社会主義体制崩壊後の旧東欧社会において民族主義や宗教の影響が大きくなったばかりでなく,この両老が相互に深く結びついて対立や紛争のなかで大きな役割を果たしたことは西側の人々に驚きを与えた。しかし,旧東欧の社会主義体制下では社会主義イデオロギーが社会を表層では支配していたものの,実際には民族主義が社会的に大きな影響力をもっていたのである。旧東欧諸国のひとつであるルーマニアも例外ではなかった。社会主義体制下において民族に関する表象およびその言説が社会のなかで支配的であり,一方キリスト教も民族的伝統を代表し,民族的価値を肯定するかぎりで肯定的な評価を保っていた。このことが意味するのは,もともと民族に限定されず普遍的な立場に立つはずのキリスト教や国際間の階級的連帯に立脚して国家や民族を否定する社会主義思想が,実際には民族的感情や民族理念を強調する民族主義的立場に近づいていたという事実である。 本稿ではこうした共存のしくみを説明するために,スターリン批判以後の政治的危機,および民衆の日常生活における戦略的行為が生み出した社会主義体制の危機に対して,共産党指導部が行った民族表象の操作とその効果に注目する。その具体的手段として党指導部が利用しようとしたのは聖職者と知識人であり,その求めに応じて聖職者や知識人は社会主義体制下での従属的な役割を受け入れた。党指導部がこの操作を行った理由は,ルーマニア社会における戦前からの強い民族主義的な傾向と民衆へのキリスト教会の大きな影響力にあった。民族主義は第二次大戦後は抑圧され,キリスト教もスターリン主義体制のもとで弾圧されたが,いぜんとして強い影響力を保持していた。スターリソ批判以後の政治的危機をのりこえるためにソ連からの自立の道を選んだ党指導部は,独自の社会主義体制を確立するために国内統合の原理として民族主義とキリスト教を利用しようとしたのである。ただし,これら聖職者や知識人もただ一方的に受動的に操作されたわけではなく,主体的な戦略をもっていた。聖職者はキリスト教に民族的伝統を代表させることによって社会的な影響力を増大させ,知識人は党指導部との言説のヘゲモニーを競うとともに知識人共同体の内部でも競合することによって,結果として伝統的な民族的言説を強化した。さらに民衆も民族主義とキリスト教を利用する党指導部のプロパガンダによって操作されていたばかりではなく,生活上の必要に迫られて民衆が選択した戦略は,党による社会的支配の効力を弱めた。一方,石油ショックの影響による経済発展の挫折は,発展を約束する社会主義イデオロギーの建前としての根拠すら失わせ,党指導部は対外的緊張や民族主義にいっそう依存せざるをえなくなった。こうして,政府が行った民族表象の操作は,その意図をこえて民族主義が社会の支配的な思想となって,社会主義とキリスト教の共存を可能にする結果をもたらしたのである。