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千田, 嘉博 Senda, Yoshihiro
従来,遺構に即した踏み込んだ検討が行われてこなかった東北北部の山域について,墳館・唐川城・柴崎城・尻八館を事例に検討を行った。この結果,墳館は10世紀末~11世紀にかけての古代末の防御集落と中世の館が重複した遺跡であったことを示し,東北地域で数多くみられるこうした重複現象が,中世段階ですでに古代末に地域の城が構えられた場が,特別な意味をもち,そこに改めて城を築くことが,中世の築城主体にとって権力の権威や正当性を示す意義をもったとした。さらに唐川城・柴崎城・尻八館は,曲輪の整形が未熟な反面,堀が卓越して発達するという,同一系譜の特徴的な城であったことを明らかにし,その築造時期が14世紀末にはじまり,15世紀前半までに限定できるとした。この14世紀末という時期は,十三湊において都市を南北に2分した大土塁が築造されはじめた時期に当たり,また15世紀半ばという最後の改修の年代も安藤氏と南部氏の戦いの時期に一致したことを示した。そして諸状況から考え,これらの3つの山城は安藤氏の拠点城郭として機能したと評価した。堀を卓越させたこれらの城郭構成は,これまでみすごされてきた北の城郭の特徴を示したもので,中世後期の城郭形成に,北からの堀が不可欠であったことを述べるとともに,南方のグスクと共通した郭非主体の防御のあり方は,その先のさらなる北や南との交流の中で生み出されたものだとした。
ダニエルス, クリスチャン Daniels, Christian
本稿では、思茅の生態環境史に大きな影響を与えた漢族移民が入植する以前にタイ族の政権が存在したこと、及び18世紀における漢族商人による思茅山地の開発という二つの要因を指摘した後、この度の調査で得た碑文資料に基づいて、18世紀末19世紀初め、現地の住民がこの開発に対して自発的に採択した環境保全措置とその意義を紹介する。
市川, 隆之 Ichikawa, Takayuki
長野県北部にある善光寺平には条里型地割が認められる地点がいくつかある。そのひとつ更埴条里遺跡において初めて埋没条里型水田が確認されたが,その後,石川条里遺跡や川田条里遺跡でも同時期の埋没条里型水田跡や古代の水田跡の存在が明らかにされた。何れも千曲川沿岸の後背低地に立地する遺跡であるが,近年,これらの遺跡が高速道路・新幹線建設に伴って大規模に発掘調査されたことから新たな知見がもたらされた。本稿ではこれらの発掘調査成果を中心に善光寺平南部の古代水田の様相を紹介するものである。近年の調査成果で注目される点は,9世紀末の洪水砂で埋没した条里型水田跡が広範囲で調査されたこと,広域での半折区画の採用が知られたこと,さらに先行する古代水田跡が一部で確認されたことがある。また,9世紀末の埋没条里型水田が(8世紀末前後から)9世紀前半ころに成立したと推測されるものの,異区画水田が微妙な時期に存在した可能性が知られるようになり,条里型水田の出現が単一か,段階的なものか微妙な問題を生じている。この問題は所見に不確定なところがあって明確な問題として提起しにくいところもあるが,併せて触れる。
宮城, 弘樹
本論は,弥生時代から古墳時代に並行する沖縄貝塚時代の貝殻集積遺構のゴホウラやイモガイの炭素14年代測定結果を受け,沖縄諸島の在地土器編年に絶対年代を付与することを目的に整理・分析を行った。沖縄貝塚時代前期末の仲原式から同後期前半の阿波連浦下層式,浜屋原式,大当原式の4型式の土器が貝殻集積遺構とどのような関係で出土するのかについて整理を行った。その結果良好な出土状況を中心に分析し,仲原式が紀元前8世紀~紀元前5世紀,阿波連浦下層式が紀元前5世紀~紀元前2世紀後半,浜屋原式がおよそ紀元前2世紀後半~2世紀頃,そして大当原式がおよそ2世紀頃~6・7世紀に製作消費されたと結論付けた。
大橋, 康二 坂井, 隆 Ohashi, Koji Sakai, Takashi
インドネシアのジャワ島西部に位置するバンテン遺跡は16世紀から18世紀にかけて栄えたイスラム教を奉ずるバンテン王国の都であった。1976年以来,インドネシア国立考古学センター(The National Research Center of Archaeology)などにより,この地域の発掘調査が続けられ,膨大な量の陶磁片が出土した。これを整理した結果,25,076個体を産地,年代,種類毎に分類し得た。主に16世紀から18世紀の陶磁器であることは,バンテン王国の栄えた時代と符合する。この間も時期毎で陶磁器の産地,種類の割合・内容が変わる。Ⅰ期(15世紀以前)の陶磁器はほとんどなく,Ⅱ期(16世紀前半~中葉)になると,景徳鎮磁器が少量出土するが全体に占める割合は1%とまだ少ない。Ⅲ期(16世紀末~17世紀前半)からⅤ期(18世紀)の陶磁器は全体の89%を占め,バンテン王国の歴史を裏付けている。Ⅲ期の中でも,1590年代以降の中国磁器が多く,この時期には景徳鎮(35%)に加えて福建南部地方の磁器が加わり,45%を占めることになる。この頃,オランダ続いてイギリスもアジア貿易に参入した。Ⅳ期(17世紀後半~18世紀初)には1644年以降の明清の王朝交替に伴う内乱で中国磁器の輸出が激減したため,肥前陶磁器の輸出が始まり,1683年までの間は中国磁器より量的に多いと思われる。1684年に貿易の禁止が解かれると再び中国磁器の輸出が盛んになる。Ⅴ期(18世紀)の前半は再び多量に輸出されるヨーロッパ向け景徳鎮磁器に圧倒されながらも,肥前(有田)磁器の輸出は残る。景徳鎮と肥前の製品はヨーロッパ向けが主であり,東南アジア向けの製品は福建・広東系磁器がⅣ期に引き続き主体である。Ⅵ期(18世紀末~19世紀)の中でバンテンがオランダによって破壊された歴史を裏付けるように,中国磁器はこの時期の前半のものが少量見られるだけである。
小島, 道裕 Kojima, Michihiro
飛騨の国人領主江馬氏は、庭園を伴う館で知られている。まず文献史料で考察すると、南北朝初期から将軍に近侍し、遵行指令を受け、中央と密接な関係を持っていたが、一五世紀後半には自立した地位を持つことが知られ、一六世紀には荘園関係の史料には見えなくなる。一方遺構は、一四世紀末~一五世紀前半に、「花の御所」を模倣した館が営まれるが、一五世紀後半には山城などに機能が分散し、一六世紀には館としての機能が廃絶する。こうした現象は他の国人領主の館にも見られることが知られてきており、国人領主が全国的な体系の中で存在していた一五世紀前半から、領域的な領主として自立する一五世紀後半以降への変化と言える。この変化の中で衰退した国人も多く、逆に一四世紀中葉~一五世紀前半には中央と地方の国人の間の安定した関係があったと言え、これを「室町期荘園制」の一面と見なすことができる。
Кoнaгaя, Юки
本稿は,19 世紀末から 20 世紀初頭にかけてモンゴルを訪問したさまざまな調査隊が撮影した写真について,研究上の重要な資料として利用されるように概要を紹介するものである。一次資料となる写真は各国のアーカイブなどで保管されているため,国別に扱う。具体的には,ロシア地理学協会などの地理学協会や,北欧諸国の博物館など,調査隊の派遣元や資料の所在地ごとに写真コレクションを紹介する。こうした総合的な紹介は,とりわけコレクションの横断的な比較分析研究に寄与するであろう。
坂上, 康俊
畿内,東国,北部九州の古代集落は,8世紀の安定期を終えた後に,それぞれ異なった展開をたどる。すなわち,畿内では9世紀に入ると不安定化し,東国では10世紀に入って衰退するのに対し,北部九州では9世紀初頭に衰退してしまうのである。しかし,衰退したり不安定化したりする原因については,あまりはっきりとしていない。集落の衰退・消滅の背景を探るには,まずは個々の遺跡の景観を復原していくことから始めるしかあるまい。本稿では,福岡市教育委員会が刊行した発掘調査報告書の悉皆調査を踏まえて,福岡平野の中心部を貫流する御笠川左岸の低位段丘上に,8世紀初頭から末まで稠密な集落群が営まれたことを確認した上で,その住人たちの食料生産の基盤であった可能性がある御笠川左岸の低湿地・微高地,及び右岸の低湿地・微高地上の水田や集落の展開を追ってみた。その結果,8世紀末から9世紀初頭にかけて起こった大洪水によって水田面が広範に埋没したことが周辺住民の生産基盤を破壊し,これが原因となって集落が途絶えたのではないかと考えた。御笠川右岸には延暦年間に設定された観世音寺の荘園があったが,同じ場所が勅旨田とされてしまったのは,そこが洪水によって埋没してしまい,荒廃してしまったためであろう。この水田面は厚い洪水砂によって一旦埋められ,再開発は容易ではなかった。現地は貞観年間でも,ところどころに新開田や再開発田が点在する景観だったことが文献史料から窺えるのである。このように,福岡市の中心部分にあった古代集落に関しては,その衰退の大きな原因が水害という自然災害にあったことを,発掘調査の結果と文献史料とを総合して明らかにすることができ,その復旧が容易ではない状況も,関連史料によって説明することができた。
武光, 誠
古代日本の太政官制は、十世紀前半に大きく変えられているが、この論文は、最近の研究をとり入れつつ、そのことの意味を考えたものである。律令にさだめられた太政官の制度は、いくつかの官吏がそれぞれの権限に従って政治を分担するものであった。ところが、その方式が十世紀前半までに、十人ていどの上卿が、集団で政務を分担する形にかえられていった。このような転換は、九世紀はじめに外記政の形の太政官政治がつくられ、そこで南所申文が始められたことをきっかけにおこった。このとき、外記宣旨が出されるようになった。この動きとともに、所々が太政官にかわって政治を担うようになっていった。さらに、九世紀末に陣申文がはじまり、弁官宣旨がうまれた。そして、十世紀前半の藤原忠平のもとで、上卿が国政を分担し、彼らが弁官宣旨の形で命令を発する形が確立していった。この動きを明らかにしたのが、この論文である。
春成, 秀爾 Harunari, Hideji
炭素14年代を測定し,暦年較正した結果によると,北部九州の弥生前期の板付Ⅰ式は前780年頃に始まる。南四国も前8世紀のうち,板付Ⅱa式併行期に始まる中部瀬戸内の前期は前7世紀,近畿の前期は前7~6世紀に始まる。すなわち,弥生前期は西周末頃に併行する時期に始まり,前380~350年の間,戦国中期に終わる。弥生前・中期の展開を考古学的に追究するうえで,青銅器の年代は重要な意味をもっている。日本出土の青銅器のうち年代がはっきりしている最古例は,福岡県今川遺跡出土の遼寧式銅剣の鋒と茎を銅鏃と銅鑿に再加工した例であって,板付Ⅰ式に属する。同様の例は朝鮮半島では忠清南道松菊里遺跡などから出土しているので,ほぼ同時期と考えてよいだろう。松菊里式の較正年代は前8世紀であるので,板付Ⅰ式の炭素年代とも整合する。青銅器鋳造の開始を証明する根拠は鋳型の出土である。現在知られている資料では,近畿では和歌山県堅田遺跡から銅鉇の鋳型が前期末の土器とともに見つかっている。北部九州では,福岡県庄原遺跡の銅鉇の鋳型が中期初めないし前半の土器と出土している。また,中期初めの甕棺墓に副葬してあった銅戈に朝鮮半島の銅戈と区別できる北部九州独特の型式が知られているので,中期初めには青銅器の鋳造が始まっていたとみられる。弥生前期の存続期間が著しく延びたので,北部九州の中期初めと近畿の前期末とが実年代では一部重なっていないかどうかの検討が必要である。銅鐸は愛知県朝日遺跡から最古型式の銅鐸の鋳型が中期初めの土器とともに見つかっている。同時期の石川県八日市地方遺跡出土の木製竪杵のみに知られている独特の羽状文を身に施しているので,北陸の集団も関与して銅鐸が創出されたことは確かである。朝日遺跡から出土した銅鐸鋳型だけでは,最古の銅鐸の鋳造が中期初めに濃尾平野で始まったとまでは断定できないとしても,きわめて重要な手がかりが得られたことはまちがいない。
鈴木, 靖民 Suzuki, Yasutami
『魏志』韓伝に引く「魏略」の1世紀後半,辰韓で採木労働に従う漢人の説話は鉄の採掘・鍛冶生産を示唆する。ついで,3世紀の韓では首長層のほか,多数の住民である下戸たちによる魏との多元的な交易が行われた。弁辰では鉄を産し,それを韓・濊・倭が取り,また楽浪・帯方二郡に供給したが,交易には外交・軍事上の意味もあり,鉄加工技術や消費先を確保できる公権力や首長層が関与した。倭の交易主体は倭王や首長であるが,実際の荷担者は倭人伝に見える対馬・一支の「船に乗り南北を市糴する」交易集団と同類の人々である。この鉄の収取と再分配・互酬により弁韓中枢の狗邪韓国(任那加羅)の首長層が諸韓国のネットワークをつくり,さらには流通機構センターと化し,4世紀以降も鉄をはじめ,陶質土器・甲冑・馬匹などの多彩な文化と,諸民族集団の行き交う東アジア有数の広域流通の中心地として展開する。2世紀末頃の倭国の乱は鉄素材・鉄製品の輸入ルートをめぐる西日本の首長同士の争いである。楽浪や諸韓国との交流により社会の階層化を進める北部九州の首長たちに対する,山陰・瀬戸内沿岸・近畿の後発的な社会の首長の戦いであり,その結果,後者が鉄の流通と技術移転を通じて優位に立つ。こうして成立した倭の王権は鉄・金属資源と渡来人の受容・管理・分配の繰り返しにより,各地首長層との結合が維持されるが,それが王権のファンダメンタルズを強く規定するのである。同じ頃,弁韓でも鉄の入手をめぐって覇権争いが起こり,抗争の解決策として,外来王的な辰王が推戴された。弁韓の鉄の争いが倭に影響を及ぼしたのであろう。それ以後,4世紀後半から5世紀にかけて,朝鮮半島での戦争を含む情勢下にあって,倭王権は危機にさらされる加耶・百済に加担する国際路線を絶えず継承することになる。だが,5世紀末6世紀初めに日本列島で鉄精錬が可能になると,倭と加耶,加耶と新羅の関係,ひいては東アジアの諸関係も大きく変化するのである。
小林, 謙一 福海, 貴子 坂本, 稔 工藤, 雄一郎 山本, 直人 Kobayashi, Kenichi Fukuumi, Takako Sakamoto, Minoru Kudo, Yuichiro Yamamoto, Naoto
北陸地方石川県の遺跡では,縄文晩期中屋サワ遺跡,縄文後期~晩期御経塚遺跡,弥生の八日市地方遺跡,弥生中期大長野A遺跡,弥生後期月影Ⅱ式期の大友西遺跡のSE14井戸出土土器付着物の炭素14年代を測定した。ここでは,小松市八日市地方遺跡の弥生前期・中期の土器付着物の年代測定研究を中心に較正年代を検討し,時期ごとの実年代を推定して,近畿地方及び東北地方との対比を行う。中屋サワ遺跡では,土器付着物・漆などを測定し,おおよそ土器編年に合致した測定値を得ている。弥生時代の八日市地方遺跡についても遺跡内での土器編年におおよそ合致している。大まかに近畿地方の弥生土器様式編年と対比させるならば,弥生Ⅰ期 八日市地方遺跡1・2期が相当する。前6~前4世紀前半。弥生Ⅱ期 八日市地方遺跡4・5期が相当する。前4世紀後半から前3世紀はじめ。弥生Ⅲ期 八日市地方遺跡6~8期が相当する。前3世紀から前2世紀はじめ。弥生Ⅳ期 八日市地方遺跡9・10期が相当する。前2世紀。となる。大長野A遺跡もおおよそ前3~前1世紀の較正年代が多く,弥生中期後半として矛盾はない。大友西遺跡のSE14井戸は,スギ材を光谷拓実氏が年輪年代測定を行い,伐採年が145年と判明している。共伴した土器付着物の測定では,後1~3世紀が多く,最も多いのは後2世紀末から3世紀前半となっている。
東泉, 裕子 高橋, 圭子 Higashiizumi, Yuko Takahashi, Keiko
本研究では、各種コーパスを利用し、近現代語における「もちろん」の用法を調査した結果を報告する。調査の結果、次の3点が明らかになった。(i)19世紀末から20世紀初頭にかけて、中世以来中心的であった名詞述語用法の割合が減少し、副詞としての用法(副詞用法、譲歩用法、応答用法)が増加した。(ii)現代の会話では「もちろん」単独の形式や畳語の形式による感動詞的な応答用法が観察される。(iii)近現代には「〜はもちろん(のこと)…も/まで(も)」という尺度含意用法や、「もちろん…〈逆接表現〉…」といった譲歩用法などが定型化した。
坪根, 伸也
中世から近世への移行期の対外交易は,南蛮貿易から朱印船貿易へと段階的に変遷し,この間,東洋と西洋の接触と融合を経て,様々な外来技術がもたらされた。当該期の外来技術の受容,定着には複雑で多様な様相が認められる。本稿ではこうした様相の一端の把握,検討にあたり,錠前,真鍮生産に着目した。錠前に関しては,第2次導入期である中世末期から近世の様態について整理し,アジア型錠前主体の段階からヨーロッパ型錠前が参入する段階への変遷を明らかにした。さらにアジア型鍵形態の画一化や,素材のひとつである黄銅(真鍮)の亜鉛含有率の低い製品の存在等から,比較的早い段階での国内生産の可能性を指摘した。真鍮生産については,金属製錬などの際に気体で得られる亜鉛の性質から特殊な道具と技術が必要であり,これに伴うと考えられる把手付坩堝と蓋の集成を行い技術導入時期の検討を行った。その結果,16世紀前半にすでに局所的な導入は認められるが,限定的ながら一般化するのは16世紀末から17世紀初頭であり,金属混合法による本格的な操業は今のところ17世紀中頃を待たなければならない状況を確認した。また,ヨーロッパ型錠前の技術導入について,17世紀以降に国内で生産される和錠や近世遺跡から出土する錠の外観はヨーロッパ錠を模倣するが,内部構造と施錠原理はアジア型錠と同じであり,ヨーロッパ型錠の構造原理が採用されていない点に多様な技術受容のひとつのスタイルを見出した。こうした点を踏まえ,16世紀末における日本文化と西洋文化の融合の象徴ともいえる南蛮様式の輸出用漆器に注目し,付属する真鍮製などのヨーロッパ型の施錠具や隅金具等の生産と遺跡出土の錠前,真鍮生産の状況との関係性を考察した。現状では当該期の大規模かつ広範にわたる生産様相は今のところ認め難く,遺跡資料にみる技術の定着・完成時期と,初期輸出用漆器の生産ピーク時期とは整合していないという課題を提示した。
上原, 真人 Uehara, Mahito
額田寺では伽藍中枢に発掘のメスが及んでいないために,古代の堂塔にともなう瓦の実体は,ほとんどわかっていない。そのため,偶然採集された瓦など2次資料を主な材料に,額田寺の歴史と性格を検討せざるを得ない。検討に際しての方法論的な原則なども,あわせて言及した。額田寺の創建瓦である素弁六葉蓮華紋軒丸瓦は,従来「古新羅系」と評価されている。しかし,7世紀前半の日本の瓦の系統論には,解決すべき問題点がある。これに続く瓦は,中河内を中心に分布する西琳寺系列山田寺式軒丸瓦で,斑鳩地域の他の寺院には類を見ない。額田寺建立氏族が大和川舟運と密接に関わっていたことを示す。出土瓦から,古代額田寺は,7世紀前半に創建され,7世紀未にかなり整備されたことがわかる。この経緯は,法隆寺・法輪寺・法起寺など斑鳩地域の他の古代寺院と同じである。事実,軒瓦の紋様は各寺院ごとに独自の笵で製作しているが,7世紀末には法隆寺式軒瓦を共有する「斑鳩文化圏」内の一寺院として額田寺を位置づけることができる。しかし,「額田寺伽藍並条里図」に描かれた額田寺の伽藍は,中門の両側から延びる回廊が金堂にとりつき,中門と金堂の間に儀式空間を構成している。8世紀の平城宮遷都後に成立した伽藍配置である。法隆寺や法輪寺・法起寺など,斑鳩地域の他の寺院の伽藍配置とは決定的に違う。額田寺で最も多数出土している瓦は,外区に唐草紋がめぐる単弁八葉蓮華文軒丸瓦と平城宮系の唐草紋軒平瓦で,これが「額田寺伽藍並条里図」に描かれた伽藍配置の成立と密接に関わる。ただし,その伽藍が7世紀末までに造営した建物を全面的に建替えて成立したのか,それとも旧建物を取り込む形で,伽藍計画に変更を加えたのかは,今後の伽藍中枢部の発掘成果を待つほかはない。
今村, 峯雄 中尾, 七重 Imamura, Mineo Nakao, Nanae
歴史時代の資料研究には精度の高い年代測定が求められるため,特にウィグルマッチ法(wiggle-matching method)による炭素14年代測定が有効である。本研究は,ウィグルマッチ法による炭素14年代測定(14Cウィグルマッチ法)を,具体的に三つの国指定重要文化財の民家,神奈川県関家住宅・兵庫県箱木家住宅・広島県吉原家住宅に適用した事例の報告である。その意義については本課題のその1で述べられている。ここでは,方法論的技術的な観点を中心に記述した。重要文化財関家住宅では,主屋3点および書院1点から得られた旧柱材4点で測定を行った。これらの柱材からそれぞれ年輪5-7試料を採取し,それぞれについて炭素14濃度測定を行い,ウィグルマッチ法で最外層の年代を推定した。これらは加工によって辺材部分を欠いていると考えられるが,この部分の年輪数を仮定することで,主屋の2点が17世紀前半,1点は16世紀,また,書院は17世紀中頃の材と推定された。同様な方法で,重要文化財箱木家住宅の柱材(年輪数11,芯持材で当初材)は13世紀末から14世紀前葉,あるいは14世紀後葉,また板材(現場で微小試料を採取)は14世紀中葉あるいは15世紀前葉と推定された。すなわち箱木家は少くとも14世紀ころの建造と考えるのが妥当である。重要文化財吉原家住宅では,2点の柱材のうち1点は18世紀初頭,別の1点は16世紀あるいは17世紀中葉を示す結果となった。以上みたように14Cウィグルマッチ法は古民家の建築年代を従来にない精度で絞り込める可能性を示す一方で,解体修理などから得られた情報(当初材の識別など)との整合性の把握など,総合的な取り組みの重要性,また,資料群の中に樹皮に近い資料を確保するべきであること,測定データの一層の精度向上を企てるべきであるなどの課題が指摘された。
鈴木, 茂 Suzuki, Shigeru
神奈川県鎌倉市においては,12世紀末の鎌倉幕府開府以来,それまでの農村的イメージから軍事都市へと急変した。この鎌倉の発展にともなって行われた大規模な土地開発と木材利用により鎌倉周辺の森林は多大な影響をうけたことが花粉分析から明らかとなってきた。以下に,(1)永福寺跡,(2)北条高時邸跡の花粉分析結果を示し,鎌倉における鎌倉時代の森林破壊について述べる。 (1)永福寺跡 13世紀初めから前半頃まではスギ,コナラ属アカガシ亜属,シイノキ属―マテバシイ属が優勢であった(花粉化石群集帯Y-Ⅰ)。13世紀中頃から後半の期間はスギが衰退し,マツ属複維管束亜属とコナラ属コナラ亜属が増加した(Y-Ⅱ)。13世紀後半以降ではアカガシ亜属やシイノキ属―マテバシイ属も衰退し,マツ属複維管束亜属が優占するようになった(Y-Ⅲ)。 (2)北条高時邸跡 13世紀前半まではスギ,アカガシ亜属,シイノキ属―マテバシイ属が優勢であった(花粉化石群集帯H-Ⅰ)。13世紀後半~14世紀?の期間はスギ,アカガシ亜属,シイノキ属―マテバシイ属が衰退し,ニレ属―ケヤキ属,エノキ属―ムクノキ属が優勢となり,マツ属複維管束亜属も増加した(H-Ⅱ)。15世紀以降ではニレ属―ケヤキ属,エノキ属―ムクノキ属も衰退し,マツ属複維管束亜属が優勢となった(H-Ⅲ)。このように,13世紀の前半から後半にかけて鎌倉の森林植生が大きく変わることが明らかとなってきた。この期間の鎌倉は大きく発展し,都市整備が盛んに行われた。また,鎌倉の発展にともない木材利用も増大した。以上のように,開府後しばらくした13世紀前半から後半にかけて鎌倉では都市整備・木材利用などにより植生破壊が進み,スギ,アカガシ亜属,シイノキ属―マテバシイ属からマツ属複維管束亜属へと植生の交代がみられた。
井上, 章一
日本に、いわゆる西洋建築がたちだすのは十九世紀の後半からであり、当初は伝統的な日本建築の要素ものこした和洋折衷のものがたくさん建設されている。文明開化期に特徴的なのは、そんな建築のなかに、近世城郭の天守閣を模倣した塔屋をもつデザインのものが、とりわけ金融関係の施設でふえだした点である。じゅうらいは、それを、近代のブルジョワが、封建時代の領主にあこがれてこしらえたのだと、解釈してきたが、拙論では、そこへもうひとつべつの可能性をつけ加えている。十八世紀後半ごろから、織田信長以後の天守閣を、南蛮渡来の建築様式だとみなす見解が普及し、その考え方は、十九世紀末まで維持された。明治維新後、文明開化期につくられた西洋をめざす建築に、天守閣形式の要素がまぎれこんだのも、それがなにほどか南蛮風、西洋的だと思われていたことに一因があるのではないかとする仮説を、ここではたててみたしだいである。
蓑島, 栄紀
最近,知床半島における神功開宝の出土,根室半島での秋田産須恵器の出土などの新たな知見により,8~9世紀の本州・国家と北海道との交流の様相が改めて脚光を浴び,そのなかで出羽国・秋田城の果たした役割も問いなおされている。7世紀後半に発端する倭・日本の日本海ルート重視の北方政策は,北海道と本州北部との交流の変遷にも影響を及ぼした。8世紀には,続縄文文化期以来の在地的な交流を基盤とする太平洋側ルートが存続したが,秋田城における朝貢・饗給の定例化に伴い,9世紀初頭までに日本海ルートが卓越し,北海道と本州北部との交流は秋田城交易に収斂される。秋田城の構造や,横走沈線文土器,須恵器の出土状況などもこうした想定を裏付ける。その一方で,9世紀の秋田城交易は,王臣家・国司や富豪層らの独自の経済活動を内在し,より多様化する兆候をみせていた。9世紀初頭の改修に伴う秋田城の構造変化は,同時期における朝貢・饗給の質的変化と連動していた可能性がある。秋田城が北方世界の「交易港」として機能した8世紀中葉~9世紀の期間,これに寄生・便乗しつつ生まれた経済的・社会的な諸関係は,秋田城交易の内実を変質させ,9世紀末~10世紀に進展する次代の北方交易体制を準備した。9世紀の秋田城交易には,同時代に東アジア海域の国際交易に乗り出していた新羅・唐の海商が関心を寄せていた形跡もある。承和期に北部九州で新羅人張保皐との国際交易をおこなった文室宮田麻呂は,奥羽社会に深い関係をもつ文室大原や綿麻呂らと近親であり,近江を拠点に北方世界との交易に関与していた蓋然性がある。文室氏のような王臣家の活動を介して,古代の秋田城とその周辺は,北方世界と東アジア海域の国際交易をつなぐ接点としての側面をみせることがあったのである。
安里, 進 Asato, Susumu
20世紀後半の考古学は,7・8世紀頃の琉球列島社会を,東アジアの国家形成からとり残された,採取経済段階の停滞的な原始社会としてとらえてきた。文献研究からは,1980年代後半から,南島社会を発達した階層社会とみる議論が提起されてきたが,考古学では,階層社会の形成を模索しながらも考古学的確証が得られない状況がつづいてきた。このような状況が,1990年代末~2000年代初期における,「ヤコウガイ大量出土遺跡」の「発見」,初期琉球王陵・浦添ようどれの発掘調査,喜界島城久遺跡群の発掘調査などを契機に大きく変化してきた。7・8世紀の琉球社会像の見直しや,グスク時代の開始と琉球王国の形成をめぐる議論が沸騰している。本稿では,7~12世紀の琉球列島社会像の見直しをめぐる議論のなかから,①「ヤコウガイ大量出土遺跡」概念,②奄美諸島階層社会論,③城久遺跡群とグスク文化・グスク時代人形成の問題をとりあげて検討する。そして,流動的な状況にあるこの時期をめぐる研究の可能性を広げるために,ひとつの仮説を提示する。城久遺跡群を中心とした喜界島で9~12世紀にかけて,グスク時代的な農耕技術やグスク時代人の祖型も含めた「グスク文化の原型」が形成され,そして,グスク時代的農耕の展開による人口増大で島の人口圧が高まり,11~12世紀に琉球列島への移住がはじまることでグスク時代が幕開けしたのではないかという仮説である。
大橋, 信弥 Ohashi, Nobuya
西河原木簡をはじめとする近江出土の古代木簡は、量的には多くないが、七世紀後半から八世紀初頭の律令国家成立期の中央と地方の動向を、具体的に検討するうえで、重要な位置を占めている。そして、近江には多くの渡来系氏族と渡来人が、居住しており、近江における文字文化の受容にあたって、渡来人の役割は無視できない。近江の渡来系氏族のうち、倭漢氏の配下である漢人村主の志賀漢人一族は、五世紀末から六世紀の初頭ごろに、河内や大和から大挙この地に移住し、琵琶湖の水運を活用した物流の管理などで、活発な活動を進めた。志賀漢人たちは、当時の蘇我氏が領導する政府の指示により、近江各地に所在した施設に派遣され、湖上交通を活用した物流ネットワークを構築し、主として文書・書類(木簡)の作成にあたっていたとみられる。彼らが、中央で活動する渡来系氏族・渡来人集団とともに、故国である韓半島における文字文化を、素早く受容し共有していたことは、近江の各地で作成され木簡などの文字資料から確認できる。近江出土の古代木簡でもっとも古い、大津市北大津遺跡出土の「音義木簡」が和訓の試行的な段階を示しているのは、この地に居住する渡来人集団、志賀漢人が、五世紀末以来、この地域に移住し活動する中で、中央で達成された行政的な文書の作成技術を導入し、様々な工夫を行ったことを示している。また野洲市西河原遺跡群出土木簡は、この地に所在した施設の運営のため派遣された、志賀漢人の一族の関与を具体的に示している。彼らは、陸上交通(初期の駅路)と琵琶湖の水上交通を利用した、物流・交易の運営を行っており、さらに織物工房・鍛冶工房・木器工房などが付属していた。ここでは、徴税の関わる業務や出挙=貸稲に関わる管理業務が行われており、倉庫群から出土した木簡から、その出納にかかる具体的な運営過程を復元できる。その施設は、初期の野洲郡家(安評家)で、駅の機能も併せ持っていたことが推定される。そして、宮ノ内六号木簡に見える「文作人」石木主寸文通は、「倉札」の作成者であり、この地に居住する志賀漢人一族が、文書の作成に携わっていたことを明確に示している。
髙田, 宗平 Takada, Sohei
日本古代の『論語』注釈書の受容について、日本史学では『論語集解』のそれに関しては研究が見られるものの、『論語義疏』については等閑に付されてきた。このことに鑑み、『論語義疏』を引用する日本古代典籍の性格、成立時期、撰者周辺の人的関係を追究すること、古代の蔵書目録から『論語義疏』を捜索すること、古代の古記録から『論語義疏』受容の事跡を渉猟すること、等から、日本古代の『論語義疏』受容の諸相とその変遷を検討した。『論語義疏』は、天平一〇年(七三八)頃には既に、日本に伝来しており、奈良・平安時代を通じて、親王・公卿・中下級貴族・官人・釈家に受容され、浸透していた。八~九世紀では「古記」・「釈」・「讃」の撰者である明法官人によって律令解釈に、一〇世紀末~一一世紀初頭に於いては皇胤である具平親王が『止観輔行伝弘決』所引外典の講究のために、更に、一一世紀前半では明法博士惟宗允亮が朝儀・吏務の先例を明らかにするために、右大臣藤原実資が有職故実の理解のために、それぞれ『論語義疏』を利用していた。また、釈家では、九世紀で空海、一〇世紀で法相宗興福寺の中算が『論語義疏』を利用していたが、一一世紀後半に至ると、仏典を始め多様な日本古典籍に『論語義疏』が利用された。そして、一二世紀前半では、左大臣藤原頼長が幾多の漢籍を講読したが、その一つとして『論語義疏』を講読していた。就中、具平親王の周辺や藤原頼長の周辺に、文才に長けた公卿並びに中下級の貴族や官人である文人・学者が集まり、両者はともにそれぞれの時期の論壇の中心となって、漢籍・漢学の講究・談義が行われた。そこに於いて、講読されていたものの一つが『論語義疏』である。
磯田, 道史
日本の武士社会では、養子が家を継ぐことが、しばしばある。しかも、日本の養子制度は中国や朝鮮の制度と異なり、必ずしも、同じ家の成員でなくてもよい。しかも、養子が、当主(家父長)になって、その家を継承・相続する点が特徴的である。この東アジア社会では特異な制度は、日本近世の身分制社会にとって、どのような意味を持ったのであろうか?一八世紀末から一九世紀末の武士の養子制度について、長門国清末藩(山口県下関市)の侍の由緒書(家の歴史記録)と分限帳(名簿)をもとに、分析した。その結果、次のことが、明らかになった。 (1) 養子相続の割合は三九・〇%にのぼる。そのうち、家名が異なる者が養子になった割合は、三四・二%であった。 (2) 同じ身分や階層のなかで、閉鎖的に、養子が交換されている。養子の出身をしらべると、八五%は同じ清末藩士の子であった。武士の子が約九九%で、残りの約一%は僧侶や医者の子であった。同じ武士でも、藩で決めた家のランクが同じ、もしくは、一ランクだけ違う武士の間で、主に養子が交換されている。禄高が二倍以上離れた家が養子をやりとりする例は少ない。 (3) そのため、養子制度をつかって、個人が大きな社会移動をするのは難しかった。日本の武士社会では、父の禄高が子の禄高に与える影響は絶大であった。父の地位の影響力をパス係数でみると、実子の場合、〇・九におよぶ。他の家に養子に出た場合でさえ〇・五であった。 もし、養子の制度がなければ、日本の武士の家は、一〇〇年で七〇%以上が途絶えたはずである。しかし、養子制度があるため、武士の家は途絶えず、新たな家が支配層に参入する機会を少なくしていた。日本の養子制度は、同じ階層内で武士を再生産する制度であったため、重要な例外を除いて、直ちに身分制度をゆるめるものではなかった。むしろ、既に支配層にある特定の家々の人々が、永続的にその地位を占めつづけるのに、役立っていたと指摘できる。
張, 元哉 CHANG, Won jae
現代韓国語において,日韓同形漢語が多いことの理由の一つに,近代以降,多量の日本製漢語が韓国語に取り入れられたことがあげられている。しかし,近代語におけるその実態は明らかにされていない。本稿は,日韓語彙交流史の19世紀末に焦点をあて,同形漢語や日本製漢語の実態を調査したものである。1895・6年の『国民小学読本』(近代最初の国語教科書)と,『独立新聞』(近代最初の民間新聞)における漢語(3621語)のうち,同時期の日本語の資料に見られる同形漢語は,2393語で66,0%を占めている。そのうち,同義である2290語の各語において中国・日本・韓国の資料を調べ,それぞれの用例の有無を確認し,出自の判断を行った。その結果,日本製漢語と思われる語は,229語であり,10%を占めていることが明らかになった。
山内, 晋次
現在の文献史学研究において,日宋・日元貿易期(10世紀末~14世紀半ば)の日本と中国を結ぶ幹線航路が,博多―舟山群島―明州(慶元)・杭州という「大洋路」とも呼ばれる東シナ海横断ルートであるという点は,現存史料による限り動かし難い結論であろう。ところが,14世紀中葉の元明交代期になると,文献史料のなかに(博多―)肥後高瀬―薩摩―琉球―福建という,南西諸島を経由して中国東南部の福建地域とつながる「南島路」とでも呼ぶべき航路に関する記録があらわれる。本稿では,南西諸島を含む日本列島と中国の間でおこなわれた硫黄交易史の視野を主軸としつつ,文献史学・考古学双方の成果をすりあわせることにより,この「南島路」の一側面を考察した。そして,その結果,沖縄の硫黄鳥島が中国向けの硫黄鉱山として従来考えられているよりも古くから稼働し始めていた可能性や,その島で産出された硫黄が沖縄島に分立した諸王権と明王朝との政治・経済関係の形成の初発の時点においても軍需物資として重要な役割を演じていた可能性などを推定した。
深田, 淳太郎
パプアニューギニア,ラバウルに住むトーライ人はタブと呼ばれる貝殻貨幣を,婚資や賠償の支払い,儀礼での展示等のいわゆる慣習的な威信財としてのみならず,商品売買や税金・授業料の支払いなどの交換媒体としてまで広い目的で使用してきた。このタブの原料となるムシロガイの貝殻はラバウルの近辺では採れず,遠方から輸入されてくるものである。その輸入元はヨーロッパ人との接触があった19 世紀以降,何度かの変遷を経て,現在では隣国であるソロモン諸島の西部地域になっている。本稿ではまず,このラバウルへのムシロガイの輸入が現在までどのように行なわれ,またいかにそのかたちを変えてきたのかについての歴史的経緯を19 世紀末から1970 年代まで文献資料をもとに整理する。その上で1980 年代からのソロモン諸島からの輸入がはじまった経緯および,現在の輸入の具体的な状況について,2009–2011 年に実施した現地調査で収集した資料をもとに明らかにする。
黄, 智慧 稲村, 務(訳) Huang, Chih-huei Inamura, Tsutomu
本稿は人々の漂流と移動に関する3篇の史料から、15世紀末~19世紀初頭における沖縄の八重山群島と台湾の間にあったと思われる民族の接触と文化類縁関係について検討することを目的としている。まず、一篇は朝鮮の済州島民が与那国島から八重山群島に漂流した時の見聞の記録について、筆者は生活技術、社会制度と農耕文化において台湾東海岸の民族との類似性を確認した。二つ目の史料である八重山群島の編年史の記録のなかに17~18世紀初頭、八重山群島と台湾の渡航は比較的平和で、台湾は逃亡者や漂流者にとって安住の地であったと筆者は考えた。三つ目の史料から八重山の当局は「唐船」の密輸を取り締まる規程のなかに、宣教師の密航やキリスト教物品の密輸の取り締まりの対象に台湾から来た船が指定されており、ここから当時の双方の緊張した関係が推察できる。台湾東方の島々の間には目的を持たない漂流あるいは目的を持った人の移動があり、様々な国境を越えた社会的、文化的交流があったと結論付けることができ、今後、環東台湾海の島嶼民族史を再構築することは重要な研究課題となってくる。
義江, 明子 Yoshie, Akiko
金石文に立脚した記紀批判・王統譜研究を前進させるためには,氏族系譜の系譜意識を視野にいれ,かつ,刻銘の素材にこめられた観念と銘文を総合的に考察する必要がある。そこで,最古の氏族系譜である稲荷山鉄剣銘に焦点をあて,鉄剣に系譜を刻む意味を,銘文構成上重要な位置にあると推定される「上祖」の観念とその歴史的変化に注目して分析し,以下の四点を明かにした。①上祖は「始祖」とは異質の祖先表記で,七世紀末以前の地位継承次第タイプの系譜冒頭に据えられた祖である。「上祖」が「始祖」表記に移行するのは書紀編纂の頃である。②銘文刀剣を「下賜」という上下の論理のみで読み解くことには疑問がある。稲荷山鉄剣銘文は,王統譜接合以前の,「上祖」を権威の淵源とする原ウヂの側の自生的な系譜伝承世界をうかがわせる貴重な資料である。③七支刀の象嵌界線に顕著なように,刀剣の形状・呪力と刻銘内容は一体不可分である。鉄剣の鎬上に系譜を刻む行為には,霊剣の切先に天の威力を看取する神話,後世の竪系図の中央人名上直線との類比からみて,重要な信仰上の意味がある。④稲荷山鉄剣系譜を神話的系譜観の観点から考察すると,「地名+尊称」の類型的族長名をつらねた部分は,ウヂ相互の同時代における現実の同盟関係(ヨコの広がり)をタテの祖名連称(ウヂの歴史)に置き換えたものと推定される。これは,祖父―父―子という時系列血統観による父系系譜とは,全く異質の系譜観である。ここから,首長層の共有する観念世界をとりこみつつ,それを超越するものとして王統譜が形成され,七世紀末~八世紀初にかけて時系列直系血統観への転換がはかられることを見通し的に述べ,あわせて,歴史認識における〈始まり〉の設定,系図を通して過去と向き合う〈姿勢〉についてもふれた。
福田, アジオ Fukuta, Azio
日本の農業生産の場である耕地片は小さく、しかもその小さい耕地片がそれぞれ異なる農民によって所有され、あるいは耕作されているということは古くから知られていたことである。一九五〇年代を中心にした日本の社会経済史では、この分散零細耕地形状を封建制の表現、あるいは封建社会の基礎にあった共同体の存立基盤として把握し、その形成過程を明らかにする論が展開したことは知られている。それらの論が提出されて以降、近世の百姓が経営する耕地の存在形態は「零細錯圃制」であったと言うことが、必ずしも実証されることはないまま、一つの決まり文句として近世史研究では常識化したといえよう。しかし、耕地形状の研究が共同体論と深く結び付き過ぎていたために、共同体研究が下火になると共に関心が薄れ、研究は深まることがなかった。重要な研究課題が放置されたままになっているのである。本論文はあらためてこの問題を取り上げて、南関東地方の一村落における錯圃制耕地の形成過程を実証的に明らかにし、その結果から錯圃制耕地論の意義を考えようとするものである。この研究は地図上に具体的な水田の配置を描き、それをだれが所有しているかを記入することを一六世紀末から一九世紀にかけてのいくつかの年次について行い、その変化から考察するという方法を採用した。この村のもっとも古い水田の配置状況を知ることができる一六世紀末において村落は三軒の家で構成され、各家は屋敷と耕地を一括して所有するという一種の農場形式のあり方を示していた。その三軒から一七世紀中期には九軒の家に増加するが、その過程で屋敷と耕地の完全な一括性は崩れ、屋敷近くに田を確保しつつも、その他の離れた場所にもいくつかに分けて所有するという姿が一般化した。この結果として、近世の村落秩序の基礎に耕地の錯圃制があったことは明らかであるが、その形成過程にはそれまでの屋敷の放棄と新たな屋敷の設定による集落形成があったことに注目しなければならないであろう。そして、一七世紀後半は、各家が均等分割を繰り返しながら家数を増加させた時期であり、その均等分割が耕地の散在性を強め、いわゆる零細錯圃制をもたらした。それは屋敷が互いに隣接して設定することによるひと続きの集落景観の出現と対応している。家々の分立に際して生産条件を等しくしようとする判断が、田を交互に持つような形で徹底した均等分割を行わせており、ここに零細錯圃制が確定した。
村木, 二郎 Muraki, Jiro
奈良県天理市中山念仏寺墓地には中世から現代に至る九千基を越える石塔が存在する。これらは、一六〜一七世紀は背光五輪塔、一八世紀は舟形、一九世紀は櫛形、二〇世紀は角柱形と、時代とともに主要形式が変化していく。なかでも二〇〇年にわたって立てられる背光五輪塔は、中世から近世への転換期に盛行し、惣墓(共同墓地)形成過程をたどる好資料である。そこで、本稿では背光五輪塔に着目し、まず三型式一八類に分類する。そしてそれを基礎に、他形式の舟形、櫛形との比較を通し、石塔の形式・型式が多様化する現象を捉える。次に、石塔の大きさ、刻まれた法名(戒名)の分析によって、石塔形式(型式)の違いは格差を表現しており、それは石塔の造立数が増加する一七世紀末から起こる現象であることを示す。すなわち、誰もが石塔を立てられなかった当初は、石塔を立てることによって格差を表現していた。しかし造立数が増えるにつれ、人とは違った石塔を立てることにより格差を表すようになるのである。庶民層の墓で捉えられたこの現象は、この時期に庶民層の階層分化が進んでいることを考古学的に示している。また、ひとつの石塔に書かれる法名の数(人数)を手がかりに、石塔が個人のものから複数人のものに変わっていくにつれ、背光五輪塔が消滅していくことを示す。石塔には宗教的側面と機能的側面がある。いずれも重要であるが、機能面により大きな要因があり、ある形式が消滅していく過程をたどる。
日高, 薫
本稿は,18世紀末から19世紀初頭にかけて制作された西洋銅版画写しの輸出漆器のうち,風景を表したプラークに注目し,その原図と技法に関して検討を加えることによって,輸出漆器特有の問題の一端を示すことを目的とする。筆者はかつて,肖像図蒔絵プラケットの原図となった銅版画の同定と,両者の比較に基づいて,それらの制作事情に関する考察を加えたことがある。今回は,同様の手法で,風景図蒔絵プラークの特徴について考察し,一連の漆器に共通する問題を抽出したい。風景図蒔絵プラークの中で,共通する画家による銅版画を原画とする作例として,フランス人画家ジャン・バルボーが手がけた版画集に基づいたローマ景観図蒔絵プラークのシリーズを紹介し,多くの作例がまとまって注文された可能性を指摘する。さらに,ロシアの画家マハエフにちなんだ銅版画による作例を取り上げることにより,原図となった版画が蒔絵制作に際してどのように用いられたかを考察する。
勝田, 至 Katsuda, Itaru
近代の民俗資料に登場する火車は妖怪の一種で、野辺送りの空に現れて死体をさらう怪物である。正体が猫とされることも多く、貧乏寺を繁昌させるため寺の飼い猫が和尚と組んで一芝居打つ「猫檀家」の昔話も各地に伝わっている。火車はもともと仏教で悪人を地獄に連れて行くとされる車であったが、妖怪としての火車(カシャ)には仏教色が薄く、また奪われる死体は必ずしも悪人とされない。本稿の前半では仏教の火車と妖怪の火車との繋がりを中世史料を用いて明らかにした。室町時代に臨終の火車が「外部化」して雷雨が堕地獄の表象とされるようになり、十六世紀後半には雷が死体をさらうという話が出現する。それとともに戦国末には禅宗の僧が火車を退治する話も流布し始めた。葬列の際の雷雨を人々が気にするのは、中世後期に上層の華美な葬列が多くの見物人を集めるようになったことと関係がある。猫が火車とされるようになるのは十七世紀末のころと見られる。近世には猫だけではなく、狸や天狗、魍魎などが火車の正体とされる話もあり、仏教から離れて独自の妖怪として歩み始める。悪人の臨終に現れる伝統的な火車の説話も近世まで続いているが、死体をさらう妖怪の火車の話では、死者は悪人とされないことが多くなった。人を地獄に連れて行く火車の性格が残っている場合、火車に取られたという噂がその死者の評判にかかわるという問題などから、次第に獄卒的な性格を薄めていったと考えられる。
白石, 太一郎 Shiraishi, Taichirō
奈良盆地の東南の山間部に位置する宇陀地方の中世墓地については、最近の発掘調査によってその全容が明らかにされた例がいくつかある。それら中世末に廃絶し、遺跡化した墓地に対して、この地方には中世以来現在までその利用が続いている墓地がある。小論はこの両者を総合して考察することによって、中世の宇陀における葬制と墓制の展開過程を追求しようとしたものである。発掘された中世墓地はいずれも三〇基程度から九〇基程度の墓で構成されるもので、地上には石組をもち、多くはその上に五輪塔や箱形の石仏などの石塔類を立てていたらしい。またそれらの地下には、火葬骨を納めた火葬墓、火葬施設、土葬墓などがみられる。それらは一三世紀頃から一六世紀頃まで存続したもので、一五世紀以前には火葬墓が多く、それ以降には土葬墓が多くなる。また石塔類が多く立てられるのも一五世紀以後のようで、一六世紀前半までは五輪塔が、一六世紀後半には箱形石仏が用いられたらしい。一方現在まで続く墓地のなかにも多数の中世の石塔が遺存するものがあり、中世の段階では発掘された墓地と同様の景観・内容・性格をもっていたと考えられる。こうした宇陀の中世墓地は、いずれもこの地域の在地武士や有力農民の一統墓と考えられる。彼らが一三世紀頃になってこうした火葬墓地を営むようになる背景には、おそらく律宗などの下層僧侶の積極的な働きかけがあったのであろう。やがてこれらの墓地は次第に土葬の墓地に変化するが、さらに一六世紀後半になって織豊政権による支配秩序の変革が行われると、主として在地武士層により形成されていたこの地の中世墓地は大きな転機を迎える。その多くは廃絶して新しく成立した村の共同墓地に統合されたり、一部は地域の民衆墓をも含み込んだ地縁的な村墓に変質する。血縁関係を紐帯とする墓地から地縁関係を紐帯とする墓地に変化するのである。こうした墓地の再編成とともに葬・墓制自体も大きく変化する。それは村単位の埋め墓とは別に多くは家単位の詣り墓を営む両墓制の成立である。その成立の契機は、村を単位に行われる遺骸の処理と、家を単位に行われる祖先祭祀の矛盾の解消にあったと思われる。
義江, 明子
上野三碑の一つである金井沢碑文には、戸籍書式、古い系譜様式、新たに流入した仏教的祖先観、供養願文書式等の複合的影響がみられる。金井沢碑および山上碑の建立地は多胡郡(旧片岡郡)山部郷であり、そこが広義(異姓の双系血縁者を含む)の「ミヤケ」一族の本拠地だった。「現在侍家刀自他田君目頬刀自」は、「三家子□」(願主)の「妻」ではなく、「仏説盂蘭盆経」にいう「現在父母」の一人として、「三家子□」の現存する「母」の可能性をも含む母世代の近親老女であり、「ミヤケ」一族長老女性だった、と推定される。「加那刀自」は「目頬刀自」の児ではなく、「三家子□」の「児」であり、「物部午足」キョウダイも「三家子□」の「孫」(加那刀自またはその姉妹の子)である。七世紀末までの豪族層は、伝承的始祖と子孫を直結する氏族の系譜意識と、双系的父母につらなる身近な血縁意識の並存の中で生きていた。仏教用語「七世父母現在父母」はそこに新たな祖先観をもたらしたが、それはまず、旧来の系譜語りと重ね合わせる形で受容された。七世紀後半公定な「三家」姓(父系)の枠組みと、現実の双系的一族結合(異姓者を含む)とのズレに、国家的諸制度と仏教的祖先観の浸透が重なり、地域社会における祖先観は変容していった。七世紀後半から八世紀前半のこうした実相を考える上で、金井沢碑と山上碑は好個の資料である。
Komoto, Yasuko
エレーナ・ペトローヴナ・ブラヴァツカヤ(1831-1891,以下「ブラヴァツキー」)は、19世紀末から20世紀初頭の欧米において大きな影響力を持った神秘主義の啓蒙団体神智学協会の、協議を確立した人物の一人である。彼女の「宗教的、形而上学的嗜好」がチベットにあったことは、しばしば言及されるところである(オッペンハイム 1992:215)。例えば、彼女のニューヨークの居室は、「ラマ僧院」(lamasery)と呼ばれていた。しかし、その彼女の部屋に置かれた雑多な品々は、「東洋」を連想させるものではあっても、直接チベットにかかわりを持たないものが多かった。そしてそこに集う人間たちも、チベット人でも、チベット仏教の僧侶でもなかった。従ってその場所と、実際のチベットの事物、または現実の「ラマ僧院」との関連は不明瞭であるように見える。では、何がその場を「ラマ僧院」たり得るものとしていたのか。ブラヴァツキーをめぐる状況において、何が「チベット」として表象されるものとなったのか。本稿はそのありようを手がかりに欧米および日本におけるチベット・イメージの特徴を把握しようと試みるものである。
杉崎, 茂樹 Sugisaki, Shigeki
まず最初に,古墳時代後期の北武蔵各地域での前方後円墳の築造状況を概観する。北武蔵の90基ほどの前方後円墳は大半が後期の築造とみられ,後期に前方後円墳の築造が急激に増大する。特に,同時期のわが国全体でも,屈指といえる規模の大形前方後円墳が,前代までさしたる古墳のない埼玉県北部の行田市の埼玉古墳群と周辺地区に突然として出現し,およそ1世紀の間,築造が継続されることが特筆される。墳丘規模の卓越性から,その被葬者は畿内政権を後ろだてに広域を統治した新興の北武蔵の最高首長層だったと推定される。このほか各地域で後期に至り多くの中小規模の前方後円墳が出現しており,これらは大形前方後円墳の下位に位置する小地域首長層の古墳と考えられる。しかし,6世紀末ないし7世紀初頭段階に前方後円墳の築造は規模の大小を問わず停止するに至る。かわって有力首長層が自己の墳墓型式に採用したのは大形の円墳や方墳だった。こうした動きは,当時の畿内首長層の前方後円墳廃絶およびその後の造墓活動と対応した動きであった。次に,北武蔵での小首長層の台頭を物語る後期群集墳の消長は,大形前方後円墳の築造開始と期を一にして生起するものや前方後円墳の廃絶とほぼ同時期に生起するものなど一様でなく,個性がある。そして築造停止の時期もまた各様であるが,8世紀初頭までに築造が停止されている。こうした現象は同時に古墳の築造停止,すなわち古墳時代の終焉を意味し,その背景には古墳という葬制を介した地方勢力の統治がもはや畿内政権にとっても地方勢力にとっても形骸化したことを示す。すなわち,これにかわる律令的身分制度の波及が予想された。
福島, 正樹 Fukushima, Masaki
善光寺平(長野盆地)は,千曲川・犀川によって形成された最大幅10km,南北30km,面積300k㎡の長野県内で最も広い盆地のひとつである。この地域は,古代においては,更級・水内・高井・埴科の4郡があい接し,『和名抄』に記載された郷の数や式内社の数をみると,信濃国で最も分布の密度が高い地域で,早くから開発が進んでいたところである。本稿はこの地域の条里的遺構について,特に旧長野市街地に存在した条里的遺構について検討を加え,用水体系との関連から古代における開発について検討したものである。まず,この条里的遺構が旧長野市街地全体を覆う統一的なプランによっていること,この統一性は,用水体系からも裏付けられ,裾花川から取水された鐘鋳堰(川)・八幡堰(川)の計画的開削と合わせて施行された可能性が高いこと,施行の時期を直接示す考古学的データは今のところないが,更級郡の石川条里遺跡,高井郡の川田条里遺跡,埴科郡の更埴条里遺跡のいずれもが発掘調査の結果,条里地割の施行は8世紀末から9世紀初め頃であることが判明したことから,水内郡においても同様の時期と考えられることなどを論じた。また,近世以前の善光寺東門・西門を結ぶ線(現在の仁王門)が条里的遺構の上に乗り,近世には「中道」と呼ばれていたことから,この線が高井郡へと向かう古代の官道の系譜を引くものである可能性について触れた。最後に,以上の仮説から想定される8世紀から9世紀にかけての善光寺平の開発の諸段階について,現時点での考えを示した。
Kawai, Hironao
本特輯主要目的是從社會文化人類學(以下簡稱為人類學)與歷史學的角度,探討客家族群的重新建構過程。近年愈趨多數的客家研究開始關注 19 世紀後期到20 世紀前期期間客家概念的生成過程,原因在於 20 世紀後期,特別是上世紀 80 年代以來「非客家人」開始主張客家認同,其族群範圍的界定直到現在仍不斷變化。最近包括本特輯中的一些人類學家、歷史學家等作者也開始關心其現象,但其研究對象較偏向於中國大陸華南地區(瀨川・飯島編 2012; 河合 2013; 河合 2014; 飯島・河合・小林 2019: 197–201)。鑒於這種情況,本特輯主要聚焦 19 世紀後期到 20 世紀前期期間,客家族群範圍在台灣、雲南省、越南的變遷過程1)。根據一般公認的通說,客家是中國最大的民族・漢族的分支,分佈在中國南部和世界華僑華人社會各地。客家人起源於中國北部的中原,最早從紀元前開始,大部分從唐末以來,為了迴避戰亂而南遷。他們沿著山路南遷之後,落腳於華南地區的山岳地帶,也就是贛閩粵交界地區(後簡稱為交界區)。交界區是客家大本營,不少客家人從這一帶移民到中國大陸南部各地、港澳台、東南亞、大洋洲、中南美、環印度洋等。因為各地環境條件的不同,客家人呈現多樣性。但是一般客家人具有相同性質的語言(客家話)和文化(客家人),且持有優秀的民族性格,因此客家人中人才輩出,如洪秀全、孫中山、李光耀、鄧小平、李登輝等。―這是現今中華圈和日本的大眾書籍中所流傳的敘事2)。現在世界各地許多客家人相信以上的敘事,有時它成為客家族群認同的精神支柱。不用說客家老百姓,連一些客家研究者―特別是客家籍學者―也以上述的通說為前提從事客家研究。其中鞏固這種敘事基礎的學者是中國客家學之開鼻祖・羅香林。羅香林是一位民族學家、人類學家,他在 1933 年出版的《客家研究導論》通常被客家學者視為是客家研究的傳統典範,有時以上論述也被稱為羅香林模式。但是,進入 1980 年代以後不少歷史學家和人類學家開始質疑羅香林的學說,並提出各種不同的理論模式。如果現在有人參加正規的國際學術研討會強調羅香林模式―客家人的血緣起源於中原,客家話和客家文化獨具特色等―的話,他可能會被不少客家學者認為是個客家民族主義者,或是沒把握這 40 年客家研究發展的三流學者。那麼,自從上世紀80年代到現在客家研究有什麼樣的發展呢?本文首先簡單回顧客家族群論方面的主要論述3),在本特輯中試圖對過去的客家研究提出新的貢獻。
富田, 愛佳
本稿では『車里訳語』を材料として18世紀タイ・ルー語形とその音写漢字を対照させ、音写に使われた漢字音の音節初頭子音ならびに末子音の状況を分析した。その結果、音写に用いられた漢字音は、おおむね北方官話と同様の歴史的変化をたどっていること、また、音節末鼻音の音写状況などから、同漢字音は現代の雲南漢字音と似た特徴をもつこと、が明らかになった。現代の雲南漢字音は、地域によって、中古音にあったそり舌音と非そり舌音の区別を残しているものと、それを失ってしまったものとがある。タイ・ルー族の都であった景洪の漢字音は後者に属するが、音写に用いられた漢字音はこの区別を残しているため、別の地域の漢字音であった可能性が高い。
依岡, 隆児
ドイツ語圏における「ハイク」生成と日本におけるその影響を、近代と伝統の相互関連も加味して、双方向的に論じた。ドイツ・ハイクは一九世紀末からのドイツ人日本学者による俳句紹介と一九一〇年代からのドイツにおけるフランス・ハイカイの受容に始まり、やがてドイツにおける短詩形式の抒情詩と融合、独自の「ハイク」となり、近代詩の表現形式にも刺激を与えていった。一方、日本の俳句に触発されたドイツの「ハイク」という「モダン」な詩が、今度は日本に逆輸入され、「情調」や「象徴」という概念との関連で日本の伝統的な概念を顕在化させ、日本の文学に受容され、影響を及ぼしていった。こうした交流から、新たに「ハイク」の文芸ジャンルとしての可能性も生まれたのである。
後藤, 治 Goto, Osamu
本論は、絵画史料をもとに、平安時代末から江戸時代初頭にかけての店舗の建築とその変遷について検討したものである。中世前半までの初期の店舗は、通りを意識した建築として、おもに既存の町家を改造する形で生まれたと推定される。商品としては、食物・履物等の日用品を扱う店舗で、専門品を扱うものではなかった。店舗は、時代とともに棚を常設化した専用建築へと変化したが、中世前半までは通りとの関係はそれほど強いものではなかった。このため、鎌倉時代末には各地の都市で店舗がみられるようにはなっていたが、店舗が通りに面して軒を連ねる風景はみられなかったと考えられる。それが最初に確認されるのは、一六世紀前半に描かれた『洛中洛外図屏風』歴博甲本においてである。歴博甲本にみられる店舗は、専門品を扱うものが多数を占めており、商品を並べる棚は大きく、棚の構造は仮設的である。この歴博甲本にみられる店舗や棚には、中世に市が通りにおいて行われるようになったことからの影響をみることができる。ただし、歴博甲本にみられる店舗や棚は、通りの市を常設化したものというよりもむしろ、商家が、往来との取引を意識して、契約の場の前にサインとして設けたものと考えられる。一六世紀前半から近世にかけては、商品を陳列する棚と契約の場を、通りに面した部屋で兼ねる商家が多くなる。これによって、店舗の建築と通りとの密接な関係が確立し、近世の町家にみられる通りに面した部屋「ミセ」「ミセノマ」が生まれたものと考えられる。この変化によって、店という語そのものが、商品を置く棚を意味する語から、建物の内部を指す語へと変化した。同時に、商人が契約に使う家屋であった商家は、店舗を併用する商店へと変貌した。
若林, 邦彦 Wakabayashi, Kunihiko
大阪平野の弥生時代遺跡については,弥生時代中期末の洪水頻発の時期に大規模集落が廃絶し,集団関係に大きな変化が生じたといわれてきた。また,水害を克服する過程として,地域社会統合が確立し古墳時代社会への移行が進行するとも言われた。本稿では,大阪平野中部と淀川流域の弥生時代~古墳時代遺跡動態を検証して,社会変化・水害・集団と耕作地の関係について論じた。大阪平野中部では,弥生時代の流水堆積による地形変化は数百m規模でしか発生せず,集落と水田のセットが低湿地に展開する様相に変化はない。淀川流域で弥生~古墳時代の集落分布変化を検証すると,徐々に扇状地中部・段丘上・丘陵上集落の比率が増え,古墳時代中期には特にその傾向は顕在化する。これは,4世紀後半・5世紀に集落が耕作地から分離していく整理された集団関係への変化と読み取れる。また,この時期は降水量が100年周期変動で進行する水害ダメージを受けにくい時代でもある。地域社会統合は洪水の影響をうけにくい時期にこそ,その環境を利用してそれへの対応の可能な社会へと変貌するのである。社会構造変化の方向性と環境要因の複合要因により,地域社会の実態は変質していくと考えられる。
モートン, リース
恋愛の概念は、世紀末の日本において近代的繊細さが発展していく上で、大切な構成要素であるという認識が高まってきている。本論は、一八九五年から一九〇五年までの間に発行された総合雑誌『太陽』と同人雑誌『女學雜誌』を調べて、恋愛観がどう発展し、理解されていたかを検討するものである。これは、国際日本文化研究センターの鈴木貞美教授主催の共同研究「総合雑誌『太陽』」の一環である。ここでは、歴史上「恋愛」という観念が現れる現象的様式として、文化、特に文芸に焦点を当てている。『太陽』のような総合雑誌を経験的に検討することにより、文化・文芸史を書き換えていく基盤を築き、そして日本とヨーロッパの思想様式を比較文化的に検討する土壌を確立しようというものである。
高橋, 圭子 東泉, 裕子 TAKAHASHI, Keiko
「インターネットからお申込みされると便利です」「ご結婚されて,何年になりますか」など,近年,「お/ご~される」という形式が,尊敬表現として多用されている。しかし,この形式は,『敬語の指針』(2007)などでは不適切,誤用とされている。ただし,これまで実際の用例に基づく分析・考察は管見ではほとんど行われてきていない。「お/ご~される」は19世紀末に成立したとされている。本発表では,『日本語歴史コーパス』『現代日本語書き言葉均衡コーパス』などから近現代語の用例を収集し量的・質的に分析する。また,「お/ご~なさる」「お/ご~する」「お/ご~できる」といった関連する形式についても分析し,「お/ご~される」およびその周辺の,現代敬語における位置づけを考察する。
吉田, 広
『聆濤閣集古帖』鋒帖所収の弥生時代武器形品について,関連近世史料と近現代の考古学研究成果から詳細を検討し,各資料の来歴と考古資料としての特徴を明らかにした。『聆濤閣集古帖』所収にあたっては,考古資料自体ないし拓本,あるいは写本・刊本といった記録・図からの書写といった多様な媒体を通して資料の収集が図られていること,かつ書写の精粗や情報の変化・遺漏・混同等の生じていた状況を指摘した。さらに,近世における好古・集古盛行について,以後の継承も含めた歴史的変遷・系譜について概略整理を行い,『聆濤閣集古帖』は,18世紀末寛政期に吉田道可が藤貞幹と密接な関係をもって進めた好古・集古の成果,その嚆矢の一つと位置付けた。
山梨, 淳
本論は、日露戦争後の一九〇五年末に行われたアメリカ人のウィリアム・ヘンリー・オコンネル教皇使節の日本訪問に焦点をあて、二十世紀初頭に転換期を迎えつつあった日本のカトリック教会の諸動向を明らかにすることを目的としている。オコンネル使節の訪問は、日露戦争時に戦地のカトリック教会が日本により保護されたことに対して、教皇庁が明治天皇に感謝の意を表するために行われたものであるが、また日本のカトリック教会の現状視察という隠れた目的をもっていた。 幕末期より二十世紀初頭に至るまで、日本のカトリック教会の宣教は、フランスのパリ外国宣教会の宣教師によって独占的に担われてきたが、日露戦争前夜の時期には、同会の宣教活動は、近代国家の日本では十分な成果を挙げ得ないものとして日本人信者の一部に批判を投げかけられるようになっていた。長崎教区の一部の信者らは、慈善活動など下層階級への宣教事業に力を入れるパリ外国宣教会に不満を抱いて、学術活動に強いイエズス会の誘致運動を行い、教皇庁にその必要を主張する意見の具申すら行っている。 世紀転換期、東京大司教区では、知識人層を対象にした出版活動や青年運動が展開されており、パリ外国宣教会には日本人の若手カトリック知識人の活発な活動に期待する宣教師も存在したが、彼らは少数派であった。オコンネル使節の来日時、日本人カトリック者は、彼に日本の教会の現状を伝えて、フランス以外の国からの修道会の来日やカトリック大学の設立を具申し、教皇庁の権威に頼ることによって、教会の内部変革を試みようとした。 二十世紀初頭、日本人カトリック者らが一部の神父の理解をえて活動を行った信徒主体の活動は、パリ外国宣教会の十分な理解をえられず、しばしば停滞を余儀なくされる。同会の宣教師と日本人カトリック者との関係の考察は、当時におけるカトリック教会の動向の一端をうかがうことが可能にするだろう。
ルィービン, ヴィクター
ロシアのサンクト・ペテルブルグにおける日本語教育、日本研究の歴史は、一八世紀初頭、ピョートル一世がカムチャッカに漂着した日本人水夫デンベイ(伝兵衛)をシベリア、モスクワを経由して招き寄せ、日本語クラスを開かせたことをもって嚆矢とする。 以後一八世紀の半ばまでは、漂流日本人による日本語教育が断続的に続く。母国日本ではほとんど知られていない異国ロシアの地で、日本語教育が行われ、かつ、露日辞典さえも編纂されていたのは、世界史的にも異例のことであった。 一八七〇年、日本語学習がサンクト・ペテルブルグ大学に選択科目として開設され、来露する通訳や管理などの日本人が交代で教壇に立った。一九世紀末には日本語科がようやく設立されて、日本語教育、日本研究は本格化し、同時に優れたロシア人の日本研究者が続々と巣立ち始め、「日本学派」の基礎が形成されて行ったのである。 しかしロシア革命後の政治状況は暗黒時代を迎え、外国語の知識がある、あるいは、外国留学の経験のある多数の知識人がスパイ扱いを受け厳しい弾圧により落命した。その中には著名な日本研究者も含まれており、日本研究分野は大きな痛手を蒙った。 第二次世界大戦後、日本研究は再び力を取り戻し、その分野も語学、文学、歴史から地理、民族、宗教などへと多岐にわたって行った。ソ連崩壊後は、全ロシアで日本語学習、日本研究の熱は一層高まっていると見られるが、サンクト・ペテルブルグ大学日本語科は創立一〇七周年を迎え、ロシアにおける日本学の一大拠点として充実した教育・研究活動を続けている。
宮本, 一夫 Miyamoto, Kazuo
夫余は吉長地区を中心に生まれた古代国家であった。まず吉長地区に前5世紀に生まれた触角式銅剣は,嫰江から大興安嶺を超えオロンバイル平原からモンゴル高原といった文化接触によって生まれたものであり,遼西を介さないで成立した北方青銅器文化系統の銅剣であることを示した。さらに剣身である遼寧式銅剣や細形銅剣の編年を基に触角式銅剣の変遷と展開を明らかにした。それは吉長地区から朝鮮半島へ広がる分布を示している。その中でも,前2世紀の触角式鉄剣Ⅱc式と前1世紀の触角式鉄剣Ⅴ式は吉長地区にのみ分布するものであり,夫余の政治的まとまりが成立する時期に,夫余を象徴する鉄剣として成立している。前1世紀末から後1世紀前半の墓地である老河深の葬送分析を行い,副葬品構成による階層差が墓壙面積や副葬品数と相関することから,A型式,B型式,C・D型式ならびにその細分型式といった階層差を抽出する。この副葬品型式ごとに墓葬分布を確かめると,3群の墓地分布が認められた。すなわち南群,北群,中群の順に集団の相対的階層差が存在することが明らかとなった。また,冑や漢鏡や鍑などの威信財をもつ最上位階層のA1式墓地は男性墓で3基からなり,南群内でも一定の位置を占地している。異穴男女合葬墓の存在を男性優位の夫婦合葬墓であると判断し,家父長制社会の存在が想定できる。A1式墓地は族長の墓であり,父系による世襲の家父長制氏族社会が構成され,南群,北群,中群として氏族単位での階層差が明確に存在する。これら氏族単位の階層構造の頂点が吉林に所在する王族であろう。紀元後1世紀には認められる始祖伝説の東明伝説の存在から,少なくともこの段階には既に王権が成立していた可能性が想定される。夫余における王権の成立は,老河深墓地の階層関係や触角式銅剣Ⅴ式などの存在から,紀元前1世紀に遡るものであろう。沃沮は考古学的文化でいうクロウノフカ文化に相当する。クロウノフカ文化の土器編年の細分を行うことにより,壁カマドから直線的煙道をもつトンネル形炉址,さらに規矩形トンネル形炉址への変化を明らかにし,いわゆる炕などの暖房施設の起源がクロウノフカ文化の壁カマドにある可能性を示した。さらにこうした暖房施設が周辺地域へと広がり,朝鮮半島の嶺東や嶺西さらに嶺南地域へ広がるに際し,土器様式の一部も影響を受けた可能性を述べた。こうした一連の文化的影響の導因を,紀元前後に見られるポリッツェ文化の南進と関係することを想定した。
藤尾, 慎一郎 篠田, 謙一 坂本, 稔 瀧上, 舞
本稿は,弥生時代の人骨と,韓半島新石器時代,三国時代の人骨のDNA分析結果が,弥生時代人の成立と展開に関して与える影響について考古学的に考察したものである。筆者らは,2018年度以来,新学術領域研究,通称「ヤポネシアゲノム」によって,上記の人骨を対象に炭素14年代測定,食性分析,DNA分析を行ってきた。その結果,日本では,前8世紀の支石墓に葬られた在来系の人びと,前6世紀の伊勢湾沿岸で水田稲作を始めた渡来系の人びと,紀元前後の西北九州弥生人のDNAを,韓半島では約6,300年前の前期新石器時代と5~7世紀の三国時代の人びとのDNAを得ることができた。これらのDNAが弥生時代研究に与える5つの問題について考えた。① 縄文人や韓半島の新石器時代人は,後期旧石器時代の古代東アジア沿岸集団に特有なDNAをもっている。しかし6300年ほど前の韓半島の新石器時代人の中には,すでに渡来系弥生人と類似するDNAをもっている人びとがいたことを確認した。② 渡来系弥生人は,縄文人と韓半島南部の人びととの混血によって生まれたと考えてきた。しかし,韓半島南部の新石器時代人の子孫と縄文人が交わっても,弥生前期末以降の渡来系弥生人が成立しない場合もあることが明らかとなった。③ 前6世紀の伊勢湾沿岸地域に,渡来系弥生人のDNAをもつ水田稲作民を確認した。現状でもっとも古い例である。この調査結果は,前6世紀の伊勢湾沿岸地域以西の西日本にはすでに渡来系弥生人が広範囲に存在していたことを予想させる。西日本の渡来系弥生人の出自を検討した。④ 弥生前期には遠賀川系や突帯文土器系など系譜を異にする甕形土器があるが,使用者のDNAが異なっていた可能性が出てきた。土器の系譜とDNAとの関連について考える。⑤ 西北九州弥生人のなかに,縄文人と渡来系弥生人が混血した人と混血していない人の二者がいること,九州中部や南部にも混血した人が存在することがわかった。混血して生まれた西北九州弥生人は,いつごろ,どのような地域で誕生したのか考える。
北野, 博司 Kitano, Hiroshi
小論では律令国家転換期(八世紀後半〜九世紀前葉)における須恵器生産の変容過程を検討し、その背景を経済、社会、宗教の観点から考察することを目的とした。ここでは各窯場の盛衰、窯業技術(窯構造・窯詰め・窯焚き)、生産器種の三点を主な検討対象とした。列島の大規模窯業地では都城周辺にあった陶邑窯の衰退が顕著で、代わって生駒西麓窯など都市近郊窯の生産が活発化した。理由の一つは流通経済の発達を背景に、交易に有利な近郊窯の利点が生かされたためと考えた。流通状況の検証は十分ではないが、播磨や讃岐、備前の須恵器が入り込むのも瀬戸内海運の発展と関係が深いとみられる。もう一つは宗教面から、服属儀礼的な意味あいがあった陶器調納システムや、大甕等を用いた王権儀礼そのものが、国家仏教興隆期の八世紀中葉から変質していき、その主力を担ってきた陶邑の須恵器供給地としての役割が相対的に低くなった可能性を想定した。一方、各地の窯場では転換期に共通した生産戦略がとられた。それはコストと品質のバランスにおいて経済性を優先する方向への変化であった。須恵器窯業の六世紀末、七世紀後半の二度の画期では、各地で生産戦略だけでなく導入される技術の共通点も多かったが、八世紀後半の特徴は技術の選択に多様性が生まれ、その後、地域色が明瞭になっていったことである。大きく四つの地域類型を設定した。第一は集約的な須恵器生産からいち早く離脱した陶邑窯や牛頸窯である。相対的に自立度の高い周辺在地社会が共同体祭祀や儀礼的飲食の衰退によって須恵器需要の低下を招いたことが一因と考えられた。第二は技術力を生かして産地のブランド的地位を築いていった東海の猿投窯である。周辺は瓷器系陶器の一大生産地となった。第三は流通経済と都市に近い利点を生かし、器種別分業を取り入れるなど新しい須恵器産地に発展していった播磨や讃岐である。第四は伝統的な須恵器生産を継承する面の強かった北陸や関東、東北の諸窯である。畿内とは逆に、須恵器需要を担う在地社会の支配関係や経済、宗教に保守的な性格がみられた。転換期窯業にみられたこれらの地域色は古代末〜中世初の焼物世界への端緒ともなった。
梁, 暁弈
聖武天皇は、天平勝宝8歳(756)の5月2日に崩御した。この年末に、聖武の娘である孝謙天皇は、聖武の追善のため、翌年の周忌において、全国で『梵網経』を書写・講説するという旨の勅を下した。その勅において、「有菩薩戒本梵網経」の8文字が見える。 この8文字に関して、現在では、「有二菩薩戒一、本二梵網経一」と句読点と返り点を付け、「菩薩戒を有つには、梵網経に本づく」と読ませるのが常識である。しかし、言うまでもなく、『続日本紀』が成立した8世紀末では、句読点も返り点も存在せず、この8文字は「有菩薩戒本梵網経」と白文で記されていた。本稿では、この「有菩薩戒本梵網経」の8文字に、複数の解釈があることを示し、そして現在の読み方は、後からできたものであると論じる。 この8文字は、句読点を入れず、「菩薩戒本の梵網経有り」と読むことも可能である。本稿では、こちらの方が8世紀当時の読み方として相応しいのではないかという仮説を提示したい。この読み方の変動に拘った理由は、それによって書写された経典が変わっただけでなく、この変動が発生した理由を明らかにすることで、学術史の推移や研究関心の変動を理解するために有益だからである。
渡辺, 美季
中世における日本―琉球の海上交通の様相を具体的に知ることができる史料は極めて少ない。そうした状況のなか、沖縄県立博物館・美術館蔵『琉球国図』は一七世紀末の写図ながら、一五世紀半ばに琉球貿易を盛んに行っていた博多商人の薩摩―琉球の航海情報を多分に含むという点で、稀有にして貴重な存在である。ただし傍証の乏しさから、同時代史料に依拠して内容を十分に検証していくことは難しい。そこで本論文では、『琉球御渡海日記』(一六三八―三九年)を主とした近世初期の航海記録と照らし合わせることで、『琉球国図』に描かれた航路の使用実態の遡及的な分析・検討を行った。これにより、『琉球国図』に描かれた計三本の航路は、方向性(薩摩→琉球/琉球→薩摩)および時期によって使用実態が異なっていた可能性が高いことを明らかにした。また航路の使用に際して最も重要であったのは、七島灘(黒潮)を越える際の方向性であり、薩摩から琉球へ向かう場合にのみ、北上する黒潮を横切るために口永良部島への寄航・風待ちが必要とされたことも指摘した。また近世期の国絵図を参照しつつ、『琉球国図』の薩琉航路上の寄航地(口永良部島・大島・徳之島)の比定も試みた。
東, 潮 Azuma, Ushio
『三国志』魏書東夷伝弁辰条の「国出鉄韓濊倭皆従取之諸市買皆用鉄如中国用銭又以供給二郡」,同倭人条の「南北市糴」の記事について,対馬・壱岐の倭人は,コメを売買し,鉄を市(取)っていたと解釈した。斧状鉄板や鉄鋌は鉄素材で,5世紀末に列島内で鉄生産がはじまるまで,倭はそれらの鉄素材を弁韓や加耶から国際的な交易によってえていた。鉄鋌および鋳造斧形品の型式学的編年と分布論から,それらは洛東江流域の加耶諸国や栄山江流域の慕韓から流入したものであった。5世紀末ごろ倭に移転されたとみられる製鉄技術は,慶尚北道慶州隍城洞や忠清北道鎮川石帳里製鉄遺跡の発掘によってあきらかとなった。その関連で,大阪府大県遺跡の年代,フイゴ羽口の形態,鉄滓の出土量などを再検討すべきことを提唱した。鋳造斧形品は農具(鍬・耒)で,形態の比較から,列島内のものは洛東江下流域から供給されたと推定した。倭と加耶の間において,鉄(鉄鋌)は交易という経済的な関係によって流通した。広開土王碑文などの検討もふまえ,加耶と倭をめぐる歴史環境のなかで,支配,侵略,戦争といった政治的交通関係はなかった。鉄をめぐる掠奪史観というべき論を批判した。
三上, 喜孝 Mikami, Yoshitaka
本稿は、八世紀末から九世紀初頭を律令国家の転換期であるとする本共同研究の立場から、光仁・桓武朝期における国土意識の転換について論ずることを目的とする。ここでいう「国土意識」とは、国土の境界意識、空間認識、山野支配や田地支配の理念、王土思想といった、国土にかかわる意識全般を意味する。むろん、国土意識は、特定の時期にのみあらわれるものではないが、古代日本における国土意識の変化の画期を考える上で、光仁・桓武朝期を検討することは意味があることと考える。九世紀における国土意識の変容を考える素材の一つに、日本海側の諸国を中心に広く行われるようになった「四天王法」があげられるが、その端緒となったのが、宝亀五年(七七四)に、新羅調伏を目的として大宰府に建立された四天王寺であった。宝亀年間は、新羅からの来着者のうち、「帰化」でない「流来」の者を送還するという強硬な措置をとったり、山陰道・北陸道などの日本海側諸国に警護を命じたりするなど、新羅との関係が緊張した時期であった。こうした現実的な緊張関係に加えて、疫病が国土の外からもたらされるという観念がこの時期芽生えはじめたことが、四天王寺建立に大きな影響を与えたものとみられる。続く延暦年間は、桓武天皇による王土思想の高まりの影響を受けて、山野支配に大きな画期をみせる時期である。それに加えて、東北の辺境地域においても国土観念が強まり、現実の蝦夷との交易や辺境の田地開発に対して、律令国家が本格的な介入に乗り出すのである。辺境ばかりでなく、都城においても、銭貨流通にみられるように都城を「閉じられた空間」とする認識が生まれはじめる。このように、光仁・桓武朝は、九世紀以降に広がる国土意識の萌芽の時期として位置づけられるのである。
福原, 敏男 Fukuhara, Toshio
細男(人間が演ずる芸能と傀儡戯)は日本芸能史上の謎の一つである。従来は九州の八幡宮放生会の視点より理解され、九州より近畿に伝播したという暗黙の理解があった。それに対して本稿では、人間の芸細男は奈良・京都の大寺社における芸能構成の一つとして成立した、とみる。東大寺では九世紀末、京の御霊会では一一世紀にみられ、一二世紀には白面覆と鼓の細男が確認できる。春日若宮祭礼でも平安期より祭礼に登場している。宇佐八幡宮放生会には、近畿より人間芸細男が伝播し、元寇撃退の神威発揚を象徴する儀礼として神話的に意味付けらた。これは八幡縁起や縁起絵の変貌と軌を一にするものであった。柞原八幡や阿蘇の細男は宇佐より伝播した。大鳥社・諏訪社・杵築社へは、一宮・国衙型祭祀の一環として伝播した。一方、鎌倉期には石清水八幡宮を中心に傀儡戯の細男が確認できる。それは大山崎神人が勤める日使頭祭において演じられ、二体の傀儡(武内と高良神)の打ち合わせである。鎌倉期の宇佐放生会にも傀儡戯が存在したが、これは細男とは認識されていない。宇佐の傀儡や細男は百太夫を祀った。柞原八幡の細男は傀儡戯ではないが、ここにも傀儡の痕跡があり、善神王や武内が傀儡の神であった。細男と傀儡とは不可分の関係であり、人間芸の細男舞は傀儡神を和ませる意味をもっていたといえる。宇佐の放生会頓宮における夷社や柞原八幡の浜殿における善神王や武内大神は、放生会に立つ市・市神としての夷・夷を斎く傀儡の関係を象徴している。
菊池, 勇夫 Kikuchi, Isao
『松前屏風』は、地元の絵師小玉貞良が蝦夷地の場所を請け負う商人の依頼によって、18世紀半ば頃の松前藩の城下町(福山)の景観を描いたものである。この屏風の読解の1つの試みとして、唯一アイヌの人々が描き込まれている松前来訪の部分に焦点をあててみた。彼等は毎年5月前後に艤装した船で蝦夷地各場所から貢物を持ってきて、沖の口番所近くの浜辺に、円錐状の丸小屋と呼ばれる持ち運び可能な仮設の住まいを作り、そこに滞在した。屏風にはアイヌの乙名(オトナ、村の長)らが松前藩主に謁見するために、藩士(通詞)に案内されて丸小屋から松前城に向かうところが描かれている。近世初期、松前城下はアイヌの人々が蝦夷地から盛んにやってきて交易(=ウイマム)する場であった。1640年代頃より商場知行制が展開してくると、松前の船が蝦夷地に派遣されるようになり、アイヌの城下交易は衰退を余儀なくされた。1669年のシャクシャインの戦い以後、このウイマム交易は松前藩によって御目見儀礼に変質させられ、松前藩の政治的支配の浸透として理解されている。しかし、見方を変えてアイヌ側からこの18世紀の御目見儀礼を捉えるならば、アイヌ側の主体的な意思もまた汲み取ることができるのではないか、というのが本稿の主眼である。18世紀末になると、松前城下からアイヌの丸小屋の風景が消えていく。それはどのように評価すべきことなのか。おそらくはシャクシャインの戦い以後の近世中期的な松前藩とアイヌの関係の終焉を意味していたに違いない。
山陰, 加春夫 Yamakage, Kazuo
一四世紀末~一五世紀中葉における高野山金剛峯寺の同寺領膝下諸庄園に対する「大検注」とそれに基づく「分田・分畠・在家支配」については、これまで多くの貴重な研究が積み重ねられてきた。けれども、従来の当該研究においては、金剛峯寺の「分田・分畠・在家支配(=寺僧や庄官らに対する供料地等の配分)」システムと、それと対を成すはずの同寺の「年貢・公事収納」システムとが十分に峻別されていない。本稿は、かかる問題意識に立って、一四世紀末期における金剛峯寺の同寺領紀伊国官省符庄に対する「分田・分畠・在家支配」システムの構築過程、及びその在り方を史料的に再確認することを目的とする研究ノートである。本稿での検討を通じて明らかになった最大の論点は、現存する官省符庄関係史料による限り、応永元~同三年(一三九四~九六)の同庄に対する「大検注のやり直しとそれに伴う支配体制の再構築」において、金剛峯寺側が村ごとの「名寄帳」を主体的に作成した形跡がまったくない、という点である。このことは、村ごとの「名寄帳」の作成作業が(もしそのような作業が行われたとすれば)村々の「名主」をはじめとする人びとによって遂行された可能性のあることを示唆していよう。またそのような「名寄帳」〔=庄家の(年貢等収取を目的とした)「名寄帳」〕の作成作業は、金剛峯寺側の「検注目録」類の作成作業、及び「分田・分畠・在家各支配帳」〔=いわば寺家の(年貢等配分を目的とした)「名寄帳」群〕の作成作業と同時併行的に行われた可能性のあることをも暗示していよう。
岸本, 道昭 Kishimoto, Michiaki
400年間も続いた古墳築造社会から律令体制への時代転換にあたって,新たに導入された地方支配方式の史的画期を追究する。『播磨国風土記』をひも解き,郡里領域を比定しながら,古墳や寺院の地域的実態と比較する。検討の俎上に載せた地域とは,播磨国揖保郡18里である。郡内において,6世紀半ば以降の後期前方後円墳が11基,後期古墳は1255基を数えた。古墳の造営集団は約400~500家族(戸)を想定するが,分布や墓域は風土記に記す里領域とはほとんど整合しないことがわかった。有力な終末期古墳は数が限定され,これも分布実態は里領域と合致しなかったが,むしろ郡司層を被葬者に考えることができた。いっぽう,7~9世紀に建立された古代寺院は14カ寺を数え,1里1寺に迫る分布を示している。古墳と異なって,寺院は里を意識した建立がなされている。寺院が地域社会の統合を促進し,知識寺院としての役割が想定できる。また,官道である山陽道と美作道が通る里での寺院建立は徹底されていたことから,護国仏教の浸透とあわせ,往来から見せる律令国家の機能を考えた。18里の設定原理を探ったところ,里の総面積に大きな差があっても,開発(生産)面積は小差で均等的であることがわかった。このことから,里は従来からの古墳を媒介とする族制的支配を否定し,均等的かつ網羅的な土地の領域支配の基礎単位と推定する。里は開発面積を前提に土地領域として区分され,地域社会の賦課と徴税単位として設定された。それは律令国家を支える地方社会の基礎的単位であり,現実にそれを統括したのは郡司層であった。人的支配であった古墳に代わる新たな地方支配の原理は,土地の領域支配であった。風土記や里領域の分析,寺院建立の実態から,播磨地域における領域支配の実質的開始は7世紀末の持統朝と考えられる。
三上, 喜孝 Mikami, Yoshitaka
本稿は,延暦15年(796)の越前国坂井郡符に捺された「坂井郡印」の印影を検出し,新たな郡印資料を提示すると同時に,古代の「坂井郡印」の変遷を追うことで,古代郡印の編年作業を試みるものである。坂井郡印が捺された文書については,天平宝字2年(758),宝亀11年(780),延暦15年(796)の3時期のものがこれまで知られているが,今回そのすべての印影を確認することができた。それによると,前二者の文書の印影はいずれも楷書体であり,延暦15年の坂井郡符に至ってはじめて篆書体の印影があらわれることがわかる。このことから,坂井郡印が,宝亀11年から延暦15年の16年の間に,楷書体の郡印から篆書体の郡印への改鋳が行われたことが明らかになった。郡印の改鋳時期については従来ほとんど検討されてこなかったが,今回はじめてその具体的な時期がしぼり込めたことになる。本稿では,あわせて延暦年間(8世紀末~9世紀初頭)の郡印の印影を二つ紹介する(近江国愛智郡印,大和国山辺郡印)。これらはいずれも篆書体であり,さきの坂井郡印での検討をもふまえると,延暦年間にはすでに篆書体の郡印が全国的にあらわれていたことが想定できる。以上の検討は,郡印の編年を考える上で一つの指標となるであろう。
上垣外, 憲一
仏教が支配的思想であった平安時代、仏典のレトリックは和歌の表現に大きな影響を与えた。しかしその影響には相当の摩擦が伴っていた。和歌文学は『古今集』以来、春、夏、秋、冬の四季の部立をその中心にすえて四季の移ろう美しさの表現にもっとも重点をおいてきた。 ところが、平安中期以後、もっとも大きな影響力をもった仏典、『法華経』と『往生要集』に現れる仏教にとっての理想世界、仏国土および浄土は、きらびやかな金銀宝石に飾られ、いつも適度に暖かく、毎日花が降りしきるという常春の世界である。『往生要集』では、四季の変化は老、病と同じくこの世の苦しみの一つである。また『法華経』では、その仏国土には山、川、谷など地形の変化が全くなく、平坦な土地に華麗な仏閣が立ち並ぶ都会的なイメージとしてその理想郷は現れる。 このような仏典の都会的、あるいは反自然的な仏国土観、浄土観は当然、和歌の伝統的な表現法、美意識と対立する。 一〇世紀の選子内親王の『発心和歌集』の漢文序には、仏典と和歌のレトリックの相違が、天竺、漢、日本の言葉の性質の違いがありそれが和歌に仏教的な表現を取り込むための障害となっていることが明確に述べられている。 このような対立は一一世紀、一二世紀を通じてさまざまな試みによって融和が試みられた。それは本来は否定されるべき物、つらい物である四季の景物、移ろいがつらさ、悲しさの奥になつかしさを秘めているという形の屈折した自然観の表現として次第に和歌の世界の中に定着していく。一二世紀末の藤原俊成の『長秋詠藻』の釈教歌の表現法にその試みは典型的に現れている。「もののあはれ」とはこうした否定を通り越した自然の肯定、秋になり草木が枯れることは、病や死のように嘆くべきことだが、まさにそれ故にしみじみと嘆賞すべき景物であるという点にあると考えられる。
八木, 光則
6世紀末から10世紀にかけて,東北北部から北海道央ではいわゆる末期古墳が造られていた。90年近い末期古墳の研究史の中で,近年特に注目されている三つのテーマについて再検討を行った。一つは末期古墳の系譜を東国に求める動きに対してである。検討の結果,青森県八戸地域と岩手県胆沢地域とでは別系譜であることが認められた。八戸地域では無煙道~短煙道竃の竪穴住居跡と横穴式石室を模したような張り出しをもつ土壙型末期古墳が多くみられ,関東からの影響が強いこと,側壁抉込土坑が分布することから常総地方などに系譜が求められることが考えられた。胆沢地方では,竃焚口に長礫を横架する構造を福島県南部などから受容しているが,土壙型は伸展葬と墳丘という広く古墳文化の影響を受けながら,伝統的な土壙墓が変革されたものと考えられた。川原石積みの礫槨型は関東西部などからの影響の可能性を確認するにとどまった。東北北部以北の蝦夷社会成立にあたっては東国からの影響が大きかったが,一方で移民を示すような関東系土師器は僅かで,多くの人々の移住や移民は想定できないことも明らかになった。二つめは,主体部を残さない形の末期古墳(周湟墓)の位置づけである。8世紀後葉以降に大規模な古墳群が減少し,また中規模の墓域が集落の一画に造られ,さらには数基の家族墓的なあり方に変化する。村落での墓域共有の理念が失われ,集落ごと,家族ごとで墓域を形成するようになった。この背景として8世紀後半の竪穴住居総数の減少があり,地域社会の大きな変革期であったことがあげられる。三つめは,岩手県南端や宮城県北端の地域(栗原等五郡域)の群集墳が北上盆地の礫槨型末期古墳とは異なることを指摘した。群集墳築造は柵戸移民や城柵造営,三十八年戦争などにともなって,在地住民が郡司などの役職に就き,群集墳の葬制を取り入れたことが想定される。以上,末期古墳をとおして,蝦夷社会の成立や変容,陸奥中部北端での内国化の様相を考察した。
藤澤, 良祐 Fujisawa, Ryohsuke
宋・元代の中国産を主体とする輸入陶磁と,中世唯一の国産施釉陶器である古瀬戸が,モデルとコピーの関係にあったことは良く知られているところで,古瀬戸は輸入陶磁の補完的役割を担ったにすぎないとされるが,実態は果たしてそうだったのであろうか。中世前半期の最大の消費遺跡である鎌倉遺跡群において,古瀬戸と輸入陶磁の補完関係を検討したのが本稿である。これまで鎌倉では数多くの発掘調査が行われているが,比較的良好な遺構面が検出され陶磁器の種類・量が多い四つの遺跡を取り上げ,古瀬戸と輸入陶磁の出土量(廃棄量)を分析したところ,輸入陶磁は13世紀末から14世紀初にかけて廃棄量がピークとなるのに対し,古瀬戸の廃棄量のピークは一時期遅れ鎌倉幕府の崩壊する14世紀前葉にあり,その背景として当該期における輸入陶磁の流通量の減少が予想された。また,モデルとコピーの関係にある各器種においても,輸入陶磁の方が廃棄(出現)時期が早いという傾向が認められ,さらに四耳壺・瓶子・水注などのいわゆる威信財では,古瀬戸製品であっても生産年代と廃棄年代との間に半世紀近い伝世期間が想定された。一方,鎌倉で大量に出土する青磁や白磁の碗・皿類は,当該期の古瀬戸はほとんどコピーしないのに対し,入子・卸皿・柄付片口などの古瀬戸製品は,鎌倉での出土比率が高いにも拘らず輸入陶磁に本歌が確認できないことから,古瀬戸と輸入陶磁との間には一種の“住み分け”が行われていたことも明らかである。すなわち中世前半期の古瀬戸は,輸入陶磁に存在しないもの,あるいは輸入陶磁の流通量の少ないものを重点的に生産しており,両者は戦国期の白磁や染付の皿と瀬戸・美濃大窯製品の小皿類にみられるような競合関係にはなく,コピーである古瀬戸製品自体が,モデルである輸入陶磁に匹敵する価値観を有していたと考えられる。
小椋, 純一
マツタケは高度経済成長期の初期頃まで庶民の口にも入りやすいキノコであったが,高度経済成長期の間に生産量が急減し,多くの消費者には手が届きにくい高級食材となっていった。一方,それとは対照的に,シイタケはその間に生産量が急増し,価格が大幅に下がることにより庶民的な食品へと変わっていった。そのような変化において,食品の価格は消費者にとってとくに重要だったと思われる。本稿では高度経済成長期の頃のことを中心に考えるが,その時期はインフレ率が高かったため,消費者が各年に感じた物価(消費者感覚価格)を,それぞれの年の実際の物価を日雇労働者賃金と比較することにより考えた。また,高度経済成長期の頃のことを考えるために,20世紀初期からの流れも考えてみた。また,マツタケとシイタケの生産-消費動向の背景についても,その20世紀初期からの流れも含め考えた。その結果,高度経済成長期の頃,マツタケの消費者感覚価格は,その初期から後期にかけて,しだいに2倍ほどに上昇していったと考えられる。ただ,20世紀初期からの変化を見ると,高度経済成長期初期のマツタケの消費者感覚価格は,20世紀初期の約3倍もあり,決して安いと感じられるものではなかった。そして,それが高度経済成長期にさらに高騰することにより高級食材として定着してゆくことになった。それに対し,シイタケは逆に高度経済成長期の期間を通して生産量は大きく増え,消費者感覚価格は半減し,消費者が求めやすい価格となった。長年の研究の末,シイタケは人工栽培が容易になり生産量が大幅に増えたのに対し,マツタケはそれが難しい状態が続いた。さらに,高度経済成長期のプロパンガス普及により,里山の利用がなくなり森林環境が大きく変化したことによって,マツタケはいよいよ発生しなくなった。一方,シイタケ生産急増の背景には,里山で使われなくなった広葉樹が入手しやすくなったこともあった。
高田, 智和 斎藤, 達哉 TAKADA, Tomokazu SAITO, Tatsuya
二〇〇八年に米国議会図書館アジア部日本課の所蔵となった『源氏物語』写本(LC Control No. 2008427768、全五十四巻揃)は、同館の所蔵となるまで学界未紹介の新出資料である。議会図書館本『源氏物語』の書誌と表記の特徴は以下のとおりである。一、古筆別家第三代了仲の極書によると、伝承書写者は五辻諸仲(一四八七~一五四〇)である。二、現在の表紙は後装のものであり、表紙付け替えは十七世紀末ごろまでに行われたと推定される。三、改装時の仮題僉が残存し、巻名に並びの巻が記されている。四、一冊内での書写行数が一定しない巻が十八巻に及ぶが、左右見開き一丁では、半丁内での書写行数は一定している。五、特殊表記和歌が六十二首ある。六、本文書写のハの仮名・シの仮名に、字母レベルで使用の傾向差が認められる。七、書入は疎らである。
佐藤, 一希
本稿では、寺院における近世天皇家の追善仏事の執行体制と、それを主導した泉涌寺と般舟院を始めとする御黒戸寺院の地位の変遷に関する検討を行った。 近世天皇家の追善仏事は、中陰法要、「年忌法要」、「回忌法要」に大別される。葬送儀礼に連続して開催される中陰法要は、17世紀初頭に般舟院が専管していたが、17世紀末~18世紀初頭にかけて、泉涌寺における執行が朝廷により徐々に認められ、宝永期に般舟院と同等格式での執行が認可される。「年忌法要」・「回忌法要」は、天皇の場合は泉涌寺・般舟院、女院の場合は、般舟院とそれぞれの被葬寺院にて開催されるのが原則であった。また、中陰法要の際は、葬送儀礼同様に所司代・上方譜代藩による警衛が、年忌法要の際は禁裏附による管理がなされており、これらの執行にかかる費用は、幕府の臨時財政により負担されていた。だが、各法要の開催をめぐり武家が介入する様相は確認できず、協調を基本とする近世朝幕関係のあり方に対応して、寺院における追善仏事の執行体制は維持されていた。 近世天皇家の追善仏事の展開における最大の特徴は、17世紀後半以降、御所内で開催される宮中法会の割合が減少し、寺院に委任する形の開催が恒常化して多数を占めるようになることである。追善仏事の開催場所は近世を通じて般舟院が最も多いが、17世紀後半から泉涌寺の台頭が顕著になる。これは、後水尾天皇・東福門院が泉涌寺へ深い帰依を示したことを背景に、朝幕双方の意向に基づいて、泉涌寺の復興が寛文期に進んだためであった。泉涌寺における追善仏事の開催が定着したことで、享保期に般舟院が焼失した際には、所司代より「御寺」が二つ存在することに疑義が出された。再建をめぐり、般舟院は自らを「回忌法要」を専管する「禁裏御仏殿」であるとの主張を展開し、結果的に般舟院は幕府の援助を受けて再建される。このことは、天皇家の葬礼・仏事を泉涌寺・般舟院がどのように分掌しているのか、幕府が再確認した点に大きな意味を持った。だがその後、天明~寛政期頃には、泉涌寺における「回忌法要」の開催や、嫡出皇子女の被葬寺院が般舟院から泉涌寺へ変更されるなど、般舟院固有のものとされてきた機能が泉涌寺によって徐々に侵食されてゆく。19世紀以降の祖先祭祀をめぐる天皇家と寺院・仏教との関係を考察するには、以上の歴史的経緯を前提として理解しておく必要がある。
若曽根, 了太
海外に所蔵される日本関係史料には貴重なものが多くあると想定されるが、具体的な実態は十分に把握されていない。こうした海外所蔵の一次史料を活用することで、国際的視野から新たな日本研究や歴史研究が可能になると考えられる。 本研究ノートでは、タイ国立公文書館所蔵のラーマ五世王期(1868年~1910年)とラーマ六世王期(1910年~1925年)の外務省史料目録から、日本関係史料タイトルを抽出し(外務省史料タイトル全33,465点のうち、日本関係史料タイトル全343点)、タイ語とその日本語訳、年代、分量などを付してリスト化した。その結果、六世王期の史料タイトル数は五世王期に比べて3割ほど増加し、情報収集の体系化や、軍事・経済面での協力関係の進展、王室・皇室に関わる儀礼記録の増加など、日タイ関係の変化の様子が見出せた。また日本の政治や経済、社会、文化など多岐にわたる事柄を反映する史料タイトルの存在が確認できた。 これらは新たな日タイ関係史研究の展開や、海外の史料を用いた国際的な日本研究に向けて有効活用できる。今後の研究では、日タイの史料を突き合わせる「マルチ・アーカイバル・チェック」と公文書史料を多角的に分析する「史料学的アプローチ」を組み合わせ、様々な学問分野の両国研究者による国際的・学際的な共同研究が必要である。 こうした共同研究を通じて両国の研究者は、相互補完的な関係性を構築するとともに、これまでタイ歴史研究の分野で十分に扱われてこなかった一次史料の分析を進めて、19世紀末から20世紀前半の日タイ関係史に関する新たな研究成果を提出し得るだろう。さらにタイの諸分野の研究者も含めた日本の政治や社会、文化に関する史料分析により、東南アジアの視点から捉えた国際日本研究にもつながると想定される。本研究ノートの日本関係史料リストはその出発点となり得ることが期待される。
山口, 徹
博物館や美術館に所蔵される民族資料は,製作されて以降,使用,交換,収集,収蔵,展示の場面を経てきた物質文化である。1 つ 1 つのモノの履歴を精読することは,多様な場面のなかでそのモノが経験してきたさまざまな人やモノやコトとの出会い,そして絡み合いを通時的に読み解くことに他ならない。本稿では慶應義塾大学に所蔵される 1 体の犬形木製彫像を事例にして,「植民地期に生起した収集の現場」(Gosden and Knowles 2001)の歴史的背景を明らかにする。本資料は,旧オランダ領ニューギニアにおいて,南洋興発株式会社社長の松江春次氏が 1930 年代前半に入手したものと考えられる。類例資料を探索したところ,オランダの調査隊に参加したファン・ダー・サンデがフンボルト湾の男性宿で 1903 年に収集した木製彫像に行き当たった。当時の写真を見ると,海岸の汀線に建つ杭上家屋の男性宿で,屋根から突き出る垂木の先端にさまざまな動物意匠の彫像が括り付けられている。特定の氏族と結びつくトーテム動物の彫像であろう。しかし,慶應大資料の形態はファン・ダー・サンデの資料にくらべて写実性が増しており,一見して犬だと分かる。構築された関係性の証として松江氏に譲渡されたというより,短期訪問者への販売目的で製作されていた造形物の可能性が浮かび上がる。今後,旧オランダ領ニューギニアにおいて 19 世紀末から 20 世紀前半に生じた造形物の形態変化を詳細に検討する必要がある。
楊, 海英
本論文は「歴史」の書き方,「歴史」の語り方を分析し,歴史研究と人類学的研究との相互接点を探ろうとするものである。具体的には,19世紀末に発生し,中国北西部と中央アジアを舞台として展開した回民反乱を分析対象とする。回民反乱について,現代中国の通史類は「少数民族による反清朝闘争」であると政治的な評価を下し,回民反乱軍による略奪や虐殺行為に触れていない。一方,各地の地方史誌はr通史が書こうとしなかった回民反乱軍による被害を記述している。また,通史や地方史誌と対照的なのはモンゴルの年代記である。口頭伝承の要素を大いに帯びている年代記は,モソゴル軍の軍功を賞賛するために回民反乱を淡々と描いている。上述の諸史料をさらに回族側の捉え方と比較すると,まったく異なった,鮮明な「生き方の歴史」が浮かび上がってくる。歴史研究における「外部からの視点」と「内なる視点」を検討し,人類学的な歴史研究と「生き方の歴史」との共通性を探求することこそ,過去の出来事を解明する手がかりとなることを強調しておきたい。
大滝, 靖司 OTAKI, Yasushi
本研究では,子音の長さが音韻論的に区別される6つの言語(日本語・イタリア語北米変種・フィンランド語・ハンガリー語・アラビア語エジプト方言・タイ語)における英語からの借用語を収集してデータベースを作成・分析し,各言語における借用語の重子音化パタンを明らかにする。その結果から,語末子音の重子音化は,原語の語末子音を借用語で音節末子音として保持するための現象であり,語中子音の重子音化は原語の重子音つづり字の影響による現象であることを指摘し,純粋に音韻論的な現象は語末子音の重子音化のみであることを主張する。
柴田, 博子
『続日本紀』、『万葉集』、『令集解』の古記にみえる肥人は、隼人に近しい存在として登場し、挙げられているが、読み方と語義ともに諸説あり、近年の国語辞典・歴史事典においても一致していない。本稿では、その研究史を整理し、従来の説の問題点を指摘したうえで、肥人史料を検討していくつかの見通しを示した。現在の『万葉集』注釈研究では、読みはクマヒトの転訛としてのコマヒトが、語義は肥後国球磨地方の人が定説となっている。コマヒトの読みは一三世紀の仙覚がそれまでのコエヒトの読みをコマヒトに改めたことに始まるが、語義は吉田東伍・喜田貞吉による熊襲説を受け継いだものである。しかし今日、歴史研究のなかに熊襲説を是とする論はない。いっぽう吉田・喜田説を批判した岩橋小彌太は、語義は肥国人であり読みはヒビトを主張したが、これにも反論がある。球磨人説・肥国人説のいずれも無理があり、「肥」を地名で解釈しようとしてきた従来の見方を考え直す必要がある。七世紀末から八世紀の木簡や正税帳、庸布墨書などに、「肥人」や「肥人部」がウジナとしてみえる。そして肥人には、朝貢記事がみられないこと、分布が九州南部のほか、ウジナでは畿内をはじめ遠江・越後・肥前と広いこと、また百済系渡来人との関係が木簡出土遺跡や『播磨国風土記』の地名起源説話から窺えることなど、隼人とは大きく異なる点を指摘できる。部の設置などからすると肥人はヤマト王権に奉仕する職掌に関わる名称と考えられ、いわゆる人制との関係が推測される。肥人の読みは確定しがたいが、その職掌は律令国家の形成に伴い、そのなかに解消されていったと思われる。肥人への夷人視が進むのはその後のことと思われる。このように肥人は、律令国家の夷人観の始まりと変容に関わっていると考えられる。
越智, 郁乃 Ochi, Ikuno
これまでの沖縄における墓制研究は,沖縄内各地域の墓制のバリエーションに関する研究が蓄積されている。一方で,17世紀に中国から琉球王府の士族層にもたらされた墓地風水に関する研究が行われてきた。傾斜地に横穴式に掘込み,後方の高い風水上吉型をなす墓形は,19世紀末から20世紀初頭にかけて沖縄の庶民層に広く普及した。沖縄において墓は「あの世の家」であり,その快適さ如何によっては子孫に影響を及ぼす存在であるという言説は,現在でも広く存在する。しかし1945年以降,政治経済的な中心である沖縄本島への地方からの人口移動と都市化が進むことで,墓のあり方は変化した。火葬の急増に伴い洗骨が減少すると,墓は小規模化した。また,コンクリート建材の使用によって平面立地が可能になり,1980年代以降の経済発展に伴い日本本土から墓石業者が参入し始める。このような墓の形状変化とともに,戦後,都市部に移住した人々が,祖先祭祀の対象として欠かせない墓を移住先に新たに作り,元の墓から遺骨を移動させる事例が散見される。以上のように今日,沖縄の墓制を取り巻く環境や状況は大きく変化している。しかし,それに伴う人々の宗教実践や墓に対する認識がいかなる変容を遂げているのかということについて,従来の地理的区分による墓制研究や墓地風水研究だけでは対応しきれていない。そこで,本稿では現代沖縄の都市部における移住者の墓造りを事例として取り上げる。新たに墓を造る際に墓に用いられる物質(モノ)の変化に注目し,いかなる過程から新たなモノが導入され,いかに用いられ,それが墓として機能していく中でどのような変化を遂げているかということを明らかにしながら,現代沖縄の墓制の変化について考察する。
趙, 維平
中国は古代から文化制度、宮廷行事などの広い領域にわたって日本に影響を及ぼした。当然音楽もその中に含まれている。しかし当時両国の間における文化的土壌や民族性が異なり、社会の発展程度にも相違があるため、文化接触した際に、受け入れる程度やその内容に差異があり、中国文化のすべてをそのまま輸入したわけではない。「踏歌」という述語は七世紀の末に日本の史籍に初出し、つまり唐人、漢人が直接日本の宮廷で演奏したものである。その最初の演奏実態は中国人によるものであったが、日本に伝わってから、平安前期において宮廷儀式の音楽として重要な役割を果たしてきたことが六国史からうかがえる。小論は「踏歌」というジャンルはいったいどういうものであったのか、そもそも中国における踏歌、とくに中国の唐およびそれ以前の文献に見られる踏歌の実体はどうであったのか、また当時日本の文化受容層がどのように中国文化を受け入れ、消化し、自文化の中に組み込み、また変容させたのかを明らかにしようとしたものである。
中須賀, 常雄 馬場, 繁幸 Nakasuga, Tsuneo Baba, Shigeyuki
ヤエヤマヒルギ胎生種子の開芽, 発根および主軸, 根の伸長に及ぼす塩分と施肥の影響について水耕法で実験した。塩分に関する実験は1980年7月末に西表島船浦湾で採取した胎生種子96個体を使用して, 8月初めより翌年2月まで約6ケ月間おこなった。ヤエヤマヒルギの開芽と根の初期伸長は1.3%の塩分濃度でも抑制された。施肥に関する実験は1980年8月末に西表島船浦湾で採取した胎生種子68個体を使用して9月初めから翌年3月中旬までの約6ケ月間実施した。開芽および主軸と根の伸長において施肥効果が明らかに認められた。
田中, 大喜
本稿は、中世の武家が作成した置文は譲状と密接な関係を持ちながらも、それとは初発的に属性・機能を異にする別個の文書として成立したという理解を前提に、鎌倉期の事例を網羅的に収集してその属性・機能・法的性格を考察し、武家置文の本質を追究したものである。また、南北朝期以降の武家置文の特色についても考察し、その変容の実態を追究した。中世の武家置文の属性は、所領譲与に際し、本来制定者=譲与者の口頭によって伝えられるはずの相続人=被譲与者が果たすべき責務を、後世のために記録することにあった。置文に記された相続人=被譲与者が果たすべき責務の規定は、同時に作成された譲状の施行細目でもあり、置文は譲状の譲与効力を補完する機能を果たしたといえる。譲状も置文も、譲与者の意思のみで作成されたが、その死後に被譲与者間による内容確認=合意形成がなされることで、その世代における法的効力が担保された。ところが、十三世紀末の鎌倉幕府の本主興行令により、置文の規定は幕府権力によって保障されるようになった結果、それは被譲与者の世代を越えた法的効力を持つに至り、永続的な規範性を獲得する契機になった。南北朝期以降、武家の家では置文が家法化し、譲状の上位に位置づく法規になったが、このような現象は本主興行令にもとづく置文の法的効力の向上を受けてのことと見られる。十五世紀になると、武家の家における父子二頭体制の構築に伴い、宛所を嫡子に限定する置文が出現した。この置文の内容は、家督相続時に家督(隠居)と嫡子(次期家督)との間でのみ確認=公開され、そのほかの得分親たち=庶子はその場から排除されたと考えられる。一方、家法化された置文の内容も譲状に引用されるだけになり、それ自体が一族に公開されることはなくなった。こうして十五世紀以降、武家の置文は公開性を希薄化させ、「秘される文書」へと変容していったのである。
谷口, 陽子 Taniguchi, Yoko
5世紀初頭から9世紀末まで仏教が栄えたバーミヤーン遺跡には,50窟の石窟に壁画が残されている。東の中国,西のイランおよび地中海世界,南のインドと北の遊牧文化,オアシス世界等さまざまな地域との交流の影響の痕跡が残されており,壁画にもその間に技法的,材料的な変容があったと考えられる。本稿では,ESRF(欧州シンクロトロン放射光施設)との共同研究として行っている,バーミヤーン仏教壁画の製作技法・彩色材料および劣化機構に関する顕微レベルの有機/無機物質の分析から得られた基礎的データのうち,油彩技法にかかわる3 つの事例から得られた結果を提示するとともに,バーミヤーン遺跡における仏教壁画群の材質と技法について,広く東西文化交渉の視点から考察を試みた。微小領域に絞ったビームでも高いS/N 値が得られる放射光を用いたSR-μXRF, SR-μXRDの同時分析,SR-μFTIR 分析を組み合わせることによって,複数の数μm厚の彩色層を重層的に持つ壁画試料を,層毎に分析することを可能とした。とくに,同じ個所をSR-μXRF/SR-μXRDによって同時測定することにより,層中の個々の顔料粒子の同定ができるところが,彩色文化遺産の研究において極めて有効性が高い特徴であった。バーミヤーン仏教壁画は,練り土壁に有機物質を膠着材とした絵具を重層的に塗り重ねて描く技法で描かれており,7世紀半ばからは,鉛白を白色下地とし,層ごとに油,樹脂,タンパク質,多糖類など異なる様々な有機物を含む一群が存在することが明らかになった。これは,現時点では最古の油彩技法の事例と位置付けられる。彩色層に含まれる乾性油の一部は,鉛石鹸へ変性していることも確認された。また,色付けをしたスズ箔の使用や鉛白,鉛丹など人造の無機顔料の利用とも関連させて解釈すると,地中海世界のメッカ技法や正倉院にも伝わる密陀絵とも関わる彩色技法が想起され,広く東西交流の視点から検討すべき技法であることが明らかとなった。
日地谷=キルシュネライト, イルメラ
世界における日本研究は、当然それぞれの国における学問伝統と深く結びついている。そのため、19世紀末以降のドイツ日本学の発展は、学問的に必須の道具である、辞書、ハンドブック、文献目録などの組織的な編纂と歩みをともにしてきた。そのような歴史の中ではこれまで、和独・独和辞典や語彙集など、1千を超える日独語辞典の存在が確認されている。1998年にその編纂作業が始まった、和英・英和辞典などをも含めた、日本における2か国語辞典編纂史上最大のプロジェクト、包括的な「和独大辞典」全3巻は、今その完成を目前にしている。この辞典編纂の過程は、ここ何十年かの学問に関する技術的・理論的問題にも光を当ててくれると思われるのだが、その問題とは、辞書編纂に関するものだけではなく、例えばディジタル化、メディアの変遷、日本の国際的地位、人文科学と呼ばれる学問に関わる問題でもある。その意味からも、新しいこの「和独大辞典」誕生までの道筋は、「日本研究の過去・現在・未来」について、多くのことを語ってくれるに違いない。
渡辺, 信一郎 Watanabe, Shinichiro
建中元年(780)に成立した両税・職役収取体系にもとづく財務運営の特質は,収支両面にわたる定額制の存在である。建中元年の両税法の成立に際し,唐朝は,様ざまな制度外の租税徴収によって達成された大暦年間の各州最高実徴額を両税定額として設定しなおし,また収取定額を上供(中央経費)・留使(地方道経費)・留州(地方州府経費)に再分配し,経費においてもその根柢に定額制を設定して財務運営をおこなった。それは,開元二四年(736)以後,建中元年に至る45年間に,過渡的に実施された租庸調制・「長行旨条」・定額制による財務運営にかえて両税・専売制と旨符編成とによる運営に転換したものであり,本格的な「量出制入」による財務運営を開始することになった。「量出制入」にもとづく財務は,単年度ごとに正月に中央政府が発布する旨符(財政指針)と毎年度末十二月に塩鉄転運・度支・戸部の三司が宰相府に提出する会計報告および諸道節度使・観察使が戸部尚書比部司に提出する勾帳(財務監査調書)とによって運営された。それはまた長期的に定額を設定することによって収支基準額を固定し,そのうえで財源不足や収入超過をやりくりすることによって収支均衡をはかる財務運営方式であり,予算制度に基づく財務運営ではない。この定額制にもとづく財務運営は,前提をなす両税・職役収取体系とともに,18世紀初頭の盛世滋生人丁による支配丁数と税額の固定,および18世紀半ばの地丁銀制成立によって事実上廃棄されるにいたるまで,ともに後期専制国家財政の根幹をなした。
高橋, 美由紀
近世大都市で人口が高水準に維持できたのは、高死亡率を打ち消す流入人口によると考えられている。日本の徳川期(一六〇三―一八六八)の人口は大都市では停滞したが、いくつかの小さな町においては急速に増加した。 この論文では、日本東北部に位置する「郡山上町」」という小さな町の人口が、徳川時代を通じてなぜ着実に増加したのかを検討する。近隣の農村では一八世紀後半に人口の減少を経験し、その後徐々に回復をしているという状態であるのに、この町では一七二九年の人口が約八〇〇人、そして一八七〇年には約二六〇〇人へと増加した。 人口増加の要因には自然増加と社会増加の二つがある。自然増加は出生数と死亡数の差である。郡山上町の死亡率は都市について考えられるような高い値ではなかった。一八〇〇年以降の自然増加数は正であることが多いが、人口を増加させるという効果はそれほど大きくはなかった。これに対し、流入人口と流出人口の差である純流入(社会増加)は大変大きかった。 これらの二つの理由が結合して、郡山上町では徳川時代末まで人口が持続的に増加した。
篠原, 武夫 Shinohara, Takeo
(1)アメリカ帝国主義は, 米西戦争の勝利によって, スペイン領フィリピンを分割支配することになった。アメリカ帝国主義はフィピンを自国経済にとっての良き資本輸出, 製品販売, 原料供給市場として位置づけたばかりでなく, 該領を中国市場へ進出するための軍事的拠点としても高く評価していた。アメリカの植民地政策は, 産業資本の未成熟なスペイン時代における消極的な植民地政策とは異なり, 産業開発をかなり推進した。植民地主義の枠内ではあるが, 経済開発が必要であったからである。だが, その枠は本国本位を修正したものであった。農民を基盤とする革命軍の革命的性格を除去するためには民族的要求もとりいれざるをえず, また19世紀末から20世紀にかけての国際経済の発展と独占段階における激しい植民地獲得競争が, 完全な本国経済中心を許さなかったからである。したがって帝国主義国家ではあるが, 懐柔策として宗教体制を基盤とするスペイン領有時代の政治を転換し, 民主政治と独立への展望をフィリピン人に与えた。それはアメリカがフィリピン植民地支配に残した大きな特徴の一つである。アメリカは植民地化当初はフィリピン民族主義を弾圧したが, 漸次フィリピンの自治拡大を図っていった。ついに1934年にはコモンウエルス政府ができ, アメリカ統治機構の中枢であった総督制はなくなり, それに代るものとして高等弁務官制が布かれた。しかし, せっかくフィピン人独自の自治政府ができたものの, その自治には限界があり, 重要な政治, 経済権はすべてアメリカが握っていたのである。アメリカがフィリピン植民地に認めた自治体制は, いってみればアメリカ資本の利益に基づくものであり, そこには常に資本の論理が作用していたのである。
岩元, 康成
本稿では喜界島・奄美大島と薩摩・大隅地方の中世遺跡について両地域で出土した建物跡・土坑墓などの遺構と中国陶磁器などの遺物を比較し,11世紀後半から16世紀を5段階に分けて関連を検討した。11世紀後半~12世紀前半には喜界島城久遺跡群において焼骨再葬墓のように中世日本にない要素がある一方で四面庇付掘立柱建物跡・建物群内にある土坑墓など薩摩・大隅地方と類似する点が認められ,これまで文献史学から指摘されていた喜界島で九州の在地領主層,宋商人が南島での交易に関与したことが遺跡からもうかがえる。しかし12世紀後半になると喜界島・奄美大島の陸上の遺跡で中国陶磁器が減少する。この時期に南島との交易に関連した阿多忠景の平氏から追討や源頼朝により貴海島への征討などが起こっており,このような事件の影響が中国陶磁器の流通に反映されていることが考えられる。13世紀以降15世紀にかけて両地域間では,遺構・遺物の差異が目立つ状況にある。奄美大島の赤木名城は九州戦国期の山城と類似が指摘されているが,15世紀に九州の築城技術が伝えられたとは考えにくく,近世に整備された可能性がある。15世紀に喜界島・奄美大島は琉球と対立し敗れている。喜界島と奄美大島笠利地区の15世紀の遺跡が存続せず,16世紀の遺物がほとんど出土していない。集落の移動があったことが想定されるが,そこに琉球の支配がどのように関係しているのかは今後の検討課題である。
国際日本文化研究センター, 資料課資料利用係
日文研の図書館だより(内部向け)2017年3月号です。(内容)年度末の図書返却&更新のお願い / コピー機にフットスイッチがつきました。 / 本に付箋をつけたまま返却しないでください!! / 契約データベースに新しく3件追加されました。
東, 晴美
近代の歌舞伎研究については、明治以降に新作された作品、得に局外者と呼ばれる文学者が手がけた新歌舞伎に注目されることが多い。しかし、前近代に初演された純歌舞伎狂言も、近代を経て現代に伝えられている。本稿では、江戸時代に初演され、現代においても中学生や高校生の歌舞伎鑑賞教室などでも上演される機会の多い「鳴神」をとりあげる。 「鳴神」は明治期に二代目市川左団次によって復活上演された。左団次は小山内薫とともに自由劇場をたちあげ、近代劇にも深く関与した。本稿は、左団次が渡欧した一九〇七年から一九一〇年の「鳴神」の復活上演までの活動を検証し、前近代の作品が現代に継承される過程で、近代の知識がどのように関わったのかを明らかにする。 これまでの二代目市川左団次の評価は、新歌舞伎や翻訳物を手がけ、小山内薫と自由劇場を立ち上げたことから、「近代的」とされることが多い。しかし、左団次の近代性がどのようなものなのか、明らかにされてこなかった。本稿では、松居松葉と二代目市川左団次の一九〇七年における渡欧体験を分析し、左団次の近代性は一九〇七年のヨーロッパの演劇の動向と深く関わっていることを指摘した。 また、左団次が復活上演した「鳴神」は、劇評や左団次の芸談が「自然主義」に触れているため、近代の自然主義を取り入れたものと指摘されてきた。しかし、日本における自然主義は近年の研究で、十九世紀末二十世紀初頭においては極めて多義的で象徴主義や表現主義にも連なっていくことが明らかにされてきた。本稿は、このような研究成果を踏まえて、復活上演された「鳴神」にみられる自然主義が同時代の文芸思潮と密接に関係するものであったことを検証した。
藤田, 励夫
本報告で取り扱う十六世紀末から十七世紀にかけての時代、現在のベトナムには大越があり、黎朝の皇帝がハノイにあった。しかし、皇帝には実権がなく、ベトナム北部では鄭氏、中南部では広南阮氏が黎氏を名目上の皇帝にいただきながら実質支配を行っていた。両氏とも対外的には自国を安南国と称し、我が国ともそれぞれ文書を往復し交易を行っていた。これらの文書には、特異な形状の花押印を捺したものも多い。同じ漢字文化圏の文書の中でも、それらの形状は一際目を引くものである。既発表の拙稿では、安南から送られた文書だけを対象として各通を分類してその様式論を述べるにとどまったが、本稿では、このような文書様式が成立した背景を明らかにしていきたいと考えている。そのため、本稿では、外交文書のなかでも国家間のやり取りに用いられた国書三十通を分析対象にして、東アジアを中心とする漢字文化圏の文書体系の中に安南文書を位置づけることを試みてみたい。国書三十通は、発給者により鄭氏と広南阮氏のものに分けられる。さらに差出と充所の関係で整理すると、A国主から国主充、B国主から臣下充、C臣下から国主充、D臣下から臣下充、E国主から国充の五つに分類できる。これらを一通ずつ読み解きながら検討を加えていきたい。結論として、安南の国書は、東アジアで通用している書式外交文書といえるものであり、かつ、その多くが奥上に「書」を大字で表すという様式も、東アジアで多用された文書様式の一類型といえよう。特異な形態の花押印などから、一見すると際だった様式にみえる安南の国書であるが、大枠では東アジア漢字文化圏の常識的な国書の様式の範疇に収まるものと考えられる。
三河, 雅弘 Mikawa, Masahiro
本稿は、八世紀以前に成立した寺領の八世紀における実態を解明し、さらに、それと国家による土地把握との関係を検討したものである。これまでの研究は、八世紀初頭における寺領の実態や、同時期の国家による土地把握との関係について、主に八世紀中頃以降に作成された史料を軸に検討してきた。あわせて、八世紀の土地把握方法について条里地割の存在を前提に構築してきた。しかし、八世紀中頃以降の史料はあくまでも、その時点における状況を示した史料であることは留意される。また、土地把握方法についても、八世紀の広範な条里地割施工は想定できないことが近年の発掘成果によって示され、修正を求められている。そこで本稿は、八世紀以前に成立した寺領である讃岐国山田郡弘福寺領を検討対象とした。同寺領は八世紀初頭から中頃かけての史料に恵まれており、同時期における寺領の実態や国家による土地把握との関係を理解していく上で、有効な事例である。国家による土地把握については、国家が班田作業時に設定した一町の方格網の存在に注目し、それをもとに検討を進めた。検討の結果、次のことを明らかにした。八世紀の讃岐国山田郡弘福寺領は、田および田以外の地目などから構成されていた。八世紀初頭の国家は田記を作成し、同寺領における田の面積のみを把握していた。その後、国家は、八世紀中頃までに、一町の方格網による班田作業結果を記した班田図をもとに、田の所在確認を含めた把握を行っていった。これは成立が古い他の寺領に対しても同様に行われていたと想定される。さらに、八世紀中頃に入ると、寺院縁起資財帳の整備を通じて、田だけでなく田以外の地目などを含む地、すなわち寺領全体の把握へ向かっていった。このように、八世紀初頭から中頃の国家は、寺領に対して田のみの把握から田だけはなく地の把握を展開していった。そして、国家は、こうした土地把握の展開をもとに、その後、寺院による墾田を含めた新たな土地領有に対する認定や把握をしていった。
仲間, 勇栄 Nakama, Yuei
本論文では,沖縄の伝統的食文化の一つである木灰ソバの意義について,その歴史と製造の面から考察した。現在,木灰ソバは中国甘粛省蘭州,タイのチェンマイ,沖縄の三箇所で確認されている。琉球への伝来は,14世紀末の中国からの「久米三十六姓」の渡来以降説と,中国からの冊封使による来琉(1372)以降の説が有力と考えられる。この木灰ソバが一般庶民のポピュラーな食べ物となるのは,明治以降のことではないかとみられる。灰汁に使われる樹種は,戦前ではアカギ,イヌマキ,ガジュマル,モクマオウ,ゲッキツ,現在では,主にガジュマル,イジュ,イタジイ,モクマオウなどである。木灰ソバは天然の樹木の灰から灰汁を採り,それを小麦粉に練り込んでつくる。普通の沖縄ソバでは人工のかん水が使われる。天然の灰汁には,カリウムやナトリウムなどのミネラル成分の他に,微量成分が数多く含まれている。これらの無機成分は,人間の健康維持にとっても不可欠のものである。この天然の灰汁でソバを作るとき,pH値12~13,ボーメ度2~3程度が良好とされる。この天然の灰汁で作る木灰ソバは,味覚の多様性を養う健康食品として,後世に伝えていくべき価値ある麺食文化の一つである。
Delbarre, Franck
本論はビュジェー地方に位置するヴァルロメー地域で現在まだ話されている危機言語であるフランコプロヴァンス語のヴァルロメー方言の所有詞と不定詞についての考察である。今回は『ヴァルロメー方言』という書物(2001年出版)のコーパスに基づき、とりわけ該当方言の不定詞の形態とシンタックスを中心に述べる。フランコプロヴァンス語の諸方言については19世紀末から様々な研究が行われたが、戦後はむしろ研究の対象から外れる傾向にあり、現在話されているフランコプロヴァンス語の諸方言についての実態(その話者数や言語使用についてだけではなく、その言語的な発展についてでもある)はあまり知られていない。ここ20年で発行された書物(特に Stich と Martin)は形態論においては様々な情報を与えているが、シンタックス論においては大きく不足しているので、あまり話題にされていないヴァルロメー方言の形態とシンタックスのあらゆる面において研究を始めることにした。『ヴァルロメー方言』におけるヴァルロメー方言の不定詞の形態をまとめて、時折フランス語(本論の執筆者の母語でもあり、言語的にはフランコプロヴァンス語に最も近い言語でもある)の観点からも見ながらその方言の形態とシンタクスについて述べる。このような現代ヴァルロメー方言のシンタクスと形態の記述が試みられたのは初めてであろう。
林部, 均 Hayashibe, Hitoshi
郡山遺跡は宮城県仙台市に位置する飛鳥時代中ごろから奈良時代前半の地方官衙遺跡である。多賀城は宮城県多賀城市に所在する奈良時代から平安時代にかけての地方官衙遺跡である。郡山遺跡は仙台平野の中央,多賀城は仙台平野の北端に位置している。ともにヤマト王権,もしくは律令国家の支配に従わない蝦夷の領域に接する,いわば国家の最前線に置かれた地方官衙であった。本論では,このような地方官衙の成立・変遷に,古代宮都(王宮・王都)がいかなるかかわりをもったのかを,発掘調査で検出される遺構の比較をもとに具体的に検討を加えた。そして,古代宮都からの影響という視点をもとに,国家がいかにこの地域にかかわりをもち,そして支配したのかを読み取ろうと考えた。古代宮都からみた地方官衙研究の試みである。郡山遺跡・多賀城は,7世紀中ごろ以降の郡山遺跡Ⅰ期官衙,7世紀末から8世紀前半のⅡ期官衙,そして,奈良時代前半以降の多賀城と変遷する。郡山遺跡Ⅰ期官衙は城柵であり,郡山遺跡Ⅱ期官衙と多賀城は陸奥国府であった。これらの遺跡を,①造営方位,②外郭の形態とその変化,③空閑地と外濠,④官衙中枢という視点から分析し,飛鳥宮,藤原宮・京,平城宮といった古代宮都と比較検討した。そして,造営方位や外郭のかたち,官衙周辺の空閑地と外濠という点において,郡山遺跡Ⅱ期官衙に古代宮都,とくに藤原宮の影響が強く表れていることを確認した。さらに,郡山遺跡Ⅱ期官衙と多賀城とは同じ陸奥国府であるにもかかわらず,継承される点が少ないことを指摘した。また,多賀城には確かに平城宮の影響がみてとれるが,郡山遺跡Ⅱ期官衙にみられたような宮都からの強い影響はなく,むしろ,影響は小さくなっていると考えた。そして,郡山遺跡Ⅱ期官衙に古代宮都の影響が強まるのは,この時期に律令国家が,この地域の支配をいかに重要視していたかを示し,また,郡山遺跡Ⅱ期官衙から多賀城に継承される点が少ないのは,その背景に律令国家の地域支配の大きな転換があると考えた。このように地方官衙を古代宮都からみた視点で捉えなおすことは,有効な手法であり,他の地域においても,同様の視点で分析すれば,律令国家の地域支配をより具体的に明らかにすることができるのではないかと考えた。
村井, 章介 Murai, Shōsuke
本誌第一九〇集に掲載された宇田川武久氏の論文「ふたたび鉄炮伝来論―村井章介氏の批判に応える―」に対する反論を目的に、「鉄砲は倭寇が西日本各地に分散波状的に伝えた」とする宇田川説の論拠を史料に即して検証して、つぎの三点を確認した。①「村井が鉄砲伝来をヨーロッパ世界との直接のであいだと述べている」と反復する宇田川氏の言明は事実誤認である。②〈一五四二年(または四三年)・種子島〉を唯一の鉄砲伝来シーンと考える必要はなく、倭寇がそれ以外のシーンでも鉄砲伝来に関わった可能性はあるが、宇田川氏はそのオールタナティブを実証的に示していない。③一五四〇~五〇年代の朝鮮・明史料に見える「火砲(炮)」の語を鉄砲と解する宇田川説は誤りであり、それゆえこれらを根拠に鉄砲伝来を論ずることはできない。以上をふまえて、一六世紀なかば以降倭寇勢力が保有していた鉄砲と、一六世紀末の東アジア世界戦争(壬辰倭乱)において日本軍が駆使した鉄砲ないし鉄砲戦術との関係を、どのように捉えるべきかを考察した。壬辰倭乱直前まで、朝鮮は倭寇勢力が保有する鉄砲を見かけていたかもしれないが、軍事的脅威と感じられるほどのインパクトはなかったので、それに焦点をあわせた用語も生まれなかった。朝鮮が危惧していたのは、中国起源の従来型火器である火砲が、明や朝鮮の国家による占有を破って、倭寇勢力や日本へ流出することであった。しかしその間、戦国動乱さなかの日本列島に伝来した新兵器鉄砲が、軍事に特化した社会のなかで、技術改良が重ねられ、また組織的利用法が鍛えあげられ、やがて壬辰倭乱において明や朝鮮にとって恐るべき軍事的脅威となった。両国は鉄砲を「鳥銃」と呼び、鹵獲した鳥銃や日本軍の捕虜から、鉄砲を駆使した軍事技術をけんめいに摂取しようとした。
森, まり子
本稿は,チュニジアの「ジャスミン革命」と「アラブの春」を経た今日新たな意味を帯びるパレスチナ人政治学者タミーミーの著書を再読し,イスラームと民主主義の関わりについての論点を提示しようとするものである。約10 年前に出た同書は,1970 年代以来チュニジアの民主化運動で重要な役割を果たしてきた穏健なイスラーム主義者で,「ジャスミン革命」後の総選挙で第一党となったナフダ党の党首ガンヌーシーの「イスラーム的民主主義」に光を当てている。ガンヌーシーは西洋民主主義の制度と哲学を切り離し,前者をイスラーム的価値観と合体させた「イスラーム的民主主義」による独裁の終焉を構想した。マグリブの独裁と結び付いた世俗主義への彼の批判は,民主主義は世俗的であるべきという西洋的概念の自明性を問うものでもある。彼の思想は急進派が主張する「神の主権」を「人民主権」に限りなく近づけるが,イスラームの枠内の自由やプルーラリズムが前提になる点で西洋的自由概念との相剋もはらむという,イスラーム主義に共通する未決の問題点を持つ。西洋民主主義とイスラーム的民主主義の相剋は,19 世紀末以来の西洋的近代とイスラーム的近代(二つの近代)の相剋の問題でもあった。またイスラーム的近代,イスラーム的民主主義自体も,複数形でしか語り得ない多様性を持つことを本書は示唆している。
木村, 迪子 KIMURA, Michiko
西本願寺二代目能化・光隆寺知空は承応の鬩牆を契機として西吟教学からの決別を果たし蓮如義に移行したと言われる。近年、これに反論して知空の西吟教学継承を説く動きが顕著である。まず、本稿では主にテキストから検証されてきた知空による西吟教学の継承を、これまで検討されてこなかった明暦三年に行われた知空の講義録二書に注目し、その証左とする。第一に、知空が講義に選んだ『浄土或問』ならびに『仏遺教経論疏節要』が明代の禅僧・雲棲袾宏の注釈を附した和刻本であったことを指摘し、明暦三年時点で知空による西吟教学の踏襲があったことを明らかにする。次に寛文元年刊行の『和讃首書』が当時禅籍にのみ用いられていた頭書形式を踏襲していたことを指摘する。次に、明暦三年の知空の講義録『浄土或問鉤隠』が天和三年刊頭書本『浄土或問』に利用され、またその増補再版に浄土宗西山派の学僧・諦全が補考を附した事実から、元禄期における仏典注釈の交雑化を指摘する。十七世紀における頭書本仏書の流行は重板類板の規制強化を受けて急速に衰えたが、寛文末頃から不遇を託っていた知空は元禄八年の学林再興と共に能化に返り咲き、以後、今度は大坂の書林・毛利田庄太郎らと組んでその仏典注釈板行を行った。
谷川, 章雄 Tanigawa, Akio
江戸の墓誌は、一七世紀代の火葬墓である在銘蔵骨器を中心にした様相から、遅くとも一八世紀前葉以降の土葬墓にともなう墓誌を主体とする様相に変化した。これは、一七世紀後葉と一八世紀前葉という江戸の墓制の変遷上の画期と対応していた。こうした墓誌の変遷には、仏教から儒教へという宗教的、思想的な背景の変化を見ることができる。将軍墓の墓誌は、少なくとも延宝八年(一六八〇)に没した四代家綱に遡る可能性がある。将軍家墓所では、将軍、正室と一部の男子の墓誌が発掘されており、基本的には石室の蓋石に墓誌銘を刻んだものが用いられていた。将軍家墓誌は、一八世紀前葉から中葉にかけて定式化したと考えられる。大名家の墓誌は、長岡藩主牧野家墓所では一八世紀中葉に出現し、その他の事例も一八世紀前葉以降のようである。石室蓋石の墓誌の変遷は、一八世紀後葉になると細長くなる可能性があり、一九世紀に入ると、墓誌銘の内容が詳しいものが増加する。林氏墓地などの儒者の墓誌は詳細なものが多く、誌石の上に蓋石を被せた形態のものが多く用いられていた。林氏墓地では、墓誌の形態、銘文の内容や表現は一八世紀後葉に定式化し、一九世紀に入る頃に変化するようであった。林氏墓地の墓誌は、享保一七年(一七三二)没の林宗家三世鳳岡(信篤)のものが最も古いが、儒者の墓誌はさらに遡ると思われる。旗本などの幕臣や藩士などの土葬墓にともなう墓誌は、一八世紀後葉以降一九世紀に入ると増加するが、これは墓誌が身分・階層間を下降して普及していったことを示すと考えられる。一方、幕臣や藩士などの墓にある没年月日と姓名などを記した簡素な墓誌は、被葬者個人に関わる「人格」を示すものとして受容されたものであろう。このような江戸の墓誌の普及の背景には、個人意識の高まりがあったように思われる。ただし、江戸の墓誌に表徴された個人意識は、武家や儒者など身分・階層を限定して共有されるものであった。
山村, 信榮 Yamamura, Nobuhide
大宰府は九州北部の福岡平野と筑紫平野を繋ぐ溝状の地峡帯に展開し、企画性のある方眼グリット状に展開する道路を伴うため条坊プランが存在したと考えられている。文献には「左郭」「右郭」の表記があり、都城的なシステムが存在したことが考えられる。八世紀の大宰府の様相は、『万葉集』などによれば中央官人達にとっては「天ざかる鄙」の地であっても「天下の一都会」と表現され、発掘された遺構からは集住性や京師に類似した墳墓域が認められるため、都市性を設えた空間であったと考えられる。大宰府では調査で明らかにされた官衙・集住域・山城・寺院の各遺構を、八世紀から九世紀にかけての時間軸上での変遷を同時的に概観するとき、各カテゴリーに共通して八世紀後半に向かっての隆盛、九世紀に入っての潜在化と変容が認められる。九世紀には西海道各国の国庁が礎石採用・瓦所要に変化し壮麗化を果たし、工業生産の地域間分業の構造主体が国を超えて移動するなど大きな潮流の変化が見られる。そういった意味では抽出された大宰府での遺構動態の画期は、古代西海道という地域動態の変容の中で位置づけられる可能性がある。大宰府政庁の現位置での廃絶時期は一一世紀中頃と想定され、都市域である条坊機能の終焉は一二世紀前半頃に想定されている。
水澤, 幸一 Mizusawa, Kouichi
本稿では、戦国期城館の実年代を探るための考古学的手段として、貿易陶磁器の中でも最もサイクルの早い食膳具を中心に十五世紀中葉~十六世紀中葉の出土様相を検討し、遺跡ごとの組成を明らかにした。まず、十五世紀前半に終焉をむかえる三遺跡をとりあげ、非常に器種が限られていたことを確認し、次いで十五世紀第3四半期の基準資料である福井県諏訪間興行寺遺跡の検討を行った。そして兵庫県宮内堀脇遺跡や京都臨川寺跡、山科本願寺跡、千葉県真里谷城跡、新潟県至徳寺遺跡等十二例と前稿で取り上げた愛媛県見近島城跡、福井県一乗谷朝倉氏遺跡などを加え、当該期の貿易陶磁比の変遷を示した。その結果、十五世紀代は青磁が圧倒的比率を占めており、十五世紀中葉の青花磁の出現期から十六世紀第1四半期までの定着期は、一部の高級品が政治的最上位階層に保有されたものの貿易陶磁器の主流となるほどの流入量には達せず、日本社会にその存在を認知させる段階に留まったと考えられる。そして青花磁が量的に広く日本社会に浸透するには十六世紀中葉をまたねばならなかったが、その時期は白磁皿がより多くを占めることから、青花磁が貿易陶磁の中で主体を占める時期は一五七〇年代以降の天正年間以降にずれ込むことを明らかにできた。器種としては、十六世紀以降白磁、青花磁皿が圧倒的であり、碗は青磁から青花磁へと移るが、主体的には漆器椀が用いられていたと考えられる。なお、食膳具以外の高級品についても検討した結果、多くの製品は伝世というほどの保有期間がなく、中国で生産されたものがストレートに入ってきていたことを想定した。
李, 昌煕 Lee, Chang-Hee
日韓両地域における鉄器の出現は,燕国の鉄器生産能力の増大,それによる東方への普及に伴ったものと考えられてきた。その時期は戦国末から前漢初にあたると考えられているために,出現年代は紀元前3世紀をさかのぼることはない。しかしその根拠は明確ではなく,燕国における鉄器の普及は紀元前300年よりも古かった可能性が説かれつつある。このような状況の下,韓半島最古の鉄器に伴う円形粘土帯土器の実年代を,炭素14年代を用いて明らかにした結果,韓半島ではすでに紀元前4世紀には鉄器が出現していたことがわかった。この結果は,鉄器が出土した遺構の炭素14年代,弥生長期編年,そして粘土帯土器と弥生土器との併行関係とも整合的である。さらに鉄斧を中心に韓半島の初期鉄器を検討し,日本の資料との比較も行ったところ,両地域での鉄器の出現時期には大きな差はないが,その特徴は異なることもわかった。すなわち鋳造鉄斧には形態,鋳型,出土状況など多くの差異が見られるのである。しかし,これは二条突帯斧の出土事例が韓半島より日本列島の方が多いことに原因の一つがあると考えられる。したがって,日本列島を燕国の影響圏に含めることで,韓半島を介した流入ではなく燕からの直接流入と考えるのは妥当ではないと考える。日韓両地域で出土する外来系土器をふまえて考えると,日本列島最古の鉄器の出現は円形粘土帯土器人の移住と係っている。円形粘土帯土器は日韓地域ともに在地系ではなく外来系の土器である。円形粘土帯土器人がもっていた初期鉄器とその技術および使い方が,移住地への定着過程で,在地の環境の違いによって変わっていったと考えられる。当時の松菊里文化と弥生文化における取り込まれ方の違いによって両文化の鉄器に対するあり方も異なってくるだろう。
西川, 和孝 Nishikawa, Kazutaka
雲南への漢人移民の進出は,14世紀に明朝の版図に組み入れられたことに始まり,人口爆発に伴う大量の漢人移民の流入を迎えた18世紀末にそのピークに達する。従来,雲南の移民史において,雲南省外の他地域から移住してくる漢人移民の動向に焦点が集まりがちであり,省内の移民についてはほとんど省みられてこなかった。本稿では,石屏の事例を通して,こうした一方的な議論に対して別の見方を提示する。石屏盆地では明代に屯田が設置されたことをきっかけに漢人移民が入植し,官主導による耕地開発が始まった。この際に官側は,(1)貯水池灌漑(2)水車利用による灌漑(3)囲田といった水利技術を活用し,治水工事と合わせて,耕地面積を拡大していった。その結果,石屏では人口増加が引き起こされ,他地域への移住へとつながる環境が整えられたのである。さらに官は,耕地開発で得た経済力を背景として人材の育成を目指し,教育施設の充実を図った。官主導の教育の普及と耕地開発の恩恵が民にも及んだことで,民間経営による私塾が登場し,優秀な人材を多数輩出するようになった。彼らは科挙に合格し,官吏として全国に散っていっただけでなく,教師としても周辺地域から招聘を受けた。そして,こうした人々が地縁を中心としたネットワークを構築することで移民活動の一助となった。すなわち,石屏盆地において,官の水利事業による耕地面積の拡大が,人口増大を可能にし,民が移住する社会的環境を作り上げたのである。雲南の移民史を論じる上で,これまで指摘されてきたような他省からの移住という視点だけでなく,石屏盆地の事例の如く,雲南省内の耕地開発が発端となり,地元社会内部から移住へとつながる動きが生じてきたことにも目を向けるべきであろう。
高橋, 美貴 Takahashi, Yoshitaka
本稿は,19世紀末――具体的には1880年代――以降,農商務省の主導のもと各府県によって進められた水産資源の保全政策(「保護繁殖」政策)を,①当該政策が明治政府の勧業政策史上において占める位置と②実際の「生業」活動の現場で当該政策を受けとめることとなる漁民たちの立場,という二つの視点から位置づけたものである。本稿では「保護繁殖」政策を,〈多額の財政支出を伴う水産技術の高度化〉ではなく,〈資源保全を通した水産資源量そのものの増強による水産業の育成政策〉と定義し,在来の伝統的生産技術の見直しなど「金をかけずに最大の勧業的効果」を狙うという明治政府による勧業政策の転換と連動して,1880~1890年代にかけて進められた水産政策であったと位置づける。そのうえで20世紀初頭に至り,水産政策の比重が「保護繁殖」から水産技術の高度化にシフトしてゆくこと―すなわち〈水産資源量の増強による水産業育成〉から〈技術的高度化による水産業育成〉へと転換してゆくこと―を展望した。一方で,「保護繁殖」政策は,特定漁具の使用禁止や禁漁区の設定などという形で実施されることが多く,実際の政策現場においては生業抑圧的な側面を持った。当該政策は,水産資源を経済性の高い「主産」魚と経済性の低い非「主産」魚とに区分し,そのうえで非「主産」漁業に禁漁などの犠牲を強いつつ,「主産」魚の「保護繁殖」を優先的に進めようとする。具体的には,非「主産」漁業に乱獲漁業というレッテルを貼り,警察機構を導入しつつ,それを禁則漁業として押しつぶしてゆくのである。この結果,「保護繁殖」政策は,近世以来継承されてきた,非「主産」漁業を含む水面の多様な利用体系およびそれをめぐって形成されてきた生業・生活世界への圧力という形で表れることとなった。
松木, 武彦
古墳の形と要素がしめす意味を具体的に復元するために,本論では「水」の表象に着目して,認知考古学的検討を行った。古墳に埋め込まれた水やその表象の変遷を,(1)リアルな水,(2)ヴァーチャルな水,(3)水と関連する造形,(4)水との空間関係,の4項目に分けて,主として考古学的コンテキストからの類推によってあとづけた。その結果,古墳がしめしていた意味の変化を,次のように明らかにした。まず,紀元後1~2世紀(弥生時代後期)には古墳の前身である周溝墓が「堀をうがち」「田を拓く」表象と行為を抱いた。3世紀前半に周溝墓が纏向型前方後円墳に発達する上で「水をまつる」表象と行為を加えた。3世紀中葉~4世紀中葉に定型化する大型前方後円墳は「山」の表象と化して「水」の表象もまたそこに階段化された。4世紀後半から5世紀には「水」の表象と行為は広域化し,「山」としての墳丘に至る経路を表現した。最後に6世紀には朝鮮半島の古墳と意味が同一化して,それまでの意味の変化プロセスは停止した。
宮城 徹 Miyagi, Toru
10世紀後期の修道院復興期において、イングランド東部のイースト・アングリア周辺には多数の修道院が復興・創設された。本稿では、その中からソーニー修道院を考察の対象に取り上げ、創設以後11世紀後期に至るまでの所領形成のための土地集積のプロセスを検証すると共に、そのような歴史的経験を踏まえて11世紀後期の史料に現われる修道院の所領景観について歴史地理学的見地より考察を行なった。結果として、当該期の史料に現われるその所領景観の性格が、修道院の歴史的経験に根差して形成されていることを明らかにした。
高久, 健二 Takaku, Kenji
本稿は加耶地域出土の倭系遺物を総合的に解釈し,韓国側における対倭交渉の実態およびその変化を明らかにすることを目的とする。具体的には加耶地域出土の倭系遺物を3世紀後半~5世紀前葉と5世紀中葉~6世紀前半の二時期に分けて,その出土様相,分布,時期などについて検討した。その結果,まず3世紀後半~4世紀については,大成洞古墳群の倭系遺物が注目され,とくに大型木槨墓である大成洞13号墳に複数の倭系遺物が副葬されている点から,倭との交渉を主導していたのは金海の上位階層であり,これらを通じて倭系遺物がセットでもたらされたものと推定した。また,南部地域出土の土師器および土師器系土器は,その様相からみて,3世紀後葉~5世紀前葉に倭から渡来した人々が在地の集団とともに一定期間生活していたことを示すものであるが,倭人集団が数世代にわたって長期定住した可能性は低いと考えられる。したがって,その目的は政治的な移住などではなく,南部地域の鉄を入手するための比較的短期間の断続的な渡来ではなかったと推定される。また,倭系遺物の分布が南部海岸地域に集中しており,内陸部ではほとんど出土していないことからみて,当時の対倭交渉の窓口が南部地域に限定されていたものと推定した。5世紀中葉~6世紀前半になると,内陸地域でも倭系遺物が出土するようになり,前時期に比べて分布域が拡大する。とくに,大伽耶の中心地である高霊地域では,池山洞古墳群などで倭系遺物が比較的多く出土している。しかし,倭系遺物の分布の拡大が,そのまま倭人の行動範囲の拡大を意味するものではなく,5世紀後半以後も倭が加耶と直接交渉する地域は,南部海岸地域に集中していた可能性を指摘した。5世紀後半になると内陸の大伽耶地域と,固城などの南部海岸地域とのネットワークが確立し,これに起因して倭系遺物の分布が内陸地域に拡大したものと考えられる。つまり,倭系遺物の拡大はこのようなネットワークを背景にして南部海岸地域から内陸部へ再分配された結果であり,加耶における倭人の活動範囲はかなり限定されていたのではないかと推定した。
春成, 秀爾 Harunari, Hideji
哀悼傷身の習俗の一つに抜歯がある。この抜歯は18~19世紀のハワイ諸島の例が有名である。抜く歯は上下の中・側切歯であって,首長や親族の死にさいして極度の哀悼の意をあらわすために1回に2本を抜く。文献記録では,16~18世紀の中国の四川省や貴州省に住んでいた佗佬の例がもっとも古い。しかし,考古資料では,徳島県内谷石棺墓の男性人骨に伴った女性の上顎中切歯1本が哀悼抜歯の存在をしめしており,4世紀までさかのぼる。中国新石器時代の抜歯は,7000年前に上顎の側切歯を抜くことから始まる。抜歯の年齢・普及率からすると,成人式とかかわりをもつと考えてよい。中国では4500年前になると,この習俗はいったん衰退する。まもなく今度は上下の中・側切歯を抜くことが安徽・江蘇・山東付近で始まる。抜歯の年齢はあがり,その頻度は低くなる。新たに始まったこの抜歯は死者に対する哀悼のためであった,と私は推定する。上下の中・側切歯を抜いた例は,モンゴル(~19世紀?),シベリア(新石器~19世紀?),アメリカ(15世紀以前~19世紀?),日本(縄文前期~6世紀=古墳時代),琉球(縄文~13世紀),ポリネシア(18~19世紀)で知られている。中国新石器時代に発祥した哀悼抜歯が数千年かけてアジア・アメリカ・太平洋にひろがっていったことを,これらの事実は示唆している。ポリネシア・シベリア・モンゴルでは,髪を切り身体を刀で傷つける哀悼傷身は,首長や親族との特別に親密な関係を表現し更新する役割を果たしている。考古資料にのこされている哀悼抜歯の痕跡は,墓の内容,男女の別などを考慮することによって,抜歯された人物の社会的な位置を探り,さらにはその社会の構造を解明していく手がかりとなる可能性を秘めている。
齋藤, 孝正 Saito, Takamasa
日本における施釉陶器の成立は7世紀後半における緑釉陶器生産の開始を始まりとする。かつては唐三彩の影響下に奈良時代に成立した三彩(奈良三彩)を以て,緑釉と同時に発生したとする考え方が有力であったが,今日では川原寺出土の緑釉波文塼や藤原京出土の緑釉円面硯などの資料から,朝鮮半島南部の技術を導入して緑釉陶器が奈良三彩に先行して成立したとする考え方が一般化しつつある。なおこの時期の製品は塼や円面硯などの極僅かな器種が知られるのみである。奈良時代に入ると新たに奈良三彩が登場する。唐三彩は既に7世紀末には早くも日本に舶載されていたことが近年明らかにされたが,新たに三彩技術を中国より導入し成立したと考えられる。年代の判明する最古の資料は神亀6年(729)銘の墓誌を伴う小治田安万呂墓出土の三彩小壺であるが,その開始が奈良時代初めに遡る可能性は十分に存在する。奈良三彩の器形は唐三彩を直接模倣したものはほとんど見られず従来の須恵器や土師器,あるいは金属製品に由来するものが主体となる。ここに従来日本に存在しなかった器形のみを新たに直接模倣するという中国陶磁に対する日本の基本的な受け入れ方を見て取ることができる。奈良三彩は寺院・宮殿・官衙を中心に出土し国家や貴族が行なう祭祀・儀式や高級火葬蔵壺器として用いられた。なお,先の緑釉陶器の含め三彩陶器を生産した窯跡は未発見である。平安時代に入ると三彩陶器で中心をなした緑釉のみが残り,越州窯青磁を主体とする新たな舶載陶磁器の影響下に椀・皿類を主体とする新たな緑釉陶器生産が展開する。生産地もそれまでの平安京近郊から次第に尾張の猿投窯や近江の蒲生窯などに拡散し,近年では長門周防における生産も確実視されるようになった。中でも猿投窯においては華麗な宝相華文を陰刻した最高級の製品を作り出して日本各地に供給しその生産の中心地となった。
東野, 治之 Tono, Haruyuki
大嘗会の際に設けられる標の山は、日本の作り物の起源に関わるものとされ、主として民俗学の分野からその意義が注目されてきた。しかしその歴史や実態については、いまだ未解明の点も多い。本稿では、まず平安初期の標の山が中国風の装飾を凝らした大規模なものであったことを確認した上で、『万葉集』に見られる八世紀半ばの歌群から、新嘗会の標の山が、同様な中国風の作り物であったことを指摘する。大嘗会は本来新嘗会と同一の祭りであり、七世紀末に分離されて独自の意味をもつようになったとされるが、そうした経緯からすれば、この種の作り物が、当初から中国的な色彩の濃いものであったことも容易に推定できる。そのことを傍証するのが、和銅元年(七〇八)の大嘗会の状況であって、それを伝えた『続日本紀』の天平八年(七三六)の記事は、作り物の橘が金銀珠玉の装飾とともに用いられていたことを示している。従って、大嘗会の標の山は、大嘗会の成立に近い時点で中国的な性格を持っていたわけで、その特色はおそらく大嘗会の成立時点にまで遡るであろう。このように見ると、標の山は神の依り代として設けられたもので、本来簡素な和風のものであったが、次第に装飾が増え中国化したとする通説には大きな疑問が生じる。そこで改めて標の山の性格を考えると、その起源は、すでに江戸時代以前から一部で言われてきたように、儀式進行上の必要から設けられた標識にあり、それが独自の発展を遂げたものと解すべきである。なお、大嘗会の標の山について、その形態をうかがわせる史料は限られているが、元慶六年(八八二)の相撲節会に用意された標の山に関しては、菅原道真が作った文から詳細が判明し、大きさや装飾が大嘗会のものと類似していたことがわかる。この文についての従来の読みには不十分な点があるので、改めて訓読を掲げ参考とした。
並木, 誠士 Namiki, Seiji
本稿の目的は,まず,「食」の多様な在り方がわが国の絵画,特に絵巻物の中でいかに描かれてきたのかを概観することである。そして,食風俗の絵画化の歴史の中で,室町時代の前半の《慕帰絵詞》と後半の《酒飯論絵巻》とを二つの転換点にある作品として位置付けることが本稿の第二の目的である。絵巻物においては,詞書に直接記されていないものの,主題・ストーリーを肉付け,また,画面を豊かに膨らませていくものとして食風俗の描写が多く取り入れられている。このように点景が多様になる傾向は,十三世紀末の《一遍聖絵》あたりから見られ,十四世紀になると《春日権現霊験記》《慕帰絵詞》などをはじめとして多くの作例に見られる。このような「絵巻物の饒舌化」ともいえる大きな流れの中で,特に食風俗に関して大きな転換点となる作品が《慕帰絵詞》であり,《酒飯論絵巻》である。《慕帰絵詞》における食風俗表現の大きな特徴のひとつは,食事の情景とその舞台裏にあたる厨房の情景を均等な眼で扱っている点であり,それをさらに徹底させて画家と同時代の食風俗を積極的に絵画化した作品が《酒飯論絵巻》である。そして,《酒飯論絵巻》の風俗表現の特色であった当世風俗の積極的描出と物事の表と裏とへ均等に向ける眼差しは,室町時代後期から桃山時代にかけての風俗画全盛の傾向に大きく拍車をかけることとなった。つまり,食風俗描写の流れにおいて,先行作品からの飛躍という点で《慕帰絵詞》を第一の転換点とし,それをさらに徹底させて後続作品へ大きな影響を与えたという点で《酒飯論絵巻》を第二の転換点とすることができるのである。そして,このような近世の風俗画の先駆をなす点景風俗の充実が,食風俗の描写を契機としていたという点に,「食」が人間の生活にとって欠くことのできない営みであり,関心の対象であったことが伺えるのである。
池谷, 初恵
本論は先島諸島と奄美地域で出土する貿易陶磁の数量分析データに基づき,各遺跡の出土量の消長や種別の変化に言及し,琉球列島の南北における貿易陶磁の動態を論じたものである。別稿の報告において,貿易陶磁の編年に基づきⅠ~Ⅵ期,小期を含め7段階に時期区分を行ったが,それぞれの遺跡をこの時期区分に照らし,先島諸島における以下の4つの画期を想定した。1:貿易陶磁の出土量が増加する13世紀後半,2:貿易陶磁の出土量がさらに増加し,主体が白磁から青磁に変換する14世紀後半,3:遺跡により出土量の増減に特徴がみられる15世紀後半,4:一部の遺跡を除き多くの遺跡において出土量が激減する16世紀初頭~前半である。これらの画期を踏まえて先島諸島の貿易陶磁の様相をみていくと,貿易陶磁が一定量出土する時期が沖縄諸島に比べて1世紀以上遅れることが明らかとなった。また,13世紀後半~14世紀前半に浦口窯系白磁・ビロースクタイプI・II類など福建産粗製白磁が主体的に出土し,14世紀後半に白磁と青磁の劇的な逆転現象が起きる。以上の先島諸島における貿易陶磁の画期と様相は,これまで琉球列島として一括りで捉えられてきた様相とは大きく異なるものである。この画期と様相は,先島諸島特有の「細胞群のように連結する石垣による屋敷割」をもつムラの成立・形成過程と関連することが予想される。
高橋, 照彦 Takahashi, Teruhiko
本稿は,日本の三彩・緑釉陶器についての理化学的分析結果を検討し,そこからその歴史的意味を見いだそうとするものである。主な検討結果は,以下の通りである。まず,奈良三彩・平安期緑釉陶器では,いずれも釉薬の鉛同位体比がほぼ集中する値を示し,古代銭貨の多くや古代鉛ガラスとも一致し,山口県の長登周辺産の鉛を用いていたことが明らかとなった。また,釉薬の化学組成には,産地差が存在し,年代に伴って変化していることも指摘できた。さらに,鉛釉(鉛ガラス)の原料調達の変遷については,次のような段階設定を見いだすことができた。 Ⅰ段階(7世紀第3四半期頃の短い期間)海外産鉛原料による国内生産の段階。 Ⅱa段階(7世紀後半~8世紀初め頃)長登鉱山を初めとする国内各所の鉱山から原料供給を受けて,生産地で方鉛鉱を直接粉砕して釉(あるいはガラス)原料にする段階。 Ⅱb段階(8世紀前半~9世紀初め頃)長登鉱山周辺から方鉛鉱あるいは金属鉛の供給を受けて,生産地で鉛丹を製成して釉(あるいはガラス)原料にする段階。 Ⅱc段階(9世紀前半~12世紀前半頃)長登鉱山周辺などから産出された鉛原料をもとに鉛丹あるいは鉛釉フリットなどが製成され,その供給を受けて釉(あるいはガラス)を生産する段階。 Ⅲ段階(12世紀後半頃以降)対馬の対州鉱山などから鉛ガラス原料の供給を受けて生産する段階。
濱島, 正士 Hamashima, Masaji
中国の福建省地方は、中世初頭の東大寺再建に際して取り入れられ、以後の日本建築に大きな影響を与えた大仏様ときわめて関係が深い地域とされている。その福建省に残る十世紀から十七世紀にかけて建立された古塔について、構造形式、様式手法を通観し、その時代的変遷を考察するとともに、十二世紀以前の仏堂遺構も加えて大仏様との関連を探ってみる。
高木, 正朗
この論文の目的は三つある。連続した人口記録がある場合、第一に世帯と家族のライフサイクルの始まりと終わりとを境界づける良い方法があるか、第二に世帯構成の変化を測定する最善の方法は何か、第三に極めて短期間だけ居住して移動していく都市の下層世帯においても、家族周期が観察されるかどうかを探求することである。こうした課題を検討する素材として、一七世紀中期から一九世紀末にかけて作成された宗門改帳は最適である。 第一の課題については、たとえば、世帯の始まりは一人の成員が世帯主の地位についた(換言すれば相続あるいは分家した)時点であり、世帯の終わりはその地位を他の成員に手渡した(あるいは世帯が潰れた)時点であると定義してみよう。宗門改帳では世帯主を一番目に書き上げているので、世代間における世帯主の地位の移動すなわち世帯周期はすぐに発見できる。他方でこれと平行して、結婚に始まり配偶者の死亡あるいは離婚で終わる家族周期が展開されているので、これを追跡すれば、両サイクルの開始と終了およびその相互関係がはっきりする。 世帯構成は一年毎に変化するといっても過言ではない。また都市と農村の宗門改帳には、経済的、人口学的変化に応じてすべての形態の家族(核、直系、複合家族世帯)が出現するが、この変化をとらえる枠組みとしてハンメル=ラスレット、小山=スミス、リー=ジェルデなどの分類スキームが利用可能である。複雑でたえず変化する世帯の構造を漏れなくとらえる分類スキームとして、前記のどれが最適化を判断することが第二の課題である。そのさいに、宗門改帳は理想的な素材となることが示される。 三番目の課題を明らかにするために、筆者は鶴福院町に六年未満在住した世帯をすべて集めて簡単なデータベースを構築した。このデータから、筆者は全世帯の少なくとも七〇%が核家族のライフサイクルを辿るのではないかと推定した。このことの含意は重要である。なぜなら日本の研究者たちは、都市下層の人々は家族を形成し発達させる十分な基盤をもたなかったと考えてきたからである。 ここでは、一九世紀の奈良の二つの町とそこから七㎞離れた一つの農村(興隆寺村)の宗門改帳が使用されている。ところで、たとえ同じ身分に所属していても、資産の大きさ(と経営法)によって世帯には階層差があった。それでここでは、階層差を示す資産・家業情報をも利用して、宗門改帳に登録された世帯を三~四の社会階層に分類する。そうして各階層から典型世帯を選び一年毎の発展が追跡される。
楊, 海英
清朝の光緒年間の初期に,「中興の臣」とされる左宗棠の部下で,湖南出身の劉福堂(別名劉厚基)という人物が赴任先の陝西の要塞都市である楡林で『圖開勝跡』という漢籍を編集した。同書には清朝末期の楡林地域の碑刻などが数多く抄録されているだけでなく,ときの辺疆における軍事状況を反映した絵画や隣接するオルドス・モンゴルを描いた地圖と絵画,さらにはオルドス・モンゴルの盟長をつとめていたバダラホ(1808–1883)が書いた満洲語の文章も収められている。こうした豊富な内容を有する『圖開勝跡』は清朝の西北部から中央アジアの東部までを巻きこんだ回民反乱時の陝西地域とオルドス地域の社会を活写した第一級の資料である。 劉福堂とバダラホ王の二人は協力し合って陝西北部の回民反乱軍を鎮圧した。反乱鎮圧後,バダラホ王は劉福堂の本『圖開勝跡』のなかに「凱旋圖」を書き添えて,自分の戦功をアピールした。「凱旋圖」にはオルドスの7 つの旗内にある寺院や遊牧民の天幕と家畜群,それに王(ジャサク,札薩克)の住む宮殿が活写されている。本論文ではまず「凱旋圖」が成立した歴史的な背景を解説し,その上で同圖が伝えるオルドス7 旗の歴史的・民族学的情報を抽出し整理する。バダラホ王の「凱旋圖」は19 世紀末のオルドス・モンゴルの政治と社会を研究するのに欠かせない重要な資料であることが明らかになった。
小澤, 佳憲 Ozawa, Yoshinori
これまでの弥生時代社会構造論は,渡部義通に始まるマルクス主義社会発展段階論の日本古代史学界的解釈に大きく規定されてきた。これに対し,新進化主義的社会発展段階論を基礎に新たな弥生時代社会構造論を導入することが本稿の目的である。北部九州における集落動態を検討すると,前期末~中期初頭,中期末~後期初頭,後期中葉に大きな画期が認められる。この画期の前後における社会構造を比較した結果,弥生時代前期には入れ替わり立ち替わり現れる環濠集落を集団結節点とした平等的な部族社会が形成されていた。これに対し,弥生時代中期には丘陵上に一斉に進出した集落同士が前期的な集団関係をベースとして新たな集団関係を構築し,区画墓・大型列状墓・大型建物などの場において行う祖先祭祀をその強化手段として新たに導入した。これらは不動産であったことから,前期とは異なり拠点集落が固定化され,その結果潜在的な優位集団が成長することとなった。中期末~後期初頭の画期は,中期における潜在的な優位性が表面に表れる画期であり,それに伴い,集住現象と,集落内に潜在していた分子集団の顕在化,そして集団の各位相においてその境界を明瞭化する動きが現れる。これは,優位集団の存在が社会的に顕在化したことに伴う自集団の範囲の明確化と集団の大型化の動きと理解できる。その後,集団間の優劣関係が明瞭化したことにともない劣位集団が優位集団の系列下に取り込まれる動きが後期を通じて進行するのである。以上の社会構造の変遷をふまえると,弥生時代前~中期を部族社会,後期を首長制社会として位置づけることができよう。
桒畑, 光博
都城盆地の古代の集落様相と動態に関する3つの課題を提示して,横市川流域の遺跡群の集落遺跡の類型化とその性格を推定した上で,同盆地内のその他の遺跡との比較も行ってその背景を考察した。①都城盆地内において,8世紀前半に明確ではなかった集落が8世紀後半に忽然と現れる現象については,8世紀後半以降の律令政府による対隼人政策の解消に伴って南九州各地にも律令諸原則が適用されるようになる中で,いわゆる開墾集落が形成されはじめた可能性を指摘した。②遺跡数が増大する9世紀中頃から10世紀前半には,複数の集落類型が併存しており,中にはいわゆる官衙関連遺跡や地方有力者の居宅跡も存在する。郡衙が置かれた場所ではないが,広大な諸県郡の中の中心域を占め,開発可能な沖積地を随所に擁する都城盆地において,国司・大宰府官人・院宮王臣家などとのつながりが想定される富豪層による開発が進展するとともに,物資の流通ルートを担う動きが活発化して,集落形成が顕著となり,各集落が出現と消滅,変転を繰り返しながらも見かけ上は継続的に集落形成が行われていたと推察される。貿易陶磁器や国産施釉陶器などの希少陶磁器類の存在から看取される都城盆地の特質としては,南九州内陸部における交通の結節点をなす場所として重要な位置を占めていたことに加え,一大消費地でもあったことも指摘できる。③10世紀前半まで継続した集落が10世紀後半になると衰退・廃絶し,全体的に遺跡数が減少するという現象については,10世紀から11世紀にかけて進行した乾燥化と温暖化,変動幅の大きい夏季降水量など不安定な気候の可能性に加え,当該期における集落形成の流動性と定着性の薄弱さを考慮すべきである。当時,開発の余地が大きい都城盆地に進出していた各集団の多くは,自立的・安定的な経営を貫徹するには至らなかったと思われ,当時の農業技術水準の問題もあり,激化する洪水などの自然環境の変化に対しては十分な対応がとれなかった社会状況があったことも想定できる。
西川, 和孝 Nishikawa, Kazutaka
18 世紀半ばから19 世紀後半にかけて元陽県一帯には、多くの漢人が流入した。 清朝政府は関所を設けるなどの措置を施したが、漢人の流入を阻止することは出来なかった。その結果、当該地域で人口の増加が生じ、それにともない開発が行なわれ、生態環境に大きな影響を与えることとなったのである。
高橋, 照彦 Takahashi, Teruhiko
本稿では,土器・陶磁器類の流通・消費という側面に焦点を当て,都市とその周辺村落との比較という視点から,平安京とその前後の時期を考古学的に検討した。まず,11世紀中頃以前の平安京については,緑釉陶器・緑釉陶器素地や黒色土器などの食膳具の比率に着目し,平安宮と平安京は比較的均質であるのに対して,平安京の内と外には明瞭な差異が存在することを導きだした。次に,11世紀後半~14世紀前半頃をみてみると,中世京都内では土師器や漆器の供膳具が主に使われるのに対して,京外では土師器と瓦器が食器構成の主体を占めることを明らかにし,平安京段階からの延長で京の内外の格差が存在することを確認した。さらに,平安京と平城・長岡の両京とを比較検討した結果,都の内外落差が顕著になるのは9世紀中頃以降であると判断された。それらのことから,『方丈記』の養和年間(1181~82)の記述に窺われる京都の同心円的な空間構造が食器という生活面の一様相からも読み取れ,さらにその構造が9世紀中頃まで遡ることが推測された。そして,14世紀頃から「洛中辺土」さらには「洛中洛外」という洛中と周辺部を一体化させた熟語が使われるようになるのも,その頃から京内外の食器様相の格差が乏しくなっていくことに典型的に見いだされる生活相の変化と対応するものと考えた。さらに,文献的には明確な都鄙意識が10世紀中頃に成立するとみなされているが,土器からすると実態としての生活落差はより先行して9世紀中頃に画期をみいだすことができ,その頃に都市化としての大きな転換点をみいだしうる可能性を提示した。
前嶋, 敏 Maeshima, Satoshi
本論文は、一七世紀中葉~一八世紀前半の米沢藩中条氏における戦国末期~近世初頭の当主の系譜に対する認識について、中条氏に伝来した系図・由緒書等および同氏の文書整理・管理の状況から検討するものである。本論文では以下の点を指摘した。①中条氏では、一七世紀中葉~後半頃の段階においては、戦国末期の当主が忘れられている状態であり、とくに中条景泰という当主の名を認識していなかった。しかし、一八世紀前半にはそれを景資という当主の改名後の名としている。なお、さらにその後に作成された系図等では景資と景泰は別人と理解されている。②中条氏では、一七世紀中葉以降には、文書の整理・収集等を通じて系譜の復元が行われていた。そして元禄四~七年の間に景泰の名を記す文書を収集し、その名を認識するにいたったと考えられる。また同氏では一七世紀後半までの文書整理と同じ方針でそれ以後も管理を継続していた。このことは、中条氏が同氏の系譜・由緒等に対して高い関心を持ち続けていたことを示しており、戦国末期の当主に対する認識をその後さらに変化させたことにもつながっていたと思われる。
大隅, 亜希子
古代社会における布とは,衣服や工芸品の材料のみでなく,貨幣価値をもつ財貨であった。そのため,産地,品質の異なる製品を,一定の規格に統一して,「端」「段」などの単位で管理していた。調布,庸布とよばれた古代の布とは麻布である。調布1端は,長さ4丈2尺,幅2尺4寸に規格され,庸布1段は,長さ2丈8尺,幅2尺4寸であった。「端」と「段」とは,数える品物,規格も異なる単位であるが,10世紀になると,「端」と「段」との書き分けが曖昧になる。11世紀以降には,その区別は消滅し,「端」と「段」とが混用されている。そこで,本稿では8世紀から11世紀の社会の中で,「端」と「段」の書き分けが,変化する過程を,正倉院文書,『延喜式』,そして10世紀から11世紀の史料により具体的に跡づける。中でも,『延喜式』には,たくさんの繊維製品に関する情報がある。『延喜式』にみる「布」に関する情報が,式制下当時の姿を伝えている可能性を推測する。そして,その姿が,古代社会から中世社会への過渡的段階であることを指摘する。
青木, 賜鶴子 松本, 大 加藤, 洋介 藤島, 綾 海野, 圭介 小林, 健二 小山, 順子 田村, 隆 本廣, 陽子 神作, 研一 一戸, 渉
『伊勢物語』の注釈はすでに平安時代末から歌学の一部としておこなわれていたが、注釈書として成るのは鎌倉時代である。「古注」と呼ばれるそれは、『伊勢物語』を在原業平の一代記として、ときに強引に物語を読み解く。すなわち物語の出来事はすべて現実の事件の反映であるとし、主人公業平は色好みの末に何千人もの女性と契りを結んだとされる。このような古注の方法は、室町時代中期、実証を重んじた一条兼良の『伊勢物語愚見抄』によって批判され、「旧注」の時代を迎える。続いて出た宗祇と三条西実隆・公条・実枝三代の注釈は、おもに講釈の聞書として残るが、色好み否定と教訓的解釈を特色とし、鑑賞にも力を入れた。江戸時代に入り、細川幽斎や北村季吟はこれを集大成した。江戸時代中期以降の「新注」は、契沖の『勢語臆断』が文献資料を駆使して実証的に注釈したのを嚆矢として、中世の師資相承のあり方から離れて、近代の注釈へと繋がってゆく。
永田, 良太 NAGATA, Ryota
複文とあいづちをはじめとする聞き手の言語的反応に関しては,文(発話)を産出する話し手と文(発話)を理解する聞き手の観点からそれぞれ研究が行われ,その構文的特徴や談話における機能がこれまで明らかにされてきた。本稿においては,そこでの研究成果に基づきつつ,談話の中で観察することにより,次の2点を明らかにした。Ⅰ.従属節末と主節末とでは聞き手の言語的反応が異なる。Ⅱ.従属節末における聞き手の言語的反応は従属節の従属度と密接に関わる。従属節末に比べて,主節末では情報の充足を前提とした聞き手の言語的反応が多く生起する。また,同じ従属節末でありながら,B類のタラに比べてC類のケドやカラの従属節末には多くのあいづちが見られ,その中でも理解や共感を示すあいづちが特徴的に見られる。これには複文という文の形やC類の従属節が持つ情報の完結性という特徴が関わっており,複文発話に対する聞き手の言語的反応は発話の構文的特徴と密接に関わると考えられる。
青井, 隼人 AOI, Hayato
南琉球宮古多良間方言は,下降の有無と位置によって区別される三型アクセント体系を有する。3つのアクセント型の区別は,常にどのような環境においても実現するわけではなく,様々な環境において様々な組み合わせで中和する(青井2012, 2016a, 2016d)。本稿では,当該韻律句内に含まれる韻律語数が1で,かつ当該韻律句末と発話末とが一致しない環境(いわゆる接続形)において観察される2種類のアクセント型の中和に焦点を当てる。本研究では,上記の環境における2種類の型の中和を説明するため,五十嵐(2015)を参考に,2つの作業仮説を立てる。すなわち①下降2型(F2型)のアクセント規則の改定と②「韻律句の拡張」である。本稿では以上の2つの仮説を検証するためにおこなった現地調査の結果を報告する。本研究の調査結果はいずれの仮説に対しても否定的な結果を得ており,したがって① F2型のアクセント規則の改定は妥当ではない,そして②「韻律句の拡張」を仮定することは妥当ではないと結論づける。
春成, 秀爾 Harunari, Hideji
3~6世紀の古墳に立てた埴輪のうち,4~6世紀のとくに円筒埴輪に,数は少ないけれども絵を描いた例がある。鹿と船がもっとも多く,鹿狩りをあらわした絵もある。それ以外の絵はとるにたらないほどであるけれども,そのほかに記号風の表現がある。鹿と船の絵は弥生時代,前1世紀の土器にしばしば描かれた。しかし,それらは1~2世紀になると記号化し,3世紀になると消滅していた。弥生土器と埴輪の画風とはよく似ている。それは,どちらも原始絵画に共通する多視点画・イメージ画だからである。弥生土器が農耕の祭りに使ったのに対して,埴輪は亡くなった首長など支配者の墓に立てるものである。鹿狩りの絵は弥生土器が神話のなかの狩人を描いているのに対して,埴輪のばあいは被葬者の首長を描いているのであろう。西日本の弥生遺跡から鹿の骨が発掘されることは少ない。稲作を始めた弥生時代には,鹿を土地の精霊とみなし,狩ることを制限していたのであろう。それに対して,埴輪の絵から推定すれば,古墳時代になると,首長だけは鹿を狩る資格をもっており,土地の主を殺すことは,その土地を奪うことを象徴的にあらわしていた,と考える。その一方,奈良県東殿塚古墳(4世紀)の埴輪に描いてある絵の船は,舳先に鶏がとまって水先案内役をつとめている。鶏は朝を告げる神聖な鳥である。被葬者を日つまり生の世界に導くために船にのせているのだとすれば,この時期には被葬者の再生を願う観念があったのかもしれない。九州の6世紀の古墳壁画には,太陽の照る日の世界から,月がでている夜の世界に向かって被葬者をのせた船が航行していく様子を描いている。近畿と九州,4,5世紀と6世紀とのあいだには,違う死生観が存在していたのであろう。
関, 周一 Seki, Shuichi
本稿は、中世における都市の流通・消費を考える一環として、唐物の流通と消費を考察するものである。特に一五~一六世紀前半の京都を中心に検討する。一一~一六世紀前半、宋商船や、寺社造営料唐船や遣明船などを通じて、中国大陸から京都に唐物が流入した。一五世紀には朝鮮王朝との貿易も開始され、特に同世紀前半には、明・朝鮮王朝・琉球王国の使節が京都を訪れて唐物をもたらし、唐物流入のピークを迎えた。京都における唐物消費の事例としては、宴や儀式・法要の室礼や法会の捧物があげられる。贈答品の中にも唐物はみられ、天皇・院・足利将軍が臣下らに下賜する場合や、八朔のような年中行事において贈答される場合があった。贈答品の中には、伝世品も含まれていた。一五~一六世紀には、独自に貿易を行っていた島津氏・大内氏らから京都に唐物がもたらされた。島津氏が、将軍・公家に対して、琉球王国・朝鮮王朝から入手した唐物を積極的に進上したのに対して、大内氏の唐物進上は、概ね、天皇・公家に対して、しかも特別な便宜を受けた場合に限定されていた。大内氏は、将軍への進上品については太刀・銭を基本としていた。また贈答品を流用・循環する事例もある。一五世紀後半、京都における唐物流入が減少するのにあわせて、武家の贈答品は太刀・銭などにほぼ固定する傾向にみられるようになり、唐物の占める比重は小さくなった。また貿易の拠点であった博多における贈答品の中には、唐莚・高麗木綿・胡椒などがみられた。鎌倉は、一四世紀前半、唐物ブームを迎えていたが、一五世紀以後も贈答などによって唐物がもたらされたと推測される。
Sasahara, Ryoji
全国各地には獅子舞が分布していて,日本で最も数が多い民俗芸能といわれている。日本の獅子舞は,2人以上の演者で1匹の獅子を演じる二人立の獅子舞と,1人で1匹の獅子を演じる一人立の獅子舞に分類される。両者の違いは単に形態の面に止まらず,二人立は古代に成立した外来の舞楽・伎楽系統,一人立は中世末から近世初期にかけて成立した風流系統というように,芸能史的に異なる系統に属している。 一人立の獅子舞のひとつに,三匹獅子舞と呼ぼれる民俗芸能がある。三匹獅子舞は,頭上に獅子頭を戴き,腹部に太鼓を付けて1人で1匹の獅子を演じる演者が,3人一組となって獅子舞を演じるものである。三匹獅子舞は広域的かつ大量な分布が認められる。分布は,東日本においては,静岡,関東甲信越,岩手を除く東北地方,北海道と1都1道15県に及び,ほぼ全域において分布が見られ,その数は1,400ヶ所以上にのぼる。一方,西日本においては,江戸時代に埼玉県川越から伝来したとされる福井県小浜市に数ヵ所見られるのみである。 三匹獅子舞の分布の特徴としては,分布が見られた東日本においてまんべんなく存在しているのではなく,粗密のばらつきが見られ,地域的な偏りが顕著であること,芸態・呼称・上演形態など,様々な面において多様性が認められること,比較的狭い地域ごとに独特の類型が存在することが上げられる。 こうした分布の状況からは,分布の偏りや同じ風流系の一人立獅子舞である鹿踊との分布の棲み分け,各地域独特の上演形態が生じた理由,東日本における2匹一組や4匹一組の一人立獅子舞など,三匹獅子舞類似の芸能と三匹獅子舞の関係,西日本における一人立の獅子が登場する芸能と三匹獅子舞との関係といった,新たな問題の所在が看取できる。 遺存している文書記録や道具類によれぽ,三匹獅子舞は中世末から江戸初期にかけて姿を見せ始め,時代の経過とともに増加し,18世紀には現在の分布域ほぼ全域において所在を確認することができるようになる。このように,三匹獅子舞の分布の現状が歴史的に形成されてきたものであるとすれぽ,前述の諸問題の検討は,単に分布という視角からのみではなく,歴史的文脈を踏まえて行う必要があろう。
高見, 純 TAKAMI, Jun
13世紀以来、イタリア北中部では都市政府による記録文書の保存と管理が本格的に開始された。干潟の大商業都市ヴェネツィアも例外ではなく、15世紀以降に書記局を中心に過去の記録を整理し、文書形成と管理を拡大的に整備・進展させ、現在でも、ヨーロッパで有数の量の記録文書を伝え際だった存在感を示す。 これまで、ヴェネツィアの文書管理については、書記局官僚の形成とともに、主に都市政府による統治・行政の範囲内で解明が進んできた。一方で、都市政府という枠組みの外にある民間実践については、十分な検討が進んでこなかった。 そこで、本稿では、13世紀に成立し、15世紀以降に都市の主要な慈善団体の1つとして近世まで大きな存在感を有し続けた大規模宗教兄弟会を事例にして、同団体による文書管理を検討する。それによって、慣習法の蓄積への対応に追われた都市政府による管理との類似性が指摘されるとともに、15世紀から16世紀前半にかけて多くの遺産管理を担うことになった同団体の事情が文書管理に及ぼした影響も考察される。また、本稿の事例によって、都市ヴェネツィアにおける幅広い<アーカイブズ実践>の社会状況についての一端を明らかにすることも期待される。
ダニエルス, クリスチャン Daniels, Christian
本稿では、雲南の地方志から収集した14世紀から19世紀までの自然災害データ入力の進行状況について報告し、なおかつこのデータを分析する際に注意すべき問題点を指摘している。雲南の広域に亘り大きな被害をもたらした洪水が1625年と1626年の二年間連続して発生しているが、地方志はそれを記載していない事例から、地方志という類の史料は自然災害を網羅的には記録していない点が判明している。したがって、その不充分さを補充するためには、上奏文など別の史料からのデータ収集も望ましい。しかし、以上のような欠点が地方志にあったとしても、気候が長期に亘りどのように変動したかなど、長期的なパターンを明らかにすることはできる。本稿の考察では、16世紀の雲南が14、15,17、18世紀より湿潤だったとした上で、16世紀の人口増加によって土地開発が進行した雲南では、行政と社会は以前より湿潤になった天候に対応できなったため、洪水などの災害が被害を増幅させたと推定した。
樹下, 文隆 KINOSHITA, Fumitaka
寛文九年正月二十九日に催された次期萩藩主である元千代(毛利吉就)の誕生祝儀能の番組を手がかりに、寛文期を中心とした萩藩能役者の動向を紹介する。あわせて、寅菊・春日・春藤という中世末から近世初期に活躍する能役者の一群が、関ケ原合戦以前から毛利家と深くかかわっていたことを明らかにし、その背後に毛利家と関係の深い本願寺の存在を指摘する。
神庭, 信幸 Kamba, Nobuyuki
これまで行った調査により,日本人画家が日本国内あるいはヨーロッパの各地で制作した19世紀後半の油彩画の下地は,天然に産出する白亜を主成分とする白亜型,鉛白を主成分とする鉛白型,その他として亜鉛華を含む下地の3種類の系統に分類できることが分った。更に,白亜型下地は日本およびイギリスで制作された作品に多く,鉛白型下地はフランスおよびイタリアにて制作された作品に特徴的であることから,下地の種類と制作地とに強い関連性が存在することも明かとなった。この内イギリスと日本に共通する白亜型下地は,当時の日本の社会的状況や,日本周辺の地層からは白亜が大量に産出しないことなどを考え合わせ,イギリスで生産されたものと判断されるが,多くのカンバスがカンバスマークなどの生産地を特定する記録を持たないためそれを実証することが出来なかった。そこで,19世紀イギリスにおけるカンバス製造の実体を調査すると共に,イギリス製カンバスの分析によって下地組成に関する知見を得,これによって白亜型下地とイギリスにおいて製造された下地との関連性を検証することとした。本稿では,19世紀イギリス絵画のカンバスに押されたスタンプ,布の経緯糸の本数,下地の状態,および19世紀イギリスにおけるカンバス製造会社の推移に関して行った調査について述べる。調査によって,カンバスのスタンプマークは必ずしも総ての製品に押されるものではなく,むしろ19世紀では稀な性格のものであることが判明した。また,カンバスの経緯糸の本数は経緯糸共に15本前後のものが過半数を占め,これが19世紀に特徴的な布であると言えるだろう。これら2点は,わが国の19世紀の作品にも共通する特徴である。次に,カンバスの製造会社に関しては,少なくとも15社が営業していたことが明かとなった。18,19世紀イギリスの職業別分類帳による調査結果を参考にすると,Reeves&Sons,Geo.Rowney,Thomas Brown,Chales Roberson,Winsor&Newton社等の製品が比較的多く使用されたと推測できる。
小林, 謙一 春成, 秀爾 坂本, 稔 秋山, 浩三 Kobayashi, Kenichi Harunari, Hideji Sakamoto, Minoru Akiyama, Kozo
近畿地方における弥生文化開始期の年代を考える上で,河内地域の弥生前期・中期遺跡群の年代を明らかにする必要性は高い。国立歴史民俗博物館を中心とした年代測定グループでは,大阪府文化財センターおよび東大阪市立埋蔵文化財センターの協力を得て,河内湖(潟)東・南部の遺跡群に関する炭素14年代測定研究を重ねてきた。東大阪市鬼塚遺跡の縄文晩期初めと推定される浅鉢例は前13世紀~11世紀,宮ノ下遺跡の船橋式の可能性がある深鉢例は前800年頃,水走遺跡の2例と宮ノ下遺跡例の長原式土器は前800~550年頃までに較正年代があたる。奈良県唐古・鍵遺跡の長原式または直後例は,いわゆる「2400年問題」の中にあるので絞りにくいが,前550年より新しい。弥生前期については,大阪府八尾市木の本遺跡のⅠ期古~中段階の土器2例,東大阪市瓜生堂遺跡(北東部地域)のⅠ期中段階の土器はすべて「2400年問題」の後半,即ち前550~400年の間に含まれる可能性がある。唐古・鍵遺跡の大和Ⅰ期の土器も同様の年代幅に含まれる。東大阪市水走遺跡および若江北遺跡のⅠ期古~中段階とされる甕の例のみが,「2400年問題」の前半,すなわち前550年よりも古い可能性を示している。河内地域の縄文晩期~弥生前・中期の実年代を暫定的に整理すると,以下の通りとなる。 縄文晩期(滋賀里Ⅱ式~口酒井式・長原式の一部)前13世紀~前8または前7世紀 弥生前期(河内Ⅰ期)前8~前7世紀(前600年代後半か)~前4世紀(前380~前350年頃) 弥生中期(河内Ⅱ~Ⅳ期)前4世紀(前380~前350年頃)~紀元前後頃すなわち,瀬戸内中部から河内地域における弥生前期の始まりは,前750年よりは新しく前550年よりは古い年代の中に求められ,河内地域は前650~前600年頃に若江北遺跡の最古段階の居住関係遺構や水走遺跡の遠賀川系土器が出現すると考えられ,讃良郡条里遺跡の遠賀川系土器はそれよりもやや古いとすれば前7世紀中頃までの可能性が考えられよう。縄文晩期土器とされる長原式・水走式土器は前8世紀から前5世紀にかけて存続していた可能性があり,河内地域では少なくとも弥生前期中頃までは長原式・水走式土器が弥生前期土器に共伴していた可能性が高い。
スムットニー, 祐美
本論文は、16世紀末に来日したイエズス会東インド管区巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノが作成した茶の湯関連規則が、千利休によって形成されたわび茶の影響を受けていた可能性について、ローマイエズス会文書館所蔵の史料を用いて検証するものである。 ヴァリニャーノは日本視察を通して意図の異なる2つの茶の湯関連規則を作成し、修道院内に茶の湯による接客態勢を整えた。その規則とは、1579年から1582年までの第1次視察中、豊後(大分)において作成された『日本の習俗と気質に関する注意と助言』(Advertimentos e avisos acerca dos costumes e catangues de Jappão 以下、『日本イエズス会士礼法指針』と称す)と、第2次日本視察を終え、1592年に滞在先のマカオにおいて作成した「日本管区規則」である。本稿では主に、後者に収録されている「茶の湯者規則」(Regras para o Chanoyuxa)と「客のもてなし方規則」(Regras do que tem comta de agasalhar os hospedes)を扱い、そこに示されている茶の湯規則と利休の茶の湯の心得との共通点を明らかにする。 本稿では『日本イエズス会士礼法指針』から、ヴァリニャーノの指示によって修道院で行われた茶の湯の準備態勢について検証したのち、「茶の湯者規則」「客のもてなし方規則」との相違点を浮き彫りにする。さらに、後者に示されている精神性と、『南方録』の「覚書」にみる利休の茶の湯の心得との共通性を検証する。以上の研究で導き出された結果から、「茶の湯者規則」と「客のもてなし方規則」には、わび茶の影響が及んでいたことが明らかとなった。
野本, 敬 NOMOTO, Takashi
本稿では雲南生態環境史研究についての史料の種類・性質を紹介し、現在までの調査情況を説明する。さらに地方志の分析による統計データから16世紀~19世紀の雲南におけるマクロな社会変化を指摘し、今後の複数の史料の活用による展望を述べる。
三橋, 正
個人が日記をつける習慣と過去の日記を保存・利用する「古記録文化」は、官人の職務として発生したものが天皇や上級貴族にも受け入れられ、摂関政治を推進した藤原忠平(八八〇~九四九)によって文化として確立され、子孫に伝承され、貴族社会に定着していった。その日記の付け方は、『九条殿遺誡』にあるように、具注暦に書き込むだけでなく、特別な行事については別記にも記すというものであり、忠平も実践していたことが『貞信公記抄』の異例日付表記などから確認できる。息師輔(九〇八~九六〇)も、具注暦記(現存する『九暦抄』)と部類形式の別記(現存する『九条殿記』)とを書き分けていたことは、具注暦記にはない別記の記事(逸文)が儀式書に引用され、別記に具注暦記(暦記)の記載を注記した部分があることなどから明らかである。従来の研究では、部類は後から編纂されると考えて原『九暦』を想定し、そこから省略本としての『九暦抄』と年中行事書編纂のための『九条殿記』が作られたとしていたが、先入観に基づく学説は見直されるべきである。平親信(九四六~一〇一七)の『親信卿記』についても、原『親信卿記』を想定して自身の六位蔵人時代の日記について一度部類化してから再統合したとの学説があったが、そうではなく、並行して付けていた具注暦記と部類形式の別記を統合したものであった。藤原行成(九七二~一〇二七)の『権記』では、具注暦記のほかに儀式の次第などを記す別記と宣命などを記す目録が並行して付けられていたが、一条天皇の崩御を契機として統合版を作成したようで、その寛弘八年(一〇一一)までの記事がまとめられた。現存する日記(古記録)の写本は統合版が多く、部類形式の別記については研究者に認知されていなかった。本稿により、(日記帳のような)具注暦とは別に(ルーズリーフ・ノートのような)別紙を使って別記を書くという習慣が十世紀前半(忠平の時代)に形成され、十世紀末に両者の統合版を作成して後世に残すという作業が加わるという「古記録文化」の展開が明らかになった。
中三川, 昇 Nakamikawa, Noboru
中世都市鎌倉に隣接する三浦半島最大の沖積低地である平作川低地の中世遺跡を中心に,出土遺物や遺跡を取巻く環境変化,自然災害の痕跡などから,地域開発の様相の一端とその背景について考察した。平作川低地には縄文海進期に形成された古平作湾内の砂堆や沖積低地の発達に対応し,現平作川河口近くに形成された砂堆上に,概ね5世紀代から遺跡が形成され始める。6世紀代までは古墳などの墓域としての利用が主で,7世紀~8世紀中頃には貝塚を伴う小規模集落が出現するが比較的短期間で消滅し,遺構・遺物は希薄となる。12世紀後半に再び砂堆上に八幡神社遺跡や蓼原東遺跡などが出現し,概ね15世紀代まで継続する。両遺跡とも港湾的要素を持った三浦半島中部の東京湾岸における拠点的地域の一部分で,相互補完的な関連を持った遺跡群であったと考えられるが,八幡神社遺跡の出土遺物は日常的な生活要素が希薄であるのに対し,蓼原東遺跡では多様な土器・陶磁器類とともに釣針や土錘などの漁具が出土し,15世紀には貝塚が形成され,近隣地に水田や畑の存在が想定されるなど生産活動の痕跡が顕著で,同一砂堆における場の利用形態の相違が窺われた。蓼原東遺跡では獲得された魚介類の一部が遺跡外に搬出されたと推察され,鎌倉市内で出土する海産物遺存体供給地の様相の一端が窺われた。蓼原東遺跡周辺地域の林相は縄文海進期の照葉樹林主体の林相から,平安時代にはスギ・アカガシ亜属主体の林相が出現し,中世にはニヨウマツ類主体の林相に変化しており,海産物同様中世都市鎌倉を支える用材や薪炭材などとして周辺地域の樹木が伐採された可能性が推察された。蓼原東遺跡は15世紀に地震災害を受けた後,短期間のうちに廃絶し,八幡神社遺跡でも遺構・遺物は希薄となるが,その要因の一つに周辺地域の樹木伐採などに起因する環境変化の影響が想定された。
石木, 秀啓 Ishiki, Hidetaka
西海道、すなわち現在の九州における八世紀以降の須恵器窯跡群の生産動向と窯構造・生産器種の変遷を、筑前牛頸窯跡群の事例を中心に見ていった。その結果、筑前国では七世紀後半頃になると牛頸窯跡群に窯跡が集中し、一国一窯体制へと移行する。これは、この時期に成立する大宰府政庁へ向けての生産が考えられ、製品の広範な流通状況からこの時期九州では大宰府中心の生産体制がとられたと考えられる。しかし、八世紀中頃から後半になると、九州各国では新たな生産地の出現や既存の生産地の再編が認められる。この時期、牛頸窯跡群では甕・大甕の生産が認められなくなり、窯も小型のもののみとなる。それに代わるように、大宰府周辺では肥後で生産された大甕の出土が認められるようになる。これを牛頸窯跡群で生産しない甕を肥後から搬入する「地域間分業」と考え、大宰府による須恵器生産政策の存在を考えた。また、この時期以降から九世紀代には肥後国で須恵器生産が盛んとなり、製品は各国へもたらされ、各国の窯跡群の製品にも肥後国の影響が認められる。このことから、八世紀中頃から後半以降は大宰府中心の生産体制が徐々に肥後国を中心とした生産体制へと変化するものと考えられ、九州では時期によって生産の中心地が移っている状況が伺えた。九州各国の須恵器生産体制は、筑前国以外にも一時的に一国一窯体制を目指したと考えられる国もあるが、基本的には平野などの地形的なまとまりを単位とする地域レベルの生産体制が整えられたようである。特に肥後国は八世紀中頃以降後半にかけて生産が盛んとなる窯跡群が多く、地域レベルの生産体制が整備された良好なモデルである。肥後国では、九世紀代には須恵器生産だけではなく、鉄生産も集中するようになり、大宰府政庁および周辺官衙群は停滞する状況が明らかにされている。このことは、生産を取り巻く地域社会の在り方が八世紀代とは変容していると考えられるが、その背景は明らかでなく今後の検討課題である。
義江, 明子 Yoshie, Akiko
日本の伝統的「家」は、一筋の継承ラインにそう永続性を第一義とし、血縁のつながりを必ずしも重視しない。また、非血縁の従属者も「家の子」として包摂される。こうした「家」の非血縁原理は、古代の氏、及び氏形成の基盤となった共同体の構成原理にまでその淵源をたどることができる。古代には「祖の子」(OyanoKo)という非血縁の「オヤ―コ」(Oya-Ko)観念が広く存在し、血縁の親子関係はそれと区別して敢えて「生の子」(UminoKo)といわれた。七世紀末までは、両者はそれぞれ異なる類型の系譜に表されている。氏は、本来、「祖の子」の観念を骨格とする非出自集団である。「祖の子」の「祖」(Oya)は集団の統合の象徴である英雄的首長(始祖)、「子」(Ko)は成員(氏人)を意味し、代々の首長(氏上)は血縁関係と関わりなく前首長の「子」とみなされ、儀礼を通じて霊力(集団を統合する力)を始祖と一体化した前首長から更新=継承した。一方の「生の子」は、親子関係の連鎖による双方的親族関係を表すだけで、集団の構成原理とはなっていない。八~九世紀以降、氏の出自集団化に伴って、二つの類型の系譜は次第に一つに重ね合わされ父系の出自系譜が成立していく。しかし、集団の構成員全体が統率者(Oya)のもとに「子」(Ko)として包摂されるというあり方は、氏の中から形成された「家」の構成原理の中にも受け継がれていった。「家の御先祖様」は、生物的血縁関係ではなく家筋観念にそって、「家」を起こした初代のみ、あるいは代々の当主夫妻が集合的に祀られ、田の神=山の神とも融合する。その底流には、出自原理以前の、地域(共同体)に根ざした融合的祖霊観が一貫して生き続けていたのである。現在、家筋観念の急速な消滅によって、旧来の祖先祭祀は大きく揺らぎはじめている。基層に存在した血縁観念の希薄さにもう一度目を据え、血縁を超える共同性として再生することによって、「家」の枠組みにとらわれない新たな祖先祭祀のあり方もみえてくるのではないだろうか。
Kawai, Hironao
這十幾年歷史學家開始關注在 19 世紀後半至 20 世紀前半出現客家認同的歷史過程。然而,這些研究很少討論當時文獻所記載的「客人」或「客家人」到底是什麼樣的群體。本論文關注客人和客家人之間的區別。本論文指出,在民間社會裡客人往往指對某個群體來說的異邦人,另一方面客家人指按照西方的民族科學被分類的民族集團。與前者不同,後者可以在地圖上表示其具體分佈範圍。由於有時客人概念和客家概念兩者會重複,不少客家研究把兩者混在一起討論。因此,本論文從人類學視角論述基督教傳教士如何利用民族志的手法,對客家和其他族群―本地人、福佬人―進行區別和分類,並描繪出客家特色。以及客人精英後來如何把它當做新的自我認同。在最後本論文指出19世紀的客家族群範圍與現代的客家族群範圍不一定一致,連20世紀前期粵東的客家概念裡也包含民間社會的客人觀。
渡辺, 尚志 Watanabe, Takashi
本稿は、紀伊国伊都郡境原村と同村の小峯寺・東光寺を事例に、一七世紀半ばから一八世紀半ばにかけての近世村落と寺院の関係について考察したものである。その際、近世社会を諸社会集団の重層と複合として把握した社会集団論の視角を取り入れた。すなわち、村と寺の問題を、村(百姓)の視点からだけではなく、寺(住職)の側にも身を置きつつ、複眼的に考察してみた。その結果、①幕藩領主の本末制度整備を主体的に利用して、本寺に接近することにより、村方(堂座)から自立しようとする小峯寺住職、②村方を特権的に代表して住職と対立しつつ、次第に一般村民から離反され、地士身分獲得にも失敗して衰退していく堂座、③一七世紀の堂座に代表される受動的な存在から脱却し、一八世紀前半には発言力を強めていく一般村民、という各層の動向を明らかにした。
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年代不明。19世紀頃か。56.7×70.0cm。1枚。
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年代不明。19世紀頃か。56.7×70.0cm。1枚。
田中, 史生
かつて通説的位置を占めた平安期の「荘園内密貿易盛行説」が否定されて以降、文献史学では、平安・鎌倉期における南九州以南の国際交易は、国際交易港たる博多を結節点に国内商人などを介して行われたとする見方が有力となった。考古学も概ねこれを支持するが、その一方で、古代末・中世前期に宋海商が南九州に到達していた可能性をうかがわせる資料もいくつか提示され、これらを薩摩硫黄島産硫黄の交易と関連するものとする見解も示されている。本稿の目的は、こうした考古学などの指摘を踏まえ、あらためて文献史学の立場から、古代末・中世前期において宋海商が九州西海岸伝いに南九州、南島へと向かった可能性について考察するものである。そのために本稿では、南九州における硫黄交易のあり方を記した軍記物語として近年注目されている『平家物語』の諸本の、「鬼界が島」(薩摩硫黄島)と外部との交通に関する記述について検討した。さらに、『平家物語』の成立期と時代的に重なり、中国との関連性も指摘されている九州西部の薩摩塔と、その周辺の遺跡についても検討を加えた。その結果、次の諸点が明らかとなった。(一)古代末・中世前期において、博多に来航した宋海商船のなかに、南九州に寄港し、そこから南島を目指すために九州西岸海域を往還する船があった可能性が高い。(二)彼ら宋海商の中心は日本に拠点を築いた人々であったと考えられる。(三)宋海商の交易活動を支援する日本の権門のなかに、博多や薩摩に寄港し南島へ向う彼らの船を物資や人の運搬船として利用するものもあったとみられる。以上の背景には、薩摩と南島を結ぶ航路が、一般国内航路とは比較にならぬ困難さを伴っており、外洋航海に長けた渡来海商の船が求められていたこと、また宋海商にとっても硫黄を含む南島交易は対日交易の大きな関心事となっていたことがあったと考えられる。
平田, 永哲 Hirata, Eitetsu
21世紀のわが国の特殊教育の在り方が変革しようとしている。一つは子どもの就学権保障の時代からより適切な教育保障の時代への変革であり、他の一つは障害児教育という用語が特殊教育という用語に変わろうとしている。本稿では、このような変革の動きを養護学校義務制以降の特殊教育界の出来事の中から探ることにより、21世紀の特殊教育を展望し、希望を託すことにする。
原, 秀成
一八八六年の文芸作品の保護のためのベルヌ条約により、各国で著作権法制が整備された。領事裁判権撤廃の条件として、日本はベルヌ条約への加入を迫られた。日本はベルヌ条約の基準にあわせるように、一八八七年版権条例、一八九三年版権法、一八九九年著作権法を順次立法し、一八九九年にベルヌ条約に加入した。 そのなかで、とくに雑誌記事の著者の権利が拡張された。本稿では、第二次世界大戦前の日本の最大の出版社だった博文館の創業の雑誌『日本大家論集』の他の雑誌から無断転載の適法性を、各時点において検討した。 第一に、一八八七年版権条例以前に、雑誌の版権は保護されていなかった。それゆえ一八八七年六月の同誌創刊時の無断転載は、適法なものであった。 第二に、一八八七年一二月の版権条例で、学術雑誌について版権取得の道が開かれた。明治政府は学術雑誌の版権だけを保護し、政治や文芸を掲載する雑誌には版権保護を与えなかった。こうして明治政府は、検閲より間接的な経済的かつ私法的な方法によって、メディアの統制に統制する法技術を導入した。一八八九年の大日本帝国憲法の施行前に、これらの法を一方的に制定したのである。 第三に、一八九三年版権法によって、すべての雑誌に版権登録の機会が認められた。「禁転載」規定も導入され、一八八六年ベルヌ条約第七条の基準に、ほぼ準拠するものとされた。 第四に、この一八九三年の版権法によって、無断転載はほぼ不可能になった。博文館は、近衛篤麿(一八六三―一九〇四)の国家学会における講演録を転載したとして、国家学会から訴えられた。一八九四年の近衛事件の背後には、立憲改進党系の活動への弾圧があったと考えられる。博文館主の大橋佐平(一八六三―一九〇一)は、立憲改進党に加担していた。内務省は版権を手段に、博文館の活動に圧力をかけた疑いがある。博文館は実利をとって和解したと考えられる。そのうえで、一八九四年末に雑誌『日本大家論集』をいったん廃刊にした。そして一八九五年一月から、新たに雑誌『太陽』を発刊した。それは日清戦争の勝利を賛美するものであった。 第五に、こうした雑誌についての法制度は、政府と雑誌発行者とのより隠れた形での結びつきを許したと考えられる。雑誌の版権は、発行者がもつとされ、雑誌の筆者個人の権利は副次的なものとされた。それは一九世紀末の条約が、国家どうしの合意であり、個人が個人の権利として、主張しにくいことに根本的な原因があったといえる。それゆえ個人単位としての著者の権利、読者の権利を「人権」の視点から充実させていくことが課題にのぼる。
大橋, 幸泰 OHASHI, YUKIHIRO
本稿では、日本へキリシタンが伝来した16世紀中期から、キリスト教の再布教が行われた19世紀中期までを対象に、日本におけるキリシタンの受容・禁制・潜伏の過程を概観する。そのうえで、どのようにしたら異文化の共生は可能か、という問いについて考えるためのヒントを得たい。キリシタンをめぐる当時の日本の動向は、異文化交流の一つと見ることができるから、異文化共生の条件について考える恰好の材料となるであろう。 16世紀中期に日本に伝来したキリシタンは、当時の日本人に幅広く受容されたが、既存秩序を維持しようとする勢力から反発も受けた。キリシタンは、戦国時代を統一した豊臣秀吉・徳川家康が目指す国家秩序とは相容れないものとみなされ、徹底的に排除された。そして、17世紀中後期までにキリシタン禁制を維持するための諸制度が整備されるとともに、江戸時代の宗教秩序が形成されていった。こうして成立した宗教秩序はもちろん、江戸時代の人びとの宗教活動を制約するものであったが、そうした秩序に制約されながらも、潜伏キリシタンは19世紀中期まで存続することができた。その制約された状況のなかでキリシタンを含む諸宗教は共生していたといえる。ただし、それには条件が必要であった。その条件とは、表向き諸宗教の境界の曖昧性が保たれていたことと、人びとの共通の属性が優先されたことである。
二又, 淳 藤島, 綾 谷川, ゆき
江戸時代はパロディの時代であった。その中でも、古典類が出版文化の上で花開いた十七世紀は、『枕草子』をもじった『犬枕』『尤之 双紙 』、『徒然草』をもじった『犬つれづれ』などが出て、そして日本文学史の上でも最も優れたパロディ文学『仁勢 物語』が登場する。パロディ文学の流行は、散文の小説類(仮名 草子 )に限った現象ではなく、とくにこの十七世紀には、俳諧・狂歌・漢詩文にも及び、ジャンルを超えた流行を見せていた。まさに「パロディの世紀」といってもよい時代であった(今栄蔵「パロディの世紀」『初期俳諧から芭蕉時代へ』笠間書院、二〇〇二年)。そして本テーマで展示している『伊勢物語』のパロディ『にせものがたり』『いくのゝさうし』『戯男伊勢物語』は、それぞれ『仁勢物語』の影響を強く受けつつ、新たなる『仁勢物語』をめざした作品群で、その影響は明治初期まで続き、版本『仁勢物語』自体の需要も明治時代にまで及んだのである。
中塚, 武
樹木年輪セルロースの酸素同位体比は,夏の降水量や気温の鋭敏な指標として,過去の水稲生産量の経年変動の推定に利用できる。実際,近世の中部日本の年輪酸素同位体比は,近江や甲斐の水稲生産量の文書記録と高い相関を示し,前近代の水稲生産が夏の気候によって大きく支配されていたことが分かる。この関係性を紀元前500年以降の弥生時代と古墳時代の年輪酸素同位体比に当てはめ,本州南部の水稲生産量の経年変動ポテンシャルを推定し,さらに生産―備蓄―消費―人口の4要素からなる差分方程式を使って,同時期の人口の変動を計算した。ここでは農業技術や農地面積の変化が考慮されていないので,人口の長期変動は議論できないが,紀元前1世紀の冷湿化に伴う人口の急減や,紀元前3—4世紀,紀元2世紀,6世紀の気候の数十年周期変動の振幅拡大に伴って飢饉や難民が頻発した可能性などが指摘でき,集落遺跡データや文献史料と対比することが可能である。
楊, 海英
「スニト部のギルーン・バートル」(Sönid-ün Gilügün Bayatur)という人物は,13 世紀のモンゴル・ハーン国時代に大いに活躍した,と年代記はそろって記述する。スニトは13 世紀の『モンゴル秘史』にも見られる有名な部族の名称である。ギルーンは名前で,バートルは「勇士」を意味する爵号である。ギルーン・バートルはまずチンギス・ハーンをまつる八白宮祭祀のなかでその存在が認められる。祭祀者たち(Darqad)にチンギス・ハーンからの恩賜を配る儀礼の場で,ギルーン・バートルの直系子孫を称する者がその祖先の功績に基づいてチンギス・ハーンからの恩賜を拝受する。八白宮祭祀のなかで,ギルーン・バートルはチンギス・ハーンに追随した「4 人のバートル(勇士)」のひとりとして位置づけられている。このような位置づけは17 世紀以降に書かれたモンゴルの年代記の記述とも一致する。 つづいて19 世紀半ば頃の清朝道光年間にギルーン・バートルはもう一度登場する。今度は八白宮の祭祀者ダルハトのひとり,ユムドルジ(Yümdorji)という人物が,自らは13 世紀のギルーン・バートルの直系子孫で,代々八白宮の祭祀者集団内のバートル(勇士)という職掌をつとめてきたと主張する。ユムドルジは税金納入をめぐってオルドスの貴族たちと対立するが,シリンゴル盟のスニト左旗の王公たちの支持をとりつけたため,ことを有利に運ぶ。スニト左旗の王公たちとユムドルジは,13 世紀のスニト部のギルーン・バートルはユムドルジの直接の祖先である,という共通した歴史的認識を有していたことから,ユムドルジを支持したのである。このように,ギルーン・バートルという13 世紀に存在したとされる人物はチンギス・ハーンの八白宮祭祀のなかでその功績がずっと認められてきただけでなく,その子孫を称する人物も広く認知されていた。モンゴルにとって,歴史あるいは歴史上の人物は決して過去のものではなく,現在を活きる存在であることが分かる。
廣田, 吉崇
豊臣秀吉を迎えた朝会において、千利休が露地の朝顔を取り払い、茶室の床に一輪のみ生けたという「朝顔の茶会」は、茶の湯の逸話のなかでももっともよく知られたものである。事実かどうかはさておき、現在にいたるまで、千利休の茶の湯を論じる素材として語られてきた。本稿では千利休の同時代から19世紀前半までの資料にもとづき、近世において「朝顔の茶会」をめぐる言説がどのように展開したのかを概観する。 この逸話は、①亭主が千利休、②客が豊臣秀吉、③朝顔をすべて取り払う、④茶室の床に花一輪のみ生ける、という四要素から構成されている。1701年に刊行された『茶話指月集』においてこの逸話は確立するが、16世紀後半には「朝顔の茶会」は特殊なものではなく、一般的におこなわれていた。それが17世紀をつうじ、いくつかの教えの系譜がみられるようになる。まず、「朝顔の茶会」には“初座に花、後座に掛物”という教えがあらわれ、それに朝顔を生けるための“技術的な教え”が付随してくる。さらに、亭主を細川三斎とする「朝顔の茶会」の逸話があらわれる。 その一方で、「朝顔の茶会」の逸話は、主客についてのさまざまなバリエーションを伴いながら、17世紀後半にはかなり広範に流布していたと考えられる。そして、18世紀後半に川上不白が千利休「朝顔之茶ノ文」を発見したことにより、千利休の「朝顔の茶会」の逸話は信じるに足るものとされるにいたるのである。 そもそも、さまざまなバリエーションがある主客の組み合わせのうち、亭主が千利休、客が豊臣秀吉に固定した背景には、17世紀中期に千家が武家社会へ対応するために、その由緒を潤色したことがあるのではないか。さまざまに語られてきた「朝顔の茶会」の逸話は、結果として千利休よりも後の、17世紀の茶の湯の教えを反映したものと考えられる。
村木, 二郎
八重山・宮古といった先島諸島には,沖縄本島では見られない石積みで囲われた集落遺跡がある。発掘調査によってそこから出土する中国産陶磁器は膨大で,それらの遺跡は13世紀後半から14世紀前半に出現し,15世紀代を最盛期とする。しかし16世紀代の遺物は激減し,この時期に集落が廃絶したことがわかる。竹富島の花城村跡遺跡に代表される細胞状集落遺跡は,不整形な石囲いが数十区画にわたって連結したもので,その外郭線は崖際にさらに石を積み上げた防御性をもったものである。このような遺跡が先島の密林に埋もれており,その多くは聖地として現在も祀られている。宮古地域では15世紀の早い段階で廃絶する集落遺跡が多数みられる。近年発掘調査され,陶磁器調査を実施したミヌズマ遺跡はその好例である。八重山地域はやや遅く,15世紀後半から16世紀前半のある段階に廃絶する集落が多い。細胞状集落遺跡はいずれもこの時期に終焉を迎えており,八重山に劇的な出来事が起こったことが想定される。ちょうど第二尚氏の尚真王の時期に当たり,太平山征伐(オヤケアカハチの乱)の影響と考えられる。すなわち,琉球王府によって,独立文化圏をなしていた先島が侵犯され,この地域が琉球の一地方として併呑されたことを示すのである。 先島地域の中世を語る文献資料はほとんどなく,近世になって琉球王府が編纂した史書によってこの地域の歴史は語られてきた。しかし,集落遺跡やその遺物は実は豊富に残されており,これらを分析することで先島の独自性とそれを呑み込む琉球の帝国的側面を論じる。
藤本, 誉博 Fujimoto, Takahiro
本稿は、室町後期(一五世紀後期)から織田権力期(一六世紀後期)までを対象として、堺における自治および支配の構造とその変容過程を検討したものである。当該期は中近世移行期として「荘園制から村町制へ」というシェーマが示されているように社会構造が大きく変容する時期である。堺においても堺南北荘の存在や、近世都市の基礎単位になる町共同体の成立が確認されており、これらの総体としての都市構造の変容の追究が必要であった。検討の結果、堺南北荘を枠組みとする荘園制的社会構造から町共同体を基盤とした地縁的自治構造が主体となる社会構造への移行が確認され、その分水嶺は地縁的自治構造が都市全体に展開した一六世紀中期であった。そしてこの時期に、そのような社会構造の変容と連動して支配権力の交代、有力商人層(会合衆)の交代といった大きな変化が生じ、イエズス会宣教師が記した堺の「平和領域性」や自治の象徴とされる環濠の形成は、当該期の地縁的自治構造(都市共同体)の展開が生み出したものであると考えられた。そして、様々な部位で変化を遂げながら形成された一六世紀中期の都市構造が、近世的都市構造として一六世紀後期以降に継承されていくと見通した。
金, 時徳 KIM, Shiderk
本稿は国立国会図書館所蔵『絵本武勇大功記』を翻刻し、注釈と解題を附したものである。本書刊行の背景には、浄瑠璃における天明・寛政年間の太閤記物ブームがある。毛谷村六助が加藤清正(本書では加藤正清)に仕えるまでの事情を描く本書巻上には、浄瑠璃『彦山権現誓助劔』との類似性が見られる。しかし、豊臣秀吉の朝鮮侵略のことを描く本書巻中・下の場合、その直接的な典拠は浄瑠璃ではなく、加藤清正の一代記である『清正記』・『朝鮮太平記』等の朝鮮軍記物の諸作品であることが確認される。一八世紀初期までの朝鮮軍記物の諸作品は軍記『朝鮮太平記』・『朝鮮軍記大全』に集大成され、絵本読本『絵本朝鮮軍記』・同『絵本太閤記』(第六・七篇)は一九世紀の朝鮮軍記物を代表する作品であるが、その間の一八世紀中・後期に著された朝鮮軍記物の数は少ない。本書は、朝鮮軍記物における一八世紀中・後期の空白を埋める作品として意味を持つ。
坪内, 玲子
日本の伝統的な家族制度の下では、長男による家督の継承が原則であり、この原則は武士階級において遵守されていたと考えられている。実際には、人口学的な状況のために、長男による継承は必ず行われたわけではなく、長男早世のため弟が継承する場合があった。さらには、高い死亡率や低い出生率を背景に、婿養子や養子による継承が顕著な場合があった。筆者は、さまざまな藩における藩士の家譜に記載された継承の事例を集めて分析を行ってきたが、ここでは、萩藩における結果を示す。 萩藩藩士に関しては、一七世紀および一八世紀前半における二五三三件を対象として観察した。一七世紀における長男による継承は全継承件数の六三・九パーセント、実子(長男を含む)による継承は七四・三パーセントを占めていたが、一八世紀前半には、それぞれ五〇・八パーセント、五九・一パーセントへと減少した。これに対応し繪、婿養子による継承は、一七世紀の九・五パーセントから一八世紀前半の一六・〇パーセントに増加した。また、養子による継承は一〇・三パーセントから一七・七パーセントに増加した。この変化は、男子数の減少に対応している。他藩の藩士に関して得られた諸事実をも参照すると、武士階級における「家」に関する考え方や実行が、江戸時代の中である種の変遷を遂げたということができる。それは、男系に対する執着、さらには血縁に関するこだわりを緩和する動きであった。 本論文では、この他に、藩士における継承の身分階層差や誰が継承するかについての短期的な変動についても考察した。
小泉, 和子 Koizumi, Kazuko
「歴博本江戸図屏風」の右隻第五扇と六扇の下部に人形を並べた家が描かれているが、この家は人形店であること、しかも並べてあるのは当時、幼児の疱瘡除けとして使われた土人形か張り子の赤物であるということがよみとれる。この場所は浅草寺の門前通りであると判定されるが、この地域は江戸時代から近代に至るまで人形産地であった。このことは貞享四(一六八七)年の『江戸鹿子』をはじめとして幾多の地誌類によって確認される。しかも当初は素朴な土人形や張り子人形であって、後世のいわゆる雛人形とよぶ着付け雛にかわるのは一八世紀前期の享保年間からだという。するとこの情景は、素朴な人形として描かれていることからみてすくなくとも一八世紀にまで下がることはないだろう。浅草ではじまった赤物は、やがて武州の鴻巣で発展し、さらに練物で作られるようになって鴻巣名物となる。熊谷・川越・大宮・越谷・鴻巣など武州一帯では一七世紀中期すぎころから野間稼ぎとして雛人形の製造がはじめられていた。その中で鴻巣では一七世紀後期になると、この地域一帯で盛んになった桐簞笥製造の際、多量に出る大鋸屑を用いた練り物を開発し、好評を博すようになったのである。これは鴻巣は江戸との関係が密接であったため、おそらく早い段階から江戸の情報が入り、浅草を真似て赤物を製造していたからではないかと考えられる。ともあれ一七世紀中期すぎには鴻巣でも雛製造をはじめていたとすると、浅草はそれより早かった筈であるから、この場面は一七世紀中期以前ということになるのではないか。
高田, 貫太
近年,朝鮮半島西南部で5,6世紀に倭の墓制を総体的に採用した「倭系古墳」が築かれた状況が明らかになりつつある。本稿では,大きく5世紀前半に朝鮮半島の西・南海岸地域に造営された「倭系古墳」,5世紀後葉から6世紀前半頃に造営された栄山江流域の前方後円墳の造営背景について検討した。5世紀前半頃に造営された西・南海岸地域の「倭系古墳」を構成する諸属性を検討すると,臨海性が高く,北部九州地域における中小古墳の墓制を総体的に採用している。よって,その被葬者はあまり在地化はせずに異質な存在として葬られたと考えられ,倭の対百済,栄山江流域の交渉を実質的に担った倭系渡来人として評価できる。そして,西・南海岸地域の在地系の古墳には,多様な系譜の副葬品が認められることから,海上交通を基盤とした地域集団の存在がうかがえる。倭と百済,または栄山江流域との交渉は,このような交渉経路沿いの要衝地に点在する地域集団の深い関与のもとで,積み重ねられていたと考えられる。5世紀後葉から6世紀前半頃,栄山江流域に造営された前方後円墳と,在地系の高塚古墳には,古墳の諸属性において共通性と差異性が認められる。これまで両者の関係は排他的もしくは対立的と把握される場合が多かったが,いずれの造営集団も,様々な交通路を利用した「地域ネットワーク」に参画し,倭や百済からの新来の墓制を受容していたという点において,併存的と評価すべきである。したがって,前方後円墳か在地系の高塚古墳かという違いは,諸地域集団の立場からみれば,新来の墓制に対する主体的な取捨選択の結果,ひいては百済中央や倭系渡来人集団との関わり合い方の違いの結果と評価できる。このような意味合いにおいて,その被葬者は基本的には百済や倭と緊密な関係を有した栄山江流域の諸地域集団の首長層と考えられる。ただし,倭や百済との活発な交渉,そこから渡来した集団の一部が定着した可能性も考慮すれば,その首長層に百済,倭に出自を有する人々が含まれていた可能性もまた,考慮しておく必要はある。
クレインス, フレデリック 宮田, 昌明
江戸時代に日本に対するヨーロッパのイメージをめぐる研究はこれまで、先行する16世紀のイエズス会士による書簡や、18世紀初頭のケンペル『日本誌』以降のプロテスタントの著作を主たる対象として行われてきた。17世紀に関しては、カロンのようなオランダ東インド会社員による報告を除き、ヨーロッパに新たな情報がほとんどもたらされなかった時代として捉えられていたのである。 とはいえ、17世紀には、日本を直接訪れたことのない著者による、日本に関する多くの著作が出版されていた。本稿は、シモン・デ・フリース『東西インド奇事詳解』(ユトレヒト、一六八二年)における日本文化に関する記事を検討している。同書は、当時のオランダの中流階層において広く読まれた博物書であった。 同書における日本に関する様々な記事には、日本社会の様々な側面に関する、最新の情報を含む多くの情報が含まれている。デ・フリースはそれらの情報を、エラスムス・フランシシの博学書に依拠しており、さらにフランシシの著作は、主としてヴァレニウスやモンターヌスの著作に依拠したものであった。モンターヌスの情報源は、オランダ出島商館の日誌であり、モンターヌスは、日本社会に関する最新の情報を与える一六六六年までの日誌を利用できた。 デ・フリースの博物書を分析することによって、17世紀後半オランダの上流・中流階層の間で、「日本」が広範な関心を呼ぶ対象であったことが判明する。そうした関心の存在が、のちのケンペルの日本に対する探求心に何らかの影響を与えたことも、十分に考えられるのである。
仲宗根, 平男 Nakasone, Hirao
以上の刺針法による植栽地, 低温ビニール室の実験結果から1)沖縄産スギ材は, 3月初旬から早材形成が始まり, 6月末の梅雨明けまで継続される。2)梅雨明けより気温も上昇するため, 7月から晩材形成が始まる。3)8,9月も高気温が続くため, 成木, 幼令木とも晩材形成が継続される。4)10月より気温低下が始まり, 実生幼令木のヤナセ, ヤクは早材形成となるが, 地スギの幼令, 成木, 実生成木は晩材形成が継続される。5)11月から日照時間も短かくなり, 気温も下降するため, これまでの晩材細胞より小径の, 厚膜の細胞が形成され, 12月末まで続き, 休眠期に入る。6)1,2月は休眠期となる。7)細胞数は早晩材共約同数に近いが, その巾は早材部が広く, 晩材が占める面積割合(晩材率)は, 40∿50%となって, 内地産スギ材より高い値を示している。8)晩材形成の主要因は, 30℃前後の高温が続く7,8,9月と, 日照時間が短くなり, 気温も低下する11,12月の異なった二つの要因と考えられる。9)10月の気温は, 4,5月の気温に近いため, 春材形成となると考えられるが, 地スギ幼, 成木, 実生成木は晩材形成を継続する。それらの要因については, 今後の課題としたい。
澤田, 秀実 齋藤, 努 長柄, 毅一 持田, 大輔
本稿では中国四国地方で出土した6~7世紀の銅鋺の考古学的知見とともに鉛同位体比,金属成分比の分析結果を報告し,あわせてその分析結果から派生する問題として国産銅鉛原材料の産出地と使用開始時期について言及した。すなわち,理化学的分析によってTK209 型式期の須恵器が共伴する無台丸底の銅鋺(津山市殿田1号墳,黒本谷古墳)に朝鮮半島産原材料,TK217 型式期の須恵器が共伴する無台平底の銅鋺(津山市荒神西古墳,竹原市横大道8号墳)に国産原材料の使用が推定され,形態的特徴と原材料との相関性とともに,国産原材料の使用開始時期が7世紀中葉に遡る可能性を示し,特に荒神西銅鋺,横大道銅鋺の鉛同位体比が古和同を含む和同開珎と近似する数値を示しており,近い値を示す長登,香春岳やその周辺の銅鉱山の開発が7世紀中葉に遡る可能性を論じた。さらに亀田修一による渡来人の関与による7世紀中葉以前に遡る国内銅生産を指摘する見解や馬淵久夫によるTK43型式期での出雲市後野産原材料使用を指摘する鉛同位体比分析結果などを踏まえると,国産原材料の使用開始時期が6世紀後葉に遡る可能性すらあることを示した。また銅鉛原材料産出地についても従来考えられてきた長登銅山周辺だけでなく香春岳や出雲市後野など,北部九州から中国山地東部にまで目を向けて探る必要性も説いた。いずれ本稿を端緒にした研究の深化を期待するものである。
磯田, 道史
近世日本の諸藩では、さまざまな、藩政改革がなされた。なかでも、十八世紀後半から十九世紀前半にかけて、全国諸藩に最も影響した藩政改革をあげるとするならば、熊本藩の宝暦改革と水戸藩の天保改革の二つが特筆される。 十九世紀以降、幕府諸藩は近代化にむけた動きをみせはじめるが、この時期には、いくつかの改革モデルを提示する「先駆的な藩」があらわれた。近世中期から後期の藩政改革の展開は、第一段階として一七五〇年ごろから、熊本藩など少数の「先駆的な藩」が藩政改革をすすめ「プロト近代化行政」とでもいうべき行政モデルが形成され、第二段階として、一八〇〇年ごろ、このような先駆的な藩の動きが、松平定信政権のもとで幕府の寛政改革にとりこまれてゆき、全国の諸藩でも相次いで類似の「官制改革」がおこなわれた。そして、第三段階として、一八三〇年ごろ、幕府と水戸藩が天保改革を行い、いわゆる雄藩が登場し、とくに水戸藩の天保改革が「海防」の政策モデルとして諸藩に政策的影響をおよぼすようになった。つまり、熊本藩と水戸藩の改革は一九世紀における日本の近代化の流れに強い影響を与えたといえる。 そこで本稿では熊本藩と水戸藩をとりあげ、両藩の政策を比較検討し、政策的影響の有無をみた。熊本藩の宝暦改革が、後に全国諸藩に大きな影響を与えることになる水戸藩にどのような政策的影響をあたえていたのか。一九世紀前半における日本の近代化を考えるうえで、熊本藩から水戸藩へという流れをみる。一八世紀後半、熊本藩には先駆的な行政モデルが胚胎していた。これが天保改革に帰結していく水戸藩の藩政の動きに、具体的に、どのようにつながるのか。または、つながらないのか。この点を考察した。
福島, 雅儀 Fukushima, Masayoshi
ここでいう陸奥南部とは,現在の行政区分でいう福島県を中心とする範囲である。この地域は東北地方南部にあたり,古代日本の中では周辺地域とみなされる地方のひとつであった。また対象とする年代は,7世紀とその前後である。この時期は古墳時代から律令時代への転換期であり,日本史のなかでも最も大きな変革期のひとつであった。小論ではこのような地域と時代を対象として,古墳築造の終末過程と律令官衙の成立状況の分析をとおして,当時における周辺地域の社会的・政治的様相の一端を明らかにすることを目的としている。そこでこの論文では,主題にそって以下の課題を設定して考察を加えた。 1.年代的位置付けの基準 2.有力豪族層の古墳 3.群集墳の展開と終末 4.寺院と律令官衙の成立さらにこれらを統合して,陸奥南部における古墳時代の終末過程についてまとめた。その過程は,大きく3段階の画期を経て完了すると考えられる。つまり,7世紀前半には6世紀代における有力豪族層の抑圧を経て群集墳が成立する。つぎに7世紀後半には,群集墳の盛行をうけて律令官衙が成立し,また宮ノ前(みやのまえ)古墳・谷地久保(やちくぼ)古墳という畿内的な有力古墳が築造される。最後は8世紀前半における律令体制の確立を受けて,古墳の造営が終了する。以上の点から,古墳時代終末期の陸奥南部における地政的特徴には,その北部域や近接する関東地方とは大きく異なる様相が指摘される。それはこの地域が,古墳時代前期以来の伝統的な古墳文化を有する社会基盤のうえにあるが,強力な在地勢力は6世紀代に抑圧されてその勢力を失ったことから,7世紀代には中央政権による支配体制の変革が典型的に進められた地域ということである。
鈴木, 一有 Suzuki, Kazunao
分析対象として東海地方を取り上げ,有力古墳の推移からみた古墳時代の首長系譜と,7世紀後半に建立された古代寺院,および,国,評,五十戸・里といった古代地方行政区分との関係の整理を通じて,地域拠点の推移を概観した。古墳や古代寺院の造営から描き出せる有力階層の影響範囲と,令制下の古代地方行政区分については,概ね一致する場合が多いとみてよいが,部分的に不整合をみせる地域もあり,7世紀における地域再編の経緯がうかがえた。大型前方後円墳など,盟主的首長墓が影響力を発揮した範囲と,7世紀中葉から後葉に構築された中核的な古代寺院の分布は,国造がかかわった領域と比較的良好に対応するものの,令制下の国や郡の領域とは必ずしも一致しない。また,7世紀代に構築された終末期古墳については,地域差や個性が顕著なことから,網羅的に地域秩序を復元する資料として用いることが難しいことを示した。令制下の行政区分への編成は,古代官道の整備や領域設定ともかかわり,7世紀後半の中で段階的に進行した。その大きな画期は,孝徳朝における前期評の成立と,天武12年(683)~14年(685)に断行された国境策定事業と連動した後期評への移行であり,後者によって古墳時代的な地域秩序の多くが否定され,領域にかかわる地域再編が大きく促されたと想定した。
岸本, 直文 Kishimoto, Naofumi
1990年代の三角縁神獣鏡研究の飛躍により,箸墓古墳の年代が3世紀中頃に特定され,〈魏志倭人伝〉に見られる倭国と,倭王権とが直結し,連続的発展として理解できるようになった。卑弥呼が倭国王であった3世紀前半には,瀬戸内で結ばれる地域で前方後円形の墳墓の共有と画文帯神獣鏡の分配が始まっており,これが〈魏志倭人伝〉の倭国とみなしうるからである。3世紀初頭と推定される倭国王の共立による倭王権の樹立こそが,弥生時代の地域圏を越える倭国の出発点であり時代の転換点である。古墳時代を「倭における国家形成の時代」として定義し,3世紀前半を早期として古墳時代に編入する。今日の課題は,倭国の主導勢力となる弥生後期のヤマト国の実態,倭国乱を経てヤマト国が倭国の盟主となる理由の解明にある。一方で,弥生後期の畿内における鉄器の寡少さと大型墳墓の未発達から,倭王権は畿内ヤマト国の延長にはなく,東部瀬戸内勢力により樹立されたとの見方もあり,倭国の形成主体に関する見解の隔たりが大きい。こうした弥生時代から古墳時代への転換についても,¹⁴C年代データは新たな枠組みを提示しつつある。箸墓古墳が3世紀中頃であることは¹⁴C年代により追認されるが,それ以前の庄内式の年代が2世紀にさかのぼることが重要である。これにより,纒向遺跡の形成は倭国形成以前にさかのぼり,ヤマト国の自律的な本拠建設とみなしうる。本稿では,上記のように古墳時代を定義するとともに,そこに至る弥生時代後期のヤマト国の形成過程,纒向遺跡の新たな理解,楯築墓と纒向石塚古墳の比較を含む前方後円墳の成立問題など,新たな年代観をもとづき,現時点における倭国成立に至る一定の見取り図を描く。
平松, 隆円
一柳満喜子は一八八四年、一柳末徳子爵の子として誕生した。満喜子はミッション経営の幼稚園、女子高等師範学校附属小学校、附属女学校、神戸女学院などで学び、一九〇九年に渡米。米国ではブリンモア大学予備学校で学び、在学中に受洗した。その後、ブリンモアカレッジに入学したものの退学し、女学校時代の恩師アリス・ベーコンのもと、サマーキャンプなどを手伝っていたが、末徳の危篤の知らせを受け帰国。そして、兄恵三の邸宅を設計していたウィリアム・メレル・ヴォーリズと出会う。メレルとの結婚後、近江八幡の地に移った満喜子は、そこでいくつかの教育事業を行った。
永山, 修一
不動寺遺跡は、鹿児島市の南部、谷山地区の下福元町に所在する縄文時代~近世の複合遺跡である。谷山地区は、古代の薩摩国谿山郡に淵源し、「建久八年薩摩国図田帳」では、島津庄寄郡の谷山郡と見え、近世には谷山郷とされた。古代の谿山郡は隼人が居住する「隼人郡」の一つで、『和名類聚抄』によれば、谷山・久佐の二郷からなり、両郷は、永田川の中流・上流域と下流域すなわち西側と東側に存在した。不動寺遺跡では、奈良時代の明確な遺構は確認されておらず、奈良時代の遺構は、不動寺遺跡の範囲外、埋没河川の上流側にあると考えられる。平安時代のものとして緑釉陶器・初期貿易陶磁(越州窯系青磁など)・硯(風字硯・転用硯)などの遺物が出土し、遺構としては館跡・遣水状遺構・池状遺構・火葬墓・円形周溝墓・土師甕埋納遺構が検出されている。九世紀以降は郡家遺構そのものが確認されているわけではないが、谷山郡家が置かれていた可能性が高く、その後、園池を伴う有力者の居館として機能するようになった。不動寺遺跡の南南西約五〇〇メートルの谷山弓場城跡でも一〇世紀後半の蔵骨器の火葬墓が出土しており、蔵骨器の形式から、被葬者は不動寺遺跡の関係者と考えられる。また、一〇世紀後半~一一世紀前半には、北西九州と関連の深い円形周溝墓が営まれており、その被葬者は北部九州との関係を持っていた可能性が高い。一二世紀になると、不動寺遺跡では遺構が確認されなくなる。一二世紀代になると、谷山郡の中心は、約一キロメートル東方の砂丘状微高地上に立地する北麓遺跡に移った。このような中心地移動の背景には、一二世紀半ばの阿多忠景を代表的存在とする薩南平氏の谷山郡への進出があると考えられる。ここには近世には地頭仮屋がおかれ、谷山麓が置かれた。
鈴木, 拓也 Suzuki, Takuya
本稿は、八・九世紀の間に起こった隼人政策の転換を、京・畿内に視点を置いて明らかにし、それを当該時期の蝦夷政策と比較することによって、九世紀の王権に見られる性格の一端を解明しようと試みたものである。そのため本稿では、まず『延喜式』隼人司式の規定について検討し、次にそれに関連するとみられる九世紀初頭の単行法令について検討を加えた。その結果、明らかになったことは、以下の三点である。まず第一に、隼人司式に見られる今来隼人とは、朝貢隼人そのものではなく、延暦二四年(八〇五)に隼人の朝貢を停止する際に、南九州から朝貢に来ていた隼人の一部を畿内に残留させたものと考えられることである。国家は彼らによって、儀式や行幸において必要とされる呪力に満ちた吠声を確保しようとしていたとみられる。第二に、隼人司式には、今来隼人に欠員を生じた場合に畿内隼人によって補充する規定があるが、それは大同三年(八〇八)一二月勅によって成立したとみられることである。これ以後、隼人の吠声は次第に畿内隼人によって代行されるようになり、呪力は弱まっていったとみられるが、九世紀には天皇の行幸があまり行われなくなるので、隼人の呪力に対する期待も次第に低下していったと思われる。第三に、九世紀の王権は、隼人の朝貢を停止し、畿内周辺に移住させた隼人を宮廷儀礼に参加させていたが、同様の現象は蝦夷においてもみられることである。九世紀の王権は、辺境政策を主導しないにもかかわらず、畿内周辺に移配させた蝦夷・隼人を年中行事に参加させ、自らの権威を可視的に表現しようとしていたのであり、きわめて矮小化された中華思想を持っていたと言うことができるであろう。
土生田, 純之
西毛地域の古墳出土品を鉛同位体比分析した。分析した古墳は一部に5世紀後半(井出二子山古墳・原材料は朝鮮半島産)や6世紀前半のものも含むが大半は6世紀後半~7世紀初頭に属する。さらにその中で角閃石安山岩削り石積み石室を内蔵する古墳が多い。この石室は綿貫観音山古墳や総社二子山古墳を代表とする西毛首長連合を象徴する墓制と考えられている。特に観音山古墳からは中国北朝の北斉製と考えられている銅製水瓶や中国系の鉄冑などをはじめ,新羅製品も多い。新羅製品は他の角閃石安山岩削り石積み石室出土品にも認められている。かつて倭は百済と良好な関係を結ぶ一方,新羅とは常に敵対関係にあったと考えられてきたため,学界ではこの一見矛盾する事実の解釈に苦しんできたが,筆者は「新羅調」「任那調」に由来するものと考えた。特に今回分析に供した小泉長塚1号墳の出土品中に中国華北産原料を用いた金銅製冠があったが,新羅は当該期の倭同様,銅の原料が少なく何度も遣使した北朝から何らかの形で入手した原材料を用いて制作したものを「新羅調」等として倭にもたらしたものと考えた。もちろん直接西毛の豪族連合にもたらしたのではなく,倭王権にもたらされたものが再分配されて西毛の地にもたらされたものと考えている。西毛は朝鮮半島での活動や対「蝦夷」戦に重要な役割を演じ,そのことを倭王権が高く評価していたことは『日本書紀』の記事からも窺える。こうして6世紀後半~7世紀初頭における西毛の角閃石安山岩削り石積み石室出土品から,当該期の国際情勢を窺うことができるのである。なお,井出二子山古墳出土品に使用された銅が朝鮮半島産である可能性が高いことは,当該期の状況(加耶や百済との交流を中心とする)から見て矛盾しないものである。
菱田, 哲郎 Hishida, Tetsuo
7世紀における地域社会の変化については,律令制の浸透とともに,国郡里制の地方支配やそれを支える官衙群,生産工房群,宗教施設群の成立として捉えられている。一方で,古墳時代以来の墓制も残存しており,とりわけ7世紀前半は群集墳が盛んに築造されたこともよく知られてる。古墳時代の政治体制から律令制への転換が,地域社会にどのような影響を及ぼしたのか,あるいは地域社会の変動がどのような政治変革を反映しているのかということを明らかにするため,播磨地域を主たる材料に実地に検討を試みた。まず多可郡の中心域において東山古墳群を中心に階層構造をもって多くの古墳が妙見山の山麓に営まれることを挙げ,集落ごとに古墳が営まれる他の地域との違いを指摘した。集落消長もふまえると,7世紀前半における大規模な入植,開発が想定でき,屯倉の設置が関わると推測した。隣接する賀茂郡西部において,後期古墳と集落遺跡の消長を比較すると,7世紀に新たに展開する集落が墓を遠隔地の名山のもとに求めたと推測できた。この場合においても屯倉の設置が契機になると想定できた。このように大規模な古墳群が形成される背景として,屯倉型の開発があったと推測した。播磨地域での事例検討から群集墳論についての見直しも可能である。その際には,名山のもとに大規模な群集墳が形成される「山の墓地」と,集落が見える位置に小規模な古墳が営まれる「村の墓地」という対比が有効である。前者は屯倉型の開発に対応し,後者は伝統的な集落に対応すると想定できる。この二つのパターンが入り交じって地域社会が構成されている状況が看取でき,複雑化していく6から7世紀の地域社会の実像を解明する手がかりとなる。
白石, 太一郎 Shiraishi, Taichiro
朝鮮半島の西南部に位置する全羅南道の西よりの地域では,5世紀後半から6世紀前半のごく限られた時期に盛んに前方後円墳が造営される。その中には円筒埴輪や倭系の横穴式石室をもつものが存在することからも,これが日本列島の前方後円墳の影響により出現したものであることは疑いない。それがそれまで倭と密接な関係を持っていた加耶の地域にはまったくみられないことは,この時期になって全羅南道の勢力が倭国ときわめて密接な関係をもつようになったことを示している。これはまた日本列島の須恵器の祖型と考えられる陶質土器が,初期の加耶のものから5世紀前半を境に全羅南道地域のものに変化することとも対応する。これらのことは,5世紀前半を境に倭・韓の交渉・交易の韓側の中心的窓口が加耶から全羅南道地域に変化したことを示唆している。こうした韓側の窓口の変化に対応するかのように,倭国側でも対韓交渉の中心的担い手が,それまでの玄界灘沿岸地域から有明海沿岸地域に変化したらしい。5世紀前半以降,玄界灘沿岸ではそれまでみられた比較的大型の前方後円墳がみられなくなり,替わって筑後や肥前の有明海沿岸に大型の前方後円墳が営まれるようになる。一方,全羅南道地域の前方後円墳にみられる倭系横穴式石室は,北部九州でも有明海沿岸の肥前東南部や筑後地域の横穴式石室の影響により成立したものであることは疑いない。また複数の彩色を施した本格的な装飾古墳が成立したのが有明海沿岸の肥後の地であることも重要である。その成立に,朝鮮半島の古墳壁画からの何らか刺激を受けたことが考えられるからである。熊本県菊水町の江田船山古墳の豪華な金銅製装身具類などの副葬品もまた,5世紀後半から6世紀前半のこの地域の人びとの活発な対朝鮮半島交渉を示すものである。日本書紀の敏達紀にみられる百済の高官日羅を「火葦北国造刑部靫部阿利斯登の子」とする記載もまた,有明海南部の葦北の首長の対百済交渉を示すものである。さらにその交渉を指示したのが大伴金村であったことも,こうした有明海沿岸各地の首長層の外交活動が倭国の外交活動に他ならなかったことを示している。さらに,玄界灘沿岸~加耶ルートの海上交通の安全を祈る沖ノ島の祭祀に有明海沿岸の水沼君が関わるようになるのも,対韓交渉の担い手が玄界灘沿岸から有明海沿岸にかわった歴史的事実を反映するものであろう。こうした検討結果からも,5世紀前半頃を境として,倭・韓の交渉・交易活動の中心的担い手が,朝鮮半島側では加耶から全羅南道地域の勢力に,倭国側では玄界灘沿岸の勢力から有明海沿岸の勢力へと変化したことは疑いなかろう。
彦坂, 佳宣 HIKOSAKA, Yoshinobu
九州での活用体系は,上一段型・上二段型のラ行五段化,下二段型の保持,ナ変の五段化の傾向が強く,サ変・カ変を除けば五段と二段の二極化とされる。本稿は『方言文法全国地図』の関連図を,(1)活用型によるラ行五段化率の序列,(2)二極化に関する諸事象,の組み合わせから分析し,従来の研究に加え九州に特有の音変化傾向も二極化と地域差の形成に強く関与したことを論じた。また,近世以降の方言文献を参考に,これが近世末辺りから生じたことを推測した。
島津, 美子 岡田, 靖
江戸時代後期になると、それまで京都を中心に行われてきた仏像の造像活動が、地方においても盛んになる。これらの仏像には彩色が施されていることが多いものの、彩色の調査や色材分析の事例はそれほど多くない。この点に着目し、現在、山形県下に安置されている仏像群の彩色調査を行った。調査の対象は、いずれも一九世紀に造られた彩色の木彫像で、京都七条仏師による作から、その流れをくむ地方仏師らによって造られた仏像群である。前回の調査において、一九世紀前半の作例一件と明治時代に入ってからの作例二件の色材分析を実施したところ、明治時代の作例にのみ、一部の色で輸入の合成色材が使われていた。本調査では、一九世紀中頃から末期にかけて造られた彩色仏像群九件に使われた色材を明らかにしつつ、輸入色材の種類や導入期などを検討した。明治時代に入ってから造られた尊像にみられる明るめの緑と青には、それぞれ、岩緑青がエメラルドグリーン(アセト亜ヒ酸銅)に、天然藍が合成ウルトラマリンブルーに置き換わっていることが明らかとなった。一方で、色調の暗めの緑では、江戸時代と変わらずに黄色の石黄と藍色の色材が混合されたものが使われていた。同様に、赤や黄といった暖色系の色材も一九世紀を通してほぼ同じ色材が使われている。日本は、一九世紀の後半に諸外国との交易を正式に再開し、江戸時代から明治時代へと変わっていることを考慮すると、こうした社会的な変化が、彩色材料にも影響を及ぼしていたものと考えられる。一方で、他の色材は江戸時代にも使われていたものであり、すでに輸入されていた色材、たとえばプルシアンブルーが単色で使われた例は認められていない。本稿では、色材分析の結果をもとに、一九世紀の彩色仏像に用いられた色材について、輸入色材のみでなく、在来のものも含めて概観した。
中塚, 武
気候変動は人間社会の歴史的変遷を規定する原因の一つであるとされてきたが,古代日本の気候変動を文献史学の時間解像度に合わせて詳細に解析できる古気候データは,これまで存在しなかった。近年,樹木年輪に含まれるセルロースの酸素同位体比が夏の降水量や気温の鋭敏な指標になることが分かり,現生木や自然の埋没木に加えて,遺跡出土材や建築古材の年輪セルロース酸素同位体比を測定することにより,先史・古代を含む過去数百~数千年間の夏季気候の変動を年単位で復元する研究が進められている。その中では,セルロースの酸素同位体比と水素同位体比を組み合わせることで,従来の年輪による古気候復元では難しかった数百~数千年スケールの気候の長期変動の復元もできるようになってきた。得られたデータは,近現代の気象観測データや国内外の既存の低時間解像度の古気候記録と良く合致するだけでなく,日本史の各時代から得られたさまざまな日記の天候記録や古文書の気象災害記録とも整合しており,日本史と気候変動の対応関係を年単位から千年単位までのあらゆる周期で議論することが可能になってきている。まず数百年以上の周期性に着目すると,日本の夏の気候には,紀元前3,2世紀と紀元10世紀に乾燥・温暖,紀元5,6世紀と紀元17,18世紀に湿潤・寒冷の極を迎える約1200年の周期での大きな変動があり,大規模な湿潤(寒冷)化と乾燥(温暖)化が古墳時代の到来と古代の終焉期にそれぞれ対応していた。また人間社会に大きな困難をもたらすと考えられる数十年周期の顕著な気候変動が6世紀と9世紀に認められ,それぞれ律令制の形成期と衰退期に当たっていることなども分かった。年単位の気候データは,文献史料はもとより,酸素同位体比年輪年代法によって明らかとなる年単位の遺跡動態とも直接の対比が可能であり,今後,文献史学,考古学,古気候学が一体となった古代史研究の進展が期待される。
澤田, 和人 Sawada, Kazuto
帷子は今日よく知られた服飾のひとつであろう。しかしながら、その基礎的な研究は充分にはなされていない。本稿では、そうした状況を打開すべく、基礎的研究の一環として、室町時代から江戸時代初期にかけての材質の変遷を解明する。可能な限り文献を渉猟した結果、以下のような動向が辿られた。一五世紀に於ける帷子の材質は、布類、なかでも麻布がごく普通であった。絹物の例も散見されるが、それはあくまで特殊な用例であり、普遍化したものではない。一六世紀に入ると、麻布の種類も他の植物繊維の例も増え、布類の種類が豊富になっている。それと同時に、生絹という絹物も見られるようになった。一六世紀の末期ともなると、生絹は広範に普及を見せ、布類と等しいまでの重要な位置を占めている。一七世紀初期に於いては、布類については一六世紀末期の状況と大差は認められない。注目されるのは、綾などの絹物や、材質は不明であるが、唐嶋といった生地である。これらは慶長期の半ば頃から登場し始め、帷子の内でも単物として細分されて記録に出てくる。単物は裏を付けずにひとえで仕立てたものである。その材質には、絹物や木綿が見られる。単物は一六世紀後期に明瞭に確立をみせているが、当初は帷子とは分けて記載されており、慶長期中頃に至って帷子の内に組み入れて記載され始める。すなわち、単物というジャンルが、帷子というジャンルに融合をみせていく経過を示すのである。この動向は、絹物である生絹が単物と帷子との間を取り持つ契機として大きな役割を果たし、実現したと推察できる。このように、はじめ布製であった帷子は、やがて絹物でも仕立てられるようになっていった。それは、帷子の独自性を揺り動かす出来事であった。小袖と材質の上でさしたる相違がなくなり、引いては、独立した存在であった帷子が小袖と一元化されるようになるためである。
李, 漢燮
本稿は、一九世紀末に韓国に来てキリスト教の宣教活動をしたカナダ人牧師J・S・ゲールについて書いたものである。J・S・ゲール牧師は西洋人の韓国宣教活動を考える上で大変重要な人物で、一八八八年韓国に来て一九二七年帰国するまで、約三〇年間韓国で活躍をしている。J・S・ゲール牧師の韓国での活躍をまとめると次のようなことがあげられる。 まず取り上げられるのはキリスト教の宣教活動である。彼は一八八八年韓国に入国して以来元山やソウルで宣教活動をしており、韓国におけるキリスト教の伝道に大きく貢献している。 次に挙げられることは、韓国での聖書翻訳である。彼は、朝鮮の「聖書翻訳委員会」のメンバーとして聖書の韓国語翻訳に関係しており、一八九〇年初め頃他の宣教師と一緒に新約聖書を韓国語に訳している(出版は一九〇六年)。さらに彼は一九〇四年から一九一〇年にかけて旧約聖書も翻訳し、一九一一年にこれを出版している。 もう一つ挙げられるのは、彼が韓国の文化や言語、生活などを研究し、これらの成果を西洋に紹介したということである。彼は韓国に来てからすぐ韓国語を覚え、韓国の古典や漢文で書かれた文書まで読めるようになった珍しい西洋人でもあった。 最後に挙げられることは韓国語の辞書編纂である。J・S・ゲール牧師は、一八九七年に『韓英字典』(A Korean-English Dictionary, James Scarth Gale, 横濱、京城耶蘇教会刊)を発刊しており、一九一一年にはこれの増補版である『韓英字典』(A Korean-English Dictionary)を、一九三一年には『韓英字典』を大幅に増補した『韓英大字典』を出している。これらの辞書には当時の韓国語の語彙が忠実に反映されており、当時の韓国語の語彙を知る上で重要な資料として評価されている。
成, 惠卿
十九世紀末から始められた英訳の歴史において、注目すべき一冊は、フェノロサ=パウンドによる『能―日本古典演劇の研究』 ‘Noh’ or Accomplishment, a Study of the Classical Stage of Japanである。これは、パウンドがフェノロサの能の遺稿を編集・完成した本であるが、この一冊を世に出すまで彼が注いだ情熱や努力は並々ならぬものであった。その周辺には、伊藤道郎、久米民十郎、郡虎彦などの若い日本人芸術家たちがおり、パウンドの能理解、とりわけ舞台面での理解を助けた。一九一六年に出版されたこの一冊は、西洋の読者に、能の劇世界の美と深さを広く伝えるとともに、同時代の芸術家たちにも新鮮な衝撃を与えたのである。この時期におけるパウンドの能への関心は甚だ高く、自らも能をモデルとした幾つかの劇作品を書いた。 能訳集の出版の仕事を終えた後も、パウンドの能への関心は消えることなく、特に一九三〇年代からは能への関心が再び高まり、以降能は、パウンドにとって、自分と日本とを結ぶ重要な媒介物となった。 後年のパウンドの生涯には、能にまつわる興味深いエピソードが多い。それらのエピソード、そして書き残された様々な文章からは、彼の能への愛着さらには執着が鮮やかに浮かび上がる。 パウンドの能理解には、確かに限界があり、断片的なものにすぎないところがあった。また時には、懐かしい過去の思い出として、かなり理想化された節も窺える。しかし、能の文芸的価値がまだ日本でも十分に認められていなかった時期に、能に前述のような強い関心を示したことは注目に価する。なお、彼のそうした能への情熱が、周辺の人々にまで少なからぬ影響を及ぼした点を考えるとき、西洋世界への能の伝達史において、彼が果たした役割は大きく、かつ意義深いものであったと言える。
高田, 貫太
5~6世紀前葉の朝鮮半島西南部には,竪穴式石室や竪穴系横口式石室が展開する。これらは,伝統的な木棺や甕棺とは異なる外来系の埋葬施設であり,その受容や展開の背景について検討することは,当時の栄山江流域やその周辺に点在した地域集団の対外的な交渉活動を,微視的な視点から明らかにすることにつながる。そのための基礎的な整理として,それぞれの事例の構造や系譜について,日朝両地域の事例との比較を通して検討を行った。その結果,5世紀前半の西南海岸地域に点在する竪穴式石室については,日本列島の北部九州地域の竪穴式石室に直接的な系譜を求めることが可能であり,基本的には当地へ渡来した倭系集団が主体となって構築した可能性が高いと推定した。その一方で栄山江流域に分布する竪穴系横口式石室については,特定の地域に限定した系譜関係をみいだすことは難しく,むしろ嶺南地域や中西部地域,あるいは北部九州地域の石室構築の技術を多様に受け入れ,それを各部位に選択的に取り入れながら,特色のある墓制を成立させたと把握できる。5世紀後葉~6世紀前葉においても,栄山江流域には竪穴系横口式石室が展開している。それを採用する古墳は,前方後円墳や在地系の高塚古墳などであり,地域社会が主体的に横穴系の埋葬施設(やそれにともなう葬送儀礼)を定着させつつあったことを示している。
若狭, 徹
利根川の上流域に位置する北西関東地方では,弥生時代中期中葉以降,利根川沿岸低地に規模の大きい農耕集落が展開した。しかし,それらは弥生時代後期前半に一斉に解体し,集団は台地上で分散的に暮らすようになる。これは,弥生中期末に発生した多雨化による低湿地環境の悪化にあったと推定される。集団の分散や大規模水田経営の途絶により,首長層の成長も遅れたと考えられる。その後,弥生時代後期終末になると遺跡は再び低湿地に進出し,より広大な水田経営を行うようになった。多雨化の収束による環境改善があったと推定される。この時期に低地に新出したのは,先の環境変動によって流動化した東海地方の集団であり,濃尾平野の低地で培ってきたソフトウェアを投入することにより,利根川沿岸低地の広域的な水田化が進行していった。やがて古墳時代前期になると,首長の墓として前方後方墳が複数築造された。当地域の前方後方墳は東海地方起源の墓制であるが,大型のものは本貫地の東海地方よりも北西関東に多い。このことは,集団移住の規模が大きかったことと,その集団が首長によって組織化されたものであったことを示している。弥生時代末には,北陸地域や房総地域の集団の北進も発生している。こうした広域的な社会再編は,環境変動による土地利用の激変と集団の流動化が原因であり,それが古墳時代の新たなシステムの形成を促したものと考えられる。
古瀬, 奈津子 Furuse, Natsuko
日本古代における儀式の成立は,律令国家の他の諸制度と同様に,唐の影響なしには考える事はできない。しかし,律令の研究に比べると,唐礼の継受のあり方や唐礼との比較研究は遅れている状況にある。そこで,本稿においては,地方における儀礼・儀式について取り上げ,規定・実態の両面から唐礼との関係を考察し,唐礼継受の一側面を明らかにしたい。まず,平安時代初期に編纂された日本の儀式書には,唐礼とは異なり,地方の儀礼・儀式に関する規定がないことについて,その背景として,唐と比較すると日本の支配構造が中央集権的ではなく,官僚制が地方の末端まで徹底せず国司に委任された部分が多いことを指摘し,そのため中央で地方の儀礼・儀式の細則まで規定しなかったことを述べた。特に,平安初期以降は地方政治の国司請負体制が成立するので,この傾向はより顕著になる。地方における儀礼・儀式の細則については,平安初期以降,国ごとに国例が作成されたと考えられるが,日本の場合,諸国の例にあわせて国例が作られるため,中央で一律に統制しなくとも実際には大きな違いはなかったと推測される。次に,地方における儀礼・儀式の実態をみていくと,『大唐開元礼』の将来や,遺唐使の実地の見聞が蓄積されたことなどによって,中央においては奈良時代末から平安時代初期にかけて儀式と儀式の場の唐風化が進み,唐礼継受の第2期を迎えるが,地方においても同様な状況を指摘できる。「下野国府跡出土木簡」にみえる「政始」の儀式が,『大唐開元礼』巻126の地方官初上儀の「判三條事」を継承したものであること,9世紀には国庁の前殿が消滅し,前庭が拡大したことなどをあげ,国司が儀式の唐風化を地方へ持ち込んだことを指摘した。
小島, 道裕
日本の風俗画には、家族関係が窺える描写も多い。本稿では、「後家尼」と呼ばれる、夫の死後に尼となって家にとどまった女性に注目した。中世末期、一六世紀ころの絵画では、家族の中の女性グループや、あるいは一家全体を率いるような描き方をされていることが多い。しかし、近世すなわち一七世紀に入るころから、後家尼の地位は低下し、描かれなくなっていく。一方で、夫婦の外出場面や単婚小家族の図像が多く描かれるようになる。その意味を別の資料から考察するために、国立歴史民俗博物館の所蔵する古文書から、女性が当事者としてよく現われる土地売券などの財産処分文書について、定量的な分析を試みた。これによれば、一五世紀後半には、女性が処分や取得の主体として見られなくなっており、おそらく、嫁入婚や家父長的な家の確立と共に、男性が家を代表する形になったものと思われる。それにも関わらず一六世紀ころの絵画で後家尼が家長のように描かれるのは、この段階ではまだ実質的に権限を保持しているだけでなく、むしろ家父長権の強化と共に、夫の死後にそれを受け継ぐ妻の地位も高いものとなっていたからではないだろうか。
春成, 秀爾 Harunari, Hideji
ユーラシアの後期旧石器時代前半,オーリニャック期の約40,000年前に出現し,グラヴェット期の約33,000~28,000年前に発達した立体女性像は,出産時の妊婦の姿をあらわし,妊娠・安産を祈願する護符の意味をもっていた。しかし,グラヴェット期後半の約24,000年前に女性像は消滅する。そして,後期末~晩期旧石器時代マドレーヌ期の約19,000年前に線刻女性像や立体女性像が現れ,その時期の終わり頃の約14,000年前に姿を消す。日本では,大分県岩戸遺跡出土の石製品が女性像とすれば約25,000年前で,もっとも古い。愛媛県上黒岩遺跡から出土した立体女性像の石偶は14,500年前で,その後,13,000年前頃には三重県粥見井尻遺跡の土偶があり,縄文早期以降の発達の先駆けとなっている。後期末~晩期旧石器時代の立体女性像は,フランスのロージュリー=バス型,ドイツを中心とするゲナスドルフ型,ロシア平原のメジン型,シベリアのマイニンスカヤ型,日本の上黒岩型と粥見井尻型,相谷熊原型を設定することができる。ロージュリー=バス型はアングル=シュール=ラングラン型の岩陰の浮彫り女性像に,ゲナスドルフ型はラランド型の岩陰の線刻女性像またはホーレンシュタイン型の板石の線刻女性像に起源がある。ゲナスドルフ型の立体女性像は,腹部のふくらみはなく,乳房を表現した例は少なく,妊婦をあらわしているようにはみえない。しかし,ラランド型の線刻女性像に先行するペック=メルル型の線描女性像は,妊婦の姿をあらわし,さらにラ=マルシュ型の線刻女性像は出産時の妊婦を表現している。ゲナスドルフ型の立体女性像も,妊婦を記号化した表現と理解するならば,後期末~晩期旧石器時代の立体女性像も,後期旧石器時代前半の立体女性像と同様,妊娠を祈り出産を願う呪いに使った可能性がつよい。その背景には,最終氷期の極相期がつづくなかで世界的に人口が減少していた,あるいは不妊の傾向が顕著にあらわれていたという事情があったのであろう。ユーラシアには男根形の象牙に記号化した女性器を表現した男女交合の象徴物がある。ロシア平原のメジン遺跡の旧石器人は家屋内で,羽状文を施したマンモスの頭骨,下顎骨,肩胛骨を女性器にみたて,牙製の男根形拍子木でたたいて一種の音楽を奏でていた。立体女性像を妊娠・出産にかかわる護符とみるならば,それは妊娠あるいは出産を促す呪いの演奏であろう。上黒岩遺跡出土の棒状の石に羽状文や三角形を彫った線刻棒も,同様の目的をもって使用していた可能性がある。
松村, 和歌子 Matsumura, Wakako
春日社の宗教的分野での研究は、祭礼に集中しがちだが、祈祷や祓といった日常的な宗教活動こそ、宗教者と社会との関わりを考える上でむしろ重要だと考えられる。近年、春日社の下級祀官である神人が中世後期から灯籠奉納や祈祷などを通じ、日常から御師として崇敬者と深い関係を築いたことが明らかにされているが、こういった師壇関係の形成は、上級祀官である社司を嚆矢とし、その開始は、少なくとも平安時代末に遡る。本論考は、社司を中心に中世の春日社祀官の私的な祈祷への関わりなど、日常的な宗教者としての営みを出来るだけ具体的に論述しようとしたものである。❶章社司における御師活動の萌芽、❷章社司の御師活動の展開では、平安末から貴族の参拝・奉幣の際、社司が中執持ちとして祝詞奏上を行うようになり、日常から師檀関係を結ぶこと、同時期に宗教者として個性的な役割を果たす社司が現れ、その活躍は霊験譚にも描かれることを示した。また霊験譚自体が社司によって創り出され、記録や社記の注進等を通じて広められた場合があったことを述べた。鎌倉時代以降には、貴族の御師として重要度が更に増し、社司の任官を左右する場合もあったこと、貴族の邸内社の祭祀等その活動は、社外にも及んだことを示した。またこの動向は、他の有力神社にも共通する傾向であることにも触れた。❸章御師活動と奉幣の近世への展開では、社司の御師としての活動が近世に継続される一方、神人の御師としての活躍が中世初期に遡るであろうことを示した。さらに奉幣が、御幣またおはけ戴きとして、近世にもつながる信仰のあり方であった可能性を述べた。❹章宮廻と度数詣、❺章南円堂勤仕から南円堂講へでは、中世末に春日社で度数祓が祈祷として定着する以前、春日社諸社を廻る宮廻と本社・若宮を往還する度数詣がポピュラーかつ重要な信仰のあり方で、代勤という形で祈祷ともなり、近世にも継続したことを示した。また、春日社祀官により行なわれた南円堂勤仕は、南円堂・春日社を往還する度数詣、興福寺境内を含む宮廻、奉幣祝詞などを内容とするもので、春日講に先行する春日祀官の講的結縁として重要であること、また願主を得て行なわれ、祈祷ともなったことなどを紹介した。
宮城, 徹 Miyagi, Toru
本稿では、イングランド東部に位置するクローランド修道院を例に、土地経営の観点から11世紀後期におけるその所領景観を考察した。10世紀中葉の再建以後、聖・俗の有力な士地所有者を中心に複数の人々からの土地の寄進を通じて形成された修道院の所領は、多数の地所が複数の州に跨る形で広範囲に亘って分散保有される当該期の封建所領に典型的な散在所領であった。それぞれの地所は、村落という形をとりながらも、領主たる修道院によるその支配は必ずしも一様ではなく、修道院が村落全体を一円的に支配する「一村一領主型」の地所よりも、一つの村落を複数の領主が分割支配する「一村多領主型」の地所が圧倒的に多かった。それらの村落は、大部分が領主直営地と農民保有地とで構成される荘園として経営され、領主たる修道院を経済的に支えたのである。農村集落の周辺部に広がる広大な農耕地の存在によって立ち現われる農業的景観は、牧草地と放牧地並びに森林地の存在によって牧畜的景観を加味され、全体として11世紀後期におけるクローランド修道院の所領景観を形作っていた。
フリッツ, フォス FRITS, VOS
一九八五年度の共同研究集会の研究テーマ、「落窪物語の研究」をさらに進めていく上で、筆者は作品中の漢語と品詞の枠にしぼって検討した。落窪物語に現われる、一風変った音読みの漢語が、十世紀と十一世紀の他の物語、日記、随筆にも使われているかどうか、また〔所謂〕人称代名詞が他の作品ではどんな意味で使われているかを比較分析した。語義学上の統計的アプローチが作品の成立年代を確認する上で、無視できない一手法であることを紹介した。
佐藤, 正幸
人が「年」を認識することは、順序数をただ並べるだけの単純な行為ではなく、極めて政治的・歴史的な知的行為であり、何よりも文化的な行為である。 年号と干支による紀年法は、紀元前二世紀の中国で考案されて以来、東アジアにおいては、二〇〇〇年以上にわたって使われ続けてきた。これは理論的にも優れた紀年法であり、かつ東アジア世界の存在様式に応じた政治的・社会的・国際関係的役割を果たしてきた紀年法であった。 一方、キリスト教紀年法は、ディオニシウス・エクシグウスによって六世紀に創案されたが、ヨーロッパ社会で使われるようになったのは、一六世紀後半以降である。また、キリスト教紀年法は、理論的に幾つかの欠陥を持つにもかかわらず、現在、世界共通の紀年法として実際に機能している。 にもかかわらず、二〇世紀以降、キリスト教紀年法が、日本をも含めた非キリスト教圏に広まったのは、西洋文明の世界的波及という事実に加えて、キリスト教紀年法が通年紀年法であることと、「紀元前」という新しい概念を導入したことで、脱宗教化が行われ、近代的知の展開に対応できるようになったからである。 本稿では、日本の歴史のなかで「年号と干支による紀年法」が果たした役割を、「キリスト教紀年法」との比較を通して検討する。
武井, 弘一 Takei, Koichi
近世前期の17世紀は、日本列島の自然が大改造された、新田開発の時代である。稲には、米だけではなく、藁・糠・籾が含まれている。加賀藩を事例にしながら、稲の副産物とみなされていた藁・糠・籾に注目し、それらが村・武家・町社会のなかで、どのように消費されていたのか、その実態を明らかにした。米はヒトの食料となり、藁・糠はウマなどの家畜の餌料となり、ヒトと家畜が近世社会の内部で農業・軍事・運輸の面での動力を担った。すなわち、稲は結果として人畜力のエネルギー源となり、近世社会を発展させる原動力になった。ここに17世紀に広まった稲の意義がある。
弓場, 紀知 Yuba, Tadanori
彩釉陶器の誕生は西アジアにおいて始まった。紀元前10世紀ごろの宮殿のタイル装飾に彩釉陶器が用いられたのが最初である。初期はアルカリ釉を媒溶材として用いているが,アケメネス朝ペルシア,ローマ時代には鉛釉が媒溶材として用いられ緑釉陶器や褐釉陶器がつくられた。漢代の鉛釉陶器はローマ時代の鉛釉陶器と技術的に共通しており,東西両世界での技術交流の可能性をうかがわせる。中国では北朝時代,山西・河北の鮮卑族の墳墓の副葬品に緑釉,黄釉,白釉緑彩などの鉛釉陶器がある。この時期の鮮卑族の王墓からはササン・ペルシア製の金銀器やガラス器が出土しており,鉛釉陶器も西方の文物の流入に影響を受けて発達したものと考えられる。唐三彩は従来は8世紀前半,盛唐期に発達した彩釉陶器とされていたが,その萌芽は北朝後期にある。日本では白鳳期の寺院址や祭祀遺跡,墓葬から唐三彩が出土している。中国では唐三彩は墓葬用の明器として用いられたが,日本では珍貴な文物として受け入れられ,その模造品として奈良三彩が製作された。唐三彩は8世紀中葉を期にその製作はとだえる。9世紀の三彩陶器は盛唐期の三彩とは質を異にする新しい彩釉陶器である。唐三彩は墓葬用明器であったが,9世紀の三彩陶器は実用器である。この時期の三彩陶器の製作をうながしたのは西アジアのイスラム世界との交易である。中国楊州唐城とイラクのサーマッラー遺跡で同じ白釉緑彩陶器が出土しており,これは単に東方の鉛釉陶器がイスラム圏に輸出されたのではなく,イスラム圏の嗜好を中国側が受け入れてつくりだした新しい彩釉陶器である。中国の彩釉陶器の誕生とその発達は常に西アジアとの交流の中で考えるべきであり,陶磁器における東西交流の重要な示標なのである。
薗部, 寿樹 Sonobe, Toshiki
本論文は、文書の署判の位置に書かれた村落集団の名の下に付された判(「惣判」)や印(「惣印」)について考察したものである。村落が外部に発給した文書の署判の位置に書かれた村落名や村落集団名は、差出人特定のための地名表記にすぎない場合がある。そのために本論文では、単一の村落集団内部で文書としての機能(作成・伝達・伝来)が基本的に完結する村落内部文書に考察対象を限定した。村落内部文書の署判の位置には単なる村落名表記はほとんどなく、村落集団の名称や「定文言」、「衆議文言」が書かれる例が多い。村落集団名の署、定文言、衆議文言などの「惣中文言」は、村落集団の文書制定の意思を署判の位置で明示するものであった。惣判は、一六世紀以降、年寄衆・座衆身分の年寄が、惣中文言に単独で据えた判である。それは、中近世移行期村落の動揺に対して、年寄衆・座衆身分集団がとった村落運営維持策のひとつであった。一七世紀初頭に惣印があらわれる。惣印は、一五世紀末期の都市惣判の形成を背景に、朱印状や都市からの影響による捺印慣行の村落への浸透を直接的な要因として成立した。惣判と惣印は、いずれも惣中文言の正当性を担保するもので、両者に本質的な相違はない。一七世紀中期に惣中文言及び惣判・惣印が消滅し、かわって村落名に判や私印を加えた「村落名署判」が成立する。さらに一八世紀中期、村の名や村の役職名を印文とする「村の公印」が成立する。ただし、村の公印が作られず、村落名署判のまま近代を迎える村が多い。最後に、村落関係文書全般における惣判・惣印の検討、百姓等申状の署判と惣中文言及び惣判との関連、村落名署判へ変化する背景などの課題を提示した。
森岡, 正博
二十世紀の学問は、専門分化された縦割りの学問であった。二十一世紀には、専門分野横断的な新しいスタイルの学問が誕生しなければならない。そのような横断的学問のひとつとして、「文化位相学」を提案する。文化位相学は、「文化位相」という手法を用いることで、文化を扱うすべての学問を横断する形で形成される。 本論文では、まず、学際的方法の限界を克服するための条件を考察し、ついで「文化位相」の手法を解説する。最後に「文化位相」の手法を用いた「文化位相学」のアウトラインを述べる。
谷口, 雄太
本稿では十四世紀後半~十五世紀前半の吉良氏の浜松支配につき、特に寺社統制の問題を中心に検討し、その上で、一国の領主と守護の関係、連動する都鄙の姿、都鄙を結ぶ道の実態についても指摘した。 第一章では十四世紀後半の吉良氏と浜松につき検討した。観応擾乱後、幕府に帰参した吉良氏は、斯波派と組んで中央で復権し、浜松も獲得した。だが、同氏は同時期、斯波派とはライバル関係にあたる今川氏とも姻戚を構築した。その理由は地方の在り方、具体的には遠江・浜松をめぐる政治情勢にあった。浜松領主吉良氏―遠江守護今川氏の関係から両者は姻戚を結んだのである。 吉良氏の浜松支配を見ると、それは十四世紀に始まった。しかし、そこは真言宗が威勢を誇る場であった。かくして吉良氏は真言宗勢力の相対化を図り、その寺領を没収して禅僧に寄進し、禅宗を浜松に引き入れようとした。だが、それは失敗した。理由の一つは真言宗の強い反対、もう一つは守護今川氏の非協力である。吉良氏は中央では斯波氏と、地方ではそのライバル今川氏と組むという外交を展開した。しかし、それは今川氏が守護を務める遠州に、斯波氏と近い禅宗を導入するという点ではマイナスに働いた。二重外交の限界である。 第二章では十五世紀前半の吉良氏と浜松につき検討した。十五世紀、浜松の信仰空間は一変した。禅宗が台頭したのである。こうした変化の背景としては新遠江守護斯波氏との緊密な関係と守護による遠江支配の安定の下、吉良氏も浜松内外で領主支配を深化させることに成功したこと、そして、今川氏が遠江守護を務めた全盛期とは異なって、都鄙ともに斯波氏と連携するという時代に移り、吉良氏にとって二重外交状態が解消したことで、禅宗の遠州浜松への導入に障壁がなくなったことが大きかったとした。 以上をふまえ、一国の領主にとって守護と協調することの重要性、地方の在り方が中央政治に与える影響、必ずしもスムーズに展開しない都鄙間の禅宗の道を指摘し、近年の室町期権力論を批判・補完した。
赤澤, 春彦
本稿は中世前期の南都陰陽師について検討したものである。南都には中世後期から近世にかけて賀茂氏の庶流である幸徳井家が定住していたことがよく知られている。同家は初代友幸以降、大乗院門跡と密接な関係を結ぶことによって三位に昇進し、賀茂氏の嫡流勘解由小路家の断絶以降、賀茂氏を代表する存在となった。しかし、南都陰陽師の嚆矢は幸徳井家ではない。すでに十三世紀の段階で興福寺には安倍氏の庶流陰陽師である安倍時資・晴泰が興福寺の「寺住陰陽師」として確認できるのである。彼らは南都に定住し、興福寺や春日社で発生した怪異に対する占筮や呪術を担い、造作の日次勘申を行っていた。ただ、そのすべてを取り扱っていたのではなく、国家行事や藤原氏氏長者に関する日次勘申は在京の官人陰陽師が行い、南都陰陽師は寺社内部に関する事柄を扱っていた。また、怪異が発生した場合も軽事は南都陰陽師が吉凶を占い、それが重事と判断されると京へ注進するといったような分業体制が取られていた。興福寺や春日社では頻発する怪異や寺社内部の活動が細分化されてゆく状況に迅速に対処するため、近辺に陰陽師を定住させたと考えられる。これら十三世紀から確認できる南都陰陽師には二つの系統がある。一つは安倍氏庶流晴道党の晴泰、晴氏の系統、もう一つは安倍氏嫡流泰親流から分かれた時資、資朝の系統である。ただし、留意しておきたいのは、前者は複数の系図に確認できるのに対して、後者は「陰陽家系図」(宮内庁書陵部所蔵)にしか確認できない点である。また、同系図によれば時資の子孫が幸徳井友幸の先祖に当たるというが、傍注に明らかな事実誤認が複数確認できることから、後世の作為とみるのが妥当だろう。さらに吉川家文書(国立歴史民俗博物館所蔵)の「陰陽雑書写」から、時資らの先祖の本姓が惟宗氏であることが推察される。すなわち、幸徳井家はもともと惟宗氏であり、それが十三世紀の段階で安倍氏を名乗るようになり、十五世紀に賀茂氏へ改姓するのである。このように十五世紀に南都陰陽師として登場する幸徳井家は十三世紀の南都陰陽師安倍時資らの存在を前提としたものであったのである。
立石, 謙次 TATEISHI, Kenji
本報告では、今回、中国雲南省大理州巍山県での碑刻資料から収集した拓本資料の中から特に数点を紹介する。そして、これら資料の、従来不明な点の多かった16‐18世紀巍山周辺での仏教・道教などの中国系宗教研究における有用性について述べていく。
陳, 凌虹
中国における新劇は19世紀末に古典演劇を継承しながら、もう一方で近代劇の影響を受けて、両者の交錯作用によって作り出された演劇様式であり、中国の現代演劇=話劇の誕生を促した演劇様式でもある。当時は文明戯、後には早期話劇とも呼ばれた。文明戯の発祥と発展の歴史を遡ると、日本との深いつながりに気づく。明治40年代は新派が東京でその全盛期である「本郷座時代」を迎えた時期である。当時繰り返し上演されていた劇は、そのまま春柳社や留学生によって翻案・上演され、中国の劇壇に多大なるエネルギーを注ぎ込んだのである。それゆえ、文明戯と日本のかかわりを語るとなると、東京に目を向けがちになる。しかし、小論では新しい資料に基づいて、「文明戯を一つの劇種として確立させた」重要な劇団である進化団の創立者・任天知(一八七〇?~?)と京都の関係を探求する。 論文の前半は今まで曖昧にしか語られてこなかった任天知の日本経歴を明らかにした。任天知は一九〇二年から「東亜同文会京都支部」の清語講習所講師を担当し、そして一九〇三年一〇月に京都法政専門学校・東方語学校で教鞭を採り、一九〇二年~一九一〇年の間、日中間を往復していた。この時期に、京都の新演劇は静間小次郎一派によって支配されていた。彼は新聞小説の脚色物、時事物、講談物、探偵物及び戦争物を取り上げて京都明治座で十年以上の常打ちを続けた。そこで本論の後半は、当時の京都新演劇界の様相を提示し、静間一派と任天知・進化団の演目、つまり『鬼士官』(小栗風葉原作)及び『鬼中佐』(静間一座演目)と『尚武鑑』、また『両美人』(村井弦斎原作、静間一座演目)と『血蓑衣』という二組の作品を比較して、任天知と京都の新派との間にどれぐらいのつながりがあったのかを検討した。資料の制限で、推論に止まるが、任天知が京都に滞在していた時に接したナショナリズムが高揚する時代風潮及び静間一派らの新演劇が、任のその後の演劇活動の大きな原動力と推進力になったと考える。
福原, 敏男 Fukuhara, Toshio
つくり物・仮装・山車・囃子などが氏子町中を練り歩く祭礼練物は近世以降の伝統的都市を解明するキーワードであるが、毎年あるいは数年で変化するので資料が残りにくい。そのため研究が甚だ遅れている。本稿では、資料が豊富な岡山東照宮祭礼をとりあげて、祭礼練物の意味について考えてみたい。岡山東照宮の祭礼は江戸幕府の崩壊と明治政府の神仏分離政策によって途絶えてしまった。その原因はこの祭礼が「権力の祭」であり、岡山町人に根づいていなかったからであろうか。最近、近世都市史研究において、祭礼行列を分析する成果が出されている。武威を可視的に誇示し、表現する政治文化という見解も出されている。特に藩主が徳川政権の許しを得て勧請した東照宮祭礼は政治・イデオロギー性をもつとされる。『東照宮祭礼賦物図巻』は岡山の東照宮祭礼における町方練物を描いた絵画資料である。元文四年(一七三九)から四年間行われた、城下町六二町の惣町参加による祭礼練物「庭訓売物」を描いた絵巻である。「庭訓売物」は『庭訓往来』に記された諸国商人を主題にした「つくり物風流」の行列である。「庭訓売物」は東照宮祭礼の歴史のなかでも町方住民祭礼参加のピークに位置づけられている。岡山城下町の有力町人たちは藩権力と結びついて領国経済を掌握してきたが、一八世紀末頃になると、在方商業が海(河)港を中心にして、近辺農村地帯をも巻き込んで進展した。在方商業の開方性と城下町商業の閉鎖性が際だち、城下町商人は経済的には衰退していったのである。「庭訓売物」の四年間は城下町が経済的に在方の優位にたち得た、最後の煌めきであったのかもしれない。惣町参加を造形的に表現した「庭訓売物」は、城下町住民、なかでも当時の人口の過半数を占めた城下町商人のロア(物語)を造型化したものでなかったか。
四柳, 嘉章
本稿では中世的漆器生産へ転換する過程を,主に食漆器(椀皿類)製作技術を中心に,社会文化史的背景をふまえながらとりあげる。平安時代後期以降,塗師や木地師などの工人も自立の道を求めて,各地で新たな漆器生産を開始する。新潟県寺前遺跡(12世紀後半~13世紀)のように,製鉄溶解炉壁や食漆器の荒型,製品,漆刷毛,漆パレットなどが出土し,荘官級在地有力者の屋敷内における,鋳物師と木地・塗師の存在が裏付けられる遺跡もある。いっぽう次第に塗師や木地師などによる分業的生産に転換していく。そうしたなかで11~12世紀にかけて材料や工程を大幅に省略し,下地に柿渋と炭粉を混ぜ,漆塗りも1層程度の簡素な「渋下地漆器」が出現する。これに加えて,蒔絵意匠を簡略化した漆絵(うるしえ)が施されるようになり,需要は急速に拡大していった。やがて15世紀には食漆器の樹種も安価な渋下地に対応して,ブナやトチノキなど多様な樹種が選択されるようになっていく。渋下地漆器の普及は土器埦の激減まねき,漆椀をベースに陶磁器や瓦器埦などの相互補完による新しい食膳様式が形成された。漆桶や漆パレットや漆採取法からも変化の様子を取り上げた。禅宗の影響による汁物・雑炊調理法の普及は,摺鉢の量産と食漆器の普及に拍車をかけた。朱(赤色)漆器は古代では身分を表示したものであったが,中世では元や明の堆朱をはじめとする唐物漆器への強い憧れに変わる。16世紀代はそれが都市の商工業者のみならず農村にまで広く普及して行く。都市の台頭や農村の自立を示す大きな画期であり,近世への躍動を感じさせる「色彩感覚の大転換」が漆器の上塗色と絵巻物からも読み解くことができる。古代後期から中世への転換期,及び中世内の画期において,食漆器製作にも大きな変化が見られ,それは社会的変化に連動することを紹介した。
森本, 一彦
本稿では一七世紀における楡俣村の宗門改帳を基礎資料とする。初期における宗門改帳の性格と楡俣村の村落関係を検討する。 ①  書記の表題は五家組が宗門改帳の作成の中心であったことを意味している。 ② 「宗門改帳」から「宗門人別帳」への表題の変化は、人別帳が影響していた。 ③  宗門改帳の分析を通じて、宗門改めが常におこなわれたと推測した。しかし、宗門改帳が毎年作成され提出されたかどうかは疑わしい。 ④ 記載単位である「壱家」の増減には、宗門改帳の記載方針が関係していた。 ⑤ 一七世紀の宗門改帳の記載単位には年貢納入単位が反映していた。 ⑥ 人数の変化には、宗門改帳の記載基準が影響していた。基準の一つとして年齢があった。代官の交替時に人数が少なく書かれた。 ⑦ 年齢記載は、寛文五年以降に見られる。異なった宗門改帳に記録されている年齢は矛盾するが、これには代官の交替が関係している。 印判の分析を通じて、初期徳川日本の宗門改帳が村役人を中心にして作成されていたことが分かる。代官は宗門改帳の厳密さを要求しなかった。一七世紀における宗門改帳は、歴史人口学のデータには適さない。しかし、不完全な宗門改帳が作成されねばならない理由を考えることを通じて、支配や村落の関係を考察できる。一八世紀に向かって宗門改帳は厳密さを増していった。
榊, 佳子 Sakaki, Keiko
日本古代の喪葬儀礼は七世紀から八世紀にかけて大きく変化した。そして喪葬儀礼に供奉する役割も、持統大葬以降は四等官制に基づく装束司・山作司などの葬司が臨時に任命されるようになった。葬司の任命に関しては、特定の氏族に任命が集中する傾向があり、諸王・藤原朝臣・石川朝臣・大伴宿祢・石上朝臣・紀朝臣・多治比真人・佐伯宿祢・阿倍朝臣が葬司に頻繁に任命されていた。これらの氏族が何故頻繁に葬司に任命されていたか、その理由を検討すると、諸王や真人姓などの皇親氏族の場合、天皇の親族であることが任命される理由であり、藤原氏も当初は葬司への任命はあまりなかったものの、天皇外戚になったことから重用されるようになったと考えられる。その他の氏族は、もともと食膳奉仕や宮城守衛などの職掌を担っていた氏族であり、さらに天皇の殯宮にても同様に食膳奉仕や殯宮守衛を行っていたことが、葬司任命につながったものと思われる。つまり葬司は喪葬儀礼の変化の中で新たに設けられたものであったものの、その任命に当たっては実際には以前からの喪葬儀礼の影響を強く受けたものであった。なお喪葬儀礼専掌氏族として有名な土師氏は、葬司にはほとんど任命されていなかったが、実際には六世紀後半以降、天皇の殯を管掌する役割を担っており、八世紀を通じて遺体に食膳を献上するなどの奉仕を行っていた。
岩城, 卓二 Iwaki, Takuji
在郷町桐生新町を対象とした研究は戦前・戦後とかなりの量に及ぶが、同町の住民構造を分析した研究は意外に乏しい。そこで、本稿では、桐生新町が繁栄から停滞に向かうとされる十九世紀初頭の同町の住民構造について、主に宗門改帳を用いて検討する。十九世紀初頭の桐生新町では、借屋の増加によって町が繁栄し、富裕な借屋もみられるようになる一方で、従来、町の中核を担ってきた家持には困窮する者もいた。これまでこの桐生新町の住民構造については、借家層が分厚く存在することが特徴とされてきたが、その内実は十分に分析されることなく、下層民と位置づけられてきた。また、家持・借地・借屋の総戸数の変動のみから住民構造が論じられる傾向があった。本稿はそうした従来の住民構造の捉え方を克服するために、家持・借地・借屋の人口動態、奉公人雇用、家族形態にも目を向け、とくに十九世紀初頭、桐生新町の繁栄をもたらすとされた借屋の特徴把握を試みた。その結果、総戸数・総人口が増加し、町も繁栄する文化・文政年間、借屋は総戸数だけでなく、総人口においても五〇%以上を占めるに至り、総戸数・総人口も減少し、停滞へと向かう天保期においても、総人口に占める割合は文政期の水準が維持されていることが明らかとなった。そして、奉公人を雇用する借屋は文政期と変わらずに存在しており、家督相続によって親と同居する借屋も着実に増えている。また、借屋は十九世紀初頭を通じて激しく流出入を繰り返していた。五年以内で流出する者が借屋の半分近くを占めており、桐生新町が安住の地とならなかったことが知られるが、一方で家持とともに職業仲間の一員となり、長く同町に根付く者もみられた。十九世紀初頭とは、流入後数年で再び流出するような経営基盤の脆弱な借屋と、桐生新町に根付き、家持を凌ぐような経済力を蓄える借屋の二極分解が顕著に進行する時期であり、借屋=下層というような捉え方ができなくなる時期であったといえる。
高久, 健二 Takaku, Kenji
朝鮮民主主義人民共和国の平壌・黄海道地域に分布する楽浪・帯方郡の塼室墓について,型式分類と編年を行い,関連墓制との関係,系譜,および出現・消滅の背景について考察した。その結果,楽浪塼室墓の主流をなす穹窿式塼天井単室塼室墓については,四型式に分類・編年し,実年代を推定した。さらに,諸属性の共有関係からその他の塼室墓との併行関係を明らかにした。これらの変遷過程をみると,穹窿式塼天井単室塼室墓1BⅡ型式が成立・普及する2世紀後葉~3世紀前葉に大きな画期があり,その背景としては公孫氏による楽浪郡の支配と帯方郡の分置を想定した。これらの系譜については,中国東北における漢墓資料との比較検討の結果,典型的な穹窿式塼天井塼室墓は,とくに遼東半島とのつながりが強いことを指摘した。塼併用木槨墓については,木槨墓から塼室墓へと変化する過渡的な墓制ではなく,塼室墓の要素が木槨墓に導入された墓制であることを指摘した。これに基づいて塼併用木槨墓が造営された1世紀後葉~2世紀前葉に,すでに塼室墓が出現していたのではないかという仮説を提示した。石材天井塼室墓と横穴式石室墓については,いずれも穹窿式塼天井塼室墓と併行して造営された墓制であり,とくに石材天井塼室墓は塼天井塼室墓から横穴式石室墓への過渡的な墓制ではなく,横穴式石室墓の天井形態が塼天井塼室墓に導入されたものと考えた。さらに,これまで不明確であった楽浪・帯方郡末期~滅亡後の状況について,穹窿式塼天井塼室墓・石材天井塼室墓・横穴式石室墓の分布状況や銘文資料などから検討した結果,3世紀中葉以降は平壌地域から黄海道地域へ在地豪族が移動し,これに代わって平壌地域へ新興勢力が流入しており,郡県体制が大きく変容していった時期であることを明らかにした。
小沢, 洋 Ozawa, Hiroshi
古墳時代の上総南西部には2つの強大な政治領域が存在していた。一つは小櫃川流域の馬来田国であり,もう一つは小糸川流域の須恵国である。この両地域では古墳時代のほとんどの期間を通じて継起的に大形古墳の築造が認められ,房総の諸首長層の中でも,とりわけ安定した勢力を維持していたことが窺われる。小糸川流域では,前期の段階には中・下流域の丘陵上に前方後方墳が拠点的に存在する状況であるが,中期以降には下流沖積地の内裏塚古墳群を中心に首長墓群が形成される。5世紀中頃に房総最大の前方後円墳・内裏塚古墳が築かれて後,6世紀前半代など一時的に首長墓の存在が不明確な時期もあるが,6世紀後半期には継続的な100m級前方後円墳の築造が見られ,中小規模の前方後円墳・円墳を含めた首長系集団の墓域を形成する。7世紀代に入ると,割見塚古墳を始めとする幾つかの方墳が築造され首長系集団の墓制が一新される。これらの方墳は二重周堀・切石積石室といった強い共通性を有しており,房総諸地域の斉一的な終末期方墳形成の中での階層的な意味付けがあったと考えられる。小櫃川流域では,前期の段階にすでに中流域の小櫃地区を本拠とする首長勢力があり,飯籠塚古墳・白山神社古墳といった大形前方後円墳が築かれている。しかし中期に入ると高柳銚子塚古墳を初現として下流沖積地の祇園・長須賀地区に一貫して首長墓群が形成されるようになり,以後は小糸川流域と非常によく似た展開をたどる。ただし小櫃川流域の首長墓の多くが今日では消滅しているため,編年的関係が不明な部分も多い。また6世紀末葉の金鈴塚古墳を最後に,小櫃川流域では終末期の首長系古墳(方墳)が確認されておらず,上総最古の寺院・大寺の出現と関連してその動向に大きな疑問が残されている。
宮本, 一夫 俵, 寛司 Miyamoto, Kazuo Tawara, Kanji
ベトナム漢墓ヤンセ第3次調査による墓葬単位の一括遺物の比較から,灰釉壺と灰陶甕を中心に型式学的な変遷を捉え,フーコック,マントン1A・1B号墓,ゴックアム1号墓,ビムソン2号墓,ビムソン3号墓,ビムソン7号墓,ビムソン10号墓といった変遷を想定した。さらに建和三年(AD149年)銘灰釉壺,嘉平年(AD172~178年)紀年銘碑墓出土灰釉壺,広州漢墓5080号墓副葬陶器との型式学的な比較から,これらの漢墓が2世紀前半から3世紀前葉にかけてのものであることを考え,この段階の詳細な年代観を確立することができた。さらに,副葬陶器に共伴する五銖銭の型式変化や粗悪化は,陶器編年に対応しており,陶器編年の正しさを保証するものとなった。さらにマントン1A号墓を中心とした青銅容器の年代観も陶器編年と矛盾するものではなかった。こうしたベトナム漢墓の編年の確立は,漢の郡治が作られて以降にみられる在地文化の変容や漢の支配構造など考える上での基礎的な年代軸となるであろう。さて,灰釉陶壺にみられるベトナム北部から南中国までの共通性,さらには青銅容器や青銅鏡におけるこうした地域での共通性は,これらの地域を共通とした流通圏あるいは共通のイデオロギーが存在したことを示している。さらにベトナム漢墓から出土する青銅容器や灰釉陶は,ベトナム北部において独自の生産体系が構築されていた可能性が高い。また,墓葬構造の変遷で認められたように,2世紀中葉から3世紀にかけて認められる単券頂多室墓と後蔵室の組み合わせはベトナム北部で在地的に発達したものである。2世紀後葉にはベトナム北部交趾郡・九真郡・合浦郡・南海郡を中心とした士燮政権が漢王朝から独立して成立し,その版図を南中国(嶺南地方)にまで広げている。士燮政権の成立は,ベトナム北部から南中国の共通した文化圏と,墓室構造や副葬陶器にみられるベトナム固有の地域性の確立が,その背景にあると考えられる。
小池, 淳一 Koike, Jun'ichi
本稿は筆記環境の近代化と消費文化の様相を万年筆を通して考えようとするものである。ここではまず,明治の日本において万年筆が販売に際してどのような位置づけであったか,について,丸善における広告宣伝を確認し,特に夏目漱石が書いた「余と万年筆」(1912)をはじめとする万年筆関係の文章を分析した。さらに三越百貨店における万年筆の販売の様相を『三越』『三越タイムス』からうかがい,その特徴について考察した。その結果として,万年筆は筆記の近代化のシンボルとして,明治末から大正の初めにはかなり普及したが,特に三越では舶来品としての万年筆の販売に尽力し,さらに関連する商品も視野にいれ,商品そのものばかりではなく,関連する知識や使用法の啓蒙にも努めていたことが明らかになった。日本における万年筆の歴史,筆記文化の近代を考えるためには,ここで論じた以外にも国産化の過程をはじめとする複眼的な考究が必要であろう。
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