35 件中 1 〜 20 件
安元, 悠子 Yasumoto, Yuko
本研究では、沖縄県のある国語教師へのインタビューデータを事例に、現在消滅の危機に瀕している琉球諸語について、言語イデオロギーという観点から帰納的に捉えることを試みた。インタビューによって個人の明示的な言語イデオロギーを引き出し、それを質的手法によって分析することにより、標準語イデオロギーと地域言語への帰属意識がどのように交差し、矛盾や葛藤を生み出しているのかを明らかにした。
比嘉, 麻莉奈
本研究は英語教育実践研究の観点に立ち、拡大円圏である沖縄に生まれ育ち英語帝国主義の影響を受けた個人、そこから沖縄の大学の英語教育実践に取り組む大学教員である個人の内的体験にもとづいた英語教育(ELT: English Language Teaching/Training)に存在する言語イデオロギーとしての語母語話者主義の記述をおこなうことを目的とする。非英語圏における英語教育が英語帝国主義の影響から脱却するためには、教育機関、ひいてはそこの地域社会が英語帝国主義・英語母語話者主義に立ち向かうことが重要であり、それにはまず従来の日本―沖縄における英語学習や英語使用そのものが学習者/教員にどのように捉えられているのかを明らかにすることが求められる。英語は現在リンガ・フランカのひとつであり世界中で使用されている。政治・経済・研究・軍事等に対する英語の影響力は絶大であり、それゆえに英語母語話者/非母語話者間に言語のみならずさまざまな格差が生まれている現状がある。本研究では、英語教育に存在する言語的人種的権力構造を含んだ英語イデオロギーの影響力を考察するうえでも、個々の具体的な英語使用がなぜ行われるのかを分析するうえでも有効な分析概念として、「英語母語話者主義 native speakerism」(Holliday, 2005)を援用し、個人のライフストーリーを分析した。分析の結果、生育環境、留学体験、英語母語話者主義の影響、沖縄の大学英語教育の問題点、教育理念と実践を表す5つのカテゴリが抽出され、「国際的に活躍できる人材の育成」を国策としてうたう日本の英語教育方針と併せて、拡大円圏であり米軍基地を有する土地でもある沖縄において英語母語話者主義という言語イデオロギーは英語教育と非常に緊密に存在していることが明らかになった。カテゴリをさらに追究した結果、研究協力者の語りからは、非英語母語話者が英語母語話者主義を内在化する一因に「正しい英語」イデオロギーがあること、そのイデオロギーは社会構造の影響はもちろん自己/他者の比較から生まれるが、その乗り越えも他者との関係性の中に見ることができることが分かった。そして英語教育現場においては「英語の多様性」を重視した実践と、教員だけでなく教育機関、そして学生においても母語話者を偏重しない態度が求められていることが分かった。
安藤, 広道 Ando, Hiromichi
本稿の目的は,東日本南部以西の弥生文化の諸様相を,人口を含めた物質的生産(生産),社会的諸関係(権力),世界観(イデオロギー)という3つの位相の相互連関という視座によって理解することにある。具体的には,これまでの筆者の研究成果を中心に,まず生業システムの変化と人口の増加,「絵画」から読み取れる世界観の関係をまとめ,そのうえで集落遺跡群の分析及び石器・金属器の分析から推測できる地域社会内外の社会的関係の変化を加えることで,3つの位相の相互連関の様相を描き出すことを試みた。
島村, 恭則 Shimamura, Takanori
これまでの民俗学において,〈在日朝鮮人〉についての調査研究が行なわれたことは皆無であった。この要因は,民俗学(日本民俗学)が,その研究対象を,少なくとも日本列島上をフィールドとする場合には〈日本国民〉〈日本人〉であるとして,その自明性を疑わなかったところにある。そして,その背景には,日本民俗学が,国民国家イデオロギーと密接な関係を持っていたという経緯が存在していると考えられる。
北原, 糸子 Kitahara, Itoko
史蹟名勝天然紀念物法(1919)に基づいて,明治天皇が巡幸,行幸で訪れた場所や建物などが明治天皇聖蹟として,国の文化財に指定された。この聖蹟関係史跡に顕著な傾向は,戦前に指定された史蹟,名勝,天然紀念物1,508件のうちの史蹟603件中,377件と圧倒的多数を占めたことである。しかし,これらの文化財は天皇制イデオロギーを支えるものとして,占領下のGHQによって,1948年6月23日文化財指定から一斉に解除された。
ゴードン, アンドルー 朝倉, 和子
日本に関する言論の内容と論調は国内でも国外でも1990年代にがらりと変わった。「失われた十年」という言葉が急激に流通し始めたことは、それを象徴する。この言葉は1998年夏の同じ週に、英語と日本語双方の活字メディアで初めて登場した。日本は凋落しつつある、日本は失われたという認識が、国の内外でほぼ同時に生まれていたのである。本稿では、1970年代から2010年代にいたる保守派のイデオロギーを検証することによって、「喪失」論議の登場を理解しようと思う。なかでも、中流社会日本という未来への自信喪失と深く関わるイデオロギーの風景の変遷をめぐり、その二つの局面を追うことにする。それは第一に、健全な社会を維持する手段として市場と競争をとらえる考え方、第二に、ジェンダーの役割の変化に対する姿勢である。過去二十余年に「失われた」のは、健全な社会を構成するものは何か、それをどのように維持し達成するのかについての保守本流のコンセンサスだった。1970年代と80年代には、管理された競争という日本的なあり方、および女は家庭・男は仕事というジェンダー分割に支えられた社会構造が、このコンセンサスの根拠だった。それが1990年代、2000年代になると、全世界共通の現象だが、日本でも管理経済に対して新自由主義から猛烈な挑戦が始まると同時に、それよりは弱いものの、日本社会に埋めこまれたジェンダーによる役割分業への挑戦が始まった。しかし、いずれの挑戦もはっきりと勝利をおさめたわけではない。
鈴木, 靖民 Suzuki, Yasutami
7世紀,推古朝の王権イデオロギーは外来の仏教と礼の二つの思想を基に複合して成り立っていた。遣隋使は,王権がアジア世界のなかで倭国を隋に倣って仏教を興し,礼儀の国,大国として存立することを目標に置いて遣わされた。さらに,倭国は隋を頂点とする国際秩序,国際環境のなかで,仏教思想に基づく社会秩序はもちろんのこと,中国古来の儒教思想に淵源を有する礼制,礼秩序の整備もまた急務で,不可欠とされることを認識した。仏教と礼秩序の受容は倭国王権の東アジアを見据えた国際戦略であった。そのために使者をはじめ,学問僧,学生を多数派遣し,隋の学芸,思想,制度などを摂取,学修すると同時に,書籍や文物を獲得し将来することに務めた。冠位十二階,憲法十七条の制定をはじめとして実施した政治,政策,制度,それと不可分に行われた外交こそが推古朝の政治改革の内実にほかならない。
塩月, 亮子 Shiotsuki, Ryoko
本稿では,従来の静態的社会人類学とは異なる,動態的な観点から災因論を研究することが重要であるという立場から,沖縄における災因論の歴史的変遷を明らかにすることを試みた。その結果,沖縄においてユタ(シャーマン)の唱える災因は,近年,生霊や死霊から祖先霊へと次第に変化・収束していることが明らかとなった。その要因のひとつには,近代的「個(自己)」の確立との関連性があげられる。すなわち,災因は,死霊や生霊という自己とは関係のない外在的要因から,徐々に自己と関連する内在的要因に集約されていきつつあるのである。それは,いわゆる「新・新宗教」が,病気や不幸の原因を自己の責任に還元することと類似しており,沖縄だけに限られないグローバルな動きとみなすことができる。だが,完全に自己の行為に災因を還元するのではなく,自分とは繋がってはいるが,やはり先祖という他者の知らせ(あるいは崇り)のせいとする災因論が人々の支持を得るのは,人々がかつての琉球王朝時代における士族のイデオロギーを取り入れ,シジ(系譜)の正統性を自らのアイデンティティの拠り所として探求し始めたことと関連する。このような「系譜によるアイデンティティ確立」への指向性は,例えば女性が始祖であるなど,系譜が士族のイデオロギーに反していていれば不幸になるという観念を生じさせることとなった。
福村, 真紀子
日本では,日本語とその他の言語のリテラシー(識字)がどのような実態となっているのか,またリテラシーそのものの価値や意義とは何か,について十分に議論されてこなかった。ただ,そのような状況下でも1980年代後半から日本語教育や識字教育を含む言語教育および社会的課題となる言語問題が徐々に議論されるようになってきた。その議論の中には,日本語のリテラシーに関するイデオロギーについて批判的に論じたものがある。そこで,本稿では日本語のリテラシーとは何かを問い直すとともに日本語学習支援のあり方を再考する。そのために,日本国内の研究者による代表的なリテラシー研究文献から三つを選択し,検討を試みる。そして,検討結果を概観するとともに批評し,リテラシーの複数性を認識して個々人の「よみかき実践」(角 2012)を尊重する立場から,今後の日本語学習支援のあり方について提案する。
柏岡, 富英
前回の議論(「『言いわけ』の比較文化論(一)―序説」、『日本研究』第4集、一九九一年三月)では、特定の社会状況の中で行為を発動したり思いとどまったりするメカニズムとしての「言いわけ」を、ミクロのレベルで(個人行為者を単位として)考察した。今回は、その図式をマクロ(集団)レベルにも応用できるかを、民族集団ないし民族運動に即して考える。「民族」は「国民国家」という枠組ないしイデオロギーを前提として生じる近代特有の社会・政治現象である。人間社会の「本性」としてもともとそなわっていた「民族性」がついに開花した結果として近代的国民国家が生み出されたのではなく、近代的国民国家が「民族自律」という「言いわけ」に正当性を与えたのである。
岩橋, 法雄 Iwahashi, Norio
ニュー・レイバーは、弱者への援助としての能力向上施策を強力に遂行してきた。これが教育を第1のプライオリティとしたブレア労働党政権の教育政策である。しかし、その本質は、あるがままの弱者に対する社会的公正の観点からの富の再分配的支援というよりは、富を自分で勝ち取らせるための支援の推進である。このいわゆるハンズ・アップ (hands-up) 支援は、機会の提供という「支援」を通じて自助を費用効果において組織しようとするものであり、結果としての「到達」の不平等の存在は自己責任というイデオロギーを必然として伴うものである。こうしてサッチャーからの「旅立ち」に映ったブレアの被剥奪者への配慮の思いは、そのレトリックとは裏腹に、教育を通じて被剥奪者の内の「有能」者を能力主義的価値観の社会に「包摂」する(「動員」する)側面にますます転化し始める。よって、その「社会的包摂」は、公正を旨とする平等と決して同じものではない。
設楽, 博己 Shitara, Hiromi
弥生時代の定義に関しては,水田稲作など本格的な農耕のはじまった時代とする経済的側面を重視する立場と,イデオロギーの質的転換などの社会的側面を重視する立場がある。時代区分の指標は時代性を反映していると同時に単純でわかりやすいことが求められるから,弥生文化の指標として,水田稲作という同じ現象に「目的」や「目指すもの」の違いという思惟的な分野での価値判断を要求する後者の立場は,客観的でだれにでもわかる基準とはいいがたい。本稿は前者の立場に立ち,その場合に問題とされてきた「本格的な」という判断の基準を,縄文農耕との違いである「農耕文化複合」の形成に求める。これまでの東日本の弥生文化研究の歴史に,近年のレプリカ法による初期農耕の様態解明の研究成果を踏まえたうえで,東日本の初期弥生文化を農耕文化複合ととらえ,関東地方の中期中葉以前あるいは東北地方北部などの農耕文化を弥生文化と認めない後者の立場との異同を論じる。弥生文化は,大陸で長い期間をかけて形成された多様な農耕の形態を受容して,土地条件などの自然環境や集団編成の違いに応じて地域ごとに多様に展開した農耕文化複合ととらえたうえで,真の農耕社会や政治的社会の形成はその後半期に,限られた地域で進行したものとみなした。
フラッヘ, ウルズラ Flache, Ursula
本論文ではドイツ語圏の日本学の中で行われている神社研究の,創成期から現在に至るまでの概観である。ドイツ語圏の日本学では,日本の宗教についての研究は部分的な領域をなすに過ぎない。神社に限定した研究はさらに稀である。したがって研究の成果は非常に限られている。神社はたいてい神道のその他の研究との関連で言及される。歴史的概観は4つの節に区分されている。第1節では日本についての初期の報告(ケンペル,シーボルトなど)を紹介する。第2節では明治時代から第二次大戦までの研究文献を説明する。明治時代における神社研究に関してフローレンツ,シラー,シューアハマーとローゼンクランツを列挙する。続いて,グンデルト,ボーネルとハミッチュという第二次大戦前の指導的な神道研究者について述べる。彼らがナチスのイデオロギーに近い視点から研究結果を発表したため,戦後には神道と関わる研究がタブー視された。第3節は戦後の研究文献を説明する。神道研究はしばらくの間完全に中止されていたが,ウイーン大学における民俗学を迂回することによって,神道はようやく日本学研究の中に復活した。ウイーン大学を卒業したナウマンが戦後の最も影響力のあった神道研究者となった。さらに,国家と神道の関係を研究したロコバントが神社研究に大きな貢献をした。第4節では20世紀の終わりから現在までの研究文献を紹介する。現在の指導的な神道研究者としてアントーニとシャイドの名前を挙げることができる。
井原, 今朝男 Ihara, Kesao
近年、神社史研究が活発化しつつあるが、その分析対象となる多くの神社史料がもつ歴史的特徴や問題点について留意されることが少ない。そこで神社史料についての資料学的検討を行った。第一は、現存する神社や現任の神官層の保管下にある神社史料群はむしろ限定された文書群にすぎず、むしろより多くの関係史料群が社家文書として個人所蔵に帰しており散逸の危機に直面し、史料群の全体像はなお不明の状態のものが多いといわなければならない。社家文書の群としての全体的構造を理解することは、神社資料に対する史料批判を厳密にするうえで必要不可欠な作業である。第二に、個別神社史料群は、明治の廃仏毀釈によって仏事関係史料群が流出し、史料群の構成は大改変を受けている。そのため、現存史料群から描く神社史像は歴史実態から乖離してしまうという問題に直面することになる。改めて、廃仏毀釈の実態解明や旧聖教類の所在についての史料調査が重要な課題になっている。第三は、現存する神社史料群は、とくに近世・近代の神官層による神道書や縁起の編纂・改変という諸問題を抱えている。しかし、それらの解明は今後の課題であり、史料学的な問題点として論じられていない。神道史というものが近世国学や近代国家神道によって、「近代日本的な偏見」を受けていることが指摘されてきた。近世・近代の国家神道の下で神道書や神社史料がどのようなイデオロギー的変容を遂げたのかをあきらかにすることは、神社史料研究の一研究分野としなければならない。
フラッヘ, ウルズラ Flache, Ursula
本論文ではドイツ語圏の神仏分離研究の三つの側面を扱う。序論として「神仏分離」の独訳に関する問題点を述べる。第1ポイントとして,ドイツおよび欧米の日本研究におけるこれまでの神仏分離の扱いについて概略を記す。神仏分離が一般の歴史著作や参考図書で取り上げられるようになったのは最近の動きである。明治時代における神道研究では二つの傾向が見られる。一つは客観的批評する研究者(シュピナー,チェンバレン),もう一つは国家神道の視点を引き取る研究者(アストン,フロレンツ)。第二次大戦前の指導的な神道研究者(グンデルト,ボーネル,ハミッチュ)がナチスのイデオロギーに近い視点から研究結果を発表したため,戦後には神道についての研究がタブー視され,当分の間完全に中止となった。1970年代に出版されたロコバントの研究に続いて,1980・90年代にいくつかの神仏分離に関する研究文献(グラパード,ハーディカ,ケテラー,アントーニ)が発行された。最近の研究(ブリーン,サール,アンブロス,関守)ではケーススタディーや地方史が注目される傾向にある。ドイツには宗教改革時代の偶像破壊という,明治時代の日本の神仏分離と非常によく似た出来事があったために,ドイツの研究者は神仏分離に特別な関心を寄せている。そこで,第2のポイントとして,ヨーロッパにおける宗教改革と絡めて偶像破壊運動を詳しく取り上げ,ヨーロッパの宗教改革と日本の廃仏毀釈の比較を行う。共通点として両者が宗教的美術に大きな障害をもたらした改革運動であることが挙げられる。相違点としてヨーロッパにおける宗教改革が宗教的な動機をもった運動で,神仏分離が政治的な動機をもった政策であった。終わりに第3ポイントとして,簡単に筆者の個人的な意見をまとめ,神仏分離が実際どの程度「成功」したのか,そして神仏分離の今日の日本における意味を考察する。
市川, 秀之 Ichikawa, Hideyuki
肥後和男は『近江に於ける宮座の研究』『宮座の研究』の二書において宮座研究の基礎を築いた人物として知られる。同時に水戸学や古代史・古代神話などの研究者でもあり、肥後の宮座論はその研究全体のなかで位置づける必要があるが、これまでそのような視点から肥後の宮座論を評価した研究はない。肥後が宮座論を開始したのは、宮座の儀礼のなかに古代神話に通じるものを感じたからであり、昭和一〇年前後に大規模な宮座研究を開始したのちも肥後のそのような関心は衰えることはなかった。肥後の宮座に対する定義は数年におよぶ調査のなかで揺れ動いていく。調査には学生を動員したため彼らに宮座とはなにかを理解させる必要があったし、また被調査者である神官や地方役人にとっても宮座はいまだ未知の言葉であったため、その明確化が求められたのである。肥後の宮座論の最大の特徴は、村落のすべての家が加入するいわゆる村座を宮座の範疇に含めたことにあるが、この点が宮座の概念をあいまいにする一方で、いわば宮座イコールムラ、あるいは宮座はムラを象徴する存在とされるなど、後の研究にも大きな影響を与えてきた。現在の宮座研究もなおその桎梏から逃れているとは言い難い。肥後が宮座研究に熱中した昭和一〇年前後は、彼が幼少期から親しんできた水戸学に由来する祭政一致がその時代を主導する政治的イデオロギーとしてもてはやされており、神話研究において官憲の圧力を受けていた肥後の宮座論もやはりその制約のなかにあった。すなわち祭政一致の国家を下支える存在としての村落の組織としての宮座は、全戸参加すべきものであり、それゆえ村座は宮座の範疇に含まれなければならなかったのである。肥後の宮座研究は昭和一〇年代という時代のなかで生産されたものであり、時代の制約を受けたものとして読まれなければならない。宮座の定義についてもそのような視点で再検討が是非必要であろう。
Cheah, Pheng チャー, フェン
学術的に多大な影響を与えた2000年の著作『帝国』で、マイケル・ハートとアントニオ・ネグリは、ポストコロニアル理論は行き詰まっているという議論を展開した。近代的な支配の形にこだわるコロニアリズムは、現代のグローバリゼーションにおいてもはや主要な権力として存在していないというのが彼らの論点である。彼らが「帝国」と呼ぶポストモダン的主権国家にも利点と弱点はあるものの、こうした主張に真実がないこともない。文学研究分野におけるポストコロニアル理論や文化批評は、19世紀ヨーロッパの領土的な帝国主義や植民地主義の経験を根本的なパラダイムとする抑圧や支配、そして搾取についての分析に端を発してきた。よって、我々がサイードのオリエンタリズム的言説や表象のシステムや、ファノンを書き換えたバーバの「植民地主義的言説における人種差別的ステロタイプ」や、さらにはスピヴァクのいう、植民地主義的法律や教育の文明化的プロセスを経てつくられていく「植民地主義における主体形成」の認識論的な暴力などというものを考察しようとするとき、ポストコロニアル的文化批評の異なる位相は、植民地化された主体が生じる瞬間に押し付けられる神話やイデオロギー、あるいは、様々な基準との関係において理解され、「精神主義的」あるいは「象徴的/想像的」な性質を強調し、「権力に対する共通理解」と結びついていく。本論では、まず、現代のグローバリゼーションにおける権力を、精神論的なものとして理解することは不適切であるという点について述べていく。すなわち、現代のグローバル資本主義において必然的に「女性化」している越境的労働力は三種類あり、その三つのタイプの女性の主体がどのように作られていくかを論じたい。そこには、外国による直接投資の体制下にある女性工場労働者、外国人家事労働者、そして人身売買されて来るかまたは別の理由で越境して来る性労働者などが含まれる。物質中心的なシステムにおける主体形成のプロセスが、どのようにしてポストコロニアルやフェミニストの理論に関わる中心概念を根本から再考することにつながっていくだろうか。
和田, 晴吾 Wada, Seigo
古墳での人の行為を復元し,遺構や遺物を検討することで,前・中期の古墳を,遺体を密封する墓としての性格と,「他界の擬えもの」としての性格の,二つの面から捉えようと試みた。
西谷地, 晴美 Nishiyachi, Seibi
『古事記』の語る「豊葦原水穂国」と『日本書紀』の記す「豊葦原瑞穂国」は全くの同義語であり,「水穂」と「瑞穂」はいずれも「イネの豊穣を意味することば」であると理解されている。しかし近年の研究では,『日本書紀』の過去認識は現在とのつながりを重視した過去認識であり,『古事記』のそれは現在につながらないものに視点を据えた過去認識であることが指摘されている。そこで簡便な調査を行い,『古事記』の語る「豊葦原水穂国」は,「葦原の広がる水の豊かな国」という意味であるとする仮説を得た。『日本書紀』は「水穂」を「瑞穂」に書き換えることによって,「水の豊かな国」を「稲穂の豊かに実る国」に変換したことになる。
海津, 一朗 Kaizu, Ichiro
中世民衆の変革思想として注目される徳政(復活)の歴史的な位置について,先行研究の論点を整理した上で,高野山金剛峯寺の中核荘園である南部荘の新出史料を検討材料として具体的に考察する。その際,研究史上の最大の争点と思われる顕密仏教改革派の意義付けについて特別の注目をした。高野山領紀伊国南部荘では,通説と異なり中世前期以来,全荘規模の土一揆が発生して鎮守一宮を拠点に自治が行なわれているが,それは荘園領主代替わりや天下飢饉という条件下における百姓の徳政要求に根ざしたものであった。蒙古襲来の緊張のもと,異国征伐の徳政を希求する百姓の要求は,関東地頭と導御上人(唐招提寺律宗改革派)によって民衆運動に組織され,高度の河川灌漑と鍛冶工房敷設など卓抜した技術改革が進行して港湾・都市の整備が進んだ。一宮を変革実現の拠点にしようとした百姓の運動が,聖地興行により御霊宮を荘鎮守にしようとはかった領主層によって組織された時点で政治勢力としての惣国が成立したと評価されよう。このような徳政をめぐる鬩ぎ合いのなかで成立した紀州惣国は,一向一揆による自治を経てピークを迎え,1585年の統一権力による軍事侵攻「秀吉の平和」により終止符を打たれたのである。
関連キーワード