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石本, 雄大 Ishimoto, Yudai
本研究の目的は、ザンビア南部州で暮らすトンガの人々が築く日常のネットワークを明らかにすることである。また、こういった日常の人間関係が形成される状況についても報告する。調査地で観察される主なヒューマンネットワークには、親族ネットワーク、地縁ネットワーク、教会ネットワーク、学校ネットワーク、レクリエーションにおけるネットワーク、現金獲得上のネットワークがあった。またヒューマンネットワークの形成には、新たなネットワークの構築がなされる場合とネットワークの再構築がなされる場合とが考えられた。前者には婚姻、移住、就学、就業など、後者には婚姻、移住、離婚、卒業、離職、所属教会の変更、村の独立などが考えられた。本稿では、親族ネットワークの構築および再構築に強くかかわる婚姻に焦点を当て、ヒューマンネットワークの形成について考察した。その結果、近隣村の成員同士の結婚が多いこと、村の属す旧地縁集団の出身者同士の結婚が高い割合を占めることが明らかになった。
野入, 直美 Noiri, Naomi
本稿では、沖縄に在住する日系ペルー人と日系ブラジル人の来沖類型と、南米居住時代の日系・沖縄系のエスニック・ネットワークについて記述する。焦点となるのは、日系ペルー人と日系ブラジル人のエスニック・ネットワークに対するスタンスの違いである。調査対象となった日系ペルー人のほとんどは、ペルー居住時期に日系あるいは沖縄系で結合する緊密なエスニック・ネットワークに加わり、地元のペルー人との関係よりも親密な関係をエスニック・ネットワークに求めており、その意味で<エスニック・ネットワーク志向>と言える。一方、日系ブラジル人の対象者は、地元のブラジル人との関係に包み込まれており、<ローカル・ネットワーク志向>と言える。
前川, さおり
本稿は,一地域の博物館職員の視点から見た文化財レスキューネットワーク論である。岩手県遠野市の博物館職員であった筆者には,業務を通じて三陸沿岸市町村の文化財担当者や県内外の博物館学芸員と公的・私的なネットワークがあった。筆者は,東日本大震災の際に地震によって被害を受けた遠野市役所の文化財レスキューを行った後に,三陸沿岸自治体の図書館博物館文化財レスキューを行った。筆者が,私的ネットワークと公的ネットワークと交互に駆使して文化財レスキューを行った結果,重層的なネットワークが形成された。さらにそのネットワークが,2016年に筆者の勤務する遠野市立図書館博物館所蔵資料が台風10号で被災した際の資料レスキューで再起動し,新たなネットワークが構築されていったことを述べる。また,岩手県上閉伊郡大槌町から救済した資料の中に,昭和8年三陸津波で遠野市の災害支援をした歴史を示す貴重な発見があったことにも言及する。
德島, 武 Tokushima, Takeshi 徳島, 武
本論文では、基軸通貨の選択について、様々なネットワーク外部性を仮定した進化ゲームのモデルを用いて分析を展開した。得られた結論は以下の通りである。1.一貫してネットワーク外部性が収穫逓増的である限り、複数基軸通貨制度は、不安定かつ非効率的な制度である。2.一貫してネットワーク外部性が収穫逓増的である限り、単独基軸通貨制度は、安定かつ効率的な制度である。3.一貫してネットワーク外部性が収穫逓増的である限り、通貨価値の暴落による、単独基軸通貨交替あるいは複数基軸通貨制度への移行のシナリオは成立しない。
根川, 幸男
小稿は、小林美登利という一日本人キリスト者の移動・遍歴の足跡を、会津、同志社、ハワイ・米国、ブラジル渡航後、一時帰国期の五期に分けてたどり、グローバルな複数地域を横断する越境史として捉えなおす試みである。小林は、会津でキリスト教に出会い、同志社人脈を通してハワイ・米本土での伝道・留学の機会をつかみ、米国で強力な支援者を得た。またブラジルではマッケンジー大学を通して人脈を構築し、日系移民子弟教育というニーズを背景に聖州義塾という教育機関を設立した。さらに日本に一時帰国した小林は、渋沢栄一の知遇を得、渋沢の呼びかけによって、日本財界から多額の寄付金を獲得、義塾事業拡張を達成するのである。彼はこの過程で、会津という地縁、同志社などの学校縁、キリスト教会という信仰縁、在米・在伯日本人というエスニック縁の活用によって、右記四地域を横断する越境ネットワークを形成した。渋沢の支援も米国内の排日運動への対応と連動しており、小林の越境ネットワークは日本の国益を背景とする彼らのネットワークに接続することによって、広がりを見せ強化されるのであった。そこには、それぞれの〈縁〉を活用し、自前のネットワークをより大きく強固なネットワークに接続していくことによって、連鎖的にネットワークを拡大していくメカニズムが働いている。こうした〈縁〉を通じたネットワークは、ブラジルという異国で小林の事業を展開するための資源として活用され、聖州義塾は小林の「真の意味の伯化」という理念にもとづき、ブラジル日本人移民とその子弟たちの二文化化のエージェントとして排日予防啓発の役割を担うのである。
丹治, 涼 大村, 英史 澤田, 隼 桂田, 浩一 TANJI, Ryo SAWADA, Shun
本稿では,rtMRIデータから音響特徴量を生成するための深層学習モデルを提案する。調音器官全体を高解像度で記録できるrtMRIは,調音データから音響特徴量を生成するための元データとして有用であると考えられるが,フレームレートが比較的低いという問題がある。そこで我々は,転置畳み込みネットワークを用いて時間軸方向に超解像処理を行う方法を提案する。標準的な畳み込みニューラルネットワークが畳み込みによって主に画像の近隣情報を圧縮するのに対して,転置畳み込みネットワークではこの逆の操作を行うことにより,画像の解像度を向上させる。本手法ではこの超解像処理をrtMRIデータの時間方向に適用することによって,rtMRIデータの時間解像度を向上させる。メルケプストラム歪みとPESQを評価尺度として用いた実験の結果,転置畳み込みネットワークは正確な音響特徴量の生成に有効であることがわかった。また,超解像処理の倍率を上げることで,PESQのスコアが向上することも確認した。
加藤, 潤三 前村, 奈央佳 Kato, Junzo Maemura, Naoka
本研究は、沖縄に県外より移り住んできた移住者が、沖縄の社会やコミュニティにどのように適応していくのか、その適応プロセスについて、移住者のソーシャルキャピタルの観点から検討していくことを主目的とした。移住者26名に対する面接調査の結果、移住者は、沖縄のコミュニティ内において社会参加したり、ネットワークを形成していくなど、ソーシャルキャピタルを獲得していくことで適応を促進させることが明らかになった。特に、移住者が沖縄において形成するネットワークには機能差があり、ウチナーンチュとのネットワークは、移住者が沖縄の文化に同化したり、沖縄アイデンティティを獲得するために必要なものであるのに対し、本土出身者とのネットワークは、移住者が適応の過程で感じる様々なネガテイプな出来事や感情を緩和させるのに有効であることが示された。
西谷, まり NISHITANI, Mari
本稿では中国長春市における日本語教師ネットワークについて報告する。長春市では中国人教師と日本人教師が共に月例勉強会及びメーリングリストに参加し,情報交換を活発に行っている。この日本語教師ネットワークの成功の理由は(1)勉強会事務局が充実し,参加者それぞれが主体的に関与していること,(2)日本人教師だけでなく中国人教師も能動的に勉強会に参加していること,(3)メーリングリスト,ホームページといったコンピューターネットワークが効果的に利用されていることの3点に求めることができる。
白井, 哲哉 SHIRAI, Tetsuya
本稿は、アーカイブズ学における史料管理論の観点から、地域で展開される被災文化遺産救出態勢の構築のあり方を考察したものである。具体的には、東日本大震災被災地における活動実践の分析を通じ、現地における救出態勢の構築過程を解明するとともに、今後に向けた課題を提出することを目的とした。分析対象として、東日本大震災の被災地である茨城県で被災文化遺産救出活動に従事する茨城文化財・歴史資料救済・保全ネットワーク準備会(茨城史料ネット)を主に取り上げ、同じく福島県で活動に従事するふくしま歴史資料保存ネットワーク(ふくしま史料ネット)を比較対象とした。両者の活動実践を分析した結果、地域における救出活動のにない手は、資料救出・保全ネットワーク、地方自治体、地方自治体の博物館施設・専門的職員、研究団体・研究者、ボランティア参加者の五者に区分可能となった。これにより地域における被災文化遺産の救出体勢の構築は、資料救出・保全ネットワークを結節点とする二方向で理解することができた。最後に、資料所在悉皆調査の推進、官民連携の観点から県別史料協と資料救出・保全ネットワークの連携、「歴史資料の現地保存主義」の再検討、の3点を課題に掲げた。
山城, 郷士 緒方, 茂樹 Yamashiro, Satoshi Ogata, Shigeki
本研究では、沖縄県でこれまでに行われてきた特別支援教育ネットワーク構築の過程を見直す\nことで現状を把握し、さらにこれまでに生じた様々な課題について整理をする。最終的には、そ\nれらに基づいて今後の沖縄県の特別支援教育の有機的なネットワークを構築していくための手が\nかりと方向性を明確にすることを目的とする。具体的には県内6教育事務所の所管地域における\n特別支援教育ネットワークの異同をまず明らかにし、平成17年度から翌18年度の沖縄県の特別支\n援教育ネットワーク構築の変遷について検討を加えた。地域レベルのネットワークについては、\n教育事務所ごとに設置された地域特別支援連携協議会により、各地域における特別支援教育のた\nめの関係諸機関とのネットワーク構築については、その大枠がほぼできたことが明らかとなった。\n学校内の特別支援教育体制を見てみると、小中学校の教員に関しては年々特別支援教育の理解が\n進んでいる反面、子どもの実態把握が未だに充分とはいえず、校内体制の整備についても今後の\n課題とされた。学校レベルにおいては特別支援教育に関する体制作りは未だなお発展途上の段階\nと言わざるを得ない。これらのことから、平成17年度はいわば「特別支援教育体制推進のための\n準備期間」、一方平成18年度については「特別支援教育体制推進の大枠形成」の時期であったと\nいえる。これら地域や学校レベルの具体的な課題を認識しつつ、今後は県全体を統括する広域特\n別支援連携協議会においてもまた、各地域のニーズに応じた支援を県レベルで指導・推進してい\nくことが重要な課題であるといえよう。
吉田, 亮
海外宣教師の伝道活動は、国家や地域の再編や、複数国家や地域間のヒトの移動によって複数国家や地域にまたがることがある。海外移民伝道は典型例である。移民伝道に従事した宣教師の活動は「一国史」研究の枠を取り払った「越境史」的手法でのみ解明できる。一九世紀末期にアメリカン・ボード日本ミッション宣教師が展開したハワイ日本人移民伝道は、まさに「越境」伝道と呼べるものであった。「越境」伝道は日本ミッションの伝道地を「脱領土化」してハワイにまで広げるだけでなく、国家に付随する一元的な政治的、文化的忠誠心に挑戦し、宣教師のアイデンティティを複合化した。また、移民という「越境」行動はハワイと日本間の宣教師ネットワークと、ハワイとカリフォルニア間の日本人ネットワーク形成の要因となり、複数ネットワークが交錯することで双方を補強した。最後に、「越境」伝道はハワイアン・ボード、日本ミッションおよび日本組合基督教会の伝道史や、その背後にあるハワイおよび日本の政治文化史にも関与した。
武井, 弘一 Takei, Koichi
猿引は、サルに芸をさせて、それを見世物にして金品を貰い受ける。芸能に従事していたことから、近世社会では、彼らは被差別民の立場に置かれていたと理解されている。小稿では、加賀藩を事例にしながら、被差別民である猿引が、近世社会のなかでどのように生きていたのかを明らかにした。加賀藩の猿引は、百姓や武士の厩を祈祷する役割を果たしていた。その結果として、猿引・百姓・武士という三者のあいだで、ウマをとおした社会的なネットワークが形成されていた。眼に見えることのない、このネットワークのなかで、加賀藩の猿引は生きていたのである。
緒方, 茂樹 城間, 園子 佐和田, 聡 大城, 由美子 Ogata, Shigeki Shiroma, Sonoko Sawada, Akira Ohshiro, Yumiko
本研究では、従来試行錯誤的に行われてきた関係諸機関との連携と、子どもの支援に関わるアプローチをより効率化することを目的として、特別支援教育におけるネットワークシステムの構築と支援プロセスのモデル化を試みた。まず、特別支援教育における関係諸機関同士のネットワークシステム構築のモデルとして「空間モデル(横断型)」を考えた。このモデルについては、沖縄県内各地で実際にネットワークシステムを構築してきた過程を踏まえながら可能な限り汎用性のあるシンプルなモデルの作成を試みた。さらに具体的な子どもに対する支援システムをいかにして構築するかといういわば「手順(プロセス)」を明確にするために、「時間モデル(縦断型)」を考えた。このモデルでは、教育相談を積み重ねる中で培ってきた経験等を生かしながら支援システム構築のフローチャートの作成を試みた。ここで示したモデルは、文部科学省あるいは県教育委員会等からの「トップダウン的なモデルの提示」というよりはむしろ、実際に地域等で構築してきたネットワークシステムを基にした「ボトムアップ的なモデル\nの提示」であったと考えている。これらの考え方は、システムエ学の考え方を参考にしたものである。本研究は、特別支援教育をシステムとして捉え直すことで、これまでむしろ経験的に行われてきた人的、組織的な繋がりや支援プロセスの流れについて整理し、さらにモデルを提示することで汎用化を図ろうとした。本研究ではこのようなアプローチを当面「システム教育学」と呼びながらその可能性を考えていきたいと考えている。
大角, 玉樹
筆者は平成27 年度から平成29 年度まで,異分野融合型の研究として,沖縄感染症研究拠点形成促進事業「動物媒介性感染症対策の沖縄での施策提言とネットワーク形成に関する研究」に共同研究者として参画した。感染症対策における技術イノベーションと政策・施策提言をテーマに取り組み,その成果とネットワークを活用した,新たな研究の展開を模索してきたものの,長らく方向性が定まらなかったが,今回のコロナ禍を受けて,これまでに考えてきた研究課題を再整理することにより,実践的な提言につながる研究を探求していきたい。
ISHIMOTO, Yudai Miyazaki, Hidetoshi Ishimoto, Yudai Miyazaki, Hidetoshi
社会ネットワークをはじめとする社会関係資本は,人間のレジリアンスの重要な構成要素の1つであり,環境変動へ対応するための社会的基盤となる。しかし社会関係資本は時間経過とともに変容するため,社会ネットワークを静的なものとしてではなく,変化するものとの前提に立つことが理解のために重要である。そのためには,現在のコミュニティーの歴史を理解し,人々のネットワークが周囲といかに関与するか把握することが求められる。ザンビア南部では,ザンベジ川沿いのカリバダム建設に伴い約6 万のトンガ人が強制移住させられた。彼らの出身地は,現在カリバ湖に覆われる,マトンゴ地域である。本件研究の目的は,ダム建設による社会関係資本への影響を把握するため,(1) 旧地縁集団(cisi)ごとの来歴,すなわち村の再定住プロセスを明らかにし,(2)現在の通婚圏を考察することである。カリバダム建設は周辺地域の人々の生活に,直後のみならず,現在まで影響し続けている。特に,強制移住をさせられた人々は,生計環境の悪化によって,いまだに再移住を行う。彼らは,社会ネットワークを新たに構築し,再構築する。これは通婚圏に影響を及ぼす。ダム建設以前,人々は当時の地縁集団(cisi)内で配偶者を見つけ,結婚した。その後,移住を強制された人々は同一cisi の成員ではない,新たな隣人との婚姻を開始した。以降,人々は再移住を続け,通婚圏は更なる変化を続ける。
西内, 沙恵
本研究では多義語の言語知識を構成する多義ネットワークの地域的な差異について,現代日本語形容詞「あまい」を題材に,語義間類似度調査の結果に基づき分析を行う。多義研究は従来,個人間の差異の抽象(国広1982)を分析方針に,言語知識の中でも大多数の人々の共有部分である共通語が調査・分析されることが多かった。本研究では多義語の運用の地域差に着目し,多義ネットワークの構造の地域的差異を検証する。題材とする「あまい」の多義構造は,先行研究で〈砂糖のような味がする様子〉,〈塩分がたりない様子〉のいずれを起点とするかで説が分かれている。本研究では方言資料に基づき,〈塩分がたりない様子〉を「うすい」,「みずくさい」などの異形式で表す地域を,「あまい」で〈塩分がたりない様子〉を表さない地域と推定し,表す地域と比べて他の語義への拡張プロセスが異なっている可能性を検討する。調査ではYahoo!クラウドソーシングを通して日本の11地域ごとに約300名ずつ,「あまい」の5区分の語義を表す例文に対する語義間類似度評定を収集した。調査結果に基づき,推定地域における〈塩分がたりない様子〉の直感の有無を分析し,複数の多義ネットワークの説に対する整理・説明を試みた。
手塚, 薫 Tezuka, Kaoru
マンローのアイヌ研究がどのような動機や目的に基づいて実施されたのかについては,これまで,本人の性格や思想を推測して考察することが一般的であった。純粋な知識欲以外にもアカデミズムへの貢献といった名誉欲などの要素を度外視することはできないが,公刊資料からだけでは,動機の解明にいたることは困難である。RAIやNMSに所蔵されているマンローと第三者間でやりとりされた私的な書簡類は,マンローのアイヌ研究の目的や意図を正直に伝えているものが多く,それらを理解する上ではかりしれない価値を有する。マンローのアイヌ研究成果を,現代的な活用に耐えうるものとして取り扱っていいかどうかを判断するためには,当時の研究対象となった人びととの関係性や研究倫理など,それらが産み出された経過を正確に把握する必要がある。研究対象地域やコミュニティ内外の人物と実際のところどのような関係を構築していたかは,マンローのアイヌ研究の質と量にも大きな影響を与えたと考えられる。そこでマンローと彼を取り巻く人物との関係を理解するために,上記の書簡を元にエゴセントリック・ネットワーク分析をおこなった。その結果,ネットワークの密度,中心性,ハブとなる人物,アイヌインフォーマントとの関係,コミュニティ内外の多くの人物からの影響などの特徴が浮き彫りにされた。これらの結果は,マンローのアイヌ研究がマンローの個人的な資質および属性からだけではなく,マンローを取り巻く様々な人物のネットワークによって駆動されていたことを視覚的かつ実証的に説明している。マンローによって収集されたアイヌの伝統的民族知識を,名誉・人格権・プライバシー権などを十分考慮しながら公開していく在り方が問われている。社会ネットワーク分析による研究成果はそれらのデータを,アイヌ民族を含む現代人が社会関係資本として積極的に活用する上で大いに資するものと考えられる。
德島, 武 Tokushima, Takeshi 徳島, 武
本論文では、基軸通貨の選択について、収穫逓増的ネットワーク外部性を仮定した進化ゲームのモデルを用いて分析を展開した。得られた結論は以下の通りである。1.複数基軸通貨制度は、不安定かつ非効率的な制度である。2.単独基軸通貨制度は、安定かつ効率的な制度である。3.通貨価値の暴落による、単独基軸通貨交替あるいは複数基軸通貨制度への移行のシナリオは成立しない。
西内, 沙恵
本発表では現代日本語の多義語の語義間類似度を地域別に調べた結果を報告し,多義ネットワーク構成の地域的な差異について検討する。従来,個人間の差異の抽象(国広1982)に基づき,大多数の人々の共有部分に対する分析が作業原則とされ,共通語を対象に調査・分析がなされることが多かった。しかし,多義語の運用には地域的な差異があることが方言辞典などで報告されている。本発表で報告する調査では現代日本語形容詞「あまい」が「関西のみそしるはあまくてどうも口にあわない。」(飛田・浅田1991: 31-32)といった例文において〈塩分がたりない様子〉を表す際,「うすい」,「みずくさい」などの異なる形式で代替する地域があること(石垣 1983)に着目し,題材とした。Yahoo! クラウドソーシングで日本の11地域ごとに「あまい」の例文を用いて語義間類似度を調査した結果に基づき,各地域で構成される多義ネットワークの差異を報告する。
城間, 園子 緒方, 茂樹 Shiroma, Sonoko Ogata, Sigeki
特別支援教育がスタートして10年が経過しているが、特別支援教育に関する体制整備は未だ十分であるとは言いがたい。特に関係機関と連携・協働した体制の整備は、お互いを繋ぐ役割を担う特別支援教育コーディネーターなど、個人の専門性や資質に委ねられており、結果的に学校及び地域間の格差を招いている。さらに共生社会の実現のためインクルーシブ教育システムの構築を推し進めていくことが求められることから、学校にはさらなる外部機関との連携と協働を図った取組が要求されている。この連携・協働を推進していくためには、繋ぐという機能の存在が果たす役割は極めて大きい。先に述べたコーディネーターもその一人ではあるが、繋ぐという機能を明確にしていかなければ、支援体制がシステムとして機能していくことは難しくなり、場合によっては構築したネットワークシステムの形骸化を招いてしまうことになりかねない。本稿では関係機関と連携したネットワークシステムを学校及び地域での体制整備の方策を考慮しながら、境界関係システムRelational Interface Sysytem(Ris)の動きと、繋ぐということについて改めて考察をする。Risの存在は、学校・地域における体制整備に大きな影響を与えるものであり、Risの果たす役割を明確にしたネットワークシステムを構築していくことが重要である。さらにRisは人のみならず個別の教育支援計画のように一つのツールが担うこともあり、その役割を明確にした上で活用していくことが特別支援教育のみならずインクルーシブ教育システム構築の促進に繋がると考える。
福間, 真央
ヤキはメキシコとアメリカに国境を跨いで居住する先住民族である。近代国家の成立,国境の画定によって 2 つの国家に分断されながらも,ヤキは民族的同胞意識を維持し,1990 年代以降,越境的な交換を活発化させている。中でも文化的領域で行われるトランスナショナルな交換は贈与交換のシステムとして確立されてきた。そして主に儀礼から発展したネットワークは交換の活発化とともに多様化し,多元的なネットワークへと変化している。しかし,同時に,国籍,出身コミュニティなどの社会的,文化的背景が異なる個人や集団が参加するトランスナショナルな贈与交換は,しばしば当事者の間で齟齬を生んでいる。本稿ではトランスナショナルに展開する交換を 4 つのタイプ,儀礼における贈与交換,文化的贈与交換,文化アイテムの交換,贈与に分類し,考察することを通じて,ヤキのトランスナショナル化の様相を明らかにする。
王, 怡人
デジタル社会において,企業はインターネットを活用した様々なマーケティング活動を行っている。本稿は,製造企業のこのようなマーケティング活動に焦点を当て,統計データおよびネットワーク理論の概念を使って,企業の試みと産業特性とのマッチング度を検証し,さらに製造企業にとって今後の展開の課題を整理した。
人間文化研究機構国文学研究資料館 National, Institute of Japanese Literature,
このパンフレットは、平成25年(2013)度から国文学研究資料館が取り組んでいる重点事業を紹介した小冊子です。古典籍研究の意義と魅力をわかりやすく紹介しています。なお、計画名は、平成26年(2014)度から「日本語の歴史的典籍の国際共同研究ネットワーク構築計画」へ変わりました。
池田, さなえ
本稿は、明治期の政治家を中心として広がる多彩な属性の人的ネットワークを可視化する方法を考案し、それをもとに明治政治史における地方人士「組織」の問題に新たな光を当てるものである。明治期の政治においては、地方人士の中に根強く存在した強固な反政党意識や組織への強い忌避感という条件のもと、議会に基盤を持たない藩閥政府の指導者たちはそのような「組織されたくない人びと」にアプローチせざるをえなかったという固有の困難が存在した。 本稿では、このような条件下での藩閥政府の指導者による「組織」の実態を明らかにするために、藩閥指導者を中心とした地方人士のネットワーク把握の方法を考案・提示した。具体的には、明治期に地方「組織」に奔走した政治家の一つの拠点に軸を据え、明治政治史の基礎的史料である書簡のみならず、異なる種類の複数の史料から人名データを抽出し、独自の指標で四象限平面上に配置・色分けする方法である。本稿で検討対象としたのは、政社―国民協会、団体―信用組合の組織化を目指して全国をくまなくめぐり、自らの手足と耳目で「組織」することにこだわった政治家・品川弥二郎とその京都別荘・尊攘堂である。 分析の結果として、以下の諸点を指摘した。1. 品川にとって尊攘堂は、政治家別荘一般について指摘されているような政界からの逃避や慰安のためだけの場ではなく、また維新殉難志士の慰霊・祭典を行うという堂創設の本来的目的のみでもなく、在野における地方人士「組織」のための拠点、あるいは連絡機関であった。2. 品川―尊攘堂を中心とするネットワーク自体の持つ魅力に惹き寄せられ、全国から多様な属性の人びとが集まっていた。3. 尊攘堂は、これら様々な背景を持つ人びとがそれぞれの目的や持ち場を一時的に離れて集う大規模なコミュニタスであり、このようなコミュニタスを持ったことが、組織を忌避する地方人士を品川が幅広く把握できた要因であったと考えられる。
北村, 啓子 KITAMURA, Keiko
古書目録DBのようにJIS外字を含む大規模DBを分散環境で多数の人の共同作業で構築することを想定し、ネットワーク環境でウェブ(Javaサーブレット)技術を使ったデータ入力システム開発の例と、全文検索エンジンを使った目録検索システム開発の例を紹介する。それぞれのシステムについて、UNICODEを使ったJIS外字の入出力の実現方法、その場合の問題点と解決方法について説明する。
山口, 昌也 桝田, 直美 YAMAGUCHI, Masaya YANAGIDA, Naomi
我々は,観察支援システムFishWatchr Mini (以後,FWM)を開発し,ディスカッション練習などの協同型の教育活動で,グループでの観察・振り返り活動を実践してきた。本稿では,観察したシーンを振り返り時にビデオで参照できるようFWMを機能拡張した結果を報告する。本拡張では,ビデオ共有時の運用のしさすさと個人情報保護の問題に考慮しつつ,ネットワーク上のビデオの参照を実現した。
本研究では、社会ネットワークによる保険として世帯間のサポートに注目し、日常的サポートと臨時的サポートの2 つに分け分析を行った。日常的サポートのうち、食料生産および食料消費における共同労働メンバーは、①いずれの活動とも近い血縁者が多いこと、②構成員の家屋は物理的に近いこと、③構成員は重複することが多いこと、④畜力利用はメンバー形成に大きな影響を与えることが明らかになった。臨時的サポートのうちモノの贈与は、①頻度および量が農作業の進行状況に伴い変化すること、②季節変化があること、③立地条件によっても傾向が変化することが明らかになった。
長田, 俊樹
1995年7月、辻惟雄教授(当時)の主催する「奇人・かざり研究会」で「石濱シューレ・露人日本学者・言語学界三大奇人」と題して発表したが、論文にまとめる機会がこれまでなかった。そこで、小論はその発表に、最近の研究成果を盛り込んでまとめたものである。 石濱純太郎(1888~1968)は大変有名な東洋学者であるとともに、大阪東洋学会、静安学社、大阪言語学会などを主催し、こうした研究会を通して、石濱の周りには多くの研究者が集まった。小論では、これを「石濱シューレ」と呼び、そこに集った人々がどんな人で、何を研究してきたのかに焦点をあてる。 小論では、これまでの石濱研究で論じられることがなかった、次のような点を指摘している。1)石濱が大阪東洋学会の創設から4年後には別組織である静安学社へと新たな研究会を立ち上げた理由、2)大阪言語学会の活動内容、3)戦後の浪華芸文会やウラル・アルタイ学会の活動内容など、これら3点を中心に、亡父・長田夏樹の残したハガキや雑誌資料などを丁寧に掘り起こして、その実態に迫っている。偶然の産物なのか、言語学会三大奇人と呼ばれる人々は、いずれも石濱シューレに集った人であったが、石濱の周りに集う奇人たちについても触れている。また、奇人として名高い、ロシア人日本語研究者ポリワーノフにも触れている。 結論として、石濱が成し遂げた功績はこうした学会、研究会を通して、ネットワークを構築したことであり、そのネットワークはロシア人研究者や中国人研究者を巻き込んだ国際的なものであったことである。昭和の初期にこうした国際研究者ネットワークを構築したのは、製薬会社の資金で文献を集め続けて、それら文献を研究者に供給し続けた石濱でしか成し得なかったであろう。
西谷, 大 Nishitani, Masaru
本稿は中国雲南省紅河哈尼族彝族自治州の金平県で抽出できた,者米谷グループと金平グループの2つの市グループについての特質を明らかにすることを目的としている。これまで金平県でたつ6日ごとの市の考察から,市を成立させる条件として「余剰生産物の現金化と生活必需品の購入」,「徒歩移動における限界性」,「市ネットワークの存在と商人の介在」,「商品作物の処理機能」,「交易品としての食料と食の楽しみ」,「店舗数(市の規模)と来客数の相関」の6つ条件を提示した。さらに市という場としての特質として「小商いの集合による商品数の創出と多様な選択性」や,「生産物の処理の自由度と技術の分担による製品の分業創出」,「市のもつ遊びの楽しみ」などにも目を向ける必要があると論じてきた。ところが市を者米谷グループと金平グループという2つの地域に分けて考察してみると,者米谷グループの市システムは,生業経済の色合いが濃厚で,地域住民がある程度は市を馴化する,あるいは主体的に利用することが可能であるという性格をもつ。それに対して,金平グループの市システムは,町・都市の論理や移動商人が物資の移動を握り,地域の農民が主体的に市を活用する論理が通用しなくなっている。地域経済の動態を解明するために交易という地域ネットワークに焦点をあてた場合,市が誕生し市システムが発達していくなかで,定期市システムは,ある段階までは地域社会の生業経済を安定的に維持する方向に働き,農民たちの主体的な生業戦略を促進させる。いわば「生業経済に埋め込まれた定期市」といった段階があるのではないか考えられる。一方,各地域の市システムがネットワーク化されていく段階で,市の性格は「市場経済を促進する定期市」へと変化していくのではないかと推測される。
遠藤, 光男 Endo, Mitsuo
物体が最初に認識されるカテゴリーレベルを物体認識のエントリーポイントという。一般的な物体においては基礎レベルが最も早く認識され、基礎レベルがエントリーポイントとして機能している。顔などの熟達したパターン認識においては、下位レベルへのアクセス性が促進され、両者が同等になることが知られている。しかし、顔認識過程のエントリーポイントが基礎と下位レベルの両方にあるのか、下位レベルにあるのかについては明らかになっていない。今回は顔認識過程の基礎レベルがエントリーポイントとしての機能を失っている可能性について呼称課題を用いて検討した。もし、顔認識過程の基礎レベルがエントリーポイントとしての機能を失っているならば、通常の上位レベルが意味ネットワークを介してアクセスされるように、基礎レベルへのアクセスは下位レベルから意味ネットワークを介して行われることになる。その場合、人名からの基礎レベルへのアクセスと顔写真からの基礎レベルへのアクセスに正の相関があることが予測されたが、実験の結果、そのような正の相関は得られなかった。したがって、顔認識過程の基礎レベルがエントリーポイントとしての機能を失っている積極的な証拠は得られなかった。
西谷, 大 Nishitani, Masaru
本稿では雲南省の紅河哈尼族彝族自治州の金平苗族瑤族傣族自治県で6日ごとに1回開催される市をとりあげ,市の仕組みを把握しつつ地域社会に与える影響を考察する。調査地である者米谷の市の構造から浮かびあがってくる定期市成立の条件は,村民が売ることのできる余剰生産物を有していること,交通が不便で大消費地である遠距離の都会に自ら足を運べないこと,市に生産物を処理する機能があること,そして市ネットワークと商人の介在による商品の移動の必要性などが挙げられる。定期市は国境や民族という枠組みに関係なく広がることが可能である。そして定期市は,地域社会を市ネットワークに取り込むことによって,地域の生産物や外から入ってくる生活必需品も掌握することが可能なシステムである。中国周辺地域の歴史は,中国の影響をぬきにしては考えられない。それはおよそ2000年前に漢という統一国家が成立して以来連綿と続いてきた。しかし政治的な側面だけでなく,地域に即したミクロな視点でその影響の具体的姿を描こうとするならば,市のもつ特質と影響をも1つの要因として視野にいれることが,結果として中国周辺でおこってきた地域の変容の実態を明らかにすることにつながるのではないかと考えられる。
糸洲, 昌隆 遠藤, 聡志 當間, 愛晃 山田, 孝治 赤嶺, 有平 Itosu, Masataka Endo, Satoshi Toma, Naruaki Yamada, Koji
人のコミュニケーションにおける重要な要素は、メラビアンの法則より、ジェスチャーや表情などの視覚情報が半分以上を占めている。笑顔は人に良い印象を与える表情の一つであり、井上らの研究より、多少の年代差と性差はあるが笑顔は共通して評価が高いという結果が出た。また、笑顔表情の形状と印象に関する研究より、顔パーツの形状や位置によって印象の違いが見られるという報告がされている。これらの研究より、表情を印象によって分類することで、さらに細分化できるのではないかと考えた。そこで本研究では、畳み込みニューラルネットワークを使用して印象の良い笑顔と悪い笑顔を学習させることで、笑顔印象の評価の推定するモデルを構築する。
野入, 直美 Noiri, Naomi
本稿は、従来、日本社会におけるマイノリティとして捉えられることの多かった沖縄について、沖縄内部のエスニックな多様性に光をあてようとするものである。沖縄における日系人・定住外国人の主なグループからアメリカ人、台湾人、日系ペルー人、日系ブラジル人の4つのエスニック・グループを対象とし、インタビュー形式の意識調査を行い、国境を越える移動の類型とエスニック・ネットワークを分析する。沖縄を、日系人・定住外国人の受け入れ社会、すなわちホスト社会として捉え、多様な背景をもつ人々が共生する社会に向けての課題を整理する。なお、本稿はその前編であり、アメリカ人と台湾人について記述している。後編では、日系ペルー人と日系ブラジル人について記述し、社会的な課題を述べる。
先に公刊した拙著『士(サムライ)の思想―日本型組織・強さの構造―』は、日本の武家社会の制度や組織の生成と展開を叙述したものであるが、同時に今日の日本社会に特徴的である、いわゆる日本型組織の諸性格を論じたものであった。これに対して平山朝治氏は批判論文を発表された。その批判論点は、日本社会におけるイエの形成のあり方、中世の在地領主ないし武士の自立性の根拠、イエモト型組織と多元的で流動的なネットワーク型組織との関係、土地や農村の文化ではなく日本における成熟した都市文明の伝統、等々に関わるものである。本稿は平山論文への反論であり、右の諸問題についての著者の見解の根拠を明示している。ことに拙著で日本型組織の原型としての位置づけを与えた、徳川時代の大名家(藩)なる組織の性格規定が枢要の問題となるのであり、これが常識的なイエモト型組織でもなく、また平山氏の提示されるネットワーク型組織でもなく、まったく独自の構造をもった統合的な組織であることを詳論する。それはイエを基盤としてイエになぞらえる形で擬制的に拡大されていく組織ではあるが、イエモトのように人々を主―従の関係によって連結的ヒエラルキーに構成していくものではなく、それはむしろ同輩関係にある大名家臣団の成員によって形成される機能的階統制としてあることを明らかにする。
吉葉, 研司 小林, 稔 Yoshiba, Kenji Kobayashi, Minoru
渡嘉敷村の人口推移や子育ての現状から人口が子育て世帯で上昇していること、人口上昇が村外\n出身者によっておきているため子育て世帯の9割が核家族化していること、したがって孤立化をさ\nけるための子育てネットワークが必要になってきていることを明らかにした。このような現状に対\nする取り組みとして渡嘉敷村立渡嘉敷幼稚園では「ゆんたく」が行われており、これは、教諭が親\nに教えるスタイルをとらず、親が主体の「はなしやすさ」「とりくみやすさ」「つながりやすさ」を\nめざしている。
大角, 玉樹 Osumi, Tamaki
本稿では、沖縄感染症研究拠点形成促進事業の一環として実施されているイノベーション・エコシステム形成に向けた研究を紹介し、政策提言に向けた分析を行う。地球温暖化、グローバル化、ヒトやモノの移動の急増により、感染症のリスクが急増しており、実効性の高い政策が求められている。沖縄も、観光客と物流の急増を受けて、感染症対策が急務であり、内外の研究機関や公的機関と連携をとりながら研究開発とネットワーク形成を推進しており、将来的には持続的なイノベーションを創出する感染症研究拠点形成も予定されている。本稿では、その実現に向けたCSV モデルと今後の政策的課題を提示する。
宮村, 春菜 MIYAMURA, Haruna
本研究は,ラオスの人々の生活における飼育動物のありかたを人間-犬関係から明らかにすることを目的とする。予備調査では,犬の飼育実態を調べ,そこから,噛むことと病気,犬の取引,食用としての犬について知見を得た。今後,飼い犬に求める役割,犬取引ネットワーク,噛むことと病気に対する意識の3点について調査を行い,犬と人間がどのような関係を築いているか、また、人びとは犬に対してどのような見方をしているのか、犬の存在が人間に直接的もしくは間接的にどのような影響を及ぼしているのかということを究明していく。
浦崎, 武 武田, 喜乃恵 崎濱, 朋子 Urasaki, Takeshi Takeda, Kinoe Sakihama, Tomoko
琉球大学教育学部附属発達支援教育実践センターは「障害児・者の支援・教育に関わる学生・教員の実践力殻成機能の充実と地域の学校や教育行政機関との協働支援を行う地域拠点の構築」と題する中期計画達成プロジェクトを実施した。プロジェクトの中核となるトータル支援活動を通して、多様な課題がより鮮明になり、今まで以上に障害児・者への支援・教育は乳幼児期から成人期までの生涯におよぶ一貫した具体的な支援・教育とともに、地域の特性に基づいた支援・教育が求められた。また、より一層の福祉、医療、保健、労働等近接領域間の連携・協働による支援・教育体制の整備やネットワークの構築が求められた。
安達, 文夫 鈴木, 卓治 小島, 道裕 高橋, 一樹 Adachi, Fumio Suzuki, Takuji Kojima, Michihiro Takahashi, Kazuki
人文科学の分野において,様々なデータベースが作成され,多くがネットワークを介して公開されている。これらのデータベースをまとめて検索できるようにすることにより,個別のデータベースの所在やその操作方法を意識することなく検索が可能となる。総合研究大学院大学の文化科学系の基盤機関と幾つかの大学とが共同し,各々の機関が有するデータベースを統合的に検索できるシステムの研究を進めている。この統合的な検索を実現するための一種の共通の窓としてDublin Coreと呼ばれるメタデータを選択している。これに,国立歴史民俗博物館の「館蔵資料データベース」と「館蔵中世古文書データベース」のデータ項目をマッピングする方法について検討し,実証システムにより評価を行った。ネットワーク上の資源の記述を本来の目的としたメタデータであるDublin Coreに,資料の目録情報からなるデータ項目を一応の根拠をもって対応付けができる。しかし,資料の形状,状態,材質といった実際のものが持つ属性では,その意味の捉え方によって,対応付ける先にゆれが残る。また,ユーザインタフェース上,エレメントの名称を直接的に検索語の入力欄に表記したのでは,実際に対応付けられているデータの内容とかけ離れる場合が生ずる。エレメントの定義や名称を適正化する必要があることが,実証実験により確認された。検索結果の表示方法の評価から,表示するデータ項目や名称の表示方法の検討が必要であり,統合検索と個別検索の役割の整理が重要な課題であることが示された。また,多数のデータベースを対象とすることから,検索結果の表示と絞り込みに関するユーザインタフェースの面で新たな考慮が求められることが明らかとなった。
大角, 玉樹 Osumi, Tamaki
1.はじめに 平成24年度沖縄県「産学人材育成ネットワーク形成促進事業において、沖縄県の自立的経済発展及び地域活性化のために必要とされる人材像ならびに新たな産学官連携の在り方が調査検討された。その結果、1.イノベーションを担う人材が不可欠であること、2.そのためには、起業家精神を有する人材の早期育成が必要であり、3.この実現のために、産学官が連携したネットワーク構築と沖縄の地域特性を踏まえたイノベーション・エコシステムの形成の有用性が確認された。起業家育成教育が効果的であることも関係者から指摘されているものの、長期に渡り、起業家教育は会社を設立するための実務教育であると勘違いされ、本来、起業家精神を醸成し、起業家的なものの見方や考え方と行動特性、すなわち、マインド・セットとスキル・セットを習得するための教育であることが忘れられているようである。筆者が座長を務める同事業検討委員会では、他大学の先進的な起業家育成教育ならびにビジネス・プランコンテストの視察、県内ベンチャー企業が実施しているシリコンバレー派遣プログラムの視察、県内教育機関の取組状況に関する調査と意見交換が行われ、何よりも、県内教育機関には、正規のカリキュラムの中に、ベンチャー育成や起業家育成の講座が提供されていない点が指摘された。この状況を打破し、時代や社会が求めている起業家及び起業家精神に溢れる人材の育成を加速するために、まずは県内大学と高等専門学校が連携した実践的なベンチャー講座が開設できないかという提案がなされた。この提案を受けて、琉球大学が過去5年にわたって実施してきた「沖縄学生アイデア・コンテスト」と、平成24年度に実施したビジネス・トライアルコンテストの内容を再検討し、平成25年度より、琉球大学の共通科目として、「ベンチャー起業入門」と「ベンチャー起業実践jが開設されるに至った。本稿では、ベンチャー講座開設の契機となった沖縄学生ビジネス・アイデア・コンテストとビジネス・トライアルコンテストの概要を紹介し、学生アンケートの分析を参考に、今後の改善点と課題について議論している。
吉原, 大志 YOSHIHARA, Daishi
本稿は、災害時に被災した歴史資料(被災資料)の保全活動と、その担い手を社会のなかに広げるための方法について、阪神・淡路大震災を機に設立されたボランティア団体である歴史資料ネットワーク(史料ネット)の取り組みから考えようとするものである。史料ネットの活動の基礎には、地域の歴史資料そのものを保存するだけではなく、それを実現するための拙い手を、社会のなかに広げようという考えがある。これが、2004年の水害対応をきっかけとして、水損資料の応急処置方法とともに、「どこでも・誰でも・簡単に」資料保全の担い手になることができるという意識の普及を目指す水損資料修復ワークショップの実践へと展開した。この取り組みをさらに広げていくために、東日本大震災や紀伊半島水害の被災地における「思い出の品」を残す取り組みのような、被災地のニーズに即して史料ネットの日常的な実践を捉え面すことの必要を提起し、実際に史料ネットが始めている試みを紹介した。
後藤, 雅彦 Goto, Masahiko
東南中国の地域をめぐる考古学研究として、珠江三角州地域をとりあげ、まず、時間軸の設定を再確認し、周辺地域との関わりを時間的推移の中で見直した。また、近年の新しい研究課題として、地域内における遺跡差及び遺跡間の関係をあげることができる。本稿でも、印紋陶や石錘を例にしながら、東南中国という広い地域単位での位置付け、一地域内での遺跡差の両側面から検討を加えた。そして、商代併行期と言う時代の転換期において、外からの殷系文化の南漸と言う外的要因と共に、内的要因として、特定の素材や製品の広がりにみる地域内部のネットワークが強化されていることに着目し、さらに、中核的な遺跡の存在を考えた。
緒方, 茂樹 Ogata, Shigeki
将来的な特別支援教育の充実のために、沖縄県の地域特徴である島嶼地域に焦点を当てながら、地域における関係諸機関のネットワークシステム構築の参考となる資料作成を目的とした。ここでは特に宮古圏域に着目しながら、地域における関係諸機関が復帰後に歩んできた歴史を再確認し、同じ時間軸の上に関連する出来事(イベント)を、教育、医療・保健、福祉、労働等の分野毎に平行に並べながら、いわゆる「年表形式」に纏めた。この年表を元に各分野間を横断的に概観することによって、宮古圏域における障害児に関わる関係諸機関の歩みを多角的かつ総合的に捉えることができる。このことを踏まえて、関係諸機関各々がもつ役割を明確にしながら効率的な役割分担の在り方を探り、さらに関係諸機関の歴史的背景を明らかにしながら過去の様々な経緯を知る。これらのことを通じて、今後の特別支援教育の展開に向けてよりよい連携の在り方を考える手がかりを得ることができると考えられる。
高田, 智和 井手, 順子 虎岩, 千賀子 TAKADA, Tomokazu IDE, Junko TORAIWA, Chikako
さまざまな行政手続をインターネットで行う「電子政府」を構築するためには,氏名,住所,法人名などの固有名に使われる文字をも含め,行政情報処理で必要とされる文字をコンピュータで扱えるような環境を整えなければならない。国立国語研究所・情報処理学会・日本規格協会では,行政情報処理で必要とされる文字の調査研究(汎用電子情報交換環境整備プログラム)を実施している。この調査研究において,住民基本台帳ネットワーク統一文字,戸籍統一文字,登記統一文字を検討し,行政用文字の文字コード規格(JIS X O213,ISO/IEC10646)によるカバー率を明らかにした。また,漢和辞典に掲載されていない文字について,地名資料による文字同定を進めている。
篠原, 聡子 Shinohara, Satoko
日本住宅公団によって昭和34年から建設がはじまった赤羽台団地(所在地:東京都北区,総戸数:3373戸)は,団地としての様々な試みが実現した記念的な団地ということができる。本稿では,その中に配置された共用空間と居住者ネットワークに着目して,その関係について考察する。その後の団地計画の中で普遍的な位置づけをもつ共用空間として集会所があげられるが,当初,計画者の中にどのように使用されるか確たるイメージはなかった。韓国の集合住宅団地の共用空間との比較から,日本の団地空間に出現した集会所や集会室は,本来,住宅の内側にあった「寄り合い」や「集会」という社会的機能を私的領域から分離する役割を果たし,その空間的な設えも日本の伝統的な続きの構成が採用されていた。また,幼児教室,葬式などにも使用され,集会所は,都市的な機能の補完の役割もはたした。しかし,集会所が既存の建築の代替的,補完的なものであっただけではなく,高齢者の集まりである「欅の会」のような集会所コミュニティともいうべき,中間集団の形成に関与したことも特筆されなければならない。一方で,居住者によって設立された,牛乳の共同購入のための牛乳センターは,極めて小規模ながら,自治会という大規模な住民組織の拠点となった。また,住棟によって,囲われた中庭は,夏祭りなどに毎年使われ,赤羽台団地の居住者の,その場所への愛着を育む特別な場所となり,居住者の間に緩やかな連帯感を形成する役割を果たした。団地という大空間にあっては点のような存在でありながら自治会という大組織の拠点となった象徴的な空間としての「牛乳センター」,一列の線のように配置され,とくに機能もさだめられず,分節されながら多目的につかわれ,多様な中間集団の形成に関与したユニバーサルな空間としての「集会所」,それらを時間的,空間的に繋ぐ基盤面となった包容する空間としての「中庭」は,居住者ネットワーク形成に多面的にかかわり,それらが連携して使われることによって,団地という抽象的な集合空間は,赤羽台団地という生活空間となった。
ザトラウスキー, ポリー SZATROWSKI, Polly
オノマトペが試食会のコーパスでどのように用いられているのかを考察する。試食会の参加者は 3種類ずつの乳製品を対照しながら最初は見た目で色や触感を描写・評価し,次に匂いから特定しようとし,食べ始めてからは味覚と触覚で味,食感等を描写,評価する。相互作用の中で五感と関連させながら,評価・描写の場合は,複数のオノマトペの候補を繰り出す過程が,特定や評価の場合は,オノマトペによる根拠づけが見られた。オノマトペを含む発話の後,同意,不同意,他のオノマトペの提示等の発話連鎖や言葉(オノマトペ)探しからオノマトペのネットワーク性が明らかになった。オノマトペは,参加者が言語・非言語行動を通じて,変化していく食べ物に対する感覚的体験を,一瞬一瞬共有,モニターしながら精密化するのに重要な役割を果たすと考えられる。
福島, 金治 Fukushima, Kaneharu
本稿は、鎌倉中期における漢籍の京都から鎌倉への移入、御家人らへの伝授と相互書写による本の累積、そして地方への拡散のありかたを将軍家や御家人の人的ネットワークとその所領関係から考察したものである。考察の対象は、金沢文庫本の核をなす北条実時本とこれに関わった清原教隆の伝授本を中心にした。まず、北条実時らに伝授した清原教隆について、九条家の家司の側面が見いだせることを清原良元宛て書状の分析を通して指摘した。教隆の鎌倉下向は九条家との縁が背景にあろう。実時本にみえる豊原奉重にも九条家との関係が推測される。やがて、将軍家の家政に関わる人物は、鎌倉の要人への漢籍等の伝授を媒介に、幕府内での立場も確保していった。こうした伝授が進行した結果、鎌倉では同一本が複数の家に所有される状況が生まれ、御家人を協力者として書写する関係がうまれていく。実時の協力者をみると、後藤基政は京都大番役で上洛、太田康有は公務の上下関係、二階堂氏とは俗縁関係といったことを背景に補写や本の提供を行った。こうして、要人の家では蔵書を文庫で管理し、儒者が継続的に教授し、伝授された者同士がそれぞれの本を相互に校閲する環境が整った。漢籍の鎌倉からの地方伝播は、清原教隆が伝授した『論語集解』を通して検討した。嘉暦鈔本は加賀白山八幡院玉蔵坊での書写本で、奥書にみえる得橋禅門への伝授は鎌倉で行われたと考えられる。得橋氏は加賀国得橋郷の惣地頭とみられ、六波羅料所の管理人的立場にあったと推定される。得橋氏への伝授には六波羅探題北方北条時茂、執権北条長時らとの関係があろう。また、虎関師錬書写本の伝授をみると実相寺・菅生など足利氏・吉良氏の寺院や所領がみられる。漢籍の伝授には一族と所領のネットワークが媒介となっていたと考えられる。書籍の伝授は所領経営のあり方をも反映しているのである。
真謝, 孝 中村, 哲雄 Majya, Takasi Nakamura, Tetuo
県内知的障害養護学校の卒業生と, 進路指導担当教師及び労働・福祉機関等に対して就労支援に関する調査を行ない, 就労者をとりまく支援の現状と課題を明らかにした。その結果, (1)就労者の多くは家庭と職場に限定されたわずかな支援.しか得られていない(2)就労先の選択・決定において知的障害児本人の関与が少ない(3)施設・作業所など福祉的領域からの就労者への支援は少ないという課題が見いだされた。課題解決を図る方向性として, 今後の進路指導において(1)本人の主体的関与を促すための進路学習を計画的に推進すること(2)「個別の移行支援計画」を作成し, 実践に役立てること(3)地域における就労システムの機能化と就労支援ネットワーク構築などの提案を行なった。
宇野, 隆夫
日本列島には、海辺・里(平野)・山の多様な環境があり、かつそれらは川によって結ばれることが多い。そして列島各時代の特質は、その住まいの選び方に現れることが多かった。本稿は、このことの一端を明らかにするために、富山県域の縄紋時代遺跡をとりあげ、GISによる密度分布分析・立地地形分析・眺望範囲分析・移動コスト分析をおこなった。 その結果、縄紋時代の盛期(前期~晩期)に遺跡数が増加して遺跡立地が多様化するとともに、海辺・里・山それぞれにおいて、それぞれの資源の開発に適した場所に集落ができたこと、かつそれらが1時間歩行範囲の連鎖からなるネットワークを形成したことを明らかにした。弥生時代には、これらの縄紋遺跡の多くが途絶える一方、山・里・海を一望できる遺跡が多く出現することは、社会の質の大きな転換を示しているであろう。
寺嶋, 弘道 板井, 芳江 Terajima, Hiromichi Itai, Yoshie
本研究では、「ライティングにおけるコーパスツール活用モデル(寺嶋・板井, 2021)」を取り入れ、日本語学習者が作文を書く際のコーパスツールの使用実態を調査した。分析の結果、作文においてコーパスツールが使用された回数の中央値は5 回(最大値:14回、最小値:2回)であった。また、作文で使用された表現には、作文前に作成した語彙ネットワークから取り入れられたもの、作文を書いている間に検索されたものがあった。最も多く産出されたのは「名詞+助詞+動詞」のパターンで、中級前半レベルと中級後半レベルの言葉で構成されたコロケーションであった。さらに、その適切さを分析したところ、コロケーション、あるいはコロケーションと共に使用された文法項目が原因で誤用と判断されたもの、コロケーションが使用された節において誤用と判断されたものがあり、「混同」による誤用が多いことがわかった。
後藤, 武俊 Goto, Taketoshi
本稿の目的は、福岡市の「不登校よりそいネット」事業を事例に、多様な主体間のネットワークの形成・維持に寄与した要因を析出し、不登校当事者支援の領域における公私協働のガバナンスヘの示唆を得ることである。「不登校よりそいネット」の構築には、C氏と行政との連携実績、共働事業提案制度の存在、不登校に悩む保護者支援という課題設定、当事者性に根ざした保護者支援人材の育成という4つの要因が見出された。また、その構築過程でC氏が果たした役割・機能は、境界連結者の観点から、「情報プロセッシング機能」「組織間調救機能」「象徴的機能」の3点で捉えることができた。ここから、不登校当事者支援の領域における公私協働のガバナンスにおいては、C氏のような人物が台頭・活躍できる場づくりと、協働の可能性を広げる課題設定が重要になることを指摘した。
大城, 郁寛 Oshiro, Ikuhiro
本稿では、琉球政府が1970年に策定した「長期経済開発計画」の指針となった新全総がどのような地域開発の思想を含んでいたか、それから沖縄が誘致を望んだ臨海工業の特性、業界と官庁との関わりなどを概観したうえで、臨海工業成立の基本的な条件となった政府の資源政策の転換が地域開発に与えた影響を明らかにした。次に、旧全総において開発拠点に指定され急速に工業化を遂げた茨城県鹿島地区(それは琉球政府に1つの開発モデルを提示したが)を取り上げ、臨海工業基地の建設を巡る国の政策や地方公共団体の主体性、そして工業開発が地域経済や地方財政に与えた影響を確認した。最後に、高度経済成長によってもたらされた製造業の構造変化、企業活動の広域化やネットワーク化、世界経済における曰本のプレゼンスの高まりが、琉球政府が望んだ臨海工業基地を沖縄の経済振興に適しないものにしたことを論証した。
渡邊, 浩貴
本稿は、源義朝権力を支える地域基盤の形成過程とその特質を、彼の乳母子にして有力な郎等(家人)である鎌田正清の存在形態と東海地域への拠点形成や地域勢力との関係の実相を検討することで、明らかにするものである。これまで彼の動向は、主として軍記物語で知られるばかりで、その実像は未詳な部分が多い。本稿では平安末期から鎌倉前期頃の鎌田一族の動向を事例に検討した。明らかとした要点は大略以下の通りである。鎌田氏は本来は京武者としての存在形態を有しつつ、駿河国鎌田郷を本拠とし、次第に狩野川下流域の香貫郷にも拠点を持ち、如上の地域基盤をベースにさらには伊豆国北条氏とも交流を持つようになっていく。だが、かかる鎌田氏の地域活動には、駿河国長田荘を本拠とする在来領主長田氏との連携が必要不可欠であった。長田氏は安部川河口部にあって中世東海道の主要宿駅をその勢力圏に包摂しながら、西方面には知多半島の尾張国野間内海荘に拠点を、また北・東方面には駿河国内だけでなく、甲斐・伊豆地域にも情報網を巡らせていたことが窺える。源義朝は、東海道宿の長者的存在である長田氏と郎等の鎌田氏が姻戚関係を結ぶことで、鎌田氏を通じた東海道交通へのコミットを企図したと考えられる。ただし、上述の義朝が東海地域に形成した地域交通拠点のハブや諸勢力との連携を通じたネットワークは、決して強固なものではなかった。それは、義朝一行が東国への逃避行の途上で逗留した野間内海荘にて、長田父子に謀殺されたことからも明らかである。長者など地域諸勢力の実力に依存して結ばれた関係は、彼らとの利害関係の不一致により容易に瓦解する可能性を常に孕み、こうした勢力が基盤とする宿などの流通拠点も決して一枚岩ではなく、多様な勢力が重層的に重なりあい複雑な利害関係を形作っていたのである。一見広範にみえる義朝のネットワークも、その実態は在来勢力たる長者の実力に依拠した皮相的な関係であったといえる。一方、次代の鎌倉幕府と東海地域交通との関わりは義朝期のそれと一線を画しており、宿駅の新設や在来勢力の排除など、幕府権力による整備が進展していくこととなる。
高久, 健二 Takaku, Kenji
本稿は加耶地域出土の倭系遺物を総合的に解釈し,韓国側における対倭交渉の実態およびその変化を明らかにすることを目的とする。具体的には加耶地域出土の倭系遺物を3世紀後半~5世紀前葉と5世紀中葉~6世紀前半の二時期に分けて,その出土様相,分布,時期などについて検討した。その結果,まず3世紀後半~4世紀については,大成洞古墳群の倭系遺物が注目され,とくに大型木槨墓である大成洞13号墳に複数の倭系遺物が副葬されている点から,倭との交渉を主導していたのは金海の上位階層であり,これらを通じて倭系遺物がセットでもたらされたものと推定した。また,南部地域出土の土師器および土師器系土器は,その様相からみて,3世紀後葉~5世紀前葉に倭から渡来した人々が在地の集団とともに一定期間生活していたことを示すものであるが,倭人集団が数世代にわたって長期定住した可能性は低いと考えられる。したがって,その目的は政治的な移住などではなく,南部地域の鉄を入手するための比較的短期間の断続的な渡来ではなかったと推定される。また,倭系遺物の分布が南部海岸地域に集中しており,内陸部ではほとんど出土していないことからみて,当時の対倭交渉の窓口が南部地域に限定されていたものと推定した。5世紀中葉~6世紀前半になると,内陸地域でも倭系遺物が出土するようになり,前時期に比べて分布域が拡大する。とくに,大伽耶の中心地である高霊地域では,池山洞古墳群などで倭系遺物が比較的多く出土している。しかし,倭系遺物の分布の拡大が,そのまま倭人の行動範囲の拡大を意味するものではなく,5世紀後半以後も倭が加耶と直接交渉する地域は,南部海岸地域に集中していた可能性を指摘した。5世紀後半になると内陸の大伽耶地域と,固城などの南部海岸地域とのネットワークが確立し,これに起因して倭系遺物の分布が内陸地域に拡大したものと考えられる。つまり,倭系遺物の拡大はこのようなネットワークを背景にして南部海岸地域から内陸部へ再分配された結果であり,加耶における倭人の活動範囲はかなり限定されていたのではないかと推定した。
上野, 祥史 Ueno, Yoshifumi
中国鏡は,弥生時代中期後半から古墳時代前期前半を通じて,継続して日本列島に流入した舶載文物である。北部九州を中心とした弥生時代の鏡分配システムから,近畿地方を中心とした古墳時代の鏡分配システムへの転換は,汎日本列島規模の政体が出現した古墳時代社会の成立過程を考える上で重要な視点を提供する。日本列島内における中国鏡の分配システムの変革という視点で評価を試みた。北部九州を中心とする分配システムは,集積と形態という二つの指標から検討した。集積副葬は漢鏡3期鏡が流入する段階から漢鏡5期鏡が流入する段階,すなわち弥生時代中期後半から後期後半まで継続しており,配布主体と想定できる集積副葬墓が実在するこの期間を通じて分配システムは機能したと論じた。なお,漢鏡3期鏡の序列の継続性を検討すべく,各段階の鏡の形態を検討した結果,早くも後期初頭の漢鏡4期鏡が流入する段階に,流入鏡に大きな変化が生じたことを指摘した。ここを起点に,弥生時代中期後半から後期後半までの期間に日本列島に流入した鏡を中国世界の視点で評価した。この期間における漢鏡の流入は安定性を以て形容されることが多いが,紀元前1世紀後葉に停滞期が介在するなど,決して一様ではないことを指摘したのである。近畿地方を中心とする分配システムについては,その成立時期をめぐる議論を整理し,各地域社会における漢鏡6・7期鏡の保有状況を比較検討することが一つの視座を提供するがあることを主張し,瀬戸内海沿岸・日本海沿岸・近畿地方・近畿地方以東に分けて各地域社会の様相を整理した。その結果,漢鏡6・7期鏡が流入する段階には,瀬戸内海沿岸地域の優位性を保ちつつ,北部九州から関東地方に至るネットワークが存在していたことを指摘した。そこに,卓越した配布主体は見出しにくく,後に卑弥呼を「共立」させる状況にも通ずる,「分有」された状況を想定したのである。漢鏡6・7期鏡が流入する段階は,北部九州で分配システムが終焉を迎え,瀬戸内海ネットワークを中心に汎日本列島規模の紐帯が形成された。2世紀の庄内式期に生じた分配システムの変革を,列島内交易ルートの変質とも関連した一つの画期であることを改めて指摘した。
田中, 将太
本研究は,「住民参加型在宅福祉サービス全国連絡会(以下,住参型全国連絡会)」が実施したアンケート調査のデータから,コロナ過が住民主体による生活支援活動団体の運営に与えた影響について考察した。 コロナ禍において訪問活動や居場所活動,移動支援等の生活支援領域で活動する住民主体の活動団体は,活動継続や再開に向けた感染症対策費用の捻出や拠点の確保,資金や物資の調達,活動再開や中止の判断や活動に対する地域の理解,利用者や活動者の意欲低下などの運営課題に直面しており,その多様な運営主体別にみたとき,運営資源へのアクセス及び支援関係に特徴がみられた。 2025 年を目途に地域の実情に応じた地域包括ケアシステムの構築が図られるなかで,コロナ禍で顕在化した運営主体別にみる運営資源へのアクセスや支援関係の特徴を捉えた行政による生活支援体制整備と合わせ,社会福祉協議会やネットワーク組織等の中間支援機能の発揮による運営資源のプラットフォーム構築とアクセス支援の拡充が重要である。
Kishigami, Nobuhiro
本稿では,2012 年6 月下旬に米国アラスカ州バロー村で開催された捕鯨祭「ナルカタック」について報告し,検討する。ナルカタックとは春季捕鯨に成功した捕鯨キャプテン(夫妻)と彼(ら)の集団が主催する捕鯨祭で,祝宴における共食,ブランケット・トス遊び,ドラム・ダンスから構成されている。筆者は,その中で実施される共食と鯨肉の分配に焦点をあて,ナルカタックについてアクターネットワーク論と機能分析に基づき検討を行なった。 ナルカタックは捕鯨集団によって明確な目的のもとで実施されている。しかし筆者は,人間の能動性だけでナルカタックが実施されるものではなく,神やクジラ,自然環境,捕鯨といったアクターとの相互作用のもとで実現されている点を指摘する。さらにナルカタックは,共食や鯨肉の分配を通して文化的価値の高い食物を村人に提供し,村全体のウェルビーングに貢献するとともに,捕鯨集団の社会的評価を確認し,社会的威信を付与する場となっていると主張する。
賈, 玉龍
従来の人類学的中国研究では,「宗族(組織)」論と「関係(ネットワーク)」論が漢族社会論の 2 つのパラダイムとして注目されてきた。しかしこれらの研究は,儀礼的・非日常的な場面に注目するあまり,日常生活での人的集合を看過する傾向がある。そこで,本論文では個々人の村民の日常的な活動に注目し,隣人関係が生産と閑暇の場面でどのようにつながる/つながらないのかを明らかにした。具体的には,農繁期の作業現場と農閑期の「玩(wan)」(遊び)の場面をめぐる民族誌的資料を提示し,隣人間の日常的な「集まり」は不特定の相手との時間と空間の偶発的な重なりによって成立するものであることを明らかにした。そして現地語の「碰(peng)」(試しに当たる)がそのような「集まり」を生成する原理と見なせることを指摘し,この概念に着目することで新たな漢族社会論を発見できる可能性があると展望した。
野田, 大志 NODA, Hiroshi
本研究は,現代日本語における動詞「ある」の多義構造について,認知言語学における諸概念を援用することで包括的,体系的に明らかにすることを目的とするものである。はじめに,本研究において動詞「ある」の語彙的意味(動詞レベルの意味)に焦点を当てた分析を行うことの意義を示す。次に,現行の辞書類における「ある」の意味記述について,「語義の区分」及び「メタ言語の選定」という2つのレベルにおける問題点を指摘する。以上を踏まえ,動詞「ある」が有する20の意味(多義的別義)を認定し,それぞれの別義の意味特徴,使用される構文の特徴,(文レベルの)存在表現の分類における位置づけについて検討する。また,複数の意味の相互関係について,比喩に基づく意味拡張という観点によって明らかにする。その上で,20の意味(節点)によって形成される動詞「ある」の多義ネットワークの全体像を提示する。
金, 彦志 方, 貴姫 韓, 智怜 韓, 昌完 Kim, Eon-Ji Bang, Gui-Hee Han, Ji-Young Han, Chang-Wan
障害学生のための文化芸術教育が特殊学校において様々な形で実施されているが、障害学生のための具体的かつ長期的な支援策が設けられていないのが現状である。これにより学校現場での文化芸術教育活性化に困難があると言える。本研究では、障害学生の文化芸術に関する先行研究の考察と特殊学校における障害学生文化芸術教育の実態把握を通じて、今後の学校教育課程における障害学生文化芸術支援の方向に対する政策案を提示した。特殊学校文化芸術教育の実態調査では、韓国の特殊学校153校を対象に実施しており、音楽教科の場合、118校(77.1%)の担当教師181人が回答し、美術教科の場合、98校(64.1%)の担当教師154人が回答している。アンケート調査の結果をもとに、芸術教科担当教師の専門性の確保、芸術教科プログラムの多様性の確保、文化芸術教育環境の改善と専門人材のネットワーク構築など、特殊学校で適用可能なサポートの方向を提示した。
ヴォロビヨワ, ガリーナ ヴォロビヨフ, ヴィクトル VOROBEVA, Galina VOROBEV, Victor
本稿では,非漢字系日本語学習者の漢字学習を困難にさせている「膨大な学習対象漢字の量」,「漢字字体の複雑さ」,「漢字を構成する要素の多さ」という阻害要因について検討した。そして「漢字学習能力段階」という概念を定義して,上記の阻害要因を学習者に乗り越えさせるための対処法を提案した。漢字学習の効率化の手段として漢字体系の深い理解を促す漢字学習法が必要である。そのため現常用漢字をカバーする構成要素体系を作成した。漢字の意味を構成要素の意味から推測できるようにすることは重要であり,漢字構成のよりよい理解のために階層構造分解について記した。階層構造分解の際は構成要素だけではなく,構成要素の組み合わせである中間漢字も漢字の要素として扱うことにした。漢字の階層構造分解は漢字を識別する際に重大な役割を果たしている。また学習対象漢字の選択と掲出順序を自由に決められるように「世界観」の漢字意味ネットワークを紹介した。
Kishigami, Nobuhiro
人類とクジラの関係には地域や時代によって多様性が認められる。アラスカ北西地域に住むイヌピアックは,ホッキョククジラと歴史的に特別な関係を形成し,現在に至っている。アラスカ州にあるバロー村を見るかぎり,イヌピアックの生活は変化しつつも,捕鯨が彼らの生活や関心の中核をしめ,生き方に大きな影響を及ぼし続けている。本論文では捕鯨が単なる食料獲得の手段ではなく,多くのイヌピアックの人々の生活のさまざまな側面と深く関わっている文化・社会的に規定された経済活動であることをバロー村の事例を基に例証する。また,その捕鯨の存続が社会内外のいくつかの要因によって危機にさらされていることをポリティカル・エコノミーの視点とアクター・ネットワークの考えを援用して描き出す。さらに捕鯨問題は「文化の安全保障問題」であることおよび文化人類学者は,イヌピアック社会とそのほかの利害関係者との仲介者としてこの問題の理解と解決に貢献できる点を指摘する。最後に,本研究に基づいて将来の研究課題を提起する。
野入, 直美 Noiri, Naomi
本稿は石垣島の台湾人の生活史の事例から、石垣島における台湾人と沖縄人の民族関係の変容過程をとらえようとする試論の前編である。ここでは、戦前から復帰前までの台湾から石垣島への人の移動と、石垣島における台湾人社会の生成と変容の過程をとりあげる。台湾から石垣島への人の移動は、戦前と戦後を通じて、台湾人実業家が石垣島にもちこんだパイン産業によって形成されてきた。戦前期については、パイン産業の萌芽と台湾人移住の始まり、国家総動員体制下での沖縄人による台湾人排斥を中心に記述を行う。そして戦後期については、パイン産業が石垣島の基幹産業となるなかで台湾人が集住部落を形成し、沖縄人との民族関係が変化していく過程と、復帰前の移行期における台湾人の職業の多様化について記述する。本稿の続編では、復帰後の台湾人社会について、大量の帰化、世代の移行と家族生活の変容、職業の多様化を中心にとりあげ、それらの変化にもかかわらず相互扶助のネットワークが維持されてきた過程について検討する。
森, 篤嗣 内海, 由美子 MORI, Atsushi UTSUMI, Yumiko
「生活のための日本語:全国調査」における山形県の回答者の中から結婚移住したアジア女性を抽出し,首都圏(新宿・千葉)と全国の同回答者を比較対象に,生活状況と日本語使用について分析した。その結果,首都圏・全国の定住アジア女性に比べて,山形は滞日年数が長く学習の場を持たずに日本語を自然習得している人が多い,「書く」に対する自己評価が低く強い学習ニーズを抱いている等の傾向が見られた。滞日年数に従い日本語でできる言語行動が増える一方,「書く」に対しては不全感を抱いている。また,「地域交流」「幼稚園・学校」場面での言語行動の頻度が高く日本語でできる人が多かった。つまり山形の定住アジア女性にとっては,地域の日本人ネットワークで人間関係を築く・維持するための言語行動の必要性が高い。以上から,地域日本語教育には,「書く」に対する学習支援とともに,高度な言語行動を視野に入れた学習支援が求められていることがわかった。
吉田, ゆか子
本研究は,音楽の越境という現象を,新たなモノ(主に楽器)との出会いとしてとらえなおすものである。本稿では,日本におけるバリ・ガムラン音楽の演奏グループの上演や活動において,バリから運ばれてきた楽器が,さまざまに作用する姿を描き出した。ガムランはバリの信仰とも結びつきながら地域共同体のなかで育まれてきた音楽であり,楽器も現地の物理的社会的条件に適合的に作られている。そのため,それが日本に運ばれてきたとき,人々の生活や環境と齟齬をきたす。日本の演奏者たちは,周囲のモノの配置を工夫したり,新たな人間関係を築いたり,演奏内容を変化させたりしながら,楽器とそれを取り囲む日本の社会的物理的環境を調整し,なんとか楽器と折り合ってゆく。こうして楽器は,バリの人-モノのネットワークから部分的に切り離され,日本で新たな人やモノとの関係に入ってゆくのである。しかしながら本研究からは,バリ製の楽器が,モノらしいユニークなやり方でバリと日本を繋いでいるという面も明らかになる。
市野澤, 潤平
2004 年12 月26 日,スマトラ沖地震によって引き起こされた大津波に襲われた世界的に著名な観光地であるプーケットは,深刻な観光客の減少に苦しむこととなった。本稿は,風評災害に見舞われた人々の経験を,リスクという視座において考察する。M. ダグラスらによる「リスクの文化理論」は,リスクを社会的構築物として提示した点で大きな影響力を発揮したが,人々による危機への対応が生み出す社会の動態性を,充分には考慮していない。そこで本稿は,社会(文化)がリスク認識を規定するという「リスクの文化理論」の前提を継承しつつ,N. ルーマンによる「危険/リスク」の弁別を導入することによって,「危険のリスク化」という視座を提案する。「危険のリスク化」とは,危機に直面した個人の認識および行動の両面における継時的な運動である。その視座において本稿は,津波後のプーケット在住者によるリスクへの認識と対応は,事態の変化に対する反応である一方で,自らが身を置く社会環境と人間関係のネットワークの有り様を更新していく運動でもあったという事実を,浮き彫りにする。
Miyahira, Katsuyuki
超多様性が日常化する現代社会において、社会言語学の基本的概念である「ことばの共同体(スピーチ・コミュニティ)」をどのように捉えるべきなのか。本稿ではハワイの沖縄ディアスポラ共同体が発信するYouTube ビデオシリーズ“ Yuntaku Live!”のインタビュー談話に注目して考察を行った。スピーチ・コード理論に基づいて、舞台芸術家を対象としたインタビューの談話を分析した結果、沖縄ディアスポラ共同体の個人像、社会的人間関係、そしてコミュニケーション行動の特色について次の点が明らかになった。舞台芸術家はその演舞を通して自らの内にある混成性(ハイブリディティ)と沖縄との歴史的連続性を重視し、演目に込められた、記憶の断片から想像した祖国の物語を聴衆と共有することで沖縄ディアスポラの社会的人間関係を構築している。舞台芸術に込められたこうした物語は、日常会話において「ユンタク」という固有のコミュニケーション儀式を通して広く共有され、国境を越えて人と人を結ぶ役割を担っている。舞台芸術の演舞とオンラインの仮想空間を媒介としてもたらされる人と人のこうしたネットワークは、超多様性を享受する現代における新出の「ことばの共同体」であり、この共同体創造の基盤をなすのが沖縄語語彙、メタ言語としての沖縄語、そしてそれらを契機として創造される物語である。
Ito, Chihiro
アフリカ農村部では農業が基盤ではあるが、市場経済の影響やリスクへの対応として農民の生業は多様化してきている。中でも出稼ぎ労働は農村経済を補填する役割を担うものとして注目されてきた。本稿の目的はザンビア農村部において、生業多様化の実態やリスクへの対応を明らかにし、そして特に出稼ぎ労働が持つ役割や影響を農村内の多生業との関わりから明らかにすることにある。 調査の結果、村内雇用労働や農業・農外賃労働、干ばつ時の対応策など様々な生計手段が観察された。しかし、各種の生業へのアクセスは一様ではなく、各世帯の生計戦略の幅に差異が生まれていることも明らかとなった。 これに対し調査地からの出稼ぎ労働は、低コストで容易に行えるため、農村内の生計戦略を代替するものとして農村社会と経済に組み込まれていた。これらが実現した要因として、近隣の都市における非熟練労働の需要増加と、社会的ネットワークによる初期費用の削減などの要因が挙げられる。 調査地における出稼ぎ労働は、干ばつなどの困窮時に容易に行える手段として重要な役割を担っている。しかし、その必要性や重要性は世帯によって異なり、それらは農村内の計戦略へのアクセスと関連しているといえる。
Mori, Akiko
移民は,ホスト国のローカリティや日常生活に組み込まれていると同時に,それとは別の場所と,さまざまなネットワークを介して結びついている。彼らは,自己の位置や帰属をどのように考えているのだろうか。本稿は,グローバル化する世界において,移民の帰属意識はどのように構成されていくのか明らかにしようとする。具体例としてとりあげるのは,ベルリンに30 年生活しているサラエボ出身の女性の経験である。まず問題の理論的な背景を述べたのち,トランスナショナリズム研究と近年のドイツ都市研究を概観して,移民の階級的な経験に注目することの重要性を指摘する。次に,壁撤去後のベルリンの経済構造と社会構造の変化のなかで,移民が都市の最下層に組み込まれていったことを記述する。ベルリンは,壁撤去と同時にグローバル経済に遭遇し,そこで起こった経済の構造転換は,失業と社会構造の二極化をもたらした。移民は,「外国人」というひとつのカテゴリーに一方的に投げ込まれる。これに対して移民は,ムルティクルティ(多文化主義)という立場を主張する。このことばは,ドイツ人/外国人の境界を疑わしいものとみなし,ドイツ文化をさまざまな移民の文化と横並びの,ひとつの文化として扱おうとする意味を含んでいる。
緒方, 茂樹 城間, 園子 津波, 桂和 佐和田, 聡 Ogata, Shigeki Shiroma, Sonoko Tuha, Yoshikazu Sawada, Akira
本研究ではこれまでに提唱してきた「システム教育学」の中核をなす図形モデルの再構築を行なった。まず特別支援教育におけるネットワークシステム構築に関する図形モデルとして「基本モデル」を提案した。従来提案してきた「空間モデル」は結果的にこの基本モデルと同一のものとなった。さらに時間軸に沿った連携のあり方について、基本モデルに時間情報を付加した上で「時間モデル」を再提案した。さらに本稿では、特にコーディネーターの役割に焦点を当て、システム論に基づいて今回再構築したモデルに当てはめを行った。得られた所見から、例えば関係諸機関間の連携については、コーディネーターが境界関係システムとして位置付けられること、その具体的な役割として「つなぐ」ということが主眼とされるべきことなどについて指摘した。さらに境界関係システムに関わる具体的な課題の一つとして、学齢前における保育所(園)、認定こども園におけるコーディネーターの不在などの課題についてもまた明らかにした。認定こども園の設置数増加に見られるような保育制度の改革の中、いわゆる気になる子の早期発見と早期対応についてもまた、時間連携の観点から今後重点的に取り組むべき課題の一つであることを指摘した。
西谷, 大 Nishitani, Masaru
本稿は中国雲南省紅河州の金平県と緑春県で街道沿いに6日ごとにたつ市を事例として,市が成立する上で普遍的に必要となる条件と特質をさぐることを目的としている。これまで市を成立させる条件として「余剰生産物の現金化と生活必需品の購入」,「徒歩移動における限界性」,「市ネットワークの存在と商人の介在」,「商品作物の処理機能」の4つ条件を提示した。本稿では市のもつ特質として,「小商いの集合による商品数の創出と多様な選択性」,「生産物の処理の自由度と技術の分担による製品の分業創出」を付け加えた。さらに市の成立を考える上で,「交易品としての食料と食の楽しみ」と「店と人数の適正規模」にも目を向ける必要があることを指摘した。人類の歴史上における交易活動の出現は,生業や生態学的な環境の相違によって生産物などが異なる集団間で,物資の交換がおこなわれたことが契機になることがしばしば認められる。言語,習慣,生産物などの異なる9つの民族が1つの谷に居住する者米谷地域での定期市の研究は,人類の歴史上で市が誕生する条件や異民族間の交易によって市が誕生していく過程を考える上で,重要なヒントを与えてくれると考えられる。
志波, 彩子 SHIBA, Ayako
本研究は,主に高宮(2003,2004,2005)の一連の研究によって明らかにされた間接疑問構文の歴史的な発達について,その痕跡が明治期の日本語にどの程度見られるかを,小説(文学)テクストのコーパスから抽出された用例をもとに,現代語とも対照しながら記述した。間接疑問構文の主節述語は,近代に入っても未だ未決タイプ(「知らない」「分からない」等)が多いが,江戸後期には未発達であった既決タイプ(「分かる」「知っている」等)も1 割を超える割合で現れ,対処タイプ(「考える」「確かめる」等)においても形態的な制約がなくなり,主節述語のヴァリエーションが増えていることが確認された。また,間接疑問節のタイプでは,疑問詞疑問のタイプが非常に優勢であることも明らかになった。本研究ではさらに,主節述語が心理動詞である間接疑問構文を典型的な間接疑問構文とし,これと同じ従属カ節を持つ構文として,依存構文,間接感嘆構文,照応構文,潜伏疑問構文,内容構文,二文連置構文(背景注釈,課題提示,言い換え)を主に取り上げ,それぞれの構文の意味・構造的な特徴と,間接疑問構文との関係(ネットワーク)を考察した。この中で,未決タイプの「知れない」や既決タイプの間接疑問構文は,間接感嘆構文に意味的に非常に近いことを明らかにした。また,明治期に入って一般的に見られるようになった間接疑問構文の既決タイプは,原因・理由・条件を伴う構造で述べられることが多く,さらにこの構造の影響を受けながら依存構文が近代に入って徐々に使われ始めたのではないかという考察を示した。最後に,二文連置構文における背景注釈型,課題提示型,言い換え型についても,これらと間接疑問構文や潜伏疑問構文との違いや連続性を,用例を示しながら考察した。
野入, 直美 Noiri, Naomi
本稿では、沖縄の本土復帰以降の石垣島における台湾人社会の変容について検討を試みる。沖縄が本土復帰した1972年に、日本は中華人民共和国と国交を回復し、中華民国との国交は途絶えた。この政情不安を背景として、石垣島では台湾人による家族ぐるみの帰化が大量に行われた。ここでは、まず戦後の台湾人の法的地位について整理し、石垣島に生きるひとりひとりの台湾人にとっての帰化の意味と、帰化をめぐる意識について、聞き取りの事例に基づいて考えたい。\nさらに本土復帰後の台湾人社会は、集住地域の解体に直面する。前稿で述べたように、石垣島の台湾人社会は、戦前からのパイン産業を柱として形成されてきた。戦後、パイン産業は石垣島の基幹産業となった。労働力の需要があったために、疎開でいったん台湾へ戻っていた台湾人は石垣島に再移住し、新たに就業機会を求めてやってくる台湾人もいた。しかし復帰後、パイン産業は急速に斜陽化し、パイン缶詰工場で働く下層労働者の多くは石垣島を去った。定住を選んだ人びとも、かつて「台湾人村」と呼ばれたX部落、パインの生産と加工によって栄えた台湾人集住地域を離れ、石垣市の市街地に移動した。この稿では、集住地域の解体と職業生活の多様化にもかかわらず、相互扶助と文化継承のネットワークが維持されていく過程を明らかにしたい。
宮内, 久光 Miyauchi, Hisamitsu
本研究では近代期の宇検村を研究対象地域とし、移民の移動パターンと移動要因、移動プロセスなどを概説的に紹介した上で,宇検村からの移民送出の特徴について考察することを目的としている。近代期における奄美大島宇検村からの移民は、移住システム理論の枠組みで説明ができる。すなわち、宇検村の人口圧は極めて高いという内部条件に加えて、戦間期における慢性的に続く経済不況という外部環境による刺激を受け、村民の生活は困窮した。このような地域的な状況に対して、宇検村の人々は移民をすることで対応した。移民先は1920年代までがブラジルへ、1930年代前半は南洋群島へ、そして、1938(昭和13)年以降は満州へと、その時々の国際関係や日本の対外進出といった政治・社会状況に対応して移民先が変わっていた。ブラジル移民の事例では、宇検村出身者はブラジル渡航後に同郷ネットワークにより、居住地域に特徴が見られた。また、チェーンマイグレーションと呼ばれる連鎖移動も認められた。移住システム理論では,マクロ構造とミクロ構造の聞には、多数の「メソ構造」とよばれるような中間的メカニズムを重視する。従来の移民研究では、このメソ構造として、移民会社の役割が強調されてきたが、宇検村では移民送出に行政機関である宇検村役場が積極的に関与して、官民一体となった移民送出システムが構築されていたことが特徴としてあげられる。
赤嶺, 淳
東南アジア海域世界の人々は,香料や乾燥海産物などの生物資源をもとめて移動分散をくりかえす傾向が強い,と指摘されてきた。本研究の目的は,人々の移動を誘発した資源のなかでも干ナマコに焦点をあて,ナマコ資源の経済的価値の多様性と利用状況について報告することにある。従来の海域世界論研究では,干ナマコやフカのひれなどの乾燥海産物をめぐる人の移動とネットワークに着目する必要性が唱えられてきたものの,実際の流通事情を調査したものはほとんどなかった。また,干ナマコも一元的に高級食材として理解されるにとどまっていた。ところが,現在のフィリピンでは20種の干ナマコが生産され,高級種と低級種との価格差が30倍におよぶように,干ナマコ資源の価値は多元的である。さらに,近年においては低級種の価格は上昇する傾向にある。また,香港やシンガポールなど干ナマコの主要消費地とフィリピンでおこなった聞き取り調査によって,多様な経済的価値をもつ干ナマコが,高級料理と大衆料理の異なった料理に区別されて使用されていることがあきらかとなった。そのような消費概況と各種の統計資料から,本稿はフィリピンのナマコ資源の特徴を低級種の大量生産にもとめた。そして,パラワン島南部マンシ島の事例にもとついて,その仮説の実証を試みた。マンシ島でみられる干ナマコ生産の現状を「フロンティア空間の重層性」と解釈し,ナマコ資源の価値変化に敏感な漁民像を記述した。
安達, 文夫 小島, 道裕 高橋, 一樹 Adachi, Fumio Kojima, Michihiro Takahashi, Kazuki
博物館の様々な情報をネットワークを介して公開することが広く行われている。いろいろな公開方法の中で,収蔵資料の画像を用いて,あるテーマに沿って複数の画面により構成するものを電子展示と捉える。テーマを適切に伝えるため,電子展示をどのように構成すべきか,あるいは伝えるべき情報の量をどのように適切にするかを明らかにするには,利用者が電子展示を閲覧する特性を知ることが重要である。そして,これにより電子展示の関心の度合いを評価する手掛かりが得られる。絵画資料と文書資料を素材として,その画像と説明等からなる画面により電子展示を構成し,国立歴史民俗博物館のホームページから公開した際の画面のアクセス数を分析することにより,利用者の閲覧特性を検討した。電子展示のテーマに関心を持ち多くの画面を閲覧するグループと,比較的早い段階で中止する関心の低いグループがある。画面に解説文を付与すると,関心の高いグループの比率が増加する。しかしながら,画面を見続ける移行率は低下する。基本画面にサブ画面をリンクした形態では,基本画面から次の基本画面を見る確率(およそ0.95)に比べて,サブ画面を見る確率はおよそ0.2と低い。この値は付与するサブ画面の数や種類によらない。基本型と同じ意味となる移行率を観測された閲覧率から推定した値は,サブ画面の有無や数によらないことが示される。これは,基本画面だけについて見ると,サブ画面が付くことによって,次の基本画面を見る率は低下することになる。絵画資料による電子展示が文書資料によるものより関心が高いことが,正規化した第1画面のアクセス比率より示される。一方で,文書資料に対する一定の関心がある。このような関係は,電子展示だけでなく,実際の展示に対しても示唆を与える。展示資料に対する解説手段の検討の参考となる。
大角, 玉樹 Osumi, Tamaki
1990年代後半のインターネット揺籃期、成長期を経て、現在、わが国は世界最高水準のネットワークインフラを整備している。情報通信技術(ICT:Information\nand Communications Technology)を21世紀の持続的発展の原動力と位置づけ、それを推進した政策がe-Japan戦略である。さらに2010年までには全国にブロードパンドとユビキタス環境を整備し、情報通信技術の利括用で世界のフロントランナーを目指すu-Japan政策が展開されている。沖縄では、1998年に発表された「沖縄マルチメディアアイランド構想」が、2000年に開催されたG8九州沖縄サミットで採\n択された沖縄IT憲章に後押しされ、IT関連企業の誘致と集積が進められている。\nしかしながら、それがコールセンターに偏っていることから、今後の政策の見直しが迫られている。\n 本稿では、これら情報通信政策を整理し、政策が情報通信技術の普及と啓蒙に果たした役割を明確にし、今後の課題を検討している。また、グローバリゼーションと情報通信技術の急速な進歩により、とりわけビジネスにおけるモジュール化が加速され、また、世界や社会がフラット化しつつある現象が指摘されている。ウェブ自体の進化も、Web2.0という用語に代表されるように、大きな質的変化を遂げて\nいる。\n このような現実を政策に反映するには、情報通信技術へのアクセスが機会を生み出すというデジタル・オポチュニティという考え方よりも、ウェブヘのアクセスと、ウェブとリアル世界のコラボレーションが創造の機会を増幅するという、ウェブ・\nオポチュニティという概念が望ましいのではないだろうか。
緒方, 茂樹 Ogata, shigeki
近年のテクノロジーの進歩に伴って、学校教育におけるICT機器の活用は急速に進められている。これからの学校教員はICT機器の活用に関してこれまでのように一部の専門家に頼るのではなく、教員が自分自身で活用できる基礎的なスキルを身につける必要がある。このことはまた、教員養成系大学において、ICTの活用に関する講義を授業科目として提供することはもちろん、実際に自分の研究や勉強に役立てる実践的かつ応用的なICT機器の活用をゼミなどで積極的に取り入れることが不可欠であることを示している。本稿では主にiPadを活用したゼミの取り組みを中心に、研究室で行っている学生に対する研究や論文指導の実践例を事例として紹介する。紹介する事例は総務省によって全国で展開されてきた「フューチャースクール」の取り組みのように大がかりなものではない。しかし機器設定の工夫により、それと類似した環境設定は不可能ではなかった。特に「学生教育用Wi-Fi環境jを独自に構築することで、教員と学生が「情報の検索と閲覧に関わる内容の共有」を容易に図ることができるようになった。さらに将来的には大学のみならず、教育現場とも協力した「共有情報アーカイプ」作成の可能性もみえてきている。現在研究室で行っている実践は、これから教員になる学生がクラウドコンピューテイングなどの新たなネットワーク環境を学び、将来的に教育現場でICT機器を十分に活用していくためのスキルを身につけるためのひとつの試みであると考えている。
緒方, 茂樹 Ogata, Shigeki
本研究は障害児教育における「音楽を活用した取り組み」をより効果的に行うための実践的、基礎的研究を目指して計画したものであり、本報告はその第二報となる。本報告では全国で数多く行われている「音楽を活用した取り組み」について新たにデータベースシステムの構築をはかった。今回作成したシステムは、いわゆる研究目的で使用するばかりでなく、むしろ現職教員が教育実践の場面で実際に使用することを目的として構築されている。本報告では第一に、「音楽を活用した取り組み」に関して、今回新たに作成したデータベースシステムの構築内容や使用方法などの実際について述べた。第二に、全国で行われている「音楽を活用した取り組み」についてさらに詳細な現状を知るために、今回作成したデータベースに含まれる全国の特殊教育緒学校等に由来する文献のうち、収集可能であった320件全てを対象として個々に内容を検討し、1)「音楽を活用した取り組み」は小学部で数多く行われており、中学部がそれに続いていた。2)教育課程の枠組みについては教科としての音楽科で行われることが多かったが、一方で他の教育課程の枠組みでも幅広く取り入れられていた。3)対象となった子どもの実態はきわめて多様であり、「音楽を活用した取り組み」が様々な障害特徴をもつ子どもを対象として行われていることが改めて明らかとなった。最後にデータベースをめぐる今後の方策と課題について、教育現場との連携の重要性やネットワークへの発展なども考慮しながら考察を加えた。
Kishigami, Nobuhiro
文化人類学者は,さまざまな時代や地域,文化における人類とクジラの諸関係を研究してきた。捕鯨の文化人類学は,基礎的な調査と応用的な調査からなるが,研究者がいかに現代世界と関わりを持っているかを表明することができるフォーラム(場)である。また,研究者は現代の捕鯨を研究することによってグローバル化する世界システムのいくつかの様相を解明し,理解することができる。本稿において筆者は捕鯨についての主要な文化人類学研究およびそれらに関連する調査動向や特徴,諸問題について紹介し,検討を加える。近年では,各地の先住民生存捕鯨や地域捕鯨を例外とすれば,捕鯨に関する文化人類学的研究はあまり行われていない。先住民生存捕鯨研究や地域捕鯨研究では日本人による調査が多数行われているが,基礎的な研究が多い。一方,欧米人による先住民生存捕鯨研究は実践志向の研究が多い。文化人類学が大きく貢献できる研究課題として,(1)人類とクジラの多様な関係の地域的,歴史的な比較,(2)「先住民生存捕鯨」概念の再検討,(3)反捕鯨NGO と捕鯨推進NGO の研究,(4)反捕鯨運動の根底にある社会倫理と動物福祉,およびクジラ観に関する研究,(5)マスメディアのクジラ観やイルカ観への社会的な諸影響,(6)ホエール・ウォッチング観光の研究,(7)鯨類資源の持続可能な利用と管理に関する応用研究,(8)クジラや捕鯨者,環境NGO,政府,国際捕鯨委員会のような諸アクターによって構成される複雑なネットワークシステムに関するポリティカル・エコロジー研究などを提案する。これらの研究によって,文化人類学は学問的にも実践的にも捕鯨研究に貢献できると主張する。
馬場, 伸一郎 BaBa, Shinichiro
本稿の目的は,中部高地に分布する弥生中期・栗林式土器編年の再構築と広域編年上の位置づけ,分布と動態の明確化を行うことで,人の「うごき」を具体化することである。弥生社会・文化の研究という総合的研究を射程とするならば,まず土器型式の設定や細分,広域編年の作成は必須である。分析の結果,弥生IV期前半である栗林2式新段階は栗林式の分布域が最大化する時期であり,またその時期には,栗林式の中心地から離れた上越高田平野の吹上遺跡と北武蔵妻沼低地の北島遺跡で,栗林式およびその系統の土器が多量に出土するという現象を確認した。さらに同時期,小松式関連の土器分布のあり方から,高田平野から北関東へ抜ける主要交流ルートが「白根山-吾妻川ルート」から「千曲川-碓氷川ルート」へ転換することが判明した。そして千曲川流域内で最大級の集落遺跡である松原遺跡に,小松式関連土器の出土が偏る。まさにそうした土器分布の動態のあり方は人々の往来の仕方の変化であり,特定の場所で生産される物資の互酬性的交換活動のあり方の変化を示すと考えられる。栗林2式新段階は折しも佐渡産管玉の流通が明瞭になり,また長野盆地南部の榎田遺跡と松原遺跡の間で磨製石斧生産の分業が確立する時期である。異系統土器を多量に出土する複数の遺跡は,異系統土器集団間の「交易場」であると考えられる。すなわち,IV期前半の栗林式集団による広域ネットワークの形成と「交易場」の設定,長野盆地南部の磨製石斧分業生産の確立は,パラレルに進展した歴史的事象であり,集団間の互酬性的交易活動の極度の発達を示す歴史的意義をもつと考えられる。
濱上, 知樹
近年,高度な画像分類を用いた様々なアプリケーションが開発され,その学習精度の向上が期待されている。分類精度向上のために画像特徴の抽出法や分類器の学習等の改善[6]がなされてきた。特に画像特徴の抽出と分類において高い精度が得られている手法として深層学習[1][2][3]が注目されている。画像に対する深層学習においては畳み込みニューラルネットワークが広く用いられ,分類カテゴリのラベルを有する教師あり画像を大量に用いて学習するのが一般的である。しかし,教師あり画像のサンプル数が十分でない場合,画像空間全体の学習が不完全となり,未知の画像の分類に失敗する。画像に対して分類カテゴリのラベルを付与することは非常に労力を要するため,教師あり画像の数は教師なし画像と比べて非常に少ない。さらに,ラベル付与に専門家の知識が必要な医療や人文系のデータでは,十分な数の教師ありデータが揃わず,大規模な学習は困難である。そのため,少数の教師あり画像から画像分類を高い精度で行える手法が求められている。そこで本研究では,少数の教師あり画像の近傍空間を用いた学習方法を提案する。提案手法では,分類カテゴリに属する代表画像をもとに,一般画像空間中における近傍サンプルを収集し,これを用いて近傍空間の学習を行う。この方法を用いることにより,少数の教師あり画像から学習に必要なクラスタを構成し,クラスタの特徴を抽出することで分類を可能にする。提案手法の有効性を確認するため,ラベルが付与された画像が少ない事例として小袖屛風画像におけるモチーフの分類を行い,従来手法では困難であった分類が可能となったことを示す。
Meireles, Gustavo メイレレス, グスターボ
移住者は、ホスト社会に適応する際、エスニック・アイデンティティの保存とコミュニティの継続を促進し、脅威と思われる行動に対して防衛を図る。その過程において、共同体を代表する団体の設立につながる移住者の団結とネットワーク形成が見られる。文化とアイデンティティの維持がエスニック組織の主な役割とされているが、こういった団体はメンバーの定住過程にも大きな影響を与えている。エスニック組織というのは、文化・エスニック・アイデンティティの意識を共有する構成員によって設立されるものである(Sardinha, 2007)。そして、エスニック組織の活動は社会、レジャー、政治、文化、宗教、就労といった、様々な分野に広がる。本稿では、まずブラジルにおける沖縄系エスニック組織の発展過程を分析した。その過程を理解した上で、第6回ウチナーンチュ大会のデータに基づいてそのエスニック組織の実態と将来の展望を検証した。沖縄文化の維持と沖縄県とのつながりに関して、世代的な相違が見られた。若い世代は、日常生活において文化や言語力(うちなーぐちと日本語)の維持に消極的である。さらに、沖縄に関する情報源として、エスニック組織(県人会)よりも、インターネットやソーシャルメディアが多く挙げられた。多くの組織が沖縄県との交流プログラムを通じて若い世代の参加を促そうとしてきたが、その効果はまだ確かではない。本稿で取り上げる事例を見ても、交流プログラムの効果に疑問は残るが、世代交代によって生じる問題の対策として、ブラジルと沖縄に住む若い世代の交流が鍵となる可能性を示唆する。ブラジルの場合は、世代交代が進み、若い世代がブラジル社会に同化する傾向が強く、エスニック組織の維持継続はトランスナショナルなつながりにかかっている。ウチナーンチュ大会や日伯の若い世代の交流プログラムのような施策はブラジルにおける沖縄系エスニック組織の継続を促進する可能性を秘めている。
Siamwiza, Bennett Siamwiinde Siamwiza, Bennett Siamwiinde
本稿では、生態系の脆弱性に対する低地トンガのレジリアンスについて言及する。それは、何世紀にもわたって引き起こされてきた常襲的旱ばつ、1958 年以前のザンベジ河の洪水、1958 年以降のカリバ湖の洪水とといった特徴によって生じたものである。低地トンガとはグウェンベ渓谷の居住者であり、そこはザンベジ河の南部と北部の丘陵地の切れ目のない連なりに挟まれた盆地である。グウェンベ渓谷はザンビア南部州のザンベジ河岸の中流部に位置する。以前から、この地域は半乾燥地であることから飢えと飢饉にさらされてきた。本稿では厳しい環境の中で生存するために低地トンガが適用し利用してきた、さまざまな仕組みを調査する。トンガのレジリアンスは主に彼らが良い天候と悪い天候を事前に察知する能力に依存していることを本稿は示唆する。環境における気候の変動を解釈する能力によって、彼らは期待される負の出来事が起こる前に準備することを可能とするのである。本稿が述べる低地トンガは、常襲的な環境の妨げにもかかわらず渓谷に居住しつづけ、しばしばいくつかの理由によって食料危機に直面した。潅木林は食料倉庫であり、天候が悪いときにも良いときにも食料を彼らに供給した。そしてかろうじてこの環境で生存を続けた。モラルエコノミーを基盤とした社会経済的ネットワークを構築していた彼らは外部者からは有名であった。低地トンガは深刻な洪水のような一見して負の出来事さえも利用した。洪水が後退したあとには、乾季栽培の機会が訪れたのである。20世紀初頭の植民地政府の下では、トンガは別の生存戦略の側面を追加した。労働移動、植民地政府の飢饉救済を通じた介入、カリバ湖形成後の商業的漁業の導入などが彼らの生態系のショックに対するレジリアンスの源となった。
若狭, 徹
東国の上毛野地域を軸に据えて,古墳時代の地域開発と社会変容の諸段階について考察した。前期前半は東海西部からの大規模な集団移動によって,東国の低湿地開発が大規模に推し進められるとともに,畿内から関東内陸部まで連続する水上交通ネットワークが構築された。在来弥生集団は再編され,農業生産力の向上を達成した首長層が,大型前方後方墳・前方後円墳を築造した。前期後半から中期初頭は,最大首長墓にヤマトの佐紀古墳群の規格が採用され,佐紀王権との連携が考えられる。一河川水利を超えた広域水利網の構築,広域交通拠点の掌握という2点の理由によって,上毛野半分程度の範囲で首長の共立が推し進められた。また,集団合意形成のための象徴施設である大規模な首長居館が成立している。中期前半には東国最大の前方後円墳の太田天神山古墳が成立したが,河内の古市古墳群を造営した王権との連合の所産とみられる。この頃から東国に朝鮮半島文物が移入されることから,倭王権に呼応して対外進出・対外交流を行うために外交・軍事指揮者を選任したことが巨大前方後円墳の成立背景と考えた。中期後半には渡来人や外来技術が獲得されたため,共立の必要性は解消し,各水系の首長がそれぞれ渡来人を編成して地域経済を活性化させている。後期の継体期には,東国最大の七輿山古墳が成立したが,その成立母体が解消すると,複数の中型前方後円墳が多数併存するようになる。こうした考古学的な遺跡動態や,古代碑・『日本書紀』『万葉集』などの文献の検討を合わせて,屯倉の成立と地域開発の在り方を考えた。武蔵国造の乱にも触れ,緑野屯倉・佐野屯倉の実態ならびに上毛野国造との関係性についても論及した。
内山, 大介
山口弥一郎は明治35 年に福島県旧新鶴村に生まれ,生涯にわたって東北各地をフィールドに調査研究を行った。その山口が近年注目を浴びるようになったきっかけは,平成23年の東日本大震災であった。山口は昭和8年の三陸津波後から三陸を歩き始め,被災地の暮らしや復興のあり方を調べた。その仕事は東日本大震災後に大きく評価され,著書『津浪と村』が復刊されて大きな反響を呼んだ。そのため山口は津波被災地の研究者としてのイメージが浸透しているが,実際には東北をフィールドに生涯を通じて多様な課題に取り組み,独自の成果を挙げている。例えば昭和戦中から戦後にかけての時期は,農村に暮らしながら生活を記録するという参与観察的な調査実践を進め,それは農村の生活改善のための青年教育へと展開した。また長く学校教員として暮らした山口は,学校の授業や課外活動を通じて,若い教え子たちの地域文化への理解や課題を発見する力を養う取り組みを実践した。さらに同僚や後輩たちとともに地域学会を組織し,研究活動やフィールドワークを通じて多様な地域ネットワークの形成にも寄与している。こうした取り組みのなかで山口が常に重視していたのは,フィールドワークである。なかでも自然災害や戦争,過疎,地域開発などといった暮らしの場の危機的な状況に目を向け,地域に横たわるそうした生活課題を多様な学問的アプローチから解こうとした。本論では山口が生涯にわたって取り組んだ主な仕事をテーマごとに取り上げ,その変遷を追うことでフィールド学としての山口の実践の再評価を行う。それは単に学史研究への新たなデータの提供だけを意味しない。災害が多発する今日において,フィールドワークを基礎とした人文学的な研究のあり方を問い直すための作業でもある。
北原, 糸子 Kitahara, Itoko
本稿は,災害情報を近世社会の情報構造のなかに位置づけるための基礎的作業の一環である。先に,災害によって発生した地変を書き留めた絵図を中心に,絵図情報の発信主体,受け手などによって,領主支配層,領内村落支配層,個人,かわら版などの出版業者の四カテゴリーに分け,災害絵図情報の社会的機能を分析した(「災害絵図研究試論」『国立歴史民俗博物館研究報告』81集,1999)。前稿におけるこの情報の四カテゴリーを踏まえ,本論では1840年代後半から50年代にかけて頻発する巨大災害の先駆けを成した善光寺地震の災害情報全般の分析をまず試み,各所に書留として残る資料の大半が被災地域の支配者から幕府に届けられる被害届で占められていることを検証した。また,被災地情報を正規のルートに載せ,広く販売しようとする地震摺物の出版には,それに関わる一群の地方支配層と都市における儒学者や国学者などの知的交流を踏まえたネットワークの存在が不可欠であったことが明らかになった。さらに,被災地を遠く離れた都市では,災害情報に限らず珍事,その他事件を伝える情報を積極的に入手し回覧し合う町人,武士などの身分的制約から解き放たれた同好グループが存在し,彼らの間では善光寺地震の情報が個人的興味に基づく差異を含みながらも,大半が支配層間で交わされる被災届などで占められていたことを明らかにした。善光寺地震,安政元年(1854)地震津波,安政二年(1855)江戸地震では,災害情報は量的にも質的にもピークに達するが,これに重なってペリー来航後の風説留が全国的に展開する。災害情報は,幕末に向かって高まる階層横断的な政治的関心の昂揚,拡大,それらを書き留める風説留の膨大な蓄積の先駆けを成したとすることができる。
安達, 文夫 鈴木, 卓治 宮田, 公佳 Adachi, Fumio Suzuki, Takuji Miyata, Kimiyoshi
国立歴史民俗博物館では,日本の歴史と文化に関する研究の成果を,ネットワークを介して公開してきた.ここ数年は,一般利用者向けの情報提供と,歴史資料の原情報を提供するシステムを構築している。本稿では,その情報提供方法の考え方を示し,情報システムの利用状況の分析結果を述べる.文献資料は,文字による基本的な情報に画像情報を併記する形態での提供が有効である。全文のテキストがあるときには,画像情報と併せて,高度な提示が考えられる。多数の資料のディジタル画像を中心に構成するディジタルコレクションでは,利用者が望みの資料を分かりやすく見つけるために,資料の適切な分類に基づく階層構造と,階層内および階層間のリンク設定方法が重要となる。超精細ディジタル資料は,歴史資料の細部まで読み取れるようディジタル化したもので,表示する画像を連続的に移動しながら倍率を変えて閲覧できる。直感的な操作インターフェースとしたことにより,実物を扱う印象を生みだす。資料の比較研究に有効である。その役割はレプリカに近い。歴博のホームページへのアクセス数は,1.9倍/年の伸びを示し,資料を公開するページにも確実なアクセスがある。日本の歴史と文化に関わる情報提供の必要性と,情報通信手段による公開の有効性が認められる。展示資料の案内を行うシステムの利用状況より,資料を探す意図を持っての利用があることが認められるとともに,目的とする情報に早くたどり着くことができる構成とする必要があることが分かる。歴史研究に関する情報を早く公開してゆくためには,画像を主とする形態が有効である。ディジタル資料が有用であるためには,充分な情報量を持つことが必須であり,展示に利用する上でも重要である。システムの操作方法に関して,使いやすく分かりやすいインターフェースが必要とされる。
水野, 章二 Mizuno, Shoji
平安・鎌倉期の額安寺文書は数段程度の売券類が多数を占めるが、その多くは連券として、鎌倉後期に額安寺に入ったものであり、所在地も周辺に散在して、膝下に集中する傾向は見られない。額安寺が寺領を集積していった鎌倉後期は、春道氏ら周辺に所領を持つ在地の上層クラスが額安寺に入り込んでいく時期であった。額安寺が古代以来の額田部・宗岡氏の氏寺の枠を越え、所領寄進・買得や入寺などを通じて、周辺地域の人々との関わりを深め、地域寺院としての性格を強めていくにつれて、氏寺としての経営は次第に困難性を増し、別当職をめぐる相論も起きる。額安寺が地域寺院化していく際、信仰の地域的ネットワークの重要な要素となったのが文殊信仰であり、それを契機に西大寺流律宗の叡尊・忍性との結びつきが強められていく。春道姓の学春は額安寺に居住し、叡尊・忍性の活躍を支えて、額安寺律宗化の基礎を造った人物であるが、その子信空は叡尊を継いで二代目西大寺長老となる。嘉元元年(一三〇三)の額安寺別当職寄進を待つまでもなく、弘安年間にはすでに西大寺の末寺的色彩が強められていた。額安寺の律宗寺院化が進行するとともに、額安寺の墓寺としての性格も顕著になる。忍性など寺院関係者以外にも、六波羅探題北条盛房の墓地の存在も確認され、また一条家出身の大乗院門主慈信は額安寺を自らの墓所に定めて、金岡東荘を「追善万代之料」に宛てており、「額安寺殿」と呼称される場合もあった。中世後期の禁制からは、額安寺が額田部郷の検断に関与していたことも明らかであり、地域結合の核としての地域寺院額安寺の姿を見ることができる。
前原, 武子 Maehara, Takeko
ある人を取り巻く重要な他者(家族,友人,同僚,専門家など)から得られるさまざまな形の援助,すなわちソーシャル・サポート(social suport)が,その人の健康維持・増進に十分な役割を果たすことが注目されている(久田,1987)。\n児童・生徒が示す心理的ストレスもソーシャル・サポートによって軽減されることが,数少ないながら,実証されるようになった。\nFurman & Buhrmester(1985)やReid,Landesman,Treder,and Jaccarrd,(1989)は,小学生が,自分のサポートネットワークをどのようにとらえているか検討した。また,Dubouw and Tisak(1989)は,3-5年生を対象に,ストレス(転居,親の死亡,離婚など)が強いほど問題行動が多いこと,しかし,その関係は子ども自身が報告するサポートの多い群より少ない群で強いことを見出した。\nわが国では,森と堀野(1997)が,小学生を対象として,絶望感がサポートと負の相関関係にあることを報告している。また,岡安・嶋田・坂野(1993)は,中学生を対象に,各種学校ストレッサー(教師,友人,不活動,学業)による各種ストレス反応(不機嫌・怒り,抑うつ・不安,無力感,身体的反応)がサポートによって軽減されることを報告している。興味深いことに,それら両研究は,サポートの有効性がサポートの内容やサポート源によって異なるばかりでなく,サポートを受ける側の属性によっても異なることを見出した。森と堀野(1997)は,ソーシャルサポートが有効に働くための介在要因として達成動機の個人差に注目し,自己充実的達成動機が高い児童がサポートを有効に活用できること,競争的達成動機は介在要因として有効でないことを見出した。また岡安ら(1993)は,男子においては,女子ほど,サポートが有効にはたらかないことを見出し,サポート以外の要因について検討する必要性を指摘した。
栗田, 英彦
大正期に一世を風靡した心身修養法に岡田式静坐法がある。創始者の名は岡田虎二朗(一八七二―一九二〇)という。彼は、静坐実践を通じて内的霊性を発達させることができると述べ、日本の伝統も明治以降の西洋文明輸入政策も否定しつつ、個人の霊性からまったく新たな文化や教育を生み出そうとした。こうした主張が、近代化の矛盾と伝統の桎梏のなかでもがいていた知識人や学生を含む多くの人々を惹きつけることになったようである。これまで、岡田の急逝をきっかけに、このムーブメントは急速に消えていったように記述されることが多かった。しかしながら、実際にはその後もいくつか静坐会は存続しおり、その中の一つに京都の静坐社があった。静坐社は、岡田式静坐法を治療に応用した医師・小林参三郎(一八六三―一九二六)の死後に、妻の信子(一八八六―一九七三)によって設立された。雑誌『静坐』の刊行を主な活動として、全国の静坐会ネットワークを繋ぐセンター的な役割を果たしていた。 今回、静坐社の蔵書の一部が国際日本文化研究センター図書館に寄贈されることになった。本稿ではその資料目録とともに、静坐社の活動や人脈について紹介する。そこからは、仏教系知識人や文学者を中心とした一種のサロンとしての静坐社の姿が浮かび上がるだろう。その人脈は海外にも広がっており、その中には海外へ禅や身体技法(呼吸法や坐法)を紹介した外国人も含まれる。既成の宗教や国境を超えて宗教的探究を進める人々と交流する一方、静坐社は岡田虎二郎によって定められた形式を墨守し、十五年戦争が佳境に向かう中では静坐を国家主義と結び付けていくことにもなった。静坐社の資料は、昭和期初期の日本における国際的な潮流とローカルな歴史の交渉について興味深い事例を提供している。
岡, 美穂子
本稿では,16世紀に記された日本で活動するイエズス会士達の記録を手掛かりに,16世紀後半の九州=畿内間の航路の詳細を検証する。基本的には既刊の翻訳書である松田毅一監訳『イエズス会日本報告集』を情報源とするが,原文の綴りや翻訳内容に疑義のある箇所については原文に遡って,手を加えた。これらの情報の検討の結果,イエズス会士達は主に瀬戸内航路で諸所の港に乗合船で立ち寄りながら移動していたこと,これらの港の一部にはイエズス会士が定宿とするような日本人の家があり,布教の拠点ともなったことが明らかとなる。また,頻繁ではないものの,南海路で移動することもあり,それは主に瀬戸内海の状況が戦争で不安定な時に用いられた。瀬戸内航路,南海路共に海賊は多数おり,海賊との折衝や遭遇の様子も詳細に記される。また彼等を運ぶ船乗り達,船のスペックなどについても詳細な情報がある。特筆すべきは,大友宗麟が大坂出身で塩飽を拠点とする大型船の船頭と直接契約して,宣教師を畿内へと運ばせたという情報である。この情報からも,瀬戸内海の商業航路の関係者が,相当に超領域的な活動を行っていたことが考えられよう。従来のイエズス会史料を用いた南蛮貿易研究では,マカオ=九州間の交易についてのものが多かったが,本研究では,九州より先の日本国内,主に畿内の商人たちの南蛮貿易への関わりに着目した。とりわけ第四節では,小西家のキリシタン入信前後の状況と南蛮貿易に携わる京都商人の動きに着目し,これまでの研究では言及されたことのない血縁ネットワークについても明らかにした。そこからは,京都商人の入信動機には,南蛮貿易での利益のみならず,西洋からもたらされる最先端の知識への探究心もあったことが推察可能である。
吉岡, 康暢 Yoshioka, Yasunobu
鹿児島県徳之島カムィ窯の中世須恵器は,中国陶磁,九州西部産の石鍋とともに,南西諸島における貝塚時代からグスク時代への転換を具象するモノ資料として注目されてきた。小稿は,1984年度の調査資料について,型式分類とおおづかみな編年区分を提示し,ヤマト列島の東播(とうばん),常滑(とこなめ),珠洲(すず)の諸窯と並ぶ広域窯でありながら,中・小形壺を主産品とする器種組成の特質と,従来からいわれてきた,高麗陶器を主,中国陶磁を従とする技術・意匠を具体的に検討する。その上で,11世紀後半~12世紀前半の環東アジア世界における“人・モノ・技”の交流の実態とシステムの解明に向けた予察を試みる。カムィ焼は,甕・壺・鉢・埦の4器種よりなり17種31類に分類したが,多様な壺類は高麗の陶技を基調とし,波状文の加飾も高麗系で,窯構造は九州南部と共通するなど,朝鮮半島(高麗),南九州(日本),奄美諸島(琉球)を包括する広大な南の境界域で誕生した海洋性の濃厚な中世陶器である。しかも,琉球王朝の成立に先行する中世初期,琉球海900km圏に大流通したことは,南西諸島がヤマト列島の中世食器様式を生みだした物流のネットワークに連動しつつ,アジアの海洋国家の枠組みに組みこまれたことを物語っている。高麗から陶工を招寄したと考えられるカムイ窯の経営形態は,状況的に対宋・高麗貿易とかかわる港湾を掌握した薩摩南部の有力武士の主導下に,奄美諸島の按司(あじ)層と連係しつつ推進された,中世前期の“倭寇的世界”の所産と推定する。中世初期の日麗間の文物・技術の交流については,日宋関係が成熟するまでの限定的な動向とされてきたが,カムィ焼のほかに高麗系屋瓦や刻画文陶器にみられる陶芸史にとどまらず,鏡・梵鐘など金工分野での近年の研究成果によって,予想を上回る広がりと深みをもつと評価してよいであろう。
赤沼, 英男
東日本大震災で襲来した大津波により岩手県太平洋沿岸部の中でもとりわけ深刻な被害を受けた陸前高田市では,津波で被災した4 つの文化施設から救出された被災資料の再生が今も連綿と続けられている。これまでの救援活動を通し,類似する大規模自然災害発生に備えるうえで,地域に伝わる歴史文化資源のデータベース化が極めて重要であることがみえてきた。歴史文化資源のデータベースは研究者のみならず,地域住民,児童・生徒などによる様々な形での活用が見込まれる。それに対応するため,3D 画像やイラスト,動画を加味するなど様々な質のデータ準備も欠かせない。大規模自然災害発生時,被災資料の救出を円滑に進めるためには,歴史文化資源のデータベースを駆使して被災状況を早期に的確に把握し,適切な救出チームを編成したうえで迅速な救出活動を展開する必要がある。救出された被災資料を仮保管するための,冷凍・冷蔵機能を含む一次保管施設の確保にも留意しなければならない。被災した資料の迅速な再生を図るには,陸前高田市内に立地する文化施設から救出された被災資料再生のために,多くの専門機関の連携によって構築された安定化処理技術の継承と普及,新たな技術開発を進めるための基盤整備も重要な課題である。上述した質の異なる様々な活動を円滑に進めるためには,それぞれの活動の趣旨に賛同する地域の機関や団体によって形成される地域連携を基軸に,必要に応じ地域外の機関や団体を加えた活動体制の構築と,それぞれの活動を統括する地域内拠点の整備が不可欠である。質的に異なる様々な連携を特定の機関や団体が全て統括することは難しい。それぞれの連携を統括する機関や団体との間で緩やかなネットワークを形成し,地域住民の理解と協力を得ながら様々な活動を展開することによって,地域に伝わる歴史文化資源を守り伝えることができるにちがいない。
酒井, 茂幸 Sakai, Shigeyuki
国立歴史民俗博物館蔵田中穣氏旧蔵『広幢集』(以下『広幢集』と略称)は、稿者により近時全文翻刻が公表された新出資料である。その資料的価値は、従来未詳であった、広幢の晩年の伝記的事蹟が明らかになるとともに、『広幢集』に記載のある兼載・心敬・顕天・用林顕材・岩城由隆・兼純との交流関係や相互の人的ネットワークが新たに判明するところに存する。本稿では、まず、これら六人の人物について『広幢集』の和歌の解釈をもとに、従来知られていた史(資)料と照合し、広幢を取り巻く地域社会の政治的・宗教的思潮の一端を叙述し、広幢を岩城の禅長寺出身の数寄の隠遁者と推定した。また、兼純の項において、岩城に拠点を置き、京都との往復によりその道の第一人者へ師事し、岩城氏ら在地の国人領主や戦国大名の扶助を受ける行動様式を、同時代の宗長・宗牧との差異性から指摘し、同様な行動様式が、兼純から長珊へと受け継がれていることを論述した。『広幢集』の特色に道歌や哀傷歌・追善歌等が多いことが挙げられるが、これは集中にも記される母の死を契機とした事象で、最晩年に至って広幢は禅僧への回帰を余儀なくされたのである。連歌師の家としての猪苗代家の源流は、広幢であり、その和歌・連歌の世界における活躍は、『広幢集』に描かれるとおりである。しかし、兼載が堯恵から古今伝授を受けており、兼純に『古今集』の講釈をする資格があったのに対して、広幢は誰からも古今伝授を受けていなかったため、兼純に古今伝授ができず、和歌の家、猪苗代家の創始者とはなり得なかった。古今伝授の師資相承に広幢の名が見えず、猪苗代家の系図からも広幢の名が消えていった。兼純が広幢から受け継ぎ、長柵に伝えた連歌師の一行動様式を掘り起こしたのが本稿である。
湯浅, 治久
本稿は、近年注目されている中世武士団の「西遷」「北遷」の一事例として、中世成立期から全般にわたって族的発展をみせた佐々木氏一族について、その「西遷」の様相を解明せんとするものである。武士団の「西遷」「北遷」とは、鎌倉末~南北朝期にわたり主に東国に出自をもつ武士団が、結果的に本拠を西国あるいは北(東北)国へと移す現象をさす。鎌倉時代の武士団は、近年「分業論」の視角導入により、一族を列島各地の所領に配置し、その連携とネットワークにより支配を維持していた様相が明らかになった。その延長上に、「西遷」「北遷」が存在する。それは広域的な所領を地域的に集中させて、新たな地域支配へ向かう過程でみられる現象であり、その実態と要因を解明することは、武士団の支配の深化を考察する上で不可欠の課題である。通常「西遷」「北遷」は東国武士にみられる現象だが、本稿の対象とする佐々木氏は、平安時代以降近江国に本拠を持つ西国武士団であった。しかし平氏政権により本拠を追われ東国の渋谷氏のもとに寄寓している最中に、治承寿永の内乱を迎える。その結果、鎌倉幕府の成立に深く貢献し、源頼朝の信頼を得ることで、東国を基盤とする武士団として再生するという稀有な歴史を生きた武士団である。そして東国に基盤を持ちつつ近江や西国所領に多くの同族を輩出していたが、やがて南北朝内乱以降、その主要な一族は近江に「西遷」し、戦国期に至る地域支配を展開する。いわば彼の「西遷」とは、近江回帰なのであり、その特色ある動向は特筆される。そこで本稿では鎌倉期の同族的展開と東国・西国の所領支配と政治的地位を検討し、さらに佐々木京極氏(有名な導誉)、佐々木朽木氏という同族の間でもタイプと規模の異なる一族をとりあげて、その個々の特色を検討するものである。
西川, 和孝 Nishikawa, Kazutaka
雲南への漢人移民の進出は,14世紀に明朝の版図に組み入れられたことに始まり,人口爆発に伴う大量の漢人移民の流入を迎えた18世紀末にそのピークに達する。従来,雲南の移民史において,雲南省外の他地域から移住してくる漢人移民の動向に焦点が集まりがちであり,省内の移民についてはほとんど省みられてこなかった。本稿では,石屏の事例を通して,こうした一方的な議論に対して別の見方を提示する。石屏盆地では明代に屯田が設置されたことをきっかけに漢人移民が入植し,官主導による耕地開発が始まった。この際に官側は,(1)貯水池灌漑(2)水車利用による灌漑(3)囲田といった水利技術を活用し,治水工事と合わせて,耕地面積を拡大していった。その結果,石屏では人口増加が引き起こされ,他地域への移住へとつながる環境が整えられたのである。さらに官は,耕地開発で得た経済力を背景として人材の育成を目指し,教育施設の充実を図った。官主導の教育の普及と耕地開発の恩恵が民にも及んだことで,民間経営による私塾が登場し,優秀な人材を多数輩出するようになった。彼らは科挙に合格し,官吏として全国に散っていっただけでなく,教師としても周辺地域から招聘を受けた。そして,こうした人々が地縁を中心としたネットワークを構築することで移民活動の一助となった。すなわち,石屏盆地において,官の水利事業による耕地面積の拡大が,人口増大を可能にし,民が移住する社会的環境を作り上げたのである。雲南の移民史を論じる上で,これまで指摘されてきたような他省からの移住という視点だけでなく,石屏盆地の事例の如く,雲南省内の耕地開発が発端となり,地元社会内部から移住へとつながる動きが生じてきたことにも目を向けるべきであろう。
高瀬, 克範 Takase, Katsunori
続縄文概念の有効性の評価にあたり,隣接諸文化との比較からその異同性をさぐることは重要な手段となりえる。本稿では,資源・土地利用を中心とした経済の観点から縄文・弥生および一部古墳文化との比較をおこない,以下の点を指摘した。1)続縄文文化前半期には,道南部・道央部・道東部においてそれぞれ独自の方式で資源開発が行われたが,縄文文化期よりも魚類の重要性が高まる点ではすべての地域が共通している。2)道央部は続縄文文化期前半から外来系の物資入手力が相対的に高かったと推定され,そのネットワークとサケ科の利用を基軸とした経済が,後半期の道央部の優位性にも関係する可能性がある。3)続縄文文化後半の焼土遺構のなかには,居住施設が含まれている。移動性の高さについては明確な結論をすぐに出すことはできないものの,居住施設の簡便性にくわえて土器の広域分布,石器の段階的減少,重量ベースでサケが中心となる遺存体,偶像を埋め込んだ儀礼の場としての洞窟遺跡の発達などからみて,少なくとも一部には広域に移動して物資を運搬する集団が含まれていたと考えられる。4)東北北部の弥生文化は平野部で稲作を積極的に行うA地域と,平野部以外で狩猟採集に重きをおく生業を展開したB地域が複合して地域社会を形成する。このうち,続縄文文化が直接的に関係を有していた可能性が高いのは,B地域である。5)東北北部の弥生文化は中期中葉に生じた自然災害により稲作が中断し,A・B地域複合の崩壊,人口激減がみられる。この点が,弥生中期後葉の続縄文文化の分布域拡大とも間接的にむすびついている。6)後北C2‒D~北大式期の東北北部は,文化境界(帯)や文化遷移帯ではなく,異なる考古学的文化の雑居地帯(Mixed residential area,Mixed residential quarter)としてとらえ直す必要がある。これらの特色はいずれも縄文文化にはみられなかったもので,現時点で続縄文文化の括りには一定の妥当性を認めうる。
八鍬, 友広 Yakuwa, Tomohiro
本稿は、十八世紀における越後地域の俳諧文化の実態を検討することによって、文字文化の地域的な浸透の一側面を明らかにしようとするものである。越後蒲原郡佐久間家の「俳諧留」は、正徳期から寛保期における多数の俳額および歳旦帳を記録したものである。これまでの俳諧史研究においても十分には解明されていない、十八世紀前半の俳諧文化の地域的な実態を知り得る、きわめて貴重な資料といえる。「俳諧留」の分析によって、各地の社寺への俳諧の奉納が、十八世紀前半の時期からきわめて活発におこなわれていることが明らかとなる。二千句をこえる俳句が投じられた奉納もあり、すでにこの時期に、濃密な俳諧文化の浸透があったことが確認される。越後佐渡における俳人については、各地の句集に掲載される俳人をまとめた「越佐俳人名索引」(『近世越佐の俳書 第一巻』一九九八)があるが、「俳諧留」には、これに掲載されない俳人が多数登場する。句集などには登場してこない多数の俳人が、地域の中に存在したことがわかる。その中には、「盲人」、「遊女」、「少人」などの肩書きを有するものもおり、女性も十五人ほどがみえる。入集した俳人の地域の分析から、俳諧奉納のネットワークには、三段階ほどのパターンが存在したことが見いだされる。奉納先社寺近隣の地域の俳人が中心となったもの、下越地域一帯から寄せられたもの、全国から出句されているものなどである。俳額の奉納は、奉納地近隣地域の俳人たちによって開催されるものであったが、俳人によっては、奉納のたびに入集している者もあった。もちろん、投句しても必ず選句されるとは限らないから、俳人たちは、奉納の機会をとらえて活発に投句した。こうして俳額奉納は、創作された俳諧を発信するメディアとしても、重要な役割を果たしていたのである。
マッケルウェイ, マシュー P.
「三条本洛中洛外図」は、現存する最古の洛中洛外図屏風であるために、日本美術史上、重要な位置を占めている。記録上では、洛中洛外図が初見されるおよそ二、三十年後の一五三〇年代から四〇年代までに制作されたと思われる。しかし、制作年代と作者の問題も含めて、三条本に関する多くの問題は未だ解明されていないのが現状である。 小論は、本図の制作年代と発注者を断定するよりも、そこに描かれた公家や武家などの邸宅を分析し、それらの特殊な組み合わせ方が伝えてくれる手がかりを探し出すことによって、見えてくる人脈の有り様を通して本屏風の意図するものを解釈し、秘められたメッセージに光を当てようとする試みである。 三条本の作者が、ある程度、足利家や細川家とその家臣について、絵の構図の中で強調していることは、以前から注目されていたことである。ただ、本図が制作された可能性が強い数十年間が、足利幕府とそれを支える細川管領家が深刻な危機に陥っていた時期でもあったこと、また、その事実が本図の制作にどのような意味をもたらしているかについては、従来からほとんど言及されていない。そもそもなぜ本図は、当時の政治的現実を否定するかのように、理想化された平和なイメージで都を描こうとしたのか。 作者は、この図を通して当時の人々に、足利家を支える(サポートする)イメージを与えるための重要な方法として、建物のネットワークを描き出すことにより、足利将軍と結ぶ政治的あるいは家族的な絆を強調しようとしたのではないか。幕府の有力な官吏であった畠山家や伊勢家などの屋敷はこの絵には描かれていないものの、近衛、二条、三条西といった公家の邸宅の存在が、将軍家の地位と朝廷との関係を示唆する。同様に、宝鏡寺と曇華院といった尼僧寺院は、これら比丘尼御所と足利家との親戚関係をも見る者に訴えるのである。 最後に小論は、三条西家と三条家に焦点を合わせ、本屏風の制作が、左大臣三条実香の娘と足利義晴との婚姻に何らかの関係があったと推理する。
井上, 淳 Inoue, Jun
文化一一年(一八一四)に宇和島藩領の宇和郡八代村(愛媛県八幡浜市)八尺神社の神職の家に生まれた堅庭は、地元の八幡浜本町の医師二宮春祥に医学を学んだ後、嘉永元年(一八四八)には長崎におもむき蘭方医楢林宗建のもとで蘭医学を本格的に学んだ。その後、嘉永三年(一八五〇)から亡くなる明治一〇年(一八七七)にかけて八幡浜と八代村で地域医療に従事した。堅庭が医療を行った幕末期、八幡浜地域では患者が望めば複数の医師の治療を受けることができる条件が整いつつあった。そうしたなか堅庭は、「薬品之儀ハ医術之根元」という精神のもと、よりよい薬を求めて医療にあたり、嘉永五年(一八五二)に宇和島藩で種痘が始まった際には、他の在村医とともに藩領全体への種痘の普及を地域で支える役割を果たした。本居派の国学・和歌も学んだ堅庭は、嘉永六年(一八五三)から明治六年(一八七三)にかけて私塾を開き近隣の約三百名の子弟を教えるなど、自らが身に付けた知識を地域に広める活動も行った。その最も特筆される活動に、八尺神社内に私設図書館の王子文庫を創設したことがあげられる。安政六年(一八五九)に二間四方瓦葺きの建物が完成し、漢学・国学・蘭医学など幅広い分野の書物が千冊以上も集められた。王子文庫は堅庭の蔵書を主体としつつも、近隣の庄屋や地方文人のネットワークで多くの書物が奉納されており、それらの書物は広く地域に公開された。これまで在村蘭方医の研究は医療を中心に進められてきたが、堅庭の事例からは、在村蘭方医が医療にとどまらず、自らが学んだ知識を地域に還元していく社会的な存在であったことが見えてきた。また、神職で国学を学んだ堅庭が医師となり、蘭医学を学んでいることは、堅庭のなかで国学と蘭学とが両立していたことを示している。その両立には、国学を中心に据えつつも、漢学と洋学の三学綜合の大学を設立しようとする明治二年(一八六九)の大学構想に示された精神に近似するものがある。
鈴木, 靖民 Suzuki, Yasutami
『魏志』韓伝に引く「魏略」の1世紀後半,辰韓で採木労働に従う漢人の説話は鉄の採掘・鍛冶生産を示唆する。ついで,3世紀の韓では首長層のほか,多数の住民である下戸たちによる魏との多元的な交易が行われた。弁辰では鉄を産し,それを韓・濊・倭が取り,また楽浪・帯方二郡に供給したが,交易には外交・軍事上の意味もあり,鉄加工技術や消費先を確保できる公権力や首長層が関与した。倭の交易主体は倭王や首長であるが,実際の荷担者は倭人伝に見える対馬・一支の「船に乗り南北を市糴する」交易集団と同類の人々である。この鉄の収取と再分配・互酬により弁韓中枢の狗邪韓国(任那加羅)の首長層が諸韓国のネットワークをつくり,さらには流通機構センターと化し,4世紀以降も鉄をはじめ,陶質土器・甲冑・馬匹などの多彩な文化と,諸民族集団の行き交う東アジア有数の広域流通の中心地として展開する。2世紀末頃の倭国の乱は鉄素材・鉄製品の輸入ルートをめぐる西日本の首長同士の争いである。楽浪や諸韓国との交流により社会の階層化を進める北部九州の首長たちに対する,山陰・瀬戸内沿岸・近畿の後発的な社会の首長の戦いであり,その結果,後者が鉄の流通と技術移転を通じて優位に立つ。こうして成立した倭の王権は鉄・金属資源と渡来人の受容・管理・分配の繰り返しにより,各地首長層との結合が維持されるが,それが王権のファンダメンタルズを強く規定するのである。同じ頃,弁韓でも鉄の入手をめぐって覇権争いが起こり,抗争の解決策として,外来王的な辰王が推戴された。弁韓の鉄の争いが倭に影響を及ぼしたのであろう。それ以後,4世紀後半から5世紀にかけて,朝鮮半島での戦争を含む情勢下にあって,倭王権は危機にさらされる加耶・百済に加担する国際路線を絶えず継承することになる。だが,5世紀末6世紀初めに日本列島で鉄精錬が可能になると,倭と加耶,加耶と新羅の関係,ひいては東アジアの諸関係も大きく変化するのである。
Flint, Lawrence S Flint, Lawrence S
近年、食料、水、繊維、エネルギーの需要拡大を満たすため、人々はいまだかつてない供給を生態システムから求めるようになった。これらの需要は生態系のバランスに圧力を与え、自然環境が許容量を取り戻す能力を減少させ、大気・水の浄化作用、廃棄物の処理、アメニティ等の生態系サービスを供与する能力を弱体化させた。社会経済開発と環境持続可能性との間に明らかな緊張関係が存在している。生態系の財とサービスの減少を引き起こした直接的な原因は、生息地の変化、外来種の侵入、過度の収奪、汚染や気候変動と変化などである。これらのプロセスは社会生態的レジリアンス喪失の脅威を与え、環境と社会経済変化の双方に対する感受性を高める。本報告では、社会経済の脆弱性とレジリアンスを検討する科学的方法、特にこれら広範囲の問題に対する学際的アプローチについて議論する。また、脆弱性に対する社会経済レジリアンスと適応の本質を分析する。レジリアンスに影響を与えている政治経済、社会文化的ネットワークとダイナミズムについて歴史的、現代的生産の文脈の中で議論することによって説明される。経済活動と「河川文明」を擁する人間の居住地域である氾濫原生態システムを研究の対象とする。事例として現在生物物理的、社会経済的変化を示しているザンビア西部ザンベジ河上流渓谷のBulozi「自然」氾濫原に焦点を当てる。この氾濫原は現在のLozi民の祖先が居住し、彼らは生態財とサービスを氾濫原から得、強力で活気に満ちた政治経済を生み出してこの地域を独占し、余剰食料を使うことができ、また軍を擁し経済的機会を享受した。今日、Bulozi は低開発の地域とされており、この状況は気候の変動によって悪化しているが、気候変動は長い年月の間に社会的に蓄積された脆弱性に対しては追加の要因となるのみである。本報告ではBulozi の脆弱性の原因とレジリアンスを高めるための適応的能力を議論する。人々が外的内的圧力に対して適応し、社会生態システム(SES)のバランスを維持する能力は、彼らが在地的「所有」の立場から問題に対処する能力に依存している。同時に、社会生態システム(SES)のバランスを保全しながら、生活水準を向上する機運、コントロール、動機の感覚を社会が再び取り戻すことは、現在の生産行為を修正し、生産活動を多様化する彼らの能力に依存している。
北, 政巳
明治日本の近代技術教育の発展において、スコットランド人技術者や教育者が果たした役割がいかに大きかったかについて、わが国では、あまり知られていない。 しかし一九世紀の大英帝国を支えたスコットランド人外交官・科学者・企業家・商人達のネットワークが世界に広がり、その中からアジア・極東へつながり、それを介して最も有名な西洋人商人のT・B・グラバー、明治政府第一号のお雇い外国人技師(測量)のR・H・ブラントン、工部大学校(のちの東京大学)校長のH・ダイアー、日本の造船・海運業界に多大の貢献をなし帰国後グラスゴウ在日本領事となったA・R・ブラウン等が来日した。 他方、日本人青年も工部大学校卒業後に、さらなる高等教育を求めてグラスゴウ大学に留学した。そこには幕末以来、日本と通商関係をもつスコットランド人商人達の支援活動が存在した。 事実、英国の産業革命はスコットランド人技師によって開始され、また完成されたのであり、その成果は、さらに新世界へと運ばれていった。ヴィクトリア盛期に、イギリスが「世界の工場」と讃えられた時代に、グラスゴウを中心とするクライド渓谷地域は「大英帝国の工場」と呼ばれた。またグラスゴウは「第二の都市」(ロンドンに次ぐ)として栄え、別名「鉄道の都」、「造船の都」と賞賛された。 同時にグラスゴウは、文化面でも大変に注目を集める都市となり、特に絵画と建築で有名となった。英国絵画界に新風を送る「グラスゴウ・ボーイズ」と呼ばれるリーダーが登場し、彼らは特に日本の美術に関心をもち、西欧世界に日本伝統の美と価値観を紹介するのに大きく貢献した。 一八八八年と一九〇一年にグラスゴウで開催された国際博覧会は、「グラスゴウ・ボーイズ」や同市のビジネスマン達に支援され日本館も設置され、それを通じて日本の文化や技術的発展が注目を集めた。翌一九〇二年には日英友好同盟が締結され日本は当時のリーダー達が憧れた「東洋のイギリス」と呼ばれるに至るが、その歴史的背景にはスコットランドと日本の親密な関係が役立ったと言えよう。 本稿では、私は日本とスコットランドの文化的交流のなかで「グラスゴウ・ボーイズ」の中からC・R・マッキントッシュ、E・A・ホーネル、G・T・ヘンリー、J・A・ウィッスラーに焦点をあてて考察してみたい。
顔, 杏如
本稿は、日本帝国という空間に視座を据えながら、「生活改善」が植民地台湾で展開される最初期段階の様相を検証する。「生活改善」の前史である「簡易生活」に遡りながら、その展開、変質、そして「運動」へと移行する軌跡を跡づける。考察にあたっては、ジャーナリストの越境と書籍の流通に着目し、また、いままで見落とされていた在台日本人も考察の対象に入れながら、「生活改善」の内容と意味合いの変化を分析する。 植民地台湾における「生活改善」運動はこれまで官による台湾人向けの教化運動として理解されてきたが、本稿の検証により、在台日本人も「改善」の対象に含まれていたことが明らかになった。近代化がもたらした複雑化を批判したヴァグネルの『簡易生活』はメディアの情報や書籍の流通によって、1906年に植民地台湾に紹介されたが、その際、在台日本人の奢侈を批判する形に変容し、国家や植民地の経営発展と結びつけられて論じられた。「簡易生活」に対する在台日本人社会の関心は、1910年代後半、ジャーナリスト西村才介の講演活動によって高まったが、賛否両論が存在し、在台日本人のコンセンサスを得た運動にまでは発展しなかった。 1920年の日本本国における「生活改善同盟会」の成立を機に、「生活改善」に対する関心のあり方は大きく変わった。女性雑誌『婦人と家庭』は生活改善の宣伝に大きく寄与したが、顧問の小島清友をとりまく人的ネットワークによって、同誌の主張する「生活改善」は社会主義的な社会改良論から離れ、官主導の「生活改善」運動に接近していった。メディアの報道に加え、在台日本人社会に様々な「生活改善会」が組織されたことで、「生活改善」は徐々に「運動」へと発展していった。しかし、1920年代後半以降、改善の対象は次第に台湾人に移り、教化運動の一環となり、日本本国とは異なる展開を示した。 本研究を通して、植民地台湾で展開された「生活改善」の初期段階の構図を解明し、これまでの研究で見落とされてきた帝国日本との相互関係を検証し、「生活改善」がもった日本本国との連動性と植民地台湾における独自性を明らかにした。
大橋, 信弥 Ohashi, Nobuya
西河原木簡をはじめとする近江出土の古代木簡は、量的には多くないが、七世紀後半から八世紀初頭の律令国家成立期の中央と地方の動向を、具体的に検討するうえで、重要な位置を占めている。そして、近江には多くの渡来系氏族と渡来人が、居住しており、近江における文字文化の受容にあたって、渡来人の役割は無視できない。近江の渡来系氏族のうち、倭漢氏の配下である漢人村主の志賀漢人一族は、五世紀末から六世紀の初頭ごろに、河内や大和から大挙この地に移住し、琵琶湖の水運を活用した物流の管理などで、活発な活動を進めた。志賀漢人たちは、当時の蘇我氏が領導する政府の指示により、近江各地に所在した施設に派遣され、湖上交通を活用した物流ネットワークを構築し、主として文書・書類(木簡)の作成にあたっていたとみられる。彼らが、中央で活動する渡来系氏族・渡来人集団とともに、故国である韓半島における文字文化を、素早く受容し共有していたことは、近江の各地で作成され木簡などの文字資料から確認できる。近江出土の古代木簡でもっとも古い、大津市北大津遺跡出土の「音義木簡」が和訓の試行的な段階を示しているのは、この地に居住する渡来人集団、志賀漢人が、五世紀末以来、この地域に移住し活動する中で、中央で達成された行政的な文書の作成技術を導入し、様々な工夫を行ったことを示している。また野洲市西河原遺跡群出土木簡は、この地に所在した施設の運営のため派遣された、志賀漢人の一族の関与を具体的に示している。彼らは、陸上交通(初期の駅路)と琵琶湖の水上交通を利用した、物流・交易の運営を行っており、さらに織物工房・鍛冶工房・木器工房などが付属していた。ここでは、徴税の関わる業務や出挙=貸稲に関わる管理業務が行われており、倉庫群から出土した木簡から、その出納にかかる具体的な運営過程を復元できる。その施設は、初期の野洲郡家(安評家)で、駅の機能も併せ持っていたことが推定される。そして、宮ノ内六号木簡に見える「文作人」石木主寸文通は、「倉札」の作成者であり、この地に居住する志賀漢人一族が、文書の作成に携わっていたことを明確に示している。
高田, 貫太
近年,朝鮮半島西南部で5,6世紀に倭の墓制を総体的に採用した「倭系古墳」が築かれた状況が明らかになりつつある。本稿では,大きく5世紀前半に朝鮮半島の西・南海岸地域に造営された「倭系古墳」,5世紀後葉から6世紀前半頃に造営された栄山江流域の前方後円墳の造営背景について検討した。5世紀前半頃に造営された西・南海岸地域の「倭系古墳」を構成する諸属性を検討すると,臨海性が高く,北部九州地域における中小古墳の墓制を総体的に採用している。よって,その被葬者はあまり在地化はせずに異質な存在として葬られたと考えられ,倭の対百済,栄山江流域の交渉を実質的に担った倭系渡来人として評価できる。そして,西・南海岸地域の在地系の古墳には,多様な系譜の副葬品が認められることから,海上交通を基盤とした地域集団の存在がうかがえる。倭と百済,または栄山江流域との交渉は,このような交渉経路沿いの要衝地に点在する地域集団の深い関与のもとで,積み重ねられていたと考えられる。5世紀後葉から6世紀前半頃,栄山江流域に造営された前方後円墳と,在地系の高塚古墳には,古墳の諸属性において共通性と差異性が認められる。これまで両者の関係は排他的もしくは対立的と把握される場合が多かったが,いずれの造営集団も,様々な交通路を利用した「地域ネットワーク」に参画し,倭や百済からの新来の墓制を受容していたという点において,併存的と評価すべきである。したがって,前方後円墳か在地系の高塚古墳かという違いは,諸地域集団の立場からみれば,新来の墓制に対する主体的な取捨選択の結果,ひいては百済中央や倭系渡来人集団との関わり合い方の違いの結果と評価できる。このような意味合いにおいて,その被葬者は基本的には百済や倭と緊密な関係を有した栄山江流域の諸地域集団の首長層と考えられる。ただし,倭や百済との活発な交渉,そこから渡来した集団の一部が定着した可能性も考慮すれば,その首長層に百済,倭に出自を有する人々が含まれていた可能性もまた,考慮しておく必要はある。
関, 周一
本稿は,『朝鮮王朝実録』に記載された,朝鮮人漂流民および琉球人漂流民の記録を基に,15~16世紀のトカラ列島・奄美諸島および宮古・八重山諸島の様相を明らかにすることを目的とする。トカラ列島・奄美諸島については,トカラ列島の臥蛇島に漂着した朝鮮人の記録から,次のようなことがわかる。琉球・薩摩間の良好な関係のもと,臥蛇島は,半分は琉球,半分は薩摩に属すとされた。だが1450年,尚泰久が,喜界島に出兵したため,琉球・薩摩との間に対立が生じた。そのため薩摩を経て琉球に向かう博多商人の商船が,拿捕されてしまった。また朝鮮人漂流人は商品であり,購入主のもとで奴として使役された。先島(宮古・八重山諸島)について,宮古島に漂着した朝鮮人の記録から,次のようなことがわかる。宮古島の人々は,朝鮮人漂流民に対し,交替で食糧を供給する務めを行い,彼らを饗応した。宮古島の人々と,近隣の来間島・伊良部島・下地島・大神島の人々とは,相互に往来して飲酒をともにしていた。漂流民は,宮古島と沖縄島の間を往来していた「琉球国の商船」に乗せられて,沖縄島に送られた。また著名な金非衣ら(済州島人)の漂流記録については,次の3点を指摘した。第一に,漂流人の記録には不正確な箇所や,内容の偏りがあるとみるべきで,考古資料などとの照合が必要である。第二に,漂流民の沖縄島への送還は,民間船によって,与那国島からリレー式に沖縄島に送還された。その船は,交易を行う「商船」であった可能性がある。第三に,諸島間のネットワークについて,西表島の米を購入した島々の対価は労働だとする,得能壽美の説を批判した。そして済州島に漂着した琉球人の記録からは,次のようなことがわかる。多良間島では紅花を生産し,それを琉球王府に献上していた。また宮古島の人々は,「尼南院島」に稲の収穫に出かけた。これは,遠距離通耕の初見記事である。ただし多良間島・宮古島の人々の言葉は,漢城(ソウル)の官人にとっては難解であったため,十分な聞き取りはできなかった。
Hijirida, Kyoko 聖田, 京子
ハワイ大学東アジア言語・文学科では2004年秋学期より新講座「沖縄の言語と文化」を開講した。それに先立つ2年間の準備期間中に,担当教員2人(聖田京子,Leon Serafim)が,ハワイ大学及びハワイ地域社会の支援を得て,沖縄へ赴き資料収集を行った。琉球大学等とのネットワークを形成すると共に,豊富な資料・教材を収集することができ,講座開講に向けて,教材作成を中心とするカリキュラムの準備を順調に進めることができた。 コース内容は文化を中心にした楽しい沖縄学と,聞き,話し,読み,書きの4技能の習得及び基本的な言語構造を理解する沖縄語の初級レベルを設定した。言語学習には,まず表記法と,言語と文化の教科書を決めることが重要な課題であったが,琉球大学と沖縄国際大学の関係者の支援により解決することができた。 文化に関するコース内容は,年中行事,諺,歴史上の人物,民話,歌(琉歌を含む)と踊り,料理,ハワイの沖縄コミュニティーなどの領域を取り上げた。特に,沖縄の文化的特徴や価値観などを表すユイマール,イチヤリバチョーデー,かちゃーしーなどは,クラスのプロセスで実践による習得を目指した。 基本的な学習が終わると,学生は各自のテーマで研究し,ペーパーを書き,発表することとし,それによりクラス全員が更に沖縄学の幅と深みを加え,沖縄理解に至ることを目指した。 学生の取り上げた研究テーマは,沖縄の基地問題や平和記念館,平和の礎,ひめゆり部隊,沖縄の祭り,行事,観光,エイサー,歌手,空手,三線,紅型,ムーチー(民話),紅芋など多岐にわたっており,学生の沖縄に対する関心の幅広さがうかがわれた。 当講座の全体の教育目標は以下のように設定した。1)沖縄語の言語研究上の重要性を理解すると共に,基本文法を習得し,初級レベルでのコミュニケーション実践をタスクで学ぶ。2)沖縄文化を理解し,その価値観や考え方をクラスでの実践を通して学ぶ。3)ハワイにおける沖縄県系人コミュニティーの文化活動に気軽に参加し,かつ楽しめるようになる。 当講座は,開講以来,受講希望者がコースの定員を上回る状況であり,当大学の学生の沖縄の言語や文化への関心の高さを示している。かちゃーしーやユイマール,沖縄料理などの文化体験は大変好評で,講座終了後のコース評価では,沖縄語をもっと学びたい,沖縄文化をもっと知りたいという学生からの声が多く寄せられた。
吉弘, 満美 陳, 延偉 仲尾, 善勝 Yoshihiro, Mami Chen, Yen-Wei Nakao, Zensho
大角, 玉樹 Osumi, Tamaki
沖縄及び琉球大学の戦略的な研究として、「亜熱帯島嶼科学」が提唱され、その推進のため、2005年に、亜熱帯島嶼科学超域研究推進機構が開設されている。過去の外部評価では、学術的な取り組みとしては高く評価されているが、応用研究として、イノベーションや事業化につながる産学官連携を促進することの必要性が喫緊の課題として指摘されている。我が国の経済政策の一つである、「イノベーション25」においても、イノベーションによる持続的成長と豊かな社会の実現が謳われており、辺境に位置し、観光への依存度の高い沖縄が科学技術を活用したイノベーション・アイランドに変貌を遂げていくことが期待されている。世界水準の研究教育を目的とした沖縄科学技術大学院大学の開学は、この期待を一層大きくしている。筆者は、1995年に施行された科学技術基本法以降の、我が国の政策と地域の政策を検討し、国際会議や国際展示会への参加、フィールドワークを通じて、イノベーションを創造する環境や地域特性の調査研究を続けている。過去10数年にわたり、関連研究機関や技術移転に関わる組織、科学技術コーディネータを含め多くの専門家や実務家と意見交換をしてきたが、その大半が、産学官連携によるイノベーション創出の困難性や問題点を指摘する声であり、有効性に疑問を投げかける意見であった。「連携」といいながらも、依然として、お互いの立場や考え方の違いを尊重することが少なく、それぞれが所属組織・機関の目的に従って、個別ばらばらに動いているのが現状であろう。琉球大学における亜熱帯島嶼科学の応用研究の必要性、沖縄21世紀ビジョンに掲げられている沖縄科学技術大学院大学の産学連携やベンチャー創出という政策的方向性を検討する際にも、「連携」ないしネットワーク形成がキーワードの一つになっている。過去の調査研究から、イノベーションを促進・加速するための連携が実現し、地域クラスターがエコシステムに変容を遂げるには、従来の政策ではほとんど考慮されることのなかったソーシャル・ファクターに注目し、そのマネジメントを確立することの必要性を感じている。まだ概念や研究のフレームワークが明確ではないことから、これまでの産学官連携、クラスターに関する主要な研究と近年の経営学における主要な研究トレンドを参考に、予備的考察を試みたものが本稿である。まだ、漠としたイメージしか掴めないものの、ソーシャル・ファクターとツーリズム・キャピタルという概念を取り入れた産学官連携モデルの進化と深化に向けて、理論構築と検証を行っておきたい。
山本, 哲彦 金城, 寛 福本, 功 大松, 繁 Yamamoto, Tetsuhiko Kinjo, Hiroshi Fukumoto, Isao Omatu, Sigeru
當間, 愛晃 前堂, 卓也 遠藤, 聡志 山田, 孝治 Toma, Naruaki Maedo, Takuya Endo, Satoshi Yamada, Koji
与那覇, 賢 遠藤, 聡志 山田, 孝治 Yonaha, Satoru Endo, Satoshi Yamada, Koji
Hsu, Ruth Y. シュー, ルース Y
本稿では、抵抗と解放への可能性を生じさせる「場」としての記憶と歴史に注目しつつ、アジア太平洋地域の反主導権力的文学テクストについて考察する。アジア太平洋地域の異なる地理的場所において、過去数十年の異なる時期に書かれたテクストを分析していくが、特に21 世紀における昨今の動きの中で有利な位置にあるアジア系アメリカ文学・文化が、いかに合衆国の文学研究をさらなる脱中心化へと導く方法として有効かということについて、合衆国の昨今の問題意識のもとに分析していく。その覇権的な作用が多岐にわたる決定論を無効にするひとつの方法は、支配的な歴史的語り^^ナラティヴに埋もれた、場所や人々の物語^^ストーリーを掘り起こすことである。私たちが過去をどのように認知し、その知見とどのように向き合うかは、日常生活的に課せられた現在の責務(例えば、共同体意識や共通の目的のもとに、政治的に機能する社会を築くことなど)と関わっており、私たちが脱植民地化の流れの中で過去や現在を刷新していくことは、そうした共同体形成の作業に影響を与える。必要なのは、個人的な記憶と共同体や国家の集合的記憶の両方を再構築することであり、それによって、歴史の創造過程が、主導権を掌握する勢力との交渉や闘争の場そのものとなるのである。本稿は、スーチェン・クリスティン・リム(シンガポール)、マリア・N. ヌグ(香港マカオ)、R. ザモラ・リンマーク(ハワイ)の著作やラッセル・リオン(ロサンジェルス)の詩などを検証することにより、脱植民地主義的試みにおける記憶や集合的歴史の問題点に迫る。これらの「物語^^ストーリー」は、アジア太平洋地域の人々がどのように西洋の植民地主義と関わってきたかという経験のありようを垣間見せてくれる。また、これらの語りは、実際にある多様な奴隷状態から登場人物たちがどのように自らを解放へと導いていったかについても明らかにする。読者は、フィクションとしてのこれらの語りを、過去を「再追悼」する行為であると認識すると同時に、広大な脱植民地化の動きの中で人々をつなげる反主導権的ネットワークの生じる場所を、時間的・空間的な多面性、その予想不可能性、流動性、順応性といった力を備えた「場」として位置づける。本論ではまた、そのポストモダン的語りによって脱植民地化の文学の中でイコン的な存在となっているテレーサ・ハッキョン・チャの『ディクテ』についても論じ、結びとして、これまで英訳されることのなかった沖縄文学の作品を含む MANOA の沖縄文学特集号についても触れる。
岩淵, 令治 Iwabuchi, Reiji
国民国家としての「日本」成立以降,今日に到るまで,さまざまな立場で共有する物語を形成する際に「参照」され,「発見」される「伝統」の多くは,「基層文化」としての原始・古代と,都市江戸を主な舞台とした「江戸」である。明治20年代から関東大震災前までの時期は,「江戸」が「発見」された嚆矢であり,時間差を生じながら,政治的位相と商品化の位相で進行した。前者は,欧化政策への反撥,国粋保存主義として明治20年代に表出してくるもので,「日本」固有の伝統の創造という日本型国民国家論の中で,「江戸」の国民国家への接合として,注目されてきた。しかし後者の商品化の位相についてはいまだ検討が不十分である。そこで本稿では,明治末より大正期において三越がすすめた「江戸」の商品化,具体的には,日露戦後の元禄模様,および大正期の生活・文化の位相での「江戸趣味」の流行をとりあげ,「江戸」の商品化のしくみと影響を検討した。明らかになったのは以下の点である。①元禄模様,元禄ブームは三越が起こしたもので,これに関係したのが,茶話会と実物の展示という文人的世界を引き継いだ元禄会である。同会では対象を元禄期に限定して,さまざまな事象や,時代の評価をめぐる議論,そして模様の転用の是非が問われた。ただし,元禄会は旧幕臣戸川残花の私的なネットワークで成立したもので,三越が創出したわけではなかった。残花の白木屋顧問就任や,三越直営の流行会が機能したこともあって,残花との関係は疎遠になる。元禄会自体は,最後は文芸協会との聯合研究会で終焉する。また,元禄ブーム自体も凋落した。②大正期の「江戸」の商品化に際しては,三越の諮問会である流行会からの発案で分科会たる江戸趣味研究会が誕生する。彼らは対象を天明期に絞り,資料編纂の上で研究をすすめ,「天明振」の提案を目指した。しかし,研究成果は生かされず,元禄を併存した形で時期・階層の無限定な江戸趣味の展覧会が行われる。そして,イメージとしての「江戸趣味」が江戸を生きたことの無い人々の中に定位することを助長した。「江戸」は商品化の中で,関東大震災を迎える前に,現実逃避の永井荷風の「江戸」ともまた異なった,漠然としたイメージになったのである。その後,「江戸趣味研究会」の研究の方向性は,国文学や,三田村鳶魚の江戸研究へと引き継がれていくことになった。
大山, 敬三 青池, 亨 幾浦, 裕之 山本, 嘉孝 山本, 和明
名嘉, 靖 曽, 湘燕 陳, 延偉 仲尾, 善勝 Naka, Yasushi Zeng, Yanien Chen, Yen-Wei Nakao, Zensho
今西, 祐一郎 山本, 和明 谷川, 恵一 IMANISI, Yuichiro YAMAMOTO, kazuaki TANIKAWA, keiichi
寺島, 恒世 陳, 捷 西村, 慎太郎 TERASHIMA, tsuneyo Chen, Jie NISHIMURA, shintaro
古謝, 安子 宇座, 美代子 小笹, 美子 船附, 美奈子 Koja, Yasuko Uza, Miyoko Ozasa, Yoshiko Funatsuki, Minako
谷川, 惠一 田村, 誠 金, 秀美 舩冨, 卓哉 TANIKAWA, Keiichi TAMURA, Makoto KIM, Sumi HUNATOMI, Takuya
神松, 幸弘 上椙, 英之 木越, 俊介 中本, 真人 KOHMATSU, Yukihiro UESUGI, Hideyuki KIGOSHI, Shunsuke NAKAMOTO, Masato
浮ヶ谷, 幸代 Ukigaya, Sachiyo
本稿の目的は,精神の病いを抱える人たちの「生きづらさ(苦悩suffering)」をめぐる生の技法を手がかりに,現代日本における精神と身体,自己と他者,苦悩と場との関係について明らかにすることである。今日,人文社会科学において心身二元論を超えて心身相関を明らかにする取り組みが主流となっている。心身二元論を前提とする生物医学において,統合失調症の診断・治療は一般的にはDSM-Ⅳ-TRもしくはICD-10と呼ばれるガイドラインにそって行われている。そこでは,統合失調症は脳の機能障害に起因し,人格(自己)の分裂として現れるとされている。したがって,治療は薬物投与によって人格(自己)の統合を目指すことになる。この薬物モデルでは,薬物によって脳の機能障害をコントロールすること,いいかえれば混乱した精神に対処するために身体(脳)をコントロールすることにより精神のコントロールを導くことが目指されている。薬物モデルの論理では,精神と身体との関係はたやすく結び付けられることになる。北海道浦河町の社会福祉法人〈浦河べてるの家〉では,精神の病いを抱えながら当事者が地域で生きていくためのさまざまな活動を行っている。この活動は,浦河赤十字病院の精神科医,川村敏明をはじめとして,精神保健福祉の専門家によって支えられている。川村医師は,当事者が社会生活を送るために最小限度の薬物を処方している。川村医師によれば,病気とは排除されるべきものではなく,また精神医学の枠組みで解釈されるべきものでもなく,むしろ人間が社会生活を送る中で大事な安全装置であると捉えている。〈べてるの家〉が取り組んでいる当事者研究とは,精神の病いゆえの生きづらさ(苦悩)に対処するために,当事者が自分自身で研究する取り組みのことである。彼(女)らは,幻聴を「幻聴さん」と名づけ,現実の世界でコミュニケーションを取る相手として捉えている。目に見えない内なる他者の声が人格化され,病気の原因が外在化される。当事者研究は,仲間による配慮する,されるという関係だけでなく,医師や看護師,ソーシャルワーカー,保健師など,浦河町の専門家のサポートによって支えられている。浦河町では病いとともに生きる当事者の社会生活を支えるために,さまざまなミーティングが用意され,専門家のネットワークが形成されている。本稿では,〈浦河べてるの家〉の「当事者研究」と浦河町精神保健福祉の取り組みを通して,病いゆえの苦悩の経験に対処する〈べてるの家〉のメンバーの実践とローカルな文脈に根ざした社会関係という観点から,心身二元論とそれを相対化する心身相関論との間を埋める方途を探すつもりである。
西銘, 大喜 遠藤, 聡志 當間, 愛晃 山田, 考治 赤嶺, 有平 Nishime, Taiki Endo, Satoshi Toma, Naruaki Yamada, Koji Akamine, Yuhei
関根, 健太郎 綱取, 汐音 斎藤, 明莉 諏訪, 竜一 田場, 聡 Sekine, Ken-Taro Tsunatori, Shion Saito, Akari Suwa, Ryuichi Taba, Satoshi
渡邉, 英徳 ユディット, アロカイ 海野, 圭介 宮本, 祐規子 WATANAVE, Hidenori Judit, AROKAY UNNO, Keisuke MIYAMOTO, Yukiko
ロバート, キャンベル カラーヌワット, タリン 谷川, 惠一 宮本, 祐規子 Robert, CAMPBELL Tarin, CLANUWAT TANIKAWA, Keiichi MIYAMOTO, Yukiko
岡花, 祈一郎 国吉, 和美 長嶺, 久美子 仲村, 小百合 永山, 勝幸 猶原, 和子 佐藤, 寬子 塚原, 健太
高田, 時雄 赤間, 亮 前田, 亮 瀧本, 壽史 神松, 幸弘 TAKADA, tokio AKAMA, ryo MAEDA, ryo TAKIMOTO, hisafumi KOHMATSU, Yukihiro
石上, 英一 佐藤, 悟 合山, 林太郎 金田, 房子 片岡, 耕平 ISHIGAMI, eiichi SATO, satoru GOYAMA, rintaro KANATA, fusako KATAOKA, kohei
渡部, 泰明 ヘイミッシュ, トッド 大塚, 靖代 馬場, 基 宮本, 祐規子 WATANABE, Yasuaki Hamish, Todd OHTSUKA, Yasuyo BABA, Hajime MIYAMOTO, Yukiko
金城, 宏幸 上里, 賢一 前門, 晃 野入, 直美 鍬塚, 賢太郎 比屋根, 照夫 中村, 完 Kinjo, Hiroyuki Uezato, Kenichi Maekado, Akira Noiri, Naomi Kuwatsuka, Kentaro Hiyane, Teruo Nakamura, Tamotsu