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千田, 嘉博 Senda, Yoshihiro
従来,遺構に即した踏み込んだ検討が行われてこなかった東北北部の山域について,墳館・唐川城・柴崎城・尻八館を事例に検討を行った。この結果,墳館は10世紀末~11世紀にかけての古代末の防御集落と中世の館が重複した遺跡であったことを示し,東北地域で数多くみられるこうした重複現象が,中世段階ですでに古代末に地域の城が構えられた場が,特別な意味をもち,そこに改めて城を築くことが,中世の築城主体にとって権力の権威や正当性を示す意義をもったとした。
磯田, 道史
日本の武士社会では、養子が家を継ぐことが、しばしばある。しかも、日本の養子制度は中国や朝鮮の制度と異なり、必ずしも、同じ家の成員でなくてもよい。しかも、養子が、当主(家父長)になって、その家を継承・相続する点が特徴的である。この東アジア社会では特異な制度は、日本近世の身分制社会にとって、どのような意味を持ったのであろうか?一八世紀末から一九世紀末の武士の養子制度について、長門国清末藩(山口県下関市)の侍の由緒書(家の歴史記録)と分限帳(名簿)をもとに、分析した。その結果、次のことが、明らかになった。
八木, 光則 YAGI, Mitsunori
6世紀末から10世紀にかけて,東北北部から北海道央ではいわゆる末期古墳が造られていた。90年近い末期古墳の研究史の中で,近年特に注目されている三つのテーマについて再検討を行った。
春成, 秀爾 Harunari, Hideji
炭素14年代を測定し,暦年較正した結果によると,北部九州の弥生前期の板付Ⅰ式は前780年頃に始まる。南四国も前8世紀のうち,板付Ⅱa式併行期に始まる中部瀬戸内の前期は前7世紀,近畿の前期は前7~6世紀に始まる。すなわち,弥生前期は西周末頃に併行する時期に始まり,前380~350年の間,戦国中期に終わる。
ダニエルス, クリスチャン Daniels, Christian
本稿では、思茅の生態環境史に大きな影響を与えた漢族移民が入植する以前にタイ族の政権が存在したこと、及び18世紀における漢族商人による思茅山地の開発という二つの要因を指摘した後、この度の調査で得た碑文資料に基づいて、18世紀末19世紀初め、現地の住民がこの開発に対して自発的に採択した環境保全措置とその意義を紹介する。
福原, 敏男 Fukuhara, Toshio
細男(人間が演ずる芸能と傀儡戯)は日本芸能史上の謎の一つである。従来は九州の八幡宮放生会の視点より理解され、九州より近畿に伝播したという暗黙の理解があった。それに対して本稿では、人間の芸細男は奈良・京都の大寺社における芸能構成の一つとして成立した、とみる。東大寺では九世紀末、京の御霊会では一一世紀にみられ、一二世紀には白面覆と鼓の細男が確認できる。春日若宮祭礼でも平安期より祭礼に登場している。
藤田, 励夫 Fujita, Reio
本報告で取り扱う十六世紀末から十七世紀にかけての時代、現在のベトナムには大越があり、黎朝の皇帝がハノイにあった。しかし、皇帝には実権がなく、ベトナム北部では鄭氏、中南部では広南阮氏が黎氏を名目上の皇帝にいただきながら実質支配を行っていた。両氏とも対外的には自国を安南国と称し、我が国ともそれぞれ文書を往復し交易を行っていた。
小島, 道裕 Kojima, Michihiro
飛騨の国人領主江馬氏は、庭園を伴う館で知られている。まず文献史料で考察すると、南北朝初期から将軍に近侍し、遵行指令を受け、中央と密接な関係を持っていたが、一五世紀後半には自立した地位を持つことが知られ、一六世紀には荘園関係の史料には見えなくなる。一方遺構は、一四世紀末~一五世紀前半に、「花の御所」を模倣した館が営まれるが、一五世紀後半には山城などに機能が分散し、一六世紀には館としての機能が廃絶する。こうした現象は他の国人領主の館にも見られることが知られてきており、国人領主が全国的な体系の中で存在していた一五世紀前半から、領域的な領主として自立する一五世紀後半以降への変化と言える。この変化の中で衰退した国人も多く、逆に一四世紀中葉~一五世紀前半には中央と地方の国人の間の安定した関係があったと言え、これを「室町期荘園制」の一面と見なすことができる。
スムットニー, 祐美
本論文は、16世紀末に来日したイエズス会東インド管区巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノが作成した茶の湯関連規則が、千利休によって形成されたわび茶の影響を受けていた可能性について、ローマイエズス会文書館所蔵の史料を用いて検証するものである。
山内, 晋次 Yamauchi, Shinji
現在の文献史学研究において,日宋・日元貿易期(10世紀末~14世紀半ば)の日本と中国を結ぶ幹線航路が,博多―舟山群島―明州(慶元)・杭州という「大洋路」とも呼ばれる東シナ海横断ルートであるという点は,現存史料による限り動かし難い結論であろう。ところが,14世紀中葉の元明交代期になると,文献史料のなかに(博多―)肥後高瀬―薩摩―琉球―福建という,南西諸島を経由して中国東南部の福建地域とつながる「南島路」とでも呼ぶべき航路に関する記録があらわれる。
越智, 郁乃 Ochi, Ikuno
これまでの沖縄における墓制研究は,沖縄内各地域の墓制のバリエーションに関する研究が蓄積されている。一方で,17世紀に中国から琉球王府の士族層にもたらされた墓地風水に関する研究が行われてきた。傾斜地に横穴式に掘込み,後方の高い風水上吉型をなす墓形は,19世紀末から20世紀初頭にかけて沖縄の庶民層に広く普及した。沖縄において墓は「あの世の家」であり,その快適さ如何によっては子孫に影響を及ぼす存在であるという言説は,現在でも広く存在する。
山陰, 加春夫 Yamakage, Kazuo
一四世紀末~一五世紀中葉における高野山金剛峯寺の同寺領膝下諸庄園に対する「大検注」とそれに基づく「分田・分畠・在家支配」については、これまで多くの貴重な研究が積み重ねられてきた。けれども、従来の当該研究においては、金剛峯寺の「分田・分畠・在家支配(=寺僧や庄官らに対する供料地等の配分)」システムと、それと対を成すはずの同寺の「年貢・公事収納」システムとが十分に峻別されていない。
高木, 正朗
この論文の目的は三つある。連続した人口記録がある場合、第一に世帯と家族のライフサイクルの始まりと終わりとを境界づける良い方法があるか、第二に世帯構成の変化を測定する最善の方法は何か、第三に極めて短期間だけ居住して移動していく都市の下層世帯においても、家族周期が観察されるかどうかを探求することである。こうした課題を検討する素材として、一七世紀中期から一九世紀末にかけて作成された宗門改帳は最適である。
西川, 和孝 Nishikawa, Kazutaka
雲南への漢人移民の進出は,14世紀に明朝の版図に組み入れられたことに始まり,人口爆発に伴う大量の漢人移民の流入を迎えた18世紀末にそのピークに達する。従来,雲南の移民史において,雲南省外の他地域から移住してくる漢人移民の動向に焦点が集まりがちであり,省内の移民についてはほとんど省みられてこなかった。本稿では,石屏の事例を通して,こうした一方的な議論に対して別の見方を提示する。
日高, 薫 Hidaka, Kaori
本稿は,18世紀末から19世紀初頭にかけて制作された西洋銅版画写しの輸出漆器のうち,風景を表したプラークに注目し,その原図と技法に関して検討を加えることによって,輸出漆器特有の問題の一端を示すことを目的とする。筆者はかつて,肖像図蒔絵プラケットの原図となった銅版画の同定と,両者の比較に基づいて,それらの制作事情に関する考察を加えたことがある。今回は,同様の手法で,風景図蒔絵プラークの特徴について考察し,一連の漆器に共通する問題を抽出したい。
三上, 喜孝 Mikami, Yoshitaka
本稿は、八世紀末から九世紀初頭を律令国家の転換期であるとする本共同研究の立場から、光仁・桓武朝期における国土意識の転換について論ずることを目的とする。ここでいう「国土意識」とは、国土の境界意識、空間認識、山野支配や田地支配の理念、王土思想といった、国土にかかわる意識全般を意味する。むろん、国土意識は、特定の時期にのみあらわれるものではないが、古代日本における国土意識の変化の画期を考える上で、光仁・桓武朝期を検討することは意味があることと考える。
武光, 誠
古代日本の太政官制は、十世紀前半に大きく変えられているが、この論文は、最近の研究をとり入れつつ、そのことの意味を考えたものである。律令にさだめられた太政官の制度は、いくつかの官吏がそれぞれの権限に従って政治を分担するものであった。ところが、その方式が十世紀前半までに、十人ていどの上卿が、集団で政務を分担する形にかえられていった。このような転換は、九世紀はじめに外記政の形の太政官政治がつくられ、そこで南所申文が始められたことをきっかけにおこった。このとき、外記宣旨が出されるようになった。この動きとともに、所々が太政官にかわって政治を担うようになっていった。さらに、九世紀末に陣申文がはじまり、弁官宣旨がうまれた。そして、十世紀前半の藤原忠平のもとで、上卿が国政を分担し、彼らが弁官宣旨の形で命令を発する形が確立していった。この動きを明らかにしたのが、この論文である。
李, 昌煕 Lee, Chang-Hee
日韓両地域における鉄器の出現は,燕国の鉄器生産能力の増大,それによる東方への普及に伴ったものと考えられてきた。その時期は戦国末から前漢初にあたると考えられているために,出現年代は紀元前3世紀をさかのぼることはない。しかしその根拠は明確ではなく,燕国における鉄器の普及は紀元前300年よりも古かった可能性が説かれつつある。
李, 漢燮
本稿は、一九世紀末に韓国に来てキリスト教の宣教活動をしたカナダ人牧師J・S・ゲールについて書いたものである。J・S・ゲール牧師は西洋人の韓国宣教活動を考える上で大変重要な人物で、一八八八年韓国に来て一九二七年帰国するまで、約三〇年間韓国で活躍をしている。J・S・ゲール牧師の韓国での活躍をまとめると次のようなことがあげられる。
山梨, 淳
本論は、日露戦争後の一九〇五年末に行われたアメリカ人のウィリアム・ヘンリー・オコンネル教皇使節の日本訪問に焦点をあて、二十世紀初頭に転換期を迎えつつあった日本のカトリック教会の諸動向を明らかにすることを目的としている。オコンネル使節の訪問は、日露戦争時に戦地のカトリック教会が日本により保護されたことに対して、教皇庁が明治天皇に感謝の意を表するために行われたものであるが、また日本のカトリック教会の現状視察という隠れた目的をもっていた。
李, 哲権
漱石文学の研究には、一つの系譜をなすものとして〈水の女〉がある。従来の研究は、このイメージを主に世紀末のデカダンスやラファエル前派の絵画との結びつきで論じてきた。そのために「西洋一辺倒」にならざるをえなかった。拙論は、それとはまったく異なるイメージとして〈水の属性を生きる女〉という解読格子を設け、それを主に老子の水の哲学や中国の「巫山の女」の神話との関連で考察する。
東泉, 裕子 高橋, 圭子 Higashiizumi, Yuko Takahashi, Keiko
本研究では、各種コーパスを利用し、近現代語における「もちろん」の用法を調査した結果を報告する。調査の結果、次の3点が明らかになった。(i)19世紀末から20世紀初頭にかけて、中世以来中心的であった名詞述語用法の割合が減少し、副詞としての用法(副詞用法、譲歩用法、応答用法)が増加した。(ii)現代の会話では「もちろん」単独の形式や畳語の形式による感動詞的な応答用法が観察される。(iii)近現代には「〜はもちろん(のこと)…も/まで(も)」という尺度含意用法や、「もちろん…〈逆接表現〉…」といった譲歩用法などが定型化した。
渡辺, 美季 Watanabe, Miki
中世における日本―琉球の海上交通の様相を具体的に知ることができる史料は極めて少ない。そうした状況のなか、沖縄県立博物館・美術館蔵『琉球国図』は一七世紀末の写図ながら、一五世紀半ばに琉球貿易を盛んに行っていた博多商人の薩摩―琉球の航海情報を多分に含むという点で、稀有にして貴重な存在である。ただし傍証の乏しさから、同時代史料に依拠して内容を十分に検証していくことは難しい。そこで本論文では、『琉球御渡海日記』(一六三八―三九年)を主とした近世初期の航海記録と照らし合わせることで、『琉球国図』に描かれた航路の使用実態の遡及的な分析・検討を行った。
鈴木, 茂 Suzuki, Shigeru
神奈川県鎌倉市においては,12世紀末の鎌倉幕府開府以来,それまでの農村的イメージから軍事都市へと急変した。この鎌倉の発展にともなって行われた大規模な土地開発と木材利用により鎌倉周辺の森林は多大な影響をうけたことが花粉分析から明らかとなってきた。以下に,(1)永福寺跡,(2)北条高時邸跡の花粉分析結果を示し,鎌倉における鎌倉時代の森林破壊について述べる。
坪根, 伸也 Tsubone, Shinya
中世から近世への移行期の対外交易は,南蛮貿易から朱印船貿易へと段階的に変遷し,この間,東洋と西洋の接触と融合を経て,様々な外来技術がもたらされた。当該期の外来技術の受容,定着には複雑で多様な様相が認められる。本稿ではこうした様相の一端の把握,検討にあたり,錠前,真鍮生産に着目した。錠前に関しては,第2次導入期である中世末期から近世の様態について整理し,アジア型錠前主体の段階からヨーロッパ型錠前が参入する段階への変遷を明らかにした。さらにアジア型鍵形態の画一化や,素材のひとつである黄銅(真鍮)の亜鉛含有率の低い製品の存在等から,比較的早い段階での国内生産の可能性を指摘した。真鍮生産については,金属製錬などの際に気体で得られる亜鉛の性質から特殊な道具と技術が必要であり,これに伴うと考えられる把手付坩堝と蓋の集成を行い技術導入時期の検討を行った。その結果,16世紀前半にすでに局所的な導入は認められるが,限定的ながら一般化するのは16世紀末から17世紀初頭であり,金属混合法による本格的な操業は今のところ17世紀中頃を待たなければならない状況を確認した。また,ヨーロッパ型錠前の技術導入について,17世紀以降に国内で生産される和錠や近世遺跡から出土する錠の外観はヨーロッパ錠を模倣するが,内部構造と施錠原理はアジア型錠と同じであり,ヨーロッパ型錠の構造原理が採用されていない点に多様な技術受容のひとつのスタイルを見出した。こうした点を踏まえ,16世紀末における日本文化と西洋文化の融合の象徴ともいえる南蛮様式の輸出用漆器に注目し,付属する真鍮製などのヨーロッパ型の施錠具や隅金具等の生産と遺跡出土の錠前,真鍮生産の状況との関係性を考察した。現状では当該期の大規模かつ広範にわたる生産様相は今のところ認め難く,遺跡資料にみる技術の定着・完成時期と,初期輸出用漆器の生産ピーク時期とは整合していないという課題を提示した。
安里, 進 Asato, Susumu
20世紀後半の考古学は,7・8世紀頃の琉球列島社会を,東アジアの国家形成からとり残された,採取経済段階の停滞的な原始社会としてとらえてきた。文献研究からは,1980年代後半から,南島社会を発達した階層社会とみる議論が提起されてきたが,考古学では,階層社会の形成を模索しながらも考古学的確証が得られない状況がつづいてきた。このような状況が,1990年代末~2000年代初期における,「ヤコウガイ大量出土遺跡」の「発見」,初期琉球王陵・浦添ようどれの発掘調査,喜界島城久遺跡群の発掘調査などを契機に大きく変化してきた。7・8世紀の琉球社会像の見直しや,グスク時代の開始と琉球王国の形成をめぐる議論が沸騰している。本稿では,7~12世紀の琉球列島社会像の見直しをめぐる議論のなかから,①「ヤコウガイ大量出土遺跡」概念,②奄美諸島階層社会論,③城久遺跡群とグスク文化・グスク時代人形成の問題をとりあげて検討する。そして,流動的な状況にあるこの時期をめぐる研究の可能性を広げるために,ひとつの仮説を提示する。城久遺跡群を中心とした喜界島で9~12世紀にかけて,グスク時代的な農耕技術やグスク時代人の祖型も含めた「グスク文化の原型」が形成され,そして,グスク時代的農耕の展開による人口増大で島の人口圧が高まり,11~12世紀に琉球列島への移住がはじまることでグスク時代が幕開けしたのではないかという仮説である。
井上, 章一
日本に、いわゆる西洋建築がたちだすのは十九世紀の後半からであり、当初は伝統的な日本建築の要素ものこした和洋折衷のものがたくさん建設されている。文明開化期に特徴的なのは、そんな建築のなかに、近世城郭の天守閣を模倣した塔屋をもつデザインのものが、とりわけ金融関係の施設でふえだした点である。じゅうらいは、それを、近代のブルジョワが、封建時代の領主にあこがれてこしらえたのだと、解釈してきたが、拙論では、そこへもうひとつべつの可能性をつけ加えている。十八世紀後半ごろから、織田信長以後の天守閣を、南蛮渡来の建築様式だとみなす見解が普及し、その考え方は、十九世紀末まで維持された。明治維新後、文明開化期につくられた西洋をめざす建築に、天守閣形式の要素がまぎれこんだのも、それがなにほどか南蛮風、西洋的だと思われていたことに一因があるのではないかとする仮説を、ここではたててみたしだいである。
村木, 二郎 Muraki, Jiro
奈良県天理市中山念仏寺墓地には中世から現代に至る九千基を越える石塔が存在する。これらは、一六〜一七世紀は背光五輪塔、一八世紀は舟形、一九世紀は櫛形、二〇世紀は角柱形と、時代とともに主要形式が変化していく。なかでも二〇〇年にわたって立てられる背光五輪塔は、中世から近世への転換期に盛行し、惣墓(共同墓地)形成過程をたどる好資料である。そこで、本稿では背光五輪塔に着目し、まず三型式一八類に分類する。そしてそれを基礎に、他形式の舟形、櫛形との比較を通し、石塔の形式・型式が多様化する現象を捉える。次に、石塔の大きさ、刻まれた法名(戒名)の分析によって、石塔形式(型式)の違いは格差を表現しており、それは石塔の造立数が増加する一七世紀末から起こる現象であることを示す。すなわち、誰もが石塔を立てられなかった当初は、石塔を立てることによって格差を表現していた。しかし造立数が増えるにつれ、人とは違った石塔を立てることにより格差を表すようになるのである。庶民層の墓で捉えられたこの現象は、この時期に庶民層の階層分化が進んでいることを考古学的に示している。また、ひとつの石塔に書かれる法名の数(人数)を手がかりに、石塔が個人のものから複数人のものに変わっていくにつれ、背光五輪塔が消滅していくことを示す。石塔には宗教的側面と機能的側面がある。いずれも重要であるが、機能面により大きな要因があり、ある形式が消滅していく過程をたどる。
山梨, 淳
本論は、一九三一年に公開された無声映画『殉教血史 日本二十六聖人』(日活太秦撮影所、池田富安監督)を取り上げ、一九三〇年代前半期日本カトリック教会の一動向を明らかにすることを目的としている。この映画作品は、十六世紀末、豊臣秀吉の命で、長崎で処刑された外国人神父や日本人信者ら二十六人の殉教者をめぐるものである。長崎出身のカトリック信者で、朝鮮在住の資産家であった平山政十が、この映画の製作を企画し、彼の資金出資のもとに制作された。作品は日本で一般公開されたのち、平山個人によって北米と西欧諸国に、海外興行が試みられている。
笹本, 正治 Sasamoto, Shoji
長野市は善光寺の門前町としてつとに有名であるが、本稿では中世末から近世初頭にかけて、その実態を探る。
黄, 智慧 稲村, 務(訳) Huang, Chih-huei Inamura, Tsutomu
本稿は人々の漂流と移動に関する3篇の史料から、15世紀末~19世紀初頭における沖縄の八重山群島と台湾の間にあったと思われる民族の接触と文化類縁関係について検討することを目的としている。まず、一篇は朝鮮の済州島民が与那国島から八重山群島に漂流した時の見聞の記録について、筆者は生活技術、社会制度と農耕文化において台湾東海岸の民族との類似性を確認した。二つ目の史料である八重山群島の編年史の記録のなかに17~18世紀初頭、八重山群島と台湾の渡航は比較的平和で、台湾は逃亡者や漂流者にとって安住の地であったと筆者は考えた。三つ目の史料から八重山の当局は「唐船」の密輸を取り締まる規程のなかに、宣教師の密航やキリスト教物品の密輸の取り締まりの対象に台湾から来た船が指定されており、ここから当時の双方の緊張した関係が推察できる。台湾東方の島々の間には目的を持たない漂流あるいは目的を持った人の移動があり、様々な国境を越えた社会的、文化的交流があったと結論付けることができ、今後、環東台湾海の島嶼民族史を再構築することは重要な研究課題となってくる。
宮本, 一夫 Miyamoto, Kazuo
夫余は吉長地区を中心に生まれた古代国家であった。まず吉長地区に前5世紀に生まれた触角式銅剣は,嫰江から大興安嶺を超えオロンバイル平原からモンゴル高原といった文化接触によって生まれたものであり,遼西を介さないで成立した北方青銅器文化系統の銅剣であることを示した。さらに剣身である遼寧式銅剣や細形銅剣の編年を基に触角式銅剣の変遷と展開を明らかにした。それは吉長地区から朝鮮半島へ広がる分布を示している。その中でも,前2世紀の触角式鉄剣Ⅱc式と前1世紀の触角式鉄剣Ⅴ式は吉長地区にのみ分布するものであり,夫余の政治的まとまりが成立する時期に,夫余を象徴する鉄剣として成立している。前1世紀末から後1世紀前半の墓地である老河深の葬送分析を行い,副葬品構成による階層差が墓壙面積や副葬品数と相関することから,A型式,B型式,C・D型式ならびにその細分型式といった階層差を抽出する。この副葬品型式ごとに墓葬分布を確かめると,3群の墓地分布が認められた。すなわち南群,北群,中群の順に集団の相対的階層差が存在することが明らかとなった。また,冑や漢鏡や鍑などの威信財をもつ最上位階層のA1式墓地は男性墓で3基からなり,南群内でも一定の位置を占地している。異穴男女合葬墓の存在を男性優位の夫婦合葬墓であると判断し,家父長制社会の存在が想定できる。A1式墓地は族長の墓であり,父系による世襲の家父長制氏族社会が構成され,南群,北群,中群として氏族単位での階層差が明確に存在する。これら氏族単位の階層構造の頂点が吉林に所在する王族であろう。紀元後1世紀には認められる始祖伝説の東明伝説の存在から,少なくともこの段階には既に王権が成立していた可能性が想定される。夫余における王権の成立は,老河深墓地の階層関係や触角式銅剣Ⅴ式などの存在から,紀元前1世紀に遡るものであろう。
張, 元哉 CHANG, Won jae
現代韓国語において,日韓同形漢語が多いことの理由の一つに,近代以降,多量の日本製漢語が韓国語に取り入れられたことがあげられている。しかし,近代語におけるその実態は明らかにされていない。本稿は,日韓語彙交流史の19世紀末に焦点をあて,同形漢語や日本製漢語の実態を調査したものである。1895・6年の『国民小学読本』(近代最初の国語教科書)と,『独立新聞』(近代最初の民間新聞)における漢語(3621語)のうち,同時期の日本語の資料に見られる同形漢語は,2393語で66,0%を占めている。そのうち,同義である2290語の各語において中国・日本・韓国の資料を調べ,それぞれの用例の有無を確認し,出自の判断を行った。その結果,日本製漢語と思われる語は,229語であり,10%を占めていることが明らかになった。
Komoto, Yasuko
エレーナ・ペトローヴナ・ブラヴァツカヤ(1831-1891,以下「ブラヴァツキー」)は、19世紀末から20世紀初頭の欧米において大きな影響力を持った神秘主義の啓蒙団体神智学協会の、協議を確立した人物の一人である。彼女の「宗教的、形而上学的嗜好」がチベットにあったことは、しばしば言及されるところである(オッペンハイム 1992:215)。例えば、彼女のニューヨークの居室は、「ラマ僧院」(lamasery)と呼ばれていた。しかし、その彼女の部屋に置かれた雑多な品々は、「東洋」を連想させるものではあっても、直接チベットにかかわりを持たないものが多かった。そしてそこに集う人間たちも、チベット人でも、チベット仏教の僧侶でもなかった。従ってその場所と、実際のチベットの事物、または現実の「ラマ僧院」との関連は不明瞭であるように見える。では、何がその場を「ラマ僧院」たり得るものとしていたのか。ブラヴァツキーをめぐる状況において、何が「チベット」として表象されるものとなったのか。本稿はそのありようを手がかりに欧米および日本におけるチベット・イメージの特徴を把握しようと試みるものである。
青木, 賜鶴子 松本, 大 加藤, 洋介 藤島, 綾 海野, 圭介 小林, 健二 小山, 順子 田村, 隆 本廣, 陽子 神作, 研一 一戸, 渉
『伊勢物語』の注釈はすでに平安時代末から歌学の一部としておこなわれていたが、注釈書として成るのは鎌倉時代である。「古注」と呼ばれるそれは、『伊勢物語』を在原業平の一代記として、ときに強引に物語を読み解く。すなわち物語の出来事はすべて現実の事件の反映であるとし、主人公業平は色好みの末に何千人もの女性と契りを結んだとされる。
富田, 愛佳
本稿では『車里訳語』を材料として18世紀タイ・ルー語形とその音写漢字を対照させ、音写に使われた漢字音の音節初頭子音ならびに末子音の状況を分析した。その結果、音写に用いられた漢字音は、おおむね北方官話と同様の歴史的変化をたどっていること、また、音節末鼻音の音写状況などから、同漢字音は現代の雲南漢字音と似た特徴をもつこと、が明らかになった。現代の雲南漢字音は、地域によって、中古音にあったそり舌音と非そり舌音の区別を残しているものと、それを失ってしまったものとがある。タイ・ルー族の都であった景洪の漢字音は後者に属するが、音写に用いられた漢字音はこの区別を残しているため、別の地域の漢字音であった可能性が高い。
依岡, 隆児
ドイツ語圏における「ハイク」生成と日本におけるその影響を、近代と伝統の相互関連も加味して、双方向的に論じた。ドイツ・ハイクは一九世紀末からのドイツ人日本学者による俳句紹介と一九一〇年代からのドイツにおけるフランス・ハイカイの受容に始まり、やがてドイツにおける短詩形式の抒情詩と融合、独自の「ハイク」となり、近代詩の表現形式にも刺激を与えていった。一方、日本の俳句に触発されたドイツの「ハイク」という「モダン」な詩が、今度は日本に逆輸入され、「情調」や「象徴」という概念との関連で日本の伝統的な概念を顕在化させ、日本の文学に受容され、影響を及ぼしていった。こうした交流から、新たに「ハイク」の文芸ジャンルとしての可能性も生まれたのである。
成, 惠卿
十九世紀末から始められた英訳の歴史において、注目すべき一冊は、フェノロサ=パウンドによる『能―日本古典演劇の研究』 ‘Noh’ or Accomplishment, a Study of the Classical Stage of Japanである。これは、パウンドがフェノロサの能の遺稿を編集・完成した本であるが、この一冊を世に出すまで彼が注いだ情熱や努力は並々ならぬものであった。その周辺には、伊藤道郎、久米民十郎、郡虎彦などの若い日本人芸術家たちがおり、パウンドの能理解、とりわけ舞台面での理解を助けた。一九一六年に出版されたこの一冊は、西洋の読者に、能の劇世界の美と深さを広く伝えるとともに、同時代の芸術家たちにも新鮮な衝撃を与えたのである。この時期におけるパウンドの能への関心は甚だ高く、自らも能をモデルとした幾つかの劇作品を書いた。
高橋, 圭子 東泉, 裕子 TAKAHASHI, Keiko
「インターネットからお申込みされると便利です」「ご結婚されて,何年になりますか」など,近年,「お/ご~される」という形式が,尊敬表現として多用されている。しかし,この形式は,『敬語の指針』(2007)などでは不適切,誤用とされている。ただし,これまで実際の用例に基づく分析・考察は管見ではほとんど行われてきていない。「お/ご~される」は19世紀末に成立したとされている。本発表では,『日本語歴史コーパス』『現代日本語書き言葉均衡コーパス』などから近現代語の用例を収集し量的・質的に分析する。また,「お/ご~なさる」「お/ご~する」「お/ご~できる」といった関連する形式についても分析し,「お/ご~される」およびその周辺の,現代敬語における位置づけを考察する。
若林, 邦彦 Wakabayashi, Kunihiko
大阪平野の弥生時代遺跡については,弥生時代中期末の洪水頻発の時期に大規模集落が廃絶し,集団関係に大きな変化が生じたといわれてきた。また,水害を克服する過程として,地域社会統合が確立し古墳時代社会への移行が進行するとも言われた。本稿では,大阪平野中部と淀川流域の弥生時代~古墳時代遺跡動態を検証して,社会変化・水害・集団と耕作地の関係について論じた。大阪平野中部では,弥生時代の流水堆積による地形変化は数百m規模でしか発生せず,集落と水田のセットが低湿地に展開する様相に変化はない。淀川流域で弥生~古墳時代の集落分布変化を検証すると,徐々に扇状地中部・段丘上・丘陵上集落の比率が増え,古墳時代中期には特にその傾向は顕在化する。これは,4世紀後半・5世紀に集落が耕作地から分離していく整理された集団関係への変化と読み取れる。また,この時期は降水量が100年周期変動で進行する水害ダメージを受けにくい時代でもある。地域社会統合は洪水の影響をうけにくい時期にこそ,その環境を利用してそれへの対応の可能な社会へと変貌するのである。社会構造変化の方向性と環境要因の複合要因により,地域社会の実態は変質していくと考えられる。
モートン, リース
恋愛の概念は、世紀末の日本において近代的繊細さが発展していく上で、大切な構成要素であるという認識が高まってきている。本論は、一八九五年から一九〇五年までの間に発行された総合雑誌『太陽』と同人雑誌『女學雜誌』を調べて、恋愛観がどう発展し、理解されていたかを検討するものである。これは、国際日本文化研究センターの鈴木貞美教授主催の共同研究「総合雑誌『太陽』」の一環である。ここでは、歴史上「恋愛」という観念が現れる現象的様式として、文化、特に文芸に焦点を当てている。『太陽』のような総合雑誌を経験的に検討することにより、文化・文芸史を書き換えていく基盤を築き、そして日本とヨーロッパの思想様式を比較文化的に検討する土壌を確立しようというものである。
後藤, 治 Goto, Osamu
本論は、絵画史料をもとに、平安時代末から江戸時代初頭にかけての店舗の建築とその変遷について検討したものである。中世前半までの初期の店舗は、通りを意識した建築として、おもに既存の町家を改造する形で生まれたと推定される。商品としては、食物・履物等の日用品を扱う店舗で、専門品を扱うものではなかった。店舗は、時代とともに棚を常設化した専用建築へと変化したが、中世前半までは通りとの関係はそれほど強いものではなかった。このため、鎌倉時代末には各地の都市で店舗がみられるようにはなっていたが、店舗が通りに面して軒を連ねる風景はみられなかったと考えられる。それが最初に確認されるのは、一六世紀前半に描かれた『洛中洛外図屏風』歴博甲本においてである。歴博甲本にみられる店舗は、専門品を扱うものが多数を占めており、商品を並べる棚は大きく、棚の構造は仮設的である。この歴博甲本にみられる店舗や棚には、中世に市が通りにおいて行われるようになったことからの影響をみることができる。ただし、歴博甲本にみられる店舗や棚は、通りの市を常設化したものというよりもむしろ、商家が、往来との取引を意識して、契約の場の前にサインとして設けたものと考えられる。一六世紀前半から近世にかけては、商品を陳列する棚と契約の場を、通りに面した部屋で兼ねる商家が多くなる。これによって、店舗の建築と通りとの密接な関係が確立し、近世の町家にみられる通りに面した部屋「ミセ」「ミセノマ」が生まれたものと考えられる。この変化によって、店という語そのものが、商品を置く棚を意味する語から、建物の内部を指す語へと変化した。同時に、商人が契約に使う家屋であった商家は、店舗を併用する商店へと変貌した。
高田, 貫太 Takata, Kanta
近年,朝鮮半島西南部で5,6世紀に倭の墓制を総体的に採用した「倭系古墳」が築かれた状況が明らかになりつつある。本稿では,大きく5世紀前半に朝鮮半島の西・南海岸地域に造営された「倭系古墳」,5世紀後葉から6世紀前半頃に造営された栄山江流域の前方後円墳の造営背景について検討した。
春成, 秀爾 Harunari, Hideji
3~6世紀の古墳に立てた埴輪のうち,4~6世紀のとくに円筒埴輪に,数は少ないけれども絵を描いた例がある。鹿と船がもっとも多く,鹿狩りをあらわした絵もある。それ以外の絵はとるにたらないほどであるけれども,そのほかに記号風の表現がある。鹿と船の絵は弥生時代,前1世紀の土器にしばしば描かれた。しかし,それらは1~2世紀になると記号化し,3世紀になると消滅していた。
高久, 健二 Takaku, Kenji
本稿は加耶地域出土の倭系遺物を総合的に解釈し,韓国側における対倭交渉の実態およびその変化を明らかにすることを目的とする。具体的には加耶地域出土の倭系遺物を3世紀後半~5世紀前葉と5世紀中葉~6世紀前半の二時期に分けて,その出土様相,分布,時期などについて検討した。
谷川, 章雄 Tanigawa, Akio
江戸の墓誌は、一七世紀代の火葬墓である在銘蔵骨器を中心にした様相から、遅くとも一八世紀前葉以降の土葬墓にともなう墓誌を主体とする様相に変化した。これは、一七世紀後葉と一八世紀前葉という江戸の墓制の変遷上の画期と対応していた。こうした墓誌の変遷には、仏教から儒教へという宗教的、思想的な背景の変化を見ることができる。
東, 潮 Azuma, Ushio
『三国志』魏書東夷伝弁辰条の「国出鉄韓濊倭皆従取之諸市買皆用鉄如中国用銭又以供給二郡」,同倭人条の「南北市糴」の記事について,対馬・壱岐の倭人は,コメを売買し,鉄を市(取)っていたと解釈した。斧状鉄板や鉄鋌は鉄素材で,5世紀末に列島内で鉄生産がはじまるまで,倭はそれらの鉄素材を弁韓や加耶から国際的な交易によってえていた。鉄鋌および鋳造斧形品の型式学的編年と分布論から,それらは洛東江流域の加耶諸国や栄山江流域の慕韓から流入したものであった。5世紀末ごろ倭に移転されたとみられる製鉄技術は,慶尚北道慶州隍城洞や忠清北道鎮川石帳里製鉄遺跡の発掘によってあきらかとなった。その関連で,大阪府大県遺跡の年代,フイゴ羽口の形態,鉄滓の出土量などを再検討すべきことを提唱した。鋳造斧形品は農具(鍬・耒)で,形態の比較から,列島内のものは洛東江下流域から供給されたと推定した。倭と加耶の間において,鉄(鉄鋌)は交易という経済的な関係によって流通した。広開土王碑文などの検討もふまえ,加耶と倭をめぐる歴史環境のなかで,支配,侵略,戦争といった政治的交通関係はなかった。鉄をめぐる掠奪史観というべき論を批判した。
仁藤, 敦史 Nito, Atsushi
本稿は、七世紀後半における公民制の整備過程を検討することを課題にした。この 時期は、旧来の国造制度から八世紀初頭に成立する国郡制への転換期に相当する。
三河, 雅弘 Mikawa, Masahiro
本稿は、八世紀以前に成立した寺領の八世紀における実態を解明し、さらに、それと国家による土地把握との関係を検討したものである。
陳, 凌虹
中国における新劇は19世紀末に古典演劇を継承しながら、もう一方で近代劇の影響を受けて、両者の交錯作用によって作り出された演劇様式であり、中国の現代演劇=話劇の誕生を促した演劇様式でもある。当時は文明戯、後には早期話劇とも呼ばれた。文明戯の発祥と発展の歴史を遡ると、日本との深いつながりに気づく。明治40年代は新派が東京でその全盛期である「本郷座時代」を迎えた時期である。当時繰り返し上演されていた劇は、そのまま春柳社や留学生によって翻案・上演され、中国の劇壇に多大なるエネルギーを注ぎ込んだのである。それゆえ、文明戯と日本のかかわりを語るとなると、東京に目を向けがちになる。しかし、小論では新しい資料に基づいて、「文明戯を一つの劇種として確立させた」重要な劇団である進化団の創立者・任天知(一八七〇?~?)と京都の関係を探求する。
坂上, 康俊 SAKAUE, Yasutoshi
畿内,東国,北部九州の古代集落は,8世紀の安定期を終えた後に,それぞれ異なった展開をたどる。すなわち,畿内では9世紀に入ると不安定化し,東国では10世紀に入って衰退するのに対し,北部九州では9世紀初頭に衰退してしまうのである。しかし,衰退したり不安定化したりする原因については,あまりはっきりとしていない。集落の衰退・消滅の背景を探るには,まずは個々の遺跡の景観を復原していくことから始めるしかあるまい。
水澤, 幸一 Mizusawa, Kouichi
本稿では、戦国期城館の実年代を探るための考古学的手段として、貿易陶磁器の中でも最もサイクルの早い食膳具を中心に十五世紀中葉~十六世紀中葉の出土様相を検討し、遺跡ごとの組成を明らかにした。
薗部, 寿樹 Sonobe, Toshiki
本論文は、中近世移行期(一六世紀~一七世紀中期)の村落における宮座と家との関連を考察したものである。
大橋, 康二 坂井, 隆 Ohashi, Koji Sakai, Takashi
インドネシアのジャワ島西部に位置するバンテン遺跡は16世紀から18世紀にかけて栄えたイスラム教を奉ずるバンテン王国の都であった。1976年以来,インドネシア国立考古学センター(The National Research Center of Archaeology)などにより,この地域の発掘調査が続けられ,膨大な量の陶磁片が出土した。これを整理した結果,25,076個体を産地,年代,種類毎に分類し得た。主に16世紀から18世紀の陶磁器であることは,バンテン王国の栄えた時代と符合する。この間も時期毎で陶磁器の産地,種類の割合・内容が変わる。
クレインス, フレデリック 宮田, 昌明
江戸時代に日本に対するヨーロッパのイメージをめぐる研究はこれまで、先行する16世紀のイエズス会士による書簡や、18世紀初頭のケンペル『日本誌』以降のプロテスタントの著作を主たる対象として行われてきた。17世紀に関しては、カロンのようなオランダ東インド会社員による報告を除き、ヨーロッパに新たな情報がほとんどもたらされなかった時代として捉えられていたのである。
中須賀, 常雄 馬場, 繁幸 Nakasuga, Tsuneo Baba, Shigeyuki
ヤエヤマヒルギ胎生種子の開芽, 発根および主軸, 根の伸長に及ぼす塩分と施肥の影響について水耕法で実験した。塩分に関する実験は1980年7月末に西表島船浦湾で採取した胎生種子96個体を使用して, 8月初めより翌年2月まで約6ケ月間おこなった。ヤエヤマヒルギの開芽と根の初期伸長は1.3%の塩分濃度でも抑制された。施肥に関する実験は1980年8月末に西表島船浦湾で採取した胎生種子68個体を使用して9月初めから翌年3月中旬までの約6ケ月間実施した。開芽および主軸と根の伸長において施肥効果が明らかに認められた。
宮城 徹 Miyagi, Toru
10世紀後期の修道院復興期において、イングランド東部のイースト・アングリア周辺には多数の修道院が復興・創設された。本稿では、その中からソーニー修道院を考察の対象に取り上げ、創設以後11世紀後期に至るまでの所領形成のための土地集積のプロセスを検証すると共に、そのような歴史的経験を踏まえて11世紀後期の史料に現われる修道院の所領景観について歴史地理学的見地より考察を行なった。結果として、当該期の史料に現われるその所領景観の性格が、修道院の歴史的経験に根差して形成されていることを明らかにした。
濱島, 正士 Hamashima, Masaji
中国の福建省地方は、中世初頭の東大寺再建に際して取り入れられ、以後の日本建築に大きな影響を与えた大仏様ときわめて関係が深い地域とされている。その福建省に残る十世紀から十七世紀にかけて建立された古塔について、構造形式、様式手法を通観し、その時代的変遷を考察するとともに、十二世紀以前の仏堂遺構も加えて大仏様との関連を探ってみる。
日地谷=キルシュネライト, イルメラ
世界における日本研究は、当然それぞれの国における学問伝統と深く結びついている。そのため、19世紀末以降のドイツ日本学の発展は、学問的に必須の道具である、辞書、ハンドブック、文献目録などの組織的な編纂と歩みをともにしてきた。そのような歴史の中ではこれまで、和独・独和辞典や語彙集など、1千を超える日独語辞典の存在が確認されている。1998年にその編纂作業が始まった、和英・英和辞典などをも含めた、日本における2か国語辞典編纂史上最大のプロジェクト、包括的な「和独大辞典」全3巻は、今その完成を目前にしている。この辞典編纂の過程は、ここ何十年かの学問に関する技術的・理論的問題にも光を当ててくれると思われるのだが、その問題とは、辞書編纂に関するものだけではなく、例えばディジタル化、メディアの変遷、日本の国際的地位、人文科学と呼ばれる学問に関わる問題でもある。その意味からも、新しいこの「和独大辞典」誕生までの道筋は、「日本研究の過去・現在・未来」について、多くのことを語ってくれるに違いない。
趙, 維平
中国は古代から文化制度、宮廷行事などの広い領域にわたって日本に影響を及ぼした。当然音楽もその中に含まれている。しかし当時両国の間における文化的土壌や民族性が異なり、社会の発展程度にも相違があるため、文化接触した際に、受け入れる程度やその内容に差異があり、中国文化のすべてをそのまま輸入したわけではない。「踏歌」という述語は七世紀の末に日本の史籍に初出し、つまり唐人、漢人が直接日本の宮廷で演奏したものである。その最初の演奏実態は中国人によるものであったが、日本に伝わってから、平安前期において宮廷儀式の音楽として重要な役割を果たしてきたことが六国史からうかがえる。小論は「踏歌」というジャンルはいったいどういうものであったのか、そもそも中国における踏歌、とくに中国の唐およびそれ以前の文献に見られる踏歌の実体はどうであったのか、また当時日本の文化受容層がどのように中国文化を受け入れ、消化し、自文化の中に組み込み、また変容させたのかを明らかにしようとしたものである。
小島, 道裕
日本の風俗画には、家族関係が窺える描写も多い。本稿では、「後家尼」と呼ばれる、夫の死後に尼となって家にとどまった女性に注目した。中世末期、一六世紀ころの絵画では、家族の中の女性グループや、あるいは一家全体を率いるような描き方をされていることが多い。しかし、近世すなわち一七世紀に入るころから、後家尼の地位は低下し、描かれなくなっていく。一方で、夫婦の外出場面や単婚小家族の図像が多く描かれるようになる。
二又, 淳 藤島, 綾 谷川, ゆき
江戸時代はパロディの時代であった。その中でも、古典類が出版文化の上で花開いた十七世紀は、『枕草子』をもじった『犬枕』『尤之 双紙 』、『徒然草』をもじった『犬つれづれ』などが出て、そして日本文学史の上でも最も優れたパロディ文学『仁勢 物語』が登場する。パロディ文学の流行は、散文の小説類(仮名 草子 )に限った現象ではなく、とくにこの十七世紀には、俳諧・狂歌・漢詩文にも及び、ジャンルを超えた流行を見せていた。まさに「パロディの世紀」といってもよい時代であった(今栄蔵「パロディの世紀」『初期俳諧から芭蕉時代へ』笠間書院、二〇〇二年)。
国際日本文化研究センター, 資料課資料利用係
日文研の図書館だより(内部向け)2017年3月号です。(内容)年度末の図書返却&更新のお願い / コピー機にフットスイッチがつきました。 / 本に付箋をつけたまま返却しないでください!! / 契約データベースに新しく3件追加されました。
岩元, 康成 Iwamoto, Yasunari
本稿では喜界島・奄美大島と薩摩・大隅地方の中世遺跡について両地域で出土した建物跡・土坑墓などの遺構と中国陶磁器などの遺物を比較し,11世紀後半から16世紀を5段階に分けて関連を検討した。
谷口, 雄太
本稿では十四世紀後半~十五世紀前半の吉良氏の浜松支配につき、特に寺社統制の問題を中心に検討し、その上で、一国の領主と守護の関係、連動する都鄙の姿、都鄙を結ぶ道の実態についても指摘した。
山中, 光一 YAMANAKA, MITSUICHI
「明治期における文学基盤の変化の指標について」(国文学研究資料館紀要6号,1980年)および「20世紀前半における文学基盤の変化の指標について」(同上8号,1982年)に続いて,20世紀後半における,文学に影響を与える社会的「場」の変化を論ずるものである。
柴田, 依子
一九世紀後半に日本の美術・工芸品が輸出されてジャポニスムの流行をもたらし、フランスの印象派の画家たちに多大な影響を与えた。その流行が終わる頃の二〇世紀の初頭に、俳句(俳諧)はヨーロッパに紹介された。
岸本, 直文 Kishimoto, Naofumi
1990年代の三角縁神獣鏡研究の飛躍により,箸墓古墳の年代が3世紀中頃に特定され,〈魏志倭人伝〉に見られる倭国と,倭王権とが直結し,連続的発展として理解できるようになった。卑弥呼が倭国王であった3世紀前半には,瀬戸内で結ばれる地域で前方後円形の墳墓の共有と画文帯神獣鏡の分配が始まっており,これが〈魏志倭人伝〉の倭国とみなしうるからである。3世紀初頭と推定される倭国王の共立による倭王権の樹立こそが,弥生時代の地域圏を越える倭国の出発点であり時代の転換点である。古墳時代を「倭における国家形成の時代」として定義し,3世紀前半を早期として古墳時代に編入する。
村木, 二郎 Muraki, Jiro
八重山・宮古といった先島諸島には,沖縄本島では見られない石積みで囲われた集落遺跡がある。発掘調査によってそこから出土する中国産陶磁器は膨大で,それらの遺跡は13世紀後半から14世紀前半に出現し,15世紀代を最盛期とする。しかし16世紀代の遺物は激減し,この時期に集落が廃絶したことがわかる。竹富島の花城村跡遺跡に代表される細胞状集落遺跡は,不整形な石囲いが数十区画にわたって連結したもので,その外郭線は崖際にさらに石を積み上げた防御性をもったものである。このような遺跡が先島の密林に埋もれており,その多くは聖地として現在も祀られている。
磯田, 道史
近世日本の諸藩では、さまざまな、藩政改革がなされた。なかでも、十八世紀後半から十九世紀前半にかけて、全国諸藩に最も影響した藩政改革をあげるとするならば、熊本藩の宝暦改革と水戸藩の天保改革の二つが特筆される。
吉岡, 康暢 Yoshioka, Yasunobu
中世陶器には,少数ながら漢宇,仮名ないし文字風の短文を記した刻銘陶器がある。それは12世紀後半代を中心とする経筒類の一群と,14世紀代以降,主として寺院の什物とされた仏神器,茶器,甕壺類に分かれる。
東野, 治之 Tono, Haruyuki
大嘗会の際に設けられる標の山は、日本の作り物の起源に関わるものとされ、主として民俗学の分野からその意義が注目されてきた。しかしその歴史や実態については、いまだ未解明の点も多い。本稿では、まず平安初期の標の山が中国風の装飾を凝らした大規模なものであったことを確認した上で、『万葉集』に見られる八世紀半ばの歌群から、新嘗会の標の山が、同様な中国風の作り物であったことを指摘する。大嘗会は本来新嘗会と同一の祭りであり、七世紀末に分離されて独自の意味をもつようになったとされるが、そうした経緯からすれば、この種の作り物が、当初から中国的な色彩の濃いものであったことも容易に推定できる。そのことを傍証するのが、和銅元年(七〇八)の大嘗会の状況であって、それを伝えた『続日本紀』の天平八年(七三六)の記事は、作り物の橘が金銀珠玉の装飾とともに用いられていたことを示している。従って、大嘗会の標の山は、大嘗会の成立に近い時点で中国的な性格を持っていたわけで、その特色はおそらく大嘗会の成立時点にまで遡るであろう。このように見ると、標の山は神の依り代として設けられたもので、本来簡素な和風のものであったが、次第に装飾が増え中国化したとする通説には大きな疑問が生じる。そこで改めて標の山の性格を考えると、その起源は、すでに江戸時代以前から一部で言われてきたように、儀式進行上の必要から設けられた標識にあり、それが独自の発展を遂げたものと解すべきである。
桒畑, 光博 KUWAHATA, Mitsuhiro
都城盆地の古代の集落様相と動態に関する3つの課題を提示して,横市川流域の遺跡群の集落遺跡の類型化とその性格を推定した上で,同盆地内のその他の遺跡との比較も行ってその背景を考察した。①都城盆地内において,8世紀前半に明確ではなかった集落が8世紀後半に忽然と現れる現象については,8世紀後半以降の律令政府による対隼人政策の解消に伴って南九州各地にも律令諸原則が適用されるようになる中で,いわゆる開墾集落が形成されはじめた可能性を指摘した。②遺跡数が増大する9世紀中頃から10世紀前半には,複数の集落類型が併存しており,中にはいわゆる官衙関連遺跡や地方有力者の居宅跡も存在する。郡衙が置かれた場所ではないが,広大な諸県郡の中の中心域を占め,開発可能な沖積地を随所に擁する都城盆地において,国司・大宰府官人・院宮王臣家などとのつながりが想定される富豪層による開発が進展するとともに,物資の流通ルートを担う動きが活発化して,集落形成が顕著となり,各集落が出現と消滅,変転を繰り返しながらも見かけ上は継続的に集落形成が行われていたと推察される。貿易陶磁器や国産施釉陶器などの希少陶磁器類の存在から看取される都城盆地の特質としては,南九州内陸部における交通の結節点をなす場所として重要な位置を占めていたことに加え,一大消費地でもあったことも指摘できる。③10世紀前半まで継続した集落が10世紀後半になると衰退・廃絶し,全体的に遺跡数が減少するという現象については,10世紀から11世紀にかけて進行した乾燥化と温暖化,変動幅の大きい夏季降水量など不安定な気候の可能性に加え,当該期における集落形成の流動性と定着性の薄弱さを考慮すべきである。当時,開発の余地が大きい都城盆地に進出していた各集団の多くは,自立的・安定的な経営を貫徹するには至らなかったと思われ,当時の農業技術水準の問題もあり,激化する洪水などの自然環境の変化に対しては十分な対応がとれなかった社会状況があったことも想定できる。
鈴木, 拓也 Suzuki, Takuya
本稿は、八・九世紀の間に起こった隼人政策の転換を、京・畿内に視点を置いて明らかにし、それを当該時期の蝦夷政策と比較することによって、九世紀の王権に見られる性格の一端を解明しようと試みたものである。そのため本稿では、まず『延喜式』隼人司式の規定について検討し、次にそれに関連するとみられる九世紀初頭の単行法令について検討を加えた。その結果、明らかになったことは、以下の三点である。
渡辺, 信一郎 Watanabe, Shinichiro
建中元年(780)に成立した両税・職役収取体系にもとづく財務運営の特質は,収支両面にわたる定額制の存在である。建中元年の両税法の成立に際し,唐朝は,様ざまな制度外の租税徴収によって達成された大暦年間の各州最高実徴額を両税定額として設定しなおし,また収取定額を上供(中央経費)・留使(地方道経費)・留州(地方州府経費)に再分配し,経費においてもその根柢に定額制を設定して財務運営をおこなった。それは,開元二四年(736)以後,建中元年に至る45年間に,過渡的に実施された租庸調制・「長行旨条」・定額制による財務運営にかえて両税・専売制と旨符編成とによる運営に転換したものであり,本格的な「量出制入」による財務運営を開始することになった。「量出制入」にもとづく財務は,単年度ごとに正月に中央政府が発布する旨符(財政指針)と毎年度末十二月に塩鉄転運・度支・戸部の三司が宰相府に提出する会計報告および諸道節度使・観察使が戸部尚書比部司に提出する勾帳(財務監査調書)とによって運営された。それはまた長期的に定額を設定することによって収支基準額を固定し,そのうえで財源不足や収入超過をやりくりすることによって収支均衡をはかる財務運営方式であり,予算制度に基づく財務運営ではない。この定額制にもとづく財務運営は,前提をなす両税・職役収取体系とともに,18世紀初頭の盛世滋生人丁による支配丁数と税額の固定,および18世紀半ばの地丁銀制成立によって事実上廃棄されるにいたるまで,ともに後期専制国家財政の根幹をなした。
篠原, 武夫 Shinohara, Takeo
(1)アメリカ帝国主義は, 米西戦争の勝利によって, スペイン領フィリピンを分割支配することになった。アメリカ帝国主義はフィピンを自国経済にとっての良き資本輸出, 製品販売, 原料供給市場として位置づけたばかりでなく, 該領を中国市場へ進出するための軍事的拠点としても高く評価していた。アメリカの植民地政策は, 産業資本の未成熟なスペイン時代における消極的な植民地政策とは異なり, 産業開発をかなり推進した。植民地主義の枠内ではあるが, 経済開発が必要であったからである。だが, その枠は本国本位を修正したものであった。農民を基盤とする革命軍の革命的性格を除去するためには民族的要求もとりいれざるをえず, また19世紀末から20世紀にかけての国際経済の発展と独占段階における激しい植民地獲得競争が, 完全な本国経済中心を許さなかったからである。したがって帝国主義国家ではあるが, 懐柔策として宗教体制を基盤とするスペイン領有時代の政治を転換し, 民主政治と独立への展望をフィリピン人に与えた。それはアメリカがフィリピン植民地支配に残した大きな特徴の一つである。アメリカは植民地化当初はフィリピン民族主義を弾圧したが, 漸次フィリピンの自治拡大を図っていった。ついに1934年にはコモンウエルス政府ができ, アメリカ統治機構の中枢であった総督制はなくなり, それに代るものとして高等弁務官制が布かれた。しかし, せっかくフィピン人独自の自治政府ができたものの, その自治には限界があり, 重要な政治, 経済権はすべてアメリカが握っていたのである。アメリカがフィリピン植民地に認めた自治体制は, いってみればアメリカ資本の利益に基づくものであり, そこには常に資本の論理が作用していたのである。
池谷, 初恵 Ikeya, Hatsue
本論は先島諸島と奄美地域で出土する貿易陶磁の数量分析データに基づき,各遺跡の出土量の消長や種別の変化に言及し,琉球列島の南北における貿易陶磁の動態を論じたものである。別稿の報告において,貿易陶磁の編年に基づきⅠ~Ⅵ期,小期を含め7段階に時期区分を行ったが,それぞれの遺跡をこの時期区分に照らし,先島諸島における以下の4つの画期を想定した。1:貿易陶磁の出土量が増加する13世紀後半,2:貿易陶磁の出土量がさらに増加し,主体が白磁から青磁に変換する14世紀後半,3:遺跡により出土量の増減に特徴がみられる15世紀後半,4:一部の遺跡を除き多くの遺跡において出土量が激減する16世紀初頭~前半である。
木下, 光生 Kinoshita, Mitsuo
本稿は、日本の賤民と百姓が一八世紀後半~一九世紀以降、自他の身分を強く意識し出す状況を素材として、共同研究の全体テーマ「身体と人格をめぐる言説と実践」を、日本近世史研究において問うことの意義を考えるものである。本テーマは、これまでの近世史研究ではほとんど意識されてこなかったが、その問いを、自己の「客観的な実態」(身体)と「自己認識」(人格)の間に生ずるズレやせめぎ合いをめぐる問題に置き換えてみれば、近世史研究で残されている課題、とりわけ賤民と百姓の自他認識論として議論することが可能となる。そしてそうした視点にたつと、一八世紀後半~一九世紀という時代のもつ重要性が鮮やかに映し出されることとなる。
春成, 秀爾 Harunari, Hideji
哀悼傷身の習俗の一つに抜歯がある。この抜歯は18~19世紀のハワイ諸島の例が有名である。抜く歯は上下の中・側切歯であって,首長や親族の死にさいして極度の哀悼の意をあらわすために1回に2本を抜く。文献記録では,16~18世紀の中国の四川省や貴州省に住んでいた佗佬の例がもっとも古い。しかし,考古資料では,徳島県内谷石棺墓の男性人骨に伴った女性の上顎中切歯1本が哀悼抜歯の存在をしめしており,4世紀までさかのぼる。
野本, 敬 NOMOTO, Takashi
本稿では雲南生態環境史研究についての史料の種類・性質を紹介し、現在までの調査情況を説明する。さらに地方志の分析による統計データから16世紀~19世紀の雲南におけるマクロな社会変化を指摘し、今後の複数の史料の活用による展望を述べる。
前嶋, 敏 Maeshima, Satoshi
本論文は、一七世紀中葉~一八世紀前半の米沢藩中条氏における戦国末期~近世初頭の当主の系譜に対する認識について、中条氏に伝来した系図・由緒書等および同氏の文書整理・管理の状況から検討するものである。本論文では以下の点を指摘した。①中条氏では、一七世紀中葉~後半頃の段階においては、戦国末期の当主が忘れられている状態であり、とくに中条景泰という当主の名を認識していなかった。しかし、一八世紀前半にはそれを景資という当主の改名後の名としている。なお、さらにその後に作成された系図等では景資と景泰は別人と理解されている。②中条氏では、一七世紀中葉以降には、文書の整理・収集等を通じて系譜の復元が行われていた。そして元禄四~七年の間に景泰の名を記す文書を収集し、その名を認識するにいたったと考えられる。また同氏では一七世紀後半までの文書整理と同じ方針でそれ以後も管理を継続していた。このことは、中条氏が同氏の系譜・由緒等に対して高い関心を持ち続けていたことを示しており、戦国末期の当主に対する認識をその後さらに変化させたことにもつながっていたと思われる。
ダニエルス, クリスチャン Daniels, Christian
本稿では、雲南の地方志から収集した14世紀から19世紀までの自然災害データ入力の進行状況について報告し、なおかつこのデータを分析する際に注意すべき問題点を指摘している。雲南の広域に亘り大きな被害をもたらした洪水が1625年と1626年の二年間連続して発生しているが、地方志はそれを記載していない事例から、地方志という類の史料は自然災害を網羅的には記録していない点が判明している。したがって、その不充分さを補充するためには、上奏文など別の史料からのデータ収集も望ましい。しかし、以上のような欠点が地方志にあったとしても、気候が長期に亘りどのように変動したかなど、長期的なパターンを明らかにすることはできる。本稿の考察では、16世紀の雲南が14、15,17、18世紀より湿潤だったとした上で、16世紀の人口増加によって土地開発が進行した雲南では、行政と社会は以前より湿潤になった天候に対応できなったため、洪水などの災害が被害を増幅させたと推定した。
北野, 博司 Kitano, Hiroshi
小論では律令国家転換期(八世紀後半〜九世紀前葉)における須恵器生産の変容過程を検討し、その背景を経済、社会、宗教の観点から考察することを目的とした。ここでは各窯場の盛衰、窯業技術(窯構造・窯詰め・窯焚き)、生産器種の三点を主な検討対象とした。
義江, 明子 Yoshie, Akiko
日本の伝統的「家」は、一筋の継承ラインにそう永続性を第一義とし、血縁のつながりを必ずしも重視しない。また、非血縁の従属者も「家の子」として包摂される。こうした「家」の非血縁原理は、古代の氏、及び氏形成の基盤となった共同体の構成原理にまでその淵源をたどることができる。古代には「祖の子」(OyanoKo)という非血縁の「オヤ―コ」(Oya-Ko)観念が広く存在し、血縁の親子関係はそれと区別して敢えて「生の子」(UminoKo)といわれた。七世紀末までは、両者はそれぞれ異なる類型の系譜に表されている。氏は、本来、「祖の子」の観念を骨格とする非出自集団である。「祖の子」の「祖」(Oya)は集団の統合の象徴である英雄的首長(始祖)、「子」(Ko)は成員(氏人)を意味し、代々の首長(氏上)は血縁関係と関わりなく前首長の「子」とみなされ、儀礼を通じて霊力(集団を統合する力)を始祖と一体化した前首長から更新=継承した。一方の「生の子」は、親子関係の連鎖による双方的親族関係を表すだけで、集団の構成原理とはなっていない。
- 2009/6/5 16:46
年代不明。19世紀頃か。56.7×70.0cm。1枚。
- 2021/9/8 16:10
年代不明。19世紀頃か。56.7×70.0cm。1枚。
高見, 純 TAKAMI, Jun
13世紀以来、イタリア北中部では都市政府による記録文書の保存と管理が本格的に開始された。干潟の大商業都市ヴェネツィアも例外ではなく、15世紀以降に書記局を中心に過去の記録を整理し、文書形成と管理を拡大的に整備・進展させ、現在でも、ヨーロッパで有数の量の記録文書を伝え際だった存在感を示す。
鈴木, 一有 Suzuki, Kazunao
分析対象として東海地方を取り上げ,有力古墳の推移からみた古墳時代の首長系譜と,7世紀後半に建立された古代寺院,および,国,評,五十戸・里といった古代地方行政区分との関係の整理を通じて,地域拠点の推移を概観した。古墳や古代寺院の造営から描き出せる有力階層の影響範囲と,令制下の古代地方行政区分については,概ね一致する場合が多いとみてよいが,部分的に不整合をみせる地域もあり,7世紀における地域再編の経緯がうかがえた。
中三川, 昇 Nakamikawa, Noboru
中世都市鎌倉に隣接する三浦半島最大の沖積低地である平作川低地の中世遺跡を中心に,出土遺物や遺跡を取巻く環境変化,自然災害の痕跡などから,地域開発の様相の一端とその背景について考察した。平作川低地には縄文海進期に形成された古平作湾内の砂堆や沖積低地の発達に対応し,現平作川河口近くに形成された砂堆上に,概ね5世紀代から遺跡が形成され始める。6世紀代までは古墳などの墓域としての利用が主で,7世紀~8世紀中頃には貝塚を伴う小規模集落が出現するが比較的短期間で消滅し,遺構・遺物は希薄となる。12世紀後半に再び砂堆上に八幡神社遺跡や蓼原東遺跡などが出現し,概ね15世紀代まで継続する。両遺跡とも港湾的要素を持った三浦半島中部の東京湾岸における拠点的地域の一部分で,相互補完的な関連を持った遺跡群であったと考えられるが,八幡神社遺跡の出土遺物は日常的な生活要素が希薄であるのに対し,蓼原東遺跡では多様な土器・陶磁器類とともに釣針や土錘などの漁具が出土し,15世紀には貝塚が形成され,近隣地に水田や畑の存在が想定されるなど生産活動の痕跡が顕著で,同一砂堆における場の利用形態の相違が窺われた。蓼原東遺跡では獲得された魚介類の一部が遺跡外に搬出されたと推察され,鎌倉市内で出土する海産物遺存体供給地の様相の一端が窺われた。蓼原東遺跡周辺地域の林相は縄文海進期の照葉樹林主体の林相から,平安時代にはスギ・アカガシ亜属主体の林相が出現し,中世にはニヨウマツ類主体の林相に変化しており,海産物同様中世都市鎌倉を支える用材や薪炭材などとして周辺地域の樹木が伐採された可能性が推察された。蓼原東遺跡は15世紀に地震災害を受けた後,短期間のうちに廃絶し,八幡神社遺跡でも遺構・遺物は希薄となるが,その要因の一つに周辺地域の樹木伐採などに起因する環境変化の影響が想定された。
山中, 章 Yamanaka, Akira
八世紀後半から九世紀前半にかけて,光仁・桓武王権は東北蝦夷の「反乱」に対し,大規模な軍事行動を起こした。いわゆる三十八年戦争である。王権は軍事的・政治的拠点として胆沢城,志波城,徳丹城を建設した。同じ頃,渡島(北海道)でも列島との関係に大きな変化が生じていた。
蔡, 敦達
鎌倉時代末から室町時代にかけて、京五山・鎌倉五山をはじめとする禅宗寺院では、中国文化への憧憬・宗教的需要・修行環境の美化などの点から境致、特に十境の選定が盛んに行われた。しかし、十境は日本の禅院に発生したものではなく、南宋以降、五山をはじめとする中国の禅院で行われていたのである。
白石, 太一郎 Shiraishi, Taichiro
朝鮮半島の西南部に位置する全羅南道の西よりの地域では,5世紀後半から6世紀前半のごく限られた時期に盛んに前方後円墳が造営される。その中には円筒埴輪や倭系の横穴式石室をもつものが存在することからも,これが日本列島の前方後円墳の影響により出現したものであることは疑いない。それがそれまで倭と密接な関係を持っていた加耶の地域にはまったくみられないことは,この時期になって全羅南道の勢力が倭国ときわめて密接な関係をもつようになったことを示している。これはまた日本列島の須恵器の祖型と考えられる陶質土器が,初期の加耶のものから5世紀前半を境に全羅南道地域のものに変化することとも対応する。これらのことは,5世紀前半を境に倭・韓の交渉・交易の韓側の中心的窓口が加耶から全羅南道地域に変化したことを示唆している。
森岡, 正博
二十世紀の学問は、専門分化された縦割りの学問であった。二十一世紀には、専門分野横断的な新しいスタイルの学問が誕生しなければならない。そのような横断的学問のひとつとして、「文化位相学」を提案する。文化位相学は、「文化位相」という手法を用いることで、文化を扱うすべての学問を横断する形で形成される。
平田, 永哲 Hirata, Eitetsu
21世紀のわが国の特殊教育の在り方が変革しようとしている。一つは子どもの就学権保障の時代からより適切な教育保障の時代への変革であり、他の一つは障害児教育という用語が特殊教育という用語に変わろうとしている。本稿では、このような変革の動きを養護学校義務制以降の特殊教育界の出来事の中から探ることにより、21世紀の特殊教育を展望し、希望を託すことにする。
石木, 秀啓 Ishiki, Hidetaka
西海道、すなわち現在の九州における八世紀以降の須恵器窯跡群の生産動向と窯構造・生産器種の変遷を、筑前牛頸窯跡群の事例を中心に見ていった。その結果、筑前国では七世紀後半頃になると牛頸窯跡群に窯跡が集中し、一国一窯体制へと移行する。これは、この時期に成立する大宰府政庁へ向けての生産が考えられ、製品の広範な流通状況からこの時期九州では大宰府中心の生産体制がとられたと考えられる。しかし、八世紀中頃から後半になると、九州各国では新たな生産地の出現や既存の生産地の再編が認められる。この時期、牛頸窯跡群では甕・大甕の生産が認められなくなり、窯も小型のもののみとなる。それに代わるように、大宰府周辺では肥後で生産された大甕の出土が認められるようになる。これを牛頸窯跡群で生産しない甕を肥後から搬入する「地域間分業」と考え、大宰府による須恵器生産政策の存在を考えた。また、この時期以降から九世紀代には肥後国で須恵器生産が盛んとなり、製品は各国へもたらされ、各国の窯跡群の製品にも肥後国の影響が認められる。このことから、八世紀中頃から後半以降は大宰府中心の生産体制が徐々に肥後国を中心とした生産体制へと変化するものと考えられ、九州では時期によって生産の中心地が移っている状況が伺えた。
Delbarre, Franck
本論はビュジェー地方に位置するヴァルロメー地域で現在まだ話されている危機言語であるフランコプロヴァンス語のヴァルロメー方言の所有詞と不定詞についての考察である。今回は『ヴァルロメー方言』という書物(2001年出版)のコーパスに基づき、とりわけ該当方言の不定詞の形態とシンタックスを中心に述べる。フランコプロヴァンス語の諸方言については19世紀末から様々な研究が行われたが、戦後はむしろ研究の対象から外れる傾向にあり、現在話されているフランコプロヴァンス語の諸方言についての実態(その話者数や言語使用についてだけではなく、その言語的な発展についてでもある)はあまり知られていない。ここ20年で発行された書物(特に Stich と Martin)は形態論においては様々な情報を与えているが、シンタックス論においては大きく不足しているので、あまり話題にされていないヴァルロメー方言の形態とシンタックスのあらゆる面において研究を始めることにした。『ヴァルロメー方言』におけるヴァルロメー方言の不定詞の形態をまとめて、時折フランス語(本論の執筆者の母語でもあり、言語的にはフランコプロヴァンス語に最も近い言語でもある)の観点からも見ながらその方言の形態とシンタクスについて述べる。このような現代ヴァルロメー方言のシンタクスと形態の記述が試みられたのは初めてであろう。
仲間, 勇栄 Nakama, Yuei
本論文では,沖縄の伝統的食文化の一つである木灰ソバの意義について,その歴史と製造の面から考察した。現在,木灰ソバは中国甘粛省蘭州,タイのチェンマイ,沖縄の三箇所で確認されている。琉球への伝来は,14世紀末の中国からの「久米三十六姓」の渡来以降説と,中国からの冊封使による来琉(1372)以降の説が有力と考えられる。この木灰ソバが一般庶民のポピュラーな食べ物となるのは,明治以降のことではないかとみられる。灰汁に使われる樹種は,戦前ではアカギ,イヌマキ,ガジュマル,モクマオウ,ゲッキツ,現在では,主にガジュマル,イジュ,イタジイ,モクマオウなどである。木灰ソバは天然の樹木の灰から灰汁を採り,それを小麦粉に練り込んでつくる。普通の沖縄ソバでは人工のかん水が使われる。天然の灰汁には,カリウムやナトリウムなどのミネラル成分の他に,微量成分が数多く含まれている。これらの無機成分は,人間の健康維持にとっても不可欠のものである。この天然の灰汁でソバを作るとき,pH値12~13,ボーメ度2~3程度が良好とされる。この天然の灰汁で作る木灰ソバは,味覚の多様性を養う健康食品として,後世に伝えていくべき価値ある麺食文化の一つである。
大橋, 信弥 Ohashi, Nobuya
西河原木簡をはじめとする近江出土の古代木簡は、量的には多くないが、七世紀後半から八世紀初頭の律令国家成立期の中央と地方の動向を、具体的に検討するうえで、重要な位置を占めている。そして、近江には多くの渡来系氏族と渡来人が、居住しており、近江における文字文化の受容にあたって、渡来人の役割は無視できない。
八鍬, 友広 Yakuwa, Tomohiro
本稿は、十八世紀における越後地域の俳諧文化の実態を検討することによって、文字文化の地域的な浸透の一側面を明らかにしようとするものである。
菱田, 哲郎 Hishida, Tetsuo
7世紀における地域社会の変化については,律令制の浸透とともに,国郡里制の地方支配やそれを支える官衙群,生産工房群,宗教施設群の成立として捉えられている。一方で,古墳時代以来の墓制も残存しており,とりわけ7世紀前半は群集墳が盛んに築造されたこともよく知られてる。古墳時代の政治体制から律令制への転換が,地域社会にどのような影響を及ぼしたのか,あるいは地域社会の変動がどのような政治変革を反映しているのかということを明らかにするため,播磨地域を主たる材料に実地に検討を試みた。
李, 明玉 荒木, 和憲 Lee, Myoung ok Araki, Kazunori
高麗は初期から中期まで宋・遼・金との持続的な交流があり,後期には元と交流した。こうした状況によって,その時々の中国の多くの文物が高麗に流入し,とりわけ相当量の中国陶磁器が高麗の全域で消費される傾向がみられる。中国陶磁器は高麗の全時期のなかでも,とくに高麗中期の遺跡から出土する。出土の地域と遺跡の性格を探ると,京畿道・忠清道・全羅道・慶尚道・済州地域で確認されており,宮城・官庁関連遺跡・寺刹(寺址)・建物址・墳墓,全羅・忠清地域の海底などである。器種別の出土の様相を探ると,青磁は越州窯産・龍泉窯産が確認されており,五代末~北宋代の越州窯産から,北宋~元代と編年されるものまで及ぶが,宋代のものが大部分である。白磁は北宋・南宋代の定窯産・景徳鎮窯産が最も多く,このほか磁州窯産や福建・広東の窯の製品が少量確認される。とりわけ高麗中期には12~13世紀代の景徳鎮窯産青白磁の出土量が多く,発見地域も広範囲にわたる。黒釉は福建の建窯・建窯系・吉州窯・磁州窯産のものが確認されており,そのほか磁竈窯・鈞窯産のものもある。高麗時代の陸上遺跡(韓半島本土の遺跡)から出土する中国陶磁器の特徴をいくつかに整理すると,以下のとおりである。
藤尾, 慎一郎 今村, 峯雄 Fujio, Shinichiro Imamura, Mineo
弥生時代は中期後半・立岩式の甕棺に副葬される前漢鏡の製作年代を定点に,前3世紀から後3世紀にかけての約600年間存続すると考えられてきた。それによると,須玖Ⅱ式の実年代の上限は前1世紀前葉に求められている。ところが私たちが須玖Ⅱ式の土器に付着した炭化物を試料におこなったAMS-炭素14年代測定法による調査では,須玖Ⅱ式の較正年代の上限は紀元前200年ごろまでさかのぼるという結果であった。本稿は,私たちの調査の内容を報告し,較正年代の根拠を明らかにするとともに,従来の弥生中期の実年代観との関係について考察したものである。
金, 時徳 KIM, Shiderk
本稿は国立国会図書館所蔵『絵本武勇大功記』を翻刻し、注釈と解題を附したものである。本書刊行の背景には、浄瑠璃における天明・寛政年間の太閤記物ブームがある。毛谷村六助が加藤清正(本書では加藤正清)に仕えるまでの事情を描く本書巻上には、浄瑠璃『彦山権現誓助劔』との類似性が見られる。しかし、豊臣秀吉の朝鮮侵略のことを描く本書巻中・下の場合、その直接的な典拠は浄瑠璃ではなく、加藤清正の一代記である『清正記』・『朝鮮太平記』等の朝鮮軍記物の諸作品であることが確認される。一八世紀初期までの朝鮮軍記物の諸作品は軍記『朝鮮太平記』・『朝鮮軍記大全』に集大成され、絵本読本『絵本朝鮮軍記』・同『絵本太閤記』(第六・七篇)は一九世紀の朝鮮軍記物を代表する作品であるが、その間の一八世紀中・後期に著された朝鮮軍記物の数は少ない。本書は、朝鮮軍記物における一八世紀中・後期の空白を埋める作品として意味を持つ。
中塚, 武 NAKATSUKA, Takeshi
樹木年輪セルロースの酸素同位体比は,夏の降水量や気温の鋭敏な指標として,過去の水稲生産量の経年変動の推定に利用できる。実際,近世の中部日本の年輪酸素同位体比は,近江や甲斐の水稲生産量の文書記録と高い相関を示し,前近代の水稲生産が夏の気候によって大きく支配されていたことが分かる。この関係性を紀元前500年以降の弥生時代と古墳時代の年輪酸素同位体比に当てはめ,本州南部の水稲生産量の経年変動ポテンシャルを推定し,さらに生産―備蓄―消費―人口の4要素からなる差分方程式を使って,同時期の人口の変動を計算した。ここでは農業技術や農地面積の変化が考慮されていないので,人口の長期変動は議論できないが,紀元前1世紀の冷湿化に伴う人口の急減や,紀元前3—4世紀,紀元2世紀,6世紀の気候の数十年周期変動の振幅拡大に伴って飢饉や難民が頻発した可能性などが指摘でき,集落遺跡データや文献史料と対比することが可能である。
大橋, 幸泰 OHASHI, YUKIHIRO
本稿では、日本へキリシタンが伝来した16世紀中期から、キリスト教の再布教が行われた19世紀中期までを対象に、日本におけるキリシタンの受容・禁制・潜伏の過程を概観する。そのうえで、どのようにしたら異文化の共生は可能か、という問いについて考えるためのヒントを得たい。キリシタンをめぐる当時の日本の動向は、異文化交流の一つと見ることができるから、異文化共生の条件について考える恰好の材料となるであろう。
浅岡, 邦雄
本稿の目的は、鈴木貞美編『雑誌『太陽』と国民文化の形成』に掲載の論文、原秀成「近代の法とメディア―博文館が手本とした一九世紀の欧米」を批判的に検証することにある。
フリッツ, フォス FRITS, VOS
一九八五年度の共同研究集会の研究テーマ、「落窪物語の研究」をさらに進めていく上で、筆者は作品中の漢語と品詞の枠にしぼって検討した。落窪物語に現われる、一風変った音読みの漢語が、十世紀と十一世紀の他の物語、日記、随筆にも使われているかどうか、また〔所謂〕人称代名詞が他の作品ではどんな意味で使われているかを比較分析した。
千田, 嘉博 Senda, Yoshihiro
日本中世では13世紀以降に各地で村落形態が集村化していったことが,考古学的に明らかにされている。従来そうした研究は,集落形態に分析の比重があり,城郭との関わりについては分析してこなかった。しかし16世紀にかけた日本の村落の集村化は,多くは城郭を核としたもので,集落プランの凝集に果たした城郭の役割を正しく評価することが必要である。
土生田, 純之 Habuta, Yoshiyuki
西毛地域の古墳出土品を鉛同位体比分析した。分析した古墳は一部に5世紀後半(井出二子山古墳・原材料は朝鮮半島産)や6世紀前半のものも含むが大半は6世紀後半~7世紀初頭に属する。さらにその中で角閃石安山岩削り石積み石室を内蔵する古墳が多い。この石室は綿貫観音山古墳や総社二子山古墳を代表とする西毛首長連合を象徴する墓制と考えられている。特に観音山古墳からは中国北朝の北斉製と考えられている銅製水瓶や中国系の鉄冑などをはじめ,新羅製品も多い。新羅製品は他の角閃石安山岩削り石積み石室出土品にも認められている。かつて倭は百済と良好な関係を結ぶ一方,新羅とは常に敵対関係にあったと考えられてきたため,学界ではこの一見矛盾する事実の解釈に苦しんできたが,筆者は「新羅調」「任那調」に由来するものと考えた。特に今回分析に供した小泉長塚1号墳の出土品中に中国華北産原料を用いた金銅製冠があったが,新羅は当該期の倭同様,銅の原料が少なく何度も遣使した北朝から何らかの形で入手した原材料を用いて制作したものを「新羅調」等として倭にもたらしたものと考えた。もちろん直接西毛の豪族連合にもたらしたのではなく,倭王権にもたらされたものが再分配されて西毛の地にもたらされたものと考えている。西毛は朝鮮半島での活動や対「蝦夷」戦に重要な役割を演じ,そのことを倭王権が高く評価していたことは『日本書紀』の記事からも窺える。こうして6世紀後半~7世紀初頭における西毛の角閃石安山岩削り石積み石室出土品から,当該期の国際情勢を窺うことができるのである。
樹下, 文隆 KINOSHITA, Fumitaka
寛文九年正月二十九日に催された次期萩藩主である元千代(毛利吉就)の誕生祝儀能の番組を手がかりに、寛文期を中心とした萩藩能役者の動向を紹介する。あわせて、寅菊・春日・春藤という中世末から近世初期に活躍する能役者の一群が、関ケ原合戦以前から毛利家と深くかかわっていたことを明らかにし、その背後に毛利家と関係の深い本願寺の存在を指摘する。
山中, 光一 YAMANAKA, Mitsuichi
「明治期における文学基盤の変化の指標について」(国文学研究資料館紀要第6号,1980年)に続いて,20世紀前半における文学に影響する社会的「場」の変化を論ずるものである。
下津間, 康夫 Shimozuma, Yasuo
広島県福山市の草戸千軒町遺跡は、芦田川が瀬戸内海に注ぎ出る河口付近に成立した中世の港町である。出土資料の中に、物品名・数量・金額・商行為などを記した木簡があり、地方都市における商業・流通・金融活動の一端がうかがえる好資料である。主に商取引に関わるメモ、荷札・付札として使用されており、記載者が自らの活動に関わる内容を記したもの、何らかの物品に付属してその実態の一端を示すものに大別される。町は一三世紀中頃に成立し、当初の段階から物資の集散や金銭の取引きに関わる活動が推定されるが、一四世紀中頃より活発になる。記載者の手元でメモ・記録簿として使用された木簡がまとまって存在しており、その内容を検討することで、活動の実態を推察することが可能になる。その結果、一四世紀中頃から一五世紀後半にかけて、草戸千軒に拠を置いて、周辺地域を対象に、農産物を中心とする各種の物品を取り扱い、金銭の貸付けや、年貢・租税の収納・運営に関与する者の存在が推定されることになった。
齋藤, 孝正 Saito, Takamasa
日本における施釉陶器の成立は7世紀後半における緑釉陶器生産の開始を始まりとする。かつては唐三彩の影響下に奈良時代に成立した三彩(奈良三彩)を以て,緑釉と同時に発生したとする考え方が有力であったが,今日では川原寺出土の緑釉波文塼や藤原京出土の緑釉円面硯などの資料から,朝鮮半島南部の技術を導入して緑釉陶器が奈良三彩に先行して成立したとする考え方が一般化しつつある。なおこの時期の製品は塼や円面硯などの極僅かな器種が知られるのみである。奈良時代に入ると新たに奈良三彩が登場する。唐三彩は既に7世紀末には早くも日本に舶載されていたことが近年明らかにされたが,新たに三彩技術を中国より導入し成立したと考えられる。年代の判明する最古の資料は神亀6年(729)銘の墓誌を伴う小治田安万呂墓出土の三彩小壺であるが,その開始が奈良時代初めに遡る可能性は十分に存在する。奈良三彩の器形は唐三彩を直接模倣したものはほとんど見られず従来の須恵器や土師器,あるいは金属製品に由来するものが主体となる。ここに従来日本に存在しなかった器形のみを新たに直接模倣するという中国陶磁に対する日本の基本的な受け入れ方を見て取ることができる。奈良三彩は寺院・宮殿・官衙を中心に出土し国家や貴族が行なう祭祀・儀式や高級火葬蔵壺器として用いられた。なお,先の緑釉陶器の含め三彩陶器を生産した窯跡は未発見である。平安時代に入ると三彩陶器で中心をなした緑釉のみが残り,越州窯青磁を主体とする新たな舶載陶磁器の影響下に椀・皿類を主体とする新たな緑釉陶器生産が展開する。生産地もそれまでの平安京近郊から次第に尾張の猿投窯や近江の蒲生窯などに拡散し,近年では長門周防における生産も確実視されるようになった。中でも猿投窯においては華麗な宝相華文を陰刻した最高級の製品を作り出して日本各地に供給しその生産の中心地となった。
渡辺, 尚志 Watanabe, Takashi
本稿は、紀伊国伊都郡境原村と同村の小峯寺・東光寺を事例に、一七世紀半ばから一八世紀半ばにかけての近世村落と寺院の関係について考察したものである。その際、近世社会を諸社会集団の重層と複合として把握した社会集団論の視角を取り入れた。すなわち、村と寺の問題を、村(百姓)の視点からだけではなく、寺(住職)の側にも身を置きつつ、複眼的に考察してみた。
榊, 佳子 Sakaki, Keiko
日本古代の喪葬儀礼は七世紀から八世紀にかけて大きく変化した。そして喪葬儀礼に供奉する役割も、持統大葬以降は四等官制に基づく装束司・山作司などの葬司が臨時に任命されるようになった。葬司の任命に関しては、特定の氏族に任命が集中する傾向があり、諸王・藤原朝臣・石川朝臣・大伴宿祢・石上朝臣・紀朝臣・多治比真人・佐伯宿祢・阿倍朝臣が葬司に頻繁に任命されていた。
永田, 良太 NAGATA, Ryota
複文とあいづちをはじめとする聞き手の言語的反応に関しては,文(発話)を産出する話し手と文(発話)を理解する聞き手の観点からそれぞれ研究が行われ,その構文的特徴や談話における機能がこれまで明らかにされてきた。本稿においては,そこでの研究成果に基づきつつ,談話の中で観察することにより,次の2点を明らかにした。Ⅰ.従属節末と主節末とでは聞き手の言語的反応が異なる。Ⅱ.従属節末における聞き手の言語的反応は従属節の従属度と密接に関わる。従属節末に比べて,主節末では情報の充足を前提とした聞き手の言語的反応が多く生起する。また,同じ従属節末でありながら,B類のタラに比べてC類のケドやカラの従属節末には多くのあいづちが見られ,その中でも理解や共感を示すあいづちが特徴的に見られる。これには複文という文の形やC類の従属節が持つ情報の完結性という特徴が関わっており,複文発話に対する聞き手の言語的反応は発話の構文的特徴と密接に関わると考えられる。
白石, 太一郎 Shiraishi, Taichirō
奈良盆地の東南の山間部に位置する宇陀地方の中世墓地については、最近の発掘調査によってその全容が明らかにされた例がいくつかある。それら中世末に廃絶し、遺跡化した墓地に対して、この地方には中世以来現在までその利用が続いている墓地がある。小論はこの両者を総合して考察することによって、中世の宇陀における葬制と墓制の展開過程を追求しようとしたものである。
高木, 正朗 森田, 潤司
前近代社会の人々は、今日の開発途上国の国民や未開社会の人々がしばしばそうであるように、頻繁に穀物の不作や飢餓に直面した。一九世紀中期日本の最もひどい凶作(不作)はベーリング海からの寒気の吹き込みに起因する天保の飢饉だった。
若狭, 徹 WAKASA, Toru
利根川の上流域に位置する北西関東地方では,弥生時代中期中葉以降,利根川沿岸低地に規模の大きい農耕集落が展開した。しかし,それらは弥生時代後期前半に一斉に解体し,集団は台地上で分散的に暮らすようになる。これは,弥生中期末に発生した多雨化による低湿地環境の悪化にあったと推定される。集団の分散や大規模水田経営の途絶により,首長層の成長も遅れたと考えられる。
森本, 一彦
本稿では一七世紀における楡俣村の宗門改帳を基礎資料とする。初期における宗門改帳の性格と楡俣村の村落関係を検討する。
湯浅, 治久
本稿は、近年注目されている中世武士団の「西遷」「北遷」の一事例として、中世成立期から全般にわたって族的発展をみせた佐々木氏一族について、その「西遷」の様相を解明せんとするものである。武士団の「西遷」「北遷」とは、鎌倉末~南北朝期にわたり主に東国に出自をもつ武士団が、結果的に本拠を西国あるいは北(東北)国へと移す現象をさす。
永山, 修一 NAGAYAMA, Shuichi
不動寺遺跡は、鹿児島市の南部、谷山地区の下福元町に所在する縄文時代~近世の複合遺跡である。谷山地区は、古代の薩摩国谿山郡に淵源し、「建久八年薩摩国図田帳」では、島津庄寄郡の谷山郡と見え、近世には谷山郷とされた。古代の谿山郡は隼人が居住する「隼人郡」の一つで、『和名類聚抄』によれば、谷山・久佐の二郷からなり、両郷は、永田川の中流・上流域と下流域すなわち西側と東側に存在した。不動寺遺跡では、奈良時代の明確な遺構は確認されておらず、奈良時代の遺構は、不動寺遺跡の範囲外、埋没河川の上流側にあると考えられる。平安時代のものとして緑釉陶器・初期貿易陶磁(越州窯系青磁など)・硯(風字硯・転用硯)などの遺物が出土し、遺構としては館跡・遣水状遺構・池状遺構・火葬墓・円形周溝墓・土師甕埋納遺構が検出されている。九世紀以降は郡家遺構そのものが確認されているわけではないが、谷山郡家が置かれていた可能性が高く、その後、園池を伴う有力者の居館として機能するようになった。不動寺遺跡の南南西約五〇〇メートルの谷山弓場城跡でも一〇世紀後半の蔵骨器の火葬墓が出土しており、蔵骨器の形式から、被葬者は不動寺遺跡の関係者と考えられる。また、一〇世紀後半~一一世紀前半には、北西九州と関連の深い円形周溝墓が営まれており、その被葬者は北部九州との関係を持っていた可能性が高い。一二世紀になると、不動寺遺跡では遺構が確認されなくなる。
中塚, 武 NAKATSUKA, Takeshi
気候変動は人間社会の歴史的変遷を規定する原因の一つであるとされてきたが,古代日本の気候変動を文献史学の時間解像度に合わせて詳細に解析できる古気候データは,これまで存在しなかった。近年,樹木年輪に含まれるセルロースの酸素同位体比が夏の降水量や気温の鋭敏な指標になることが分かり,現生木や自然の埋没木に加えて,遺跡出土材や建築古材の年輪セルロース酸素同位体比を測定することにより,先史・古代を含む過去数百~数千年間の夏季気候の変動を年単位で復元する研究が進められている。その中では,セルロースの酸素同位体比と水素同位体比を組み合わせることで,従来の年輪による古気候復元では難しかった数百~数千年スケールの気候の長期変動の復元もできるようになってきた。得られたデータは,近現代の気象観測データや国内外の既存の低時間解像度の古気候記録と良く合致するだけでなく,日本史の各時代から得られたさまざまな日記の天候記録や古文書の気象災害記録とも整合しており,日本史と気候変動の対応関係を年単位から千年単位までのあらゆる周期で議論することが可能になってきている。まず数百年以上の周期性に着目すると,日本の夏の気候には,紀元前3,2世紀と紀元10世紀に乾燥・温暖,紀元5,6世紀と紀元17,18世紀に湿潤・寒冷の極を迎える約1200年の周期での大きな変動があり,大規模な湿潤(寒冷)化と乾燥(温暖)化が古墳時代の到来と古代の終焉期にそれぞれ対応していた。また人間社会に大きな困難をもたらすと考えられる数十年周期の顕著な気候変動が6世紀と9世紀に認められ,それぞれ律令制の形成期と衰退期に当たっていることなども分かった。年単位の気候データは,文献史料はもとより,酸素同位体比年輪年代法によって明らかとなる年単位の遺跡動態とも直接の対比が可能であり,今後,文献史学,考古学,古気候学が一体となった古代史研究の進展が期待される。
田中, 牧郎
(1)国立国語研究所国語辞典編集室では、20世紀はじめを代表する総合雑誌『太陽』のコーパス作成を進めており、現在、1901年分が完成しつつある段階である。
幡鎌, 一弘 Hatakama, Kazuhiro
本稿は、十七世紀中葉における吉田家の活動を、執奏、神道裁許状、行法、勧請・祈祷、神学の五つに分類し、それぞれの実態と相互の関係を検討しながら、神社条目によって吉田家の神職支配が確立していった際の問題点を明らかにしたものである。
岩城, 卓二 Iwaki, Takuji
在郷町桐生新町を対象とした研究は戦前・戦後とかなりの量に及ぶが、同町の住民構造を分析した研究は意外に乏しい。そこで、本稿では、桐生新町が繁栄から停滞に向かうとされる十九世紀初頭の同町の住民構造について、主に宗門改帳を用いて検討する。
仲宗根, 平男 Nakasone, Hirao
以上の刺針法による植栽地, 低温ビニール室の実験結果から1)沖縄産スギ材は, 3月初旬から早材形成が始まり, 6月末の梅雨明けまで継続される。2)梅雨明けより気温も上昇するため, 7月から晩材形成が始まる。3)8,9月も高気温が続くため, 成木, 幼令木とも晩材形成が継続される。4)10月より気温低下が始まり, 実生幼令木のヤナセ, ヤクは早材形成となるが, 地スギの幼令, 成木, 実生成木は晩材形成が継続される。5)11月から日照時間も短かくなり, 気温も下降するため, これまでの晩材細胞より小径の, 厚膜の細胞が形成され, 12月末まで続き, 休眠期に入る。6)1,2月は休眠期となる。7)細胞数は早晩材共約同数に近いが, その巾は早材部が広く, 晩材が占める面積割合(晩材率)は, 40∿50%となって, 内地産スギ材より高い値を示している。8)晩材形成の主要因は, 30℃前後の高温が続く7,8,9月と, 日照時間が短くなり, 気温も低下する11,12月の異なった二つの要因と考えられる。9)10月の気温は, 4,5月の気温に近いため, 春材形成となると考えられるが, 地スギ幼, 成木, 実生成木は晩材形成を継続する。それらの要因については, 今後の課題としたい。
春成, 秀爾 Harunari, Hideji
ユーラシアの後期旧石器時代前半,オーリニャック期の約40,000年前に出現し,グラヴェット期の約33,000~28,000年前に発達した立体女性像は,出産時の妊婦の姿をあらわし,妊娠・安産を祈願する護符の意味をもっていた。しかし,グラヴェット期後半の約24,000年前に女性像は消滅する。そして,後期末~晩期旧石器時代マドレーヌ期の約19,000年前に線刻女性像や立体女性像が現れ,その時期の終わり頃の約14,000年前に姿を消す。
関, 周一 Seki, Shuichi
本稿は、中世における都市の流通・消費を考える一環として、唐物の流通と消費を考察するものである。特に一五~一六世紀前半の京都を中心に検討する。
藤本, 誉博 Fujimoto, Takahiro
本稿は、室町後期(一五世紀後期)から織田権力期(一六世紀後期)までを対象として、堺における自治および支配の構造とその変容過程を検討したものである。当該期は中近世移行期として「荘園制から村町制へ」というシェーマが示されているように社会構造が大きく変容する時期である。堺においても堺南北荘の存在や、近世都市の基礎単位になる町共同体の成立が確認されており、これらの総体としての都市構造の変容の追究が必要であった。
青井, 隼人 AOI, Hayato
南琉球宮古多良間方言は,下降の有無と位置によって区別される三型アクセント体系を有する。3つのアクセント型の区別は,常にどのような環境においても実現するわけではなく,様々な環境において様々な組み合わせで中和する(青井2012, 2016a, 2016d)。本稿では,当該韻律句内に含まれる韻律語数が1で,かつ当該韻律句末と発話末とが一致しない環境(いわゆる接続形)において観察される2種類のアクセント型の中和に焦点を当てる。
義江, 明子 Yoshie, Akiko
金石文に立脚した記紀批判・王統譜研究を前進させるためには,氏族系譜の系譜意識を視野にいれ,かつ,刻銘の素材にこめられた観念と銘文を総合的に考察する必要がある。そこで,最古の氏族系譜である稲荷山鉄剣銘に焦点をあて,鉄剣に系譜を刻む意味を,銘文構成上重要な位置にあると推定される「上祖」の観念とその歴史的変化に注目して分析し,以下の四点を明かにした。①上祖は「始祖」とは異質の祖先表記で,七世紀末以前の地位継承次第タイプの系譜冒頭に据えられた祖である。「上祖」が「始祖」表記に移行するのは書紀編纂の頃である。②銘文刀剣を「下賜」という上下の論理のみで読み解くことには疑問がある。稲荷山鉄剣銘文は,王統譜接合以前の,「上祖」を権威の淵源とする原ウヂの側の自生的な系譜伝承世界をうかがわせる貴重な資料である。③七支刀の象嵌界線に顕著なように,刀剣の形状・呪力と刻銘内容は一体不可分である。鉄剣の鎬上に系譜を刻む行為には,霊剣の切先に天の威力を看取する神話,後世の竪系図の中央人名上直線との類比からみて,重要な信仰上の意味がある。④稲荷山鉄剣系譜を神話的系譜観の観点から考察すると,「地名+尊称」の類型的族長名をつらねた部分は,ウヂ相互の同時代における現実の同盟関係(ヨコの広がり)をタテの祖名連称(ウヂの歴史)に置き換えたものと推定される。これは,祖父―父―子という時系列血統観による父系系譜とは,全く異質の系譜観である。
高橋, 照彦 Takahashi, Teruhiko
本稿は,日本古代の鉛釉陶器を題材に,造形の背後に潜む諸側面について歴史的な位置づけを行った。まず,意匠については,奈良三彩が三彩釉という表層のみの中国化であるのに対して,平安緑釉陶では形態や文様も含めて全面的に中国指向に傾斜したということができる。また,日本における焼物生産史全体でみると,模倣対象としての朝鮮半島指向から中国指向への大きな比重の移動は,この奈良三彩や平安緑釉陶が生産された8世紀から9世紀に求められるとした。
望月, 直人
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、中国および東アジア各国では、国際法は「万国公法」もしくは「公法」という名称で呼ばれることが多かった。international law は直訳すると「国家間の法」となるのに対して、「万国公法」は「あらゆる国に共通する法」あるいは「あらゆる国によって共有される法」という意味であり、原語に対して厳密な訳語とはなっていない。すでに指摘されているように、清末中国読書人は、しばしば「万国公法」の「公」の字にひきつけて議論を展開した。
三橋, 正
個人が日記をつける習慣と過去の日記を保存・利用する「古記録文化」は、官人の職務として発生したものが天皇や上級貴族にも受け入れられ、摂関政治を推進した藤原忠平(八八〇~九四九)によって文化として確立され、子孫に伝承され、貴族社会に定着していった。その日記の付け方は、『九条殿遺誡』にあるように、具注暦に書き込むだけでなく、特別な行事については別記にも記すというものであり、忠平も実践していたことが『貞信公記抄』の異例日付表記などから確認できる。息師輔(九〇八~九六〇)も、具注暦記(現存する『九暦抄』)と部類形式の別記(現存する『九条殿記』)とを書き分けていたことは、具注暦記にはない別記の記事(逸文)が儀式書に引用され、別記に具注暦記(暦記)の記載を注記した部分があることなどから明らかである。従来の研究では、部類は後から編纂されると考えて原『九暦』を想定し、そこから省略本としての『九暦抄』と年中行事書編纂のための『九条殿記』が作られたとしていたが、先入観に基づく学説は見直されるべきである。平親信(九四六~一〇一七)の『親信卿記』についても、原『親信卿記』を想定して自身の六位蔵人時代の日記について一度部類化してから再統合したとの学説があったが、そうではなく、並行して付けていた具注暦記と部類形式の別記を統合したものであった。藤原行成(九七二~一〇二七)の『権記』では、具注暦記のほかに儀式の次第などを記す別記と宣命などを記す目録が並行して付けられていたが、一条天皇の崩御を契機として統合版を作成したようで、その寛弘八年(一〇一一)までの記事がまとめられた。現存する日記(古記録)の写本は統合版が多く、部類形式の別記については研究者に認知されていなかった。本稿により、(日記帳のような)具注暦とは別に(ルーズリーフ・ノートのような)別紙を使って別記を書くという習慣が十世紀前半(忠平の時代)に形成され、十世紀末に両者の統合版を作成して後世に残すという作業が加わるという「古記録文化」の展開が明らかになった。
田中, 史生 TANAKA, Fumio
かつて通説的位置を占めた平安期の「荘園内密貿易盛行説」が否定されて以降、文献史学では、平安・鎌倉期における南九州以南の国際交易は、国際交易港たる博多を結節点に国内商人などを介して行われたとする見方が有力となった。考古学も概ねこれを支持するが、その一方で、古代末・中世前期に宋海商が南九州に到達していた可能性をうかがわせる資料もいくつか提示され、これらを薩摩硫黄島産硫黄の交易と関連するものとする見解も示されている。本稿の目的は、こうした考古学などの指摘を踏まえ、あらためて文献史学の立場から、古代末・中世前期において宋海商が九州西海岸伝いに南九州、南島へと向かった可能性について考察するものである。そのために本稿では、南九州における硫黄交易のあり方を記した軍記物語として近年注目されている『平家物語』の諸本の、「鬼界が島」(薩摩硫黄島)と外部との交通に関する記述について検討した。さらに、『平家物語』の成立期と時代的に重なり、中国との関連性も指摘されている九州西部の薩摩塔と、その周辺の遺跡についても検討を加えた。その結果、次の諸点が明らかとなった。(一)古代末・中世前期において、博多に来航した宋海商船のなかに、南九州に寄港し、そこから南島を目指すために九州西岸海域を往還する船があった可能性が高い。(二)彼ら宋海商の中心は日本に拠点を築いた人々であったと考えられる。(三)宋海商の交易活動を支援する日本の権門のなかに、博多や薩摩に寄港し南島へ向う彼らの船を物資や人の運搬船として利用するものもあったとみられる。以上の背景には、薩摩と南島を結ぶ航路が、一般国内航路とは比較にならぬ困難さを伴っており、外洋航海に長けた渡来海商の船が求められていたこと、また宋海商にとっても硫黄を含む南島交易は対日交易の大きな関心事となっていたことがあったと考えられる。
立石, 謙次 TATEISHI, Kenji
本報告では、今回、中国雲南省大理州巍山県での碑刻資料から収集した拓本資料の中から特に数点を紹介する。そして、これら資料の、従来不明な点の多かった16‐18世紀巍山周辺での仏教・道教などの中国系宗教研究における有用性について述べていく。
小野, 健吉
景観年代が寛永十年(一六三三)末~十一年初頭と考えられる『江戸図屏風』(国立歴史民俗博物館所蔵)には、三邸の大名屋敷(水戸中納言下屋敷・加賀肥前守下屋敷・森美作守下屋敷)と二邸の旗本屋敷(向井将監下屋敷・米津内蔵助下屋敷)で見事な池泉庭園が描かれているほか、駿河大納言上屋敷や御花畠など、当時の江戸の庭園のありようを考える上で重要な図像も見られる。本稿では、これらを関連資料等とともに読み解き、寛永期の江戸の庭園について以下の結論を得た。
菅, 豊 Suga, Yutaka
柳田国男は,民俗学における生業・労働研究を狭隘にし,その魅力を減少させた。それは,民俗学の成立事情と大きく関わっている。その後,民俗学を継承した研究者にも同様の研究のあり方が,少なからず継承される。しかし,1980年代末から90年代にかけて,新しい視点と方法をもって,旧来の狭い生業・労働研究の超克が模索された。この模索は,「生態民俗学」,「民俗自然誌」,「環境民俗学」という三つの大きな潮流に区分できる。
宮城, 徹 Miyagi, Toru
本稿では、イングランド東部に位置するクローランド修道院を例に、土地経営の観点から11世紀後期におけるその所領景観を考察した。10世紀中葉の再建以後、聖・俗の有力な士地所有者を中心に複数の人々からの土地の寄進を通じて形成された修道院の所領は、多数の地所が複数の州に跨る形で広範囲に亘って分散保有される当該期の封建所領に典型的な散在所領であった。それぞれの地所は、村落という形をとりながらも、領主たる修道院によるその支配は必ずしも一様ではなく、修道院が村落全体を一円的に支配する「一村一領主型」の地所よりも、一つの村落を複数の領主が分割支配する「一村多領主型」の地所が圧倒的に多かった。それらの村落は、大部分が領主直営地と農民保有地とで構成される荘園として経営され、領主たる修道院を経済的に支えたのである。農村集落の周辺部に広がる広大な農耕地の存在によって立ち現われる農業的景観は、牧草地と放牧地並びに森林地の存在によって牧畜的景観を加味され、全体として11世紀後期におけるクローランド修道院の所領景観を形作っていた。
小池, 淳一
本稿は『新編会津風土記』を素材に、十九世紀初めの会津地方における歴史および文化が継承される姿とその内容について考察するものである。
山本, 芳美
本論は、19世紀後半から20世紀初頭における外国旅行者による日本でのイレズミ施術について取り上げる。この時代は、日本においてイレズミに対する法的規制が強化され、警察により取り締まられた時代でもある。しかし、法的規制が課せられた時代においても、日本人対象の施術がひそかに続けられていた。一方、同時期は欧米を中心にイレズミが流行した時期でもある。日本人彫師たちは、長崎、神戸、横浜ばかりでなく、香港、アジア各地の国際港に集まって仕事をしていた。状況を総合すると、日本国内の施術では、外国人客にとっては「受け皿」、彫師にとっては「抜け道」が形成されていたことが強く示唆される。つまりは、日本ならではの観光体験メニューとして、イレズミ体験が存在していたと考えられるのである。
武井, 弘一 Takei, Koichi
近世前期の17世紀は、日本列島の自然が大改造された、新田開発の時代である。稲には、米だけではなく、藁・糠・籾が含まれている。加賀藩を事例にしながら、稲の副産物とみなされていた藁・糠・籾に注目し、それらが村・武家・町社会のなかで、どのように消費されていたのか、その実態を明らかにした。米はヒトの食料となり、藁・糠はウマなどの家畜の餌料となり、ヒトと家畜が近世社会の内部で農業・軍事・運輸の面での動力を担った。すなわち、稲は結果として人畜力のエネルギー源となり、近世社会を発展させる原動力になった。ここに17世紀に広まった稲の意義がある。
クレインス, フレデリック
十七世紀オランダの旅行記文学の中に、スハウテン(Wouter Schouten, 1683-1704)の『東インド紀行』 De Oost-Indische voyagie. Amsterdam: Jacob van Meurs, 1676. がある。このオランダ西部ハールレム(Haarlem)出身の外科医による旅行記は、著者自身の冒険や訪れた国々とその民族が生き生きと描写され、出版当初だけでなく、現代までも人気が衰えていない。
山本, 英二 YAMAMOTO, Eiji
本稿は、幕藩前期(17世紀前半)の三河国山間部を事例に、年貢割付状・年貢皆済目録・年貢小請取といった年貢文書について、史料学的な検討を試みたものである。
赤澤, 春彦
本稿は中世前期の南都陰陽師について検討したものである。南都には中世後期から近世にかけて賀茂氏の庶流である幸徳井家が定住していたことがよく知られている。同家は初代友幸以降、大乗院門跡と密接な関係を結ぶことによって三位に昇進し、賀茂氏の嫡流勘解由小路家の断絶以降、賀茂氏を代表する存在となった。しかし、南都陰陽師の嚆矢は幸徳井家ではない。すでに十三世紀の段階で興福寺には安倍氏の庶流陰陽師である安倍時資・晴泰が興福寺の「寺住陰陽師」として確認できるのである。彼らは南都に定住し、興福寺や春日社で発生した怪異に対する占筮や呪術を担い、造作の日次勘申を行っていた。ただ、そのすべてを取り扱っていたのではなく、国家行事や藤原氏氏長者に関する日次勘申は在京の官人陰陽師が行い、南都陰陽師は寺社内部に関する事柄を扱っていた。また、怪異が発生した場合も軽事は南都陰陽師が吉凶を占い、それが重事と判断されると京へ注進するといったような分業体制が取られていた。興福寺や春日社では頻発する怪異や寺社内部の活動が細分化されてゆく状況に迅速に対処するため、近辺に陰陽師を定住させたと考えられる。これら十三世紀から確認できる南都陰陽師には二つの系統がある。一つは安倍氏庶流晴道党の晴泰、晴氏の系統、もう一つは安倍氏嫡流泰親流から分かれた時資、資朝の系統である。ただし、留意しておきたいのは、前者は複数の系図に確認できるのに対して、後者は「陰陽家系図」(宮内庁書陵部所蔵)にしか確認できない点である。また、同系図によれば時資の子孫が幸徳井友幸の先祖に当たるというが、傍注に明らかな事実誤認が複数確認できることから、後世の作為とみるのが妥当だろう。さらに吉川家文書(国立歴史民俗博物館所蔵)の「陰陽雑書写」から、時資らの先祖の本姓が惟宗氏であることが推察される。すなわち、幸徳井家はもともと惟宗氏であり、それが十三世紀の段階で安倍氏を名乗るようになり、十五世紀に賀茂氏へ改姓するのである。このように十五世紀に南都陰陽師として登場する幸徳井家は十三世紀の南都陰陽師安倍時資らの存在を前提としたものであったのである。
羽柴, 直人 Hashiba, Naoto
柳之御所遺跡は12世紀奥州藤原氏の拠点平泉の一部分を占める遺跡である。柳之御所遺跡の変遷は6時期に分けられる。1,2期は初代清衡,3,4期は二代基衡,5,6期は三代秀衡の時代に相当する。
古俣, 達郎
本稿では、明治末のアメリカ人留学生で日本学者であったチャールズ・ジョナサン・アーネル(Charles Jonathan Arnell 1880-1924)の生涯が描かれる。今日、アーネルの名を知るものは皆無に等しいが、彼は一九〇六(明治三十九)年に日本の私立大学(法政大学)に入学した初めての欧米出身者(スウェーデン系アメリカ人)である。その後、外交官として米国大使館で勤務する傍ら、一九一三年に東京帝国大学文科大学国文学科に転じ、芳賀矢一や藤村作のもとで国文学を修めている(専門は能楽・狂言などの日本演劇)。卒業後は大学院に通いながら、東京商科大学(現:一橋大学)の講師に就任し、博士号の取得を目指していたが、「排日移民法」の成立によって精神を病み、一九二四年十一月、アメリカの病院で急逝した。
四柳, 嘉章 Yotsuyanagi, Kasho
本稿では中世的漆器生産へ転換する過程を,主に食漆器(椀皿類)製作技術を中心に,社会文化史的背景をふまえながらとりあげる。平安時代後期以降,塗師や木地師などの工人も自立の道を求めて,各地で新たな漆器生産を開始する。新潟県寺前遺跡(12世紀後半~13世紀)のように,製鉄溶解炉壁や食漆器の荒型,製品,漆刷毛,漆パレットなどが出土し,荘官級在地有力者の屋敷内における,鋳物師と木地・塗師の存在が裏付けられる遺跡もある。いっぽう次第に塗師や木地師などによる分業的生産に転換していく。そうしたなかで11~12世紀にかけて材料や工程を大幅に省略し,下地に柿渋と炭粉を混ぜ,漆塗りも1層程度の簡素な「渋下地漆器」が出現する。これに加えて,蒔絵意匠を簡略化した漆絵(うるしえ)が施されるようになり,需要は急速に拡大していった。やがて15世紀には食漆器の樹種も安価な渋下地に対応して,ブナやトチノキなど多様な樹種が選択されるようになっていく。渋下地漆器の普及は土器埦の激減まねき,漆椀をベースに陶磁器や瓦器埦などの相互補完による新しい食膳様式が形成された。漆桶や漆パレットや漆採取法からも変化の様子を取り上げた。禅宗の影響による汁物・雑炊調理法の普及は,摺鉢の量産と食漆器の普及に拍車をかけた。朱(赤色)漆器は古代では身分を表示したものであったが,中世では元や明の堆朱をはじめとする唐物漆器への強い憧れに変わる。16世紀代はそれが都市の商工業者のみならず農村にまで広く普及して行く。都市の台頭や農村の自立を示す大きな画期であり,近世への躍動を感じさせる「色彩感覚の大転換」が漆器の上塗色と絵巻物からも読み解くことができる。古代後期から中世への転換期,及び中世内の画期において,食漆器製作にも大きな変化が見られ,それは社会的変化に連動することを紹介した。
藤田, 盟児 Fujita, Meiji
宮島にある厳島神社の門前町には,オウエという吹き抜けになった部屋をもつ町家群があり,中部・北陸地方の町家形式に酷似する。平成17年度から18年度にかけて実施した伝統的建造物群保存対策調査で,それらの建造年代を形式や技法の新旧関係から推定する編年を行ったが,18世紀後期と推定した田中家住宅と飯田家作業所について¹⁴C年代調査を行ったところ,両方とも17世紀後期の建築である可能性が高まった。このことから,厳島神社門前町の町家建築の編年を見直して,¹⁴C年代調査が民家調査の編年に及ぼす影響について述べた。
平松, 隆円
一柳満喜子は一八八四年、一柳末徳子爵の子として誕生した。満喜子はミッション経営の幼稚園、女子高等師範学校附属小学校、附属女学校、神戸女学院などで学び、一九〇九年に渡米。米国ではブリンモア大学予備学校で学び、在学中に受洗した。その後、ブリンモアカレッジに入学したものの退学し、女学校時代の恩師アリス・ベーコンのもと、サマーキャンプなどを手伝っていたが、末徳の危篤の知らせを受け帰国。そして、兄恵三の邸宅を設計していたウィリアム・メレル・ヴォーリズと出会う。メレルとの結婚後、近江八幡の地に移った満喜子は、そこでいくつかの教育事業を行った。
大滝, 靖司 OTAKI, Yasushi
本研究では,子音の長さが音韻論的に区別される6つの言語(日本語・イタリア語北米変種・フィンランド語・ハンガリー語・アラビア語エジプト方言・タイ語)における英語からの借用語を収集してデータベースを作成・分析し,各言語における借用語の重子音化パタンを明らかにする。その結果から,語末子音の重子音化は,原語の語末子音を借用語で音節末子音として保持するための現象であり,語中子音の重子音化は原語の重子音つづり字の影響による現象であることを指摘し,純粋に音韻論的な現象は語末子音の重子音化のみであることを主張する。
藤原, 貞朗
一八九八年にサイゴンに組織され、一八九九年、名称を改めて、ハノイに恒久的機関として設立されたフランス極東学院は、二〇世紀前半期、アンコール遺跡の考古学調査と保存活動を独占的に行った。学術的には多大な貢献をしたとはいえ、学院の活動には、当時インドシナを植民地支配していたフランスの政治的な理念が強く反映されていた。
原山, 浩介 Harayama, Kosuke
20世紀のツーリズムの高揚は,まず1930年代にひとつのピークを迎えた。その後,日中戦争に突入後も,1942年までは戦時ツーリズムというべき状態が続いたとされる。こうした現象は,都市部に住む人びとの旅行熱を説明するものであるが,そうした人びとを受け入れる観光地からこの時代を眺めたとき,違った説明が必要になる。
鈴木, 靖民 Suzuki, Yasutami
『魏志』韓伝に引く「魏略」の1世紀後半,辰韓で採木労働に従う漢人の説話は鉄の採掘・鍛冶生産を示唆する。ついで,3世紀の韓では首長層のほか,多数の住民である下戸たちによる魏との多元的な交易が行われた。弁辰では鉄を産し,それを韓・濊・倭が取り,また楽浪・帯方二郡に供給したが,交易には外交・軍事上の意味もあり,鉄加工技術や消費先を確保できる公権力や首長層が関与した。倭の交易主体は倭王や首長であるが,実際の荷担者は倭人伝に見える対馬・一支の「船に乗り南北を市糴する」交易集団と同類の人々である。
伊藤, 武士 ITO, Takeshi
出羽国北部においては,8世紀に律令国家により出羽柵(秋田城)や雄勝城などの古代城柵が設置され,9世紀以降も城柵を拠点として広域の地域支配が行われた。古代城柵遺跡である秋田城跡や払田柵跡においては,城柵が行政と軍事,朝貢饗給機能に加え,交易,物資集積管理,生産,居住,宗教,祭祀などの機能を,複合的かつ集約的に有した地域支配拠点であった実態が把握されている。特に,継続的に操業する城柵内生産施設を有して周辺地域開発の拠点として機能した点については,出羽国北部城柵の地域的な特徴として指摘される。
古川, 一明 Furukawa, Kazuaki
東北地方の宮城県地域は,古墳時代後期の前方後円墳や,横穴式石室を内部主体とする群集墳,横穴墓群が造営された日本列島北限の地域として知られている。そしてまた,同地域には7世紀後半代に設置された城柵官衙遺跡が複数発見されている。宮城県仙台市郡山遺跡,同県大崎市名生館官衙遺跡,同県東松島市赤井遺跡などがそれである。本論では,7世紀後半代に成立したこれら城柵官衙遺跡の基盤となった地方行政単位の形成過程を,これまでの律令国家形成期という視点ではなく,中央と地方の関係,とくに古墳時代以来の在地勢力側の視点に立ち返って小地域ごとに観察した。
園田, 直子 Sonoda, Naoko
19世紀半ばにモーヴという合成染料が発明されてから,色の歴史は大きな変革を迎えた。とくに20世紀に入ってからは,従来の無機顔料に匹敵する堅牢性を持つ合成有機顔料が数多く出現している。これらの合成有機顔料は,今世紀半ばまでは専門家用絵具の素材としてはほとんど使用されていなかったが,合成樹脂を展色剤とする新しいタイプの絵具が開発され広く使用されるようになるにつれて需要が増えてきた。今では,専門家用絵具に使用されている合成有機顔料は少なくとも70種あまりある。日本のメーカーとアメリカのメーカーのアクリル絵具のマンセル測定値を比較してみると,現代の絵具の特徴として,色の多様性と同時に色の彩度が高いということがあげられる。また,色の傾向の差が最もはっきりでたのは赤色の絵具においてであった。現在総合的な便覧に登録されている顔料でも,専門家用絵具に使用されている顔料でも,種類が最も豊富にあるのは赤色の顔料であることから,現代の絵具の色を比較検討する場合,このように広い選択肢の中からどの赤色顔料,すなわちどのような赤の色を選択したのかということが,個々の違いを最も端的にあらわす要素ではないかと考えられる。
彦坂, 佳宣 HIKOSAKA, Yoshinobu
九州での活用体系は,上一段型・上二段型のラ行五段化,下二段型の保持,ナ変の五段化の傾向が強く,サ変・カ変を除けば五段と二段の二極化とされる。本稿は『方言文法全国地図』の関連図を,(1)活用型によるラ行五段化率の序列,(2)二極化に関する諸事象,の組み合わせから分析し,従来の研究に加え九州に特有の音変化傾向も二極化と地域差の形成に強く関与したことを論じた。また,近世以降の方言文献を参考に,これが近世末辺りから生じたことを推測した。
ルィービン, ヴィクター
ロシアのサンクト・ペテルブルグにおける日本語教育、日本研究の歴史は、一八世紀初頭、ピョートル一世がカムチャッカに漂着した日本人水夫デンベイ(伝兵衛)をシベリア、モスクワを経由して招き寄せ、日本語クラスを開かせたことをもって嚆矢とする。
稲賀, 繁美
本稿は、一八世紀から一九世紀前半を中心として、日本にどのような西洋の知識が書物を介してもたらされ、それがどのように利用されたのかを、簡単に振り返ることを目的とする。眼鏡絵と浮絵の成立とその背景、蘭学の興隆と視覚世界の変貌、解剖学と光学装置が知識に及ぼした影響、腐蝕銅版画の創世とその伝播、浮世絵への舶来知識の応用と、その成果、とりわけそこに発生した原典の換骨奪胎の有様を、先行研究を参照しつつ具体的に検討する。視覚情報と視覚形式とが、狭い意味の美術の枠を越えて、いかに複数の文化の間を往還したのか。こうした観点からは、従来の美術史記述とは異なった文化史を構想することができるだろう。
武井, 弘一 Takei, Koichi
近世に生きた村老たちの治水論に迫ることで、洪水・水害と村社会との関係のありようを問う。これが小稿の課題である。村老として注目したのは、加賀藩の篤農家・土屋又三郎と享保改革の地方巧者・田中丘隅の二人である。新田開発が進む17世紀には、河川流域にまで耕地が広がっていなかった。したがって、川の氾濫は、ヒトへ与える危害が少ない洪水だった。一方、耕地の開発がピークに達していた18世紀前半には、河川の流域にまで村々は広がり、人々は水害に悩まされ続けた。すなわち、新田開発は、近世日本を「水田リスク(人為型危険)社会」に巻き込んだといえよう。
Smits, Gregory スミッツ, グレゴリー
昔から、琉球は人々の空想や願望を反映させる空白の画面として機能してきた。ここでこの現象の一側面、すなわち琉球は平和主義の王国であり、軍や警察力を持たなかったという考えについて述べる。このエッセイは4つの主要部分で構成される。最初は沖縄の平和主義という現代神話の考察である。次に、琉球の平和主義の神話は事実に基づく根拠がないということを明らかにするために、琉球軍の構造体や武器、戦闘などを見てみる。その後、「沖縄は平和主義の歴史がある」という神話の19世紀から、20世紀初期までの展開を論じる。最後に架空の構造としての沖縄・琉球について結論する。
吉岡, 康暢 Yoshioka, Yasunobu
鹿児島県徳之島カムィ窯の中世須恵器は,中国陶磁,九州西部産の石鍋とともに,南西諸島における貝塚時代からグスク時代への転換を具象するモノ資料として注目されてきた。小稿は,1984年度の調査資料について,型式分類とおおづかみな編年区分を提示し,ヤマト列島の東播(とうばん),常滑(とこなめ),珠洲(すず)の諸窯と並ぶ広域窯でありながら,中・小形壺を主産品とする器種組成の特質と,従来からいわれてきた,高麗陶器を主,中国陶磁を従とする技術・意匠を具体的に検討する。その上で,11世紀後半~12世紀前半の環東アジア世界における“人・モノ・技”の交流の実態とシステムの解明に向けた予察を試みる。
塩原, 佳典
一九世紀後半は、「博覧会時代」ともいわれる。ヨーロッパで始まった万国博覧会を契機として、博覧会ブームが世界に広がっていく。その波を受け、明治維新後の日本でも各地で博覧会が催されていった。
荒木, 敏夫 Araki, Toshio
古人皇子は,舒明天皇の皇子であり,母は蘇我馬子の娘の蘇我法提郎女である。本稿は,こうした存在の古人皇子を,これまで明らかにされてきた7世紀の王権の制度的事実を踏まえて,その歴史的位置を確かめてみるものである。
高橋, 圭子 東泉, 裕子
漢語名詞「無理」は、15世紀頃には「理(ことわり)無し」という文字通りの意味から副詞的な「強いて」という意味・用法に拡張し、17世紀頃には「困難である」「できない」という意味でも用いられるようになってきた。さらに、現代に入り、文法的接辞を伴わない「無理」の裸の形式や「無理無理」などの重複形式による、断り・不承諾の意味を表す応答表現としての用法や副詞用法が観察されるようになる。また、インターネットを中心に「耐えきれないほど素晴らしい」という肯定的意味の用法も出現してきた。このような「無理」の歴史を各種コーパスからたどり、語用論的標識の発達という観点から考察した。
広瀬, 真紀 HIROSE, Maki
2004年末で臭化メチルが全廃したことにより、アーカイブズをはじめとする資料保存機関はその対応に迫られることとなる。これが一つのきっかけとなり、薬剤に頼った燻蒸から薬剤を用いない生物被害対策の模索が始まった。農業の分野から誕生したIPM(Integrated Pest Management)は、薬剤を用いることなく、清掃の徹底、資料の目視点検などの日常的な取り組みを計画立てて実践することでその害を減らしていこうとするものであり、様々な機関で採用されることとなる。その他、窒素殺虫処理、二酸化炭素殺虫処理など薬剤を用いない殺虫方法も徐々に確立されつつある。
蓑島, 栄紀 MINOSHIMA, Hideki
最近,知床半島における神功開宝の出土,根室半島での秋田産須恵器の出土などの新たな知見により,8~9世紀の本州・国家と北海道との交流の様相が改めて脚光を浴び,そのなかで出羽国・秋田城の果たした役割も問いなおされている。
澤田, 秀実 齋藤, 努 長柄, 毅一 持田, 大輔 Sawada, Hidemi Saito, Tsutomu Nagae, Takekazu Mochida, Daisuke
本稿では中国四国地方で出土した6~7世紀の銅鋺の考古学的知見とともに鉛同位体比,金属成分比の分析結果を報告し,あわせてその分析結果から派生する問題として国産銅鉛原材料の産出地と使用開始時期について言及した。
大隅, 亜希子 Osumi, Akiko
古代社会における布とは,衣服や工芸品の材料のみでなく,貨幣価値をもつ財貨であった。そのため,産地,品質の異なる製品を,一定の規格に統一して,「端」「段」などの単位で管理していた。調布,庸布とよばれた古代の布とは麻布である。調布1端は,長さ4丈2尺,幅2尺4寸に規格され,庸布1段は,長さ2丈8尺,幅2尺4寸であった。「端」と「段」とは,数える品物,規格も異なる単位であるが,10世紀になると,「端」と「段」との書き分けが曖昧になる。11世紀以降には,その区別は消滅し,「端」と「段」とが混用されている。
仁藤, 敦史 Nito, Atsushi
本稿では、古代の文書を成り立たせている諸要素について考察を加えた。具体的には、漢字運用に対する習熟、暦の導入・普及、印章制度の導入、文書形式の統一などである。いずれも七世紀後半以降に充実化してくることが確認された。
中久保, 辰夫 Nakakubo, Tatsuo
本論は,日本列島・古墳時代および韓半島・三国時代の古墳・集落出土土器資料を対象に,5世紀代における栄山江流域を中心とする全羅道地域と日本列島中央部に位置する近畿地域との相互交流の実態を探ろうとするものである。そのために,次に述べる考古資料を対象に分析をおこなった。第一に,5世紀代における東アジア情勢を概観したうえで,????・有孔広口小壺という儀礼用土器に着目して,この土器が5世紀代に日本列島広域と全羅道地域を中核とする韓半島各地に共有される考古学的現象を捉えた。第二点目として,2000年代以降,栄山江流域を中心に資料数が増加した須恵器の時期比定を再検討し,日本列島における須恵器生産の再評価も加味して,須恵器に関しても日本列島と百済・全羅道地域の相互交流を確かめた。以上の土器からみえる相互交流は,近畿地域において有機的な関係をもって展開する集落出土韓半島系土器,手工業生産拠点,初期群集墳の動態と結びつけて捉えることが可能である。そこで第三の論点として,土器,集落,小規模古墳に関する近年の研究動向をふまえた上で,百済・栄山江流域との相互作用が,近畿地域内部における社会資本投資を促したという理解を提示した。
白石, 太一郎 Shiraishi, Taichiro
七世紀から八世紀頃、奈良盆地内の交通の要衝には、衢(ちまた)とよばれ、市が立ち、多くの人びとが集まる場所があった。下ツ道と阿部・山田道の交叉点の「軽衢(かるのちまた)」、同じく下ツ道と横大路の交叉点の「八木衢(やぎのちまた)」、横大路と山辺道、さらに難波との水路として機能を果たした初瀬川などが交わる付近にあった「海石榴市衢(つばいちのちまた)」、横大路の西端で河内に至る大坂越えの大津道と竹内越えの丹比道に分岐する「当麻衢(たいまのちまた)」、上ツ道と竜田道が交叉する「石上衢(いそのかみのちまた)」などが知られる。『日本書記』『霊異記』などによると、これらの衢には交通の要衝として厩などの施設がおかれ、また市が立つほか、葬送儀礼を含むさまざまな儀礼の場でもあった。そこでは相撲などの遊戯もおこなわれ、また歌垣など男女交際の空間としても機能し、さらに刑罰執行の場でもあり、人びとへの情報伝達の場でもあった。まさに多くの人びとの交流空間の広場として重要な役割をはたしていたのである。これらの衢は、遅くとも七世紀の初めには出現していたものと想定され、藤原京以前に成立していたことは疑いない。
五十川, 伸矢 Isogawa, Shinya
鋳鉄鋳物は,こわれると地金として再利用されるため,資料数は少ないが,古代・中世の鍋釜について消費遺跡出土品・生産遺跡出土鋳型・社寺所蔵伝世品の資料を集成した。これらは,羽釜・鍋A・鍋B・鍋C・鍋I・鉄鉢などに大別でき,9世紀~16世紀の間の各器種の形態変化を検討した。また,古代には羽釜と鍋Iが存在し,中世を通じて羽釜・鍋A・鍋Cが生産・消費されたが,鍋Bは14世紀に出現し,次第に鍋の主体を占めるにいたるという,器種構成上の変化がある。また,地域によって異なった器種が用いられた。まず,畿内を中心とする地方では,羽釜・鍋A・鍋Bが併用されたが,その他の西日本の各地では,鍋A・鍋Bが主要な器種であった。一方,東日本では中世を通じて鍋Cが主要な煮沸形態であり,西日本では青銅で作る仏具も,ここでは鉄仏や鉄鉢のように鋳鉄で製作されることもあった。また,近畿地方の湯立て神事に使われた伝世品の湯釜を,装飾・形態・銘文などによって型式分類すると,河内・大和・山城などの各国の鋳造工人の製品として峻別できた。その流通圏は中世の後半では,一国単位程度の範囲である。
フランク, ベルナール 仏蘭久, 淳子
一九八九年、久しく失われていた法隆寺金堂西の間阿弥陀三尊の脇侍、勢至菩薩がパリの国立東洋美術館(ギメ美術館)で発見された。金堂内には七世紀、すでに中壇、東壇と並んで立派な壇と天蓋が西方仏のために造られていた。ところがそこは空席で何世紀かを経て、鎌倉初期(一二三一年)に仏師康勝によって、中・東壇に匹敵する大きさの阿弥陀三尊が造られた。なぜこの時代にこのような事業が行われたか?明治以後擬古形式としてあまり顧みられなかったこの阿弥陀三尊は、実は造立当時の革新的な思想を表していた。浄土教と太子信仰の盛り上り、真言宗とのかかわり、本地垂迹思想などがその背景にあり、阿弥陀三尊は金堂内で重要な位置を占めていたのである。
官, 文娜
日本古代国家の成立から律令制の完成にかけての時期と見なされる六世紀から八世紀半ばにかけては、王位をめぐる争いが頻発した時期であると同時に王位の継承に関してもさまざまな特色を持つ、波乱に富んだ時代である。この時期、王位継承の最大の特徴は兄弟姉妹による継承である。一部の研究者はその姉妹を含んだ兄弟による継承を、直系継承制中の「中継」と考えていた。しかし筆者はその見解には賛成できない。以下、日本のこの時代の王位継承の実態、また中国古代の継承制における「兄終弟及」、直系継承およびそれを実行する条件、日本の女性継承などの問題について検討し、さらに日本古代社会における王位継承の特質を中心に血縁集団構造の分析もあわせて行いたい。
鈴木, 康之
草戸千軒町遺跡は,広島県福山市に所在する13世紀中頃から16世紀初頭にかけて存続した集落の遺跡である。この集落は福山湾岸に位置する港湾集落で,鎌倉時代には「草津」,室町時代には「草土」などと呼ばれていたと考えられる。遺跡は,文字資料では明らかにしがたかった中世における民衆生活の実態を明らかにしたことが評価され,集落の住人は文字資料に記されることのない庶民が主体であったと考える傾向が強かった。しかし,発掘調査の成果にもとづき,集落の変遷過程を地域社会の動向のなかに位置づけていくと,集落の成立・停滞・再開発・終焉といった画期に,武家領主の動向が大きく影響をおよぼしていたことが考えられるようになった。
渡辺, 祐子
近代中国におけるキリスト教伝道が列強本国の対清政策にどのように関わったのかという問題は、より普遍的なキリスト教と帝国主義の問題として、二十一世紀に入った今もなお、あるいは今だからこそ問われなければならないテーマであると思われる。
藤島, 綾
鉄心斎文庫は、三和テッキ株式会社社長であった芦澤新二・美佐子氏夫妻が半世紀以上の歳月をかけて蒐集したコレクションである。戦後の高度経済成長期に気鋭の実業家として活躍した新二氏は、歴史、芸術、文学などに対する深い造詣を持つ文化人でもあった。
小泉, 和子 Koizumi, Kazuko
「歴博本江戸図屏風」の右隻第五扇と六扇の下部に人形を並べた家が描かれているが、この家は人形店であること、しかも並べてあるのは当時、幼児の疱瘡除けとして使われた土人形か張り子の赤物であるということがよみとれる。この場所は浅草寺の門前通りであると判定されるが、この地域は江戸時代から近代に至るまで人形産地であった。このことは貞享四(一六八七)年の『江戸鹿子』をはじめとして幾多の地誌類によって確認される。しかも当初は素朴な土人形や張り子人形であって、後世のいわゆる雛人形とよぶ着付け雛にかわるのは一八世紀前期の享保年間からだという。するとこの情景は、素朴な人形として描かれていることからみてすくなくとも一八世紀にまで下がることはないだろう。
前川, 喜久雄 西川, 賢哉
『日本語話し言葉コーパス』コア中の母音に、声質研究用に各種音響特徴量を付与する試みについて報告する。母音の無声化等によって測定不可能な母音を除いたすべての母音を対象に、F0, インテンシティ, F1, F2の平均値、jitter, shimmer, signal to noise ratio, H1*-H2*, H1*-A2, H1*-A3*等の声質関連情報、さらに発話中の位置に関するメタ情報などを付与し、RDBで検索可能とした。この情報の応用上の可能性を示すために、主要な音響特徴量が発話中の位置に応じてどのような変化を示すかを検討した。F0やインテンシティだけでなく、H1関連指標などにも発話末において一定の値に収束する傾向が認められた。
鈴木, 貞美
本稿は、西田哲学を二〇世紀前半の日本に擡頭した「生命」を原理におく思潮、すなわち生命主義のひとつとして読み直し、その歴史的な相対化をはかる一連の試みのひとつであり、”NISHIDA Kitaro as Vitalist, Part 1―The Ideology of the Imperial Way in NISHIDA’s “Problem of Japanese Culture” and the Symposia on “The World-Historical Standpoint and Japan” (“Japan Review” No. 9, 1997)の続稿にあたる。
武廣, 亮平 Takehiro, Ryohei
八世紀に成立した日本の律令国家は、列島内における未服属集団である「蝦夷」を夷狄身分として位置付け、また現在残されている史料も「蝦夷」をこのような理念的な立場から捉えているものが多い。しかしその一方で「蝦夷」という人間集団に対する認識も一定であったとは考えられず、国家によって実際に行なわれる「蝦夷」政策とその展開の中で、「蝦夷」認識も変化していったと思われる。
春成, 秀爾 Harunari, Hideji
近畿地方の弥生V期(2世紀)の壺形土器には,円形,直線形,三叉形,弧形などの記号を,箆描き沈線や竹管紋・浮紋で表現した例が知られている。これらの記号の大部分は,当初から抽象化された記号として出発したとする説が有力である。
武田, 恵理 TAKEDA, Eri
明治以前に関してはなかなか取り上げられることの少ない油絵技法の変遷について、文献と実際の作例からたどった。七、八世紀にはシルクロードを通って伝来した仏教とともに乾性油を使用した描画技法の漆工作品がもたらされた。しかし漆工の一種としてであって絵的には発展していない。
高木, 浩明 TAKAGI, Hiroaki
稿者はこれまで、中世末から近世初期の学問・学芸・出版の実態と背景をより明確なものにするため、主に古活字版の総合的かつ網羅的な調査、研究を行ってきた。古活字版として刊行された作品のテキストは、一体どのような環境のもとで生み出されたのか、底本の入手、本文校訂、刊行を可能にした人的環境について、史資料を駆使して考察してきた。古活字版の研究をする上で必読の文献が川瀬一馬氏の『増補古活字版之研究』(ABAJ、一九六七年、初版、安田文庫、一九三七年)であるが、同書が刊行されて既に半世紀になる。調査を進める過程で、川瀬氏の研究の不備や遺漏を少なからず見出す(川瀬氏の研究に未載の古活字版は、すでに90種を超えた)と共に、古活字版全体の調査をやり直す作業がぜひとも必要であると実感し、近年は古活字版を所蔵する機関ごとの悉皆調査という壮大な事業に単身取り組んでいる。六四機関において調査を終えた一〇八〇点の詳細な書誌データについては、「古活字版悉皆調査目録稿(一)~(九)」としてまとめ、鈴木俊幸氏編集の『書籍文化史』、第一一集から第一九集(二〇一〇年一月~二〇一八年一月)に連載し、研究者間での情報共有を図ってきた。本稿はこれに続くもので、国文学研究資料館における国際共同研究「江戸時代初期出版と学問の綜合的研究」(研究代表者:ピーター・コーニツキー・ケンブリッジ大学アジア中東研究学部名誉教授、二〇一五年~二〇一八年)に参加して、国文学研究資料館所蔵の古活字版の悉皆調査(現在整理中の川瀬一馬文庫は除く)をさせていただくことができた。その成果の一部である。附録として、隣接の研究機関である国立国語研究所が所蔵する古活字版四点と、研医会図書館所蔵の古活字版二二点の書誌データも掲載することにした。
小林, 善帆
十五世紀中期の「たて花」の生成期については詳細な研究がなされておらず、物事においてその発生期を明らかにすることは不可欠のことであるにもかかわらず、当該期の「花」については推論の域を出ることはなかった。本稿では、この時期の連歌・和歌素材に「瓶に挿す花」が使用されたということを糸口に、「たて花」の生成期の様相を、国文学・歴史学の相互関係のなかから考察した。
弓場, 紀知 Yuba, Tadanori
彩釉陶器の誕生は西アジアにおいて始まった。紀元前10世紀ごろの宮殿のタイル装飾に彩釉陶器が用いられたのが最初である。初期はアルカリ釉を媒溶材として用いているが,アケメネス朝ペルシア,ローマ時代には鉛釉が媒溶材として用いられ緑釉陶器や褐釉陶器がつくられた。
熊木, 俊朗 福田, 正宏 國木田, 大 Kumaki, Toshiaki Fukuda, Masahiro Kunikita, Dai
柳田國男が一九〇六年の樺太紀行にて足跡を残した「ソロイヨフカ」の遺跡とは、南貝塚(別名、ソロイヨフカ遺跡)であり、この遺跡はその近隣にある鈴谷貝塚と共に、サハリンの考古学研究史上最も著名な遺跡の一つになっている。これらの遺跡の出土資料を標式として設定された「南貝塚式土器」と「鈴谷式土器」のうち、本論では後者の鈴谷式土器を対象として年代に関する再検討をおこなった。鈴谷式土器は、時代的には続縄文文化とオホーツク文化の、分布や系統の上では北海道とアムール河口域の狭間にあって、これら両者の関係性を解明する上で重要な資料であると考えられてきたが、特にその上限年代が不明確なこともあって年代や系統上の位置づけが定まっていなかった。本論でおこなった放射性炭素年代の測定と既存の測定年代値の再検討の結果、鈴谷式土器の年代はサハリンでは紀元前四世紀〜紀元六世紀頃、北海道では紀元一世紀〜紀元六世紀頃と判断された。この年代に従って解釈すると、鈴谷式土器はサハリンにおいて先に成立し、しばらく継続した後に北海道に影響を及ぼしたことになる。この結論を従来の型式編年案と対比させるならば、以下の点が検討課題として浮上してこよう。すなわち、サハリン北部での最近の調査成果に基づいて提唱されたカシカレバグシ文化、ピリトゥン文化、ナビリ文化といったサハリン北部の諸文化や、アムール河口域と関連の強いバリシャヤブフタ式系統の土器は、古い段階の鈴谷式土器と年代的に近接することになるため、これら北方の諸型式と鈴谷式土器の型式交渉を具体的に検討することが必要となる。また従来の型式編年案では、古い段階の鈴谷式土器は北海道にも分布すると考えられているため、その点の見直しも必要となる。鈴谷式土器を含む続縄文土器や、サハリンの古金属器時代の土器の編年研究においては、今後、これらの問題の解明が急務となろう。
山田, 慶兒
『太清金液神丹経』巻下は、六世紀の錬金術者偽葛洪が書いた、南洋と西域の地理志である。この書は、従来、歴史地理学の資料としてあつかわれてきたが、実はひとりの道教徒が描きだした錬金術的ユートピアにほかならぬことを明らかにし、その幻想の地理的世界像を分析し、再構成する。
大野, 綾佳 ŌNO, ayaka
フランスでは19世紀前半より国立古文書学校が古文書の研究およびアーキビスト養成を担ってきた。一方、大量で多様な現代の行政文書にも対応するため、1990年代より大学、特に修士課程におけるアーカイブズ学教育が顕著に増加した。後者は現場のアーキビストを養成する目的に特化しており、実践力・即戦力を重視している。
東泉, 裕子 髙橋, 圭子
現代日本語において「ゼヒ」は副詞用法が中心であるが、感動詞的用法への拡張も見られる。「ゼヒ」は歴史的に見ると「是」と「非」という漢語の文字通りの意味の名詞から副詞へと意味・用法が拡張し、近代以降に副詞用法の使用頻度が高くなったという。本研究では、書き言葉のコーパスの会話部分ならびに話し言葉のコーパスの会話を利用して、近現代語の会話における「ゼヒ」の用例を調査した。調査の結果、(i)「ニ」を伴わない「ゼヒ」の形式の副詞用法が最も頻度が高く、名詞用法はわずかであること、(ii) 副詞用法の使用比率は20世紀のほうが19世紀後半より高いこと、(iii) 現代語の会話のコーパスでは「ゼヒ」や「ゼヒゼヒ」などの形式で相手の発話への応答としても用いられ、感動詞的用法への拡張が見られることがわかった。
小池, 淳一 Koike, Jun'ichi
本稿は筆記環境の近代化と消費文化の様相を万年筆を通して考えようとするものである。ここではまず,明治の日本において万年筆が販売に際してどのような位置づけであったか,について,丸善における広告宣伝を確認し,特に夏目漱石が書いた「余と万年筆」(1912)をはじめとする万年筆関係の文章を分析した。さらに三越百貨店における万年筆の販売の様相を『三越』『三越タイムス』からうかがい,その特徴について考察した。その結果として,万年筆は筆記の近代化のシンボルとして,明治末から大正の初めにはかなり普及したが,特に三越では舶来品としての万年筆の販売に尽力し,さらに関連する商品も視野にいれ,商品そのものばかりではなく,関連する知識や使用法の啓蒙にも努めていたことが明らかになった。日本における万年筆の歴史,筆記文化の近代を考えるためには,ここで論じた以外にも国産化の過程をはじめとする複眼的な考究が必要であろう。
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