2976 件中 1 〜 20 件
浜本, 満
本論文の目的は,人類学の自然化の可能性を,人類学の過去に遡って再考することにある。人類学には過去に二回自然化の問題に直面した歴史がある。一回目は人類学が自然科学たりうるかどうかを巡ってなされた1950 年代から1960年代にかけての論争であり,二回目は1970 年代から1980 年代にかけての社会生物学を巡る相互の無理解に終始した論争だった。いずれにおいても文化人類学者の大多数は自然化を退ける選択をしたように見えた。一見正しいものに見えたこの選択は,大きな理論的な袋小路につながる危険が潜んでいた。本論文では,人文・社会科学全体がかかわった一回目の論争を中心に,人類学にとっての自然化の障害となりうる核心を明らかにするとともに,自然科学における経験主義的・実証主義的因果概念の限界を指摘すると同時に,生物学の領域でのダーウィニズムのロジックによって,この両者の懸隔を乗り越える可能性を示したい。
Tanabe, Shigeharu
この論文は,人類学において日常的実践がいかに理解され,またいかにその理論的枠組みの中に適切に位置づけられるかを,特にプルデューの実践理論に焦点をあてながら論じる。ブルデューが持続的かつ移調可能な実践の発生母体としてのハビトゥスを概念化するにあたって,人類学的主体と観察され記述される人びととを同一地平に置ぎながら論じたことはきわめて重要な意義をもつだろう。人類学者の理論的実践と人びとの日常的実践を接合するこの先鋭的な試みは,レヴィ・ストロース的構造人類学と現象学的社会学の双方を批判することによって達成され,「再帰的人類学」と呼ばれる新たな研究の地平を開くことになった。この再帰的位置において,人類学者は構造的な制約の中で自由と「戦略」をもって実践を生みだすハビトゥスを検討するにあたって,自らの知識が前もって構成された特権的な図式でしかないことを理解する必要に迫られる。この論文はブルデューのハビトゥス概念の成立過程を明らかにするとともに,そのいくつかの問題点を指摘しながら,今日の再帰的人類学における理論的諸問題に取り組むためのより適切な展望を開こうとする。
清水, 昭俊
マリノフスキーは,「参与観察」の調査法を導入した,人類学史上もっとも著名な人物である。その反面,彼は理論的影響で無力であり,ラドクリフ=ブラウンに及びえなかった。イギリス社会人類学の二人の建設者を相補的な姿で描くこの歴史叙述は,広く受け入れられている。しかし,それは決して公平で正当な認識ではない。マリノフスキーがイギリス時代最後の10年間に行ったもっとも重要な研究プロジェクトを無視しているからだ。この論文で私は,アフリカ植民地における文化接触に関する彼の実用的人類学のプロジェクトを考察し,忘却の中から未知のマリノフスキーをよみがえらせてみたい。マリノフスキーは大規模なアフリカ・プロジェクトを主宰し,人類学を古物趣味から厳格な経験科学に変革しようとした。植民地の文化状況に関して統治政府に有用な現実的知識を提供する能力のある人類学への変革である。このプロジェクトは,帝国主義,植民地主義との共犯関係にある人類学のもっとも悪しき実例として,悪名高いものであるが,現実には,彼の同時代人でマリノフスキーほど厳しく植民地統治を批判した人類学者はいなかった。彼の弟子との論争を分析することによって,私は,アフリカ植民地の文化接触について人類学者が観察すべき事象とその方法に関する,マリノフスキーの思考を再構成する。1980年代に行われたポストモダン人類学批判を,おおくの点で彼がすでに提示し,かつ乗りこえていたことを示すつもりである。ラドクリフ=ブラウンの構造機能主義は,この新しい観点から見れぽ,旧弊な古物趣味への回帰だったが,構造機能主義者は人類学史を一貫した発展の歴史と描くために,マリノフスキーのプロジェクトの記憶を消去した。戦間期および戦後期初めの時期におけるマリノフスキーの影響の盛衰を跡づけよう。
Nobuta, Toshihiro
本稿のキーワードである「市民社会」という概念は,東西冷戦終結後,グローバル化の波と共に地球規模に展開している。このようなグローバルに展開する「市民社会」,すなわち「グローバル市民社会」は,近年,人類学が伝統的にフィールドとしてきた周辺地域にまで拡がってきている。21 世紀に入ると,人類学的フィールドにおける「市民社会」的な空間が拡大し,人類学者はしばしばフィールドで「市民社会」的な現象に遭遇するようになってきている。それと同時に,人類学者は,フィールドに現れた「市民社会」の諸アクターが提示する同時代的なテーマに目を奪われるようになっている。本稿では,フィールドでしばしば遭遇する「市民社会」的な現象に対して人類学者がどのようにアプローチしているのかを,マレーシアの先住民運動を対象としたフィールドワークの事例をもとに明らかにする。さらに,わたし自身が経験したマレーシアのローカルNGO との遭遇の事例を手がかりにして,マクロな視点というよりもむしろミクロな視点から「市民社会」のグローバルな展開が人類学的フィールドに与えるインパクトについて考察を試みる。
稲村, 務 Inamura, Tsutomu
本稿はC・ギアツの解釈人類学的理論を沖縄の大学生向けに解説するための教育的エッセイである。ギアツの解釈人類学は今日の文化人類学において様々なパラダイムの基礎と考えられるものであり、是非理解しておくべきものである。本稿ではゼンザイ、桜、ブッソウゲ、雲南百薬、ニコニコライス、墓、巫者といった沖縄・奄美の身近な事例を検討することでその理論を理解させる目的をもっている。
桑山, 敬己
本論は,アメリカ人類学の研究および教育動向を,教科書の記述の変化を通して検討する。ケーススタディとして,Serena Nanda著Cultural anthropologyの旧版と新版を取り上げる。新版の新たな特徴として,インターネットの使用,グローバリゼーションおよびジェンダーの議論がある。ポストモダニズムの影響も強く,特に認識論,民族誌の書き方,文化の概念,政治権力,芸術の章に著しい。但し旧版の進化論的アプローチも残されており,従来の「大きな物語」とポストモダニズムが共存するという理論的矛盾が見られる。またアメリカの人類学を全世界の人類学と同一視するのも問題である。こうした欠点は他の教科書にも見られる。今後はより体系的な教科書分析を行ない,異文化としてのアメリカ人類学に迫る試みが望まれる。
山崎, 剛 YAMAZAKI, Go
南山大学人類学博物館は、2000 年に上智大学より西北タイに関するコレクションの寄贈を受けた。このコレクションには、西北タイの生活に関わる資料だけでなく、多くの写真資料が含まれている。この報告では、特に人類学的資料として、これら写真資料についての解説をおこなう。
Kishigami, Nobuhiro
文化人類学者は,さまざまな時代や地域,文化における人類とクジラの諸関係を研究してきた。捕鯨の文化人類学は,基礎的な調査と応用的な調査からなるが,研究者がいかに現代世界と関わりを持っているかを表明することができるフォーラム(場)である。また,研究者は現代の捕鯨を研究することによってグローバル化する世界システムのいくつかの様相を解明し,理解することができる。本稿において筆者は捕鯨についての主要な文化人類学研究およびそれらに関連する調査動向や特徴,諸問題について紹介し,検討を加える。近年では,各地の先住民生存捕鯨や地域捕鯨を例外とすれば,捕鯨に関する文化人類学的研究はあまり行われていない。先住民生存捕鯨研究や地域捕鯨研究では日本人による調査が多数行われているが,基礎的な研究が多い。一方,欧米人による先住民生存捕鯨研究は実践志向の研究が多い。文化人類学が大きく貢献できる研究課題として,(1)人類とクジラの多様な関係の地域的,歴史的な比較,(2)「先住民生存捕鯨」概念の再検討,(3)反捕鯨NGO と捕鯨推進NGO の研究,(4)反捕鯨運動の根底にある社会倫理と動物福祉,およびクジラ観に関する研究,(5)マスメディアのクジラ観やイルカ観への社会的な諸影響,(6)ホエール・ウォッチング観光の研究,(7)鯨類資源の持続可能な利用と管理に関する応用研究,(8)クジラや捕鯨者,環境NGO,政府,国際捕鯨委員会のような諸アクターによって構成される複雑なネットワークシステムに関するポリティカル・エコロジー研究などを提案する。これらの研究によって,文化人類学は学問的にも実践的にも捕鯨研究に貢献できると主張する。
Iida, Taku Kawai, Hironao
本書は、2015年1 月24日から25日にかけて国立民族学博物館で開催された国際フォーラム「中国地域の文化遺産―人類学の視点から」のプロシーディングズである。国際フォーラムは、国立民族学博物館の機関研究「文化遺産の人類学―グローバル・システムにおけるコミュニティとマテリアリティ」の一環として開かれた。この序の前半では、機関研究全体の関心について述べ、後半では、中国地域というコンテクストに即した問題の所在を紹介する。
木田, 歩 KIDA, Ayumi
人類学・民族学における学術的資料が、2000 年に上智大学から南山大学人類学博物館に寄贈された。これらは、白鳥芳郎を団長とし、1969 年から1974 年にかけて3 回おこなわれた「上智大学西北タイ歴史・文化調査団」が収集した資料である。本報告では、まず、調査団の概要について、白鳥による研究目標をもとに説明し、次に寄贈された資料を紹介する。最後に、今後の調査課題と研究の展望について提示する。
森茂, 岳雄
国立民族学博物館における教育活動の歩みを概観するとともに,特に博学連携の本格的取り組みの開始となった,「民博を活用した学習プログラムの開発」,およびそれに続く「博学連携教員研修ワークショップ」の取り組みを中心に,その成果と課題について論ずる。またそれらの取り組みが,学校という公共空間における教育実践の創造への人類学者の「関与」と,教師・教育研究者との「協働」の事例であり,教育の公共人類学にむけた実践であることを指摘した。
Takezawa, Shoichiro
19 世紀なかばのフランスでは,ブロカに率いられた人類学派が発展し,学界を超えて強い社会的影響をもった。それは,人間の頭蓋や身体各部位を計測し,一連の数字にまで還元することで,人びとを絶対的な人種の境界のあいだに分割することをめざした人種主義的性格の強い人類学であった。この人類学が当時のフランスで広く成功した理由は,産業革命が進行し,教会の権威が失墜した19 世紀なかばのフランスで,新しい自己認識と世界理解を求める個が大量に出現したことに求められる。こうした要求に対し,ブロカ派人類学は数字にまで還元/単純化された世界観と,白人を頂点におくナルシスティックな自己像/国民像の提出によって応えたのであった。 1871 年にはじまるフランス第三共和制において,この人類学は,共和派代議士,新興ブルジョワジー,海軍軍人などと結びつくことで,共和主義的帝国主義と呼ぶことのできる新しい制度をつくり出した。この帝国主義は,法と同意によって維持される国民国家の原則に立つ本国と,法と同意の適用を除外された植民地とのあいだの不平等を前提とするものであったが,ブロカ派人類学は植民地の有色人種を劣等人種とみなす理論的枠組みを提供することで,この制度の不可欠の要素となっていた。 1890 年以降,新しい社会学を築きつつあったデュルケームは,ユダヤ人排斥の人種主義を批判し,人種主義と関連しがちな進化論的方法の社会研究への導入を批判した。かれが構築した社会の概念は,社会に独自の実在性と法則性を与えるものであり,当時の支配的潮流としての人種主義とは無縁なところに社会研究・文化研究の領域をつくりだした。しかし,ナショナリスティックに構築されたがゆえに社会の統合を重視するその社会学は,社会と人びとを境界づけ,序列化するものとしての人種主義を乗りこえる言説をつくりだすことはできなかった。 人種,国民国家,民族,文化,共同体,性などの諸境界が,人びとの意識のなかに生み出している諸形象の力学を明らかにし,その布置を描きなおしていく可能性を,文化/社会人類学のなかに認めていきたい。
林, 正之 Hayashi, Masayuki
柳田國男著作中の考古学に関する箇所の集成をもとに、柳田の考古学に対する考え方の変遷を、五つの画期に整理した。画期(一)(一八九五〜):日本社会の歴史への広い関心から考古学・人類学に参与し、山人や塚等、村落とその境界の問題を探求する。土器・石器や古墳の偏重に反発して次第に考古学から離れ、『郷土研究』誌上で独自の歴史研究を行う。画期(二)(一九一七〜):南洋研究や渡欧を通じて人類学の動向を知り、日本での国際水準の人類学創設を図る。出土人骨研究の独走や「有史以前」ブームを批判し、人類学内での人文系・自然科学系の提携、近現代に及ぶ「有史以外」究明の為の考古学との協力を模索する。画期(三)(一九二九〜):人類学の総合を留保し、一国民俗学確立に傾注する中、考古学の発展を認め、考古学との対照によって、現代の文化複合の比較から民族の文化の変遷過程を抽出する方法論を確立する。戦時下、各植民地の民俗学の提携を唱えるも、考古遺物の分布等から民族間の歴史的連続を安易に想起する傾向を排し、各民族単位の内面生活に即した固有文化の究明を説く。画期(四)(一九四六〜):敗戦原因を解明し、批判力のある国民を創るべく、近現代重視の歴史教育構築に尽力する。登呂遺跡ブームが中世以降の地域史への関心を逸らすことを警戒し、身近な物質文化の変遷から社会分析の基礎を養う教育課程を構想するも挫折する。画期(五)(一九五二〜):自身の学問の挽回を賭け、島の社会環境や大陸の貨幣経済を踏まえた移住動機の総合的モデルに基づき、稲作を核とする集団が、琉球経由で海路日本列島へ渡来したとの説を掲げて、弥生時代の朝鮮半島からの稲作伝来という考古学の通説と対決する。しかし考古学側の知見に十分な反証を出せず、議論は閉塞する。柳田は、生涯に亘って考古学を意識し、批判的に参照する中で、研究の方向を模索した。考古学は、柳田の思想の全貌を照射する対立軸といえる。
丹羽, 朋子
中国黄土高原の女性が作る切り紙「窓花」を,その多重的なイメージのあり方に倣って,いかにして人類学的表現へと〈うつす〉(移動・変換・投影)か。本稿では,筆者がこのような問いを掲げて制作してきた映像や展覧会を取り上げる。2013–2014 年に福岡と東京で開催した「窓花・中国の切り紙」展では,現地の人々と日本の造形作家と協働し,フィールドの感性的経験を再構成して提示すべく,映像と実物資料を合わせたインスタレーションの制作や,ワークショップを行った。その過程ではフィールドの現実とその記録映像とギャラリー空間との間,或いは日本の観者たちの経験や記憶との間に生起する多元的なズレが焦点化し,展示に反映された。人類学とアートの協働実践としての本展の実験的試みを,「イメージの再‒物質化」「時空間の混成化」「観者の巻き込み」等の観点から省察し,身体を介した「創造的翻訳」としての人類学的表現実践の可能性を考える。
Nobori, Kukiko Kanematsu, Mei
本特集では協働を特徴とする同時代のアート実践を取り上げ,それらの多様なプロセスのあり方から出来事としてのアートを人類学的に考察することを目的としている。近年,アートの現場において「協働的」な実践やその「プロセス」が注目を集めてきた。そこでは異なる分野やアクターと共にはたらくこと自体に価値が見出され,完成された作品というよりもむしろ協働するプロセスが重視される。本特集では,参加型アート,アートプロジェクト,ストリートアート,そして人類学者とアーティストによる展覧会づくりという5 つの事例において,1)各プロセスにおける時間性,2)主客を超えた人やモノの複雑で複層的な関係性が切断する瞬間に着目し,比較検討を試みる。これらの議論を通して出来事としてアートをとらえ,同時代のアート実践に共通する「驚き」や「気づき」あるいは葛藤を人類学的に理解する。
Suzuki, Motoi
本稿は,文化人類学がフェアトレードをどのように支援できるかを検討するものである。そのために,第1 に文化人類学的研究の主な貢献は,フェアトレードの言説と実践を比較し,その齟齬を明らかにすることであることを示す。第2 に,フェアトレードに批判的な研究成果を提示する際には,北の消費者が南の生産者に対して抱く連帯感を考慮し,建設的な批判となるための工夫が必要であることを主張する。こうした考察を進めるにあたって,本稿では,国立民族学博物館で実施したフェアトレードに関する2 つの国際シンポジウム「フェアトレード・コミュニケーション―商品が運ぶ物語」と「倫理的な消費―フェアトレードの新展開」の成果,および著者によるベリーズのカカオ生産者に関する研究を参照する。
Takezawa, Shoichiro
19 世紀後半に欧米諸国であいついで建設された民族学博物館は,新しい学問領域としての民族学・文化人類学の確立に大きく貢献した。植民地拡大の絶頂期であったこの時期,民族学博物館の展示は,器物の展示を通じて近代西欧を頂点におく諸民族・諸人種の進化を跡づけようとする,イデオロギー的性格の強いものであった。 やがて,文化人類学における文化相対主義・機能主義の発展とともに,民族学博物館の展示も,当該社会の文化的コンテキストを重視するものになっていった。そして,西暦2000 年前後に,ヨーロッパの多くの民族学博物館はその展示を大幅に変えたが,その背景にあったのは,「他者」を再現=表象することの政治的・倫理的課題をめぐる民族学内部の議論であった。 本稿は,ヨーロッパの民族学博物館の展示の刷新を概観することを通じて,今日の民族学博物館と民族学が直面している諸課題を浮彫りにすることをめざすものである。
尾本, 惠市
本論文は、北海道のアイヌ集団の起源に関する人類学的研究の現況を、とくに最近の分子人類学の発展という見地から検討するもので、次の3章から成る。 (一)古典的人種分類への疑問、(二)日本人起源論、(三)アイヌの遺伝的起源。まず、第一章で筆者は、人種という概念を現代生物学の見地より検討し、それがもはや科学的に有効ではなく、人種分類は無意味であることを示す。第二章では、明治時代以降の様々な日本人起源論を概観し、埴原一雄の「二重構造説」が現在の出発点としてもっとも適当であることを確認する。筆者は、便宜上この仮説を次の二部分に分けて検証しようとしている。第一の部分は、後期旧石器時代および縄紋時代の集団(仮に原日本人と呼ばれる)と、弥生時代以後の渡来系の集団との二重構造が存在するという点、また、第二の部分は、原日本人が東南アジア起源であるという点についてのものである。筆者の行った分子人類学的研究の結果では、第一の仮説は支持されるが、第二の仮説は支持できない。また、アイヌと琉球人との類縁性が遺伝学的に示唆された。第三章で筆者は、混血の問題を考慮しても、アイヌと東南アジアの集団との間の類縁性が低いという事実に基づき、アイヌの起源に関する一つの作業仮説を提起している。それは、アイヌ集団が上洞人を含む東北アジアの後期旧石器時代人の集団に由来するというものである。また、分子人類学の手法は起源や系統の研究には有効であるが、個人や集団の形態や生活を復元するために、人骨資料がないときには先史考古学の資料を用いる学際的な研究が必要であると述べられている。
Kishigami, Nobuhiro
狩猟採集民社会における食物分配に関してはさまざまな研究がなされてきた。本稿ではそれらを社会・文化人類学的研究,生態人類学的研究,進化生態学的研究,霊長類研究に大別し,諸仮説を紹介し,検討する。そしてイヌイット研究が狩猟採集民社会における食物分配研究に貢献できるテーマとして,1)人口規模が小さいキャンプ集団と人口規模が大きい村における食物分配の違いを解明すること,2)特定の集団(コミュニティー)を対象として食物分配の変化と現状を通時的に解明すること,そして3)地域間や同一地域内における食物分配の差異や共通性およびその歴史的変化を解明すること,という3つの研究課題を提示する。
長田, 俊樹
筆者は、主に言語学以外の自然人類学や考古学、そして民族学の立場から、大野教授の「日本語=タミル語同系説」を検討した結果、次のような問題点が明らかとなった。 まず自然人類学では、大野教授がいうように、もしタミル人が渡来したのであれば、人骨が見つかっていない点は大野説には不利である。また考古学的には、大野説を裏付けるものはほとんどない。大野説によると、墓制、稲、金属器などが、南インドから伝播してきたことになるが、これらを裏付ける物的証拠はほとんどなく、むしろ反証の方が多い。さらに、大野説の初期からいわれてきた正月行事の類似も、南インドと日本だけの類似ではなく、アジアの広範囲にみられ、南インドからの伝播とみなす積極的な根拠は全くない。 以上、大野教授の「日本語=タミル語同系説」は、言語学における問題点に加えて、言語学以外の関連分野ではさらに多くの疑問点があり、とても支持できないというのが筆者の結論である。
大村, 敬一
本論文の目的は,イヌイトの「伝統的な生態学的知識」に関してこれまでに行なわれてきた極北人類学の諸研究について検討し,伝統的な生態学的知識を記述,分析する際の問題点を浮き彫りにしたうえで,実践の理論をはじめ,「人類学の危機」を克服するために提示されているさまざまな理論を参考にしながら,従来の諸研究が陥ってしまった本質主義の陥穽から離脱するための方法論を考察することである。本論文では,まず,19世紀後半から今日にいたる極北人類学の諸研究の中で,イヌイトの知識と世界観がどのように描かれてきたのかを振り返り,その成果と問題点について検討する。特に本論文では,1970年代後半以来,今日にいたるまで展開されてきた伝統的な生態学的知識の諸研究に焦点をあて,それらの諸研究に次のような成果と問題点があることを明らかにする。従来の伝統的な生態学的知識の諸研究は,1970年代以前の民族科学研究の自文化中心主義的で普遍主義的な視点を修正し,イヌイトの視点からイヌイトの知識と世界観を把握する相対主義的な視点を提示するという成果をあげた。しかし一方で,これらの諸研究は,イヌイト個人が伝統的な生態学的知識を日常的な実践を通して絶え間なく再生産し,変化させつつあること忘却していたために,本質主義の陥穽に陥ってしまったのである。次に,このような伝統的な生態学的知識の諸研究の問題点を解決し,本質主義の陥穽から離脱するためには,どのような記述と分析の方法をとればよいのかを検討する。そして,実践の理論や戦術的リアリズムなど,本質主義を克服するために提示されている研究戦略を参考に,伝統的な生態学的知識を研究するための新たな分析モデルを模索する。特に本論文では実践の理論の立場に立つ人類学者の一人,ジーン・レイヴ(1995)が提案した分析モデルに注目し,その分析モデルに基づいて,人間と社会・文化の間に交わされるダイナミックな相互作用を統合的に把握する視点から伝統的な生態学的知識を再定義する。そして,この再定義に基づいて,伝統的な生態学的知識を記述して分析するための新たな分析モデルを提案し,さまざまな社会・文化的過程が縦横に交わる交差点として民族誌を再生させる試みを提示する。
サワトゥキェビッチ, ミハウ マテウシュ Salatkiewicz, Michal Mateusz
本稿は本格的なフィールドワークに先立って、琉球弧の「ユタ研究」を知識人類学という観点からレヴューを行い、その問題点を明確にした。「ユタ研究」の先行研究を文化人類学史のパラダイム転換に即して理解しなおすと、「ユタ」という語自体も知識の評価であり、その他「職能」として捉えられてきたムヌスー、ヤブー…といった語もまた知識の評価にすぎない。つまり、こうした語は主として女性の霊力・霊威に対する、学術、民間を問わず、知識の評価であるという観点が欠落していたのである。ゆえに、今後は間主観的にこうしたカテゴリーが構築されることに留意したフィールドワークを参与観察とIT 空間の領域で行っていきたい。
Nakagawa, Satoshi
この論文は自然と文化の間の連続性の問題を扱う。文化人類学は,とりわけ構造主義の人類学は,文化(シンボルの思考)の解明の仕方は自然主義との譲歩を一切許さないものであると宣言する。構造主義的世界観の中では,文化と自然は断続しているのである。自然主義,例えば進化生物学の中では,自然から文化への変化は漸進的な変化であり,「魔法の瞬間」(デネット)などないという。両陣営ともに自然から文化への遷移について心の理論(あるいは他者の視点)の獲得に焦点をおく議論を展開する。この論文では第3 の立場を議論する。この議論でも,心の理論に焦点があてられる。これまでの議論での心の理論は,他者の心を外側から操作するための戦略である。このような能力は,霊長類も持っているかもしれない。それに対し,人間は,他者の心を虚構として内側から生きることができるのである。これこそがヒトをヒトたらしめた能力なのである。
稲村, 務 Inamura, Tsutomu
柳田国男が自らの学問を民俗学と認めるのは彼が日本民俗学会会長になった1949年の4月1日であり、それ以前は日本文化を研究対象とした民族学(文化人類学)もしくは民間伝承学(民伝学)を目指していた。柳田が確立しようとした民俗学は自分以外の人々に担われるべきものであり、柳田自身を含んでいなかった。本稿ではこのことを検証するために、それ以前のテキストととともに、1948年9月に行われた座談会「民俗学の過去と将来Jを中心に検討する。柳田国男は本質的に民族学者である。
川田, 牧人 Kawada, Makito
本稿は、フィールドワークによって知識が獲得され形成される過程において、可視性すなわち見ることがいかに関連するかという課題を検討することを目的としている。自然科学における「客観的」観察の前提を相対化し、主観と客観の相互作用や一体化といった側面が見いだされることに関連させて、文化人類学と民俗学の「見る」方法を考察する。その第一の立脚点は「way of looking」と「way of seeing」の対比である。前者はものの見方、観察の仕方といった具体的な方法のことであり、後者は個々の技術の背景をなしているような人間観、社会観をさしている。本稿ではこの両者の観察のモードによって、とりわけ文化人類学の観察調査が現場でどのようにおこなわれるかを検討する。一方、民俗学の観察の特徴として、「主観の共同性」をとりあげる。自然を観察しそこから季節の変わり目を感じたり農作業の開始時期を判断したりすることは個人的で主観的な感覚であるはずだが、その主観が一定範囲の人々のあいだで季節の慣用表現や農耕儀礼として共同化されていることが主観の共同性である。それは同時に「見立て」や「なぞらえ」といったメタファー的視覚の生成を意味している。そこで考察の第二の立脚点として、ウィトゲンシュタインのアスペクト論を検討し、意味理解の文脈依存性という論点を導き出す。この観点から、エヴァンス=プリチャードやミシェル・レリス、柳田國男などの民族誌記述を検討する。これらの議論を経由して、何ら先見性のない白紙の観察ではなく、むしろフィールドという場の論理としての文脈においてなされるような観察と、アスペクト転換を反映させたような把握・理解と叙述が、文化人類学と民俗学の観察法の特徴であるという帰結にいたる。そのような観察と記述のありかたから、現実と仮想が行き来する生活世界にせまる方法を吟味する。
吉田, ゆか子
1980 年代以降の人類学では,モノが人間に使われたり,意味や価値を付与されたりする側面だけでなく,モノの側からの人間への働きかけや,モノと人の相互的作用によって出来事が生成されるプロセスに着目している。また,そこに物質性がいかに関わるのかという問いも重要性を帯びている。本特集は,こうした「マテリアリティの人類学」の関心を上演芸術の研究と交差させ,新たな視座を探求するものである。本特集では,芸能を人とモノの織りなす営みと捉え直し,表現や伝承にモノがどのように関与するのかを考察する。モノの物質性に触発され想像力や創造性が刺激されるプロセスにも注目する。そのなかでは,舞台後もつづく日常におけるモノと人の関わりの影響,モノの移動がもたらす事柄,人とモノ(例えば楽器や他者の身体)が「1 つになる」といった事態,などの新たな研究テーマも生まれる。
神谷, 智昭 神谷, 幸太郎 上原, 三空 幸地, 彩
琉球大学国際地域創造学部地域文化科学プログラム社会人類学研究室神谷ゼミは2022年11月25日~27日に「久米島の農と文化」に関する現地調査を久米島でおこなった。久米島では在来農業とは異なる新しい農業に取り組む人びとがおり、その活動は地域貢献にもつながっていた。また学生の視点から久米島の遺跡や史跡について調べることを通じて新しい価値や意味の発見を試みた。
Kishigami, Nobuhiro
本論文では,カナダ極北地域における有機汚染物質や重金属類,放射性核種による海洋資源,特に海棲哺乳動物資源の汚染問題について紹介し,この問題に対して国際連合や極北諸国,イヌイット環極北会議,カナダ政府,ケベック州政府,カナダ・イヌイット協会,カティヴィク地方政府,そしてヌナヴィク地域とヌナヴト準州のイヌイットがどのように対応してきたかを記述する。この問題について地元のイヌイットとそれ以外の団体や人々との間には,認識や行動,現実の対応に関してかなりの乖離がみられることを強調しておく。最後に,この汚染問題に関して文化人類学者が果たすことができる役割について検討を加える。筆者は,イヌイットの文化や社会を長期にわたって調査してきた文化人類学者は,他のアクターと有機的に協力すれば,イヌイットと外部社会を取り結ぶ文化の仲介者として,さらに資源の共同管理を立案し実施するうえでイヌイットと政府関係者の両者の助言者として,この問題の改善や解決に貢献できると主張する。
Han, Min
本研究ノートは,ある中国人キリスト教徒が1940 年代中国内戦の間に綴った,1946 年1 月8 日から1948 年5 月31 日までの149 日分の中国語日記及びその日本語訳全文を紹介し,日記資料に基づいて,一人の市民,キリスト教徒の目から見た当時のアメリカ北長老会所属の安徽省宿州キリスト教会およびその教会直轄の「農業科学試験部」の活動,戦時下の国民党軍隊と市民及び教会との関わりを整理し,資料の人類学的な背景について若干の考察を与えたものである。 日記は2008 年に筆者が安徽省宿州市において収集し,現在,国立民族学博物館に研究資料として収蔵されている。日記は中国人キリスト教徒の目から当時のアメリカ北長老会所属の安徽省宿州キリスト教会の活動,戦時下の国民党軍隊と市民及び教会との関わり方などの貴重な情報を詳細に記述したので,そこから当時の公式な文書や新聞,書籍等の出版物とは異なる情報を得ることができる。こうした種類の資料を今後,人類学的な歴史研究にどのように活用していく可能性があるかということも含めた試論を提示する。
木村, 慶太 山田, 幸生 Nakamaki, Hirochika
南米発祥のエケコ人形について文化人類学的な視点を提示し,それにもとづき製作を行った。まず,国立民族学博物館(以下 みんぱくと記す)の中牧弘允が,エケコ人形の由来及び日本文化との共通点等に関する解説を行った。続いて,小学校図画工作科における実践事例を報告した後,参加者が各自のエケコ人形の製作を行い,感想を出し合うことで,学びのまとめとした。
全, 京秀
博物館の概念は西洋における帝国主義及び植民地主義の拡大という脈絡とは無縁ではありえない。朝鮮総督府博物館は1915年に朝鮮王宮跡地に創設され,しかも博物館の名称自体が,植民地の民族に対する支配を明白に示していた。これを「植民地主義博物館」と私は呼びたい。前者と対照をなす「民族主義博物館」は,米国軍政府の援助のもとでの独立と共に,最終的に建物・機構ともに前者に取って代わった。この博物館は1950年の朝鮮戦争の直前にソウルの人類学博物館と合併した。この意味ではこの博物館は,異文化を展示するという人類学的内容をもっていたわけである。植民地時代には民族を支配するために,独立以降は民族とその政府にとって,古くからの由来や文化的価値,そして政治的正統性を提示することで,博物館は少なくとも植民地主義的利益と民族主義的利益のために尽くしてきたのである。21世紀にはグローバリズムというキーワードが世界の中で我が国の博物館を示していく主要な課題となるかもしれない。
C. , Сасаки
本稿は中国黒竜江省の松花江(スンガリー川)沿岸にある敖其(アオチ)と呼ばれる赫哲族の村に最近新設された博物館での展示を一つの材料として,赫哲族あるいはナーナイと呼ばれるアムール川流域(主に松花江下流域,ウスリー川流域とウスリー川河口より下流のアムール川流域)に広く居住する人々についての文化表象と歴史表象の統合を図り,さらに文化人類学(以下「人類学」と略称する),民族学による歴史研究の方法と民族誌の内容の通時的相対化という問題を検討することを目的としている。従来多くの民族誌で「未開の漁撈狩猟民族」あるいは「自然と共生する文化を持つ民族」という扱いを受けてきた彼らは,実際には中国,日本,韓国・朝鮮を含む東アジア,北東アジアの歴史の中で重要な役割を果たしたキープレイヤーだった。しかし,近代国家の統治の下で,「未開民族」,「異教徒」などのレッテルと共に最低の社会階層に位置づけられ,彼らが優先的権利を有していた資源からも疎外され,貧困状態に陥り,一見「未開」な状態に見える生活を強いられた。そこを人類学者や民族学者に調査され,それを普遍的な状態として民族誌の中で喧伝されてきた。本稿では,歴史史料に登場する17 世紀以来の彼らの祖先たち,特にゲイケル・ハラと呼ばれる赫哲族=ナーナイの一つの有力な氏族集団の祖先たちの活動を分析することで,民族誌に書かれている内容を無条件で受容してはならないことを指摘すると共に,民族文化の紹介の場として最も普及している博物館施設において,歴史を加味した新しい文化像をいかに展示すればよいかを検討する。
白川, 千尋
ヴァヌアツ中部の伝統的政治システムは称号制度に基づいている。この地域の社会では,称号を有する者が政治的リーダーとなる。従来の人類学的議論では,この称号は世襲されるものと位置づけられてきた。そして,こうした側面とサーリンズの提出したビッグマンと首長の概念に基づき,この地域の称号制度は首長制と分析されてきた(Sahlins 1963)。しかし,この分析は十分な民族誌的資料によって裏打ちされたものとは言い難い。そこで,本稿ではヴァヌアツ中部のトンゴア社会を対象とし,同社会の称号制度に関する民族誌的資料を提示する。具体的には,称号に付随するナタンガラサ(natangarasa)と呼ぼれる超自然的な力と個々の称号の継承に関する資料である。そしてそれを踏まえて,先述の人類学的議論について検討を加える。提示した民族誌的資料から,結論として称号制度を世襲制ないしは首長制と位置づけた従来の分析は妥当性を欠くものであったことを指摘する。
福井, 栄二郎
本稿は老年人類学の新たな可能性を提示する。これまでにも老年人類学という分野は存在したが,そこでは常に老人を「伝統」という枠組みからしか捉えてこなかった。しかし現在,どの地域でも近代化が進み,老人のライフスタイルは多様となっている。こうした状況下で老人がどのように社会的ポジションを得ているのかを考察する必要がある。 その老年人類学における新たな視点として,本稿ではジェンダー論の議論を援用しつつ,社会構築主義―つまり「老人」というカテゴリーやそこに付随する社会的な規範は社会的,言説的,歴史的に構築されているという考え方―の再考を行いたい。社会構築主義では,ある概念やカテゴリーは,パフォーマティヴィティを破綻させることで変化するという前提が存在している。この前提は本当に妥当なのだろうか。 こうした問題を踏まえて,筆者が調査を行ってきたヴァヌアツ・アネイチュム島の事例を考察する。アネイチュムには,他の多くの地域と同様,「老人は伝統を知っている」という社会通念や規範がある。しかしその一方で,人生の大部分をアネイチュム以外の地域で過ごし,それゆえ「伝統を知らない」と考えられている老人たちも存在している。また概していえば,彼らを含め,多くの老人はそれほどアネイチュムの伝統に詳しいわけではない。つまり,老人としてのパフォーマティヴィティは破綻しているともいえる。だが彼らは若者たちに敬されており,それを支えているのは,歳を重ねているという事実だけである。つまり「歳を取る」という宿命的な行為ゆえ,「老人」は確固としたリアリティとして存在しているのだと主張する。
清水, 郁郎 SHIMIZU, Ikuro
昨年度おこなわれた「モノと情報」班の第4回ワーキング・セミナーでは、東南アジア大陸部社会に特徴的な事象を人類学的、民族誌的に踏まえたモノ研究の可能性が議論された。この報告書は、そこで議論された諸問題を再度整理し、同地域におけるモノ研究の今後の方向性について検討するものである。
Iida, Taku
本稿では,人類学の分野で別個に扱われることの多かったアフォーダンス理論(生態心理学,道具技法論)と関連性理論(記号論,コミュニケーション理論)を統合するための基礎的作業として,ふたつの理論の共通性を考察する。まず,両理論は互いに排除しあうものではない。アフォーダンス理論は記号現象を対象としにくいという制約があるが,関連性理論をはじめとするコミュニケーション理論は物理的環境のなかでの行為も記号現象も等しく対象としうる。そのいっぽう,いずれの理論も,主体をとりまく環境に散在するさまざまな情報を探索しながら選びだし,それをもとにして状況を認知する点で共通する。これは,脳内に精密な表象を構成することで状況を認知するという考えかたとは大きく隔たる。ふたつの理論は,その適用対象を違えながらも同じ立場に立っており,統合することも不可能ではないのである。このことを意識していれば,心理学者ならぬ門外漢の民族誌家でも,他者の「心理」にもとづきつつ,フィールドで直面することがらを記述できる可能性がある。本稿は,そうした「限界心理学」を始めるための準備作業である。
Iida, Taku
海外渡航がきびしく制限されていた昭和20–30年代,海外フィールド調査を志す人類学者の多くが,マスメディア企業の後援を受けたエクスペディションを組織した。こうしたエクスペディションには映画カメラマンが同行することが多く,長編記録映画の興行的成功がエクスペディションの採算を合わせていた。また,新聞記者が同行することも多かった。新聞の紙面では,調査活動が速報されるほか,めずらしい写真や専門的な発見・知見が伝えられ,学術活動の広範なアウトリーチがおこなわれた。また,新聞社主催の展示会や講演会,映画会なども盛んにおこなわれた。 しかし,1963 年頃から,アカデミズムとマスメディアの連携は成り立たなくなっていく。テレビの登場と海外旅行自由化によって映画産業がふるわなくなり,エクスペディションによる収益が見こめなくなったのである。また,外貨割り当てが必要なくなり,マスメディア企業が独自取材をおこないやすくなったのも原因であろう。一部の海外調査隊はテレビと連携したが,この方式は定着しなかった。同じ頃,文部省が海外学術調査を制度的に認め,研究活動に回される資金が増えたため,研究者の側もマスメディアとの連携を重んじなくなった。昭和30年代におけるアカデミズムとマスメディアの連携は,政府による調査支援が不十分だった時代の一時的なものではあったが,人類学的調査の重要性を国民に広く知らしめる結果となった。
Ito, Atsunori
民族学博物館は展示活動以外にも研究成果の社会還元を目的とする催事を開催する。国立民族学博物館での「研究公演」はその一つで,「世界の諸民族の音楽や芸能などの公演をとおして,文化人類学・民族学に関する理解を深め」ることが目的とされる。筆者は通算80 回目の研究公演「ホピの踊りと音楽」(2012 年3 月20 日)の企画と実務と交渉を担当した。本稿ではその経験をもとに,「季節の踊り(ソーシャルダンス)」と称される米国南西部先住民ホピの儀礼の組織化と実施に関する民族誌的知見をちりばめながら,公演にまつわる具体的な実務と交渉の流れをドキュメンテーションするとともに,同時代を生きる招聘者と招聘元の博物館との間で交わされる対話として物語化する。そしてこの物語を素材として,国立民族学博物館において外国人招聘を伴う催事を実施する意義を「フォーラムとしてのミュージアム」という観点から考察する。
楊, 海英
本論文は「歴史」の書き方,「歴史」の語り方を分析し,歴史研究と人類学的研究との相互接点を探ろうとするものである。具体的には,19世紀末に発生し,中国北西部と中央アジアを舞台として展開した回民反乱を分析対象とする。回民反乱について,現代中国の通史類は「少数民族による反清朝闘争」であると政治的な評価を下し,回民反乱軍による略奪や虐殺行為に触れていない。一方,各地の地方史誌はr通史が書こうとしなかった回民反乱軍による被害を記述している。また,通史や地方史誌と対照的なのはモンゴルの年代記である。口頭伝承の要素を大いに帯びている年代記は,モソゴル軍の軍功を賞賛するために回民反乱を淡々と描いている。上述の諸史料をさらに回族側の捉え方と比較すると,まったく異なった,鮮明な「生き方の歴史」が浮かび上がってくる。歴史研究における「外部からの視点」と「内なる視点」を検討し,人類学的な歴史研究と「生き方の歴史」との共通性を探求することこそ,過去の出来事を解明する手がかりとなることを強調しておきたい。
稲村, 務 Inamura, Tsutomu
2009年に急逝された比嘉政夫先生が撮影した1980年代のタイ、雲南省、貴州省の映像を解説することおよびそこからわかる映像資料の人類学的可能性を考えることを目的とする。まず、比嘉先生の残されたビデオの日時、場所の特定をすることを主眼とする。その上で、比嘉政夫先生のアジアに対する学問を振り返りながら、急激な社会変動のなかにあるアジアにおいて映像を通じて「民俗」を記録することの意義を考える。「民俗」の記録においては「日常性」や「身体性」の問題が重要であることがわかる。また、映像資料の可能性として文字資料に書かれたものを「追体験」することができる点が重要であることがわかる。
登, 久希子
本稿は1990 年代以降現代美術の文脈において注目されてきた「参加型アート」を取り上げ,観客による作品への「参加」の意味を譲渡不可能性の観点から論じるものである。参加型アートの多くは,特定の状況や観客自身が従事するプロセス自体を作品として提示するものである。参加することは従来の美術批評の方法論にはない実践であるがゆえに批評家や美術史家を当惑させてもきた。観るだけではない直接的な「参加」を要請するアート作品を,人類学的にどのようにとらえることができるのだろうか。本稿では作品をつくるプロセスがアーティストや参加者たちにどのように経験されるのか,主にニューヨークにおける事例から考察していく。
中川, 敏
インドネシア東部フローレス島にすむエンデの人びとの間で,著者は1979年以来人類学的調査をすすめてきた。1980年代の後半以降,調査地の村の若者がマレーシアへ出稼ぎにいくという現象が顕著となってきた。物理的な移動が,すでに確立された,伝統的な空間の秩序を混乱させるという近年の人類学的な「場所」議論を踏まえて,エンデの出稼ぎを考察するのが,当論文の目的である。出稼ぎ言説の比較の対象としたのが,インドネシアにおける近代学校制度を通じて学ぼれたあたらしい言説である。 後老,すなわち学校制度をつうじて導入された「近代」の言説は,エンデの語りの宇宙のなかで,伝統的言説と並ぶ位置をもっている。二つの言語システムは,おたがいを引用符にくくりながら,併用される。とくに「高学歴」とみなされる人びと(「アナ・スコラ」とエンデでは呼ばれる)は,とうぜんのこととは言え,学校教育を通じて学んだこの言語システムを頻繁に使用する。 アナ・スコラのこのような戦略に対して,出稼ぎを経験した人びとは,彼らの経験を通じて学んだであろう新しい言語システムを社会に導入しようとはしない。出稼ぎ者は語らないのだ。だが,出稼ぎそのものは,伝統的な言語システムの中に採り入れられていく。それは,貨幣が,エンデの親族・交換・場所の理論の中で,非親族・非贈与・非場所の地位を占めるのとおなじニッチに埋め込まれるのだ。出稼ぎは,伝統的言語システムを揺り動かすものではなく,システムを変動させることなく,その中に取り込まれてしまうのである。 「出稼ぎ」の伝統的言説への取り込まれ方は,政府の語りの中で「伝統」のあつかわれかたと同じである。後者を「構築された伝統」と呼ぶならば,前者を「構築された近代」と呼ぶことができるであろう。
菊田, 悠
近代化が各地でいかに進んできたかを考察する近代化論は1960 年代頃から盛んになったが,旧ソヴィエト連邦ではイデオロギーや調査上の制約から,そのミクロ・レベルでの近代化の実態を検討することが難しく,近代化論における社会主義体制の意義も十分に論じられてきたとはいえない。 それに対して本稿は,旧ソ連を構成していたウズベキスタンのリシトン陶業が,ソ連時代に経験した変化を,先行研究および人類学的フィールドワークに基づいて仔細に検討する。そしてそれがどのような近代化といえるものだったのかを考察する。具体的には,20 世紀初頭,1920 年代から1960 年代,1970 年代から1991 年という3 つの時代区分を設定し,これに沿って生産体制,陶工の内部構造,技能の伝承という3 点からリシトン陶業の変遷を追う。 その結果,まず組織の面で社会主義的生産のための大改編がなされ,1970 年代になってからは技術面の近代化が進み,それに合わせて陶工間関係もゆるやかに変化してきたことが明らかになった。一方で,近代化の枠にはそぐわない技能や組織,観念も国営陶器工場内の工房を中心とした場で見られ,このような工房でのインフォーマルな活動はフォーマルな工場制度と相互補完的に支えあっていた。以上のように社会主義体制下での近代化の実態は複雑な様相を持ち,今後のさらなる人類学的調査を待っている。
Kishigami, Nobuhiro
人類とクジラの関係には地域や時代によって多様性が認められる。アラスカ北西地域に住むイヌピアックは,ホッキョククジラと歴史的に特別な関係を形成し,現在に至っている。アラスカ州にあるバロー村を見るかぎり,イヌピアックの生活は変化しつつも,捕鯨が彼らの生活や関心の中核をしめ,生き方に大きな影響を及ぼし続けている。本論文では捕鯨が単なる食料獲得の手段ではなく,多くのイヌピアックの人々の生活のさまざまな側面と深く関わっている文化・社会的に規定された経済活動であることをバロー村の事例を基に例証する。また,その捕鯨の存続が社会内外のいくつかの要因によって危機にさらされていることをポリティカル・エコノミーの視点とアクター・ネットワークの考えを援用して描き出す。さらに捕鯨問題は「文化の安全保障問題」であることおよび文化人類学者は,イヌピアック社会とそのほかの利害関係者との仲介者としてこの問題の理解と解決に貢献できる点を指摘する。最後に,本研究に基づいて将来の研究課題を提起する。
寺田, 匡宏 Terada, Masahiro
本稿は、災害という出来事がいかに語られるかを悲劇という枠組みとの対比によって分析したものである。災害とは本来は地球が物理的に動くということであって、意思や意図といったものは存在しない偶然性の世界に属する。しかし、それに遭遇した人はそれを何らかの認識枠組みによって語らざるをえない。「悲劇」とはそのような枠組みの一つであり、本稿は、具体的な語りの分析によってそれがいかなる形で現れているかを検討した。まず、第一章では、過去を歴史学的に扱う際の方法を検討し、過去とは直接的にアクセスすることができるものではなく、語りなどの記号表現を通じて、そのごく一部にふれることができるものであることを示した。第二章では、つづいて、民俗学、文化人類学の研究成果をもとに、語りをいまここの出来事として扱う方法について検討した。第三章と第四章では、具体的に昭和三陸津波の語りの分析を行った。第三章では、民俗的な炉辺の語り風に語られた津波の語りにおいて、語られなかった死者の存在が見え隠れしていること、第四章では、人生訓の中に繰り込まれた津波の語りにおいて、そのような語りの中には入りきらない死者が存在することを明らかにした。以上の分析をもとに第五章では、災害を悲劇としてとらえる人間の認識の構造について精神医学と文化人類学の研究などを援用しながら検討し、災害の語りは悲劇とは微細な部分で異なるものの、強い情動という点では共通するものがあることを示した。最後に第六章で、本号のテーマである環境と人間という問題と災害との関係について述べた。
宇佐美, まゆみ
「談話(discourse)」という用語がよく聞かれるようになってかなりの年月が経つ。「談話研究(discourse studies)」という用語は、1970年代頃でも、言語学のみならず、心理学、哲学、文化人類学などの関連分野でも使われてきたが、最近では、学際的研究のさらなる広がりの影響を受けて、政治科学、言語処理、人工知能研究などにおいても、それぞれの分野における意味を持って使われるようになっている。本稿では、まず、「談話」という用語が言語学に比較的近い分野においてどのように用いられてきたかを、1960年代頃に遡って、7つのアプロ―チに分けて、概観する。また、「談話分析」や「会話分析」と「第二言語習得研究」、「語用論」、「日本語教育」との関係について簡単にまとめる。さらには、1980年代以降のさらなる学際的広がりを受けての「政治科学」や「AI(人工知能)研究」における用語の用いられ方にも触れ、それらの分野との連携の可能性についても触れる。
稲村, 務 Inamura, Tsutomu
2013年6月22日の紅河ハニ棚田の「文化的景観」の世界文化遺産登録を事例に、ユネスコのいう「文化的景観」を分析した。方法としては中国側の申請書とイコモスの評価書およびその他の文書の検討からイコモス、中国政府、ハニ族知識人、紅河州などのアクターの戦略を考察した。その上で今回の指定が住民に及ぼすものは何かを資源人類学的観点から明らかにした。ユネスコの世界文化遺産における「普遍的価値」とは政治的妥協の結果であることをハニ族の棚田を事例として示した。
北川, 浩之
日本文化は日本の自然や社会と親密に結びついている。日本文化をより深く理解するには、その歴史的な変遷を明らかにする必要がある。そのためには正確な時間目盛が必要不可欠である。さらにそれは、国際的な比較から日本文化の研究を進める場合、世界的に認知された共通の時間目盛である必要がある。そのような時間目盛の一つに「炭素14年代」がある。炭素14年代は考古学、歴史学、人類学、第四紀学、地質学などの日本文化に深く関係する研究分野に有益な情報を与えてきた。これらの研究分野に炭素14年代を適用する際、年代測定に用いることができる試料の量が限られ、試料の量の不足から年代測定できないことが往々にある。したがって、少量試料の炭素14年代測定法の確立が望まれている。 最近、少量試料の炭素14年代測定に適した加速器質量分析計を用いた新しい炭素14年代測定法が考案され、従来の方法の1/1000以下の試料においても精度良い年代決定が可能となった。本稿では、この方法を用いて行なった実験の結果をもとに、少量試料の炭素14年代測定に関係する諸問題について検討する。
C. , Сасаки
アムール川下流域から樺太(サハリン)にかけての地域に居住してきた先住民は,現在,ナーナイ,ウリチ,オロチ,ウデへ,ネギダール,オロキ,エヴェンキ,ニヴヒの8つの民族に区分されている。しかし,このような民族分類と名称が確立したのは1930年代であり,それまでは様々な分類方法と名称が用いられていた。それは学術的な民族分類だけでなく,その成果を使った行政的な住民区分でも同様であった。本稿は1850年代にこの地域で本格的な人類学的,民族学的学術調査が開始されて以来の民族分類の変遷過程を明らかにすることを目的としている。従来の民族学的,歴史学的研究では,しばしば学術上の民族分類と行政上の民族的範疇との混同が見られ,この地域の先住民史研究の障害となっていた。そのことへの反省から,本稿では両者を厳密に区別することから出発し,行政,研究者,そして分類される住民の3者間の関係に焦点を当てる。それにより,現在の民族分類の学術的な背景と行政を通じたその住民自身の民族意識への影響を明らかにすることができる。
Niwa, Norio
人類学が学問として制度的に確立する前の移行期にはさまざまな探検という調査プロジェクトが存在していた。本稿では,そうしたなかでも日本人博物学者朝枝利男の参加したアメリカの探検隊に注目したい。朝枝利男は,多様な経歴を経た人物であるが,1923 年の渡米後,アメリカで活躍した博物学者・学芸員とさしあたりまとめられる。彼は,剥製から水彩画と写真撮影までの多才な博物学的技術を身に着けていたことから,1930 年代に企画された半ば私的な調査隊に数多く参加していた。その結果,数多くの博物学的な写真と水彩画を残している。しかしそれらは世界各地の博物館に散在して資料としての整理の段階から進められていないままにおかれている。そこで本稿では,以下3 点を目的としたい。まず,これまで基礎的な資料整備の水準で取り扱われていなかった朝枝利男コレクションの資料が作られた背景を精査することで,資料としての特徴を明確化すること。その際,あわせていまではほぼ忘れられた朝枝利男の活動を傍系的に復元すること。そして最後に,本稿からみえてくるアメリカで行われた史的探検に関わる資料を読み解くに際しての留意点を指摘することである。
兼松, 芽永
1990 年代以降,日本各地に拡大した「アートプロジェクト」は,学際性や領域横断性によって価値づけられてきた。本稿では,あるアートプロジェクトに関わることで農業やアート・政治などが複合的に駆動した場「棚田」を,身体やモノ・物理的環境を含む実践的世界に向き合う人類学の見地から捉え返す。「大地の芸術祭の里」のサイトスペシフィックな作品は,設置された場で起きる物事や人との関係性の中で変化し続ける。「田んぼ」が棚田になっていく過程では,アートが様々な人やもの・制度と結びつきながら,新たな現実やイメージを生み出していくさまを明らかにする。さらに長野県北部地震後,新たに現れた「アート」としての棚田を起点に,作品と地域のイメージが図地転換しながら,物事を再配置する状況を分析する。
Takezawa, Shoichiro
日本民俗学の創始者柳田国男については多くの研究がある。しかしその多くは,柳田が日本民俗学を完成させたという終着点に向けてその経歴を跡づけるという目的論的記述に終わっているために,民俗学も民族学も存在していなかった明治大正の知的環境のなかで,柳田がどのようにして自己の学問を築いていったかを跡づけることに成功していない。 彼の経歴を仔細にたどっていくと,彼が多くの挫折と変化を経験しながらみずからの人生と学問を自分の手で築いていったことが明らかである。青年期には多くの小説家や詩人と交流しながらロマンティックな詩を書いた詩人であり,東京帝国大学で農政学を学んだあとの十年間は,日本農業の改革に専念したリベラリスト農政官僚であった。その後,1911 年に南方熊楠と知り合うことで海外の民族学や民俗学を本格的に学びはじめ,第一次世界大戦後は国際連盟委員をつとめるなかで諸大国のエゴイズムを知らされて失望し,それを辞任して帰国したのちは日本民俗学の確立に邁進する。こうした彼の人生の有為転変が彼の民俗学を独自のものにしたのである。 柳田がようやく彼の民俗学を定義したのは1930 年ごろである。それは,隣接科学(=民族学)との峻別と,民俗学独自の方法(データの採集方法)の確立,社会のなかでのその役割の正当化,研究対象としての日本の特別視という4 重の操作を経ておこなわれたものであった。英米の人類学はとくに1925 年から1935 年のあいだに理論と実践の両面で革新を実現したが,すでに自分の民俗学の定義を完了した柳田はそれを取り入れることをしなかった。彼の民俗学は,隣接科学や海外の学問動向を参照することを必要としない一国民俗学になったのであり,隣接科学との対話や交流という課題は今日まで解決されることなく残っている。
白川, 千尋
本稿の目的は,国際協力ボランティア,より具体的には日本の青年海外協力隊(JOCV)の「コミュニティ開発」という職種のボランティアに焦点を当て,その支援活動の特徴や可能性をめぐって考察を行うことである。この目的にアプローチするために,本稿では,「コミュニティ開発」のJOCV による活動と,国際協力機構(JICA)の専門家,および文化人類学者による支援活動の事例の比較検討を行う。そして,それを通じて,「コミュニティ開発」のJOCV の,国際協力活動における「アマチュア」としての位置づけを確認するとともに,その専門性の低さがもち得る可能性について指摘する。
Sugimoto, Yoshio
小稿は,神智協会の創設者にして,のちの隠秘主義(オカルティズム)や西欧世界における仏教なかんずくチベット仏教の受容,普及に決定的な役割を果たしたマダム・ブラヴァツキーが,具体的にどのようにチベット(仏教)に関わり,どのような成果を収め,さらにその結果後世にどのような影響を及ぼしたのかについて,とくに南アジア・ナショナリズムとの関連に議論を収斂させながら,神話論的,系譜学的な観点から人類学的に考察しようとするものである。ここでは,マダム・ブラヴァツキー自身のアストラハン地方における幼児体験をもとに,当時未踏の地,不可視の秘境などととらえられていたオリエンタリスト的チベット表象を触媒にして,チベット・イデオロギーへと転換していったのかが跡づけられる。その際,マダム・ブラヴァツキーのみならず,隠秘主義そのものが,概念の境界を明確化する西欧近代主義イデオロギーを無効化するとともに,むしろそれを逆手にとった植民地主義批判であったことの意義を明らかにする。
岩本, 通弥 Iwamoto, Michiya
本稿は「民俗の地域差と地域性」に関する方法論的考察であり、文化の受容構造という視角から、新たな解釈モデルの構築を目指すものである。この課題を提示していく上で、これまで同じ「地域性」という言葉の下で行われてきた、幾つかの系統の研究を整理し(文化人類学的地域性論、地理学的地域性論、歴史学的地域性論)、この「地域性」概念の混乱が研究を阻害してきたことを明らかにし、解釈に混乱の余地のない「地域差」から研究をはじめるべきだとした。この地域差とは何か、何故地域差が生ずるのかという命題に関し、それまでの「地域差は時代差を示す」とした柳田民俗学に対する反動として、一九七〇年代以降、その全面否定の下で機能主義的な研究が展開してきたこと(個別分析法や地域民俗学)、しかしそれは全面否定には当たらないことを明らかにし、柳田民俗学の伝播論的成果も含めた、新たな解釈モデルとして、文化の受容構造論を提示した。その際、伝播論を地域性論に組み替えるために、かつての歴史地理学的な民俗学研究や文化領域論の諸理論を再検討するほか、言語地理学や文化地理学などの研究動向や研究方法(資料操作法)も参考にした結果、必然的に自然・社会・文化環境に対する適応という多系進化(特殊進化)論的な傾向をとるに至った。すなわち地域性論としての文化の受容構造論的モデルとは、文化移入を地域社会の受容・適応・変形・収斂・全体的再統合の過程と把握して、その過程と作用の構造を分析するもので、さらに社会文化的統合のレベルという操作概念を用いることによって、近代化・都市化の進行も視野に含めた、一種の文化変化の解釈モデルであるともいえよう。
後藤, 正憲
本論文は,ロシアの文学者ミハイル・バフチンによって対話の理論が展開された1920 年代末から1930 年代にかけての,いわゆる文化革命期にロシアで生じていた民族学の動向を追いながら,バフチンの対話理論が持つ二つの側面について考察する。近年人類学の議論で参照されることの多いバフチンの対話理論には,より深い言語認識を志向する側面と,対象を認識する以前の他者との関係性に配慮する側面が指摘される。ロシア革命後に非ロシア人ネイティヴによって書かれた民族誌に見られる「混成的」な記述は,書き手のネイティヴ民族誌家が「他者性」の感覚を保持し,対象を同一性のもとに捉えることの限界を強く感じ取っていたことから生じている。これに対し,同じ時期にソ連の中央で進められた民族学の変革は,言語や宗教の「混淆」を主題として対象を一元化し,「他者性」の排除を推し進めるものだった。これら全くタイプの異なる民族誌のあり方と,バフチンの二つの側面との間に見出される接点を押さえた上で,互いに相容れないこれら二つの側面の相違について認識を深めることが求められる。
Kawai, Hironao
ここ10数年間,英語圏の食研究ではフードスケープという概念が注目を集めるようになっている。フードスケープ研究は当初,食文化研究の新たな関心として,複数の学問領域に跨って展開してきた。だが,フードスケープの研究が多岐に展開しすぎた結果,今この概念を使うことの意義が曖昧となる結果を招いている。こうした状況に鑑みて,本稿は特に物質的側面に着目し,文化人類学とその隣接領域におけるフードスケープ研究の動向を紹介する。それにより,これまで体系的に論じられることが少なかった「食の景観」(または「食景観」)という新たな研究分野を模索することを目的としている。
岡田, 浩樹 Okada, Hiroki
この論文の目的は,近年盛んになりつつあるかのように見える「老人の民俗学」という問題設定に対する一つの疑問を提示することにある。はたして「老人の民俗(文化)」という対象化が有効なのかを,比較民俗学(人類学)の立場から検討する。その際に韓国の事例を取り上げることにより,老人の民俗学の問題点を明らかにする方法をとる。今日においても韓国社会では,儒教的な規範が人々の行動を強く規定し,敬親の意識や儀礼的な孝の実践が強調されている。いわば老人が明確な社会的カテゴリーとして意味をもち,加齢や老いが価値をもちうる社会である。今日でも盛んに行われる還暦(還甲)儀礼は,いわば個人が老人という社会的カテゴリーに移行する通過儀礼となっており,明確な「老人」というカテゴリーを可視化する装置となっている。にもかかわらず,韓国においても「老人の民俗学」という問題領域は成立していない。同時に韓国においても「老人」が相対的なカテゴリーであることを示した。日本における「老人の民俗学」の展開を検討すると,その問題提起自体にある種の戦略的言説が込められている。つまり民俗学が近代以降における否定的な「老人」のイメージを覆すことで,高齢化を迎えつつある現代日本社会になにがしかの寄与をおこなうことができるという言説である。しかし人口統計学的に見ると,近代以前にはイメージとしての老人は存在しても,「民俗」を共有するような実体的な老人のカテゴリーが成立していないことが明らかである。したがって,近代以前の老人を今日まで連続するような実体的なカテゴリーとし,そこに「民俗」を見いだす「老人の民俗学」に対する疑問を提起した。
野島, 永 Nojima, Hisashi
1930年代には言論統制が強まるなかでも,民族論を超克し,金石併用時代に鉄製農具(鉄刃農耕具)が階級発生の原動力となる余剰を作り出す農業生産に決定的な役割を演じたとされ始めた。戦後,弥生時代は共同体を代表する首長が余剰労働を利用して分業と交易を推進し,共同体への支配力を強めていく過程として認識されるようになった。後期には石庖丁など磨製石器類が消滅することが確実視され,これを鉄製農具が普及した実態を示すものとして解釈されていった。しかし,高度経済成長期の発掘調査を通して,鉄製農具が普及したのは弥生時代後期後葉の九州北半域に限定されていたことがわかってきた。稲作農耕の開始とともに鍛造鉄器が使用されたとする定説にも疑義が唱えられ,階級社会の発生を説明するために,農業生産を増大させる鉄製農具の生産と使用を想定する演繹論的立論は次第に衰退した。2000年前後には日本海沿岸域における大規模な発掘調査が相次ぎ,玉作りや高級木器生産に利用された鉄製工具の様相が明らかとなった。余剰労働を精巧な特殊工芸品の加工生産に投入し,それを元手にして長距離交易を主導する首長の姿がみえてきたといえる。また,考古学の国際化の進展とともに新たな歴史認識の枠組みとして新進化主義人類学など西欧人類学を援用した(初期)国家形成論が新たな展開をみせることとなった。鉄製農具使用による農業生産の増大よりも必需物資としての鉄・鉄器の流通管理の重要性が説かれた。しかし,帰納論的立場からの批判もあり,威信財の贈与連鎖によって首長間の不均衡な依存関係が作り出され,物資流通が活発化する経済基盤の成立に鉄・鉄器の流通が密接に関わっていたと考えられるようにもなってきた。上記の研究史は演繹論的立論,つまり階級社会や初期国家の形成論における鉄器文化の役割を,帰納論的立論に基づく鉄器文化論が検証する過程とみることもできるのである。
西谷, 大 Nishitani, Masaru
本稿は中国雲南省紅河州の金平県と緑春県で街道沿いに6日ごとにたつ市を事例として,市が成立する上で普遍的に必要となる条件と特質をさぐることを目的としている。これまで市を成立させる条件として「余剰生産物の現金化と生活必需品の購入」,「徒歩移動における限界性」,「市ネットワークの存在と商人の介在」,「商品作物の処理機能」の4つ条件を提示した。本稿では市のもつ特質として,「小商いの集合による商品数の創出と多様な選択性」,「生産物の処理の自由度と技術の分担による製品の分業創出」を付け加えた。さらに市の成立を考える上で,「交易品としての食料と食の楽しみ」と「店と人数の適正規模」にも目を向ける必要があることを指摘した。人類の歴史上における交易活動の出現は,生業や生態学的な環境の相違によって生産物などが異なる集団間で,物資の交換がおこなわれたことが契機になることがしばしば認められる。言語,習慣,生産物などの異なる9つの民族が1つの谷に居住する者米谷地域での定期市の研究は,人類の歴史上で市が誕生する条件や異民族間の交易によって市が誕生していく過程を考える上で,重要なヒントを与えてくれると考えられる。
水野, 友晴
これまでの人間中心のあり方とは異なる新しい生き方を見いだすため,われわれはいま,人類がこれまでに作り上げてきた文明を,資源や環境の利用という観点から再評価する必要に迫られている。このような再評価の動きに呼応し,なおかつ地質学と人文学との協同の可能性を探るべく,本論では鈴木大拙の「大地の思想」に注目したい。大拙は都会の近代生活を人間性を否定する方向にあるものと分析し,人々が人間性を回復するには,人間の生と大宇宙の永遠性とが交流する「大地の生活」の再評価が重要であるとした。この再評価によって人々は人間性否定の動きから退避できる避難所を確保でき,都会の中にあってもみずからに崇高さや威厳を保ちつつ生きることが可能となる。
原, 英子 Hara, Eiko
日本統治時代,台湾先住民族に対する宗教政策において,彼らが「祖先崇拝」をするという点が日本人との共通性として強調された時期があった。しかし当時は一部の人類学的な調査を除いて,台湾先住民族の祖先崇拝に注目しても,具体的に個々の民族の祖先がどの範囲を指すのかという点について,詳細な調査はほとんどなされなかった。本稿では台湾先住民族のひとつ,アミ族の宗教儀礼をとおして,祖先の範囲を明らかにすることを目的とする。アミ族の親族論では,その氏族制と母系制が注目されてきた。特にアミ族は母系制かという点が論議の対象となってきた。そうした中,本稿で取り上げる南勢アミは,その両点が明確にみられないという点から,戦後の一時期を除いて人類学的調査があまりおこなわれなかった地域である。また,かつてアミ族村落に広く存在していたが,現在ほとんどいなくなってしまったシカワサイと呼ばれる宗教的職能者が,一部の村落ではあるが,現在も活動がみられる地域でもある。本稿ではこうした地域的,対象的に収集資料が少ない宗教的な側面からアミ族の祖先の範囲を提示し,アミ族の祖先について考えていく。具体的には,まず個性ある死者と祖先との時間的な推移について取り上げ,次に儀礼依頼者と儀礼で呼ばれる祖先の関係について明らかにする。またアミ族では現在,漢人式の祭壇や位牌を設定する者が増えているが,その際,漢人的な位牌の受容とアミ族的な祖先の関係にも注目する。以上のことをとおして,アミ族の祖先に関する資料提示することで,今後のアミ族親族論の発展のための基礎的な作業をおこなう。
小坂, 恵敬
「二重の翻訳」を特徴とする日本人類学は,知の非対称性を意味する「知の中心と周縁」の問題を解決する可能性を持つ。実現の具体的方法として,日本の民俗概念の他社会への文化翻訳があり,本稿は歴史学者・網野善彦が日本の中世社会を対象に議論した「無縁」と「縁」,派生概念の「有縁」を採り上げる。展開の余地が残る交換に焦点を当て,パプアニューギニアのトーライ社会への文化翻訳を検討する上で,所有表現を利用する。文化翻訳のコンテキストを検討する中で,モノと人との呪的関係が「無縁」になり交換可能となった日本中世社会に対し,トーライ社会では所有表現において身体関係のない譲渡可能表現の適用対象が「無縁」と対応し,交換を可能にしていることが明らかになる。また,「有縁」物の交換は日本中世社会で困難だが,トーライ社会では交換参加者の社会的変化をもたらす重要なものと扱われる。文化翻訳の実践は,自社会と他社会について「知の中心」では提示できない新たな側面を明らかにすることができる。
Kishigami, Nobuhiro
文化人類学では,狩猟採集や園耕,牧畜,農耕などの食糧生産を生業活動としてカテゴリー化し,社会を分類することが行われてきた。本論文では狩猟採集をめぐって「生業」概念や研究アプローチがどのように展開されてきたかを整理,検討する。そのうえで,極北地域の先住民の生業活動の特徴およびイヌイットのシロイルカ猟を検討することを通してイヌイットの狩猟漁撈採集活動にかかわる生業モデルを提案する。イヌイット型(もしくは北極型)の生業では,捕獲から加工・処理,分配・流通,(廃棄),消費,廃棄へといたる一連の活動系とそれに関連する儀礼の活動系からなり,その2 つの活動系には,①行動的側面,②社会的側面,③技術・道具的側面,④イデオロギー的側面,⑤知識的側面が存在している。すなわち,生業活動とは,この2 つの活動系とそれらに関連する文化的・社会的・物質的要素からなる経済システムである。このモデルは,特定の社会的な脈絡の中で狩猟採集活動を調査する視点を提供するのみならず,比較研究に利用することができる。
寺村, 裕史
本論文では,人文社会科学の研究で重視される文化資源(資料)情報というものを,方法論や技術論の視座から整理し,実例をふまえつつ検討する。特に,考古学や文化財科学分野における文化資源に焦点を当て,それらの分野で情報がどのように扱われているかを概観し,考古資料情報の多様なデジタル化手法について整理する。 文化資源としての文化財・文化遺産は,人類の様々な文化的活動による有形・無形の痕跡と捉えることができる。しかし,現状では,そこから取得したデータの共有化の問題や,それらを用いた領域横断的な研究の難しさが存在する。そのため,文化財の情報化の方法論や,デジタル化の意義を再検討する必要があると考える。そこで特に,資料の3 次元モデル化に焦点を当て,デジタルによるモデル化の有効性や課題を検討しながら,その応用事例を通じて文化資源情報の活用方法を考察する。
松山, 利夫
この短い報告では,1965 年に読売新聞社が主催して東京で開催されたアボリジナル美術展「オーストラリア原始美術」展の資料を紹介する。この展覧会は大陸北部アーネムランドやキンバリーの樹皮画と彫刻を主とするドロシィ・ベネット・コレクションによって構成された。それがアボリジナルとのジョイント展であったという意味で,オーストラリア国外での最初のアボリジナル美術展であった。ここでは同展の『図録』を中心に,この展覧会にかかわる資料の紹介を試みる。 オーストラリア先住民に関する情報がほとんどなく,海外調査が困難であった当時,彼らの芸術に直接触れることのできたこの展覧会は,日本の民族学・人類学だけでなく,当時のオーストラリアの状況を色濃く反映したものであり,それゆえにまた日本の研究者の注目するところとなった。それが展覧会4 年後にランス・ベネット(ドロシィの息子)著,泉靖一編,原ひろこ訳『オーストラリアの未開美術』という大著を刊行させたのである。 しかし,その後しばらくは,日本においてアボリジナル美術の展覧会が開催されることはなかった。これが再開されたのは1986 年の神戸市立博物館と,1992 年の国立民族学博物館の特別展および同じ年の京都と東京の国立近代美術館の展覧会であった。現在では日本の博物館や美術館も,自らの研究にもとづいてアボリジナル美術を収蔵している。その先駆けをなしたのが,1965 年の「オーストラリア原始美術」展であった。
池谷, 和信 Ikeya, Kazunobu
本報告では、タイ北部の山地に暮らす農民の狩猟活動の実態を、とくに野鶏猟とイノシシ猟に注目して、生態 人類学の視点から把握することを目的とする。現地調査は、2005 年11 月上旬、2006 年3月下旬および5月上旬におこなわれた。その結果、タイ北部の山地農民にとって、イノシシ猟は、農地に隣接する地域での害獣駆除を目的とした側面のみならず、村人の多くが参加するという社会的側面、捕獲後に必ず儀礼がともなうという信仰的側面という役割を無視できないことがわかった。その一方で野鶏猟の場合には、単独でおこなわれており、儀礼がともなうことはない。両者とも、その多くの活動は集落や農地に近接した地域で行なわれているものであり、現在においても村社会のなかに深く根付いた生業活動であることが明らかになった。
Kawai, Hironao
本特輯主要目的是從社會文化人類學(以下簡稱為人類學)與歷史學的角度,探討客家族群的重新建構過程。近年愈趨多數的客家研究開始關注 19 世紀後期到20 世紀前期期間客家概念的生成過程,原因在於 20 世紀後期,特別是上世紀 80 年代以來「非客家人」開始主張客家認同,其族群範圍的界定直到現在仍不斷變化。最近包括本特輯中的一些人類學家、歷史學家等作者也開始關心其現象,但其研究對象較偏向於中國大陸華南地區(瀨川・飯島編 2012; 河合 2013; 河合 2014; 飯島・河合・小林 2019: 197–201)。鑒於這種情況,本特輯主要聚焦 19 世紀後期到 20 世紀前期期間,客家族群範圍在台灣、雲南省、越南的變遷過程1)。根據一般公認的通說,客家是中國最大的民族・漢族的分支,分佈在中國南部和世界華僑華人社會各地。客家人起源於中國北部的中原,最早從紀元前開始,大部分從唐末以來,為了迴避戰亂而南遷。他們沿著山路南遷之後,落腳於華南地區的山岳地帶,也就是贛閩粵交界地區(後簡稱為交界區)。交界區是客家大本營,不少客家人從這一帶移民到中國大陸南部各地、港澳台、東南亞、大洋洲、中南美、環印度洋等。因為各地環境條件的不同,客家人呈現多樣性。但是一般客家人具有相同性質的語言(客家話)和文化(客家人),且持有優秀的民族性格,因此客家人中人才輩出,如洪秀全、孫中山、李光耀、鄧小平、李登輝等。―這是現今中華圈和日本的大眾書籍中所流傳的敘事2)。現在世界各地許多客家人相信以上的敘事,有時它成為客家族群認同的精神支柱。不用說客家老百姓,連一些客家研究者―特別是客家籍學者―也以上述的通說為前提從事客家研究。其中鞏固這種敘事基礎的學者是中國客家學之開鼻祖・羅香林。羅香林是一位民族學家、人類學家,他在 1933 年出版的《客家研究導論》通常被客家學者視為是客家研究的傳統典範,有時以上論述也被稱為羅香林模式。但是,進入 1980 年代以後不少歷史學家和人類學家開始質疑羅香林的學說,並提出各種不同的理論模式。如果現在有人參加正規的國際學術研討會強調羅香林模式―客家人的血緣起源於中原,客家話和客家文化獨具特色等―的話,他可能會被不少客家學者認為是個客家民族主義者,或是沒把握這 40 年客家研究發展的三流學者。那麼,自從上世紀80年代到現在客家研究有什麼樣的發展呢?本文首先簡單回顧客家族群論方面的主要論述3),在本特輯中試圖對過去的客家研究提出新的貢獻。
佐々木, 高明
本稿は岡正雄・柳田国男の所説に始まり,民博の「日本民族文化の源流の比較研究」をへて,日文研を中心とした「日本人及び日本文化の起源の研究」に至る,戦後の日本民族文化起源論の展開の大要とその間にみられた諸学説の変遷を大観し,あわせてこの種の起源論の直面するいくつかの問題点を指摘したものである。結論として次の4 点を摘記することができる。 1.日本文化を単一・同質の稲作文化だとするのではなく,それは起源を異にするいくつかの文化化が複合した多元的で多重な構造をもつものだという認識が一連の研究を通じて共有されるようになった。 2.考古学・人類学・遺伝学その他の隣諸科学の発達とそれらとの協業の成果が起源論の研究に格段の発展をもたらした。その傾向は今後も一層顕著になると思われるが,この種の学際的総合的研究を推進するには,すぐれた研究プロデューサーとそれを支える大型の研究組織が必要である。 3.日本民族文化起源論の展開は,わが国では日本人のアイデンティティを問うという問題意識に支えられて展開してきたが,最近の国際化の進展などの状況のもとで,この種の問題意識とその理解を求める社会的要請は一層拡大してきている。それに応じることが学界としても必要である。 4.だが,現下の最大の問題は,組織の問題ではなく人の問題である。大林太良が指摘した如く「最近の若い世代の民族学者に日本民族文化形成論の研究が低調なこと」が今日の難問である。日本民族文化起源論を含め,歴史民族学的課題の克服に,日本の民族学界は,今後どのように対応するのだろうか。
安藤, 広道 Ando, Hiromichi
「水田中心史観批判」は,過去四半世紀における日本史学のひとつのトレンドであった。それは,文化人類学,日本民俗学の問題提起に始まり日本文献史学,考古学へと拡がった,水田稲作中心の歴史や文化の解釈を批判し,畑作を含む他の生業を視野に入れた多面的な歴史の構築を目指す動きである。その論点は多様であるが,一方で日本文化を複数の文化の複合体とし,水田中心の価値体系の確立を律令期以降の国家権力との関係で理解しようとする傾向が強く認められる。そして考古学の縄文文化,弥生文化の研究成果も,その動向に深く関わってきた。しかし,そこで描かれた複数の文化の対立や複合の歴史は,位相の異なる文化概念の混同のうえに構築されたものであり,その土台としての役割を担ってきた縄文文化や弥生文化の農耕をめぐる研究成果も,必ずしも信頼できる資料に基づくものではなかった。文化概念の整理と,農耕関係資料の徹底した資料批判を進めた結果,「水田中心史観批判」が構築してきた歴史は,抜本的な見直しが必要であることが明らかになった。「水田中心史観批判」は,批判的姿勢と視点の多様化が,多面的で厚みのある歴史の構築を可能とし,併せて研究対象資料と分析方法の幅の拡充につながることを示してきた。一方で,文化の概念から個々の観察事実に至る理論に対する議論が充分でなく,「水田中心史観」に対する批判の意識が強すぎたこともあって,研究成果を批判的・内省的に見直す姿勢が弱くなってしまっていた。そのため,視点の多様化の有効性が生かされず,複数の学問分野のもたれ合いのなかで,問題ある歴史が構築されることになったのである。今後は,こうした「水田中心史観批判」の功罪を踏まえ,相互批判と内省を徹底し,より多くの事象を説明し得る広い視野に基づく理論の構築と表裏一体となった歴史研究を進めていく必要がある。
Kashinaga, Masao
広義のタイ系諸民族は東南アジア大陸部に広汎に分布し,ムオソ(ムアン)と呼ばれる伝統的な政治体系を形成していたことが知られている。これまでタイ系民族のムオンに関して歴史的,人類学的研究が多く蓄積されてきた一方で,タイ系民族でありながら非仏教徒であるという特徴をもつ黒タイのムオンについては,具体的な研究が少ない。しかし,黒タイの慣習法文書には,黒タイの伝統的政治組織と儀礼祭祀に関して詳しく記述されている。その点で,これらの文書は黒タイの社会文化研究上重要な資料であるのみならず,東南アジアにおける社会史研究にとっても重要な資料である。本稿においては,黒タイ慣習法文書のうち「ムオソ・ムオイにおける慣習法」に焦点を当て,その内容について詳しく紹介し,かつこの文書が持つ東南アジアの社会史研究上の意義について論じる。
田口, 勇 Taguchi, Isamu
人類の鉄使用のスタートは隕鉄から造った鉄器に始まったと現在考えられているが,これまでこの隕鉄製鉄器について自然科学的見地からの総括的な研究調査は行われていなかった。これらの隕鉄製鉄器を総括的に調査し,鉄の歴史のスタート時点を明らかにすることを目的として本研究を実施した。すなわち,隕鉄について隕鉄起源説,隕鉄の成因,隕鉄の分類,南極隕鉄,隕鉄の特徴などを詳細に調査した。さらにこれまでに発見された隕鉄製鉄器を国外と国内に分けて調査した。国外では古代エジプトの鉄環首飾り,古代トルコの黄金装鉄剣,古代中国の鉄刃戈と鉄刃鉞などを,国内では榎本武揚が造った流星刀などを調べた。さらに代表的な隕鉄であるギボン隕鉄(ナミビア出土)から古代でも可能な条件下でナイフを試作した。以上から,人類が鉄鉱石を還元して鉄を得た時期より,はるかに古くから人類は隕鉄から装飾品,武器などを造っていたことがわかった。隕鉄は不純物が少ない場合,低温度(1,100℃以下)でも加熱鍛造性はよいが,不純物が多い場合,加熱鍛造性はわるい。隕鉄の加熱鍛造性を支配している,主な元素としては,硫黄とりんが挙げられる。なお,造ったナイフは隕鉄固有の表面文様(変形したウィドマンステッテン組織による)を有したが,もともとの孔が黒い‘すじ’として残った。
山下, 有美 Yamashita, Yumi
正倉院文書研究の新しい潮流は,1983年開始の東大の皆川完一ゼミ,それを継承した88年開始の大阪市大の栄原永遠男ゼミ,この2つの大学ゼミの形で始まった。その手法は,正倉院文書の現状を,穂井田忠友以来の「整理」によってできた「断簡」ととらえ,その接続関係を確認・推測して,奈良時代の東大寺写経所にあった時の姿に復原する作業を不可欠とする。その作業によって,正倉院文書は各写経事業ごとの群と,複数の写経事業をまたがる「長大帳簿」に大きく整理されていった。よって,個別写経事業研究は写経所文書の基礎的研究として進められ,その成果は大阪市大の正倉院文書データベースとして結実した。一方,写経事業研究を通して,帳簿論や写経所の内部構造,布施支給方法,そして写経生の生活実態といった多様なテーマに挑んだ研究が次々と発表された。これらの新たに「発見」されたテーマと同時並行的に,古くからの正倉院文書研究を引き継ぐ研究も深化し,写経機構の変遷,東大寺・石山寺・法華寺の造営,写経所の財政,写経生や下級官人の実態,表裏関係からみた写経所文書の伝来,正倉院文書の「整理」などの研究もさかんになった。さらに,古代古文書学に正倉院文書の視点を組み込んだ試みや,仏教史の視点から写経所文書を分析した研究も成果をあげてきた。2000年ごろから,他の学問分野が正倉院文書に注目し,研究環境の整備とともに,特に国語・国文学で研究が進められた。ほかにも考古学,美術史,建築学等の研究者も注目しはじめ,学際的な共同研究が進展しつつある。いまや海外からも注目をあびる正倉院文書は人類の文化遺産であり,今後も多彩な研究成果が大いに期待される。
賈, 玉龍
従来の人類学的中国研究では,「宗族(組織)」論と「関係(ネットワーク)」論が漢族社会論の 2 つのパラダイムとして注目されてきた。しかしこれらの研究は,儀礼的・非日常的な場面に注目するあまり,日常生活での人的集合を看過する傾向がある。そこで,本論文では個々人の村民の日常的な活動に注目し,隣人関係が生産と閑暇の場面でどのようにつながる/つながらないのかを明らかにした。具体的には,農繁期の作業現場と農閑期の「玩(wan)」(遊び)の場面をめぐる民族誌的資料を提示し,隣人間の日常的な「集まり」は不特定の相手との時間と空間の偶発的な重なりによって成立するものであることを明らかにした。そして現地語の「碰(peng)」(試しに当たる)がそのような「集まり」を生成する原理と見なせることを指摘し,この概念に着目することで新たな漢族社会論を発見できる可能性があると展望した。
上野, 和男 Ueno, Kazuo
本稿は最近における日本の社会文化の地域性研究の学史的考察である。日本の地域性研究を時期的に区分して,1950年代から1960年代にかけて各分野で地域性研究が活発に行われた時期を第1期とすれば,最近の地域性研究は第2期を形成しているといえる。第2期における地域性研究の特徴は,第1期に展開された地域性論の精緻化にくわえて,新たな地域性論としての「文化領域論」の登場と,考古学,歴史学などにおける地域性研究の活発化である。1980年以降の地域性研究の展開にあらわれた変化は次の3点に要約することができる。まず第一は,従来の地域性研究が家族・村落などの社会組織を中心としていたのに対して,幅広い文化項目を視野にいれて地域性研究がおこなわれるようになったことである。地域性研究は「日本社会の地域性」の研究から「日本文化の地域性」の研究へと展開したのである。第二は,これまでの地域性研究が現代日本の社会構造の理解に中心があったのに対して,日本文化の起源や動態を理解するための地域性研究が登場したことである。とくに文化人類学や歴史学・考古学のあらたな地域性論は,このことがとりわけ強調されているものが多い。第三は,これまでの地域性研究が社会組織のさまざまな類型をまず設定し,その地帯的構造を明らかにしてきたのに対して,1980年以降の地域性論では,文化要素の分布状況から東と西,南と北,沿岸と内陸などの地域区分を設定することに関心が集中するようになったことである。つまり「類型論」にくわえて「領域論」があらたな地域性論として登場したことである。本稿では地域性研究における類型論と領域論の差異に注目しながら,これまでの地域性研究を整理し,その問題点と今後の課題,とくに学際的な地域性研究の必要性と可能性について考察した。
新谷, 尚紀 Shintani, Takanori
本稿は日本各地の葬送習俗の中に見出される地域差が発信している情報とは何かという問題に取り組んでみたものである。それは長い伝承の過程で起こった変遷の跡を示す歴史情報であると同時にその中にも息長く伝承され継承されている部分が存在するということを示している情報である。柳田國男が創生し提唱した日本民俗学の比較研究法とはその変遷と継承の二つを読み取ろうとしたものであったが,戦後のとくに1980年代以降の民俗学関係者の間ではそれが理解されずむしろ全否定されて個別事例研究が主張される動きがあった。それは柳田が創生した日本民俗学の独創性を否定するものであり,そこからは文化人類学や社会学との差異など学術的な自らの位置を明示できないという懸念すべき状況が生じてきている。日本民俗学の独創性を継承発展させるためには柳田の説いた視点と方法への正確な理解と新たな方法論的な研磨と開拓そして研究実践とが必要不可欠であり,民俗学は名実ともに folklore フォークロアではなく traditionology トラデシショノロジイ(伝承分析学)と名乗るべきである。日本各地の葬送習俗の伝承の中に見出される地域差,たとえば葬送の作業の中心的な担当者が血縁的関係者か地縁的関係者かという点での事例ごとの差異が発信している情報とは何か,それは,古代中世は基本的に血縁的関係者が中心であったが,近世の村落社会の中で形成された相互扶助の社会関係の中で,地縁的関係者が関与協力する方式が形成されてきたという歴史,その変遷の段階差を示す情報と読み取ることができる。本稿1は別稿2とともに今回の共同研究の成果として提出するものであり,1950年代半ばから70年代半ばの高度経済成長期以降の葬儀の変化の中心が葬儀業者の分担部分の増大化にあるとみて現代近未来の葬儀が無縁中心へと動いている変化を確認した。つまり,葬儀担当者の「血縁・地縁・無縁」という歴史的な三波展開論である。そしてそのような長い葬儀の変遷史の中でも変わることなく通貫しているのはいずれの時代にあっても基本的に生の密着関係が同時に死の密着関係へと作用して血縁関係者が葬儀の基本的な担い手とみなされるという事実である。近年の「家族葬」の増加という動向もそれを表わす一つの歴史上の現象としてとらえることができる。
若林, 健一 茂呂, 雄二 佐藤, 至英 WAKABAYASHI, Ken'ichi MORO, Yuji SATO, Yoshiteru
児童の作文過程を認知科学的に解明し併せて作文過程の改善を目指すために理論的な吟味とそれに基づく調査および実践を行った。1)作文過程を特定の相手に向けた発話過程として見直し,教室における作文過程をより有意味にするための方法として,子供たちに仮想的な他者視点を取らせる「誰かになって書く方法」を提案した。2)この方法に基づいて小学校5年生を対象にした「映画監督になって書く」実践場面をもうけて作文資料を収集し,これを種々の観点から談話分析によって特徴づけして,対照資料と比較しながら「誰かになってみる方法」の有効性を確認した。3)仮想視点を取る方法の有効性をより客観的に明らかにするために作文能力を測るテストを開発し,これを利用しながら,子供たちに読み手を意識化させることがどのような効果をもつのか検討し,「文化人類学者になって調べて書く」実践授業を組んで再度仮想視点を取る方法の有効性を確認した。
Sugimoto, Yoshio
小論は,スリランカの仏教改革者でかつ闘う民族主義者としてのアナガーリカ・ダルマパーラの流転の生涯,およびそれ以後のシンハラ仏教ナショナリズムの展開に関する人類学的系譜学的研究である。小論ではダルマパーラの改革理念のもつ曖昧性や不協和にこだわり,あらたに再編されたシンハラ仏教を,近代西欧的,キリスト教的モデルを否定しながらその影響を強くうけたものとして,その理想と現実との食い違いを明らかにする。こうした改革仏教はオベーセーカラによって2 つの意味を持つ「プロテスタント仏教」と名づけられた。ひとつには英国植民地支配に「プロテスト」するためのシンハラ仏教ナショナリズムと深く関わっている。ふたつには,マックス・ウェーバーのいう在家信者を主体とするプロテスタント的な現世内禁欲主義を仏教に応用しようとしたものである。しかしながら,ダルマパーラの急進的なナショナリスト的改革はいったん頓挫し,1950 年代半ばのバーダーラナーヤカ政権の「シンハラ唯一」政策などによって実質化されることになった。そのさい仏陀一仏信仰を旨とするプロテスタント的仏教は,宗教的に儀礼主義と偶像崇拝を排除し,また政治的にはタミル・ヒンドゥー教徒などの少数派を排除する論理を提供した。もともとナショナリズムと親和的なプロテスタンティズムの論理が貫徹したシンハラ仏教ナショナリズムはそれまであいまいであった民族間,宗教間の対立を実体化し深刻化する結果を招いた。ダルマパーラの改革仏教はそうした紛争の一因を提供した意味においても評価されなければならない。
近藤, 宏
20 世紀終わりの先住民の権利のための政治的運動は,先住民の暮らす場に対する権利を認め,その場所の境界画定をもたらした。先住民の権利を確立し,それが及ぶ範囲を可視化する点で重要なその成果に対して,生活領域の境界を定めることは先住民の暮らしに何を生むことになるのかという疑問が,南米の低地地域の先住民社会を専門とする人類学者から提起された。その問いを引き継ぎ,本稿では,今日のパナマ東部の先住民エンベラによる社会生活において新奇なものである土地の境界線がいったい何をもたらしているのかを考察する。具体的な考察対象は,エンベラの社会生活に見られる二つのタイプの境界線(特別区の境界線,所有区画の境界線)である。前者は先住民の集団的権利を確定するための線,後者はそれぞれの土地所有者の所有区画を定める線である。これらの境界線によってなされていることを,排除と所有関係という観点から考察し,今日のパナマ東部の先住民エンベラによる社会生活に,土地利用をめぐって新しい道徳が形成されていることを示す。
Hirai, Kyonosuke
近年の博物館人類学的研究は,非西洋の多くの社会において,それぞれの歴史や伝統を反映した土着の博物館モデルや博物館実践が存在することを明らかにしてきた。しかしこれらの研究は,いまだ西洋の博物館モデルを前提としており,土着の博物館モデルを独自の文化的構成物として十分に評価しているとはいえない。本研究は,タイの50 のコミュニティ博物館についての調査結果に基づき,以下の二つの問いに答えることを目的とする。第一に,タイで独自に発展した土着の博物館モデルとはいかなるものであるか。第二に,なぜ1980年代後半以降にタイの各地でコミュニティ博物館が創設されるようになったのか。それはコミュニティにおいてどのような役割を果たしているか。これらの問いに取り組むことを通じ,本稿では,タイのコミュニティ博物館が土着の仏教的伝統のなかに根付くものであるとともに,タイ農村社会の変容や国家主導の開発言説の影響を受けながら,異なる立場の人びとが主体的に独自の目的や意義をみいだして利用しようとする実践の絡まり合いの結果として発展していることを示す。
緒方, しらべ
本稿の目的は,ナイジェリア連邦共和国の都市イレ・イフェの「アーティスト」であるコラウォレ・オラインカという個人をおもな事例とし,彼が「アーティスト」としてどのように生きているのかを,ナイジェリアの歴史的・社会的コンテクストに位置づけて明らかにすることを通して,アフリカにおける「アート」のあり方について考察することである。これまで,人類学は非西洋における芸術/ 美術/ モノの意味や社会的機能を明らかにしてきた。また,西洋と非西洋の不均衡な力関係を乗り越えようとする展示の試みも行ってきた。ところが,作品のつくり手である「アーティスト」が,地域社会,そして西洋近代のアートワールドという異なるふたつの要素と関わり合うなかで,そうしたつくり手の視点に注目して当該地域における「アート」が論じられることはほとんどなかった。これに対して本稿は,オラインカという個人のつくり手の生活世界とライフヒストリー,作品制作や販売のプロセスを分析し,考察することによって,彼が地域社会やアートワールドと関わりながら生きている様を明らかにしていく。
小池, 淳一 Koike, Junichi
本稿は雑誌を通して日本の民俗研究の形成過程の特徴をとらえる視角を追求しようとするものである。雑誌は、長く大学に講座を持たなかった日本の民俗研究にとって重要なメディアであり、研究の対象を登録し、資料を蒐集するだけではなく、課題を共有し、議論を深めていくためにも活用されてきたことがこれまでも指摘されている。ここでは具体的に一九一三年に石橋臥波を中心に発刊された『民俗』という雑誌が大正のはじめに「民俗」研究の重要性を主張し、国文学や歴史学、人類学の研究者を軸に運営されていたことを明らかにした。さらに同時期の高木敏雄・柳田国男による『郷土研究』との差異が「民俗」を把握する方法意識の差にある点について考察した。さらに一九三二年に発刊された『民間伝承』という雑誌を取り上げ、編集発行にあたった佐々木喜善が置かれていた状況や研究上の課題、雑誌刊行を支えた人脈について考察した。ここからは掲載された論考ばかりではなく、問答や資料報告を含む誌面の構成から、口承文芸を軸に東北を基盤としつつ事例の集積と論考とを共有しようとする姿勢を読みとることができた。雑誌にはその編集発行に携わった人々の研究への構想力が結晶しており、それはこれら二つの雑誌も例外ではない。そしてこのことは、民俗研究の史的展開を考える上で重要である。これまでは長期的に成功を遂げた雑誌に注目する傾向があったが、どちらの雑誌も短命に終わったもののこれらからも汲みあげるべき問題があることが判明した。今後は雑誌を支えた読者とのコミュニケーションの近代的な特色や謄写版といったメディアを生み出す技術との関係も考慮に入れて、雑誌を民俗学史の中に位置づけていく必要があろう。
上野, 和男 Ueno, Kazuo
最近とくに一九七〇年代以降、社会人類学・日本民俗学・社会学・宗教学などにおいて祖先祭祀研究が極めて活発に行われるようになってきた。一九七〇年以前の研究はフォーテス・Mのアフリカ研究がそうであったように、単系出自集団と祖先祭祀との関係であった。日本においてもこの時期の研究は、単系出自集団である同族組織や家と祖先祭祀の研究が中心であったが、一九七〇年以降の研究は、単系出自集団以外の親族組織と祖先祭祀との関係に関心があつまってきた。こうした活発な祖先祭祀研究を促進させてきた条件の第一は、「仏壇ブーム」や「墓ブーム」に象徴されるように、日本社会が今日祖先祭祀をどのように遂行するかについて一種の社会問題的状況が見られることである。第二は、戦後の日本の家族の変化をどう評価するかが家族研究者への課題になってきたことであり、この問題への接近にあたって祖先祭祀研究が大きな意味を持ち得ると考えられることである。第三は昭和初期に本格的に開始された日本の家族・親族の実証的研究において、長い間家族は労働組織すなわち経済的な単位として研究されてきたのに対して、いま儀礼的祭祀的側面からの家族研究によって、あらたな家族研究の展開が求められていることである。現在の祖先祭祀研究、とりわけこの共同研究「家族・親族と先祖祭祀」にはつぎのような課題が課せられていると考えられる。第一は日本の祖先祭祀の地域的な変差がまず明らかにされるべきである。第二は日本の祖先祭祀の長期的・短期的変化が明らかにされるべきである。第三は祖先祭祀の諸形態が日本人の死者観、他界観とどうかかわっているかが明らかにされるべきである。第四は東アジアにおける日本の祖先祭祀の位置が明らかにされるべきである。これらを通して日本人の基層信仰のひとつとしての祖先祭祀を、現段階において、社会構造と祖先観の両面から総合的に明らかにするのが本共同研究の課題である。
Hirose, Kojiro
大本教の出口王仁三郎は,日本の新宗教の源に位置する思想家である。彼の人類愛善主義を芸術・武道・農業・エスペラントなどへの取り組みを中心に,「文化史」の立場から分析するのが本稿の課題である。王仁三郎の主著『霊界物語』は従来の学問的な研究では注目されてこなかったが,その中から現代社会にも通用する「脱近代」性,宗教の枠を超えた人間解放論の意義を明らかにしたい。併せて,大本教弾圧の意味や新宗教運動と近代日本史の関係についても多角的に考える。
Sugimoto, Yoshio
小論は,スリランカ(セイロン)の仏教改革者アナガーリカ・ダルマパーラにおける神智主義の影響に関する人類学的系譜学的研究である。ダルマパーラは4 度日本を訪れ,仏教界の統合を訴えるとともに,明治維新以降の目覚ましい経済・技術発展にとりわけ大きな関心を抱き,その成果をセイロンに持ち帰ろうとした。実際,帰国後セイロンで職業学校などを創設して,母国の経済・技術発展に貢献しようとした。そこには,同じく伝統主義者としてふるまったマハートマ・ガンディーと同様に,根本的に近代主義者としての性格が見えている。ところで,一連のダルマパーラの活動の手助けをしたのは,神智協会のメンバーであったこと,さらには生涯を通じて神智主義,神智協会の影響が決定的に重要であったことは,これまでそれほど深くは論じられてこなかった。しかし,ケンパーが言うようにダルマパーラにおける神智主義が世上考えられているよりはるかにその影響が決定的であったことは否定すべくもない。さらに,神智協会が母体となってセイロンに創設された仏教神智協会は,ダルマパーラの大菩提会とは仇敵のような立場ではあったが,ともに仏教ナショナリズムを強硬に主張した点では共通していた。仏教神智協会には,S.W.R.D. バンダーラナーヤカ,ダッドリー・セーナーナーヤカ,J.R. ジャヤワルダナなど,長く独立セイロン,スリランカを支えた指導者が集まっていた。その後の過激派集団JVP への影響も含めて,神智主義の普遍宗教理念が,逆に生み出したさまざまな分断線は,現在まで混乱を招いている。同じように,インド・パキスタン分離を避けられなかったマハートマ・ガンディーとともに,神智主義,秘教思想を媒介にしたその「普遍主義」の功罪について,その責めを問うというよりは,たとえそれが意図せざる帰結ではあっても,その背景,関係性,経緯などを解きほぐす系譜学的研究に委ねて,問い直されるべき立場にある。
立川, 陽仁
「カナダの北西海岸の先住民族にとってサケは現在でも不可欠な資源である」という語りは,当の先住民集団だけでなく,先住民社会を外側から観察する人々ないし組織カナダ政府,マスメディア,人類学者などからもしばしば主張されている。この主張には,先住民の日常生活に則した社会・経済的側面におけるサケの意義を指摘するものもあれば,彼らの宗教・象徴的側面でのサケの位置づけを説明するものもある。このうち社会・経済的側面におけるサケの価値に関する説明には,統計上の実証的裏づけが必然的に求められるものである。しかし皮肉なことに,先住民にせよ彼らを外側から観察する人々にせよ,こうした実証的検証を放棄し,そして先住民外部は先住民自身による語りを単に表層的に捉えてきたのである。こうした状況をふまえ,本稿ではまず,筆者が北西海岸の先住民族,クワクワカワクゥ社会において実施したフィールドワークをもとに,そこで得られた経済活動に関するデータを提示し,つぎにクワクワカワクゥの社会・経済的側面におけるサケの意義を検討する。そして最後に,言説レベルでのサケの意義に関する説明とフィールドワークで観察される状況(および収集されたデータの分析)と対比させる。
Sugimoto, Yoshio
小稿は,南アジアに広く受けいれられている聖トマス伝説について,1)現在の状況の概要,2)聖トマス伝説の形成と展開およびその歴史的背景,3)ヒンドゥー・ナショナリズムとの関係のなかでの現代的意義,とりわけ2004 年末のスマトラ沖大地震・インド洋大津波をめぐる奇蹟譚の解釈をめぐるさまざまな論争と問題点,について人類学的に考察しようとするものである。問題の根本は,インド・キリスト教史の出発点としてつねに引き合いに出される聖トマスによる開教伝説の信憑性をめぐる論争そのものの政治的な意味にある。南インドには,聖トマスの遺骨をまつるサントメ大聖堂をはじめトマスが隠棲していた洞窟などが聖地として人びとの信仰を集めている。その根拠とされるのは新約聖書外典の『聖トマス行伝』であり,これを信ずるシリア教会系のトマス・クリスチャン(シリアン・クリスチャン)がケーララ州に400 万の人口を数えている。聖トマス伝説はポルトガル時代にカトリック化され,また聖トマスが最後ヒンドゥー教徒の手で殉教した,とも伝えられる。これが,さきの地震・津波災害のおりには,反キリスト教キャンペーンのターゲットにもなっていた。2 千年のときを経て聖トマスはいまも政治的,宗教的な文脈のなかで生きているのである。
Saito, Akira ロサス・ラウロ, クラウディア マンフォード, ジェレミー・ラヴィ ウィンキー, スティーヴン・A スロアガ・ラダ, マリナ スポールディング, カレン
集住化とは広範囲に分散する小規模な集落を計画的に造られた大きな町に統合する政策であり,スペイン統治下のアメリカ全土で実施された。そのおもな目的は先住民のキリスト教化を促進し,租税の徴収と賦役労働者の徴発を容易にすることだが,それに加えて,人間は都市的環境でのみその本性を発揮する,という考え方が背景にあった。第5代ペルー副王フランシスコ・デ・トレドが1570年代にアンデスで実施した政策は,約140万の人びとを800以上の町に集住させる大規模なものであり,在来の居住形態,社会組織,権力関係,アイデンティティを大きく変えたといわれている。 本論文は,2013年10月24日にリマの教皇庁立ペルーカトリカ大学で開催された国際公開セミナーの成果であり,副王トレドの集住化について近年刊行された以下の3冊の研究書の学術的意義を論じている。従来の研究では,トレドの政策はアンデスの生活様式を全面的に否定し,それをヨーロッパのもので置き換える根本的改革とみなされてきた。しかし近年,歴史学,人類学,考古学の分野において従来の見解の見直しが進んでいる。植民地事業が内包する矛盾や両義性,支配/抵抗という二項対立に還元できない植民者と被植民者の錯綜した交渉,先住民による再解釈や選択的受容など,従来見落とされてきた側面の解明が進み,集住化のイメージが刷新されつつある。この動向は,コロニアル/ポスト・コロニアル研究全体の動向とも連動している。・ジェレミー・ラヴィ・マンフォード『垂直の帝国―植民地期アンデスにおける先住民の総集住化』デューク大学出版会,2012年。・スティーヴン・A・ウィンキー『交渉される居住地―インカとスペインの植民地統治下におけるアンデスの共同体と景観』フロリダ大学出版会,2013年。・マリナ・スロアガ・ラダ『交渉される征服―1532年から1610年までのペルーのワイラスにおけるワランガ,地方権力,帝国』ペルー問題研究所/フランス・アンデス研究所,2012年。
Takezawa, Shoichiro
食と農は人類学の主要分野のひとつだが,わが国の人類学的な食研究は多様性の理解にアクセントが置かれ,現在世界中で進行している食と農の急速な変化に目を向けることはほぼなかった。本研究は,アグリビジネスによって主導されている世界中の農業の変化と,それへのオールタナティブとしての新たな食体系の創出の試みを具体的なケースに沿いながらたどるものであり,よりグローバルで再帰的な性格をもっている。 アグリビジネスは20 世紀初頭以来急速に発展した産業分野であり,トラクターや化学肥料・除草剤,1980 年以降は遺伝子組み換え作物を開発することで日本を含めた世界中の農業に多大な影響を与えてきた。こうしたアグリビジネス主導の農業に対し,公然と反旗を翻しているのが欧州連合とフランスの農業政策である。1990 年代に確立されたそれは,農業の多面的機能の概念にもとづき,農業を単なる経済的活動としてではなく,農業が環境保全と地域社会の維持,地域経済活性化のための核心的ファクターであるととらえている。 そこから欧州連合は有機農業に積極的な保護をおこない,各国での急速な発展につなげている。2016 年の全耕地面積中の有機栽培農地の割合は,オーストリア21.9%,スウェーデン18.0%,イタリア14.5%であり,とりわけ注目されるのがフランスである。それは2007 年に1.9%と低率であったのが,2011 年3.6%,2016 年6.6%と急速に進展している。 一方,わが国の有機農地の割合は,2007 年0.1%,2011 年0.2%ときわめて低く,その後も大きな変化はない。その原因は,政府の農業改革が失敗に終わったこと,化学肥料と農薬の販売で多大な利益を上げている農協が有機農業に背を向けていること,兼業によって安定した収入を確保している農業者が手のかかる有機農業に不熱心なこと,などにある。 有機農業の進展は,政府の政策だけでなく,農業者や消費者の意識的な行動にもよっている。農業者が生産物を直接販売するファーマーズ・マーケットや,生産者と消費者が契約をむすぶCSA やアマップなどの活動も各国でさかんになっている。わが国でもこれらの活動は近年活発になっており,生産者と消費者を直接に結びつける試みとして生活クラブに代表される消費者運動や「食べる通信」などの活動を挙げることができる。 これらの活動は,生産者と消費者のあいだの信頼関係を重視し,両者に積極的な関与をうながし,生産にかかわる情報を公開し,なにを生産しなにを食べるかという生産者と消費者の自己決定権を尊重する点に特徴をもつ。これらの特徴は民主主義のそれと共通するものであり,私がこれらの実践を「食の民主主義」と呼ぶのはそのためである。 本稿は具体的なケースにもとづきながら,これらの実践にどのような可能性があり限界があるかを検討することで,私たちの食と農の未来を展望しようとするものである。
亀山, 光明
2000年代以降の近代日本宗教史研究において、「宗教 religion」なる概念が新たに西洋からもたらされることで、この列島土着の信念体系が再編成されていったことはもはや共通理解となっている。とくにこの方面の学説を日本に紹介し、リードしてきたのが宗教学者の磯前順一である。人類学者のタラル・アサドの議論を踏まえた磯前によると、近代日本の宗教概念では、「ビリーフ(教義等の言語化した信念体系)」と「プラクティス(儀礼的実践等の非言語的慣習行為)」の分断が生じ、前者がその中核となることで、後者は排除されていったという。そして近代日本仏教研究でも、いわゆるプロテスタント仏教概念と親和性を有するものとして磯前説は広く取り入れられてきたが、近年ではその見直しが唱えられている。 こうした研究史の動向を踏まえ、本稿は明治期を代表する持戒僧・釈雲照(1827 ~ 1909)の十善戒論を考察する。歴代の戒律復興運動の「残照」とも称される雲照は近代日本社会において戒律の定着を目指した幅広い活動を展開し、その営為は明治中期に全盛期を迎える。さらに本論では従来の「持戒―破戒」という従来の二元的構図に対し、在家教化のために戒律実践がいかに語られたのかに着目する。ここで雲照は儀礼や日々の勤行などの枠組みで「心」や「信」などの内面的領域を強調しながら、その実践の体系化に努めている。さらにその語りは、伝統的に非僧非俗を貫き易行としての「念仏」を唱えてきた浄土系教団に対抗しながら、十善戒こそが真の「易行」であり、文明の道徳社会に相応しい実践とするものであった。本稿はこの雲照の戒律言説の意義を近代日本宗教史に位置付けることを試みるものである。
上野, 和男 Ueno, Kazuo
この小論は,会津農村のトリアゲジイサン・トリアゲバアサン,茨城県のインキョムスコ・インキョムスメ,および五島の名取り慣行をとおして,日本の隔世代関係,すなわち祖父母と孫の関係の構造とその社会的意義を明らかにし,さらに隔世代関係をつうじて日本の直系型家族や隠居制家族の構造を考察しようとするひとつの試論である。日本の隔世代関係についての社会人類学,社会学などの研究は,親子関係,夫婦関係に関する圧倒的な質量の研究に比較してきわめて少なく,この分野の研究は大幅にたちおくれているのが現状である。会津農村のトリアゲジイサン・トリアゲバアサンとトリアゲッコの間の儀礼的隔世代関係は,儀礼的孫の出生にあたって儀礼的祖父母が立ち会い,逆に儀礼的祖父母の死にあたって儀礼的孫が重要な役割を果たすことに示されているように,祖父母の世代と孫の世代の交代をもっともよく象徴する慣行である。茨城県の隠居制家族における隠居孫は,隠居制家族内部における家族的統合に祖父母と孫の関係が,きわめて重要な役割を果たしていることを示す慣行である。さらに長崎県五島の名取り慣行は祖父母の世代の個人名を孫の世代が継承することによって,祖父母の世代と孫の世代との間に親密な関係を設定する慣行である。またこの親密な関係をとおしてヤウチとよばれる双性的親族関係の維持とスムーズな運営が確保されているのである。隔世代関係をめぐるこれらの慣行の分析からあきらかなことは,親子関係と隔世代関係の明確な構造的差異である。親子関係は上下関係を特質とし,基本的に対立を内包する関係であるが,隔世代関係は世代的に交代する者の間の親密な関係がより強調され,家族統合においても重要な役割を果たしている。したがって日本人は親子関係と隔世代関係に異なった意味づけを与えていることは明らかである。
楊, 海英
アメリカの社会学者ポーリン・ボスPauline Boss はベトナム戦争やカンボジア戦争で行方不明と宣告された兵士らの家族を対象に研究した結果,「曖昧な喪失」Ambiguous Loss という概念を打ち出した。いわゆる「曖昧な喪失」には二つのパターンがあり,第一のタイプは死んでいるかそれとも生きているか不明瞭な為,人々が家族成員によって身体的には不在であるが,心理的には存在していると認知される場合である。第二のタイプは人が身体的に存在しているが,心理的には不在であると認められたケースで,アルツハイマー病などがその例証とされている。 私は本論文において,中国内モンゴル自治区のモンゴル人たちを「曖昧な喪失」感に陥った集団だと定義している。彼らは人口の面では少数派でありながら,政策的には「主体民族」とされている。文化大革命など過酷な政治運動を経験してきた彼らは,同胞の国たるモンゴル国への憧れも政治的には危険な行動とされている。本論文はこのような「曖昧な喪失」感に包まれている内モンゴル人を対象とした際に,どのような民族誌が作成可能かを探ろうとするものである。具体的な事例として「ラクダの火をまつる儀礼」をとりあげている。この儀礼には「牧畜儀礼」的な側面と,「拝火信仰」的な側面,という二つの性質がある。儀礼に使用される供物と儀礼の流れを詳細に検討し,またモンゴル人が「ラクダの火」を「生命の火」と呼んでいることなどから,古い「原初の火」崇拝の要素が確認できた。 「曖昧な喪失」に陥った個々のクライエントたちに対し,共同体や国家レベルでの癒しが必要不可欠であるとされている。同様に,「曖昧な喪失」感に包まれた集団や民族の場合だと,民族文化の復興が有効な「癒し」の一つとなる。「ラクダの火をまつる儀礼」を近年から復活させたモンゴル人たちにもそのような強い意識が確認できる。こうした中,現地出身の私,つまりネイティブ人類学者の私は,復活された民族文化に積極的に関わっていくことになった。
河野, 仁 Kawano, Hitoshi
本稿では、戦争・戦闘体験のオーラル・ヒストリー研究に関する実践状況を、主として米国の研究機関および大学におけるプログラムに焦点をあてて検討し、あわせて日本におけるオーラル・ヒストリー研究の実践についても言及する。まず、米国におけるオーラル・ヒストリー研究の歴史を概観した後、米国の主要なオーラル・ヒストリー研究のプログラムをいくつか取り上げて、詳細にその研究・教育プログラムの内容や特徴を詳しく紹介する。その際、特に焦点をあてるのは、オーラル・ヒストリー研究の方法論、制度的特徴、実践理念、実践方法、収集資料の記録様式、内容や種類、研究成果の公表・公開に関する方針や方法、などである。米国において、最も古い歴史を有するのは一九四八年にオーラル・ヒストリー研究機関を発足させたコロンビア大学である。インタビュー記録の所蔵資料数では現在全米有数の規模を誇り、オーラル・ヒストリー研究の質においては全米をリードする立場にあるが、戦争・戦闘体験に焦点をあてたコレクションは少ない。カリフォルニア大学ロサンゼルス校やバークレイ校、カリフォルニア州立大学フラートン校などにもオーラル・ヒストリー研究プログラムはあるが、いずれも戦争・戦闘体験に特化したものではない。一方、戦争・戦闘体験に焦点をあてたプログラムを持つ主要な高等教育機関としては、ニュージャージー州立ラトガース大学、フロリダ州立大学タラハシー校、テキサス工科大、北テキサス大などがあげられる。また、現在、もっとも包括的な戦争・戦闘体験のオーラル・ヒストリー記録の収集を行っているのは米議会図書館の「復員史プロジェクト(Veterans History Project)」であり、第一次世界大戦以降の戦争・戦闘体験者を対象とした所蔵記録数は二〇〇七年三月の時点で約四万五千に上っている。さらに、米海兵隊においてもベトナム帰還兵を対象に一九六五年より開始されたオーラル・ヒストリー・プログラムが、現在では歴史・博物館部に受け継がれている。所蔵記録数は一万五千と全米では議会図書館に次ぐ規模であるが、海兵隊員によるインタビュー実施を原則としている点で、高校生以上であれば誰でもインタビューを実施可とする米国議会図書館資料とは質的に大きく異なる。なお、日本においても民俗学、文化人類学、政治学、歴史学、社会学の領域で一般的な「オーラル・ヒストリー」あるいは「ライフ・ヒストリー」研究の蓄積が少なからずあり、戦争・戦闘体験に関する「聞き取り」調査もさまざまな形で実施されてきている。また、二〇〇三年には日本オーラル・ヒストリー学会も設立されるなど、オーラル・ヒストリー研究の制度化が進行しているが、個別の研究や研究プロジェクトにとどまっており、米国と比較して、研究プログラムを各大学や研究機関単位で組織的に制度化するまでには至っていないのが現状である。そうしたなかで、東京大学、政策研究大学院大学や東京外国語大学等におけるオーラル・ヒストリー研究の実践と教育・研究プログラムの制度化の試みは注目に値するが、戦争・戦闘体験に特化したものではない。
Udagawa, Taeko
イタリアの社会文化はしばしば,食と強い結びつきがあるといわれ,最近では世界的な動きとなっているスローフード運動もイタリアで生まれた。つまりイタリアについて語ろうとすると,食という題材がすぐに浮かび上がってくるわけだが,その根幹にあるのは,彼らの食に内在する根源的な社会性であり,それが,イタリアで特に近年食をめぐって起きつつある様々な動きや現象の源泉の一つになっているというのが,筆者の基本的な問題関心である。ただしこの課題に本格的に取り組むためには,イタリアと食との結びつきそのものが,内外の政治的な視線によって作られたイメージにすぎないのではないのか等々,事前に検討すべき問題が少なからず存在している。ゆえに本稿は,以上の問題関心そのものを錬成することを第一の目的として,まずはイタリアの食の成形をめぐる政治的な機制について,歴史的な視点も含めて考察していく。そしてその上で,スローフード運動のイタリアにおける展開と,彼らの日常生活における食の実態の一端を描写しながら,そこに浮かび上がる共食の快楽という言説に注目し,それこそが,食に対する彼らの根源的に社会的な姿勢につながっていることを指摘したい。 この議論は,たとえばイタリア内の多様性などを考慮すると,いまだ検証すべき点も少なくない。しかしながら,グローバル化によってますます市場化・政治化し複雑化するイタリアの食にかんして,今後研究をさらに展開していくためには,食そのものが,そもそも彼らの社会の中で有している意味に立ち戻ってみる必要があると考える。本稿の議論は,そうした試みの一つであり,今後の人類学的な食研究一般に対しても,新たな視点の提示につながることを期待したい。
大杉, 高司
本論文の目的は,シックスト・ガストン= アグエロの著書『唯物論が解きあかす心霊主義とサンテリーア』(1961)が提出した視野から,20 世紀キューバにおける知の編成を逆照射し,革命がその実現をめざしてきた「近代化」プロジェクトの輪郭を浮かび上げようとすることにある。ガストン= アグエロは,その生い立ちや知的遍歴を記録や証言からうかがい知ることのできない,いわば無名の思想家―山口昌男にならえば「敗者」―にすぎない。また,エンゲルスやレーニンの「科学的唯物論」と,サンテリーアとよばれる「物神崇拝」の整合性を論証しようとする著書の内容も,キューバ人研究者のみならず私たちもまた自明視する「ノーマル・サイエンス」の視野から眺めるならば,はなはだ荒唐無稽にうつる。しかし,かえってそのことによってガストン= アグエロの著書は,1959 年の革命勝利を挟んで展開されてきた「近代化」プロジェクトを異化し,それが他にありえたどのような可能性を排除しながら自己成型してきたのかを教えている。補助線となるのは,「近代化」を,自然と社会を分離する「純化」作業の積み重ねのうちにみる,科学人類学者ブルーノ・ラトゥールの見解である。本論文では,このラトゥールの見立てを,ガストン=アグエロの「エソテリック唯物論」,エンゲルスとレーニン,そしてレーニンの論敵であったボグダーノフらの物質観と相対させ,その上で,ガストン= アグエロを歴史から「消去」するに至ったキューバ「近代」知の特質の把握を試みる。
風間, 計博
バナバ人は,第二次世界大戦終了後,中部太平洋に位置するバナバ島からフィジー諸島のランビ島へ,強制移住させられた人々である。従来のバナバ人に関する人類学的研究は,英国植民地主義の被害者として,人々の歴史経験と歴史表象を論じることに重点が置かれ,現在の生活を直視してこなかった。そこでは,望郷の念を抱く人々と土地との結合を前提とした,固定的なバナバ人像が描かれてきた。対して,本論文では,これまで等閑視されてきた,ランビ島から都市へ二次的に移住した「不可視の」少数者としてのバナバ人を対象とする。そして,都市に居住するバナバ人が多様な他者と接触し,日常的に自己認識をいかに構成/再構成しているのかを例証する。本論文では,都市において複数の結節点を築きながら,エスニックな固有性に必ずしも拘泥せず,キリバス系住民に包含されるバナバ人像が提示される。一方,都市中間層の一部は,かつてバナバ人が独自の言語や形質をもっていたという,バナバ島に根ざした固有のエスニシティが存在していた証拠を探し求めている。本論文の目的は,都市に居住するバナバ人が日常的に示すキリバス系住民としての柔軟性と,ナショナリズムを基礎づけるバナバ人像の硬直性が交錯した領域に着目して,都市に住まうバナバ人のもつ,複相的な自己認識のあり方について,認知論的視点を軸に考察することである。
田森, 雅一
本稿は,北インド古典音楽に特徴的な社会音楽的組織であるガラーナー(gharānā)の考察を通して,社会/共同体とその音楽文化との関係を探究しようとする社会人類学的試みである。本稿において問題とするのはガラーナー形成期におけるサロード・ガラーナーの婚姻関係と師弟関係の相関であり,ポスト形成期におけるこの二つの社会関係の変化が「音楽財産」の伝承に与えた影響である。 サロードはシタールと並び,北インド古典音楽を代表する弦楽器の一つであり,今日4 つのガラーナーが認められる。これらガラーナーの中核的家系あるいは家族はすべてムスリムで,このうち3 つのガラーナーの子孫は自分たちのルーツをムガル帝国期にアフガニスタンから北インドにやってきた軍楽家あるいはパターン人軍隊と結びつく馬商に求めている。彼らの流祖は,アクバルの伝説的宮廷楽師であったミヤーン・ターンセーンの子孫で音楽的権威となっていたセーニヤーからラーガ音楽を学び,サロードの演奏スタイルを別個に確立した。ある音楽集団がガラーナーと呼ばれるためには,この独特の演奏スタイルの源泉となる音楽財産が父から息子,師匠から弟子へと3 代に渡って受け継がれる必要があった。本稿では19 世紀中葉からインド独立に至る英領インド帝国期と重なるこの時代をガラーナーの形成期と呼び,インド独立から今日に至る時代をガラーナーのポスト形成期と呼んで区別する。 本稿においては,最初に秘匿の対象となった音楽的知識および音楽財産の内容,そして伝承形態について素描する。次にサロード・ガラーナーの起源と系譜および婚姻関係と師弟関係について把握する。そして最終的に,ガラーナーの形成期においては内婚関係と師弟関係の二重の結びつきの中で音楽財産が管理・伝承される一方,ポスト形成期においてはこの二つの社会関係の間に相関関係がほとんど見られないことが明らかになる。このような社会関係の変化は近代インドにおけるマクロな社会文化的システムの変化と対応しており,音楽財産の伝承形態とガラーナーの盛衰に大きな影響をもたらしたと考えられる。
塩月, 亮子 Shiotsuki, Ryoko
本稿では,従来の静態的社会人類学とは異なる,動態的な観点から災因論を研究することが重要であるという立場から,沖縄における災因論の歴史的変遷を明らかにすることを試みた。その結果,沖縄においてユタ(シャーマン)の唱える災因は,近年,生霊や死霊から祖先霊へと次第に変化・収束していることが明らかとなった。その要因のひとつには,近代的「個(自己)」の確立との関連性があげられる。すなわち,災因は,死霊や生霊という自己とは関係のない外在的要因から,徐々に自己と関連する内在的要因に集約されていきつつあるのである。それは,いわゆる「新・新宗教」が,病気や不幸の原因を自己の責任に還元することと類似しており,沖縄だけに限られないグローバルな動きとみなすことができる。だが,完全に自己の行為に災因を還元するのではなく,自分とは繋がってはいるが,やはり先祖という他者の知らせ(あるいは崇り)のせいとする災因論が人々の支持を得るのは,人々がかつての琉球王朝時代における士族のイデオロギーを取り入れ,シジ(系譜)の正統性を自らのアイデンティティの拠り所として探求し始めたことと関連する。このような「系譜によるアイデンティティ確立」への指向性は,例えば女性が始祖であるなど,系譜が士族のイデオロギーに反していていれば不幸になるという観念を生じさせることとなった。以上のことを踏まえ,災因論の変化を担うユタが,今も昔も変わらず人々の支持を集めていることの理由を考察した結果,死霊にせよ祖先霊にせよ,ユタはいつの時代にも人々に死の領域を含む幅広い宗教的世界観を提示してきたのであり,そのような世界観は,絶えずグショー(後生)という死後の世界を意識し,祖先崇拝を熱心におこなうといった,「生と死の連続性」をもつ沖縄文化と親和性をもつものであるからという結論に達した。
Hidaka, Shingo
2020 年,新型コロナウイルス(COVID-19)の世界的な蔓延は,現代社会における人類の営みを根底から見直さなければならないほど大きな影響を与えた。国立民族学博物館では,感染症対策に万全を期す体制を整えるべく,新型コロナウイルス感染症対策会議を設置した。そして,勤務する職員,研究活動や展示場見学を目的とした来館者,あるいは業務委託をおこなっている外部業者などの安全を確保するため,新型コロナウイルスの感染状況に応じて民博独自の活動基準として,「新型コロナウイルス感染状況に応じたみんぱくの活動基準」を定めた。その後,新型コロナウイルスの感染状況や,それに伴う国や大阪府の対応策を見据えながら,民博の活動レベルを判断するとともに,レベルに応じた活動内容を適宜見直しながら 2022 年度に至っている。こうした民博における新型コロナウイルス感染症対策のなかで筆者は,博物館活動の新型コロナウイルス感染症対策の策定について主たる役割を果たしてきた。これは,博物館活動に係る研究・運営の在り方を議論する文化資源運営会議のもとに設置され,博物館の運営業務全般の方針を策定する展示情報高度化部会の部会長を 2016 年度から 2022 年度現在にかけて務めていることによる。これらの活動は,すべてが初めての経験であり,活動内容を決定していく過程では常に試行錯誤を繰り返しながら,作業にあたっている。一方で,こうした経験は,これまで博物館が経験したことのないリスクに対してどのような対策を講じていくのかというひとつのモデルを提示することができると考える。そこで,本稿では,民博の博物館活動における新型コロナウイルス感染症対策について着目し,これからの博物館活動について考察を加えることとしたい。
福田, アジオ Fukuta, Azio
考古学と民俗学は歴史研究の方法として登場してきた。そのため,歴史研究の中心に位置してきたいわゆる文献史学との関係で絶えず自己の存在を考えてきた。したがって,歴史学,考古学,民俗学の三者は歴史研究の方法として対等な存在であることが原理的には主張され,また文献史学との関係が論じられても,考古学と民俗学の相互の関係については必ずしも明確に議論されることがなかった。考古学と民俗学は近い関係にあるかのような印象を与えているが,その具体的な関係は必ずしも明らかではない。本稿は,一般的に主張されることが多い考古学と民俗学の協業関係の形成を目指して,両者の間についてどのように従来は考えられ,主張されてきたのかを整理して,その問題点を提示しようとするものである。柳田國男は民俗学と考古学の関係について大きな期待を抱いていた。しかし,その前提として考古学の問題点を指摘することに厳しかった。考古学の弱点あるいは欠点を指摘し,それを補って新しい研究を展開するのが民俗学であるという論法であった。したがって,柳田の主張は考古学の内容に踏み込んだものであり,彼以降の民俗学研究者の見解が表面的な対等性を言うのに比較して注目される点である。多くの民俗学研究者は,考古学と民俗学の対等な存在を言うばかりで,具体的な協業関係形成の試みはしてこなかった。その点で,柳田を除けば,民俗学研究者は考古学に対して冷淡であったと言える。それに対して,考古学研究者ははやくから考古学の研究にとって民俗学あるいは民俗資料が役に立つことを主張してきた。具体的な研究に裏付けられた民俗学との協業や民俗資料の利用の提言も少なくない。しかし,それは考古学が民俗学や民俗資料を参照することであり,考古学の内容を豊かにするための方策であった。その点で,両者の真の協業は,二つの学問を前提にしつつも,互いに参照する関係ではなく,二つの学問とは異なる第三の方法を形成しなければならない。
藤田, 陽子 Fujita, Yoko
本報告では、(1)研究プロジェクト「新しい島嶼学の創造-日本と東アジア・オセアニア圏を結ぶ基点としての琉球弧」(Toward New Island Studies-Okinawa as an Academic Node to Connect Japan, East Asia and Oceania) における問題意識と研究目的、(2)沖縄における重要な環境問題とその特徴及び解決に向けた課題に関する考察、の2点について述べる。(1)「新しい島嶼学の創造」プロジェクト 国際沖縄研究所の研究プロジェクト「新しい島嶼学の創造」は、島嶼地域の持続的・自立型発展の実現に向けた多様な課題について、学際的アプローチにより問題解決策を導出・提案することを目的とした事業である。従来の島嶼研究は、歴史や民俗、自然地理、文化人類学など、大陸との比較においてその特徴を捉えることを中心として展開してきた。また、「狭小性」「環海性」「遠隔性」といった大陸との相対的不利性に焦点を当てる研究も数多く行われてきた。こうした従来の島嶼研究の成果を踏まえつつ、本プロジェクトにおいては島嶼の不利性を優位性と捉え直すことによって島嶼地域・島嶼社会の発展可能性を探り、問題解決に向けた具体的な処方箋の導出を目指す研究を展開する。そのために「琉球・沖縄比較研究」「環境・文化・社会融合研究」「超領域研究」の三つの学際的研究フレームを設定し、島嶼に関する学際的・複合的研究を推進している。(2)沖縄における環境問題 沖縄の自然環境は、その生物多様性の豊かさや自然景観の美しさなどにより多数の観光客を惹きつけ、専門家の関心を集めている。しかし2003年には、沖縄本島北部やんばるの森を分断するように敷設されている林道の存在や、日本国内法が適用されない米軍基地の存在、重要地域の国立公園化など保護区域の設定が不十分であることを理由に、環境省が琉球諸島の世界自然遺産委員会への推薦を見送った。これは、長い年月をかけて培ってきたストックとしての自然は優れているが、それを維持・管理する人間側の体制が十分に整備されていない、ということを意味していた。2013年1月31日、環境省はこれらの課題に取り組みつつ奄美大島・徳之島・沖縄本島北部(やんばる地域)・西表島の4島を中心とした奄美・琉球のユネスコ暫定リスト入りを決定したが、最終的な世界自然遺産認定に向けては、自然保護に対する地域住民の認識の共有や、開発を制約する国立公園化など、困難な課題に直面している。在沖米軍の活動に起因する環境問題については、地位協定あるいは軍事機密の壁による情報の非対称性が問題の深刻化をもたらしている。米軍には、運用中の基地内で行われている軍事関連活動について日本あるいは沖縄に対して情報開示の義務は負わない。また、返還後の跡地利用の段階で汚染等が発覚した場合の浄化に伴う費用負担のあり方について汚染者負担の原則が適用されず、また汚染状況の詳細が予め把握できないことによる開発の遅延という経済的損失も地域にとっては大きな負担となる。これらの問題を解決するためには、地位協定の運用改善および改正を含め、日本の環境関連法あるいは米国環境法の適用可能性について検証することが不可欠となる。
則竹, 理人
学際性を有するアーカイブズ学において、その対象である「記録」には「情報」の要素がある点、さらには情報技術の発展に伴い同要素の重大さが増している点から、同学問領域が一般的に情報学との結びつきを強めていることが指摘されうる。なかでもイベロアメリカと呼ばれる地域では、情報学において情報の記録的、証拠的側面がより重視される特徴があり、またアーカイブズ分野を含めた、情報関連分野の実務の強い連携が一部の国々でみられる事実も相まって、2 つの学問領域の親和性がより高いことが示唆される。そこで本稿では、イベロアメリカにおけるアーカイブズ学と情報学の関連性に着目し、複数の時期を基点に調査した実在のアーカイブズ学教育課程を分析し、傾向の把握を試みた。その結果、経緯や形式、程度は様々なものの、多くの国や地域の事例から情報学とのかかわりが見出された。アーカイブズ学が情報学の構成要素として扱われる課程もあれば、情報学の課程の途中でアーカイブズ学専門コースに分岐する場合もあった。また、学部レベルにアーカイブズ学専門課程、大学院レベルに情報学の課程が置かれ、進学によって補完される事例もみられたが、一方で情報学が先に教育される補完の形態もあった。このような多様性によって、数多の実践的な例を示していることが、同地域以外で、情報学との関連性を強化したアーカイブズ学教育を検討するうえでも有益である可能性を提示した。
山村, 奨
本論文は、日本の明治期に陽明学を研究した人物が、同時代や大塩の乱のことを視野に入れつつ、陽明学を変容させたことを明らかにする。そのために、井上哲次郎と教え子の高瀬武次郎の陽明学理解を考察する。 日本における儒学思想は、丸山眞男が説いた反朱子学としての徂徠学などが、近代性を内包していたと理解されてきた。一方で、明治期における陽明学を考察することで、それと異なる視角から、日本近代と儒教思想との関わりを示すことができる。明治期に陽明学は変容した。すなわち、陽明学に近代日本の原型がある訳ではなく、幕末期から近代にかけて、時代にあわせて変わっていった。 井上哲次郎は、陽明学を「国家主義的」に解釈したとされる。井上にとっての国家主義とは、天皇を中心とする体制を護持しようとする立場である。井上は陽明学を、国民道徳の理解に援用できると考えた。その態度は、キリスト教が国民の精神を乱すことに反発していたことに由来する。国内の精神的統一を重視した井上の陽明学理解は、水戸学の問題意識と共通する。しかし井上の陽明学観は水戸学に影響を受けた訳ではなく、幕末期に国事に関心を向けた陽明学者の伝統を受け継ぐ。また井上は、体制の秩序を志向していたために、大塩平八郎の暴挙には否定的であった。 一方で日本での陽明学の展開は、個人の精神修養として受け入れられた面を持つ。その点で、高瀬武次郎の主張は注目に値する。高瀬は陽明学が精神を修養するのに有効であり、同時に精神を陶冶した個人が社会に資するべきことを主張した。また井上の理解を踏襲しつつも、必ずしも井上の見解に与しなかった。高瀬は、大塩の行動に社会福祉的な意義も認めている。高瀬は幕末以来の実践重視の思想の中で、陽明学に新たな意味を付与した。その高瀬は、後に帝国主義に与した。 近代日本の陽明学は、時代状況の中で変容した。井上は国民の精神的な統一を重視したが、高瀬は陽明学による修養の社会的な意義を積極的に説いた。
安田, 喜憲
本研究はスギと日本人のかかわりの歴史を花粉分析の手法にもとづき過去七〇万年について論じたものである。スギは約七三万年前の気候の寒冷化と年較差の増加をきっかけとして発展期に入った。同じ頃、真の人類といわれるホモ・エレクトゥスも誕生している。スギと人類は氷期と間氷期が約一〇万年間隔で交互にくりかえす激動の時代に発展期をむかえている。とりわけスギは氷期の亜間氷期に大発展した。しかし三・三万年以降の著しい気候の寒冷化によって、最終氷期の最寒冷期には、孤立分布をよぎなくされた。新潟平野の海岸部、伊豆半島それに山陰海岸部が主たる生育地であった。約一万年前の気候の温暖化と湿潤化を契機として、スギは再び発展期に入った。福井県鳥浜貝塚からは、すでに一万年以上前からスギの板を使用していたことがあきらかとなった。しかし鳥浜貝塚の例をのぞいて、縄文人は一般にスギとかかわることはまれだった。スギと日本人が密接にかかわりを持つのは弥生時代以降のことである。それはスギの生育適地と稲作の適地が重なったためである。とりわけ日本海側の弥生人はスギと深いかかわりをもった。しかし何よりもスギと日本人のかかわりをより密接にしたのは都市の発達であった。都市生活者の増大とともに、スギは都市の庶民の住宅の建築材や醸造業の樽や桶あるいは様々な日用品にいたるまであらゆる側面において日本人の生活ときってもきりはなせない関係を形成した。しかし高度経済成長期以降、安い熱帯材の輸入によって、スギは日本人に忘れ去られた。間伐のゆきとどかないスギの植林地は荒廃し、スギと日本人のかかわりは大きな断絶期を迎えた。地球環境の壊滅的悪化がさけばれる今日、日本人はもう一度スギとともに過ごした過去を思い起こし、森の文化を再認識する必要がある。
謝, 蘇杭
本論文は京都本草学の代表者である稲生若水・松岡恕庵・小野蘭山などを中心に、それらの『詩経』に対する「名物学」的研究の内容と発展経緯を解明しようとするものである。近世期本草学者の学問における関心は、主として三つの領域に集中している。すなわち、伝統医学の傍流となる「薬学」と、動植鉱物の名実同定を重視する「名物学」、さらに天産物の有用性に目をつけ、その産業化によって実利を得ることを目的とする「物産学」である。そのなかに、近世期における「名物学」の発展は、『詩経』をめぐる注釈と考証を中心に展開されてきた。それに関する学問は、「『詩経』名物学」と呼ばれている。その根底をなすのは、朱子学における「正名論」や「格物致知」の思想と考えられる。しかし、もともと『詩経』に出てきた動植物に対する名実同定にとどまっていた『詩経』名物学研究は、近世中後期になると、その記述に生態や製法などといった内容が見られ、「物産学」的な色合いがついてきたのである。本論文では、各時期における京都本草学派の『詩経』名物学著作を取り上げ、それらの記述内容を分析しつつ、『詩経』名物学の発展の実態について具体的に検討していこうとする。
Sugimoto, Yoshio
上村, 幸雄 Uemura, Yukio
筆者がこれまでに係わった日本の方言学と言語地理学について概観する。
かりまた, しげひさ Karimata, Shigehisa / 狩俣, 繁久
琉球列島全域の言語地理学的な調査の資料を使って、構造的比較言語地理学を基礎にしながら、音韻論、文法論、語彙論等の基礎研究と比較言語学、言語類型論、言語接触論等の応用研究を融合させて、言語系統樹の研究を行なえば、琉球列島に人々が渡来、定着した過程を総合的に解明できる。言語史研究の方法として方言系統地理学を確立することを提案する。
藤原, 幸男 Fujiwara, Yukio
他大学教育学部または教育大学における教育学と心理学を統合した学校教育学科では,教育学の専門科目は理論ばかりでおもしろくない,という批判が学生にあり,そのために,専修に分化するときに心理学専修を選ぶ者が多いと聞く。教育学について一面的な理解しかないにしても,学生の批判はあたっているところもある。学生の批判を受けとめ,教育学の専門科目の授業を教育内容・方法面において再編成し,魅力あるものにしていく必要がある。今年の夏,「教育方法学」の集中講義をF教育大学で試みた。理論と実践の結合を意識して,実践事例を多く紹介したプリント資料とビデオ教材を準備したために,学生の隠れた教育学批判に結果的に応えることができた。現実の教育問題への関心の喚起,教育方法学の理論の実感的理解,教育像・授業像・教師像の変化,教育方法学観の変化などについて刺激を与えることができた。「教育方法学」集中講義の講義内容・方法を概観し,実践的試みを実施したあとでの学生の感想を中心にして,上記事項などでの影響について報告する。
小谷, 真吾 Odani, Shingo
畑を荒らしたブタは,人々の収入源である。人々は故意に畑の中にブタを放ち,そうしてからブタを屠殺し売却することで現金を得る。これは,パプアニューギニア南部高地州に居住するボサビにおける事例である。この事例は,貨幣経済がどのようにシステムの中に取り込まれていくのか,その過程を表しているのではないか。本論文では,ボサビのブタ飼育をはじめとする生業生態を明らかにし,他集団における環境利用システムと比較することによって,彼らのブタ飼育の特徴を考察した。同時に冒頭の事例の分析によって,近年生態人類学の中で無視できないものになりつつも,その過程の分析がほとんど行なわれてこなかった,生業生態システムへの貨幣経済の浸透について考察を行なうことを目的とした。その結果,ブタの売買が行なわれた/行なわれなかった場合の主観的理由を弁別する基準を分析してみると,ブタが自分の共同体に属していない/いるという基準が設定できた。「畑を荒らした」,あるいは「野生化した」という操作がなされて,ブタは共同体外の存在に分類される。そこには,食物交換に関する呪術的信仰が強力な彼らの社会において,飼いブタがその所有者によって消費されることを忌避する規範が背景に存在する。そうまでしてブタの売買を行なう理由を考えてみると,他に売買に値する事物がボサビに存在しないことが挙げられる。それは,他に余剰生産物がないことと同時に,貨幣経済の浸透する以前からブタが交換財として使用されてきたことにもよると考えられる。一方で,ブタの交換財としての使用は近年盛んになったと考えられ,それは貨幣経済の浸透,外部からの影響の増大と同期している。貨幣経済の浸透とブタの売買は,ポジティブ・フィードバックの関係を持ってそれぞれの受容を加速していったと考えられるのである。
山本, 光正 Yamamoto, Mitsumasa
明治二二年に東海道線が開通すると、ほとんど同時にといってよいほど、人々は鉄道を利用するようになったと思われる。鉄道の出現により東海道の旅行も風情がなくなったという声が聞かれるようになるが、一方では鉄道は新しい風景を作り出したと評価する声もあった。しかし鉄道の是非とは関係なく、徒歩による長期の旅行を容認する社会ではなくなってしまった。鉄道旅行が当然のことになると、旧道特に東海道への回帰がみられるようになった。東海道旅行者には身体鍛錬を主とした徒歩旅行と、東海道の風景や文化を見聞しようとするものがおり、東海道を〝宣伝の場〟としても利用している。身体鍛錬の徒歩旅行は無銭旅行とも結びつくが、これは明治期における福島安正のシベリア横断や白瀬矗の千島・南極探検に代表される探検の流行と関連するものであろう。探検や無銭徒歩旅行の手引書すら出版されている。見聞調査は特に画家や漫画家を中心に行われた東海道旅行で、大正期に集中している。大正四年に横山大観・下村観山・小杉未醒・今村紫紅・同じ年に米国の人類学者フレデリック・スタール、年代不詳だが四~五年頃に近藤浩一路、七年に水島爾保布、七~八年頃に大谷尊由と井口華秋そして大正一〇年に行われた岡本一平を中心とする「東京漫画会」同人一八名の東海道旅行で一段落する。昭和に至り岡本かの子は短編『東海道五十三次』を発表するが、これは大正期における東海道旅行を総括するものとして位置付けられる。失われていくもの、大きく変りゆくものに対しては記念碑の如く回顧談的著作物が多く出版される。東海道線開通後旧東海道を歩くことが行われたのもこうした流れの中に位置付けることができるが、それだけでは理解しきれないものを含んでいた。さらに東海道旅行は昭和一〇年代の国威宣揚を意識した研究につながっていく。
Ikeya, Kazunobu
アフロ・ユーラシアにおける牧畜を対象にした人間生態学・生態人類学的研究では,これまでウシ,ヒツジ,ヤギ,ラクダ,トナカイなどの群居性の有蹄類に属する哺乳動物を対象にして,家畜と人との相互のかかわり方が把握されてきた。しかし,ブタの牧畜に関しては,国内外をとおして先行研究がまったくみられない。そこで本研究は,バングラデシュの中央部に位置するベンガルデルタにおけるブタを対象にした遊牧の実態を把握することを目的とする。筆者は,2007 年12 月以降現在まで,おのおのは短期間ではあるが9 回にわたりバングラデシュ国内において絶えず移動中のブタの群れを探し求めること,群れのなかのブタの年齢や性別構成を聞き取ることなど,飼育技術や移動形態などの生産に関する直接観察を行った。ここでは,「大規模所有者」(約800 ~1000 頭のブタを所有)に焦点を当てることを通して遊牧の実際が把握される。その結果は,以下のとおりである。 遊牧されるブタは,一部のゴミ捨て場でのブタを除いて,1 年を通してデルタに分布する野生タロを中心とした野生植物に全面的に依存する。とりわけ乾季にはブタは収穫後の農地に入いり,農民にとっては雑草と評価されている植物を掘り起こして根の部分を食べる。収穫後の水田では,稲の収穫の際にこぼれ落ちた米粒が残っており,それが利用される。また,ブタの群れは,常に移動しているのできめ細かい移動の範囲を確定できないが,およそ10 ~ 20 平方km の遊動域を見出すことができる。ブタは,群れの移動と採食のための一時的滞在とを繰り返す。2 時間弱のなかで母豚による授乳の時間が4 回みられた。この授乳活動は,牧夫がそれぞれの子ブタを誘導するのではなくて,子ブタの方が積極的に働きかけて群れのなかで自主的に開始される行動である。さらに,牧夫による群れの管理には音声が使われる。牧夫は生後まもない子ブタを殺すこと,別の母親への子ブタの移出などによって各母ブタへの負担を均等にする努力をしている。同時に,ブタの年齢に応じて群れを変えるなどして群れ全体の管理がなされている。他のブタ飼育者からブタが購入されることなどによっても,ブタの所有頭数が維持される。 以上のように,バングラデシュのブタを対象にした遊牧は,年中群れとともに移動をして自然資源を利用する点,100 ~ 200 頭の単位ごとの群れで分散飼育して多様な環境を季節や微地形に応じてきめ細かく利用する点など,熱帯モンスーンアジアのデルタにおける自然特性に応じた資源利用の形をよく示している。
小池, 淳一 Koike, Jun'ichi
本稿は柳田民俗学の形成過程において考古研究がどのような位置を占めていたのか、柳田の言説と実際の行動に着目して考えてみようとした。明治末年の柳田の知的営為の出発期においては対象へのアプローチの方法として考古研究が、かなり意識されていた。大正末から昭和初期の雑誌『民族』の刊行とその後の柳田民俗学の形成期でも柳田自身は、考古学に強い関心を持ち続けていたが、人脈を形成するまでには至らず、民俗学自体の確立を希求するなかで批判的な言及がくり返された。昭和一〇年代以降の柳田民俗学の完成期では、考古学の長足の進展と民俗学が市民権を得ていく過程がほぼ一致し、そのなかで新たな歴史研究のライバルとしての意識が柳田にはあったらしいことが見通せた。柳田民俗学と考古研究とは、一定の距離を保ちながらも一種の信頼のようなものが最終的には形成されていた。こうした検討を通して近代的な学問における協業や総合化の問題が改めて大きな課題であることが確認できた。
本書の原著は,東海大学海洋学部の学生実験を主な対象とした「魚類学実験テキスト」として日本語で出版されました。今回,対象読者としてアジア・アフリカ域等の学部学生を念頭に,汎用性のある章を選んで翻訳出版いたしました。本出版は,総合地球環境学研究所エリアケイパビリティープロジェクトおよび東海大学海洋学部の助成を受けて行いました。
本書の原著は,東海大学海洋学部の学生実験を主な対象とした「魚類学実験テキスト」として日本語で出版されました。今回,対象読者としてアジア・アフリカ域等の学部学生を念頭に,汎用性のある章を選んで翻訳出版いたしました。本出版は,総合地球環境学研究所エリアケイパビリティープロジェクトおよび東海大学海洋学部の助成を受けて行いました。
本書の原著は,東海大学海洋学部の学生実験を主な対象とした「魚類学実験テキスト」として日本語で出版されました。今回,対象読者としてアジア・アフリカ域等の学部学生を念頭に,汎用性のある章を選んで翻訳出版いたしました。本出版は,総合地球環境学研究所エリアケイパビリティープロジェクトおよび東海大学海洋学部の助成を受けて行いました。
本書の原著は,東海大学海洋学部の学生実験を主な対象とした「魚類学実験テキスト」として日本語で出版されました。今回,対象読者としてアジア・アフリカ域等の学部学生を念頭に,汎用性のある章を選んで翻訳出版いたしました。本出版は,総合地球環境学研究所エリアケイパビリティープロジェクトおよび東海大学海洋学部の助成を受けて行いました。
本書の原著は,東海大学海洋学部の学生実験を主な対象とした「魚類学実験テキスト」として日本語で出版されました。今回,対象読者としてアジア・アフリカ域等の学部学生を念頭に,汎用性のある章を選んで翻訳出版いたしました。本出版は,総合地球環境学研究所エリアケイパビリティープロジェクトおよび東海大学海洋学部の助成を受けて行いました。
張, 平星
2022 年6 月12 日(日),日文研共同研究「日本文化の地質学的特質」の初めての巡検を,京都の名石・白川石をテーマに,その産出と加工,産地の北白川地域の土地変遷と石の景観,日本庭園の中の白川砂の造形・意匠・維持管理に焦点を当てて実施した。地質学,考古学,歴史学,宗教学,哲学,文学など多分野の視点から活発な現地検討が行われ,比叡花崗岩の地質から生まれた白川石の石材文化の全体像を確認できた。
Kawai, Hironao
這十幾年歷史學家開始關注在 19 世紀後半至 20 世紀前半出現客家認同的歷史過程。然而,這些研究很少討論當時文獻所記載的「客人」或「客家人」到底是什麼樣的群體。本論文關注客人和客家人之間的區別。本論文指出,在民間社會裡客人往往指對某個群體來說的異邦人,另一方面客家人指按照西方的民族科學被分類的民族集團。與前者不同,後者可以在地圖上表示其具體分佈範圍。由於有時客人概念和客家概念兩者會重複,不少客家研究把兩者混在一起討論。因此,本論文從人類學視角論述基督教傳教士如何利用民族志的手法,對客家和其他族群―本地人、福佬人―進行區別和分類,並描繪出客家特色。以及客人精英後來如何把它當做新的自我認同。在最後本論文指出19世紀的客家族群範圍與現代的客家族群範圍不一定一致,連20世紀前期粵東的客家概念裡也包含民間社會的客人觀。
藤野, 陽平
近年、世界遺産関連の話題はますます盛り上がりを見せているが、台湾には世界遺産が1 ヶ所も登録されていない。これは台湾に後世に残すべき人類の遺産がないというわけではなく、中華民国(台湾)がユネスコに加盟していないということや中台関係が大きな要因である。こうした状況に対して台湾側にも「台湾世界遺産潜力点」として18か所の世界遺産登録候補地を設定し、アピールするという動きが見られている。そこで本稿では台湾世界遺産潜力点について簡述した後、18か所の中の1 つで、これまで9 つの外来文化の影響を強く残している新北市に位置する「淡水紅毛城及び周辺の歴史建築群」を紹介する。最後に台湾世界遺産潜力点がいかなる社会的文脈の上に位置づけられるのかを確認し、その特徴として台湾アイデンティティの強まりや、日本との関係性を分析する。
出口, 顯 Mio, Minoru
土肥, 直美 平田, 幸男 百々, 幸雄 宝来, 聰 高宮, 広土 峰, 和治 Doi, Naomi Hirata, Yukio Dodo, Yukio Horai, Satoshi Takamiya, hiroto Mine, Kazuharu
Kobayashi, Masaomi 小林, 正臣
本稿はMartha WoodmanseeとMark Osteenが提唱する「新経済批評(The New Economic Criticism)」を検証しながら、文学と経済学の新たな学際性を模索する。社会科学としての経済学は数式を多用した限定的な意味における「科学」を標榜する傾向にあり、人文科学としての文学は経済学-多数の学派に基づく経済学-をマルクス経済学に限定して援用または経済学の専門用語などを誤用する傾向にある。これら問題点を考慮しながら、本稿は両学問の類似性と相違点を認識することの重要性を強調する。例えば、Donald McCloskeyが指摘するように、経済学は数式を用いながらも言語による論証を行うことにおいて修辞的である。またPierre Bourdieuが指摘するように、言語と貨幣は機能的に類似する点が多くあり、それゆえ文学と経済学の「相同関係(homology)」が考えられる。しかし相同関係を発見する一方で、それら学問間の絶えざる緊張関係を維持しながら新たな相互関係を構築する必要があり、その際の媒介を果たすのが新経済批評である。換言すれば、文学は経済学を始めとする諸科学の理論を導入しながら、それら科学に新たな返答をすることが可能な「場」であると認識することで、両学問は相互的な知的活性化を永続できる。かくして本稿は、文学と経済学の学際性の追求は「未知(notknowing)」の探求であると結論する。
小西, 潤子
「山口修写真コレクション」は,山口修(1939–)が 1960 年代半ばから 1990年代にアジア・太平洋各地で収集した 5,000 点以上の写真資料からなる。これらの理解を深めるために,民族音楽学の歴史を遡ることで山口の学問的関心を突き詰める。すなわち,20 世紀前後の欧州における近代科学に基づいた比較音楽学,戦前日本における東洋音楽の歴史と理論を扱った東洋音楽研究,1950年代から米国で文化相対主義の影響によって開花した行動学的民族音楽学である。これらを基盤に,山口は民族音楽学の理論と実践を国内外に発信し,「応用音楽学」として集大成した。その中で楽器学の骨子は,(1)エティック/イーミックスなアプローチ,(2)楽器づくりのわざ,(3)楽器の素材,とされる。次に,これらの観点から 1970 年代沖縄・奄美における楽器の写真について,当該文化の担い手による解釈を交えて論じる。対話の積み重ねによる持続的なデータベースづくりは,まさに山口が目指した未来志向性の応用音楽学的実践だといえる。
粟津, 賢太 Awazu, Kenta
戦没者の記念追悼施設やその分析には大まかにいって二つの流れがある。ひとつは歴史学的研究であり、もうひとつは社会学的研究である。もちろん、これらの基礎をなす、死者の追悼や時間に関する哲学的研究や、それらが公共の場において問題化される政治学的な研究も存在するが、こうした研究のすべてを網羅するのは本稿の目的ではない。歴史学的研究においては、これらの施設の形成過程の研究と社会的位置づけをめぐる議論があった。歴史において、欧米社会がいかに死を扱ってきたのかという社会史的な問題設定の中に位置づけられてきた。一方、社会学的研究では、これまで国家儀礼に関する研究が主流であった。そこには、機能主義の前提があった。また、死の社会学という観点から、社会的に死がいかに扱われているのかという社会心理学的あるいは死生学的関心による研究も行われてきた。歴史研究と社会学的研究というこれら二つの動向は、ナショナリズム研究や慣習的実践論、また「場」の理論を取り込みつつ、次第に記憶の社会学という現代社会学へ収斂しつつある。本稿の目的は、その理論的形成や問題領域を整理し、現代社会学理論の中に集合的記憶研究を戦略的に位置づけることにある。集合的記憶の社会学は、物質的な基礎に着目することによって時間と空間を社会分析に取り入れるという点で、戦略的な高地を確保できる。また、そうした時間と空間における行為者としてエージェンシーを考える。ここでいうエージェンシーはある特定の記憶の場を目指した様々な社会的相互作用を行う主体である。それは儀礼を執行する主体であり参加者であり、言説を産出する主体でもある。エージェンシーが、ある特定の空間において(あるいはある空間に対して)、ある特定の時間の幅の中で、いかなる動きを示していったのかを考えることができる。
長田, 俊樹
さいきん、インドにおいて、ヒンドゥー・ナショナリズムの高まりのなかで、「アーリヤ人侵入説」に異議が唱えられている。そこで、小論では言語学、インド文献学、考古学の立場から、その「アーリヤ人侵入説」を検討する。 まず、言語学からいえば、もし「アーリヤ人侵入説」が成り立たないとしたら、「印欧祖語=サンスクリット語説」もしくは「印欧祖語インド原郷説」が想定されるが、いずれも、Hock(1999a)によって否定されている。また、インド文献学では、リグ・ヴェーダの成立年代問題など、たぶんに解釈の問題であって、インド文献学がこたえをだすことはない。考古学による証拠では、インダス文明が崩壊した時期における「アーリヤ人」の「大量移住」の痕跡はみとめられず、反「アーリヤ人侵入説」の根拠となっている。 結論をいえば、じゅうらいの「アーリヤ人侵入説」は見直しが必要である。「アーリヤ人」は「インド・アーリヤ祖語」を話す人々」とすべきで、かれらが同一民族・同一人種を形成している必要はけっしてない。また、「侵入」も「小規模な波状的な移住」とすべきで、年代についても紀元前一五〇〇年ごろと特定すべき積極的な根拠はない。
中務, 真人 Nakatsukasa, Masato
ブレーメン, J G ファン
山本, 芳美
本論は、19世紀後半から20世紀初頭における外国旅行者による日本でのイレズミ施術について取り上げる。この時代は、日本においてイレズミに対する法的規制が強化され、警察により取り締まられた時代でもある。しかし、法的規制が課せられた時代においても、日本人対象の施術がひそかに続けられていた。一方、同時期は欧米を中心にイレズミが流行した時期でもある。日本人彫師たちは、長崎、神戸、横浜ばかりでなく、香港、アジア各地の国際港に集まって仕事をしていた。状況を総合すると、日本国内の施術では、外国人客にとっては「受け皿」、彫師にとっては「抜け道」が形成されていたことが強く示唆される。つまりは、日本ならではの観光体験メニューとして、イレズミ体験が存在していたと考えられるのである。 本稿では、こうした視点から、外国人観光客と彫師、それを仲介する人々や場を歴史人類学的に分析する。1870年代以降から1948年までの日本のイレズミと規制についての概略をしめしたうえで、1881(明治14)年に英国二皇孫であるアルベルト・ヴィクトルおよびジョージが来日に際して政府高官に示した施術の希望にどのように対応したのかについて検討する。そして、この二人の施術が、外国人客たちが施術を受ける誘因となった可能性を指摘する。その上で、横浜で活動した彫師、彫千代を例に、日本のイレズミがどのように評価され、どの程度の日数でどのように彫られていたのかを整理する。客の誘致が旅行案内書やホテルのメニューなどの広告でどのようにおこなわれ、どのような勧誘者が関わっていたのかを論じる。 日本みやげのイレズミについての記述は英米圏の新聞、雑誌などに多く残っており、先行研究は英米圏が中心であった。日本人にとってはイレズミが禁止されていた時代でもあり、外国人向けの施術に関する国内外の資料は多くはないが、近年、雑誌や新聞記事のデジタル化が進んだことにより新たな資料が見つかっている。本論ではいくつかの新資料を提示しつつ、論を進めている。
Matsuzono, Makio 門司, 和彦 白川, 千尋