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Shayesteh, Yoko シャイヤステ, 榮子
この小論はルイ14世下のフランスで宮廷作曲家としてtragedie lyrique(音楽悲劇)というフランス独自のオペラを確立したジャンーバテイスト・リュリ(Jean-Baptiste lully 1632-1687)とフランスを代表する喜劇作家のモリエール(Moliere 1622-1673)の短期間の出会い(1644年から1670年)からcomedie-balletを生み出すに到った過程を二人の人生とその時代背景を概観しながら研究したものである。
Delbarre, Franck デルバール, フランク
本論文では三つの学生群(1年生)を対象としたフランス語教育上の長期的実験の最後の段階について述べられています。この実験はフランス語における結果状態表現に(être+過去分詞)に対する暗示的教え方と明示的な教え方による結果の比較を目的としており、それに合わせてフランス語教育対策の改善を促すものです。2010年に発行された著者の論文では日本語の文章を参照してフランス語で動作または結果状態を表す動詞の形態の中から正しいものを選ぶ形のアンケートを通して、明示的な教育を受けたフランス語学習者のほうが暗示的な教育を受けた学習者より日本語に対応したフランス語の正しい動詞の形態を当てることに成功したということが明らかになりました。ですが、長期的にはその明示的な教え方の影響が続いているかどうか解明するためには、最初の段階のアンケートが行われた一か月間以上後にあらためてそれらのアンケートに類似した日本語の文章を載せた日仏訳の問題を同じ学習者に受けさせました。今回の日仏訳の形で行われたのは自ら結果状態を表すフランス語の動詞形態が正しく作成できるかどうか確かめるためなのです。この形でも、明示的な教育を受けた学習者群による成功率のほうがはるかに高いという事実が明らかになりました。しかし、その結果が学習環境によって変わるかどうか確かめるためにはほかの大学で行う必要があるでしょう。
吉本, 弥生
明治後期、日本の美術界においてフランスやイギリスと同様、ドイツ美術は大きな影響を与えていた。しかし、従来はフランスとイギリスにその重きが置かれ、ドイツからの影響については、あまり大きく取り上げられてこなかった。これは、当時、日本において西洋芸術紹介者としての役割を担っていた雑誌『白樺』とのかかわりが考えられる。
大石, 太郎 Oishi, Taro
この小論では、カナダ東部ノヴァスコシア州におけるフランス語系住民アカディアンの居住分布と言語使用状況を現地調査とカナダ統計局のセンサスに基づいて検討した。その結果、農村地域に古くから存在するアカディアン・コミュニティでは英語への同化に歯止めがかかっているとはいえない一方で、郁市地域であるハリファクスでフランス語を母語とする人口や二言語話者が増加していることが明らかになった。これまで教育制度の整備などの制度的支援の重要性が指摘されてきたが、カナダの場合、農村地域に古くから存在するフランス語系コミュニティには遅きに失したと言わざるをえない。その一方で、都市地域が少数言語集団にとって必ずしも同化されやすい地域ではなくなりつつあることが示唆された。
藤原, 貞朗
一八九八年にサイゴンに組織され、一八九九年、名称を改めて、ハノイに恒久的機関として設立されたフランス極東学院は、二〇世紀前半期、アンコール遺跡の考古学調査と保存活動を独占的に行った。学術的には多大な貢献をしたとはいえ、学院の活動には、当時インドシナを植民地支配していたフランスの政治的な理念が強く反映されていた。
Beillevaire, Patrick ベイヴェール, パトリック
1857年、通商条約締結の前夜、明治期の富国強兵論の先駆けとなった薩摩藩主・島津斉彬は、西洋諸国との密貿易計画を側近の家臣に明かした。江戸幕府への対抗策となるこの大計画には、蒸気式軍艦や武器の入手以外に、西洋への留学生派遣や海外からの指導者招聘という目的もあった。計画の実施には、江戸幕府の監視外にあった琉球王国の承諾が必須であった。斉彬がフランスを貿易相手国として最適とした理由には、フランス人宣教師が琉球に滞在していたこと、1855年に国際協定(琉仏条約)が締結されていたこと、そして1846 年に、フランスが琉球との間に通商協定を結ぼうとしていたということが挙げられる。目的の達成へ向けて、1857年秋に西洋科学技術の専門家である市来四郎が琉球へ派遣され、板良敷(牧志)朝忠などの有力人物を含む現地の協力者と共に、斉彬の命を遂行する重責を担った。1858 年、琉球王国の執行部にも重要な変化が生じる一方で、市来四郎は、滞琉中のフランス人と連携し、その協力を得て1859年夏までに軍艦や武器の他、多種多様な装備品が那覇へ届くように手配した。しかし全く想定外なことに、軍艦が琉球に到着するまであと2週間というところで斉彬の死去という訃報が届いた。また島津の後継者は、この事業の即刻中止を通達した。本論文では、薩摩藩が着手しようとしていた対フランス貿易について、数少ないフランス側史料を英訳して解説すると同時に、その内容を日本側の史料と照合していく。
大石, 太郎 Oishi, Taro
この小論では、カナダの英語圏都市におけるフランス語系住民の社会的特性を、ノヴァスコシア州ハリファクスを事例に、質問紙調査に基づいて検討した。その結果、ハリファクスのフランス語系住民は、高校卒業時点までは出生した州内に居住している割合が高く、高学歴であり、二言語能力を義務づけられたポストについている例が比較的多く、就業を主な要因としてハリファクスヘ移住している、という社会的特性をもつことが明らかになった。ケベック州出身者が多く、帰還移動の意思を持つ人も多いという点はコミュニティ発展の不安定要素といえるが、現時点ではフランス語系住民のこうした社会的特性が少数言語維持に対する制度的支援をより効果的にしており、カナダの英語圏都市における二言語話者の増加につながっていると考えられる。
瀧, 千春 TAKI, Chiharu
本稿は、フランス海外県公文書館およびフランス国立図書館にて収集されたラオス関連資料を紹介し、本資料がラオスの歴史と生態史を考える上でどのように利用可能であるかを考察することを目的とする。本資料は森林関係、農業関係、行政関係、交通網関係、税・賦役・公共工事関係、地方関係、旅行記と分野も多岐に亘り、資料の形態も書簡・報告書・雑誌記事・地図・商業リストなど様々である。本稿ではこれらの分類と内容を紹介しつつ、今後どういった利用が可能であるかを考えてみたい。
Delbarre, Franck
本論は主にフランスのビュジェ地方でまだわずかに話されているフランコプロヴァンス語(アルピタン語)の方言(特にヴァルロメ―方言)における助動詞étrè(フランス語だとêtre)とavaîl’(フランス語だとavoir)のシンタックスについて述べている。本論で使った例文は現在の方言話者によって書かれた資料に基づいたものなので、現代的な方言による助動詞の用法に対するイメージを与えることを目的とする。ビュジェ―地方のフランコプロヴァンス語諸方言におけるシンタックスは根本的に現代フランス語とあまり異なっていないことを確認してから、特にヴァルロメー方言の助動詞étrèとavaîl’ が持つ音声的な特徴とその記述方法にも焦点を当てる。一応、フランコプロヴァンス語においてはStich(1998)が提案したフランコプロヴァンス語の諸方言に対する統一記述法以外、各方言は相変わらず以前からの記述法方を使っているか、最近方言を記述するために作られた特有の記述方法を使っている。ヴァルロメー方言の場合には、ある程度フランス語に似たスペルが使われているが、その記述法方には不安定要素があるので、たびたび何が正しいスペルかという問題が出る。スペル問題は語彙自体のみではなく、文法項目にも影響を与えている。それは特にフランス語文法においてリエゾンと呼ばれる現象の記し方だ。例えば、avaîl’の過去分詞のスペルにはもともとリエゾンとして記されている音便文字のz’が現れるが、この文字(音素)は本当にリエゾンの役割を果たしているものかどうかについて調査する。特にビュジェ―地方のヴァルロメー方言を記録した資料を中心に、助動詞étrèとavaîl’ に関してこのような簡潔だが、画一的な分析と描写が行われたのは初めてである。その特性が本論に重要性を与えるが、今後のビュジェ―地方のフランコプロヴァンス語諸方言に対するシンタックス研究の第一歩に過ぎないであろう。
Delbarre, Franck デルバール, フランク
筆者はこれまでに、フランコプロヴァンス語域における諸方言の書記法の歴史について論文で取り上げた。本稿では新たな試みとして、ビュジェー地方南部で話されている(いた)フランコプロヴァンス語の諸方言の書記法、文字の特徴、多様性について、現代フランス語との比較を行う。結果として現れた特徴の内、現代フランス語にも存在するリエゾンが、ビュジェー地方のフランコプロヴァンス語の諸方言においてどのように記されているかを検証する。それにより本研究は、フランコプロヴァンス語の諸方言研究の一助となろう。
二村, 淳子
本研究ノートは、フランス語日刊紙『東方月報(France-Indochine)』上で、岡倉覚三の英文三部作(『東洋の理想』『日本の覚醒』『茶の本』)を賞賛し、その思想に同意を示したファム・クイン(Phạm Quỳnh/笵瓊、一八九二~一九四六)の書評の日本語訳と解題である。
三島, 禎子
本稿はソニンケのアジアへの移動についての報告であるとともに,フランスへの労働移動ゆえに出稼ぎ民として位置づけられてきたソニンケ移民をディアスポラの概念との比較のなかで捉えなおす試みである。
田中, 幸子 常盤, 僚子 茂木, 良治 TANAKA, Sachiko TOKIWA, Ryoko MOGI, Ryoji
フランシュコンテブザンソン大学(フランス)との共同研究として,日本人フランス語学習者を対象にテレビ会議システムとコースツールWebCTを利用した遠隔学習プログラムを実施し,遠隔学習環境における学習形態と学習者の学習過程を検証した。その結果,学習者はITツールの利用によりコミュニケーションや学習の機会を以前より多く得るが,一方で言語学習上の問題だけではなく,技術的な問題,学習方法にかかわる問題,情意的問題に直面することが確認された。これらの問題に対処するため,支援者の役割が多岐に渡ることが明らかとなった。支援者の役割について詳細に検討し,遠隔学習プログラムを構築・運営,カリキュラム化するための方策を提示する。
Delbarre, Franck
筆者はこれまでに、フランコプロヴァンス語域における諸方言の書記法の歴史と様々な文法項目(冠詞の形態論、助動詞のシンタクスなど)について論文で取り上げた。本稿では新たな試みとして、ヴァルロメー方言を中心にビュジェー地方南部で話されている(いた)フランコプロヴァンス語の諸方言における代名詞の形態とシンタクスの特徴について、現代フランス語とその他のビュジェー地方の方言の対比を行う。本論はとりわけフランス語文法にない倒置代名詞と主語の第一人称代名詞の脱落減少にも焦点を当てる。結果として現代ヴァルロメー方言の文法仕組みが認識できるだろう。それにより本研究は、フランコプロヴァンス語の諸方言研究の一助となろう。
柴田, 依子
一九世紀後半に日本の美術・工芸品が輸出されてジャポニスムの流行をもたらし、フランスの印象派の画家たちに多大な影響を与えた。その流行が終わる頃の二〇世紀の初頭に、俳句(俳諧)はヨーロッパに紹介された。
関沢, まゆみ Sekizawa, Mayumi
本論文ではまず国立歴史民俗博物館『戦争体験の記録と語りに関する資料調査』(全四冊、二〇〇三・二〇〇四年)のデータから、戦没兵士に対して、生還した帰還兵士の場合と、戦没兵士の遺族の場合との両者において、それぞれどのように彼らの死が受け止められているのか、その対応についての分析を行った。両者共に「体験した人にしかわからない」という語りの閉鎖性が特徴的であった。そこで、戦争と死の記憶と語りの特徴をより広い視点から捉えなおす試みとして、日本における戦没兵士や広島の原爆被災者に関する語りを含めて、さらにフランスの、ナチスによる住民虐殺が行われた二つの町の追悼儀礼の事例調査を行い、日本とフランスとの差異についての考察を試みた。論点は以下の三点にまとめられる。第一に、戦争体験の記憶には大別して、「死者の記憶」と「事件の記憶」の二つのタイプがある。死者の記憶の場合には、戦闘員個々人に対して追悼、慰霊の儀礼が行われる。それに対して事件の記憶の場合には、一つは非戦闘員の大量死である悲惨な虐殺、もう一つは戦闘員の激戦と勝利または敗北、があるが、前者の悲惨な虐殺の場合、たとえばそれはフランスのグエヌゥの虐殺やオラドゥール・スール・グラヌの虐殺から日本のヒロシマ、ナガサキの原爆まで多様な事実があるが、その悲惨は戦争という「愚行」へと読み替えられる。そして、死者の記憶はいわば「個人化される」記憶であり、事件の記憶は「社会化される」記憶であるといえる。個人化される死者の記憶と表象は「死者」への追悼、慰霊の諸儀礼としてあらわれ、社会化される「事件」の記憶は、戦争と殺戮という「愚行」への反省と懺悔の意識化へ、また一方では戦勝の記念と顕彰の行事としてあらわれる。その個人化される記憶の場合には時間の経過とともに体験世代や関係者世代がいなくなれば、記憶の風化と喪失へと向かい、一方、社会化される事件の記憶の場合には世代交代を経ても記憶はさまざまな作用力が介在しながらも維持継承される。第二に、フランスのグエヌゥやオラドゥール・スール・グラヌの虐殺の場合には、死者への追悼とともに彼らのことを決して忘れないという「事実の記憶」を重視する儀礼的再現と追体験とが中心となっているのに対して、日本の場合は、「安らかに眠ってください」という集団的な「死者の記憶」が重視され、その冥福が祈られている。そこには、日本とフランスの自我観・霊魂観の相違が反映していると考えられる。第三に、フランスにおいても日本においても「戦争と死」の記憶の場として民俗的な伝統行事が有効に機能していることが指摘できる。フランス、グエヌゥでは、五月に行われるトロメニにおいてペングェレックという新しいスタシオンを組みこんでおり、広島と長崎の場合、八月の盆の月に原爆記念日が、そして一五日には終戦記念日が重なって、死者をまつる日となっている。
大野, 綾佳 ŌNO, ayaka
フランスでは19世紀前半より国立古文書学校が古文書の研究およびアーキビスト養成を担ってきた。一方、大量で多様な現代の行政文書にも対応するため、1990年代より大学、特に修士課程におけるアーカイブズ学教育が顕著に増加した。後者は現場のアーキビストを養成する目的に特化しており、実践力・即戦力を重視している。
林, 洋子
両大戦間の日本とフランスの間を移動しながら活躍した画家・藤田嗣治(一八八六―一九六八)は、一九二〇年代のパリで描いた裸婦や猫をモティーフとするタブローや太平洋戦争中に描いた「戦争画」で広く知られる。しかしながら、一九二〇年代末から一九三〇年代に壁画の大作をパリと日本で複数手がけている。なかでも一九二九年にパリの日本館のために描いた《欧人日本へ到来の図》は、画家がはじめて本格的に取り組んだ壁画であり、彼にとって最大級のサイズだっただけでなく、注文画ながら異国で初めて取り組んだ「日本表象」であった。近年、この作品は日本とフランスの共同プロジェクトにより修復されたが、その前後の調査により、当時の藤田としては例外的にも作品の完成までに約二年を要しており、相当数のドローイングと複数のヴァリエーション作品が存在することが確認できた。本稿では、この対策の製作プロセスをたどることにより、一九二〇年代の静謐な裸婦表現から一九三〇年代以降の群像表現に移行していくこの画家の転換点を考える。
藤井, 聖子 佐々木, 倫子
日本語教育センター第二研究室では、現在、英語、スペイン語、ポルトガル語、フランス語それぞれの言語に関して、日本語との対照研究を進めている。日英対照としては、現時点では、談話・語用論上の対照を押し進めるため、会話スタイルの分析を行っている。日西では、統語現象と意味の問題を取り上げている。日葡対照としては、ブラジル人と日本人との言語接触の局面を、社会言語学的アプローチで調査している。日仏では、音声、特にアクセント、イントネーション、音声言語コミュニケーションに付随するジェスチャーを取り上げ、音声及びパラ言語の領域における対照を進めている。
野田, 尚史 NODA, Hisashi
イギリス,ドイツ,フランス,スペインの上級日本語学習者40名と日本語母語話者20名を対象に,日本語で書かれたウェブサイトのクチコミを読んでもらい,その解釈を母語で語ってもらう調査を行った。その結果,ヨーロッパの日本語学習者と日本語母語話者では違う解釈をすることがあることが明らかになった。次の(a)と(b)のような違いである。
石井, 香絵 ISHII, Kae
明治二一年、フランス留学から帰国した合田清は、洋画家山本芳翠とともに生巧館を設立し、日本に本格的な木口木版の技術をもたらした。初期の新聞附録から雑誌の表紙、挿絵、口絵、教科書の口絵、挿絵、広告、商標、パッケージなどの多くの複製メディアに登場し、生巧館は出版文化の隆盛とともにその活動が広く知られることとなった。しかしその全貌については不明な点が多く、研究も充分には進められていない。
今谷, 明
アメリカ、フランス、オランダ、ドイツ各国に於ける日本史研究の現状と特色をスケッチしたもの。研究者数、研究機関(大学など)とも圧倒的にアメリカが多い。ここ十年余の期間の顕著な特色は、各国の研究水準が大幅にアップし、殆どの研究者が、翻訳資料でなく、日本語のナマの資料を用いて研究を行い、論文を作成していることで、日本人の研究者と比して遜色ないのみか、医史学など一部の分野では日本の研究レベルを凌駕しているところもある。
山梨, 淳
本論は、フランス人画家ジョルジュ・ビゴーが、滞日中に発表した反教権的諷刺画を取り上げる。ビゴーの諷刺画は明治日本の社会や風俗を鋭く描いた作品として現在広く認められているが、彼が同国人のカトリックの宣教師や修道士に対して諷刺を行っていたことはあまり知られてはいない。本論は、ビゴーの雑誌『トバエ』(第二期、第四一号、一八八八年)に掲載されたマリア会に対する諷刺画と、『ル・ポタン』(第二期、第二号―六号、一八九二年)に掲載されたフェリクス・エヴラール神父(パリ外国宣教会)の諷刺画を研究対象に取り上げ、これらの作品の製作動機、内容、受容状況を明らかにすることを目的としている。
Delbarre, Frank
70年代において執筆されたベタン村のフランコプロヴァンス語方言を対象とした論文と20世紀の初めに執筆されたビュジェー地方のフランコプロヴァンス語(アルピタン語)方言についての様々な研究論文は主に当該諸方言の形態論について述べるものが多い。それに対し、戦前まで幅広く東フランスで話されていたフランコプロヴァンス語のシンタクスに関する研究はとても少ない。最新と言えるスティーヒによって苫かれたParlons francoprovenral (1998) でもシンタクスより形態論と語疵論の方に焦点を当て、フランス語とその他の現代のロマンス形の諸言語と比べると、フランコプロヴァンス語の特徴の一つである分詞形容詞の用法についてはほとんど何もit-いてない。この文法項旧については2o lit紀において害かれた諸論文でもデータの分析より著者の感想の方に基づいたコメントの形をとっており、納得力の足りないものになっている。本論は2015年に発行されたL'accorddu participe passe dans Jes dialectesfrancoproven~aux du Bugey (ビュジェー地方のフランコプロヴァンス語方言における過去分詞の~)に続き、Patoisdu Valromey (2001) の文苫コーパスの分析をもとに、現代ヴァルロメ方言における分詞形容詞の用法を定義することを目的とする。本論のメリットはその他の現在までのビュジェー地方のフランコプロヴァンス語の論文と比べると、例文を多く与え、ヴァルロメ一方言のコーパスの分析から作成した言語的統計の提供である。
鈴木, 淳 SUZUKI, Jun
フランスの自然文学者で美術批評家のエドモン・ド・ゴンクールの『北斎』は、前人未踏の研究成果である。本書は、北斎を、優れたデッサン画家として捉え、十八世紀のフランスに輩出した画家たちの延長上に位置づけ、その絵本、版画、摺り物、肉筆に渉る全作品を網羅的に叙述したものである。近時、本書は、木々康子、鈴木重三、小山ブリジットらの研究によって、パリの骨董商で、ジャポニズムの火付け役を演じた林忠正とS・ビングとの協力、確執といった側面から論及することによって、研究の進展が図られてきた。本稿では、ブラックモンやゴンクールらがいかに北斎に辿り着き、その研究を達成させたかの追求を試みると同時に、ゴンスやデュレなどのジャポニザン、フェノロサ、ラファージらの米国の美術批評家との北斎評価をめぐる対立を振り返ることで、北斎を見出したのが、グラビア美術作家らの愛好と探求心の賜物であることを明らかにした。また、ゴンクールの他の著述で注目すべきこととして、『ある芸術家の家』上下巻の北斎に関する記述を論じた。そこで、ゴンクールは、英国のディキンズによる、北斎の略伝と『北斎漫画』初編を初めとする序文の翻訳の敷き写しを試みているが、『北斎』では、ディキンズの影は払拭され、序文の翻訳は、林との協同作業であることが強調されている。その矛盾点の解明を試み、北斎研究に対するゴンクールの功名心のなせるわざという結論に達した。
Delbarre, Franck デルバール, フランク
筆者はこれまでに、フランコプロヴァンス語域における諸方言の書記法の歴史と様々な文法項目(冠詞の形態論、助動詞のシンタクスなど)について論文で取り上げた。本稿では新たな試みとして、ヴァルロメー方言を中心にビュジェー地方南部で話されている(いた)フランコプロヴァンス語の諸方言における代名詞の形態とシンタクスの特徴について、現代フランス語とその他のビュジェー地方の方言の比較を行う。結果として現代ヴァルロメー方言のの仕組みがどういう風に代名詞の形態とシンタクス進化してきたかを認識できるだろう。それにより本研究は、フランコプロヴァンス語の諸方言研究の一助となろう。
Delbarre, Franck デルバール, フランク
筆者はこれまでに、フランコプロヴァンス語域における諸方言の書記法の歴史と様々な文法項目(冠詞の形態論、助動詞のシンタクスなど)について論文で取り上げた。本稿では新たな試みとして、ヴァルロメー方言を中心にビュジェー地方南部で話されている(いた)フランコプロヴァンス語の諸方言における名詞と形容詞の性と数の特徴について、現代フランス語とその他のビュジェー地方の方言の比較を行う。結果として現代ヴァルロメー方言の性と数の仕組みがどういう風に進化してきたかを認識できるだろう。それにより本研究は、フランコプロヴァンス語の諸方言研究の一助となろう。
張, 培華 Zhang, Peihua
日本で古典中の古典と言われている『源氏物語』は、世界文学の名著として、英語、フランス語、ドイツ語、中国語などの多くの外国語に翻訳されている。しかも同じ言語の中でも様々な訳者の新たな翻訳が出版されている。そのうち、翻訳の種類が最も多いのは中国語である。現時点で見られる四種類の英語訳より、倍以上となる十数種類の中国語訳が見える。周知の如く、中国経済発展のおかげで、中国の書籍の装丁も以前より良くなっている。しかし、翻訳の中身はいかがであろう。続々と出版された新たな翻訳はどういうものなのか。
デロワ中村, 弥生 NAKAMURA-DELLOYE, Yayoi
日本語文法研究において助詞は古くから中心的な研究課題であるが,「だけ」「さえ」「も」などの研究は近年とりたてと呼ばれる現象を扱う枠組みで大きく発展してきた。とりたては日本語では主にとりたて助詞により,フランス語では範列導入副詞(Adverbes paradigmatisants)と呼ばれるとりたて副詞により表現されるが,この「とりたて」の働きは他の表現形式によって生じる作用と共通あるいは連続している。本論文では,日本語研究で「とりたて」と呼ばれる文法作用を通して見られるさまざまな品詞,表現間の連続性について考察する。
依岡, 隆児
ドイツ語圏における「ハイク」生成と日本におけるその影響を、近代と伝統の相互関連も加味して、双方向的に論じた。ドイツ・ハイクは一九世紀末からのドイツ人日本学者による俳句紹介と一九一〇年代からのドイツにおけるフランス・ハイカイの受容に始まり、やがてドイツにおける短詩形式の抒情詩と融合、独自の「ハイク」となり、近代詩の表現形式にも刺激を与えていった。一方、日本の俳句に触発されたドイツの「ハイク」という「モダン」な詩が、今度は日本に逆輸入され、「情調」や「象徴」という概念との関連で日本の伝統的な概念を顕在化させ、日本の文学に受容され、影響を及ぼしていった。こうした交流から、新たに「ハイク」の文芸ジャンルとしての可能性も生まれたのである。
神庭, 信幸 Kamba, Nobuyuki
これまで行った調査により,日本人画家が日本国内あるいはヨーロッパの各地で制作した19世紀後半の油彩画の下地は,天然に産出する白亜を主成分とする白亜型,鉛白を主成分とする鉛白型,その他として亜鉛華を含む下地の3種類の系統に分類できることが分った。更に,白亜型下地は日本およびイギリスで制作された作品に多く,鉛白型下地はフランスおよびイタリアにて制作された作品に特徴的であることから,下地の種類と制作地とに強い関連性が存在することも明かとなった。この内イギリスと日本に共通する白亜型下地は,当時の日本の社会的状況や,日本周辺の地層からは白亜が大量に産出しないことなどを考え合わせ,イギリスで生産されたものと判断されるが,多くのカンバスがカンバスマークなどの生産地を特定する記録を持たないためそれを実証することが出来なかった。
島津, 美子 SHIMADZU, Yoshiko
江戸後期以降,欧米から輸入された合成顔料には,従来使われてきた天然顔料と色調の似た顔料があり,群青と呼ばれる二種類の青色顔料がこれにあたる。群青は,工業分野では合成ウルトラマリンブルーを意味し,日本絵画や彩色歴史資料を扱う分野では,藍銅鉱(アズライト)から作る顔料を示す。前者は1828年にフランスで合成方法が確立し,日本にも19世紀後半には輸入されていた。明治期までは「舶来群青」,「人造群青」などと呼ばれたが,工業分野で広く用いられるようになると,接頭語がなくても合成ウルトラマリンブルーを表すようになった。一方,前近代の日本では,アズライトを原料とする青色顔料に,紺青と呼ばれたものもあった。群青よりもこい青色のものを紺青と称したことから,現在の工業分野では合成顔料プルシアンブルーの和名とされている。
Delbarre, Franck デルバール, フランク
本論は本著者によるフランコプロヴァンス語における助動詞のシンタクスについての一連の論文に続き、特にフランスのプティ・ピュジェ一地域で話されているフランコプロヴァンス語のラ・ブリドヮール方言における助動詞êtreを中心に論じる。本論はヴィァネーによるラ・ブリドヮール方言の登録資料に基づき、ヴィァネーの指摘した本方言のシンタクスにおける助動詞êtreの省略現象を分析している。ヴィアネー自身はその現象についてルールと言える説明を簡略的に提供している。だが、ヴィァネーのラ・プリドヮール方言の登録資料の中に載っている方言で書かれた様々な文書を注意深く読んでみると、その説明ではかなり不十分だと感じる。そこで、ヴィァネーのラ・プリドヮール方言の登録資料を使いもっと厳密に助動詞紅白の簡略現象を引き起こす条件を本論で観察することにした。その観察の結果に基づき、ヴィァネーの与えたルール(説明)の修正を試みる。
望月, 直人
劉永福の率いた黒旗軍は、ベトナムでフランス軍相手に善戦したという戦績もあって、とりわけ有名な華人私兵集団である。黒旗軍の拠点ラオカイは、中国・雲南省との境界に位置するベトナムの街であるが、ホン河を通じた貿易ルートの要衝でもあった。黒旗軍はここを通過する商品に通行料を課し、収入源としていた。ラオカイを通過する商品には、ベトナムで算出される海塩が含まれている。もとより、中国では塩は国家の重要な収入源である一方、密売される「私塩」が秘密結社や反乱勢力の資金源となった。本稿は、ベトナム海塩の雲南省へ流入の歴史をたどり、ラオカイにおける通行料収入におけるベトナム海塩の重要性を明らかにし、中国史上の多く現れた「私塩」と深い関係の深い非公然組織の一つとして、黒旗軍を位置づけ直す。
Jenkins, A.P. ジェンキンズ, アントニー P.
オックスフォード大学の歴史教授F.F.Urquhart(皇太子妃雅子様が学ばれたカレッジの教授)が1981年夏、教授所有のフランスアルプスの山小屋へ約20人の学生を招き、読書、ディスカッション、討論を通して専門及び専門外の分野における学生の知識を深めることを目的として始めた。今世紀に入り、オックスフォードの他の2つのカレッジにも読書会は広まった。夏休みにそれぞれのカレッジの学生をフランスアルプスの山小屋へ招き同じ主旨の下に読書会は実施されている。計画・運営された教授には著名なSir Roger MynorsやSir Christopher Cox等もふくまれている。参加した学生の中には後日の英国首相二人、カンタベリー大聖堂の大司教、更にLord Clarkのような著名な学者の卵も大勢いた。\n1989年以来、琉球大学においても英語専攻の学生を対象に、語学学習を目的とする読書会が実施されている。同会では秋の休暇を利用して、最高15名の学生が自主参加の形式で6日間大学の『奥の山荘』で寝食を共にする。毎年参加者は事前に課題小説を読むことを義務づけられており、短編や戯曲、詩等も課題の対象である。詩の朗読、フィルム・ビデオ観賞、種々の言葉ゲーム、野外活動等も読書会のプログラムに含まれてる。一日を朝・昼・夜のセッションに分割しプログラムを実施する。オーガナイザーや外国人教師は全日程、学生と共に過ごし随時トピックに詳しい日本人ゲストや外国大学からの参加者を交えてのディスカッションも実施する。参加者は全日程を通じてイングリッシュ・オンリーの原則を厳守することが義務づけられてる。\n読書会は正式なプログラムとして計画実施されたわけではないため、学生の読解力・聴く力・話す力の評価はその目的ではない。しかし、参加者の読書会への高い評価と共に1992年に出版した英語俳句集等は読書会の意義と価値を実証するものである。読書会を今後も継続させたいとする要望があり、これまでに得られた経験と学生の反応を考慮しつつ修正を加え更に、この読書会を他の大学へのモデルとして提示したい。
浅原, 正幸 小野, 創 宮本, エジソン 正 Asahara, Masayuki Ono, Hajime Miyamoto, Edson T.
Kennedy et al. (2003)は,英語・フランス語の新聞社説を呈示サンプルとした母語話者の読み時間データをDundee Eye-Tracking Corpusとして構築し,公開している。一方,日本語で同様なデータは整備されていない。日本語においてはわかち書きの問題があり,心理言語実験においてどのように文を呈示するかがあまり共有されておらず,呈示方法間の実証的な比較が求められている。我々は『現代日本語書き言葉均衡コーパス』(Maekawa et al. 2014)の一部に対して視線走査法と自己ペース読文法を用いた読み時間付与を行った。24人の日本語母語話者を実験協力者とし,2手法に対して,文節単位の半角空白ありと半角空白なしの2種類のデータを収集した。その結果,半角空白ありの方が読み時間が短くなる現象を確認した。また,係り受けアノテーションとの重ね合わせの結果,係り受けの数が多い文節ほど読み時間が短くなる現象を確認した。
宇佐美, まゆみ USAMI, Mayumi
本稿では、ポライトネスを敬語のような言語形式だけの問題としてではなく、あいづちやスピーチレベルのシフトなどの現象など、談話レベルの現象も含めて実際の「ポライトネス効果」を捉える必要があるとして、その基本原則を体系化した「ディスコース・ポライトネス理論」(宇佐美2001;2003;2008;2009,2011)の基本的概念を簡単に導入する。DP理論では、話し手と聞き手の「ある言語行動の適切性についての捉え方や期待値」(「基本状態(デフォルト)」)が許容ずれ幅を超えて異なることが、実際の「インポライトネス効果」をもたらすと説明する。ここでは、主に、フランス語圏における学習者が様々な状況で遭遇する異文化間ミス・コミュニケーション場面の事例を取り上げ、それらがこの理論でいかに解釈できるかを提示し、この理論の解釈の可能性と妥当性を検証する。また、このような分析や解釈が、ミス・コミュニケーションの事前防止にいかに適用できるか、また、それらの考察をいかに日本語教育に生かしていくことができるかについても考察する。
望月, 直人
1878 年末、清朝の武官―具体的には広西省潯州協副将―李揚才が反乱を起こし、ベトナ ム李朝の末裔を名乗ってベトナム北部へ侵入した。この事件は、ベトナムの保護国化を目指 すフランスと伝統的な「天朝」と「藩属」の関係を阮朝との間にも築いていた清朝の競合に 少なからず影響を与え、後の清仏戦争につながってゆく。 では、この李揚才事件は、どのような歴史的背景から生じたものと理解すればよいだろう か。そもそも清朝の武官がベトナム王朝の末裔を名乗って蹶起するという事件は、他に類例 を見ない。また、当時のベトナムでは、黒旗軍など中国から流入した華人私兵集団が割拠し ていたが、李揚才は歴とした清朝の高位の武官であって、一見のところ、同列には語り得な い。 ただ、すでに指摘されているように、その武装反乱の間、李揚才は華人私兵集団と提携し た。本稿は特にその点を掘り下げて考察し、李揚才が清朝官員として軍務についていた時期 から華人私兵集団と関係を結び、それが彼の蹶起につながったという仮説を提示する。
本田, 康雄 HONDA, Yasuo
日本の新聞は総発行部数において自由主義諸国中の第一位であり、一社あたりの総発行部数は読売新聞の約一千万部が世界最高である。そして中央紙、地方紙を問わず日本の新聞には絵入りの新聞小説が朝・夕刊に掲載されている(序)。これは明治のはじめ東京絵入新聞などの小新聞(大衆紙)の雑報欄に生じた所謂三面記事の連載にはじまり(一、雑報記事の連載)、これが虚実相半ばする実話から記事の形を採る創作へ展開して読者の人気を得た(三、所謂「続きもの」)。坪内道遙は読売新聞(改進党系)において紙面の改革を断行し、雑報記事を綴り合せた様な続きものを廃し、別に小説欄を新設した。明治十九年一月より『鍛鐵場の主人』(フランスのジオルジュオネー原作、加藤瓢乎訳)、つゞいて『当世商人気質』(饗庭篁村)を連載した。小説の書き手として尾崎紅葉、幸田露伴が入社し、文壇に紅露時代が成立することとなった(三、新聞小説と坪内遁遙)。坪内道遙の小説欄の改革は、明治十八年に発表した『小説神髄』の理論に基くもので江戸時代以来の我国の道徳的文学観と文化の構造に変更を迫るものであった(おわりに―坪内逍遙の小説観)。
園田, 直子 Sonoda, Naoko
今世紀になってから,有機化学の発展に伴い多くの合成の素材が開発されており,そのうちのいくつかは,絵具,ワニス,接着剤などの材料として用いられている。これらの新しい素材は,修復のみならず製作にも使われるので,博物館資料にも含まれるわけである。博物館資料の場合は,たとえ試料の採取が許されたとしても,その量は極く微量であることを,同定方法およびその実験条件の設定にあたっては考慮に入れなければならない。ここでは,同定方法として熱分解ガスクロマトグラフィーを用い,絵画用合成絵具の展色剤を分析してみた。フランスで一般に普及している7社8種類の合成絵具の展色剤を調査し,主成分(ビニル樹脂またはアクリル樹脂)のみならず,添加されている可塑剤も同定することができた。また,アクリル共重合体の場合は,それを構成しているモノマーの種類まで判明する。これらの分析結果により,絵具は,一度開発され市販されても,改良が続けられていることが明らかになった。しかし,構成成分の変化が必ず消費者に知らされるとは限らないので注意を要する。
山元, 淑乃 Yamamoto, Yoshino
日本国外、特に在留邦人の少ない地域の学習者は、初級学習を終え、「教室の外で日本語が通じない」という壁にしばしばぶつかる。自然会話と教室の日本語が異なることは、ある程度仕方がないとはいえ、そのギャップをより小さくすることはできないだろうか。日本語母語話者が自己紹介をするときには、普通「~です」と名前を言う。初級教材の第一課によくみられる「わたしは~です」という文が自然であるのは、極めて特殊な場合である。それにも関わらずこの例文がしばしば提示される背景には「日本語にも必ず主語がなければならない」という束縛があるのではないだろうか。西洋諸言語と違い、日本語が述語だけでも成り立つことが指摘されており、実際のコミュニケーションには述語だけの文が頻出する。本稿は、2006年にフランス国立リール第三大学で行われた、パワーポイントの絵とアニメーションを駆使した文型導入授業、第一課の実践報告である。パワーポイントを用いたイラストの提示により、翻訳や母語による説明がなくとも、学習者に「述語だけで成り立つ日本語」の特徴を気づかせ、理解を図る指導法を模索した。
Delbarre, Franck
本論はビュジェー地方に位置するヴァルロメー地域で現在まだ話されている危機言語であるフランコプロヴァンス語のヴァルロメー方言の所有詞と不定詞についての考察である。今回は『ヴァルロメー方言』という書物(2001年出版)のコーパスに基づき、とりわけ該当方言の不定詞の形態とシンタックスを中心に述べる。フランコプロヴァンス語の諸方言については19世紀末から様々な研究が行われたが、戦後はむしろ研究の対象から外れる傾向にあり、現在話されているフランコプロヴァンス語の諸方言についての実態(その話者数や言語使用についてだけではなく、その言語的な発展についてでもある)はあまり知られていない。ここ20年で発行された書物(特に Stich と Martin)は形態論においては様々な情報を与えているが、シンタックス論においては大きく不足しているので、あまり話題にされていないヴァルロメー方言の形態とシンタックスのあらゆる面において研究を始めることにした。『ヴァルロメー方言』におけるヴァルロメー方言の不定詞の形態をまとめて、時折フランス語(本論の執筆者の母語でもあり、言語的にはフランコプロヴァンス語に最も近い言語でもある)の観点からも見ながらその方言の形態とシンタクスについて述べる。このような現代ヴァルロメー方言のシンタクスと形態の記述が試みられたのは初めてであろう。
横山, 伊徳
一八六一年は、老中久世広周と安藤信正らが、前年に倒れた井伊直弼により着手された和宮降嫁を実現する過程と理解される(文久元年十二月十一日、江戸城入輿)。そのため、幕府は対外政策に対する朝廷の意向を汲まざるを得なくなり、両都両港開市開港延期のため条約締結国へ将軍書翰を送ることとなった。そのうちアメリカは、大統領リンカーン親書としてこれに答えた。このことはこれまでほとんど検討されることはなかった。したがって、彼の親書がどのような内外の政治を反映したものであるか、親書が幕府の政策にどのような影響を与えたか、について意識されたこともなかった。本稿は、リンカーンや国務長官スワードの動きを分析するため、オランダを始め、イギリスなどの情報を用い、米国公使館通訳ヒュースケンの襲撃殺害事件をきっかけとするアメリカの対日強硬政策の形成とその転回を明らかにする。それらの情報は、各国の、南北戦争勃発直後のリンカーン政権への評価とつながっている。同政権は北軍の困難を背景に当初煽動した対日実力行使を放棄し、条約違反行為に対するペナルティを含意する条約遵守の要求へと転換する。幕府は外国人殺傷に対する金銭賠償要求を受諾し、このことはオランダ(船長殺人事件)、イギリス(東禅寺事件)、フランス(旗番負傷事件等)へも波及した。その後賠償要求が、幕府の外交を困難に陥れたことはよく知られている。南北戦争と環大西洋世界の国際政治はリンカーン政権の対日政策転換をもたらし、幕府外交は隘路にはまっていくのである。
Miyazato, Atsuko 宮里, 厚子
本稿で取り上げる作品は、戦後生まれのアート・スピーゲルマン(アメリカ、1948~)とパトリック・モディアノ(フランス、1945~)が、ユダヤ人であるそれぞれの父親がどのようにナチ時代のヨーロッパを生きのびたかを描いた物語である。しかし作品では同時に、父親と作家である息子との関係も描かれており、本稿はこの点に焦点を当てたものである。戦争によって価値観や生き方を覆された父親の性格や行動は、息子にとって理解しがたいものであり、それを理解しようというのがそれぞれの作品の原点となっている。したがって作品を通して、息子たちがどのように父親を理解しようとしているのか、あるいは父親に対する困惑や嫌悪の感情とどのように折り合いを付けようとしているのか、そして理解あるいは和解できたのかということを検証していきたい。さらに、父親の生き方が息子の人生に与えた影響を探り、つまりは戦争が戦争を知らない世代に与えた影響も見ていく。ところで、この論文を書くうえで確認しておきたいのは、ここで取り上げるMausが漫画という表現形式をとっていることである。しかしその内容は、作者も強調している通りノン・フィクションであり、世界各国の批評家から高い文学的評価も受けているため、ここでは取り上げる2作品における漫画と小説という表現方法の違いを問題にはしないということを付け加えておく。
矢野, 昌浩 Yano, Masahiro
高作, 正博 Takasaku, Masahiro
関沢, まゆみ Sekizawa, Mayumi
本論は信仰と宗教の関係論への一つの試みである。フランスのブルターニュ地方にはパルドン(pardon)祭りと呼ばれるキリスト教的色彩の強い伝統行事が伝えられている。それらの中には聖泉信仰や聖石信仰など多様な民俗信仰(croyances populaires)との結びつきをその特徴とするいくつかのタイプが存在するが,なかでもtantadと呼ばれる火を焚く行事を含むタイプが注目される。フィニステール北部に位置するSaint-Jean-du-Doigtのパルドン祭りはその典型例であるが,聖なる十字架がtantadの紅炎の中で焼かれる光景は衝撃的である。ブルターニュ各地のパルドン祭りにおけるtantadの火の由来を考える上で参考になるのは,夏至の夜の「サン・ジャンの火」(feu de la saint Jean)の習俗である。この両者の比較により,以下のことが明らかとなった。伝統的な習俗としては夏至の火の伝承が基盤的であり,そこにパルドン祭りという教会の儀礼が季節的にも重なってきて,パルドン祭りの中にtantadの火として位置づけられたものと考えられる。伝統的な「夏至の火」には,先祖の霊が暖まる,眼病を治す,病気や悪いことを焼却する,という信仰的な側面が確認されるが,それは火の有する暖熱,光明,焼却という3つの基本的属性に対応するものである。また,tantadの火を含まない諸事例をも含めての各地のパルドン祭りの調査分析の結果,明らかになったのは以下の点である。パルドン祭りの構成要素として不可欠なのは,シャペルの存在と聖人信仰(reliques信仰),そしてプロセシオン(procession)である。パルドン祭りはカトリックの教義にのみ基づく宗教行事ではなく,ブルターニュの伝統的な民俗信仰の存在を前提としながら,それらの諸要素を取り込みつつ,カトリック教会中心の宗教行事として構成され伝承されてきた。したがって,パルドン祭りの伝承の多様性の中にこそ伝統的な民俗信仰の主要な要素を抽出することができる。火をめぐる信仰もその一つであり,キリスト教カトリックの宗教行事が逆に伝統的な民俗信仰の保存伝承装置としての機能をも果してきているということができるのである。
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