円筒土器分布圏の住居跡の特徴とされている。この大清水上遺跡が立地する地点は,奥羽山脈から日本海側へと抜ける胆沢川沿いに位置しており,日本海側の円筒土器分布圏の文化と接するのに適した場所であると考えられる。大木6式期には,北上川中流域に集落遺跡が多数認められるが,大清水上遺跡では住居跡が激減し,和賀川流域の峠山牧場Ⅰ遺跡では環状集落遺跡が形成される。このことは,日本海側との回廊的役割の主体が胆沢川から和賀川流域の方に移ったことによるものと解釈した。これらの環状集落遺跡の特徴は,必ずしも相似するわけではなく,遺跡ごとの個別的な特徴の方が目立つ。今後,環状集落遺跡の形成要因の解明については,その他の遺構や遺物等の検討を踏まえ,遺跡・地域ごとの脈絡の上でその形成過程を検討する必要がある。
柴田, 昌児 Shibata, Shoji
西部瀬戸内の松山平野で展開した弥生社会の復元に向けて,本稿では弥生集落の動態を検討したうえでその様相と特質を抽出する。そして密集型大規模拠点集落である文京遺跡や首長居館を擁する樽味四反地遺跡を中心とした久米遺跡群の形成過程を検討することで,松山平野における弥生社会の集団関係,そして古墳時代社会に移ろう首長層の動態について検討する。まず人間が社会生活を営む空間そのものを表している概念として「集落」をとらえたうえで,その一部である弥生時代遺跡を抽出した。そして河川・扇状地などの地形的完結性のなかで遺跡が分布する一定の範囲を「遺跡群」と呼称する。松山平野では8個の遺跡群を設定することができる。弥生集落は,まず前期前葉に海岸部に出現し,前期末から中期前葉にかけて遺跡数が増加,一部に環壕を伴う集落が現れる。そして中期後葉になると全ての遺跡群で集落の展開が認められ,道後城北遺跡群では文京遺跡が出現する。機能分節した居住空間構成を実現した文京遺跡は,出自の異なる集団が共存することで成立した密集型大規模拠点集落である。そして集落内に居住した首長層は,北部九州を主とした西方社会との交渉を実現させ,威信財や生産財を獲得し,集落内部で金属器やガラス製品生産などを行い,そして平形銅剣を中心とした共同体祭祀を共有することで東方の瀬戸内社会との交流・交渉を実現させたと考えられる。後期に入ると文京遺跡は突如,解体し,集団は再編成され,後期後半には独立した首長居館を擁する久米遺跡群が新たに階層分化を遂げた突出した地域共同体として台頭する。こうした解体・再編成された後期弥生社会の弥生集落は,久米遺跡群に代表されるいくつかの地域共同体である「紐帯領域」を生成し,松山平野における特定首長を頂点とした地域社会の基盤を形づくり,古墳時代前半期の首長墓形成に関わる地域集団の単位を形成したのである。
高塚, 秀治 永嶋, 正春 坂本, 稔 齋藤, 努 Takatsuka, Hideharu Nagashima, Masaharu Sakamoto, Minoru Saito, Tsutomu
日本出土の金属鉄資料と,韓国蔚山市の達川遺跡から出土あるいは採取した鉄鉱石および土壌を,自然科学的な方法を用いて分析した。その結果,以下のことがわかった。1)群馬県伊勢崎市赤堀村4号墳出土鉄製T字棒状品と夏目遺跡出土鉄滓中の金属鉄を分析したところ,高濃度のヒ素を含んでいることがわかった。これは日本出土の高ヒ素金属鉄の追加事例である。2)韓国達川遺跡から出土または採取した鉄鉱石と土壌について分析を行った。周辺土壌は鉄濃度が高く,またヒ素濃度が鉄鉱石よりも高かった。3)達川遺跡資料を分析した結果,以前から指摘されていた高濃度のヒ素は土壌に由来するものであり,鉄鉱石の採掘時にそれが混入したか,あるいは鉄鉱石の状態に応じて起こった土壌からのヒ素の染み込みによって,製錬されてできた鉄中のヒ素濃度が高くなった可能性が考えられる。4)ここで分析した日本出土資料2点と達川遺跡の鉄原料との間には関連性がみられない。したがって,達川遺跡のほかにも,ヒ素濃度の高い製鉄原料を産出する鉱山があったと考えるのが妥当である。
中三川, 昇 Nakamikawa, Noboru
中世都市鎌倉に隣接する三浦半島最大の沖積低地である平作川低地の中世遺跡を中心に,出土遺物や遺跡を取巻く環境変化,自然災害の痕跡などから,地域開発の様相の一端とその背景について考察した。平作川低地には縄文海進期に形成された古平作湾内の砂堆や沖積低地の発達に対応し,現平作川河口近くに形成された砂堆上に,概ね5世紀代から遺跡が形成され始める。6世紀代までは古墳などの墓域としての利用が主で,7世紀~8世紀中頃には貝塚を伴う小規模集落が出現するが比較的短期間で消滅し,遺構・遺物は希薄となる。12世紀後半に再び砂堆上に八幡神社遺跡や蓼原東遺跡などが出現し,概ね15世紀代まで継続する。両遺跡とも港湾的要素を持った三浦半島中部の東京湾岸における拠点的地域の一部分で,相互補完的な関連を持った遺跡群であったと考えられるが,八幡神社遺跡の出土遺物は日常的な生活要素が希薄であるのに対し,蓼原東遺跡では多様な土器・陶磁器類とともに釣針や土錘などの漁具が出土し,15世紀には貝塚が形成され,近隣地に水田や畑の存在が想定されるなど生産活動の痕跡が顕著で,同一砂堆における場の利用形態の相違が窺われた。蓼原東遺跡では獲得された魚介類の一部が遺跡外に搬出されたと推察され,鎌倉市内で出土する海産物遺存体供給地の様相の一端が窺われた。蓼原東遺跡周辺地域の林相は縄文海進期の照葉樹林主体の林相から,平安時代にはスギ・アカガシ亜属主体の林相が出現し,中世にはニヨウマツ類主体の林相に変化しており,海産物同様中世都市鎌倉を支える用材や薪炭材などとして周辺地域の樹木が伐採された可能性が推察された。蓼原東遺跡は15世紀に地震災害を受けた後,短期間のうちに廃絶し,八幡神社遺跡でも遺構・遺物は希薄となるが,その要因の一つに周辺地域の樹木伐採などに起因する環境変化の影響が想定された。
橋本, 真紀夫 Hashimoto, Makio
本稿は,遺跡の発掘調査により設定された遺跡層序に,縄文時代草創期に相当する層準を見出し,その層相や遺存状況などから,最終氷期の晩氷期における環境変動が遺跡の層序や地形に影響を与えている可能性のあることを述べる。古環境変遷や古環境復元といえば,これまでは大型化石も微化石も良好に保存された低湿地遺跡などで議論されることが多かった。しかし,最近の発掘調査では,詳細な自然科学分析やその測定精度の向上により,台地上の遺跡からも環境変動や変遷を窺わせる情報が検出されている。ここでは,武蔵野台地の遺跡調査において継続的に行ってきた立川ローム層の遺跡層序を対象として,重鉱物組成と火山ガラスの産状を分析することにより草創期の層準を特定し,地形環境を解析する。とくに台地から低地への斜面地や台地縁辺部での遺跡層序から推定された地形の変化や土壌の特性は,縄文時代草創期の環境変動の影響を受けやすい地形環境下であった可能性が考えられる。
河西, 学 Kasai, Manabu
本研究では,栃木県内の4遺跡から出土した縄文早期井草式・夏島式土器を対象として薄片による岩石学的胎土分析を行い,関東地方河川砂との比較により土器の原料産地推定を試み,当時の土器作りと土器の移動について,従来の草創期土器の分析事例と比較検討した。その結果,宇都宮市内の宇都宮清陵高校地内遺跡・山崎北遺跡の井草式では,変質火山岩類を主体とし安山岩・デイサイト~流紋岩を伴う岩石鉱物組成の土器が含まれ,これらの組成が栃木県中央部の河川砂の組成と類似性が認められることから,地元原料を用いた土器作りが推定された。真岡市市ノ塚遺跡の全試料と山崎北遺跡の一部の井草式では,花崗岩類主体の岩石鉱物組成を示す土器から構成され,花崗岩類分布地域に原料産地が推定され,土器あるいは原料として運び込まれた可能性が考えられた。花崗岩類の原料産地候補地は,筑波岩体周辺が有力であるが,山崎北遺跡の場合足尾山地などの小岩体についても可能性が残る。小山市間々田六本木遺跡の夏島式は,変質火山岩類が多く花崗岩類・珪質岩などを伴う組成を示し,原料産地が栃木県中央部地域に推定された。地元原料を用いた土器作りは,宇都宮清陵高校地内遺跡・山崎北遺跡・間々田六本木遺跡などで認められる一方,市ノ塚遺跡では認められない。井草式・夏島式の花崗岩類主体の胎土は,千葉県内でも確認されることから広域に移動していた可能性が推定されるが,各遺跡内の胎土組成の多様性が乏しく遠方に原料産地が推定される胎土がほとんどないことから,他の胎土の土器の移動頻度は低調で,移動距離も小さいと推定された。
千田, 嘉博 Senda, Yoshihiro
従来,遺構に即した踏み込んだ検討が行われてこなかった東北北部の山域について,墳館・唐川城・柴崎城・尻八館を事例に検討を行った。この結果,墳館は10世紀末~11世紀にかけての古代末の防御集落と中世の館が重複した遺跡であったことを示し,東北地域で数多くみられるこうした重複現象が,中世段階ですでに古代末に地域の城が構えられた場が,特別な意味をもち,そこに改めて城を築くことが,中世の築城主体にとって権力の権威や正当性を示す意義をもったとした。さらに唐川城・柴崎城・尻八館は,曲輪の整形が未熟な反面,堀が卓越して発達するという,同一系譜の特徴的な城であったことを明らかにし,その築造時期が14世紀末にはじまり,15世紀前半までに限定できるとした。この14世紀末という時期は,十三湊において都市を南北に2分した大土塁が築造されはじめた時期に当たり,また15世紀半ばという最後の改修の年代も安藤氏と南部氏の戦いの時期に一致したことを示した。そして諸状況から考え,これらの3つの山城は安藤氏の拠点城郭として機能したと評価した。堀を卓越させたこれらの城郭構成は,これまでみすごされてきた北の城郭の特徴を示したもので,中世後期の城郭形成に,北からの堀が不可欠であったことを述べるとともに,南方のグスクと共通した郭非主体の防御のあり方は,その先のさらなる北や南との交流の中で生み出されたものだとした。
福田, 豊彦 Fukuda, Toyohiko
中世の東国には、鉄の加工に関する断片的な史料はあっても、鉄の生産(製錬)を示す証拠はなく、そこには学問的な混乱も認められる。しかし古代に関しては、律令・格式や風土記・和名類聚抄などを始め、鉄の生産と利用に関する文字史料は少なくないし、考古学的な遺跡と出土遺物にも恵まれている。そして何よりも、鉄生産では既に永い歴史をもつ大陸の状況を参考にすることができる。一方、近世になると、中国山地と奥羽山地の鉄山師の記録を始め、直接的な鉄生産の記録も少なくないし、流通・加工の関係史料にも恵まれ、本草家などの辞典的な記述も残されている。中世でも西日本に関しては、断片的ではあるが荘園関係史料によって生産と流通の大要を把握できるし、近年は考古学的に確実な生産遺跡も発掘され、文書史料との関係も推察されるようになってきた。しかし東国に関しては、鉄の生産方法を示す史料もない。また考古学的な発掘遺跡にも確実なものはなく、鉄生産(鉄製錬)の遺跡か鋼精錬の遺跡かについて、その性格評価が分かれているものもある。そこで本稿では、資料的に豊かな近世史料によって、市場に流通していた鉄の名称と種別を調べ、その鉄の生産方法を検討し、それを過去に遡って中世の鉄の生産と加工技術を推定しようとした。その結果、次の諸点をおおよそ明らかにできた。① 市場に流通した鉄の種類に関しては、近世の前期と後期で多少の変化が認められるが、炭素量の多い鋳物用の「銑(せん)」と、炭素量のごく少ない「熟鉄(じゆくてつ)」が基本であった。刃物生産に使われる「釼(はがね)」が、商品として市場に流通するのは江戸時代も後期以降のようで、中世の釼製造技術は、当時の刃物鍛冶の職掌に属していたものと推察される。② 近世後期、宝暦年間と伝えられる大銅(おおどう)の発明以後には、直接製鋼を主とするいわゆる「鉧(けら)押技法」が登場するが、それ以前は銑鉄生産を主とする技法が主流で、わが国でも二段階製鋼法が一般的に行われていた。③ しかし『和漢三才図会』や『箋注倭妙類聚抄』の記述によると、この銑鉄生産の技法では、銑鉄の他に熟鉄が生産され、これが「鉧(けら)」と呼ばれていた。以上のような近世初期の鉄の生産と流通・加工の方式は、中世にもほぼ適用できるであろう。
小林, 謙一 春成, 秀爾 坂本, 稔 秋山, 浩三 Kobayashi, Kenichi Harunari, Hideji Sakamoto, Minoru Akiyama, Kozo
近畿地方における弥生文化開始期の年代を考える上で,河内地域の弥生前期・中期遺跡群の年代を明らかにする必要性は高い。国立歴史民俗博物館を中心とした年代測定グループでは,大阪府文化財センターおよび東大阪市立埋蔵文化財センターの協力を得て,河内湖(潟)東・南部の遺跡群に関する炭素14年代測定研究を重ねてきた。東大阪市鬼塚遺跡の縄文晩期初めと推定される浅鉢例は前13世紀~11世紀,宮ノ下遺跡の船橋式の可能性がある深鉢例は前800年頃,水走遺跡の2例と宮ノ下遺跡例の長原式土器は前800~550年頃までに較正年代があたる。奈良県唐古・鍵遺跡の長原式または直後例は,いわゆる「2400年問題」の中にあるので絞りにくいが,前550年より新しい。弥生前期については,大阪府八尾市木の本遺跡のⅠ期古~中段階の土器2例,東大阪市瓜生堂遺跡(北東部地域)のⅠ期中段階の土器はすべて「2400年問題」の後半,即ち前550~400年の間に含まれる可能性がある。唐古・鍵遺跡の大和Ⅰ期の土器も同様の年代幅に含まれる。東大阪市水走遺跡および若江北遺跡のⅠ期古~中段階とされる甕の例のみが,「2400年問題」の前半,すなわち前550年よりも古い可能性を示している。河内地域の縄文晩期~弥生前・中期の実年代を暫定的に整理すると,以下の通りとなる。 縄文晩期(滋賀里Ⅱ式~口酒井式・長原式の一部)前13世紀~前8または前7世紀 弥生前期(河内Ⅰ期)前8~前7世紀(前600年代後半か)~前4世紀(前380~前350年頃) 弥生中期(河内Ⅱ~Ⅳ期)前4世紀(前380~前350年頃)~紀元前後頃すなわち,瀬戸内中部から河内地域における弥生前期の始まりは,前750年よりは新しく前550年よりは古い年代の中に求められ,河内地域は前650~前600年頃に若江北遺跡の最古段階の居住関係遺構や水走遺跡の遠賀川系土器が出現すると考えられ,讃良郡条里遺跡の遠賀川系土器はそれよりもやや古いとすれば前7世紀中頃までの可能性が考えられよう。縄文晩期土器とされる長原式・水走式土器は前8世紀から前5世紀にかけて存続していた可能性があり,河内地域では少なくとも弥生前期中頃までは長原式・水走式土器が弥生前期土器に共伴していた可能性が高い。
平川, 南 Hirakawa, Minami
中世の幕府は、なぜ鎌倉の地に設置されたのか。おそらくは、鎌倉の地を経由する海上ルートは、中世以前に長い時間をかけて確立されてきたものと想定されるであろう。小稿の目的は、この歴史的ルートを検証することにある。最近発見された、三浦半島の付け根に位置する長柄・桜山古墳は、三浦半島から房総半島に至る四〜五世紀の前期古墳の分布ルートを鮮やかに証明したといえる。また、八〜九世紀には、道教的色彩の強い墨書人面土器が、伊豆半島の付け根の箱根田遺跡そして相模湾を経て房総半島の〝香取の海〟一帯の遺跡群で最も広範に分布し、さらに北上して陸奥国磐城地方から陸奥国府・多賀城の地に至っている。また古代末期の史料によれば、国司交替に際しても、相模―上総に至る海上ルートが公的に認められていたことがわかる。このルートは『日本書紀』『古事記』にみえるヤマトタケルの〝東征〟伝承コースと符合する。これは古東海道ルートといわれるものである。上記の事例の検討によって、ヤマトから東国への政治・軍事・経済そして文化などの伝来は、古墳時代以来伊豆半島・三浦半島・房総半島の付け根と海上を通る最短距離ルートを活用していたことが明らかになったといえる。この西から東への交流・物流の海上ルートの中継拠点が鎌倉の地である。中世の鎌倉幕府は、そうした海上ルートの中継拠点に設置され、西へ東へ存分に活動したと考えられる。
後藤, 雅彦 Goto, Masahiko
南中国における稲作文化の展開を考えると、野生稲の生息域でありながらも、長江水系からの影響によって、とくに紀元前2000年紀以降、沿海地域においても本格的な稲作が導入され定着する様子を捉えることができる。ただし、珠江河口の海浜に位置する宝鏡湾遺跡のように多量な漁網錘を保持するなど漁撈活動が活発になる遺跡もあり、南中国における稲作文化の定着は複雑な様相を呈する。そこで、本稿では、珠江河口に多く分布する砂丘遺跡の様相を明らかにするために、紀元前4000年以降の珠江三角州における環境の変化と遺跡の動態を整理し、居住形態として砂丘遺跡の住居址の特徴を把握した。そして、地形環境と遺跡立地の関係として、紀元前2000年以降、珠江河口において積極的に海浜が選択された状況を検討した。その結果、活発な漁撈活動が示されると同時に玉石器の製作という生産活動の状況を確認し、こうした海と陸が接する海浜に居住する先史集団にとって海上交通による活発な移動も地形選択の要因の一つと考えた。
村木, 二郎
八重山・宮古といった先島諸島には,沖縄本島では見られない石積みで囲われた集落遺跡がある。発掘調査によってそこから出土する中国産陶磁器は膨大で,それらの遺跡は13世紀後半から14世紀前半に出現し,15世紀代を最盛期とする。しかし16世紀代の遺物は激減し,この時期に集落が廃絶したことがわかる。竹富島の花城村跡遺跡に代表される細胞状集落遺跡は,不整形な石囲いが数十区画にわたって連結したもので,その外郭線は崖際にさらに石を積み上げた防御性をもったものである。このような遺跡が先島の密林に埋もれており,その多くは聖地として現在も祀られている。宮古地域では15世紀の早い段階で廃絶する集落遺跡が多数みられる。近年発掘調査され,陶磁器調査を実施したミヌズマ遺跡はその好例である。八重山地域はやや遅く,15世紀後半から16世紀前半のある段階に廃絶する集落が多い。細胞状集落遺跡はいずれもこの時期に終焉を迎えており,八重山に劇的な出来事が起こったことが想定される。ちょうど第二尚氏の尚真王の時期に当たり,太平山征伐(オヤケアカハチの乱)の影響と考えられる。すなわち,琉球王府によって,独立文化圏をなしていた先島が侵犯され,この地域が琉球の一地方として併呑されたことを示すのである。 先島地域の中世を語る文献資料はほとんどなく,近世になって琉球王府が編纂した史書によってこの地域の歴史は語られてきた。しかし,集落遺跡やその遺物は実は豊富に残されており,これらを分析することで先島の独自性とそれを呑み込む琉球の帝国的側面を論じる。
西谷, 大 Nishitani, Masaru
本稿では,南西諸島中文化圏のトカラ列島と奄美大島の縄文晩期併行期をとりあげ,土器の編年をおこないつつ,器種構成を分析し,その変化の背景について考察する。新たな土器分類を設定し,遺構または明確な文化層出土の土器群を使って編年することにより,この地域の縄文晩期併行期をⅠ期からⅢ期に編年した。さらにⅠ・Ⅱ期を前半と後半に分け,Ⅰ期前半を手広遺跡第13層土器群に,Ⅰ期後半をサモト遺跡Ⅲ層遺構土器群に,Ⅱ期前半をハンタ遺跡・タチバナ遺跡出土の土器群に,Ⅱ期後半を手広遺跡第11層・サモト遺跡Ⅱ層遺構土器群に,そしてⅢ期を手広遺跡第9層土器群に比定した。各時期の器種構成の特徴は,以下の様相を示す。Ⅰ期前半は平底深鉢形土器主体の器種構成であり,Ⅰ期後半はⅠ期前半の器種構成の特徴を踏襲しながらも,尖底気味の丸底の器形と深鉢形土器に無文のものが出現する点で異なる。Ⅱ期前半は,深鉢形土器より小型丸底壺形土器主体の器種構成に変化し,いずれの器種も丸底化する。Ⅱ期後半の手広遺跡第11層では,小型丸底壺主体の器種構成を示すが,サモト遺跡Ⅱ層ではふたたび深鉢主体の器種構成を示すようになり,この傾向はⅢ期の手広遺跡第9層の土器群においても共通する。このようにⅠ期からⅡ期,そしてⅡ期からⅢ期に,器種構成が大きく変化したことが指摘できる。Ⅱ期に,小型丸底壺形土器主体の器種構成が出現する背景には,遺跡立地の変化・定庄化・食物加工用石器の増加が認められ,おそらくこの時期に生産基盤の上で前代と異なる大きな画期があり,それが土器文化に反映したと考えられる。壺形土器主体の器種組成を背景とする具体的な生活様式の内容と,なぜ短期間に再び深鉢主体の器種構成に変容するかという問題を解決することが,背景に存在するであろうこの時期の社会変動の要因を説明することにつながると考える。
大橋, 信弥 Ohashi, Nobuya
西河原木簡をはじめとする近江出土の古代木簡は、量的には多くないが、七世紀後半から八世紀初頭の律令国家成立期の中央と地方の動向を、具体的に検討するうえで、重要な位置を占めている。そして、近江には多くの渡来系氏族と渡来人が、居住しており、近江における文字文化の受容にあたって、渡来人の役割は無視できない。近江の渡来系氏族のうち、倭漢氏の配下である漢人村主の志賀漢人一族は、五世紀末から六世紀の初頭ごろに、河内や大和から大挙この地に移住し、琵琶湖の水運を活用した物流の管理などで、活発な活動を進めた。志賀漢人たちは、当時の蘇我氏が領導する政府の指示により、近江各地に所在した施設に派遣され、湖上交通を活用した物流ネットワークを構築し、主として文書・書類(木簡)の作成にあたっていたとみられる。彼らが、中央で活動する渡来系氏族・渡来人集団とともに、故国である韓半島における文字文化を、素早く受容し共有していたことは、近江の各地で作成され木簡などの文字資料から確認できる。近江出土の古代木簡でもっとも古い、大津市北大津遺跡出土の「音義木簡」が和訓の試行的な段階を示しているのは、この地に居住する渡来人集団、志賀漢人が、五世紀末以来、この地域に移住し活動する中で、中央で達成された行政的な文書の作成技術を導入し、様々な工夫を行ったことを示している。また野洲市西河原遺跡群出土木簡は、この地に所在した施設の運営のため派遣された、志賀漢人の一族の関与を具体的に示している。彼らは、陸上交通(初期の駅路)と琵琶湖の水上交通を利用した、物流・交易の運営を行っており、さらに織物工房・鍛冶工房・木器工房などが付属していた。ここでは、徴税の関わる業務や出挙=貸稲に関わる管理業務が行われており、倉庫群から出土した木簡から、その出納にかかる具体的な運営過程を復元できる。その施設は、初期の野洲郡家(安評家)で、駅の機能も併せ持っていたことが推定される。そして、宮ノ内六号木簡に見える「文作人」石木主寸文通は、「倉札」の作成者であり、この地に居住する志賀漢人一族が、文書の作成に携わっていたことを明確に示している。
田中, 史生
かつて通説的位置を占めた平安期の「荘園内密貿易盛行説」が否定されて以降、文献史学では、平安・鎌倉期における南九州以南の国際交易は、国際交易港たる博多を結節点に国内商人などを介して行われたとする見方が有力となった。考古学も概ねこれを支持するが、その一方で、古代末・中世前期に宋海商が南九州に到達していた可能性をうかがわせる資料もいくつか提示され、これらを薩摩硫黄島産硫黄の交易と関連するものとする見解も示されている。本稿の目的は、こうした考古学などの指摘を踏まえ、あらためて文献史学の立場から、古代末・中世前期において宋海商が九州西海岸伝いに南九州、南島へと向かった可能性について考察するものである。そのために本稿では、南九州における硫黄交易のあり方を記した軍記物語として近年注目されている『平家物語』の諸本の、「鬼界が島」(薩摩硫黄島)と外部との交通に関する記述について検討した。さらに、『平家物語』の成立期と時代的に重なり、中国との関連性も指摘されている九州西部の薩摩塔と、その周辺の遺跡についても検討を加えた。その結果、次の諸点が明らかとなった。(一)古代末・中世前期において、博多に来航した宋海商船のなかに、南九州に寄港し、そこから南島を目指すために九州西岸海域を往還する船があった可能性が高い。(二)彼ら宋海商の中心は日本に拠点を築いた人々であったと考えられる。(三)宋海商の交易活動を支援する日本の権門のなかに、博多や薩摩に寄港し南島へ向う彼らの船を物資や人の運搬船として利用するものもあったとみられる。以上の背景には、薩摩と南島を結ぶ航路が、一般国内航路とは比較にならぬ困難さを伴っており、外洋航海に長けた渡来海商の船が求められていたこと、また宋海商にとっても硫黄を含む南島交易は対日交易の大きな関心事となっていたことがあったと考えられる。
藤尾, 慎一郎 Fujio, Shin'ichiro
本稿は,「弥生時代の実年代」(雄山閣)[藤尾2009b]の発表後に行った,いわゆる2400年問題の時期に相当する弥生前期中頃~後半(板付Ⅱa式~板付Ⅱb式)期の炭素14年代測定の結果と,過去に行った当該期の測定値をあわせて,西日本各地における灌漑式水田稲作(以下,弥生稲作)の開始年代と派生する問題について考察したものである。対象とした遺跡は,新たに測定した福岡県大保横枕遺跡,徳島県庄・蔵本遺跡,鳥取県本高弓ノ木遺跡と,過去に行った福岡県福重稲木遺跡,同雀居遺跡,熊本県山王遺跡,大分県玉沢条里跡遺跡,愛媛県阿方遺跡,広島県黄幡1号遺跡である。測定・解析の結果,板付Ⅰ式新段階の年代が前8世紀末葉の20年間ほどであることを初めて確認するとともに,板付Ⅱa式は前700~前550年頃,板付Ⅱb式は前550年~前380年頃,という2009年段階の結論を追認した。さらに鳥取平野の弥生稲作が,近畿よりも早い前7世紀前葉には始まっていた可能性のあること,徳島平野では奈良盆地や伊勢湾沿岸地域と同じ前6世紀中頃になって弥生稲作が始まっていたことを再確認した。九州北部を出発点とする,山陰ルート,瀬戸内ルート,高知ルートという3つの弥生稲作の東進ルートのうち,山陰ルートも他の2ルートとほぼ同時に拡散したことを意味する。伊勢湾沿岸地域で弥生稲作が始まるまでの約400年のうちの約250年間,九州北部玄界灘沿岸地域にとどまっていた弥生稲作は,玄界灘沿岸地域を出ると,一気に鳥取平野~岡山平野~香川平野~高知平野を結ぶ線まで広がり,その後も5~60年で神戸,さらに70年で徳島,奈良盆地,伊勢湾沿岸まで急速に広がっていった。このことは,玄界灘沿岸地域と西日本では,縄文人の弥生稲作の受け入れ方になんらかの違いがあった可能性を示唆している。
主税, 英德 後藤, 雅彦
本報告は、地域に貢献する人材の育成を目的とした考古学関係授業の取り組みを紹介するものである。また、コロナ禍において、仲間とともに遺跡を実地調査(巡検の意味を含む、以下、「実地調査」と表現する)を行うことで、考古学専攻生が何を学び考えたかについても報告する。本取り組みでは、読谷村・恩納村をフィールドとして、学生主体で、遺跡の概要や見学スケジュールなどを調べ、実際に現地に赴き、かつ、遺跡保護に携わる文化財専門員の方と情報交換などを実施した。その結果、参加した学生たちは、遺跡と地域の関係や博物館をはじめとする文化財の普及啓発のあり方、現地でしかわからない遺跡の情報など、実地調査を行うことで得る学びを習得することができた。新型コロナウィルスの影響により対面でのコミュニケーションが難しい現在、考古学教育において、遺物・遺構の実測や発掘調査などの技術的方法だけではなく、「遺跡を現地で知る」機会を与えることも、今後の文化財保護を担う人材を育成するにあたっては必要であることを再認識することができた。
矢作, 健二 Yahagi, Kenji
縄文時代草創期・早期の遺跡である愛媛県上黒岩遺跡は,これまで岩陰遺跡として発掘調査がなされ,最近では,その成果の再調査と再評価により,縄文時代草創期には狩猟活動に伴うキャンプサイト,早期には一定の集団が通年的な居住をしていたと考えられている。しかし,岩陰からの明確な遺構の検出記録はない。上黒岩遺跡の岩陰を構成している石灰岩体の分布や山地を構成している泥質片岩の分布に,縄文時代草創期から早期に至る時期の気候変動を合わせて考えると,遺構を遺すような生活空間は,山地斜面と久万川との間に形成された狭小な段丘上の地形にあったと推定される。
宇佐美, 哲也 Usami, Tetsuya
武蔵野台地東辺における縄文時代中期の主要集落遺跡について,土器の細別時期ごとに住居分布を検討した。その結果,いずれの集落遺跡においても,一時的に住居軒数が増加し,住居が環状に分布するような景観を呈する時期が認められるものの,基本的には1~数軒の住居が点在するような一時的景観を基本として,住居数の増減を繰り返したり,途中断絶を挟みつつ,変遷していることが確認できた。大規模集落跡,環状集落跡とされる集落遺跡も,住居が環状に分布するような景観が途切れなく継続する姿は復元できない。また,住居数が増加する時期は,各集落遺跡により違いがあることから,その要因は,各集落遺跡,各地域ごとに異なる可能性が高いと想定した。あわせて,周溝,主柱穴,炉など住居施設の変遷を検討した結果,ひとつの集落遺跡が,最初から最後までひとつの集団により計画的,継続的に営まれたと考える材料は得られず,むしろ各時期とも多様な住居形態が混在する様相が明らかであることから,ひとつの集落遺跡も,時期ごとに拡大・縮小を繰り返していたであろう異なる集団の領域が,相互に複雑に重複することで形成された可能性が考えられる。したがって,大規模集落跡と小規模集落跡の差は,集落の質的な差ではなく,その場所が居住地として利用される頻度の差を示しているものであり,時期ごと,遺跡ごとに異なる利用頻度の差が何に起因するのかを解明することこそが,各時期における居住地の選択や,環境,生業等を解明する手掛かりになるものと考える。その意味では,定住か移動かといったこれまでの集落論にみられるような二項対立的な議論のみに立脚して集落遺跡を検討するのではなく,一定地域における定着のあり方とその実態を,個別の集落遺跡の検討を通じて明らかにしていく視点が求められる。そのためには,各集落遺跡における一時的景観の復元と平行して,出土土器の様相,住居形態など様々な考古学的要素をあわせて検討することにより,各時期・各地域における定着の範囲とその内容を解明していく努力が求められる。
宇野, 隆夫
日本列島には、海辺・里(平野)・山の多様な環境があり、かつそれらは川によって結ばれることが多い。そして列島各時代の特質は、その住まいの選び方に現れることが多かった。本稿は、このことの一端を明らかにするために、富山県域の縄紋時代遺跡をとりあげ、GISによる密度分布分析・立地地形分析・眺望範囲分析・移動コスト分析をおこなった。 その結果、縄紋時代の盛期(前期~晩期)に遺跡数が増加して遺跡立地が多様化するとともに、海辺・里・山それぞれにおいて、それぞれの資源の開発に適した場所に集落ができたこと、かつそれらが1時間歩行範囲の連鎖からなるネットワークを形成したことを明らかにした。弥生時代には、これらの縄紋遺跡の多くが途絶える一方、山・里・海を一望できる遺跡が多く出現することは、社会の質の大きな転換を示しているであろう。
石井, 久雄 ISII, Hisao
現代語のある表現・意味を,古代語ではどのように表現していたか。その問題にかかわる研究領域は,表現史として設定されうるであろう。そうして,その研究の成果の集約として,現代語=古代語辞典の編集を想定しながら,どのような作業がかんがえられるかを,のべる。(1)語彙研究の成果を検討する,(2)古代語作品の現代語訳を検索する,(3)古辞書を利用する,(4)古語辞典の記述を参照する,というような作業である。
Seki, Yuji 米田, 穣
近年,人骨のコラーゲンにおける炭素と窒素の同位体を測定することで,古代人の食性に迫ろうという研究が注目されている。陸上生態系には,炭素安定同位体13C を比較的多く含む植物(C4 植物)と,あまり含まない植物(C3 植物)とが存在するため,地球上の炭素の大半を占める12C との相体比を測定することにより,植物性食糧の大まかな摂取傾向をつかむことが可能となる。また窒素においても,14N と15N の同位体比を測定することで,重い同位体比が多い海産物をどれだけ摂取していたかを知ることができる。 本論では,上記の方法を用い,ペルー北高地の形成期(前1500~前50 年)遺跡から出土した人骨試料を解析することで,とくにタンパク質源から見た食性の通時的変化をまとめることにした。なお対象地域における在来のC4 植物は,トウモロコシが唯一といってよい。分析の結果,ペルー北高地では,形成期の後期以降に,C4 植物であるトウモロコシの利用が開始されることが明らかになった。
後藤, 雅彦 Goto, Masahiko
東南中国の地域をめぐる考古学研究として、珠江三角州地域をとりあげ、まず、時間軸の設定を再確認し、周辺地域との関わりを時間的推移の中で見直した。また、近年の新しい研究課題として、地域内における遺跡差及び遺跡間の関係をあげることができる。本稿でも、印紋陶や石錘を例にしながら、東南中国という広い地域単位での位置付け、一地域内での遺跡差の両側面から検討を加えた。そして、商代併行期と言う時代の転換期において、外からの殷系文化の南漸と言う外的要因と共に、内的要因として、特定の素材や製品の広がりにみる地域内部のネットワークが強化されていることに着目し、さらに、中核的な遺跡の存在を考えた。
村石, 眞澄 Muraishi, Masumi
伊興遺跡をはじめとする足立区北部の発掘調査に携わる中で,微地形分類をおこなった。微地形分類は空中写真を判読し,比高差・地表の含水状態・土地利用を基準として分類を行い,発掘調査での土層堆積の観察所見や旧版の地形図を参照した。こうした微地形分類により,埋没していた古地形を明らかにすることができた。そこでこの埋没古地形の変遷を明らかにするため,花粉化石や珪藻化石などの自然科学分析から植生や堆積環境の検討を行った。そして自然環境を踏まえた上で,発掘調査によって発見された遺構や遺物,中世や近世の文献資料などを総合的に概観し,次のように伊興遺跡を中心とする毛長川周辺の自然環境と人間活動の変遷過程を次の五つの段階に捉え,それぞれの景観印象図を作成した。1 縄文海進のピーク時にはこの地域では大半の土地が海中に没したが,その後徐々に干潟ができ陸化が進んだ時期[縄文時代後期~晩期前半]。一時的な利用で土器を残した。2 毛長川が古利根川・古荒川の本流となり,大きな河道や微高地が形成された時期[縄文時代晩期後半~弥生時代]。人間活動の痕跡は希薄である。3 古利根川・古荒川が東遷し,毛長川は大河でなくなった時期[弥生時代終末期~古墳時代]。本格的に居住が行われるようになる。伊興遺跡は特異な祭祀遺跡として大いに発展する。4 毛長川の旧河道の埋積が進んだ時期[奈良時代~平安時代初期]。伊興遺跡では祭祀場もしくは官衙関連施設は存在するが,遺構・遺物の規模が減少傾向を示す。5 毛長川の旧河道の埋積が進んだ時期[中世]。伊興遺跡ではさらに遺構・遺物は減少し,遺跡の中心が毛長川沿いから離れ水上交通の拠点としての役割を終える。
羽柴, 直人 Hashiba, Naoto
柳之御所遺跡は12世紀奥州藤原氏の拠点平泉の一部分を占める遺跡である。柳之御所遺跡の変遷は6時期に分けられる。1,2期は初代清衡,3,4期は二代基衡,5,6期は三代秀衡の時代に相当する。1,2期は自然地形を利用した堀で囲まれた施設である。これは11世紀以来の安倍,清原氏の柵,館の系譜を踏襲した施設である。3期は,堀は機能しているが,堀内部のまとまりが失われる段階である。柳之御所遺跡の重要性が1期,2期に比較すると相対的に低下しているようである。4期は堀内部に道路が設置される。この道路は堀外部からそのまま連続しており,これは堀の区画,防御の機能を無視した状態で,堀の機能が失われたことを示す。5期は前代からの中心域が拡大される。これは400尺の長さを基準とした区画で囲まれ,池を有する寝殿造に準拠する構造の施設である。6期は1~5期まで連続していた中心域が廃され,北側約90mに新たな中心域が造営される。中心域の移動は柳之御所遺跡の性格に根本的な変化が生じたことを示す。各時期の柳之御所遺跡の性格は,1,2期が政所の用途も兼ね備えた居所であり防御性も備えた施設。3期,4期は藤原氏類族の居所。5期は当主秀衡の居所で宴会儀礼が盛んに行われる場所。6期は政所としての機能の施設と推測される。柳之御所遺跡は12世紀を通して平泉内において重要地点の一つであったが,その構造,用途は各段階によって変化がみられるのである。
工藤, 雄一郎 Kudo, Yuichiro
縄文時代の開始期の植物利用については,これまで土器の出現と関連づけて様々な議論が行われてきた。出現当初の縄文時代草創期の土器は「なにをどのように煮炊きするための道具だったのか」という点をより具体化し,列島内での土器利用の地域差などを検討していくことは極めて重要な研究課題である。2012年に発掘された宮崎県王子山遺跡からは,縄文時代草創期の炭化植物遺体(コナラ属子葉,ネギ属鱗茎)が出土した。筆者らは,これらの試料の炭素・窒素安定同位体分析を行い,また,王子山遺跡および鹿児島県三角山Ⅰ遺跡から出土した隆帯文土器の内面付着炭化物の炭素・窒素安定同位体分析を実施し,土器で煮炊きされた内容物について検討した。この結果,王子山遺跡では動物質食料と植物質の食料が煮炊きされていた可能性が高いことがわかった。王子山遺跡から出土した炭化ドングリ類は,土器による煮沸の行程を経てアク抜きをした後に食料として利用されていたというよりも,動物質の食料,特に肉や脂と一緒に煮炊きすることで,アク抜くのではなく,渋みを軽減して食料として利用していた可能性を提示した。一方,三角山Ⅰ遺跡では,隆帯文土器で海産資源が煮炊きされた可能性があることを指摘した。これらの土器の用途は,「堅果類を含む植物質食料のアク抜き」に関連づけるよりも,「堅果類を含む植物質食料および動物質食料の調理」と関連づけたほうが,縄文時代草創期の植物利用と土器利用の関係の実態により近いと推定した。
古川, 一明 Furukawa, Kazuaki
東北地方の宮城県地域は,古墳時代後期の前方後円墳や,横穴式石室を内部主体とする群集墳,横穴墓群が造営された日本列島北限の地域として知られている。そしてまた,同地域には7世紀後半代に設置された城柵官衙遺跡が複数発見されている。宮城県仙台市郡山遺跡,同県大崎市名生館官衙遺跡,同県東松島市赤井遺跡などがそれである。本論では,7世紀後半代に成立したこれら城柵官衙遺跡の基盤となった地方行政単位の形成過程を,これまでの律令国家形成期という視点ではなく,中央と地方の関係,とくに古墳時代以来の在地勢力側の視点に立ち返って小地域ごとに観察した。当時の地方支配方式は評里制にもとづく領域的支配とは本質的に異なり,とくに城柵官衙が設置された境界領域においては古墳時代以来の国造制・部民制・屯倉制等の人身支配方式の集団関係が色濃く残されていると考えられた。それが具体的な形として現われたものが7世紀後半代を中心に宮城県地域に爆発的に造営された群集墳・横穴墓群であったと考えられる。宮城県地域での前方後円墳や,群集墳,横穴墓群の分布状況を検討すると,城柵官衙の成立段階では,中央政権側が在地勢力の希薄な地域を選定し,屯倉設置地域から移民を送り込むことで,部民制・屯倉制的な集団関係を辺境地域に導入した状況が読み取れる。そしてこうした,城柵官衙を核とし,周辺地域の在地勢力を巻き込む形で地方行政単位の評里制が整備されていったと考えた。
鈴木, 一有 Suzuki, Kazunao
分析対象として東海地方を取り上げ,有力古墳の推移からみた古墳時代の首長系譜と,7世紀後半に建立された古代寺院,および,国,評,五十戸・里といった古代地方行政区分との関係の整理を通じて,地域拠点の推移を概観した。古墳や古代寺院の造営から描き出せる有力階層の影響範囲と,令制下の古代地方行政区分については,概ね一致する場合が多いとみてよいが,部分的に不整合をみせる地域もあり,7世紀における地域再編の経緯がうかがえた。大型前方後円墳など,盟主的首長墓が影響力を発揮した範囲と,7世紀中葉から後葉に構築された中核的な古代寺院の分布は,国造がかかわった領域と比較的良好に対応するものの,令制下の国や郡の領域とは必ずしも一致しない。また,7世紀代に構築された終末期古墳については,地域差や個性が顕著なことから,網羅的に地域秩序を復元する資料として用いることが難しいことを示した。令制下の行政区分への編成は,古代官道の整備や領域設定ともかかわり,7世紀後半の中で段階的に進行した。その大きな画期は,孝徳朝における前期評の成立と,天武12年(683)~14年(685)に断行された国境策定事業と連動した後期評への移行であり,後者によって古墳時代的な地域秩序の多くが否定され,領域にかかわる地域再編が大きく促されたと想定した。
藤尾, 慎一郎 Fujio, Shinichiro
西日本の弥生早期は突帯文土器,Ⅰ期は板付・遠賀川系土器を標識土器としている。突帯文土器は,Ⅰ期以降も突帯文系土器として一部の地域で使われ続けるが,出雲ではどのようなあり方を示すのかこれまであまり知られていなかった。今回,出雲市蔵小路西遺跡で見つかった突帯文系土器は遠賀川系土器と伴出しないなど,この問題を考えるうえで貴重な材料を提供することとなった。そこで遺跡から出土する突帯文系土器と遠賀川系土器との出方を手がかりに,この地の弥生文化がどのようにして成立したかという問題について考察した。出雲の突帯文系土器には,在来の早期突帯文土器に系譜をもつ在来系,早期突帯文土器が遠賀川系土器の影響を受けて成立した変容系,瀬戸内や豊後との関係が強い外来系が認められた。そこで遺跡ごとに三者の保有状況を調べたところ,水稲農耕を中心とする生活への転換過程と深い関係にあることがわかった。すべての突帯文系土器と遠賀川系土器が出土し,縄文時代から数千年にわたって存続し,縄文以来の本拠地で弥生Ⅰ期前葉(板付Ⅰ新式期)に稲作を中心とする生活(弥生化)に転換するタテチョウ遺跡や西川津遺跡。変容系を除く突帯文系土器と遠賀川系土器が出土し,縄文以来の本拠地がある同じ領域内で弥生Ⅰ期後半に弥生化する北講武氏元遺跡。在来系だけが出土し、弥生化することなく集落が廃絶する蔵小路西遺跡に代表される。縄文以来の本拠地に占地したまま弥生化する例は今のところ出雲だけでみることができる。福岡県板付,岡山県津島南池,高知県田村遺跡はいずれも,それまで在来の人びとが本拠地としていなかった場所に出現するからである。したがってタテチョウや西川津の弥生化は,弥生文化が伝播した地域において縄文以来の中核となる集団がもっとも早く,急速に転換した好例と考えられる。
山田, 康弘 Yamada, Yasuhiro
これまで,山陰地方における縄文時代から弥生時代への移行は,比較的スムーズではあったものの,その一方でダイナミックなものであると想定されてきた[山田2009:178-179]。しかしながら,弥生時代前期の墓地遺跡における墓群構造を細かく検討してみると,一見渡来的な状況を呈しながらも,実は在来(縄文)的な要素が複雑な形で内在していることが明らかとなった。例えば,堀部第1遺跡の墓地は列状配置構造という縄文時代の墓制にはみることができなかった渡来的な構造を採りつつも,墓地内には埋葬群が存在し,各埋葬群は小家族単位で占取・用益されるという在来的要素を残している。また,古浦遺跡における墓地の状況は,沿岸部に位置し渡来系弥生人骨を出土するにもかかわらず塊状配置構造を呈し,年齢・性別による区分が存在するという縄文時代の墓制を踏襲した在来的な要素を備えている。同時期にしかも至近距離に存在する堀部第1遺跡と古浦遺跡の二遺跡を比較するだけでも,その墓地構造には大きな差が存在しており,当時の状況の複雑さが理解できる。その一方で,山間部に位置する沖丈遺跡の墓地は塊状構造配置を呈しており,一見縄文時代以来の墓制の延長上に営まれていたように思われるが,不可視属性である下部構造には木棺が用いられ,管玉が墓内部より出土する事例があるなど,渡来的な要素も併せ持っていたことも明らかとなった。これらの点を踏まえて本稿では,山陰地方における弥生化のプロセスに対して補正を行い,長期的にはスムーズかつダイナミックな状況を呈するものの,個々の遺跡における墓地においては一時的に在来的・渡来的両方の要素が混在し,その状況は在地の縄文人と渡来文化を携えて移動してきた人々との接触のあり方を表していることを指摘した。
馬場, 伸一郎 BaBa, Shinichiro
本稿の目的は,中部高地に分布する弥生中期・栗林式土器編年の再構築と広域編年上の位置づけ,分布と動態の明確化を行うことで,人の「うごき」を具体化することである。弥生社会・文化の研究という総合的研究を射程とするならば,まず土器型式の設定や細分,広域編年の作成は必須である。分析の結果,弥生IV期前半である栗林2式新段階は栗林式の分布域が最大化する時期であり,またその時期には,栗林式の中心地から離れた上越高田平野の吹上遺跡と北武蔵妻沼低地の北島遺跡で,栗林式およびその系統の土器が多量に出土するという現象を確認した。さらに同時期,小松式関連の土器分布のあり方から,高田平野から北関東へ抜ける主要交流ルートが「白根山-吾妻川ルート」から「千曲川-碓氷川ルート」へ転換することが判明した。そして千曲川流域内で最大級の集落遺跡である松原遺跡に,小松式関連土器の出土が偏る。まさにそうした土器分布の動態のあり方は人々の往来の仕方の変化であり,特定の場所で生産される物資の互酬性的交換活動のあり方の変化を示すと考えられる。栗林2式新段階は折しも佐渡産管玉の流通が明瞭になり,また長野盆地南部の榎田遺跡と松原遺跡の間で磨製石斧生産の分業が確立する時期である。異系統土器を多量に出土する複数の遺跡は,異系統土器集団間の「交易場」であると考えられる。すなわち,IV期前半の栗林式集団による広域ネットワークの形成と「交易場」の設定,長野盆地南部の磨製石斧分業生産の確立は,パラレルに進展した歴史的事象であり,集団間の互酬性的交易活動の極度の発達を示す歴史的意義をもつと考えられる。
工藤, 雄一郎 Kudo, Yuichiro
宮崎県王子山遺跡から出土した縄文時代草創期の炭化植物遺体の¹⁴C年代測定,鹿児島県西多羅ヶ迫遺跡および上床城跡遺跡から出土した縄文時代草創期から早期初頭の土器付着炭化物の¹⁴C年代測定,炭素・窒素安定同位体分析を行ってその年代的位置づけを検討し,土器付着物については煮炊きの内容物の検討を行った。王子山遺跡の炭化コナラ属子葉と炭化鱗茎類は縄文時代草創期のものであることを確かめた。これらは縄文時代草創期の南九州において,コナラ亜属のドングリやユリ科ネギ属の鱗茎が食料として利用されていたことを示す重要な例である。一方,西多羅ヶ迫遺跡の無文土器は,隆帯文土器の直後の時期に位置づけられると推定され,鹿児島県建昌城跡から出土した無文土器の年代とも比較的近いものであった。ただし,炭素・窒素安定同位体分析の結果から,煮炊きの内容物に海産物が含まれている可能性も考えられるため,正確な年代的位置づけについては課題を残した。これらの無文土器は縄文時代早期初頭岩本式よりも,隆帯文土器の年代により近いことが分かったことは大きな成果である。上床城跡遺跡の水迫式~岩本式の土器は,これまでの縄文時代早期初頭の土器群の年代と良く一致している。縄文時代草創期から早期初頭の土器群や関連する遺構群,植物質遺物の¹⁴C年代測定例,土器付着炭化物の安定同位体分析例を蓄積していくなかで,隆帯文期の生業活動の解明,その後の消滅,縄文時代早期初頭の貝殻文系土器群の登場に至るプロセスとその実態を明らかにしていくことが重要である。
春成, 秀爾 小林, 謙一 坂本, 稔 今村, 峯雄 尾嵜, 大真 藤尾, 慎一郎 西本, 豊弘 Harunari, Hideji Kobayashi, Kenichi Sakamoto, Minoru Imamura, Mineo Ozaki, Hiromasa Fujio, Shinichiro Nishimoto, Toyohiro
奈良県桜井市箸墓古墳・東田大塚・矢塚・纏向石塚および纏向遺跡群・大福遺跡・上ノ庄遺跡で出土した木材・種実・土器付着物を対象に,加速器質量分析法による炭素14年代測定を行い,それらを年輪年代が判明している日本産樹木の炭素14年代にもとづいて較正して得た古墳出現期の年代について考察した結果について報告する。その目的は,最古古墳,弥生墳丘墓および集落跡ならびに併行する時期の出土試料の炭素14年代に基づいて,これらの遺跡の年代を調べ,統合することで弥生後期から古墳時代にかけての年代を推定することである。基本的には桜井市纏向遺跡群などの測定結果を,日本産樹木年輪の炭素14年代に基づいた較正曲線と照合することによって個々の試料の年代を推定したが,その際に出土状況からみた遺構との関係(纏向石塚・東田大塚・箸墓古墳の築造中,直後,後)による先後関係によって検討を行った。そして土器型式および古墳の築造過程の年代を推定した。その結果,古墳出現期の箸墓古墳が築造された直後の年代を西暦240~260年と判断した。
平川, 南 Hirakawa, Minami
古代日本における地方行政機構の末端に位置する「里」と「村」との関係は、極めて重要なテーマで、膨大な研究蓄積があるのにもかかわらず、いまだ明確にされていない。その原因は、おそらく「里」と「村」の時期的変遷と史料別検討を整理する作業があまりなされなかったからではないか。時期的変遷からみるならば、まず村が各地域に成立し、その村のまとまりを基礎としつつ、各戸を五十戸に編成し、行政単位として「里」が作られた。ここに「里」と「村」が併存する状況が生まれる。この状況が、史料ごとに多様に記載され、「里」と「村」の関係が不鮮明になってしまったとみられる。そこで、古代の文献史料の中で地名を表示する場合、どのような場合に「村」と表記されているか、史料別に整理検討する必要がある。正史・律令行政文書と律令行政文書以外の史料に大別してみるならば、「村」は後者の方がより多用されていたといえよう。次に史料別に整理した「村」の表記に共通するものが見い出せれば、それを「村」の特質とすることができる。さらに史料のなかには、その特質にもとづいて幅広く活用した「村」表記と理解できるものもあるであろう。以上の視点に基づき、史料整理と分析の結果、次のような結論を導き出した。「村」表記の特質は地点・領域表示であり、この特質を利用して国-郡-里という律令行政機構を補完したと考えられる。さらには、新たな行政区画単位として「村」の機能を活用・昇華したのが、遷都地・離宮地の「村」、辺境の地における大規模な「村」、そして最古のお触れ書きである石川県加茂遺跡出土の牓示札にみえる「深見村」の例ではないか。近年、各地の出土文字資料にみえる地域名は、おそらく「村」に深く関連すると想定される。今後の課題としては、それらを有力な手がかりに、史料的に大きく制約されている「村」の結合のあり方や編成原理の解明を試みたい。
西谷, 大 Nishitani, Masaru
中国東南部は,およそ淅江・湖南・江西・広東という広範囲の地域を指す。この地域は,漢書によれば「交阯より会稽に至る七,八千里,百越雑処す,各種姓有り」とあり,いわゆる印紋陶が分布する地域に重なって,「百越」と表現されるさまざまな諸族が居住していたと思われる。さらに,春秋戦国期には,呉・越が,秦から前漢期には,南海貿易を支配した南越国が出現し,中原と争う程の勢力を持つようになる。このように,春秋戦国期以降,中国東南部は歴史学上,政治的,文化的に一定の発展を遂げているが,それ以前,先史時代からのつながりの中で,一体どのような歴史的経過をたどってきたのだろうか。本稿では,東南中国でも遺跡数が多く,時間的な連続性のたどれる,特に江南デルタ以南から珠江デルタにかけての沿岸地域に注目し,新石器時代中期から晩期をとりあげ,歴史的な動向とその内在的変化の要因について考察する。広東・福建省という広範囲を扱うため,時間軸を土器編年によって設定した。従来の編年案を検討しつつ,広東珠江デルタの新石器時代中期から晩期をⅠ~Ⅴ期に,福建省閩江デルタをⅠ~Ⅲ期に分期した。それぞれの時期は,珠江デルタのⅠ~Ⅲ期がおよそBC.4000年前後からBC.3500年,Ⅴ期がBC.2000年前後に相当する。一方,福建閩江デルタⅠ期はBC.4000~3000年,Ⅲ期がBC.2000年ごろと考えられる。両地域を比較すると,BC.4000年前後以前の新石器時代の様相がまだ不明確ではあるが,両地域ともこの時期を境にして共通した遺跡分布を示している。即ち,デルタの上部の水系沿いまたは大陸沿岸部や島嶼部に,遺跡が形成され、デルタ内部には形成されない。また珠江デルタではⅠ~Ⅲ期,閩江デルタでは,Ⅰ期に遺跡が増加しており,これに後続する時期に,遺跡が減少する傾向が見受けられる。珠江デルタ地域では,土器群の様相と,遺跡の空間分布から,Ⅰ~Ⅲ期において,デルタ上部から珠江口,大陸沿岸部までをテリトリーとする集団と,沿岸部にだけ遺跡を形成する2つのタイプの集団が並存したことを指摘した。この現象は新石器時代中期に遺跡を形成した各集団の沿岸・デルタ・河川における棲み分けを暗示しており,内陸から河川を通じた沿岸部への,各文化間のネットワークを構築していくきっかけとなったのでないかと推定した。沿岸部にのみ居住する集団は,デルタ上部を中心としてデルタ全域に居住する集団より,福建省沿岸や,対岸の台湾沿岸との交流が深い可能性があり,各集団間の関係は,時間の経過と共にその都度変化がみられる。このように新石器時代中期においてなぜ突然遺跡の分布が濃密になるのか。それはこの地域の地形上の特性と海進海退という自然現象に左右された面が大きかったためであり,長江下流太湖の周辺地域との比較からも窺うことができる。中国東南部の沿岸地域では,この時期遺跡をとりまく自然環境,とりわけ,地理的な要因が遺跡の形成に大きく関わっており,それが歴史的な動向にも色濃く反映していたものと考えられる。
冨井, 眞
遺跡や竪穴住居等の遺構の少ない近畿・中国地方における縄文時代の集団動態論は,遺跡を列記していく空間軸と,土器型式ないし相対的な時期表現の目盛りからなる時間軸とで構成される,<遺跡の消長>と呼ばれる図表を作成しながら,個別データを解釈する形で進められてきた。50年以上前にその手法によって研究が進められたときには,定着性を帯びた定住的狩猟採集民,という前提的な認識のもとで,①遺物がわずかでも出土していればその時期の人間活動を認め,②その時期を細別型式で示し,③同一型式内でも時間差を設け得ることを認め,④全貌が知られている遺跡(群)を対象にする,といった方法的・論理的な特性がうかがえた。その後は,人間活動の質や量に対する評価基準が定まらないままに,考古資料の増加によって,遺跡の数も遺跡内での活動時期の数も増加してきている。しかし,集団が定着的なことを前提とする以上は,遺跡数が増加すれば集団の領域は狭くなり,遺物や遺構の数の少なさと相まって,必然的に,<小規模集団が狭い領域で拡大を控えて活動していた>という解釈に向かう。あるいは,活動時期が増加すれば,定着性の高い集団による固定的な領域の占有という認識も強化される。また,基礎データ不足のところでは,その前提の適用や典型的地域の成果援用によって,典型地域と同質な状況にあると想定されがちで,画一的な復元像が形成されやすい。このように,検証されることのない前提に縛られ,人間活動の質・量の判断基準や表現が不十分なままに資料が増加していく状況では,推論も資料操作も特定の解釈へ誘導的になり,<小規模集団が小規模空間を固定的に保持しながら,拡大することなく継続的に活動を続けた>という復元像が各地で画一的に生み出されていく。今後は,豊富な資料から縄文社会の多様性を読み解くための,個別事象をたゆまず精査し仮説を前提化せずに検証する方法と論理が期待される。
坂上, 康俊
畿内,東国,北部九州の古代集落は,8世紀の安定期を終えた後に,それぞれ異なった展開をたどる。すなわち,畿内では9世紀に入ると不安定化し,東国では10世紀に入って衰退するのに対し,北部九州では9世紀初頭に衰退してしまうのである。しかし,衰退したり不安定化したりする原因については,あまりはっきりとしていない。集落の衰退・消滅の背景を探るには,まずは個々の遺跡の景観を復原していくことから始めるしかあるまい。本稿では,福岡市教育委員会が刊行した発掘調査報告書の悉皆調査を踏まえて,福岡平野の中心部を貫流する御笠川左岸の低位段丘上に,8世紀初頭から末まで稠密な集落群が営まれたことを確認した上で,その住人たちの食料生産の基盤であった可能性がある御笠川左岸の低湿地・微高地,及び右岸の低湿地・微高地上の水田や集落の展開を追ってみた。その結果,8世紀末から9世紀初頭にかけて起こった大洪水によって水田面が広範に埋没したことが周辺住民の生産基盤を破壊し,これが原因となって集落が途絶えたのではないかと考えた。御笠川右岸には延暦年間に設定された観世音寺の荘園があったが,同じ場所が勅旨田とされてしまったのは,そこが洪水によって埋没してしまい,荒廃してしまったためであろう。この水田面は厚い洪水砂によって一旦埋められ,再開発は容易ではなかった。現地は貞観年間でも,ところどころに新開田や再開発田が点在する景観だったことが文献史料から窺えるのである。このように,福岡市の中心部分にあった古代集落に関しては,その衰退の大きな原因が水害という自然災害にあったことを,発掘調査の結果と文献史料とを総合して明らかにすることができ,その復旧が容易ではない状況も,関連史料によって説明することができた。
春成, 秀爾 Harunari, Hideji
炭素14年代を測定し,暦年較正した結果によると,北部九州の弥生前期の板付Ⅰ式は前780年頃に始まる。南四国も前8世紀のうち,板付Ⅱa式併行期に始まる中部瀬戸内の前期は前7世紀,近畿の前期は前7~6世紀に始まる。すなわち,弥生前期は西周末頃に併行する時期に始まり,前380~350年の間,戦国中期に終わる。弥生前・中期の展開を考古学的に追究するうえで,青銅器の年代は重要な意味をもっている。日本出土の青銅器のうち年代がはっきりしている最古例は,福岡県今川遺跡出土の遼寧式銅剣の鋒と茎を銅鏃と銅鑿に再加工した例であって,板付Ⅰ式に属する。同様の例は朝鮮半島では忠清南道松菊里遺跡などから出土しているので,ほぼ同時期と考えてよいだろう。松菊里式の較正年代は前8世紀であるので,板付Ⅰ式の炭素年代とも整合する。青銅器鋳造の開始を証明する根拠は鋳型の出土である。現在知られている資料では,近畿では和歌山県堅田遺跡から銅鉇の鋳型が前期末の土器とともに見つかっている。北部九州では,福岡県庄原遺跡の銅鉇の鋳型が中期初めないし前半の土器と出土している。また,中期初めの甕棺墓に副葬してあった銅戈に朝鮮半島の銅戈と区別できる北部九州独特の型式が知られているので,中期初めには青銅器の鋳造が始まっていたとみられる。弥生前期の存続期間が著しく延びたので,北部九州の中期初めと近畿の前期末とが実年代では一部重なっていないかどうかの検討が必要である。銅鐸は愛知県朝日遺跡から最古型式の銅鐸の鋳型が中期初めの土器とともに見つかっている。同時期の石川県八日市地方遺跡出土の木製竪杵のみに知られている独特の羽状文を身に施しているので,北陸の集団も関与して銅鐸が創出されたことは確かである。朝日遺跡から出土した銅鐸鋳型だけでは,最古の銅鐸の鋳造が中期初めに濃尾平野で始まったとまでは断定できないとしても,きわめて重要な手がかりが得られたことはまちがいない。
岩元, 康成
本稿では喜界島・奄美大島と薩摩・大隅地方の中世遺跡について両地域で出土した建物跡・土坑墓などの遺構と中国陶磁器などの遺物を比較し,11世紀後半から16世紀を5段階に分けて関連を検討した。11世紀後半~12世紀前半には喜界島城久遺跡群において焼骨再葬墓のように中世日本にない要素がある一方で四面庇付掘立柱建物跡・建物群内にある土坑墓など薩摩・大隅地方と類似する点が認められ,これまで文献史学から指摘されていた喜界島で九州の在地領主層,宋商人が南島での交易に関与したことが遺跡からもうかがえる。しかし12世紀後半になると喜界島・奄美大島の陸上の遺跡で中国陶磁器が減少する。この時期に南島との交易に関連した阿多忠景の平氏から追討や源頼朝により貴海島への征討などが起こっており,このような事件の影響が中国陶磁器の流通に反映されていることが考えられる。13世紀以降15世紀にかけて両地域間では,遺構・遺物の差異が目立つ状況にある。奄美大島の赤木名城は九州戦国期の山城と類似が指摘されているが,15世紀に九州の築城技術が伝えられたとは考えにくく,近世に整備された可能性がある。15世紀に喜界島・奄美大島は琉球と対立し敗れている。喜界島と奄美大島笠利地区の15世紀の遺跡が存続せず,16世紀の遺物がほとんど出土していない。集落の移動があったことが想定されるが,そこに琉球の支配がどのように関係しているのかは今後の検討課題である。
李, 明玉 荒木, 和憲
高麗は初期から中期まで宋・遼・金との持続的な交流があり,後期には元と交流した。こうした状況によって,その時々の中国の多くの文物が高麗に流入し,とりわけ相当量の中国陶磁器が高麗の全域で消費される傾向がみられる。中国陶磁器は高麗の全時期のなかでも,とくに高麗中期の遺跡から出土する。出土の地域と遺跡の性格を探ると,京畿道・忠清道・全羅道・慶尚道・済州地域で確認されており,宮城・官庁関連遺跡・寺刹(寺址)・建物址・墳墓,全羅・忠清地域の海底などである。器種別の出土の様相を探ると,青磁は越州窯産・龍泉窯産が確認されており,五代末~北宋代の越州窯産から,北宋~元代と編年されるものまで及ぶが,宋代のものが大部分である。白磁は北宋・南宋代の定窯産・景徳鎮窯産が最も多く,このほか磁州窯産や福建・広東の窯の製品が少量確認される。とりわけ高麗中期には12~13世紀代の景徳鎮窯産青白磁の出土量が多く,発見地域も広範囲にわたる。黒釉は福建の建窯・建窯系・吉州窯・磁州窯産のものが確認されており,そのほか磁竈窯・鈞窯産のものもある。高麗時代の陸上遺跡(韓半島本土の遺跡)から出土する中国陶磁器の特徴をいくつかに整理すると,以下のとおりである。第一に,中国陶磁器の流入は高麗中期に集中し,なかでも青磁が非常に少なく,中国陶磁器の大部分を占めるのは白磁である。福建・広東地域産のやや質が劣る白磁類が少量あり,比較的に品質が良い定窯産・景徳鎮窯産白磁が主として消費されたことがわかる。当時,高麗の内部で白磁に対する消費欲求が高かったことと比較して,質的に優れた白磁の製作が困難な環境であった。このため,主に高麗白磁の代替品として消費されたものであり,上流層が富や実力を誇示するための手段と認識して専有・使用したものとみられる。第二に,中国青磁は一部の地域では少し確認される程度であるが,当時の高麗は象嵌青磁をはじめとして,質的に優れた青磁を製作しており,相当量の高麗青磁が中国に輸入されたことは,寧波・杭州などの最近の出土事例によっても知ることができる。したがって,高麗の窯業の状況を反映して,青磁の需要が白磁よりも低かったと考えられる。第三に,済州島では中国陶磁器は寺刹・官衙址・城郭・祭祀遺跡・生活遺跡などで出土しており,龍泉窯青磁が最も多く,次いで景徳鎮窯青白磁が多い。このほかにも越州窯青磁,定窯白磁,福建同安窯青白磁,江蘇宜興窯と河北磁州窯の褐釉瓶なども発見された。済州島では,高麗の陸上遺跡で発見される頻度が非常に低い福建産白磁,江蘇または河北の褐釉磁器,浙江龍泉窯青磁がいくつかの遺跡で大量に発見されており,同時期の陸上遺跡における中国陶磁器の出土の様相とは,やや異なる傾向をみせることがわかる。これは済州島が中日海上交通における中継拠点としての役割を果たしたためであるとの見解もあるが,今後,もう少し綿密な分析と研究が必要であろう。第四に,泰安馬島海域と新安黒山島海域では,韓国の陸上遺跡からは出土事例がほとんどない中国陶磁器が発見された。これらの海域で中国陶磁器が発見されたのは,当時の宋・日本間の貿易ルート上に位置するためだとみるべきなのか,宋・高麗間の貿易ルート上に位置するためだとみるべきなのかは,いくつかの見解がある。筆者は,韓国の陸上遺跡で中国南方産の陶磁器が部分的に出土するという様相にもとづき,宋・高麗間の貿易過程で沈水したものが発見されたものと考える。ただし,今後,より詳細な研究によって明らかになることを期待したい。
工藤, 雄一郎
本論文では,縄文時代の漆文化の起源をめぐる研究史について,1926年から2010年代まで歴史を整理した。縄文時代の編年的な位置づけが定まらない1930年代には,是川遺跡に代表される縄文時代晩期の東北地方の漆文化は,平泉文化の影響を受けて成立したものという考えがあった。1940年代に唐古遺跡で弥生時代の漆文化の存在が確認されて以降,中国の漢文化の影響を受けた弥生文化から伝わったという意見もあった。1960年代以降,照葉樹林文化論の提唱を受け,縄文時代の漆文化は大陸から各種の栽培植物とともに伝わったという見方も広がった。1980年代には,中国新石器文化と縄文文化との共通の起源を想定する共通起源説も登場した。これらはいずれも縄文時代の漆文化を列島外から来たとする伝播論である。一方,加茂遺跡の縄文時代前期の漆器の出土を考慮して,1960年代には縄文時代の漆文化自生説も登場する。その後,1990年代には縄文文化の独自性や縄文時代の漆文化の成熟度を重視する研究者から,自生説が主張されるようになる。2000年の垣ノ島B遺跡の発見,2007年の鳥浜貝塚の最古のウルシ材の存在の確認によって,縄文時代の漆文化自生説は力を増した。しかし,垣ノ島B遺跡の年代は信頼性が担保されていないこと,また垣ノ島B遺跡の事例を除外すると,中国の河姆渡文化の漆製品は日本列島の縄文時代早期末の漆器と同等かそれ以上の古さを持っていることを年代学的に検証し,改めて縄文時代の漆文化の起源が大陸からの伝来であった可能性を考慮する必要性があることを論じた。
水澤, 幸一 Mizusawa, Kouichi
本稿では、戦国期城館の実年代を探るための考古学的手段として、貿易陶磁器の中でも最もサイクルの早い食膳具を中心に十五世紀中葉~十六世紀中葉の出土様相を検討し、遺跡ごとの組成を明らかにした。まず、十五世紀前半に終焉をむかえる三遺跡をとりあげ、非常に器種が限られていたことを確認し、次いで十五世紀第3四半期の基準資料である福井県諏訪間興行寺遺跡の検討を行った。そして兵庫県宮内堀脇遺跡や京都臨川寺跡、山科本願寺跡、千葉県真里谷城跡、新潟県至徳寺遺跡等十二例と前稿で取り上げた愛媛県見近島城跡、福井県一乗谷朝倉氏遺跡などを加え、当該期の貿易陶磁比の変遷を示した。その結果、十五世紀代は青磁が圧倒的比率を占めており、十五世紀中葉の青花磁の出現期から十六世紀第1四半期までの定着期は、一部の高級品が政治的最上位階層に保有されたものの貿易陶磁器の主流となるほどの流入量には達せず、日本社会にその存在を認知させる段階に留まったと考えられる。そして青花磁が量的に広く日本社会に浸透するには十六世紀中葉をまたねばならなかったが、その時期は白磁皿がより多くを占めることから、青花磁が貿易陶磁の中で主体を占める時期は一五七〇年代以降の天正年間以降にずれ込むことを明らかにできた。器種としては、十六世紀以降白磁、青花磁皿が圧倒的であり、碗は青磁から青花磁へと移るが、主体的には漆器椀が用いられていたと考えられる。なお、食膳具以外の高級品についても検討した結果、多くの製品は伝世というほどの保有期間がなく、中国で生産されたものがストレートに入ってきていたことを想定した。
能城, 修一 佐々木, 由香 Noshiro, Shuichi Sasaki, Yuka
下宅部遺跡から出土した縄文時代中期中葉から晩期中葉の木材を対象として,ウルシとクリの資源管理について検討した。下宅部遺跡出土木材の直径分布と成長輪数の解析により,クリとウルシは,現在の薪炭林やウルシ林とは異なり,多様な太さと年齢の個体が生育する柔軟な管理がなされていたと指摘されていた。本論では,当時のウルシ木材の直径成長を解析し,これを現在植栽されているウルシの成長と比較し,縄文時代のウルシとクリを中心とした森林資源管理を検討した。その結果,ウルシとクリは,直径6~8cmで8年生未満の個体を丸木として主に利用する一方で,それ以上の大きさの個体も適宜割って活用しており,多様に利用されていた。他の樹種は,細く若い木を丸木で使うものと,太く年のいった木を割って使うものに分かれていた。現生のウルシの成長と比較すると,縄文時代のウルシは成長が遅く,ほぼクリと同様で,当時は現在のウルシ畑よりも密に生えていたと推定された。下宅部遺跡のクリとウルシの成長は,新潟県青田遺跡の晩期末葉の柱材に使われているクリよりも遅く,現在の青森県田子町の萌芽によって再生した二次林のクリとほぼ同等であった。下宅部遺跡のごく近くにあったと考えられるクリ林とウルシ林の周辺には二次林と自然林があり,その成長は二次林,自然林の順で遅くなる傾向が確かめられた。
山本, 睦
本稿では,先史アンデスにおけるペルー北部チョターノ川流域社会の形成と変遷をめぐる社会的背景を論じる。はじめに,議論の基礎となる遺跡分布調査の成果を報告する。そして,調査で確認された諸遺跡の建築特徴と立地,遺跡間相互の関係や各遺跡と周囲の環境との関わり,および周辺地域社会との地域間交流の様態を示す。そのうえで,同流域で繰りひろげられた先史の長期的な人間活動の諸相を,とくに形成期(紀元前3000 年~紀元前後)を中心に論じる。最後に,調査データと周辺地域の先行研究とを比較検討し,より広いコンテクストに位置づけることで,チョターノ川流域の社会動態をアンデス文明の多様な形成過程の一つのあり方として実証的に示すことを試みる。 結果として,チョターノ川流域社会の通時的展開において,地形と高度差に応じた多様な生態環境や鉱物資源などの利用に加えて,周辺地域との地域間交流が重要な役割をはたしたことが明らかとなった。また,チョターノ川流域でみられた社会変化は,周辺地域との共通性をもちながらも,同地域に独自の現象および過程であることが示された。
真邉, 彩 Manabe, Aya
本論は,下宅部遺跡出土の縄文土器に残る敷物圧痕,中でも編物底について,編組技法および素材形状の分析をおこなったものである。下宅部遺跡は,関東地方で最も多く編組製品が出土し,同時期の編組製品と編物底が出土した稀有な遺跡である。編物底の研究は1890年代からおこなわれているが,同一遺跡での編物底と編組製品を比較した例はほとんどない。そのため,本遺跡での分析は,編物底から読み取れる資料が編組製品資料の中でどのように位置づけられるのかという点において,重要なケーススタディといえる。本論は,下宅部遺跡から出土した編物底の復元に圧痕レプリカ法を採用し,編物底と出土編組製品との編組技法・パターン,素材幅,素材形状の比較を通して,土器製作に用いられた編組製品の特徴を概観したものである。分析の結果,出土編組製品と編物底では確認できる編組技法・パターンの数が異なっており,編物底と出土編組製品の素材幅の比較においても,編物底から復元された資料は素材幅が細い範囲にまとまることが明らかになった。以上の検討により,編物底には,土器製作に適した,素材幅が細く隙間が少ない編組製品が,選択・転用された結果が反映されたと指摘した。レプリカによる素材分析の結果,SEMで確認された組織および形状の特徴から,編物底の圧痕は編組製品と同じタケ亜科製品に由来する可能性があるとした。これらは,編物底研究に圧痕レプリカ法とレプリカのSEM観察という手法を導入したことで得られた成果といえる。本研究を通じ,編組製品研究においては,編物底と出土編組製品の双方からの検討が重要であることを再認識し,今後の研究においては,編物底として残存する資料は,土器製作における人為的選択が働いた結果が反映されていることを念頭におく必要があると指摘した。
坂, 靖
本稿の目的は,奈良盆地を中心とした近畿地方中央部の古墳や集落・生産・祭祀遺跡の動態や各遺跡の遺跡間関係から,その地域構造を解明する(=遺跡構造の解明)ことによって,ヤマト王権の生産基盤・支配拠点と,その勢力の伸張過程を明らかにすることにある。弥生時代の奈良盆地において最も高い生産力をもっていたのは「おおやまと」地域である。その上流域で,庄内式期の纒向遺跡が成立する。その後,布留式期に纒向遺跡の規模が拡大し,箸墓古墳と「おおやまと」古墳群の大型前方後円墳の造営がつづく。ヤマト王権の成立である。「おおやまと」地域において布留式期に台頭したのが,「おおやまと」地域を生産基盤とした有力地域集団(=「おおやまと」古墳集団)であり,地域一帯に分布する山辺・磯城古墳群をその墓域とした。ヤマト王権は,「おおやまと」古墳集団を出発点とし,その勢力が伸張していくことにより,徐々にその地歩を固め影響力を増大していく。布留式期には,近畿地方各地に跋扈した在地集団に加え,奈良盆地北部を中心とした佐紀古墳集団,「おおやまと」古墳集団と佐紀古墳集団を仲介する役割を担った在地集団などが存在したことが遺跡構造から明らかであり,そのなかで「おおやまと」古墳集団と佐紀古墳集団が主導的立場にあったと考えられる。5世紀には,「おおやまと」古墳集団は河内の在地集団を取り込み,さらにその勢力を伸張し,倭国の外交を展開する。そして,大和川の上・下流域一帯の広い範囲が生産基盤となり,倭国の支配拠点がおかれた。一方,近畿地方各地には,有力地域集団が跋扈しており,ヤマト王権の支配構造は,危ない均衡のうえに成り立っていたと考えられる。そうした状況が一変するのが,太田茶臼山古墳の後裔たる継体政権である。淀川北岸部の有力地域集団は,近畿地方や北陸・東海地方の在地集団や有力地域集団と協調することにより,ヤマト王権の生産基盤は,畿内地方一帯の広範な地域に及んだ。そして,6世紀後半には「おおやまと」古墳集団と一体化することにより,専制的な王権が確立し,奈良盆地の氏族層に強い影響力を及ぼしながら,倭国を統治することになるのである。
後藤, 雅彦 Goto, Masahiko
紀元前4千年紀の福建沿岸の殻坵頭遺跡は、閩江下流域における新石器文化の形成を辿る上で重要であるばかりか、出土遺物から同時期の南中国沿岸の人の移動と文化の交流を示す上で重要である。本稿では殻坵頭遺跡と長江下流域の杭州湾南岸の土器文化として多角口縁釜に着目し、紀元前4千年紀の南中国沿岸地域における地域間交流をめぐる問題を明らかにする。
池谷, 初恵
本論は先島諸島と奄美地域で出土する貿易陶磁の数量分析データに基づき,各遺跡の出土量の消長や種別の変化に言及し,琉球列島の南北における貿易陶磁の動態を論じたものである。別稿の報告において,貿易陶磁の編年に基づきⅠ~Ⅵ期,小期を含め7段階に時期区分を行ったが,それぞれの遺跡をこの時期区分に照らし,先島諸島における以下の4つの画期を想定した。1:貿易陶磁の出土量が増加する13世紀後半,2:貿易陶磁の出土量がさらに増加し,主体が白磁から青磁に変換する14世紀後半,3:遺跡により出土量の増減に特徴がみられる15世紀後半,4:一部の遺跡を除き多くの遺跡において出土量が激減する16世紀初頭~前半である。これらの画期を踏まえて先島諸島の貿易陶磁の様相をみていくと,貿易陶磁が一定量出土する時期が沖縄諸島に比べて1世紀以上遅れることが明らかとなった。また,13世紀後半~14世紀前半に浦口窯系白磁・ビロースクタイプI・II類など福建産粗製白磁が主体的に出土し,14世紀後半に白磁と青磁の劇的な逆転現象が起きる。以上の先島諸島における貿易陶磁の画期と様相は,これまで琉球列島として一括りで捉えられてきた様相とは大きく異なるものである。この画期と様相は,先島諸島特有の「細胞群のように連結する石垣による屋敷割」をもつムラの成立・形成過程と関連することが予想される。
安里, 進 Asato, Susumu
20世紀後半の考古学は,7・8世紀頃の琉球列島社会を,東アジアの国家形成からとり残された,採取経済段階の停滞的な原始社会としてとらえてきた。文献研究からは,1980年代後半から,南島社会を発達した階層社会とみる議論が提起されてきたが,考古学では,階層社会の形成を模索しながらも考古学的確証が得られない状況がつづいてきた。このような状況が,1990年代末~2000年代初期における,「ヤコウガイ大量出土遺跡」の「発見」,初期琉球王陵・浦添ようどれの発掘調査,喜界島城久遺跡群の発掘調査などを契機に大きく変化してきた。7・8世紀の琉球社会像の見直しや,グスク時代の開始と琉球王国の形成をめぐる議論が沸騰している。本稿では,7~12世紀の琉球列島社会像の見直しをめぐる議論のなかから,①「ヤコウガイ大量出土遺跡」概念,②奄美諸島階層社会論,③城久遺跡群とグスク文化・グスク時代人形成の問題をとりあげて検討する。そして,流動的な状況にあるこの時期をめぐる研究の可能性を広げるために,ひとつの仮説を提示する。城久遺跡群を中心とした喜界島で9~12世紀にかけて,グスク時代的な農耕技術やグスク時代人の祖型も含めた「グスク文化の原型」が形成され,そして,グスク時代的農耕の展開による人口増大で島の人口圧が高まり,11~12世紀に琉球列島への移住がはじまることでグスク時代が幕開けしたのではないかという仮説である。
Hidaka, Shingo Seki, Yuji 橋本, 沙知 椎野, 博
筆者らは 2011 年 9 月 13 日から 9 月 25 日にかけて,ペルー共和国カハマルカ県クントゥル・ワシ村のクントゥル・ワシ博物館でクントゥル・ワシ遺跡出土の金属製品,同県カハマルカ市の文化省支所収蔵庫で,パコパンパ遺跡出土の金属製品の蛍光 X 線分析の調査をおこなった。このような文化財が所蔵されている場所に装置を直接持ち込んで調査をおこなうオン・サイト分析は,海外への文化財の持ち出しが厳しく制限されるようになった近年では,保存科学的な知見をもたらす方法として注目されている。 今回の調査の目的は,出土した金属製品のなかでも特に権力の象徴を示す金製装飾品を中心とした金属製品を蛍光 X 線分析によって,金属成分の組成を示すとともに,その加工技術について考察を加えることである。 調査の結果,各遺跡から出土した金属製品の金属素材の成分組成とその加工技術となる合金技術や鑞付けの技術についてのいくつかの考察をおこなうことができ,アンデス文明形成期の金属製品の加工技術について一石を投じる知見が得られた。
平川, 南 Hirakawa, Minami
古代日本の地方社会を領域支配する行政機構として、国・郡・里(のちに郷)制が 施行された。小論は、近年の各地の発掘調査による出土文字資料を用いた検討を中心 に、郡家と里・郷の運用実態を明らかにすることとした。10世紀前半に成立した『和名類聚抄』では、丹波国氷上郡は「東縣」「西縣」と、 甲斐国山梨郡は「山梨東郡」「山梨西郡」と、郡内がともに二分されている。しかし、 その方式はすでに八世紀前半から氷上郡において西部(西縣地域)に郡家、東部(東 縣地域)に郡家別院という分割支配体制として実施されていた。また、陸奥国磐城郡 においても、郡家所在郷である磐城郷を中心に南北に分割する方式がとられていた。 このように郡の分割統治方式には、国の道前・道後の支配方式にならった郡家を中心 として郡内を二分する行政的方式と、自然環境と歴史的経緯などによる相違を解消す るための機能的方式の二つの方法が存在した。ところで郡家所在郷の名称には「大家(大宅)郷」・〝郡名〞郷・「郡家郷」の三種 類がある。「大家(大宅)郷」は郡制以前の在地有力者層の拠点であり、〝郡名〞郷は 郡領氏族の拠点が中核となり、郡家を設置して郡名を冠したものである。一方、「郡 家郷」は〝郡名〞郷・大家郷に比して新しく、例えば、武蔵国入間郡は、「大家郷」 と「郡家郷」が併置されているが、その場合、当初郡家は「大家郷」に置かれ、のち に「郡家郷」を新たに設置し、郡家所在郷としたと理解できる。これらの郡家所在郷は、郡内の他郷と異なる負担、例えば郡家施設の維持管理など の徭役労働などを課せられていたことが、出土文字資料で確認できる。里(郷)制下の責任者・里長は課役徴発など行政上の役割を負い、郡家に頻繁に出 仕し、里長の妻たる里刀自は里(郷)内の各戸の構成員の動向を的確に把握し、農業 経営に隠然たる力を発揮したであろう。以上からも明らかなように、古代の地方行政組織である郡―里・郷制の行政運用は それぞれの地域の特性を勘案し、実に合理的であった。その実態は、各地の遺跡にお ける出土文字資料によって鮮やかに浮かび上がってきているのである。
森, 雅秀
オリッサ州はパーラ朝の版図であったべソガル州,ビハール州とならんで,インドにおける密教の中心地のひとつとして知られる。本論文はオリッサ州のカタック地区の代表的な遺跡であるラトナギリ,ウダヤギリ,ラリタギリの三僧院跡における二度の現地調査をふまえ,各遺跡の現状を伝えるとともに,遺跡ごとの出土品の傾向を明らかにする。さらに,尊像の種類にしたがって図像学的な特徴を解明し,他地域の密教美術との比較を通して,イソドの密教美術の総体的な考察をすすめた。後半には「オリッサ州出土仏教図像作例リスト」として,現存する571点の作品について,図像学的な特徴を中心に網羅的なリストを作成した。さらに未公開資料を含む160点の写真図版を添付することで,図像資料集としても活用されることを目指している。
髙田, 宗平 Takada, Sohei
日本古代の『論語』注釈書の受容について、日本史学では『論語集解』のそれに関しては研究が見られるものの、『論語義疏』については等閑に付されてきた。このことに鑑み、『論語義疏』を引用する日本古代典籍の性格、成立時期、撰者周辺の人的関係を追究すること、古代の蔵書目録から『論語義疏』を捜索すること、古代の古記録から『論語義疏』受容の事跡を渉猟すること、等から、日本古代の『論語義疏』受容の諸相とその変遷を検討した。『論語義疏』は、天平一〇年(七三八)頃には既に、日本に伝来しており、奈良・平安時代を通じて、親王・公卿・中下級貴族・官人・釈家に受容され、浸透していた。八~九世紀では「古記」・「釈」・「讃」の撰者である明法官人によって律令解釈に、一〇世紀末~一一世紀初頭に於いては皇胤である具平親王が『止観輔行伝弘決』所引外典の講究のために、更に、一一世紀前半では明法博士惟宗允亮が朝儀・吏務の先例を明らかにするために、右大臣藤原実資が有職故実の理解のために、それぞれ『論語義疏』を利用していた。また、釈家では、九世紀で空海、一〇世紀で法相宗興福寺の中算が『論語義疏』を利用していたが、一一世紀後半に至ると、仏典を始め多様な日本古典籍に『論語義疏』が利用された。そして、一二世紀前半では、左大臣藤原頼長が幾多の漢籍を講読したが、その一つとして『論語義疏』を講読していた。就中、具平親王の周辺や藤原頼長の周辺に、文才に長けた公卿並びに中下級の貴族や官人である文人・学者が集まり、両者はともにそれぞれの時期の論壇の中心となって、漢籍・漢学の講究・談義が行われた。そこに於いて、講読されていたものの一つが『論語義疏』である。
宇野, 隆夫 Uno, Takao
中世的食器様式は,焼物・木・漆・鉄のように多様な素材を使用し,東アジア規模から1国規模以下までの様々な生産流通システムを経た製品から成り立っている。本稿は中世の人々がこの多様な種類・器種の食器にどのような意味を込めて使用したかを考えようとするものである。そのために食器を型式と計量という二つの方法によって分析し,その結果と出土遺跡の性質との関わりに着目した。型式については,貯蔵・調理・食膳の各用途を通じて,写しの体系の中にあるものと,ないものとに二大別した。写しの頂点にあるものは中国製陶磁器が代表的なものであり,日本製施釉陶器の多くと無釉陶器・土器・瓦器・木漆器の一部に写しの現象が存在する。これに対して基本的に写しの体系に加わらないか脱却傾向にあるものは,日本製土器・瓦器・無釉陶器・木漆器の多くである。これら写すか写さないかについては,種類・器種毎に明確な決まりがあったと考え得る。また年代的には,中世前期には写さない在り方が主流であり,中世後期には種類を越えた写しの現象が増加する。この大別を基礎とした計量と遺跡の性格との対比の結果から,他を写さず釉薬や漆をかけない土器・瓦器・陶器・木器類は宗教・儀礼的な意味を込めて使用したものであると考えた。その源流は王朝国家期の平安京中枢部における食器使用法にある。これに対して写しの体系にあるものは,品質の上下を問題とする身分制的な使用であると評価した。この使用法の源流も古代にあるが,武家が主導して復活させたと考えた。漆器は,この両分野にまたがり,かつ日常の食器の主役である。土器・瓦器の鍋・釜の多くは鉄製鍋・釜を写すが,構成比率が著しく低い場合が多く,土器食膳具と一連の使用法であったと推察した。中世的食器様式の多様性は,雑多な品々の寄せ集めの結果ではなく,様々な意味を与えて使い分けた結果であり,その様式構造の変化は社会構造の変化を的確に反映するものであったと考える。
濵田, 竜彦 Hamada, Tatsuhiko
大山山麓では,弥生時代前期後葉頃から丘陵部において遺跡が増えはじめ,さらに中期から後期にかけて緩やかに顕在化する状況を認めることができる。後期には,妻木晩田遺跡に代表される大規模集落跡が丘陵部に形成されるが,前方後円墳が造られはじめる頃から丘陵上の集落は一斉に姿を消し,その後,丘陵部に生活の主体が積極的におかれることは少ない。したがって,弥生時代以降の大山山麓は,古墳群造営,小規模な集落の形成,畑地造成など,多少の削平や攪乱を受けることはあっても,大規模に改変されていない。また,近年は広範囲が調査されている事例が増えており,弥生時代集落の内実を分析するための好条件を備えた遺跡が多い。そこで,本稿では,集落跡を構成する諸要素のうち,居住施設と考えられる竪穴住居跡の分析を中心に,山陰地方の弥生時代後半期を代表する大規模集落跡として知られる妻木晩田遺跡を検討して,集落変遷,集落像の復元を試みた。妻木晩田遺跡には,複数の小集団の集合体として認識される複合型集落が,長期的に営まれている。今回,後期から終末期の土器を細分し,竪穴住居跡の埋没状況を詳細に検討しながら居住域の変遷を再考したところ,妻木晩田遺跡に営まれていた集落は規模や形が絶えず変化しつづけており,その変遷は一様ではないことがわかった。小集団の集合体であることは間違いではないものの,途中で断絶していた可能性のある居住域が複数認められた。したがって,複数の小集団が密に集住するのではなく,丘陵上に散漫に展開していた時期もあると考えられる。また,最盛期と考えられる後期後葉をへて,終末期前半に居住が断絶していた地点がある。終末期後半には表面上,後期後葉以前とよく似た集落が再生されているが,その後は大規模な墳墓群の造営も行われないことから,終末期前半を介して,集団が質的に変容していたと考えられる。
田口, 勇 Taguchi, Isamu
人類の鉄使用のスタートは隕鉄から造った鉄器に始まったと現在考えられているが,これまでこの隕鉄製鉄器について自然科学的見地からの総括的な研究調査は行われていなかった。これらの隕鉄製鉄器を総括的に調査し,鉄の歴史のスタート時点を明らかにすることを目的として本研究を実施した。すなわち,隕鉄について隕鉄起源説,隕鉄の成因,隕鉄の分類,南極隕鉄,隕鉄の特徴などを詳細に調査した。さらにこれまでに発見された隕鉄製鉄器を国外と国内に分けて調査した。国外では古代エジプトの鉄環首飾り,古代トルコの黄金装鉄剣,古代中国の鉄刃戈と鉄刃鉞などを,国内では榎本武揚が造った流星刀などを調べた。さらに代表的な隕鉄であるギボン隕鉄(ナミビア出土)から古代でも可能な条件下でナイフを試作した。以上から,人類が鉄鉱石を還元して鉄を得た時期より,はるかに古くから人類は隕鉄から装飾品,武器などを造っていたことがわかった。隕鉄は不純物が少ない場合,低温度(1,100℃以下)でも加熱鍛造性はよいが,不純物が多い場合,加熱鍛造性はわるい。隕鉄の加熱鍛造性を支配している,主な元素としては,硫黄とりんが挙げられる。なお,造ったナイフは隕鉄固有の表面文様(変形したウィドマンステッテン組織による)を有したが,もともとの孔が黒い‘すじ’として残った。
小川, 靖彦 OGAWA, Yasuhiko
万葉集後期の相聞歌や出典不明の相聞歌に見られる、理性や意志の統御を超えた「心」は、心を人格とは別個のものと見る古代的な「心」観の即自的反映ではなく、万葉集後期(奈良時代)に対自的内省的な歌として発達した女歌の想像力と表現技術が、新たに捉え、形象化したものである。また、古今集以下平安和歌に見える「身」と「心」という二元的な人間把握も、古代の霊魂観(遊離魂)の即自的顕現ではなく、万葉集後期の相聞歌の内省性、あるいは社交的発想に育成された「心」という言葉と、奈良朝の男子官人達によって社会的思想的広がりを持つ言葉として鍛練された「身」という言葉とを、意識的に結合させることによって獲得された新しい、と同時に古代的な霊魂観をも新たに掬い上げる、人間把握であったと考えられる。
坂本, 稔 春成, 秀爾 小林, 謙一 Sakamoto, Minoru Harunari, Hideji Kobayashi, Kenichi
大阪府東大阪市瓜生堂遺跡は,河内平野の中央,かつての河内潟の南岸に位置する弥生時代の拠点集落の遺跡である。2000年の東大阪市教育委員会による第47次調査のさいに,4基の方形墳丘墓が発掘され,それらから木材の遺存する木棺墓11基が検出された。そこで,Ⅲ期後半に属する4号方形周溝墓5号木棺の炭素14年代測定を行い,ウィグルマッチ法による暦年代比定を試みた。その結果,最外年輪は紀元前175年とした場合がもっとも確率が高く,88%の確率で紀元前210~145年に含まれることがわかった。なお,この材は辺材ではあるものの樹皮は残っておらず,伐採年代から何年分かが失われている可能性がある。これまでに年輪年代法と炭素14年代によるウィグルマッチ法がともに行った事例として滋賀県下之郷遺跡,大阪府池上=曽根遺跡などがあり,両者が整合的であることが特筆される。また,ウィグルマッチ法のみが行われたその他の事例も,土器型式などの考古学的検討や土器付着物などの炭素14年代と整合している。これは,何らかの事情によって年輪年代が測定できなかった年輪試料についても,ウィグルマッチ法による暦年代比定の可能性を示すものである。弥生時代中期の資料を中心に行ったウィグルマッチ法の結果から,中期Ⅲ期は紀元前200年代から前100年代,中期Ⅳ期は紀元前100年以降紀元前後までの年代であることを確認した。
千田, 稔
近年出雲における多数の銅鐸の発見などによって出雲の古代における位置づけが論議されだした。本稿では絵画銅鐸の図像学的な解釈や、銅鐸出土地と『出雲国風土記』及び『播磨国風土記』の地名起源説話などから、銅鐸はオオクニヌシ系の神々を祭祀するための祭器であると想定した。また、『播磨国風土記』にみる、オオクニヌシ系の神々(イワ大神も含む)と新羅の王子の渡来と伝承されるアメノヒボコとの土地争いを倭の大乱を表すものとしてとらえた。通説にいうように、アメノヒボコは西日本の兵主神社にまつられたものとすれば、兵主神社の最も中心的な存在は奈良県桜井市纏向の穴師坐兵神社である。周知のように銅鐸は弥生時代の終末に使用されなくなり、それにとって変わるのが祭器としての鏡であるが、アメノヒボコで象徴される集団は鏡のほかに玉や刀子を日本にもたらしたという。つまり、倭の大乱をおさめ、後の三種の神器の原型をもって、卑弥呼は邪馬台国に君臨することになったと想定できる。したがって、邪馬台国は歴史地理学的に纏向付近に比定でき、これは近年の考古学の年代論から考察される纏向遺跡の状況と矛盾しない。 オオクニヌシからアメノヒボコへの転換は、記紀神話における天孫君臨の司令神がタカミムスヒとアマテラスであるという二重性と、神武天皇と崇神天皇がいずれもハツクニシラススメラミコトとして初代天皇として記紀が叙述する二重性にも理解の手がかりを与える。
鄭, 一
本稿では,栄山江上流地域において,馬韓初現期に比定できる硬質無文土器段階の集落の編年と意義について検討した。まず,この段階の典型的な複合遺跡である海南郡谷里貝塚出土の土器について,これまでの研究成果に基づきながら,編年案を提示した。次に,近年議論が盛んな原三国時代の住居址の実態について,1~3段階の硬質無文土器の段階ごとに検討を行った。1段階は硬質無文土器が三角形粘土帯土器と共伴する段階で,紀元前1世紀~紀元前後の時期と推定した。松菊里型住居址が退化した無施設型の住居址が,光州地域を中心に営まれるようになる。2段階は硬質無文土器単純期であり,紀元前後~2世紀中頃と推定した。円形,方形,楕円形などの住居址の平面形があり,竪穴群がある程度群集し,溝状遺構なども確認される。注目できるのは,中心的な居住空間である平洞遺跡と,対外交易の中心地たる新昌洞遺跡の存在である。おそらく,これらの遺跡が位置する地域が様々な文物を外部から受容し,それを周辺部へ拡散させる中心的な役割を担ったと考えられる。3段階は硬質無文土器が打捺文土器と共伴し,典型的な三国時代住居址の内部から出土する時期であり,紀元後2世紀中頃~4世紀代と推定した。いまだ,硬質無文土器の資料は,光州や潭陽を中心とした集落遺跡からの出土がほとんどであり,周辺地域の資料が不足している。それゆえに,当該期の集落の景観や,より具体的な伝播過程についての研究には限界がある。しかしながら,今後の調査によって資料がより蓄積されれば,研究が急速に進展する可能性は高い。
磐下, 徹
本ノートは、年官を古代国家の人事権の一つとして考察することを目的としたものである。 年官の考察にあたっては、「公卿給」と呼ばれる文書に注目し、その分析を手がかりとした。「公卿給」は、除目における年官による任官結果をまとめた文書で、直物(除目での任官結果を記した文書である召名を訂正する政務儀礼)の開催には不可欠な文書であった。 本ノートでは、儀式書や古記録(古代貴族の日記)の記述を用いながら、この「公卿給」の作成法・使用法を整理した。 そして、この作成法・使用法を念頭に置きながら直物における年官の在り方を見ていくと、そこからは律令太政官制のみでは捉えきれないという特質が浮かび上がってくる。さらに、律令太政官制的な任官である顕官挙と年官を比較してみると、年官は律令太政官制のみでは包摂しきれない性質を持った任官方法であることが確認できる。 したがって、直物において確認される年官の非律令太政官制的な特質は、除目における任官方法の在り方そのものに由来していると考えられ、この特質は人事権としての年官自身が持つものであることが明らかとなる。 年官が出現し、制度的に整備され、盛期を迎えたのは九世紀後半~十世紀にかけての時期であるが、この時代はちょうど律令太政官制を軸とした古代国家が大きく変化を遂げていく時期である。 年官の出現と展開は、時期的に古代国家の変化の時期と重なっており、人事権を、時代や地域にかかわらず国家の在り方と深く関わるものである、と考えるのであるならば、年官の持つ特質は、このような古代国家の変化を、人事権という側面においてよく表現しているものだと考えられるのである。
佐野, 静代 Sano, Shizuyo
古代の御厨における漁撈活動の実態を解明するためには,「湖沼河海」の各々の御厨を取り巻く自然環境の分析が不可欠である。自然環境の分析には,地形・気候的条件とともに,その上に展開する「生態系」,特に魚類を中心とした生物相の考察が含まれる。魚類の生態と行動(生活史・食性・場所利用など)は,古代にも遡及しうるものであり,当時の地形と漁撈技術段階との照合によって,魚種ごとの捕獲原理や漁獲時期が推定可能となる。このようにして各御厨で行われた漁法が明らかになれば,「湖沼河海」の御厨ごとの漁撈活動と,贄人の生活形態の相違が浮かび上がってくるはずである。本稿では,古代の琵琶湖に設けられた筑摩御厨を対象として,当時の地形・生息魚種の生態・漁撈技術段階を照合し,その生活実態について検討した。筑摩御厨では,春の産卵期に接岸してくるフナと,春~初夏に琵琶湖から流入河川に遡上してくるアユを漁獲対象としており,贄人の漁撈活動は,地先水面での地引網漁+上り簗漁というきわめて定着的な漁法によっていたことがわかった。御厨現地での生活実態としては,水陸の移行帯において漁撈と農耕が分かちがたく結びついた「漁+農」複合型の生業形態であったと推定される。琵琶湖岸の古代の御厨においては,漁撈のみに尖鋭化した特権的専業漁民の姿は認めがたく,古代の贄人の生活実態は,網野善彦が提起した「船による移動・遍歴を生活の基本とする海民」像とは,異なるものといえる。生業を指標とする集団の考察には,現地の環境条件との照合が不可欠であり,網野の提起した「非農業民」概念もこのような視点から再検討されるべきと考える。
今村, 啓爾 Imamura, Keiji
ランヴァク遺跡は,ベトナムのゲアン省に所在するドンソン文化期,紀元前1~2世紀頃の遺跡である。この時代は,ちょうど日本の弥生時代のように,個性的な青銅器が発達し,鉄器の製作,使用も開始され,稲作を基礎とした社会が国家形成に向けて大きな変化を見せた時代である。1990~1991年ベトナム日本共同調査隊が行った発掘調査では,現在水田となっている谷をはさんで,東側の墓地遺跡(ランヴァク地点)と西側の集落址(ソムディン地点)が調査された。青銅器との関連で重要なことは,墓地遺跡で砂岩製の斧の鋳型が出土し,集落址では鋳型片や溶けた青銅の付着した土器から青銅器鋳造に使われたとみられる炉址が発見されたことである。ランヴァク遺跡はドンソン文化の広がりのなかではかなり南に位置し,ベトナム北部,中国南部ばかりでなく,ベトナム中・南部のサフィン文化やタイのバンチェン文化など周辺の広い地域との関連が見られる。ベトナムではこれまで鉛同位体の分析がおこなわれたことを聞かないが,今回のランヴァク資料の分析結果は,中国最南部の雲南や広西産の鉛の同位体比の範囲内に入るものであった。このことはランヴァクの青銅器が華南の原料で鋳造されたことを意味するかのごとくであるが,すぐにそう結論することはできない。中国のこの地域の青銅器については,主に戦国時代以後の銅鼓が鉛同位体分析の対象にとりあげられているが,その結果をみると,華北や四川省の殷周時代の青銅器とは異なり,地元の鉛との一致の傾向が顕著である。同じ状況がベトナムの青銅器についても当てはまるのかもしれない。ベトナム産鉛の同位体比の確認が緊急の課題である。今後南中国から東南アジア全体におよぶ広大な地域において青銅器原料の供給地と鋳造地の関係が解明されるなら,東南アジアにおける高文化の彩成過程の理解について,大きな前進となる。
千田, 稔
本論は、日本古代王権の一つの中心地であった磐余(奈良県桜井市西南部)をとりあげ、文芸評論家保田與重郎(一九一〇―一九八一)の思想的立脚点となった鳥見の霊畤の風景を、歴史地理学の視点から検討をする。鳥見の霊畤は『日本書紀』の神武天皇の伝承において語られる「祭の庭」であるが、神武伝承が虚構性が高いために、鳥見の霊畤についても、戦後の古代研究の対象とならなかった。  一方、戦前の日本浪漫派の旗手であった保田の郷里が磐余であり、かつ保田にとっては磐余こそ日本の原郷であった。保田には風景に関するエッセイがいくつかあるが、彼は風景に精神的な根源を求めることを主張し、近代的な風景観を退ける。みずからの郷里と日本の精神の郷里とが一致するとみる保田にとって、磐余にある神武伝承の鳥見の霊畤こそ祭政一致の象徴であった。 だが、保田の思想を日本の根源へと遡らせるのは、鳥見の霊畤が神武伝承として語られるからにほかならない。もし、鳥見の霊畤が神武伝承としてではなく、古代王権のある時代に実在していたとしたら、保田の思想の中枢にある風景は揺れ動く。 筆者は、古代の天皇の宮の南に聖なる山を配したというモデルから、鳥見山は、欽明天皇の磯城嶋金刺宮のほぼ真南の山であると推定した。この推定が正しければ、鳥見の霊畤は六世紀中頃に実在したことになり、保田が日本の魂の根源としてこの風景をみなければならない理由はなくなる。保田から鳥見山の風景を解き放つことが本稿の目的である。
井上, 史雄 INOUE, Fumio
この論文では,従来分析を進めてきた標準語形使用データについて,二つの単純化を適用した。地理的位置を鉄道距離によって表現したことと,語形の地理的分布を1点の重心で示したことである。本稿では,まず「河西データ」の県別使用率のグラフにより,標準語形の中でも古代初出語の一部が辺境残存分布を示すことを確認した。つぎに「河西データ」の行にあたる各語形について,鉄道距離重心を計算し,各語形の全国使用率,初出年との対応をみた。2要素ずつを組み合わせた2次元のグラフを考察し,また3要素の関係を示す3次元のグラフを考察した。さらに古代・近代2時代への区分と東西2クラスターへの区分を組み合わせて82語を4区分して検討した。古代初出の東部クラスターの語は,初出年との相関を見せない。しかし他の三つの区分では,初出年がかなりの相関を見せ,しかも近似直線の数値が似ていて,1000年につき31~36%の減少を示す。これは普及年速1キロ(弱)という仮説と矛盾しない。文化的中心地から新しく出た語は,最初は全国使用率が低いが,年数が経つと古く出現した語と同じ過程をたどって全国に広がって,全国使用率が高まると考えられる。また古代に出た語は,その後の新形に侵食されて,文化的中心地を明け渡すことがある。
大隅, 亜希子
古代社会における布とは,衣服や工芸品の材料のみでなく,貨幣価値をもつ財貨であった。そのため,産地,品質の異なる製品を,一定の規格に統一して,「端」「段」などの単位で管理していた。調布,庸布とよばれた古代の布とは麻布である。調布1端は,長さ4丈2尺,幅2尺4寸に規格され,庸布1段は,長さ2丈8尺,幅2尺4寸であった。「端」と「段」とは,数える品物,規格も異なる単位であるが,10世紀になると,「端」と「段」との書き分けが曖昧になる。11世紀以降には,その区別は消滅し,「端」と「段」とが混用されている。そこで,本稿では8世紀から11世紀の社会の中で,「端」と「段」の書き分けが,変化する過程を,正倉院文書,『延喜式』,そして10世紀から11世紀の史料により具体的に跡づける。中でも,『延喜式』には,たくさんの繊維製品に関する情報がある。『延喜式』にみる「布」に関する情報が,式制下当時の姿を伝えている可能性を推測する。そして,その姿が,古代社会から中世社会への過渡的段階であることを指摘する。
平川, 南 Hirakawa, Minami
近年、古代史研究の大きな課題の一つは、各地における地方豪族と農民との間の支配関係の実態を明らかにすることである。その末端行政をものがたる史料として、最近注目を集めているのが、郡符木簡である。郡司からその支配下の責任者に宛てて出された命令書である。この郡符木簡はあくまでも律令制下の公式令符式という書式にもとづいているのである。したがって、差出と宛所を明記し、原則として律令地方行政組織〔郡―里(郷)など〕を通じて、人の召喚を内容とする命令伝達が行われるのであろう。これまでに出土した一〇点ほどの郡符木簡はいずれも里(郷)長に宛てたもので、例外の津長(港の管理責任者)の場合は個人名を加えている。このような情況下で新たに発見された荒田目条里遺跡の郡符木簡(第二号木簡)は、宛所が「里刀自」とあり、三六名の農民を郡司の職田の田植のために徴発するという内容のものである。まず第一に、刀自は、家をおさめる主人を家長、主婦を家刀自とするように、集団を支配する女性をよぶのに用いている。宛所の里刀自は、上記の例よりしても、本来の郡―里のルート上で理解するならば、里を支配する里長の妻の意とみなしてよい。第二には、行政末端機構につらなり、戸籍・計帳作成や課役徴発を推進する里長と、在地において農業経営に力を発揮する里長の妻=里刀自の存在がにわかにクローズアップされてきたと理解できるであろう。これまで里刀自に関する具体的活動の姿は皆無であっただけに、今後、女性と農業経営の問題を考察する格好の素材となると考えられる。
中島, 経夫 Nakajima, Tsuneo
コイ科魚類の咽頭歯がもつ生物学的特性から,遺跡から出土する咽頭歯遺存体を分析することによって先史時代の人々の漁撈活動の様子を知ることができる。日本列島では,縄文時代からイネの栽培が始まり,弥生時代には灌漑水田での稲作が始まる。淡水漁撈の場と稲作の場が重なりあってきた。西日本の縄文・弥生時代の遺跡から出土する咽頭歯遺存体についての情報がある程度蓄積し,淡水漁撈と稲作の関係について述べることができるようになった。西日本の縄文・弥生時代における漁撈の発展は,稲作との関係から,0期:水辺エコトーンでの漁撈が未発達の段階,Ⅰ期:水辺エコトーンでの漁撈が発達する段階(Ia期:原始的稲作が行われていない段階,Ib期:漁撈の場での原始的稲作が行われる段階),II期:稲作の場(水田)での漁撈が発達する段階,に分けることができる。長江流域では,Ia期に漁撈の場(水辺エコトーン)でのイネの種子の採集が加わる。長江流域の漁撈と稲作の関係については,咽頭歯遺存体から多くを述べることができない。というのは,これまで,中国での咽頭歯遺存体についての詳しい研究は,河姆渡文化期の田螺山遺跡の例をのぞいてまったくない。今後,新石器時代の遺跡から出土する咽頭歯遺存体の研究が進むことによって,漁撈と稲作の関係や稲作の歴史について言及できるはずである。
米田, 恭子 佐々木, 由香 Yoneda, Kyoko Sasaki, Yuka
東京都東村山市の下宅部遺跡では,縄文時代中期中葉から晩期中葉の河道から編組製品と編組製品の素材を束状にした遺物(以下,素材束)が出土した。下宅部遺跡から出土した編組製品の素材について同定が行われた結果,ほとんどがタケ亜科であることが明らかとなっている。しかし,解剖学的な検討では,タケ亜科以上の詳細な同定は不可能である。そこで,主にイネ科植物の葉身に形成される植物珪酸体の形状から母植物を同定する植物珪酸体分析の手法を用いて,下宅部遺跡出土の編組製品1点と素材束2点を対象として素材の母植物を検討した。その結果,編組製品と素材束からネザサ節型,編組製品からササ属に由来する植物珪酸体が検出され,アズマネザサなどのネザサ節型とスズタケやミヤコザサなどのササ属などのササ類が,素材植物の候補として挙げられた。また,編組製品が出土した河道堆積物について植物珪酸体の抽出を行った結果,素材の母植物の候補としてあげられたササ類の珪酸体が検出され,身近な場所に編組製品の素材となり得るササ類の存在が確認された。植物珪酸体分析は,解剖学的な分析では同定が困難なイネ科の編組製品の素材を同定する上で,有効な手段になると考えた。
工藤, 雄一郎 佐々木, 由香 Kudo, Yuichiro Sasaki, Yuka
東京都東村山市下宅部遺跡では,縄文時代中期から後・晩期の土器の内面に付着した炭化植物遺体(土器付着植物遺体)が40点見つかっている。これは,土器の内部に炭化して付着した鱗茎,繊維,種実,編組製品などの植物起源の遺物を総称したものである。いずれも二次的に付着したものではなく,調理や植物を加工する際に付着した植物であり,当時の人々が利用していた食材と土器を用いた調理方法を解明する大きな手がかりとなる資料である。本研究では,そのうちの26点の土器について¹⁴C年代測定,炭素・窒素安定同位体比分析,C/N比の分析を実施し,これらの土器付着植物遺体の年代的位置づけ,および内容物についての検討を行った。また,単独で出土し,所属時期が不明であった種実遺体5点の¹⁴C年代測定を行い,年代的位置づけについて検討した。その結果,分析した土器付着植物遺体は縄文時代中期中葉の1点を除き縄文時代後・晩期に属する年代であり,特に3,300~2,700 cal BPの間に集中し,そのほとんどが縄文時代晩期前葉~中葉であることが判明した。種実遺体のうち,縄文時代中期中葉の約4,900 cal BPの年代を示したダイズ属炭化種子は,直接年代測定されたものとしては最も古い資料となった。土器付着植物遺体の炭素・窒素安定同位体比とC/N比を下宅部遺跡出土の精製土器付着物の分析結果や,石川県御経塚遺跡,大阪府三宅西遺跡出土の縄文時代後・晩期の土器付着炭化物の分析結果と比較してみると,下宅部遺跡の土器付着植物遺体は,陸上動物起源の有機物や海洋起源の有機物の混入の可能性が指摘されている土器付着炭化物とは分布傾向が明らかに異なり,C₃植物に特徴的な傾向を示した。特に,編組製品や繊維付着土器では,編組製品や繊維そのものと,それらと一緒に煮炊きした内容物の同位体比が異なることが明らかになった。今後,土器付着植物遺体の分析事例を増やし,縄文時代の植物利用や土器を用いた調理についての研究を展開していくことが必要である。
熊木, 俊朗 福田, 正宏 國木田, 大 Kumaki, Toshiaki Fukuda, Masahiro Kunikita, Dai
柳田國男が一九〇六年の樺太紀行にて足跡を残した「ソロイヨフカ」の遺跡とは、南貝塚(別名、ソロイヨフカ遺跡)であり、この遺跡はその近隣にある鈴谷貝塚と共に、サハリンの考古学研究史上最も著名な遺跡の一つになっている。これらの遺跡の出土資料を標式として設定された「南貝塚式土器」と「鈴谷式土器」のうち、本論では後者の鈴谷式土器を対象として年代に関する再検討をおこなった。鈴谷式土器は、時代的には続縄文文化とオホーツク文化の、分布や系統の上では北海道とアムール河口域の狭間にあって、これら両者の関係性を解明する上で重要な資料であると考えられてきたが、特にその上限年代が不明確なこともあって年代や系統上の位置づけが定まっていなかった。本論でおこなった放射性炭素年代の測定と既存の測定年代値の再検討の結果、鈴谷式土器の年代はサハリンでは紀元前四世紀〜紀元六世紀頃、北海道では紀元一世紀〜紀元六世紀頃と判断された。この年代に従って解釈すると、鈴谷式土器はサハリンにおいて先に成立し、しばらく継続した後に北海道に影響を及ぼしたことになる。この結論を従来の型式編年案と対比させるならば、以下の点が検討課題として浮上してこよう。すなわち、サハリン北部での最近の調査成果に基づいて提唱されたカシカレバグシ文化、ピリトゥン文化、ナビリ文化といったサハリン北部の諸文化や、アムール河口域と関連の強いバリシャヤブフタ式系統の土器は、古い段階の鈴谷式土器と年代的に近接することになるため、これら北方の諸型式と鈴谷式土器の型式交渉を具体的に検討することが必要となる。また従来の型式編年案では、古い段階の鈴谷式土器は北海道にも分布すると考えられているため、その点の見直しも必要となる。鈴谷式土器を含む続縄文土器や、サハリンの古金属器時代の土器の編年研究においては、今後、これらの問題の解明が急務となろう。
中村, 太一 Nakamura, Taichi
本稿は、共同研究「日本における都市生活史の研究」A班「古代・中世の都市をめぐる流通と消費」第二期において構築作業を行った「古代・中世都市生活史データベース(物価表)」、とくに入力用データベースの設計・仕様、および入力作業に関する報告である。第1章「使用ソフトウェアとデータベースの性格」では、データベースの基本的な性格と、それに基づいて選定した入力用データベース作成用ソフトウエアについて述べた。第2章「入力用DBの構築と入力ルール」は、入力用データベースにおける日付・物価・史料・備考の各パートごとに、各項目の設計段階の考え方や入力ルール、また、入力用フォームやデータ集約システムなどについて述べた。とくに、入力作業を簡略化し、最小限の入力項目から全ての項目にデータを割り振っていく手法について、できるだけ詳細に報告した。第3章「公開用データベースに向けて」では、データベースの公開に向けて、入力作業のなかから浮かび上がってきた入力用データベースの問題点とその解決方法、および、公開用データベースで使用するデータや、検索・表示用画面の仕様などに関する問題提起を試みた。ここでは、WWWで公開する場合を想定して、検索ルールや表示画面の仕様、データのダウンロード機能などについて提案している。なお、二〇〇三年七月現在、「古代・中世都市生活史データベース」に入力した物価データの件数は、約三万四千件に達している。
木下, 尚子
本稿はトカラ列島宝島の大池遺跡A地点の貝珠の分析を糸口に,旧稿「東亜貝珠論」の琉球列島部分について,新資料にもとづいて再論するものである。ここでの貝玉は孔をもつ貝製の玉全般をさし,貝珠は貝玉の中でも,おもに小型のイモガイの貝殻を回転研磨によって円筒形に加工した玉をさす。貝珠を含む貝玉は先史時代の琉球列島全域に普遍的にみられる遺物である。今回分析したのは,紀元前3300 年から紀元1000年にわたる時期の10遺跡の貝珠である。分析の結果,製作技法,系譜について以下を指摘した。・大池遺跡A地点の貝珠は縄文前期末から中期のもので,製作には回転研磨とともにこの地独自のペッキングによる穿孔が認められる。・奄美・沖縄地域では研磨により穿孔された貝珠が,縄文中期後葉から後期前葉に独自に生まれた可能性が高い。研磨穿孔の技法と擦切技法が組み合ってこの地に特徴的な貝器文化が展開した。・宮古諸島では紀元前1千年紀(無土器期)の2遺跡を検討した。2事例の一方には貝珠が多いがもう一方にはほとんどない。技術の系譜では沖縄諸島とそれ以外の地域との関係が考えられる。・八重山諸島では紀元前2300~1300年に研磨穿孔による完成度の高い貝珠が作られる。系譜については,同時期の台湾の貝珠との関係が考えられる。・大隅諸島の広田遺跡では,紀元300~400年頃に精緻な装身具セットの一要素として貝珠が登場した。先行研究によって南島,本土,大陸との系譜関係がそれぞれ提示されている。貝珠を通して見えてくるのは,琉球列島内の地域ごとに異なる文化の系譜である。琉球の先史文化は,慶良間海裂を挟んで南北に対峙し,それぞれ南下あるいは北上する方向性をもつことが広く理解されているが,貝珠のあり方はこうした図式と必ずしも一致しない。琉球先史文化の構図の中に,土器文化を通して見える方向性や共通性とは異なる多元的な系譜が含まれていることを述べ,旧論を一部修正し補足した。
石井, 久雄 ISII, Hisao
本文批判は基本的には古代語文献に関するものであるが,現代語についても必要であることを示唆し,あわせて,「本文」の概念の規代における成長を指摘する。(1)古代語文献の本文批判は,池田亀鑑の業績によって期を画されている。それ以前の本文は,校訂者の主観的な改訂をともなって提示されるのがつねであったが,それ以後は,文献学の成果にもとづき,良質な翻刻および校訂本文が提示されてきている。(2)現代語文献の本文批判は,古代語のそれとことなるところがある。すなわち,現代語文献には一般に異文が存在せず,存在したとしても,それぞれに価値をもった決定本文でありうる。(3)現代語文献の本文批判について,3例。第1,その用法はしられていて,それゆえ解読に困難はないが,来歴に不明がある,そのような漢字をふくむもの。第2,その語の発生期にあたっていて,語形が確立していない,そのような語をふくむもの。第3,現代語文献としてはまれな異文をもち,それがあって誤植を確認できる,そのような誤植をふくむもの。
小林, 謙一 Kobayashi, Kenichi
縄紋時代の居住活動は,竪穴住居と呼ばれる半地下式の住居施設が特徴的である。竪穴住居施設は,考古学的調査によって,主に下部構造(地面に掘り込まれた部分)が把握され,その構造や使用状況が検討されている。竪穴住居のライフサイクルは,a構築地点の選定と設計から構築(掘込みと付属施設の設置)→b使用(居住・調理・飲食などの生活)→c施設のメンテナンス(維持管理と補修・改修・改築)→d廃棄として把握される。住居廃棄後は,そのまま放置される場合もあるが,先史時代人のその地点に対する係わりが続くことが多く,d’廃棄住居跡地を利用した廃棄場・墓地・儀礼場・調理施設・石器製作などに繰り返し使用され,最終的にはe埋没(自然埋没・埋め戻し)する。以上のような,ライフサイクルのそれぞれの分節が,どのくらいの時間経過であったかは,先史時代人の居住システム・生業・社会組織の復元に大きな意味を持つ。住居自体の耐用年数または居住年数,その土地(セツルメント)に対する定着度(数百年の長期にわたる定住から数年程度の短期的な居住,季節的居住地移動を繰り返すなど),背景となっている生業(採集狩猟・管理栽培や焼畑などの半農耕)や社会組織(集落規模,階級など)の復元につながる。住居のライフサイクルの分節ごとの時間経過を把握することにより,居住システムとしての把握が可能となるだろう。その目的で住居出土試料を炭素14年代測定するうえで,セツルメントとしてのライフサイクルの位置を整理して把握することが重要である。今回はライフサイクルのdとした住居廃絶後の廃棄行為の時間・住居跡地埋没の時間を検討する。その検討対象として,井出上ノ原遺跡,梅之木遺跡,力持遺跡,三内丸山遺跡の竪穴住居覆土中出土試料の炭素14年代測定事例を取り上げる。このうち井出上ノ原遺跡45号住居跡は住居使用時から埋没まで250~300年以上の時間が経過していることが指摘できた。これに対し,遺構の遺存状況などに問題があるが現存の状況から検討する限り,梅之木遺跡18号住居跡は比較的短期間に埋没していることが推測された。これらの検討により,住居埋土の埋没にかかる時間経過を探るとともに,炭化物の包含状態や土器・石器などの廃棄行為のあり方を重ね,集落内における竪穴住居跡地の利用について考えていく必要性が改めて指摘できた。対応するライフサイクルとそれに対比した形での年代測定結果の分析を考古学的に検討しつつ,多数の測定結果を蓄積したい。
齋藤, 努 Saito, Tsutomu
仙台藩における製鉄技術などを明らかにするため,これまでに,岩手県,宮城県に多数分布する製鉄遺跡の現地調査を行ってきた。ここでは,採取された資料のうち,主として仙台藩北部地域の砂鉄,木炭,鉄滓について,自然科学的解析結果を示した。この地域の最大の特徴は非常に良質な砂鉄を使用していたことである。文書によればこの地域では農閑期の副業として製鉄が行われていたとされている。現地調査の結果でも非集約型の小規模な製鉄遺跡が多数存在していたことが認められた。チタン含有率がきわめて少なく,他の不純物も少なくて,鉄分が多い,還元の容易な,室根村などの良質な砂鉄が産出することが,このような比較的未成熟な生産形態でも製鉄を可能にした理由であろうと考えられる。製鉄の技術については,高温,還元的条件下で生成すると考えられているフェロシュードブルッカイトやイルメナイトなどの鉱物が鉄滓中に検出されたことから,小型の炉ではあっても比較的高温度で操業されていたと思われる。今回の調査対象地域では原料の砂鉄はほぼ同質のものと考えられ,また同様な操業方法によって製鉄が行われていたと考えられる。従って,製鉄遺跡ごとに個別的な特徴は認められなかった。以上のように,仙台藩における製鉄技術の特徴が,自然科学的に明らかになった。現在,今回調査結果を報告した北部地域の他,中部,南部地域の製鉄遺跡についても自然科学,文献史学の両面から調査を継続中である。
魏, 敏
近代の様々な外国文化は上海に伝わり、伝統的な中国文化と西洋文化が融合し、上海独自の「海派文化」を形成した。上海の華東政法大学の法律史学科は正にこの「海派文化」を意識しながら外国の法律、特に日本法を法規範や法文化等に関係する研究を推進し、中国に紹介している。古代より日中両国の法律交流は頻繁に行われており、それ故、古代、近代、現在に至っても、日中法律に関する研究は緊密な関係を持つ。中国法を比較の対象と想定するならば、日本法の不変原理は何であろう。日本法をより全面的に把握するために、外国からの視点が必要と言えるだろう。
蔡, 鳳書
これまでの中日古代文化交流歴史研究においては、文献記録の資料に主として依拠する場合が多かったが、戦後の五〇年間には中国、日本ともに考古学の研究成果が多い。この情勢により、両国の発掘調査の資料を利用し、中日文化交流史を研究することが必要になる。 中国の山東省と日本列島は間に海一つ隔て、昔から人間と文化の交流は存在した。特に紀元前後になると、このような交流は盛んになっていた。山東地区の物質文化と精神文明は日本列島に強い影響を与えた。山東省の古代文化は弥生文化に影響し、いろいろな面に表現される。例えば、金属製の道具と武器および大陸系石器の導入、稲作農耕の普及、信仰崇拝と観念の変化、埋葬習慣の多様化などが挙げられる。 山東省と西日本間の連結を出発点として、中日交流史の深い研究が可能になる。
光谷, 拓実 Mitsutani, Takumi
わが国では,歴史学研究者の多くが長年にわたって待ち望んでいた年輪年代法が1985年に奈良文化財研究所によって実用化された。年輪年代法に適用できる主要樹種はヒノキ,スギ,コウヤマキ,ヒバの4樹種である。年代を割り出す際に準備されている暦年標準パターンは,ヒノキが紀元前912年まで,スギが紀元前1313年までのものが作成されており,各種の木質古文化財の年代測定に威力を発揮している。考古学においては,1996年に,大阪府池上曽根遺跡の大型建物に使われていた柱根の伐採年代が紀元前52年と判明し,従来の年代観より100年古いことから考古学研究者に大きな衝撃を与えた。これ以降も,弥生前期・中期の広島県黄幡1号遺跡や古墳中期の京都府宇治市街遺跡などからの出土木材の年輪年代を明らかにし,弥生~古墳時代にかけての土器編年に貴重な年代情報を提供した。また,古建築については法隆寺金堂,五重塔,中門をはじめ,唐招提寺金堂,正倉院正倉などに応用し,成果を確実なものにしてきた。とくに正倉院正倉部材の年輪年代調査は,長年の論争に終止符を打つ結果となり,その成果は大きい。
藤沢, 敦 Fujisawa, Atsushi
日本列島で古代国家が形成されていく過程において,本州島北部から北海道には,独自の歴史が展開する。古墳時代併行期においては,南東北の古墳に対して,北東北・北海道では続縄文系の墓が造られる。7世紀以降は,南東北の終末期の古墳と,北東北の「末期古墳」,そして北海道の続縄文系の墓という,3つに大別される墳墓が展開する。南東北の古墳と,北東北の続縄文系の墓と7世紀以降の「末期古墳」の関係については,資料が豊富な太平洋側で検討した。墳墓を中心とする考古資料に見える文化の違いは,常に漸進的な変移を示しており,明確な境界は存在しない。異なる文化の境界は,明確な境界線ではなく,広い境界領域として現れる。このような中で,大和政権から律令国家へ至る中央政権は,宮城県中部の仙台平野以北の人々を蝦夷として異族視する。各種考古資料の分布から見ると,最も違いが不明確なところに,倭人と蝦夷の境界が置かれている。東北北部と北海道では,7世紀以降,北東北の「末期古墳」と北海道の続縄文系の墓という違いが顕在化する。この両者の関係を考える上で重要なことは,「末期古墳」が,北海道の道央部にも分布する点である。道央部では,北東北の「末期古墳」と強い共通点を持ちつつ,部分的に変容した墓も造られる。しかも,続縄文系の墓と「末期古墳」に類似する墓が,同じ遺跡で造られる事例が存在する。さらに,続縄文系の墓の中には,「末期古墳」の影響を伺わせるものもある。道央部では,「末期古墳」と続縄文系の墓は密接な関係を有し,両者を明確な境界で区分することは困難である。このような墳墓を中心に見た検討から見ると,異なる文化間の境界は,截然としたラインで区分できない。このことは,文化の違いが,人間集団の違いに,簡単に対応するものではないことを示している。
森, 勇一 Mori, Yuichi
日本各地の先史~歴史時代の地層中より昆虫化石を抽出し,古環境の変遷史について考察した。岩手県大渡Ⅱ・宮城県富沢両遺跡では,姶良―Tn火山灰層直上から,クロヒメゲンゴロウ・マメゲンゴロウ属・エゾオオミズクサハムシなどの亜寒帯性の昆虫化石が多産し,この時期,気候が寒冷であったことが明らかになった。縄文時代早期では,岐阜県宮ノ前遺跡よりヒメコガネ・ドウガネブイブイなどのコガネムシ科を主体に,水生昆虫を随伴する昆虫群集が確認され,湿地と人の介在した二次林の存在が復元された。縄文時代中期では,愛知県朝日・松河戸両遺跡などから冷温帯~亜寒帯性のコウホネネクイハムシが検出され,気候が冷涼であったと考えられる。弥生時代になると,日本各地の水田層よりイネネクイハムシ・イネノクロカメムシなどの稲作害虫と,ヤマトトックリゴミムシ・セマルガムシなどの水田指標昆虫が多く検出されるようになり,水稲耕作に伴い低地の改変が進み昆虫相が大きく変化したことが明らかになった。この時代の特徴には,もうひとつ人の集中居住に起因する食糞ないし汚物性昆虫の多産遺跡の存在があげられる。同じ地層からは,汚濁性珪藻や富栄養型珪藻・寄生虫卵なども検出され,農耕社会の進展とともに環境汚染が進行したことが考えられる。中近世は,ヒメコガネ・ドウガネブイブイ・サクラコガネ・クワハムシなどの食葉性昆虫の多産によって特徴づけられる。この時期,山林原野の開発が大規模に進められ,人間の居住域付近には有用植物が植栽され,里山はアカマツのみの繁茂する禿山になっていたと推定される。こうして,更新世から完新世に至る間の生物群集は,更新世においては気候変動が,完新世後半においては人間の与えた影響がきわめて大きかったことが明らかになった。
入間田, 宣夫 Irumada, Nobuo
北上川遊水地ならびに国道4号線バイパスの工事にともなう平泉柳之御所跡遺跡の発掘・調査は,「北方の王者」藤原秀衡のくらしぶりを甦らせる遺構・遺物の一端を検出することによって,学界内外に大きな反響を呼び起こした。遺跡の保存・整備をもとめる世論の高まりを作り出した。そればかりではない。保存運動のとりくみのなかで,数多くの研究発表がなされ,シンポジウムがくりかえされるなどのことがあった。そして,研究の飛躍的な発展がもたらされることがあった。遺跡の保存が決定されて,運動が一段落をみることになった現在,この辺りで,百花斉放・百家争鳴ともいうべき研究の状況を整理しておくに越したことはない。今後の展望を明らかにするためにも,それが必要である。そのような整理の作業の一例を,小論において試みることにしたい。そのさいに,取り上げるべきポイントは少なくない。だが,紙数には限りがある。ここでは,若干のポイントに絞って,作業を進めることにならざるをえない。堀の内・外の居住者をめぐって/平泉館・加羅御所・無量光院の3点セット/都市平泉の鎮守をめぐって,などのポイントがそれである。
三上, 喜孝 Mikami, Yoshitaka
本稿の目的は、韓国・咸安城山山城出土新羅木簡(以下、城山山城木簡と称す)の性格を、木簡の現状観察や、日本古代の城柵経営との比較を通じて、浮かび上がらせることにある。城山山城木簡は、考古学的な調査成果から、築城時に、城内の排水を円滑に行うための施設を造成するために、他の植物性有機物とともに集中的に廃棄されたことがわかり、つまり築城段階で廃棄されたことが明らかになった。木簡の大半は、各地から城内に運び込まれた食料に付けられた荷札木簡であり、築城にともなう労働の資養物として、慶尚北道を中心とする各地から運ばれた可能性が高い。日本古代の東北城柵から出土する木簡の中には、城柵へ貢進された食料に付けられた荷札だけではなく、それを城柵内で再分配するための記録簡や、城内で管理するための物品管理用付札など、多様な木簡が出土している。この点は、荷札が大半を占める城山山城木簡とは異なっており、六世紀後半の新羅の山城で木簡が使用されるようになる、初期段階の様相を示しているものと思われる。城山山城木簡が、築城時の労働力の資養物に付けられた荷札木簡であると想定した場合、古代日本の事例として参照されるのは、八世紀前半における、陸奥鎮所に対する地方豪族の私穀の運送である。『続日本紀』によれば、八世紀前半に、鎮兵の粮をまかなうために、板東諸国を中心とする郡領氏族に私穀を運送させ、その見返りに位階を与えるという政策を行っている。鎮兵制度の創設にあたり、陸奥国内だけで鎮兵の食糧を確保することが困難であったため、板東諸国の郡領氏族の私穀が期待されたものとみられる。城山山城木簡には、食糧の貢進者として外位を持つ人物もみえ、しかも慶尚北道各地から運ばれていることなどを考えると、食糧の貢進に各地の地方豪族がかかわっていたことは間違いなく、古代日本の初期の城柵経営と同様のあり方を想定することも可能なのではないだろうか。
平川, 南 Hirakawa, Minami
道祖神は、日本の民間信仰の神々のうちで、古くかつ広く信じられてきた神の代表格である。筆者は古代朝鮮の百済の王都から出土した一点の木簡に注目してみた。王宮の四方を羅城(城壁)が取り囲んでおり、木簡は羅城の東門から平野部に通ずる唯一の道付近にある陵山里寺跡の前面から出土した。木簡は陽物(男性性器を表現したもの)の形状を呈し、下端に穿孔もあり、しかも「道縁立立立」という文字が墨書されていた。おそらく六世紀前半の百済では、王京を囲む羅城の東門入り口付近に設置された柱に陽物形木簡を架けていたのであろう。日本列島では、旧石器時代から陽物形製品は、活力または威嚇の機能をもち、邪悪なものを防ぐ呪術の道具として用いられていたとされている。現在各地の道祖神祭においても、陽物が重要な役割を果している。古代においても、七世紀半ばの前期難波宮跡および東北地方の多賀城跡から出土した陽物形木製品は、宮域や城柵の入り口・四隅で行われた古代の道の祭祀の際に使用されたと考えられる。七世紀から一〇世紀頃まで「道祖」は、クナト(フナト)ノカミ・サエノカミという邪悪なものの侵入を防ぐカミと、タムケノカミという旅人の安全を守る道のカミという二要素を包括する概念であった。陽物形木製品を用いた道の祭祀は都の宮域や地方の城柵の方形の四隅で行われてきたが、一〇世紀以降、政治と儀礼の場の多様化とともに実施されなくなったと推測される。そして、平安京の大小路や各地の辻(チマタ)などに木製の男女二体の神像が立てられ、その像の下半身に陽物・陰部を刻んで表現し、その木製の神像が道祖神と呼ばれるようになったのである。近年の陽物形木製品の発見とその出土地点に着目するならば、道祖神の源流を古代朝鮮・日本における都城で行われた道の祭祀に求めることができるであろう。
Nobayashi, Atsushi
本稿では,台湾原住民族のパイワンが行なってきた狩猟活動の遺跡化を考察した。具体的には,罠猟によって実際に捕獲されたイノシシの下顎骨を動物考古学における基本的な手法によって定量的に分析すると同時に,罠猟の具体についての観察,記録を行ない,人間の行動とそれによって生じる潜在的な考古学資料との関係を明らかにした。考古学資料は様々な手法を用いて分析することはできても,その結果を解釈するためには,かならず解釈の材料となるモデルが必要となる。本研究が提示するデータ及びその解釈は,同様な出土遺物をもつ遺跡の機能や過去の行動を解釈する際に有効な民族考古学的モデルとなる。
高瀬, 克範
本稿の目的は,1)北海道島における縄文文化後期後葉の石錐の機能・用途を明らかにし,2)石錐をもちいた行為と社会の複雑化との関係の有無・内容を解明する点にある。分析対象は,千歳市キウス4遺跡から出土した石錐1315点である。分析方法は,石器使用痕分析のなかの高倍率法を採用した。分析の結果,1)石錐の機能は刺突ではなく穿孔である,2)石錐の主たる用途は皮革製品製作,土器の施文・補修および石製垂飾の製作にあり,副次的な用途として角・骨・貝の加工があげられる,3)平面形がI字形のもの・菱形のもの・不定形のものは黒曜石で製作されるものが多く,これらは土器施文・補修と皮革加工に利用される傾向がある,4)平面形がT字形を呈する一群は頁岩製が多く,これらは皮革加工とつよく結びついている,といった点が明らかになった。比較研究としておこなった千歳市美々4遺跡出土石錐162点の分析でも同様の傾向が確認されたが,くわえてI字形・菱形を呈するチャート製石錐は貝の加工具として利用されていることも明らかになった。キウス4遺跡内においては,石錐の各型式に分布の明確な偏りはなく,皮革製品の製作が特定の場所でおこなわれていたり,皮革資源が特定の分節集団によって制御されていたりする痕跡を見いだすことはできなかった。
綿貫, 俊一 Watanuki, Shunichi
旧石器時代後期の遊動生活から,半定住生活,定住生活へと生活・居住の形が次第に変化したのが縄文時代であるといわれている。その一方で遺物量,岩陰の狭小性などから四国山地の高原にある上黒岩岩陰のように定住的な生活の場所としての利用が考えられない遺跡もある。そこで上黒岩岩陰で具体的にどのような生活が行われ,半定住集落や定住集落が形成されていくなかで上黒岩岩陰の性格とはなにかを詳らかとするために,出土した石器と石器石材の組成について観察した。これまで定住集落を認定する際,磨石・敲石類の増加と竪穴住居・土坑などの存在に注意が払われてきた。住居・集落が固定しない旧石器時代の遊動社会・集落と違って,定住的な社会においては塩・翡翠・磨製石斧・黒曜石などで代表されるように遠隔地間の物流が活発化・安定化している。このような視点から上黒岩岩陰や周辺遺跡での遠隔地石材の比重を観察した。石材組成の観察結果,おそくとも上黒岩岩陰6層の頃から遠隔地産石器石材の増加が窺え,以後久万高原地域の遺跡や平野部周辺でも縄文時代を通じた推定遠隔地産石材が安定的に移入されている。したがって上黒岩岩陰6層以降に定住的な社会の到来を推定し,それ以前を半定住的な段階であると考えた。
伊庭, 功 Iba, Isao
滋賀県大津市域の琵琶湖底に所在する粟津湖底遺跡は,縄文時代早期初頭から中期前葉を中心とする時期に営まれ,琵琶湖においては数少ない大規模な貝塚を伴う遺跡である。1990~1991年に航路浚渫工事に伴って実施された湖底の発掘調査では,中期前葉の第3貝塚が新たに発見された。ここには貝殻や魚類・哺乳類の骨片とともに,イチイガシ・トチノキ・ヒシの殻が良好な状態で保存されていて,当時の動物質食料・植物質食料の両方を同時に明らかにした。これらをもとに,種類ごとの出土量を栄養価に換算して食料として比較を試みたところ,堅果類,特にトチノキが大きな比率を占めていることがわかり,従来から行われてきた推定を具体的に証明することができた。また,同じ調査区で早期初頭の地層からクリの殻の集積層も検出され,中期前葉とは異なる種類の堅果類が利用されていたことがわかった。この相違は早期初頭と中期前葉の気候および植生の相違によるものと推定される。また,第3貝塚から,日本列島において約50万年前に絶滅したと考えられてきたコイ科魚類の咽頭歯が発見され,この魚類が絶滅したのが約4,500年前以降であったことを示し,その絶滅には人の活動が大きく関わっていたことが推測された。このように,粟津湖底遺跡の調査は人の生業について具体的な事実を明らかにしたばかりでなく,それと環境変化との関わりをうかがわせる資料も提供した。
春成, 秀爾 Harunari, Hideji
ユーラシアの後期旧石器時代前半,オーリニャック期の約40,000年前に出現し,グラヴェット期の約33,000~28,000年前に発達した立体女性像は,出産時の妊婦の姿をあらわし,妊娠・安産を祈願する護符の意味をもっていた。しかし,グラヴェット期後半の約24,000年前に女性像は消滅する。そして,後期末~晩期旧石器時代マドレーヌ期の約19,000年前に線刻女性像や立体女性像が現れ,その時期の終わり頃の約14,000年前に姿を消す。日本では,大分県岩戸遺跡出土の石製品が女性像とすれば約25,000年前で,もっとも古い。愛媛県上黒岩遺跡から出土した立体女性像の石偶は14,500年前で,その後,13,000年前頃には三重県粥見井尻遺跡の土偶があり,縄文早期以降の発達の先駆けとなっている。後期末~晩期旧石器時代の立体女性像は,フランスのロージュリー=バス型,ドイツを中心とするゲナスドルフ型,ロシア平原のメジン型,シベリアのマイニンスカヤ型,日本の上黒岩型と粥見井尻型,相谷熊原型を設定することができる。ロージュリー=バス型はアングル=シュール=ラングラン型の岩陰の浮彫り女性像に,ゲナスドルフ型はラランド型の岩陰の線刻女性像またはホーレンシュタイン型の板石の線刻女性像に起源がある。ゲナスドルフ型の立体女性像は,腹部のふくらみはなく,乳房を表現した例は少なく,妊婦をあらわしているようにはみえない。しかし,ラランド型の線刻女性像に先行するペック=メルル型の線描女性像は,妊婦の姿をあらわし,さらにラ=マルシュ型の線刻女性像は出産時の妊婦を表現している。ゲナスドルフ型の立体女性像も,妊婦を記号化した表現と理解するならば,後期末~晩期旧石器時代の立体女性像も,後期旧石器時代前半の立体女性像と同様,妊娠を祈り出産を願う呪いに使った可能性がつよい。その背景には,最終氷期の極相期がつづくなかで世界的に人口が減少していた,あるいは不妊の傾向が顕著にあらわれていたという事情があったのであろう。ユーラシアには男根形の象牙に記号化した女性器を表現した男女交合の象徴物がある。ロシア平原のメジン遺跡の旧石器人は家屋内で,羽状文を施したマンモスの頭骨,下顎骨,肩胛骨を女性器にみたて,牙製の男根形拍子木でたたいて一種の音楽を奏でていた。立体女性像を妊娠・出産にかかわる護符とみるならば,それは妊娠あるいは出産を促す呪いの演奏であろう。上黒岩遺跡出土の棒状の石に羽状文や三角形を彫った線刻棒も,同様の目的をもって使用していた可能性がある。
平川, 南 Hirakawa, Minami
一九八七年に開催された国立歴史民俗博物館の共同研究「古代の国府の研究」の総括シンポジウムでは、国府における都市的機能や地域的広がりいわゆる国府域を設定することに対して否定的見解が目立った。しかし、その後、全国各地で国府跡の発掘調査が実施され、大きな成果をえたが、なかでも陸奥国府が置かれた多賀城跡の前面の大規模な調査によって、都城の都市計画の根本をなすものとされた方格地割が確認されたことは注目すべきである。さらに、都市成立の諸条件とされる方格地割地域における地区構成と各地区の計画的建物配置、交通体系の結節点、都市祭祀空間の設定、生産体制の集中などの点において、発掘調査等で数多くの成果が得られたのである。しかし先の総括シンポジウムを踏まえて、井上満郎氏は、国府が都市として成立するためには一定の境界概念やさまざまな都市規制が確認されなければならないが、国には郡という行政区画から切り離されたいかなる区画も存在しておらず、つまりは国府には都市規制が存在しようがないのであって、国府を古代都市とは考えられないと指摘している。そこで、国府における都市規制の条件について検討した結果、大略は次のとおりである。多賀城前面地区における方位規制は大路・小路と建物および溝などに及んでいる。また国府域の問題については、多賀郡、宮城郡を経て、権郡の多賀郡・階上郡の領域は、『和名類聚抄』宮城郡の多賀郷・科上郷に継承され、やがて留守職による高用名という形で、国府一帯の特別行政区として建てられた所領に引き継がれている。さらに郡家所在郷が他郷と異なっていた点を出土文字資料で証明し、国府所在郡も他郡と異なる条件を整えていたであろうという見通しを立てた。以上の点を総合的に判断するならば、多賀城は、いまだ不確定要素を含みながらも、古代の都市の諸条件をほぼ満たしており、多賀城を古代地方都市とみなすことができるであろう。いまだ広範囲の調査を実施していない一般諸国の国府については、以上の多賀城の諸条件を及ぼしうるかどうかは、現段階では結論づけがたいので、今後の課題としておきたい。
能城, 修一 吉川, 昌伸 佐々木, 由香
この30年間に行われた植物考古学の研究から,約7000年前にはじまる縄文時代前期以降,本州の中央部から東北部では,人々は集落周辺の植物資源を管理して利用していたことが示されている。この植物資源管理は日本列島に在来のクリと中国大陸から移入されたウルシを中心として行われ,縄文時代の人々は植物資源を管理するとともに,クリの果実と木材を,またウルシの漆液と木材,果実を集落周辺で活用していた。しかしこの2種の植物遺体の出土状況は大きく異なっている。縄文時代の遺跡出土木材では,クリは本州中部から東北部および北海道西南部の406遺跡から出土しているのに対し,ウルシは本州中部から東北部の35遺跡から出土しているにすぎない。また両種が出土している遺跡で,花粉と木材の出土量を比較すると,クリの植物遺体はウルシの植物遺体の10~100倍ほど出土している。縄文時代の漆器の出土状況から考えると,本州の中央部から東北部では普通にウルシ林が維持されていたと考えられるのに,なぜウルシとクリに出土状況の違いが生じるのかを下記の三つの仮説をもとに検討した。第一の仮説は,クリに比べてウルシが植栽される集落が限定的なので,ウルシの植物遺体の検出例が少ないという考えである。第二の仮説は,クリに比べてウルシの植栽地が内陸側に位置していて,植物遺体が埋積する低地から遠いために,植物遺体として残りにくいという考えである。第三の仮説は,縄文時代の集落周辺にはウルシ資源よりもクリ資源のほうが多く維持されていたために,クリの植物遺体に比べてウルシの植物遺体の検出率が低いという考えである。検討の結果,第二の仮説がもっとも支持されたが,集落を地域規模で比較する場合には,第一の仮説も意味を持つことが明らかになった。
福島, 雅儀 Fukushima, Masayoshi
縄文時代中期から後期に移る期間,土器型式で4型式程度である。土器編年の相対的時間からみれば短い時間幅である。ところが炭素年代測定による絶対年代によれば,それは500年以上の時間であるという。これが正しいとすれば,これまでの考古学的解釈は大きく見方を変えなくてはならなくなった。そこで小論では,阿武隈川上流域の柴原A遺跡と越田和遺跡の発掘調査成果をもとに当時の集落変化について考えてみた。縄文時代中期末葉の集落の中心施設は,複式炉をともなう竪穴住居である。このほか水場遺構と土器棺墓が検出される程度である。後期初頭には,石囲炉をともなう4本主柱の竪穴住居が造られ,屋外土器棺墓が増加する。また掘立柱建物も受容される。続いて,掘立建物が増加するとともに,柄鏡形敷石住居・石配墓も導入される。さらに後期前半でも新しい段階の柴原A遺跡では,平地式敷石住居,広場,石列,石配墓群,焼土面による集落に変化した。東北地方に広く分布するとされた複式炉も,上原型に限定するとそれは阿武隈川上流域から最上川上流域,阿賀川流域に特徴的な炉であった。また石囲炉を伴う4本柱穴の住居は,阿武隈川上流域に限定的に分布している。敷石住居においても,柄鏡の柄が大きく発達した平地式敷石住居は,やはり阿武隈川上流域を主な分布圏としている。そして,集合沈線による地域色を持った土器が作られている。阿武隈川上流域は,仙台湾沿岸地域と関東平野を結ぶ通路ではあったが,この時期,南北の両地域とは異なる特異な生活様式を創造していたといえよう。また,この期間土器型式が連続していた遺跡でも,営まれた集落は断続をくり返していた。集落の規模も20名程度であった。大規模に見えた集落も小集落の重複による累重の結果であった。
箱﨑, 真隆
年輪年代法は,誤差0年の暦年代を木材資料に付与できる優れた年代測定法である。欧米で広く利用されている同法であるが,日本を含めた北東アジア地域では限定的な利用に留まっている。その最大の理由は,年代測定の物差したる「標準年輪曲線」が限られた樹種でしか構築できていない点にある。2010年代に日本で飛躍的に発展し,実用化に至った「酸素同位体比年輪年代法」は,一つの標準年輪曲線で理論上あらゆる樹種の木材資料の年代決定を可能にし,この状況を打破した。本論では,韓国南部の低湿地遺跡から出土した広葉樹の木材資料に,酸素同位体比年輪年代法を適用し,年代決定に至った事例についてレビューする。金海市退来里1057-1遺跡建物遺構群では,木柱6点の年代が西暦287〜333年と決定した。慶州市月城垓子(堀)跡では,木柱5点の年代が西暦424〜433年と決定した。これらの木材資料に暦年代を与えたのは日本の針葉樹から構築された標準年輪曲線であった。これらの研究によって,韓国の三国時代の木材資料に初めて誤差のない暦年代が付与された。また,日韓の年輪年代学者,考古学者の交流が深まり,研究協力体制の構築にも繋がった。
吉川, 真司 Yoshikawa, Shinji
奈良県明日香村奥山に所在する奥山廃寺(奥山久米寺)は,620~630年代に創建された古代寺院と考えられ,古代文献に見える小治田寺に比定されている。しかし,小治田寺の創建事情については,いまだ確固たる定説がない。そこで本稿では,古代~中世の関連史料を読み直すことによって,おおむね次のような結論を得た。一,飛鳥の小治田寺は7世紀後葉には筆頭格の尼寺であり,8世紀になっても天皇家と深い関わりを有していた。平城遷都とともに平城京北郊への移転が行なわれ,新寺も小治田寺と呼ばれたことが確認される。二,平安時代以降の史料に見える奈良の大后寺は,その地理的位置から見て,平城小治田寺と同一実体と推定することができる。平城遷都以前から,小治田寺は大后寺という法号を有していたと見るのが自然であろう。三,『簡要類聚抄』に記された大和国の大后寺領荘園群は,中ツ道の陸運と大和川の水運を押さえる場所に計画的に配置されており,その背後に巨大な権力・財力の存在が窺われる。これらの荘園は小治田寺が創建されて間もない時期に施入されたと考えられ,その立地は奥山廃寺式軒瓦の分布とも照応する点がある。四,小治田寺は,推古天皇の死を契機として創建された小墾田宮付属寺院と推測され,その意味で,倭国最初の勅願寺・百済大寺の先蹤をなすものと評価することができる。
坂本, 稔 今村, 峯雄 Sakamoto, Minoru Imamura, Mineo
長野県川原田遺跡から出土した縄文土器43点について,胎土中の微量成分であるベリリウムの同位体(10Be,9Be)を測定し,土器型式および鉱物組成との比較を行った。10Beは大気圏上層で宇宙線の作用により作られ,降下して堆積物に取り込まれるため,その濃度は粘土層の堆積環境を示す指標とされる。一方9Beは始源的な物質で,岩石学的な特徴を示す。10Beとベリリウム濃度との関係を示したグラフからは,川原田遺跡を特徴づける焼町類型土器,および勝坂式土器はほとんどが類似した値を示す一方で,阿玉台式などの外来系の土器はそのグループから外れることが読み取れる。土器胎土の岩石,鉱物組成を分類した水沢氏の結果と比較すると,やはり該当数の少ない例外的な土器が特徴的なベリリウム同位体比を示している例が多い。異なる方法によるグルーピングが類似した傾向を示したことは,土器の胎土および混和材の起源について有意な束縛条件を与えうるものとして注目できる。
齋藤, 努
神奈川県津久井郡(現在の相模原市)の津久井城御屋敷跡(16世紀後半)から出土した金粒付着かわらけに含まれている微細な金粒子を透過X線撮影によって検出し,そのうち表面に露出している5点を,マイクロフォーカス型蛍光X線分析装置で元素組成分析した。いずれからも,金粒に由来すると考えられる金,銀が見出された。銅も検出されているが,金粒が微細であることと,据置型蛍光X線分析装置によって周辺の付着熔融物にも銅が含まれていることがわかったので,金粒そのものに含まれているものか,付着熔融物に含まれているものか,あるいはその両者に由来するのか,判定できない。本分析資料の熔融物には,特徴的な元素として亜鉛が含まれていた。甲斐周辺の遺跡では,中山金山遺跡や甲府城下町遺跡の資料からも検出されており,化学組成とこれらの遺跡の年代のみで判断すると,甲斐から金がもたらされたとみることもできる。しかし,歴史的にみると,本分析資料は天正年間以降の,武田氏と後北条氏の関係が悪化していた時期のものと捉えられ,甲斐から金がもたらされたとは考えにくい。金・銀・銅・鉛・亜鉛などが一連の熱水鉱床で形成されていくことを勘案すると,駿河や伊豆の金山の可能性を考えておいた方がよい。特に,亜鉛が検出された中山金山と同じ鉱脈に属する富士金山には,注意を払っておく必要がある。神奈川県小田原市の小田原城跡御用米曲輪(16世紀後半)から出土した金箔かわらけ等を据置型蛍光X線分析装置で元素組成分析した。木の葉形金具と金箔片は,かわらけに付着している金箔とは異なる組成であり,異なる工程で作られたと考えられる。また,かわらけごとの金箔の組成の違いや,同一のかわらけ内でも金箔の分析部位による組成の違いなどが見出された。これらからみて,金箔はいずれも金,銀,銅を混合した合金として作られてはいるが,混合比率がわずかずつ異なる金箔が混在して使用されていることがわかった。
若狭, 徹
東国の上毛野地域を軸に据えて,古墳時代の地域開発と社会変容の諸段階について考察した。前期前半は東海西部からの大規模な集団移動によって,東国の低湿地開発が大規模に推し進められるとともに,畿内から関東内陸部まで連続する水上交通ネットワークが構築された。在来弥生集団は再編され,農業生産力の向上を達成した首長層が,大型前方後方墳・前方後円墳を築造した。前期後半から中期初頭は,最大首長墓にヤマトの佐紀古墳群の規格が採用され,佐紀王権との連携が考えられる。一河川水利を超えた広域水利網の構築,広域交通拠点の掌握という2点の理由によって,上毛野半分程度の範囲で首長の共立が推し進められた。また,集団合意形成のための象徴施設である大規模な首長居館が成立している。中期前半には東国最大の前方後円墳の太田天神山古墳が成立したが,河内の古市古墳群を造営した王権との連合の所産とみられる。この頃から東国に朝鮮半島文物が移入されることから,倭王権に呼応して対外進出・対外交流を行うために外交・軍事指揮者を選任したことが巨大前方後円墳の成立背景と考えた。中期後半には渡来人や外来技術が獲得されたため,共立の必要性は解消し,各水系の首長がそれぞれ渡来人を編成して地域経済を活性化させている。後期の継体期には,東国最大の七輿山古墳が成立したが,その成立母体が解消すると,複数の中型前方後円墳が多数併存するようになる。こうした考古学的な遺跡動態や,古代碑・『日本書紀』『万葉集』などの文献の検討を合わせて,屯倉の成立と地域開発の在り方を考えた。武蔵国造の乱にも触れ,緑野屯倉・佐野屯倉の実態ならびに上毛野国造との関係性についても論及した。
李, 秀鴻 Lee, Soo‒hong
本稿では,これまで調査された韓半島南部地域の青銅器~三韓時代の環濠遺跡48ヶ所を集成し,環濠の時期ごとの特徴や性格,変化の傾向を検討した。韓半島南部地域において環濠は,青銅器時代前期には登場しており,清原大栗里遺跡で確認できる。幅の狭い3列の溝が等高線方向に曲走する。出土遺物からみて遼寧地域から直接移住した集団が築造したものと判断できる。青銅器時代において環濠の成立および拡散が明瞭に確認できる時期は,青銅器時代後期である。この時期には,大部分の環濠が嶺南地域に集中的に分布し,その中で地域的な差異も看取できる。まず,蔚山圏ではすべて丘陵上に分布し,1列の環濠がムラの周りを取り囲む形態が多い。地形や立地の特徴から,儀礼空間を区画する性格があったと判断できる。本稿では,環濠自体と環濠が眺望できる集落からなる結合体を,拠点集落と把握した。一方で,晋州圏では主に沖積地の大規模な集落に環濠が備わっている。木柵をともなう場合もあり,防御もしくは境界という機能がより強かったようである。ただし,防御といっても必ずしも戦争の際の防御だけではなく,野生動物の脅威にも対応した施設であった可能性もある。環濠が大規模な集落に設置されているため,拠点集落の指標となることは蔚山圏と同様である。環濠の成立は,青銅器時代の前期と後期の画期と評価でき,大規模な土木工事である環濠の築造を可能にした有力な個人の登場を推測することができる。三韓時代の前期には,韓半島の広い範囲に環濠遺跡が分布する。この時期には儀礼遺構としての意味が極大化する。1列の主環濠の外部に同一方向の幅狭の溝が並行するものが一般的な形態である。山頂部に円形に設置する例が多い。三韓時代の後期には環濠遺跡の数が急減する。これらは木柵をともなったり,環濠の幅が広くなったりしており,社会的緊張による防御的性格が強くなるように見受けられる。三韓時代後期に環濠が急減するのは,中国や高句麗から土城が伝来し,各地の国々が統合する過程において,地域の小単位としてあった環濠集落もより大きな単位への統合されていくためと考えられる。
吉川, 昌伸 工藤, 雄一郎 Yoshikawa, Masanobu Kudo, Yuichiro
下宅部遺跡の縄文中期から晩期の植生と植物利用の変遷,アサとウルシの分布を明らかにすることを目的に,主に炭素年代が得られている試料で花粉分析を行った。下宅部遺跡の植生史は,花粉化石群と年代に基づき4つの植生期に区分され,下位よりクリ林が優勢な時期(約5300‒4400 cal BP;縄文中期中葉~後葉),トチノキ林とクリ林期(約4200 cal BP;後期前葉),エノキ属-ムクノキ属とトチノキ林期(約3800‒3400 cal BP;後期中葉),クリ林の拡大期(約3200‒3000 cal BP;晩期前葉~中葉),コナラ亜属とクマシデ属-アサダ属,カエデ属を主とする落葉広葉樹林期(約3000‒2800 cal BP;晩期中葉)が認められた。縄文中期中葉には河川傍にクリ林が形成され活動的な生業があったが,後期前葉~中葉にはクリ材の利用により河川傍のクリ林が段階的に縮小し,その後にトチノキが拡大したことが明らかになった。クリは後期後半には河川傍から少なくなるが,晩期前葉には再びクリ林が拡大した。アサ畑は周辺にあった可能性があり,ウルシの雄株は近くには生えていなかった。
佐々木, 由香 小林, 和貴 鈴木, 三男 能城, 修一 Sasaki, Yuka Kobayashi, Kazutaka Suzuki, Mitsuo Noshiro, Shuichi
縄文時代の編組(へんそ)製品は,破片で出土する場合が多く,全体像や用途が不明な場合が多い。また脆いため,素材となる植物の種類が同定される事例は出土量と比べて少ない。しかし民具をみる限り,編組技法と素材となる植物は製品の用途(機能)と密接に関わっている。したがって,素材を同定する作業は,編組製品の素材となる植物が明らかになるだけでなく製作技法や用途を検討する上でも重要である。東京都下宅部(しもやけべ)遺跡では,縄文時代中期中葉から晩期中葉までの編組製品50個体と製品の素材植物を束にした素材束2個体が出土しており,残存状況も良かった。本稿では,既報の素材植物の同定結果に加えて,編組製品7個体と素材束1個体についてパラフィン包埋切片法による同定を行い,素材となる植物の種類と加工方法について検討した。この結果,下宅部遺跡出土の22個体の編組製品と1個体の素材束には,タケ亜科が用いられ,その母植物はアズマネザサと推定された。さらにパラフィン包埋切片法による素材の断面形状の観察によって,タケ亜科の稈を割り裂いた後に内側が人為的に削られて,厚さが調整されている様相が植物組織から初めて明らかになった。また製品に使用されている素材は,未成品の割り裂いた素材束と比べると薄く,素材束の素材も現生の稈(かん)の厚さよりも薄く,加工段階によって厚みが調整されていた。下宅部遺跡の結果をふまえ,既報の縄文時代の編組製品の素材となる植物に注目し,素材として用いられた植物の地域性について検討した。
木下, 尚子
本論は,ヤポネシア科研共同研究の一環としておこなった貝殻の年代測定結果にもとづく貝交易研究の成果である。沖縄諸島の遺跡に残る貝殻集積を対象に,79個(23遺跡,37基)のゴホウラ・イモガイの炭素14年代を測定し,Marine20による較正暦年代を整理・分析して,沖縄と九州間に継続した弥生時代の貝交易の全体像について以下をのべた。紀元前12世紀から9世紀,黒潮海域にはサンゴ礁海域を南北に移動する奄美・沖縄の貝塚人と九州の縄文人による,ゆるやかな情報網が形成されていた。両者の関係は,南九州を介した間接的なものであった。紀元前8世紀,この情報網にのって九州の支石墓人・弥生人が南下して沖縄の貝塚人と接触した。ここで貝塚人が弥生文化のいくつかの要素を受け入れたことから両者間に直接的な交流が実現し,間もなく弥生人によるゴホウラとイモガイの交易が始まったと考えられる。沖縄本島の木綿原遺跡は,この間の変化を継続的に示す墓地である。貝交易の開始期は,沖縄の仲原式土器の時期,北部九州では板付Ⅰ式期にあたり,弥生時代の早い段階で沖縄・九州間の経済活動が始まっていたことがわかる。貝交易に伴って沖縄諸島各地には,交易用の貝殻を集めた貝殻集積が残された。これらは輸出用の貝輪粗加工品を作るための貝殻資材及び完成した粗加工品,並びに輸出用の貝殻そのものを対象とした交易用の保管施設であった。集積された貝殻の年代と出土位置の分析を通して,貝交易の拠点的な遺跡の貝殻集積が,古い時期の貝殻を含みながら継続的・断続的に使用されていたこと,一般の集積は短期間の使用であったことが明らかになった。九州弥生人による貝殻消費は紀元2世紀中頃にはほぼ収束し交易は衰退するが,紀元4世紀に近畿地方の古墳人による新たな消費が始まる。一方沖縄諸島では紀元200年前後の年代を示す貝殻集積がみられなくなる。消費地と貝殻提供地の動向が相互に呼応していることがわかる。
堀部, 猛
古代の代表的な金属加飾技法である鍍金は、水銀と金を混和して金アマルガムを作り、これを銅製品などの表面に塗り、加熱して水銀を蒸発させ、研磨して仕上げるものである。本稿は、『延喜式』巻十七(内匠寮)の鍍金に関する規定について、近世の文献や金属工学での実験成果、また錺金具製作工房での調査を踏まえ、金と水銀の分量比や工程を中心に考察を行った。古代の鍍金については、今日でも小林行雄『古代の技術』を代表的な研究として挙げることができる。専門とする考古資料のみならず、文献史料も積極的に取り上げ、奈良時代の帳簿からみえる鍍金と内匠式の規定を比較することを試みている。しかしながら、内匠式における金と水銀の分量比をめぐっては、明快な解釈には至っていない。氏の理解を阻んでいるのは、奈良時代の史料が鍍金の材料を金と水銀で表すのに対し、内匠式が「滅金」と水銀を挙げていることにある。「滅金」が何を指し、水銀の用途は何であるのか、また、なにゆえこうした規定となっているのかが課題となっている。内匠式では「滅金」は金と水銀を混和した金アマルガムを指し、その分量比は一対三としている可能性が大きいこと、それに続く水銀は「酸苗を着ける料」として梅酢などで器物を清浄にする際に混ぜ、また対象や部位によりアマルガムの濃度を調節するのに用いるものとして、式が立てられていると解した。鍍金の料物を挙げる内匠式の多くの条文では、水銀が滅金の半分の量となっており、全体に金と水銀が一対五の分量比となるよう設定されている。この分量比は、奈良時代の寺院造営や東大寺大仏の鍍金のそれとほぼ同じである。
西本, 豊弘 Nishimoto, Toyohiro
弥生時代のブタの形質について,家畜化現象を見るポイントを説明した後,第1頚椎と上顎第3後臼歯の計測値を中心に検討した。まず,第1頚椎の形態では,朝日遺跡の資料によって,イノシシとブタを区別できることを示した。第1頚椎の上部は,イノシシでは高くなるのに対してブタでは低くなる。縄文時代や現代のイノシシの計測値を参考にすると,高さが長さの58%よりも高いものはイノシシで,それよりも低いものはブタと推定された。これは,ブタが餌を与えられるために,イノシシよりも首の筋肉を使う程度が低く,そのため首の筋肉の発達が弱くなり,それにしたがって骨の発達も悪くなるのではないかと思われる。この基準に従えば,朝日遺跡ではイノシシ類の15%がイノシシで85%がブタということになった。次に上顎第3後臼歯では,縄文時代のイノシシに比べて弥生時代のイノシシ類では小さくなっていることが明らかとなった。この縮小の程度は,縄文時代以降のイノシシの縮小の程度と比べてみても大きい。気候変化や人口増加・狩猟圧などを含む島嶼化現象だけではなく,家畜化の影響が歯を小さくした大きな要因ではないかと推測された。その他の部位では,これまでにも述べているように,ブタでは頭蓋骨が高くなることを,下郡桑苗遺跡出土の資料で説明した。また,下顎骨では連合部と下顎骨底部の延長線の成す角度が,ブタではイノシシに比べて大きくなることを説明した。
那須, 浩郎 Nasu, Hiroo
縄文時代晩期から弥生時代移行期におけるイネと雑穀(アワ・キビ)の栽培形態を,随伴する雑草の種類組成から検討した。最古の水田は,中国の長江中・下流域で,約6400年前頃から見つかっているが,湖南省城頭山遺跡では,この時期に既に黄河流域で発展した雑穀のアワ栽培も取り入れており,小規模な水田や氾濫原湿地を利用した稲作と微高地上での雑穀の畑作が営まれていた。この稲作と雑穀作のセットは,韓半島を経由して日本に到達したが,その年代にはまだ議論があり,プラント・オパール分析の証拠を重視した縄文時代の中期~後期頃とする意見と,信頼できる圧痕や種子の証拠を重視して縄文時代晩期終末(弥生時代早期)の突帯文土器期以降とする意見がある。縄文時代晩期終末(弥生時代早期)には,九州を中心に初期水田が見つかっているが,最近,京都大学構内の北白川追分町遺跡で,湿地を利用した初期稲作の様子が復元されている。この湿地では,明確な畦畔区画や水利施設は認められていないが,イネとアワが見つかっており,イネは湿地で,アワは微高地上で栽培されていたと考えられる。この湿地を構成する雑草や野草,木本植物の種類組成を,九州の初期水田遺構である佐賀県菜畑遺跡と比較した結果,典型的な水田雑草であるコナギやオモダカ科が見られず,山野草が多いという特徴が抽出できた。この結果から,初期の稲作は,湿地林を切り開いて明るく開けた環境を供出し,明確な区画を作らなくても自然地形を利用して営まれていた可能性を示した。
齋藤, 努
日本と韓国で出土した青銅資料について,鉛同位体比からみた原料の産地推定を行った結果をまとめた。韓国研究機関の研究者によって,韓国産鉛鉱石のデータが新たに報告されたことにより,これまで困難であった日本の古墳出土資料の原料の産地を推定できる可能性がきわめて高くなった。また一方で,韓国出土資料であっても,朝鮮半島産のほかに中国産の原料が使用されたと推定される場合があることもわかった。島根県の加茂岩倉遺跡出土銅鐸の分析からは,銅鐸の型式によって原料の産地が切り替わる時期が明確に示された。また本体と鋳掛部分との比較から,同じ原料を使用している場合と,鋳掛時に異なる産地の原料が追加されている場合があることがわかった。これまで取られてきた表示法(a式図,b式図)では,韓国産鉛鉱石のデータに,中国産や日本産鉛鉱石の分布範囲と重なる部分があり,これらを識別する有効な表示法をみつける必要がある。ただし,気をつけなければいけないのは,それらはあくまでも現在採取できる鉱山の試料だということである。出土青銅資料の原料の産地を推定するためには,それと同時期に稼働していた鉱山であるかどうか,原料の採掘地と資料の製作地との間につながりがあったかどうかなどを検証する必要があり,単に考古資料と数値を比較しただけで考察することはできない。韓国における,今後の鉱山遺跡や製錬遺跡の調査が待たれる。
かつて、わが国の衣裳において、現代デザインでは見られなくなった文脈が生きていた。 衣裳は、身体に着せられたばかりではない。古代には、普段の風景とは異なった桜柳や紅葉など美しい自然の情景が、神の衣裳にたとえられた。(みたて) 近世になると、「源氏ひながた」に見られるように、町人が古代の世界を模倣し、自分を物語のヒロインに想定して楽しんでいる。(もどき) 「友禅ひいながた」では、豪華な素材にはない軽さを大切にして、折りや刺繍とは異なる染め衣裳が流行する。そこに、それまでの価値観を否定した新しい美意識が誕生した。(やつし) 華やかな友禅が粋な小紋に変わって行くと、山東京伝の「小紋雅話」のなかに、中国伝来の有職文様を解体しながら遊ぶ批評精神が窺える。(くずし) 崇高な神の衣裳から下世話な庶民の衣服へと、衣を通して時代の生活意識を見ることができる。
吉田, 邦夫 佐藤, 正教 中井, 俊⼀
漆製品について,これまでの発掘を見ると,約9000年前とされる垣ノ島B遺跡の装身具を除くと,中国と日本列島の漆製品は,ほぼ同時代か,中国の方がやや古い。東〜東南アジアに分布するウルシ(漆樹)は3種類の系統が知られているが,主成分が異なり,日本・中国ウルシから採取される漆はウルシオールを含み,ベトナム漆はラッコール,ミャンマー漆はチチオールを含んでいるので,主成分を分析すれば識別できる。しかし,日本列島産と中国産は,主成分を分析しても,両者を識別することは出来ない。ストロンチウムSrはカルシウムCaと同様に,生育土壌から吸収され,植物組織に運ばれる。漆塗膜中のSrの同位体比⁸⁷Sr/⁸⁶Srは,ウルシが生育した場所の土壌の性格を反映する。日本列島産,中国産漆液資料について同位体分析をした結果,列島産は⁸⁷Sr/⁸⁶Srの値が,0.705-0.709であるのに対して,中国産は0.712-0.719であり,Sr同位体比により,両者が識別出来ることが示された。⁸⁷Sr/⁸⁶Srの値は,0.711を境にして,二つのグループにきれいに分かれる。日本列島は,起源や年代が異なる岩石が混ざっているが,平均すると,より古い時代にマントルから分化した中国大陸の岩石より若い年代をもち,⁸⁷Sr/⁸⁶Srの値は小さくなる。中国渡来の漆があれば,識別可能である。また,漆液・ウルシに含まれるSr同位体比は,土壌の交換性Srの同位体比を反映している。これまでに,主として縄文時代後期,晩期,弥生時代中期,平安時代などの資料について,¹⁴C年代を決定するとともに,Sr同位体比を測定した。埋蔵中の物理的・化学的作用は,同位体比に大きな影響を与えておらず,縄文時代の発掘資料についても,この手法が適用できることが示された。遺跡から,ウルシ,漆液,漆製品の三点セットが出土しているところも多い。三者の同位体比が一致して初めて,列島のその遺跡で得られた漆原料によって漆製品が製造されたことが実証される。これまでの分析例では,遺跡ごとにまとまった値を示し,漆は地産地消されている可能性を示している。
小林, 謙一 Kobayashi, Kenichi
縄紋時代・弥生時代・古墳時代・古代(北海道では続縄紋・擦文文化期)における居住活動は,主に竪穴住居と呼ばれる半地下式の住居施設が用いられている。竪穴住居施設は,考古学的調査によって,主に下部構造(地面に掘り込まれた部分)が把握され,その構造や使用状況が検討されている。竪穴住居は,a構築地点の選定と設計から構築(掘込みと付属施設の設置)→b使用(居住・調理・飲食などの生活)→c施設のメンテナンス(維持管理と補修・改修・改築)→d廃棄→e埋没(自然埋没・埋め戻し)の順をたどる。それぞれの行為に伴う痕跡が遺構として残されており,その時間的変遷はライフサイクルと整理される。ライフサイクルのそれぞれの分節が,どのくらいの時間経過であったかは,先史時代人の居住システム・生業・社会組織の復元に大きな意味を持つ。その一端として,ライフサイクル分節ごとにその程度の時間経過があったかを,出土試料の年代測定から推定したい。住居のライフサイクルのどの分節を測定するのかを把握していることが肝要であり,そのためには測定する試料に対する,セツルメントとしてのライフサイクルの位置を整理して把握することが重要である。今回はライフサイクルの分節aとした住居構築に関わる測定研究を,主として被熱住居の構築材に関する年代測定を中心に検討した。その結果,縄紋時代の被熱住居と古代の被熱住居の構築材の測定において,前者では5事例中4事例(参考事例を合わせると21事例中17事例)がほぼ同一の伐採年かつ想定される住居の帰属時期に近い年代が得られたのに対し,後者では古代では2事例ともまたは参考事例を加えた弥生から古代では10事例中6事例において一部に古い測定値を示す試料が認められ,古材の再利用例があったと考えられる。対応するライフサイクルの分析を考古学的に検討しつつ,多数の測定結果を蓄積・検討することで,住居自体の耐用年数・居住年数,その土地(セツルメント)に対する定着度(数百年の長期にわたる定住から数年程度の短期的な居住,季節的居住地移動を繰り返すなど),背景となっている生業(採集狩猟・管理栽培や焼畑などの半農耕・灌漑型水田などの農耕)や社会組織(集落規模,階級など)の復元につながる。課題として,試料自体の帰属や性格(後世の混入や攪乱を含む),遺構自体の技術・素材の問題(コールタールや獣油などを塗布する可能性)についても検討する必要があるし,第一に,同一遺構内で出土層位が明確など由来を追跡できるような,考古学的な文脈の明らかな試料を多数測定していく必要がある。
高橋, 圭子 東泉, 裕子
現代語の「もちろん」は「論ずる(こと)勿(なか)れ」という禁止表現から発生したと説明されることがある。近代以前のデータベースを検索すると、古代の六国史に代表される漢文体の文献では、「勿論」の用例は「論ずる(こと)勿れ/勿(な)し」という意味であり、否定辞「勿」と動詞「論」から構成される句であった。現代語とほぼ同様の意味の「勿論」の語の用例は、中世の古記録や『愚管抄』『沙石集』など和漢混交文体による仏教関連の文献から見られるようになる。用法は文末における名詞述語が主であった。近世には、ジャンルも文体も多様な文献に用いられ、文中や文頭における副詞用法や応答詞的用法も出現する。古代の禁止表現と中世以降の「勿論」の関連は不明だが、日本語のみならず中国語・韓国語においても漢字語「勿論」の研究が進められ、さまざまな知見が見出されている。通言語的な議論の深化が期待される。
坂江, 渉 Sakae, Wataru
小稿は,石母田正氏の研究を踏まえながら,『播磨国風土記』の地名起源説話にみえる「国占め」神話に光りをあて,その前提にある祭祀儀礼の中身と,古代の地域社会の実像解明に迫ることにした。その考察結果は,つぎの通りである。まず「国占め」神話は,『出雲国風土記』の「国引き」神話のような広大な領域の支配に関わる神話ではなく,事実上,村の「土地占め」神話と理解される。それは古代の族長層が,その土地(クニ)内部に住まう人(農民)たちを支配するためおこなっていた定期的な祭祀儀礼の中身を反映したものであった。史料から読み取れる具体的儀礼の中身としては,1つに,春先の稲作の予祝行事の一環として族長がその土地に杖を衝き立て,支配権と勧農権の可視的確認をおこなうセレモニーがあった。また5月の初夏の頃,「クニ」内部の農民たちを祭場に集め,彼らに対して,シカの血を付した「斎種」を分与,下行する勧農行事があった。さらに3つ目として,前2者の行事を前提として,秋の収穫期になると,見晴らしのよい高台などにおいて,神がかりした族長がその「クニ」の農民たちが作り,差し出した「飯」を食し,それを通じて人々に対する支配権を社会的に誇示・確認する行事があった。旧来の古代村落論では,村ごとの祭りのあり方をめぐり,儀制令春時祭田条などの史料にもとづき,「村首(むらのおびと)」や「社首(やしろのおびと)」などの族長層の祭り(季節的には春の祭り)の準備過程における経済的収取活動,あるいは祭礼の共同飲食の場への参加などの問題に関心が寄せられてきた。しかし風土記の「国占め」神話に眼を向けてみると,支配や領有関係を可視的に確認・強化させる目的の農耕祭祀儀礼そのもの,しかもそれが複数存在していたことが浮かび上がってきた。
上垣外, 憲一
雨森芳州(一六六八~一七五五)は長いこと対馬藩にあって、朝鮮関係の外交を担当していた。彼はまた朝鮮語、中国語に堪能だったことでも知られている。 当時の日本の儒学者たちは中国文明を中華と見なすかどうかをめぐって議論を繰り広げたのだった。荻生徂徠は、中国文化、それも古代の中国こそが最もすぐれているとした。言語においても中国語は日本語よりも優れ、その中国でも古代の言語が最高であるとした。なぜなら聖人は、日本でもなく西域でもなくまさに中国古代にのみ生まれたからである。 芳州はこのような中国文明の崇拝、中国中心主義を否定した。中国と周辺の「夷狄」の国々は貿易を通じて相互依存の関係にある。また言語についても芳州は中国語と日本語が、コミュニケーションの手段としては、等しい価値を持つと考えていた。ある国、ある民族の価値は、「君子と小人」の数の多い、少ないによってきまる、と芳州はいう。一民族の価値は歴史の中でその道徳水準、教育水準によって可変なのである。 このような相対主義的な思考法は、同じ十八世紀のヨーロッパにも見て取れる。ヴォルテールはその「寛容論」(一七六三)の中で一つの決まった宗教の優越を否定した。ドイツの劇作家レッシングは「賢人ナータン」の中でキリスト教、ユダヤ教、イスラム教の平等を主張している。宗教は人間性の基準によって評価されるのである。このようなヨーロッパの人道思想と興味深い類似点を持つ芳州の著作は、一人の徳川知識人がいかに相互依存的で平等主義的な世界像を形成していったかを、われわれに示してくれる。
大澤, 正己 Osawa, Masami
列島内の縄文時代晩期から弥生時代へかけての初期鉄文化は,中国東北部方面で生産された可能性の高い高温還元間接製鋼法にもとづく可鍛鋳鉄,鋳鉄脱炭鋼,炒鋼の各製品の導入から始まる。また,遺存度の悪い低温還元直接製鋼法の塊錬鉄も希れには発見されるが,点数は少ないのと銹化のためか,その検出度は至って低い。一方,弥生時代の鍛冶技術は,まだ稚拙であって原始鍛冶とも呼ぶべき状況にある。ます廃鉄器(鋳造鉄斧脱炭品破片)の砥石研磨再生から始まり,次に棒(条材),板の半製品を原料とした鏨切り,火炙り成形,砥石研磨による鉄器製作である。鍛冶素材の産地は,弥生時代後期前半頃までは中国側,後期中頃以降は,鉄生産の開始された朝鮮半島側に依存した形跡を残す。本格鍛冶となる羽口使用で,沸し,素延べ,火造りといった工程の開始は古墳時代の前期頃で,鉄鉱石・砂鉄原料の製錬開始は古墳時代中期以降まで待たねばならぬ。朝鮮半島側の製錬の開始は定かでないが,焙焼磁鉄鉱を原料とした石帳里遺跡のA・B区で3~5世紀の操業があり,更に遡るのは確実であろう。これに後続する遺跡として沙村製鉄遺跡が調査された。いずれも円形炉で,列島内の古墳時代後期に属する遺構が広島,岡山の両県でも検出されている。但し,列島内では大口径羽口(送風管)を伴わないので同系とみなすには議論の分かれる事となろう。列島内の円形炉は,砂鉄と鉱石の2通りの原料使用があり,焙焼技術は受継がれている。
春成, 秀爾 Harunari, Hideji
中国で,4000~2300年前(二里頭文化~戦国時代)に普及していた骨器に,豚や牛の下顎骨を利用して作った掻器(中国では「骨鏟」つまり土掘り具と考えている)がある。これまで確認したところでは,山西省・陜西省・河北省・河南省・遼寧省の諸遺跡から計約130点が見つかっている。豚の下顎骨を用いた掻器は,佐賀県宇木汲田の2500年前(弥生早期)の遺跡からも出土している。この遺跡にもっとも近い出土地は,遼東半島の羊頭窪と双砣子の例である。朝鮮半島からまだ1例も見つかっていないけれども,この骨器はおそらく遼寧地方から朝鮮半島を経て九州に伝わったのであろう。この骨器の刃部は片刃のヘラ状であって,滑らかな磨滅がのこっている。獣皮の内面の脂肪を除去してなめすと,光沢を伴う独特の磨耗痕が生じる。この骨器は脂肪を除くのに用いた掻器であると私は推定する。世界的にみると,皮なめしに古くから用いていた器具には,石製・骨製・鉄製の各種の掻器がある。日本の旧石器時代には石製のエンドスクレイパーが発達し,縄文時代には骨製のヘラがある。これらが皮なめしの道具だったのだろう。九州で見つかった豚の下顎骨を素材にして作った大陸系の掻器は,日本の最初の農耕文化―弥生文化のなかに中国の戦国時代の文化要素が加わっていることを示唆する重要な証拠となる。中国や日本で,この掻器を作り使っている人々は,豚を飼い,その肉を食べ,その皮革を加工した衣服を着ていたのであろう。
水澤, 幸一
本論文では,越後国奥山荘研究の全体を俯瞰する試みを提示した。まず,中世における奥山荘の立地を当時の地理的状況を整理して提示し,奥山荘がおかれていた新潟平野の状況を明らかにした。その結果,阿賀北地域で最も重要だったのは,阿賀野川の水運であり,湿地帯を縦横にめぐる水路網が荘園の存立基盤であったことがわかった。奥山荘は,東国では珍しく鎌倉時代以来の古文書を多数遺しており,鎌倉期の荘園絵図も2葉現存していることから,早くから研究が行われ,1984年の史跡「奥山荘城館遺跡」の指定とその後の調査,『中条町史』の刊行などを研究史抄としてまとめた。次いで,文献からみた奥山荘研究として,『中条町史』等によって城氏から三浦和田家の動向をまとめ,奥山荘の村々,境界,政所条の所在検討,城館,信仰と寺社,その他の風景,「越後過去名簿」からみた奥山荘といったテーマごとに概観し,現状をまとめた。そして考古学からみた奥山荘研究として,平成の約30年間に発掘調査された遺跡群について地域ごとに総覧し,それらの意義付けを行った。特に奥山荘中条の中心地と目される政所条遺跡群についての調査成果は,荘園の中心地の調査として注目される。また,中世石造物の分布等からの検討も実施した。以上のとおり,一荘園の調査法として,文献と考古学を両輪として活用し,研究の現状をまとめ,日本史における地域史研究の重要性について論述した。今後とも年々更新されていく考古学データを付加しつつ,地元からの情報発信を継続していく必要がある。
李, 亨源 Yi, Hyungwon
本稿は,突帯文土器と集落を使って韓半島の青銅器文化と初期弥生文化との関係について検討したものである。最近の発掘資料を整理・検討した結果,韓半島の突帯文土器は青銅器時代早期から前期後半(末)まで存続した可能性が高いことがわかった。その結果,両地域の突帯文土器の年代差はほとんど,なくなりつつある。したがって,突帯文土器文化は東アジア的な視野のもとで理解すべきであり,中国東北地域から韓半島の西北韓,東北韓地域,そして南部地域と日本列島に至る広範囲の地域において突帯文土器を伴う文化が伝播したことを想定する必要がある。集落を構成する要素のうち,これまであまり注目してこなかった地上建物のうち,両地域に見られる棟持柱建物,貯蔵穴,井戸を検討したところ,韓半島の青銅器文化と弥生文化との間には密接な関連があることを指摘した。集落構造では韓半島南部の網谷里遺跡と北部九州の江辻遺跡との共通点と相違点を検討し,とくに網谷里遺跡から出土した九州北部系突帯文土器の意味するものについて考えた。さらに青銅器中期文化において大規模貯蔵穴群が出現する背景には社会変化があること,初期弥生文化においてやや遅れて出現する原因を,水田稲作を伝えた初期の渡海集団の規模が小さく,社会経済的な水準あるいは階層が比較的低かったことに求めた。弥生早期に巨大な支石墓や区画墓のような大規模の記念物や,首長の権威や権力を象徴する青銅器が見られないのも同じ理由である。これは渡海の原因と背景を,韓半島の首長社会の情勢変化と気候環境の悪化に求める最近の研究成果とも符合している。
王, 秀梅
古代日本人の地質や地形に対する関わり方,考え方を万葉集の歌に見える「岩」の語と歌句から検討した。万葉集中,「イハ系列語」45 語は,133 首の歌に計140 例が挙げられる。本稿はそれらを語構成・意味属性の観点から分類した上,万葉集の部立分類に合わせて,その分布状況と詠まれた歌句の表現類型について考察し,次の結論を得た。歌句において使用頻度の高い語は,「イハ」,「イハネ」,「イハホ」,「トキハ」等である。部立分類で見れば,「岩」は相聞歌の歌句に最も多く現れるが,各部立内で占める割合と合わせて見れば,「岩」は挽歌に出現する頻度が高い。歌句に見える「岩」は主に,①険しい山道を構成し,恋や前進を阻む象徴,②水流などとの自然作用を心情に譬える際は,堅固の象徴,③現実世界と異なる空間,④風景の一部で永久不変の象徴,として詠まれており,「岩」と古代日本人との様々な繋がりが,日本文化における地質学的特質を反映している。
張, 莉 ZHANG, Li
非情物が主語になる受身(非情の受身と略す)は古代語においては動作・作用が非情物に働きかけてくるという出来事の意味を表すのは稀であり、状態の意味を表すと言われる。「状態」の意味が現代語においてどの程度の割合を占めるのか。現代語の非情の受身の「状態」の意味をどう捉えるべきか。本稿は、BCCWJを使い、述語動詞の構文形式を手掛かりに考察を行った。現代語の非情の受身の意味は、「状態」に限らず、「出来事」、「反復」など様々である。非情の受身は本質的には非情物主語が動作主の行為によって物理的な影響を受ける意味を表し、「状態」などは「動作主の行為によって物理的な影響を受ける」という意味に「る・ている」などが加わって生じた文全体の意味である。通時的に見ると、状態の意味の占める割合の変化も、現代語の非情の受身が古代、近代に比べて多様であるのも、文体や文章の特徴の変化、すなわち言語生活の変化によるといえよう。
幡豆の沿岸を舞台に、遺跡、港、漁業、元素分析、プランクトン、海藻、貝、エビ・カニ、魚、イルカ、環境学習、アクティブラーニングに 地域創生まで、私たちがおこなってきた様々な研究のエッセンスをまとめた一冊です。幡豆に暮らす方、幡豆を訪れた方に、また、幡豆を知らない 方にも、 幡豆の海をとりまく自然環境や文化社会に魅力を感じていただけると思います。
遠部, 慎 宮田, 佳樹 小林, 謙一 松崎, 浩之 田嶋, 正憲 Onbe, Shin Miyata, Yoshiki Kobayashi, Kenichi Matsuzaki, Hiroyuki Tajima, Masanori
岡山県岡山市(旧灘崎町)に所在する彦崎貝塚は,縄文時代早期から晩期まで各時期にわたる遺物が出土している。特に遺跡の西側に位置する9トレンチ,東側に位置する14トレンチは調査当初から重層的に遺物が出土し,重要な地点として注目を集めていた。彦崎貝塚では土器に付着した炭化物が極めて少ないが,多量の炭化材が発掘調査で回収されていた。そこで,炭化材を中心とする年代測定を実施し,炭化材と各層の遺物との対応関係を検討した。層の堆積過程については概ね整合的な結果を得たが,大きく年代値がはずれた試料が存在した。それらについての詳細な分析を行い,基礎情報の整理を行った。特に,異常値を示した試料については,再測定や樹種などの同定を行った。結果,異常値を示した試料の多くは,サンプリング時に問題がある場合が多いことが明らかになった。特に水洗サンプルに顕著で,混入の主な原因物質は現代のものと,上層の両者が考えられる。また,混入した微細なサンプルについても,樹種同定の結果,選別が可能と考えられた。これらの検討の結果,明らかな混入サンプルは,追試実験と,考古学的層位などから,除くことが出来た。また,9トレンチと14トレンチと2つのトレンチでは堆積速度に極端な差が存在するものの,相対的な層の推移は概ね彦崎Z1式層→彦崎Z2式層→中期層→彦崎K2式層→晩期ハイガイ層となることがわかった。今後,本遺跡でみられたコンタミネーションの出現率などに留意しつつ,年代測定試料を選別していく必要がある。そういった意味で本遺跡の事例は,サンプリングを考えるうえでの重要なモデルケースとなろう。
設楽, 博己 Shitara, Hiromi
東日本の初期弥生文化を特徴づける墓制は,再葬墓である。再葬は,いったん遺体を土中に埋めたりして骨になるのを待ち,再びそれを埋葬する葬法をさす。この時期,とくに壺棺が蔵骨器として多用されるために,そうした再葬を壺棺再葬の名で呼んでいる。壺棺再葬墓の葬法や葬墓制に関しては,解決しなくてはならない問題が山積しているが,なかでもその起源を明らかにすることは,もっとも重要な研究課題のひとつである。本稿は,壺棺再葬墓の起源をさぐる基礎作業として,最古の壺棺再葬墓遺跡のひとつと目される福島県根古屋遺跡の土器と抜歯について,その時期と系統を分析した。その結果,根古屋の土器棺はおおむね大洞A´式と氷Ⅰ式に並行する時期であることを確認した。そして,体部文様のモチーフの変遷と系統,文様表出手法や器形,地文などの分析から,根古屋の土器は在来の系統の土器に,中部東北地方などの強い影響が加わって成立したものであり,会津地方などの浮線文土器も流入しているが,その系統的な区分は比較的明確になされており,晩期の土器のありかたを踏襲していることを明らかにした。しかし,会津地方の技法と,中東北地方以北に顕著な技法がひとつの土器のなかに融合していることや,大洞A,A´式に系譜が求められる大形壺,甕から変化した大形壺の出現など,大形壺をめぐる新たな動きを重視した。抜歯のありかたも,土器と類似した特徴を示すことを確かめた。すなわち,関東,南東北地方の縄文晩期の抜歯様式を受け継ぎながらも,東海地方の影響で,抜歯過程が変容していることを指摘した。この時期の中部地方は稲作をおこなっていた可能性が議論されており,壺棺再葬墓の成立,西日本系抜歯による在来の抜歯の変容といった大きな文化変容の背景として,生産様式の異なる外来文化の影響を考える必要があること,そしてそれはすでに根古屋遺跡のなかに認められることを,土器と抜歯を通じて予察した。
三上, 喜孝 Mikami, Yoshitaka
律令国家により銭貨が発行されると、平城京や平安京などの都城を中心に銭貨が流通すると同時に、銭貨による出挙(利息付き貸付)が広範に行われるようになった。この銭貨出挙については、これまでも古代史の分野で膨大な研究蓄積がある。なかでも正倉院文書に残るいわゆる「月借銭解」」を素材とした研究により、古代の写経生の生活の実態や、各官司・下級官人による出挙運営の実態を明らかになってきた。だが古代の都市生活の中で銭貨出挙が果たした役割についてはなお検討の余地がありそうである。そこで本稿では、正倉院文書、木簡、六国史の記事を再検討し、銭貨出挙が都市民に果たした役割を総体的に検討した。正倉院文書の「月借銭解」(借銭文書)といえば宝亀年間の奉写一切経所のものが有名だが、宝亀年間より前の借銭文書からは、短期貸付の場合の無利息借貸、銭の運用のために貸し付けられた「商銭」、天皇の即位等にともなう「恩免」など、出挙銭のさまざまな存在形態をうかがうことができる。出土木簡からも銭貨出挙が平城京や平安京で広範に行われていたことが推定でき、借用状の書式の変遷を知る手がかりを与えてくれる。銭貨出挙の際に作成される借用状は、奈良・平安時代を通じて「手実」「券」などと呼ばれ、不整形な紙が用いられていた。平安時代の借銭文書の実物は残っていないが、書式は奈良時代の借銭文書のそれを踏襲していたとみてよいだろう。康保年間(九六四〜九六七)の「清胤王書状」の記載から、銭貨出挙のような銭貨融通行為が、銭貨発行が途絶える一〇世紀後半に至ってもなお頻繁に行われていたものとみられることは興味深い。銭貨出挙は律令国家による銭貨発行以降、都を中心に恒常的かつ広範に行われており、これを禁ずることは平安京における都市生活にとって支障をきたすことになったのであろう。それはとりもなおさず、平安京の都市生活における大規模な消費と深く関わっていたと考えられる。
網, 伸也 Ami, Nobuya
古代都城において「京」の空間に方形街区が形成されるのは天武朝以降であり、藤原京(新益京)には計画的な条坊街区が造営された。そして、平城京以後の諸宮では、「京」における条坊の存在が既成事実として議論されてきた。しかし、「京」は王権の所在地として周辺地域から視的あるいは理念的に区別される空間であり、方形街区としての条坊の有無は本質的に「京」の必要条件とはならない。実際に、奈良時代における「京」の概念には条坊街区の存在はあまり考慮されておらず、宮を中心に広がる特別な政治領域を「京」として捉えていたことがわかる。そして、宮城を取り囲む「京」に街区が形成される場合にも、計画的に条坊街区が造営される場合と、必要に応じて街区が造営されていく場合が想定できる。ここでは、まず都城成立期である藤原京の考察を行い、日本の古代都城がいかにして確立していったかを明らかにし、平城京をはじめとする奈良時代の「京」の実態分析を行った。その結果、古代都城の構造には、全体の京域条坊プランを計画的に設定し宮城もその計画線の中に収めていくタイプ(計画線閉合型)と、まず宮の造営を行い必要に応じて京域の条坊を施工していくタイプ(中軸線開放型)があることが判明した。厳密にいえば、全体の方形地割計画線を設定する前者のタイプは藤原京と平城京だけであり、その構造原理は形を変えて平安京にも引き継がれたと想定できる。その他の都城は宮の造営が先行し、宮の造営中軸線あるいは東西計画線を基準にして京域街区が形成された。長岡京も宮城の造営がまず先行して行われており、その京域にできるだけ計画的条坊を施工しようとした特殊な都城であったため、構造的矛盾を孕む結果となってしまったと考えられる。桓武天皇の再度にわたる平安京遷都は、特殊な長岡京造営の中で実現することができなかった計画的都城の完成をめざして行われたと考えられるのである。
鈴木, 康之
草戸千軒町遺跡は,広島県福山市に所在する13世紀中頃から16世紀初頭にかけて存続した集落の遺跡である。この集落は福山湾岸に位置する港湾集落で,鎌倉時代には「草津」,室町時代には「草土」などと呼ばれていたと考えられる。遺跡は,文字資料では明らかにしがたかった中世における民衆生活の実態を明らかにしたことが評価され,集落の住人は文字資料に記されることのない庶民が主体であったと考える傾向が強かった。しかし,発掘調査の成果にもとづき,集落の変遷過程を地域社会の動向のなかに位置づけていくと,集落の成立・停滞・再開発・終焉といった画期に,武家領主の動向が大きく影響をおよぼしていたことが考えられるようになった。本稿では,13世紀中頃から14世紀前半の鎌倉時代後期における集落変遷の背景に,鎌倉幕府の御家人で備後守護や長和荘地頭に任じられていた長井氏が関与していたことを想定した。発掘調査した集落の中核に位置する「中心区画」と呼ぶ区域の出土資料に注目すると,井戸には当時最も「格」の高い場所に存在した多角形縦板組の井側をもつものが集中し,木簡からは近隣地域との商品・金融取引の拠点として機能していたことがうかがえる。また,当時最先端の文化活動であったと考えられる闘茶が行われていたことを示す闘茶札が,中国産天目茶碗・茶入をともなって出土し,白磁四耳壺・青白磁梅瓶・吉州窯系鉄絵瓶子といった座敷飾りの陶磁器も出土している。ここに,「会所」に比定できる施設が存在していたことが想定できる。以上のような「中心区画」の卓越性は,この集落が武家領主の地域支配の拠点であったことを示していると考えられる。
犬飼, 公之
この論文は、古代日本人が、人間の生成をどうとらえたかを考える。 日本神話は、人間の創造を直接語ることはない。しかし、比喩的であるにしても、その語りの狭間から、人間の生成譚が見え隠れする。 国常立尊の生成譚はそのひとつであった。それのみならず、可美葦牙彦舅尊の生成譚においても、また、さらに多くの神々の生成譚においてもそれは潜在し、含みもたれる。日本神話において、人間の生成は、神の生成や国の生成と齟齬するものではなかったと見ることができる。 その生成の根源は「物」に求められた。先ず「物」が生成し、その「物に因りて」、神や人が成るというのである。それは「物実」による生成の論理として一括することもできるが、そのもっとも始源的に語られる「物」は、器物や動物や植物などではなく、「形貌言ひ難」い、非形の形(状)と言うべきものであった。ありとあらゆる生成のエネルギーが凝集して、軟弱に浮動してやまぬものであり、さまざまな生命力の身分偏在する混沌の状態を言うのである。その「物」が凝り、あるいは、分くことによって人間の生成は保障される。 それは古代日本人が人の身の「実(核)」(さね・むざね)を時に神とうけとめ、時に蛇や鰐などの動物とうけとめ、あるいは、桃や瓜の実などの植物とうけとめるに到る意識の基胎にあったものと思われる。また、古代中国において天地宇宙の生成と人間の生成が実質的にとらえられ、その根源を「気」によって説くあり方と類比的であることも認められるし、仏教における身の能造の論理、つまり、「地」「水」「火」「風」の四大の因種が和合して人間となるという論理を享受することの深淵の台座と成った意識であったと思われる。
神谷, 智昭 神谷, 幸太郎 上原, 三空 幸地, 彩
琉球大学国際地域創造学部地域文化科学プログラム社会人類学研究室神谷ゼミは2022年11月25日~27日に「久米島の農と文化」に関する現地調査を久米島でおこなった。久米島では在来農業とは異なる新しい農業に取り組む人びとがおり、その活動は地域貢献にもつながっていた。また学生の視点から久米島の遺跡や史跡について調べることを通じて新しい価値や意味の発見を試みた。
後藤, 雅彦 Goto, Masahiko
琉球列島と台湾、そして中国大陸側の福建,広東を中心とした東南中国を含めた沿海地域を「東アジア亜熱帯沿海地域」と呼び、先史時代の漁撈活動を中心に比較研究を行う。とくに、紀元前2000年以降、東南中国沿海地域の稲作定着期に漁撈活動が活発になる貝塚遺跡とその出土遺物(凹石、青銅製釣針)に焦点をあて、東南中国と東アジア亜熱帯沿海地域の先史漁撈文化に関する研究課題をまとめる。
官, 文娜
日本古代国家の成立から律令制の完成にかけての時期と見なされる六世紀から八世紀半ばにかけては、王位をめぐる争いが頻発した時期であると同時に王位の継承に関してもさまざまな特色を持つ、波乱に富んだ時代である。この時期、王位継承の最大の特徴は兄弟姉妹による継承である。一部の研究者はその姉妹を含んだ兄弟による継承を、直系継承制中の「中継」と考えていた。しかし筆者はその見解には賛成できない。以下、日本のこの時代の王位継承の実態、また中国古代の継承制における「兄終弟及」、直系継承およびそれを実行する条件、日本の女性継承などの問題について検討し、さらに日本古代社会における王位継承の特質を中心に血縁集団構造の分析もあわせて行いたい。 本論は以下の項目に分けて検討している。一、王位継承の意味、二、兄弟姉妹継承の実態と「直系」説、1、日本古代社会における兄弟姉妹継承と中国殷の「兄終弟及」、2、王位候補者と継承者の資格、3、直系継承と立太子、4、持統~元明天皇以後の立太子と譲位、三、女帝の継承、1、女帝登極の正統性、2、女帝の身分と女帝継承の性格。 以上の問題の研究によれば、この時代の王位の継承には以下の五つの特徴が見られる。第一に、継承者が成人しなければ王位に即けないという不文律があった。この不文律のもとで被継承者の兄弟(日本では姉妹も含む)は常に必然的に継承者となった。第二に、王位を継承した兄弟または姉妹はいったん王位に即けば、死ぬまで譲位しない。つまり、兄弟姉妹が即位すれば高齢になっても死ぬまで前帝の後裔にバトンを渡さなかった。それも不文律であった。このように日本において兄弟姉妹による継承は、直系継承制のもとでの一時的な補助としての「中継」とは異なるものであった。第三に、伝統に則り、勇力豪族の合議によって継承者を推戴していた習慣があるため、合議される継承者の範囲は被継承者の子だけではなく、兄弟姉妹および彼らの子も含む皇族内の全員が王位継承の資格を持っている。第四に、太子を立てても、その太子は必ずしも即位するわけではなく、立太子は往々にして形式的になる。また太子は前天皇の子に限らず、選定の仕方には、直系継承の意図は見られない。第五に、この時期には、皇族の女性は皇女でも皇女と皇后の二重の身分でも堂々と登極できたため、女帝が頻出した。 これらの特徴から明らかなように、日本において王位の直系継承は行われておらず、またそれはあり得ないことであった。なぜなら、日本では皇族の中で単位家族が未だ独立も、成立もしていなかったからである。中国においては、王を中心とする単位家族としての血縁集団内における権力、財産などの分配・相続の権利を守るために、王は必ず王の息子を継承者とする必要があった。日本では継承者は皇族内の全員から生み出され、またそれによって一族の権力や財産が守られた。そして、中国とは異なり、皇族内の女性も男性同様皇族としての成員資格を持っていたために、皇族内の極端な近親婚が行われ、その結果彼女らは皇后や女帝となり得たのである。こうした特徴はすべて血縁親族集団の構造がしからしめるものであった。 以上、本論文において日本古代における血縁集団構造の父系擬制的、被出自集団としての無系あるいは血統上での未分化のキンドレッドの性格が明らかになったと認識している。
千田, 嘉博 Senda, Yoshihiro
城郭プランは権力構造とどのように連関してできあがったのか。この問題を解くために、きわめて特徴的な城郭プランをもった南九州に焦点をあてて検討を行った。まず鹿児島県知覧城を事例に南九州の戦国期城郭の分立構造を把握した。そして城内に多数の武家屋敷が凝集し、それが近世の麓集落の直接の母胎になったことを確認した。ついで熊本県人吉城を事例に知覧城で確認した城郭構造ができあがった要因を検討した。この議論を進める上で重要なのは人吉城の城郭遺跡が完全な形で残されており、踏査を行うことで把握可能であったことである。そして『相良氏文書』や『八代日記』などの良好な史料を基盤として勝俣鎮夫と服部英雄が深めた戦国期相良氏の権力構造の問題を踏査成果とあわせることで再検討できたことである。この結果、人吉城の分立的な城郭プランは地形要因だけではなく、築城主体の権力構造の特色を反映してできたと結論づけた。そしてこうした築城主体の権力構造と城郭プランとの相関関係は日本列島の城郭・城下を遺跡に即して分析する都市空間研究を進める上で、重要な視座となることを指摘した。
宇野, 隆夫 Uno, Takao
考古資料が増大するに従い,これを扱う上で計量的分析を行なうことの意義が高まっている。大量の資料を計量することは大変な作業のようではあるが,同種の多くの資料について実測したり撮影したりすることと比べるならば簡単な仕事である。計量という方法を採用することは,報告書の作成においても労力を軽減する手段となるであろう。本稿は,まず計量の研究史から,これが近代考古学の成立期から存在した基本的な方法の一つであり,一度中断して後に,先学によって鍛えられてきたものであることを主張した。そして計量を行なうには体系的な分類が必要であること,計量結果は個々の遺物の属性レベルから,一括遺物,遺跡,地域,時代と色々の場で集計することが可能であって,集計から得られた各種の量あるいは組成は多くの目的に用い得ることを示した。多くの目的とは,編年,型式変化の意味,流通,階層性,遺跡や地域あるいは時代の特質の解明等である。そしてこの方法は遺物に限られるわけではなく,遺構を含めて遺跡のあらゆる要素について用いることが可能である。具体的な計量の方法としていくつかの計算例を比較し,属性レベルを含めて記録を行なうためには,一定量までの一括遺物については個体識別法,大量であったり個々の個性が少なく個体識別が難しい資料については口縁部計測法と破片数計算法を併用することが望ましいことを主張した。また従来の計量例から,破片数のデータを個体数に換算する係数を提示した。報告書において,統一的な方法による計量結果を記載する習慣が定着したならは,コンピュータが発達した現在,報告書の氾濫を嘆くことはなくなるであろう。なお次には本稿を基礎として,中世食器の階層性の復原を行なう予定である。
西谷, 大 Nishitani, Masaru
本稿は,大汶口文化諸遺跡で発見された仰韶文化の廟底溝類型系彩陶を取り上げ,この彩陶が,渭河流域,黄河中・下流域から山東地区の大汶口文化に伝播していく様態を追求することによって,廟底溝類型期の各地域間にみられる文化交流の中で,彩陶が具体的にどの様な意味をもつのかを考えようとするものである。まず,彩陶の各地域・遺跡での出土状況の相異に注目した。河南中部地域および渭水流域の仰韶文化地域において,廟底溝類型系彩陶は,他の土器とともに日常生活の中で使用されたと考えられ,彩陶を墓に副葬するといった習慣は低かったと推測した。次に,山東地区における大汶口文化早期では,廟底溝類型系彩陶が墓で副葬品として発見されることから,彩陶自体が本来有していた食生活用の容器という機能が,明器という機能へ変化したことを指摘し,さらに大汶口文化早期の山東地区では,仰韶文化の廟底溝類型系彩陶の一部の器形と文様を,選択的に取り入れたことを示した。最後に,大墩子・劉林遺跡の墓葬を分析することによって,廟底溝類型系彩陶を副葬するのは,墓域中,副葬品を多く有する裕福な人物の墓であり,彩陶は集団内での権威の象徴として取り扱われた確率が高いと推論した。いずれにしても大汶口文化早期段階の山東地区の人々は,彩陶を実に主体的に取り入れている。それは,本来日常容器であった彩陶を明器に用途を変化させたこと,また,廟底溝類型系の彩陶の中でも最も精緻で,複雑な文様のものを好んで使用したことに如実に現れている。大汶口文化早期の廟底溝類型系彩陶は,渭河流域・河南中部地域から,人の移住に伴って山東地区にもたらされたのではなく,むしろ物の交易を中心とした交流の中で出現したのだろうと思われる。
上原, 真人 Uehara, Mahito
額田寺では伽藍中枢に発掘のメスが及んでいないために,古代の堂塔にともなう瓦の実体は,ほとんどわかっていない。そのため,偶然採集された瓦など2次資料を主な材料に,額田寺の歴史と性格を検討せざるを得ない。検討に際しての方法論的な原則なども,あわせて言及した。額田寺の創建瓦である素弁六葉蓮華紋軒丸瓦は,従来「古新羅系」と評価されている。しかし,7世紀前半の日本の瓦の系統論には,解決すべき問題点がある。これに続く瓦は,中河内を中心に分布する西琳寺系列山田寺式軒丸瓦で,斑鳩地域の他の寺院には類を見ない。額田寺建立氏族が大和川舟運と密接に関わっていたことを示す。出土瓦から,古代額田寺は,7世紀前半に創建され,7世紀未にかなり整備されたことがわかる。この経緯は,法隆寺・法輪寺・法起寺など斑鳩地域の他の古代寺院と同じである。事実,軒瓦の紋様は各寺院ごとに独自の笵で製作しているが,7世紀末には法隆寺式軒瓦を共有する「斑鳩文化圏」内の一寺院として額田寺を位置づけることができる。しかし,「額田寺伽藍並条里図」に描かれた額田寺の伽藍は,中門の両側から延びる回廊が金堂にとりつき,中門と金堂の間に儀式空間を構成している。8世紀の平城宮遷都後に成立した伽藍配置である。法隆寺や法輪寺・法起寺など,斑鳩地域の他の寺院の伽藍配置とは決定的に違う。額田寺で最も多数出土している瓦は,外区に唐草紋がめぐる単弁八葉蓮華文軒丸瓦と平城宮系の唐草紋軒平瓦で,これが「額田寺伽藍並条里図」に描かれた伽藍配置の成立と密接に関わる。ただし,その伽藍が7世紀末までに造営した建物を全面的に建替えて成立したのか,それとも旧建物を取り込む形で,伽藍計画に変更を加えたのかは,今後の伽藍中枢部の発掘成果を待つほかはない。
市川, 秀之 Ichikawa, Hideyuki
肥後和男は『近江に於ける宮座の研究』『宮座の研究』の二書において宮座研究の基礎を築いた人物として知られる。同時に水戸学や古代史・古代神話などの研究者でもあり、肥後の宮座論はその研究全体のなかで位置づける必要があるが、これまでそのような視点から肥後の宮座論を評価した研究はない。肥後が宮座論を開始したのは、宮座の儀礼のなかに古代神話に通じるものを感じたからであり、昭和一〇年前後に大規模な宮座研究を開始したのちも肥後のそのような関心は衰えることはなかった。肥後の宮座に対する定義は数年におよぶ調査のなかで揺れ動いていく。調査には学生を動員したため彼らに宮座とはなにかを理解させる必要があったし、また被調査者である神官や地方役人にとっても宮座はいまだ未知の言葉であったため、その明確化が求められたのである。肥後の宮座論の最大の特徴は、村落のすべての家が加入するいわゆる村座を宮座の範疇に含めたことにあるが、この点が宮座の概念をあいまいにする一方で、いわば宮座イコールムラ、あるいは宮座はムラを象徴する存在とされるなど、後の研究にも大きな影響を与えてきた。現在の宮座研究もなおその桎梏から逃れているとは言い難い。肥後が宮座研究に熱中した昭和一〇年前後は、彼が幼少期から親しんできた水戸学に由来する祭政一致がその時代を主導する政治的イデオロギーとしてもてはやされており、神話研究において官憲の圧力を受けていた肥後の宮座論もやはりその制約のなかにあった。すなわち祭政一致の国家を下支える存在としての村落の組織としての宮座は、全戸参加すべきものであり、それゆえ村座は宮座の範疇に含まれなければならなかったのである。肥後の宮座研究は昭和一〇年代という時代のなかで生産されたものであり、時代の制約を受けたものとして読まれなければならない。宮座の定義についてもそのような視点で再検討が是非必要であろう。
柴田, 純 Shibata, Jun
柳田国男の〝七つ前は神のうち〟という主張は、後に、幼児の生まれ直り説と結びついて民俗学の通説となり、現在では、さまざまな分野で、古代からそうした観念が存在していたかのように語られている。しかし、右の表現は、近代になってごく一部地域でいわれた俗説にすぎない。本稿では、右のことを実証するため、幼児へのまなざしが古代以降どのように変化したかを、歴史学の立場から社会意識の問題として試論的に考察する。一章では、律令にある、七歳以下の幼児は絶対責任無能力者だとする規定と、幼児の死去時、親は服喪の必要なしという規定が、十世紀前半の明法家による新たな法解釈の提示によって結合され、幼児は親の死去や自身の死去いずれの場合にも「無服」として、服忌の対象から疎外されたこと、それは、神事の挙行という貴族社会にとって最重要な儀礼が円滑に実施できることを期待した措置であったことを明らかにする。二章では、古代・中世では、社会の維持にとって不可欠であった神事の挙行が、近世では、その役割を相対的に低下させることで、幼児に対する意識をも変化させ、「無服」であることがある種の特権視を生じさせたこと、武家の服忌令が本来は武士を対象にしながら、庶民にも受容されていったこと、および、幼児が近世社会でどのようにみられていたかを具体的に検証する。そのうえで、庶民の家が確立し、「子宝」意識が一般化するなかで、幼児保護の観念が地域社会に成立したことを指摘し、そうした保護観念は、一般の幼児だけでなく、捨子に対してもみられたことを、捨子禁令が整備されていく過程を検討することで具体的に明らかにする。右の考察をふまえて、最後に、〝七つ前は神のうち〟の四つの具体例を検討し、そのいずれもが、右の歴史過程をふまえたうえで、近代になってから成立した俗説にすぎないことを明らかにする。
神戸, 航介
本稿は日本古代国家の租税免除制度について、法制・実例の両面から検討することにより、律令国家の民衆支配の特質とその展開過程を明らかにすることを目指した。律令制において租税制度を定めた篇目である賦役令の租税免除規定は、(1)身分的特権、(2)特定役務に任じられた一般人民、(3)儒教思想に基づく免除、(4)民衆の再生産維持のための免除、の四種類に分類することが可能である。こうした構造は唐賦役令のそれを継受したものであるが、(1)は律令制以前の畿内豪族層の系譜を引く五位以上集団の特権という性格を持っていたこと、(2)は主として中央政府の把握のもとに置かれた雑任を対象とし、在地首長層の力役編成に依拠した地方の末端職員は対象とならなかったことなど、唐の制度を日本固有の事情により改変している。一方(3)(4)の免除は中国古来の家父長制的支配理念や祥瑞災異思想を背景とするもので、日本の古代国家はこうした思想を民衆支配に利用するため、租税免除規定もほぼそのまま継受した。六国史等における実際の租税免除記事を見ると、八世紀には(3)(4)の免除は即位や改元など王権側の事情、災異など民衆側の事情を契機とし、現行支配の正当性を主張するために国家主導で実施された。しかし九世紀になると、王権側の事情による租税免除は次第に頻度を減少させていくように、儒教的支配理念が民衆支配の思想としては機能しなくなる。災異の場合も王権主導の免除は減少し国司の申請による一国ごとの免除が主流になっていき、未進調庸の免除も制度的に確立するが、これは国司の部内支配強化に対応し国司を通じた地方支配体制の進展に対応するものであり、十世紀には受領に対する免除として再解釈されていた。ただし天皇による恩典としての租税免除の思想は院政期まで存在しつづけたのであり、ここに古代国家の最終的帰結を見いだすことも可能であろう。
榎村, 寛之 Emura, Hiroyuki
古代においても,私印は文書に捺されるのが最も普通の用途である。ところがまれに,焼成前の土器に捺した事例が見られる。生産窯や貢納主体の国や郡を表示するために印を土器や瓦に捺す例は少なくないが,私印を捺すという行為には,全く別の目的があったと考えられる。こうした数少ない事例のうち,三重県で報告された「寳」「桑名国依」の印を押したと見られる土器を調査したところ,印の文字に似せた陰刻とは考えにくく,前者は名前の1文字を採った印,後者は姓名ともに刻した印を捺したものと判断された。これらの印は,文書を取り扱える立場の地方官人層の所有物と見るのが妥当で,彼等が土器の生産段階のある時期に,特定の土器を選別して私印を捺していたものと考えられる。それは生産管理のために印を捺すよりも,私物であることを表示するために名前を墨書するのに類似した行為である。このような土器墨書は,祭祀や呪術に使う土器であることを表示したものという見解が出されている。これに関連した事例として注目すべきは,京都府で報告された製塩土器の中に私印を捺した事例である。製塩土器は消耗品で,長期に渡って所有するために捺印をしたとは考えにくい。むしろこの印は,中身の塩を生産の段階で弁別しておく必要があったから捺されたものと考えられる。すなわちこの場合は,首長層が祭祀などの特定目的のために生産した塩を表示するために捺したものと考えられるのである。同様に,祭祀などに用いるために特に発注した土器に対して,ほかの土器と区別するために私印を捺すということが古代には行われたのではないかと考えられる。また,その背景には,印自体に神秘性を見る古代人の意識をうかがうことができるだろう。
若林, 邦彦 Wakabayashi, Kunihiko
大阪平野の弥生時代遺跡については,弥生時代中期末の洪水頻発の時期に大規模集落が廃絶し,集団関係に大きな変化が生じたといわれてきた。また,水害を克服する過程として,地域社会統合が確立し古墳時代社会への移行が進行するとも言われた。本稿では,大阪平野中部と淀川流域の弥生時代~古墳時代遺跡動態を検証して,社会変化・水害・集団と耕作地の関係について論じた。大阪平野中部では,弥生時代の流水堆積による地形変化は数百m規模でしか発生せず,集落と水田のセットが低湿地に展開する様相に変化はない。淀川流域で弥生~古墳時代の集落分布変化を検証すると,徐々に扇状地中部・段丘上・丘陵上集落の比率が増え,古墳時代中期には特にその傾向は顕在化する。これは,4世紀後半・5世紀に集落が耕作地から分離していく整理された集団関係への変化と読み取れる。また,この時期は降水量が100年周期変動で進行する水害ダメージを受けにくい時代でもある。地域社会統合は洪水の影響をうけにくい時期にこそ,その環境を利用してそれへの対応の可能な社会へと変貌するのである。社会構造変化の方向性と環境要因の複合要因により,地域社会の実態は変質していくと考えられる。
藤原, 貞朗
一八九八年にサイゴンに組織され、一八九九年、名称を改めて、ハノイに恒久的機関として設立されたフランス極東学院は、二〇世紀前半期、アンコール遺跡の考古学調査と保存活動を独占的に行った。学術的には多大な貢献をしたとはいえ、学院の活動には、当時インドシナを植民地支配していたフランスの政治的な理念が強く反映されていた。 一八九三年にフランス領インドシナ連邦を形成し、世界第二の植民地大国となったフランスは、国際的に、政治、経済および軍事的役割の重要性を誇示した。極東学院は、この政治的威信を、いわば、学術レベルで表現した。とりわけ、活動の中心となったアンコールの考古学は、フランスが「極東」に介入し、「堕落」したアジアを復興する象徴として、利用されることとなった。学院は、考古学を含む学術活動が、「植民地学」として、政治的貢献をなしうるものと確信していたのである。しかし、植民地経営が困難となった一九二〇年代以降、学院は、学術的活動の逸脱を繰り返すようになる。たとえば、学院は、調査費用を捻出するために、一九二三年より、アンコール古美術品の販売を開始する。「歴史的にも、美術的にも、二級品」を、国内外の美術愛好者やニューヨークのメトロポリタン美術館などの欧米美術館に販売したのである。また、第二次大戦中の一九四三年、学院と日本との間で「古美術品交換」が行われ、学院から、東京帝室博物館に、「総計八トン、二三箱のカンボジア美術品」が贈られるのである。いわば、政治的な「貢ぎ物」として、日本にカンボジアの古美術品が供されるかたちとなった。 アンコールの考古学は、フランスの政治的威信の高揚とともに立ち上げられ、その失墜とともに逸脱の道を歩む。具体的な解決策を持たないまま一九五〇年代まで継続された植民地政策のご都合主義に、翻弄される運命にあったのである。アンコール遺跡の考古学の理念が、「過去の蘇生」の代償として「現在の破壊」を引き起こしてきたこと、アンコール考古学の国際的な成熟が、現地に多大な喪失を強いたという歴史的事実を確認したい。再び、アンコール遺跡群の保存活動が開始された現在、この歴史的事実を確認する意義はきわめて大きい。
坪根, 伸也
中世から近世への移行期の対外交易は,南蛮貿易から朱印船貿易へと段階的に変遷し,この間,東洋と西洋の接触と融合を経て,様々な外来技術がもたらされた。当該期の外来技術の受容,定着には複雑で多様な様相が認められる。本稿ではこうした様相の一端の把握,検討にあたり,錠前,真鍮生産に着目した。錠前に関しては,第2次導入期である中世末期から近世の様態について整理し,アジア型錠前主体の段階からヨーロッパ型錠前が参入する段階への変遷を明らかにした。さらにアジア型鍵形態の画一化や,素材のひとつである黄銅(真鍮)の亜鉛含有率の低い製品の存在等から,比較的早い段階での国内生産の可能性を指摘した。真鍮生産については,金属製錬などの際に気体で得られる亜鉛の性質から特殊な道具と技術が必要であり,これに伴うと考えられる把手付坩堝と蓋の集成を行い技術導入時期の検討を行った。その結果,16世紀前半にすでに局所的な導入は認められるが,限定的ながら一般化するのは16世紀末から17世紀初頭であり,金属混合法による本格的な操業は今のところ17世紀中頃を待たなければならない状況を確認した。また,ヨーロッパ型錠前の技術導入について,17世紀以降に国内で生産される和錠や近世遺跡から出土する錠の外観はヨーロッパ錠を模倣するが,内部構造と施錠原理はアジア型錠と同じであり,ヨーロッパ型錠の構造原理が採用されていない点に多様な技術受容のひとつのスタイルを見出した。こうした点を踏まえ,16世紀末における日本文化と西洋文化の融合の象徴ともいえる南蛮様式の輸出用漆器に注目し,付属する真鍮製などのヨーロッパ型の施錠具や隅金具等の生産と遺跡出土の錠前,真鍮生産の状況との関係性を考察した。現状では当該期の大規模かつ広範にわたる生産様相は今のところ認め難く,遺跡資料にみる技術の定着・完成時期と,初期輸出用漆器の生産ピーク時期とは整合していないという課題を提示した。
鈴木, 康之 Suzuki, Yasuyuki
中世の消費遺跡をめぐる考古学的研究では、近年、資料の計量分析がさかんに行われ、数多くの成果が蓄積されつつある。しかしその一方で、分析結果を解釈し、過去の人間活動を復元するための方法は十分に論じられてはいない。筆者は、考古資料から人間の消費活動を復元するためには、資料の形成過程についての分析が重要な役割を果たすと考えており、本稿ではまずMichael Schifferによる資料形成過程の概念を紹介した。Schifferは、考古資料に示される過去の人間活動の痕跡は当時から変化せず現代にもたらされたものではなく、さまざまな文化的・非文化的変換作用を経たものだと説く。さらに、変換作用が引き起こされる状況は「機能的文脈(現実の社会における関係)」と「考古学的文脈(遺跡・遺構における関係)」とに区分できることなどを示している。これらの指摘は、日本中世における消費活動を考古学的に分析する上でも参考になる点が多い。形成過程分析の具体的事例として、草戸千軒町遺跡(広島県福山市)から出土した輸入陶磁器・滑石製石鍋・木製食膳具の分析を試みた。分析に際しては、集落に搬入された消費財がどのような過程を経て廃棄、あるいは相続されるかを示す「搬入と廃棄のモデル」を設定した。このモデルに基づいて資料形成過程を解釈することにより出土資料の計量分析結果に認められるいくつかの事象が、過去の人間集団の消費活動をどのように反映しているのかが推測できるようになる。検討の結果、耐久消費財はそれが生産され、流通した時期に多くは廃棄されないこと、生活環境の変化を契機に多くの耐久消費財が廃棄されることなどが、具体的な出土状況に即して説明できるようになった。また、草戸千軒の集落における消費財廃棄のパターンから、限定された空間内で密度の高い消費活動が行われていたことを指摘し、これが集落の「都市的」な特質の一端を示していると考えた。
藤尾, 慎一郎 Fujio, Shinichiro
本稿は摂津・河内・大和など近畿中央部において弥生甕が成立する過程を明らかにしたものである。弥生甕とは弥生Ⅰ期の西日本各地に新たに出現する甕を指し,これまで主に板付式,遠賀川式,遠賀川系の甕とよばれてきたものである。私は先に,九州北部から中部瀬戸内にかけての弥生甕を検討して,弥生甕には系統を異にする三つの流れがあることを明らかにした。一つは早期の突帯文甕を母胎とする突帯文系甕が弥生甕となるもので,筑後の亀ノ甲タイプや豊後の下城式などが該当する。二つ目は,一つ目と突帯文甕を母胎とする点は同じだが,突帯文系ではなく外反口縁甕を目指す動きである。西部瀬戸内の口縁下端凸状甕が典型的な例である。三つ目は中期無文土器の系譜を引く板付祖型甕を母胎に,板付Ⅰ式甕,遠賀川式甕へと向かう流れである。1980年代の半ばまで弥生Ⅰ期の甕といえば,三つ目の甕を意味していた。はじめの二つは分布域が狭く,地域ごとに特徴的なあり方を示すことから「地域甕」,三つ目は広範囲に分布し,地域差も少ないことから「標準甕」と命名した。この視点にたって近畿中心部の弥生甕について検証したのが本稿である。分析の結果,次のことがわかった。一つは遺跡ごとに成立する弥生甕の種類は異なること。二つ目はこれらの遺跡では,まず突帯文系と外反口縁甕をもつ地域甕が成立した後,限られた遺跡のなかで標準甕が成立するために,標準甕は時期的にも地域的にも分布が限られることを確認したことである。以上のことから,近畿の遠賀川系甕はまず屈曲型一条甕が外反口縁甕へと変容したあと,中段階になって遠賀川系甕として定型化すると理解した。地域甕から標準甕が出てくるのである。当初から標準甕が成立し,その影響で外反口縁甕が成立する中部瀬戸内以西の地域との大きな違いである。
鋤柄, 俊夫 Sukigara, Toshio
中世における都市遺跡研究のひとつのテーマは、遺構と遺物によって再構成される遺跡の空間構造から、各時代における社会の仕組みとその変化過程を説明するところにある。これまで京都の考古学資料は、その量があまりに膨大であったために、筆者を含めて、ヴァーチャルな総体としての京都の検討はおこなわれてきたものの、遺跡の空間構造を復原するために必要な、調査地点個々の特徴は、ほとんど検討される機会がなかった。そこで小論ではこの点に注目して、中世の京都においてどのような遺構や遺物が、いつの時代に、どの場所から検出され、それらは京都全体の中でどのような意味をもつことになるのかを問題の所在とし、一般に京都系「かわらけ」と呼ばれている京都型の土師器皿に注目し、その伝播の背景を考えるところから、中世都市京都が持っていた強い影響力の一端の復原を第➊章とし、第➋章で中世の京都の中でも、おおむね三条以南に焦点をあて、都市の様々な場が果たした役割の意味を、空間構造の視点から考えてみた。その結果第➊章では、土師器皿の一方で西日本に伝播した瓦器碗の背景が石清水八幡宮と宇佐宮弥勒寺の関係によって説明できる可能性を踏まえ、中世前期の東日本に伝播した京都型土師器皿の背景を日吉山王宮と白山社の中で考え、第➋章では京都駅周辺地域の詳細な調査地点分析によって、当時の政治の中心であった武家と八条女院および東寺を背景とした七条町の再評価をおこない、さらに下京に多く見られる石鍋の分布から東福寺の影響力の強さについても検討をおこなった。中世の京都がもっていた多様な側面を、下京を対象に京都以外の地域との関係の中から逆に浮かび上がらせることにより、中世都市京都の特質の一端としての京都と京都以外の地域を結びつけていた宗教的側面または寺社の果たしていた役割の大きさをあらためて確認することができたと考える。
藤澤, 良祐 Fujisawa, Ryohsuke
宋・元代の中国産を主体とする輸入陶磁と,中世唯一の国産施釉陶器である古瀬戸が,モデルとコピーの関係にあったことは良く知られているところで,古瀬戸は輸入陶磁の補完的役割を担ったにすぎないとされるが,実態は果たしてそうだったのであろうか。中世前半期の最大の消費遺跡である鎌倉遺跡群において,古瀬戸と輸入陶磁の補完関係を検討したのが本稿である。これまで鎌倉では数多くの発掘調査が行われているが,比較的良好な遺構面が検出され陶磁器の種類・量が多い四つの遺跡を取り上げ,古瀬戸と輸入陶磁の出土量(廃棄量)を分析したところ,輸入陶磁は13世紀末から14世紀初にかけて廃棄量がピークとなるのに対し,古瀬戸の廃棄量のピークは一時期遅れ鎌倉幕府の崩壊する14世紀前葉にあり,その背景として当該期における輸入陶磁の流通量の減少が予想された。また,モデルとコピーの関係にある各器種においても,輸入陶磁の方が廃棄(出現)時期が早いという傾向が認められ,さらに四耳壺・瓶子・水注などのいわゆる威信財では,古瀬戸製品であっても生産年代と廃棄年代との間に半世紀近い伝世期間が想定された。一方,鎌倉で大量に出土する青磁や白磁の碗・皿類は,当該期の古瀬戸はほとんどコピーしないのに対し,入子・卸皿・柄付片口などの古瀬戸製品は,鎌倉での出土比率が高いにも拘らず輸入陶磁に本歌が確認できないことから,古瀬戸と輸入陶磁との間には一種の“住み分け”が行われていたことも明らかである。すなわち中世前半期の古瀬戸は,輸入陶磁に存在しないもの,あるいは輸入陶磁の流通量の少ないものを重点的に生産しており,両者は戦国期の白磁や染付の皿と瀬戸・美濃大窯製品の小皿類にみられるような競合関係にはなく,コピーである古瀬戸製品自体が,モデルである輸入陶磁に匹敵する価値観を有していたと考えられる。
設楽, 博己 Shitara, Hiromi
神奈川県小田原市中里遺跡は弥生中期中葉における,西日本的様相を強くもつ関東地方最初期の大型農耕集落である。近畿地方系の土器や,独立棟持柱をもつ大型掘立柱建物などが西日本的要素を代表する。一方,伝統的な要素も諸所に認められる。中里遺跡の住居跡はいくつかの群に分かれ,そのなかには環状をなすものがある。また再葬の蔵骨器である土偶形容器を有している。それ以前に台地縁辺に散在していた集落が消滅した後,平野に忽然と出現したのも,この遺跡の特徴である。中里集落出現以前,すなわち弥生前期から中期前葉の関東地方における初期農耕集落は,小規模ながらも縄文集落の伝統を引いた環状集落が認められる。これらは,縄文晩期に気候寒冷化などの影響から集落が小規模分散化していった延長線上にある。土偶形容器を伴う場合のある再葬墓は,この地域の初期農耕集落に特徴的な墓であった。中里集落に初期農耕集落に特有の文化要素が引き継がれていることからすると,中里集落は初期農耕集落のいくつかが,灌漑農耕という大規模な共同作業をおこなうために結集した集落である可能性がきわめて高い。環状をなす住居群は,その一つ一つが周辺に散在していた小集落だったのだろう。結集の原点である大型建物に再葬墓に通じる祖先祭祀の役割を推測する説があるが,その蓋然性も高い。水田稲作という技術的な関与はもちろんのこと,それを遂行するための集団編成のありかたや,それに伴う集落設計などに近畿系集団の関与がうかがえるが,在来小集団の共生が円滑に進んだ背景には,中里集落出現以前,あるいは縄文時代にさかのぼる血縁関係を基軸とした居住原理の継承が想定できる。関東地方の本格的な農耕集落の形成は,このように西日本からの技術の関与と同時に,在来の同族小集団-単位集団-が結集した結果達成された。同族小集団の集合によって規模の大きな農耕集落が編成されているが,それは大阪湾岸の弥生集落あるいは東北地方北部の初期農耕集落など,各地で捉えることができる現象である。
木下, 尚子
本論は,弥生時代に沖縄諸島と北部九州を結んで継続した大型巻貝の交易(貝交易)の中継地として知られる高橋貝塚を対象に,遺跡に残された交易品(貝殻)の分析を通してその実態を具体的に描こうとするものである。論の前半では,貝塚の5文化層の出土土器と,上下4層で実施した貝殻等の炭素14年代測定結果によって時間的な枠組みを確定し,これに基づき,出土したゴホウラ類(ゴホウラ・アツソデガイ)を分析して当地で行われた作業内容を復元し,時間的変化を述べた。後半ではこれを同時期の沖縄諸島にのこる貝殻集積の出土遺物と対応させて,貝殻産地と中継地・消費地の関係を検討し,高橋貝塚を貝交易上に位置づけた。論の要点は以下の通りである。・高橋貝塚は弥生前期中葉に始まり,同中期前葉まで継続した集落遺跡であり,琉球列島産の大型巻貝を用いた腕輪の各製作段階を示す貝殻187点が残されている。これらの9割以上はゴホウラ類である。・高橋貝塚人は当初から,沖縄貝塚人が作ったゴホウラの背面貝輪用粗加工品をもとに西北九州人のために背面貝輪を作り,さらにゴホウラ原貝から北部九州人のために腹面貝輪粗加工品を作り,これらを北の消費地に輸出していた。・高橋貝塚人は途中から背面貝輪製品とともに粗加工品も合わせて作るようになった。・腹面貝輪の製作では,ある段階で沖縄から粗加工品用の貝輪素材が届くようになり粗加工品生産の効率が上がるが,間もなく腹面貝輪粗加工品の生産拠点が高橋貝塚から沖縄に移り,高橋貝塚での腹面貝輪粗加工品の生産量は激減する。・腹面貝輪粗加工品が中継地を介さずに消費地に届くようになると貝交易における高橋貝塚の存在価値は低下し,遺跡は衰退する。・貝交易の中継地としての高橋貝塚の最大の特徴は,沖縄から届いた貝殻や貝輪素材を,製品化し,あるいは製品に一歩近づける加工を行って消費地に届けるという,貝交易初期の経済的役割を果たした点である。
小林, 謙一 今村, 峯雄 坂本, 稔 Kobayashi, Kenichi Imamura, Mineo Sakamoto, Minoru
今回,土器型式及び胎土分析両面から検討する焼町土器の年代的位置付けを検討するため,群馬県・長野県の焼町土器及び中期中葉土器について,AMSを用いた放射性炭素同位体比の測定を行った。その結果,新巻土器・プレ焼町土器と呼ばれる古手のタイプについては,茅野市長峯遺跡の3例及び川原田遺跡の1例の較正暦年が,3370-2910calBCの年代に収斂しており,よくまとまっている。さらにまとまった年代を示す新巻タイプの3例は,共通する年代である3100-3090calBCを中心とする年代幅が含まれている可能性が高い。これは,これまでの測定データとあわせて考えると,新道式土器新期から藤内Ⅰ式(新地平編年6-7期)の年代に共通する。つぎに,典型的な焼町土器である川原田J4住の深鉢2例は,共通の測定値を示しており,較正暦年で3100-2900calBCの年代幅の中に含まれる。これらの土器は,勝坂2・3式(藤内Ⅱ式~井戸尻Ⅲ式)(新地平編年8-9期)に相当するが,勝坂3a式(新地平編年9a期)の年代に相当する可能性がある。以上のように,新巻土器・焼町土器2つのタイプの土器群の年代について,概ね把握することができた。
稲村, 務 Inamura, Tsutomu
主として紅河州の土司遺跡の調査資料とラオスの調査資料を示した。中国南部を中心に近代国家以前の政体をこれまでの東南アジアの政体モデルの検討を通じて、特にJ.スコットの所論を基に、「盆地国家連合」「山稜交易国家」という理念型でとらえなおした。これまで静態的に捉えられてきたハニとアカの文化を「切れながら繋がる統治されないための術」と解釈しなおすことを通じて両者を架橋する新しい山地民像を提示した。
木下, 尚子
本論は,科研費共同研究の一環としておこなった貝殻の炭素14年代測定結果(較正年代)にもとづく考古学的考察である。沖縄諸島の先史時代遺跡に残る大型巻貝(ゴホウラ・イモガイ)の集積を対象に,16遺跡で検出された弥生時代併行期の貝殻集積27基のうちから,ゴホウラとイモガイの貝殻合計51個を選んで測定し,結果を整理してその歴史的意味を示した。貝殻集積は北部九州と沖縄諸島間の貝殻の交易(貝交易)に伴う諸行為によって,貝殻産地に残されたものである。考察では,上記年代値に,貝殻消費地である北部九州の弥生遺跡に残るゴホウラ・イモガイ腕輪の時期を加えて比較した。この値は,すでに公表されている貝輪着装人骨を含む弥生人骨の炭素14年代を介して確定したものである。こうして導いた較正年代67例をもとに,1200kmの海域をはさんだ産地と消費地間の時間的関係を整理し,弥生時代から古墳時代にわたる貝交易の動向を以下の6群に分けて述べた。以下の( )内は確率分布曲線のピーク位置を示す。・A群(501 cal BC 以前):西北九州沿岸部の支石墓人によって沖縄諸島と九州間の貝交易が始まる時期。弥生早期から前期中葉の時期に対応する。・B群(500~201 cal BC):北部九州平野部の弥生人によるゴホウラ類・イモガイ類の貝殻消費が始まり,複数種類の貝輪に対応した形の貝輪粗加工品が沖縄から輸出される時期。弥生前期後葉から中期中葉に対応する。・C群(200 cal BC ~ 1 cal BC):弥生社会のゴホウラ類・イモガイ類の消費数が最大になり,沖縄でのゴホウラ確保に行き詰まりの兆候が見え始める時期。弥生中期後半に対応する。・D群(1 cal BC/cal AD1 をまたぐ):九州での貝殻需要が衰退し貝交易が収束する時期。弥生中期末から後期初頭に対応する。・E群(cal AD301 ~ cal AD500):消費地が短期間のうちにヤマト王権の畿内から九州へと移り,一方で種子島広田集落において沖縄との交易関係が深まる時期。・F群(cal AD501 以降):貝交易の第二のピークに対応する。貝交易の動向を,絶対年代を対応させて示した点が本論の特徴である。
田中, 史生 Tanaka, Fumio
本稿は,8世紀の日本官印と隋唐官印と比較することによって,日本律令国家の官印導入期における中国の影響と,日本官印の特質について考察するものである。考察の結果,日本律令国家の官印は,隋唐官印のなかでも紙による文書行政とかかわる「官署印」の直接的影響を受けて成立したが,その法量を唐よりも大型化させるとともに,官司のレヴェルに従って印面文字の字体や形式と組み合わせながら法量を細分化し,その区分を遵守させるなどの特徴があることが明らかとなった。また隋唐においては,御璽が一般的な命令伝達文書の作成過程で紙に押印されることはなく,諸州などに下される文書には,裁可された案件の諸司における処理ないし行政手続きが正しく行われることを保証するために六部所属の二十四司の印が押されたが,日本において命令伝達の中核に置かれた印は内印,すなわち天皇御璽で,中央政府の文書発給の全てを天皇が直接統治することに重きを置いた押印制度となっていた。さらに諸国印は,国府とそれが統括する地方の間の文書に印が押されるのではなく,中央政府と国府との関係の中での押印を基本としていた。そこには,日本古代官印の文書行政における実務的機能とのかかわりだけでなく,印の大きさ,押印の仕方,印面文字の字体・形式によって,中華日本を表現するともに,天皇の直接統治と,天皇を中心とした中央集権的なビラミッド型の官司配置という,日本律令制の理念的構造を表象ようとする古代国家の意図が読み取れるであろう。
平川, 南 Hirakawa, Minami
岩手(いわて)県水沢(みずさわ)市の胆沢城跡(いさわじようあと)から出土した一点の木簡は、「内神(うちがみ)」を警護する射手(いて)の食料を請求したものである。その出土地点は胆沢城の中心・政庁(せいちよう)の西北隅(せいほくすみ)であったことから、ここに内神が祀(まつ)られたと理解した。そこで、古代の文献史料をみると、例えば『今昔物語集(こんじやくものがたりしゆう)』には、藤原氏の邸宅・東三条殿(とうさんじようでん)の戌亥隅(いぬいのすみ)(西北隅)に神を祀っており、その神を「内神」と称している。『三代実録(さんだいじつろく)』によれば、都の左京職(さきようしき)や織部司(おりべのつかさ)に戌亥隅神(いぬいのすみのかみ)が祀られている。一方、地方においても、国府内に「中神」「裏神」(うちがみ)が置かれていた。以上の史料はいずれも九世紀以降のものである。郡家については、八世紀の文書に西北隅に神が祀られていたとみえる。こうした役所の施設内の西北隅に神が祀られたのがいつからかは定かでないが、やがて中央の役所や地方の国府などの最も象徴的な施設の西北隅に小さな神殿を形式的に設けたのであろう。この西北隅は、福徳(ふくとく)をもたらす方角として重視されたことが、各地の民俗例において確認できる。〝屋敷神(やしきがみ)〟を西北隅に祀る信仰は、古代以来の役所の一隅に祀った内神を引き継ぐものと理解できる。近年の考古学の発掘調査によれば、例えば陸奥国(むつのくに)の国府が置かれた多賀城(たがじよう)跡では、その中心となる政庁地区において創建期から第Ⅲ期まで、一貫して左右対称に整然と建物が配置されるが、九世紀後半に至り、それまで建物のなかった西北部に建物が新設され、しかも複雑な建物構造をもち、その後数回建て替えられている。この西北部の建物の時期は、さきの文献史料の傾向とも合致する点、注目される。今後の重要な課題の一つは、諸官衙内に祀られた戌亥隅神の成立時期およびその神の性格などについて明らかにすることである。本稿はあくまでも一点の木簡の出現を契機として、広範な資料の検討を通して中央・地方の諸官衙の西北隅に神を祀っている事実を指摘し、古代の官衙構造や日本文化における基層信仰の実態解明の一資料となることを目的としたものである。
三上, 喜孝 Mikami, Yoshitaka
本稿は,延暦15年(796)の越前国坂井郡符に捺された「坂井郡印」の印影を検出し,新たな郡印資料を提示すると同時に,古代の「坂井郡印」の変遷を追うことで,古代郡印の編年作業を試みるものである。坂井郡印が捺された文書については,天平宝字2年(758),宝亀11年(780),延暦15年(796)の3時期のものがこれまで知られているが,今回そのすべての印影を確認することができた。それによると,前二者の文書の印影はいずれも楷書体であり,延暦15年の坂井郡符に至ってはじめて篆書体の印影があらわれることがわかる。このことから,坂井郡印が,宝亀11年から延暦15年の16年の間に,楷書体の郡印から篆書体の郡印への改鋳が行われたことが明らかになった。郡印の改鋳時期については従来ほとんど検討されてこなかったが,今回はじめてその具体的な時期がしぼり込めたことになる。本稿では,あわせて延暦年間(8世紀末~9世紀初頭)の郡印の印影を二つ紹介する(近江国愛智郡印,大和国山辺郡印)。これらはいずれも篆書体であり,さきの坂井郡印での検討をもふまえると,延暦年間にはすでに篆書体の郡印が全国的にあらわれていたことが想定できる。以上の検討は,郡印の編年を考える上で一つの指標となるであろう。
東, 潮 Azuma, Ushio
『三国志』魏書東夷伝弁辰条の「国出鉄韓濊倭皆従取之諸市買皆用鉄如中国用銭又以供給二郡」,同倭人条の「南北市糴」の記事について,対馬・壱岐の倭人は,コメを売買し,鉄を市(取)っていたと解釈した。斧状鉄板や鉄鋌は鉄素材で,5世紀末に列島内で鉄生産がはじまるまで,倭はそれらの鉄素材を弁韓や加耶から国際的な交易によってえていた。鉄鋌および鋳造斧形品の型式学的編年と分布論から,それらは洛東江流域の加耶諸国や栄山江流域の慕韓から流入したものであった。5世紀末ごろ倭に移転されたとみられる製鉄技術は,慶尚北道慶州隍城洞や忠清北道鎮川石帳里製鉄遺跡の発掘によってあきらかとなった。その関連で,大阪府大県遺跡の年代,フイゴ羽口の形態,鉄滓の出土量などを再検討すべきことを提唱した。鋳造斧形品は農具(鍬・耒)で,形態の比較から,列島内のものは洛東江下流域から供給されたと推定した。倭と加耶の間において,鉄(鉄鋌)は交易という経済的な関係によって流通した。広開土王碑文などの検討もふまえ,加耶と倭をめぐる歴史環境のなかで,支配,侵略,戦争といった政治的交通関係はなかった。鉄をめぐる掠奪史観というべき論を批判した。
西本, 豊弘 Nishimoto, Toyohiro
弥生時代の生活は,農耕をどの程度受け入れるかによって,その地域毎に大きな差異があったと思われる。ここでは,稲作農耕が積極的に受け入れられたと推定される北九州から濃尾平野までの西日本の弥生遺跡を取り上げ,弥生時代における動物質食料について検討する。西日本の弥生遺跡では,当初の段階から稲作農耕が行われたが,稲作だけではなくブタやイヌが新たに導入され,それを食べる習慣ももたらされた。それに伴って野生動物に対する狩猟活動が減少する。シカやイノシシも減少するが,タヌキやキツネ・ムササビなどの毛皮を目的とした中・小型獣の減少が顕著である。また,人口増加による食料不足と,それを解消するための食肉交換が行われたと推測された。このように動物質食料も変化するが,ブタの下顎骨を儀礼的に扱うことや,シカ・イノシシ(ブタ?)の肩甲骨を用いた「占い」も行われた。西日本の弥生社会は,大陸からの渡来人によって大陸の農耕文化の全体系が導入されて成立したものであり,これまでの縄文社会とは世界観・価値観がまったく異なった社会であった。この価値観の相違を十分に認識した上で,西日本の弥生社会とそれ以外の地域の動物利用の相違を考えて行かねばならない。
山崎, 誠 YAMAZAKI, Makoto
源為憲が藤原為光息誠信(松雄君)のために撰述したと云われる口遊は、岡田希雄「口遊は省略本か」(『国語国文』六巻九号)以来、その内容に省略があるとの疑問が提示されたが、書写の際の不注意等による部分的脱落はあるものの、抄略本と認定することはできない。本稿はそのことを骨子として論証するとともに、従来殆ど無視され続けているが、古代貴族必携の百科便覧として、あまたの文化史上の貴重な資料を豊富に含む書物であることを指摘する。
濱島, 正士 Hamashima, Masashi
日本の寺院・神社の建築には,装飾の一環として各種の塗装・彩色がされている。何色のどんな顔料がどのような組合わせで塗られているのか,それは建築の種類によって,あるいは時代によってどう違うのか,また,建築群全体としてはどのように構成され配置されているのだろうか。これらの点について,古代・中世はおもに絵画資料により,近世は建築遺例により時代を追って概観し,あわせて日本人の建築に対する色彩感覚にもふれてみたい。
濱島, 正士 Hamashima, Masashi
日本の建築は木造で軸組構造とするのが特徴で、山から木を伐り出して製材し、所定の部材に加工し(木作り)、同時に基壇を築いて礎石を据え、柱を立て梁・桁を組んで棟を上げ、屋根を葺き、造作を取り付け、壁を塗り色を塗り金具を付けるなどして完成する。古代においては、こうした建築工事がどのような工程で進められ、完成までどの位の工期が掛かったのか。工事中には、工事の進捗に合わせてどんな建築儀式が行われたのか。なかでも、工匠の儀式である木作始め、柱立て、棟上げはどのような内容であったのか。それらは中世以降と違ったのか、同じだったのか。以上のような建築生産に係わる問題について、文献史料にもとづき寺院や宮殿の場合を考察する。
酒井, 清治 Sakai, Kiyoji
武蔵国は,宝亀2年(771)に東山道から東海道に所属替えになった。東山道に所属した時期には,「枉げて上野国邑楽郡より五箇駅を経,武蔵国に至る」とあり,上野国東部から武蔵国府へ向かったのであるが,そのルートについては先学により論議されてきたところであった。近年の発掘調査の進展により,武蔵国府の西から国分僧寺,尼寺の間を3.5kmに亘って北上する道が確認され,さらに所沢市東の上遣跡でも道路跡が発掘されるに到り,この道が,東山道武蔵路と考えられるようになってきた。しかし,現段階では駅家が発見されておらず,そのルートも不明確な状況であることから,考古学資料あるいは文献資料によって,推定ルートと,その道の歴史的背景を探ろうとした。この道は文化交流,物資の運搬,人の移動に利用されたようで,道路跡の付近には関連遺跡,遺物が多い。特に武蔵国分寺の創建初期の瓦が,上野国新田郡,佐位郡との関連で焼造されたこと,熊谷市西別府廃寺では一部であるが武蔵国分寺瓦を使用することは,この道を介して行われた交流の代表的な事例である。また,西別府廃寺付近の奈良神社は,8世紀初頭には陸奥への征夷に赴くときの祈願場所として信仰を集めたようで,東海道の鹿島神宮などと対比される位置にあろう。発掘された道路跡の特徴は幅12mを測り,側溝を持つ直線道であること,東の上遺跡から,時期が7世紀中葉あるいは第3四半期まで遡ることが判明した。特に道幅が大路である山陽道に匹敵することは支路と考えるには問題があり,また,大宝元年(701)の駅制成立の時期よりも遡ることは,道の築造が,当時の朝鮮半島の緊迫した社会情勢と関連していたと考えたい。おそらく,対新羅,対唐に対応するための軍事的道路であり,一方は内政に目を向けた,北への勢力拡張政策のための道であろう。すなわち,当初は上野国府と武蔵国府を直接結ぶ政治的道路ではなく,東山道と東海道の連絡路である軍事的道路として築造されたと推考したい。
鈴木, 貞美
「日記」および「日記文学」の概念について、専門家諸姉氏の参考に供するために若干の考察を試みる。第一に、今日のわれわれの考える「日記」の概念は、前近代の中国語には見られず、今日の中国で用いられている「日記」は、二〇世紀に日本の教科書類からひろがったものとされている。中国古代においては、皇帝に差し出す上奏文に対して、いわば私人が、日々、記し、また文章を収集編集する作業がすべて「日記」である。すなわち、そのなかで、ジャンルの区別はなかった。日本古代にも、この用法が伝わっていた可能性は否定できない。業務の記録や備忘録の類とはちがう、われわれが今日、「日記」と考える内面の記録をかねた形態は、日本の二〇世紀前期に入って、イギリスの社会運動家、ウィリアム・モリスの「生活の芸術化、芸術の生活化」というスローガンのもとに、庶民や児童に日記を進めることが行われ、学校教育にも取り入れられて盛んになったものと考えてよい。 また、「私小説」「心境小説」論議が盛んになったことを背景に、古典のカテゴリーとして「日記文学」という言葉を初めて用いたのは、池田亀鑑「自照文学の歴史的展開」(『国文教育』一九二六年一一月号)、書名として使用されたのは、池田亀鑑『宮廷女流日記文学』(一九二八)であろう。それらで「日記文学」の特徴として「作者の心境の漂白」があげられていることが、すでに明らかにされている。
澤田, 淳 SAWADA, Jun
現代共通語の「やる/くれる」は,「方向性」,ないしは,「視点」の制約を有する直示授与動詞である。一方,古代中央語では,「くれる」(古代語では下二「くる」)は,求心的方向への授与,非求心的(遠心的)方向への授与のどちらでも使われる非直示授与動詞であり,「やる」は,授与動詞ではなく,「おこす」と対立をなす非求心的な直示移送動詞であったことが知られている。本稿では,主に,「くれる」が求心的授与の方向に意味領域を縮小させ,受け手寄りの視点制約を成立させた要因・背景について考察を行う。中世期に「やる」が移送用法との類比(アナロジー)により授与用法を確立させ,非求心的授与領域内で「くれる」と「やる」が競合するが,通常の授与場面では,待遇的に中立的な,または,「くれる」に比べ相対的に丁寧な,「やる」の選択意識が高まり,中世期(室町期)から近世期にかけて,「くれる」は,次第に非求心的授与の意味領域から追い出されていき,求心的な方向性の制約,ないしは,受け手寄りの視点制約を成立させたと考えられる。現代共通語では,「やる」が下位待遇的(卑語的)意味を帯びつつあることから,「あげる」の選択意識が高まっており,(非敬語的な)非求心的授与領域において,さらなる語の入れ替えが生じつつある。
高橋, 照彦 Takahashi, Teruhiko
本稿は,日本の三彩・緑釉陶器についての理化学的分析結果を検討し,そこからその歴史的意味を見いだそうとするものである。主な検討結果は,以下の通りである。まず,奈良三彩・平安期緑釉陶器では,いずれも釉薬の鉛同位体比がほぼ集中する値を示し,古代銭貨の多くや古代鉛ガラスとも一致し,山口県の長登周辺産の鉛を用いていたことが明らかとなった。また,釉薬の化学組成には,産地差が存在し,年代に伴って変化していることも指摘できた。さらに,鉛釉(鉛ガラス)の原料調達の変遷については,次のような段階設定を見いだすことができた。 Ⅰ段階(7世紀第3四半期頃の短い期間)海外産鉛原料による国内生産の段階。 Ⅱa段階(7世紀後半~8世紀初め頃)長登鉱山を初めとする国内各所の鉱山から原料供給を受けて,生産地で方鉛鉱を直接粉砕して釉(あるいはガラス)原料にする段階。 Ⅱb段階(8世紀前半~9世紀初め頃)長登鉱山周辺から方鉛鉱あるいは金属鉛の供給を受けて,生産地で鉛丹を製成して釉(あるいはガラス)原料にする段階。 Ⅱc段階(9世紀前半~12世紀前半頃)長登鉱山周辺などから産出された鉛原料をもとに鉛丹あるいは鉛釉フリットなどが製成され,その供給を受けて釉(あるいはガラス)を生産する段階。 Ⅲ段階(12世紀後半頃以降)対馬の対州鉱山などから鉛ガラス原料の供給を受けて生産する段階。
武末, 純一 Takesue, Junichi
弥生時代の農村は,海や山の生業が主体となる村を生み出す。この場合,海村・山村の目安になるのが石庖丁の量である。海村とした福岡県御床松原遺跡での石庖丁の量は通常の農村の1/5程度である。海上活動の比重が高かったとみられる対馬ではこれまで石庖丁は数点しかない。前期末~中期前半の国形成期には,朝鮮半島から渡ってきた後期無文土器人系の集団が,拠点集落の周縁部に位置しながら故地との交流回路を維持して交易を主導し,港を整備し,青銅器生産技術を転移させて,国づくりにも関与したとみられ,いくつかの海村では海上交易活動が本格化する。またこの時期には朝鮮半島南部にも弥生人の足跡が見られる。勒島遺跡の弥生系土器は中期前半が主体とされたが,近年では中期後半の土器も大量に出て,下限は弥生後期前半である。弥生中期前半以前を勒島Ⅰ期,中期後半以降を勒島Ⅱ期とすると,勒島Ⅱ期には勒島Ⅰ期よりも日本との交流の範囲は拡大する。ここには北部九州系の漁具(アワビおこし,結合式釣針)があり,北部九州の「倭の水人」の移住を示す。山陰地域にもそうした漁具があり,海民のつながりができていた。中期後半以降(弥生後半期)の西日本と朝鮮南部の海村には楽浪土器や中国銭貨が目立つようになり,近畿から楽浪郡までの交易網に組み込まれたと見られる。とくに中国銭貨は,中国鏡とは対照的に,海村の日常生活域から多数出土するが,国の中心となる巨大農村やそこから展開した都市的集落ではほとんど出ない。これは朝鮮半島南部も同じで,勒島遺跡では日常生活域から5点出たが,拠点集落の日常生活域からは出ない。しかも倭と三韓の沿岸部では,ともに大量の中国銭貨が発見されている。したがって西日本と朝鮮半島南部の海村では農村とは別の世界をつくり,生業活動の主体である交易活動の場で中国銭貨を対価に用いたと見られる。交易の対象物はおそらく原料鉄や鉄素材であった。また,海村の南北市糴とは,南の物資を北に,北の物資を南に単に移動させるだけでなく,中間で加工して付加価値をさらに高めた可能性も出てきた。
尾野, 善裕 Ono, Yoshihiro
近年、東日本の太平洋海運に関する研究では、明応七年(一四九八)に発生した地震が東海地方の港津に与えた影響の大きさが強調される傾向にある。しかし、その実例とされてきた港津遺跡の年代について、改めて考古資料から検討してみると、廃絶・衰退時期には微妙にずれがあることが判り、一時的な自然災害が港津の廃絶・衰退の決定的な要因であったとは思われない。むしろ、一五世紀から一六世紀にかけて廃絶・衰退する港津が少なからず存在することは、物流の変化を反映したものではないかと考えられ、この時期の地域経済の変容を具体的に確認できる現象として、遺跡から出土する陶磁器の絶対量が急激に増加することが挙げられる。また、陶磁器消費の絶対量が急増するのと規を一にして、東海地方各地で京都文化の影響を強く受けた土師器の皿が目立つ存在になるが、こうした現象の背景には京都文化に慣れ親しんだ人々の地方下向と定住を想定できる。考古資料から推測されるこれら一連の現象は、明応年間かそれを大きく遡らない時期に起きているとみられ、時期的な一致から考えると、陶磁器や土師器皿の大量消費に現われている地域経済の変容は、もともと在京を原則としていた守護・守護代・奉公衆などの在国化が大きく関わっている蓋然性が高い。応仁・文明の乱以降、明応の政変などを通して進行する守護・守護代・奉公衆などの在国化が、東海地方のみに限られる現象ではないことを考えれば、同様の地域経済の変容は、他地域の考古資料の分析からも確認できるのではないかと思われる。
コタンスキ, W.
古代の作品『古事記』(七一二年)に収載されている歌謡は音仮名で書いてある。音仮名とは漢字本来の意味とは無関係に漢字の音を日本語(やまとことば)の音節に当てたものである。 高山倫明氏の論文によると、八世紀頃の日本の漢字使用法には、その頃の漢語の形態音韻法に基づいた原音声調が備わっていた。 高山氏は、主として『日本書紀』(七二〇年)の歌謡を研究したが、その結果、漢字で表記された古代日本語の口語の伝承の音韻転写は古代日本語の語法を精確で確実に反映している、と主張する。 問題解決のための同じ鍵を掴んだ私も、先般来『古事記』の歌謡の中に利用された抑揚声調の方式を調査してみたが、結論は同様だった。すなわち『古事記』の歌謡の原音声調の伴われた音仮名表記も、日本語の語句を形態音韻上で識別され、信頼できる十分に確かな表示なのであった。 けれども、上代日本では、たぶん弟子など秘伝を伝えられる人々のためではなくむしろ門外漢のために、歌謡の内容を伝える教示のようなものが、おそらくは密かに伝達されていた。それだから、どの記紀歌謡にも表意文字で書かれた、音仮名のバリアントに相当する漢字仮名交じり文が以前から伝えられていたことは周知の事実であったのだ。従って、上述の歌謡の原文の音仮名表記をそれらの解説に当たる今日の筆者にとっても漢字仮名交じり文と比較する好機が捉えられることになったのである。 その時に臨んで、原文の音仮名表記の個別の文節に備わった抑揚声調が、ところどころに適切な漢字仮名交じり文の同分節の成長とは一致しないことが分かってきた。 けれども、この論文での枢要な問題は、分節の成長そのものを言語学的方法をもって調和的に働かせることを目指して、その進路を切り開くことではない。ここに話題としている点は、分節に現れる不調和などは一般的に語句の意味の種々の差異を表明するので、原文の音仮名表記が取り消すことができないで変更すべからざるものであるのが自明の理である以上、後の仲介者の誤解も含む意味の変節というのは残らず漢字仮名交じり文に起因するに相違ない、という点である。ところが、漢字仮名交じり文は、一般的な日本人にとっては模範的な解釈文を提供するのではないかと考えられることに関連して、旧注解者の誤解を指摘していくと、当該の歌謡の趣旨は、従来の解釈からは見分けがつかないほど変わって行く可能性もありうるのである。 それにもかかわらず、音仮名表記と漢字仮名交じり文とを比較する研究の価値は、古代歌謡の改正された注釈を行って発表するということではないと思う。同研究の展望は、筆者の考えでは、古代歌謡の正確な判読や解読のための説得力ある方法論を発見することを趣旨とすべきなのである。 私としては、そのような方法論の端緒を『古事記』の序文の中に認めるものである。同序文の著者太安萬侶は、おそらく音仮名を当時の口語を漢字で転写するためにふさわしい唯一の書写法として採用しようと思うばかりになっていたが、漢字一字を日本語の一音節に当てる場合は、文章があまりに長くなりそうなことが判明した。それで安萬侶は、同一の本文に(歌謡の記載だけは例外として)表音文字と表意文字をともども利用して、神話などを転写しようと決意した。 とは言うものの、表意文字とは言ってもそれは文の前後関係の外側の面から見た結果であるが、実は安萬侶の考えでは、それを訓仮名として扱うべきだ、という証跡が目に見える。すなわち、日本語を漢字だけで書き表わす時、その字の意味とは無関係にその字の訓を日本語の音節にあてはめて用いた漢字のことである。だから、読み手は、漢字を注視することからは直接に意味を取ることはできないのだ。訓仮名式の文脈から中身を把握する過程は、純音仮名の読み方と同様なのである。 安萬侶の立場に従えば、音仮名及び訓仮名は両方とも本文の表層ばかりをなして、同本文の深層に達するためには、分の統語論上の構成要素(語句・言葉・形態素)を分節して区分する文法上の規則的な操作を行うべきなのだ。上述の次第によって、安萬侶のおかげで、『古事記』という日本語の傑作を、中国語における概念の内包や外延なしに理解することができるのである。
西本, 豊弘 Nishimoto, Toyohiro
弥生時代の遣跡から出土する「イノシシ」について,家畜化されたブタかどうか,再検討を行った。その結果,「イノシシ」が多く出土している九州から関東までの8遺跡では,すべての遺跡でブタがかなり多く含まれていることが明らかとなった。それらのブタは,イノシシに比べて後頭部が丸く吻部が広くなっていることが特徴である。また,大小3タイプ以上は区別できるので,複数の品種があると思われる。その形質的特徴から,筆者は弥生時代のブタは日本でイノシシを家畜化したものではなく,中国大陸からの渡来人によって日本にもたらされたものと考えている。また,ブタの頭部の骨は,頭頂部から縦に割られているものが多いが,これは縄文時代には見られなかった解体方法である。さらに,下顎骨の一部に穴があけられたものが多く出土しており,そこに棒を通して儀礼的に取り扱われた例も知られている。縄文時代のイノシシの下顎骨には,穴があけられたものはまったくなく,この取り扱い方は弥生時代に特有のものである。このことから,弥生時代のブタは,食用とされただけではなく農耕儀礼にも用いられたと思われる。すなわち,稲作とその道具のみが伝わって弥生時代が始まったのではなく,ブタなどの農耕家畜を伴なう文化の全生活体系が渡来人と共に日本に伝わり,弥生時代が始まったと考えられるのである。
辻, 誠一郎 Tsuji, Seiichiro
台地・丘陵を開析する谷および低地から得られた弥生時代以降の植生史の資料を再検討し,以下のような知見を得た。縄文時代後期から古代にかけて,木本泥炭か泥炭質堆積物の形成,削剥作用による侵食谷の形成,運搬・堆積作用および草本泥炭の生成による侵食谷の埋積,という一連の地形環境の変遷が認められた。気候の寒冷化,湿潤化,および海水準の低下という諸要因の組み合わせが木本泥炭か泥炭質堆積物の形成を,そのいっそうの進行が侵食谷の形成をもたらし,さらに,河川による粗粒砕屑物の供給と谷底での水位上昇が草本泥炭による侵食谷の埋積をもたらしたと考えられた。この時代を通して,関東平野では照葉樹林の要素,スギ・ヒノキ類・モミ属など針葉樹が拡大したが,これは気候の寒冷化と湿潤化,および地形環境の不安定化によると考えられた。弥生時代以降の人間活動と深いかかわりをもつ植生変化には少なくとも3つの段階が認められた。第1の変化は弥生時代から古代にかけてで,居住域周辺の森林資源の利用と農耕によってもたらされた。第2の変化は中世の13世紀に起こり,主にスギと照葉樹林要素のおびただしい資源利用および畑作農耕の拡大によってもたらされ,マツ二次林の形成が促進された。中世都市である鎌倉ではその典型をみることができる。第3の変化は近世の18世紀初頭において起こり,拡大しつつあったマツ二次林にマツとスギの植林が加わり,森林資源量が増大したと考えられた。
吉海, 直人 YOSHIKAI, Naoto
決して主役の座に着くことのない乳母であるが、脇役は脇役なりの演技によって玄人好みの光彩を放つものである。まして乳母という職掌は、実母や女房以上に主人公と密接であり、その裁量いかんによって主役を生かしも殺しもする。しかしながら乳母の真の実態は未だに充分解明されているとは言えない。そこで本稿において、古代の文献に広く顕在している乳母の用例を具体的に調査分析し、いかなる役割を果たしているかを、女房との相違点に留意しながら、いろいろな角度から浮き彫りにしてみた。そして乳母のいる風景そのものの有する重要な意味を実証的に論じた。
安藤, 広道 Ando, Hiromichi
本稿の目的は,東日本南部以西の弥生文化の諸様相を,人口を含めた物質的生産(生産),社会的諸関係(権力),世界観(イデオロギー)という3つの位相の相互連関という視座によって理解することにある。具体的には,これまでの筆者の研究成果を中心に,まず生業システムの変化と人口の増加,「絵画」から読み取れる世界観の関係をまとめ,そのうえで集落遺跡群の分析及び石器・金属器の分析から推測できる地域社会内外の社会的関係の変化を加えることで,3つの位相の相互連関の様相を描き出すことを試みた。その結果,弥生時代における東日本南部以西では,日本列島固有の自然的・歴史的環境のなかで,水田稲作中心の生業システムの成立,人口の急激な増加,規模の大きな集落・集落群の展開,そして水(水田)によって自然の超克を志向する不平等原理あるいは直線的な時間意識に基く世界観の形成が,相互に絡み合いながら展開していたことが明らかになってきた。また,集落遺跡群の分析では,人口を含む物質的生産のあり方を踏まえつつ,相互依存的な地域社会の形成と地域社会間関係の進展のプロセスを整理し,そこに集落間・地域社会間の平等的な関係を志向するケースと,明確な中心形成を志向するケースが見られることを指摘した。この二つの志向性は大局的には平等志向の集落群が先行し,生産量,外部依存性の高まりとともに中心の形成が進行するという展開を示すが,ここに「絵画」の分析を重ねてみると,平等志向が広く認められる中期において人間の世界を平等的に描く傾向があり,多くの地域が中心形成志向となる後期になって,墳丘墓や大型青銅器祭祀にみられる人間の世界の不平等性を容認する世界観への変質を想定することが可能になった。このように,物質的生産,社会的諸関係,世界観の相互連関を視野に入れることで,弥生文化の諸様相及び前方後円墳時代への移行について,新たな解釈が提示できるものと思われる。
齋藤, 努 Saito, Tsutomu
本共同研究において「高周波加熱分離―鉛同位体比測定法」が新たに開発された。この分析方法の特徴は,操作が単純で,低ブランクで非常に迅速に鉛の分離・測定ができることである。測定値標準化用試料を用いた分析データの比較では,従来法と新法の示す数値はよく一致しており,この方法の有用性が認められた。これは,時に多数の試料を分析しなければならない歴史資料にはきわめて適した方法であるといえる。この方法を用いて,古代から中世,近世に至る日本の銭貨を対象に,網羅的な分析を行い,原料鉛の産地について解析を行った。銭貨の測定点数は古代銭貨(皇朝十二銭)74点,中世銭貨106点,近世銭貨100点である。この結果,以下の知見が得られた。 1.皇朝十二銭では,日本産の原料鉛が使用され,またその大部分は長登鉱山周辺産と推定される。 2.中世銭貨では,原料の鉛は,14世紀頃は中国産であったものがしだいに国産の原料へと移行し,15世紀頃以降は中国産原料はほとんど見られなくなるが,一部中国以外の海外産と思われる原料も使用される。 3.近世銭では,原料として国産の鉛が使用された。原料供給のおおまかな状況としては,前段階では基本的に近隣の鉱山から行われ,のち次第に東北地方などの鉛に移行していくという傾向がみてとれる。ただし,文銭,長崎貿易銭など一括供給していたと考えられるものもある。
春成, 秀爾 Harunari, Hideji
朝鮮青銅器文化の忠清南道槐亭洞遺跡出土の剣把形銅器は,特異な形態と精巧な鋳造技術によって1967年に発見以来,注目され,その後,類例も加わっている。しかし,その起源と系譜は不明なままであった。このたび筆者は,その直接的な祖型を内蒙古の夏家店上層文化に属する小黒石遺跡出土の当顱に求め,さらにその祖型は西周前期の北京市琉璃河1193号大墓出土の当顱にあることを想定するにいたった。当顱とは,商代に現れる馬の面繋に取りつけて前頭部を飾る青銅製の頭当て(頭飾り)のことである。しかし,内蒙古の当顱と朝鮮の剣把形銅器すなわち当顱形銅器との型式および製作技術のうえでの隔たりはきわめて大きい。剣把形銅器の出現は朝鮮青銅器文化に細形銅剣が登場するのと同時であるので,それ以前の型式は内蒙古または遼寧地方にまだ埋もれている可能性が大きい。中国西周の当顱は,前11-10世紀に夏家店上層文化に伝わったあと,内蒙古から遠く朝鮮青銅器文化に前6-5世紀頃に達するまでの間に,馬車が脱落し,さらには乗馬の風習が欠落していった結果,その器種と使途が変化し,儀器化が進行するなど,著しく変容した。しかし,当顱形青銅器が日本列島の弥生文化まで伝わることはなかった。西周-夏家店上層文化の当顱の意匠に虎を採用し,長期にわたって継承している事実は,この地方で虎が辟邪動物の上位を占めていたこと,王が虎を従えるという意味で虎が各地の王の表徴になっていたことを暗示している。
渡真利, 聖子 Tomari, Seiko
古代日本語における運動動詞のシツ形のアスペクト的意味について分析した結果,<ひとまとまり性>と<限界達成性>という意味がとりだされた。<限界達成性>は,さらに<終了限界達成性>と<開始限界達成性>の意味に分けられる。運動の始めから終わりまでを一括的に表す<ひとまとまり性>は,ほとんどの運動動詞に表れる意味である。一方,<限界達成性>のうち,<終了限界達成性>は,内的限界動詞の中の変化の意味をもつシツ形に 表れ,<開始限界達成性>は非内的限界動詞の思考活動や感情を表す動詞においてのみ表 れる意味である。今回みたシツ形は,<ひとまとまり性>と<終了限界達成性>を表す場合の運動の終わりの限界達成時が発話時以前であること,<開始限界達成性>を表す場合の始まりの限界達成時が発話時以前であることが共通点としてみられることが確認できた。
藤本, 灯 韓, 一 高田, 智和 FUJIMOTO, Akari HAN, Yi TAKADA, Tomokazu
古代の日本の辞書には,様々な構造を持つものがあり,各辞書の構成や仕様を理解していなければ解読が困難な面があった。また注文から必要な情報を抽出するためには,隈なく目視で捜索する必要があった。順不同に入り組んだ注文の情報から,効率的に目的の情報に到達するためには,注文に存在する要素の属性が,それぞれ可能な限り定義づけられているべきである。本稿では,平安時代の代表的な漢和辞書である『和名類聚抄』を例として,いかにその構造を記述することが可能か,検討し,『和名類聚抄』の内容に適したタグを設計した。
広瀬, 和雄 Hirose, Kazuo
中海の航行へのビジュアル性を意識した塩津丘陵遺跡群からは,弥生時代後期末の一大建物群が見つかっている。そこでは首長居宅と思われる布掘建物,各種製品を保管した高床倉庫群,手工業生産の「工房」,住まいである竪穴住居など,性格の異なった建物群が計画的に配置されていた。とくに,丘陵頂部の布掘建物を囲んで建設された30棟以上の高床倉庫群(一時期には10数棟)や,ひな壇状につくられた70以上の加工段群―17ヶ所から工具・未製品や炉壁・鍛造剥片などが出土―は,通常の農耕集落ではとうてい見られない。ここでは,少なくとも鉄器の鍛造や碧玉製品の製作があったが,予測される生産量の多さから,製品が広域に供給されたのはまず間違いない。そして,それらが交換された手工業製品の一大生産・交易センターだったのも動かない。周囲には水田稲作に適した平野はないし,隣接した丘陵には同時期の一大首長墓群―出雲東部~伯耆西部地域の集団的帰属意識を象徴する観念的・宗教的センター―が築造されている。加えて,短期間の開始と廃絶などからすれば,この非農耕集落の成立には荒島墳墓群に結集した広域首長層の政治意志が働いたとみたほうが理解しやすい。私は<政治的・経済的・宗教的センター機能が一ヶ所に集められ,それらを担った人びとが集住した場>を都市と概念づけるが,ほかの弥生都市にくらべると存続期間は短いものの,塩津丘陵遺跡群はまさにそれに該当する。
関連キーワード