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Shayesteh, Yoko シャイヤステ, 榮子
この小論はルイ14世下のフランスで宮廷作曲家としてtragedie lyrique(音楽悲劇)というフランス独自のオペラを確立したジャンーバテイスト・リュリ(Jean-Baptiste lully 1632-1687)とフランスを代表する喜劇作家のモリエール(Moliere 1622-1673)の短期間の出会い(1644年から1670年)からcomedie-balletを生み出すに到った過程を二人の人生とその時代背景を概観しながら研究したものである。
山梨, 淳
本論は、フランス人画家ジョルジュ・ビゴーが、滞日中に発表した反教権的諷刺画を取り上げる。ビゴーの諷刺画は明治日本の社会や風俗を鋭く描いた作品として現在広く認められているが、彼が同国人のカトリックの宣教師や修道士に対して諷刺を行っていたことはあまり知られてはいない。本論は、ビゴーの雑誌『トバエ』(第二期、第四一号、一八八八年)に掲載されたマリア会に対する諷刺画と、『ル・ポタン』(第二期、第二号―六号、一八九二年)に掲載されたフェリクス・エヴラール神父(パリ外国宣教会)の諷刺画を研究対象に取り上げ、これらの作品の製作動機、内容、受容状況を明らかにすることを目的としている。 第三共和政下のフランスでは、二十世紀初頭に至るまで、反教権政策をとる共和政政府とカトリック教会の間で緊張関係が高まっていたが、日本の外国人居留地でも、在日フランス人の反教権的な動きが表面化することがあった。すでにビゴーの来日前、横浜のフランス語新聞は、フランス人宣教師に対して愛国心の欠如を理由に批判を展開していたが、ビゴーの反教権的諷刺画もフランス人聖職者を反フランス的、反共和主義的な存在とみなして、批判を試みたものであった。『ル・ポタン』において、ビゴーはフランスの在日公使館の通訳官であったエヴラール神父を諷刺したが、この作品は彼を重用する公使館を同時に批判するものでもあり、彼らが共和政フランスの外交官でありながら、カトリック教会の影響下におかれている点に向けて、批判が行われていた。これらのビゴーの作品は、批判対象となった教会関係者やフランス公使館には、根拠のない批判として反感をもって受けとめられていた。 本論は、ビゴーの反教権主義者としての一面に光を照らすことによって、従来とは異なったビゴー像の提示を試みるものである。
Delbarre, Franck デルバール, フランク
本論文では三つの学生群(1年生)を対象としたフランス語教育上の長期的実験の最後の段階について述べられています。この実験はフランス語における結果状態表現に(être+過去分詞)に対する暗示的教え方と明示的な教え方による結果の比較を目的としており、それに合わせてフランス語教育対策の改善を促すものです。2010年に発行された著者の論文では日本語の文章を参照してフランス語で動作または結果状態を表す動詞の形態の中から正しいものを選ぶ形のアンケートを通して、明示的な教育を受けたフランス語学習者のほうが暗示的な教育を受けた学習者より日本語に対応したフランス語の正しい動詞の形態を当てることに成功したということが明らかになりました。ですが、長期的にはその明示的な教え方の影響が続いているかどうか解明するためには、最初の段階のアンケートが行われた一か月間以上後にあらためてそれらのアンケートに類似した日本語の文章を載せた日仏訳の問題を同じ学習者に受けさせました。今回の日仏訳の形で行われたのは自ら結果状態を表すフランス語の動詞形態が正しく作成できるかどうか確かめるためなのです。この形でも、明示的な教育を受けた学習者群による成功率のほうがはるかに高いという事実が明らかになりました。しかし、その結果が学習環境によって変わるかどうか確かめるためにはほかの大学で行う必要があるでしょう。
二村, 淳子
本研究ノートは、フランス語日刊紙『東方月報(France-Indochine)』上で、岡倉覚三の英文三部作(『東洋の理想』『日本の覚醒』『茶の本』)を賞賛し、その思想に同意を示したファム・クイン(Phạm Quỳnh/笵瓊、一八九二~一九四六)の書評の日本語訳と解題である。 岡倉の英文三部作は、フランスにおいて、英語原版とは異なるコンテクストで翻訳・出版され、受容された。興味深いことは、そのフランス語版が、出版側の意図を超え、フランス知識層だけではなく、旧インドシナ、なかでも、ベトナムの新学知識人たちによって熱心に読まれていたことである。 扱うのは、ファム・クインが仏語で書いた、「東洋の理想」(一九三一年)と「茶の礼賛」(一九二九年)と名付けられた二つの記事である。これらは、岡倉同様に東西両洋の文化に深く精通したベトナム知識人ファム・クインによってフランス語で書かれたものであり、フランス語を経由した日越文化交渉の興味深い一資料だといえよう。 評者のファム・クインは、ベトナムの近代文化の創生に一生を捧げた思想家・言語学者・政治家であり、阮朝大南国バオダイ帝(Bao Đại, 1918-1997)の右腕として活躍した経歴を持つ。 この二つの批評から、クインらベトナム知識人が、岡倉の文化論の本質を見極め、岡倉と同種の視点を共有しようとした様子が伝わってくる。 なお、本研究ノートの構成は以下の通りである。
大石, 太郎 Oishi, Taro
この小論では、カナダ東部ノヴァスコシア州におけるフランス語系住民アカディアンの居住分布と言語使用状況を現地調査とカナダ統計局のセンサスに基づいて検討した。その結果、農村地域に古くから存在するアカディアン・コミュニティでは英語への同化に歯止めがかかっているとはいえない一方で、郁市地域であるハリファクスでフランス語を母語とする人口や二言語話者が増加していることが明らかになった。これまで教育制度の整備などの制度的支援の重要性が指摘されてきたが、カナダの場合、農村地域に古くから存在するフランス語系コミュニティには遅きに失したと言わざるをえない。その一方で、都市地域が少数言語集団にとって必ずしも同化されやすい地域ではなくなりつつあることが示唆された。
Beillevaire, Patrick ベイヴェール, パトリック
1857年、通商条約締結の前夜、明治期の富国強兵論の先駆けとなった薩摩藩主・島津斉彬は、西洋諸国との密貿易計画を側近の家臣に明かした。江戸幕府への対抗策となるこの大計画には、蒸気式軍艦や武器の入手以外に、西洋への留学生派遣や海外からの指導者招聘という目的もあった。計画の実施には、江戸幕府の監視外にあった琉球王国の承諾が必須であった。斉彬がフランスを貿易相手国として最適とした理由には、フランス人宣教師が琉球に滞在していたこと、1855年に国際協定(琉仏条約)が締結されていたこと、そして1846 年に、フランスが琉球との間に通商協定を結ぼうとしていたということが挙げられる。目的の達成へ向けて、1857年秋に西洋科学技術の専門家である市来四郎が琉球へ派遣され、板良敷(牧志)朝忠などの有力人物を含む現地の協力者と共に、斉彬の命を遂行する重責を担った。1858 年、琉球王国の執行部にも重要な変化が生じる一方で、市来四郎は、滞琉中のフランス人と連携し、その協力を得て1859年夏までに軍艦や武器の他、多種多様な装備品が那覇へ届くように手配した。しかし全く想定外なことに、軍艦が琉球に到着するまであと2週間というところで斉彬の死去という訃報が届いた。また島津の後継者は、この事業の即刻中止を通達した。本論文では、薩摩藩が着手しようとしていた対フランス貿易について、数少ないフランス側史料を英訳して解説すると同時に、その内容を日本側の史料と照合していく。
大石, 太郎 Oishi, Taro
この小論では、カナダの英語圏都市におけるフランス語系住民の社会的特性を、ノヴァスコシア州ハリファクスを事例に、質問紙調査に基づいて検討した。その結果、ハリファクスのフランス語系住民は、高校卒業時点までは出生した州内に居住している割合が高く、高学歴であり、二言語能力を義務づけられたポストについている例が比較的多く、就業を主な要因としてハリファクスヘ移住している、という社会的特性をもつことが明らかになった。ケベック州出身者が多く、帰還移動の意思を持つ人も多いという点はコミュニティ発展の不安定要素といえるが、現時点ではフランス語系住民のこうした社会的特性が少数言語維持に対する制度的支援をより効果的にしており、カナダの英語圏都市における二言語話者の増加につながっていると考えられる。
瀧, 千春 TAKI, Chiharu
本稿は、フランス海外県公文書館およびフランス国立図書館にて収集されたラオス関連資料を紹介し、本資料がラオスの歴史と生態史を考える上でどのように利用可能であるかを考察することを目的とする。本資料は森林関係、農業関係、行政関係、交通網関係、税・賦役・公共工事関係、地方関係、旅行記と分野も多岐に亘り、資料の形態も書簡・報告書・雑誌記事・地図・商業リストなど様々である。本稿ではこれらの分類と内容を紹介しつつ、今後どういった利用が可能であるかを考えてみたい。
Delbarre, Franck
本論は主にフランスのビュジェ地方でまだわずかに話されているフランコプロヴァンス語(アルピタン語)の方言(特にヴァルロメ―方言)における助動詞étrè(フランス語だとêtre)とavaîl’(フランス語だとavoir)のシンタックスについて述べている。本論で使った例文は現在の方言話者によって書かれた資料に基づいたものなので、現代的な方言による助動詞の用法に対するイメージを与えることを目的とする。ビュジェ―地方のフランコプロヴァンス語諸方言におけるシンタックスは根本的に現代フランス語とあまり異なっていないことを確認してから、特にヴァルロメー方言の助動詞étrèとavaîl’ が持つ音声的な特徴とその記述方法にも焦点を当てる。一応、フランコプロヴァンス語においてはStich(1998)が提案したフランコプロヴァンス語の諸方言に対する統一記述法以外、各方言は相変わらず以前からの記述法方を使っているか、最近方言を記述するために作られた特有の記述方法を使っている。ヴァルロメー方言の場合には、ある程度フランス語に似たスペルが使われているが、その記述法方には不安定要素があるので、たびたび何が正しいスペルかという問題が出る。スペル問題は語彙自体のみではなく、文法項目にも影響を与えている。それは特にフランス語文法においてリエゾンと呼ばれる現象の記し方だ。例えば、avaîl’の過去分詞のスペルにはもともとリエゾンとして記されている音便文字のz’が現れるが、この文字(音素)は本当にリエゾンの役割を果たしているものかどうかについて調査する。特にビュジェ―地方のヴァルロメー方言を記録した資料を中心に、助動詞étrèとavaîl’ に関してこのような簡潔だが、画一的な分析と描写が行われたのは初めてである。その特性が本論に重要性を与えるが、今後のビュジェ―地方のフランコプロヴァンス語諸方言に対するシンタックス研究の第一歩に過ぎないであろう。
田中, 幸子 常盤, 僚子 茂木, 良治 TANAKA, Sachiko TOKIWA, Ryoko MOGI, Ryoji
フランシュコンテブザンソン大学(フランス)との共同研究として,日本人フランス語学習者を対象にテレビ会議システムとコースツールWebCTを利用した遠隔学習プログラムを実施し,遠隔学習環境における学習形態と学習者の学習過程を検証した。その結果,学習者はITツールの利用によりコミュニケーションや学習の機会を以前より多く得るが,一方で言語学習上の問題だけではなく,技術的な問題,学習方法にかかわる問題,情意的問題に直面することが確認された。これらの問題に対処するため,支援者の役割が多岐に渡ることが明らかとなった。支援者の役割について詳細に検討し,遠隔学習プログラムを構築・運営,カリキュラム化するための方策を提示する。
大野, 綾佳 ŌNO, ayaka
フランスでは19世紀前半より国立古文書学校が古文書の研究およびアーキビスト養成を担ってきた。一方、大量で多様な現代の行政文書にも対応するため、1990年代より大学、特に修士課程におけるアーカイブズ学教育が顕著に増加した。後者は現場のアーキビストを養成する目的に特化しており、実践力・即戦力を重視している。大学の教育課程が発展してきたことにより、フランスのアーカイブズ学教育も縦・横の広がりを見せている。まず縦の広がり(ランキング)として国立古文書学校から大学の複数レベルの課程においてそれぞれの段階ごとに就職機会が設けられている。一方、横の広がりでは時間軸である歴史文書と現代アーカイブズという区切りや、空間軸に広がる媒体やテーマの切り口を通して、大学ごとに特色を見せながら隣接分野との繋がりを拡張している。本稿では現場のアーキビスト養成を狙いとした大学の修士課程のひとつであるアンジェ大学と、学生にアーキビストの視点を与える導入および現職者の能力証明の機会として機能しているポアティエ大学独自の免状によるアーカイブズ学教育を例に、現在のフランスのアーカイブズ学教育の一端を紹介する。そしてその成り立ちから現在の課題を考えてみたい。
藤原, 貞朗
一八九八年にサイゴンに組織され、一八九九年、名称を改めて、ハノイに恒久的機関として設立されたフランス極東学院は、二〇世紀前半期、アンコール遺跡の考古学調査と保存活動を独占的に行った。学術的には多大な貢献をしたとはいえ、学院の活動には、当時インドシナを植民地支配していたフランスの政治的な理念が強く反映されていた。 一八九三年にフランス領インドシナ連邦を形成し、世界第二の植民地大国となったフランスは、国際的に、政治、経済および軍事的役割の重要性を誇示した。極東学院は、この政治的威信を、いわば、学術レベルで表現した。とりわけ、活動の中心となったアンコールの考古学は、フランスが「極東」に介入し、「堕落」したアジアを復興する象徴として、利用されることとなった。学院は、考古学を含む学術活動が、「植民地学」として、政治的貢献をなしうるものと確信していたのである。しかし、植民地経営が困難となった一九二〇年代以降、学院は、学術的活動の逸脱を繰り返すようになる。たとえば、学院は、調査費用を捻出するために、一九二三年より、アンコール古美術品の販売を開始する。「歴史的にも、美術的にも、二級品」を、国内外の美術愛好者やニューヨークのメトロポリタン美術館などの欧米美術館に販売したのである。また、第二次大戦中の一九四三年、学院と日本との間で「古美術品交換」が行われ、学院から、東京帝室博物館に、「総計八トン、二三箱のカンボジア美術品」が贈られるのである。いわば、政治的な「貢ぎ物」として、日本にカンボジアの古美術品が供されるかたちとなった。 アンコールの考古学は、フランスの政治的威信の高揚とともに立ち上げられ、その失墜とともに逸脱の道を歩む。具体的な解決策を持たないまま一九五〇年代まで継続された植民地政策のご都合主義に、翻弄される運命にあったのである。アンコール遺跡の考古学の理念が、「過去の蘇生」の代償として「現在の破壊」を引き起こしてきたこと、アンコール考古学の国際的な成熟が、現地に多大な喪失を強いたという歴史的事実を確認したい。再び、アンコール遺跡群の保存活動が開始された現在、この歴史的事実を確認する意義はきわめて大きい。
柴田, 依子
一九世紀後半に日本の美術・工芸品が輸出されてジャポニスムの流行をもたらし、フランスの印象派の画家たちに多大な影響を与えた。その流行が終わる頃の二〇世紀の初頭に、俳句(俳諧)はヨーロッパに紹介された。 その先駆者の一人であるポール=ルイ・クーシュー(①879-1959哲学者、精神科医)が、青年期に「世界周遊」の給費生として来日(一九〇三―一九〇四)し、俳句をフランスへ移入してから、本年二〇〇四年は一〇〇年を迎える。帰国後、クーシューは最初のフランス・ハイカイ創作の小冊子(一九〇六)を友人とともに出版した。翌年には俳句仏訳論文「ハイカイ」(日本の詩的エピグラム)をフランス文芸誌に連載した。そこに俳句の特質として「大胆なほどの単純化」「日本風の素描」などを挙げ、一五八の俳句を仏訳・解説している。一九一六年には、同論文「ハイカイ」を「日本の叙情的エピグラム」として再録した著書『アジアの賢人と詩人』がパリで刊行された。同書には、俳句を、浮世絵と対比し、日本の芸術として、しかも普遍的なポエムとして紹介している。第一次大戦中に刊行されたクーシューの書は彼の俳句活動とともに、フランスの文人たちにハイカイ創作への啓示を与えた。 一九二〇年九月には、二〇世紀フランス文学を担った『N・R・F』誌の巻頭に「ハイカイ」アンソロジーが花開いたのである。ダダの芸術革新運動がパリで推し進められていた時期に、同誌には、詩人や作家――ジャン・ポーラン、ポール・エリュアール、ジュリアン・ヴォカンス、ジャン=リシャール・ブロックなど一二人によるフランス・ハイカイ八二編がクーシューを筆頭に発表された。これはフランスにおける詩歌のジャポニスムの開花とも呼ぶべき、画期的な出来事であったと考えられる。同誌の刊行された一九二〇年を、フランスの文芸評論家は「ハイカイの年」と呼んでいた。この「ハイカイ」掲載が導火線となって、フランスでは一九二〇年代に、「詩法」などの優れたハイカイ集や二八三編のハイカイ選集などが次々と発表され、さらに俳句の受容はリルケなどヨーロッパの芸術家たちにも及び、文学の領域を越えて音楽の分野にも波及していった。 本稿では、『N・R・F』誌に「ハイカイ」の掲載が実現するまでの過程について、クーシューの俳句紹介の活動、特に著書『アジアの賢人と詩人』刊行以後を軸に、関係一次資料をたどりながら、考察する。主な資料は、ベルナール・バイヨーによって近年発表されたクーシューやポーランの書簡及び筆者が収集したクーシューの未発表書簡他である。 以上、資料を検討することによって、次のことが浮き彫りにされた。 (1) クーシューの書はフランスの詩人や作家たちに新しい詩のヴィジョンを啓示し、ハイカイの創作活動を触発した。同書を読んだポーランは、論文「日本のハイカイ」(一九一七)を発表し、俳句に「純粋な感覚にきりつめられた詩」として共感し、「日欧の人々が共有する感動の言語を創造すること」という普遍的なポエムを感得した。彼は、友人のダダの詩人エリュアールに、注目すべき同書のことを一九一九年三月に書簡で知らせており、その書に関心を抱いていたエリュアールは同書を読んだらしく、同年五月に自作のハイカイ作品を手書きで記し、ポーランに送っている。また作家ブロックも一九二〇年一月にクーシューの書を読み、啓発されて多くの作品を創作していた。 (2) クーシューの俳句活動の全容、俳句の紹介と創作の他に、ハイジンの会合をも主宰していた事情が明らかになった。クーシューは大戦中、軍医の任にありながら、ハイジンの会合の開催にも心を傾け、大戦後一九一九年五月一一日に自宅にハイジンたちを食事に招き、初会合を催した。その招待状をポーランとヴォカンスに送っているが、エリュアールらを含めて六人を招いている。クーシューはフランス・ハイカイの「座」の結成ともいえる活動も行っていたのである。 (3) 興味深いことには、エリュアールが自作のハイカイ作品をポーランに送っている時期は、この会合の後、五月末のことであり、ポーランもその返事に自作の作品を添えている。翌一九二〇年初めには、エリュアールの誘いを通じて、クーシューとヴォカンスの二人が、ポーランばかりではなく、ダダの集会に出席している。ハイジンの集いが契機となって、ハイカイの創作意欲やハイジンたちの文学交流も次第に深まっていったことがうかがえる。 (4) 『N・R・F』誌「ハイカイ」掲載の経緯についてであるが、その口火を切ったのは、ブロックである。彼は同誌編集長ジャック・リヴィエールに、一九二〇年三月、自作のハイカイを送っていた。同年五月、これを「ハイカイ」アンソロジーの企画へと発展させたのは、秘書のポーランであった。彼はリヴィエールやヴォカンスの支持や協力を得て、その編集を同年九月の発刊までひたむきに手がけたのである。このアンソロジーの発案とその編集の大きな契機となったのは、彼が参加したハイジンの会合やクーシューの活動であることがうかがえる。このアンソロジーには、ハイジンの会合の招待者六人全員の作品がクーシューを筆頭に掲載され、その前書きに「クーシューのもとに、ハイカイの作り手一〇人が初めてここに集い」と記されている。また、将来ハイカイがソネットのような新しい詩の領域を開くことへの冒険と期待も表明されている。同アンソロジーの発刊の背景にはクーシューの書や会合に啓発されたポーランのハイカイという新しい詩へのヴィジョンが、また俳人たちの新文芸への情熱が反映していることが考えられる。 ポーランは、フランス・ハイカイが、浮世絵がフランス絵画に革命を促したように、将来、詩の分野に革新をもたらす可能性を予見して、クーシューを始めとするハイジンの活動成果を文壇にいち早く提示したかったのではないだろうか。
Delbarre, Franck デルバール, フランク
筆者はこれまでに、フランコプロヴァンス語域における諸方言の書記法の歴史について論文で取り上げた。本稿では新たな試みとして、ビュジェー地方南部で話されている(いた)フランコプロヴァンス語の諸方言の書記法、文字の特徴、多様性について、現代フランス語との比較を行う。結果として現れた特徴の内、現代フランス語にも存在するリエゾンが、ビュジェー地方のフランコプロヴァンス語の諸方言においてどのように記されているかを検証する。それにより本研究は、フランコプロヴァンス語の諸方言研究の一助となろう。
Delbarre, Franck
筆者はこれまでに、フランコプロヴァンス語域における諸方言の書記法の歴史と様々なと文法項目について論文ですでに取り上げたが、本稿では新たな試みとして、ところどころ主にヴァルロメー方言と現代フランス語と比較しながら、ビュジェー地方南部でまだ話されているフランコプロヴァンス語のペーリユ方言における冠詞、名詞と形容詞の性と数、指示詞、過去分詞と形容分詞の文法的特徴について述べる。結果としてヴァルロメー方言と比べたら、現代ペーリユ方言はどういう風に進化してきたか、いかにフランス語化したかを認識できるだろう。それにより本研究は、フランコプロヴァンス語の諸方言研究の一助となろう。
関沢, まゆみ Sekizawa, Mayumi
本論文ではまず国立歴史民俗博物館『戦争体験の記録と語りに関する資料調査』(全四冊、二〇〇三・二〇〇四年)のデータから、戦没兵士に対して、生還した帰還兵士の場合と、戦没兵士の遺族の場合との両者において、それぞれどのように彼らの死が受け止められているのか、その対応についての分析を行った。両者共に「体験した人にしかわからない」という語りの閉鎖性が特徴的であった。そこで、戦争と死の記憶と語りの特徴をより広い視点から捉えなおす試みとして、日本における戦没兵士や広島の原爆被災者に関する語りを含めて、さらにフランスの、ナチスによる住民虐殺が行われた二つの町の追悼儀礼の事例調査を行い、日本とフランスとの差異についての考察を試みた。論点は以下の三点にまとめられる。第一に、戦争体験の記憶には大別して、「死者の記憶」と「事件の記憶」の二つのタイプがある。死者の記憶の場合には、戦闘員個々人に対して追悼、慰霊の儀礼が行われる。それに対して事件の記憶の場合には、一つは非戦闘員の大量死である悲惨な虐殺、もう一つは戦闘員の激戦と勝利または敗北、があるが、前者の悲惨な虐殺の場合、たとえばそれはフランスのグエヌゥの虐殺やオラドゥール・スール・グラヌの虐殺から日本のヒロシマ、ナガサキの原爆まで多様な事実があるが、その悲惨は戦争という「愚行」へと読み替えられる。そして、死者の記憶はいわば「個人化される」記憶であり、事件の記憶は「社会化される」記憶であるといえる。個人化される死者の記憶と表象は「死者」への追悼、慰霊の諸儀礼としてあらわれ、社会化される「事件」の記憶は、戦争と殺戮という「愚行」への反省と懺悔の意識化へ、また一方では戦勝の記念と顕彰の行事としてあらわれる。その個人化される記憶の場合には時間の経過とともに体験世代や関係者世代がいなくなれば、記憶の風化と喪失へと向かい、一方、社会化される事件の記憶の場合には世代交代を経ても記憶はさまざまな作用力が介在しながらも維持継承される。第二に、フランスのグエヌゥやオラドゥール・スール・グラヌの虐殺の場合には、死者への追悼とともに彼らのことを決して忘れないという「事実の記憶」を重視する儀礼的再現と追体験とが中心となっているのに対して、日本の場合は、「安らかに眠ってください」という集団的な「死者の記憶」が重視され、その冥福が祈られている。そこには、日本とフランスの自我観・霊魂観の相違が反映していると考えられる。第三に、フランスにおいても日本においても「戦争と死」の記憶の場として民俗的な伝統行事が有効に機能していることが指摘できる。フランス、グエヌゥでは、五月に行われるトロメニにおいてペングェレックという新しいスタシオンを組みこんでおり、広島と長崎の場合、八月の盆の月に原爆記念日が、そして一五日には終戦記念日が重なって、死者をまつる日となっている。
Delbarre, Franck
筆者はこれまでに、フランコプロヴァンス語域における諸方言の書記法の歴史と様々な文法項目(冠詞の形態論、助動詞のシンタクスなど)について論文で取り上げた。本稿では新たな試みとして、ヴァルロメー方言を中心にビュジェー地方南部で話されている(いた)フランコプロヴァンス語の諸方言における代名詞の形態とシンタクスの特徴について、現代フランス語とその他のビュジェー地方の方言の対比を行う。本論はとりわけフランス語文法にない倒置代名詞と主語の第一人称代名詞の脱落減少にも焦点を当てる。結果として現代ヴァルロメー方言の文法仕組みが認識できるだろう。それにより本研究は、フランコプロヴァンス語の諸方言研究の一助となろう。
西原, 大輔
一八六七年の高橋由一による上海渡航以来、近代日本の画家たちは、アジアを描き続けてきた。本稿は、エドワード・W・サイードのオリエンタリズム論を利用して、近代日本絵画におけるアジア表象を分析したものである。 『オリエンタリズム』でサイードは、一九世紀フランスにおけるオリエンタリズム絵画の流行については、ほとんど論じていない。しかしサイードの議論を引き継いだリンダ・ノックリンは、そこに西欧中心主義が見られると主張している。では、アジアの植民地を描いた近代日本絵画にも、サイード的意味でのオリエンタリズムは存在するのだろうか。 画家藤島武二は、一九一三年に朝鮮半島を旅行したが、その紀行文のなかでフランスのオリエンタリズム絵画に言及している。藤島は、フランス絵画に植民地アルジェリアをテーマとした作品が多いと述べた上で、日本人画家も新植民地朝鮮を美術の題材として積極的に開拓すべきであると言う。また、アジア女性を描いた近代日本の肖像画には、フランス絵画のオダリスクの主題から影響を受けたと考えられる作品もある。さらに梅原龍三郎は、アジアの植民地にこそ鮮やかな色彩があり、日本にはそのようなものはないと語っている。これらは、日本絵画がオリエンタリズムの影響を受けたことを物語っている。 しかし、アジアを描いた近代日本絵画を、サイードのオリエンタリズム論で説明しつくすことはできない。和田三造らによる多数の作品が、日本とアジアの共通性を強調している。児島虎次郎の絵にみられるように、非西洋である日本は、「自己オリエンタリズム」によって、「東洋人」としてのアイデンティティを形成してきた。従って、宗主国日本もアジアの植民地も同じ「東洋」と見なされる。大日本帝国は、植民地も日本も等しく「東洋」であるという言説によって、支配の正当性を確保しようとしてきた。アジアを描いた近代日本美術にも、同質性の強調という特徴を見出すことが可能である。
Takezawa, Shoichiro
19 世紀なかばのフランスでは,ブロカに率いられた人類学派が発展し,学界を超えて強い社会的影響をもった。それは,人間の頭蓋や身体各部位を計測し,一連の数字にまで還元することで,人びとを絶対的な人種の境界のあいだに分割することをめざした人種主義的性格の強い人類学であった。この人類学が当時のフランスで広く成功した理由は,産業革命が進行し,教会の権威が失墜した19 世紀なかばのフランスで,新しい自己認識と世界理解を求める個が大量に出現したことに求められる。こうした要求に対し,ブロカ派人類学は数字にまで還元/単純化された世界観と,白人を頂点におくナルシスティックな自己像/国民像の提出によって応えたのであった。 1871 年にはじまるフランス第三共和制において,この人類学は,共和派代議士,新興ブルジョワジー,海軍軍人などと結びつくことで,共和主義的帝国主義と呼ぶことのできる新しい制度をつくり出した。この帝国主義は,法と同意によって維持される国民国家の原則に立つ本国と,法と同意の適用を除外された植民地とのあいだの不平等を前提とするものであったが,ブロカ派人類学は植民地の有色人種を劣等人種とみなす理論的枠組みを提供することで,この制度の不可欠の要素となっていた。 1890 年以降,新しい社会学を築きつつあったデュルケームは,ユダヤ人排斥の人種主義を批判し,人種主義と関連しがちな進化論的方法の社会研究への導入を批判した。かれが構築した社会の概念は,社会に独自の実在性と法則性を与えるものであり,当時の支配的潮流としての人種主義とは無縁なところに社会研究・文化研究の領域をつくりだした。しかし,ナショナリスティックに構築されたがゆえに社会の統合を重視するその社会学は,社会と人びとを境界づけ,序列化するものとしての人種主義を乗りこえる言説をつくりだすことはできなかった。 人種,国民国家,民族,文化,共同体,性などの諸境界が,人びとの意識のなかに生み出している諸形象の力学を明らかにし,その布置を描きなおしていく可能性を,文化/社会人類学のなかに認めていきたい。
吉本, 弥生
明治後期、日本の美術界においてフランスやイギリスと同様、ドイツ美術は大きな影響を与えていた。しかし、従来はフランスとイギリスにその重きが置かれ、ドイツからの影響については、あまり大きく取り上げられてこなかった。これは、当時、日本において西洋芸術紹介者としての役割を担っていた雑誌『白樺』とのかかわりが考えられる。 『白樺』は、特にフランスとドイツの哲学思想から強い影響を受けているが、ドイツからの影響は従来、初期に限定され、その後はフランスの影響下にあったと認識されてきた。そして、同時に『白樺』には、人格主義の思想を持つ芸術家が次々に紹介される。 人格主義は、その人物の世界観や思想に重点をおいた解釈方法である。日本では、阿部次郎(『人格主義』岩波書店、一九二二年)や波多野精一(『宗教哲学』岩波書店、一九三五年)の著作がよく知られ、日本への受容において彼らの功績は大きい。 しかし、日本でのこの人格主義の流れの源泉は実は、当時の受容だけによらず、それより以前から日本に定着していた感情移入説にもとをたどることができる。 感情移入説は、ドイツで盛んになった美術概念で、主に「主観の挿入」をキーワードとして対象に感情を落とし込む表現をおこなうものである。その思想を体系化したのがテオドール・リップスである。リップスの思想は、一九一〇年以前から日本でも見られる。本稿では、その紹介者の嚆矢として、伊藤尚の「リップス論」(『早稲田文学』第七二号、一九一一年一一月)を取り上げ、それとの比較として阿部次郎の『美学』(岩波書店、一九一七年)を考察した。その結果、伊藤のリップス受容の特徴がオイケンとの比較にあり、それは早稲田大学哲学科の系譜に沿っていることが解された。伊藤の「リップス論」は、『早稲田文学』に広く影響を与えた。そして、阿部にも特徴的なことに、鑑賞者が制作者の経験を自己のものとして感じる「直接経験」という鑑賞方法が、『帝国文学』で盛んに紹介された『ファウスト』を例として具体的に提示され、それが人格主義の概念を中心に受容されていったことが明らかとなった。つまり、日本におけるリップス受容は、『帝国文学』と『早稲田文学』にも共通する鑑賞における新思潮として受容されていったのであった。
今谷, 明
アメリカ、フランス、オランダ、ドイツ各国に於ける日本史研究の現状と特色をスケッチしたもの。研究者数、研究機関(大学など)とも圧倒的にアメリカが多い。ここ十年余の期間の顕著な特色は、各国の研究水準が大幅にアップし、殆どの研究者が、翻訳資料でなく、日本語のナマの資料を用いて研究を行い、論文を作成していることで、日本人の研究者と比して遜色ないのみか、医史学など一部の分野では日本の研究レベルを凌駕しているところもある。 このための調査旅行として、二〇〇六年八~十月の期間、アメリカのハーバード大学、南カリフォルニア大学、カリフォルニア大学ロスアンゼルス校、およびオランダのライデン大学を訪問し、ハーバード大学歴史学部長ゴードン氏以下、幾人かの日本史研究者と面談し、第一線の研究状況を直接に聴取することができた。なお、アメリカについては、日文研バクスター教授の研究を参考とし、フランスは総研大院生ハイエク君の調査を、ドイツについては日文研リュッターマン助教授の助力を仰いだことを付け加えておく。
Kashinaga, Masao
ベトナムのタイ語系民族ターイは固有の伝統文字をもつ。しかし,地域集団によってその書体は異なっていたため,1950 年代のベトナムでは少数民族の文化伝統を保護する政策の一環で書体を統一し,新しい「ターイ文字」がつくられた。その際,基準となったのは,黒タイというサブグループの間にある統一性の高い文字「黒タイ文字」であった。本論文の目的は,黒タイ文字がつくられた歴史的経緯とそのプロセスの詳細を示すことである。そこで本論では,まずフランスのパヴィ使節団が蒐集した白タイ(ターイの別の地方集団)の現地文字資料と,同時期の黒タイの書簡を分析し,1890 年代の白タイ語,黒タイ語の表記システムを示す。そのうえで,黒タイ首領カム・オアイが先導した20 世紀初頭の文化運動に焦点を当てる。そこからフランス植民地政権の「分割統治」で助長された白タイと黒タイの対立関係を背景として黒タイの文化的独自性が追求されその一環で黒タイ文字の原形がつくられたこと,1910 年代にその文字による文書が黒タイの間で広まったことを明らかにする。
林, 洋子
両大戦間の日本とフランスの間を移動しながら活躍した画家・藤田嗣治(一八八六―一九六八)は、一九二〇年代のパリで描いた裸婦や猫をモティーフとするタブローや太平洋戦争中に描いた「戦争画」で広く知られる。しかしながら、一九二〇年代末から一九三〇年代に壁画の大作をパリと日本で複数手がけている。なかでも一九二九年にパリの日本館のために描いた《欧人日本へ到来の図》は、画家がはじめて本格的に取り組んだ壁画であり、彼にとって最大級のサイズだっただけでなく、注文画ながら異国で初めて取り組んだ「日本表象」であった。近年、この作品は日本とフランスの共同プロジェクトにより修復されたが、その前後の調査により、当時の藤田としては例外的にも作品の完成までに約二年を要しており、相当数のドローイングと複数のヴァリエーション作品が存在することが確認できた。本稿では、この対策の製作プロセスをたどることにより、一九二〇年代の静謐な裸婦表現から一九三〇年代以降の群像表現に移行していくこの画家の転換点を考える。
デロワ中村, 弥生 NAKAMURA-DELLOYE, Yayoi
日本語文法研究において助詞は古くから中心的な研究課題であるが,「だけ」「さえ」「も」などの研究は近年とりたてと呼ばれる現象を扱う枠組みで大きく発展してきた。とりたては日本語では主にとりたて助詞により,フランス語では範列導入副詞(Adverbes paradigmatisants)と呼ばれるとりたて副詞により表現されるが,この「とりたて」の働きは他の表現形式によって生じる作用と共通あるいは連続している。本論文では,日本語研究で「とりたて」と呼ばれる文法作用を通して見られるさまざまな品詞,表現間の連続性について考察する。
Delbarre, Frank
70年代において執筆されたベタン村のフランコプロヴァンス語方言を対象とした論文と20世紀の初めに執筆されたビュジェー地方のフランコプロヴァンス語(アルピタン語)方言についての様々な研究論文は主に当該諸方言の形態論について述べるものが多い。それに対し、戦前まで幅広く東フランスで話されていたフランコプロヴァンス語のシンタクスに関する研究はとても少ない。最新と言えるスティーヒによって苫かれたParlons francoprovenral (1998) でもシンタクスより形態論と語疵論の方に焦点を当て、フランス語とその他の現代のロマンス形の諸言語と比べると、フランコプロヴァンス語の特徴の一つである分詞形容詞の用法についてはほとんど何もit-いてない。この文法項旧については2o lit紀において害かれた諸論文でもデータの分析より著者の感想の方に基づいたコメントの形をとっており、納得力の足りないものになっている。本論は2015年に発行されたL'accorddu participe passe dans Jes dialectesfrancoproven~aux du Bugey (ビュジェー地方のフランコプロヴァンス語方言における過去分詞の~)に続き、Patoisdu Valromey (2001) の文苫コーパスの分析をもとに、現代ヴァルロメ方言における分詞形容詞の用法を定義することを目的とする。本論のメリットはその他の現在までのビュジェー地方のフランコプロヴァンス語の論文と比べると、例文を多く与え、ヴァルロメ一方言のコーパスの分析から作成した言語的統計の提供である。
Takezawa, Shoichiro
2005 年はヨーロッパ各国で,文化の名による問題が噴出した年であった。移民第2 世代が主体となったロンドンの地下鉄テロや,フランス各地の郊外で発生した「都市暴動」,デンマークの日刊紙によるムハンマドの風刺画の掲載など,事例は枚挙にいとまがない。 これらの事件の背後にあったのは,EU の拡大とグローバル化の進展によって国民国家が弱体したという意識であり,そのため内的境界としてのナショナリズムが各国民のあいだで昂進したことであった。その結果,外国人移民およびその子弟や,イスラームに代表される文化的他者に対する排他意識は,これまで以上に高まっている。 従来,文化的他者の統合については2 つのモデルが示されてきた。文化的アイデンティティに沿って共同体を形成することを求めるアングロサクソン系の多文化主義と,公の場で宗教の表出を禁止し,個と国家のあいだに中間団体を認めないフランス式共和主義である。しかし,2005 年に英仏両国で生じた一連の事件は,両国とも文化的他者の統合に成功していないことを示している。多文化主義も共和主義も文化的他者の統合に成功していないとすれば,私たちはどこに統合のモデルを求めればよいのか。 産業革命以降,工業化に成功した諸国ではさまざまな社会問題が生じたが,問題に直面した人びとが団結して社会運動を起こすことでこれらの問題は解決するはずだ,というのが社会学のメタ物語であった。しかし,文化をめぐる問題が多発している今日,文化の諸問題を解決するためのメタ物語はまだ見つかっていない。フランスでは80 年代以降,移民の子弟を中心にさまざまな社会運動や文化運動がつくられてきたが,問題の解決には程遠いのが現状である。本稿では,2005 年のパリとマルセイユでおこなった現地調査にもとづきながら,文化の諸問題に対する効果的なアプローチを構築することを目的とする。国民国家に倣って境界づけられ,内部における等質性と外部に対する排他性を付与された文化の概念を,いまなお使いつづけるべきなのか。あるいは,複数の文化の出会う場としてのローカリティやテリトリー,空間の概念によって代置すべきなのか。それらの問いを具体例に沿って問うことが,本稿の課題とするものである。
鈴木, 淳 SUZUKI, Jun
フランスの自然文学者で美術批評家のエドモン・ド・ゴンクールの『北斎』は、前人未踏の研究成果である。本書は、北斎を、優れたデッサン画家として捉え、十八世紀のフランスに輩出した画家たちの延長上に位置づけ、その絵本、版画、摺り物、肉筆に渉る全作品を網羅的に叙述したものである。近時、本書は、木々康子、鈴木重三、小山ブリジットらの研究によって、パリの骨董商で、ジャポニズムの火付け役を演じた林忠正とS・ビングとの協力、確執といった側面から論及することによって、研究の進展が図られてきた。本稿では、ブラックモンやゴンクールらがいかに北斎に辿り着き、その研究を達成させたかの追求を試みると同時に、ゴンスやデュレなどのジャポニザン、フェノロサ、ラファージらの米国の美術批評家との北斎評価をめぐる対立を振り返ることで、北斎を見出したのが、グラビア美術作家らの愛好と探求心の賜物であることを明らかにした。また、ゴンクールの他の著述で注目すべきこととして、『ある芸術家の家』上下巻の北斎に関する記述を論じた。そこで、ゴンクールは、英国のディキンズによる、北斎の略伝と『北斎漫画』初編を初めとする序文の翻訳の敷き写しを試みているが、『北斎』では、ディキンズの影は払拭され、序文の翻訳は、林との協同作業であることが強調されている。その矛盾点の解明を試み、北斎研究に対するゴンクールの功名心のなせるわざという結論に達した。
渡辺, 雅子
本稿では、日米仏のことばの教育の特徴を比較しつつ、その歴史的淵源を探り、三カ国の「読み書き」教育の背後にある社会的な要因を明らかにしたい。まず日米仏三カ国の国語教育の特徴を概観した後、作文教育に注目し、各国の書き方の基本様式とその教授法を、近年学校教育で養うべき能力とされている「個性」や「創造力」との関係から比較分析したい。その上で、現行の制度と教授法、作文の様式はどのように形作られてきたのか、その革新と継続の歴史的経緯を明らかにする。結語では、独自の発展を遂げてきた各国の国語教育比較から何を学べるのか、日本の国語教育はいかなる選択をすべきかを、「国語」とそれを超えたグローバルな言語能力に言及しながら考えたい。 個性と創造力の視点から作文教育を見ると、日本とアメリカの作文教育における自由と規模の奇妙なパラドックスが浮かび上がり、また時節の議論からは超然としたフランスの教育の姿が現れる。また評価法の三カ国比較からは、言葉のどの側面を重要視し、何をもって言語能力が高いと認めるのかの違いが明確になる。規範となる文章様式とその評価法には、技術としての言語習得を超えた、言葉の社会的機能が最も顕著に現れている。 社会状況に合わせて常に革新を続けるアメリカの表現様式と、大きな転換点から新たな様式を作り出した日本、伝統様式保持に不断の努力を続けるフランス。三カ国の比較から見えてくるのは、表現様式を通した飽く無き「規範作り」のダイナミズムである。
Delbarre, Franck デルバール, フランク
筆者はこれまでに、フランコプロヴァンス語域における諸方言の書記法の歴史と様々な文法項目(冠詞の形態論、助動詞のシンタクスなど)について論文で取り上げた。本稿では新たな試みとして、ヴァルロメー方言を中心にビュジェー地方南部で話されている(いた)フランコプロヴァンス語の諸方言における代名詞の形態とシンタクスの特徴について、現代フランス語とその他のビュジェー地方の方言の比較を行う。結果として現代ヴァルロメー方言のの仕組みがどういう風に代名詞の形態とシンタクス進化してきたかを認識できるだろう。それにより本研究は、フランコプロヴァンス語の諸方言研究の一助となろう。
Delbarre, Franck デルバール, フランク
筆者はこれまでに、フランコプロヴァンス語域における諸方言の書記法の歴史と様々な文法項目(冠詞の形態論、助動詞のシンタクスなど)について論文で取り上げた。本稿では新たな試みとして、ヴァルロメー方言を中心にビュジェー地方南部で話されている(いた)フランコプロヴァンス語の諸方言における名詞と形容詞の性と数の特徴について、現代フランス語とその他のビュジェー地方の方言の比較を行う。結果として現代ヴァルロメー方言の性と数の仕組みがどういう風に進化してきたかを認識できるだろう。それにより本研究は、フランコプロヴァンス語の諸方言研究の一助となろう。
張, 培華 Zhang, Peihua
日本で古典中の古典と言われている『源氏物語』は、世界文学の名著として、英語、フランス語、ドイツ語、中国語などの多くの外国語に翻訳されている。しかも同じ言語の中でも様々な訳者の新たな翻訳が出版されている。そのうち、翻訳の種類が最も多いのは中国語である。現時点で見られる四種類の英語訳より、倍以上となる十数種類の中国語訳が見える。周知の如く、中国経済発展のおかげで、中国の書籍の装丁も以前より良くなっている。しかし、翻訳の中身はいかがであろう。続々と出版された新たな翻訳はどういうものなのか。
藤井, 聖子 佐々木, 倫子
日本語教育センター第二研究室では、現在、英語、スペイン語、ポルトガル語、フランス語それぞれの言語に関して、日本語との対照研究を進めている。日英対照としては、現時点では、談話・語用論上の対照を押し進めるため、会話スタイルの分析を行っている。日西では、統語現象と意味の問題を取り上げている。日葡対照としては、ブラジル人と日本人との言語接触の局面を、社会言語学的アプローチで調査している。日仏では、音声、特にアクセント、イントネーション、音声言語コミュニケーションに付随するジェスチャーを取り上げ、音声及びパラ言語の領域における対照を進めている。これら四種類の切り口で対照研究をすることは、それぞれの言語での対照研究の背景や必要性が異なっている現状に基づいて立案したことであるが、同時に、日本における外国語(第二言語)教育と言語事情をふまえた対照研究の四種類のアプロ一チを試行し押し進めようとする試みでもある。本報告では、これらの研究の目的・方法・意義を概観する。
山梨, 淳
本論は、日露戦争後の一九〇五年末に行われたアメリカ人のウィリアム・ヘンリー・オコンネル教皇使節の日本訪問に焦点をあて、二十世紀初頭に転換期を迎えつつあった日本のカトリック教会の諸動向を明らかにすることを目的としている。オコンネル使節の訪問は、日露戦争時に戦地のカトリック教会が日本により保護されたことに対して、教皇庁が明治天皇に感謝の意を表するために行われたものであるが、また日本のカトリック教会の現状視察という隠れた目的をもっていた。 幕末期より二十世紀初頭に至るまで、日本のカトリック教会の宣教は、フランスのパリ外国宣教会の宣教師によって独占的に担われてきたが、日露戦争前夜の時期には、同会の宣教活動は、近代国家の日本では十分な成果を挙げ得ないものとして日本人信者の一部に批判を投げかけられるようになっていた。長崎教区の一部の信者らは、慈善活動など下層階級への宣教事業に力を入れるパリ外国宣教会に不満を抱いて、学術活動に強いイエズス会の誘致運動を行い、教皇庁にその必要を主張する意見の具申すら行っている。 世紀転換期、東京大司教区では、知識人層を対象にした出版活動や青年運動が展開されており、パリ外国宣教会には日本人の若手カトリック知識人の活発な活動に期待する宣教師も存在したが、彼らは少数派であった。オコンネル使節の来日時、日本人カトリック者は、彼に日本の教会の現状を伝えて、フランス以外の国からの修道会の来日やカトリック大学の設立を具申し、教皇庁の権威に頼ることによって、教会の内部変革を試みようとした。 二十世紀初頭、日本人カトリック者らが一部の神父の理解をえて活動を行った信徒主体の活動は、パリ外国宣教会の十分な理解をえられず、しばしば停滞を余儀なくされる。同会の宣教師と日本人カトリック者との関係の考察は、当時におけるカトリック教会の動向の一端をうかがうことが可能にするだろう。
依岡, 隆児
ドイツ語圏における「ハイク」生成と日本におけるその影響を、近代と伝統の相互関連も加味して、双方向的に論じた。ドイツ・ハイクは一九世紀末からのドイツ人日本学者による俳句紹介と一九一〇年代からのドイツにおけるフランス・ハイカイの受容に始まり、やがてドイツにおける短詩形式の抒情詩と融合、独自の「ハイク」となり、近代詩の表現形式にも刺激を与えていった。一方、日本の俳句に触発されたドイツの「ハイク」という「モダン」な詩が、今度は日本に逆輸入され、「情調」や「象徴」という概念との関連で日本の伝統的な概念を顕在化させ、日本の文学に受容され、影響を及ぼしていった。こうした交流から、新たに「ハイク」の文芸ジャンルとしての可能性も生まれたのである。
Jenkins, A.P. ジェンキンズ, アントニー P.
オックスフォード大学の歴史教授F.F.Urquhart(皇太子妃雅子様が学ばれたカレッジの教授)が1981年夏、教授所有のフランスアルプスの山小屋へ約20人の学生を招き、読書、ディスカッション、討論を通して専門及び専門外の分野における学生の知識を深めることを目的として始めた。今世紀に入り、オックスフォードの他の2つのカレッジにも読書会は広まった。夏休みにそれぞれのカレッジの学生をフランスアルプスの山小屋へ招き同じ主旨の下に読書会は実施されている。計画・運営された教授には著名なSir Roger MynorsやSir Christopher Cox等もふくまれている。参加した学生の中には後日の英国首相二人、カンタベリー大聖堂の大司教、更にLord Clarkのような著名な学者の卵も大勢いた。\n1989年以来、琉球大学においても英語専攻の学生を対象に、語学学習を目的とする読書会が実施されている。同会では秋の休暇を利用して、最高15名の学生が自主参加の形式で6日間大学の『奥の山荘』で寝食を共にする。毎年参加者は事前に課題小説を読むことを義務づけられており、短編や戯曲、詩等も課題の対象である。詩の朗読、フィルム・ビデオ観賞、種々の言葉ゲーム、野外活動等も読書会のプログラムに含まれてる。一日を朝・昼・夜のセッションに分割しプログラムを実施する。オーガナイザーや外国人教師は全日程、学生と共に過ごし随時トピックに詳しい日本人ゲストや外国大学からの参加者を交えてのディスカッションも実施する。参加者は全日程を通じてイングリッシュ・オンリーの原則を厳守することが義務づけられてる。\n読書会は正式なプログラムとして計画実施されたわけではないため、学生の読解力・聴く力・話す力の評価はその目的ではない。しかし、参加者の読書会への高い評価と共に1992年に出版した英語俳句集等は読書会の意義と価値を実証するものである。読書会を今後も継続させたいとする要望があり、これまでに得られた経験と学生の反応を考慮しつつ修正を加え更に、この読書会を他の大学へのモデルとして提示したい。
望月, 直人
劉永福の率いた黒旗軍は、ベトナムでフランス軍相手に善戦したという戦績もあって、とりわけ有名な華人私兵集団である。黒旗軍の拠点ラオカイは、中国・雲南省との境界に位置するベトナムの街であるが、ホン河を通じた貿易ルートの要衝でもあった。黒旗軍はここを通過する商品に通行料を課し、収入源としていた。ラオカイを通過する商品には、ベトナムで算出される海塩が含まれている。もとより、中国では塩は国家の重要な収入源である一方、密売される「私塩」が秘密結社や反乱勢力の資金源となった。本稿は、ベトナム海塩の雲南省へ流入の歴史をたどり、ラオカイにおける通行料収入におけるベトナム海塩の重要性を明らかにし、中国史上の多く現れた「私塩」と深い関係の深い非公然組織の一つとして、黒旗軍を位置づけ直す。
Delbarre, Franck デルバール, フランク
本論は本著者によるフランコプロヴァンス語における助動詞のシンタクスについての一連の論文に続き、特にフランスのプティ・ピュジェ一地域で話されているフランコプロヴァンス語のラ・ブリドヮール方言における助動詞êtreを中心に論じる。本論はヴィァネーによるラ・ブリドヮール方言の登録資料に基づき、ヴィァネーの指摘した本方言のシンタクスにおける助動詞êtreの省略現象を分析している。ヴィアネー自身はその現象についてルールと言える説明を簡略的に提供している。だが、ヴィァネーのラ・プリドヮール方言の登録資料の中に載っている方言で書かれた様々な文書を注意深く読んでみると、その説明ではかなり不十分だと感じる。そこで、ヴィァネーのラ・プリドヮール方言の登録資料を使いもっと厳密に助動詞紅白の簡略現象を引き起こす条件を本論で観察することにした。その観察の結果に基づき、ヴィァネーの与えたルール(説明)の修正を試みる。
Hirai, Kyonosuke
社会運動とミュージアムとの関係に近年注目が集まっている。ミュージアム研究においてミュージアムが論争や抵抗の場になったり社会変容の手段になったりする過程がさかんに議論される一方で,社会運動研究は運動がミュージアムを設立したり活用したりする過程を軽視してきた。本稿では,フランスの社会学者ピエール・ブルデューのハビトゥスと界という概念を参考にしながら,熊本県水俣市の水俣病センター相思社(以下,相思社)がいかにして「水俣病歴史考証館」という展示施設を設立することになったか,なぜ相思社は裁判闘争や直接行動から水俣病の歴史を伝える「考証館運動」へと運動方針を転換したのかを検討する。そのうえでこの方針転換は,社会運動で蓄積した各種の資源,職員の抵抗のハビトゥス,さらには水俣病運動界の変容に依存しており,運動によってつくり出された社会的諸条件の総体を検討することによってより深く理解できることを論じる。
Kishigami, Nobuhiro
本論文の目的は,北米北方地域における交易活動について,1500年代から1870年代にかけて行われていた毛皮交易を中心にその全体像を素描することである。北米における毛皮資源の交易は,ヨーロッパと中国における毛皮需要や,イギリス,フランスなど西欧列強の政治的対立関係と連動しながら展開し,北米北方先住民を欧米の資本主義システムに接合させた。この過程で社会の崩壊,再編成を余儀なくさせられた先住民グループが存在した一方で,カナダ・イヌイット人やケベック・クリー人の大半は,毛皮交易に係わりつつもそれのみに経済特化をせず,狩猟・漁労活動を維持してきたため,変化を被りながらも,拡大家族関係などいくつかの社会関係を再生産させることができた。毛皮交易への北米先住民の係わり方は一様ではなく,毛皮交易は先住民社会を破壊するという仮説は北米先住民社会のすべてに妥当するわけではない。
野田, 尚史 NODA, Hisashi
イギリス,ドイツ,フランス,スペインの上級日本語学習者40名と日本語母語話者20名を対象に,日本語で書かれたウェブサイトのクチコミを読んでもらい,その解釈を母語で語ってもらう調査を行った。その結果,ヨーロッパの日本語学習者と日本語母語話者では違う解釈をすることがあることが明らかになった。次の(a)と(b)のような違いである。(a)顔文字や記号の使用に対して,ヨーロッパの学習者は「信用できない」「かわいい」などと情緒的にとらえる傾向がある。日本語母語話者は意味のある情報としてとらえる傾向がある。(b)店のサービスについての詳しい情報や個人的な体験が書かれている部分に対して,ヨーロッパの学習者は「一般化できないことであり,店を評価するための情報として役に立たない」と考える傾向がある。日本語母語話者は「役に立つ」と考える傾向がある。
浅原, 正幸 小野, 創 宮本, エジソン 正 Asahara, Masayuki Ono, Hajime Miyamoto, Edson T.
Kennedy et al. (2003)は,英語・フランス語の新聞社説を呈示サンプルとした母語話者の読み時間データをDundee Eye-Tracking Corpusとして構築し,公開している。一方,日本語で同様なデータは整備されていない。日本語においてはわかち書きの問題があり,心理言語実験においてどのように文を呈示するかがあまり共有されておらず,呈示方法間の実証的な比較が求められている。我々は『現代日本語書き言葉均衡コーパス』(Maekawa et al. 2014)の一部に対して視線走査法と自己ペース読文法を用いた読み時間付与を行った。24人の日本語母語話者を実験協力者とし,2手法に対して,文節単位の半角空白ありと半角空白なしの2種類のデータを収集した。その結果,半角空白ありの方が読み時間が短くなる現象を確認した。また,係り受けアノテーションとの重ね合わせの結果,係り受けの数が多い文節ほど読み時間が短くなる現象を確認した。
Mishima, Teiko
本稿はソニンケのアジアへの移動についての報告であるとともに,フランスへの労働移動ゆえに出稼ぎ民として位置づけられてきたソニンケ移民をディアスポラの概念との比較のなかで捉えなおす試みである。 20世紀におけるソニンケの移動は,まず西アフリカの「故郷」から他のアフリカ諸国へ進み,80年代以後,アジアへ拡大した。移動は社会と家族がソニンケ男性に求める文化的な営みであると同時に,生計を立てるための経済的な活動である。また民族集団と「故郷」への強い帰属意識が基盤になっている。 内容は聞き取り調査から得られた移民の移動史の記述を中心とし,そこから移動の行程と経済的な営みの特徴を描き出している。移動先については世界経済のなかでソニンケの経済的な動きを理解することが重要であり,経済活動については帝国主義拡大期以前におけるソニンケの移動の営みとの連続性を考慮する必要がある。その作業を通じてソニンケの移動の全体像をつかむことができると思われる。
宇佐美, まゆみ USAMI, Mayumi
本稿では、ポライトネスを敬語のような言語形式だけの問題としてではなく、あいづちやスピーチレベルのシフトなどの現象など、談話レベルの現象も含めて実際の「ポライトネス効果」を捉える必要があるとして、その基本原則を体系化した「ディスコース・ポライトネス理論」(宇佐美2001;2003;2008;2009,2011)の基本的概念を簡単に導入する。DP理論では、話し手と聞き手の「ある言語行動の適切性についての捉え方や期待値」(「基本状態(デフォルト)」)が許容ずれ幅を超えて異なることが、実際の「インポライトネス効果」をもたらすと説明する。ここでは、主に、フランス語圏における学習者が様々な状況で遭遇する異文化間ミス・コミュニケーション場面の事例を取り上げ、それらがこの理論でいかに解釈できるかを提示し、この理論の解釈の可能性と妥当性を検証する。また、このような分析や解釈が、ミス・コミュニケーションの事前防止にいかに適用できるか、また、それらの考察をいかに日本語教育に生かしていくことができるかについても考察する。
日高, 薫
本稿は,18世紀末から19世紀初頭にかけて制作された西洋銅版画写しの輸出漆器のうち,風景を表したプラークに注目し,その原図と技法に関して検討を加えることによって,輸出漆器特有の問題の一端を示すことを目的とする。筆者はかつて,肖像図蒔絵プラケットの原図となった銅版画の同定と,両者の比較に基づいて,それらの制作事情に関する考察を加えたことがある。今回は,同様の手法で,風景図蒔絵プラークの特徴について考察し,一連の漆器に共通する問題を抽出したい。風景図蒔絵プラークの中で,共通する画家による銅版画を原画とする作例として,フランス人画家ジャン・バルボーが手がけた版画集に基づいたローマ景観図蒔絵プラークのシリーズを紹介し,多くの作例がまとまって注文された可能性を指摘する。さらに,ロシアの画家マハエフにちなんだ銅版画による作例を取り上げることにより,原図となった版画が蒔絵制作に際してどのように用いられたかを考察する。
Hirai, Kyonosuke
熊本県水俣市で水俣病被害者を支援する団体,水俣病センター相思社(以下,相思社)は,1990 年,それまでの加害企業や国家に水俣病被害者への謝罪と補償を求める未認定患者運動から,水俣病に関する歴史と記憶を蓄積し後世に伝える考証館活動へと,活動の中心を移行した。彼らの考証館活動はしばらく停滞した後,1990 年代半ばに大きな発展を遂げていく。本稿の目的は,この考証館活動の成功を可能にした社会的諸条件を明らかにすることである。フランスの社会学者ピエール・ブルデューの「界」概念を参考にしながら,本稿は,考証館活動の発展の歴史を,1990 年代の水俣病運動界の変容によってもたらされた可能性と制約のなかで,相思社が実践を継続的に変化させていく過程として理解することを試みる。その際は,水俣病運動界の変容によって生じた機会と制約が相思社の実践を変容させる過程だけでなく,相思社の考証館活動の実践が水俣病運動界を変容させる過程も考察の対象にする。
薄, さやか USUKI, Sayaka
本稿の目的は、植民地期カンボジアの行政史料群である理事長官文書について、アーカイブズ学の視点から史料群そのものを再考するものである。特に分類システム(ブデ分類)とフォンド記述に着目し、その妥当性について批判的検証を試みた。理事長官文書とは、フランス行政機関である理事長官府(中央)および理事官府(地方)の行政文書/業務記録をカバーしたコレクションである。現在は国立公文書館に保管されており、分類には当時のインドシナ文書管理分類であったポール・ブデ考案のブデ分類が採用されている。ブデ分類は図書館分類体系と親和的な主題別分類であるため、史料群構造を反映した階層構造とはなっておらず、さらに内戦による再整理・再分類が生じているため、現秩序維持とも言い難い。またフォンド記述についても、出所が異なる王国文書が混在するなど、時代区分や組織体の点で齟齬が生じている。つまり理事長官文書とは、組織体の記録というよりも、全植民地期レコードと認識すべき史料群であるといえる。
望月, 直人
1878 年末、清朝の武官―具体的には広西省潯州協副将―李揚才が反乱を起こし、ベトナ ム李朝の末裔を名乗ってベトナム北部へ侵入した。この事件は、ベトナムの保護国化を目指 すフランスと伝統的な「天朝」と「藩属」の関係を阮朝との間にも築いていた清朝の競合に 少なからず影響を与え、後の清仏戦争につながってゆく。 では、この李揚才事件は、どのような歴史的背景から生じたものと理解すればよいだろう か。そもそも清朝の武官がベトナム王朝の末裔を名乗って蹶起するという事件は、他に類例 を見ない。また、当時のベトナムでは、黒旗軍など中国から流入した華人私兵集団が割拠し ていたが、李揚才は歴とした清朝の高位の武官であって、一見のところ、同列には語り得な い。 ただ、すでに指摘されているように、その武装反乱の間、李揚才は華人私兵集団と提携し た。本稿は特にその点を掘り下げて考察し、李揚才が清朝官員として軍務についていた時期 から華人私兵集団と関係を結び、それが彼の蹶起につながったという仮説を提示する。
石井, 香絵 ISHII, Kae
明治二一年、フランス留学から帰国した合田清は、洋画家山本芳翠とともに生巧館を設立し、日本に本格的な木口木版の技術をもたらした。初期の新聞附録から雑誌の表紙、挿絵、口絵、教科書の口絵、挿絵、広告、商標、パッケージなどの多くの複製メディアに登場し、生巧館は出版文化の隆盛とともにその活動が広く知られることとなった。しかしその全貌については不明な点が多く、研究も充分には進められていない。国文学研究資料館には生巧館が残した木口木版による膨大な数の清刷り(印刷にかける前の試し刷り)が所蔵されている。本稿では特定研究「生巧館制作による木口木版の研究―国文学研究資料館所蔵品を中心に」のこれまでの研究成果をふまえ、生巧館設立前後の時代を見直しつつ当館所蔵品の美術および歴史的価値について考察する。初期新聞附録の時代、続く雑誌・教科書の時代、後年の時代それぞれの活動状況と所蔵品がどのように関連づけられるか検討し、併せて所蔵品を手がかりに生巧館の活動の一端を明らかにしていくことを試みる。
Takezawa, Shoichiro
食と農は人類学の主要分野のひとつだが,わが国の人類学的な食研究は多様性の理解にアクセントが置かれ,現在世界中で進行している食と農の急速な変化に目を向けることはほぼなかった。本研究は,アグリビジネスによって主導されている世界中の農業の変化と,それへのオールタナティブとしての新たな食体系の創出の試みを具体的なケースに沿いながらたどるものであり,よりグローバルで再帰的な性格をもっている。 アグリビジネスは20 世紀初頭以来急速に発展した産業分野であり,トラクターや化学肥料・除草剤,1980 年以降は遺伝子組み換え作物を開発することで日本を含めた世界中の農業に多大な影響を与えてきた。こうしたアグリビジネス主導の農業に対し,公然と反旗を翻しているのが欧州連合とフランスの農業政策である。1990 年代に確立されたそれは,農業の多面的機能の概念にもとづき,農業を単なる経済的活動としてではなく,農業が環境保全と地域社会の維持,地域経済活性化のための核心的ファクターであるととらえている。 そこから欧州連合は有機農業に積極的な保護をおこない,各国での急速な発展につなげている。2016 年の全耕地面積中の有機栽培農地の割合は,オーストリア21.9%,スウェーデン18.0%,イタリア14.5%であり,とりわけ注目されるのがフランスである。それは2007 年に1.9%と低率であったのが,2011 年3.6%,2016 年6.6%と急速に進展している。 一方,わが国の有機農地の割合は,2007 年0.1%,2011 年0.2%ときわめて低く,その後も大きな変化はない。その原因は,政府の農業改革が失敗に終わったこと,化学肥料と農薬の販売で多大な利益を上げている農協が有機農業に背を向けていること,兼業によって安定した収入を確保している農業者が手のかかる有機農業に不熱心なこと,などにある。 有機農業の進展は,政府の政策だけでなく,農業者や消費者の意識的な行動にもよっている。農業者が生産物を直接販売するファーマーズ・マーケットや,生産者と消費者が契約をむすぶCSA やアマップなどの活動も各国でさかんになっている。わが国でもこれらの活動は近年活発になっており,生産者と消費者を直接に結びつける試みとして生活クラブに代表される消費者運動や「食べる通信」などの活動を挙げることができる。 これらの活動は,生産者と消費者のあいだの信頼関係を重視し,両者に積極的な関与をうながし,生産にかかわる情報を公開し,なにを生産しなにを食べるかという生産者と消費者の自己決定権を尊重する点に特徴をもつ。これらの特徴は民主主義のそれと共通するものであり,私がこれらの実践を「食の民主主義」と呼ぶのはそのためである。 本稿は具体的なケースにもとづきながら,これらの実践にどのような可能性があり限界があるかを検討することで,私たちの食と農の未来を展望しようとするものである。
山元, 淑乃 Yamamoto, Yoshino
日本国外、特に在留邦人の少ない地域の学習者は、初級学習を終え、「教室の外で日本語が通じない」という壁にしばしばぶつかる。自然会話と教室の日本語が異なることは、ある程度仕方がないとはいえ、そのギャップをより小さくすることはできないだろうか。日本語母語話者が自己紹介をするときには、普通「~です」と名前を言う。初級教材の第一課によくみられる「わたしは~です」という文が自然であるのは、極めて特殊な場合である。それにも関わらずこの例文がしばしば提示される背景には「日本語にも必ず主語がなければならない」という束縛があるのではないだろうか。西洋諸言語と違い、日本語が述語だけでも成り立つことが指摘されており、実際のコミュニケーションには述語だけの文が頻出する。本稿は、2006年にフランス国立リール第三大学で行われた、パワーポイントの絵とアニメーションを駆使した文型導入授業、第一課の実践報告である。パワーポイントを用いたイラストの提示により、翻訳や母語による説明がなくとも、学習者に「述語だけで成り立つ日本語」の特徴を気づかせ、理解を図る指導法を模索した。
園田, 英弘
華族は、明治の政治と社会が抱え込んだ矛盾の結節点に誕生した。それは、世襲の特権をどのように見なすかという問題と、深くかかわりを持っている。周知のように、明治維新新政府は武士の身分的特権を廃止し、四民平等の社会を作った。その明治政府が、日本の貴族である華族を形成したのである。そこには、特別の理由がなくてはならない。 フランス革命以降、西欧において貴族は社会に深く根を張った自然的生成物ではもうなかった。しかしながら同時に、貴族は過去のたんなる遺物ではまだなかった。それは政治的作為を加えても、貴族を維持したり新たに作り出すような存在であった。ヨーロッパで貴族廃止令が何度も出されているにもかかわらず、貴族が復活するのはなぜなのか。このことは、明治政府の担当者の頭を悩ました。貴族のこのような過渡期的性格を一方で念頭に入れつつ、他方で日本の現実を直視したところに生まれたのが、高度に政治的人工物である華族という政治的身分であった。それは、社会的実力を国家が承認する貴族ではなく、国家権力によって人為的に作り出された社会階級ということを意味していた。
本田, 康雄 HONDA, Yasuo
日本の新聞は総発行部数において自由主義諸国中の第一位であり、一社あたりの総発行部数は読売新聞の約一千万部が世界最高である。そして中央紙、地方紙を問わず日本の新聞には絵入りの新聞小説が朝・夕刊に掲載されている(序)。これは明治のはじめ東京絵入新聞などの小新聞(大衆紙)の雑報欄に生じた所謂三面記事の連載にはじまり(一、雑報記事の連載)、これが虚実相半ばする実話から記事の形を採る創作へ展開して読者の人気を得た(三、所謂「続きもの」)。坪内道遙は読売新聞(改進党系)において紙面の改革を断行し、雑報記事を綴り合せた様な続きものを廃し、別に小説欄を新設した。明治十九年一月より『鍛鐵場の主人』(フランスのジオルジュオネー原作、加藤瓢乎訳)、つゞいて『当世商人気質』(饗庭篁村)を連載した。小説の書き手として尾崎紅葉、幸田露伴が入社し、文壇に紅露時代が成立することとなった(三、新聞小説と坪内遁遙)。坪内道遙の小説欄の改革は、明治十八年に発表した『小説神髄』の理論に基くもので江戸時代以来の我国の道徳的文学観と文化の構造に変更を迫るものであった(おわりに―坪内逍遙の小説観)。
Delbarre, Franck
本論はビュジェー地方に位置するヴァルロメー地域で現在まだ話されている危機言語であるフランコプロヴァンス語のヴァルロメー方言の所有詞と不定詞についての考察である。今回は『ヴァルロメー方言』という書物(2001年出版)のコーパスに基づき、とりわけ該当方言の不定詞の形態とシンタックスを中心に述べる。フランコプロヴァンス語の諸方言については19世紀末から様々な研究が行われたが、戦後はむしろ研究の対象から外れる傾向にあり、現在話されているフランコプロヴァンス語の諸方言についての実態(その話者数や言語使用についてだけではなく、その言語的な発展についてでもある)はあまり知られていない。ここ20年で発行された書物(特に Stich と Martin)は形態論においては様々な情報を与えているが、シンタックス論においては大きく不足しているので、あまり話題にされていないヴァルロメー方言の形態とシンタックスのあらゆる面において研究を始めることにした。『ヴァルロメー方言』におけるヴァルロメー方言の不定詞の形態をまとめて、時折フランス語(本論の執筆者の母語でもあり、言語的にはフランコプロヴァンス語に最も近い言語でもある)の観点からも見ながらその方言の形態とシンタクスについて述べる。このような現代ヴァルロメー方言のシンタクスと形態の記述が試みられたのは初めてであろう。
Miyazato, Atsuko 宮里, 厚子
本稿で取り上げる作品は、戦後生まれのアート・スピーゲルマン(アメリカ、1948~)とパトリック・モディアノ(フランス、1945~)が、ユダヤ人であるそれぞれの父親がどのようにナチ時代のヨーロッパを生きのびたかを描いた物語である。しかし作品では同時に、父親と作家である息子との関係も描かれており、本稿はこの点に焦点を当てたものである。戦争によって価値観や生き方を覆された父親の性格や行動は、息子にとって理解しがたいものであり、それを理解しようというのがそれぞれの作品の原点となっている。したがって作品を通して、息子たちがどのように父親を理解しようとしているのか、あるいは父親に対する困惑や嫌悪の感情とどのように折り合いを付けようとしているのか、そして理解あるいは和解できたのかということを検証していきたい。さらに、父親の生き方が息子の人生に与えた影響を探り、つまりは戦争が戦争を知らない世代に与えた影響も見ていく。ところで、この論文を書くうえで確認しておきたいのは、ここで取り上げるMausが漫画という表現形式をとっていることである。しかしその内容は、作者も強調している通りノン・フィクションであり、世界各国の批評家から高い文学的評価も受けているため、ここでは取り上げる2作品における漫画と小説という表現方法の違いを問題にはしないということを付け加えておく。
横山, 伊徳
一八六一年は、老中久世広周と安藤信正らが、前年に倒れた井伊直弼により着手された和宮降嫁を実現する過程と理解される(文久元年十二月十一日、江戸城入輿)。そのため、幕府は対外政策に対する朝廷の意向を汲まざるを得なくなり、両都両港開市開港延期のため条約締結国へ将軍書翰を送ることとなった。そのうちアメリカは、大統領リンカーン親書としてこれに答えた。このことはこれまでほとんど検討されることはなかった。したがって、彼の親書がどのような内外の政治を反映したものであるか、親書が幕府の政策にどのような影響を与えたか、について意識されたこともなかった。本稿は、リンカーンや国務長官スワードの動きを分析するため、オランダを始め、イギリスなどの情報を用い、米国公使館通訳ヒュースケンの襲撃殺害事件をきっかけとするアメリカの対日強硬政策の形成とその転回を明らかにする。それらの情報は、各国の、南北戦争勃発直後のリンカーン政権への評価とつながっている。同政権は北軍の困難を背景に当初煽動した対日実力行使を放棄し、条約違反行為に対するペナルティを含意する条約遵守の要求へと転換する。幕府は外国人殺傷に対する金銭賠償要求を受諾し、このことはオランダ(船長殺人事件)、イギリス(東禅寺事件)、フランス(旗番負傷事件等)へも波及した。その後賠償要求が、幕府の外交を困難に陥れたことはよく知られている。南北戦争と環大西洋世界の国際政治はリンカーン政権の対日政策転換をもたらし、幕府外交は隘路にはまっていくのである。
園田, 直子 Sonoda, Naoko
今世紀になってから,有機化学の発展に伴い多くの合成の素材が開発されており,そのうちのいくつかは,絵具,ワニス,接着剤などの材料として用いられている。これらの新しい素材は,修復のみならず製作にも使われるので,博物館資料にも含まれるわけである。博物館資料の場合は,たとえ試料の採取が許されたとしても,その量は極く微量であることを,同定方法およびその実験条件の設定にあたっては考慮に入れなければならない。ここでは,同定方法として熱分解ガスクロマトグラフィーを用い,絵画用合成絵具の展色剤を分析してみた。フランスで一般に普及している7社8種類の合成絵具の展色剤を調査し,主成分(ビニル樹脂またはアクリル樹脂)のみならず,添加されている可塑剤も同定することができた。また,アクリル共重合体の場合は,それを構成しているモノマーの種類まで判明する。これらの分析結果により,絵具は,一度開発され市販されても,改良が続けられていることが明らかになった。しかし,構成成分の変化が必ず消費者に知らされるとは限らないので注意を要する。博物館資料に使われ始めている新素材を,熱分解ガスクロマトグラフィーで体系的に同定した例は今まであまりない。しかし同方法を用いると,個体の試料をそのまま前処理を必要とせずに使えるので,試料のロスが少ないという利点がある。新素材の微量試料の分析には,有効な一方法であるので,今後いろいろと応用できよう。
Saito, Akira ロサス・ラウロ, クラウディア マンフォード, ジェレミー・ラヴィ ウィンキー, スティーヴン・A スロアガ・ラダ, マリナ スポールディング, カレン
集住化とは広範囲に分散する小規模な集落を計画的に造られた大きな町に統合する政策であり,スペイン統治下のアメリカ全土で実施された。そのおもな目的は先住民のキリスト教化を促進し,租税の徴収と賦役労働者の徴発を容易にすることだが,それに加えて,人間は都市的環境でのみその本性を発揮する,という考え方が背景にあった。第5代ペルー副王フランシスコ・デ・トレドが1570年代にアンデスで実施した政策は,約140万の人びとを800以上の町に集住させる大規模なものであり,在来の居住形態,社会組織,権力関係,アイデンティティを大きく変えたといわれている。 本論文は,2013年10月24日にリマの教皇庁立ペルーカトリカ大学で開催された国際公開セミナーの成果であり,副王トレドの集住化について近年刊行された以下の3冊の研究書の学術的意義を論じている。従来の研究では,トレドの政策はアンデスの生活様式を全面的に否定し,それをヨーロッパのもので置き換える根本的改革とみなされてきた。しかし近年,歴史学,人類学,考古学の分野において従来の見解の見直しが進んでいる。植民地事業が内包する矛盾や両義性,支配/抵抗という二項対立に還元できない植民者と被植民者の錯綜した交渉,先住民による再解釈や選択的受容など,従来見落とされてきた側面の解明が進み,集住化のイメージが刷新されつつある。この動向は,コロニアル/ポスト・コロニアル研究全体の動向とも連動している。・ジェレミー・ラヴィ・マンフォード『垂直の帝国―植民地期アンデスにおける先住民の総集住化』デューク大学出版会,2012年。・スティーヴン・A・ウィンキー『交渉される居住地―インカとスペインの植民地統治下におけるアンデスの共同体と景観』フロリダ大学出版会,2013年。・マリナ・スロアガ・ラダ『交渉される征服―1532年から1610年までのペルーのワイラスにおけるワランガ,地方権力,帝国』ペルー問題研究所/フランス・アンデス研究所,2012年。
矢野, 昌浩 Yano, Masahiro
佐野, 真由子
本稿は、幕末期に欧米諸国から来日しはじめた外交官らによる、登城および将軍拝謁という儀礼の場面を取り上げ、そのために幕府が準備した様式が、全例を連鎖的に踏襲しながら整備されていく過程を検証する。それを通じて、この時期の徳川幕府における実践的な対外認識の定着過程を把握するとともに、その過程の、幕末外交史における意義を考察することが本稿の目的である。 欧米外交官による江戸城中での外交儀礼は、安政四(一八五七)年十月二十一日におけるアメリカ総領事ハリスの登城・将軍拝謁を初発の事例とするが、その際の様式は、徳川幕府が長い経験を持つ朝鮮通信使迎接儀礼を土台に考案されたのであった。筆者がすでに別稿で詳細を論じたそのハリス迎接を起点として、本稿では、以降数年の動きを追跡する。具体的には、安政五年にオランダ領事館ドンケル=クルティウス、続いてロシア使節プチャーチンを江戸城に迎えるにあたり、幕府内で外交儀礼の定式化をめざして進められた検討の実態、その後、安政六年に再びハリス(アメリカ公使に昇格)が登城した際、日米間に発生した問題と、その解決のため翌万延元(一八六〇)年に実行された同じハリスによる「謁見仕直し」の経緯、さらに、ここまでに検討された式次第が同年、イギリス公使オールコック、フランス代理公使ド=ベルクールの登城・将軍拝謁に準用され、当面の通例として定着に向かう様を、史料から明らかにする。 ここから浮き彫りになるのは、「幕末前期」とも言うべきこの時期の徳川幕府が、従来国交のなかった欧米諸国から次々と外交官が到着する事態に向き合うなかで、その迎接をできるかぎり特別視せず、もとより長きにわたって政権を支えてきた各種殿中儀礼の枠組みの中に取り込み、平常の準備の範囲で彼らに対しうる態勢をつくろうとした努力の過程である。儀礼を窓口に、より広義の解釈を試みるなら、対外関係業務そのものを幕府の一所掌領域として安定させ、持続可能なものにしていこうとする意思が、ここに表れていると言うことができる。
神庭, 信幸 Kamba, Nobuyuki
これまで行った調査により,日本人画家が日本国内あるいはヨーロッパの各地で制作した19世紀後半の油彩画の下地は,天然に産出する白亜を主成分とする白亜型,鉛白を主成分とする鉛白型,その他として亜鉛華を含む下地の3種類の系統に分類できることが分った。更に,白亜型下地は日本およびイギリスで制作された作品に多く,鉛白型下地はフランスおよびイタリアにて制作された作品に特徴的であることから,下地の種類と制作地とに強い関連性が存在することも明かとなった。この内イギリスと日本に共通する白亜型下地は,当時の日本の社会的状況や,日本周辺の地層からは白亜が大量に産出しないことなどを考え合わせ,イギリスで生産されたものと判断されるが,多くのカンバスがカンバスマークなどの生産地を特定する記録を持たないためそれを実証することが出来なかった。そこで,19世紀イギリスにおけるカンバス製造の実体を調査すると共に,イギリス製カンバスの分析によって下地組成に関する知見を得,これによって白亜型下地とイギリスにおいて製造された下地との関連性を検証することとした。本稿では,19世紀イギリス絵画のカンバスに押されたスタンプ,布の経緯糸の本数,下地の状態,および19世紀イギリスにおけるカンバス製造会社の推移に関して行った調査について述べる。調査によって,カンバスのスタンプマークは必ずしも総ての製品に押されるものではなく,むしろ19世紀では稀な性格のものであることが判明した。また,カンバスの経緯糸の本数は経緯糸共に15本前後のものが過半数を占め,これが19世紀に特徴的な布であると言えるだろう。これら2点は,わが国の19世紀の作品にも共通する特徴である。次に,カンバスの製造会社に関しては,少なくとも15社が営業していたことが明かとなった。18,19世紀イギリスの職業別分類帳による調査結果を参考にすると,Reeves&Sons,Geo.Rowney,Thomas Brown,Chales Roberson,Winsor&Newton社等の製品が比較的多く使用されたと推測できる。
島津, 美子
江戸後期以降,欧米から輸入された合成顔料には,従来使われてきた天然顔料と色調の似た顔料があり,群青と呼ばれる二種類の青色顔料がこれにあたる。群青は,工業分野では合成ウルトラマリンブルーを意味し,日本絵画や彩色歴史資料を扱う分野では,藍銅鉱(アズライト)から作る顔料を示す。前者は1828年にフランスで合成方法が確立し,日本にも19世紀後半には輸入されていた。明治期までは「舶来群青」,「人造群青」などと呼ばれたが,工業分野で広く用いられるようになると,接頭語がなくても合成ウルトラマリンブルーを表すようになった。一方,前近代の日本では,アズライトを原料とする青色顔料に,紺青と呼ばれたものもあった。群青よりもこい青色のものを紺青と称したことから,現在の工業分野では合成顔料プルシアンブルーの和名とされている。洋紅は,明治期の錦絵に多用されたといわれており,名前が示す通り,輸入の赤色顔料である。もともとは南米大陸原産のカイガラムシ,コチニールから作るカーマインレーキであったが,合成染料の種類が多くなるころには,必ずしもコチニールではなく,赤色の合成染料に変わっていた可能性が高い。本研究では,これらの群青・紺青,洋紅について,名称と原材料がどのように理解されていたのかを,文献調査と実資料の分析を通して整理した。群青と紺青のように材質と名称が分野により異なっているのは,江戸後期に色調の似た合成顔料が輸入されたことが契機といわれているが,実際には,明治後期以降であったと考えられる。明治期にさまざまな外国産の顔料が輸入されたことにより,在来の顔料の名称と色調から日本語の顔料名が付けられた。一方で,分野によっては,江戸時代から使われていた顔料を名称とともに継続して使っていた。江戸時代後期から明治期の顔料については,当時の名称と材質との関係は一定ではなく,どのような文脈で使われているかを理解する必要があろう。
高作, 正博 Takasaku, Masahiro
山本, 冴里
日本発ポップカルチャー(以下、JPC)に対する評価や位置づけは、親子間から国家レベルまで様々な次元での争点となった。そして、そのような議論には頻繁にJPCは誰のものか/誰のものであるべきかという線引きの要素が入っていた。本研究が目指したのは、そうした境界の一端を明らかにすることだった。 そのために、まず、日本政府がJPCをどのように位置づけているのかということを記述した。そこでは、JPCは日本文化という上位概念に内包される一部として位置づけられ、JPCの人気は「「日本」の理解者とファンを増やすため」に有効だと考えられていた。 次に、あるフランスのルポルタージュ番組において、JPCがどのような枠組みに結び付けられ、JPCを巡ってどのような線引きがあったのかを描き出した。そこでは、JPCと日本とは切り離せないものとして扱われていたが、必ずしもそれは、日本が政府レベルで主張するような、圧倒的に好意的なものというわけではなかった。また、アジアという概念が、日本を内包するものとして、頻繁に提出されていた。 最後に、そのルポルタージュに寄せられた、匿名かつ大量の(一〇〇〇を超える)コメントを分析した。この匿名コメント群は、第二のルポルタージュ・レベルで敷かれた境界設定を変形したり、強化したり、逆転させたりしていた。たとえばJPCの帰属を巡って、日本とJPCとを引き離すもの、あるいは日本とアジアや日本とアジア内他国を対立させるような境界設定が見られた。 なお、分析対象としたコメントの特徴は、その多言語性(あわせて六言語が使用されていた)である。分析ではまた、いわゆる「炎上」が発生していた際の使用言語に注目し、媒介語として英語があったからこそ、連続的な相互否定のコメントが大量生産されたのだということを推定した。また、英語コメントの中に、否定しあう双方のいずれでもない第三者へ向けられたメッセージがあったことを指摘した。このことから、最後に、現在の「使えるようになる」「言いたいことを言えるようになる」ことばかりを重視した言語学習/教育の問題点と課題を延べた。
関沢, まゆみ Sekizawa, Mayumi
本論は信仰と宗教の関係論への一つの試みである。フランスのブルターニュ地方にはパルドン(pardon)祭りと呼ばれるキリスト教的色彩の強い伝統行事が伝えられている。それらの中には聖泉信仰や聖石信仰など多様な民俗信仰(croyances populaires)との結びつきをその特徴とするいくつかのタイプが存在するが,なかでもtantadと呼ばれる火を焚く行事を含むタイプが注目される。フィニステール北部に位置するSaint-Jean-du-Doigtのパルドン祭りはその典型例であるが,聖なる十字架がtantadの紅炎の中で焼かれる光景は衝撃的である。ブルターニュ各地のパルドン祭りにおけるtantadの火の由来を考える上で参考になるのは,夏至の夜の「サン・ジャンの火」(feu de la saint Jean)の習俗である。この両者の比較により,以下のことが明らかとなった。伝統的な習俗としては夏至の火の伝承が基盤的であり,そこにパルドン祭りという教会の儀礼が季節的にも重なってきて,パルドン祭りの中にtantadの火として位置づけられたものと考えられる。伝統的な「夏至の火」には,先祖の霊が暖まる,眼病を治す,病気や悪いことを焼却する,という信仰的な側面が確認されるが,それは火の有する暖熱,光明,焼却という3つの基本的属性に対応するものである。また,tantadの火を含まない諸事例をも含めての各地のパルドン祭りの調査分析の結果,明らかになったのは以下の点である。パルドン祭りの構成要素として不可欠なのは,シャペルの存在と聖人信仰(reliques信仰),そしてプロセシオン(procession)である。パルドン祭りはカトリックの教義にのみ基づく宗教行事ではなく,ブルターニュの伝統的な民俗信仰の存在を前提としながら,それらの諸要素を取り込みつつ,カトリック教会中心の宗教行事として構成され伝承されてきた。したがって,パルドン祭りの伝承の多様性の中にこそ伝統的な民俗信仰の主要な要素を抽出することができる。火をめぐる信仰もその一つであり,キリスト教カトリックの宗教行事が逆に伝統的な民俗信仰の保存伝承装置としての機能をも果してきているということができるのである。
光平, 有希
精神科医の呉秀三(1865―1932)は、近代精神医療の普及に取り組む中、明治期において既に、自身が医長を勤める東京府巣鴨病院で音楽療法の試行を開始した。呉の音楽療法実践に関しては、巣鴨病院の後身にあたる東京都立松沢病院併設の「日本精神医学資料館」を中心に、当時の状況を窺い知ることのできる資料が現存しているものの、これまでその実態が明らかにされることはなかった。しかしながら、日本の音楽療法史上において、従来の理論紹介に終始することなく、実際に体系的、及び長期的に行った呉の音楽療法は重要な位置を占める。 したがって本論文では、呉の音楽療法の実態と、その思想的背景を解明することを研究目的とし、一、新聞記事にみる東京府巣鴨病院での音楽療法実践内容、二、呉秀三における精神医学理論の形成的背景、三、「作業療法」における「音楽弾奏」としての能動的音楽療法、四、「遺散療法」における「慰楽」としての受動的音楽療法、五、巣鴨(松沢)病院における大正期以降の音楽療法、といった順で稿を進め、既に刊行されている資料のみならず、「日本精神医学資料館」所蔵の病院側未刊行資料も対象として分析を行った。 その結果、巣鴨病院においては、「作業療法」の一環として患者自らが楽器演奏を行うことで治療的効果を見込むといった能動的音楽療法が導入されると同時に、「遺散療法」の一環として患者が音楽を聞くことによって効果を見込む受動的音楽療法も行われていたことが明らかとなった。また、呉が推奨した音楽療法の思想的背景には、呉の留学先であったドイツやフランスで行われていた精神医療あるいは音楽療法思想が大きく関連していることも判明した。その一方、巣鴨病院の音楽療法実践に用いられた楽器や演目に関しては、患者の嗜好に基づき、当時の文化土壌に根付いた音楽が推奨されていたことも明らかとなった。そして、これらの音楽療法が、精神療法の一環として患者に直接的・間接的な効果をもたらしたこと、さらに、音楽療法が呉の独断で行われていたのではなく、医師や看護人も含め、病院組織全体で認識が図られていたことも解明された。
田名部, 雄一
動物の種の間には、互に外部的な共生現象がみられることが多い。ヒトと家畜の間の共生現象の大部分は、ヒトには利益があるが、他方の種(家畜)には大きな害はないが、ほとんど利益のない偏利共生(Commensalism)である。ヒトと家畜の間の共生現象のうち、相互に利益のある相利共生(Partnership)の関係にあるのは、ヒトとイヌ・ネコの間の関係のみである。 この総説では、ヒトによる他の動物種の家畜化にともなう共生関係の成立と維持について、時間的な歴史関係に従って古い順に事例をあげて述べた。イヌは、最古の家畜で、三八、〇〇〇―三五、〇〇〇年前にオオカミから家畜化された。トナカイは、約一五、〇〇〇年前に家畜化されたと考えられている。農耕の始まる前に、ヒツジ、ヤギが西アジアで、ブタが中国で家畜化された。農耕開始後、間もなく家畜化されたのは、西アジアにおけるウシと、東南アジアでのニワトリである。 農耕が完成した後には、多くの動物が家畜化され、そのおもなものは、古い順に上げると、ハト、ヒトコブラクダ、フタコブラクダ、ラマ、アルパカ、ロバ、ウマ、スイギュウ、ミツバチ、カイコ、インドゾウ、ネコ、モルモット、ガチョウ、アヒル、バリケン、シチメンチョウ、ホロホロチョウ、ヤクなどである。このうち、ラマ、アルパカ、モルモット、バリケンは、ペルーで家畜化され、シチメンチョウは、メキシコで家畜化された。他は旧世界で家畜化されている。 家畜化された場所の多くは、ユーラシア大陸で、アフリカで家畜化されたのは、ロバ、ミツバチ、ネコ、ホロホロチョウの四種にすぎない。マウスとドブネズミは、ヒトが農耕を開始した後にヒトと接触し、長い間ヒトの寄生動物(片方には害のある共生関係のある動物)であったが、近年、医学および生物学用の実験動物(家畜)となり、ヒトと偏利共生関係を持つものに変った。 歴史時代になってから家畜化された動物は少ない。ウサギがフランスで、ウズラが日本で、ミンクが米国・カナダで、キツネがソ連で家畜化されたのがその例である。一方、一度家畜化されながら、再野生化した例として、アフリカゾウとチータがあげられる。 生物間の共生の真の意味と、その重要性の再確認は、種の生存とその遺伝資源の保存にも重要な知見を与えるものであり、地球上の生物界全体から、相互の共生関係を再評価する必要があると考えられる。
春成, 秀爾 Harunari, Hideji
ユーラシアの後期旧石器時代前半,オーリニャック期の約40,000年前に出現し,グラヴェット期の約33,000~28,000年前に発達した立体女性像は,出産時の妊婦の姿をあらわし,妊娠・安産を祈願する護符の意味をもっていた。しかし,グラヴェット期後半の約24,000年前に女性像は消滅する。そして,後期末~晩期旧石器時代マドレーヌ期の約19,000年前に線刻女性像や立体女性像が現れ,その時期の終わり頃の約14,000年前に姿を消す。日本では,大分県岩戸遺跡出土の石製品が女性像とすれば約25,000年前で,もっとも古い。愛媛県上黒岩遺跡から出土した立体女性像の石偶は14,500年前で,その後,13,000年前頃には三重県粥見井尻遺跡の土偶があり,縄文早期以降の発達の先駆けとなっている。後期末~晩期旧石器時代の立体女性像は,フランスのロージュリー=バス型,ドイツを中心とするゲナスドルフ型,ロシア平原のメジン型,シベリアのマイニンスカヤ型,日本の上黒岩型と粥見井尻型,相谷熊原型を設定することができる。ロージュリー=バス型はアングル=シュール=ラングラン型の岩陰の浮彫り女性像に,ゲナスドルフ型はラランド型の岩陰の線刻女性像またはホーレンシュタイン型の板石の線刻女性像に起源がある。ゲナスドルフ型の立体女性像は,腹部のふくらみはなく,乳房を表現した例は少なく,妊婦をあらわしているようにはみえない。しかし,ラランド型の線刻女性像に先行するペック=メルル型の線描女性像は,妊婦の姿をあらわし,さらにラ=マルシュ型の線刻女性像は出産時の妊婦を表現している。ゲナスドルフ型の立体女性像も,妊婦を記号化した表現と理解するならば,後期末~晩期旧石器時代の立体女性像も,後期旧石器時代前半の立体女性像と同様,妊娠を祈り出産を願う呪いに使った可能性がつよい。その背景には,最終氷期の極相期がつづくなかで世界的に人口が減少していた,あるいは不妊の傾向が顕著にあらわれていたという事情があったのであろう。ユーラシアには男根形の象牙に記号化した女性器を表現した男女交合の象徴物がある。ロシア平原のメジン遺跡の旧石器人は家屋内で,羽状文を施したマンモスの頭骨,下顎骨,肩胛骨を女性器にみたて,牙製の男根形拍子木でたたいて一種の音楽を奏でていた。立体女性像を妊娠・出産にかかわる護符とみるならば,それは妊娠あるいは出産を促す呪いの演奏であろう。上黒岩遺跡出土の棒状の石に羽状文や三角形を彫った線刻棒も,同様の目的をもって使用していた可能性がある。
鈴木, 貞美
本稿では、第二次大戦後の日本で主流になっていた「自然主義」対「反自然主義」という日本近代文学史の分析スキームを完全に解体し、文藝表現観と文藝表現の様式(style)を指標に、広い意味での象徴主義を主流においた文藝史を新たに構想する。そのために、文藝(literar art)をめぐる近代的概念体系(conceptual system)とその組み換えの過程を明らかにし、宗教や自然科学との関連を示しながら、藝術観と藝術全般の様式の変化のなかで文藝表現の変化を跡づけるために、絵画における印象主義から「モダニズム」と呼ぶ用法を採用する。印象主義は、外界を受けとる人間の感覚や意識に根ざそうとする姿勢を藝術表現上に示したものであり、その意味で、のちの現象学と共通の根をもち、今日につながる現代的な表現の態度のはじまりを意味するからである。 従来用いられてきた一九二〇年代後半から顕著になる新傾向には、「狭義のモダニズム」という規定を行い、ここにいう広義のモダニズムの流れに、どのような変化が起こったことによって、それが生じたのかを明らかにする。従来の狭義のモダニズムを基準にするなら、ここにいうのはモダニズム前史ないし"early modernism"からの流れということになる。 本稿は、次の三章で構成する。第一章「文藝という概念」では、日本および東アジアにおける文藝(狭義の「文学」、文字で記された言語藝術)という概念について、広義の「文学」の日本的特殊性――ヨーロッパ語の"humanities"の翻訳語として成立したものだが、ヨーロッパと異なり、宗教の叙述、「漢文」と呼ばれる中国語による記述、また民衆文藝を内包する――と関連させつつ、ごく簡単に示す。その上で、それがヨーロッパの一九世紀後期に台頭した象徴主義が帯びていた神秘的宗教性を受容し、藝術の普遍性、永遠性の観念とアジア主義や文化相対主義をともなって展開する様子を概括する。日本の象徴主義は、イギリス、フランス、ドイツの、それぞれに異なる傾向の象徴主義を受容しつつ、東洋的伝統を織り込みながら、多彩に展開したものだったが、その核心に「普遍的な生命の表現」という表現観をもっていた。これは国際的な前衛美術にも認められるものである。 第二章「美術におけるモダニズム」では、印象主義、象徴主義、アーリイ・モダニズムの流れを一連のものとしてとらえ、その刺戟を受けながら、二〇世紀前期の日本の美術がたどった歩みを概観する。 第三章「文藝におけるモダニズム」では、二〇世紀前期の日本美術と平行する文藝表現の動向を概観する。そして、それと狭義のモダニズムの顕著な傾向である表現の形式と構成法への強い関心との連続性と断絶を示す。ただし、広義のモダニズムの中には、もうひとつ、表現の即興性にかける流れも生まれていた。小説においては「しゃべるように書く」饒舌体で、それが一九三五年前後に、狭義のモダニズムに対して、ポスト・モダニズムともいうべき「この小説の小説」形式を生んでいたことをも指摘する。
樋口, 雄彦 Higuchi, Takehiko
徳川幕府の後身たる静岡藩が明治初年に設立した沼津兵学校が、士官養成機関としての進化という、きわめて限定された範囲において、幕末に幕府によって推し進められた軍制改革の最終到達点であるとする評価に誤りはない。しかし、一地方政権である静岡藩と中央政府である幕府との根本的な違いにより、軍制全般においては決して直線的な継承関係をなしていなかった。脱走・壊滅し自然に消え去った海軍は別として、陸軍については、幕府時代に生み出された膨大な兵力は静岡藩では不要とされ、大規模なリストラが実施された。幕府の軍備増強政策は、静岡藩では一転して軍縮路線へと変更されたのである。量的な問題のみならず、質的にも継承されなかったものが少なくない。本稿では、まず、沼津兵学校と、幕府が幕末段階で設立した三兵士官学校との継承関係の有無について検討する。そして、前者が、フランス軍事顧問団の指導により生まれた後者とは、人的にも組織的にも継続性がないことを明らかにする。次に、慶応四年(一八六八)五月・六月以降に始まった旧幕府陸軍の解体と再編の過程=静岡藩軍制の成立過程を点検する。幕府瓦解後、とりわけ慶応四年五月以降の陸軍組織の変遷については、『続徳川実紀』、『柳営補任』、『陸軍歴史』といった既存の諸文献には記載がない。つまり、旧幕府陸軍が静岡藩軍制へ接続する途中経過については、文献上空白であったといえるが、本稿ではその時期の実態を明らかにする。また、生育方・勤番組という不勤・無役者集団を維持しながら常備兵を擁さないという特殊な軍事体制を採用した静岡藩の特徴を、沼津兵学校との関わりの中で考察する。明治三年(一八七〇)沼津兵学校に付置された修行兵という存在が検討対象である。これは、政府の命令によって設置することとされた常備兵三〇〇〇人に相当するものと思われるが、その実態は、定数にはるかに足りなかったばかりでなく、単なる兵卒ではなく下士官候補者であった。静岡藩は、幕府陸軍時代の多くの遺産を切り捨てざるをえなかったが、一部の良質な部分については的確に引き継いだ。また、旧幕府陸軍にはなかった新たな人脈と発想を付け加え、したたかに明治政府に対した。それが、沼津兵学校であり、修行兵の制度であった。徴兵という形で庶民を軍事に取り込めたか否かという点においては、政府・他藩に遅れをとった静岡藩であるが、士官教育、さらには普通初等・中等教育という非軍事面において、全国をリードする先進性を示したのである。つまり、軍事部門よりも教育部門において近代化が先行したのであり、沼津兵学校は、「兵」学校であるよりも、兵「学校」であることを象徴する存在であった。
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