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安元, 悠子 Yasumoto, Yuko
本研究では、沖縄県のある国語教師へのインタビューデータを事例に、現在消滅の危機に瀕している琉球諸語について、言語イデオロギーという観点から帰納的に捉えることを試みた。インタビューによって個人の明示的な言語イデオロギーを引き出し、それを質的手法によって分析することにより、標準語イデオロギーと地域言語への帰属意識がどのように交差し、矛盾や葛藤を生み出しているのかを明らかにした。
比嘉, 麻莉奈
本研究は英語教育実践研究の観点に立ち、拡大円圏である沖縄に生まれ育ち英語帝国主義の影響を受けた個人、そこから沖縄の大学の英語教育実践に取り組む大学教員である個人の内的体験にもとづいた英語教育(ELT: English Language Teaching/Training)に存在する言語イデオロギーとしての語母語話者主義の記述をおこなうことを目的とする。非英語圏における英語教育が英語帝国主義の影響から脱却するためには、教育機関、ひいてはそこの地域社会が英語帝国主義・英語母語話者主義に立ち向かうことが重要であり、それにはまず従来の日本―沖縄における英語学習や英語使用そのものが学習者/教員にどのように捉えられているのかを明らかにすることが求められる。英語は現在リンガ・フランカのひとつであり世界中で使用されている。政治・経済・研究・軍事等に対する英語の影響力は絶大であり、それゆえに英語母語話者/非母語話者間に言語のみならずさまざまな格差が生まれている現状がある。本研究では、英語教育に存在する言語的人種的権力構造を含んだ英語イデオロギーの影響力を考察するうえでも、個々の具体的な英語使用がなぜ行われるのかを分析するうえでも有効な分析概念として、「英語母語話者主義 native speakerism」(Holliday, 2005)を援用し、個人のライフストーリーを分析した。分析の結果、生育環境、留学体験、英語母語話者主義の影響、沖縄の大学英語教育の問題点、教育理念と実践を表す5つのカテゴリが抽出され、「国際的に活躍できる人材の育成」を国策としてうたう日本の英語教育方針と併せて、拡大円圏であり米軍基地を有する土地でもある沖縄において英語母語話者主義という言語イデオロギーは英語教育と非常に緊密に存在していることが明らかになった。カテゴリをさらに追究した結果、研究協力者の語りからは、非英語母語話者が英語母語話者主義を内在化する一因に「正しい英語」イデオロギーがあること、そのイデオロギーは社会構造の影響はもちろん自己/他者の比較から生まれるが、その乗り越えも他者との関係性の中に見ることができることが分かった。そして英語教育現場においては「英語の多様性」を重視した実践と、教員だけでなく教育機関、そして学生においても母語話者を偏重しない態度が求められていることが分かった。
森山, 優 Moriyama, Atsushi
博物館による戦争展示はいかにあるべきか。この困難な課題を考察するため、筆者は各国の戦争展示を対象として、その可能性をさぐることにした。まず、博物館自体が持つイデオロギー的機能(近代国家の象徴体系の創出による国家への「聖性」の付与)に着目し、それが戦争展示においてどのように展開されているかを検証する、これが本稿の第一の課題である。最も明快な戦争展示は、博物館のイデオロギーに忠実なパターンである。そこでは「我々」と「敵」という明確な腑分けが行なわれ、過去から現在・未来に向かう一つの価値観が提示されている。その典型例として、ニューヨークのイントレピッド海洋航空宇宙博物館を扱う。しかし、戦争が戦われた当時と現在との間にイデオロギー的な断絶を余儀なくされるケースは、歴史上世界中に存在する。そのような場合の展示に困難がつきまとうのは、日本に限った話ではない。南北戦争で敗北した側の南部連盟や、アメリカにとってのベトナム戦争の展示がこの問題に対する示唆を与える。また、博物館の機能の一つとしてテクノロジーの脱イデオロギー化があげられる。一九九五年に国立航空宇宙博物館(スミソニアン協会)の原爆展で議論の対象となったエノラ・ゲイは、現在ワシントンD.C.郊外のダラス分館に展示されている。原爆を投下した機体をどのように扱うか。テクノロジーと「愛国正教」との関係を考える有効な題材である。そして、博物館はその性格上、現実の政治的状況と無縁であることは出来ない。しかし、分析・啓蒙というこれも近代的な価値を武器として、近代国家の神話に対抗することも可能である。このようなせめぎ合いの現場として、アメリカ歴史博物館(スミソニアン協会)が二〇〇四年秋から開始した「自由の対価」と題する展示をとりあげる。同館はウェッブサイトでも映像を公開しており、サイトでの展示と比較することで、現実政治との関係を考察する。
Sugimoto, Yoshio
小稿は,神智協会の創設者にして,のちの隠秘主義(オカルティズム)や西欧世界における仏教なかんずくチベット仏教の受容,普及に決定的な役割を果たしたマダム・ブラヴァツキーが,具体的にどのようにチベット(仏教)に関わり,どのような成果を収め,さらにその結果後世にどのような影響を及ぼしたのかについて,とくに南アジア・ナショナリズムとの関連に議論を収斂させながら,神話論的,系譜学的な観点から人類学的に考察しようとするものである。ここでは,マダム・ブラヴァツキー自身のアストラハン地方における幼児体験をもとに,当時未踏の地,不可視の秘境などととらえられていたオリエンタリスト的チベット表象を触媒にして,チベット・イデオロギーへと転換していったのかが跡づけられる。その際,マダム・ブラヴァツキーのみならず,隠秘主義そのものが,概念の境界を明確化する西欧近代主義イデオロギーを無効化するとともに,むしろそれを逆手にとった植民地主義批判であったことの意義を明らかにする。
上野, 和男 Ueno, Kazuo
この報告は,儒教思想との関連で日本の家族の特質を明らかにしようとする試論である。考察の中心は,日本の家族の構造と祖先祭祀の特質である。家族との関連においては,儒教思想は親子中心主義,父子主義,血縁主義を原理としているといえるが,この3つの原理が日本の家族や祖先祭祀の原理をなしているかが,本報告の課題である。結論として,つぎの3点を指摘できる。第1は,日本には儒教的な親子中心型の家族とは異質な夫婦中心型家族が伝統的に広く存在してきたことである。この意味で儒教的な親子中心主義イデオロギーのみならず,夫婦中心主義イデオロギーも存在してきたのである。第2は,日本の祖先祭祀においては父方先祖のみを祀る形態もあるが,母方や妻方の先祖をも祀る型が広範に存在することである。このことは日本の祖先祭祀が父子主義のみによって貫徹されてきたわけではなかったことを意味している。第3に,日本の家族においては,財産を相続し祖先祭祀を担うのは必ずしも血縁によって結ばれた子供に限定されないこと,また,子供たちのなかでひとりの相続者がきわめて重要な位置を占めてきたことである。したがって,日本の祖先祭祀と家族は伝統的にも現代的にも儒教的な家族イデオロギーのみによって規定され,存在してきたわけではなかったといえよう。儒教的な家族行動規範は,日本社会の基本的な構造が確立した後に部分的に受容されたのであって,これが全面的に日本の家族や祖先祭祀を規定したことはこれまでにはなかったのである。
ゴードン, アンドルー 朝倉, 和子
日本に関する言論の内容と論調は国内でも国外でも1990年代にがらりと変わった。「失われた十年」という言葉が急激に流通し始めたことは、それを象徴する。この言葉は1998年夏の同じ週に、英語と日本語双方の活字メディアで初めて登場した。日本は凋落しつつある、日本は失われたという認識が、国の内外でほぼ同時に生まれていたのである。本稿では、1970年代から2010年代にいたる保守派のイデオロギーを検証することによって、「喪失」論議の登場を理解しようと思う。なかでも、中流社会日本という未来への自信喪失と深く関わるイデオロギーの風景の変遷をめぐり、その二つの局面を追うことにする。それは第一に、健全な社会を維持する手段として市場と競争をとらえる考え方、第二に、ジェンダーの役割の変化に対する姿勢である。過去二十余年に「失われた」のは、健全な社会を構成するものは何か、それをどのように維持し達成するのかについての保守本流のコンセンサスだった。1970年代と80年代には、管理された競争という日本的なあり方、および女は家庭・男は仕事というジェンダー分割に支えられた社会構造が、このコンセンサスの根拠だった。それが1990年代、2000年代になると、全世界共通の現象だが、日本でも管理経済に対して新自由主義から猛烈な挑戦が始まると同時に、それよりは弱いものの、日本社会に埋めこまれたジェンダーによる役割分業への挑戦が始まった。しかし、いずれの挑戦もはっきりと勝利をおさめたわけではない。
鈴木, 靖民 Suzuki, Yasutami
7世紀,推古朝の王権イデオロギーは外来の仏教と礼の二つの思想を基に複合して成り立っていた。遣隋使は,王権がアジア世界のなかで倭国を隋に倣って仏教を興し,礼儀の国,大国として存立することを目標に置いて遣わされた。さらに,倭国は隋を頂点とする国際秩序,国際環境のなかで,仏教思想に基づく社会秩序はもちろんのこと,中国古来の儒教思想に淵源を有する礼制,礼秩序の整備もまた急務で,不可欠とされることを認識した。仏教と礼秩序の受容は倭国王権の東アジアを見据えた国際戦略であった。そのために使者をはじめ,学問僧,学生を多数派遣し,隋の学芸,思想,制度などを摂取,学修すると同時に,書籍や文物を獲得し将来することに務めた。冠位十二階,憲法十七条の制定をはじめとして実施した政治,政策,制度,それと不可分に行われた外交こそが推古朝の政治改革の内実にほかならない。
荒木, 和憲
本稿の目的は、古琉球期に王権と不可分に生成された一次史料(金石文)の分析を軸として王権の支配理念を析出するとともに、それを手がかりとして、王権と「周縁」(周辺と辺縁)の諸島との関係性を明らかにすることであり、以下のような結論を得た。尚泰久代に東アジアの普遍的な仏教・儒教イデオロギーによる支配理念が形成された。その担い手は儒仏一致を基本とする京都五山系の禅僧であった。この段階では王位継承が不安定で、君臣関係も未成熟であり、「周縁」諸島の支配も緩やかだった。それゆえ、尚泰久は琉球国中山王・大世主という制度的・実体的地位だけでなく、法王・〈皇帝〉・〈天子〉としての理念的地位を標榜し、沖縄島内外の統合を図った。尚泰久代に形成された支配理念は、第二尚氏王朝への移行後も、しばらくは王権のあり方を規定した。尚真代の前半においては、禅僧による王権の称揚が一段と進み、王の「皇帝」(帝王)や「天子」としての理念的地位が明示されるに至った。尚真代の後半には、奄美諸島の大島・喜界島に中央集権支配が及び、その〈周辺〉化が進展した。さらに先島の武力制圧を契機として、宮古諸島は〈辺縁〉から〈周辺〉への移行が進み、八重山諸島は〈辺縁〉に位置づけられた。尚真の武断的な姿勢は、王権の最盛期を現出させたが、従来の仏教・儒教イデオロギーにもとづく支配理念とは相反するものであり、それに代わって琉球独自の神祇イデオロギーが支配理念の中核を占めることとなった。尚真代から尚清代にかけて、太陽思想の高揚が図られ、太陽神は聞得大君を媒介として王に武力を授ける存在となり、「島討ち」「国討ち」の「おもろ」が創作された。儒学思想における舜帝は、琉球独自の「天」観念と結合して「舜天」となり、王統の始祖と位置づけられた。従来の「天下」「上国」という観念も、儒学的なものから琉球独自のものへと変容をとげた。こうした支配理念の転換を支えたのは、琉球人による官人組織と聞得大君を頂点とする神女組織であり、その表現手段として選択されたのが「かな文字」であった。
福村, 真紀子
日本では,日本語とその他の言語のリテラシー(識字)がどのような実態となっているのか,またリテラシーそのものの価値や意義とは何か,について十分に議論されてこなかった。ただ,そのような状況下でも1980年代後半から日本語教育や識字教育を含む言語教育および社会的課題となる言語問題が徐々に議論されるようになってきた。その議論の中には,日本語のリテラシーに関するイデオロギーについて批判的に論じたものがある。そこで,本稿では日本語のリテラシーとは何かを問い直すとともに日本語学習支援のあり方を再考する。そのために,日本国内の研究者による代表的なリテラシー研究文献から三つを選択し,検討を試みる。そして,検討結果を概観するとともに批評し,リテラシーの複数性を認識して個々人の「よみかき実践」(角 2012)を尊重する立場から,今後の日本語学習支援のあり方について提案する。
島村, 恭則 Shimamura, Takanori
これまでの民俗学において,〈在日朝鮮人〉についての調査研究が行なわれたことは皆無であった。この要因は,民俗学(日本民俗学)が,その研究対象を,少なくとも日本列島上をフィールドとする場合には〈日本国民〉〈日本人〉であるとして,その自明性を疑わなかったところにある。そして,その背景には,日本民俗学が,国民国家イデオロギーと密接な関係を持っていたという経緯が存在していると考えられる。しかし,近代国民国家形成と関わる日本民俗学のイデオロギー性が明らかにされ,また批判されている今日,民俗学がその対象を〈日本国民〉〈日本人〉に限定し,それ以外の,〈在日朝鮮人〉をはじめとするさまざまな人々を研究対象から除外する論理的な根拠は存在しない。本稿では,このことを前提とした上で,民俗学の立場から,〈在日朝鮮人〉の生活文化について,これまで他の学問分野においても扱われることの少なかった事象を中心に,民俗誌的記述を試みた。ここで検討した生活文化は,いずれも現代日本社会におけるピジン・クレオール文化として展開されてきたものであり,また〈在日朝鮮人〉が日本社会で生活してゆくための工夫が随所に凝らされたものとなっていた。この場合,その工夫とは,マイノリティにおける「生きていく方法」「生存の技法」といいうるものである。さらにまた,ここで記述した生活文化は,マジョリティとしての国民文化との関係性を有しながらも,それに完全に同化しているわけではなく,相対的な自律性をもって展開され,かつ日本列島上に確実に根をおろしたものとなっていた。本稿は,多文化主義による民俗学研究の必要性を,こうした具体的生活文化の記述を通して主張しようとしたものである。
柏岡, 富英
前回の議論(「『言いわけ』の比較文化論(一)―序説」、『日本研究』第4集、一九九一年三月)では、特定の社会状況の中で行為を発動したり思いとどまったりするメカニズムとしての「言いわけ」を、ミクロのレベルで(個人行為者を単位として)考察した。今回は、その図式をマクロ(集団)レベルにも応用できるかを、民族集団ないし民族運動に即して考える。「民族」は「国民国家」という枠組ないしイデオロギーを前提として生じる近代特有の社会・政治現象である。人間社会の「本性」としてもともとそなわっていた「民族性」がついに開花した結果として近代的国民国家が生み出されたのではなく、近代的国民国家が「民族自律」という「言いわけ」に正当性を与えたのである。
塩月, 亮子 Shiotsuki, Ryoko
本稿では,従来の静態的社会人類学とは異なる,動態的な観点から災因論を研究することが重要であるという立場から,沖縄における災因論の歴史的変遷を明らかにすることを試みた。その結果,沖縄においてユタ(シャーマン)の唱える災因は,近年,生霊や死霊から祖先霊へと次第に変化・収束していることが明らかとなった。その要因のひとつには,近代的「個(自己)」の確立との関連性があげられる。すなわち,災因は,死霊や生霊という自己とは関係のない外在的要因から,徐々に自己と関連する内在的要因に集約されていきつつあるのである。それは,いわゆる「新・新宗教」が,病気や不幸の原因を自己の責任に還元することと類似しており,沖縄だけに限られないグローバルな動きとみなすことができる。だが,完全に自己の行為に災因を還元するのではなく,自分とは繋がってはいるが,やはり先祖という他者の知らせ(あるいは崇り)のせいとする災因論が人々の支持を得るのは,人々がかつての琉球王朝時代における士族のイデオロギーを取り入れ,シジ(系譜)の正統性を自らのアイデンティティの拠り所として探求し始めたことと関連する。このような「系譜によるアイデンティティ確立」への指向性は,例えば女性が始祖であるなど,系譜が士族のイデオロギーに反していていれば不幸になるという観念を生じさせることとなった。以上のことを踏まえ,災因論の変化を担うユタが,今も昔も変わらず人々の支持を集めていることの理由を考察した結果,死霊にせよ祖先霊にせよ,ユタはいつの時代にも人々に死の領域を含む幅広い宗教的世界観を提示してきたのであり,そのような世界観は,絶えずグショー(後生)という死後の世界を意識し,祖先崇拝を熱心におこなうといった,「生と死の連続性」をもつ沖縄文化と親和性をもつものであるからという結論に達した。
Sugimoto, Yoshio
「儀礼」の概念は,ヨーロッパ・キリスト教世界とくにプロテスタントからは否定的なイメージをもたれている。そこには,カトリックとプロテスタントとの対立関係が潜在しているが,とくに19世紀イギリスにおける「儀礼主義」は,福音主義者からのはげしい非難にさらされた。1830年代をさかいにイギリス植民地政策そして宗教政策は,現地主義から文明化路線へと大きく転換をとげた。それは,福音主義的なイデオロギーに基づく変革であり,そのことが,当然ながら植民地スリランカにおける宗教儀礼のあり方にも大きな変化を与えた。小稿では,ポルトガルに始まり,オランダを経てイギリスの植民地支配を経験したスリランカにおいて,「儀礼」がどのような視線にさらされ,またその視線をどのように受け止め,さらにその結果,現在どのような存在形態を示しているのかについて,系譜学的に跡づけたものである。
島村, 恭則 Shimamura, Takanori
近年,民俗学をとりまく人文・社会科学の世界において,パラダイムの転換が見られるようになっている。それは,たとえば,個人の主体性に重きを置かない構造主義的な人間・社会認識に対する批判と乗り越え,「民族」「文化」「歴史」といった近代西欧に生まれた諸概念の脱構築,他者表象をめぐる政治性や権力構造についての批判的考察の深まりといった動きである。民俗学も,人間を対象に「民族」「文化」を問題としてきた学問であり,こうした動きとは無関係でいられないはずである。しかしながら現実には,このような動向は民俗学において参照されることがほとんどなく,自己完結的な閉じられた言説空間において,個々の研究者が自らの狭いテーマの研究に明け暮れてきたというのが一般的な状況である。本稿では,こうした現状を打破し,新たな民俗学パラダイムの構築へ向けての試論を展開する。具体的には,「標本」としての「民俗」の形式ばかりを問題にし,また論理的,実証的な反省の手続きを伴わずに「民族文化」や「日本文化」といったイデオロギー的言説の生産に向かってきた従来の民俗学に対して,「生身の人間が,自らをとりまく世界に存在するさまざまなものごとを資源として選択,運用しながら自らの生活を構築してゆく方法」としての〈生きる方法〉に注目した新しい民俗学を提唱し,その大要を提示する。民俗学は,「標本」研究を目的とするのでもなければ,「民族文化」や「日本文化」といったイデオロギーの構築に向かうのでもなく,人々の〈生きる方法〉を,現実に生きている人々のあいだにおいて問う学として再生させられるべきであり,この新しい民俗学では,人々の〈生きる方法〉を明らかにすることによって,人間の生のあり方の多様性や,人間の生と環境や社会との関わりについて,従来の人文・社会科学で行なわれてきたものとは異なる解釈を提供することが可能になるものと予測されるものである。
榎村, 寛之 Emura, Hiroyuki
宝亀三年(七七二)、光仁天皇の皇后井上内親王が天皇を呪誼した罪で廃された。この事件は有名ではあるが、これまでは単なる政治闘争の一形態として理解されてきた。先帝で、井上の姉妹の称徳天皇は、女帝であることを除けば、最も律令制的な手続きを踏んで即位した天皇であった。しかも皇后的な権威をも有し、武力で復位しており、さらに出家者であったため仏法主導の元で神々が王権を守護するというイデオロギーで支えられていた。彼女は権力そのものの象徴であり、男女を超え、律令体制下で天皇権力の専制性を究極にまで押し進めたと理解できる。光仁天皇・井上皇后段階の政治課題は、天皇を、どのように律令体制下に位置づけなおすか、ということであった。しかし光仁天皇は、聖武天皇の娘である井上の婿として即位しており、その没後には、井上が皇太后臨朝、または即位する可能性があった。そして井上には、元・斎王という経歴があり、伊勢神宮と深い関係を持っていた。井上の皇后在位期に、斎王が未定のままで称徳朝に途絶していた斎宮が造営されたが、この斎宮の、斎王の住む内院は、一つの区画の中で塀によって区分された生活空間と儀礼空間で構成されており、周辺に未整理の付属施設を伴った宮殿的な施設であった。続く桓武天皇段階の斎宮では、官衙区画を構成する方格地割の設計が優先され、内院は区画の中に組み込まれる。この改造では、長岡京の造営を意識しつつ、儀礼環境の整備、確立と継承など、斎王の権威より斎宮の都市化、定型化を押し進めたもので、「システムとして受け継がれるべき斎宮と斎王」へと転換したと考えられる。このように井上は「元・斎王」の皇后として、伊勢神宮を背景に特殊な権力を有しており、もし即位することがあれば、再び聖俗混交した専制王権が復活する可能性が高かった。井上廃后事件は、こうした「皇后」「女帝」「斎王」の権力を無化するために行われたイデオロギー闘争だったのである。
岩橋, 法雄 Iwahashi, Norio
ニュー・レイバーは、弱者への援助としての能力向上施策を強力に遂行してきた。これが教育を第1のプライオリティとしたブレア労働党政権の教育政策である。しかし、その本質は、あるがままの弱者に対する社会的公正の観点からの富の再分配的支援というよりは、富を自分で勝ち取らせるための支援の推進である。このいわゆるハンズ・アップ (hands-up) 支援は、機会の提供という「支援」を通じて自助を費用効果において組織しようとするものであり、結果としての「到達」の不平等の存在は自己責任というイデオロギーを必然として伴うものである。こうしてサッチャーからの「旅立ち」に映ったブレアの被剥奪者への配慮の思いは、そのレトリックとは裏腹に、教育を通じて被剥奪者の内の「有能」者を能力主義的価値観の社会に「包摂」する(「動員」する)側面にますます転化し始める。よって、その「社会的包摂」は、公正を旨とする平等と決して同じものではない。
Takezawa, Shoichiro
19 世紀後半に欧米諸国であいついで建設された民族学博物館は,新しい学問領域としての民族学・文化人類学の確立に大きく貢献した。植民地拡大の絶頂期であったこの時期,民族学博物館の展示は,器物の展示を通じて近代西欧を頂点におく諸民族・諸人種の進化を跡づけようとする,イデオロギー的性格の強いものであった。 やがて,文化人類学における文化相対主義・機能主義の発展とともに,民族学博物館の展示も,当該社会の文化的コンテキストを重視するものになっていった。そして,西暦2000 年前後に,ヨーロッパの多くの民族学博物館はその展示を大幅に変えたが,その背景にあったのは,「他者」を再現=表象することの政治的・倫理的課題をめぐる民族学内部の議論であった。 本稿は,ヨーロッパの民族学博物館の展示の刷新を概観することを通じて,今日の民族学博物館と民族学が直面している諸課題を浮彫りにすることをめざすものである。
Kishigami, Nobuhiro
文化人類学では,狩猟採集や園耕,牧畜,農耕などの食糧生産を生業活動としてカテゴリー化し,社会を分類することが行われてきた。本論文では狩猟採集をめぐって「生業」概念や研究アプローチがどのように展開されてきたかを整理,検討する。そのうえで,極北地域の先住民の生業活動の特徴およびイヌイットのシロイルカ猟を検討することを通してイヌイットの狩猟漁撈採集活動にかかわる生業モデルを提案する。イヌイット型(もしくは北極型)の生業では,捕獲から加工・処理,分配・流通,(廃棄),消費,廃棄へといたる一連の活動系とそれに関連する儀礼の活動系からなり,その2 つの活動系には,①行動的側面,②社会的側面,③技術・道具的側面,④イデオロギー的側面,⑤知識的側面が存在している。すなわち,生業活動とは,この2 つの活動系とそれらに関連する文化的・社会的・物質的要素からなる経済システムである。このモデルは,特定の社会的な脈絡の中で狩猟採集活動を調査する視点を提供するのみならず,比較研究に利用することができる。
北原, 糸子 Kitahara, Itoko
史蹟名勝天然紀念物法(1919)に基づいて,明治天皇が巡幸,行幸で訪れた場所や建物などが明治天皇聖蹟として,国の文化財に指定された。この聖蹟関係史跡に顕著な傾向は,戦前に指定された史蹟,名勝,天然紀念物1,508件のうちの史蹟603件中,377件と圧倒的多数を占めたことである。しかし,これらの文化財は天皇制イデオロギーを支えるものとして,占領下のGHQによって,1948年6月23日文化財指定から一斉に解除された。しかし,指定解除後半世紀以上を経て,史跡そのものは存在しなくなっても,史跡を顕彰する石標などはそのまま残されているものが多い。このあり方のうちに,戦前の天皇制に対する地域社会の対応が示されていると考える。本論では,聖蹟保存運動に中心的役割を果たした華族,学者らが東京府においておこした初発の具体的動きを追いつつ,聖蹟指定から解除の経緯を追い,文化財指定解除後もなぜこうした石標が存続するのか,この運動の歴史的経緯と結末を具体的に明らかにし,現在のあり方も含め,検証することを主眼とした。
設楽, 博己 Shitara, Hiromi
弥生時代の定義に関しては,水田稲作など本格的な農耕のはじまった時代とする経済的側面を重視する立場と,イデオロギーの質的転換などの社会的側面を重視する立場がある。時代区分の指標は時代性を反映していると同時に単純でわかりやすいことが求められるから,弥生文化の指標として,水田稲作という同じ現象に「目的」や「目指すもの」の違いという思惟的な分野での価値判断を要求する後者の立場は,客観的でだれにでもわかる基準とはいいがたい。本稿は前者の立場に立ち,その場合に問題とされてきた「本格的な」という判断の基準を,縄文農耕との違いである「農耕文化複合」の形成に求める。これまでの東日本の弥生文化研究の歴史に,近年のレプリカ法による初期農耕の様態解明の研究成果を踏まえたうえで,東日本の初期弥生文化を農耕文化複合ととらえ,関東地方の中期中葉以前あるいは東北地方北部などの農耕文化を弥生文化と認めない後者の立場との異同を論じる。弥生文化は,大陸で長い期間をかけて形成された多様な農耕の形態を受容して,土地条件などの自然環境や集団編成の違いに応じて地域ごとに多様に展開した農耕文化複合ととらえたうえで,真の農耕社会や政治的社会の形成はその後半期に,限られた地域で進行したものとみなした。
安藤, 広道 Ando, Hiromichi
本稿の目的は,東日本南部以西の弥生文化の諸様相を,人口を含めた物質的生産(生産),社会的諸関係(権力),世界観(イデオロギー)という3つの位相の相互連関という視座によって理解することにある。具体的には,これまでの筆者の研究成果を中心に,まず生業システムの変化と人口の増加,「絵画」から読み取れる世界観の関係をまとめ,そのうえで集落遺跡群の分析及び石器・金属器の分析から推測できる地域社会内外の社会的関係の変化を加えることで,3つの位相の相互連関の様相を描き出すことを試みた。その結果,弥生時代における東日本南部以西では,日本列島固有の自然的・歴史的環境のなかで,水田稲作中心の生業システムの成立,人口の急激な増加,規模の大きな集落・集落群の展開,そして水(水田)によって自然の超克を志向する不平等原理あるいは直線的な時間意識に基く世界観の形成が,相互に絡み合いながら展開していたことが明らかになってきた。また,集落遺跡群の分析では,人口を含む物質的生産のあり方を踏まえつつ,相互依存的な地域社会の形成と地域社会間関係の進展のプロセスを整理し,そこに集落間・地域社会間の平等的な関係を志向するケースと,明確な中心形成を志向するケースが見られることを指摘した。この二つの志向性は大局的には平等志向の集落群が先行し,生産量,外部依存性の高まりとともに中心の形成が進行するという展開を示すが,ここに「絵画」の分析を重ねてみると,平等志向が広く認められる中期において人間の世界を平等的に描く傾向があり,多くの地域が中心形成志向となる後期になって,墳丘墓や大型青銅器祭祀にみられる人間の世界の不平等性を容認する世界観への変質を想定することが可能になった。このように,物質的生産,社会的諸関係,世界観の相互連関を視野に入れることで,弥生文化の諸様相及び前方後円墳時代への移行について,新たな解釈が提示できるものと思われる。
菊田, 悠
近代化が各地でいかに進んできたかを考察する近代化論は1960 年代頃から盛んになったが,旧ソヴィエト連邦ではイデオロギーや調査上の制約から,そのミクロ・レベルでの近代化の実態を検討することが難しく,近代化論における社会主義体制の意義も十分に論じられてきたとはいえない。 それに対して本稿は,旧ソ連を構成していたウズベキスタンのリシトン陶業が,ソ連時代に経験した変化を,先行研究および人類学的フィールドワークに基づいて仔細に検討する。そしてそれがどのような近代化といえるものだったのかを考察する。具体的には,20 世紀初頭,1920 年代から1960 年代,1970 年代から1991 年という3 つの時代区分を設定し,これに沿って生産体制,陶工の内部構造,技能の伝承という3 点からリシトン陶業の変遷を追う。 その結果,まず組織の面で社会主義的生産のための大改編がなされ,1970 年代になってからは技術面の近代化が進み,それに合わせて陶工間関係もゆるやかに変化してきたことが明らかになった。一方で,近代化の枠にはそぐわない技能や組織,観念も国営陶器工場内の工房を中心とした場で見られ,このような工房でのインフォーマルな活動はフォーマルな工場制度と相互補完的に支えあっていた。以上のように社会主義体制下での近代化の実態は複雑な様相を持ち,今後のさらなる人類学的調査を待っている。
Mio, Minoru
この論文では,インド西部メーワール地方にあるスーフィー聖者のヒンドゥーの弟子たちを葬った2つの墓廟への信仰に関する民族誌的調査に基づき,同地方の生活宗教的な宗教実践の動態の把握を試みた。 コミュナリズムが政治的言説として支配的となりつつある南アジアにおいては,日常生活に根差した宗教実践もコミュナルな言説と無関係ではなくなり,宗教空間や信仰に関おる行為を特定の宗教イデオロギーと関連づけ,それらのアイデンティティーを純化しようとする動きが顕著になっている。 この論文が対象とする墓廟に眠る2人の宗教者は,高カーストのヒンドゥーでありつつ,スーフィズムの聖者を師とするという,コミュナルなアイデンティティーの分断線の狭間を生き抜いた。その墓廟はコミュナリズムが高揚する1980年代末から90年代にかけて造営されたが,その空間の構成やそこでの宗教的実践はスーフィズム的要素とヒンドゥー的要素が巧みに融合された形となっている。 論文では墓廟に眠る聖者やその弟子たちが,コミェナルな言説と交渉しながら,自分たちの宗教的実践をいかに維持してきたかを,墓廟の意味空間の分析や弟子たちとのインタビューによって把握する。その結果,ヒンドゥーとイスラームの境界にあって独自の宗教的実践を強固な意志で維持しつつコミュナリズムが要請する近代的主体への自己の回収をも回避するという,メーワール地方の聖者廟信仰の特質が明らかとなる。
Shinmen, Mitsuhiro
社会主義体制崩壊後の旧東欧社会において民族主義や宗教の影響が大きくなったばかりでなく,この両老が相互に深く結びついて対立や紛争のなかで大きな役割を果たしたことは西側の人々に驚きを与えた。しかし,旧東欧の社会主義体制下では社会主義イデオロギーが社会を表層では支配していたものの,実際には民族主義が社会的に大きな影響力をもっていたのである。旧東欧諸国のひとつであるルーマニアも例外ではなかった。社会主義体制下において民族に関する表象およびその言説が社会のなかで支配的であり,一方キリスト教も民族的伝統を代表し,民族的価値を肯定するかぎりで肯定的な評価を保っていた。このことが意味するのは,もともと民族に限定されず普遍的な立場に立つはずのキリスト教や国際間の階級的連帯に立脚して国家や民族を否定する社会主義思想が,実際には民族的感情や民族理念を強調する民族主義的立場に近づいていたという事実である。 本稿ではこうした共存のしくみを説明するために,スターリン批判以後の政治的危機,および民衆の日常生活における戦略的行為が生み出した社会主義体制の危機に対して,共産党指導部が行った民族表象の操作とその効果に注目する。その具体的手段として党指導部が利用しようとしたのは聖職者と知識人であり,その求めに応じて聖職者や知識人は社会主義体制下での従属的な役割を受け入れた。党指導部がこの操作を行った理由は,ルーマニア社会における戦前からの強い民族主義的な傾向と民衆へのキリスト教会の大きな影響力にあった。民族主義は第二次大戦後は抑圧され,キリスト教もスターリン主義体制のもとで弾圧されたが,いぜんとして強い影響力を保持していた。スターリソ批判以後の政治的危機をのりこえるためにソ連からの自立の道を選んだ党指導部は,独自の社会主義体制を確立するために国内統合の原理として民族主義とキリスト教を利用しようとしたのである。ただし,これら聖職者や知識人もただ一方的に受動的に操作されたわけではなく,主体的な戦略をもっていた。聖職者はキリスト教に民族的伝統を代表させることによって社会的な影響力を増大させ,知識人は党指導部との言説のヘゲモニーを競うとともに知識人共同体の内部でも競合することによって,結果として伝統的な民族的言説を強化した。さらに民衆も民族主義とキリスト教を利用する党指導部のプロパガンダによって操作されていたばかりではなく,生活上の必要に迫られて民衆が選択した戦略は,党による社会的支配の効力を弱めた。一方,石油ショックの影響による経済発展の挫折は,発展を約束する社会主義イデオロギーの建前としての根拠すら失わせ,党指導部は対外的緊張や民族主義にいっそう依存せざるをえなくなった。こうして,政府が行った民族表象の操作は,その意図をこえて民族主義が社会の支配的な思想となって,社会主義とキリスト教の共存を可能にする結果をもたらしたのである。
真鍋, 祐子 Manabe, Yuko
本稿の目的は,政治的事件を発端としたある〈巡礼〉の誕生と生成過程を追うなかで,民俗文化研究の一領域をなしてきた巡礼という現象がかならずしもア・プリオリな宗教的事象ではないことを示し,その政治性を指摘することにある。ここではそうした同時代性をあらわす好例として,韓国の光州事件(1980年)とそれにともなう巡礼現象を取り上げる。すでに80年代初頭から学生や労働者などの運動家たちは光州を「民主聖地」に見立てた参拝を開始しており,それは機動隊との弔い合戦に明け暮れた80年代を通じて,次第に〈巡礼〉(sunrae)として制度化されていった。しかし,この文字どおり宗教現象そのものとしての巡礼の生成とともに,他方ではメタファーとしての巡礼が語られるようになっていく。光州事件の戦跡をめぐるなかでは犠牲となった人びとの生き死にが頻繁に物語られるが,それは〈冤魂〉〈暴徒〉〈アカ〉など,いずれも儒教祭祀の対象から逸脱した死者たちである。光州巡礼における死の物語りは,こうしたネガティヴな死を対抗的に逆転評価するなんらかのイデオロギーをもって,「五月光州」のポジティヴな意味を創出してきた。すなわち光州事件にまつわる殺戮の記憶の物語りに見出されるのは,自明視された国民国家ナショナリズムを超え,それに対抗する代替物としての民族ナショナリズムを指向する政治的脈絡である。光州をめぐるメタファーとしての巡礼は,それゆえ,具体的には「統一祖国」の実現過程として表象される。そこでは統一の共時的イメージとして中朝国境に位置する白頭山が描出されるとともに,統一の通時的イメージとして全羅道の「抵抗の伝統」が語られる。
速水, 融
日本における第一回の国勢調査は、大正九年のことで、主要工業国のなかでは最も遅く始まった。しかし、全国的人口統計は早くから行われ、徳川時代においてさえ、幕府は、享保六年から弘化三年の間、六年に一回、国ごと、男女別の人口調査を行っている。 明治維新以後、政府は新しい戸籍制度を確立した。早くも明治元年に、京都に新しい方式の制度を試みているが、これは、その地から、維新の指導者を輩出した長州藩において実施されていた方式を取り入れたものである。政府は、明治二年から四年にかけ、新しい戸籍調査を東京その他で試みているが、最終的に、明治五年、新戸籍制度が日本全国に実施された。しかし、この制度は、個人個人を、本籍地で登録するものであり、儒教的イデオロギーに基づくものである。 他方、杉享二のように、徳川時代の末年に蘭学を学んだ官僚は、この戸籍制度は、人口調査と全く違うものである、ということを知っていた。杉は、統計寮の長として、国勢調査の必要を政府に進言し、明治一二年に、山梨県を対象とする国勢調査型の人口調査を実施した。しかし、明治一四年の政変によって、薩長主導の政権が出来ると、杉は政府内に支持者を失い、彼の統計寮自体も廃止されてしまった。 しかし、政府は、明治一三年以降、戸籍に基づく人口統計を編纂している。統計の書式は度々変わったが、第一回の国勢調査まで、毎年刊行された。最近、それらは筆者自身によって監修編纂され、複製版で刊行され始めている。そのなかには、たとえば明治一九年の統計のように、各府県ごとに各歳別に、配偶の有無を調査した重要な統計も含まれている。
井原, 今朝男 Ihara, Kesao
近年、神社史研究が活発化しつつあるが、その分析対象となる多くの神社史料がもつ歴史的特徴や問題点について留意されることが少ない。そこで神社史料についての資料学的検討を行った。第一は、現存する神社や現任の神官層の保管下にある神社史料群はむしろ限定された文書群にすぎず、むしろより多くの関係史料群が社家文書として個人所蔵に帰しており散逸の危機に直面し、史料群の全体像はなお不明の状態のものが多いといわなければならない。社家文書の群としての全体的構造を理解することは、神社資料に対する史料批判を厳密にするうえで必要不可欠な作業である。第二に、個別神社史料群は、明治の廃仏毀釈によって仏事関係史料群が流出し、史料群の構成は大改変を受けている。そのため、現存史料群から描く神社史像は歴史実態から乖離してしまうという問題に直面することになる。改めて、廃仏毀釈の実態解明や旧聖教類の所在についての史料調査が重要な課題になっている。第三は、現存する神社史料群は、とくに近世・近代の神官層による神道書や縁起の編纂・改変という諸問題を抱えている。しかし、それらの解明は今後の課題であり、史料学的な問題点として論じられていない。神道史というものが近世国学や近代国家神道によって、「近代日本的な偏見」を受けていることが指摘されてきた。近世・近代の国家神道の下で神道書や神社史料がどのようなイデオロギー的変容を遂げたのかをあきらかにすることは、神社史料研究の一研究分野としなければならない。こうした神社史料ももつ諸問題や特質をトータルとして論じる多面的な資料学的研究が必要になっている。
フラッヘ, ウルズラ Flache, Ursula
本論文ではドイツ語圏の日本学の中で行われている神社研究の,創成期から現在に至るまでの概観である。ドイツ語圏の日本学では,日本の宗教についての研究は部分的な領域をなすに過ぎない。神社に限定した研究はさらに稀である。したがって研究の成果は非常に限られている。神社はたいてい神道のその他の研究との関連で言及される。歴史的概観は4つの節に区分されている。第1節では日本についての初期の報告(ケンペル,シーボルトなど)を紹介する。第2節では明治時代から第二次大戦までの研究文献を説明する。明治時代における神社研究に関してフローレンツ,シラー,シューアハマーとローゼンクランツを列挙する。続いて,グンデルト,ボーネルとハミッチュという第二次大戦前の指導的な神道研究者について述べる。彼らがナチスのイデオロギーに近い視点から研究結果を発表したため,戦後には神道と関わる研究がタブー視された。第3節は戦後の研究文献を説明する。神道研究はしばらくの間完全に中止されていたが,ウイーン大学における民俗学を迂回することによって,神道はようやく日本学研究の中に復活した。ウイーン大学を卒業したナウマンが戦後の最も影響力のあった神道研究者となった。さらに,国家と神道の関係を研究したロコバントが神社研究に大きな貢献をした。第4節では20世紀の終わりから現在までの研究文献を紹介する。現在の指導的な神道研究者としてアントーニとシャイドの名前を挙げることができる。戦争の経験を通じてドイツと日本は同様に過去の克服という問題に直面している。そこでドイツ語圏の日本学で靖国神社に関する論争は特に注目されている。本論文では歴史的概観を続けて靖国神社研究の概説を行う。終わりに神社建築研究について手短かに概略を記す。
黒田, 智 Kuroda, Satoshi
勝軍地蔵とは、日本中世における神仏の戦争が生み出した軍神(イクサガミ)であった。その信仰は、観音霊場を舞台に諸権門間の対立・内紛といった戦争を契機として誕生した。そして征夷大将軍達の物語とともに、その軍神(イクサガミ)的性格を色濃くしていった。多武峯談山神社所蔵「日輪御影」は、いわば勝軍地蔵誕生の記念碑的絵画であった。「日輪御影」は、応長・正和年間(一三一一〜一二)に、興福寺との合戦に際して戦場となった多武峯冬野における日輪出現と、その周辺の観音勝地で起こった三神影向伝説を絵画化したものである。画面下方に描かれた束帯に甲冑を着した三眼の異人は、良助法親王と推測され、彼が喧伝した勝軍地蔵を想起させる。画面上方の円光中に描かれた藤原鎌足像は、三眼の異人と対をなして勝軍地蔵の化身として配置されている。また画面上部に描かれた三つの円光は太陽・月・星であり、山王三聖信仰を背景とする三光地蔵の表象である。「日輪御影」に表された勝軍地蔵信仰の世界観は、三光の多様な言説を背景として、鎌倉中期から南北朝期にかけて浮上する太陽・日輪の文化の急速な波及と密接に関わっている。太陽・日輪イメージは、勝軍地蔵信仰と結びつくことで、戦う神仏のイデオロギー・武威のシンボルへと収斂していたのである。こうした太陽・日輪イメージは、天空における太陽の月・星に対する優位性が日本という国家・国土の優越性に準えられた思想であった。それは、日本の神仏の優位性を主張し、日本という国土を神聖化し、日本を仏教的コスモロジーの中心に位置付けようとする運動であった。勝軍地蔵信仰は、同時代の中世的国家・国土観念と不可分な結びつきをもちながら、後代に少なからぬ影響を及ぼしていったのである。
フラッヘ, ウルズラ Flache, Ursula
本論文ではドイツ語圏の神仏分離研究の三つの側面を扱う。序論として「神仏分離」の独訳に関する問題点を述べる。第1ポイントとして,ドイツおよび欧米の日本研究におけるこれまでの神仏分離の扱いについて概略を記す。神仏分離が一般の歴史著作や参考図書で取り上げられるようになったのは最近の動きである。明治時代における神道研究では二つの傾向が見られる。一つは客観的批評する研究者(シュピナー,チェンバレン),もう一つは国家神道の視点を引き取る研究者(アストン,フロレンツ)。第二次大戦前の指導的な神道研究者(グンデルト,ボーネル,ハミッチュ)がナチスのイデオロギーに近い視点から研究結果を発表したため,戦後には神道についての研究がタブー視され,当分の間完全に中止となった。1970年代に出版されたロコバントの研究に続いて,1980・90年代にいくつかの神仏分離に関する研究文献(グラパード,ハーディカ,ケテラー,アントーニ)が発行された。最近の研究(ブリーン,サール,アンブロス,関守)ではケーススタディーや地方史が注目される傾向にある。ドイツには宗教改革時代の偶像破壊という,明治時代の日本の神仏分離と非常によく似た出来事があったために,ドイツの研究者は神仏分離に特別な関心を寄せている。そこで,第2のポイントとして,ヨーロッパにおける宗教改革と絡めて偶像破壊運動を詳しく取り上げ,ヨーロッパの宗教改革と日本の廃仏毀釈の比較を行う。共通点として両者が宗教的美術に大きな障害をもたらした改革運動であることが挙げられる。相違点としてヨーロッパにおける宗教改革が宗教的な動機をもった運動で,神仏分離が政治的な動機をもった政策であった。終わりに第3ポイントとして,簡単に筆者の個人的な意見をまとめ,神仏分離が実際どの程度「成功」したのか,そして神仏分離の今日の日本における意味を考察する。
宮本, 一夫 俵, 寛司 Miyamoto, Kazuo Tawara, Kanji
ベトナム漢墓ヤンセ第3次調査による墓葬単位の一括遺物の比較から,灰釉壺と灰陶甕を中心に型式学的な変遷を捉え,フーコック,マントン1A・1B号墓,ゴックアム1号墓,ビムソン2号墓,ビムソン3号墓,ビムソン7号墓,ビムソン10号墓といった変遷を想定した。さらに建和三年(AD149年)銘灰釉壺,嘉平年(AD172~178年)紀年銘碑墓出土灰釉壺,広州漢墓5080号墓副葬陶器との型式学的な比較から,これらの漢墓が2世紀前半から3世紀前葉にかけてのものであることを考え,この段階の詳細な年代観を確立することができた。さらに,副葬陶器に共伴する五銖銭の型式変化や粗悪化は,陶器編年に対応しており,陶器編年の正しさを保証するものとなった。さらにマントン1A号墓を中心とした青銅容器の年代観も陶器編年と矛盾するものではなかった。こうしたベトナム漢墓の編年の確立は,漢の郡治が作られて以降にみられる在地文化の変容や漢の支配構造など考える上での基礎的な年代軸となるであろう。さて,灰釉陶壺にみられるベトナム北部から南中国までの共通性,さらには青銅容器や青銅鏡におけるこうした地域での共通性は,これらの地域を共通とした流通圏あるいは共通のイデオロギーが存在したことを示している。さらにベトナム漢墓から出土する青銅容器や灰釉陶は,ベトナム北部において独自の生産体系が構築されていた可能性が高い。また,墓葬構造の変遷で認められたように,2世紀中葉から3世紀にかけて認められる単券頂多室墓と後蔵室の組み合わせはベトナム北部で在地的に発達したものである。2世紀後葉にはベトナム北部交趾郡・九真郡・合浦郡・南海郡を中心とした士燮政権が漢王朝から独立して成立し,その版図を南中国(嶺南地方)にまで広げている。士燮政権の成立は,ベトナム北部から南中国の共通した文化圏と,墓室構造や副葬陶器にみられるベトナム固有の地域性の確立が,その背景にあると考えられる。
Cheah, Pheng チャー, フェン
学術的に多大な影響を与えた2000年の著作『帝国』で、マイケル・ハートとアントニオ・ネグリは、ポストコロニアル理論は行き詰まっているという議論を展開した。近代的な支配の形にこだわるコロニアリズムは、現代のグローバリゼーションにおいてもはや主要な権力として存在していないというのが彼らの論点である。彼らが「帝国」と呼ぶポストモダン的主権国家にも利点と弱点はあるものの、こうした主張に真実がないこともない。文学研究分野におけるポストコロニアル理論や文化批評は、19世紀ヨーロッパの領土的な帝国主義や植民地主義の経験を根本的なパラダイムとする抑圧や支配、そして搾取についての分析に端を発してきた。よって、我々がサイードのオリエンタリズム的言説や表象のシステムや、ファノンを書き換えたバーバの「植民地主義的言説における人種差別的ステロタイプ」や、さらにはスピヴァクのいう、植民地主義的法律や教育の文明化的プロセスを経てつくられていく「植民地主義における主体形成」の認識論的な暴力などというものを考察しようとするとき、ポストコロニアル的文化批評の異なる位相は、植民地化された主体が生じる瞬間に押し付けられる神話やイデオロギー、あるいは、様々な基準との関係において理解され、「精神主義的」あるいは「象徴的/想像的」な性質を強調し、「権力に対する共通理解」と結びついていく。本論では、まず、現代のグローバリゼーションにおける権力を、精神論的なものとして理解することは不適切であるという点について述べていく。すなわち、現代のグローバル資本主義において必然的に「女性化」している越境的労働力は三種類あり、その三つのタイプの女性の主体がどのように作られていくかを論じたい。そこには、外国による直接投資の体制下にある女性工場労働者、外国人家事労働者、そして人身売買されて来るかまたは別の理由で越境して来る性労働者などが含まれる。物質中心的なシステムにおける主体形成のプロセスが、どのようにしてポストコロニアルやフェミニストの理論に関わる中心概念を根本から再考することにつながっていくだろうか。
市川, 秀之 Ichikawa, Hideyuki
肥後和男は『近江に於ける宮座の研究』『宮座の研究』の二書において宮座研究の基礎を築いた人物として知られる。同時に水戸学や古代史・古代神話などの研究者でもあり、肥後の宮座論はその研究全体のなかで位置づける必要があるが、これまでそのような視点から肥後の宮座論を評価した研究はない。肥後が宮座論を開始したのは、宮座の儀礼のなかに古代神話に通じるものを感じたからであり、昭和一〇年前後に大規模な宮座研究を開始したのちも肥後のそのような関心は衰えることはなかった。肥後の宮座に対する定義は数年におよぶ調査のなかで揺れ動いていく。調査には学生を動員したため彼らに宮座とはなにかを理解させる必要があったし、また被調査者である神官や地方役人にとっても宮座はいまだ未知の言葉であったため、その明確化が求められたのである。肥後の宮座論の最大の特徴は、村落のすべての家が加入するいわゆる村座を宮座の範疇に含めたことにあるが、この点が宮座の概念をあいまいにする一方で、いわば宮座イコールムラ、あるいは宮座はムラを象徴する存在とされるなど、後の研究にも大きな影響を与えてきた。現在の宮座研究もなおその桎梏から逃れているとは言い難い。肥後が宮座研究に熱中した昭和一〇年前後は、彼が幼少期から親しんできた水戸学に由来する祭政一致がその時代を主導する政治的イデオロギーとしてもてはやされており、神話研究において官憲の圧力を受けていた肥後の宮座論もやはりその制約のなかにあった。すなわち祭政一致の国家を下支える存在としての村落の組織としての宮座は、全戸参加すべきものであり、それゆえ村座は宮座の範疇に含まれなければならなかったのである。肥後の宮座研究は昭和一〇年代という時代のなかで生産されたものであり、時代の制約を受けたものとして読まれなければならない。宮座の定義についてもそのような視点で再検討が是非必要であろう。
篠原, 徹 Shinohara, Tooru
「聞き書き」は民俗学の資料収集の主要な方法である。そしてどんな「聞き書き」であれ,それは語る人の体験と伝承されてきた口承が多かれ少なかれ弁別できない形で融合している。その「聞き書き」のなかで伝承されてきたものによる程度が大きければ大きいほど,より民俗的な現象として資料化されてきたといえる。つまり個人的な体験は体験そのものが民俗的な現象でなければ(たとえば民俗宗教のようなもの),民俗学は「聞き書き」のなかから体験を排除することによって文字ある世界で「文字なき広大な世界」の歴史資料化を試みてきた。体験そのものが民俗的なものではないとは,それは現実の社会的な問題と激しく交錯するような天皇制であるとか公害であるとかを想定すればよい。しかしオーラル・ヒストリーといわれるものを民俗的世界のなかで体験史と口承史に分けること自体が無意味であろう。その無意味さは特に個人の人生を語るライフ・ヒストリーにおいてはもっとも集約されたものとして具現化する。けれども極端にいえば伝承を含まない体験のなかに民俗を見出すことだって可能である。天皇制の民俗を巡る問題とはこのようなものなのではないのか。天皇制の歴史に民俗性をみることより現に生きてある人々(文字ある社会で「文字を使わない世界」の人々)のなかの天皇制を摘出することこそが民俗学である。一人のライフ・ヒストリーを聞くなかで戦前の天皇制イデオロギーの具体化である「御真影」の到達しなかった山村の存在の発見から「民俗のなかに現われる天皇」の民俗学的重要性を指摘したい。柳田国男が『先祖の話』のなかで敗戦という事態を迎えて「家はどうなるのか,又どうなって行くべきであるか」と問い,民俗学に家に関して「若干の事実」を集める必要を悲痛に表明したように天皇制に関しても「若干の事実」を民俗学は集める必要がある。
山辺, 昌彦 Yamabe, Masahiko
この論考は、高橋峯次郎あて軍事郵便の分析の一環として、中国との戦争に参加した兵士が戦場で何をしたか、また戦争をどう考えていたかを、軍事郵便から明らかにすることが課題である。従来の高橋峯次郎あて軍事郵便の研究は、農民兵士の視点から戦場の中国農民の生活をどう見ていたかに重点が置かれていた。そのため日本の中国との戦争の遂行を担った兵士としての側面を明らかにすることが残されてきた。従来、軍事郵便は検閲のために真実を書けないと考えられてきたが、最近、軍事郵便から侵略戦争の加害の事実を明らかにする、静岡県浅羽町の軍事郵便を使った小池善之氏の研究がでている。この成果をより豊かにすることもこの論文の課題である。論文では、高橋徳松・千葉徳右衛門・菊池清右衛門・石川庄七・高橋千太郎・高橋徳兵衛・菊池八兵衛・加藤清逸の軍事郵便に書かれた戦場の様子を紹介している。戦闘の様子では、日本兵が女性・子供を含む中国住民や捕虜・敗残兵を殺し、住民の家を焼き、その財産を略奪していることが見られる。一方で蔑視していた中国軍が住民との結びつきを強め、強固に抵抗していることも見られる。また、日本軍の攻撃・爆撃により廃嘘になり死体が放置されている都市の様子、日本軍が軍事力で占領地支配を維持しており、日本軍のいいなりになる政権をつくり、植民地と同様に日本化している様子も見られる。さらに毒ガス戦の準備の様子を見られる。このように、農民兵士の軍事郵便からも、日本の中国への戦争が侵略戦争であり、それが中国の人びとに多大な災難、損害と苦痛を与えており、戦争犯罪もあったことがわかる。農民兵士は日本軍の戦争を正当化するイデオロギーを疑うことなく受け入れており、中国兵の殺戮などを面白がっており、中国人を悲惨と思い、日本人に生まれたことを喜び、戦争に負けてはいけないという考えを持っていることも、軍事郵便から読み取れる。
岩城, 卓二 Iwaki, Takuji
本稿は隅田荘を対象に、神社祭祀を結合契機とする地域社会が、在地領主連合という中世的世界を解体させ、村役人を運営主体とする村連合へと移行し、さらにその内部秩序を変容させていくまでの過程を明らかにしたものである。内容は次のとおり。中世において隅田八幡宮は在地領主連合をとる隅田一族の精神的紐帯であり、彼らはその管理と奉仕を独占することによって隅田荘荘民に対するイデオロギー支配を実現していた。この段階では「隅田名乗中」という隅田一族の同族結合集団が唯一の隅田八幡宮の運営主体であった。ところが戦国期になると、中小農民と宗教者が隅田一族に拮抗する勢力に成長し、隅田荘地域には隅田一族の同族結合集団、中小農民が村を単位に結集した「庄中」、宗教者の「座中」という三つの社会集団が併存し、これを統括するような権力や秩序は存在しなかった。一七世紀とはこのうち「庄中」が地域社会を統括していくようになる時代であり、それは農民の論理で一元的に地域社会が編成されていくことでもあった。この「庄中」は氏子村一六ヵ村の庄屋による合議によって諸事が決していたが、一七世紀には庄屋の専断的な運営が行なわれるような段階であった。この在り方に変化がみえはじめるのが一八世紀後半である。「庄中惣代」が登場し、彼らが藩や他集団との交渉にあたるようになった。庄屋は村の代表として惣百姓の意志に拘束されるようになったのである。一方、一七世紀において「庄中」に包摂されていた宗教者も、一八世紀後半になると「仲間」を形成し、地域社会のなかで正当な位置付けを獲得するため自己主張をするようになっていった。そしてこうした宗教者の動きによって隅田荘地域社会は、農民だけの論理で運営されるのではなく、異なる身分集団にも正当な位置付けを与える地域社会へと成熟していったのである。
福原, 敏男 Fukuhara, Toshio
つくり物・仮装・山車・囃子などが氏子町中を練り歩く祭礼練物は近世以降の伝統的都市を解明するキーワードであるが、毎年あるいは数年で変化するので資料が残りにくい。そのため研究が甚だ遅れている。本稿では、資料が豊富な岡山東照宮祭礼をとりあげて、祭礼練物の意味について考えてみたい。岡山東照宮の祭礼は江戸幕府の崩壊と明治政府の神仏分離政策によって途絶えてしまった。その原因はこの祭礼が「権力の祭」であり、岡山町人に根づいていなかったからであろうか。最近、近世都市史研究において、祭礼行列を分析する成果が出されている。武威を可視的に誇示し、表現する政治文化という見解も出されている。特に藩主が徳川政権の許しを得て勧請した東照宮祭礼は政治・イデオロギー性をもつとされる。『東照宮祭礼賦物図巻』は岡山の東照宮祭礼における町方練物を描いた絵画資料である。元文四年(一七三九)から四年間行われた、城下町六二町の惣町参加による祭礼練物「庭訓売物」を描いた絵巻である。「庭訓売物」は『庭訓往来』に記された諸国商人を主題にした「つくり物風流」の行列である。「庭訓売物」は東照宮祭礼の歴史のなかでも町方住民祭礼参加のピークに位置づけられている。岡山城下町の有力町人たちは藩権力と結びついて領国経済を掌握してきたが、一八世紀末頃になると、在方商業が海(河)港を中心にして、近辺農村地帯をも巻き込んで進展した。在方商業の開方性と城下町商業の閉鎖性が際だち、城下町商人は経済的には衰退していったのである。「庭訓売物」の四年間は城下町が経済的に在方の優位にたち得た、最後の煌めきであったのかもしれない。惣町参加を造形的に表現した「庭訓売物」は、城下町住民、なかでも当時の人口の過半数を占めた城下町商人のロア(物語)を造型化したものでなかったか。
阿満, 利麿
死後の世界や生まれる以前の世界など<他界>に関心を払わず、もっぱら現世の人事に関心を集中する<現世主義>は、日本の場合、一六世紀後半から顕著となってくる。その背景には、新田開発による生産力の増強といった経済的要因があげられることがおおいが、この論文では、いくつかの思想史的要因が重要な役割を果たしていることを強調する。 第一は、儒教の排仏論が進むにつれてはっきりしてくる宗教的世界観にたいする無関心の増大である。儒教は、現世における倫理を強調し、仏教の脱社会倫理を攻撃した。そして、儒教が幕府の正統イデオロギーとなってからは、宗教に対して無関心であることが、知識人である条件となるにいたった。 第二の要因は、楽観的な人間観の浸透である。その典型は、伊藤仁斎(一六二七―一七〇五)である。仁斎は、正統朱子学を批判して孔子にかえれと主張したことで知られている。彼は、青年時代、禅の修行をしたことがあったが、その時、異常な心理状態に陥り、以後、仏教を捨てることになった。彼にとっては、真理はいつも日常卑近の世界に存在しているべきであり、内容の如何を問わず、異常なことは、真理とはほど遠い、と信じられていたのである。また、鎌倉仏教の祖師たちが、ひとしく抱いた「凡夫」という人間認識は、仁斎にとっては遠い考えでもあった。 第三は、国学者たちが主張した、現世は「神の国」という見解である。その代表は、本居宣長(一七三〇―一八〇一)だが、現世の生活を完全なものとして保障するのは、天皇支配であった。なぜなら天皇は、万物を生み出した神の子孫であったから。天皇支配のもとでは、いかなる超越的宗教の救済も不必要であった。天皇が生きているかぎり、その支配下にある現世は「神の国」なのである。 しかしながら、ここに興味ある現象がある。儒教や国学による激しい排仏論が進行していた時代はまた、葬式仏教が全国に広がっていた時期でもある。民衆は、死んでも「ホトケ」になるという葬式仏教の教えに支えられて、現世を謳歌していたのである。葬式仏教と<現世主義>は、楯の両面なのであった。
三田, 牧
かつて日本の統治下におかれたパラオにおいて,人びとの植民地経験はいかに想起されるだろう。そして日本人の若者である調査者との対話の中で,どのような「歴史」が語られるだろう。日本統治時代を経験したパラオ人の対日感情は,他の日本の旧植民地にしばしば見られる「反日感情」と比べると,穏やかで親日的と感じられることすらある。このことを利用して日本による植民地支配を正当化しようとする者がある一方で,「なぜこのような感情を抱かれるのか」と腑に落ちない思いをする日本人は少なくない。パラオ人の植民地経験と日本への感情については,これまでにも歴史学,社会学,政治学,教育学などの研究者がインタビューで得られた証言をもとに考察を試みてきた。しかしそれらの研究では,歴史語りの性質,すなわち語り手と聞き手の相互作用のうちに過去が想起され,ひとつの「歴史」が構築されることに十分目が配られてこなかった。そのためこれまでの研究においてインフォーマントの発言は,語りの文脈から切り離され,ひとつの事実を語る「証言」として固定される傾向にあった。しかし過去の経験は一つの事実であっても,それは様々な形で語られる可能性を持つ。「何が起こったか」ではなく,「それがいかに想起され,語られるか」に着目することで,語られた歴史の柔軟な性質を生かした分析ができるのではないか。 日本統治時代,パラオの子どもたちは「島民」として日本国民の枠外におかれ,法制度の面でも日常生活のうえでも差別されていた。しかし彼らは学校で徹底的に日本の言語や天皇制イデオロギーを含む日本の価値観を教化され,「皇民」として大日本帝国の外延に組み込まれた。この経験がパラオの老人たちにどのように想起され,どのように語られるだろうか。本研究では日本統治時代に公学校で教育を受けた8人のパラオ人高齢者の語りを分析し,植民地経験をめぐる彼らのメッセージを抽出するとともに,この調査において聞き手である筆者の存在がインフォーマントの語りにどのような影響を及ぼしているかを検討した。最後に,様々な歴史解釈を相対視することがはらむ問題と,「語られた歴史」を記述することの問題にいかに取り組むかを今後の課題として挙げた。
北條, 勝貴 Hojo, Katsutaka
古代日本における神社の源流は、古墳後期頃より列島の多くの地域で確認される。天空や地下、奥山や海の彼方に設定された他界との境界付近に、後の神社に直結するような祭祀遺構が見出され始めるのである。とくに、耕地を潤す水源で行われた湧水点祭祀は、地域の鎮守や産土社に姿を変えてゆく。五世紀後半~六世紀初においてこれらに生じる祭祀具の一般化は、ヤマト王権内部に何らかの神祭り関係機関が成立したことを示していよう。文献史学でいう欽明朝の祭官制成立だが、〈官制〉として完成していたかどうかはともかく、中臣氏や忌部氏といった祭祀氏族が編成され、中央と地方を繋ぐ一元的な祭祀のあり方、神話的世界観が構想されていったことは確かだろう。この際、中国や朝鮮の神観念、卜占・祭祀の方法が将来され、列島的神祇信仰の構築に大きな影響を与えたことは注意される。律令国家形成の画期である天武・持統朝には、飛鳥浄御原令の編纂に伴って、祈年祭班幣を典型とする律令制祭祀や、それらを管理・運営する神祇官が整備されてゆく。社殿を備えるいわゆる〈神社〉は、このとき、各地の祭祀スポットから王権と関係の深いものを中心に選び出し、官の幣帛を受けるための荘厳された空間―〈官社〉として構築したものである。したがって各神社は、必然的に、王権/在地の二重の祭祀構造を持つことになった。前者の青写真である大宝神祇令は、列島の伝統的祭祀を唐の祠令、新羅の祭祀制と対比させつつ作成されたが、その〈清浄化イデオロギー〉は後者の実態と少なからず乖離していた。平安期における律令制祭祀の変質、一部官社の衰滅、そして令制以前から存在したと考えられる多様な宗教スポットの展開は、かかる二重構造のジレンマに由来するところが大きい。奈良中期より本格化する神階制、名神大社などの社格の賜与は、両面の矛盾を解消する役割を期待されたものの、その溝を充分に埋めることはできなかった。なお、聖武朝の国家的仏教喧伝は新たな奉祀方法としての仏教を浮かび上がらせ、仏の力で神祇を活性化させる初期神仏習合が流行する。本地垂迹説によってその傾向はさらに強まるが、社殿の普及や神像の創出など、この仏教との相関性が神祇信仰の明確化を生じた点は無視できない。平安期に入ると、律令制祭祀の本質を示す祈年祭班幣は次第に途絶し、各社奉祀の統括は神祇官から国司の手に移行してゆく。国幣の開始を端緒とするこの傾向は、王朝国家の成立に伴う国司権力の肥大化のなかで加速、やがて総社や一宮の成立へと結びつく。一方、令制前より主な奉幣の対象であった畿内の諸社、平安京域やその周辺に位置する神社のなかには、十六社や二十二社と数えられて祈雨/止雨・祈年穀の対象となるもの、個別の奉幣祭祀(公祭)を成立させるものが出現する。式外社を含むこれらの枠組みは、平安期における国家と王権の関係、天皇家及び有力貴族の信仰のあり方を明確に反映しており、従来の官社制を半ば超越するものであった。以降、神社祭祀は内廷的なものと各国個別のものへ二極分化し、中世的神祇信仰へと繋がってゆくことになるのである。
海津, 一朗 Kaizu, Ichiro
中世民衆の変革思想として注目される徳政(復活)の歴史的な位置について,先行研究の論点を整理した上で,高野山金剛峯寺の中核荘園である南部荘の新出史料を検討材料として具体的に考察する。その際,研究史上の最大の争点と思われる顕密仏教改革派の意義付けについて特別の注目をした。高野山領紀伊国南部荘では,通説と異なり中世前期以来,全荘規模の土一揆が発生して鎮守一宮を拠点に自治が行なわれているが,それは荘園領主代替わりや天下飢饉という条件下における百姓の徳政要求に根ざしたものであった。蒙古襲来の緊張のもと,異国征伐の徳政を希求する百姓の要求は,関東地頭と導御上人(唐招提寺律宗改革派)によって民衆運動に組織され,高度の河川灌漑と鍛冶工房敷設など卓抜した技術改革が進行して港湾・都市の整備が進んだ。一宮を変革実現の拠点にしようとした百姓の運動が,聖地興行により御霊宮を荘鎮守にしようとはかった領主層によって組織された時点で政治勢力としての惣国が成立したと評価されよう。このような徳政をめぐる鬩ぎ合いのなかで成立した紀州惣国は,一向一揆による自治を経てピークを迎え,1585年の統一権力による軍事侵攻「秀吉の平和」により終止符を打たれたのである。
西谷地, 晴美 Nishiyachi, Seibi
『古事記』の語る「豊葦原水穂国」と『日本書紀』の記す「豊葦原瑞穂国」は全くの同義語であり,「水穂」と「瑞穂」はいずれも「イネの豊穣を意味することば」であると理解されている。しかし近年の研究では,『日本書紀』の過去認識は現在とのつながりを重視した過去認識であり,『古事記』のそれは現在につながらないものに視点を据えた過去認識であることが指摘されている。そこで簡便な調査を行い,『古事記』の語る「豊葦原水穂国」は,「葦原の広がる水の豊かな国」という意味であるとする仮説を得た。『日本書紀』は「水穂」を「瑞穂」に書き換えることによって,「水の豊かな国」を「稲穂の豊かに実る国」に変換したことになる。「トヨアシハラノミヅホノクニ」を,『古事記』が稲穂と関係のない「豊葦原水穂国」と表記し,『日本書紀』が稲穂と深く関わる「豊葦原瑞穂国」と表現したのは,天皇の国家統治を語る場面において,『古事記』が農への関心を示さず,『日本書紀』が農に執着することと深く関係している。しかし,農本主義の有無だけが書き換えの理由ではない。『日本書紀』は,天皇による人民支配の正統性の根拠を,天つ神から瓊瓊杵尊への国土授与におく。しかし,生民論を欠く『日本書紀』が,天皇と「民利」との関係を示すためには,天皇統治の場は初めから「豊葦原瑞穂国」である必要があったのである。
和田, 晴吾 Wada, Seigo
古墳での人の行為を復元し,遺構や遺物を検討することで,前・中期の古墳を,遺体を密封する墓としての性格と,「他界の擬えもの」としての性格の,二つの面から捉えようと試みた。この段階では,人は死ぬと魂は船に乗って他界へと赴くとされたが,遺体は棺・槨内に密封され,そのなかで生前のような生活を送るとは考えられなかった。奈良県巣山古墳で発見された船は,実際の葬送の折に,魂が他界へと旅立つ様子を現実の世界で再現するためのものだった。他界の内容は,船に乗って他界へと至った死者の魂は,くびれ部の出入口で船を降り(船形埴輪),禊をし(囲形埴輪),斜面を登った岩山の頂上の防御堅固で威儀を正した居館に棲むが,そこは飲食物に満ち,日々新たな食物が供えられるといったものだった。葺石や埴輪や食物形土製品は他界を演出するための舞台装置や道具立てで,中期中・後葉には,これに人物・動物埴輪が加わった。しかし,横穴式石室が採用されると地域差が顕在化する。後期に石室が普及した畿内では,石室は「閉ざされた棺」を納める「閉ざされた石室」で,遺体は,前代同様,棺内に密封され,玄室内は死者の空間とはならなかった。墳丘に人が登らなくなり,舞台装置や道具立ては形骸化しだしたが,古墳は「他界の擬えもの」として存続し,石室は「槨」的な性格を受けついだ。一方,中期に石室が採用されだす九州北・中部では,石室は「開かれた棺」を備える「開かれた石室」で,そこは死者が生前と同じような生活を続ける空間となった。その場合,家形埴輪とは別に死者の棲む家が用意されるが,玄室の天井が天空を表しそのなかに家形の施設を配する場合と,玄室空間そのものを死者の宿る家とする場合とがあった。『古事記』の黄泉国訪問譚の舞台は前者にあたる。ここでは,墳丘上の他界と,石室内部の他界の,二つの性格の異なる他界が入れ子状態で共存した。このような棺や石室の系譜は,中国の北朝や高句麗の一部に求めることができる。